第3回シンポ・講演

第 3 回シンポジウム 「身近な自然と生きる―良寛的いきかた」
時:平成 24 年 9 月 16 日(日)14:00~17:00
会場:新潟市民プラザ(中央区西堀前通 6)
出演:C.W.ニコル(作家)
上田浩子(デザイナー)
加藤準一(川漁師)
佐藤安男(一般社団法人「五頭自然学校」代表)
高橋郁丸(民俗学研究家)
宮尾浩史(宮尾農園)
司会:東村里恵子(フリー・アナウンサー)
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講演
「こころに木を植える」
C.W.ニコル
信濃川の上流から来た黒姫の「赤鬼」です。
我々の小さな森には、小川とわき水があります。一番いいわき水は、暑い夏でも大体十六度です。
おいしくてしょうがない。でも、27 年前にその土地を買い始めた頃は川が見えませんでした。ゴミ
でいっぱいで、藪のまま放置されていました。原生林の中の川はそのままにしてもいいのですが、
人間がいろいろといたずらすると、川はどうしたらいいか分からなくなります。第二次世界大戦の
ときに赤土をとって、それをそりに乗せて小さな工場まで運んで鉄にしていた。だから、場所によ
ってはでこぼこで地下水が流れなくなりました。私は元々水産関係をやっていたものですから、水
をすごく意識します。だから、まず小川を掃除しました。
ダウジング(地下水脈や鉱脈を見るける技法)ってご存知ですか。柳の枝で水がどこで流れてい
るか分かる方法です。私のおじいさんもやっていました。私は地図を見なくても、ダウジングで水
が流れていることが分かります。ダウジングによって、この 26 年間で 600mの水道と段差と池をつ
くりました。最初土地を買ったとき、トンボの子のヤゴは 3 種類いました。でも今は 45 種類にな
った。すごくいい水が流れています。小さなイワナも入って、本当にいいですよ。水は鳥居川に流
れていきますが、鳥居川には昭和初期までサケがあがっていました。鳥居川は千曲川に合流して、
そして信濃川となって出てきます。
子どものとき、私が知っていた南ウェールズの 3 つの川は死んでいました。産業革命以来、特に
石炭産業によって汚染されて生きものがいなかった。流れ入るスワンジ湾、カーディフ湾には昔か
らいっぱい舟が入っていましたが、あの時代は下水を流し放しにしていたので、川は黒く、湾は死
んでいました。
しかし今、私が知っていたウェールズの川には、サケとイワナが戻りました。カワウソまで戻っ
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た。スワンジ湾やカーディフ湾にもシタビラメなどが戻って、英国政府の環境庁も、もう捕って売
ってもいいといいます。
世界をずっと回っているとこういう事例が多くあります。それを見るにつけて、日本はどこに行
くのだろうと考えます。日本に来て、今年で 50 年になります。22 歳で初めて来た。もう 72 歳にな
りました。
私は物書きですから本が大好きです。いろんな本を読んでいて、10 分あればボーッとしているか
本を読んでいますね。
日本の皇太子が 1983 年からオックスフォード大学で、2 年 4 ヶ月勉強されてその時のことを書か
れた本があります。実に面白い。何でも新鮮でよくご覧になっています。オックスフォードにはテ
ムズ河が流れていて、よく舟遊びをされていたそうです。川は、昔から英国の大事な道でした。そ
の川のことを「本当に不思議で、川岸が自然(It has natural river banks)」だといわれ、日本の川
とどうしてこんなに違うのかと。日本の川はコンクリートで固められてしまっていますが、カナダ
などでは、コンクリート化されたところは町の真ん中でもそんなにないのです。
私のカナダ政府での最後の仕事は、カナダ西海岸の緊急係(Emergency officer)でした。流出事
故とか、パイプラインが割れたとか、何かあったら先に行って指示しないといけませんでした。オ
フィスは北バンクーバーにあって、窓からスターリンパークという原生林が見え、ライオンズゲー
トブリッジという大きな橋や、バンクーバーの港の一部も見えました。4 階から見下ろすとカピラ
ノ川があって、そこに 8 月ころからサケが上がってきていました。そういうことが町の真ん中でも
ありました。
あの時、私は自分のオフィスに、ポスターを一枚だけ貼っていました。それはユージン・スミス
