Le premier homme

ノーベル文学賞 アルベール・カミュ
自伝的遺作、遂に映画化!
追憶の大地、追憶の家族。
私という人間を作った、すべての愛するものたちよ。
アルジェリアの光と風、
自由を求める民衆の胎動―。
遥かなる故郷への旅で、作家が見出した新しい世界とは
監督・脚本:ジャンニ・アメリオ
原作:アルベール・カミュ「最初の人間」
(新潮文庫)
出演:ジャック・ガンブラン、カトリーヌ・ソラ、マヤ・サンサ、
ドニ・ポダリデス、ウラ・ボーゲ
原題:Le Premier Homme
2011 年/仏・伊・アルジェリア/フランス語/ビスタ/カラー/105 分/
字幕翻訳:寺尾次郎
提供:朝日新聞社/NHK エンタープライズ/ザジフィルムズ
配給・宣伝:ザジフィルムズ
● 映画『最初の人間』原作本
「最初の人間」
新潮文庫より 2012 年 10 月末復刊決定!!
アルベール・カミュ著/大久保敏彦訳
INTRODUCTION
20 世紀を代表する作家、カミュの創造のみなもとを描く!
「異邦人」「反抗的人間」等で知られるノーベル文学賞作家、アルベール・カミュ
(1913—1960)は、46 歳の若さで自動車事故のためこの世を去った。
その際にカバンから発見された執筆中の小説「最初の人間」は、30 年以上の長い
歳月を経て、1994 年に未完のまま出版され、フランスで 60 万部を売り上げるベス
トセラーとなり、その後世界 35 か国で出版、大きな反響を呼んだ。
しかも、フランスに住む作家が、生まれ育ったアルジェリアに帰郷する、という設定
は紛れもなく自伝であり、カミュの創作の原点を知る上で大きな事件であった。
2013 年に迫った“カミュ生誕 100 年”を記念し、遂に映画化されたのが本作であ
る。
独立運動の最中、故郷アルジェリアで母と過ごす日々。
1957年夏。作家コルムリは、今は老いた母が独りで暮らす、生まれ育った土地ア
ルジェリアを訪れる。仏領のこの地は、独立を望むアルジェリア人とフランス人の
間で激しい紛争が起こっていた。
そんな中でも、母はいつもと変わらぬ生活を続けており、息子の帰郷を喜んだ。地
中海の青さも、あの頃のまま。いつしか心は、かつての少年の日に還って行く─。
父は若くして戦死し、厳しい境遇のなかで懸命に働きコルムリを育ててくれた母、
厳格な祖母、気のいい叔父、彼らはみな文字が読めなかった。そんなコルムリを、
文学の道にいざなってくれた恩師、アルジェリア人の同級生のこと…。
数々の思い出が彼の胸を去来するが、その一方で、現実の状況が、当時と大きく
かけ離れてしまったことを目の当たりにしてゆく。
追憶の旅のなかから見えてくるもの ─「最初の人間」。
コルムリの旅は、アルジェリアの貧しい家庭に育った彼の複雑な生い立ちをたどる、
自らの存在理由を確かめる旅でもあった。そのなかで、彼はフランス人とアルジェ
リア人の和解のために出来ることに思い悩む。
「最初の人間」という言葉は、最初にこの地に根を下ろしたとされるカミュの父や、
厳しい環境に生まれた自身のことをさすと思われる。まっさらな中から生まれて、
自分の力で成長してゆく人、ひいては誰もが、ひとつの国や民族に捉われない
“新しい人間”として、この世界に生まれてきている、そのようにも語っているよう
だ。
他者との共存を願い、貧しい者や弱者に共感し、暴力による解決に否定的な立場
を取り続けたカミュの願いは、今日の世界にそのまま通じ、その思いは本作にも熱
く込められている。
「家の鍵」のイタリアの名匠ジャンニ・アメリオ監督
フランスとアルジェリアの関係を描いた代表的な映画に、『アルジェの戦い』(ジッ
ロ・ポンテコルヴォ監督/1966/ヴェネチア国際映画祭グランプリ)と、カミュ原作の
『異邦人』(ルキノ・ヴィスコンティ監督/1968)の2作品があげられるが、いずれもイ
タリア人監督だった。期せずして本作の監督もイタリアの名匠ジャンニ・アメリオで
ある。
彼は、カンヌ国際映画祭 審査員大賞作『小さな旅人』では移民、貧困、差別問題
を、ヴェネチア国際映画祭三部門受賞の『家の鍵』では障害を持つ子供との共生、
と常に他者との共存の可能性をテーマに据えてきた。
STORY
1957 年夏。40 代半ばのジャック・コルムリはブルターニュのサン・ブリューの仏軍
墓地に立つ父の墓の前で静かに黙想していた。彼は父を知らない。墓石を見て、
父が死んだ年齢を自分がすでに越えていることに気付く。
ジャックは母を訪ねるため、数年ぶりに故郷アルジェリアへと向かった。フランス領
であるこの国は、独立を望むアルジェリア人とフランス人の間で激しい紛争が起こ
っており、街のそこここに軍人の姿があった。
空港に着くと、ジャックを慕う学生が大学での討論会へ招待しようと、彼を出迎え
た。
車中。学生たちは、先日行ったジャックのインタビューでの発言について触れた。
「モノを書く者は決して死者の高みに至らない」
一部の人々からは曖昧な表現だとして批判を浴びたこの言葉だが、リベラル派の
学生たちはジャックを褒め称えた。
