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まえがきに代えて
2012年3月 台北
台北市郊外にある桃園空港から、妻と5歳の娘と一緒にリムジンバスに乗り、市内中心部にある、
日本からネット予約しておいた宿へ向かう。
高速道路を降りて中心部に入ると、古くから建っているらしい集合住宅がひしめく。1階部分はそ
れぞれ小さな商店や食堂になっていて、独特の空気を出している。所々に、日本から進出したらしい
コンビニやファストフードの見慣れた看板が見える。
家族を連れて初めての海外旅行だが、ツアーだと宿を選ぶことができない為、飛行機と宿の予約だ
けをして、後は自分達で行動する。僅か4日間だが、家族を連れているので緊張感もあるし、何が起
こるか、とのワクワク感もある。日本へ帰っても、住む所や仕事を探さなくても良いのが、嬉しい。
次の日から、ちゃんと仕事がある。
市内に入った途端、どこを走っているのか分からなくならないよう、通りの名前とバス停の名前を
確認しながら、この街は以前訪れたどの街に似ているだろうか…、と反射的に考える。
香港、ソウル、それとも上海、あるいはバンコク…。遠くなっている街の風景の記憶を、掘り起
こす。
1994年4月、25歳の時、職場を解雇され、無力感から始めた旅行だった。気が付けば6年間を旅行
に費やし、31歳になっていた。2000年に帰国してからは、どうやって落ち着くか、何をして生きて
行くか、ということに必死で、12年間、1度も海外へ出る機会はなかった。
3泊4日の海外旅行と言うのも、僕には初めての経験だ。僕にとって旅行とは、最低でも1ケ月、あ
るいは1、2年、自分の生活の拠点—仕事、住居、家具、衣類、住民票など—を整理して行くものだ
った。大企業の社員でもない僕には、そうしないと行けないものだった。
日本での生活拠点を一時的に捨て、生活ごと移動するので、旅行と呼べば良いのか、生活=暮らし
と呼べば良いのか・・・。
無事、バスと徒歩で目指す宿へ辿り着き、その日は小龍包を食べに行き、夜はタクシーで夜市へ
行く。台北は日本語を話す人も多いが、久し振りに、店の人や宿の人と、英語や中国語でのやりとり
もする。日本のこの時期は寒いが、台北の気候は初夏を思わせ、過ごしやすい。 夜の街を後にし、タクシーで宿へ向かいながら、妻が言う。
「色んな所へ行ってるのに、台湾へは来なかったのね」
そう言えば、ヨーロッパから陸路でインドへ入ってから、さらにバンコク、香港、台北、と東へ
戻り、台湾で日本語教師をして小銭を稼ごうと思っていた。さらに中国大陸へ入り、西チベットのカ
イラス山へ行きたかった。しかし、妹が結婚するという知らせを受け、急遽帰国した。
もし台湾で日本語教師をしていたら帰国はさらに遅れただろうし、そのまま日本へ帰らなかった可
能性も考えられる。その位、当時の僕は、日本の社会で生きて行く意欲がなかったし、日本の外で生
きて行けるのなら、そうしたかった。その方法を探していた。しかし結果的に、帰ることになった。
それで、良かったのか。家族も仕事も何とか持てたことには感謝しているし、幸運だったと思うが
、別の人生もあったのかも知れない。そんなことを思いながら、日本よりもスピードにメリハリの効
いた運転をするタクシーの車窓から、流れる街の明かりを眺める。
あの日々は、何だったのか。少し、振り返ってみる。
おことわり
この旅行記に登場するのは、僕が実際にお会いした人達ですが、原則として仮名を使わせていただ
いています。
また、文中、記憶違いや、事実誤認があるかも知れません。
記述している感想や意見は、あくまで僕の個人的な考えです。
旅に暮らした6年間 目次
(前)
まえがきに代えて 2012年3月 台北
目次
1.
出発まで 1994年3月 東京
2.
出発 1994年4月—7月 インド、ネパール
3.
一時帰国 1994年7月—1995年3月 東京
4.
再び出発〜陸路インドへ 5.
再訪 1995年4月 韓国
1995年4月—6月 中国
1995年6月—7月 ネパール
1995年7月 インド東北部、ブータン、バングラデシュ
6.
1995年3月—4月 日本国内
懐かしい国々
1995年8月—12月 インド
1995年12月—1996年2月 タイ、マレーシア、シンガポ
ール
1996年2月—3月 ミャンマー
1996年3月—4月 タイ、ラオス
1996年4月—5月 ベトナム、カンボジア
1996年5月—7月 中国(雲南省)
7.
1996年7月—9月 ラオス、タイ
日本へ 1996年9月—10月 香港、マカオ、中国
1996年10月 日本(大阪→京都→東京→愛知)
(後)
8.
3たび大陸へ 1997年9月—10月 中国
9.
1997年10月—12月 パキスタン
3度目のインド 1997年12月—1998年6月 インド
10. 欧州を駆け抜ける 1998年6月—7月 トルコ、ブルガリア、ルーマニア
1998年7月—10月 ハンガリー、西欧
1998年10月—11月 東欧—旧ユーゴ、アルバニア、ギリシ
ャ
11.中東—聖地のクリスマス
1998年11月—1999年1月 エジプト、ヨルダン、
イスラエル
1999年1月—4月 シリア、レバノン、トルコ、グルジア、ア
ルメニア
12.東へ 13.最後のインド
1999年5月—7月 イラン、パキスタン
1999年7月—2000年1月 インド、ネパール
14.旅の終わり 2000年2月—4月 インド、バングラデシュ、東京、京都
15.帰国後 2000年4月— 京都ほか
あとがき 旅行記を書くいきさつ
2012年7月 奈良
1.出発まで
1994年3月 東京
会社からの連絡を待ちながら、池袋西口近くの大書店で僕は気の向くまま立ち読みをしていた。
4階の地理コーナーで、1冊の旅行記を手にする。
旅行記の著者は、26歳のある日、アパートの部屋を整理して現金を作ると、仕事を全て放り出し、
インドのデリーからロンドンへバスで向かうべく、旅に出た、と言う。
読んでいて妙に心がざわめき、僕の中の何かが共鳴するのを感じる。
週刊誌記者となり、1年が過ぎていた。配属先は、張り込み班。芸能人やプロスポーツ選手の私生
活を追い掛ける。彼らの自宅や、仕事場であるテレビ局、試合会場付近に車を停めて見張り、あるい
はホテルの駐車場で出入りを待つ。
単調だが、様々な場面で瞬時の判断が求められる。相手に気付かれないように車をどこに停めるか
。相手が動き出す時追うタイミング…。
芸能人らの行動範囲は、銀座や六本木辺りが多い。上京して3年だがその辺りの土地勘に疎い僕は、
まず会社から現場まで車を運転し最短距離で到着するのに苦労をする。
道を間違えているようでは、追跡する際機敏に動けない。その上芸能人のスキャンダルに興味が
なく、日々の仕事に意味が見出せない。僕の希望は事件や企画物の記事を書くことだったが、張り込
み班で動きが悪いと他の仕事はできず、記者に不向きと判断される。過去に何人も解雇された、と
聞く。
先日デスクに呼び出された僕は、辞めるか、編集部付けで雑用をするかの二者択一を迫られる。事
実上の解雇宣告だが、自主退職の形を取らせたいようだ。
偶然手にした旅行記の著者は26歳で恐らくライターとしてある程度地位を固めていて、全てを放り
出して旅へ出ても、それが終われば仕事を再開できる状況にあったと思う。
25歳の僕は、雑誌記者の入り口でつまずきクビになり、今後記者の仕事には就けないだろう。また
、嫌になってもいる。
ただ高校しか出ておらず、パチンコ店員や警備員をした後出版学校の夜間文章教室へ通い、講師の
紹介で記者の仕事を少ししただけなので、元に戻っただけ、とも言える。
分厚い旅行記にざっと目を通した後、同じフロアでなぜか他の旅行関係の書籍を片っ端から手に取
り目繰るうち、ポケットベルが鳴る。
書店を出て、公衆電話から会社へ電話を入れる。
池袋から地下鉄に乗り出社した僕は、退職を受け入れる意思を伝える。
退職して、すぐに有り金をかき集めて旅に出ようとしたわけではない。
池袋での立ち読みの翌日出社し、名刺とポケットベルと腕章と記者証を返還、編集長やデスクに挨
拶し、帰宅途中に公衆電話から先輩記者に電話を入れて礼を言い、中央線に乗り、アパートのある西
荻窪へ帰る。
数日の間、六畳一間の部屋で寝たい時に寝て起きたい時に起きて、を繰り返す。
好きな時に起き、本を読み、銭湯へ行き、弁当を買いに行き、安い定食屋へ行き、友人に電話をし
、たまにテレビを観るなどして過ごす。
2、3週間経つと、張り込みでの不規則な食生活とストレスから太っていた体型がすっきりしてく
るが、まだ働く気は起こらない。
ふと、バイクで日本国内を行けるだけ行ってみようか…と思う。
友人から譲り受けた250㏄のバイクは、普段乗らないせいか、エンジンの掛かりが悪い。
元の持ち主である友人・木本に連絡し見てもらうついでに、旅行についても相談する。
木本は大学時代1年間休学し、アジアから欧米へと回っていた。
「日本は、どこ行っても一緒で面白くないよ」
木本はあっさり言うが、海外へ行けるような大金はない。
「インドは、安いよ」
さほど興味は湧かないが、行くと人生観が変わると聞いてはいて、気になってはいる。
インドの写真集を見て、川沿いの火葬場とはどんなだろうと漠然と思っていたし、行く予定もない
のに、インドのガイドブックを買って、持っている。
ガイドブックに出ている旅行会社2社に電話し航空券の料金を聞くと、行って帰って来ることはで
きそうだ。
木本によると、滞在費は日本円で月3万円ぐらい。節約すれば、もっと安く上がる。
しばらく働く気が起きない僕としては、この先何をして生きて行けば良いのか考える時間を稼ぐこ
とができる。
そんな理由でインドへ行くことに決め、「カルカッタ・イン、ボンベイ・アウト—90日オープン」
の航空券を買い、インド大使館でヴィザも申請したが、ガイドブックを熟読するなどの下調べをする
気は起こらない。
アパートの家賃は3ヶ月分前払いする。
月3万4千円なので、10万2千円。
航空券はエア・インディアで、往復9万円。
現地滞在費は10万円で、米ドルに替えると900ドルほどだ。
結局30万円近く掛かるが、東京で働かずに3ヶ月生活するともっと掛かる。
荷物は木本のアドバイスに従い、小さなリュックにシャツ3枚、パンツ3枚、ジーンズ1枚だけを詰
める。
洗濯しながら着れば間に合うそうだ。
洗剤も石鹸も現地で手に入る。
トイレットペーパーだけ、かの地では紙で拭く習慣がなく、売ってはいるが日本で買うより高く、
芯を抜いて持って行く。リュックの上半分がトイレットペーパーで埋まる。
2.出発
1994年4月—7月 インド、ネパール
4月9日、成田空港発のエア・インディアで出発する。
赤いカーペットが敷かれた機内に足を踏み入れると既にインド世界で、インド音楽が流れ、スチ
ュワーデスはサリーを着た小太りのインド女性だ。
乗客はまばらだが、ひげを伸ばしたサンダル姿の男性など独特の雰囲気を持つ人達が乗り合わせる
。
席に座ると、背後からぶつぶつと男性の独り言が聴こえる。
ちらりと見ると日本人の中年男性で、ヒンディ語の入門書を開き一語一語練習している。
ドリンクのメニューが配られ、僕はオレンジジュースを注文する。
サリー姿のスチュワーデスは英語で「ワン・ハンドレッド・イェン」と言う。
財布を見ると100円玉はなく、1,000円札を出す。
ジュースはすぐ来たが、お釣りが返って来ない。三十分経ち催促すると、
「ウェイト!」
とスチュワーデスは落ち着いた表情で、諌めるように言う。
お釣りが返って来たのはジュースが来て1時間後だった。
経由地のバンコクで乗客が何人か降り、まばらだった機内はさらに人が少なくなる。
後ろの席の男性は、ぶつぶつとヒンディ語の練習を続けている。
ヒッピー風の欧米人が何人か、乗って来る。
サンダル履きで、アジア風の手編みのショルダーバッグや笛などを持っている。
インド到着前に飛行機が揺れたが、無事カルカッタの空港へ到着したようだ。
着陸後、窓から空港の灰色の建物が見える。薄暗くなってきた。
まだ外へ出ていないが、風景から熱気が感じられる。暑そうだ。
タラップが運ばれて来る。日本から履いて来た靴をリュックに入れ、サンダルに履き替える。
タラップをサンダル履きでぺたんぺたん、と降り、歩いて空港内の建物へ向かう。
思った通り、蒸せ返るような熱気だ。
室内へ入ると“IММIGRATIОN”(入国審査)と書かれた簡単な白い札が架かり、何人かが
並ぶ。
機内でヒンディ語を呟いていた男性も並んでいる。
少し緊張しながら順番を待っていると、後ろから日本人の青年が話し掛けてくる。
ガイドブックの地図を指さし、
「宿がある所は、この辺ですか?」
と、尋ねる。
「さあ、僕もインド初めてだから…」
僕が答えると、
「僕もですよ!一緒に宿を探しませんか!」
と助けを求めるように大声で、しかし笑顔で言う。
僕も不安になっていたので、
「行きましょう」
と答える。
入国審査を終え、僕は機内に持ち込んだデイパックのまま歩き出す。
青年はターンテーブルから大きな荷物を受け取る。
空港内の両替所で50ドルをインド・ルピーに両替する。
空港を出ると日が暮れている。
街灯がほとんどないため暗く感じるが、そう思う間もなくタクシードライバー達が群がって来る。
彼らも僕達がどこへ行きたいのかよく知っていて、安宿街サダル・ストリートの名を連呼する。
料金の交渉に入るが、80ドル、と法外な値を言う。
2人で粘り、6ドルまで下げる。
交渉する間、別のドライバー達も割って入り、真っ暗な中誰と話しているのか分からず、最終的に
乗り込んだのは初めに交渉したタクシーとは違った。
後から知るが、空港からサダル・ストリートへのタクシー代の相場は大体50ルピーで、6ドル=当
時のレートで180ルピーは相当高い。
インド国産車アンバサダーの黒塗りタクシーは、闇を突っ走る。
点々と灯る黄色い街灯に、ぼんやりと人々の姿が映し出される。
日本と同じ右ハンドルの運転席からドライバーがひっきりなしに喋り、助手も言葉を挟む。
適当に相槌を打ち返答もする僕に青年は、英語上手いですね、とお世辞を言うが、彼らが早口で喋
る内容の断片しか聴き取れていない。
彼らはしきりに知り合いが経営するホテルに連れて行こうとするが、安宿へ行く、と突っぱねる。
サダル・ストリートに到着すると彼らも車を降り、付いて来る。
ガイドブックに載っている安宿へ行くが、満床だった。
彼らは安宿の受付まで一緒に来て、今は安い宿はどこも空いていない、知り合いのホテルに泊まれ
、見るだけで良い、と言い続ける。
全く初めての土地で、辺りも暗く不安なのも手伝い、その夜は言われるがまま、彼らの知り合いの
ホテルへ行くことにする。
部屋にまで入って来ようとする彼らを追い払い、日本から持って来たダイヤルロックを内側から掛
ける。
明日朝起きたらすぐ出て安い宿を探しに行こう、と話し合う。
部屋の面積のほとんどを占領する2台のベッドにそれぞれ座り、荷物を広げながら、ようやく僕達
は自己紹介を始める。
青年は中西君、大阪から来た22歳。
写真の専門学校を出た後いくつかの雑誌と契約し、カメラマンをしている。
今回のインド旅行は特に行き先を決めていない、と言う。2ヶ月後には帰る予定だ。
夜は、寝苦しい。天井から吊り下がる大きな扇風機を回すが、空気がねっとりしていて、風が生ぬ
るい。
蚊も飛び回る。窓の外から、路上の男達のわめくような話し声が聴こえる。 翌朝目を覚ました僕達は、素早く荷造りを済ませ、安宿探しに出る。
ホテルのちょび髭を生やした主人は、ニヤリと笑いながら両手を広げ通せんぼうするが、そのまま
通り抜ける。
日当たりの悪いホテルから通りへ出ると、明るい陽射しが降り注ぎ、暑い。
インドは4月頃から6月の雨季に入るまでが、最も暑い季節だ。
昨夜到着時は闇に覆われ街の様子が分からなかったが、サダル・ストリートには小さな宿や、屋台
の延長のような飲食店が密集する。
昨夜断られた宿を手始めにあちこち当たるが、やはりどこも満床だった。
ようやくチョーロンギー通りに面したYМCAのダブル・ルームに落ち着くが、料金は安くなく、
部屋に窓がなく昼間でも電気を消せば真っ暗で、その上、頻繁に停電が起こる。
カルカッタ到着後2、3日は、中西君と常に行動を共にする。
宿の近辺には外国人旅行者向けのレストランがあり、チャーハンや焼きそばに近い物も食べられ、
ミネラル・ウォーターも手に入りペプシ・コーラなど炭酸飲料も売られ、全く不自由はない。
中西君は写真を撮りながらゆっくり歩き、足を止めることも多く、僕は手持ちぶさたになり、彼の
仕事の邪魔かとも思い、1人でうろうろしたくなる。
YМCAに4泊後、サダル・ストリート奥の『モダンロッジ』へ移った辺りから、僕達は別行動を
取るようになる。
モダンロッジ屋上にて(従業員の男性)
ニューバザール
サダル・ストリート近辺にて(リクシャワーラー)
中西君が出歩いても僕は部屋に残り、近くのニューバザールの古本屋に旅行者が持って来た日本語
の本がたくさん置いてあるので1冊買い、読み終わって持って行くと半額で買い取ってくれるので、
もう1冊別の本を買う、ということを繰り返す。
他に娯楽も予定もなく、集中して本を読める。
夕方、中西君が部屋に帰って来ると僕はベッドにごろ寝して本を読んでいるので、
「だらだらし過ぎですよ」
と言われてしまう。
夕食は中西君と一緒に食べるのが日課で、サダル・ストリートの屋台で食べていると、欧米人や日
本人らしき旅行者の姿を多く見掛ける。
日本から来たばかりの僕達には、彼らのぼさぼさの髪や伸ばし放題の髭、洗濯していない服など異
様に見え、話し掛ける気が起こらない。
行きの飛行機でヒンディ語を呟いていた男性もよく路上でチャイを飲んでいる。
カルカッタで3週間近く過ごし、ようやく次の街への移動を考え始める。
中西君は部屋でガイドブックを見ながら、僕に言う。
「ブッダガヤ、バラナシ、デリーへと進もうと思います。一緒に行きませんか?」
有り難いが、この先は1人で旅を進めたくなっている。
元気で明るく、目的を持ってインドを旅している中西君と居ると楽しいが、仕事をクビになり、将
来への不安を抱えて出て来た僕は、気が滅入ることもある。
彼は東のブッダガヤへ進むが、僕はカルカッタから北上しダージリンへ行き、ネパールへ入ること
にする。
4月25日、僕達二人は同時にチェック・アウトし、彼はガヤへ向かうためカルカッタ北部のハウラ
ー駅へ、僕は中心部に近いシャルダー駅へと別れることになり『モダンロッジ』前の路地で握手を
する。
「日本で飲みましょう!」
中西君の言葉に、僕もうなずくが、彼とはその後会っていない。
とんかつ、味噌汁、すき焼き、納豆、焼き魚、焼き鳥…。
ダージリンを出発するミニバスの中でメモ帳を取り出し、食べたい物を書き出す。
日本を出て1ヶ月が経とうとしている。
ダージリンには9日間滞在したが、山沿いの街で気候もカルカッタと大きく異なり寒く、体調を崩
してしまう。
毎日、下痢と微熱が続く。
その上、ホテルでは、連日停電と断水が起こり、トイレへ駈け込んでは、バケツの水を少しずつ
流す。
身体のだるさは続き、ダージリンで全く観光していないがこのまま居ても良くなりそうに思えず、
強引に出発する。
食べてもすぐ下痢するので、前日から何も食べていない。
ミニバスに乗り込むがなかなか発車せず手持ちぶさたで、腹が減ってくる。
思いつくまま、食べたい物を書きつける。
ようやく発車したミニバスが、曲がりくねった山道を下りに下ってスィリグリーのバスターミナル
へ到着すると、カルカッタと同じ焼けつくような暑さが蘇る。
熱気の中バスから降りると、地面がぬるっとしている。
バスターミナルは舗装されておらず、泥だらけだ。
ネパール国境のビールガンジへ行く乗り合いバスを探す。物売りが声を掛けてくる。
バスはどこだ、と聞くと知らなくても当てずっぽうであの辺だ、とまるで違う場所を教える習性が
インドの人達にはあり、カルカッタで道を聞いてはずいぶん大変な目に遭ったので、人には聞かず何
を探している?と言ってくる人も無視して歩くと、
「ビールガンジ!」
と、インドの国産車である黒塗りのアンバサダーのドアを開けて叫ぶ男性を見付ける。
値段交渉し、後部座席に乗り込む。身体のだるさは消え、汗が吹き出している。
しばらく1人で発車を待っていると、金髪の白人女性2人組がアイスクリームを手に陽気な笑顔を振
りまき、乗り込んで来る。
—ハーイ、ユーフロム、ジャパーン?