が撮った、母親が自分の娘をお風呂の中で抱いている写真(
「入浴する智子と母」
)が使われていま
した。
水俣病の事故は、私の心をすごく変えました。緊急事件は突然に起こると思っていたけど、その
事故の裏には必ず化け物がいる。世界中どこでもそうです。
私は、そのポスターを貼っていたことを非難されました。なぜ裸の女の子を見せているのか、ふ
さわしくないというのです。でも、一番ふさわしいはずです。環境庁に勤めているということは、
そういうことが起こらないようにしなければいない。まさにその頃、新潟にもカナダにも水俣病が
発生していました。
親父は英国海軍に 27 年務めました。世界には 7 つの海があるといいますが、親父がいうには全
ての海がつながっていて、一つだと。そういう言葉が、私にとって重みがありました。
ちょうど昨日、私の上の娘から電子メールがありました。彼女はカナダのバンクーバーアイラン
ドという長い島の先の小さな港町に住んでいます。その町には、長さ 56 キロメートルの川が流れ
ています。でもそこで、1960 年頃にひどい伐採をやって、切られた木材は、ほとんど日本へ行きま
した。しかし雨と雪が多い地域なので、裸になった斜面から土砂や鉄砲水が一気に流れて、サケが
上がれなくなった。それと砂利場、産卵の場所が流されてしまった。岩の間に水が流れているけれ
ど何も通れない。それで 1980 年くらいから川を直しました。コストは日本円でいうと 1 億円です。
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コンクリートは使わずにやった。その仕事を、娘の旦那である義理の息子がやりました。
そして今、その川の入り口には 10 万匹以上のサケが待っているそうです。何を待っているかと
いうと、山の雨を待っている。なぜかというと、支流に水が入っていないと、たとえサケが遡って
苦労して小さな支流に入ったとしても、水がなくて産卵できないからです。そしてその時を待って、
3 種類で 10 万匹以上のサケが河口に集まっているという。娘は、
「サケが上がってくるのを待って
いる。お父さん来てほしい(We are waiting for the salmon to come up.)」と言っていました。
川岸では、カワウソやシャチ、アザラシや熊も待っている。サケや渡り鳥が戻ってきて、ツバメ
が戻るのを待っている。そういう人間の昔の joy of life(生きる喜び)が、日本では必要だと思いま
す。かつては、ヨーロッパの国よりもそれが日本の文化にあった。50 年前はそう感じましたが今は
…。ごめんなさい、愚痴になります。
ヘクタール
我々の森、30 h a の「アファンの森」には、隣接する国有林があります。その間には、江戸時
代につくられた水路があります。水路は、田んぼに水を運ぶために造られました。その時代はコン
クリートが無かったので、天然の素材を使っていました。そしてこの水路にイワナが沢山いた。皮
肉なことですが、昭和時代から自治体にお金があったとしたら、この水路は、コンクリートに変わ
っていたはずです。でもそうなっていたらイワナは上れないし、住めません。江戸時代の水路はま
だ 200mくらい残っていますが、今、県がそれを直して、コンクリートの三面張りにしたいといっ
ています。
私は「駄目です。できません。
」といいます。
「アファンの森」を通さないとできません。私は駄
目だと言ったら、絶対に通しません。もし水路に住むイワナたちが生きていけなくなったら裁判を
起こしますよと言いました。たった 200mの水路の工事費が 1 億円かかるという。つまり、カナダ
のバンクーバー島の川の修理費と同じ額です。一方は、自然環境が戻るように修理して、もう一方
はコンクリートの三面張りにする。それはなぜでしょう。
もう私は 72 歳で、詩のようなものを書いたり、友達と酒を飲んだり、昔はよかったという話を
して暮らしたいけれど、これからの日本はどうするのかと思って、闘っています。
私が日本で森をつくったのは、日本が大好きだったからです。32 年前に黒姫に住み、猟友会に入
り、鉄砲の免許を取って山の猟師と一緒に歩きながら美しい自然を見ました。当時はバブルの時代
で、原生林をばさばさと切って、トラックが通るところであればひどい不法投棄があった。産業廃
棄物や医療廃棄物を投げて、役所は何もしなかった。イワナが上がる川は、どんどんコンクリート
