「道徳の教科化」に関するプロジェクト委員会答申

2016 年 6 月 1 日
一般社団法人キリスト教学校教育同盟
理事長
佐藤 東洋士 殿
「道徳の教科化」に関するプロジェクト委員会
委員長
小暮 修也(明治学院)
委員
大橋 邦一(東北学院)
杉山 修一(プール学院)
町田 健一(北陸学院)
水口
事務局
洋 (玉川聖学院)
磯貝 暁成(教育同盟)
「道徳の教科化」に関するプロジェクト委員会答申
1.はじめに
2015 年 3 月 5 日のキリスト教学校教育同盟総会において、
「道徳の教科化」に関するプロジェクト委員会(以下
「本委員会」と言う。) が設置され、以下の内容について諮問することが課せられた。
諮問内容 (1) 道徳の教科化から起こってくる問題点の情報とその対応策の提供システムの構築
(2) 教科道徳(指導要領)に対するキリスト教教育の小冊子の作成
注意すべき点
① 「道徳の教科化」の問題点、危険度、今後の方向性
② キリスト教教育と道徳教育の違いとその内包性の明確化
③ 「宗教」
「聖書」を「道徳」の代替として実施する場合の問題点と可能性
④ 今後、文科省が動き出した時に、どういう対応をすべきなのか
⑤ 教育同盟として「指針」を出してほしいとの声に応える
本答申は、上記の点を確認しながら、
「道徳の教科化」にいたる歴史的流れとその背景、教科の取り組み、学校
教育全体の取り組み、課題と指針、を柱としてまとめた。また、本答申は問題点や課題を提示しつつ、具体的に
取り組む際の事例を掲げたが、
これは参考例であり、
各学校においてさらに独自に展開してほしいと願っている。
2.
「道徳の教科化」にいたる歴史的流れとその背景
1945(昭和 20)年の第二次世界大戦敗戦後、日本は「教育勅語」に基づく国家主義的教育から、日本国憲法と教
育基本法に基づく個人の尊厳・真理と平和を求める教育へ転換した。1947(昭和 22)年の学習指導要領では、従来
の修身(公民)・日本歴史及び地理を廃止し、新たに社会科を設けたこと、また道徳教育については全教育活動
を通じて行うこととした。
しかし、1950 年代から「道徳の教科化」の論議が繰り返され、1958(昭和 33)年に教育課程審議会は小学校・
中学校教育課程で「学校教育全体を通じて行うという方針は変えず、新たに道徳教育のための時間を特設する」
ことを文部大臣に答申した。これを受けて、同年、学校教育法施行規則の一部が改訂され、
「道徳の時間」が新設
された。
1
全学校における宗教教育・宗教儀式を禁止するために 1899(明治 32)年に出された文部省訓令 12 号を一つの契
機として、1910(明治 43)年に結成されたキリスト教学校教育同盟(以下、
「同盟」という。)は、戦後の道徳教育に
ついて、戦前の「教育勅語」に基づく修身教育を妥協的に受け止めてきた反省から、
「道徳教育」と「キリスト教
教育」との関係に強い関心を持ち続けてきた。そして、同盟の各学校は、学校教育全体の再検討や、
「道徳の時間」
と宗教教育との関連について活発な議論を行った。
しかし、私立小・中学校では「宗教をもって道徳に代えることができる」(学校教育法施行規則第 50 条第 2 項、
第 79 条)との法的根拠が与えられ、キリスト教学校の危機意識は弱まった。その後も道徳教育についての研究は
進められ、特設された「道徳」の指導内容と聖書科カリキュラムの中の道徳的内容との比較研究なども行われた
が、
「道徳」は「宗教」をもって代替できるということにより、
「道徳」と「キリスト教教育」との関わりをどの
ように考えるか、ということについての議論は少なくなった。
今回の「道徳の教科化」は、そもそも政府の教育再生実行会議が『いじめ問題への対応について』として「道
徳の教科化」を提言、2013(平成 25)年 2 月「道徳教育の充実に関する懇談会(有識者会議)」が、報告書『今後の
道徳教育の改善・充実について』で、
「特別な教科」として検定教科書の導入、数値化しない記述的評価、担任に
よる指導、教員養成課程における指導法の履修、教育実習の具体的提言をして、学習指導要領前倒しの改定にな
った。ここで注意すべき重要な点は、1966(昭和 41)年の「正しい愛国心」
「象徴への敬愛」を盛り込んだ「期
待される人間像」が公表されて以来、
「愛国心の涵養」
、次に「宗教的情操の育成」の必要と、道徳教育強化の主
旨が変遷してきた結果であったことである。
2016(平成 28)年度中に学習指導要領が改訂される。完全実施は 2020 年度になるが、小・中学校の学習指導
要領については、2015(平成 27)年 3 月に一部改定されて道徳の教科化が「特別の教科 道徳」として新設され、
前倒しに実施されている。また、検定教科書が導入されることになっており、その検定基準が具体的にどうなる
か、キリスト教学校だけの問題ではないという注意が必要である。今回の学習指導要領改訂においては「宗教に
よる代替」は維持されたが、キリスト教学校の小・中学校の聖書科は待ったなしの対応が迫られることになる。
さらに、2016(平成 28)年度の学習指導要領全面改訂では、高等学校に「公共」という新科目の設置が検討され
ている。この科目は、18 歳に選挙権を引き下げることについての対応もあるが、議論の発端は、小中学校の道徳
教育の徹底とともに、道徳教育の幼稚園から高等学校までの継続的な展開を考えようとする動きであったことに
注意する必要がある。
3.教科の取り組み
「特別の教科 道徳」は 2018(平成 30)年度より検定教科書が導入され完全実施される。これが実施されると、
代替としての「聖書」の授業内容が、道徳の学習指導要領に沿っているのかが問われる。そこで、道徳教育教材
である『私たちの道徳』
(文部科学省、平成 26 年 6 月発行)の課題、キリスト教倫理の視点、キリスト教教育で
の可能性の三点について述べたい。なお、道徳の領域と項目に対応する「聖書」の授業での具体的事例、また同
領域と項目に対応する聖書及び同盟編教材との参照箇所については、
