ヴィクトリア朝幽霊物語

ヴィクトリア朝幽霊物語
(短篇集)
イーディス・ネズビット
チャールズ・ディケンズ
ダイナ・マロック
アミーリア・エドワーズ
ウィルキー・コリンズ
シェリダン・レ・ファニュ
エリザベス・ギャスケル
メアリ・ブラッドン
松岡 光治 編訳
アティーナ・プレス
Victorian Ghost Stories
Edith Nesbit,
“John Charrington’s Marriage” (1891)
Charles Dickens,
“To Be Taken with a Grain of Salt” (1865)
Dinah Mulock,
“The Last House in C― Street” (1856)
Amelia Edwards,
“No. 5 Branch Line: The Engineer” (1866)
Wilkie Collins,
“Miss Jéromette and the Clergyman” (1875)
Sheridan Le Fanu,
“An Account of Some Strange Disturbances
in Aungier Street” (1853)
Elizabeth Gaskell,
“The Old Nurse’s Story” (1853)
Mary Braddon,
“At Chrighton Abbey” (1871)
目 次
約束を守った花婿(イーディス・ネズビット)……………………………………
殺人裁判(チャールズ・ディケンズ)………………………………………………
窓をたたく音(ダイナ・マロック)…………………………………………………
鉄道員の復讐(アミーリア・エドワーズ)…………………………………………
牧師の告白(ウィルキー・コリンズ)………………………………………………
・
オンジエ通りの怪(シェリダン・レ ファニュ)…………………………………
婆やの話(エリザベス・ギャスケル)………………………………………………
クライトン館の秘密(メアリ・ブラッドン)………………………………………
あとがき……………………………………………………………………………
1
21
47
77
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325 261
約束を守った花婿
イーディス・ネズビット
2
不思議なことに、なぜかいつも実現する傾向があったからである。ジョンはオックスフォー
メイ・フォースターがジョン・チャリントンと結婚するなんて、誰ひとりとして思って
いなかった。とはいっても、彼自身の考えは違っていたようだ。彼がもくろんだことは、
ド大学に入る直前、彼女に結婚を申し込んだことがあったが、その時は失笑を買って断ら
れてしまった。次の求婚は大学から帰省した時だった。またしても彼女はせせら笑い、きれ
いな金髪の頭をツンとそらして拒絶した。三度目に求婚した際には、
「それって、どうし
ても直らない、悪い癖ね」と言われ、これまで以上に笑い飛ばされてしまった。
のように一種の流行となっていた。という
メイと結婚したがっていた男はジョン・チャリントンだけではない。村の社交クラブの
はな
華だった彼女に、ぼくらは多かれ少なかれ誰もが恋慕の情を抱いていたのである。それは
マッシャー・カラーやインヴァネス・ケープ
「おい お い 、 嘘 つ く な ! 」
「花嫁さんはどこの誰だい? いつなんだね、式は?」
たばこ
返事をする前に、ジョン・チャリントンはパイプに煙草を詰め、火をつけ、それから次
「えっ 、 君 の 結 婚 式 だ っ て ? 」
き、みんなが腰を抜かすと同時に向かっ腹を立てたのも当然であった。
の二階で開いていたクラブ ――にやって来て、全員を結婚式に招待してやるぞと言ったと
ことで、ジョン・チャリントンが地元の社交クラブ ――ぼくの記憶が正しければ、馬具屋
(1)
イーディズ・ネズビット
3
のように 語 っ た 。
「君たちからたった一つの冗談を奪うことになって申し訳ない――が、ミス・フォースター
とぼくは九月に結婚する予定なんだ」
「冗談 だ ろ う ? 」
「また振られたもんで、とうとう頭がいかれちまったな」
「いや」と、ぼくは言いながら立ち上がった。
「どうやらホントの話らしいぞ。誰か、ぼ
くに拳銃を ――あるいは、人跡未踏の極地まで行く特急列車の運賃を貸してくれ。この村
か、それとも惚れ薬
ほ
かい?」
の半径二十マイル以内にいる唯一の美少女に、チャリントンが魔法をかけやがったみたい
だ。おい、ジャック、彼女にかけたのは催眠術
、ぼくらが祝辞を述べると、ミス・フォースターは顔を赤らめ、えくぼ
奇妙なことだが
ほほえみ
まで見せながら微笑を返した。だが、どこから見ても、今だけでなく、これまでもずっと
彼の声には何かぼくを黙らせてしまうようなところがあった。それに、どんなに他の連
中が冷やかそうと、これ以上の話を彼にさせることはできなかった。
「どっちでもないぜ。君たちには決して持てそうもない才能 、そう、堅忍不抜の精神さ。
それから、世間の男が誰もこれまで恵まれたことのないような幸運だよ」
(3)
ジョンに胸を焦がしていたかのように思えた。きっと、そうだったのだろう。まったくもっ
て、女とは不可解な生きものである。
約束を守った花婿
(2)
4
はタイム
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は、西に沈む夕陽の残照を顔に受けながら、低くて平たい石碑に座っていた。その顔を見
ると即座に、彼女は彼のことを愛しているのだろうかという例の疑問が、永久に消滅して
いや、本当に、あんな美しい顔になるなんて信じられないことだ。
しまった。メイの顔は、この世のものとは思えないほどの美しさになっていたからだ ――
イーディズ・ネズビット
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が茂った丘の上にあり、教会の周囲は厚みのある柔らかな芝生になっていたの
うどクラブから家に帰る途中で、教会附属の墓地を通り抜けるところであった。村の教会
二人が婚約して間もないころ、実はぼく自身もそうした疑問を抱いていたのだが、八月
のある夕方のことがあって以来、この疑問は雲散霧消してしまった。そのとき、ぼくはちょ
がいつも 投 げ か け ら れ た 。
交クラブで物議を醸したが、「彼女はジョンをホントに好きなんだろうか?」という質問
ることになった。来るべき結婚式については、午後のティーの集りや馬具屋の二階での社
嫁のメイよりも花嫁の衣裳の方に関心があった。そして、ぼくの方は花婿の付添い役をす
結婚式に0は0ぼ0く0ら0全員が招待された。ブリクサム では、ひとかどの人間であれば、自
分以外のいっぱしの人間とは必ず知り合いだったからである。ぼくの妹たちは、実際、花
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ぼくは苔でおおわれた低い石塀を音も立てずに飛び越え、墓地の間を縫うようにして進
んで行った。ジョンの声が聞こえ、メイの顔が見えたのは、まさにその瞬間だった。彼女
こけ
で、人の足音はまったく聞こえなかった。
(5)
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よ み
たそがれ
ジョンは彼女の足もとに寝そべっていたが、八月の黄昏時の静寂を破ったのは彼自身の
声であっ た 。
「ねえ、君。ぼくは、君が望むなら、黄泉の国からだって帰ってくるよ!」
すぐに、相思相愛の問題については疑う余地もなくなったので、ぼくは自分が近くにい
ることを示すための咳払いをし、そのまま夕闇の中へ消えて行った。
結婚式は九月の初めに予定されていた。その二日前、ぼくは急用でロンドンへ上京しな
ければならなくなった。ぼくらの村の駅はサウス・イースタン鉄道 の駅だったので、案
の定、その時の汽車も遅れていた。懐中時計を手に持って、ぶつぶつ言っていると、なん
とジョン・チャリントンとメイ・フォースターの姿が見えるではないか。二人は腕を組ん
で互いの目を見つめ合い、思いやりと関心を寄せる駅の赤帽たちなど気にもかけず、人が
寄りつかないプラットホームの端っこを行ったり来たりしていた。
もちろん、ぼくはオヤッと思って立ち止まるような愚か者ではなく、サッと切符売場に
グラッドストン
身を隠した。そして、汽車がプラットホームに停車してから、やっと大割かばん を持っ
ぼくは彼らの方を見ていないという素振りをできるだけ見せていた。このような時に余計
て割り込むように二人の前を通り、一等喫煙車の片隅の席に座った。そうしている間も、
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なことをしないのがぼくの自慢である。だが、もしジョンが一人で旅をする予定なら、途
中までお供をしたいものだと思った。実際、そのようになった。
約束を守った花婿
(6)
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「やあ、君か」というジョンの陽気な声が聞こえたかと思うと、彼はぼくが乗った車両
に鞄を投げ込んできた。「運がいいな。退屈な旅になるなあって、思ってたところなんだ」
「どこに行くのかね?」余計なことは言いたくなかったので、ぼくは目をそらしたまま
で尋ねた。もっとも、見るまでもなく、メイが目を赤く泣きはらしていることは分かって
いた。
「ブランブリッジ老人の家だよ」彼はそう言ってから扉を閉め、恋人と最後の言葉を交
わすため に 上 体 を 乗 り 出 し た 。
「ああ、行ってほしくないわ、ジョン」と、彼女は低い真剣な声で言った。
「絶対に何か
起こるよ う な 気 が す る の 」
「何か起こって、ぼくが帰ってこないようなことがあると思うのかい? あさってはぼ
くらの結 婚 式 じ ゃ な い か 」
「行かないで」と、彼女が一心不乱に懇願したので、ぼくが彼であれば、旅行鞄を汽車
の外へ投げ出し、それに続いてプラットホームに降りたであろう。しかしながら、彼女が
懇願している相手はぼくではない。どうもジョン・チャリントンは精神的な作りが違うよ
うで、自分の意見を変えることは滅多になく、決心に至っては絶対に変えない男だった。
彼は彼女が手袋を脱いで車両の扉に置いた小さな手をなでてやるだけだった。
「義務なんだよ、メイ。あの老人にはとても親切にしてもらったから、危篤になった今、
イーディズ・ネズビット
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絶対に会いに行かなきゃならないんだよ。でもね、必ず帰ってくるから、間に合うように
……」 あ と に 続 く 別 れ の 言 葉 は 、 さ さ や き 声 と 動 き 始 め た 汽 車 の ガ タ ン と 揺 れ る 音 の せ い
で、聞き 取 れ な か っ た 。
「必ず帰ってきてね」汽車が動き出したとき、彼女はそう言った。
「どんなことがあっても、長居はしないよ」と、彼は答えた。汽車は蒸気を出しながら
発進した。プラットホームに立つ小さな姿が消えるのを見届けると、彼は片隅の席に着い
て寄りかかり、しばらく黙っていた。
やっと口を開いて、彼がぼくに説明してくれた内容は、自分を遺産相続人にしてくれた
名づけ親が、五十マイルほど離れたピーズマーシュ・プレイス という所で死にかかって
おり、ジョンを呼んでくれということなので、どうしても行かねばならないということで
あった。
「明日、きっと戻ってくるよ。それが駄目なら、あさってだ。十分に間に合うさ。あり
がたいことに、最近じゃあ、結婚するために真夜中に起きる必要はないからね」
「でも、ブランブリッジ老人が死んだとしたら?」
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「死のうが死ぬまいが、木曜日には絶対に結婚するよ!」と、ジョンは答えながら、葉
巻に火をつけ、『タイムズ』紙 を開いた。
約束を守った花婿
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彼はピーズマーシュ駅で「じゃあな」と言って汽車を降りた。ぼくの方は彼が馬車に乗っ
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て立ち去るのを見てから、そのままロンドンに行き、その夜は宿泊した。
翌日の午後、帰路は土砂降りだったが、家に着いたとき、妹が次のような質問で出迎え
てくれた 。
まつえい
の 末 裔 は す べ て、
「あのね、いいかい」と、ぼくは荒々しい口調で言い返した。
「そんな馬鹿なことを言っ
て、物笑いの種になるのはやめた方がいいぞ。明日、おまえが初めて列席する結婚式は、
妹のファニーには、兄をいらだたせるという、他の人間が持っていない特殊な力があっ
た。
わよ」
てきてないのね。きっと、戻ってこないわ。あのね、いいこと、明日の結婚式はできない
「そうなのよ、ジェフリー兄さん」妹のファニーはいつも早合点してしまう癖が ――特に、
同性の友だちにとって最も好ましくない結論へ、一足飛びする癖が ――あった。
「まだ帰っ
「まだ戻ってないのかい?」当然ながら彼は帰宅していると、ぼくは思っていた。
「兄さんなら手紙をもらったかもしれないと思ったの」妹は続けて言った。
「明日、結婚
式で花婿の付添い役をするんだから」
「チャリントン氏はどこにいるの?」
「 知 る も ん か!」 と、 ぼ く は 取 り 付 く 島 も な い 返 事 を し た。 カ イ ン
そんな質問をされると、このように気色ばむものである。
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イーディズ・ネズビット
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これまでとはまったく違ったものになるんだよ」 ――ちなみに、これはあとで事実となる
予言であ っ た 。
あんたん
しかし、自信たっぷりに妹を叱責してはみたものの、その晩も遅くなってから、ジョン
の家の玄関に立ち、彼が帰っていないことを聞いた時は、不安を覚えなかったわけではな
い。ぼくは雨の中を暗澹とした気持ちで家に戻ってきた。
翌朝は晴れやかな青空と黄金色の太陽に恵まれ、それはもう快い風と美しい雲とで、申
し分のない一日になりそうだった。ぼくが寝起きに漠然として感じたのは、完全に目が覚
めてまでも、就寝前の不安に直面するのは真っ平ごめんだということであった。
もんぴ
しかし、ひげそり用の水と一緒にジョンからの手紙を渡されると、ぼくはホッと胸をな
で下ろし、肩の荷が降りた気分でフォースター家へ出かけて行った。
あいさつ
メイは庭にいた。ぼくの背後で番小屋の門扉が回転して閉まったとき、タチアオイ の
間を通して彼女の青いガウンが見えた。それで、屋敷へは行かず、小さな芝生の脇道へそ
れて、彼 女 の 方 へ 行 っ た 。
「あなたにも手紙を書いて寄こしたみたいね」彼女は前置きの挨拶もせず、ぼくが近く
に来ると 、 そ う 言 っ た 。
「ああ、三時に駅で彼を出迎え、そのまま教会へ直行することになってるんだ」
彼女の顔は青白かったが、目は輝いていて、口のあたりには幸せが戻ったことを雄弁に
約束を守った花婿
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物語る穏 や か な 震 え が 見 ら れ た 。
「ブランブリッジ老人にもう一晩だけ泊まっていけと言われ、断る勇気がなかったよう
です」と、彼女は続けて言った。「とても優しい人なんです。ですが、帰って来てほしかっ
たわ」
ぼくは二時半に駅に着いたが、ジョンに対しては相当むかついていた。ハーハー言いな
がら駆けつけ、旅のほこりも払わないままで彼女の手を取るなんて、自分を愛してくれる
美女に対して無礼この上ないじゃないか。ぼくらの中には、彼女の手を取るためなら、青
春時代を棒に振ってもいいと思う者もいたのだから。
三時の汽車がスーッと来て、またスーッと出て行ったが、この小さな駅で降りた乗客は
一人もいなかったので、はらわたが煮えくり返る思いだった。大急ぎで行けば、なんとか
まだ式に間に合うように教会に着くことができる。ああ、しかし、今の始発列車に乗り遅
れるとは、なんて間抜けなやつだ! こんなことをしでかす男は、あいつ以外にいるだろ
うか?