にされていきました。でも当時はどうしたらいいのか分かりませんでした。
ある時、私が生まれたウェールズ政府から手紙が来ました。アファン・アルゴードいう谷間に森
をつくっていて、意見がほしいので見に来てほしいという。私は 20 歳から英国に帰っていません
でした。北極探検に行って、日本に来て、エチオピアで国立公園をつくって、自分の国を捨てまし
た。自然を破壊する英国は嫌いでしたが、行ってみたんです。
その谷間には、私が子どもの時分には 47 つの炭鉱がありました。その石炭炭鉱から出した石炭
くずで、谷間が汚れて川が死んでいました。森もなくて、安定していなかった。でも行ってみたら
緑に変わっていました。人の愛情と汗で森が戻ったのです。
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森が戻ったら、昔のわき水が出て、川がだんだんきれいになった。石炭産業が潰れたので失業者が
多いのは残念で、出て行く人も多かった。でも残っている地元の人たちは、一生懸命木を植えまし
た。例えば、子どもたちにバケツ一杯の土を持ってこいという。教会から盗んだという子もいれば、
公園から盗んだ子もいる。ちょっと豊かな人に頼んで土を分けてもらって、ぼた(炭鉱で選炭した
後の質の悪い石炭)の中に木を植えた子もいたくらい大変だったそうです。
最初、10ha で始まったらしいです。でも今、森の面積は 3 万 ha になりました。本当に美しい。
私はそれを見て、誰かが小さいことでもやらなければ駄目だと思いました。
私は日本で放置された山、藪になった山を買って、何年かかけて森を元気にしました。それは教
育の場所にもなります。生物多様性が豊かになる。私は、22 歳から、一番苦しいときには日本に帰
り、日本の自然に癒しをもらいました。友人や家族がいて、同情の中で怒りと汗を共に流した。だ
からお返ししたいと思います。
「アファンの森」は、9 万坪、30ha になります。この森は小さいですが、絶滅危惧種 39 種類が
戻りました。森の手入れをし始めたとき、山菜は 7 種類見つけることができましたが、今は 137 種
類に増えた。漢方になる薬の植物は 196 種。新種も出ているのを見つけました。里山の伝統的な使
い方も学んでいます。炭を焼いたり、薪を取ったり、ほだ木でしいたけとかナメコをつくったり。
そしてこの 3 年の間に間伐した木、一番いい木を残しながらも、一部は切って一流の家具材にする。
みなさんご存じでしょうけれど、日本の自然と正しく付き合うとどこよりも答えてくれるんですよ。
熊も来ます。私たちには、熊は怖くない。「欲張らない(Don't be greedy.)」。
山菜いただきながら、山菜を増やせる。カナダで私の義理の息子がやっていることは、サケをい
ただきながらサケを増やすこと。そういうことは日本中でやったらどうでしょう。日本の海岸の長
さは、アラスカ入れなければアメリカより長いです。フランスの 5 倍。これだけのいい川、いい支
流があるのだから少し考えてやり直せばいい。それから、日本の森林面積は 67%と聞きましたが、
確かに日本の上空を飛ぶと、なんて森が多いのだろうと思います。でも森で働く人がどんどん減っ
ています。
「でも人を戻らせることはできる(But we can bring people back! We can bring people back!)」。
大事なのは、そういうことだと思います。
(アファンの森財団紹介
森の再生過程や生息する動植物の映像上映)
この音は、春と夏の始まりの音です。森の中で川が流れて、鳥が鳴いて、かえるが鳴いて。編集
したわけではないです。そのまま出しています。
当たり前ですけれど、森は生きている。見えないところも生きている。森の中で一日しか生きら
れないものがあれば、何百年も生きているものもある。森の中の生き物は全部つながっています。
そして、健康的な森だったら 10%くらいの光が下まではいかないと駄目です。そうすると、下も光
合成があって元気になります。
最初の頃は、木々が貧弱で、病気で、大きい鳥は飛べないし、あまり生物がいない。幽霊森とい
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われていました。
私は、猟友会の仲間を口説き、一緒に森をつくりませんかと呼びかけました。費用を私が負担し