[添付資料1、
2]を参照していただきたい。
(1)
『私たちの道徳』の課題
道徳とは「規範」であると同時に、主体的、具体的にその規範を実践できることと言われている。また教育と
は「教える」という社会化の機能と「引き出す」という個性化の機能を併せ持つと言われている。1947(昭和
22)年制定の教育基本法における教育の目的にあるように、教育とは「人格の完成」をめざすものであり、道徳
教育はその根幹を担うものと言えるだろう。したがって道徳教育は規範を知識として子どもに教える機能と、子
どもが道徳的問題をみずから考え、判断し、行動する実践力を育てようとする機能を併せ持つ教育である。
2
しかし、
『私たちの道徳』からは日本の道徳教育の課題として、主に次の三つがあげられる。
第一に「知行不一致」という課題である。現実的な問題において道徳的価値が有効に機能せず、思考と感情、
意欲と行動が連動して働いていない。それに対し教育行政は「実践力は養われたが、実践に至っていない」との
レトリックで現状を肯定するが、教育現場の苦悩とは乖離している。
第二に「心情追求型」という課題である。日本人の心性として「心情追求型」の道徳教育が踏襲されることを
美徳と思う傾向が背景にある。特に日本の伝統文化、また愛国心という項目において、歴史的根拠に欠け、子ど
もたちの日常生活からかけ離れた内容が散見される。例えば小学 3・4 年(1)
「日本の文化の中にある礼ぎ」に
ある茶道や華道は身近ではないし、大切である理由がない。また「一期一会」の本来の意味、
「江戸しぐさ」の時
代考証も無視され、こうした恣意的とも取れる展開は道徳を主体的に考え議論する以前の問題との指摘もある。
第三に「考える道徳」
「議論する道徳」と奨励されているが、実際は主体性を日本人に持たせることに拒絶感や
危機感を募らせる傾向が根強くあり、従属的で無批判な日本人の方が管理統制しやすいという意識が隠れている
ではないかとの批判もある。
こうした課題から、子どもと教師が身近な学校生活、日常生活の問題解決に向けて協働探究し、子どもの自尊
感情や自己肯定感を高め、他者を理解し尊重する教育が求められているのではないか。子どもが「慣習的道徳」
を超え出て「反省的道徳」を身につけ、協働探究や自由闊達な話し合いを続け、その過程で自己省察、自己批判、
自己評価をもたらすことで、道徳的成長を遂げることが求められている。
(2)キリスト教倫理の視点
倫理とは、人はいかに生きるべきか、人生はいかにあるべきかを問うことである。人は一人で生きると同時に
他者と共に生きる存在であるから、他者と共に、他者のために生きてこそ、真に人間らしい生き方ができると言
えるだろう。しかし、人は自己自身として生きながら、同時に他者とともに生きようとすると、そこに矛盾や葛
藤が起きる。
『私たちの道徳』では、そうした人間の弱さを克服し、目標に向かって努力することに終始している。
しかし、キリスト教倫理では克服できない人間の弱さや醜さがあることも認めている。いわゆる人間の自己中
心性という人間観である。聖書は人間が相対的な存在でありながら、自己を絶対化するという「罪」にあるとい
う人間観を伝えている。
そこで、イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じないさい」
(マルコ 1:15)と罪の赦
しを宣言された。また「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
(マルコ 2:
17)と言われた。自己中心性の罪から解放されるのは、十字架の死に至るまで罪人を愛し、赦されたイエス・キ
リストを信じる信仰によってのみ救われる。キリスト教倫理の核心とはこの「福音」である。
福音に対する信仰を抜きして、律法を単に実行しようとすることはキリスト教倫理ではない。それゆえ福音は
道徳、倫理を批判しつつ内包し、真の道徳へ、真の倫理へ、真理へと導くのである。福音は人間の罪に対する裁
きと共に、新しく生かされる人間の生、新しい共同体の可能性を与える。
(3)キリスト教教育の可能性
キリスト教教育はキリスト教の精神に基づく教育である。キリスト教教育は、日本国憲法、教育基本法(1947
年制定)の下に教育活動を行いつつ、聖書の視点から真理を求め続ける自由な学びである。日本国憲法の国民主権、
基本的人権、平和主義は、まさにキリスト教教育が問い、学び続けているテーマである。客観的な知識を習得し
有能な機能的存在となると同時に、他者との出会いと関わりを通して人間の罪、エゴイズム、ニヒリズムと向き
合いつつ、その束縛と支配から解放するイエス・キリストと出会い、信じることによって営まれるのがキリスト
教教育である。
3
子どもたちに他者の苦痛や抑圧への共感を訴えかけ、多くの異なった他者と人間的に結びつき連帯することの
大切さを伝える聖書の学びが必要ではないか。子どもたち自身の想像力こそが、社会における残酷さ、苦痛、侮
辱をできるだけ減少させ、個々人の差異に寛容な社会的連帯を実現することを望むようになる。そうして魂を揺
さぶり自己変容をもたらす教育が求められている。キリスト教教育とは「関係性」による教育、他者、特にこの
世で最も「小さくされた人々」との関係性の中にこそキリスト(福音、救い)があるという教育である。
道徳教育では、理不尽で不条理な現実、差別や貧困などの課題に向き合い、規範を越えた良心の発露としての
体験と行動が求められる。そうした宗教的(内面的)体験への学びとしての聖書の学びが必要ではないか。現代
社会の具体的な困難な課題、自分自身の弱さや醜さとも向き合いつつ、キリスト教倫理の核としての福音に触れ
る学びが求められている。
4.学校教育全体の取り組み
道徳に関して、現行の学習指導要領においては、
「道徳教育の目標は,学校の教育活動全体を通じて,道徳的な
心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。
」「
( 小学校学習指導要領 第 3 章道徳 第一 目標」)
