第11章 イエスの生

第 11 章 イエスの生 誕生
クリスマスとして知られるイエスの誕生は、
マリアへの受胎告知から始まり、博士たちの祝
いと、羊飼いたちの祝いによって、語られてい
る。未婚の母となるマリアに天使は「聖霊」に
よる誕生を告げる。
わたしたちはこの「聖霊」をキーワードとし、
誕生物語を読み解いていこうと思う。
かか
聖母子像
後半は現代社会が抱える生命倫理の問題につ
いて考察しよう。また「メサイア」などのクリスマス音楽も鑑賞した
い。
キーワード
誕生物語 マタイ福音書 受胎告知・誕生・インマヌエル・博士たち、エジプト逃避
ルカ福音書 受胎告知・ローマの人口調査・誕生・羊飼いの祝い マタイ福音書による
受胎告知 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身
ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、
マリ
アのことを表ざたにするのを望まず、
ひそかに縁を切ろうと決心した。このよ
うに考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、恐れ
ず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのであ
る。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の
民を罪から救うからである。
」
このすべてのことが起こったのは、
主が預言者を通して言われていたことが
実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は
インマヌエルと呼ばれる。
」この名は、
「神は我々と共におられる」という意味
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第 11 章 イエスの生 誕生
である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の
子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
(マタイ 1:18-25)
マリアはヨセフと婚約していたが、夫婦の関係がないのに、子ども
が生まれるというお告げにとまどい不安を感じた。天使は、その子は
「聖霊」によって生まれると、ヨセフに説明している。また「その名は
『インマヌルエル』」すなわち「神が共にいる」という意味である。そ
れは旧約聖書イザヤ書 7:14 にある預言の成就であるという。
イエスにあらわれた人の真実
神共にいます・インマヌエルの構造
天使が語る「神がともにいる」・インマヌエル
の図を右のようにあらわしてみた。聖霊によって
イエスの生命が誕生する。聖霊は生まれて死ぬま
では日々新たに、また一瞬一瞬に、生命に働き、
いのちを注ぎ込み、生命は生きる。
生命は聖霊が注ぐいのちを意のままにできない、
絶対受動であり、その関係を逆にできない不可逆の関係にありつつ、
かつ、密接に結びついて不可分離の関係にあることを下から上に向か
う↑であらわした。イエスにあらわれた、神が共にいますインマヌエ
ルの「真実」を神と人との密接な構造の図にあらわした。
マリアは天使の言葉を信じて受け入れたが、婚約中のヨセフは「こ
のことが公になる」ことを好まず、
「ひそかに離縁」を決意し、この決
意によって夫婦関係がなかったことを証明している。しかし、天使は、
夫婦の関係を超えた、
「聖霊」によって生まれる誕生であると言ってい
る。
博士たち イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。その
せんせいじゅつ
とき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。
「ユダヤ人
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第 11 章 イエスの生 誕生
の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方で
その方の星を見たので、拝みに来たのです。
」これを聞いて、ヘロデ王は不安
を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、
メシアはどこに生まれるこ
とになっているのかと問いただした。彼らは言った。
「ユダヤのベツレヘムで
す。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指
導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。
』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を
確かめた。そして、
「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知ら
せてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに
幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子
もつやく
を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、
「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分
たちの国へ帰って行った。
(マタイ 2:1-12)
せんせいじゅつ
「占星術の学者たち」はひときわ輝く星が出る時、救い主・メシアが
生まれるという預言を確かめるために、東方の国からやってきてイエ
スの誕生を祝った。伝説によると、彼らは、およそ 500 年前にバビロ
ン帝国に捕囚として連行され、その 50 年後に解放された。しかし、祖
国に帰還せずに居残った人たちの子孫であった。
もつやく
彼らは「黄金・乳香・没薬」の3種の贈り物をイエスにささげた。
おが
ヘロデ王は、
「ユダヤの王」を拝みに来た博士たちの言葉を聞いて、
おだやかではなかった。その後、
「ベツレヘムとその周辺一帯にいた 2