て、間伐をしました。そして、消えてしまった種類の植物を植え直しました。数年で、森は様変わ
りした。
自然に任せたほうがいいと言う人がいましたけれど、そういう人たちは森の仕事したことない人
ばかり。人間が荒らしたものは人間が直さないと、ものすごく長い間あったら新しい自然ができる
かもしれませんけれど、その間に無数の生物が消える。森も川も土も、人間の汗と愛情が必要です。
光が入ると花が咲きました。嬉しかった。本当に嬉しかった。花が咲くと昆虫が来る、小鳥が来
る、種も持って来る。それから、光を通すということは、木と木の間の間合いがある。そうすると、
風も通る。やはり人間の社会と同じように、下まで光がなくちゃ駄目です。それから、全体に風が
通るようにしないと駄目。これは人間の社会もそうですね。森の中で醜いものは私の顔くらいです。
でも、私は自分の顔は見えないから。
(アファンの森と国有林の境を俯瞰した映像)
杉ばかりで貧弱な感じの森は国有林です。反対に、80 種類もの木があって、いろんなものがある
のがおらほの森だ。でも林野庁も、今は愛しい天敵です。もう仲良くなって、27ha の国有林を一緒
に混合林に変える契約も結びました。
(森の中に流れる川が映る)
私たちがつくった水路です。土手に木が元気に育つためにつくりました。それまでは、地下水が
止まっていたから木の根が窒息していた。木は全部病気で、天然の川でも、我々が掃除するまでは
流れていませんでした。今、カエルもイモリもサンショウウオも、いっぱい生物が来ていますね。
やはり森は水の母です。木は大きくなって、天然のうろができて、そこをフクロウが別荘につかっ
ています。
「アファンの森」で見つける熊の糞には、とうもろこしなんか入っていません。天然のものばか
りです。私は熊が大好きです。森と仕事をしていると、寂しくない。17 年前に日本国籍はいただき
ましたけれども、町の中にいると私は「外人」だと見られます。でも森の中では、
「外人」ではなく
森の一部です。
「ありすぎればいいというものではないけど、光は必要(Too much is too much, but need light)」。
しいたけ、なめこもおいしいです。何の汚染も、無駄もありません。
たかはしのぶきよ
私の一番の森の先生は、高 橋 延 清 先生です。
「どろ亀先生」とみんなから愛された東大の先生で
すね。富良野の森を 36 年かけてつくられた。その先生が、何回も我々の小さな森に来られました。
私のことを「わしのバカ息子」と言ってくれたんです。かしこい息子は何人もいても、私はバカな
ほうですね。嬉しかった。
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「どろ亀」先生の教えは、奥深くてとてもシンプルです。彼はアリで、おらほがへっぴり虫とい
うカメムシでした。「さん」付けで呼び合います。
「お、アリさん、どこ行くの?」。
「おお、カメムシさん、元気かい?」という具合です。
この立派な先生が、動物と同じレベルで話し合う。これこそ本当に日本の心だと思いました。私
は「イヌイット」や「エスキモー」という言葉は、差別的な言葉だと思って使いません。北極のイ
ヌイットと暮らしたときもそうでした。昔の人たちは、アザラシを捕っても兄弟のように、ぬくも
りと力をもらえるありがたい存在でした。そう思える心がすごく好きです。
ある時、
「どろ亀」先生が私に、森をつくるときに一番大事なことは何かと聞きました。私は、生
物のことを考えてなんだかんだと言った。そしたら、
「まあ、そうそう。そうじゃなくて議論だ。マツキさんと赤鬼くんは議論している。自然の中で
いつも議論がある。そしてお互いに納得する。どっちの木が伸びるかと。どっちの鳥がここに巣を
作るかと。それをよく聞いて、君とマツキさんもうんと議論して、そして森がよく育つ」とおっし
ゃった。
私は 50 年日本と付き合ってきましたが、一番足りないのは議論だと思います。私はこう思う、
こう思うとすると同じ方向を向いている人とばかり話をする。議論が下手で、テレビを見ても、政
治家を見てもそうですね。
「アファンの森」財団をつくったとき、理事会をつくって、シンポジウムの総合コーディネータ
ーの大熊先生にも入ってもらいました。ありがとう。
その理事の中には、養護施設の理事を務めている人もいます。
テレビや新聞では、時々、子どもが虐待されたり、殺されたりしたというニュースがあります。