作家として成功を収めたジャックは、政治的な発言をすることを避けてきたが、そ
れがかえって世間からの注目を浴び、かねてよりフランス人とアルジェリア人の共
存を唱えていた彼をリベラルと見る人が多かった。
「帰れ、コルムリ!我々には裏切り者など無用だ!」
大学での討論会は、「仏領アルジェリア」を進める保守派とリベラル派で埋め尽く
され、怒号と喝采が飛び交い、熱気を帯びていた。
「この国の領土には二つの人々が住んでいる。
俗論はこう言うでしょう。『流血だけが歴史を前進させる』と。
だが、作家の義務とは、歴史を作る側ではなく、歴史を生きる側に身を置くことで
す。
私は固く信じます。
アラブ人とフランス人が共存できる可能性を。
自由と平等な人々による共存こそが、現在での唯一の解決策です。」
ジャックが演台に立ち、アラブ人とフランス人の共存を提言すると、過激派が講堂
に押し入って討論会は混乱に陥った。
翌日、ジャックは本来の目的である母に会う。母は、強権的な祖母の下、エディ
エンヌ叔父と共に住んでいた同じアパートに、今も独り暮らしていた。久方ぶりの
我が家に、ジャックは、父の写真を見つめながら、自分の幼い頃に思いを巡らせ
た。
友達と共に遊び、サッカーの試合に興じた日々のこと・・・。祖母の折檻に恐怖した
こと・・・。高校への入学の道を開いてくれたベルナール先生のことを・・・。
第一次世界大戦で父を亡くした小学生のジャックは、母とその弟のエディエンヌ、
そして父方の祖母と共に暮らしていた。勉学に明るく、担任教師のベルナール先
生からもそのおスミ付をもらっていたジャックは、中学への進学を希望していたが、
祖母の反対により、エディエンヌとともに新聞工場で働いていた。そんな状況を打
開してくれたのが、ベルナール先生だった。祖母に直談判し、無教養な家庭に生
まれた自分が思いもよらなかった人生へと送り出してくれたのだ。
あくる日、ジャックはアラブ人居住区に足を運び、小学校時代の級友、ハムッドに
会う。ハムッドはその昔、ジャックがフランス人であるというだけで、ケンカをふっか
け、蔑んでいた人物だ。ハムッドは、「我々に友情はなかった」と当時を振り返りつ
つも、息子アジズが過激派のメンバーであるとして不当逮捕されたので、その無
実をはらしてくれるようジャックに嘆願する。政府機関に顔がきくジャックは、早速
アジズを釈放すべく上層部に掛け合うが、そのかい空しく、アジズは断首刑に処さ
れてしまう。
アルジェリアの大地に生まれながら敵同士に変容してしまったアルジェリア人とフ
ランス人。ジャックはその和解と共存の為に、懊悩する。そして、アジズの死を受
けたジャックは、ラジオを通して皆に呼びかけるのだった。
私は、いつも公平なアルジェリアを望んできた。
平等に同じ権利を受けられる国を―
アルジェリアには国民にふさわしい民主的な法が不可欠である。
分裂でなく団結せよ。
だがテロには反対する。
通りで無差別に起こる爆発はいつか愛する者に襲いかかるかもしれない。
私は正義を信じる。
アラブ人に告ぐ。
私は君たちを守ろう
母を敵としない限りは…
母は君たち同様、不正と苦難に耐えてきたからだ。
もし母を傷つけたら私は君たちの敵だ。」
■原作
アルベール・カミュ
1913 年 11 月 7 日、アルジェリア生まれ。フランス人入植者の父が幼時に戦死。
以後、母とともにアルジェ市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せる。
この家には、祖母のほかに叔父が暮らしていたが、聴覚障害のあった母親を含め、
読み書きができるものはいなかったという。カミュは貧しくはあったが地中海の自然
に恵まれた子供時代を送る。
1918 年に公立小学校に入学。貧しい母の実家の下、カミュはもともと高等学校へ
進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を
見抜き、家族の説得にあたる。そのかいあってカミュは、1924 年に、奨学金を受け
ながらアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学する。
リセ時代のカミュはサッカーに打ち込み、ときにアルバイトなどしながらも優秀な成
績を取っている。またこの時、リセの教員であったジャン・グルニエに出会い、その
影響で文学に目覚める。
1932 年、アルジェ大学文学部に入学。在学中に結婚するが、その後離婚。大学
卒業後の 1937 年には処女作となるエッセイ集「裏と表」を出版。翌年、「アルジェ・
レピュブリカン」の新聞記者となり、第 2 次大戦時には反戦記事を書き活躍。また
アマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。1942 年「異邦人」が絶賛され、「カリギュラ」
「ペスト」等で地位を固めるが、1951 年「反抗的人間」を巡りサルトルと論争し、次
第に孤立。以後、持病の肺病と闘いつつ、「転落」等を発表。1957 年に弱冠 43 歳
でノーベル文学賞受賞。その後、カミュはプロヴァンス地方の田園地帯ルールマラ