と、いきなり話し掛けてくる。
北アイルランドから来た、ダージリンは最高、と屈託なく話す。
もう1人、髪の薄い白人男性も案内されて来て後部座席に4人詰め込まれるが、まだ乗せるつもりか
、案内役の男は立ち続ける。
白人男性は蒸せ返るような車内から逃れ物陰に入り、ハンカチで顔を拭う。
車内で30分から1時間は待っただろうか。
食べ終わったアイスクリームの棒を、彼女達は窓から放り投げる。
名前を名乗り合った後は話が途切れ、僕が思わず、
「あちぃ…」
と呟くと、彼女達もにっこり笑い、
「アチィ…」
とマネをする。
散々待たせた挙句出発したが、助手席には案内役の男が乗り運転手は別に居て、乗客は僕達外国人
旅行者4人のみだ。
途中、何度も停まり、現地の人を乗せては降ろすことを繰り返し、小銭を稼ぐ。
現地の人達は、運転席と助手席の間を、強引に入り込む。
やがて舗装された道路や建物が見えなくなり、砂漠のような風景になる。
道なき道を揺れながら、黒いアンバサダーは走る。
ビールガンジに着いた僕達4人は、入国審査を終え、国境を歩いて越える。
女性2人は、好色そうな入国審査官からねちっこく質問され、肩をすくめ呆れながらも笑顔で、
ネパールへ入ると時計が15分進むことを教えてくれる。
国境を越えて入ったネパールの町の名は、カカルビッタ。
ここから首都カトマンドゥへ向かうが、女性2人とは別れることになる。彼女達はカカルビッタに
泊まるらしい。
午後3時頃出発したバスは、山道を、夜通し走る。
バスごと浅い川を渡ったり、牛車を避けて脱輪し、乗客全員でバスを押したりする。
スィリグリーからのタクシーで同乗した白人男性とは、ネパールに入った辺りから話し始め、カト
マンドゥへのバスでは隣り合わせて座る。
パリ在住の男性は意外と饒舌で、絵や音楽の話を暗い車内で始める。
明け方、ナラヤンガルという町を通る時バスが人々に取り囲まれ、停まってしまう。
共産党のデモが行われるため通行止めだと言う。
以後、昼過ぎまで、パリの男性と話したり町の子供達と写真を撮ったりして過ごす。
ナラヤンガルでのデモ風景
ナラヤンガルの子供達
カトマンドゥ市内の外れにあるバスターミナルへ着いた時は日が暮れ、とりあえず近くの小さな宿
に泊まり、翌朝街の中心部へ移ることにする。
ホットシャワーは出ないが、丸2日間の移動で汗と埃にまみれ、ダージリンでの9日間も断水と下痢
で入浴していないので水シャワーでも最高に気持ち良い。
翌朝、パリ男性とオートリクシャに乗り安宿街タメルへ移動、部屋をシェアする。
荷物を置き、2人で出掛ける。
彼はスケッチブックを持参する。写真は一切撮らないそうだ。
タメルの表通りは、ゲストハウスや旅行代理店、みやげ物屋がひしめくが、路地へ入ると昔ながら
の家々があり、人々が生活する姿がある。
彼は方々で足を止め、少しスケッチしては歩き出す。
彼が描く間、僕は手持ちぶさただ。
いつの間にか、ダルバール広場と呼ばれる、レンガ造りの広い道路に古い仏教寺院が並ぶ界隈へ
出る。
寺院は木造で、屋根は日本のお寺を思い出させる。不思議に落ち着いた気分になる。
外国人旅行者の姿も多いが、地元の人達も、参拝したり休憩している。
インド人に似た顔の人も多いが、日本人に似た顔立ちの人も居る。
サリー姿の女性も、チベット風の赤ら顔をした女性も居る。
ダルバール広場で一番高い寺院へ入ると中に梯子が渡され、僕達は昇り、上の回廊から街を見渡す
。
彼は、早速スケッチを始める。
絵描きではなく、銀行員らしい。
絵とクラシック音楽が趣味だそうだ。
バスの中で絵と音楽の話をしたが、ここダルバール広場でも風景の見事さに上機嫌で、なぜ私は写
真を撮らず絵を描くのか、と自身のこだわりを語る。
写真は対象物を一瞬で閉じ込めてしまうが、絵を描くと見た物を自分の脳と眼と手を使って形を捉
えられ、忘れにくく、対象物の本質に迫れる…。
彼は力説し、写真を撮りまくる観光客を軽蔑するようなことを言い、僕にも、やたら写真を撮って
いたな、と皮肉っぽく言う。
バスが長時間停まったナラヤンガルではすることがなく、地元の人達に求められるがまま写真を撮
った。
普段はあまり撮らないが…。
彼の言葉には、どことなく偏屈さを感じる。
翌日から、カルカッタでそうしたように、パリの彼とは昼間、別行動を取る。
彼は朝からスケッチブックを手に郊外へ出掛け、僕は部屋で本など読んだ後昼頃からタメル近辺を
うろうろする。
店先や通り沿いで、店員やその友達の青年などと話す。
カトマンドゥ郊外キルティプルにて
夜はパリの彼とレストランでディナーを共にし、1日の出来事を話す。
郊外の町でスケッチをしていたら、子供が10人も20人も集まり、じっと見ていた、と楽しそうに
話す。
フランスには1ヶ月近いバカンスがあり、今までずいぶんと色んな所を旅行したらしい。
中でも良かったのは、タヒチとベトナム。
両国ともフランス語が通じ居心地が良かった、ベトナム人女性と付き合ったが別れた、40歳だが良
い女性には巡り合っていない…。1週間ほど一緒に居ると、そんな話もしてくれるようになる。
ポカラも含めネパールに3週間ほど滞在し、5月19日早朝、ラクソウルの国境を越え再びインドへ入
国する。
灼熱の気候が蘇り、ネパールの人達と違い、人の顔を無遠慮に見る泥臭い人達に囲まれる。
パトナで1泊後、ブッダガヤを目指す。
長時間バスに揺られ、汗と埃まみれでガヤへ、さらにブッダガヤまでオートリクシャに乗る。
ブッダガヤはお釈迦様が悟りを開いた地にふさわしく、チベット寺、日本寺、ブータン寺、ビル
マ寺、スリランカ寺…、と各地のお寺があり、宿泊もできる。
僕はチベット寺に泊まる。1泊20ルピー、と安い。
チベット寺の部屋(毎日猫が入ってきた)
お寺と、2軒ほどの食堂以外何もない村で、毎日同じ食堂へ行くので現地の人や他の旅行者とも顔
なじみになり、娯楽が少ない分、宿や食堂で各地から来た旅行者と話し込む。
日本人にもちらほら会う。
「中東へ向かう人を知っていますか?」
チベット寺の部屋でドアを開け放して本を読んでいると、僕と同年齢くらいに見える日本人男性が
、旅の情報を求め、話し掛けてくる。
アジアを横断して中東、欧州へ陸路向かう旅行者がかなり居ることを知る。
この男性は、中国からタイ、ミャンマーを経てインドに入ったが、中国南部で飲み物に睡眠薬を入
れられ、荷物を全部盗られ、再び旅行しながら必要な物を揃えたらしい。
インドから陸路西へ、パキスタン、イラン、トルコ…と進むそうだ。
いくつもの国境を越え、徐々に変化を感じながらゆっくり進む旅。
いつかそんな旅がしてみたい、との思いは常に心のどこかにある。
カルカッタに居た頃は、日本へ帰ったらどうしよう、とよく考えたが、身体も旅に慣れ、他の人の
旅の話を聞き、自分も期限のない行き先を決めない旅がしたい、と思うようになる。
ブッダガヤには10泊し、早朝の列車でバラナシへ。
列車がガンジス川の見える辺りに差し掛かる頃、同席の人達がふところから小銭を出し、僕にも出
すよう言う。
25パイサの硬貨を出す。
列車が川に架かる陸橋を通る時、人々は大きな川に向かって用意した小銭を投げ、手を合わせる。
僕も、マネをする。
バラナシは日本人宿『クミコハウス』が有名だが、ヨガが習えると言う『オームハウスロッジ』へ
行く。
駅からサイクルリクシャに乗り、川岸に近いゴドウリヤーの交差点付近で降ろしてもらい、牛やリ
クシャが行き交う通りを歩く。
細い路地への入り口に目指す宿の看板が架かり、
「オームハウスロッジアリガトウ」
と、インド人が書いたらしい日本語と行き先を記した矢印も添えられている。
それに従い、入り組んだ路地を行き、宿へ辿り着くと多くのがれきが転がっている。
まるで工事現場で、ここではないのかと思うと、上半身裸で腹の出た血色の良い男性が現れる。宿
の主人らしい。
初め、改装中に旅行者が来たのに戸惑い、よそへ…、と言い掛けるが思い直し、屋上の一室に20
ルピーで…、と言う。
1階が宿の家族の生活空間で、全面改装中の2階、3階の客室を通り過ぎ階段を昇り切った屋上に一
部屋あり、そこでの滞在となる。
泊り客は僕1人。
ヨガのレッスンも毎晩7時からしてくれ、夕食も宿で食べられる。
インドは、4月頃から6月半ば、雨季に入るまでが1年で最も暑い。
ブッダガヤに居る5月20日頃から日に日に暑くなってきたが、バラナシに着いた夜は眠れないほどだ
った。
インドの宿にはほぼ必ず付いている屋根から吊り下がる大きな扇風機を回しても生ぬるい風しか起
こらず、汗だくになり、夜中、2時間に1度くらい水浴びをする。
朝4時頃、耐え切れず、表へ出ることにする。
宿の主人でヨガの先生でもあるシャンティさんを起こして鍵を開けてもらい、まだ暗い外へ出て、
川のほうへと歩く。
川岸へ辿り着き座っていると、野良犬が何匹も寄って来るが、気にならないほど暑い。
やがて夜が白々と明けてきて、川岸(ガート)にどんどん人が集まって来る。
男性が泥のような色をした川に入り潜ったり浮かんだりしながら合掌し、何かを唱えるすぐ傍で、
女性達が賑やかに喋りながら洗濯をする。
少し離れた所で子供達が大声で騒ぎながら川へ飛び込み、水しぶきを上げて泳ぐ。
凄まじい活気だ。
しばらく飽きずに、刻一刻と変わりゆく光景を眺める。
ガート沿いに歩くと、火葬場に行き当たる。
ちょうど葬列が到着したところで、重ねられた薪に色鮮やかな衣装をまとった遺体が安置される。
棺には入らず、色付きの担架のような物で運ばれて来る。
参列者の服装は黄色やオレンジなどカラフルで、日本の葬式と対照的だ。
薪に、火が付けられる。
遺体を焼く男性は白い衣装で、さらに赤い衣装をまとった呪文を唱える男性が居る。
火が強くなり、煙が舞い上がる。
白い衣装の男性は、長い棒を使って薪の位置を調整する。
参列者は、立ったまま見送る。
やがてボキッ、と音がする。骨が焼け切る音だろうか。
驚いたのは、焼け終わった黒い灰を流すすぐ横で、子供達が泳いだり水の掛け合いをし、洗濯する
女性も居ることだ。
ガート沿いを歩いて火葬場から離れると、上半身裸に腰巻き姿の中年男性が、ヨガのポーズのよう
な姿勢で直立している。
バラナシの気候に慣れてくると夜も眠れるようになり、朝も8時頃まで眠るようになるが、毎朝シ
ャンティさんが屋上まで昇って来て、頼んだわけではないがニュースで見知った各地の朝の気温を知
らせてくれる。
それによると、バラナシは連日48度や49度で、日中は恐らく50度を超えていると言う。
これから行く予定のアグラやデリーは朝から50度、さらに西のラジャスタン州では53度、54度を
記録しているそうだ。
日中ガートへ出歩いても、暑くて宿から出ないのか旅行者にあまり会わない。
それでも、ちらほらと日本人に会う。
『クミコハウス』では肝炎や下痢、赤痢になった旅行者ばかり居るとのことだ。
レストランで、ニュージーランドでのワーキングホリデー帰り、という男性に会う。
年齢は僕より一つ上で、東南アジアとインドを回り帰国するがせっかく英語も身に付けたのでまた
旅行したい…、と思いを語る。
僕が宿でヨガを習っているのを知ると、その夜から習いに来て、夕食も食べて行く。
アグラやデリーへ行って来た彼から情報をもらい、僕はブッダガヤやカルカッタのことを教える。
彼いわく、アグラの人達はひどい、だますことしか考えていない、と言う。
バラナシに11泊した後、夜行列車でアグラへ向かうが、他の旅行者から評判の悪い街なので、世界
遺産タージマハールを見て、翌日にはデリーへ移動する。
タージマハール
デリーの安宿街・メインバザール滞在中、突如として雨季が訪れる。
夕方、バケツをひっくり返したような雨が降り、その日を境に猛暑はなくなり、毎日雨が降るよう
になる。
泊まった宿に日本人や欧米人等のいわゆるツーリストは見掛けないが、インド国内からの旅行者が
居て、話をする。
デカン高原のナグプールという街から来た男性で、遊びに来たら歓迎する、と住所を教えてくれる
。
仏教の街で、彼もインドでは少数派の仏教徒で仏教国の日本人には親近感を持っていると言う。
インドの人達と話すと、職業や年齢と同時に宗教は?と、必ず聞かれる。
それほど重要なアイデンティティの1つで、無宗教と答えると信じられないと言う表情で驚かれる
ので、とりあえず仏教と答えることにしている。
半分ウソでも言い続けると、仏教徒としての意識が出てくるから不思議だ。
デリー到着時点で、6月も10日。一気にボンベイへ下ることにする。
列車は深夜ラジャスタンを越え、グジャラート州のヴァドダラという駅で前方の線路での衝突事故
のため引き返すこととなり、乗客全員がホームに降ろされる。
いつ来るか分からない列車を待つことになったが、クリケットの試合へ行くと言う男子高校生達と
話し、写真を撮り合い、退屈せず過ごす。
バラナシからアグラへ行く時も正午発の列車が夕方五時まで来ず、それでもインドでは何とかなっ
てしまう。
朝6時に駅へ入って来た列車に、皆で一斉に乗る。
もちろん座席はなく、トイレ前の通路に20人ほどがひしめき、座り込む。
トイレはゴミ捨て場のようになっており、用は足せない。
列車はほぼ各駅に停車し、人が出入りするたびサンダル履きの足を踏まれる。
ボンベイに着いたのは約12時間後の夕方6時頃で、その間身動きも取れず、裸足を踏まれまくる。
列車が着いたのはボンベイ・セントラル駅ではなく郊外の駅で、中心部へは市内電車で出なくては
ならない。
到着直前から話し始めたビジネスマンを名乗る男性が、ボンベイ・セントラル駅まで付き添ってく
れる。
男性と握手して別れボンベイ・セントラル駅から出ると、激しい雨が降っている。 傘も持っていないが、歩いて、海沿いのマリン・ドライブと呼ばれる界隈に建ち並ぶホテルへ、手当
り次第入ってみる。
2ヶ月に及ぶインドの旅で、シャツはいい加減な手洗いの洗濯でよれよれになっている上、ボンベ
イへの列車内で足を踏まれまくり、足元は泥々、さらに雨に打たれずぶ濡れで、あるホテルではロビ
ーが汚れるから出て行ってくれ、と言われる。
インドの人達はある意味露骨だが、表裏がない。
これが日本だと、心では思っていても口や態度には出さず、知らない間に噂を広められていたり
する。
追い払われてもあまりに表裏がないせいか、腹も立たない。
それより、今夜泊まる所を見付けるのに必死だ。
列車のトラブルで一睡もしていないし、身体はべたべたで気持ち悪い。とにかくシャワーを浴び、
眠りたい。
ボンベイは他のインドの街に比べ宿代が高く、やっと落ち着いたホテルは1泊350ルピーする。
普通の安宿のシングルはデリーで50ルピー、アグラで30ルピーだったから破格だが、部屋は広くて
きれい、それに朝食付きだ。そのホテルに2泊する。
この旅で最後に訪れたのはプーナにあるアシュラム(瞑想修行場)だ。
世界的に有名な所で、日本でも本が出ているが、僕は全く知らなかった。
ブッダガヤで仲良くなったインド人から話を聞き、ボンベイから帰国するなら寄れば良いと言われ
、覗いてみる。
ボンベイから列車で2時間程度で到着するが、安い宿が見付からない。
仕方なく、1泊200ルピーを170ルピーに負けてもらい、ホテルのシングルに泊まる。
外装も室内の壁や廊下も真っ白い建物で、掃除も行き届き居心地は良い。
ただ、ある程度の日数滞在するには宿代がネックで、翌朝チェック・アウトし荷物を持って安い宿
を探す途中『ジャーマンベーカリー』という焼き立てのパンが食べられるカフェを見付け、入ると日
本人の若い男性が居る。
挨拶して同席させてもらい、プーナのことを何も知らないので…、と教えてもらおうとすると、僕
もです、との答えが返ってくる。
プーナに居る旅行者のほとんどはアシュラムへの滞在が目的で来るが、彼は大学卒業後の無期限の
旅行中寄っただけ、と言う。
彼の居る、宿と言うか安アパートのような所は、1泊50ルピーだそうで、連れて行ってもらう。
プーナに滞在する人達は、1ヶ月単位、あるいは3ヶ月、6ヶ月の契約でアパートメントを借りる人
が多い。
その中では最も安く、15日間ごとの契約で良いそうで、比較的資金の乏しい人達が集まっている。
行ってみると、あまり手入れの行き届いていない庭は、連日の雨で少し浸水している。
室内は床にむしろのような敷物が敷かれ、ベッドはなく明かりは豆球1つ。
南インドで一般的な部屋のスタイルらしい。トイレは共同。
僕には十分過ごせそうに感じられ、15日間の契約をする。
滞在中、この『ラクシュミ・ヴィラ』からアシュラムへ通うが、インドの6ヶ月ヴィザの期間フルに
居る人が多い中、15日間は短い。
アシュラムへ出入りするには、赤いバス・ローブのような服を着用しなくてはならず、新しい物は
高いので路上で古着が売られているのを買い、さらに面接やなぜかエイズ検査があり入場を許され
ると、初めての人向けのウェルカム・ミーティングというのがある。
日程の関係で、それらを終えるのに1週間ほど掛かり、残り1週間しかない。
さらに色々なセラピーを受けるには、お金が要る。
興味はあるが、無料で参加できる音楽やダンスを取り入れた集団瞑想に参加し、アシュラム内のレ
ストランやカフェで欧米人や日本人の滞在者と話すぐらいが精一杯だ。
アシュラムに出入りする欧米人は、穏やかな話しやすい人が多い。
日本人は、特に男性は取っ付きにくい雰囲気を持つ人が多いが、話してみるとそれぞれ、面白い
人だった。
『ラクシュミ・ヴィラ』を紹介してくれた大町君とは、毎晩、旅行の話や学生時代のこと、今まで
にした仕事の話などをする。
「日本へ帰ったら、最初は寂しいですよ」
何度も旅行をしている彼は、そう言う。
ボンベイでは再び、元の350ルピーのホテルに泊まる。
2泊後、ボンベイ空港発のエア・インディアで日本へ帰ることになる。
帰国の日、ボンベイ市街
3.一時帰国
1994年7月—1995年3月 東京
7月7日、エア・インディアは成田空港へ着く。
3ヶ月前の4月9日に出発した同じ場所だが、ひどく違和感を覚える。
空港内のエアバスに乗ると、異様な清潔さに、驚く。
綺麗でないものはことごとく排除されそうな、病的で恐ろしいほどの清潔さだ。
成田空港からスカイライナーで日暮里へ出て、アパートのある西荻窪へ向かう。
日暮里駅で目にした自動改札機は、恐ろしさを感じると同時に、今の日本を象徴している物のよう
に思える。
インドには自動改札機などないが、駅員が目を光らせ、無賃乗車する人を見付けると直接怒鳴り散
らし、全力で追い掛ける。
その方が、無人の改札機が無機質な警告音とともに跳ね飛ばすより恐ろしくはない。
新宿駅で中央線に乗り換えた辺りで、違和感と恐怖からくる息苦しさは最高潮に達する。
車内の雰囲気が、異様に思える。
人々はひしめき合うが、それぞれ孤立し、接触しないようにしている。
インドでのように、乗り合わせた者同士が自然に会話を始める光景はない。
プーナで大町君が「日本に帰ったら寂しいですよ」と言っていたのを思い出す。
しばらく、ショック状態が続く。
インドの気候や、人、食べ物、物価に馴染むと日本の日常の何もかもが、一々変に思える。
しかし、日本に居ると黙っていてもお金がどんどん出て行くので、日銭仕事でも何でも働かなくて
はならない。
警備員を選んだ理由は、週払いで給料をくれるから。それだけだ。
研修を終えた8月初めから、都内各地の建築現場で、夜間、警備をする。
毎日、電話を入れ、その日の現場を割り当てられるが、新宿西口の都営地下鉄工事の現場に一番よ
く行く。
深夜でも車も人も頻繁に通る中での工事で、警備員16人が毎日動員される。
その夏は猛暑だったが、夜働き昼間は眠るので、暑いのかどうかよく分からなかった。
帰国したその日から、次、日本を出ることばかり考える。
留学などで、1つの国、1つの街にじっくり滞在したいとも思い、アジアから大陸を横断し欧州まで
進みたいとも思い、インドの色んな街に訪れたいとも思う。
田舎町、マイナーな町へも行ってみたい。
もっと色んな国をこの目で見たい、行きたい、と衝動に駆られ、思いは日増しに強くなる。
夏が過ぎ、秋になると、美術館の新築工事の夜勤へ固定的に入るようになる。
新宿の喧騒と違い、美術館での留守番は本も読めたし、寝ていても良い。残業代も入り、お金が
貯まってくる。
日本円は米ドルに対し、強くなっている。
インドへ行った4月から7月頃は1ドル108円から110円くらいだったが、100円を切るようになる。
1日も早く出発したい、との衝動に従うことにしたのは年末で、具体的な出発日や目的地、ルート
を考え始める。
その頃、僕にインドをすすめた木本を訪ねると、ドイツへ留学することにしたと言う。
大学卒業後就職した会社を1年半で辞め、現在は宅配便のアルバイトをしている。
会社員だった頃は会っても元気がなかったが、バイト生活になって徐々に元気を取り戻し、この日
は目が輝いている。
自分は在日韓国人2世だが、ドイツに永住すれば在日も韓国も日本も、関係なくなる。
大学で本当は哲学をやりたかったが楽な方へ行ったことに心残りがあり、哲学でドイツに骨を埋め
るつもりだ。
お前も何か身に付けに行くべきでは?