私にも孫が 5 人います。もし自分の目の前で虐待があったら止めますよ、一生懸命に。でも見えな
いところで、この豊かなはずの日本で虐待があるとは恐ろしいことです。それから、養護施設に預
けられた子どもの 9 割には親がいます。戦争が終わって、お父さん、お母さんがいないから預けら
れているわけではないのです。虐待が本当にひどかった。でも自分に何ができるのかと考えました。
もう年だから、子どもをもらうわけにはいきません。無責任になります。
でも、日本に最初に来たときのことを思い出しました。22 歳のとき、空手と柔道をやっていまし
た。そして、林の中で空手の型をやっていた。もう 50 年前になります。当時は、東京の東村山に
住んでいましたが、まるで「トトロ」(スタジオ・ジブリ制作アニメーション)の森のようでした。
林中で空手をやっていたら、
「悪ガキ」が見ていました。子どもたちが林の中で遊んでいて、私に
近づいて、手裏剣を投げているフリをしたり、そのうちに一緒にチャンバラをやったり、子どもと
話すようになりました。この子たちが、日本で最初の自然の先生になってくれました。
例えば、最初の夏。林に行ったらものすごい音がしました。
「ミー、ミー、ミー」。聞いたことな
かった。北極や英国にはセミがいません。
8 歳くらいの子どもが来たので、
「ねえ、あのミー、ミーって何?」と尋ねました。
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「ん?セミ」という。
私はセミという言葉を知らないから、辞書を引きました。せみは「Cicada」。それは知っていた。
アメリカの文学にも出てくる言葉でした。でも「何だ」とは分からない。あれだけの音を鳴らすの
なら、鳥か、カエルかなと思った。
私は子どもに、
「あれ、鳥ですか?かえるですか?」と聞きました。
すると、「え!」と。
本当に、このお兄さんはバカじゃないかと思われた。でも私は今まで聞いたことが無かった。カ
ナダにも北極にもいないし、私が生まれた国でも見ませんでした。知らない私に、その子は説明し
てくれました。何年間地中にて、それから出てきて…と。
50 年前の日本の子どもたちは、自然をよく知っていました。目が光っていて、大胆でした。何し
ろ空手をやっている外人の近くまで来て、話しかけたわけですから。私は彼らと友達になりました。
「アファンの森」財団をつくったとき、昔の子どもの笑い顔、あの目や生き生きした表情を思い
出しました。そして、もし虐待された子どもたちを生きている森に呼んだら、トラウマで閉まった
彼らの心の窓も少し開くかと考えた。理事のみなさんや友達、家族やマネージャーに話しをしたら、
誰が責任を取るかと言うので、私が取ります、そのために日本国籍を取ったのだと。森は、公園で
はないので、熊は出るし、蛇も出る。ハチもいます。
さすが日本だけあって、誰かがOKと言ったら、みんな手を挙げて手伝ってくれました。地元の
若いインストラクター、弁当を作るおばあさん、看護婦さん、お医者さん。いろんな人が子どもの
ためのプログラムをやりますと言ってくれて、10 年続けてやっています。
森に招待した子には、父親から性的虐待を受けていた子や、一家で毒を呑んで心中しようとして
危うく助かった子がいます。赤ん坊のとき、お母さんがドラッグでおかしくなって、たばこを吸い
ながら赤ん坊の腹に火を押し付けて、ケロイド状態のやけどの跡をもっている子もいます。
バンダナをつけたかわいい子もいます。彼女はいつもバンダナ付けていたので、私は「格好良い
ね、おしゃれだね。」といいました。そうしたらニヤッとしました。彼女の頭は、お父さんが怒って
出刃包丁でトンと頭を切っていたので傷だらけになっているのです。
でもそういう子どもも、生きている森の中に入ると、顔と声と目が変わります。
(「心の森プロジェクト」視覚障害がある子供・養護施設の子供が森で遊んでいる映像)
あともう一つお話があります。
2010 年 3 月 11 日の東日本大震災(以降、大震災という)の後、ショックで心が重かった。そし
て考えたのは、
「心の森プロジェクト」でトラウマを持つ子どもたちを呼ぶ経験もあるので、被災地
域から大人もお年寄りも、親も子どもたちも招待して、美しい、生きている森の中で 3 日くらい暮
らしてもらえば、少しは心の癒しになるのではないかと。そして招待を出したら、最初に手をあげ
てくれたのは東松島市でした。おばあさん、おじいさん、役場ですごく疲れた若い人も、子どもも