ンに居を構え、しばしばパリとの間を往復する生活を送る。1960 交通事故で死亡。
そこに未完の自伝的小説『最初の人間』が遺稿として残されていた。
○小説
1942 年 「異邦人」
1947 年 「ペスト」
1956 年 「転落」
1957 年 「追放と王国」(短編集)
1971 年 「幸福な死」 - 「異邦人」の初期草稿。カミュの死後に刊行。
1994 年 「最初の人間」 - 1950 年代半ばに構想し、1959 年から執筆を開始。
翌 1960 年にカミュが交通事故により早世したため未完に終わった遺作。
○戯曲
1936 年
1944 年
1944 年
1948 年
1949 年
1953 年
1953 年
1955 年
1956 年
1957 年
1959 年
「アストゥリアスの反乱」 - 3 人の友人との合作
「カリギュラ」
「誤解」
「戒厳令」
「正義の人びと」
「十字架への献身」 スペインの作家ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの神秘劇の翻訳
「精霊たち」 16 世紀の劇作家ピエール・ドゥ・ラリヴェイ作のコメディア・デラルテの翻案
「ある臨床例」 - ディーノ・ブッツァーティ作の小説の翻案
「尼僧への鎮魂歌」 - ウィリアム・フォークナー作の小説の翻案
「オルメドの騎士」 スペインの劇作家ローペ・デ・ベーガ作の戯曲の翻訳
「悪霊」 - ドストエフスキーの小説の翻案
○エッセイ
1937 年 「裏と表」
1939 年 「結婚」
1942 年 「シーシュポスの神話」
1944 年 「ドイツ人の友への手紙」
1951 年 「反抗的人間」
1954 年 「夏」
1957 年 「ギロチン」
カミュとアルジェリア
―海老坂武―
アルベール・カミュは1913年11月7日、アルジェリア東部の港町ボーヌ(現アン
ナバ)に近いモンドヴィ村で生まれた。ワインの輸出業リコム社に勤めていた父親リ
ュシアン=オーギュストがこの農場のぶどう園の管理を委ねられていたからであ
る。
しかし、第一次大戦の勃発(1914年夏)とともにリュシアン=オーギュストは動員
され、マルヌの戦いで砲弾を受けて入院、10月11日に死去した。遺体は入院先
のサン・ブリユー(ブルターニュ地方)の墓地に埋葬された。映画は、この父親の墓
地を息子が訪れるところから始まっている。父親はアルザス出身の移民一代目、
とカミュは家族から聞かされ、そう信じきっていたが、近年の研究ではボルドー近
辺出身の曾祖父が一代目、カミュの父は三代目ということがわかっている。
夫を失った母親(彼女もまたスペイン系移民の三代目)はそのショックで難聴に
なる。そして二人の息子、四歳のリュシアンと生後9カ月のアルベールとを連れて
アルジェの貧民街にある彼女の母の家に居候となる。冷たく、厳しく、押し付けが
ましい祖母、愛情を言葉で示す事の出来ない寡黙な母親、そして勉強机も本もな
い貧窮の中での生活、その貧しい家での母と子との生活は、最初のエッセイ集
『裏と表』(1937)との重要な主題となるであろう。
しかし、少年アルベールは少年時代決して不幸ではなかったようだ。なによりも
<太陽>と<海>とがあった。「私の少年期を支配していた太陽は、私から一切
の怨恨を抜き取った」と彼は後に書いている。そして木曜と日曜とにはボールを蹴
ることに夢中になるサッカー少年だった。
先生にも恵まれた。いち早く少年の才能に目をとめた中学校のジェルマン先生、
高校の哲学級で出会い、少年の病(結核)を心配し続けたジャン・グルニエ。カミ
ュはこの『孤島』の作者を生涯敬愛し続け、グルニエもこれに答えた。カミュの死後
にグルニエが書いた追悼文は次の美しい句で閉じられている。
「小さな火花のつぎに大きな炎が続く」
大学卒業後もカミュは定職につかず、家庭教師をしたり、巡業役者をしたり、弁
士をしたり、新聞原稿を書いたりしながら貧乏生活を続けていた。その間に結婚も
している(一年後に離婚)。最初の定職は1937年から気象学研究所、その次が
38年にアルジェで創刊された左翼系の新聞アルジェ・レピュブリカン紙である。カ
ミュが記者としてアルジェリア北東部のカビリー地方の悲惨な状況についてこの新
聞にルポルタージュを書き、植民地体制をいち早く告発したことは忘れられてはな
らない。
39年9月第二次大戦の勃発とともに新聞の検閲が激しくなり、アルジェ・レピュ
ブリカン紙の跡を継いだソワール・レピュブリカン紙は廃刊に追い込まれる。失職し
たカミュは友人の紹介でパリ・ソワール紙に勤め口を見つけ40年3月本国に向う。
40年6月フランスの敗北とともに各地を転々とし、一時期は二番目の妻の郷里で
あるオランに帰っているが、42年7月からは結核の療養をかねてまたフランスへ。
しかし11月、英米軍がアルジェに上陸したため、アルジェリアはドイツ占領下のフ
ランスと切り離され、カミュは故郷に帰れなくなる。しかし『異邦人』(1942)『シジフ
ォスの神話』(1942)が評価され、彼はガリマール書店に職を得て43年の暮れから