才以下の男子を一人残らず殺させた」(マタイ 2:16)。
イエスのエジプト逃避
イエス親子はヘロデ王の幼児殺しを逃れてエジプトに避難した。イ
エスが初めて経験したこの人生の危機は多くの画家がテーマとして描
いてきた。
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第 11 章 イエスの生 誕生
右の絵はジオットが描いた「エジプト逃避」
である。逃げなければ生きていけない人生の危
機を暗闇の中に、その行く手を天使がかすかな
光の中に導いている。
20 世紀は戦争、民族の紛争、感染病、政治的、
経済的理由で多くの人が命を落とし、他国に逃
れた難民の世紀といわれる。
住みなれた故郷を離れる人たちは、エジプトに
逃れたイエス親子に励まされてきた。
エジプト逃避
これらの事は「主が預言者をとおして言われたことが実現するため」
(
せつり
マタイ 2:17)であると言い、神の摂理が働いていることを暗示してい
る。
ルカによる福音書
受胎告知
6か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わさ
れた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わさ
れたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来
て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。
」マリアは
この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天
使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に
父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わる
ことがない。
」マリアは天使に言った。
「どうして、そのようなことがありえま
しょうか。わたしは男の人を知りませんのに。
」
天使は答えた。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だ
から、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 (ルカ 1:26-35 )
ルカは受胎告知を天使ガブリエルによって伝えている。ローマの神
話の中で、ガブリエルは最も位の高い天使長で
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第 11 章 イエスの生 誕生
あり、ガブリエルの来訪は重大な知らせをもって
きたことを意味した。
とまど
マリアはそのお告げに戸惑いを覚えた。また、
この戸惑いと疑問によってマリアは夫婦の関係が
なかったことをあらわしている。天使は地上で起
こることの意味や運命を解釈して伝える。ガブリ
エルはマリアの受胎を「聖霊」によると告げた。
このように、マタイ福音書とルカ福音書は、ど
ちらもマリアの受胎を「聖霊」の働きによるとしている。
誕生
受胎告知
ちょくれい
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が 出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住
民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセ
フもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユ
ダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいな
ずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにい
るうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に
寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカ 2:1-7)
イエスの誕生は人口調査の時と重なっていた。ローマ帝国の支配下
にある人はすべて人口調査の登録をした記憶をもっていただろう。
また、キリニウスがシリア州の総督であった時の人口調査であった
として年代を特定している。人々はみな自分の本籍地で登録した。
登録は
1 , ローマ皇帝に対する忠誠の誓い。
2 , 登録税の支払いからなっていた。
伝説によるとヨセフがろばのほかにつれてい
た一頭の牛は登録税のためであった。出産間近
のマリアを連れて行くか否か、ヨセフは迷った
うえでマリアを連れて行った(「黄金伝説」)。
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羊飼いの祝い
第 11 章 イエスの生 誕生
ヨセフの本籍地ベツレヘムは登録をする人たちで混雑していた。そこ
に滞在しているあいだにマリアは月が満ちて幼な子イエスを産み、布
かいばおけ
にくるんで飼い葉桶の中に寝かした。羊飼いたちがイエスの誕生を祝
いにきた。ルカは、貧しさの中に生まれ、貧しい人々と共に生きたイ
う
ぼ
エス像を、浮き彫りにし、貧者の宗教としてキリスト教を強調してい
る。
聖霊
マタイとルカはどちらもイエスの誕生を「聖霊」によって生まれた
としている。
「聖霊」は見えない神の働きであり、Spirit と頭文字を大
文字であらわし、頭文字を小文字で表す spirit(さまざまな霊、諸霊)か
ら区別される。イエスの誕生はこの「聖霊」の働きによる。
しかし、また、人は男と女の結びつき、性交によって、精子と卵子
が受精して生まれると考える。
「わたしは男の人を知りませんのに、どうして、
そのようなことがありえましょうか。
」
(ルカ 1:34)
マリアは天使のお告げに対して妊娠はあり
えないと言っている。生命は、精子と卵子の
受精によって、ある条件が整って生まれると
考えられる。また誕生という始まりをもち、
死という終わりをもつ。この寿命の命・現
象としての命を、
「生命」
(psyche・プシュケー)