広告や時刻表や鉄道会社の社則 を読みながら、駅の中をぶらぶら歩いていると、この
三十五分間が一年のように思え、ジョン・チャリントンに対して堪忍袋の緒が切れそうに
ているのではないか? ぼくは待つのが大嫌いである。誰でもそうだろうが、その点では
なった。どんな望みでも抱いた瞬間にかなうのだという自信で、あいつは調子に乗りすぎ
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イーディズ・ネズビット
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誰にも引けは取らない。案の定、三時三十五分の汽車も遅れていた。
ぼくは信号機を見ながら、イライラするあまり、歯の間でパイプをかんだり、足を踏み
鳴らしたりしていた。ほどなく、カタンという音がして、信号用の赤旗が降りた。それか
ら五分後、ぼくはジョンのために仕立てていた馬車に乗り込んで、身を投げ出していた。
「教会へ行ってくれ!」誰かが扉を閉めたとき、ぼくはそう言った。
「チャリントン氏は
今の汽車 に も 乗 っ て な か っ た 」
この時にはもう不安が激怒に取って代わっていた。あの男はどうなってしまったのであ
ろうか? 急病になるなんてことがあるだろうか? 今まで一日だって病気になったこと
などないじゃないか。たとえ病気になったにせよ、電報ぐらい打とうと思えば打てただろ
うに。メイを裏切ったのではないかという考えは決して、いや一瞬たりとも、ぼくの頭に
0
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浮かばなかった。そうだ、何か恐ろしいことが彼の身に起こって、そのことを花嫁に伝え
る任務をぼくは担わされたのだ。このぼくではなく、誰かが代わって彼女に伝えることに
なるように、いっそのこと馬車がひっくり返って、自分の頭が砕ければいいのにとさえ思っ
た。ぼくとしては ――いやいや、これは物語とは関係ないことだ。
馬車が教会墓地の門の前で停止したのは四時五分前であった。その墓地の屋根つき門か
ら教会の車寄せまでの小道の両側には、熱心な見物人が列をなして並んでいた。それで、
ぼくは馬車から飛び降りて、見物人たちの間を通り抜けて行った。ところが、教会の扉に
約束を守った花婿
12
近い列の前の方に我が家の庭師がいたので、ぼくは立ち止まった。
「みんな、まだ待ってるのか、バイルズ?」そう尋ねたのは、ただ時間をかせぐためで
あった。というのも、待機する群集に特有の注意深い態度から判断して、それぐらいは分
かってい た か ら で あ る 。
「待ってるか、じゃって? とんでもねえだよ、旦那さん。そうさな、もう終わっちまっ
たはずじ ゃ 」
「終わっただと? それじゃ、チャリントン氏は来たのか?」
「ぴったり時間どおりじゃった。どういうわけか旦那さんがおられんかったもんで、残
念じゃったに違いねえ。旦那さん、ちょいといいですかい」そう言って、バイルズは声を
きょうかたびら
低 く し た。「 あ ん な 姿 に な っ た ジ ョ ン の 旦 那 は、 今 ま で 見 た こ と も ね え だ よ、 ま っ た く。
わしの考えじゃ、酒をしこたま飲んどられたはずじゃ。服はほこりだらけで、顔は経 帷 子
みてえに真っ白じゃったから。わしは、あの旦那の様子が気がかりじゃが、教会の中にい
る連中も、いろんなことを言っとるよ。いいですかい、どっか途轍もねえ悪い所があるん
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じゃよ、ジョンの旦那にゃね。そんでもって、強い酒を飲んでみなさったんじゃ。まるで
幽霊みてえじゃった。真っ直ぐ前を見たまんま教会に入りなすった時にゃ、わしらに目を
向けたり、声をかけたりはなさらんかった。いつも立派な紳士だった旦那じゃがね!」
こんなに長々とバイルズが話をするのを聞いたのは初めてだった。教会の境内に群がっ
イーディズ・ネズビット
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ていた人たちは、ヒソヒソと言葉を交わしたり、花嫁と花婿に投げる米と上靴
を準備し
ていた。鐘を鳴らす係の男たちはロープを手に持って、新郎新婦が姿を見せたら、鐘を陽
気に鳴り響かせようと待ち構えていた。
教会の方から聞こえる小さな声で、二人が出てくるのが分かった。実際に、二人は姿を
現したが、バイルズの言ったとおりであった。ジョン・チャリントンはいつもの彼とまっ
あざ
たく違っていた。コートはほこりだらけで、髪はボサボサだ。どこかで喧嘩でもしたよう
白さは花嫁の顔の白さほどではなかった。彼女はさながら象牙の彫像のようであった ――
で、まゆ毛の上に黒い痣ができている。顔は死人のように真っ白だ。しかしながら、その
ドレスも、ヴェールも、オレンジの花も、顔も、何もかも。
せんりつ
鐘
二人が出てくると、鐘の係たち ――全部で六人 ――は身をかがめた。結婚式の陽気な
とむら
の音を期待していた人たちの耳に入ってきたのは、あにはからんや、ゆるやかに鳴る弔い
の鐘の音 で あ っ た 。
鐘の係たちの馬鹿げた冗談に対して、戦慄がぼくらの全身に走った。しかし、鐘の係た
ちはロープから手を離すと、脱兎のごとく鐘楼の階段を駆け下りた。ぶるぶると体を震わ
せている花嫁の口もとには暗い影が浮かんでいたが、花婿はそのまま彼女を導き、みんな
が米を握ったままで立っていた小道を進んで行った。だが、その米は一度も投げられず、
結婚式の鐘が鳴ることもなかった。鐘の係たちは、間違いを正して再度やり直すように説
約束を守った花婿
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14
得されても、ののしり言葉をつぶやきながら、それだけは真っ平ごめんだと言っていた。
死人のいる部屋のような静寂の中で、新郎新婦が馬車に乗り込むと、そのあとで扉がバ
タンと閉まった。すると、招待客や見物人の舌の束縛がゆるみ、怒りやら驚きやら推測の
言葉やらで、さながらバベルの塔 のような騒々しさになった。
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ぼくは即座に扉を開けたが、目に入ったのは……
「大変だ、馬車はもぬけのからだ! だが ――」
くは走り 寄 っ た 。
焼けるような午後の太陽のもと、玄関口に降り立って三十秒ほどすると、砂利道をやっ
て来る馬車の車輪の音が聞こえた。馬車が石段の前で停止すると、フォースター老人とぼ
して、ぼくらの馬車の方が早く家に着いた。
御者は言われたとおりにした。こちらの馬車が花嫁の馬車を追い越すとき、ぼくはそち
らの方を見ないようにし、フォースター老人もまた顔をそむけて悪態をついていた。そう
そう言ってから、彼は窓から顔を出した。
「馬たちに情け容赦するな!」
「ぶっ飛ばせ!」と、彼は御者に向かって叫んだ。
うしてやって、娘と結婚なんかさせはしませんでしたぞ!」
「花婿の状態が前もって分かっておったら」フォース0タ0ー0老人は、ぼくらの馬車が走り
出すと、そう切り出した。「なぐり倒して教会の床にのしてやりましたのに! 必ず、そ
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ジョン・チャリントンがいた形跡はない。妻のメイについては、白いサテンの花嫁衣装
が丸まった塊りとなって、半分が馬車の床に、半分が座席に横たわっているだけだった。
花嫁が父親に抱きかかえられて外へ出されるとき、御者が「ここまでは真っ直ぐ来たん
じゃよ、旦那さん」と言った。「神様に誓ってもええが、誰も馬車からは降りとりゃせん
よ」
ぼくらはメイを花嫁衣裳のまま家に運び入れ、ヴェールをはぐってみた。それから彼女
の顔を見た。あの顔を忘れることなどできるだろうか? 白い ――真っ白い顔が苦悶と恐
怖でゆがんでしまい、それ以後は夢の中でうなされた時を除いて、一度も見たことのない
ような、そんな恐怖の表情が浮かんでいた。それから、髪の毛 ――彼女のまばゆいばかり
の金髪 ――は、実際、雪のように白くなっていた。
恐怖とミステリーのあまり、メイの父親とぼくが半狂乱状態で立っていると、一人の少
年 ――電報配達の少年 ――が、並木道に沿って近づいてくるのが見えた。オレンジ色の封
約束を守った花婿
筒を渡されたので、ぼくは破って開いてみた。 チャリントン イチジハン エキニイクトチュウ ドックカート カラ ナゲダサレ ソクシ!
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とはいえ、ジョン・チャリントンは、三時半に村の教区教会で、メイ・フォースターと
結婚式を挙げたのである。教区民の半分を前にして。
「死のうが死ぬまいが、絶対に結婚するよ!」
家に向かう馬車道で、一体全体、あの馬車に何が起こったのだろうか? 誰にも分から
ない ――今後も分からないだろう。ああ、メイ! ああ、かわいそうに!
おうせ
一週間もしないうちに、タイムにおおわれた丘の小さな教会墓地 ――二人が逢瀬を楽し
んだ教会墓地 ――で、メイは夫のそばに埋葬された。
このようにして、ジョン・チャリントンの結婚の約束は果たされたのである。
イーディズ・ネズビット
【訳注】
マ ッ シ ャ ー・ カ ラ ー は 十 九 世 紀 後 半 に 社 交 界 の 若 者 た ち の 間 で 流 行 し た 長 い 窮 屈 な カ ラ ー( マ ッ
シャーとは「女殺し」の意)
。インヴァネス・ケープは格子縞模様で、長く、ゆったりした毛織または
そもう
梳毛毛織のケープ。
日本では飲むもの(イモリの黒焼きの類)だが、英国では目にかける(または塗りつける)。シェ
イクスピアの喜劇『夏の夜の夢』では、妖精パックが惚れ薬を間違って別の人物に使用したので、恋人
(2)
イングランド南西部デヴォン州の南東にある海岸町(当時は村)。ただし、この物語における地名
と鉄道名は位置関係の点で矛盾している。
関係に大混乱が起こる。
(3)
シソ科タチジャコウソウ属の芳香を持つ多年生植物で、ハーブの一種として肉類、スープ、シチュ
ーの香り付けや鎮咳や防腐薬として使われる。
(4)
ロンドンのチャリング・クロス駅とドーヴァー海峡に臨むフォークストンを結ぶ鉄道。ロンドンか
ら北部へ延びる鉄道と違って、発着の遅れと能率の悪さで有名だった。
(5)
(6)
長方形で両側に開く鞄。一八六八~九四年に四回首相になった自由党党首で、保守党のディズレー
約束を守った花婿
(1)
)が一七七五年に唱え、初めて医療に用いた動物磁気
オーストリアの医師メスメル( F. A. Mesmer
( animal magnetism
)によるもの。
17
(7)
18
リと対抗したグラッドストン(
)の名にちなむ。
William E. Gladstone
イースト・サセックス州にピーズマーシュという町があるが、ブリクサムから少なくとも百マイル
以上離れている。
ロンドンの新聞で『ロンドン・タイムズ』とも呼ばれる。一七八五年、『デイリー・ユニヴァーサ
ル・レジスター』として創刊され、一七八八年から『タイムズ』となる。
(8)
アダムとイヴの長男で、弟アベルの供物が神に納められ、自らの供物は顧みられなかったことを恨
み、弟を殺害して神に追われた(旧約聖書の「創世記」四章を参照)
。
(9)
地中海地方原産で、観賞用に庭園で栽培される越年草。全体に毛を密生させ、葉は長柄を持ち、心
きょし
臓状円形で、縁に鋸歯がある。花言葉は豊かな実り、熱烈な恋。
(10)
当時の鉄道会社の社則は(少なくとも建前は)非常に厳しく、列車や駅のあらゆる場所に掲示して
あった。
(11)
結婚式のあと教会から出てくる新郎新婦の背に、幸運を願って米を、可愛い子供たちの誕生を祈っ
て古靴を投げつける(現代では自動車に結びつける)風習がある。靴は陰門の象徴で、民話によれば、
(12)
頂上が天に達するほどの巨大な塔で、ノアの子孫たちが建てようとしたが、その僭越さがエホバの
神の怒りにふれ、人々は互いに言葉が通じなくなって離散した(旧約聖書の「創世記」十一章を参照)。
靴の中に住むお婆さんは生殖器の中にいることを意味し、子だくさんである。
(13)
遠乗りに用いられる軽装二輪馬車。背中合わせの二つの座席があり、座席の下に猟犬を乗せた。 (14)
(15)
イーディズ・ネズビット
)は一八五八年八月十九日に当時のサリー州ケニン
イーディス・ネズビット( Edith Nesbit
トン(現在のロンドン・ランベス自治区)で生まれた。学校教師だった父親はイーディスが六
歳の時に亡くなったが、彼女は病弱の姉の転地療養のためにヨーロッパ各地を転々としながら
も、フランスで教育を受けさせてもらった。もともと詩人を志していたが、二十一歳の時に銀
行員のヒューバート・ブランドと妊娠七ヶ月で結婚し、彼の影響を受けて女権運動や社会主義
運動に関心を持つようになった。そして、彼女と恋の噂もあった劇作家バーナード・ショーや
社会主義者ウェッブ夫妻とともに、一八八三年に社会の穏健な改革を目的とするフェビアン協
会の創設に参加し、夫と一緒に協会の機関誌『トゥデイ』
の共同編集者となった。結婚後は夫の病気や女性関係(二
人の子供を引き取って自分の子供と一緒に育てた)に悩ま
され、生活のために雑誌用の短篇小説を書きまくった。こ
のような時期に書かれたのが本篇である。
文 学 雑 誌『 テ ン プ ル・ バ ー』 の 一 八 九 一 年 九 月 号 に 掲
載 さ れ た 本 篇「 約 束 を 守 っ た 花 婿 」 の 原 題 は「 ジ ョ ン・
チ ャ リ ン ト ン の 結 婚 」( John Charrington’s Marriage
)。
約束を守った花婿
【作品と 作 者 に つ い て 】
19
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一八九三年には短篇集『不気味な話』( Grim Tales
)に再録された。
( The
台所が火の車のバスタブル家の六人の子供たちが大奮闘する『宝探しの子供たち』
)はネズビットの出世作で、リアリズムの児童文学にお
Story of the Treasure Seekers , 1899
ける古典として非常に名高い。また、五人の子供たちが砂の妖精に願いを叶えてもらうことで
思わぬ失敗や事件が起こる『砂の妖精』( Five Children and It , 1902
)は、それまでは異界の
住人だった妖精が人間の現実世界に顔を出して親しみやすい姿で描かれた点で「エヴリデイ・
マジック」と呼ばれ、二十世紀の児童文学に大きな影響を及ぼしたと言われる。ネズビットは
四十冊以上もの少年少女物語を出版し、一九二四年五月四日に六十五歳で人生を終えた。
イーディズ・ネズビット
殺人裁判
チャールズ・ディケンズ
22
知性と教養が抜きんでた者たちの間でさえ、自分の心理的な体験を人に話すとき、特に
世にも不思議なことを話す時は、物おじしてしまう場合が多いのではないだろうか。私は
いつもそのように思ってきた。ほとんどすべての人たちは、そんなことを話してみても、
に似た何か尋常ならざ
それに匹敵するものや呼応するものが聞き手の内面生活になく、結局は疑われるのではな
珍しいも の と な っ て い る 。
り、備蓄自体が今もって悲惨なほど不完全だという点において、そうした体験談は本当に
と 言 っ て よ い。 そ れ ゆ え、 主 観 的 な 体 験 談 が 世 間 一 般 で 備 蓄 さ れ る こ と は 非 常 に ま れ で あ
て、このような実体のないものについての体験を語ることは、私たちには通例あまりない
と大いに関係しているからではあるまいか。実在する森羅万象に関する経験の場合と違っ
当なためらいが伴うだろう。こうしたことを話したがらないのは、その話題が隠微な世界
珍しい印象を受けたとすれば、それはまったく別問題である。おそらく、その告白には相
な予感、衝動、突飛な考え、幻覚(とやら言うもの)
、夢、その他、頭に焼きつくような
話して聞かせることに二の足を踏んだりしないであろう。とはいえ、この旅人が何か奇異
る生き物を実際に見たことのある正直な旅人がいたと仮定してみよう。その場合は、人に
いか、笑われるのではないかと思ってしまうようである。大海蛇
(1)
これから語ることにおいて、私は何か仮説を立てたり、実証したり、それを否定したり
するつもりは毛頭ない。ベルリンの書籍商 に関する話を知っているし、デイヴィッド・
(2)
チャールズ・ディケンズ
ブルースター卿
が語った今は亡き王立グリニッジ天文台長
の妻についての事件を調べ
ては、微に入り細にわたって探求したことがある。この最後の事件については、体験者
た こ と も あ る。 ま た、 私 の 仲 間 内 で 起 こ っ た 幽 霊 の 幻 想 に 関 す る 実 に 驚 く べ き 事 件 に つ い
(4)
部だが ――同じような説明がされてしまい、この体験談はまったく根も葉もない話となっ
がある。その点を誤って考慮されると、私自身の体験の一部まで ――とはいえ、ほんの一
てしまうだろう。この体験は私が先祖から受け継いで発現した奇癖のせいではない。以前
それと似たような経験をしたことも、それ以後に同じような経験をしたことも、まったく