はパリに住み始める。
その後のレジスタンスにおける活動、コンバ紙による言論活動、『ペスト』の刊行
(1947)によって、カミュは作家としての地位をかため、戦後フランスの知的世界に
大きな影響を与えた。この時代、パリに居を構えながらもほとんど毎年のようにア
ルジェリアを訪れている。あるときは子供たちと一緒に妻の出身地であるオランに、
あるときは骨折をした母の手術に立ち会うために、またあるときは彼の知らないサ
ハラ砂漠を旅するために。一時期は、パリの社交的な生活が厭になったのだろう、
アルジェリアに引きあげることを考え、友人に家探しを頼んだりしている。
1954年11月1日、アルジェリア全土で民族解放戦線(FLN)が一斉に蜂起した。
フランス政府は戦争と認めなかったが、一般にはアルジェリア戦争と呼ばれるこの
抗争は、1962年のアルジェリア独立まで続く事になる。
当初のカミュはオプティミストで、55年2月、アルジェを訪れたときの新聞インタヴ
ューでは、自分のインスピレーションの源泉であるアルジェで一年のうち6ヶ月は過
ごしたいとのんびりしたことをしゃべっている。彼の政治的立場も当初は明快であ
った。55年6月には、週刊誌で、アルジェリア<叛徒>のテロリズムを非難すると
同時にフランス軍による武力弾圧を告発し、解決の道として、フランス人とイスラ
ム教徒の真の代表を選ぶ公明な選挙を提唱している。彼の頭の中にアルジェリア
の独立という文字はなく、二つの民族の両方に権利を保証するような連邦制の共
同体というのが彼の構想であり、立場だった。900万人のアルジェリア人の民族解
放が100万人のフランス系住民の追放を必要とするとは考えていなかったのであ
る。
しかしこうしたオプティミズムは、1956年1月以後次第に打ち崩されていく。この
月カミュは、フランス側のリベラル派とイスラム穏健派とで市民休戦委員会を作り、
そのアピールを出す目的でアルジェを訪れたのだが、情勢はすでに緊迫化して
いた。極右植民地主義勢力は軍の一部を巻き込んで、自分たちの権益をまもる
ためにイスラム教徒に譲歩する気配はなく、カミュの講演会を自分等に対する挑
戦と受け止め、当日、講演会の会場周辺の広場には千人をこえる極右のデモ隊
が押し寄せた。他方、アルジェリア人も千人を越える数でいざというときに備え
広場の近辺に待機していた。映画にあるカミュの講演会はこうした雰囲気のなか
で行われたのである。
デモ隊の中から発せられた「カミュを銃殺せよ」の声は彼にとって大きな衝撃で
あったろう。さらにその二週間後、内閣が変わり、アルジェ総督に強硬派のラコスト
が任命された。これによってカミュは、自分の構想が活かされる場がないことを悟っ
たのだろう、以後、アルジェで逮捕された友人の釈放運動には関与したが、アル
ジェリア問題について発言をすることは一切拒否するようになる。
カミュのこの沈黙はしばしば批判の対象になった。フランス軍による残虐行為、
拷問が明るみに出たときに、多くの知識人が抗議の声をあげたが、カミュは発言を
しなかった。しかし1957年ノーベル賞を受賞したときにはこの沈黙を破らざるを得
なかった。ストックホルムでの多くの質問が此の点に集中したからである。しかし、
双方の側の暴力と殺人を拒否するという、それまでに語ってきた以上のことを語り
えたわけではない。学生たちの討論会の席上での一つの発言はよく知られてい
る。
「私は正義を信ずる。しかし正義より前に私の母を守るであろう」。
彼は正義が解放戦線の側にあると考えていたのだろうか。にもかかわらず FLN
の支持に踏み切れなかったのは、無差別テロの危険が母親に及びうるというこの
一点だったのか。レジスタンスのときには暴力も殺人もカミュは受け入れたのに、と
いう批判に対してカミュは答えるすべを知らなかった。
1958年5月、ドゴールが政権の座につく。ドゴール内閣の文化大臣となったアン
ドレ・マルローは、アルジェリアに常駐する<フランスの良心の大使>になってくれ
とカミュに求めたが、カミュはこれを固辞し、以後は芝居と『最初の人間』の執筆に
専心することになる。
1960年1月4日、カミュは車で事故死する。現場近くの泥のなかに黒皮のカバン
が落ちていて、中に『最初の人間』の草稿があったという。この草稿は長い間家族
が出版を許可しなかったが、1994年にようやく出版され、今日日本語でも読むこと
ができる。ちなみに<最初の人間>とはまず第一にアルジェリアの土地に初めて
根をおろしたカミュ家の第一世代である(とカミュは信じていた)父親のことである。
と同時に第二に、文化―教養の背景が何もないところに、ブルデューの言葉を借
りれば<文化資本>のない貧しい環境に育った息子自身のことでもあるだろう。
何もないゼロの地点から出発した人間、これが<最初の人間>ということになろう
か。
■ 原作「最初の人間」について
「『最初の人間』はアルジェリア生まれのフランス人とその子孫にとって、まさに現
在、熱狂的に支持される小説である。」―R.Laffont 辞典より
1960 年にアルベール・カミュは、「最初の人間」の未完の原稿を残し、自動車事