と明示されている。道徳教育が学校教育の「要」であるとの認識が述べられ、教科活動、特別活動など教育活動
の全領域において実施すべきものと位置づけられてきた。次回の改訂では「道徳の教科化」が推進されることと
なり、教科としての道徳が注目されているが、道徳教育は学校教育活動全体の中に位置づけられていることが必
要であることには変更がないものと思われる。
今日まで道徳の代替として「聖書」を設定してきたキリスト教学校においては、キリスト教精神に基づく教育
を実践してきた歴史的経緯を振り返ると、
「道徳を超える宗教教育」は、礼拝をはじめとする学校教育活動の全領
域を通して行われてきたといってもよいのではないか。とりわけ、学校の特色を形作るヒドゥン・カリキュラム(隠
れたカリキュラム)と言われる学校行事や特別活動の中に、このキリスト教的な真理探究の機会が多く提供されて
いた。教室の授業という形式では伝えられない「体験を通しての気づき」や、
「人との出会いを通しての目覚め」
などは、様々な独自行事や特別活動を通して、児童・生徒の心の中に培われてきたと言えるだろう。
本委員会では、伝統的にキリスト教学校の中で培われてきた道徳の領域の学びが、今回の学習指導要領の目標
としている道徳内容とどのように重なり、さらに広がりと深まりを与えているのかを考えてみることとした。そ
のためにそれぞれの学校の伝統な行事や営みの中で根づいている、キリスト教的な世界観や人間観の獲得過程を
まとめてみることが必要であるということを話し合った。また、今後、教育行政から求められるであろう、道徳
の内容としての中学校 4 領域 24 項目(小学校では 22 項目)の実践の説明に的確に応答できるよう、いくつかの学
校の事例を参考として提示することで、それぞれのキリスト教学校独自の教育活動を整理するためのヒントを提
供することを考えた。
そのために全国の5つの学校(小学校から1校、中学校から1、中高から3校)の事例を整理してもらい、参考
資料として添付することとした[添付資料3]
。これら5校の実践例はキリスト教学校における実践の具体例であ
り、一般的傾向として共通性を持っているように思われる。
A 小学校では宿泊活動や校内外の諸行事、委員会や児童会活動が連動して徳目の養成に寄与している。学校生
活そのものが道徳教育に通じていることを示していると言えよう。B 中学校の実践では、聖書科の授業と連動し
て道徳が位置づけられている点に特徴があり、
学校全体の宗教教育が行事や諸活動に浸透している様子が伺える。
C 校では、中高一貫校の特徴を生かした6か年のカリキュラム作りが続けられており、中高継続教育の中では
「道徳」が中学だけで完結するのではなく、建学の精神の実現のための段階的な取り組みが進められていること
を示している。D 校では、学校独自の取り組み(総合的学習や特設科目)を設定することで、キリスト教学校の
独自性を示す試みと言えよう。授業と行事が連動していて、その中での気づきに焦点を置いているところに独自
4
性が現れている。E 校でも学校特設科目と総合的学習、学校行事、宗教行事などが生活指導や進路指導と連動し
て 24 項目が学ばれていることが見受けられる。
このような調査を踏まえて分かることは、どのキリスト教学校も十分に「道徳教育」が目指している学習内容
を「体験的に学ぶ」機会が設けられていることであり、
「道徳教科」の机上の学びを凌駕する体験的学習が用意さ
れていることであった。おそらく、ここで取り上げたいくつかの学校の事例は特別なものではなく、全国のキリ
スト教学校で行われているキリスト教教育の平均的な姿を示しているのではないかと思われる。そのことは、各
学校が行っている教育をきちんと整理すれば、行政が求める「道徳教育」の内容をクリアーすることができると
いうことであり、各学校が自信を持って、それぞれのキリスト教教育活動を展開していくことが可能であること
を意味している。私たちは旗印を鮮明にして、キリスト教学校の特色をより明確に提示していくことが必要であ
る。
5 課題と指針
(1)今後のキリスト教学校の課題
今回の学習指導要領改訂においては「宗教による代替」は維持されたが、キリスト教学校の小・中学校の聖書
科は対応が迫られることになる。そこで、キリスト教学校に対する「道徳教育を推進する側からの圧力」と「外
圧の結果としてのキリスト教学校の危機」に注意して、今後キリスト教学校が直面するであろう課題を以下に列
挙する。
① 推進側からの圧力(外圧)
・
「特別の教科 道徳」の設置に伴い、検定教科書の使用が強要されることはないか?
「宗教」が代替となっており、キリスト教学校では「聖書」でよいはずであるが、道徳教育を推進する側から
の強力な圧力が考えられる。事実「宗教での代替」への道徳教育推進側の根強い抵抗がある。
「代替」の維持の
廃止、代替であっても聖書科への道徳の 4 領域 24 項目の押しつけ、検定教科書の使用義務(聖書プラス検定教
科書)等、今日の政治的な動きを勘案し、準備が必要であろう。キリスト教大学での卒論・修論で聖書科等での
4 領域 24 項目の検討、本委員会の努力等が、各キリスト教学校のカリキュラム検討に参考になることを願って
いる。
・高校における新科目「公共」の導入にあたっては、
「宗教」による代替は考えられない。
・いわゆる道徳教育のあり方だけではない、復古的な風潮や国家主義的教育の動向、日本国憲法の改訂論議等は、
いわゆる道徳の指導項目である 4 領域 24 項目を聖書科がカバーできるかの議論を超えている。聖書科を超えた
同盟としての課題である。
② 外圧の結果としてのキリスト教学校の危機
・
「宗教での代替」に関する神学的立場からの異議がある。
「聖書は道徳ではない」という立場である。
「道徳」の
捉え方の違いからも来る課題である。その際には、聖書科とは別に「特別の教科 道徳」の設置を受け入れること
になる。その場合、a.聖書科は「キリスト教倫理」として、十分に道徳教育の基礎を含んでいるという考え、b.