ないのだ か ら 。
あるとき、耳目を驚かすような殺人事件がイングランドで起こった。どのくらい昔のこ
とだったか、どのくらい最近のことだったか、そんなことは大した問題ではない。昨今は
残虐さで名をとどろかせるような、そうした殺人犯が次々と現われているではないか 。
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に葬り去ってしまいたいくらいだ。
そうした話はもう聞きたくない。特に、この残虐な男についての記憶は、できれば処刑さ
れ た 男 の 死 体 を 埋 葬 し た よ う に、 ニ ュ ー ゲ ー ト 監 獄
ておきた い と 思 う 。
この犯罪者の性格を解明する直接の手がかりを与えることについては、私は意図的に控え
(6)
最初に殺人が発覚したとき、あとで公判に付されることになった男には、まだどんな容
殺人裁判
(5)
(3)
( 女性)と私との血のつながりは、たとえどんなに薄くても、全然ないと述べておく必要
23
24
疑もかけられていなかった。いや、私が述べる事実については、念を入れて正確を期した
いので、その男が容疑者であるなどとは、それとなく世間でささやかれたことさえなかっ
たと言っておく必要がある。そのころ、この男のことが新聞で言及されることはまったく
なかったので、その人相や服装が当時の新聞に書かれたことなど、あろうはずもない。
朝食時に新聞 を開いて、その事件を初めて報じた記事を読んだとき、私は深い興味を
覚え、三度と言わないまでも、二度も読んでしまった。発見された場所は寝室だった。私
この奇妙な感覚に襲われたのは、怪奇的な場所ではなく、セント・ジェイムズ通り の
角のそばにあるピカデリー のアパートであったが、そんな体験は私にとって本当に初め
焼きつく ほ ど で あ っ た 。
で、ベッドから死体が消えていることまで観察することができた。それはまぶたに鮮明に
はほんの一瞬のことだったが、私には鮮やかに見て取れたのだ。あまりに鮮やかだったの
寝室が私のいた部屋をさーっと通り過ぎるような、そんな気がした。それが通り過ぎたの
えた。その際に、(ありえないことだが)川の流れに描かれた絵のように、事件のあった
――何と言えばよいのか分からないが、うまく言葉では表現できないような感じ ――を覚
は、新聞を下に置いた瞬間に、ぞくっとする感じ ――心地よい感じ ――すーっとする感じ
(7)
(8)
の奇妙な震えが、その感覚のあとに生じた。もっとも、椅子はキャスター付きで動きやす
てのことだった。そのとき、私は安楽椅子に座っていたのだが、椅子が動いてしまうほど
(9)
チャールズ・ディケンズ
25
かったと言っておかねばならない。私は、下のピカデリーの通りで動いている物を見て視
にぎ
力を回復させようと、窓の一つに近よった(部屋は三階にあって窓が二つあった)
。秋の
から運ばれてきた多量の落ち葉が、突風に乗ってくる
明るい朝のことで、街路は活気に満ちて賑やかだったが、強い風が吹いていた。窓の外を
見 る と、 セ ン ト ・ ジ ェ イ ム ズ 公 園
くると舞い上がり、やがて渦巻状の柱になった。その柱が倒れて落ち葉が散乱すると、二
人の男が街路の反対側を通って、西から東へ歩いて行くのが見えた。縦列をなして歩いて
いたが、前を行く男はしばしば肩越しに振りかえっていた。三十歩ほど離れて彼を追いか
けていた後方の男は、威嚇するように右手を振りあげていた。
まず第一に、このような公共の大通りで、あのように奇妙にも威嚇するような身振りを
続けていることに、私は注意を奪われた。それから、さらに驚いたことに、誰もそのこと
に気を留めていないという事実に注意を奪われた。二人とも他の通行人の間を縫うように
歩いている。しかも、歩道の上を歩くという行為と矛盾するかのように、すいすいと。私
が見たかぎりでは、二人に道を譲ったり、接触したり、あとを追って見たりする通行人は
一人もいなかった。二人は私の部屋の窓の下を通る際に顔を上げて、こちらの方をじっと
見ていた。二人の顔ははっきりと見えたので、私はどこで会っても彼らだと即座に分かる
と思った。だからと言って、二人のどちらかの顔に何か非常に目立ったものがあって、そ
れが私の意識に残ったというわけではない。ただ、前を行く男の方は異常なほど顔をしか
殺人裁判
(10)
26
めていて、追いかけている男の顔色は汚れた蝋人形のような色であった。
私は独身である。所帯といっても召使いとその妻しかいない。ある支店銀行で仕事をし
ているが、そこの部長としての務めは、世間一般で思われているように軽いものではなかっ
た。そのために、気分転換が必要だったにもかかわらず、その年の秋はロンドンに引き留
められていたのである。私は病気ではなかったが、さりとて健康でもなかった。疲れを感
じ、単調な生活で意気消沈し、「ちょっと消化不良」になっていた。読者の皆さんはその
いては、かかりつけの有名な医者が、それ以上に自信のある説明はできないとはっきり言っ
ことを、常識の範囲内で、好きに考えてくださって結構である。当時の私の健康状態につ
たので、要求に応じて彼が書いてくれた診断書から、私としてはそのまま引用するしかな
い。
が
殺人事件の詳細が徐々に解明されるにつれ、一般大衆は次第に心を強く奪われるように
なった。そのように皆が興奮する中で、私の方はできるだけ自分の目と耳から遠ざけるこ
とで、事件については考えないようにしていた。しかし、故意の殺害に関しての評決
時 間 が 足 り な い と い う 理 由 で、 彼 の 裁 判 が 中 央 刑 事 裁 判 所
の開廷期を一つ飛ばして延期
容されたことは分かった。また、偏見が世間に広がっているだけでなく、被告側の準備に
容疑者にとって不利に下されたこと、そしてその男が裁判のためにニューゲート監獄に収
(11)
されたことも分かっていた。さらに、延期された彼の裁判の次の開廷期がいつ、あるいは
(12)
チャールズ・ディケンズ
27
いつ頃、始まるのかさえ私は知っていたのかもしれない。でも、実際には分かっていなかっ
たのだと 思 う 。
私の居間と寝室と化粧室はすべて同じ階にあった。最後の化粧室へは寝室を通らなけれ
ば行けなかった。正確に言えば、化粧室には扉が一つあって、かつては階段とつながって
いたのだが、今では浴室の配管の一部が ――その時はすでに何年かたっていたのだが ――
扉を横切る形で固定されていた。それと同じころ、同じ部屋の改造の一部として、化粧室
の扉は釘づけされ、その上には布が張られていた。
ある日の夜更け、私は寝室に立って、就寝前の召使いに何かの指示を与えていた。私の
顔は化粧室に通じている唯一の扉に向いていたが、その扉は閉まっていた。そして、その
扉の方に召使いは背中を向けていた。ところが、彼と話しているうちに、その扉が開き、
ある男が顔をのぞかせ、とても真剣に何かわけありな様子で、私を手招きしているのが見
えたのである。それはピカデリーを歩いていた後方の男、あの汚れた蝋人形のような顔色
をした男 で あ っ た 。
その人影は手招きをしたあと、引き下がって扉を閉めた。私は寝室を横切ると、すぐに
化粧室の扉を開け、中をのぞいてみた。すでに明かりをともした蝋燭を手に持っていた。
そのとき、人影が化粧室にいるのではないかという、そうした霊的な予感はなかった。案
の定、そこに男の姿は見えなかった。
殺人裁判
28
「デリック、信じられ
召使いがきょとんとしているのに気づいたので、彼の方を向き、
るか? 冷静沈着な時に見えるなんて、あんな ――」と言った。そこで、私が彼の胸に手
を置くと、彼は突然はっとして、激しく震えながら、
「ええ、そうですとも! 死人が手
招きしておりました!」と答えた。
ところで、このジョン・デリックなる男 ――二十年以上も私の信頼と愛情を得てきた召
使い ――が、そうした人影のようなものを見た気になったのは、私が手で彼に触ったから
ではないだろうか。私が触ると、実際とても驚くべき変化が彼に生じた。彼は人影を見た
ような感覚を、その瞬間に何かオカルト的な媒体によって、私から得たとしか思えない。
私の命令を受け、ジョン・デリックがブランデーを少し持ってきた0の0で、ひとくち彼に
与えた。もちろん私も喜んで少し飲んだ。その夜の不思議な事件の前に起こったことにつ
いて、私はひとことも彼に話していなかった。そのことを思い起こしていると、以前あの
顔を見たことがあるとすれば、それは私がピカデリーで見た、あの一回きりだと次第に確
信するに至った。扉の所で手招きしていた人影の表情と、窓辺に立っている私の方を見上
げた男の表情を比べ、私は次のような結論に達した。つまり、あの人物は一回目に私の記
憶に自分を留めるようにしておき、二回目に私が即座に思い出すように念を押したのであ
その夜、あの人物が再び現われることはないだろうという、そうした説明しがたい確信
る。
チャールズ・ディケンズ
29
を抱いていたにもかかわらず、私はあまり気分がよくなかった。夜が明けると、私は泥の
ように眠った。ジョン・デリックが片手に書類を持って枕もとに来たとき、やっと私は目
をさまし た 。
この書類が原因で、それを配達した男と私の召使いが、どうやら戸口で口論していたよ
うである。それは私に宛てた召喚状で、オールド・ベイリー にある中央刑事裁判所の次
の開廷期で陪審員を務めよというものであった。ジョン・デリックがよく知っているよう
――そう思うことがもっともであったか否か、今この瞬間でも私には分からないが ――そ
に、これまで私は一度もそういった陪審に召喚されたことがない。召使いの意見によれば
う し た 部 類 の 陪 審 員 は、 私 の 場 合 よ り 身 分 が 低 い 者 か ら 選 ば れ る の が 通 例 だ と い う こ と で
あった。最初に彼が召喚状の受け取りを拒否したのはそのためである。召喚状を届けた男
は、この問題をとても冷めた目で受け止めていた。その男が言うには、私が召喚に応じよ
うが応じまいが、自分には関係のないことで、とにかく召喚状は渡したので、もう自分に
責任はないから、あとはそちらの責任で処理してくれ、ということであった。
一日か二日の間、この呼び出しに応じるか、それとも無視すべきか、私は決めかねてい
た。そのとき、ある方向へ心が傾いたり、影響を受けたり、引きつけられたりするような
不思議な力は、私の中ではほんの少しも感じられなかった。その点については、今ここで
述べている他のすべての点と同じように、完全に確信している。結局、単調な生活に変化
殺人裁判
(13)
30
を与えるために、私は行くことに決めた。
指定された朝は十一月のある薄ら寒い時であった。ピカデリーには褐色の濃い霧が出て
いて、その霧はテンプル・バー の東あたりで真っ黒となり、この上なく重苦しい感じを
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の上を通る
(15)
すぐ、裁判官が二名ほど入廷して席に着いた。すると、ガヤガヤしていた法廷が水を打っ
中を貫く鋭い口笛の音や、とりわけ大きな歌声や叫び声などが時おり聞こえた。そのあと
馬車の車輪の鈍い音が聞こえた。また、そこに集まった人々のざわめき、そのざわめきの
に黒い蒸気がたちこめているのが見え、外の街路にまかれた藁やタン皮の穀
わら
私は任命された陪審員たち専用の場所に座り、どんよりした霧と人間の息からなる暗が
りを通して、できるだけ注意して法廷を見渡した。大きな窓の外では汚いカーテンのよう
ら。
は 困 る。 な ぜ な ら ば 、 私 は ど ち ら の 点 も 頭 の 中 で 完 全 に 確 信 し て い る わ け で は な い の だ か
たような気がする。しかしながら、これを自信に満ちた主張のように受け取ってもらって
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廷に入って初めて、開廷中だった二つの法廷のどちらに自分が連れて行かれたのか、分かっ
あることを知ったような気がする。また、そのように手を借りて、どうにかこうにか旧法
0
入ったわけだが、そこの混雑した状態を見て初めて、その日が例の容疑者の裁かれる日で
同じガス灯による照明がなされていることに気づいた。執行官に案内されて旧法廷の方へ
与えていた。裁判所の廊下や階段はガス灯でギラギラと照らされており、私は法廷自体も
(14)
チャールズ・ディケンズ
31
たように静かになった。「容疑者を被告席へ」という命令が出され、殺人犯がそこに姿を
現わした。その瞬間である。私がピカデリーで見た二人のうち前方を歩いていた、あの男
だと分か っ た の は 。
そのとき私の名前が呼ばれたとしても、聞こえるように返事することはできなかったよ
うな気がする。だが、私の名前は七番目か八番目くらいに呼ばれたので、その頃には「は
い!」と返事ができるようになっていた。ここで注意されたし! 私が陪審席に進み出る
と、注意を払いながらも無関心を装って傍観していた容疑者は、激しい動揺を見せて自分
の 弁 護 士 を 手 招 き し た。 明 ら か に 容 疑 者 は 私 を 陪 審 員 と す る こ と に 異 議 を 申 し 立 て た い よ
うであった。そのせいで、しばらく裁判が中断した。その間、弁護士は被告席に片手を置
き、依頼人である容疑者とささやいたり、首を横に振ったりしていた。これは後日その弁
護士から聞いた話であるが、容疑者がおびえたように彼に語った最初の言葉は、
「どんな
ことがあっても、あの男だけは拒否してくれ!」というものであった。しかし、その理由
を容疑者がどうしても明かさず、点呼されて私が姿を現わすまでは、私の名前さえ知らな
か っ た こ と を 認 め た の で、 弁 護 士 は 私 を 陪 審 員 と し て 拒 否 す る こ と を し な か っ た そ う で あ
る。
あの殺人犯についての気味の悪い記憶を呼び起こしたくないという、私がすでに説明し
た理由だけでなく、あの長い裁判について詳しい説明をすることが、この物語に絶対必要
殺人裁判
32
であるとも思えないので、私たち陪審員が昼も夜も缶詰状態にされた十日間の中で、私自
身の奇妙な個人的体験と直接関係がある出来事だけに密着して、話をしてみたいと思う。
に収められた記録の一つ
私が読者諸氏の関心を呼び起こしたいのはその点であって、殺人犯の方ではない。注意を
喚起したいのはそのことであって、ニューゲート・カレンダー
ではない の だ 。
その日の私の照合では、詳しく数えてみると、いつも十二人だったが、ざーっと数える
と、いつも一人だけ多かった。その説明となるような人影 ――幽霊 ――は見えなかったも
はない。 い や 、 や は り 十 二 人 だ 」
えてくれた。突然、彼は「おや」と言った。
「私たちは十三人 ――、いやいや、そんなはず
「すみませんが、ちょっと私たちを数えて
私は隣の席にいた陪審員の注意をうながし、
くれませんか?」とささやいた。この要求に彼は驚いた様子であったが、顔をそらして数
が、いつも同じように難しさを感じた。要するに、一人だけ多すぎると思ったのである。
とき、彼らの数をチェックするのに、どういうわけか困難をおぼえた。何度か数えてみた
私は陪審長に選ばれた。裁判の二日目の朝、証人調べ(教会の鐘が聞こえていたので二
時間かかったと分かった)が終わったあと、たまたま仲間の陪審員たちの方に目をやった
(16)
に収容された。全員が同じ大きな部屋で別々のテーブルをベッド
のの、そのとき私は例の人物が必ず現われるような虫の知らせを受けたような気がする。
陪審員はロンドン亭
(17)
チャールズ・ディケンズ
33
にして寝た。私たちを安全に保護することを誓約させられた役人が、全員の管理および監
視を四六時中していた。その役人の実名を伏せておく必要はあるまい。彼は頭がよくて、
ほおひげ
非常に礼儀正しく、世話好きだったし、
(私はそれを聞いて嬉しかったのだが)シティー
ではとても尊敬されていた。態度は感じがよく、目は魅力的で、黒い頬髭は人もうらやむ
ほどであり、朗々とした声はすばらしかった。彼はハーカーという名前であった。
夜になって私たちが十二のベッドに入ると、ハーカー氏は自分のベッドを部屋の扉の前
に移動させた。二日目の晩、私はまだ横になりたくなかったし、ハーカー氏もまだベッド
に座っていた。それで、私は彼のそばに行って腰かけ、かぎ煙草を一つまみ差し出した。
ところが何ということか、煙草入れから一つまみ取る際に、彼の手が私の手にふれて、あ
る奇妙な震えが彼の全身に走ったのである。
「こいつは誰だ!」と彼は叫んだ。
ハーカー氏の視線を追って部屋の端を見ると、案の定、あの人物 ――ピカデリーで見た
二 人 の う ち 後 方 を 歩 い て い た 男 ――の姿が見えた。私は立ち上がって、何歩か前に進み、
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それから立ち止まって、ハーカー氏の方を振りかえった。彼はまったく何気ない様子で笑
した……のですが、どうも月の光のせいだったようです」
い、愉快そうに言った。「一瞬、ベッドもないのに、十三番目の陪審員がいるような気が
ハーカー氏には内情を明かさず、ちょっと彼を誘って部屋の端まで一緒に散歩をしなが