故のため 46 歳の若さで亡くなった。「最初の人間」は、「自分の最高傑作となるだ
ろう」とカミュ自身が予言していた自伝的作品である。当時、アルジェリア独立戦
争という時代的状況の中、遺されたカミュの妻と友人たちは出版に反対した。本に
記されていたカミュの非暴力の主張が、当時の主流である思潮からかけ離れてい
たからだ。
そして、「最初の人間」は 1994 年まで出版されることはなかった。カミュの娘、カト
リーヌ・カミュは父の成長期とその小説を書くプロセスの双方に独自の洞察を与え
ようと、未完の草稿であったが、そのまま未改稿で出版することを選んだ。
40 歳の男、ジャック・コルムリが子供時代のアルジェリアに帰郷するという物語は、
三人称で書かれている。この本は、自分探しの物語であるとともにフランスの偉大
な小説家にして思想家の遺書でもあるのだ。自身の起源をたどって、コルムリは
子供時代を思い出し、彼が決して知ることのなかった父(1 歳の頃、第 1 次大戦で
戦死)について空想する。
カミュは自身の二面性についてさらけ出す。「ペスト」「異邦人」の作家で、パリの
知識人から祝されるノーベル賞受賞者である自分。父親がおらず、豊かでないな
がらも自ら道を切り開いた自分。これが小説として結実した。
コルムリの過去の探求と、自身の個人的な世界への旅は、読者に対して、読者
自身のカミュに対する考え、すなわち実存主義や不条理観など、カミュに結び付け
られる概念を、改めるよう促す。
また、作品の中では、彼の生まれ育った故郷、アルジェリアに対する深い愛着も
伝わってくる。カミュにとって、フランスは、いつもある意味異国であったのだ。その
他にも、カミュと母との関係、母への深い愛、アルジェリアの荒廃した地域での、母
と叔父と共に過ごした貧しい暮らしを回想する。
「最初の人間」は多く主観的に、アルジェの暮らしを生き生きとした表現で、詩的
な視点から描かれる。また、カミュのサッカーに対する情熱、働く者に対する深い
尊敬は、特筆に値する。
この本は 1994 年 4 月に出版されると、版元のガリマールでさえ予想していなかっ
たセンセーションを巻き起こした。最初の週に 5 万部、1 か月で 16 万5千部の売り
上げを記録。20 社もの国際的な出版社が直ちに翻訳権獲得の列に並び、2005
年までに 35 カ国で出版された。フランスではポケット版が 2000 年に出版され、
10 万部を売っている。
「最初の人間」はメデイアの大きな興味の的となった。フランス全土はともかく、海
外においてもまだ翻訳書が発売される前から大きな反響をよんでいた。自伝的な
作品に対する一般的な流行があるとはいえ、カミュの最後の原稿で、その死後の
出版されたことは、大事件と言っても過言ではなく、いかに彼の作品がいまだ世界
の共感を呼んでいるかを強調するものだ。
言うまでもなく、「異邦人」は出版から 60 年以上たった今日もフランスではベストセ
ラー小説のひとつである。
特有の官能性と明晰さに満ちたカミュの声は明らかだ。実際、カミュを読み始め
るなら、「最初の人間」から読むべきだという人もいる。
※「最初の人間」は、フランスで 59 万 2 千部を売上、35 カ国、32 言語に翻訳、出
版されている。
■ プロダクション・ノート
―映画化までの経緯―
製作 ブリュノ・ペズリー
「最初の人間」を読み、映画化を考えた時に、私はすぐにジャンニ・アメリオが思い
浮かびました。10 年の間に、彼の監督する『小さな旅人』(92)、『LAMERICA』(94)、
『家の鍵』(04)の 3 本の映画をともに製作していて、彼を人間としても監督としても
よく知っていました。
具体的に、なぜ彼を起用したのには 3 つの重要な理由があります。
一. 子供の演出にかけては、フランス語を話す監督として、最も才能のある監督の
一人であると確信しているから。『小さな旅人』『家の鍵』の際には、彼は若い
主演者に、演技の真の正確さ、抑制された大人の役者に匹敵する感情を与え
ました。
二.彼がアルベール・カミュに似た家族史を持っていること。父の不在(カミュの父
親は戦死、アメリオの父は彼の家族をカラブリアに残したままアルゼンチンに
移住)、母とそしてやや強権的な祖母という、女性によって営まれた貧しい家
庭に子供時代を送り、天佑のごとく、教師が彼の天職の道を歩むように家族を
説得してくれたことなども共通しています。
三.両者ともに南からきた男であること。カミュはモンドヴィ生まれ、アルジェリア育
ち。アメリオはカラブリア州の中心、サン・ピエトロ・マジサーノ村の出身です。
私はフランスとアルジェリアの共有するストーリー、とりわけフランスとアルジェリア
の集合的な体験は、イタリア人にはよく知られていないという事実について、懸念
がありました。しかし、それから、私はフランスーアルジェリア映画史上の 2 本の象
徴的な映画が、どちらもイタリア人によって撮られたことを思い出しました。『アルジ
ェの戦い』はジッロ・ポンテコルヴォが、そして『異邦人』、カミュの小説の最初の映