いつになく熱く語る木本と昼頃から夜12時まで話し、東久留米市の木本のアパートから西荻窪まで
自転車を漕ぎながら、考える。
今の自分は、ただ世界が見たい、との衝動に従っているだけで、日本の外へ出ることと生きるため
の何かを身に付けることがつながらない。
ただ、日本にずっと居たら分からないことがたくさんあると感じ、それを見ず、知らずに社会人と
して落ち着いてしまうことに、抵抗がある。
木本のようにうまくつながればと思うが、今の僕は、そうはならない。
年が明け、1月、神戸で大地震が起こる。
京都の実家が心配で電話するが、つながらない。夕方ようやくつながり、無事を確認する。
円はどんどん上がり、1ドル90円を切るようになる。
65万円貯まっている。
半分をドルに替えた上でアジアの物価を考えると、約1年は旅行できる算段となる。
西荻窪のアパートは、ドイツ留学に向け家賃を切り詰めて貯金し勉強したい木本に又貸しすること
にする。
大家さんに木本を紹介し、了承してもらう。
部屋に、荷物の一部を置いて行ける。
本や衣類など、処分できる物は、する。
3月20日、警備員として最後の勤務日、地下鉄サリン事件が発生する。
アパートの部屋で、事件や捜査のニュース映像を見ながら荷物の整理をし、旅行の計画を練る。
日本から、少しずつインドへ近付く。
その後、欧州へ向かうか、どこへ行くかは決めず、その時考える。
できるだけ飛行機を使わない。
飛行機を使うと、実際の距離が身体で感じられない。
日本列島は海に囲まれているので、飛行機以外での出発となると必然的に、船になる。
日本から外国への航路は、
中国(神戸、大阪、横浜→上海/神戸→青島(チンタオ))
ロシア(富山、新潟→ナホトカ)韓国(下関、博多→釜山)
台湾(沖縄→基隆、高雄)
がある。
ロシアや台湾のヴィザについても調べたが、結局、博多から15日間以内の滞在ならヴィザが不要の
韓国・釜山へ渡りソウルを経て、仁川(インチョン)港から中国・天津へ船で行くことにする。
中国の2ヶ月ヴィザを取っておく。
1995年3月—4月 日本国内
東京から京都の実家へ、青春18切符を使い、鈍行列車で行くところから、旅行が始まる。
東海道を下れば早いが、敢えて遠回りして、中央本線を西へ行き山梨、長野を通過し、日本アルプ
スを見る。
雪がちらついている。
さらに進むと、新潟の糸魚川へ出る。荒々しい日本海の波が見える。
富山、金沢と下り、福井、滋賀、そして京都。
早朝4時半の始発電車に乗り、京都市内へ着いたのは、夜10時半。
母が出迎える。
少し、年を取って見える。
前年7月インドから帰国時以来の帰省で、約1年旅行へ出ることは電話で伝えている。
高校時代に落ちこぼれ、就職も進学もせず、アルバイト暮らし。
高校卒業の翌年、家を出て、その2年後、東京へ出た。
親としては、旅行など反対だろう。
しかし、自分で決めたら、反対されればされるほど頑なになる僕の性格を知っているからか、残念
そうにしながらも、何も言わない。
父、妹も交え、神戸の地震やサリン事件の話、親族や地元での変わったこと、といった話題になる
。
翌日から、近畿各地に居る友人を訪ね歩く。
結婚して子供が生まれた友人も居る。
一方で、僕よりも十歳年上だが永遠の旅行者のような人も居る。
豊中に住む池崎さんだが、訪ねて行くと、他にも旅行好きな大学生などが来ていて、4、5人でごろ
寝しながら話をする。
池崎さんは、古本屋を始めるつもりで店舗付き住宅を借りたが、今のところ何もしていない。
工場の期間従業員をして、お金が貯まると海外へ出るか、家で商売の計画を練る。
その時はちょうど仕事をしておらず、毎日人の出入りがあり、数日泊まっている人も居て、アジア
の安宿のような空間になっている。
4月5日早朝、京都を出発、松山、広島、別府へ立ち寄り、佐賀県北方町の伯父宅、佐賀市内のいと
こ宅に泊めてもらった後、佐賀から博多へ出る。
4月10日午後、出発前ぎりぎりに、アメリカン・エキスプレスで、日本円65万円を、30万円
と3,500ドルのトラベラーズ・チェックと、500ドルの現金に両替をする。
博多駅前で博多港へのバスを待っていると、初老の男性が、
「釜山へ行くの?」
と、話し掛けてくる。
男性は貿易商で、九州と韓国を買い付けのため毎月往復している、と言う。
僕は今後の旅の計画を、その人に話す。
「ほお、そりゃすごいな」
バスに乗ると、車窓から博多の街を彩る桜並木が見える。
「韓国でも、もう咲いてるだろうな」
男性の言葉で、日本と気候のそう変わらない国へ行くんだな、と実感できる。
4.再び出発〜陸路インドへ
1995年4月 韓国
4月10日夕方、客船『カメリアライン』は博多港から出発する。
甲板に出た僕は、博多の街が次第に遠ざかって行くのを見送る。
2等寝室は地べたに雑魚寝状態で、日本人より韓国の婦人達の姿が目立つ。荷物が多い。釜山の商
売人だろうか。
港へのバスで話した貿易商の中田さんは1等船室を取っていて、招いてくれる。
ホテルのシングル・ルームのような個室で、ベッドもテレビも付き、快適そうだ。
中田さんは、大分在住の61歳。韓国との行き来を20年ほど続けていて、韓国でのエピソードや韓国
の人達の気性、貿易での苦労話など、色々聴く。
夜10時頃、がりがりと碇の音がする。
「着いたか」
中田さんが言う。
夜6時に博多を出発して、わずか4時間。
1晩釜山港へ停泊、朝を待って、船の外へ出る。
釜山港内の両替所で、まず1万円のトラベラーズ・チェックを両替する。10万ウォン程度になる。
港から外へ出ると、日本と変わらない風景で、桜も咲いている。
中田さんと一緒に、港から近いホテル街・中央洞へ向かう。
日本と違うのは、車が右側通行で、交通ルールは車優先で注意が必要、とのことだ。
中央洞へ入り、常宿の旅館へ向かう中田さんと別れる。僕は、さらに安い宿を目指す。
韓国の宿には、ホテル、旅館、旅人宿、があり、安宿に当たるのが『旅人宿』と呼ばれる、原則と
して風呂なしトイレ共同の部屋だ。
中央洞で一番手頃な値段の『クムカン旅人宿』は、食堂街の坂を昇り切った所にある。
「パン、イッスムニカ」(部屋ありますか)
という韓国語を懸命に覚え用意していたが、宿のご主人は日本語が話せた。
部屋は雑然としているが、オンドル(床暖房)が入り、6,000ウォン(約600円)は安く思える。
ご主人が釜山の市内地図を手に、街のことを丁寧に説明してくれる。
日中は、市場など歩く。
方々から人の話し声が聴こえると、日本語に聴こえ、振り返って見て、よく聴くと意味が分からず
、韓国語と分かる。抑揚の少ない音の響きが日本語とよく似ている。
中田さんが旅館へ遊びに来いよ、と言っていたので、夕方、行ってみる。
部屋で中田さんから、基本的な韓国語会話や、韓国のことを教えてもらう。
ヨポセヨ(もしもし)オソセヨ(いらっしゃい)アネケセヨ、アニガセヨ(さようなら)…。
タバコは、88(パルパル)が値段も手頃で、みんなよく吸っている。
日本のマイルドセブン、セブンスターをヒントに、数字を8にしたそうだ。
あちこちにコンビニがあるが、店内で買ったカップ麺にお湯を入れて食べるコーナーがどの店にも
ある。
若者達はそこで食べ、集まる。どのラーメンも、キムチ味だ。
銭湯へ行くと、垢すりの男性が居て、頼めばやってくれる。
中田さんは買い付けが終わると、再び船に乗り帰って行く。港まで見送る。
僕は釜山で市場や公園を歩いたり、喫茶店や銭湯へ行き、3泊する。
ソウルへの移動は、高速バスを使う。
約5時間で、夕方ソウルのバスターミナルに着く。地下鉄で中心部へ出る。
街へ出て歩くが、看板が全てハングルで読めない。アルファベットも漢字もない。
あらかじめメモ帳に「旅館」「旅人宿」のハングルを書いておいたので、それを見ながら、宿を
探す。
旅館らしき所へ入るが、釜山の中央洞と違い、日本語も英語も通じず、宿代の確認も一苦労だ。1
泊16,000ウォン、と紙に書いてくれた。
日本出発前、知人からソウルに住む韓国人を紹介してもらっていたので、公衆電話から電話すると
、翌朝、旅館まで車で迎えに来てくれ、家に泊めてくれる。
60代のご夫婦が住む家は、ソウル市街の高台にあり、庭付きで、広い。
20代の息子さんが居るが、兵役に出て、2人で寂しいとのことで、3度3度食事をご馳走になり、博
物館など市内を案内してくれ、一人で出掛ける時にはお小遣いまでくれる至れり尽くせりぶりで、恐
縮する。
ソウル市街
3泊させてもらった後、港街・仁川(インチョン)へ列車で行き、4月19日の中国・天津行き客船の出
港を待つ。
1995年4月—6月 中国
仁川から天津への客船『天仁号』は、正午出発、翌日の夜到着する。
船内に、韓国人、中国人以外のいわゆるツーリストは、家族4人で旅行するドイツ人と僕だけで、
ドイツ人家族は北京からモンゴルへ入り、シベリア鉄道でモスクワまで行きドイツへ帰るとのことだ
。
父親が旅の予定を話す表情は、本当に楽しそうだ。子供達は、船内を元気良く走り回る。
夜、明かりのない天津港へ着き、入国審査官にパスポートを渡すと、中国のヴィザのあるページを
しげしげと見て、日本語で、
「アナタハドコへイキマスカ?」
と、聞いてくる。
8年前、僕は初めて中国を訪れている。
その時は、日本語どころか英語もほとんど通じなかった。
それが、空港でもない入国する人も少ない港で、いきなり日本語が出て来て驚き、うーん…と答え
を迷うと、再び日本語で、
「キメテナイ…」
と言い、笑う。
「多少銭(ドゥオシャオチェン)?」(いくらですか)
この言葉は8年前の中国で覚えていたが、正しく発音できる自信がないので、紙に書いて乗り合い
タクシーの運転手に渡すと、10元、と書いて返したので、乗り込む。
ワゴンタイプの乗り合いタクシーは、満員になるまで発車しない。
動かない車内で、乗客達は韓国語で話し始める。船で一緒だった人達ばかりだ。
ざわつき始めた車内で、1人の中年女性が
「イルポン(日本)」
と呼ぶ。
「あ」と僕が反射的に声を出すと、笑う。
突然、年配の男性が意を決したように、
「アナタハ、ドコへイキマスカ?」
と、日本語で尋ねてくる。
懸命に思い出しながら、頭の中で文章を組み立てて発した言葉のようだ。
恐らく、この男性が若い頃、日本が植民地支配をしていて、強制的に日本語を覚えさせられたので
はないか。
僕は、次に行くつもりの街の名を答える。
「大連(ダーリェン)」
すると、ダーリェン、ダーリェン…、と闇の中で皆が口々に、感嘆のような声をあげる。
やがて、乗り合いタクシーは発車する。
言葉は分からないが、何となくこの人達は同じ所へ泊まることになっていて、中に1人、日本人が
紛れ込み、どうしようか、と相談している風にも見える。
ワゴンは暗闇を走るが、やがて、煌々と灯る明かりが現れる。
『賓館(ピングァン)』(ホテル)の電飾だ。
闇の中にぽつんと建ち、色とりどりに光る。
その真ん前で降ろされ、車中の人達も降り、ホテルへ入り、フロントの従業員と交渉を始める。
僕は、ロビーにぽつんと立つ。
フロントの、眼鏡を掛けた中国人女性従業員と、さっき僕に「イルポン」と話し掛けてきた韓国人
女性とが、喧々諤々とやり合う。
この人達が泊まるのか、僕のことで交渉しているのか、事態を掴めない僕は、見る他ない。
やがてフロントの女性が歩み寄り、さっき僕に懸命の日本語で話してきた男性も近付き、
「キョウハ…アナタハ…ココ…デ…」
と、言葉を探しながら言う所で、僕をこのホテルへ泊めるつもりだと気付き、そのまま部屋へ連れ
て行かれそうになるのを止め、宿代の確認をする。
225元、と紙に書かれ、それは高いので、150元、と書いて返すと、フロントの人達は195元、とそ
の下に書き、決着する。
韓国の人達はそのまま全員、ワゴンへ戻って行く。
どうやら、別の宿へ行くようだ。
わざわざ僕のために、全員が降りて交渉してくれたのだ。
僕は皆に頭を下げると、日本語を喋る男性の手が伸び、がっちりと握手をする。
乗船前に韓国のウォンから中国の人民元への両替ができず、船内では人民元しか使えないので船で
は何も食べられず空腹で、フロントでカップラーメンを買い、部屋に入りむさぼり食いシャワーを
浴び、眠る。快適なベッドだった。
天津で2晩を過ごし、大連への船に乗る。
港の待合室でガイドブックを読んでいると、女性が日本語で話し掛けてくる。
貿易会社の社員で、日本語を勉強中なので、日本人と話して練習したい、とのことだ。
「他の日本人と話すと分からないことあるけど、あんたはわざとゆっくり話してくれて、とてもよ
く分かります」
と褒められるが、決してわざとゆっくり話してはいない。
よく人からペースが遅いと言われ、日本の社会では損をしていた。
彼女の言葉に少なからずショックを受けるが、分かりやすいのか、と嬉しくもある。
大連への船中でも彼女と話し、彼女を通じ他の乗客達ともコミュニケーションを取れた。
僕の父が大連で生まれ、3歳の時に一家で引き揚げた話をすると、旧満州の都市だった時代の地名
と現在の地名は変わり、照合してくれるオフィスがあるのを教えてくれる。
船中1泊後の朝、大連港へ着く。
父に大連の記憶はないが、出発前に立ち寄った佐賀の伯父から、きれいで大きな街だと聞いた。
その言葉通り、港から少し歩くと高い建築物の群れが目に飛び込む。
安宿を探し切れず、1泊350元するホテルに泊まる。
部屋は広々として、快適だ。シャワーを浴び少し休んでから、表へ出る。
宿の前を走る大通りの名は現在人民路だが、満州国時代は山縣通り、終戦後からつい数年前までは
スターリン通りと呼ばれた。その通りを歩くと、中山広場という円形の公園に行き当たる。
この広場を中心にして道路が放射状に分かれ、大連の街を形造る。
日曜日でもあり、広場では家族連れや若いカップルを目にする。
ファッションも、日本の若者とそう変わらない。
街の基本的な造りや、古くからある建物は旧満州時代から変わらないと思われるが、完全に現代中
国の一都市となっている。
大連・中山広場
大連から瀋陽、丹東、と旧満州の街を巡り、5月1日、北京へ到着する。
北京へは、8年前、高校を卒業した年、現在は佐賀市内に住むいとこが北京日本人学校へ赴任して
いた頃遊びに来て、教員住宅へ泊めてもらった。僕にとって初めての海外旅行だ。
今回は、豊中の池崎さんから旅行者が集まる安宿を聞き、北京駅からそこを目指す。
駅から出て、市内地図を買い、バス乗り場へ向かう。駅前の雑踏の風景は、うっすらと記憶に残っ
ている。
20番のバスで北京南駅へ向かい、終点で降り、安宿『僑園飯店』へ。
門をくぐって、受付でドミトリーが空いているか尋ねる。
4人部屋で、1泊25元。2階へ上がると、ドミトリーの受付があり、愛想の良くない小姐(シャオジェ
)(女性従業員)に案内され部屋へ入ると、目の前のベッドで大柄な欧米人男性がいびきをかいて寝
ている。
小姐が去り、僕が荷物を置いてベッドに座ると彼は目をぱっちりと開け、
「ハイ」
と挨拶し、さらに「コンニチハ」と続ける。
「こんにちは」
と、僕も返す。
ドイツ人旅行者で、全く違う文化を持つ中国へ留学したいと思い下見を兼ねて旅行に来ている、と
のことだ。
しばらく近辺をうろつき、ドミトリーに戻るとドイツの男性は出掛け、1人だった。
すぐにノックの音がして、小姐の案内でバックパックを背負う欧米人男性が入ってくる。
米カリフォルニア州から来たジョンと言う男性で、欧州、アフリカ、インド…と、東回りで一周し
て来て北京から日本に24時間トランジットで立ち寄った後、米国へ帰る。
24時間しかないが、少し東京を見たい…、と彼が言うと、僕も成田空港から都内への出方を説明し
、日帰りで行けそうな所を考えながら、挙げる。
成田から上野へ出て上野動物園、アメ横。山手線でぐるぐる回り、池袋、新宿、渋谷…。それぐら
いは行けるかな?