ら、人影が何をしようとしているかを注意して見た。それは、私の十一人の陪審員仲間そ
殺人裁判
(18)
34
れぞれの枕もとへ順番に行き、そのベッド脇にしばらく立っていた。いつもベッドの右手
にまわり、いつも次のベッドの足もとを通って、移動して行った。頭の動きから判断する
と、それぞれ横になった陪審員を悲しげな面持ちで見おろしているだけのように見えた。
ハーカー氏のベッドに最も近かった私のベッドや、私自身には見向きもしない。私が見て
いると、この人影は月の光が差し込んでいる所から、つまり部屋の高い窓を通って、まる
で空中の階段を昇っているかのように、消えて行った。
翌日の朝食時、その場にいた者は全員、私自身とハーカー氏を除いて、昨晩あの殺され
た男の夢を見たということが分かった。
が、実際に彼自身による直接証言が、私のまったく予期しない方法で、なされることになっ
そのとき、ピカデリーを歩いていた後方の男が(言ってみれば)殺された被害者である
ことを、まるで彼の直接証言によって理解させられたかのように、私は確信した。ところ
たのであ る 。
それは裁判の五日目のことだった。検察側の陳述が終わりに近づいた頃である。殺人事
件が発覚した際には、被害者のベッドから消え失せていたミニチュアの肖像画が、そのと
き証拠品として出された。それは、加害者が穴を掘って隠そうとしているのを目撃された
場所で、のちに見つかったものである。尋問中の証人によって誰の持ち物かが確認された
あと、それは裁判官に手渡され、そこから今度は検分のために陪審員たちに手渡された。
チャールズ・ディケンズ
35
黒い制服を着た執行官がそれを持って、私の方に進んできた丁度そのとき、ピカデリーを
歩いていた後方の男の幽霊が、猛烈な勢いで傍聴人の間から飛び出し、そのミニチュアの
うつ
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肖像画を執行官の手から奪い取って、両手で私に差し出した。そして、私がロケットに収
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められた肖像画を見る前に、幽霊は虚ろな低い声で次のように言った ――その頃はぼくも
肖像画を渡そうとするのを妨害し、その陪審員がさらに隣に渡そうとすると、その邪魔を
若かったし、顔から血の気も抜かれていなかったのです。幽霊はまた、私が隣の陪審員に
した。このようにして、肖像画は私たち陪審員に次々と渡され、最後はまた私の手もとに
戻ってきた。しかしながら、幽霊の正体に気づいた陪審員は私以外に一人もいなかった。
食事の間、そして一緒に収容されてハーカー氏の監視を受けている間はほとんど、当然
ながら初日から私たちは、その日の出来事について活発に議論していた。五日目に検察当
局の陳述が終わり、この事件の検察側の言い分がすべて明らかになると、私たちの議論は
さらに活気を呈し、真剣なものとなった。十二人の陪審員の中に教区民代表 ――なぜ監禁
されないのか不思議でならない大馬鹿者 ――がいた。この男は明々白々な証拠に対して途
方 も な い 異 議 を 唱 え て い た が、 そ れ を ま た 同 じ 教 区 の 二 人 の だ ら し な い 太 鼓 も ち が 支 持 し
殺人裁判
ていた。この三人は、ある地区から陪審員として選出されていたのだが、その担当地区に
で く
熱病を蔓延させ、五百人を殺してしまったのだから、むしろ自分たち自身の裁判にかけら
れてしかるべきだった 。 この有害無益な木偶の坊たちが大騒ぎしているとき、私はあの
(19)
36
殺された男の姿を再び見ることになった。それは私たちの何人かが寝る準備をしていた真
夜中近くである。彼はいかめしい顔をして、木偶の坊たちの背後に立ち、私を手招きして
いた。私が馬鹿者たちの方へ行って、その会話に割って入ると、すぐに彼は退いてしまっ
た。これは、私たちが監禁されていた長い部屋に限定して、再び起こった一連の幽霊出現
の始まりであった。陪審員仲間が額をよせて密談していると、殺害された男の顔がその間
に必ず見えた。また、みんなが述べ合った意見が自分にとって不利なものだと分かると、
その男は必ず抑えきれないように、しかつめらしい態度で私を手招きした。
裁判の五日目にミニチュアの肖像画が提出されるまで、私はこの法廷の幽霊を一度も見
たことがなかった。そのことは心に留めておいてもらいたい。ところで、被告側の陳述が
始まってから、三つの変化が起こった。最初に、その二つを一緒に述べておこう。例の幽
霊は今ではずっと法廷にいるようになった。この場所で私に注意を向けることは決してな
く、その時しゃべっている人間を始終じっと見つめていた。まずは一つ目の例だが、殺さ
れた被害者は喉を真っ二つに切り裂かれていた。被告側の冒頭陳述で、故人は自分で喉を
切り裂いたのかもしれないという可能性が示唆された。まさにその瞬間、喉が恐ろしい状
態 に 裂 け た 幽 霊 は( そ れ ま で 喉 を 隠 し て い た の だ が )
、話している男のそばに立って、時
には右手で時には左手で、喉を切り裂く仕草をしながら、こういう傷はどちらの手にせよ
自分で加えることなんかできないと、話している本人に対して懸命に示そうとしていた。
チャールズ・ディケンズ
37
次 に 二 つ 目 の 例。 性 格 証 人
として立った女が、被告ほど気だてのよい人はいないと宣誓
証言した、その瞬間に幽霊は彼女の前の床に立って、その顔をじっと見つめながら、腕を
広げて指を伸ばし、被告の邪悪な顔を指し示していた。
さて、三番目に起こった変化を今から書き加えなければならないが、それは三つの中で
最も顕著な変化として私に強い印象を与えた。それについて私は仮説を立てたりせずに、
正確に述べるだけにしておきたい。幽霊自体が注意を向けた人たちによって気づかれるこ
とはなかったが、幽霊がそうした人たちに近づくと、結果として彼らの側に何か動揺や不
安がいつも見て取れた。まるで幽霊は、私には従う義務がない法のために、私以外の人間
たちに身を明かすことができないかのようであった。しかし、その一方で、目に見えない
ように、無言のうちに、そっと彼らに暗い影を落とすことができるように思えた。これは
紛 れ も な い 事 実 だ が、 仮 説 と し て 自 殺 を ほ の め か し た 被 告 側 の 主 席 弁 護 人 の そ ば に 幽 霊 が
立ち、切り裂かれた自分の喉をノコギリで引くような、そうした恐ろしい仕草をすると、
その学識ある紳士は演説の途中で口ごもってしまった。そして、彼は巧妙に続けていた話
の穂を継ぐことが数秒間できなくなると、ハンカチで冷や汗をぬぐって、真っ青な顔に
なってしまった。また、幽霊が性格証人の女と対面すると、彼女は幽霊が指で示した方向
を目で追い、本当に気が進まない困った様子で、容疑者の顔を見ないわけにはいかなく
な った。
殺人裁判
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38
さらに二つの例を挙げれば十分だろう。裁判の八日目のことだ。毎日、午後の早い時刻
に軽食つきの休憩がしばらくあったが、その日は中断のあと裁判官たちが戻ってくる少し
前に、私は他の陪審員たちと一緒に法廷に戻っていた。陪審席に立って周囲を見渡すと、
幽霊がいなくなっているのに気づいたが、たまたま二階の傍聴人席に目を向けたとき、幽
霊が前かがみになって非常に上品な婦人におおいかぶさるように立っているのが見えた。
それはまるで裁判官が席に着いたかどうかを確かめたいかのようだった。その直後だ ――
婦人が金切り声をあげて気を失い、法廷の外へ運び出されたのは。裁判を指揮していた高
徳の、聡明な、我慢づよい裁判官もまた同断であった。証言の聴取が終わってから、裁判
官が申し立てを概説するために自分の気持ちと書類を整理していたとき、あの殺害された
男が裁判官専用の扉から入ってきた。そして、裁判官閣下の机の方に近づき、閣下がめくっ
ていた覚え書きのページを肩越しにじっと見つめていた。すると、閣下の顔に変化が現わ
れた。手の動きが止まり、私がよく記憶している例の奇妙な震えが生じたのである。閣下
は口ごもりながら「しばらく失礼します、みなさん。むっとする空気のせいで、ちょっと
息苦しくなりました」と言ったが、一杯の水を飲むまでは回復しなかった。
このようにだらだら続いた十日のうち、六日間は単調そのものだった。判事席にはいつ
もの裁判官とその関係者、被告席にはいつもの容疑者、審議席にはいつもの弁護士。いつ
ものように法廷の屋根まで達する質疑応答の声、いつものように裁判官のペンがこすれる
チャールズ・ディケンズ
39
音、 い つ も の よ う に 廷 吏
が出入りする音。昼間に自然の日光が法廷に射していても、い
つもの時刻にいつものガス灯がともされる。霧が出ると、大きな窓の外にいつもの霧のカー
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テンがたれこめる。雨が降ると、いつもの雨がパラパラ、ポタポタと落ちてくる。来る日
も来る日も、看守や刑事被告人のいつもの足跡がいつものおがくずの上に見え、いつもの
と
鍵でいつもの重々しい扉が開閉される音が聞こえる。そうした退屈な単調さのために、私
は途方もなく長い期間にわたって陪審長をやっているような、ピカデリーがバビロン
の十時七分前に退廷した。教区民代表の馬鹿と同じ教区の二人の太鼓もちが、またしても
それだけではない。ミニチュアの肖像画が提出されてからというもの、裁判が結審する
最後の瞬間まで、幽霊は私の方も見なかったのである。私たち陪審員は検討するために夜
方を見な か っ た の で あ る 。
ないのだろうかと、私は何度も何度もいぶかった。しかしながら、幽霊は決して容疑者の
疑者の方を見ることが決してなかった。少なくとも私にはそのように思えた。どうして見
がら省略してはならないことだが、私が殺害された男という名前で呼んでいる幽霊は、容
かった。いかなる時も、彼の姿は誰よりもはっきりと見えていたのである。これは当然な
さにもかかわらず、殺害された男が私の目の中で、その鮮明な輪郭を失うことは決してな
同じ時期に栄えた古代都市であるかのような、そのような気持ちになった。こうした単調
(22)
面倒を起こしたので、私たちは二度も法廷に戻って、裁判官の覚え書きから数ヶ所を取り
殺人裁判
(21)
40
出して再読してもらわなければならなかった。その数ヶ所について、私たちの九人は少し
も疑いを抱いていなかったし、同様に法廷の誰も疑っていなかった。にもかかわらず、大
馬鹿の三人組は妨害することしか念頭になかったので、まさにその理由のために異議を唱
えたのである。しかし、最後には私たちが勝ち、十二時十分前になって、ようやく全部の
陪審員が 法 廷 に 戻 っ た 。
そのとき、殺害された男は法廷の反対側、すなわち、陪審席のすぐ向かい側に立ってい
た。私が着席すると、彼は非常に注意深い目を私の方に向けた。どうやら満足している様
子 で、 腕 に か け て い た ( そ れ ま で 腕 に は か け て い な か っ た ) 大 き な 灰 色 の ベ ー ル を ゆ っ く
0
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0
りと手で振り、それで頭と首から下のすべて包んだ。私が「有罪」という陪審の評決を下
すと、そのベールは床に落ちた。そして、すべてが消え、あとはもぬけのからとなった。
裁 判 長 は 慣 例 に 従 い、 死 刑 の 判 決 が 申 し 渡 さ れ る 前 に 何 か 言 う こ と は あ る か と 容 疑 者 に
尋ねた。すると、容疑者は聞き取れない声で何かつぶやいた。翌日、主要な新聞が伝えた
ところによれば、それは「まとまりのない、支離滅裂な、聞き取りにくい言葉で、どうや
ら男は陪審長が自分に先入観を抱いていたので、公平な裁判は望めなかったと不満をもら
していた」ということであった。その男が実際に供述した驚くべき内容は、以下のような
ものだっ た 。
チャールズ・ディケンズ
裁判長閣下、陪審長が席に着いた瞬間、俺はなんて運の悪い男だろうって思いました。
閣下、やつが俺を無罪放免にするはずはねえだろうって、そう思ったんです。なぜか
っていうと、俺がつかまる前に、どういうわけか知らねえが、やつが夜になってから
枕もとに来て、俺をたたき起こし、首にロープを巻きつけやがったからですよ。
海の深みに住むヘビに似た怪物。この種の生き物については何世紀にもわたって船乗りたちの報
告が数多くなされてきた。
のこと。
ドイツの作家・批評家・書籍商のクリトフ・F・ニコライ (Christoph Friedrick Nicolai)
劇作家・批評家のレッシングやユダヤ人哲学者・博愛主義者のメンデルスゾーンの文学仲間として啓
(1)
蒙主義運動を組織し、ロマン主義の傾向を示すゲーテ、シラー、カント等を攻撃した。
(2)
。一八一五年に屈折率と偏光
万華鏡の発明と偏光の研究で有名な物理学者 (Sir David Brewster)
角との関係を示す「偏光角の法則」を発表。三五年にウォルター・スコットに宛てた『自然魔術に関
殺人裁判
【訳注】
41
(3)
42
を数例あげている。
(spectral illusion)
する手紙』を出版したが、その第三の手紙で当時の王立天文台長の(手紙の中ではA夫人として言及
される)妻による幽霊の幻想体験
一八一一年から三五年まで第六代王立天文台長を務めたジョン・ポンド。この天文台は一六七五
年にチャールズ二世によってグリニッジに創設された王立の施設で、現在は国立海洋博物館の一部。
ディケンズの生涯の最後の十年(一八六〇年代)は殺人事件が頻繁に起き、一般大衆の殺人嗜好
が強まった時代であった。
(4)
シ テ ィ ー の 西 門 に あ っ た 刑 務 所 で、 一 七 八 三 年 に 絞 首 刑 場 が タ イ バ ー ン か ら 移 さ れ、 監 獄 前 の
広場に絞首刑台が建てられた。公開処刑の日には群衆が大挙して押し寄せたが、一八六八年に廃止。
(5)
当時、中産階級の読者を対象に編集され、殺人報道で抜きんでていた新聞は『デイリー・テレグ
ラフ』
。
一九〇二年に取り壊された跡地には現在の中央刑事裁判所が建っている。
(6)
ピカデリーの大通りの中央から南東に延びた通りで、セント・ジェイムズ公園に行き当たる。
(7)
王室所属の最古(一五三二年)の公園。
ロンドンの繁華街の中心地であるピカデリー・サーカスからハイド・パーク・コーナーを結ぶ大
通り。
(9) (8)
陪審は市民の中から選ばれた十二名の陪審員からなり、法廷で事実の審議にあたり、陪審長が裁
判長に対して有罪か無罪かの評決 (verdict)
を答申する。
(11) (10)
チャールズ・ディケンズ
43
一五三九年にニューゲート監獄のそばに建設され、ロンドンで起こった犯罪や他の裁判所から移
送される事件について審理する裁判所。伝統的に開廷期間中は裁判官が香しい花束を持ち込む習慣が
あるが、それは隣接するニューゲート監獄の悪臭を防いだ名残りである。
セント・ポール大聖堂の西側にある通り。通例は隣接する中央刑事裁判所の俗称として使用され
る。
フリート・ストリートとストランド街が接する地点にあった古い門。ディケンズの時代の楼門は、
ロンドン大火後にクリストファー・レンが設計したもので、一七四六年までは謀反人や犯罪者の首が
さらされていた。
タン皮とは皮なめし用の樹皮で、使い切った皮殻は藁などとともに石畳に敷かれ、馬車の車輪の
消音に使われた。
ニューゲート監獄に投獄された悪名高い犯罪者たちの経歴を記録したもの(一七七四年に五巻本
として出版)
。一八二四~二六年に刊行された新版は十九世紀前半に流行した一連のニューゲート・ノ
・ ・エインズワースの『ジャック・シェパード』(一八三九年)でピークを迎えた。
ヴェルに材料を提供している。ディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』もその流れを汲んでおり、
ビショップスゲート(現在のリヴァプール・ストリート駅を南北に貫いて走る大通り)の西側に
あった大きな酒亭。三五五名を収容する食堂があった。裕福な商人たちが定例晩餐会を催していたが、
H
ディケンズも劇場の経済援助のために何度か晩餐会を催している。
殺人裁判
(12)
(13)
(14)
(15)
(16)
(17) W
ロンドンの旧市内の中心部で約一マイル四方の地域。英国の商業・金融の中心地。
原告または被告の評判、素行、徳性などについて証言する者
囚人たちを死に至らしめた「監獄熱」はその異名である。
ディケンズは救貧院や養育院の役人の怠慢さが原因で収容者が熱病で死ぬ場面をいくつかの作品
で、絞首台よりもはるかに多くの
で描いている。この種の熱病は主として発疹チフス (typhus fever)
(19) (18)
古代メソポタミアの南部にあった王国バビロニアの首都で、逸楽と悪徳の大都会という比喩的な
意味がある。
裁判所で各種事務に従事したり、法廷内の秩序を維持する職員。
(22) (21) (20)
、および第六章「控え目に聞く話」がディケンズの書いたものである。本作品は『マ
for Life”)