別設置には、時間割的に到底受け入れられない、あるいは、
「道徳」の授業を置くことはできない、という両面で
の現実的な課題がある。
・現在でも進学校である多くのキリスト教学校では、教科重視のもと聖書科が消される動きがある。
「代替」が認
められているのでかろうじて維持されているが、
「代替」が認められなくなったときに、1958(昭和 33)年の「道
徳の時間」導入の前のように聖書科を尊重して取り込めるであろうか。
③ 教員採用・研修・教育実習の課題
さらに、道徳の教科化問題に関わり、教員採用・研修の課題がある。今までに増して、教員採用におけるクリ
5
スチャンやキリスト教の良き理解者の採用努力、教員研修における礼拝、宗教プログラム、聖書科に関する啓蒙
的な研修が必須である。キリスト教学校における教職員には「キリスト教」そのものの理解と共に、
「キリスト教
学校教育」の理解が求められている。
一方、学校現場の教員研修とともに、キリスト教大学の教職課程のカリキュラム改革が急務である。ただし、
キリスト教大学といえども、公立校、一般私立、キリスト教学校への教員養成のすべてに対応する必要がある。
在り方の議論として、ICUのコアカリキュラムが参考になる。その中で、ただでさえ履修者が少ない「宗教科」
の教職課程維持、すべての免許課程で「道徳」に関わる教職科目にどのような教員を充てるか、どのような内容
構成にするのか、早急に議論すべきと考える。キリスト教主義大学は、学校礼拝等宗教プログラムに強力に協力
できる聖書科以外の全教科教員の養成に努める必要がある。キリスト教教育の立場で、道徳の教科化に際して、
クリティカルな指導の出来る教員の育成が緊急に望まれる。
最後に、
「道徳」に関してキリスト教大学教職課程、キリスト教学校現場双方における、教育実習指導の在り方
も研究課題である。
(2) 議論のための指針
キリスト教を建学の精神とするキリスト教学校は、この「道徳の教科化」という課題と向きあう中で、その背
景に「国家と宗教の関係」があることを覚えておきたい。また、日本近代化の和魂洋才、換骨奪胎とも呼ばれる
キリスト教学校の歴史の中で「宗教と教育の衝突」により、その存続が危ぶまれたことを想起しておくことも大
切ではないだろうか。
しかし、私たちのキリスト教学校は、その教育内容で十分にこの「道徳の教科化」の課題に対応できると考え
ている。そしてキリスト教倫理は、一般の道徳や倫理という社会的規範だけでは解くことのできない偏見、差別
など、社会で小さくされた存在にまなざしを向けている。それゆえに、キリスト教倫理の要である「福音」は、
一般の道徳や倫理を凌駕しつつ内包し、私たちを真理へと導くのである。そうして、すべてのキリスト教学校は
福音によって一つとされ、こうした課題と向きあい証ししていくのである。
さらに、キリスト教学校は、日々、福音によって自らが問われ続けていることを忘れてはいけない。キリスト
教学校自身もキリスト教教育の完成者ではなく、その道の求道者である。キリスト教学校は絶えず現実の社会に
対して、福音の使信に基づいた応答が求められ、その存在意義が問われている。したがって、キリスト教学校の
預言者的役割とは、旧約聖書の預言者自身の体験と同様、キリスト教学校自身が福音の本質に基づいた真の人間
形成、真の教養、すなわち人間回復を目指す教育の場として用いられているかを問い、祈り、求め続けることで
ある。
そうした困難な状況にあるにもかかわらず、主イエスご自身が「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世
の光である。
」
(マタイ 5 章 13、14 節)と言われたことを改めて心に覚えたい。福音の光に照らして過去の歴史
を直視し、福音の光に照らして現在の営みを考え、福音の光に照らして未来への希望を抱きつつ、託された教育
の業を担うことに、キリスト教学校として自信と誇りをもって共に歩んでゆきたい。
6
[添付資料1]
『私たちの道徳』に対する事例
【1.主として自分自身に関すること】
道徳は授業だけでなく、学校全体、地域、家庭でも取り組むことが「この本の使い方」の中で述べられ、その
授業方法はアクティブ・ラーニングの手法を取り入れ、
「考える道徳」
「議論する道徳」の方向性が示されている。
具体的な内容の中には小学 3・4 年(1)
「少しだけなら」で情報モラルについて、中学校(5)
「自分を見つめ
個性を伸ばす」では現代の若者の自己肯定感の低さに対する励ましのメッセージとなっている。また、記述から
は困難に対する努力、強い意志などが強調されているように見受けられるが、文部科学省が平成 26 年 11 月発行
の『私たちの道徳 活用のための指導書』
(以下、指導書)ではよりきめ細かな指導を補っている。
例えば善悪の判断の項目では、悪いと分かっていてもやってしまいたくなる人の弱さや、様々なことに興味を
もつ人の気持ちも踏まえた上での指導が奨励され(指導書・小学 43 頁)
、人のもつ矛盾や葛藤の中で考え、気づ
いていくように考慮されているところもある。また小学 5・6 年(3)
「自律的で責任ある行動を」の中では「自
由は『自分勝手』とはちがう」
「
『楽ができる』ということでもない」と呼びかけ、戦後の民主主義社会形成にお
ける個人主義が利己主義、自己中心性の肥大へと変貌し、自由の捉え違い、自分勝手な振る舞い、そして社会性
の欠如へとつながったことへの反省から道徳教育が展開されている。
さらに、その指導において「自由についての児童の意識を日常の様子などから把握しておくこと」
「自由のよさ
や規律の必要性などについて、実際の生活場面を想起しながら深く考えさせていくようにしたい」