ドイツ人男性と、もう1つのベッドに居るイスラエル人男性も帰って来て、4人での会話や情報交換
となる。
翌日、ジョン、イスラエルのイリスと3人で市内観光へ出て、天安門広場や、毛沢東のミイラ遺体が
安置された廟を見物する。
天安門に日本の国旗が掲げてあり、なぜか、とイリスに聞かれるが、分からない。
後日、日本の首相が来訪していたことを知る。
夜は、僑園飯店近くの欧米人旅行者向けカフェレストランで夕食を食べる。
そこで僑園飯店に泊まる各国からの旅行者達と交流を持つ。
店内は10席以上あり、広いが、夜遅くまで旅行者で賑わい満席だった。
今回日本を出てからは他の旅行者と会えず、1人で過ごしていたが、いきなり大勢の旅行者達に囲
まれる。
速い英語での会話は所々分からないが、懸命に付いて行く。
僑園飯店には日本人も多く泊まっていることを知ったのは、その2日後くらいだ。
日本人は、カフェには寄り付かないようだ。
ドミトリーは、人の入れ替わりが激しい。
僕の同室者では、まずイスラエルのイリスが出発、ジョンも日本へ飛んだ。
ギターが弾けて容貌も映画俳優のようなジョンは、カフェで人気者となり、出発前夜はお別れパ
ーティとなる。
夜遅く部屋に戻った彼は、残った同室の3人にビールをケースごとみやげに置き、早朝出発して行
った。
どの道を通って、インドまで辿り着くか。
シルクロードを通りカラコルム山脈を越えパキスタンへ入り、インドへ向かうか。
または、チベット・ヒマラヤ山脈を越えてネパール、インドへ下るか。
あるいは、雲南へ下り、東南アジアからインドを目指すか…。
北京で、色んな人の話を聞いて決めよう、と思っていた。
僑園飯店に何日か滞在するうち、カフェでも日本人の姿を見掛けるようになる。
彼らに交じり、地図を見ながら話すと、
「チベットから行くルートが一番距離が短くて、行きやすそうですね」
と言われ、深く考えず、チベットから行こうという気になる。
考えてみると、時間だけはたっぷりあるし、ゆっくりじわじわとインドに近付くことを楽しむ旅行
なので、「距離が近い」ことは決め手にならないが、そう言われると何となくチベットから行きたく
なり、では北京でネパールのヴィザを取っておこう、とネパール大使館へ向かう。
北京11泊目の夜、チベットへの拠点・西寧(シーニン)への翌朝の出発を控え夕食を食べにカフェへ
入ると若い日本人男性2人組が居て、同席する。
1人で入っても、旅行者同志気軽に同席して話せるのが安宿周辺の店の良い所だろう。
ただ、欧米人と日本人とはそれぞれ別に溜まり、交流がほとんどない。この現象は、各地でみら
れる。
世界における日本の位置を象徴しているような現象とも言える。
同席した日本人2人は休学中の大学生だが、それぞれ別で旅行していて北京で会ったらしく、うち1
人が明日、僕と同じ列車で西寧へ向かうらしい。
彼は硬臥(2等寝台)、僕は硬座(2等座席)だが、一緒に出発することになる。
北京を朝出発、西寧には翌日夕方着、所要36時間。
東北部(旧満州)の瀋陽から丹東、北京、と硬座列車を利用してきたので、乗客が食べた落花生の
殻などを座席の下へ放り投げ、列車服務員の女性が大きなほうきで掃きに来たり、という光景にも慣
れてくる。
一晩寝て目覚めると、列車は砂漠を走っていて、赤茶けた大きな岩肌のある風景を通過している。
いよいよ中国の奥地へ近付く実感が湧く。やがて、ネパール、インドへとつながって行く…。
西寧へは夜到着し、北京から一緒に来た学生と『西寧賓館』へ行く。
案内されたドミトリーの3人部屋には、日本人の先客が居る。
休学中の大学生で、横浜から上海への船で中国に入り、西寧まで直行して来て、チベットを目指す
そうだ。
翌日は、街をぶらぶら歩いて過ごす。
西寧はイスラム教徒(中国では「清真」と呼ぶ)の多い街だが、元はチベット文化圏で、郊外には
チベット7大寺院の一つ、タール寺がある。
夕方、客の居ない食堂へ入る。
ビールを注文すると瓶ごと出て来たが、栓抜きがないので言うと、店の奥さんはビール瓶を持ちテ
ーブルの角で見事に栓を抜き、僕に手渡す。
感動した僕は、以後、そうして栓を抜くことにする。
7時頃宿へ帰るが、外はまだ明るい。
北京では暗くなっている時間だが、考えてみると、西寧とは緯度が大きく違う。
この後行ったチベットでは、夜9時過ぎまで明るかった。
広大な面積の国で同じ時計を使っていることによる珍しい現象だ。
同室だった2人のうち、北京から一緒に来た学生はシルクロードへ向かい、上海から直行して来た
学生は、先にチベットへ出発する。
西寧3泊後、バスでタール寺へ向かう。
西寧賓館で知り合った、日本語を話せる香港男性と一緒だ。
彼は香港の日本企業で働き、日本へも旅行し、ユースホステルに泊まるなどしている。
周辺に何もない所に、ぽつんと、その古いお寺はある。壁画が色鮮やかで、美しい。
タール寺近辺に1泊5元、と格安の宿を見付けて泊まる僕と、西寧へ戻る彼は別れる。
朝を迎え、中国式の穴に向かって跨るトイレへ入ると、穴の下に豚が何匹も居て、人糞を食べる光
景を目にする。
朝靄の中、通りへ出て、ゴルムド行きのバスに乗る。
ゴルムドから、チベット自治区の首都・ラサへのバスには外国人料金が設定され、中国人民な
ら125元で行けるが、中国国際旅行社を通し、1,000元近く払わなくてはならない。噂では、500元で
ヤミのチケットが買える。
ゴルムドには、翌日の午前中着く。
インドのサイクルリクシャのような乗り物に乗り、招待所へ行ってもらう。そこへ泊まっていると
、ヤミバスのチケットを売りに来るらしい。
日が暮れた頃、宿の部屋に居るとノックの音がする。
ドアを開けると、いかにもヤミチケット売りといった感じの、背の低いスーツ姿の男2人組がニヤ
リと笑いながら立ち、片方の男が、
「ユー、ゴートゥ、ラサ?」
と、英語で尋ねる。
彼らが売るチケットの料金は、500元。交渉すると300元まで下がる。
話を決め、受け渡しは後で、ということになる。
しばらく経ち、再びノックの音がする。
彼らが来た、と思い、ドアを開けると、別の男が立っている。
先の2人組よりも身なりがみすぼらしく、髪はぼさぼさで口髭を生やし、茶色いくたびれたシャツ
の上に真っ赤な糸のほつれたチョッキを着ている。
目付きだけは爛々と輝き、
「ユー、ゴートゥ、ラサ?」
とやや身体を傾け、さっきの2人組と同じようにニヤリと微笑み、英語で問い掛ける。
300元での先約があるので…と断ろうとすると、男の表情が必死の形相に変わり、中国語でまくし
立てる。
先の2人組との交渉は全て英語だったが、この男性はユー、ゴートゥ、ラサ?と言うのが精一杯ら
しく、後は筆談で交渉を行う。
250元、と彼は紙に大きな字で、やけくそになったように殴り書きする。
それに加え、中国人に見せ掛けるための小道具が必要で、包(パオ)(かばん)が8元で市場に売って
いるから、明日の朝一緒に買いに行こう、と言う。
その必死さを見て、正直そうではあるし、値段も安くなったので、ラサ行きの命運をこの男性に託
すことにした。
翌日、彼の自転車に乗せられ、市場で「包(パオ)」や、中国人に見せ掛けるための人民帽を買う。
前日、漢民族のようにもみあげを剃り、伸ばし放題だった髭を口髭を残してきれいに剃っている。
これで人民帽を被ると、漢民族に見える。
彼は僕を見て、笑顔でうなずく。
道中、決して口をきいてはいけない、と念を押す。
バスは、正午に出発する。
途中、何ヶ所かで食事休憩するが、店に入って注文すると中国人でないことがばれてしまうので、
前もって食糧を買い込むよう男から言われ、漢民族がよく口にするスナック菓子の屑を集めたよう
なジャンクフードをかばんに詰め、食事休憩中も、バスから降りて外の空気を吸い、立ち小便したら
すぐ車内へ戻り、菓子を口にする。
座席は一番前で、隣りには中国人民解放軍の軍服を着た、まだあどけなさの残る青年が座り、後ろ
の方にチベットの僧衣をまとった一団が陣取る。
夜になると、高地を通過しているのか頭が痛くなり、長時間座り続けているためか脚も痛む。
隣席の青年も、頭を抱える。しかし、後方のチベット僧の一団は、標高が高いと気分も高まるのか
、大声で歌い始める。
意味は分からないが、同じ言葉を繰り返して歌う。歌声が、頭に響く。
重低音と高音を繰り返し、気持ち良さそうに歌っている。
道中、5,000メートルの高地を2ヶ所通過する。
ラサへの到着は、出発翌日の夜9時。所要33時間。まだ空は明るい。
バスが『垃薩交通局』と看板の架かった敷地へ入ると、とうとう着いた、と安堵する。
バスを降りて少し歩くと、大きな通りへ出る。
北京と同じように漢字の看板が並び、中華の食堂が並んでいる。
33時間のバス移動中、スナック菓子しか口にできなかったので、まずは食事を摂ることにする。
店内で肉野菜炒めを食べるうち、外が暗くなる。
食事後、通りへ出て、タクシーを捕まえる。
食堂内で書いた「亜旅社」との目的地のメモ書きを、運転手に渡す。
夜10時を過ぎ、「亜旅社」こと『ヤクホテル』に到着する。四人部屋のドミトリー、1泊25元。
5,000メートル級の高地を越えて来たので、少し頭痛があり、脚も痛い。
部屋のベッドに荷物を置いて出ると、広い中庭で、大きなテントの下にテーブルが置かれ、談話
スペースになっている。日本人らしき旅行者が、1人で手紙を書いている。
日本語で声を掛けると、英語で返される。
僕は豪州人だけど上海で生まれた、今、祖国を旅行中だ…と言う。
着いたばかりでへとへとだったが、どこか爽やかな印象を与えるその青年と、旅行の話を1時間ば
かりする。
部屋に帰ると、また東洋人の旅行者が居る。
今度は日本人か、と思うと、韓国人だ。彼とも話をして、就寝は12時過ぎになる。
翌日は快晴だったが、移動の疲れを癒すため、1日休むつもりだった。
朝、部屋から出てテントへ行くと日本人旅行者が大勢座っていて、西寧賓館で同室だった休学中の
高橋君も居る。
彼も僕と同じように、招待所に来るヤミチケット売りから買ってバスに乗ったが、ポリスチェック
に引っ掛かり身分証明書を見せるよう言われ、観念して日本国のパスポートを渡すと、サンキュー、
と返されたと言う。
そして、無事ラサへ到着していた。
『ヤクホテル』で1日休養した次の朝には、頭痛も良くなる。
今日は行動しようと思い、朝、テントの下で日本人達と話していると、前日には見掛けなかった男
性が座っていて、頬が赤く日焼けしているのでこの宿で働くチベット族かと思うが、日本語で話し掛
けてくる。
日本語が上手ですね…と言おうとしたら、日本人だと言う。
「今日はどこへ行くんですか?」
と聞くので、ポタラ宮を見ようと思っていることを伝えると、良ければ一緒に…と言う。
断る理由もないので、その男性と『ヤクホテル』を出る。
ポタラ宮へは、市内バスに乗る。
男性はラサ4回目だそうだ。
街の様子がずいぶん変わった、と言う。
さっき『ヤクホテル』のテントに居た日本人の中に1人、前に会った人が居たけど、どこだった
かな…と考えている。
実は彼は『ヤクホテル』に泊まっていない。
1泊25元の宿代も苦しく、バスターミナル近くの招待所に居る。1泊7元、シャワーなし。
「長いこと風呂に入ってないなあ…」
彼の語り口調は淡々として優しく、時に気弱とも感じられる。
インドで肝炎になり病院通いした時、やっぱり旅行保険には入っとかないとと思った、などと喋る
。
そんな会話を続けるうち、バスの車窓からいきなり、ポタラ宮殿が見える。
本などで写真を見たことはあるが、実物の迫力に驚く。
写真では秘境にそびえている印象があるが、実際は、ラサの街のど真ん中に、ポタラ宮は突然姿を
現す。
宮殿には代々のダライ・ラマ法王が住み続け、チベットの人達にとって信仰の中心となっていた。
中国のチベット侵略により、現在のダライ・ラマ14世は北インドのダラムサラへ亡命し、ラサは急
速に漢民族による開発が進む。
現在ではラサの人口の半数が漢民族であり、中国の一地方都市と化している。
ポタラ宮殿は中国が外貨を獲得するための観光地となり、入場料金は中国人1元に対し、外国人45
元となっている。
僕達はバスを降り、そびえるポタラ宮を下から見上げる。
宮殿前の大通りでは、大規模な道路工事が行われている。
その通りを挟んで向こう側の路地を少し入った所に、小さなお寺がある。
タクラルプクというそのお寺に入ると、僧が1人居て、彼は慣れた感じで合掌し、
「タシデレ」
と挨拶をする。
僧も、合掌して返す。
小さな本堂内に架かる梯子を昇らせてもらうと、ポタラ宮殿の全景が見える。
以来、ラサ滞在中は毎日夕方このタクラルプク寺へ通い、ポタラ宮を観るのが日課となる。
それほど、飽きない眺めだ。
タクラルプク寺から見たポタラ宮殿
ラサ4回目の彼は、他にも隠れたポイントを知っていて、チベット族しか入らないような青空食堂
へ連れて行ってもらい、トゥクパ(チベット風うどん)を食べる。料金は、とても安い。
少し歩いた後、路上に座り込み、彼の今までの旅行の話が始まる。
旅行の話と言うより、半生記に近いかも知れない。
彼は日本を出発して1度も帰っていないが、スタートは約5年前の1990年10月、ベルリンの壁が崩
壊した直後だと言う。
神戸から客船『鑑真号』に乗り上海へ、東南アジアやインドを経て、陸路で欧州を目指す。
デンマークやパリの日本寺で修業していたこともある。
でも協調性がなく、追い出されてしまう、と言う。
今話しているだけでは、協調性があるのかないのか、分からない。
話す途中で唾が飛んで僕の顔に掛かると、ひどく気にして、懸命に謝る。
今は、インドで罹った肝炎を治したいので、とりあえず大きな街へ出たい。
香港へ行って治療し、働いて旅費を作りたい。
日本へ帰るつもりは、全くないらしい。
香港へ行くにも、お金があまりないので、一番安いと思われるルートを取り、ラサからまず八
一(パーイー)へ出て、公共交通機関がほとんどない東チベット地域を主にヒッチハイクで行く、と
言う。
地図で見ると、真横に一直線で香港へ向かうつもりのようだ。
座り込んで話した後も一緒に行動し、色んな店へ出入りするが、本屋で店の人に尋ねる彼の中国語
は流暢だ。
なのに自信なさげに、中国語と広東語の辞書がないか聞いてくれないか、と僕に頼んだりする。
日が暮れるまで一緒に過ごし、バスターミナル近くの招待所に泊まる彼と夜空の下のポタラ宮前で
別れる。
1人で歩き出す時、上空の星々が迫ってくるように近く感じることに気付く。
頭上に降ってくる勢いだ。さすが標高3,400メートル。それに、ラサ到着後やたらと鼻くそがぼろ
ぼろ出るが、太陽に近い土地で空気が乾燥しているせいだろう。
宿へ帰り着くと、明かりのない中庭のテント下で日本人達がろうそくを付けて話をしていて、心配
していた、と言う。
日が暮れて間もないが、時間は10時だ。
ことのいきさつと、一緒に居た男性の話をすると、
「凄い人が居るなあ」
「そんな人ほど、自分のことを言いたがらないね」
など、皆が口々に感想を述べる。
『ヤクホテル』では、日本人旅行者同志のゆるやかな連帯のようなものができている。
このメンバーの中には、その後ネパールやインドで再会した人も多い。
また、チベットを旅行する日本人は旅の経験が豊富な人が多く話が面白いし、深みもある。
中でも、カイラス山を1人でチベット族を装いヒッチハイクした青年は、ケタが違う。
こんな日本人も居るのか、との思いがする。
ラサからネパールへ…多くは、ツアーグループを組みジープやランドクルーザーをチャーターし、
中国国際旅行社(CITS)に頼んで運転手を雇うなどしている。
公共のバスは月2度しか通らず、途中の町々に寄りながらだとツアーに参加するかヒッチするしか
不可能だ。
悩んだ末、ヒッチで行くことにする。
安く行きたいし、その気力もある。
途中のシガツェ、ギャンツェ、サキャへはバスがあるが後はヒッチとなる。
ラサを出発したのが5月30日の朝で、チベット(中国)とネパールとの国境の町・ジャンムーに着
いたのが6月11日の夕方。途中、シガツェ、ギャンツェ、サキャ、ニューテングリ、といった小さ
な町々に宿泊し、現地の寺を訪れ、宿で旅行者と話す。
サキャからニューテングリへの移動は、チベット族20人ほどと一緒に、トラックの荷台に乗って悪
路を行き、途中、6月なのに雹が凄い勢いで降り、身体を直撃する。荷台に積まれた土嚢にしがみ
つく。
ニューテングリの宿を早朝出て、昼過ぎまで道路沿いに立ち車が通るのを待つが1台も来ず、やっ
と来たのが月2日しか出ない(2日、22日)はずのラサ—ジャンムー間を走るバスで、なぜかこの
日(11日)走っていて、助かる。
ジャンムーへのバスからの風景
ジャンムーに着いた夕方頃から雨が降り出し、翌日もその次の日も降り、出発を見送る。
ラサでは1日も雨に降られなかったが、この頃から雨季に入るネパール、インドに近付いたのを感
じる。
空気もじめじめしている。
山沿いの道路に家や商店が少し並ぶだけの町だが、中国、ネパール、インドの製品が一緒に並び、
各商店で人民元とネパール・ルピーの両替もでき、店ごとのレートを比べたりして、楽しんで過ごす
。
3泊し、中国のヴィザが切れる当日となる6月14日、ようやくネパールへ出発する。
5.再訪
1995年6月—7月 ネパール
ジャンムーで中国出国手続きを終え、曲がりくねった山道を歩き、ネパール側の町・コダリへ入る
。
バラビシという町までバスで行き、首都カトマンドゥ行きバスに乗り換える。
バスが着いたターミナルは、カトマンドゥ中心部のラトナ・パークだ。
夕方、下車するなりオートリクシャが声を掛けてくる。安宿街・タメルへ行ってもらう。
日が暮れた頃、タメルへ着く。
約1年振り。
前年は日本からの飛行機でインドに着いてネパールへ入ったが、今年は船と陸路で徐々に近付いて
来た。
少々、感慨が湧く。帰って来たような感覚もある。
前回泊まった『ホテルアイスランド』へ行ってみるが、80ルピーのシングルが空いておらず、近く
の『ホワイトロータスゲストハウス』に、シングル100ルピーで泊まる。
バックパッカーの間では、安い宿に泊まるのが良い、みたいな所があり、僕もその頃は、それに捉
われていた。
安ければ安いほど良い感じだ。
『ピースゲストハウス』という、60年代のヒッピー全盛期からある宿は1泊30ルピー、との話を聞
いていたが辺鄙な場所にあり、見付からない。
今回はインドへのヴィザを取得し、情報集めをこの街でじっくり行うつもりで、雨季ということも
あり、ポカラなどへ行く気はない。
毎日、ダルバール広場近辺をうろつき、ジョッチェン(フリーク・ストリート=昔は現在のタメル
のように安宿が集まっていた)の古びた日本食レストラン『マギー』へ行き数年前の日本の雑誌や
新聞、情報ノートを読んだりして時間を過ごす。
ダルバール広場
『ピースゲストハウス』を見付け、1泊30ルピーで泊まるが、決して快適とは言えず、街の中心部
へ出るのにオートリクシャを使って50ルピーほど払うと、何のことはない。部屋は蚊も多く、蚊取り
線香がすぐなくなる。
ラサの『ヤクホテル』で一緒だった仲間と再会し、食事したりもするが、2度目のカトマンドゥは
、前年と違って地元の人々との交流も少なく、雨が多い気候がうっとうしく、どこか楽しくない。
7月7日、インドへ向けて出発する。
1995年7月 インド東北部、ブータン、バングラデシュ
カトマンドゥから、東のカカルビッタ、そしてインド側ビールガンジへ抜け、スィリグリーへ。
1年前にインドからネパールへ入国したのと反対のルートを取る。
乗り合いジープでダージリンへ向かう。
雨のスィリグリーから山道を登るが、真っ白な霧が立ち込め前が見えない。
ダージリンへ辿り着き、1泊55ルピーのシングルへ落ち着くと、ぐったりし、眠る。
1年前の4月、ここダージリンで一週間以上を寝込んで過ごしたが、今回も道中の気候の激変で体調
を崩してしまう。身体がだるいのと連日の雨と霧で、歩いても前がよく見えず、観光はあきらめ、シ
ッキム州ガントクへ。
シッキムは1974年まで王国として独立していて、独自の文化を持つ。
州都ガントクも山沿いに街が張り付くようにして出来ているが、ダージリンよりも賑やかで歩きや
すい。
宿のレストランでは、インド国内では大っぴらに飲めないビールを堂々と出していて、夕方チェ
ック・イン直後、早速注文する。
店内にはドイツ人男性と僕の2人が居る。
彼はバングラデシュからインドへ抜けて来たとのことで、僕もそちらへ向かうつもりなので、国境
の越え方など、詳しく聞く。