グビー・ジャンクション』 (Magby Junction , 1866)
の第四章「信号手」 (“No. 1 Branch Line:
題され、掲載された八章の中で最初と最後の章
スマス特集号。この号は『マリゴールド博士の処方箋』
(
Doctor
Marigold’s
Prescriptionsと
)
と “To Be Taken
(“To Be Taken Immediately”
)で、出典はディ
本邦初訳。原題は「控え目に聞く話」( To Be Taken with a Grain of Salt
ケンズが自ら編集長を務める週間雑誌『オール・ザ・イヤー・ラウンド』の一八六五年のクリ
【作品と 作 者 に つ い て 】
44
チャールズ・ディケンズ
45
の姉妹篇として、のちに「二つの幽霊物語」 (Two Ghost Stories)
というタ
The Signal-Man”)
イトルで『クリスマス・ストーリーズ』に収められた。そこでは「控え目に聞く話」が「殺人
裁判」 (The Trial for Murder)
というタイトルに変更されている。しかし、その後の『クリス
マス・ストーリーズ』では、『マリゴールド博士の処方箋』の三篇(
「控え目に聞く話」は第二
章)が「マリゴールド博士」としてまとめられている。
ディケンズは、幼年時代に父親が借金不払で投獄されたために、靴墨工場で悲惨な労働を経
験させられ、そのトラウマが彼の一生に深刻な影響を与えた。やがて彼は速記術を習得して新
聞社の議会通信員となり、同時にロンドンの風物を題材に小品を書き始め、それを集めた『ボ
ズのスケッチ集』で好評を博した。
『ピクウィック・クラブ』
で一躍して有名作家となったディケンズは、
『オリヴァー・ト
ゥイスト』や『クリスマス・キャロル』といった前期の作品
群で個々の社会悪を摘発し、人道主義的な社会改革を唱えた
が、その社会批判は『荒涼館』
、
『リトル・ドリット』
、
『大い
なる遺産』
、
『互いの友』といった後期の作品群では社会シス
テムに向けられるようになる。そこでは象徴的な技法が採り
入れられ、前期の楽観的な雰囲気に代わって悲観的な色彩が
濃くなる。時代精神と社会風潮を巧みに描いたディケンズの
殺人裁判
46
精細な観察眼と豊かな想像力は、戯画的とも言える個性に富んだ活力のある数多くの人物を創
造した。家庭生活では妻キャサリンと性格が合わずに別居し、素人演劇で知り合った年下のエ
レン・ターナンと秘密の生活を送ったが、晩年は公開朗読に熱中するようになり、その疲労の
ために体を壊してしまい、推理小説『エドウィン・ドルードの謎』を未完成のまま、一八七〇
年に五十八歳で死去した。
チャールズ・ディケンズ
窓をたたく音
ダイナ・マロック
48
私は幽霊をほとんど信じていません。幽霊なんか有害無益だからです。直接関係もない
のに、何の目的もないのに ――要するに、滑稽千万にやって来る ――正確には、やって来
ると言われているので、この世に関する常識も、あの世についての超自然的な感覚も、ど
ちらも幽霊とは両立しません。ですから、たとえ「素晴らしい幽霊物語」であっても、十
中八九は簡単な説明で片がついてしまいます。そして、もっともらしい説明がつかない残
り 十 分 の 一 な い し 二 の 場 合 で も、
「事実」と呼ばれる例のつかみ所のないものを捕らえる
ことは、どんな社会でも非常に難しいので、その点がちゃんと分かっている人はみな、半
信半疑に首を振りながら、「証拠だ! これは証拠が必要な問題なんだ!」と声高に叫ぶ
傾向があ る の で す 。
0
(俗に「幽霊」と呼ばれている)まったく実体の
しかし、私が信じようとしないのは、
ない霊魂が、人体を持つ霊魂(人間)に対して不思議な影響を及ぼす可能性、あるいは奇
々怪々な伝達を行なう可能性 ――不可能性の方がずっと大きいと思うですが、そうした可
能性 ――に対する軽蔑のこもった懐疑心のためではありません。二本足(人間)が自分の
頭脳で生み出した平凡な法則などによって、
「天上と地上と地下のもの」 を測定しようと
ど、それほど厚顔無恥ではないはずです。
しょう。私たちは宇宙の謎について「説明できないから、受け入れがたい」と主張するほ
する、そんな賢者ぶった連中は盲人よりもだまされやすく、子供よりも無知だと言えるで
(1)
ダイナ・マロック
っ
私は、これらの見解を(ただ単に見解としてですが)前もって述べ、今から自分にと
ろんばく
て本当に完璧な幽霊物語だと思える話をするつもりです。その外的証拠と状況証拠は論駁
の余地がありません。それに対し、心理的な因果関係の方は説明すること自体が容易では
ないので、説明して片づけるとなると、さらに難しいような気がします。それはハムレッ
トの幽霊のように「正真正銘の幽霊」 でした。その幽霊には娘さんがおられ、今では年
その老婦人(マッカッサー夫人)が「あのね」と私に言われたのは、例のテーブル動か
しが流行した初期の頃 ――死んだ祖先を食卓に呼び戻すという考えや、帽子をひょいと
この老婦人から私は次のような真実の話を聞いたのです。
とを!) ――これまでずっと、ありとあらゆる神秘についての知識を身につけてこられた、
老いた御婦人になっておられますが(彼女の実に素晴らしい記憶力に神の祝福があらんこ
(2)
動かしたり、皿をぐるぐると回したりすることで、天上界の不思議なことが分かるという
考えが、若者に嘲笑される一方で、老人にショックを与えていた頃 ――でした。老婦人は
思いませ ん の よ 」
「なぜでしょうか? 幽霊の存在を信じておられないのでしょうか?」と、私は尋ねま
した。
「少し は 信 じ て お り ま す 」
窓をたたく音
(3)
「あのね」と言って、話を続けてくださいました。
「私は幽霊の話を興味本位でしたいとは
49
50
「これまで御覧になったことは?」
0
「一度もありません。でも、一度だけ音を聞いたことが……」
0
0
0
畏敬の念からなのか、物笑いになるのが怖いからなのか、老婦人は幽霊の話をしたくな
いかのように、真剣な顔をしておられました。でも、この優しい老婦人が幻影を見られた
われたことなど一度もない方なのですから。多くの常識をたくわえ、驚くこともほとんど
としても、誰も笑うことなどできなかったでしょう。生きた人間に皮肉や辛辣なことを言
なく、想像を好む傾向もない人が、このような畏敬の念をはっきりと持つことは、かなり
珍しいの で は な い か と 思 い ま す 。
私はマッカッサー夫人の幽霊物語にとても好奇心をそそられました。
「あのね、それはずいぶん昔のことで ――昔すぎて、私がその時の状況を忘れてしまい、
記憶がゴチャゴチャになっていると思うかもしれませんね。でも、そんなことはありませ
んよ。十代の頃に起こったことの方が ――そのとき私は十八でしたが ――最近あった多く
の出来事よりも、はっきりと記憶に残っているのではないか、そんなふうに思うことが時
々あります。さらに、その頃のことを全部あざやかに思い出せる理由が、いくつか他にも
あったのです。その当時、私は恋をしていましたのよ、ホントに」
若いからといって、そんなことは信じられないとか、滑稽だとか思わないでちょうだい
と懇願するような、そうした穏やかな笑みを浮かべて夫人は私を見ておられました。とん
ダイナ・マロック
51
でもありません。私は興味津々で身を乗り出しました。
「マッカッサー氏ですね、それは」と、私は何の疑念もなく尋ねました。私自身、誰で
も初恋の人と結婚するのが現実世界の道徳律なのだと思い、それが不変の真理だと信じて
しまう、そんな純真無垢な年頃の娘だったのです。
「いいえ、あなた。マッカッサー氏ではありませんよ」
私はとても驚き、口もきけないほど仰天しました。というのは、この老婦人について私
はロマンスのようなものを作り上げていたからです。それで、まるまる五分間、マッカッ
サー夫人に黙って編み物をさせてしまいました。夫人が少しほほえんで、次のようにおっ
しゃった時も、まだ私は驚いたままでした。
「その方は有能な若い紳士で、私のことがそれはもう大好きで、誇りにしておられたよ
うです。だって、そんなふうに思わないかもしれませんが、当時の私はホントに美人だっ
たのよ」
窓をたたく音
疑うなんて滅相もありません。ほっそりした、しなやかな姿形、小さな手足。マッカッ
サー夫人の後ろを歩けば分かることですが、未だに若い女性だと間違えるほどでした。私
の小町娘だったのですよ。そこでエヴェレスト氏が私に恋を
たちの世代よりは、前の世代の方が、生活はゆったりとして、ゆとりがあったことは確か
です。
「 そ う で す、 私 は バ ー ス
(4)
したのです。私も本望でした。なぜなら、ちょうどミス・バーニーの『セシリア』 を読
0
0
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ることのできる唯一の結論へ、次のように一足飛びしました。
「いいえ」と私は答え、マッカッサー夫人の物語へ話題を戻すために、彼女にエヴェレ
ストという名の恋人がいた事実と、彼女が今はマッカッサー夫人だという事実を一致させ
0
て、とてもすてきな物語ですね。お読みになった?」
んでいて、彼はモーティマー・デルヴィルそっくりだと思ったからなの。
『セシリア』っ
(5)
0
0
聞いたりされたのは、バースだったのではないですか? 幽霊の話ですよね?」
「そんなふうに言わないで。まるで笑っていらっしゃるようではありませんか。それに、
「でも、マッカッサー夫人、私に話そうとなさっておられるものですが、それを見たり
りとめのない思い出の話に耳を傾けました。
この古い言い回しは、前世紀の小説や私たちの曾祖母の恋人に付き物の表現でしたから、
一笑に付すことなんかはできません。私は我慢して、幽霊物語をさらに遅らせそうな、と
信じにならないでしょうね、あなた」
夫人は頭をゆっくりと振りながら、おっしゃいました。
「とても美丈夫だったなんて、お
びじょうぶ
「いえ、いえ、あなた。ありがたいことに、彼はまだ生きています。ここへも時おり訪
問なさいますよ。今も私の家族の良き友です。ああ!」半ば嬉しそうに、半ば悲しげに、
「御覧になったのは、その方の幽霊なのですね?」
52
ダイナ・マロック
53
笑ってはいけませんよ。ホントの話なのですから。ここに七十五歳のお婆さんが座ってい
るのと同じように、そして当時の私が十八歳の乙女だったのと同じように、その話は事実
* * * * *
なのです。そうですよ、あなた、私はすべて話してあげますからね……
……私たちはロンドンに滞在していました ――父と母、そしてエヴェレスト氏と私です。
彼が両親に私も同伴するように説得してくれましてね。どうやら私に世の中を少し見せた
の近くに下宿を
かったようです。もっとも、それはホントに狭い世の中でした。というのは、彼は日夜勉
学 に 励 む 法 学 生 で し た か ら。 彼 は 私 た ち の 滞 在 の た め に テ ン プ ル 法 学 院
ズ河が大好きで、勉強がきつすぎて父と母と私をラニラ・ガーデン
や演劇に連れて行け
借りてくれました。それはC通りの一番奥の家で、テムズ河に面していました。彼はテム
(6)
あなた、テンプル・ガーデン に行かれたことは? 今はすてきな所になって、喧噪の真っ
うっそう
ただ中にある静かな、鬱蒼とした、人目につかない場所ですが、大きな樹木を通して星が
ない夕方などは、よく私たちと一緒にテンプル・ガーデンに沿って散歩したものでした。
(7)
きれいに見えますわよ。もっとも、私が娘だった当時とは、ずいぶん違った感じになって
しまいま し た が … …
窓をたたく音
(8)
そうですとも! 同じであるはずがありません。
は、
…… 私 の 記 憶 で は、 三 人 が ――母 と エ ヴ ェ レ ス ト 氏 と 私 が ――最 後 の 散 歩 を し たにの
ぎ
テンプル・ガーデンでした。母がバースの実家に帰る直前のことです。虚弱な母は賑やか
なロンドンに耐えきれず、早く帰りたくて気が休まらない様子でした。おまけに、実家に
は 子 供 た ち が た く さ ん い て( 私 が 一 番 上 で し た が )
、一ヶ月かそこらすると、また末っ子
が生まれるということで、私たちは心待ちにしていました。それにもかかわらず、母は私
と 一 緒 に 出 歩 き、 幸 せ 一 杯 の 元 気 な 娘 が 見 た い と 思 う よ う な 展 示 会 や 観 光 地 へ 一 緒 に 行 っ
てくれ、私と同じように大喜びで見物していました。
でも、その晩の母は顔が青白く、かなり心配そうで、何としても実家に帰ろうと決めて
いるみたいでした。私たちは母を説得して、そうさせないように、できるだけのことをし
でジョン・ケンブルとサラ・シドンズが出る
ました。なぜなら、今回のロンドン訪問における一番の楽しみが、その翌々日の晩に予定
されていたのですから。ドルリー・レーン
(9)
え、母の 心 は 決 ま っ て い ま し た 。
た。ああ! 今ではあんな舞台を見る機会は絶対ありません。真面目な父でさえ行きたが
り、帰郷の時期を延ばした方がよいと、穏やかな口調で私たちに勧めたほどです。とはい
『ハムレット』を観ることになっていたのですよ。そのことを考えても御覧なさい、あな
54
ダイナ・マロック
の 家 並 み を 照 ら し て い ま し た。 彼 は 次 の よ う に 言 っ た の で す
とうとうエヴェレスト氏が口を開きました。私は彼が立っていた場所を今でも指さすこ
とができますよ。テムズ河の水が ――その時は満潮でした ――家の壁にひたひたと寄せて、
――それは、もちろん、とんでもない間違いでした。とはいっても、その時は恋をしてお
夕陽が向こう岸のサザーク
られたのですから、勘弁してあげないといけませんね ――
「 お 母 様 」 と 彼 は 言 い ま し た。
「こんなことは初めての経験です。お母様が自分のことだ
けを考え ら れ る な ん て 」
「自分のことだけですって、エドマンド?」
「すみませんが、二日間だけ、スウェイト先生とドロシーさんをあとに残して、お母様
だけ帰郷されるのは不可能でしょうか?」
私は黙っていました。本当に、私は今まで母と離ればなれになったことなんか、一度も
ありませんでした。母と別れたいとか、母がいないのに何かを楽しみたいとか、そんなこ
とは今まで頭をかすめたことさえなかったのです三ヶ月前まではね。
「お母様、そんなこ
とは ――」
でも、ここでエヴェレスト氏の姿がチラッと見えたので、私は黙ってしまいました。
窓をたたく音
(10)
「あとに残して ――あとに残してですって!」母はその言葉をじっと考えていました。
「あなたはどうなの、ドロシー?」
55
56
「どうか先を続けてください、ドロシーさん」
たちは何年も会えなくなるかもしれませんでした。当時のロンドンとバースとの間の旅は、
いや、私には続けることができなかったわ。それまで私たちは一緒にいることができて
幸せだったので、彼はとてもいらだち、感情を害したような顔になりました。その上、私
恋人にとってさえ容易ならぬものだったのですから。彼は一生懸命に勉強していましたが、
そうした生活に楽しみはほとんどありませんでした。ですから、私には実際に母の方が我
がままだ と 思 え た の で す 。
私の口は何も語らなかったものの、おそらく悲しげな目が多くのことを語っていたので
しょうか、母が状況を感じ取ってくれました。
母は私たちと一緒に二、三ヤードほど歩きました ――ゆっくりと、考え深げに。桜色を
した頭巾のリボンの下から見えていた母の青白い、疲れた顔が今でも思い浮かびます。若
い頃はとても目鼻立ちの整った女性だったそうですが、その時も非常に美しかったのです
よ――ああ、大切なお母様! 「ドロシー、この議論はもうおしまいよ。とても残念だけど、
私は帰郷しなければならないわ。でもね、あなたと一緒に週末まで残ってくださるように、
お父様を説得してみるわ。それで満足かしら?」
母の子として衝動的に私の心に浮かんだ最初の返事は「いいえ」でした。ですが、エヴェ
レ ス ト 氏 が 懇 願 す る よ う な 顔 で 私 の 腕 を 締 め つ け た の で、 ほ と ん ど 意 志 に 反 し て「 え え 」
ダイナ・マロック
57
と答えて し ま い ま し た 。
母はエヴェレスト氏の喜びと感謝の言葉に当惑した様子でした。もうしばらくの間、母
は彼の腕に寄り添って、散歩をしていました ――彼のことが大好きだったのです。それか
ら、河辺に立って上流と下流を見ていました。
「 こ れ が ロ ン ド ン で の 最 後 の 散 歩 に な り ま す ね。 い ろ い ろ と 私 の 世 話 を し て い た だ き、
ありがとうございました。私が帰郷したあとは、特にドロシーの面倒をお願いしますね。
ああ、必 ず よ 」
0
0
0
0
この母の言葉、そしてその時の口調は、私の心に強く銘記されました。最初は、母の私
に対するような思いやりの心が私にはなかった、という後悔の念が混ざったような感謝の
々にして過ちを犯すものなのよ。私たち、神ならぬ人間は、
「今現在」のことだけに対処
念からでした。その後は ――でもね、その後のことでくよくよ考えすぎると、私たちは往
すればいいの ――その後のことには関与しないでね。このような場合、自分を責めること