(指導書・小学
156 頁)とし、従来の心情的、教条的な道徳教育だけではない、児童自身が日常生活の中で自由の意味について
考えるよう配慮されているところもある。
こうした児童・生徒の日常生活や内面の葛藤や迷いに対して真摯に向き合う道徳教育は、キリスト教倫理を学
ぶ可能性へとつながると考えられる。小学 3・4 年(3)
「正しいことは勇気をもって」では、
「なぜ、勇気をだせ
ないのだろう」と問いかけ、できない理由や判断に悩んだ時、その葛藤や迷いと向き合う大切さを伝えている(指
導書・小学 96 頁)
。同(4)
「正直に明るい心で」では、
「心のつな引き」と題して自分の心の中の葛藤、正直に
できない内面を見つめ、過ちは素直に改めるよう展開されている。そして小学 5・6 年(4)
「誠実に明るい心で」
では「良心と向き合おう」と励ましつつ、うそをついたり、ごまかすことのつらさを考えさせる展開となってい
る。こうした内面の葛藤と向き合う学びは、道徳的な「自律」を内包しつつ、個としての「自立」をうながすキ
リスト教倫理の学びへと展開する可能性を与えている。
そうした視点から検証すると、様々な困難な現実、事実と向き合った人々が紹介されているのがわかる。中学
(4)
「真理・真実・理想を求め人生を切り拓く」では湯川秀樹、アインシュタインが取り上げられ、事実から真
実、そして真理を求めて探求すること、疑問を持ち続ける尊さを伝えている。また山中伸弥さんは臨床医として
の道を断念し、さらに研究者としても行き詰まった経験を経て「臨床医としてはほとんど役に立たなかったけれ
ど、医師になったからには、最後は人の役に立って死にたいと思っています」との使命に至ったと証ししている。
自らの弱さ、無力と向き合いつつも、生涯をかけ他者と共にいきる医師としての道を見つけたのである。そして
世阿弥の「初心忘るべからず」の言葉が紹介され、自己を絶対化せず、他者と共に生きることへの道の尊さが示
されている。こうした内容も、真理を祈り求め続けるキリスト教倫理の学びへと展開する可能性を与えている。
また、小学 3・4 年(5)
「自分の良い所をのばして」の「人生の先ぱいに学ぼう」では「自分は何かに才能が
あるのだということを信じましょう」
(マリー・キュリー)
、
「“だめな子”とか“悪い子”なんて子どもは一人だって
いない」
(手塚治虫)
、
「ダイヤモンドは何回も何回もきず付きみがかれて美しくかがやきを放つんだよ」
(千住真
理子)とあるように、研究者としての経験、子どもの未来へのまなざし、そして厳しい芸術へ道のりから励まし
7
の言葉が伝えられている。この世の価値観、優劣では測れない、ひとりひとりの存在の尊さが伝わる内容である。
こうした善悪や功罪という二元論的な価値観を越えた、
パラドックス的な道は他者へのまなざし、
関心となり、
自由な愛となり、自分自身を含めた人間の可能性を信じ、未来への希望を育み、生き抜く力の原動力となる。こ
のような道徳教育教材をイエス・キリストの生涯という福音の光で照らし、真理探究への糸口として用いて、道
徳的な自律から、ひとりの真理を探究する者として自立する学びが聖書の学びから可能となるだろう。
【2.主として他の人とのかかわりに関すること】
この領域では「道徳の教科化」のきっかけとなった「いじめ」
、また「情報モラル」に関する教材が多く取り上
げられている。
「思いやり」
「親切」
「相手の立場に立って」
「仲よく」
「助け合い」などがキーワードとなっている。
小学 5・6 年(3)
「知らない間の出来事」
、中学(5)
「認め合い学び合う心を」では、コンピュータやスマホなど
を用いる際に見えない相手への思いやりの大切さ、自己主張だけの書き込み争いの恐ろしさが伝えられている。
小学 1・2 年(2)
「あたたかい心で親切に」では、日野原重明さんが「たすけ合って 生きる」と題して述べて
いる。自分のいのちとは自分に与えられた「時間」であり、その時間を人のために使うことが「あなたの いの
ちを 本当に つかうと いう ことに なるのです」と述べている。日野原さんは牧師の息子、一人のキリス
ト者、臨床医として患者さんと向き合う中で、イエスの生涯に照らされたご自身の人生を通して福音を証しして
いるのではないだろうか。
他方で、
「思いやり」という基調がある反面、個人の意見や主張をどのように伝えるのか、お互いの主張にどう
耳を傾け合うのかという問いが見られない。中学(5)
「認め合い学び合う心を」では、さらに相手を認めようと
しない自分自身への反省を促す論調が多く、自己肯定感の低い子どもをさらに委縮させることにならないだろう
か。互いの立場を知るには葛藤、忍耐、そして争いも避けられない。そうした中で、若田光一さんが「きちんと
議論することでお互いの信頼関係が深まり」と講演で述べていると紹介し(指導書・中学 49 頁)
、また(3)で
ジョージ・ワシントンの「友情は成長の遅い植物である」の言葉から表面的な人間関係、無批判に相手に同調す
ること、傷つくことを恐れて心を開かない関係への戒めが語られている。こうした日常生活で友人関係に悩む中
学生の思いに寄り添った指導は、生徒自身の人格形成で極めて大切なことである。
【3.主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること】
全体的に心情に訴える道徳教育が中心である。生命の尊厳を伝えている点では、キリスト教教育において展開
ができる可能性がある。小学 3・4 年(1)
「命あるものを大切に」では「命あるかぎり生きる」として宮越由貴
奈さんの「命」という詩が取り上げられ、
「命は・・・神様から与えられるものだ」と詠われている。また葉祥明