カリンポンのお寺にて
ガントクからカリンポンへ下り、スィリグリーへ降りる間、会う旅行者や宿のオーナーにブータン
への入国方法を尋ねるが、なかなか分からない。
最近まで鎖国していた神秘に満ちた国ブータンへは、ツアーガイド付きでないと入国できないとさ
れるが、行ける、との噂もある。
スィリグリーのツーリスト・インフォメーションで聞いてみると、ジャイガオンへのバスに乗れば
国境までは行ける。
その先は、ツアーを組まないと難しい、との回答だった。
スィリグリーのツーリスト・バンガローへ一泊し、翌日昼、ジャイガオン行きバスに乗る。
約6時間で到着。
バス発着場からすぐの所に真っ赤な『ブータンゲート』があり、くぐるとブータン王国の街・フ
ンチュリンで、両方の街は行き来自由となっている。
2つの国、2つの街と言うより、1つの街の中に2つの区域がある感じで、両方に、ルンギー姿のイン
ド人も独特の民族衣装を着たブータン人も、入り混じる。
ゲートを境に、時差も30分ある。
インドで大っぴらに飲めない酒は、ブータンでは日本のように普通に飲むことができ、『BAR』
の看板が架かった店も多く見掛ける。
入ってみると普通の食堂と同じで、木製のテーブルと椅子が並んでいるだけだが、ビールやジンな
ど酒類を置いてある。
食堂はあちこちにあり、麺類やチベット風のモモ(餃子)がおいしい。
街中にゴンパ(チベット寺院)もある。
ブータンはチベット仏教の一派を国教とし、国語であるゾンカ語は、チベット語と深い関連がある
。
かと思うと、ブータン側の映画館でインド映画を上映していて、インドの人もブータンの人も映画
を観ながら一緒に歓声を上げる。
フンチュリンの街
僕は、インド側ジャイガオンに泊まったり、ブータン側フンチュリンに泊まったりする。
首都ティンプーや、中心部の街パロへは、行けるのだろうか。
バスターミナルでティンプー行きのチケットを試しに買ってみると、簡単に買えた。
翌朝、バスに乗り込む。
発車から5キロ進んだ所にチェックポストがあり、外国人だととっくにばれていた僕は係官に身分
証の提示を求められる。パスポートを渡すと、ヴィザがないことが分かり、あえなくバスを降ろさ
れる。
係官の態度は紳士的で、
「ベリー、ソウリー」
と謝りながら、ツアーを組んでヴィザを取得するようすすめ、若い係官が自分はヴィザオフィサー
の知り合いが居る、今から一緒に行って直接話そう、と言ってくれ、タクシーに同乗しフンチュリン
へ戻る。
オフィサー宅を訪ねると、奥さんが現れ、ゴルフへ出掛け不在、とのことだ。
僕は青年に礼を言い、ティンプー行きは諦めることにする。
数日前もフンチュリンのツーリスト・インフォメーションで問い合わせると、所長を名乗る民族衣
装を着た大柄な男性が、ブータン国内でガイドなしの旅行は許されない、私の仲介なら1日200ドル
の所、特別に150ドルにできる…と言われたが、貧乏旅行者にとっては破格だ。
僕は次の目的地バングラデシュへ向けジャイガオンを出発、夜、ジャルパイグリーという町に着い
て1泊、翌早朝、国境へ向かう。
サイクルリクシャの運転手に、バングラデシュ…と告げると、すぐ自転車を飛ばしてくれ、野原の
真ん中で降ろされる。この畦道を真っ直ぐ歩くとバングラデシュへ行ける、と言う。
ガントクで会ったドイツ人旅行者から聞いていた通りだ。
歩いて行くと川にぶち当たり、渡らなくてはならない。
川の手前にルンギー姿の男が一人立ち、ズボンを膝までまくって川に入れ、と指示する。
言われた通りにして、渡る。
さらに延々30分ほど歩くと、掘っ立て小屋に着く。
立て看板に『IMMIGRATION』(出国審査)とある。中を覗くとポリスが2人、机の上で
横になり寝ている。僕は中に入って歩み寄り、起こす。
出国手続きをした小屋
大柄な2人は眠そうに伸びをし、頭を掻く。
そして、出国手続き。
ポリスは、とてもゆっくりと書類を書く。
なぜか、荷物を全部見せてくれ、と言う。
特にやましい物は持っていないので、従う。
カメラを見付けると、くれないか、と言う。
インドでは何でも言ったもの勝ちだが、こういう職業の人までそうだ。断ると、笑う。
長い出国手続きが終わると、握手で見送ってくれる。
出国記録表に記入する時、用紙を見ると、この国境を通過する旅行者は2、3日に1人居るか居ない
かで、それなのに警官がなぜ2人も居るのかと思う。
後から知ったが、この辺りは強盗が多く、命を落とした旅行者も居るそうだ。
しかし、そんなことを感じさせないのどかな場所だ。
再び歩き出すと、どこからともなく中年の小柄な男性が現れ、荷物を持たせてくれ、と言う。
バングラデシュのイミグレーションまで、20ルピーで持ってもらう。
途中、田んぼ沿いの家々から子供達が現れ、ハロー、ハロー、と口々に言い、手を振る。
バングラデシュ側チラハティに着き、入国手続きを行う。
ダッカ行きバスがすぐそこから出ている、と言うので行くと、車内は人でごった返している。
何とか座席を一つ譲ってもらえる。
突然東洋人が登場したことに、人々は驚き、車内でやたらと話し掛けてくる。
道中、なぜか窓の外からニワトリが足元へ飛び込み、バタバタと暴れた挙句、脱糞する。
驚いて車掌に訴えると、すかさず砂を持って来て、ウンコの上に、ばっ、と振り掛け、一件落着、
という表情をする。
バスの屋根の積み荷に家畜を乗せていて、中の1羽が乱入したようだ。
ダッカには何時頃着くのか、と回りの人達に聞くと、夕方には着く、と言う。
しかし、夜になっても着かない。
国境で両替をする場所がなかったのでインド・ルピーしか持っていない。
休憩中、入った食堂でインド・ルピーを出し、使えるか、と聞くと、
「インディアン・タカ、ノー!」
と、数人の男達が合唱するように言い(バングラデシュの通貨は「タカ」)何も食べられない。
暗い車内で空腹もピークとなり、隣りの席の男性に両替したら返すから少しお金を貸してくれない
かと頼むと、次の休憩で食事をおごってくれる。
バングラデシュはGNP世界最貧国だが、この時ばかりでなく、チャイをおごってくれた人も居る
。
結局、バスは夜通し走り、ダッカへ到着したのは翌朝だった。
ホテルへ落ち着き、シャワーを浴びて、少し眠り、昼頃から表へ出る。
バングラデシュやインド東部では雨季になると、スコール状の激しい雨が降る。
少しの時間降ると、道路はたちまち水に浸かる。
信号機のない交差点内に立ち、交通誘導をしていた巡査も、道端に椅子と簡単な屋根があるだけ
のチャイ屋へ逃げ込み、僕も逃げ、近辺の通行人が大集合する。
ちょび髭を生やし、人の良さそうな感じの巡査が、たまらんのう、と言った表情をする。
彼が交通誘導用に持っていた棒は、木の枝だった。
ダッカで泊まった宿は、シングル130タカ(100インド・ルピー相当=300円位)とインドより割高
だが、食事は安く、サブジ(野菜カレー)と豆スープ、ナン合わせて10タカから15タカ程度で、腹
一杯になる。
ダッカの宿近くの商店で
しかし、他の旅行者に会わず、英語も少ししか通じず、外国人旅行者が珍しいらしく、宿や街中で
じろじろ見られ、同じことを話し掛けられ、が続くと、疲れてくる。
そんな中、国立博物館へ行くと、バングラデシュ独立時の様子や、イギリス植民地時代の牢獄など
の展示物が充実し、見応えがあった。
ダッカ4泊後、カルカッタに近いベナポル・ボーダーからインドへ抜けるべく、夜行バスに乗る。
国産にこだわるインドと違い、バングラデシュでは日本車のバスが導入されており、日野自動車製
の豪華なバスが走る。
ノーマルかデラックスを選べるので、節約していた僕だが、この時ばかりは、冷房付き、車内にシ
ャンデリア付き、というデラックスバスを選ぶ。
じめじめとした気候に疲れていたし、人々の視線がたまらなかった。
早くインドへ行き、多くの旅行者達と会いたいし、カルカッタならツーリスト・レストランや映画
館もあり、日本語の本も読める。
このバスに乗り、一晩眠って、朝起きたら国境、それを越えればインドで、すぐカルカッタだ…。
そんな気持ちで、翌朝まだ薄暗い5時半頃べナポルに着き、イミグレーションが開くのを待つ。
イミグレーションが開き、パスポート・チェックがあり、カトマンドゥでバングラデシュのヴィザ
を取った時に出入国ポイントが記載されていて、「北のチラハティ・ボーダーから入って同じチラ
ハティへ戻る」と書かれており、この国境からは出られない、と言われた時の落胆は、相当なものだ
った。
ヴィザを取る時は、どこから入る?としか聞かれなかった筈だが…。
そう説明し、係官に出国させてくれるよう頼み込むが、だめだった。
ダッカへ戻るバスはノーマル・バスで、発車は昼過ぎだった。
夜になって到着し、疲れ果てて、泊まっていた宿へ戻ると、ノックの音がする。
開けると、目をぎらぎらさせた青年2人組が好奇心一杯の顔で、
「ユア、カントリー?」
と聞く。
泊まっている部屋に入って来ていきなりこんなことを聞かれるのがこの国では珍しくなく、動物園
の檻の中に居るような感じで、この時ばかりは何も答えず、ドアを閉める。
早く、この国を出たい。
翌日、出国地点を変更し、その足で夜行バスに乗るべく、宿をチェック・アウトしてからパスポ
ート・オフィスへ向かう。
しかし、散々待たされた挙句、あっちの係へこっちの係へ、とたらい回しにされ、暑さと人ごみの
中長時間を費やした結果、「書類は預かった、明日また来るように」と言われ、これ以上ダッカに居
るのはうんざりなのと、すぐ出国しようと気がはやっていたため頭に血が昇り、何でこんなことに明
日まで掛かるのか、と係官の机を叩いてしまう。
係官は大いに気分を損ね、書類を突き返し、元の道を戻れ、と告げる。
結局、そのままベビータクシー(オートリクシャ)を捕まえ、バスターミナルへ行こうと思ったが
、ダッカへ来る時のバスでの苦しみを思い出していやになり、飛行機でカルカッタへ飛んでしまおう
と思い立ち、走り出したベビータクシーの運転手に、
「エアポート!」
と、告げる。
ダッカ空港前には、おびただしい数のホームレスや、ストリート・チルドレンが群がる。
ベビータクシーから降りると、彼らは僕に押し寄せてくる。
それを振り切って空港の建物に入り、カルカッタ行きの便を探す。
もうすぐ出発する便があると知らされ、その場で航空券を発券してもらう。
乗り場を空港内に居る男性に聞くと教えてくれるが、直後に、金をくれ!と、まとわり付かれる。
走って逃げてかわし、パスポート・チェックに入るが、やはり陸路で出入国と書いてある、と言わ
れる。
ここまで来て、どうしろと言うのか。
必死に頼み込むと、スタンプを押してくれる。
ビーマン・バングラデシュの小型航空機内に乗客は4、5人。
わずか30分で、陸路だと果てしなく長く感じたカルカッタの空港に着く。
1995年8月—12月 インド
8月1日、カルカッタ到着。
日本を出て、海路と陸路のみで来ていたが、バングラデシュのベナポルからインドのカルカッタの
わずかな距離だが、途切れる。
前回来た時呆気に取られた空港前のタクシーとのやりとりも、今回は、サダル・ストリートまで80
ルピー、ときっちり取り決めする。
サダル・ストリートへ着く。
前年4月以来だが、前回は満床だった『サルベーション・アーミー』のドミトリーが空いている。
雨季のせいか。
宿に荷物を置き、道端のチャイ屋で1杯2ルピーのチャイを灼熱の空の下、飲む。
「帰って来た」感は、ネパールに続き、ここカルカッタでも感じる。
連日、映画館に入る。
20年位旅をしていると言う40歳の韓国人旅行者と行動をともにし、ベテラン旅行者ならではの面白
い話を聴ける。 彼は、リシケシュで長くヨガと瞑想をしている。
雨で冠水したサダル・ストリート(カルカッタ)
1週間カルカッタで過ごし、次の目的地は、やはり2度目の、バラナシ。
カルカッタもそうだが、前年訪れた暑季と今年の雨季では、街の様子が全く違う。
バラナシのガートの変貌は凄まじく、暑季には川伝いで歩いて行けたのが、雨季は水に呑み込まれ
、歩く所がなくなり、ガート沿いのチャイ屋もなくなっている。
バラナシからの夜行列車で、朝、ニューデリー駅に着き、メイン・バザール(パハールガンジ)を
歩き、日本人が集まることで有名な『ホテルパヤル』の2階ドミトリーへ。
案内され、こんにちは…、とインドを旅する初対面の日本人達に向けての挨拶をしながら室内へ入
ると、「あっ」との声。
西寧からラサ、それにカトマンドゥでも会っていた高橋君だ。
さらに、チベットのカイラス山を1人でヒッチハイクした大山君も居て、荷物を降ろすなり、チベ
ットからインドまでのそれぞれの道のりを、言い合う。
もう1軒の日本人溜まり場宿『ウプハール・ゲストハウス』にもラサで会った日本人が居て、その
夜は皆で再会を祝い、食事をともにする。
食事の後、皆でドミトリーへ戻ると、身体がだるい。
熱を測ると、38度以上ある。
大山君も、ここ数日しんどい、と言う。
2人とも、細菌性の下痢を患ったようだ。
その後、パヤルのドミトリーでは、ずっと寝込む。
とは言え、ドミトリーなので、入れ替わり立ち替わり日本人旅行者が来ては、去って行く。
ベッドに横になりながらも、色々な話をする。
腹が減ると、近くのツーリスト・レストランへ食べに行く。
日本大使館付属のジャパン・インフォメーションセンターへ行くと、最新の新聞や雑誌が読める。
デリーに1ヶ月居た、と言う高橋君に、どこを観光したか尋ねると、ジャパン・インフォメーショ
ンセンター…、と言う。
彼は陸路で欧州へ行くつもりだったが、インドで気力がなくなり、メイン・バザールで欧州各地へ
の航空券が300ドル程度で売られているので、一気にパリへ飛ぶ、と言う。
僕もその頃、インド2度目で今ひとつ刺激に乏しく、少し心が動く。
デリーから一気に欧州へ…、行こうと思えば、行ける。
しかし、それをやってしまうと、距離を身体で感じながらの旅ではなくなる。
やはりインドに留まり、さしあたってはインドのチベット世界・ラダックを目指し、ダライ・ラマ
法王の亡命するダラムサラへの夜行バスに、まだ身体はだるいが、乗り込む。
雨季のデリーはじめじめと暑いが、夜行バスで早朝ダラムサラのマクロード・ガンジへ着いた時は
、高地特有の濃い霧が掛かり、肌寒さを覚える。
街の中心部から、さらなる山へと登る手前にある食堂の2階に、1泊50ルピーで部屋を取ることが
できる。
チベット亡命政府の首都・ダラムサラだが、インドの地方都市でもあり、狭いメイン通りには、イ
ンド人とチベット族とが混然としている。
チャイ屋でチャイを飲んでいると、チベット女性から中国語で話し掛けられ、日本人だと言うと、
中国人かと思い懐かしくて声を掛けた、数年前亡命して来た、と言う。
全てのチベット族が中国や漢民族、中国語を憎んでいるわけでもないらしい。
ダライ・ラマ14世がダラムサラの邸宅に8月末、帰り、恒例の旅行者達との握手会が行われる、
とあって、申し込み、その日を待ちながら、モモやトゥクパを食べて過ごす。
デリーの『ホテルパヤル』のドミトリーで一緒に寝込んだ大山君とも再会する。
バザールの道端で会った僕に、大山君はインド・チベット風に両手を合わせて挨拶をする。
お互いデリーで体調を崩したが、今はばっちりで、これから5ヶ月間ダラムサラに滞在し、チベッ
ト語を学ぶそうだ。
ダライ・ラマ法王との握手会には、外国人旅行者が1,000人以上参加した。
この狭い街にそれだけの旅行者が集まるとは、驚きだ。
僕も旅行者の列に加わり、ダライ・ラマ法王と握手をする。大きく柔らかな手だった。
翌朝、ダラムサラをツーリスト・バスで出発、夕方、マナリに到着する。
マナリもチベット文化圏だ。
バスターミナルから道路を渡った所にある安宿街のホテルに落ち着くが、裏手の坂を昇って行くと
温泉街バシストがある。
到着翌日、インドで初めて温泉に浸かる。
インドの人達にとって、温泉は沐浴場であり、身を浄め穢れを取り除く所であり、祈りの場でも
ある。
全裸での入浴は認められず、皆、ルンギーなどの腰巻きをして入る。僕も、パンツを履いたまま入
浴する。
ラダックのレー行きのバスが、マナリから出ている。
9月中旬から翌5月頃までマナリからレーへ行く道は、雪や氷で閉ざされる。
だから、9月初めには出発するつもりだった。
ダラムサラからマナリへ一緒に来た日本人男性・吉村さんと9月3日朝、バスに乗る。
昼頃、マナリから80キロ先のコクサールで食事の後、出発しようとすると、道路が土砂崩れで進め
ないとのことで、後方も同じように道が崩れ、戻ることもできなくなる。
乗客全員が、小さな食堂1軒があるだけの集落に取り残される。
車内で眠るか食堂内で眠るしかないが、毛布も足りず、仕方なく濡れた毛布を借り、吉村さんと2人
、掛け合う。
車内に外国人旅行者は、他にドイツ人男性が1人。彼は寝袋を持っている。
濡れた毛布を掛けても寒くて眠れず、日本人同志、しりとりをして過ごす。
それが、3日3晩続く。
ラジオの情報では、50年振りの大規模な土砂崩れが起こったとのことだ。
車内で泣き出す人も居る。
ドイツ人男性も、涙を浮かべる。
夜、電気もなく、ろうそくの明かりだけの食堂で炎を見つめる間、深刻な情報がどんどん入ってく
るが、風邪を引いたのか頭がぼーっとして、さほど切迫感は覚えない。
9月3日、4日、5日と、その食堂から動けず、輸送も途絶えているので食糧も底を付きそう、との
ことだ。
9月6日朝、27歳の誕生日でもあるが、ついに人々が動き出す。
80キロ離れたマナリへ、山の中の道なき道を歩いて戻る、と言う。
人々は、一目散に歩き出す。
3日3晩、濡れた毛布にくるまり、すっかり風邪を引いてしまった僕と吉村さんは、たちまち取り残
される。
ただでさえ方角も分からずどう進めば良いのか分からない上、道を見失い、急斜面をよじ登ろうと
して崩れ落ちたりするうち、吉村さんともはぐれてしまう。
僕はなすすべもなく、地べたに座り込む。
このまま夜になり山中に取り残されたら、寒さと飢えで死んでしまうのか…。
絶望と恐怖に襲われた僕は、回りを取り囲む山々を見渡す。
山。空。雲。
それらが、迫っている、と言うか、それらと自分との境界線がぼやけ、呑み込まれるような感覚
になっている。
山に、空に、雲に圧倒されながら、その鮮やかな色や形に目を見張る。
今は、まだ、生きている。
自分を囲んでいる山も空も木も土も生きていて、自分も生きている。
「死」を少しだけ意識すると、急にそんなことを感じ、身体の奥底、心の奥底から、今まで感じ
なかった力が湧いてくる。
山が、空が、木々が、美しく、神々しく見える。
次に、自分の手の平を見て、今生きていることを確かめる。
何としても生きよう、と強い気持ちが湧き、立ち上がり、歩き出す。
しばらく歩くと、はぐれていた吉村さんの姿が見える。
吉村さんは、チベット族のトレッキング・ガイドと交渉している。
マナリまで1人100ルピーで山道をガイドしてくれる、と言う。
どうやら、命は助かったようだ。
感謝の気持ちを感じながら歩くと、道中の景色の全てが、美しく見える。 その夜は、マナリから9キロ地点の、ガイドの友人宅だと言う小さな小屋で眠らせてもらい、翌朝
から4時間歩き続け、マナリへ戻ることができる。
僕は元気だったが、吉村さんは宿へ着くなり体調を崩してしまう。
彼の回復を待ち、4、5日滞在した後、バスでデリーへ一緒に下る。
マナリからレーへの道は、例年より早くあの土砂崩れの日から通行不可能になったことは、言うま
でもない。
マナリの街から、上空をヘリコプターが飛ぶ光景が、よく見られた。
僕達よりもっと上の地点で閉ざされた人々が、大勢居たようだ。
デリーで再び『ホテルパヤル』へ戻ると、同じ目に遭った日本人旅行者が居て、3日3晩歩き続けて
マナリへ戻った、とのことだ。
僕はデリーで吉村さんや他の多くの日本人達と別れ、一気に南下する。
南インド・バンガロールへ。
ニューデリーから、列車で2泊3日の道程だ。
9月20日夕方、バンガロールへ到着する。
今までに回ってきたインドの街と違い、高層ビルが立ち並ぶ。
駅からオートリクシャに乗るが、エンジン音が静かで、驚く。
ホテルをあちこち回ってもらうが、宿代が1泊500ルピーとか1,000ルピーとか、呆気に取られる額
の所ばかりで、考えた末、駅へ戻ってもらう。
3等列車に乗り、マイソールへ移動する。 木製の硬い椅子に、北インドの人よりも色の黒い男性やチベット僧と並んで座る。
チベット族の亡命地の1つとしても、知られる。
到着は夜遅く、駅前からオートリクシャで適当な宿へ行ってもらう。