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来ました。私はあのとき、少しだけ心の休みがあればいいと単純に思ったけど、それより大きいも
のが開けたんですね。3 日目に、役場の人たちが私にいいました。
「手伝ってください」
どういうことかというと、ある地域では家も学校も流されて、大勢の人が亡くなった。だから学
校を高台に移さなければならないのですが、この高台が小さな丘と谷間にあって、暗い藪になって
いました。それを明るい森にして、自然を生かした学校をつくりたいから、手伝ってくれという。
そう言われたら、手伝うしかないですね。
今、私は自分の時間の半分くらいをそのことに費やしています。今やっと、学校の土地がケアさ
れました。鉄筋コンクリートではなく、木材でつくる学校をといったらたたかれました。
「え、木材ですか」という。
「ちょっと待ってね、世界で一番大きな木材の建物はどこにある?」と聞くと、
「奈良の東大寺です」と。
「世界で一番古い木材の建物はどこにある?」と聞くと、
「それは奈良の法隆寺です。1500 年」だと。
日本の伝統的な造り方をすれば、木材の建物は地震に強いのです。
自然を生かした学校をつくろうということで、窓から森が見え、木が見え、田んぼや池が見え、
その田んぼで人が働いている人やちょっと遠くの海が見える学校をつくろうとした。その夢を、町
の人たちと一緒に育てました。その議論が本当に大変でした。最初は、森を全部伐採して、小さな
谷間を埋め立てて、丘を削って、鉄筋コンクリートの箱をつくろうといっていたので、闘った。そ
して勝ちました。
やはり教育と自然と未来を信じながら、こういう手伝いをこれからずっとやっていくつもりです。
自分が何のために日本に来たか、そのための仕事のためだと思っています。もちろん我々の森を私
はずっと見守ります。もう人は育っているので未来はある。日本は美しい国です。いつも言います
が、北に流氷があって南に珊瑚礁がある。そういう国は他にはありません。
(東日本大震災の応援
東松島のプロジェクトについての映像)
みなさん、この日はどこにいましたか。私は九州にいて、テレビで被災地の光景を見ていました。
暗闇の中、胸まで冷たい水に入って、遺体を運び出していた役場の人たちもいました。3 日も寝
なかったといいますが、日本にはどこにでもヒーローがいます。いざというときにはヒーローやヒ
ロインがいますよ。
「アファンの森」に来たとき、みんな最初は疲れた顔をしていました。でも次第に、子どもがゲ
ラゲラと笑って、ばあちゃんもブランコに乗って遊び始めました。
そして、真面目に議論しました。学校は、鉄筋コンクリートじゃないと駄目だと。でも私は木じ
ゃないと駄目だといって、調べて議論したので、勉強になりました。例えば、カリフォルニアの学
校は 60%が木材です。カリフォルニアは地震が多い地域だからですね。
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お年寄り、政治家や子どもたちとも、話しをしました。どういう学校、どういう町がほしいのか
話合った。
そして我々の負担で調査しました。調べると、絶滅危惧種が 15 種類。それから森の高台には、
昔、縄文人が住んでいたそうです。海に近いところでも縄文人は活動しましたが、住んではいなか
った。だから分かっていたんですね。このプロジェクトには、デンマークとかいろんな国が手伝い
たいと言っています。
日本にはあらゆるエキスパートがいます。エキスパートに聞いて、顔を合わせて話をするとすご
く面白くて、胸の中で燃えてきます。
東松島の新しい学校ができるまでには、4年くらいかかるんです。その間は、我々は森の学校を
つくります。子どもたちにいろんなことを教えて、彼らがこの学校に入らなくても、この新しい学
校の夢を応援するように、中学生に頼んでいます。
「いいぞ。手伝うよ」と子どももいっています。
新潟は、信濃川によってつながる黒姫のお兄様です。実は、黒姫の森に池を掘ったとき、弥生時
代のものでしたが土器が出てきました。日本の自然、美しい自然がいれば、絶対そこに大昔の人々
の声がつぶやいているはずです。美しい日本をみんな一緒にまた作り直そうよ。ありがとうござい
ました。
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