さんの「生きているって・・・」という詩には「生きているって不思議!」
「何が起ころうと、起こるまいと 全
て、うれしいこと」など、
「一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」
(コリントⅠ 12:26)
、
また「万事が益となるようにともに働くということを」
(ローマ 8:28)を想起させる。
特に中学(1)人物探訪で紹介された緒方洪庵の「人の命を救い、人々の苦しみを和らげる以外に考えること
は何もない」という使命感は、イエスの生涯を通して理解を深めることができる。そして(3)
「人間の強さや気
高さを信じ生きる」の読み物資料「二人の弟子」では、良心の声に悩む人の弱さや醜さが伝えられ、
「放蕩息子の
たとえ」
(ルカ 15:11-32)を想起させる内容となっている。特に、道信を迎える上人様の姿は放蕩息子の父親を、
そして道信を許せない智行は放蕩息子の兄を連想させ、聖書の学びでの展開を通して、キリスト教倫理の根源を
知る学びへとつながる可能性がある。
他方、キリスト教教育において展開する場合、課題となることもある。しかし、それは逆に言えば、日本の自
然に対する心情を理解する機会ともなり、また聖書におけるいのち、創造の秩序を学ぶきっかけともなる。その
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顕著な例が「生命の連続性」という表現である。いわゆる輪廻、先祖崇拝である。命が先祖から自分、そして子
孫へと受け継がれていくことがすべての学年、中学校で見られる。これらに対して、聖書の学びから人間の有限
性、祝福されたひとりひとりのいのちの尊さ、創造の秩序を学ぶことができるし、近代日本における女子教育、
医療や社会事業、また参政権の歴史などを通して、とりわけキリスト教の教育、医療、福祉における働きを通し
て、福音の光に照らされた個人が尊ばれる姿を学ぶ機会が与えられる。
また、小学 3・4 年(3)
「美しいものを感じて」には「そこに宿る神秘的な力におどろかされる」
、小学 5・6
年(3)
「大いなるものを感じて」では「人間の力をこえた神秘的な世界に」という表現があり自然崇拝、アニミ
ズム、多神教、そして偶像崇拝へと展開されることが考えられる。確かに、日本の風土、そして日本人としての
自己理解という点では受け入れるべき現実であり、歴史である。しかし、そうした自然観から土地、子孫、収穫、
所有への意識が肥大し、偶像崇拝による権力争いとなることを、聖書、特に旧約聖書の預言者を通して警告、審
判、悔い改め、救いという世界を学ぶ機会ともなる。そして、そうした聖書の学びによるキリスト教倫理の視点
から日本の歴史、特に近代以降の近代天皇制社会の真実を知り、日本の未来のあり方を考え、今を生きるキリス
ト教倫理観を育てることへとつながるだろう。
【4.主として集団や社会とのかかわりに関すること】
小学 5・6 年(1)
「法やきまりを守って」では社会の様々な課題から考えるように展開され、社会への関心か
ら考える力、判断する力を育むように展開されている。特に中学(3)
「正義を重んじ公正・公平な社会を」には
東京の中学生による「いじめ撲滅宣言」という生徒自身の主体的な実践例が紹介されている。そうした中で、中
学の最後にある「卒業文集最後の二行」はいじめの加害者として筆者の告白と、生徒の感想が述べられ心情的に
強く訴えるものがある。しかしハラスメント、体罰、家庭内暴力、ネグレクトなど大人から子どもへの言動が深
刻な現代社会の問題になっているにも関わらず、触れられていない。
他にも、前出の小学 3・4(1)で震災時の秩序ある避難生活が取り上げられているが、約束やきまりが守られ
ず盗難や暴力、そして原発事故という人災により、ふるさとの自然や地域の交わりを奪われ避難生活を強いられ
ている人々に触れられていない。また、同(6)
「伝とうと文化を大切に」では必ずしも日常的でない和服などが
取り上げられているが、伝統は良いことであることが前提となり、なぜ自分たちにとっても良いのか、なぜ大切
にするのかの理由がなく、考える余地も感じさせないのは残念である。
そして同(6)に「日本の文化にひかれて」として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が紹介されているが、
逆に近代日本で外国の文化を紹介した宣教師、外国人技術者、福沢諭吉、津田梅子、新島襄なども紹介して、グ
ローバル社会における多様な文化の交流、互いの道徳を認め合い、普遍的な地球市民としての道徳を考えること
も大切なのではないだろうか。その点からは、中学(10)
「日本人の自覚をもち世界に貢献する」で「海と空 ~
樫野の人々~」で紹介されているような戦争、災害、国境を越えた課題に共に向き合うことで、歴史を超えた普
遍的な価値観を共有し、地球市民としての道徳を考える可能性がある。
最後に、道徳教育の課題とキリスト教教育への可能性のある他の事例を示したい。
まず中学(2)
「鳩が飛び立つ日-石井筆子-」である。全体的に「負けない」
「強く」
「決意」等、またふるさ
との自然によって心情的な道徳を訴え、逆境に立ち向かう強者の道徳という基調である。そこには石井筆子に与
えられた信仰、個人の内面までは読み取ることができない。あくまで「公徳心と社会連帯を高めること」が目的
とされており(指導書・中学 154 頁)
、個人の内面や苦難の人生が為政者の社会的秩序としての道徳に利用され
ている面を感じざるを得ない。
こうした点も道徳教育の限界であると共に、
キリスト教倫理が道徳を内包しつつ、