薄暗いホテルだが、50ルピーでシングルに泊まることができる。
毎日、ぶらぶら歩いて過ごす。
北インドと全く違う気候、人々、食べ物がある。
食堂へ行くと、大きなバナナの葉の上にご飯とおかずとチャパティを盛った定食が出て来て、食べ
ていると、どんどん継ぎ足しに来る。
もういい、と言うまで、食べ放題。
これで、値段は8ルピー。
チャイも甘く、北インドではあまり飲む機会のないコーヒーも、道端で安く飲める。
アイスクリームの屋台も多く、ストロベリーやマンゴーなど色んな種類があり、安くて旨い。
マハラジャ宮殿で、ダシェーラーという祭りが10月の初めにあり、終わるまで滞在する。
10月3日にマイソールを出発後は、ペースが速くなる。
南インドの街々を、西から東へ、1、2泊ずつのペースで回る。
西側には自然の豊かなケララ州があり、海沿いに下って行き、インド最南端のカンニャクマリまで
降り、東岸を上がって行く。
ラーメシュワラムやマドゥライなど、古くて大きなヒンドゥ寺院のある街を回る。
10月20日過ぎにインド東南の大都市・マドラスに入り、列車に乗ってオリッサ州へ北上する。
プリーの日本人溜まり場宿『サンタナロッジ』へ着く。
「沈没宿」として有名で、居心地が良く、何ヶ月も居着いてしまう旅行者が後を絶たない。
従業員は日本語がぺらぺらで、日本語の本も揃い、大勢の日本人達と話すことができ、宿も海に近
く夕陽や朝陽が綺麗だ。
確かに、時間を忘れそうだ。
しかし、僕は3泊後、出発する。
南インドもプリーも、自然が豊かでのんびりしていて長逗留する人が多いが、その時の僕にとっ
ては、落ち着く所だが、2、3日も居ると充分、と思えた。
同じく圧倒的な自然があり、しかし海や南国とは対極の山間部であるチベットやインドのヒマラヤ
地方に長く居た後なので、どこか身体が馴染まなかったのかも知れない。
夜行列車に乗り、11月2日朝、再びごちゃごちゃした大都市・カルカッタへ到着、『サルベーシ
ョン・アーミー』のドミトリーへ。
3度目のカルカッタだが、暑季、雨季、今回は乾季と異なる季節に訪れると、それぞれ全く雰囲気
が違う。
普段は、欧米人に比べ日本人旅行者の比率が少ない(サダル・ストリートの他の安宿—パラゴン、
マリアよりは)と言われる『サルベーション・アーミー』だが、今回は、日本人が多い。
宿泊客の中にフリーライターの女性が居て、なぜ長い旅行をしているのかと質問されたり、東京の
アパートを又貸ししている木本と大学時代ボクシング部で同期だったと言う男性に会ったり、北京の
僑園飯店で同室だった日本人男性と再会したりする。
その人達を含めた日本人達と一緒に、マザー・テレサの家で短期間のボランティアをすることに
なる。
行った施設は、数あるマザー・テレサの施設の中でも比較的重度の人達が集まる。
日本でなら全員車椅子だろうが、その施設内では、這って歩くなどして生活している。
その人達を、ドラム缶で作った風呂に入れたり、食事を配ったり、衣類の洗濯を手洗いでしたり、
が仕事だが、行きたい日だけ行くので、休み休み、合計7日間位通う。
この時期はボランティアの数が多い、とのことで、仕事量は大したことはない。
雨季などは人手不足で、大変らしい。
カルカッタからバラナシへ。
前年5月から6月に掛け改装工事中の所を特別に泊めてもらった『オームハウスロッジ』へ、行って
みる。
宿は木目も真新しい落ち着いた空間となっていて、2階の4人部屋のドミトリーに泊まるが、日本人
旅行者3人が居て、話ができた。
他にも、ドミトリーやシングル・ルームがあり、旅行者で賑わう。
バラナシ4泊後、列車でヒマラヤの麓・ハリドワールへ、さらにリシケシュへ、バスで行く。
これまで、インドで「修行」めいたことはしていない。
前年、プーナのアシュラムを少し覗いただけだ。
他に思い付く場所と言うと、リシケシュだった。
特に、自分を変えたい、と思っていたわけではないが、ただ旅行しているだけではもったいないと
感じていたのと、インドの神秘的な部分に触れてみたい気持ちがあった。
初め、8月にカルカッタで会った韓国人旅行者がいつも滞在すると言う『シヴァナンダ・アシュ
ラム』へ行き、宿泊できるか聞いてみるが、予約はしているのかと問われる。
『シヴァナンダ』への宿泊をあきらめ、歩くと、『ヨガニケタン・アシュラム』の看板が見える。
アシュラムはメイン通り沿いから、石段を登り切った高台にある。
受付へ入ると、クルタ、パジャマ姿の、今まで多く会ってきた世俗的なインド人とは異なった雰囲
気を持つ男性が応対し、3度の食事と個室、ヨガ、瞑想の授業込みで1泊100ルピー、と説明する。
最低15日間滞在しなくてはならない、との決まりがある。
個室へ案内される。インドの街の喧騒から一転、アシュラムの敷地内は静寂が支配している。
バラナシからハリドワールへの列車でも、休憩中、駅のホームに降りてタバコを買っていたら、何
の前触れもなく列車が動き出し、慌てて飛び乗り、向こう脛が血まみれになる、など、インドの旅は
エキサイティングな出来事が多いが、初めて静かな心持ちになれそうだ。
夕方4時、居室に居ると鐘の音が聴こえてくる。
チャイの時間らしい。
その日は日曜日で、ヨガの授業は休み、翌日から始まるが、食事とチャイはもらえる。
受付で登録した時に渡されたアルミ製のコップを手に厨房へ行くと、滞在者が思い思いに地べたへ
座り、飲んでいる。
日本人の姿も見える。
ここでも、やはり日本人は多いらしい。
長髪を束ね、髭を生やした長期滞在風の日本人に、こんにちは…、と声を掛けると、あれ、どこか
で会いましたね…、と言われる。
長く旅行していると、以前全く違う場所で会った人と、思いがけずまた会うことが度々ある。
その男性とは約半年前、北京の僑園飯店で会っていた。
その時の印象は、強い白酒(パイジュー)を飲んでいたこともあり、酒好きで中国語が堪能で中国に
骨を埋めそうな日本人だ、と思っていた。33歳と言う年齢は覚えていた。
僑園飯店に何ヶ月も滞在していたその人と、何とリシケシュで会うとは。
北京で会った時から痩せていたが、さらに頬がこけている。
「痩せましたね」
と言うと、
「今日で断食25日目で…」
と、さらりと言う。
朝の瞑想とハタヨガの授業がそれぞれ1時間の後、朝食、その後は自由時間で、夕方のチャイの後
、再び1時間ずつハタヨガ、瞑想の順で授業があり、終了後夕食、という日課で、基本的に自由参加
だが、皆欠かさず熱心に出て来ている。
断食中の富岡さんは授業には参加せず、自分の部屋で瞑想しているらしい。
元々身体が固く、ここでハタヨガを始めたからと言って柔らかくなるわけではないが、それでも、
自分なりに身体が少しずつ曲がるようになってくる。
自由時間はどこへ行っても何をしても良いので、初めの5日間はチャイ屋へ行き、アシュラム内は
禁煙なので、ビリー(インド風葉巻)を吸っていた。
12月1日から、人生初めての禁煙に挑戦することにする。
カルカッタで会い、リシケシュのアシュラムでも一緒になった30代の日本人男性から禁煙の体験談
を聞き、一念発起する。
ヨガと呼吸は密接な関係にあり、鼻から息を吸ったり吐いたりしながら、身体をコントロールする
。
タバコを吸うことは、ヨガの呼吸には明らかに良くないし、禁煙の体験談も聞いたことだし、絶好
の機会に思え、実行する。
アシュラム内の図書館には、瞑想関係の本から精神世界の本、普通の本まで、日本語の本がたくさ
ん置かれ、毎日、部屋からテラスへ椅子を出し、本を読む。
富岡さんは、断食を40日間続けた。
もっと続けようと思えばできるが、食べ始めて元の食事に戻すことに時間が掛かるので、イエス・
キリストが続けたのと同じ40日で止めることにしたらしい。
予定では、リシケシュからデリーへ下り、パキスタンとイランのヴィザを取得、インドの6ヶ月ヴ
ィザが切れる1月初めに陸路でパキスタンへ入国、イラン、トルコ…と西へ進むつもりだった。
しかし、季節的に寒いのと、東南アジアへまだ行っていないのと、富岡さんから、タイ南部に瞑想
できる場所がある、との情報を聞き、デリーから再びカルカッタへ戻り、バンコクへ飛ぶことにする
。
季節もちょうど良く、カルカッタのマザー・テレサの家でクリスマス・ミサが見られるおまけも
付く。
こうして、旅行中の「予定」は、大幅に変わることがある。
リシケシュの『ヨガニケタン』には、25日間滞在した。
身体は少しだけ柔らかくなり、瞑想にも集中できるようになってきた。
瞑想をしていて、幽体離脱のような現象を体験する人も居るらしいが、僕にはそんな劇的な変化は
起こらなかった。
リシケシュからハリドワールへ下り、さらにバスでデリーへ。
『ウプハール・ゲストハウス』のドミトリーに泊まり、ジャパン・インフォメーションセンターで
日本からの手紙を受け取る。
列車で2泊3日の行程でカルカッタへ。
12月23日の夜遅く、ハウラー駅へ到着、タクシーでサダル・ストリートへ。
カルカッタでクリスマスを過ごそうとする旅行者は予想を遥かに超えて多いようで、『サルベーシ
ョン・アーミー』は満床、宿泊を断られる。
『ホテルパラゴン』へ行くと、前月カルカッタを訪れた時一緒にボランティアをした、木本と大学
同期の中川さん、ダラムサラとプリーで会った20代の男性、南インドで会った20代男性がドミトリー
に居て再会を喜ぶが、満床とのことで、一緒に泊まることはできない。
隣接する『ホテルマリア』へ行くと、屋上になら無制限に泊まれるらしい。
と言っても、屋上の地べたにそのまま寝るだけで、寝具もない。
しかし、やむを得ない。
屋上へ昇ると、寒空の下、旅行者で一杯だった。
受付で1枚だけ毛布を貸してくれたので、横になり、毛布と、ダラムサラで買ったセーターや、リ
シケシュで買ったショールなど、身に付けられる物を全て身に付け、眠る。
明け方、寒さで目が覚める。
マザー・ハウスにて、クリスマス・ミサを前にしたボランティアによる演劇
マザー・テレサは当時元気で、クリスマス・ミサに参加した旅行者1人1人と握手をしてくれる。
握手は、力強かった。
ミサ終了後の深夜、マザー・テレサの家からサダル・ストリートまで旅行者による行列ができる。
中に交じり、歩く。
6.懐かしい国々
1995年12月—1996年2月 タイ、マレーシア、シンガポール
カルカッタ—バンコク間を飛ぶエア・ドラック(ブータン航空)は小型機で、ブータンの飛行機だ
けあり、客室乗務員の応対は丁寧だ。
離陸後、約5時間でバンコク上空に入り、着陸が近付くと、気圧の変化を急激に感じ、耳に違和感
を覚え、その感覚のまま、バンコクのドンムアン空港へ、深夜、降り立つ。
空港はバンコク郊外にあり、街の中心部へ出るには大変なので、空港内で夜明かしした方が良い、
と前もって他の旅行者から聞いていたので、そうするつもりだった。
入国審査を終え到着ゲートに入ると、寒気と眠気が襲い、ベンチでセーターを着て眠るが、ふと目
を覚ますと、周囲でフライト待ちしている人達は、皆Tシャツなどの軽装だ。
インドは冬の寒さだったが、ここバンコクは、カルカッタより遥かに緯度が低い。
寒い、と感じるのはおかしいのかな、と思いながら、朝まで眠る。
翌朝目覚めた後も、身体がだるく、だいぶ時間が経ってから空港の外へ出て、ドンムアン駅まで線
路を伝って歩き、バンコク中心部のホアランポーン駅まで列車に乗る。
駅前はチャイナタウンで、以前は旅行者が多く宿泊し、日本人の溜まり場宿・ジュライホテルも夏
に営業停止するまで健在だったが、今ではほとんどの旅行者は、安宿とレストラン、旅行代理店がひ
しめくカオサン・ロードへ行く。
それでも宿は多く、カルカッタで一緒だった中川さんから、チャイナタウンに泊まるのも面白い、
と聞いていたので、駅から近い華僑経営らしい宿に入り、ひたすら眠る。
2日後、12月30日になって、トゥウトゥク(インドで言うオートリクシャ)でカオサン・ロードへ
移動し、小ぎれいなシングル・ルームに入り、タイ到着後初めて鏡で自分の顔を見ると、左耳がほぼ
倍の大きさに腫れ上がっている。
ショックを受け、一応旅行保険には入っているので病院へ行こうと思えば行けるが、タイに着いた
ばかりで右も左も分からない中、病院を探す気力がなく、そのまま眠る。
大晦日の夜、カオサン・ロードでは欧米人旅行者による打ち上げ花火が上がる。
カオサンから少し外れると、街は静まり返っている。
タイ暦の正月は4月頃のソンクラーン(水かけ祭り)、中国暦(太陰暦)の旧正月(1月下旬から2
月頃)が最も盛大で、西洋暦の正月は一般に静かだ。
正月も、カオサンの宿で寝て過ごす。
耳の腫れは、少しずつ小さくなる。
体調も徐々に回復、1月5日、南のソンクラーへ下り、のんびりとしたその街に2、3日滞在、ハジャ
イからマレーシアへ入国。その日のうちにペナン島へ入る。
バックパッカーズ(ドミトリー)は大部屋で、10人以上が同室だ。
日本人は見当たらず、欧米人、それも中年以上の、旅をし尽くして落ち着いた感じの旅行者が多い
。
街を歩くと、インド系、中国系、マレー系の人達が混在する。
食堂や商店も、それぞれの特色が出ている。
市内バスに乗ると、車内の注意書きが英語、中国語、マレー語、タミル語…と様々な言語で書かれ
ている。
道端には、南インド系と思われる肌の黒い乞食が居る。
マドラスからペナンへの貨物船で多くのインド人が密航して来る、との話も聞く。
ペナンを発つ前の夜、映画館に入り、南京大虐殺についての映画を観る。
中国や東南アジアでは、戦時中の日本軍の行為を描写する映画が、今も人気を誇る。
上映が終わり、出て行く人達を横目で見ながら、立ち上がれない。
日本人と分かると、袋叩きに遭うかも…と思い、人が出払うのを待つ。
やがて、館内に僕ともう1人だけになる。
よく見ると、前日、観光地のペナン・ヒルで会った日本人男性だ。
同じことを思っていたようだ。
映画館を出て、その男性と屋台へ行き、食事をする。
男性は教員を退職し、フィリピンの田舎でボランティアをしている。
日本の団体からの派遣ではなく、個人の思いで活動する。
資金は、マニラ駐在の商社マンや大使館員の子女の家庭教師をして得ている。
ストリート・チルドレンに教育を、と頑張っているが、現地の日本人の家庭教師として出入りして
いると、日本人の親が雇っているメイドの子供と自分の子供とは遊ばせないようにしたり、というこ
とを見て憤りを感じ、自分は何をやっているのか、とも思うそうだ。
男性の熱い話に聴き入り、連絡先も教えてもらう。
遊びに来るなら、マニラの空港から連絡して下さい、空港の外へ出たら命の危険もある、とのこ
とだ。
ペナンから、首都クアラルンプールへ。
高層ビルが立ち並ぶ街へ出ると『そごう』があり、中へ入ると、日本の百貨店と同じだ。
2階の紀伊国屋書店へ行くと、日本の新刊の本や雑誌が置いてある。
前年4月に日本を出発してから、古本しか読んでいないので、この本屋を見付けた日は、半日掛け
て立ち読みをする。
クアラルンプールで読書を満喫し、マラッカへ南下、さらにシンガポールへ入る。
中心部にある宿のドミトリーは10人以上の大部屋だが、室内はフローリングで土足厳禁、掃除が行
き届き、年中暑いシンガポールだが、冷房が入り、快適な空間となっている。
隣りのベッドには、南アフリカから来た、と言う白人男性が居て、シンガポールで英語を教えてい
るそうだ。
他にも長期滞在の欧米人が多く、英語を教えて金銭を得ている。
非常勤で、長く旅行を続けるための手段だ。
彼らの主な稼ぎ先は、韓国、日本、シンガポール、バンコクらしい。
シンガポールからジョホール・バルへ北上、マレーシアへ再入国し、夜行バスで、東海岸にある街
コタ・バルへ。
南国風の街の外れにある、ヤシの木に囲まれたゲストハウスのシングル・ルームで、のんびり過
ごす。
同じマレーシアでも、西側のペナンやクアラルンプールは暑季で、東側のコタ・バルは雨季。
そして、ここはイスラムの街で、モスクが多く、別の国へ来たかのようだ。
銀行へ両替に行き、椅子に座って順番を待っていると、突然、色黒の東洋系中年男性が近付き、ま
くしたてる。
「おお!こんなとこで日本人に会うか!」
大阪弁で叫ぶように言う男性は、日本人に見えない。
よく見かける、旅に慣れ過ぎ、旅に擦れた感じの長期旅行者と違い、髭もきれいに剃り、髪も短
くさっぱりしているからかも知れず、かと言って、日本から来たばかりという感じでもない。
現地に馴染みながらも、エネルギッシュで、爽やかだ。
男性は、ミュージシャンだと言う。
「よし、晩飯食いに行こう。俺はこれから帰って練習するから、7時に屋台村で待ち合わせや」
勝手に決めるが、僕も暇なので、付き合うことにする。
夕方、約束通り屋台村へ行くと、男性はもう来ていて、手を挙げる。
昼間は白いワイシャツ姿だったが、シャワーを浴びたのか、真っ赤なTシャツに変わっている。
「何食う?ぶっかけ飯か。俺も、ぶっかけ飯、よう食うで!」
屋台村の一角に座り、話をする。
その男性・カズさんは、タイを中心に活動する演奏家で、あらゆる楽器をこなすが、主にドラムを
担当している。
なぜかアルバムを持参し、写真を見せてくれる。
演奏風景に混じって、タイの首相と並んで撮った写真もある。
旅行歴は長く、20年。
前回日本へ帰った時は、タクシー運転手をして資金を貯めた。
最近インドで知り合った日本人女性との結婚が決まっているが、彼女は25歳、カズさんは45歳だ。
今は佐賀の実家に居る彼女のことを思うと、他に男ができるんと違うか、と気が気でないそうだ。
「結婚して、日本で就職しようと思う。けど、何したら良いと思う?」
真剣な表情で、僕に聞く。
それは、僕が聞きたいことでもある。
これほどの風格を持った人でもそのことに悩むのか、と思う。
旅が長い、などと言うのは日本の社会ではマイナスにしかならず、旅で得たことが生かせるような
社会システムにはなっていない。
でも多くの人が犠牲を顧みず、旅に出る。
そんな人達にも世間的な安定を求める心はあるが、心の奥底ではそんな「形」を超えた満足感を求
めているのだろう。僕も含めて。
コタ・バルから、タイへ再入国する。
サムイ島への拠点となる街・スラータニーへ行き、リシケシュで富岡さんから紹介された瞑想場所
・スアンモック寺へ向かう。
毎月1日から10日間、瞑想コースが開かれる。
その間、言葉を発することが一切禁止され、瞑想に専念しなくてはならない。
1月30日にスアンモックへ到着すると、広くて薄暗い僧堂に、タイ僧と欧米人旅行者が混じり、雑
魚寝している。
僧堂のすぐ外に雨水を溜める水槽があり、タイ僧も欧米人達も、溜まった雨水で水浴びをする。
僕も、マネをする。
翌31日、瞑想コースが行われる宿舎へ、欧米人達と一緒に移動する。
夜、宿舎に集まり、オリエンテーションが行われる。
この時、僧堂に居た欧米人以外にも、多くの旅行者達が集まっていた。
東洋系の顔もちらほら見えるが、少ない。
2月1日から10日間、宿舎全体が「沈黙」となり会話は許されない。
ただ、笑顔で、声を発しない挨拶をすることはすすめられる。
毎朝5時前に鐘が鳴り、起床、ヨーガや瞑想、英語での講義、古代パーリ語による唱歌の時間など
がある。
朝食と昼食は出るが、夕方はチャイと果物だけだ。
敷地内の池に温泉が湧き、夕食前に入浴できる。
藻などが生える中を入るが、ちょうど良い温かさで、とても気持ちが良い。
10日間の沈黙が終わった後も、宿舎には5日間だけ残ることができる。
コースを受けた人達は100人ほど居るが、どうやら日本人は、僕ともう1人、40代位の女性だけで
、沈黙の行が終わってから彼女と話すと、欧州在住の音楽家だそうで、音楽でかなり極めた後、日本
の禅寺へ修行に行ったらしい。
ある時、瞑想に疲れて寝転んでいたら、身体の中から何かがぴゅーっと飛び出した、との体験をし
ている。
彼女が愛媛の実家から持って来た、と言う古い本を貸してくれる。
愛媛の自然農法家が書いた、と言う。
横浜の生物試験場で検査員をしていた著者は、25歳のある日、全てが無であることを悟り、以後一
百姓としてのみ生きることにした。
その本に書かれていることは、僕に深いインパクトを与える。
彼女はリシケシュへ行きたい、と言い、僕は『ヨガニケタン・アシュラム』への行き方を教える。
彼女は、神秘体験をした福井県の禅寺を教えてくれる。
2月15日の昼下がりにスアンモックを出発、近くのチャイヤという駅まで歩く。
バンコク行き夜行列車に乗るが、途中乗車のため、席が空いていない。
しかし駅員や乗客の人々の厚意で、少しスペースを空けてもらう。
翌16日早朝、ホアランポーン駅へ着く。