も他人を責めることも、私はしないことにしています。何であれ、済んでしまったことは、
それで正しかったのですし、間違いであったはずはないのですから。
次の朝、母は帰郷しました ――ひとりで。数日後に私たちは母に続いて帰る予定でした。
あわ
もっとも、母は私たちに日時を決めさせてくれませんでしたけど。母の出立は慌ただしい
ものでしたので、私はまったく覚えていません。ただ、何か具合の悪いことがあれば、す
窓をたたく音
58
ぐに知らせるようにという父の懇願 ――というか、ほとんど命令 ――と、それに対する母
の返事だ け は 心 に 残 っ て い ま す 。
「いかなる状況下でも、おまえ」と、父は繰り返して言いました。
「約束してくれるね?」
「約束 し ま す と も 」
母が帰ったあと、「あんなに真剣に約束する必要もなかったのに」と父は言っていまし
たが、それは母を乗せてバースに向かった鈍行馬車が手紙を持って戻ってきたら、すぐに
すからね。ですが、幸福な結婚生活において、母と離れることには慣れていなかったので、
私たちも家路に就くはずだったからです。おまけに、何事も起こりそうにはなかったので
父はたいそう気をもんでいました。たいていの男性と同じように、父は自分以外であれば
誰でもすぐに非難する性格だったので、その日はまるまる、それから次の日も、時おりエ
ドモンドと私の両方に不機嫌な顔をしていました。でも、私たちは我慢しました ――気長
に。
「劇場に連れて行けば、丸く収まるよ。お母様のことを不安に思う理由なんて全然ない
のだから。なんて大切に、大事にされているのだろう ――君のお母様は、ドロシー!」
自分の恋人がこのように言ってくれるのを聞いて、それはもう嬉しかったわ。私のよう
に恵まれた若い女性はいないだろうと思いました。
さて、私たちは観劇に行きました。ああ、本物の劇がどんなものか、お分かりにならな
ダイナ・マロック
いでしょうね、最近の若い人には。ジョン・ケンブルとか、シドンズ夫人は見たことあり
ませんよね。もっとも、その時に観た劇は、私を一緒に連れて行ってくださった先週の
く厳粛な場面で幽霊が酒を飲んでいたことが明らかになった時は、思わず笑いそうになっ
たのをはっきりと覚えていますけど。不思議なことに、それとの関連で以後に起こったど
んな出来事も、結果として起こったどんな事件も、この初めて観た劇の鮮やかな印象を私
あろうに『ハムレット』だったことなの。シェイクスピアは信じていたと思いますか? ――
の頭から追い払うことは、一度もありませんでした。同様に不思議なのは、その劇が事も
いわゆる 幽 霊 の 存 在 を … …
私には分かりませんでした。ですが、すぐにマッカッサー夫人の幽霊が登場するなと思
いました 。
「駄目よ、あなた ――駄目よ、絶対に笑わないでね」
夫人は見るからに動揺しておられました。話を続けるには努力が必要な様子でした。
まだ私は若い娘
……あなたには、その晩の私の状況を正確に理解していただきたいの。
0 0 0 0
で、頭は魅惑的な舞台のことで一杯、心は同じように私を夢中にさせる別のことで一杯だっ
窓をたたく音
『 ハムレット』に比べると、衣装や道具立ての点でずっと見劣りしたでしょう。この上な
59
60
おど
たのよ。エヴェレスト氏と一緒に食事をして、私たちは二人とも最高に上機嫌でした。事
の戯けた仕草を思い出し、腹を抱えて笑いながら床に就いて
私は ――ええっと ――窓辺に座って、ブラシで私の髪から髪粉 を払っていた女中のパ
ティーとおしゃべりをしていました。半分ほど開いた窓はテムズ河に面していて、とても
強くとら え て い た よ う で し た 。
とを考えると、馬鹿げたことの方が恐ろしいものや崇高なものよりは、いつも父の記憶を
い ま し た。 こ の 道 化 師 の せ い で 女 王 や ハ ム レ ッ ト が 父 の 記 憶 か ら ほ と ん ど 消 し 去 ら れ た こ
実、 父 は グ リ モ ー ル デ ィ 氏
(11)
の大時計の
(13)
「十一時」と、数えていたパティーが言いました。
「遅うなっちまいましたね、ドロシー
音が静かな河の向こうへ鳴り響いて行きました。
対する称賛の言葉に微笑と叱責で対応していたとき、セント・ポール大聖堂
に、彼女もエヴェレスト氏の熱烈な崇拝者でした。ちょうど私が彼女のエヴェレスト氏に
先ほど言ったように、私たちは談笑していました。だって、パティーも私もまだ若かっ
たし、彼女にも恋人がいたのですから、当然そうなりますよ。家の他の召使いと同じよう
たと思い ま す 。
中の閉ざされた部屋に孤立していたわけですが、畏怖の念を呼び起こされることはなかっ
た。音という音が拡大されて聞こえ、影という影が生きているように見える、そんな真夜
暑い、星がたくさん見える夏の夜でしたので、ほとんど戸外に座っているような感じでし
(12)
ダイナ・マロック
61
お嬢様。バースなら、考えられん時刻ですよ」
「お母様は一時間前に床に就かれたことでしょう」と私は言いましたが、母のことを忘
れてしまっていたことに少し自責の念を抱きました。
0
0
次の瞬間、女中と私は同時にキャッと叫んで立ち上がりました。
「聞こ え な す っ た か ね ? 」
「ええ、コウモリが飛んできて窓にぶつかったのね」
こうし
「でも、格子窓は開いとりますよ、ドロシーお嬢様」
0
そのとおりでした。あたりには鳥もコウモリも、生きたものは何もいなかったのです。
ただ、静かな夏の夜、河、そして星だけでした。
「まちげえなく聞こえましたよ。誰かが軽くトントンとたたく音に ――ほんのちょっぴり
だけど ――似とりました」
「馬鹿なこと言わないで、パティー!」
0
0
とはいえ、確かにそれは私にもそんなふうに聞こえました ――コウモリだと言いはしま
したが。それは本当に人間の指が ――母が庭の花畑に入るとき、外から自宅の勉強部屋の
開き窓をよくトントンとたたいた、あのとても手触りの柔らかな指が ――窓ガラスに当た
る音にそ っ く り だ っ た の で す 。
「お父様はお聞きになったかしら。あれは ――鳥よね、パティー。お父様の部屋の窓にも
窓をたたく音
62
ぶつかったかもしれないわ ――ね」
「まあ、ドロシーお嬢様!」パティーはだまされるような女ではありません。私は整髪
を仕上げようと彼女にブラシを渡しましたが、彼女の手はひどく震えていました。私は窓
を閉め、パティーと二人で座ったまま、その窓を凝視していました。
そのとき、人が通りすがりに呼び出しの合図をするように、窓ガラスをトントンと軽く
たたく音が、もう一度はっきりと、明瞭に、間違いなく聞こえました。ところが、何も見
えません。私たちと戸外の大気や明るい星明かりとの間には、影ひとつ見えませんでした。
私は驚きと畏敬の念に打たれましたが、怖い感じはしませんでした。その音には何とも
言えない喜びさえ感じたほどです。ところが、自分の気持ちをはっきりと理解する時間も、
ましてや分析する時間もないうちに、父の部屋から大きな叫び声が聞こえました。
「ドリー! ドリー!」
ところで、母と私は二人とも同じ名前でしたが、父はいつも母を昔の愛称で呼んでいま
した。私の方はいつもドロシーだったのです。ですが、私はそんなことを考える間もなく、
錠を下ろしたドアの所へ走って行き、返事をしました。
の発作が起こる前は特にそうでした。それを思い出して、私の最初の不安も半減したので、
父が、ひとりごとを言ったり、うめいているのは聞こえましたが、その注意を引くため
には、相当な時間がかかりました。父は悪夢にうなされやすい人だったからです。痛風
(14)
ダイナ・マロック
63
ノックを時々しながら、立ったまま耳を澄ませていました。すると、ついに父の返事が聞
こえまし た 。
「何の 用 だ ね 、 お ま え ? 」
「どう か な さ っ た の 、 お 父 様 ? 」
「何でもないよ。自分のベッドに戻りなさい、ドロシー」
「誰かを呼んだりしなかった? 誰かに用があるの?」
「おまえじゃないよ。ああ、ドリー、かわいそうなドリー」 ――そして、父は涙にむせび
ながら、「どうして私はおまえだけを行かせてしまったのだ!」と言っているように聞こ
えました 。
「お父様、具合が悪いのでは? また痛風でしょうか?」
(父が母を一番必要とするのは、
そして実際に母以外にはまったく手に負えなくなるのは、この痛風の時だったのです)
「あっちへ行って。ベッドに戻りなさい。おまえに用はない」
ある程度は私が原因で帰郷が遅れているということで、父が腹を立てているのだと思い、
とてもみじめな気持ちになって退散しました。しかし、パティーと私はずっと遅くまで起
きたまま、このロンドンで父が痛風の発作に襲われても、介護するのは私たちだけで、母
は近くにいないという気のめいるようなことを話していたような気がします。私たちは心
細いかぎりで、パティーが自分のベッドから次のように大声で言うまで、私は最初に注意
窓をたたく音
64
を引かれた例の奇妙な現象のことをすっかり忘れていました。
「 旦 那 様 は 重 病 じ ゃ ね え と い い で す ね。 あ れ は、 ね え、 警 告 と し て 聞 こ え た ん で す よ、
0 0 0 0 0
きっと。ぜったいに鳥だったと思いなさるかね、ドロシーお嬢様?」
「おそらくね。さあ、パティー、寝ることにしましょう」
しかしながら、私は寝ませんでした。というのは、ひと晩中、父のうめき声が一定の時
間を置いて聞こえていたからです。確かに痛風が原因だったのでしょうが、私たちも母と
一緒に帰郷すればよかったと、その時は心の底から思いました。
翌朝まだ暗いうちでしたが、どこも悪い所がなかったかのように、父が起きて一階へ降
りて行く物音を聞いた時の私の驚きは、あなた、すぐ想像できますよね。父は旅行用の外
套を着て朝食のテーブルに座り、とてもやつれた哀れな表情にもかかわらず、明らかに帰
郷を決心 し て い る 様 子 で し た 。
「お父様、まさかバースに戻られるのではないでしょうね?」
「いや 、 そ う す る よ 」
に乗るさ。一時間後には出発しなければならんぞ」
「そんなこと
「夕方の馬車が出るまでは駄目ですよ」と、私は不安になって叫びました。
無理です わ 」
「それ な ら 、 駅 馬 車
一時間後ですって? むごい別れの激痛が私の全身に走りました ――頭の先からつま先
(15)
ダイナ・マロック
65
まで。若い時はね、私はどんな事でも心に強く感じてしまうことが多かったのですよ、あ
別れる時なのだということを完全に忘れ、青春の半分を置き去りにしてしまうような、胸
なた。たった一時間! そのあと、さようなら ――本当の別れとは愛情が残っていなくて
が裂けるような別れの言葉 ――をエドマンドに言わなければならないなんて。数年後であ
き、 私 は こ っ そ り 遠 く へ 行 っ て 、 我 慢 で き な い 苦 悶 を 忍 ん で 泣 く こ と が で き る か し ら と 思
れば、エドマンドに ――私を愛してくれるエドマンドにさようならと言わねばならないと
いました 。
マンドが朝食にやって来るまで、一分が一日にも思えま
その時は、いつものはようにエド
ひも
した。私の真っ赤に腫れた目と紐で縛られた父のトランクが、すべての事情を物語ってい
ました。
「スウェイト先生、お発ちになるのではないでしょうね?」
の
「そうだ、そのとおりだ」と、父は繰り返して言いましたが、不機嫌そうにテーブルに
寄りかかって座り、朝食に手をつけようとはしませんでした。
「夕方の馬車まではいいのでしょう? 私は王室画家のベンジャミン・ウェスト氏
絵を見るために、先生とドロシーさんをお連れする予定でしたのに」
「王室だの、画家だの、そんなことはどうでもいいよ、君。わしはドリーのいる実家に
帰るぞ」
窓をたたく音
(16)
66
エヴェレスト氏は時には陽気に、時には真剣に、手を替え品を替えて父を説得しました。
彼ならば大丈夫だと思い、その説得に私もすがりました。彼はいつも物事をはっきりさせ
る人で、父よりはずっと聡明で有能だということで、父に対して大きな影響力を持ってい
たからで す 。
「ドロシー」と彼はささやきました。
「一緒に先生を説得してくれないかい? ぼくがお
願いしているのは、ほんのちょっとの時間なんだよ。ほんの数時間さ。それに、長い別れ
になる前 な の だ か ら 」
――ああ、彼が思ったよりも、私が思ったよりも、その別れは長いものとなってしまい
ました。
「おまえたち」と、父はとうとう大声でどなりました。
「おまえたちは二人とも愚か者だ。
おまえたちが結婚して二十年たつまで待ってみなさい。私はドリーの所へ行かねばならん
のだ。家で何かまずいことでもあったに違いない」
私も不安を感じていたと思いますが、エヴェレスト氏のほほえんでいる姿が見えたので、
加えて彼の優しい眼差しのせいで、
「おまえたちが結婚して二十年」と父に言われたとき、
顔を紅潮させていたような気がします。
「そんなふうに、お父様、お考えになる理由など、果たしてあるでしょうか? もしあ
るのでしたら、おっしゃってください」
ダイナ・マロック
67
父は顔を上げただけで、悲しげに私の顔をじっと見つめていました。
「ドロシー、昨晩、おまえを今まさに見ているのと同じくらい確かに、私はおまえの母
親の姿を 見 た の だ 」
「それだけのことですか?」と、エヴェレスト氏は笑いながら大声で言いました。「まあ、
先生、もちろんそうでしょう。夢を見ておられたのですよ」
「眠りには就いていなかったのだぞ」
「御覧になったとき、どんなふうでしたか?」
「よく実家で寝室に入ってきたように、その時も部屋に入ってきたのだ。手にはローソ
クを持ち、腕には眠っている赤ちゃんを抱いてね」
「何かおっしゃいましたか?」と、エヴェレスト氏がまた(今度はかなり皮肉を込めて)ほ
ほえみながら尋ねました。「いいですか、先生は昨晩『ハムレット』を御覧になったので
ないがし
すよ。先生、ほんとに ――ドロシー、ほんとに ――単なる夢だったのですよ、それは。ぼ
する侮辱 に な り ま す か ら ね 」
くは幽霊の存在なんか信じません。それは常識、人類の英知 ――いや、神自身さえ 蔑 ろに
エドモンドの言葉はとても真剣で、根拠があって、愛情にあふれていたので、私は否応
な く 同 意 し て し ま い ま し た。 父 で さ え 自 分 自 身 の 弱 さ を 少 し 恥 ず か し く 思 っ て い た よ う で
す。医者で、一家の主でもある父が、おそらく、辛い料理を食べたことと脳が過度の刺激
窓をたたく音
68
を受けたことで生じるような、そんな単なる迷信的な幻想に負けるなんて! エヴェレス
ト氏は、私が多少ためらいがちに彼に話した例のもう一つの事件についても、同じことに
原因があ る と 思 っ て い ま し た 。
「いや、それは鳥だったのさ。鳥以外であるはずがない。この前の春にも一羽、ぼくの
部屋の窓から飛びこんできたよ。怪我をしていたので、ぼくが飼ってやり、介護しながら、
ペットにしてしまった。とてもかわいい、優しい小鳥で、ぼくはドロシーのことを思い出
したよ」
「そう な の ? 」
「それで、とうとう回復して飛んで行ったよ」
「まあ! そこはドロシーと違うわ」
あんなふうに父が説得されてしまったあとですから、私を説き伏せるのは簡単でした。
ということで、私たちは夕方まで留まることにしました。エドマンドと私は女中のパティー
と一緒に ――主として、ウェスト氏の画廊と私たちの大好きなテンプル・ガーデンの静か
な木陰へ出かけました。そして、労して得た四時間とその間の心地よさと引き換えに、あ
とで計り知れない良心の呵責と悲痛で苦しむことになりましたが、私はその時の自分の罪
を完全に赦してやりました。私の大切な母であれば、とっくの昔に私のことを赦してくれ
たでしょ う か ら ね … …
ダイナ・マロック
69
ここでマッカッサー夫人は話をやめ、目を拭い、それからまた ――つい先ほどまで話し
ていた時よりも、もっと年輩の婦人に特有の事務的な口調で ――話を続けました。
*
*
* *
「それで、あなた、私はどこにいたのでしたっけ?」
「テン プ ル ・ ガ ー デ ン で す よ 」
「そう 、 そ う で し た … …
*
はしけ
……それで、私たちは夕食に戻りました。父はいつも夕食を、そのあとは居眠りを楽し
んでいたので、この時も落ち着きをほとんど取り戻していました。ただ、睡眠不足で疲れ
ではありませんでした。
たような表情でした。エドマンドと私は窓辺に座って、艀や渡し舟がテムズ河を下って行
くのを眺めていました。当時はまだ蒸気船の時代
行きの小型船の赤い帆を無意識に眺めていたの
誰かが家の扉をノックし、父への伝言を持ってきましたが、当人はぐっすり眠っていた
ので聞こえませんでした。エヴェレスト氏が何ごとかと確認しに行きました。私は窓辺に
立 っ た ま ま、 河 を 下 っ て い た マ ー ゲ ー ト
い心の痛みを感じたのを覚えています。
窓をたたく音
(17)
ですが、エドマンドがいなくなった部屋が、ほんの一瞬とても暗くなった気がして、激し
(18)
70
少し長く席をはずしてから、エヴェレスト氏は戻ってきましたが、私の方を見ずに父の
所へ直行 し ま し た 。
「 先 生、 そ ろ そ ろ 出 立 さ れ る 時 間 で す 」
(ああ、エドモンド!)