真の道徳を考え、真理へと導く可能性を示している。
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また、前出の中学(3)
「人権の世紀と言われる二十一世紀」との表現があり、世界人権宣言、非暴力と不服従
のインド独立の父ガンジーが紹介されている。人権教育はキリスト教教育、とりわけ聖書における福音と深い関
係があり、聖書の学びの可能性を広げる。
そして同(6)
「家族の一員としての自覚を」にある鎌田實さんの「誰かのために」がある。末期医療にあった
母親が子どものために最後の弁当を作り、娘の切ない思いが綴られている。
「人間は誰かのためにと思った時に希
望が生まれてくるし、その希望を持つことによって免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思い
ます」と鎌田さんは述べている。フランクルの『夜と霧』を思い出させる内容である。病と死、戦争という深い
悲しみにあってもなお希望を抱いて生かされる姿は、福音を知る学びへと導かれる。
[添付資料2]
聖書および同盟編教材と『私たちの道徳』との対照表
1.主として自分自身に関すること
(1)調和のある生活を送る(※項目名は『私たちの道徳 中学校』目次)
聖書
山上の説教(マタイ 5-7 章)
、荒野の誘惑(マタイ 4:1-11)
教材
入門 1.礼拝、3.賛美、13.イエスの教え、20.新約から(1)
:山上の説教
(2)目標を目指しやり抜く強い意志を
聖書
ペヌエルでの格闘(創 32:23-33)
、どこにいるのか(列上 19:1-18)
教材
入門 13.イエスの教え
(3)自分で考え実行し責任をもつ
聖書
どこにいるのか(創 3 章)
教材
入門 2.祈り、5.聖書
(4)真理・真実・理想を求め人生を切り拓く
聖書
サムソン(士 13-16 章)
、ヨブ記、知恵(箴 1:1-7)
、時がある(コヘレト 3:1-17)
、幸福(同 5
章)
、創造主を心に留めよ(同 12:1)
、タラントンのたとえ(マタイ 25:14-30)
教材
入門 1.礼拝
新約 19.パウロ(1)迫害と回心
(5)自分を見つめ個性を伸ばす
聖書
金持ちの青年(マタイ 19:16-22)
、タラントンのたとえ(マタイ 25:14-30)
、
賜物(コリントⅠ12 章)
、目標をめざして(フィリピ 3:1-14)
教材
入門 1.礼拝、6.旧約聖書、7.新約聖書
2.主として他の人とのかかわりに関すること
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(1)礼儀の意義を理解し適切な言動を
聖書
残されたナオミとルツ(ルツ 1 章)
教材
入門 1.礼拝、5.聖書
旧約 25.ルツ記、エステル記、ダニエル書、ヨナ書、哀歌
(2)温かい人間愛の精神と思いやりの心を
聖書
善いサマリア人(ルカ 10:25-37)
教材
入門 1.礼拝、2.祈り、9.供え物、21.新約から(2)
:たとえ話、新約から(3)奇跡
新約 4.弟子たちとの出会い、
(3)励まし合い高め合える生涯の友を(4)異性を理解し尊重して
聖書
天地の創造(創 1-3 章)
、ダビデとヨナタン(サムエル記上 20 章)
、
弟子の足を洗う(ヨハネ 13:1-20)
、友のために(ヨハネ 15:11-17)
教材
入門 2.祈り、13.イエスの教え、旧約(1)
:はじめにあったこと、
21.新約から(2)
:たとえ話、22.新約から(3)
:奇跡
旧約 2.アダムとエバ、24.旧約聖書の文学(2)
新約 5.教え(1)幸いな人、地の塩・世の光、24.パウロの手紙とパウロ以外の手紙
(5)認め合い学び合う心を
聖書
敵を愛しなさい(マタイ 5:43-48)
教材
入門 1.礼拝、15.弟子たちの働き:パウロ、21.新約から(2)たとえ話、
23.新約から(4)受難と復活
旧約 25.ルツ記、エステル記、ダニエル書、ヨナ書、哀歌
新約 6.教え(2)
:敵を愛しなさい、求めなさい
8.たとえ(1)
:善いサマリア人、放蕩息子、18.初代教会と迫害
(6)人々の善意や支えに応えたい
聖書
善いサマリア人(ルカ 10:25-37)
教材
入門 1.礼拝、9.供え物、21.新約から(2)
:たとえ話、22.新約から(3)
:奇跡
新約 4.弟子たちとの出会い、8.たとえ(1)
:善いサマリア人、放蕩息子
9.たとえ(2)迷い出た羊、24.パウロの手紙とパウロ以外の手紙
3.主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること
(1)かけがいのない自他の生命を尊重する
聖書
天地の創造(創 1、2 章)
、ノアの箱舟(創 6-9 章)
、主は羊飼い(詩編 23 編)
、
山上の説教(マタイ 5-7 章)
、成長させる神(コリントⅠ3:5-9)
タラントンのたとえ(マタイ 25:14-30)
、迷い出た羊(マタイ 18:10-14)
、
失われた羊(ルカ 15:3-7)
、愚かな金持ちのたとえ(ルカ 12:13-21)
歴史
アッシジのフランシスコ、レイチェル・カーソン
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(2)美しいものへの感動と畏敬の念を
聖書
天地の創造(創 1、2 章)
、ノアの箱舟(創 6-9 章)
、金の子牛(出 32 章)
、
王を求める民(サ上 8 章)
、創造の詩編(77:17-20、89:10-13、93 編、
104 編、136:4-9)
、創造(箴 8:22-31)
、創造(イザヤ 41:17-20)
、