その足で日本大使館へ手紙の受け取りに行き、ミャンマー大使館でヴィザの申請をし、カオサン
・ロードの1泊60バーツのドミトリーに落ち着いたのは、夜遅くなってからだ。
バンコク発ミャンマー・ヤンゴン行きでは1番安いビーマン・バングラデシュの飛行機は、週1便し
かなく、6日後の出発で、バンコクで6日間、カオサンを根城に本を読んで過ごす。
1996年2月—3月 ミャンマー
当時、ミャンマーへの陸路での出入国は禁止されていた。
ヴィジット・ミャンマー1996(国際観光年)で、ツーリスト・ヴィザの期間が2週間から1ヶ月に
緩和された所だ。
バンコクのドンムアン空港を夕方発った飛行機は、約1時間でヤンゴン(ラングーン)へ着く。
空港内は節電しているのか、薄暗い。
入国審査を終えると、両替カウンターのブース内から険しい表情をした中年女性が手招きをして
いる。
悪名高い300ドルの強制両替だが、スルーしようと思えばできる感じだ。
しかし、ヴィザ有効期間の1ヶ月フルに滞在するので、それ位使うだろう、と300ドルをミャンマ
ーの外貨券(FEC)に替える。
これを街で、現地通貨チャットに両替する。
FECは、他の外貨に替えることはできない。
空港から出ると闇が降りていて、同じ便でバンコクから来た日本人男性と一緒に、ヤンゴン市内の
旅行者が集まる宿へと、タクシーで移動する。
宿にチェック・インし、一緒に来た男性と、遅い夕食を食べに出る。
夜の街は照明が少なく、暗い。
道端のあちこちにテーブルと椅子を置いただけのチャイ屋があり、たくさんの人達がお茶(中国茶
)を飲みながら、語らっている。
夕食の後、チャイ屋に行ってみると、テーブルの中央にある箱にタバコがばらで差してあり、1本
1チャットで吸うことができる。
葉巻も混じっている。
インドのリシケシュで禁煙して2ヶ月半が過ぎていたが、この夜、葉巻を吸ってしまう。
翌日からヤンゴンの街を歩き回るが、女子高生達が笑顔で話し掛けてきたり、人々は気さくで、心
が落ち着く。
パゴダと呼ばれる仏教寺院へ行くと、人々が熱心に祈りを捧げている。
今までに回ってきた中国、インド、タイなどは、同じアジアでも、日本とは違う根っこを感じたが
、ミャンマーでは、昔の日本に戻ったような懐かしさを感じる。
道を歩いていると、タバコ売りの子供に1本買ってくれ、と迫られ、つい買ってしまう。
この国の人達は、タバコを箱ではなくばらで買う習慣がある。
1本だけ…と買うことが続き、僕の禁煙はあえなく破れてしまう。
ヤンゴンでは日本大使館でパスポートの増刷をし、ベトナム、ラオス、中国のヴィザを取得した
ので、10日間ほどの滞在となる。
いずれもミャンマーでやっておくと安いので、まとめて済ませる。
仕立て屋で作ってもらったロンジー(腰巻き=インドではルンギー)を身に付け、歩き回る。
ヤンゴンにて、当時自宅軟禁中のアウン・サン・スーチーさんの演説を聴く
ヤンゴンから夜行バスで北上、第2の都市・マンダレーを訪れる。
さらに、古代仏教遺跡の残るパガン、静かなインレー湖へ。
当時のミャンマー観光定番コースを、ゆっくり辿る。
インレー湖のあるシュエニュアンは、静かな田舎町で、宿泊した『リメンバー・イン』ではご主人
と二人の娘さんの接客に心が温まる。
宿泊客はフランス人旅行者ルイーズと僕だけ、ルイーズはミャンマーの人々を絶賛し、また来たい
、と興奮気味に語る。
ミャンマーを好きになる人は多いが、ココナッツ油を多用した料理だけは…、と皆が言う。
しかし、彼は屋台の麺類もフランスよりおいしい、素晴らしい、と目を輝かせる。
その頃、ミャンマーでは日本で10年ほど前に大ヒットしたNHK連続ドラマが放映中で爆発的な人
気を呼び、日本人が歓迎される雰囲気があり、それも居心地の良い原因だったかも知れない。
シュエニュアンに1週間滞在後、ヤンゴンへ出発する。
宿からヘーホーという駅まで歩き、ヤンゴン行き列車へ途中乗車する。
車内は満員で、しばらく立っていたが、軍の兵士達が自分達の座る席を空けてくれる。
その代わり彼らに囲まれ、質問攻めに遭う。
乗車したのが昼頃で、一夜を過ごす。
硬い木製のベンチで、眠る。
翌朝、兵士達は駅で売っている焼きとうもろこしを1本、くれる。
乗車約24時間後の昼過ぎ、ヤンゴン駅へ着き、兵士達からホームで写真をと頼まれ、撮る。
列車で席をともにした兵士達。ヤンゴン駅ホームにて
一足先にヤンゴンヘ戻ったルイーズが泊まる宿を教えてくれていたので、訪ねてみる。
宿近くの家の子供達と遊んだり、楽しく過ごす。
翌朝、空港からバンコクへ戻るルイーズと別れる。
数年後、彼からインドネシアの女性と結婚するとの手紙が届いた。
街の中心にある元居た宿へ戻り、バンコクから一緒に来た村中さんと再び会う。
村中さんも旅のベテランで、31歳。
世界一周を2度している。
この旅から帰ると、また出発する計画を既に立てている。
僕は、今回の旅の後は社会復帰するつもりだったが、気持ちがぐらついてきた。
ルイーズや村中さんの話を聴くと、まだまだ旅行を続けたくなる。
バンコクへ戻るフライトまでの3日間、道端のチャイ屋で日本語を学ぶ大学生達と親しくなり、家
へ出入りしたり、パゴダで知り合ったイスラム教徒の男性に彼の通う英語の学校へ招かれたり、と色
々ある。
彼らはお金目当てで近付いてくるのではなく、日本人と友達になりたいだけのようだ。
日本語を学ぶ若者達からは、軍事政権下のこの国を抜け出したいという思いも感じられるが、はっ
きりとは言わない。
ミャンマーの大学進学率は9割だが、卒業しても就職がない。言論の抑圧も相当らしい。
村中さんと僕は、日本語を学ぶ若者達に空港まで、車で送ってもらう。
バンコクへのビーマン・バングラデシュ航空機では最前列の席となり、頭上の棚にリュックを入れ
、棚の扉を閉めた途端、隣りの扉が開いたり、飛行中、頭上から水が漏れてきたり、前方の操縦席の
ドアが突然開き、飛行士が操縦する様子が丸見えになったり、とハプニングの連続だった。
1996年3月—4月 タイ、ラオス
バンコクへ戻り、数日間カオサン・ロードに滞在、村中さんと別れ、夜行バスで古都チェンマイへ
北上する。
到着した日の夕方、大通りを歩くと、見覚えのある後ろ姿の人物が前方を歩いていて、追い付くと
、北京で会い、リシケシュで断食していた富岡さんだ。
後ろ姿で分かったが、振り返って見ると、頬がぷっくり膨れ、容貌が以前と変わっている。
断食後、急にたくさん食べ、筋肉が落ちた後に脂肪が付いたらしい。
富岡さんが泊まる宿へ一緒に行き、しばし話をする。
富岡さんがリシケシュで買った、ヨガ行者が使う、鼻詰まりを改善する紐をもらう。
鼻の穴から通して口へ出す物だが、一度も使わなかった。
慢性鼻炎の話をしたら、くれたが。
富岡さんとはその後、日本で再会する。
チェンマイからバスで北上、チェンライへ。
『レク・ハウス』(タイ語で「小さな家」)という、こじんまりした1泊50バーツのシングル
にチェック・インする。
従業員の男性は、昼間からウィスキーを飲み、よく喋る。
それに付き合っていると、夜になって、オーナーが現れる。
流暢な日本語を話せるオーナーは、東京・北千住で3年間働いた経験があるそうだ。
『レク・ハウス』の経営とともに、旅行会社のガイドも務める。
新しい宿を建てたい、と言う。
日本円で60万円あれば、宿を1軒買うことができる。
もしあなたが私に60万円くれたら、僕は新しい宿を買い、あなたに『レク・ハウス』をあげる。
好きに経営すれば良い。
チェンライには、カナダ人や豪州人など、外国人オーナーが多い。
あなたも宿をやればどうか…と会ったばかりの僕に、話す。
いきなりの話で面食らうが、それも面白いかも…と少し思う。
ちょうど2日後、オーナーの副業であるガイドの仕事があり、ラオスのフエサイまで旅行会社の車
に同乗させてもらう。
日本人ツアー客とともに、ラオスの古都ルアンパバンや首都ビエンチャンを回るそうで、オーナー
達はチェンライから国境を越えフエサイに入り、ルアンパバンへボートで行き、ビエンチャンでツア
ー客と合流する。
タイのチェンコーンで出国手続きを行い、メコン川をボートで越え、ラオス側フエサイへ入る。
メコン河を挟んで、対岸がラオス、手前側はタイ・チェンコーン。
その夜は、オーナー達が乗るルアンパバン行きの大きな船に、一緒に泊まる。
船は1晩停泊し、朝になると出発する。
翌朝、僕は彼らと別れ、1人で別の船に乗る。
オーナーには、日本での連絡先を教える。
フエサイからルアンパバンへ、メコン川を行くスピードボートは、7時間ほどで着く。
乗り場まで来て、出発まで時間があるので立って待っていると、子供達が近付き、黙って僕を見て
いる。
誰も話し掛けて来ない。
しばらく彼らと見つめ合い、カオサン・ロードで買ったラオ語フレーズ・ブックを開き、挨拶言葉
を言ってみる。
サバイデーボー(こんにちは)、と僕が言うと、子供達は少し驚き、後ずさりしながら、ボーサバ
イデ…(「こんにちは」への返答)と、もじもじしながら返す。
ようやく出発時間が来て、ヘルメットとライフ・ジャケットを身に付け、4、5人乗りの小さな船に
乗り込む。
メコンは川だが、海のように、波がある。
ボートは凄まじいエンジン音を響かせ、船ごとジャンプする勢いで波を越える。
転覆したら、ひとたまりもない。
実際、事故も多発していることを、後から聞いて知る。
しっかり掴まっていないと、振り飛ばされそうだ。
その上、何度もパスポートチェックがあり、その度、川岸をよじ登り、掘っ立て小屋のようなオフ
ィスでチェックを受ける。
夕方、ルアンパバンに着いた時は、へとへとだった。
長距離移動は数多く経験しているが、この時が一番疲れたように思う。
ルアンパバンはラオスの古都らしく、古く大きなお寺を中心に街が栄え、市場も賑わう。
道路は広く、歩きやすい。
ただ、第2の都市と思えないほど車が少ない。
それが何とも言えず、平和で落ち着いた気持ちにさせる。
道路沿いの商店で番をする年配の男性と目が合うと、ごく自然に会釈をする。
毎日会う近所の人と挨拶するのと同じような感じで、旅行者として見られているように思えない。
ルアンパバンから首都ビエンチャンへの道路には山賊が出没し、旅行者が殺されたりしている、と
いうことは、その時知らず、バスに乗る。
後から聞くと、バスでの移動を避け飛行機を使う旅行者も居る、と言う。
ビエンチャンの手前にあるバンビエンという小さな村が良い、と評判を聞いて途中下車し、2、3日
滞在する。
静かな時を過ごし、ビエンチャンへ。
メインの大通りは、フランス領インドシナ時代に開発され、パリの凱旋門そっくりの大きな門を中
心に、道路が放射状に広がる。街はだだっ広く、歩きにくい。
ラオスの都市は、メコン川沿いにのみあり、それ以外は、山に囲まれている。
ビエンチャンからメコン川沿いに、夜行バスでパクセへ南下。
カンボジア国境に近い。
パクセ3泊後、ベトナム国境に隣接したサバナケットへ。
ベトナムへ抜けるつもりだが、国境の町・ラオバオ行きのバスは週1便で、前日出たばかりだ。
6日間、待つことになる。
タイやラオスで盛大に行われるソンクラーン(水掛け祭り)はちょうどこの頃だが、この小さな田
舎町では、おとなしそうな子供達がちょこちょこと歩み寄り、遠慮がちに、水鉄砲で少しの水を、
ぴゅっ、と掛けてくるだけだ。
バンコクなどでは、大の大人達がバケツやホースで水を掛け合うそうだが。
静かな町の小さな宿で過ごした後、週に1度出るバスの発車時刻は、午前4時。
暗いバスターミナル(と言うか、空き地)に人々(主に行商の)が集まり、乗り込む「バス」は、
トラックの荷台に椅子が据え付けてある物だ。
走り出すと、かなり揺れる。
揺れるたび、椅子が荷台から外れ、乗客自ら立ち上がり付け直さなくてはならない。
1996年4月—5月 ベトナム、カンボジア
朝、ラオバオ・ボーダーを越え、ベトナムへ入国。
バスを乗り継ぎ、フエへ向かう。
温和で大人しかったラオスの人々と違い、ベトナムの人達は、感情を表に出す。
バスの中にガムを売る少年が入って来て、座っている僕にガムを押し付けてくる。
返すと、物凄くいじけた顔をする。
休憩で停車した時、車窓越しにお菓子を売りつけてくる少女は、断る僕の腕を、窓越しに思い切り
つねる。
夕方、フエに到着。
2泊後、古都ホイアンへ移動する。
江戸時代頃、日本人が多く住み着いていた街だ。
公園で、地元の20歳の青年と知り合い、家へ招かれご馳走になるが、大学の学費を払うのが苦しく
、援助して欲しい、と言われ、嘘だろう、と思いながらお金を渡し、後味の悪い思いをする。
ホイアンを早朝出発したバスは、南のホーチミン・シティ(サイゴン)へ、翌朝着く。
約24時間掛かりだ。
宿へ向かう大通りには、信号機も車線もなく、夥しい数のバイクが連なり、行き交う。
排気音、ホーンの音が途切れることなく、排気ガスの臭いも凄い。
道路を渡るには、バイクの群れのすき間をかいくぐり、斜めに横断するしかない。
屋台で朝食を摂ろうと、架かっている黒板に書かれた値段をしっかり確認して、フォー(ベトナム
風うどん)を注文し、食べた後、支払いになると、外国人だから3倍の値段を払え、と店の女将が言
い張る。
それはない、と言い合いになる。
宿へ着く。
『シンカフェ』のドミトリーで、旅行者が多く賑やかだ。
少し眠った後、同室の、ヒッピー風で少し年配のオランダ人男性から今までの旅先の話を聴き、そ
の会話に、米国の青年や、デンマークの若い女性2人組も混じって来る。
まだ暗い4時頃宿を出て、バイク・タクシーでバスターミナルまで行ってもらう。
国境を越え、カンボジア・プノンペンまで行くバスは、日本から寄贈された神戸市バスをそのまま
車両に使っている。
殺風景な道路を延々と進み、昼頃にカンボジアへ入るが、国境での入国審査後休憩に入り、なかな
か発車しない。
このバスに外国人旅行者は、長く旅を続けているドイツ人男性、イギリスの大学生、ベトナムで日
本語教師をしている日本人女性、と僕が居る。
国境越えの待ち時間に、手持ちぶさたとなった4人は話し始め、バスの発車を待ち切れず、プノン
ペンまで乗せてやる、と現地の人に声を掛けられ、乗せてもらう。
彼らはお金が欲しくて言っているのだろうが、あえて値段交渉をせず、ドイツの長期旅行者が運転
手に、サービスだな、と言う。
プノンペンの街に、夕方着く。
僕達は運転手に礼を言い、立ち去ろうとすると、案の定、お金を要求してくる。
ドイツ人のアレックスは、サービスのはずだ、と突っぱね、揉める。
イギリスの学生・ポールがお金を出そうとするが、アレックスは押し止める。
結局、お金は払わなかった。
ポールは知っている宿があるらしく、そこへ行き、僕達3人は、日本人が集まる安宿『キャピトル
』へ行く。
アレックスは、ベトナムのヴィザが切れたのでカンボジアで再度申請するだけで、アンコールワッ
トなどの観光はしない。かなりぎりぎりの金額で長い旅行をしているようだ。
日本語教師の女性と、プノンペンからアンコールワットのあるシュムリアプへ出発する。
池を横切るボートでの移動。
バスもあるが、地雷が道路に埋まり、危険だそうだ。
プノンペンから乗るのは、ほとんどが外国人旅行者で、途中で現地の人達が通勤や移動の手段とし
て使い、少しの区間乗っては降りて行く。
警官が途中乗車して降りる時、発砲して合図し、びっくりする。
この国の警官は、ちょっとしたことでこのように発砲するらしい。
シュムリアプに着き、バイタクで日本人が集まるゲストハウスへ行ってもらう。
この頃、日本はゴールデンウィークで、ゲストハウスの宿泊客も、長期の旅行者ではなく、休みを
利用して来た会社員が多い。
アンコール遺跡の観光は、外国人旅行者向けに1日コース、3日コース、6日コースとセッティング
され、それぞれチケットを買い、バイタクの運転手を雇い、早朝5時から出発する。
僕は、3日間コースを選ぶ。
観光初日の朝、雄大なアンコールワットの門の下に座り込み、眺める日の出は、何とも言えず美
しい。
遺跡の素晴らしさもさることながら、シュムリアプ村ののんびりとした雰囲気も、落ち着く。
アンコールワットの中で地元の中学生達が誕生日パーティをしていた。
ただ、この時期は会社員が多く、皆、慌ただしく観光し、さっさと出て行く。
サイゴンから一緒に来た日本語教師の女性も、早くベトナムへ戻らなくてはならず、アンコール観
光を1日で済ませ、出発する。
僕に急ぐ理由はないが、雰囲気がせかせかしているのが居たたまれず、アンコール観光を終えた翌
々日、サイゴンへ戻る。
ベトナムの南に位置するサイゴンから北のハノイまで、列車で一気に移動する。
かつては南北ベトナムに分かれていた両都市を結ぶ列車は、5月9日午前中出発、翌々11日早朝、到
着する。
旅行者の集まる1泊4ドルのドミトリー『ダーリンカフェ』へ向かう。
ハノイまで来ると、街の雰囲気が中国に近付く。
公園近くを歩くと、憎悪を帯びた視線を感じる。
僕を中国人だと思っているようだ。
ドミトリーでは、イギリス人女性、デンマーク人男性と同室だ。
欧米人旅行者達と食事へ行き、カフェや部屋で話すことが2、3日続いた後、ドミトリーに日本人女
性が入って来る。
女性は1人だが既婚で、夫婦で旅行に来ているが、お互い行きたい場所や既に行った場所が違う
ので、今は別行動を取っている、と言う。
その後長く旅をともにすることになる近藤君と、中国に長く留学していた佐賀県出身の通称「兄貴
」は、数日後にやって来る。
近藤君の身なりは汚れの目立つ白いシャツと破れたジーンズの半ズボンで、サイゴンの地元の人達
に「プアマン」と呼ばれたそうだ。
ある日、『ダーリンカフェ』に日本人が8人集まったので、ホテルのレストランで食事をしようと
いうことになるが、近藤君だけがホテルの警備員に制止されてしまう。
ハノイから夜行列車でラオカイへ北上、早朝、ミニバスに乗り換えラオス国境方面へ進み、サパと
いう少数民族の町で下車する。
到着すると、周囲に濃い霧が掛かり、前が見えない。
高地へ来た感じがある。
この町は、今まで通って来たベトナムの街々とは異なり、少数民族の自治的な町という色合いが
濃い。
色んな民族の姿があるが、中でも多いのはモン族らしい。
『ダーリンカフェ』のドミトリーで同室だった主婦旅行者(「おくさん」と呼んでいた)と、「プ
アマン」こと近藤君、僕の3人で来たが、翌日「兄貴」が合流する。
宿にドミトリーはなく、それぞれシングルに泊まる。
町に1軒しかない食堂へ毎日行くが、僕達がテーブルに座っていると、モン族の中年女性達が押し
掛け、手作りの帽子や民族衣装を着せ、
「ゾンリー」
と言い、笑う。
ゾンリー、とはフランス語で、ビューティフルと言う意味だ、と泊まっている宿の女の子から聞く
。
彼女は10歳だが宿の番を任され、日本の漫画が大好き、と言う。
フランス領インドシナ時代から、外国人に対しフランス語で話し掛ける習慣があるらしい。
サパ郊外のカットカットと言う村まで歩き、野原に座る家族に写真を撮らせてもらう。
ご主人や子供達がカメラを触りたがるので手渡すと、1人ずつ手に取るが、カメラを景色を見るた
めの望遠鏡のような物と思っているらしく、ファインダーを覗きながら、
「おー」
と、感嘆の声を上げる。
カットカット村にて
サパでのんびりと、1週間を過ごす。
つるんでいた日本人4人のうち、兄貴だけは先に中国へ向かうが、おくさんとプアマン、僕は3人で
ラオカイへ戻り、中国・雲南省へ入る。
1996年5月—7月 中国(雲南省)
日本人3人でベトナムから入国した中国雲南の町は河口(ヘーコー)で、大抵の旅行者はそのまま
素通りもしくは1泊で出発するが、僕達はその翌日も留まり、2泊後、ようやく『臥舗』(寝台バス)
で雲南省省都・昆明(クンミン)へ向かう。
朝、昆明のバスターミナルに着き歩いてドミトリーのある『昆湖(クンフー)飯店』へ。
意外と大都市で、高層建築が目立ち道路も車線が多く、整備されている。
1泊25元の4人部屋には、既に先着の兄貴が居た。
1年振りの中国で、どこか懐かしい。
昆明での日課は、昆湖飯店から近い独立記念公園へ行き、人々が青空麻雀をしているのを眺めるこ
とだ。
はっきりとは分からないが、日本の麻雀より単純なルールのようで、牌の数が少なく、やたらと鳴
いて牌を集めるので、進行が速い。
別の一角では中国将棋をやっていて、これも日本の将棋より単純で簡略化され、丸い駒を動かす。
そんな光景を、飽きずに眺める。
昆明で、ラオスのトランジット・ヴィザを申請したら10日待ちで、11泊することになる。