画化に携わったのは、ルキーノ・ヴィスコンティでした。
一方、私は『最初の人間』の映画化権を取得するために娘のカトリーヌ・カミュを
説得しなければなりませんでした。出版社のガリマール社は、彼女がジャンニ・ア
メリオの映画を試写できるよう取り計らってくれ、そしてもし、全てがうまくいったら、
会議を開くということになりました。彼の映画を見たことが決め手となり、カトリーヌ・
カミュはすぐにジャンニ・アメリオ監督を信頼し、自身の家族の記録を開示すると言
ってくれました。彼女はもちろん、脚本のチェックはしましたが、大半はアルベー
ル・カミュの作品に対して誠実であるように、という要求のみでした。
彼女は映画を気にいって、小説からの色々な情景と、一家の記録からインスパイ
アされたものと、またジャンニ・アメリオの個人的な想い出が、実にうまく構成されて
いると感心してくれました。
STAFF
■監督・脚本 ジャンニ・アメリオ
1945 年イタリア・カラブリア地方の小さな村に
生まれる。2 歳の誕生日を迎える前に、当時 20
歳だった父が家族を残して出奔。以来祖母に
育てられる。毎週の楽しみは祖母の連れて行っ
てくれる映画だったという。大学に進学し哲学を
学んだもののドロップアウト。映画監督の夢を追
って、ローマに移り、ヴィットリオ・デ・シーカのもと
で働き始める。1970 年に TV 作品「LA FINE
DEL GIOCO」の監督を務めたのを皮切りに、
『1900 年』の撮影中のベルトルッチを追ったドキ
ュ メ ン タ リ ー 「 BERTOLUCCI SECONDO IL
CINEMA」(‘75)などを撮る。1982 年には、初めての長編映画で、ジャン=ルイ・ト
ランティニャンを主役に迎えた『COLPIRE AL CUORE』を完成させる。続いて、死
刑囚と裁判官の関係を軸に、人間の尊厳を問いかける『宣告』(’90)では、米アカ
デミー賞外国語映画賞にノミネートされる。孤児院へ向かう幼い姉妹と、その二人
を送り届ける憲兵の旅を描いた『小さな旅人』(‘92)では、カンヌ映画祭審査員特
別グランプリを受賞し、『LAMERICA』(’94)では、ヴェネチア国際映画祭・金のオ
ゼッラ賞を受賞する。1998 年には、時代に翻弄される兄弟の絆を描いた『いつか
来た道』でヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞。2004 年には、『家の鍵』でヴェネ
チア国際映画祭で三部門の賞を受賞、米アカデミー賞外国語映画賞のイタリア
代表作品に選出されるなど、国際的な受賞歴を誇る。長編は、本作品で 9 作品と
寡作だが、ヨーロッパ映画賞最優秀作品賞を 3 度にわたって受賞しているただ一
人の監督であり、イタリアのみならずヨーロッパを代表する名匠。
【長編作品】
1982 『COLPIRE AL CUORE (BLOW TO THE HEART)』
1989 『I RAGAZZI DI VIA PANISPERNA (THE BOYS OF VIA PANISPERNA)』
1990 『宣告』
1992 『小さな旅人』
1994 『LAMERICA』
1998 『いつか来た道』
2004 『家の鍵』
2006 『LA STELLA CHE NON C’E』
■ディレクターズ・ノート
―アルベール・カミュについて―
監督 ジャンニ・アメリオ
1956 年頃、市民への停戦の呼びかけに失敗したアルベール・カミュは、その後
アルジェリア問題について公に語ることをやめた。次のような言葉を残して。
「私は 2 つの過激派の陣営のどちらにも参加できない、(…)人々をアルジェリア
の状況についての己の立場にさらに固執させるだけの、すでに憎悪と偏狭な派閥
心に毒されたフランスを、さらに分断するだけのこの果てしない議論に加わらない
と決めた」
1930 年代以来、カミュは植民地的圧政と先住民の貧困を弾劾し、心情的には
非植民地主義者でした。自分たちヨーロッパ系のピエ・ノワール(アルジェリアに居
たヨーロッパ系植民者)の人々の避けられない出国を予期していたらしく、彼はフ
ランスとアルジェリアが近い将来“離婚”によって引き裂かれるだろうと信じていた。
いわゆるフランスとアルジェリアの急進的な反植民地主義者たちは、彼を苦々しく
非難しました。その一方、タカ派は、カミュは独立を望む裏切り者だと烙印を押し
た。
その後、カミュはただ一度、沈黙を破る、1957 年 10 月ストックホルムのノーベル
賞受賞式後の記者会見で。それはまたもや、大きな論争を呼び起こした。カミュを
中傷する者は、彼の言葉を捻じ曲げ、ワン・フレーズに落とし込み、スローガンのよ
うに繰り返した。「正義よりも母」。このフレーズを自分の論理の為に盗用するか、
あるいはより暴力的に彼を非難するために使うかのどちらかだった。
この時代、カミュはすでに「最初の人間」を書き始めていた。この作品は、彼にと
って、教養小説であった。カミュ自身の原点であるアルジェリアと、戦争の苦しみ。