と言う。この科学的理解に対して、マタイと
ルカは全く別の視点を提示し、生命を生みだ
す、もとの命(zwh・ゾーエー)を重視する。
すなわち、「命」の目に見えるあらわれとし
て「生命」の誕生を重視し、その人生を祝福
する。
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第 11 章 イエスの生 誕生
この「命」と「生命」の区別と関係を明らかにすることが、生命を論
じる基礎となる。次頁の図は、目に見える現象世界に生きる、そのも
とにある見えない世界を示している。キリスト教では通常、見えない
世界を天とし上に考えて上部構造とし、目に見える世界を下部構造に
あらわしてきた。聖霊は上から下へ下り、人は死んだら天に上ってい
くとイメージされている。わたしたちは従来の考えを逆転し、上部構
造の見えない命〔聖霊、永遠の命、また命の息〕を、人間を根底から
支えるという意味で下部に置いた。そのほうが分かりやすいし受け入
れやすく思われる。このように「命」と「生命」の区別と関係を明ら
かにして論じることが大事だと思う。
科学は、見える現象世界だけを対象とする。
科学は実証的でなければならない。科学は生命が現象としてあらわれ
るぎりぎりの成立点を解明し、それによって生殖技術はめざましい進
歩をとげている。飼育動物の馬や豚また牛などは、ほとんどが人工授
精の技術によっている。その技術を人間に適用し、自然に受精できな
い人に人工的に授精して出産する技術が普及し、また体外受精による
出産も可能になった。さらに、受精卵は冷凍保存されるようになり、冷
凍受精卵は人なのか物なのかという新しい議論をひきおこしている。
右の新聞は 1987 年に南アフリカで 48 才の母親が娘の受精卵を宿し
て3つ子を出産したという記事を掲載している。おばあさんが孫を生
み、親と子の関係はどうなるのかという倫理が問わ
れている。
このように科学技術は生命現象をその先端まで解
明してきたといえる。その恩恵にあずかる人がいる
一方で、改めて親子の関係を問う倫理上の問題が提
起される。さらに遺伝子学の発達は、遺伝子を組み
替える技術を進め、同じ遺伝子をもついわゆるクロ
「私、孫を生みました」
新聞記事
ーン動物の羊をつくり、さらにクローン人間をつくることも理論的に
可能にしている。それを入手困難な移植臓器を代替できないかと考え
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第 11 章 イエスの生 誕生
ているのである。そこで生命に関する倫理的な規定を定め、科学技術
の逸脱を防ごうとする。生命倫理学は医学や生命学だけでなく、倫理
学、哲学、法学、社会学、宗教学などによる総合的検証を行う。
「生命
倫理(bio-ethics)」は「生命についての人間の行動の規範(準拠基準)
であり、また生命についての特定の問題状況のなかでどう行動すべき
かについて一定の行動基準」を決定する。科学技術の進歩は今、改め
て生命とは何かを問うている。
この問題を論じるとき、
「生命」と「命」の区別と関係を厳密に理解
しなければならないだろう。わたしたちは、見えない「命」について、
−科学的に実証できないものは存在しないというのでなく、また「霊
界」が見えるとか、それを先祖霊と結びつけて因縁話を作りあげて人
あお
の関心を煽り立てるというのでもなく、−以下の8つの点から考えよ
うと思う。
1. 命 その成長
パウロは植物栽培のたとえによって、命あるものの成長について次
のように言っている。
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださるのは神で
す。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてく
ださる神です。
(1 コリント 3:6)
人は植物を栽培するとき、土を耕し、種をまき、水を注ぐ。また成長
を妨げるものを取り除き、生命の成長を側面から支援する。人は花を
造る[I make a rose] とは言わない。make は紙や布などの素材を加工し
てつくるという意味であり、生命にかかわるものを人がつくるという
英語はない。上に引用したパウロの言葉は、生命あるものをこの世に
送り出すのは神であり、生命を成長させてくださるのは神であると
言っている。
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第 11 章 イエスの生 誕生
人が生命の領域に踏み込んで、生命をつくり支配しようとする欲望を
あらわすことがある。クローン技術や遺伝子組み換えによる生命への
ごうまん
いつだつ
侵入である。それは人間の傲慢であり、逸脱である。それは神の賜物
つつし
である生命の尊厳を侵すことであり、慎まなければならない。
2. 人は新しく生まれることができるか。 イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなけれ
ば、神の国を見ることはできない。
」 ニコデモは言った。
「年をとった者が、ど
うして生まれることができましょう。
もう一度母親の胎内に入って生まれるこ
とができるでしょうか。
」イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。だ
れでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉か
ら生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
(ヨハネ 3:3-6)
人は「霊によって」新しく生まれることができると答えたイエスに
対して、ニコデモは生命を即物的に考え、母の胎に入ることができな
いのに、どうして新しく生まれ変わることができるのかと反論してい
る。
ニコデモは目に見る生命現象だけを考えている。彼は科学的な世界
のほかに考えられず、見えないものの存在を認めない。生命が現象す
るその境界で、その境界を超えてくる聖霊によらなければ人は生きた
者にならない。では、見えない命をどのように認識できるだろうか。イ
エスは次のように風のたとえを示している。
3. 見えないものの存在 風と霊
