新収蔵資料展第2期 鈴木日出児という画家H28.7.16~9.4

Ⅱ
展示資料一覧
H28.7.16
館山市立博物館
※ほとんどの作品が戦前の制作とされている。
1
自画像
29
二人の女性
2
弟太治像
30
和服の少女
3
写生帳
31
参道の少女
4
スケッチブック
32
水着の女性
5
スクラップ帳
33
砂浜の女性
6
現代名画家選『日本画家名鑑』
34
窓辺の女性
7
鈴木日出児頒布画会趣意書
35
男と女
8
鈴木日出児夢名子日本画個人展目録
36
静物
9
芳名帳
37
貨物船
解 説 シート 70
新収蔵資料展<第Ⅱ期>
鈴木日出児という画家
7/16(土)~9/4(日)
Ⅰ
プロフィール
鈴木日出児は、明治 38(1905)年に豊津村(現館山市)沼<西の浜>で生まれ、本名は秀治
といいます。日出児は号で、他に夢名子・夢名人(ゆめじ)も別号として使っていました。21
しろき や
歳で上京すると白木屋呉服店の陳列部・美術部、京浜デパートの意匠部で働きながら、日本
劇画協会や日本壁画協会に所属して美術活動に励んだ人物です。
洋画から日本画へとジャンルを広げていきましたが、師がいるわけではなく、独立系の
ちょうぜんは
どくおう こうまい
10
『国畫』9 月号
38
若い人
「独往高邁」と評されています。人物や山水を得意とし、昭和前半期は、
『新
超然派といわれ、
11
やまき商店新店舗落成競輪界引退記念名作美術展しおり
39
守り
女性』や『婦人の友』などの女性誌の表紙や挿絵を盛んに描いていました。
12
神奈川県立三浦青少年会館美術鑑賞会「鈴木日出児展」しおり
40
征く
13
時代劇挿絵
41
皇軍
14
第二回日本劇画協会展覧会「楽屋の唐人お吉」作品写真
42
偵察機
15
写真「第二回日本劇画協会展覧会出品作品と」
43
二人の裸婦
いう天女を制作し、昭和 12 年には銀座のバー「ジャポン」の壁画「鳴神」を制作しています。
16
写真「第二回日本劇画協会展覧会にて市川松蔦等と」
44
人形
昭和 10 年の日本壁画家協会の設立にも参加しました。
17
「鳥辺山のお染」作品写真
45
帽子の婦人
18
鳥追笠の女
46
バックを持つ女性
19
ボレロ<松竹歌劇団・水の江滝子と小倉みね子>
47
窓辺の女性
20
新聲界表題
48
ティーカップを持つ女性
21
新女性姿・本を読む女性<『新女性』第三巻第九号表紙原画>
49
ネクタイの女性
22
手鏡を持つ女性<『新女性』第四巻第一号表紙原画>
50
海水浴場
23
スキー板を持つ女性<『新女性』第四巻第二号表紙原画>
51
裸婦
大観的無の境地であろうか。筆法もよく酷似している。また大観以外の墨画からの影響も多
24
マサコ(赤い背景の女性)<『新女性』第四巻第四号表紙原画>
52
富士と旭日
分に見られる。一作の中に幾つもの作者が介在している。」
「これだけの影響的なもので描き乍
25
黄色い帽子の女性<『新女性』第四巻第三号表紙原画>
53
静物
26
黄色い帽子の女性<『新女性』第四巻第十一号表紙原画>
54
鯉と花菖蒲
27
キャンバスの中の女性
55
鯉
28
狐の襟巻をする女性
56
富士遠望
げきが
一方、演劇の役者や舞台を表現する「劇画」での活躍が知られ、昭和 5 年の第二回劇画協
会展覧会での「楽屋の唐人お吉」や昭和 9 年の日本劇画協会美術展第六回展の「朝日のお染」
は美術界で評価されていました。第七回展で劇画協会の会員に推選されています。
昭和 7 年には銀座にあった旧服部時計店(セイコー)ビルの天井壁画に「宇治の楽園」と
昭和 15 年に発行された現代名画家選『日本画家名鑑』には、鈴六夢名子の名で「独立系超
然名家」として掲載されています。鈴六は生家の屋号が六兵衛であったことから「鈴六」と
いう商店を経営していたことに由来します。
りゅうし
しんすい
せいぎんかい
川端龍子や伊東深水などの画家と親しくし、深水が結成した人物画研究会の「青衿会」に
も参加していました。熊谷守一や猪熊弦一郎などの画家とも親交があったそうです。白木屋
きたおおじろさんじん
の美術部に務めていたことからか、北大路魯山人のもとへも出入しています。
昭和 17 年に白木屋デパートで初の個展を開催し、個展評では「巧みに相当描きこなしては
いるが未だ己れの骨格を得ていない。」としながら、
「作者がもっぱら意図しているのは(横山)
なが
こうぜん
せつわ
ら、作品の裏側で昂然と胸を張っている作者を見る。これら他人の筆法を己の中に接和して
こっぽう
た
真に自分の骨法を打ち樹てる日を期されたい。」と、若手の躍進を期待する評が述べられてい
ます。
太平洋戦争末期に洲ノ埼海軍航空隊の文官として勤務するため帰郷しましたが、戦後は画
を描くことはなくなり、美術系新聞を主宰して美術評論をしながら館山で過ごしました。晩
年に再び作画に取り組みましたが、昭和 63(1988)年に 82 歳で没しています。