そして、自身の家族への忠誠心、先住民への正義について書かれている。ある意
味、これは彼への攻撃に対する反論であり、ピエ・ノワールと言われる裕福で強欲
な定住者たちの中にも、非常に貧しくして生まれたけども、人間性のある人々もい
るのだというメッセージも込められている。
アルベール・カミュは、ピエ・ノワールであれアルジェリア人であれ、双方との距
離を保ちつつ、アルジェリアという土地に対する親近感と、異国の地であるという
疎外感を感じていた。おそらく、これはとても現代的な条件である。故郷にあって
流浪者であるということ。土地に根差して生きる感覚と、ここでもなく、またあちら
でもないという感覚を持つということ。
彼の文章は二つの視点の交点だ。ここは元々自分たちの土地であったと主張す
るアルジェリアのイスラム教徒と、ここに生まれ育ったのだから、ここは自分たちの
土地だと考えるアルジェリア生まれのフランス人。この二重性は我々の時代の
衝突や、社会に密接にかかわっているのだ。
「最初の人間」の脚色は原作から取られた 1950 年代に先立つシークエンスを主
に描く。しかし、1957 年、この物語における現在、そしてほとんど小説に書かれて
いない、おそらくこの小説が未完だからだが、その時点についても状況やセリフを
描くために我々は幸運にも、カミュの家族の記録に接することができた。私たちの
望みは、不安定な隘路に立つ我々の語り手にして主人公にアルベール・カミュの
思索と行動の基盤をあたえることだ。
戦争の予感が主人公ジャックの視点のベースである。彼は死刑を宣告された幾
人ものアルジェリアのイスラム教徒を救うために尽力を惜しまなかった。彼はアル
ジェリアの独立に対して、明確な立場を取らなかった。深く故郷を愛し、FLN、フラ
ンス軍の双方による暴力を収めたいと、彼は微妙な位置を保っていた。武力だけ
が歴史を変えると信じる人々に対し、彼は、昨日の犯罪は今日の犯罪を認めも裁
きもしないと言う。彼は市民を標的にした威嚇行為は、通常の政治的な武器では
ないが、長い目で見れば、本当の政治的な戦場を破壊するものであると信じてい
た。
映画化に当たって、私がアルベール・カミュと同様の立場を取ることが重要だっ
たのです。今なお、自身に深く刻まれた戦争の記憶を抱えている人々たちの懊悩
が、正確に表現されている映画を作りたかったのです。
CAST
■ジャック・ガンブラン 【ジャック・コルムリ】
1957 年 11 月 16 日生まれ。フランス・マンシュ県のグラン
ヴィル出身。演劇学校で学んだ後、地元の劇団に参加す
る。その後、パリへ出てテレビドラマなどに出演。クロード・
ルルーシュ監督に見出され、1990 年に『Il y a des jours
…et des lunes…』で本格的に映画デビュー。1992 年に
は『TOUT CA…POUR CA』に出演。ヴァンサン・ランドン、
ジェラール・ダルモンとの名トリオぶりで注目される。1993
年には『ア・ラ・モード』、1994 年には『パリのレストラン』に出演し、飄々とした演技
を披露する。1995 年、『ペダルドゥース』に出演。夜ごとゲイクラブで踊りまくるエリ
ートサラリーマンを演じ、セザール賞助演男優賞にノミネートされる。1997 年には今
村昌平監督の「カンゾー先生」に出演し、日本映画に進出。1999 年、ジャン・ベッ
ケル監督の『クリクリのいた夏』に出演。フランスで 200 万人を動員する大ヒットを
記録。沼地の村で暮らす正義感の強い復員兵をナイーヴに演じた。2001 年には
『マドモアゼル』に出演し、サンドリーヌ・ボネールらと共演。2002 年のベルトラン・タ
ヴェルニエ監督作品『レセ・パセ 自由への通行許可証では、実在の映画監督ジ
ャン=ドヴェーヴルを熱演し、ベルリン映画祭の主演男優賞に輝いた。その後もダ
ニス・タノヴィッチ監督、エマニュエル・ベアール主演の『美しき運命の傷痕』
(‘05)や『嘘の心』(‘98)に続き、クロード・シャブロル監督の遺作『刑事ベラミー 』
(‘09)に出演
■カトリーヌ・ソラ
【1957 年のカトリーヌ・コルムリ】
1941 年 1 月 19 日生まれ。フランス、サン=ジャン=ド=
モーリエンヌサン出身。1961 年に『Vacances en enfer』で
映画デビュー。その後、クロード・シャブロル監督作『殺
意』(‘68)や『さらば夏の日』(‘68)に出演。その他には
「La vie commence à minuit」(‘67)、「L'éloignement」
(‘73)、「Cas de divorce」(‘91)、「Emma - Première
mission」(‘96)、「Paris enquêtes criminelles」(‘08)な
ど主にテレビドラマに出演している。本作が、モントリオール国際映画祭でグラン
プリを受賞したロック・ステファニック監督の『スタンバイ』(‘00)以来、11 年ぶりの
映画出演となる。
■マヤ・サンサ
【1924 年のカトリーヌ・コルムリ】
1975 年 9 月 25 日イタリア、ローマ生まれ。イラン人の父親