その間、おくさんやプアマン、兄貴は大理へ出発し、ようやくヴィザが取れた僕は、ミャンマーと
の国境の街・瑞麗(ルイリー)へ1人、寝台バスで向かう。
瑞麗で泊まった宿は漢民族経営の愛想の悪い宿だが、街にはビルマ(ミャンマー)の服装をした女
性やロンジー(ビルマ風腰巻き)を巻いた男性が歩き、ビルマ人経営の店があり、雑然としている。
毎日、ビルマ人の食堂でビルマ風味付けの食事を食べる。
店の女の子に値段を聞くと、5元、と言う所を、5チャット、と言う。
日が暮れる頃、路上のあちこちで街角カラオケが始まる。
皆、今流行中の歌を歌いたがり、日本では考えられないが、何人も続けて同じ歌を歌う。
瑞麗を4泊で出て、寝台バスで大理(ダーリー)へ。
朝、下関(シャグワン)という大きな街に着き、ミニバスに乗り、午前中に大理へ到着。
町の中心部は、端から端まで歩ける距離で、山に囲まれ目立った観光地があるわけでもないが、平
和で落ち着いた空気が漂う、少数民族の多い町だ。
長期滞在する旅行者が多く、安宿も多い。
僕は、町の端の方にあり、静かで泊まり客の少ない第4招待所を選ぶ。1泊10元。
宿の小姐(シャオジェ)は笑みを絶やさず、英語も堪能だ。
町をぶらぶら歩き始めると、すぐにプアマンとおくさんが追い掛けて来る。
ツーリスト・カフェから姿が見えたと言う。数日振りの再会だ。
カフェに合流し、話す。
兄貴もこの町で落ち着いていることを知る。
プアマンと兄貴は第1招待所、おくさんは第2招待所に泊まっている。
大理には『ダーリーズ』と呼ばれる、大理に集まる日本人長期旅行者だけで作るグループがあり、
彼らは基本的に大理だけに長期滞在し、麻雀など、日本でもできるようなことをして過ごしている。
プアマンらが泊まる第1招待所—改装してMCAゲストハウスという別名を持つ宿の中庭には、大
きなプールがあり、その傍らで将棋を打つ、中年とも初老とも言える年格好の『ダーリーズ』メンバ
ーの姿が見られる。
各招待所や町のカフェには、普通の情報ノートとは別に『ダーリーズノート』があり、メンバーだ
けにしか分からない内容が書かれている。
1週間滞在した大理だが、ダーリーズの人達との接触はあまりなく、プアマンやおくさん、おくさ
んが以前に会っていて、大理で再会したマキさんなどと過ごす。
大理の第4招待所で2日前から同室だった休学中の大学生と早朝、バスで中旬(ゾンディエン)へ向
かう。
雲南省迪慶蔵族自治州(雲南省北部のチベット族自治区)の首都だ。
町中にはゴンパがある以外、特に見所はないが、ラサのチベット族とは少し違う、カムという人々
が生活する。
ここから東チベットへ、ラサへと長い道が続いている。
到着翌日には、プアマン、マキさんも大理から来て、町に1つしかない宿で合流する。
4人部屋のドミトリーだが、ケーブルテレビが引かれ、香港の『スターTV』なども映る。
久し振りに、MTVを観ることができる。
チベット族の小姐(シャオジェ)は日本語に興味があり、数の数え方を教えて欲しい、と言い、受付
の部屋で暇潰しに教えるが、彼女が「百」と言うとどうしても「しゃく」になり、彼女は元々赤い頬
をさらに赤らめ、笑う。
中旬からさらに北の徳欽(デチェン)へと至る道中、奔子欄(ポンズーラン)という山沿いの集落があり
、そこでバスを下車し、食堂の2階にあるドミトリーにプアマン、マキさん、僕と、サパの兄貴と呼
んでいた、サパで会った後大理で再会した31歳の日本人男性と、4人で滞在する。
奔子欄にて
食堂以外何もない所で、途中下車ついでに1、2泊のつもりが、食堂に麻雀牌があったことから、1
週間滞在することになる。
毎日昼頃まで寝て、日中は、食堂前の通りから少し外れると雄大な山の景色が広がるので、辺りを
歩き回る。
食事もおいしい。
夜は、麻雀だ。
ようやく徳欽へ着くが、未開放地域だ。
中国では、外国人旅行者が自由に旅行して良い地域とそうでない未開放地域に分かれ、雲南省や四
川省の山間部やチベット自治区には未開放地域が多く、滞在して見付かると罰金を取られたり、中に
は拘留されたり、公安に殴られた旅行者も居る。
西チベットのカイラス山への道中、ヒッチハイクをする外国人旅行者を乗せたドライバー(特に
チベット族)は、見付かると、それだけで死刑になる人も居る、と聞く。
しかし、大抵はワイロを払った上で頼み込めば何とかなる、との話で、徳欽で普通の招待所に部屋
を得て中国人の振りをすることにする。
僕達は、それぞれ、シングル・ルームに分かれる。
荷物を置いて約1時間後、部屋に2人の男性が訪ねて来る。片方の、体格の大きなちりちり頭の男が
、
「尓好(ニイハオ)」
と挨拶をする。
「尓好(ニイハオ)」
と僕も応える。
どこから来た、と問われ、広東省から来た、と答える。
少し前に、広東省の青年と会った時、そのように言えば大丈夫、とのアドバイスを受けた。
広東人は裕福で、国内を自由旅行する人も珍しくない。
広東人の割に普通話(プートンファ)(標準語)を喋る、と言われるが、勉強している、と応じる。
しかし、そんな嘘は分かっていた。
お前、日本人だろう、と言われてしまう。
渋々、パスポートを出す。
なまずに似た風貌の男性は、突然、僕の肩をポン、と叩き中国語から英語に切り替える。
「本来なら罰金、又は拘留だが、梅里雪山(メイリ—シュエシャン)への車をチャーター、しツアー
に参加すれば入域許可証を発給し、許してやる」
と言う。
他の3人も、部屋に入られ、同じことを言われたらしい。
結局、捕まるより良いだろう、山も見られるし…と参加することに決める。
梅里雪山は、チベットの聖なる山のひとつだ。
数年前、京都大学の登山部が日中合同登山隊に参加し登頂するが、遭難してしまう。
山の麓に慰霊碑が建ち、手を合わせる。
6月だが、山々の頂には雪が被っている。
ツアーには「なまず」氏とドライバー、日本人4人に加え、宿で会った日本人男性1人(七三に分け
た髪型と雰囲気、言動から僕達4人は勝手に「サラリーマン」と呼んでいた)の、総勢7人。
山に来ると、一番元気に歩き、喋り、歌っていたのはなまず氏だった。
歩く足も速く、追い付くのに苦労をする。
ツアー参加と引き換えに、徳欽での滞在を許され、翌日は招待所でゆっくり過ごす。
徳欽には4泊し、奔子欄を経て中旬へ。
奔子欄で再び麻雀をして数泊、中旬でも元居た宿の4人部屋でMTVを観ながらトランプなどして
いたら、1週間が過ぎた。
7月の半ばになろうとしている。
中国のヴィザを大理で延長したが、その期限も7月23日に迫っている。
同時期に入国し、同じように大理で延長した他の3人は、あと1ヶ月の延長に挑戦すると言うが、僕
はそろそろ動きたくなる。
4人で、麗江(リージャン)へ下る。
街は、その年初めに起こった大地震からの復興途中だ。
壊れた建物、がれきが残っていて通行できない道路もあるが、工事も盛んに行われている。
到着した夜は、レストランへ4人で行き、店のオーナーから、この地方で今も使われる象形文字で
ある東邑(トンバ)文字の説明を興味深く聴く。
泊まった麗江賓館のドミトリーは17人部屋だが、電灯のスイッチは入り口近くに1ケ所だけで、
スイッチに近いベッドに寝る人が必然的に明かりをつけたり消したりする係になる。僕が、その係だ
。
麗江3泊後、僕は出発するが、他の3人はヴィザを延長して残る。
少し後ろ髪を引かれながら3人と別れ、大理への入り口となる街・下関(シャグアン)までバスで
行き、1泊する。
下関から西双片納(シーサンパンナ)の景洪(ジンホン)へのバスは、早朝出発する。
到着予定は、翌朝。
でこぼこの悪路を走り、車体ごと、何度もジャンプする。夕方、途中の町で止まる。
景洪へ行くつもりの僕と、中国留学中の日本人女性と、その彼氏らしい韓国人男性の3人は、払っ
たバス代からいくらかを運転手から返され、乗客が少なくて商売にならないので、今夜はこの町に泊
まり、明日景洪行きのバスに乗って欲しい、と頼まれる。
しかし、そのせいで、素通りするはずだった小さな町に1泊することができる。
町唯一の招待所は1泊7元と安く、留学生カップルと夕食をともにし、旅行の話や留学生活の話など
で時を過ごす。
翌朝出発、午後、ようやく景洪へ到着する。
同じ雲南省でもここまで南下すると、東南アジア色がぐっと高まる。
川沿いに、竹で組み上げた高床式住居のような所に宿の看板が掲げられているので、入って尋ね
ると、ラオス風のサロンを巻いた小姐が、けだるげに応対する。
ドミトリーへ案内される。
室内の壁は、竹の皮で見事に編まれている。
ベッドが3台あるが、他には誰も居ないようだ。
水浴びして昼寝した後、夕方になり、デンマーク人旅行者がラオス方面から来て、夕食をともに
する。
景洪では、唯一の外国人旅行者向けカフェレストランへ行く。
少数民族であるタイ族が経営する。
カフェには毎日通い、そこで知り合った厦門(アモイ)大学留学生の日本人と一緒に景洪を出発、川
沿いの村・カンランバへ。
村評判の民宿へ行き、先客の日本人留学生の女性と3人で、家庭料理をご馳走になる。
1泊後、ラオス国境に近いモンラへ1人で出発。
アトランタ五輪が始まっていて、招待所の部屋でテレビ中継を観るが、中国の選手(柔道、射撃、
重量挙げ)の映像だけを繰り返し流している。
モンラから国境の町・モオジャンへ。1泊し、ラオスへ入国する。
1996年7月—9月 ラオス、タイ
2度目のラオスはトランジット・ヴィザでの入国なので、7日間以内にタイへ抜けなくてはならない
。
中国との国境を越えて最初の町・ボーテンから、乗り合いタクシーにすし詰めになりつつ、ウドゥ
ムサイへ向かう。
同乗した現地の人達は皆気さくで、僕にどこへ行くのか、どこへ行ってきたのか、と笑顔で尋ねる
。
それに応え、今までに行った国の名前を挙げる。
「ネパール、インディア、バングラデシュ…」
尋ねた婦人は、きょとんとした表情で、
「ニパール、インジアー、パンクラテーシ…」
と反復するが、どこの国のことかは分かっていないようだ。
ウドゥムサイ1泊後、パクバンへ。
街全体が火災に遭った直後で、建物の焼けた跡が多く見られる。
パクバンからフエサイへ下り、1泊後、メコン川を越え7月26日にタイへ入国、チェンコーンからチ
ェンライへ入る。
チェンライの市場
3月に訪れた『レク・ハウス』を再訪する。
僕の中で、今回の旅行は終章に入っている。
これからバンコクまで下り、香港へ飛ぶか、マニラへ飛んでペナンで会った日本人ボランティアの
村を訪ねるか…などと考えている。
そして、日本へ徐々に近付き、日本では次の旅行に向け資金を作るつもりで居る。
『レク・ハウス』の主人は出張中で、3日後の夜帰って来た。
ベトナムから僕が出した手紙を読んだ、と言ってくれる。
再会を喜び、ビールを飲みながら話した後、彼は新しいビジネスとして椅子の輸出を始めたことを
僕に明かす。
彼は、日本語で鼻息を荒くして言う。
「モット、オカネ!」
その一言が、彼の夢、志向、価値観を現しているようだった。
家族を養う彼としては当然で、また、彼にとって外国語である日本語では、単語を並べただけの直
截的な表現となるのも分かるが、彼が持ちかけたゲストハウスの話を少し前向きに考えていた気持
ちが、その言葉を聴いて、醒めてしまう。
チェンライを拠点にタイ北部・メーサイからミャンマーのタチレクへ1日国境越え
その後タイ北部を回り、チェンライへ戻って、バンコクへ、夜行バスで一気に南下する。
バンコクからチャン島へ行って泳ぎ、カンチャナブリーやアユタヤを観光し、9月3日、バンコクか
ら香港へ飛ぶ。
7.日本へ
1996年9月—10月 香港、マカオ、中国
香港では、重慶大厦(チョンキンマンション)内にあるゲストハウスに泊まる。
冷房付きだが、異様に狭いドミトリー2段ベッドの上段をあてがわれ、荷物を置くのもやっとの
スペースで、ベッド上に座ろうとすると、天井に頭を打つ。
本当に、寝るだけの所だ。
3泊後、同じマンション内の別のゲストハウスへ移る。
部屋は広いが、冷房はなく、夜は寝苦しい。
マンション1階のロビーを毎朝通ると、備え付けの電話の前に、仕事を探しているらしい欧米人達
が何人も電話帳を手に座っている。
彼らの表情は真剣だが、疲れている。
宿の居心地が今ひとつなので、朝早くから夜遅くまで歩き回ることになる。
屋台の麺類や、粥(コンチ—)はおいしい。
ペット市場を見たり、映画を観たりする。
日本人が集まるラッキー・ゲストハウスは、安宿には珍しく予約が必要で、何度か電話をしたが、
泊まれなかった。
1度遊びに行き、情報ノートや日本の漫画本を読み、日本人旅行者達と話す。
ドミトリーは木目調の2段ベッドが並び、床はフローリングで、冷房も効き快適で清潔だ。
マカオへは、香港からフェリーで1時間ほどで着く。
街の中心部はポルトガル風の石畳の道だが、泊まった宿は純中国風の薄暗い所だ。
カジノは中心部から外れた所にあり、市内バスで行くと、色鮮やかなネオンが凄まじい。
少しだけルーレットをやるが、惨敗する。
マカオから、珠海(チューハイ)という街に入り、中国へ入国。
バスで広州へ向かう。
広州は物価が高く、人間が悪い、との評判をあちこちで聴くため、初めから泊まらないと決めて
いて、バスを降りるなり、同じターミナルで桂林行きバスを探し、寝台バスに乗る。
桂林へ朝着き、陽朔(ヤンショウ)行きバスに乗り換え、昼過ぎ到着。
大理に似て、落ち着く町と聞く。
欧米人旅行者が多く、宿もドミトリーが何軒もあり、1泊10元の安さだ。
ツーリスト・レストランや旅行代理店が並ぶ光景は、中国の他の街ではみられない。
食べに行ったレストランのオーナーから、毎朝、功夫を習って過ごす。
9月25日朝、陽朔を出発。
そこからは、速い。
翌朝、深玔へ着き、厦門(アモイ)行きバスに乗り換える。
厦門には西双片納で会った大橋さんが留学しているので、大学の寮に電話してみると、あいにく用
事で日本へ帰っていた。
しかし、電話に出た学生から、旅行の話を聞かせて下さい、と言われ、中国の学生寮に初めてお邪
魔し、学生達と話して過ごす。
厦門3泊後、福建省の福州へ。
駅前のホテルの、1泊100元のシングル・ルームに宿を取る。
福建省は昔の琉球王国と国交があり、資料館などを見学する。
10月1日の国慶節(中国独立記念日)を福州で迎える。
夜の街が色とりどりのネオンで照らされ、道路は歩行者天国となる。
10月2日朝、福州駅から上海行き硬座(2等座席)列車に乗る。
硬座と言っても、この路線はクッションの効いた柔らかい座席で、苦にならない。
隣り合わせに座った人達と、半ば中国語、半ば筆談で会話をして過ごす。
10月3日朝、上海へ到着する。
上海駅からバスに乗り、ドミトリーのある『浦江飯店(プージャンファンジェン)』へ向かう。
9年振りの上海だが、変わった。
と言うより、以前の上海は消え、別の街が新しくできた感じだ。
9年前の1987年、高校を卒業した年に、北京に居るいとこを訪ねた時、まず上海に上陸した。
僕にとって初めての海外の街だが、モノクロ映画の中に入り込んだような感じがした。
街中を漂う石炭の匂いや、海沿いに並ぶ褐色の建築物のレトロな造り、人民服を着た人々。
今も石炭の匂いはするが、街は色鮮やかだ。
海に面した外灘(ワイタン)(バンド)はただの防波堤だったが今では臨海公園になり、家族連れが
大勢歩く。
朝には、人々が太極拳に興じる。
通りを隔てて立ち並ぶ旧租界時代の建物群は変わらないが、1階に入る店々は変わり、ファストフ
ードやアイスクリーム店もある。
バスも、以前は人民服姿の人達が押し合いながら乗っていた。
今も混んではいるが、手で押したりする人が居ない。
人々の服装もカラフルで、人民服を着ている人は見当たらない。
浦江飯店の55元のドミトリーに入り、日本人留学生と話した後、表通りを歩く。
船会社の看板を見付け、帰りの切符を買おうか…と思う。
2日後出発の大阪行き鑑真号のチケットがあり、予約する。
1年半振りに、日本へ帰ることになる。
上海はこの年、地下鉄も開通している。
乗ってみると、とても快適だ。
車内で見掛ける若者達の服装は、日本人と変わらない。
上海最後の夜は、メインストリート・南京路を、名残りを惜しむように、遅くまで歩き回る。
上海・南京路。帰国前夜。
1996年10月 日本(大阪→京都→東京→愛知)
『鑑真号』。1987年、初めて上海へ行くため乗った時は、狭い客室と甲板だけだったが、今ではゆ
ったりとした船室に加え、ロビー、食堂も広々とした美しい船になった。
浦江飯店で同室だった日本人男性らと話しながら2泊3日の旅路を終え、日本、大阪南港へ到着する
。
帰国直後、大阪・淀屋橋。
京都の実家へ向け南港からニュートラムで住之江公園駅へ、さらに地下鉄を乗り継ぐ。
以前、インドから東京へ帰った時のめまいがするような感覚はないが、やはり、日本特有の静かな
窮屈感を覚える。電車に乗っている人達が、皆、行動を自主規制している感じ。
中国やインドでは、公共交通機関に乗れば、人どうしがぶつかったり触れ合うことが避けられな
いが、日本では、それが大変な犯罪に近い行為として吊るし上げられる雰囲気が漂う。
人々は無表情で、全員が同じ顔に見える。
淀屋橋駅から京阪電車に乗り換え、夕方、実家へ着く。
10月7日、月曜日の夜だ。
翌8日火曜日、左京区役所へ行き、住民票を、とりあえず実家の住所に入れる。
1年半前、東京の杉並区役所で出国届けを出し、住民票を抜き、旅行中は税金等が掛からないよう
にしていた。
金曜日まで実家に居て、土曜日の12日午後、京都駅から東京・八王子行き高速バスで、アパートを
又貸ししている東京へ出発する。
夜、八王子に着いて、中央線に乗り西荻窪へ向かう。
アパートで、木本が迎えてくれる。
木本は今、予備校の講師をして、ドイツへの渡航費、滞在費を貯めている。
来春には出発する。
アパートの契約期間は翌年2月末までで、それまで又貸しを続けることにする。
翌日、残していた本などを古本屋へ行き処分したり、実家へ荷物を送ったりする。
さらに、自動車工場の期間従業員の面接へ行く。
高田馬場で面接を終え、その週内に来る通知を待つ。
面接から帰ると、アパートにハガキが舞い込んでいた。
北京、リシケシュ、チェンマイで会った富岡さんからだ。
リシケシュの『ヨガニケタン』で、40日間断食をした富岡さんは、長野県出身で、大阪の大学を卒
業後、ずっと西荻窪に居た、と話していた。
チェンマイで会った後、しばらくして帰国し、僕のアパートから通りを一本隔てただけの所に部屋
を借りた、との知らせだ。
木本と、夜、訪ねる。
作務衣姿で出迎えた富岡さんは、早速焼酎をすすめる。
とりあえずアルバイトを探す、とのことだ。
期間工不採用の通知が届き、驚く。
面接で、住民票を社員寮へ移しても良いですか、と要らぬ質問をしたせいか。
慌ててコンビニへ行き、求人誌を手に取り、池袋の工場下請け会社の募集広告を見付け即座に電
話し、電車に乗って面接へ行く。
即決だった。
夜、木本にことのいきさつを話す。
聞きながら、求人誌を木本はめくり、
「こっちの方が条件が良い」
と、別の募集広告を僕に見せる。
同じく下請けで、場所は愛知県。
翌日電話すると、名古屋の会社へ履歴書を持って来て下さい、とのことだ。
交通費は支給され、就職祝い金10万円ももらえる。
10月20日日曜日、木本にアパートの部屋を託し、別れる。
それが木本と会った最後で、翌年2月末、ドイツ・フライブルクの大学へ入学が決まった、との連
絡があり、アパートの敷金を振り込んでくれ、以降、連絡はない。
アパートから駅への道すがら、この街に住んでいる間よく行った小さな喫茶店へ久し振りに入り、
コーヒーを飲む。
西荻窪から東京駅へ、そして新幹線に乗り名古屋へ。
名古屋から名鉄で1駅、ナゴヤ球場前。
駅から近いビルに、下請け会社はある。
名前と連絡先を確認する程度の至極簡単な面接で、同時刻に面接に来た男性2人と一緒に、マンシ
ョンの一室へ案内され、
「ここで1晩泊まって。ケンカしたらダメだよ」
と言われる。
翌日、工場を案内するそうだ。
同室となった2人とは、割に気が合った。
京都の大学を中退後工場系のアルバイトを渡り歩く僕と同年齢の男性、1歳年下の名古屋の男性、
と3人とも同世代で、話は尽きない。
工場を転々としてきた男性が経験談を語り、僕も、旅行の話をする。
その頃、テレビ番組で、コメディアンがユーラシア大陸を横断する企画が大人気で、それみたい
だね、と言われたが、日本へ帰ったばかりの僕には、何のことか分からない。
そのテレビ番組のことを知ったのは、もう少し後だ。