「扉の所に馬車が来てい
ます。済みませんが、すぐに発たれた方がよいかと思います」
父はパ ッ と 立 ち 上 が り ま し た 。
「先生、本当に今は心配される必要もないかと思いますが、私は知らせを受け取りまし
た。お嬢様がお生まれになったそうです。先生、それから ――」
「ドリー、私のドリー!」それ以上は無言のまま、父は帽子もかぶらずに急いで飛び出
し、待っていた駅馬車に飛び乗り、行ってしまいました。
「エドモンド!」私はあえぐように言いました。
「かわいそうに ――ぼくのドロシー!」
恋人のようにではなく、兄のような優しい抱擁によって ――私が首筋に感じた涙によっ
て ――彼が実際に口に出して言ったかのように、母にもう決して会えないということが私
にも分か り ま し た … …
* * * * *
ダイナ・マロック
71
「母は出
……しばらく間を置いてから、老婦人は途切れた話の穂を継いでくれました。
産で亡くなったのです。あの夜に、窓をトントンと軽くたたく音を私が聞き、腕に赤ちゃ
んを抱いて部屋に入ってくる母の姿を見たと父が思った、まさにあの時刻に亡くなったの
でした」
「赤ち ゃ ん も 死 ん だ の で す か ? 」
「その時はそう思われていましたが、あとで息を吹き返したそうです」
「何て 不 思 議 な 話 で し ょ う ! 」
「信じてくださいと頼みはしませんよ。それがどのようにして、なぜ起こったのか、そ
れは何だったのか、私には分かりません。ただ分かるのは、それは確かな事実だったとい
うことで す 」
「それで、エヴェレスト氏は?」私は少しためらってから尋ねてみました。
老 婦 人 は 首 を 横 に 振 り ま し た。
「ああ、あなたも、初恋の人と結婚するのは非常に、非
常にまれであると、やがて分かるでしょう。その日から二十年間、私はエヴェレスト氏と
会ったこ と は あ り ま せ ん で し た 」
「それは間違った ――なんて ――」
「彼のことを責めないでね。彼の責任ではないのです。だって、その時から父は彼に対
して偏見を持つようになったのですから。自然なことですよ、おそらく。それに、物事の
窓をたたく音
72
理非曲直を正してくださる母も、そこにはいなかったのですから。おまけに、私は良心が
ひどく痛み、家には六人の子供たちがいて、幼い赤ちゃんには母親がいませんでした。そ
れで、とうとう私は覚悟を決めました。二十年間たとえ待ったとしても、私の彼に対する
愛は変わらなかったでしょうが、彼は物事をそのように見ることができませんでした。彼
を責めないでね ――あなた ――責めないでちょうだい。それは物事の成り行きとして、お
そらく、悪いことではなかったのですから」
「彼は 結 婚 し た の で す か ? 」
「ええ、数年してね。奥様をとても愛しておられましたよ。私は三十一歳の頃にマッカ
ッサー氏と結婚しました。ですから、私たちはどちらも不幸だったわけではありません。
少なくとも、たいていの人たちと同じように幸せでした。そのあと、私たちは互いに心の
友となりました。エヴェレスト夫妻は私に会いに来てくださいますよ、日曜日はほとんど
毎週のようにね。まあ、お馬鹿さんね、泣いているの?」
そう、私は泣いていました ――でも、幽霊の話のせいではありませんでした。
ダイナ・マロック
新約聖書の「ピリピ人への手紙」二章十節からの引用。
)によってイ
Maria B. Trenholm Hayden
イングランドのエイヴォン州の都市で、二世紀頃にローマの支配下で温泉の街として発展した。
この温泉保養地は十八世紀に貴族たちの社交場となった。
)がボストンの霊媒(
心霊主義( Modern Spiritualism
ギリスに紹介されて流行したのは一八五二年。
『ハムレット』一幕五場で、殺害された父王の幽霊について、ハムレットは親友ホレイショーに自
分が見たのは「正真正銘の幽霊( an honest ghost
)」だったと言う。
(2) (1)
(3)
)は小説家・日記作者で、彼女の
ファニー[フランシス]・バーニー( ‘Fanny’ [Frances] Burney
家庭小説はオースティンに影響を与えた。『セシリア』( Cecilia , 1782
) の 中 で、 養 子 を 迎 え る 条 件 で
(4)
結局はハッピーエンドを迎える。
顔はハンサムではないが、
表情が豊かな」モーティマー・デルヴィルと恋に落ち、彼の父に反対されるが、
大いなる遺産を相続したセシリア・ベヴァリーは、世話になった家の息子 ――「背が高くて体格もよく、
(5)
テンプル騎士団がロンドンに建てた聖堂は十四世紀に閉鎖されたが、敷地にあった四つの建物が
)となり、そのうちの二つ( Inner Temple
と Middle Temple
)がテ
イギリス法学院( Inns of Court
(6)
ンプル法学院と呼ばれる。ここは弁護士や裁判官など、専門の法曹人を養成する教育機関で、彼らは
窓をたたく音
【訳注】
73
74
原則として法学院内に居住するように定められている。
チェルシーの王立廃兵院の東側に隣接する公園。もとは十八世紀のラニラ卿の邸宅で、卿の死後
は邸宅と庭園が開放され、上流階級の華やかな社交の場となった。
テムズ河に沿って走るヴィクトリア・エンバンクメントに隣接したテンプル法学院内の公園。
(7)
テムズ河南岸のロンドン橋とブラックフライアーズ橋までの地区。昔はイングランドの南部から
ロンドンに上京する旅人の宿泊所が河畔に立ち並んでいた。
弟役者が演じたマクベス夫妻で幕を開けた。
一六六二年にシアター・ロイヤルとして創設されたロンドンの最も有名な劇場。一七九一年に改
)とジョン・ケンブル( John Kemble
)の姉
築された三代目は、セアラ・シドンズ( Sarah Siddons
(9) (8)
)。『グリマルディ回想録』( Memoirs of Grimaldi ,
パントマイム俳優・道化師( Joseph Grimaldi
)を編集したディケンズは、彼を正真正銘の道化役者として絶賛している。
1838
(10)
ジョージ王朝時代(一七一四~一八三〇)には、髪粉(本来は加齢を誤魔化すためにメリケン粉
を着色したもの)を降りかけたカツラの着用が、特に上流階級で流行していた。
(11)
シティーのラドゲート・ヒルにある大聖堂で、イングランド教会のロンドン管区を監督する。
(12)
乗客と郵便物を運ぶ四~五人乗り四輪馬車で、十八世紀から十九世紀初期に使われた。
尿酸が血液中に増えて関節(特に足の親指)に炎症を起こす疾患。かつては皇帝病とか贅沢病と
か呼ばれた。
(14) (13)
(15)
ダイナ・マロック
)。一七六八
米国ペンシルバニア州に生まれ、一七六三年に英国に移住した画家( Benjamin West
年にジョシュア・レイノルズと一緒に王立美術院を創設し、レイノルズの後を継いで一七九二年から
一八二〇年まで第二代院長を務めた。
最初の蒸気船がテムズ河のグレイヴズエンドとロンドン間で運航を始めたのは一八一五年。
ケント州北東部の海辺保養地。当時はヨーロッパ大陸へのフェリーや漁船の港町の一つだった。
)で、初出は『フ
本邦初訳。原題は「C通りの一番奥の家」( The Last House in C― Street
レイザーズ・マガジン』の一八五六年八月号。翌年にハースト・アンド・ブラケット社から二
巻本で出版された『新しきものなし』( Nothing New
)に再版収録された。
) は 非 国 教 会 の 牧 師 の 娘 と し て、 一 八 二 六 年 四 月
作 者 ダ イ ナ・ マ ロ ッ ク( Dinah Mulock
二十日にイングランド中西部スタフォードシャー州の製陶の市、ストーク・オン・トレントで
生まれた。無責任だった父が失職すると、彼女は私立学校の経営を始めた母の手伝いとしてラ
テン語を教えた(フランス語とイタリア語にも通じていた)。三九年に一家はロンドンに移るが、
四五年に母が死ぬと、父は彼女と弟ベンを捨てて失踪した。父の無責任さを受け継いだ弟もし
ばしば仕事で失敗し、六三年に収容所で死んだ。
窓をたたく音
(16)
(18) (17)
【作品と 作 者 に つ い て 】
75
一 方、 ダ イ ナ・ マ ロ ッ ク は 創 造 的 な 想 像 力 の あ る 機 略 縦 横
の 女 性 で、 詩 や 短 篇 小 説 を 書 い て ロ ン ド ン で も 自 活 す る こ と
が で き た。 す ぐ に、 第 一 作 の『 オ ジ ル ヴ ィ ー 家 の 人 々』( The
)や『ジェイン・エア』とよく似ている『オリーヴ』
Ogilvies , 1849
( Olive , 1850
)によって、彼女は小説家としてかなりの成功を
収めた。彼女の小説に登場する多くの人物の特徴として身体障
害がある。感受性が強くて女性的な身障者、フィーネス・フレッ
チャーによって語られる代表作『紳士ジョン・ハリファックス』
( John Halifax, Gentleman , 1856
) は、 刻 苦 勉 励 し て 紳 士 に
なる孤児の物語で、紳士とは生まれや財産ではなく、教養や志にあることを説いたもの。その
に通底する主題の一つである。八七年十月十二日に心不全のために六十一歳で死去した。
)と結婚したが、この夫もまた鉄道事故で片足を失った身障者であった。二人には子供
Craik
がなかったが、一八六九年に捨て子の女の赤ちゃんを養子にした。母性や母の愛は彼女の小説
ダ イ ナ・ マ ロ ッ ク は 三 十 九 歳 の と き、 十 一 歳 年 下 の グ ラ ス ゴ ー の 会 計 士( George Lillie
)など、社会史的な価値の高い小説もある。
1869-70
他、「亡妻の姉妹に関する条例」(一八三五年)に焦点を当てた『ハンナ』( Hannah , 1871
)や
「既婚女性の財産に関する条例」(一八四八年)を支持する『素晴らしき女性』( A Brave Lady ,
76
ダイナ・マロック
鉄道員の復讐
アミーリア・エドワーズ
78
けんか
彼の名前はマシュー・プライスで、ぼくはベンジャミン・ハーディ、お互いに生まれは
数日違いで、同じ村で育ち、同じ学校で教育を受けた。ぼくらが親友でなかった時など、
思い出そうにも思い出せない。少年の頃でさえ、喧嘩をした経験が一度もなかったからで
ある。ぼくらはいつも同じことを考え、同じものを一緒に使っていた。お互いのためであ
れば、何も恐れずに死ぬまで味方をしたであろう。それは物語本の中で時々お目にかかる
ような友情 ――ぼくらが生まれた荒れ地の大きな岩山のように微動だにしない、大空の太
陽のように変わることのない友情 ――であった。
ぼくらの村の名前はチャドリーといった。巨大な緑の湖のように足元に広がる牧草地の
平原よりも、この村は高い所にあった。そして、この平原とさらにその上の高原とのちょ
していた。頭上には山の尾根や斜面が連続してそびえ、荒れ地からなる山岳がずっと広がっ
うど中間地点に、風雨に守られた窪地に埋もれるように、ちっぽけな石造りの部落が存在
ている。そこは所々に耕作地や耐寒性の植林地があるものの、たいていは草木のない荒涼
の岩山、王様の岩山、城の岩山などの名称で呼ばれている。聞いた
よりも古くからあるかのように、白色化した姿で鎮座している。これ
とした土地であった。また、一番高い頂上には巨大な、ごつごつした、険しい孤高の岩山
は、 岩 山 、 ド ル イ ド
が、 ノ ア の 大 洪 水
(1)
え、その他、あらゆる種類の血なまぐさい異教の儀式が行われていて、そこでは人骨、矢
話によれば、太古の昔は神聖な場所だったようで、戴冠式、火あぶりの刑、人間のいけに
(2)
アミーリア・エドワーズ
79
じり、金やガラスの装飾品も見つかったそうである。少年時代のぼくは、この岩山に漠然
とした畏怖の念を抱いていた。だから、たくさんの金銭をもらったとしても、日が暮れて
から近寄るなんてことは敬遠したことだろう。
すでに述べたように、ぼくらは同じ村の生まれであった。彼はウィリアム・プライスと
いう小作農の息子で七人兄弟の長男、ぼくはチャドリー村の鍛冶屋エフライム・ハーディ
の一人息子だった。ぼくの父はチャドリー村では有名人であり、今でも人々の記憶にちゃ
んと残っている。一般に農夫は鍛冶屋よりも偉いと思われているが、保有地がわずかなの
に子供が七人もいたウィリアム・プライスは、実際には多くの日雇い労働者のように貧し
かった。一方、ぼくの父は裕福で、仕事も多く、人気もあり、気前のよい鍛冶屋で、この
地方ではひとかどの有力者であった。しかしながら、こんなことはマットとぼくには何の
関係もない。彼の上着は肘のあたりに穴があいていたとか、ぼくらの相互資金は全部ぼく
のポケットから出ていたとか、そんなことが二人の頭に浮かんだことは一度もない。学校
の同じベンチに座り、同じ初歩読本を使って課題をこなし、お互いの喧嘩の助太刀をし、
過失をかばい合い、一緒に魚を釣り、木の実を採り、学校をサボり、果樹園のフルーツや
鳥の巣を失敬するだけで、ぼくらにとっては十分だったのだ。正規の休みであろうと、ズ
本当に楽しい少年時代だったが、それが永久に続いたわけではない。ぼくの父は裕福だっ
ル休みであろうと、三十分でも時間があれば、ぼくらは必ず一緒に過ごしたものである。
鉄道員の復讐
80
たが、息子を早く世間に出すことに決めていたからだ。父より多くの経験をして、より成
功しなければならなかったのである。ぼくにとって鍛冶屋はふさわしい場所ではなく、チャ
がら田畑を耕していたころ、ぼくはまだ肩かけ鞄を振りまわして学校に通っていたのだが、
ドリーの小世界も狭すぎると言われた。そういうわけで、ちょうどマットが口笛を吹きな
とうとうぼくの運命も定まって、二人は別れることになった。当時は永遠の別れになるよ
うな気がした。というのも、カエルの子はカエルであり、ぼくは何らかの形で炉を使う鉄
ンガムの鉄工場主にぼくを弟子入りさせたからだ。それで、ぼくはマットとチャドリー村、
工の仕事が気に入っていて、現場の技師になることに決めていたので、やがて父がバーミ
そしてその陰のもとで今まで全人生を送ってきた灰白色の岩山に別れを告げ、北部の「ブ
ラック・カントリー 」 に向かって出発したわけである。
代からの友情は決して揺らぎも弱まりもせず、ぼくらの成長とともに育まれ、ぼくらの体
なったこと、この長い年月の間に転地と挑戦と努力を繰り返しながらも、ぼくらの少年時
は、努力して出世の階段を一段ずつ昇りながら、やがて彼自身の部署で「一流の職人」と
る全部 ――を共有したこと、生まれつき飲み込みがよくて静かなる闘志にあふれていた彼
カントリーに連れてきて、下宿、賃金、経験 ――要するに、ぼくが彼に与えることのでき
ぼくの話のこの部分について詳しく述べるつもりはない。必死に働いて徒弟期間を終え
たこと、年季を完全に勤めて熟練工となったあと、マットを田畑から引き離してブラック・
(3)
アミーリア・エドワーズ
81
力とともに強化されたこと、そういった事実はどれもこれも、ここでは概略を述べるだけ