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、ど
こへ行くのかを知らない。霊から出たものもみなその通りである(ヨハネ3:8)
ゆ
木の葉が揺れているのを見て、風が吹いているのを知る。それは科
学的認識ではなく経験的認識であろう。科学的に検証できなければ存
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第 11 章 イエスの生 誕生
在しないとは言えない。また、人は科学的より、経験的な認識によっ
て知ることのほうが多い。直感や経験によって得た知識である。見え
ない「命」や「聖霊」 は実証できる科学ではなく、経験によって知る
のである。木の葉が動くのを見て風を知る人は、人が生まれて死ぬの
を見て、見えない神の存在を認識しないだろうか。
4. 生まれる前から知られていたわたし
パウロは自分の命の始まりを「母の胎内」からとらえている。さら
に預言者エレミヤはもう一歩を進めて「母の胎内に造られる前から」
神に知られていたことを次のように語っている。
パウロ
たいない
わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくだ
さった神・・・
(ガラテヤ 1:15)
預言者エレミヤ
わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。
母の胎から生
せいべつ
まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。
(エレミヤ
1;5)
このようにわたしの存在をわたしの科学的な知識や経験的な直感で
知るのではなく、神に知られている知によって、わたしの存在を知る
(「告白」アウグスチヌス)。そうするとき、人は「どこから来て」
「ど
こに行くのか」がわかり、生きる目的や使命を考え始める。
5. 生命のはじまり
カトリック教会は、人命のはじまりに関する立場を次のように表し
ている。
「受精の瞬間からどの人間の命でも尊重されるべきである」
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第 11 章 イエスの生 誕生
(
「人命の始まりの尊重と生殖の尊厳に関する教書」バチカン教理省 1982)
。
1981 年に来日したローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世は、命の始まりは
受精の瞬間であるという立場から、
日本における妊娠中絶を批判した。
それは妊娠23週間以前の胎児であれば中絶することを認めている母体
保護法を批判する。この世に生まれてくる生命のもとに「命」がある。
ここにわたしたちが生きる生命の根拠がある。そう考えると、人の手
あや
で寿命を操作したり、命を殺めることは容易ではなくなる。
6. 聖霊 悪霊に対抗して イエスが聖霊を強調するとき、悪霊に苦しめられている「人」を問
題にし、悪霊を追放することによる救いを考えている。つまり、人は
ほんろう
悪霊に対して無力であり、翻弄されるばかりである。悪霊からの救い
は聖霊によるほかにない。そのためにはイエス自身が聖霊によって生
きる。その聖霊によって悪霊を追い出すことによって救われると考え
られていた。
7. 命と生命の二重構造
これまでのべてきたように「命」と「生命」は区別されると共に分
かちがたく密接に結びついて二重構造をなしている。
自分の命のことで、何を食べようか。何を飲もうかと、また自分のからだのこ
とで何を着ようかと思い悩むな。
(マタイ 6:25)
この生命は、肉体を宿として生きる。すなわち、生まれて死ぬまで
を肉体の中で生きる寿命の命である。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
(マタイ 6:26)
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第 11 章 イエスの生 誕生
ま
空の鳥は自由の象徴とされてきた。
鳥はその限りある−種も蒔けず、
刈り入れも出来ない−生命を神の命との結びつきの中で生きる。この
結びつきの豊かさにこそ自由の根拠をみることができる。また、
つむ
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
(マタイ 6:28)
野の花は美の象徴である。今日は生えていて、明日は炉に投げ込ま
れる定めにあっても、限りある命を神の命から注ぎ込まれて生きる美
わずら
しさであろう。人は生命と命のあいだに、思い煩いやおごり高ぶりな
そこ
どの人間の理性が入り込み、自由と美を損ねている。いのちはこのよ
うに「命」と「生命」の二重構造をなしている。
命と生命の二重構造をもう一度簡略にして右
のように表してみた。
上部は人の寿命を持つ生命を中心に、肉体を
宿とする精神またこころである。
下部は、見えない根源にある命の世界である。
寿命をもつ生命はそのもとにある命に密接不
可分に結ばれている。人はこの接触点に結ばれ
て、そこからすべてのものを受け、その豊かな
結びつきを生きることができる。そう生きるこ
とが許されている。また、そう生きなければな
らない。この接触点に立ち、すべてがここから成り立っている根拠を
見出すならば、人は野の花の「美しさ」を生き、空の鳥の「自由」を
得ることが出来る。
ヨハネは福音書の冒頭で次のように言っている。
ことば
8. 言
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第 11 章 イエスの生 誕生
ことば
はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によっ
てなった。・・・・言の内に命があった。
(ヨハネ 1:1-14)
。
この命は神の命である。人は神の命に密接不可分に結ばれている、
その結びつきの豊かさを生きる。そこからみなぎる命を受けているあ
いだ、わたしたちの生命は自由で美しい。また、人の生命はこの命と
の結びつきを離れては一日一瞬たりとも生きることはできない。
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第 11 章 イエスの生 誕生