偶像崇拝(ダニエル 3 章、6 章)
、神の被造物(ローマ 1:18-32)
、
思い悩むな(マタイ 6:25-34)
、自然を治める(マタイ 8:23-27)
、
病を癒す(マタイ 8:14-17)
教材
旧約 23.旧約聖書の文学(1)ヨブ記、詩編、
(3)人間の強さや気高さを信じ生きる
聖書
蛇の誘惑(創 3 章)
、バベルの塔(創 11 章)
、ヨブ記、詩編
幸い(マタイ 5:1-12)
、思い悩むな(マタイ 6:25-34)
教材
入門 7.新約聖書、8.説教、13.イエスの教え、15.弟子たちの働き:パウロ、
16.旧約から(1)はじめにあったこと、17.旧約から(2)なぜだろう、
21.新約から(2)たとえ話、22.新約から(3)奇跡
新約 3.荒れ野の誘惑、9.たとえ話(2)
:迷い出た羊、
13.イエスと出会った人々:一人の女、徴税人ザアカイ
4.主として集団や社会とのかかわりに関すること
(1)法やきまりを守り社会で共に生きる (2)つながりをもち住みよい社会に
聖書
天地の創造(創 1-3 章)
、アブラハムの契約(創 12:1-5)
、
荒れ野の放浪と十戒(出 1-20 章)
、シケムの契約(ヨシヤ 24 章)
、
何事にも時があり(コ 3:1-11)
、安息日に麦の穂を摘む(マルコ 2:23-28)
、
金持ちの青年(マタイ 19:16-22)
、安息日に腰の曲がった婦人をいやす(ルカ 13:10-17)
、
キリストにおける新しい生活(ローマ 12:1-2)
教材
入門 1.礼拝、5.聖書、8.説教、9.供え物、11.弟子たちの働き:ペトロ
旧約 3.大洪水とノアの方舟、4.バベルの塔、5.アブラハム、7.ヨセフ、
11.シナイ山の契約、12.十戒
新約 4.弟子たちとの出会い、7.教え(3)
:新しい掟、イエスはまことのぶどうの木
(3)正義を重んじ公正・公平な社会を (4)役割と責任を自覚し集団生活の向上を
聖書
ヤコブ(創 25:19-33:20)
、ヨシヤの改革(列下 22:3-23:18)
、
正義と公平(アモス 2:6-8、5:14-15、21-24、6:4-8、8:4-6、
ミカ 2:1-2、8-9、3:1-4、イザヤ 1:21-23、3:13-26、5:7-30、10:1-4)
、
民の不正の解消(ネヘミヤ記 5 章)
、重い皮膚病を患った人をいやす(マルコ 1:40-45)
、
徴税人ザアカイ(ルカ 19:1-10)
、弟子の足を洗う(ヨハネ 13:1-15)
教材
入門 1.礼拝、13.イエスの教え
新約 6.教え(2)
:敵を愛しなさい、求めなさい
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(5)勤労や奉仕を通して社会に貢献する
聖書
サムソン(士 13-16 章)
、弟子となったマタイ(マタイ 9:9-13)
、
タラントンのたとえ(マタイ 25:14-30)
、一つの体 多くの部分(コリントⅠ 12:12-26)
教材
入門 9.供え物
(6)家族の一員としての自覚を
聖書
父と兄を迎えたヨセフ(創 42-48 章)
、ルツ(ルツ 1-4 章)
、
ぶどうの木(ヨハネ 15:1-10)
、からだは一つ(コリントⅠ12:12-27)
教材
入門 2.祈り
旧約 12.十戒
新約 8.たとえ(1)
:善いサマリア人、放蕩息子
(7)学校や仲間に誇りをもつ
聖書
バベルの塔(創 11:1-9)
、天使と格闘したヤコブ(創 32:1-31)
、
城を建て直したネヘミヤ(ネヘミヤ 1-7 章)
、中風の人と四人の仲間(マルコ 2:1-12)
、
ぶどうの木(ヨハネ 15:1-10)
、からだは一つ(コリントⅠ12:12-27)
教材
入門 10.教会、14.ペトロ
(8)ふるさとの発展のために
聖書
(9)国を愛し、伝統の継承と文化の創造を
夢を解くヨセフ(創 39:1-41:45)
、モーセとアロン(出 5:1-13:2)
、
信仰の継承(申 6 章、7:6-15)
、約束の土地(申 8:1-10、12 章)
、
信仰の告白(申 26:1-11)
、国と国民を愛するダビデ(歴上 21-22 章、29:10-30)
、
ルツ(ルツ 1-4 章)
、ソロモンの知恵(列上 3 章)
、家と土台(マタイ 7:24-27)
、
貧しいやもめ(マルコ 12:41-44)
、皇帝への税金(マルコ 12:13-17)
教材
入門 9.供え物、10.教会、14.弟子たちの働き:ペトロ、15.弟子たちの働き:パウロ、
旧約 13.荒れ野の放浪、14.カナン定着とヨシュア、
第 3 章 約束の地における指導者たち
(10)日本人の自覚をもち世界に貢献する
聖書
バベルの塔(創 11:1-9)
、平和(詩編 46、47 編)
、創造と幸い(イザヤ 65:17-25)
、
平和(イザヤ 2:4)
、エルサレムに迎えられる(マタイ 21:1-11)
、
山羊と羊を分ける(マタイ 25:31-46)
、互いに愛し合いなさい(ヨハネ 15:12-17)
、
愛(コリントⅠ13 章)
教材
入門 1.礼拝、6.旧約聖書、7.新約聖書、10.教会、11.教会暦、13.イエスの教え、
19.旧約から新約へ、21.たとえ話、22.奇跡、
24.日常的に使われている聖書の言葉
新約 8.たとえ(1)
:善いサマリア人のたとえ、放蕩息子、17.教会の誕生、
20.パウロ(2)
:第 1 回宣教旅行、21.パウロ(3)
:第 2 回宣教旅行、
22.パウロ(4)
:第 3 回宣教旅行、23.パウロ(4)
:ローマへの旅、
25.ヨハネの黙示録
以上
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