とイタリア人の母親をもつ。18 歳の時に渡英。映画館で
働きながら、ロンドンの演劇学校で演技を学ぶ。
映画デビューは、マルコ・ベロッキオの『乳母』(‘09)。そ
の後、立て続けに話題作に出演し、2003 年には、『夜よ、
こんにちは』、『輝ける青春』に出演し、イタリア映画界を
代表する若手女優の位置を不動のものとした。その他の
出演作として、カルロ・マッツァクラーティ監督『愛はふたたび』(‘04)、『輝ける青
春』(‘03)『やがて来る者へ』(‘09)などがある。最新作は、第 25 回東京国際映画祭
での上映も決定しているベロッキオ監督の『眠れる美女(仮題)』。
■ドゥニ・ポダリデス 【ベルナール先生】
1963 年 4 月 22 日、フランス、ベルサイユ生まれ。映画界
だけでなく、フランスを代表する国立劇団コメディ・フラン
セーズの劇場でも活躍。兄は、映画監督のブルーノ・ポダ
リデス。『そして僕は恋をする』(‘96)、『青い夢の女』(‘00)、
『レセ・パセ 自由への通行許可証』(‘02)、『隠された記
憶』(‘05)、『ダ・ヴィンチ・コード』(‘06)『サガン悲しみよ こ
んにちは』(‘08)、『国家の密謀』(‘09)などの作品に出演。
■ジャン=フランソワ・ステヴナン 【農夫】
1944 年 4 月 23 日、フランス東部、ロン・ル・ソニエ生まれ。フランスの名門校 HEC
を卒業後、アラン・カヴァリエ監督の『別離』(‘68)や、フランソワ・トリュフォー監督の
『家庭』(‘70)でアシスタントを務める。銀幕デビューは 1969 年、フランソワ・トリュフ
ォー監督の『野性の少年』。1973 年には、同監督の『アメリカの夜』で助監督をつと
め、出演もしている。1974 年には、ジャック・リヴェット監督の『Out1: Spectre』、
1976 年にはトリュフォー監督の『トリュフォーの思春期』、アンドレ・テシネ監督の『バ
ロッコ』に出演している。フランス映画のみならず、1980 年にはジョン・アーヴィン監
督の『戦争の犬たち』、ジョン・ヒューストン監督の『勝利への脱出』に出演し、ハリウ
ッドデビューを果たしている。上記以外の主な出演作は、『北の橋』(‘81)、『パッシ
ョン』(‘82)、『復讐のビッグガン』(‘86)、『夫たち、妻たち、恋人たち』(‘88)、『つめた
く冷えた月』(‘91)、『列車に乗った男』(‘02)など。出演作は約 100 本にものぼる。
CREDIT
CAST
Jacques Cormery (1957) :Jacques Gamblin
Catherine Cormery (1957) :Catherine Sola
Catherine Cormery(1924):Maya Sansa
Mr. Bernard :Denis Podalydès
The grandmother :Ulla Baugué
ジャック・コルムリ(1957):ジャック・ガンブラン
カトリーヌ・コルムリ(1957):カトリーヌ・ソラ
カトリーヌ・コルムリ(1924):マヤ・サンサ
ベルナール先生:ドゥニ・ポダリデス
祖母:ウラ・ボーゲ
Uncle Etienne(1924):Nicolas Giraud
叔父(1924):ニコラ・ジロー
Jacques Cormery(1924):Nino Jouglet
ジャック・コルムリ(1924):ニノ・ジグレット
Hamoud Abdheramane(1957):Abdelkarim Benhabboucha
ハムッド・アブデラマン:アブデルカリム・ベンハウンチャ
Uncle Etienne(1957):Jean-Paul Bonnaire
叔父(1957):ジャンポール・ボネール
The farmer Jean-François Stévenin
農夫:ジャン=フランソワ・ステヴナン
STAFF
Directed by Gianni Amelio
監督:ジャンニ・アメリオ
Screenplay by Gianni Amelio
Based on the unfinished novel by Albert Camus
Photography Yves Cape
Costume design Patricia Colin
Sound François Waledish
Original music Franco Piersanti
Produced by Bruno Pesery
Philippe Carcassonne
脚本:ジャンニ・アメリオ
原作:アルベール・カミュ
撮影:イヴ・カープ
衣装:パトリシア・コリン
録音:フランソワ・ウァレディッシュ
音楽:フランコ・ピエルサンティ
製作:ブリュノ・ペズリー
フィリップ・カルカッソンヌ
お問合せ
○ザジフィルムズ(山口・菅野・原)
〒153‐0063 目黒区目黒 2‐10‐8‐7F TEL:03‐3490‐4148 FAX:03‐3490‐4149
○岩波ホール(原田・矢本)
TEL:03‐3262‐5252
12 月 15 日(土)、岩波ホールほか全国順次ロードショー!