で十分で あ る 。
この頃だったであろうか ――マットとぼくが三十歳の峠をまだ越えていなかった時期に
ついて話しているのだが、そのことは記憶に留めておいていただきたい ――たまたま、当
時トリノとジェノヴァの間に建設中だった新しい鉄道で走らせるために、ぼくらの会社は
最高級の機関車を六両も供給する契約を結んだ。それはイタリアから受けた初めての注文
である。フランス、オランダ、ベルギー、ドイツとはすでに取引があったが、イタリアと
はなかったので、この国との新しい関係は価値があった。アルプスの向こう側の隣人たち
は最近ようやく鉄道の敷設を始めたばかりで、線路が延びるにつれてイギリス人の立派な
仕事がもっと必要となるに違いないので、余計に価値があったのだ。それで、バーミンガ
ムの会社は今回の契約に本腰を入れ、ぼくらの労働時間を延長し、賃金を上げ、新たに職
人を雇い、やる気と迅速さによって可能であれば、イタリアの労働市場のトップに立ち、
の荷受人たちをかなり驚愕させるほど
そこに留まる決意を固めていたようだった。六両の機関車は納期どおりに生産されただけ
で な く、 船 に 積 ま れ 、 輸 送 さ れ 、 ピ エ モ ン テ 地 方
の迅速さで配送された。それら機関車の輸送の監督者にぼくが任命されたとき、少なから
ず鼻高々だったことは確かである。ぼくは二人の助手の採用を許されたので、その一人が
マットになるように手を打った。こうして、ぼくらは人生で初めてとなる楽しい休暇を一
鉄道員の復讐
(4)
82
緒にとることになったわけである。
こ の 休 暇 は、 ブ ラ ッ ク・ カ ン ト リ ー の バ ー ミ ン ガ ム か ら 来 た ば か り の 二 人 の 職 人 に と っ
て、すばらしい気分転換になった。背後には三日月形のアルプス山脈がそびえる美しい都
おもむき
市、異国の船で混雑した港、すてきな青い空とさらに青い海、桟橋の上にある色あざやか
の中庭や噴水やオレンジ
な家々、白と黒が混ざった大理石で正面を仕上げた古風で 趣 のある大聖堂、アラビアン・
ナイトの商店街のように宝石店が立ち並んだ通り、ムーア様式
ずつ鎖につながれたガレー船
の奴隷たち 、司祭や托鉢僧の行列、ガラーンガラーンと鳴
の木々のある豪華な建物が連なる街路、花嫁みたいに顔をベールで隠した女性たち、二人
(5)
あと驚いたものだった。ぼくらは絶えず鉄道を行ったり来たりしていた。時にはジェノヴァ
それから新しい生活が ――とても活気のある、健康的な、新鮮な空気と日光にあふれた
生活が ――始まったので、時折、よくあんな陰鬱なブラック・カントリーに我慢できたな
とで意見 が 一 致 し た 。
うちに、バーミンガムには永久に背を向け、トリノ・ジェノヴァ鉄道会社に骨を埋めるこ
それで、この土地の美しさと気前のよい給料に魅了された二人は、最初の週が終わらない
も見ているかのように、ぼくらは縁日に行った子供よろしく浮かれた気分で歩いていた。
組み合わせは、それはもう驚嘆すべきものだったので、休暇の初日に何だか混乱した夢で
り続ける鐘の音、ガヤガヤした異国の言葉、異常なほど明るく晴れやかな気候。これらの
(6)
アミーリア・エドワーズ
83
で、時にはトリノで、機関車の試験運転をしながら、新しい雇い主たちのために昔の経験
を役立て て い た の で あ る 。
そうこうするうちに、ぼくらはジェノヴァを本拠地に定め、波止場に通じている坂の路
地にあった小さな店の上に二つの部屋を借りた。それはとても人通りの多い、険しくて曲
がりくねった路地だったので、馬車は通り抜けができなかったし、とても狭かったので頭
上の空が長細い群青色のリボンにしか見えなかった。しかし、その路地の家という家はす
べて店になっていて、そこでは商品が歩道を侵略したり、ドアの付近に積まれていたり、
暮れまで、陸続として絶えない大勢の通行人たちが、港と山の手の間の坂道を上ったり下っ
壁かけのようにバルコニーから吊り下げられていた。そして、日がな一日、夜明けから日
たりして い た 。
宿の小母さんは銀細工職人に先立たれた未亡人で、銀線細工の装飾品、安っ
ぼくらの下
くし
ぽい宝石、櫛、扇、象牙や黒球で作った玩具などを売って生活していた。彼女には店を手
伝っているジアネッタという名の一人娘がいて、この娘はぼくが今まで見た中で文句なし
に最高の美人だった。今までの辛かった長い年月の隔たりを飛び越えて当時を振り返り、
できるだけ鮮明に彼女の姿形を思い浮かべてみると(今もできるし、実際にしているわけ
だが)、今でさえ彼女の美しさに欠点を見出すことができない。彼女の美しさを説明する
の は や め て お こ う。 言 語 を 駆 使 し て 説 明 で き る よ う な 詩 人 が 今 の 世 の 中 に い る と は 思 え な
鉄道員の復讐
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をかつて見たことがある。おそらく、その絵はぼくが最後に見た場所に ――
い。しかし、彼女に少し似ている(彼女の半分も美しくはなかったのだが、それでも似て
はいた)絵
た。
やがてマットもぼくも気づいたように、そのせいでひどい犠牲を払うことになってしまっ
押したり引いたりしていたのだ。彼女に愛する心がないのは大理石の彫像と同じことで、
ようにあしらっていた。その気にさせたり、笑い飛ばしたり、自分の好きなように相手を
に展示した銀線細工の半分を無頓着に買ってくれる貴族に至るまで、彼女はみんなを同じ
賎を問わず、金持ちも貧乏人も、耳飾りや魔除けを買って行く赤い帽子の船乗りから、窓
アネッタは浮気女であったが、名前さえ思い出せないほど、大勢の恋人がいた。身分の貴
この未亡人の店がお客に事欠くことは確かになかった。あの黒ずんだ小さなカウンター
に行けば、絶世の美女を拝顔できると、ジェノヴァ中の男たちが思っていたのだから。ジ
かった。
んな絵よりも美しかったのだが、ジアネッタ・コネグリアと比較すると、同日の談ではな
が愛した女性の肖像を描きこんだのではないかということだった。その絵は今まで見たど
のぞきこんでいた。その時に思ったのは、画家はこの男の中に自画像を、彼女の中に自分
色 の 目 と 金 髪 の 女 性 で、 顎 鬚 を た く わ え た 背 景 の 男 が 右 手 に 持 っ て い る 丸 い 鏡 を 肩 越 し に
あごひげ
ルーブル美術館の壁の上に ――今でもかかっているだろう。その絵に描かれていたのは茶
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アミーリア・エドワーズ
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ぼくは、どうしてあんなことが起こったのか、どうして最初にぼくが二人の状況の変化
に気づいたのか、今もって分からない。しかし、その年の秋が終わるずっと前から、マッ
トとぼく自身の間には冷ややかな雰囲気が漂うようになっていた。それは言葉で表わすこ
とができない雰囲気 ――ぼくらのどちらにせよ、どうしても説明できない、どうしても弁
食事し、一緒に働いていた。一日の労働が終わったあと、夕暮れの長い散歩ですら一緒に
明できない冷ややかな雰囲気 ――であった。ぼくらは以前のように一緒に下宿し、一緒に
していたので、おそらく、お互いに前よりは寡黙になったことを除いて、単なる傍観者で
あれば、変化の「へ」の字も読み取れなかったであろう。とはいえ、実際に変化が生じ、
そっと知らぬ間に、ぼくらの間の溝を日毎に広げていたのである。
それは彼の過失ではない。誠実で心やさしい男だったから、そんな事態を自ら進んで引
き起こすようなことはなかった。それはぼくが ――確かに激しやすい性格であったが ――
悪かったからだとも思わない。最初から最後まで、すべては ――罪も恥も悲しみも ――彼
女のせい だ っ た の あ る 。
二人のどちらを好きか、彼女が公然と示してくれていたなら、何らの実害も生じはしな
かったであろう。ぼくは、実際にマットが幸せであれば、いかなる制約でも自分自身に課
しただろうし、(神様だけが御存じだが)いかなる苦しみも我慢しただろう。ぼくのため
であれば、彼だって同じことを ――できることであれば、それ以上のことを ――してくれ
鉄道員の復讐
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ス ー
た は ず だ。 だ が、 ぼ く ら 二 人 に 対 す る ジ ア ネ ッ タ の 愛 情 は 一 文
の値打ちもなかったし、
0
が ――やって来た。だが、親友を装いながらも心の中は恋敵であったマットとぼくは、ヴィ
こうして秋が過ぎ去り、冬が ――常緑のオリーヴとモチノキ、キラキラと輝く陽光、身
を切るように寒い嵐といった、女心のように変わりやすい、ジェノヴァで初めて迎える冬
つの中で自己欺瞞の生活を送っていたのである。
けではない。真実を直視せずに、むしろ見て見ぬふりをしがちであった。そうした夢うつ
ある女性が、この世にはたしているだろうか、と。しかしながら、そう頻繁に自問したわ
分自身に問いかけてみた ――マットにとってのぼく、ぼくにとってのマットほどに価値の
てきた正真正銘の友情がいつの間にか崩壊の危機に瀕していると分かったとき、ぼくは自
の破滅を招く落とし穴があることに気づくことがあった。これまで二人の生活を結びつけ
ち砕いたのだ。ぼく自身はどうだったかと言えば、ふと我に返って、ぼくらの行く手に身
を持たせてウキウキさせたかと思えば、嫉妬で気も狂わんばかりにし、ぼくらを絶望で打
は、とても言葉では説明できない。彼女はぼくらを両方ともだましていたのである。希望
こ に し、 ぼ く ら の 心 を 苦 し め 、 自 分 を 愛 す る よ う に 仕 向 け た 時 の 彼 女 の 手 練 手 管 に つ い て
0
で ――すなわち、流し目、秋波、思わせぶりな言葉によって ――ぼくらをうまく恋のとり
0
そんで楽しんでいたのではないだろうか。人に気づかれない微妙な媚態を何度も売ること
こ び
どちらかを選ぶつもりも彼女にはなかった。ぼくらの仲を裂いて虚栄心を満たし、もてあ
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アミーリア・エドワーズ
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コ ロ・ バ ル バ
での下宿生活をだらだら続けていた。それでもなお彼女は、破滅をもたら
す手練手管とさらなる破滅をもたらす美しさとで、ぼくらを引きつけてやまなかった。と
ころが、この恐ろしく惨めな、宙ぶらりんの状態にもはや我慢できなくなる日が、とうと
うやって来た。ぼくは語気を強めて、今日の太陽が沈む前に、必ず判決を言い渡してもら
や け
うぞ、と言った。二人のどちらか一方を選んでもらわないといけない。ぼくの心を受け入
れるか、さもなければ解放するか。こうなったらもう自棄のやん八だ。最悪の結果になる
か、最高の結果になるか、行き着く所まで行ってやる。最悪ならば、ジェノヴァとも、君
とも、これまでやってきた仕事や人生の高邁な目標とも、すぐさまオサラバだ。また新た
な渡世を送るだけだ。このように、ぼくは激烈な口調で彼女に言ったのである。店の奥の
小さな客間で彼女の前に立ち、そう言ったのは十二月の寒々とした、ある朝のことであっ
た。
「君がマットの方を好きなのなら、そう言ってくれ、ひと言で。ぼくはもう二度と君を
悩まさないよ。彼は愛される価値があるのに対して、ぼくは嫉妬深い、情け容赦もない男
と わ
さ。彼は女のように疑うことを知らない、自分本位に考えない男だよ。はっきり言ってく
れ、ジアネッタ。ぼくは君に永久の別れを告げなきゃいけないのかい? それとも、故郷
のイングランドにいる母に手紙を書いて、ぼくの妻になることを約束してくれた女性に、
神様が祝福してくださるように祈ってくれって、そう言ってもいいかい?」
鉄道員の復讐
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「あんたって、友だちの弁護がお上手ね」と、彼女は横柄な口調で言った。
「マテオは感
謝しなきゃいけないわ。こんなこと、あんたのためにしてくれなかったんだから、あの人
は」
「はっきり答えてくれ、後生だから。そして、ぼくを帰らせてくれ!」
「帰ろうが、留まろうが、お好きなように、イギリス人さん。あんたの看守じゃないわ
よ、わた し 」
「ぼくに立ち去れって言うのか?」
ベ ア タ ・ マ ド レ
「まあ、あきれた! どうして、わたしが?」
「留まったら結婚してくれるのか?」
いない。だがね、心の底から君のことを愛してるんだ。皇帝だって、こんなに愛せやしな
「それって、マテオが言ってることと全く同じだわ。なんて退屈な男なの、二人とも!」
「ああ、ジアネッタ」と、ぼくは激怒して言い返した。
「少しは真面目に話してくれよ!
ぼくは荒くれた男さ、確かに ――君にふさわしい善良さも、聡明さも、全く持ち合わせちゃ
「質問ばかりするわね」
「この六、七ヶ月、君に誘導されて、こんなに期待するようになったんじゃないか!」
彼女は大声で笑った ――銀の鈴の音よろしく、とても陽気で、茶化したような、音楽的
な笑いだ っ た 。
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アミーリア・エドワーズ
いぞ」
「嬉しいわ。そんなに愛してほしくないなんて、思ってやしないわよ」
「それなら、みじめな思いをさせたくないはずじゃないか! ぼくに約束してくれるの
かい?」
「マテオと
「何も約束しやしないわよ、わたし」と彼女は言って、また急に笑い出した。
結婚しないってことを除いてはね!」
らでも、ぼくは慰めや、自分が勝ったという利己的な喜びや、ある種の浅ましい自信を得
ることが可能なら、得ようとしたかもしれない。いや、実際、恥ずかしいことに、そうし
てしまったのである。ぼくは見せかけだけの好意に飛びつき、
(ああ、なんて愚かだった
ことか!)確たる返事ももらえないまま、彼女に再度はぐらかされてしまったのだ。その
日から、ぼくは自分を抑える一切の努力をやめてしまい、盲目的に我が身を漂流させた ――
破滅に向 か っ て 。
ついに、マットとぼくの関係がひどく悪化し、まるでパックリと口を開けた亀裂が二人
の間に見えるかのようであった。お互いに相手を避けるようになり、一日に交わす言葉は
十回にもならず、これまで育んできた習慣も全部なくなってしまった。この頃からであろ
鉄道員の復讐
マテオと結婚しないことを除いてだって! たったそれだけだった。ぼくには希望の
「き」 の字も言ってくれないのだ。ぼくの親友をただ非難するだけである。そんな非難か
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うか ――思い出しても身震いするが ――彼のことを時として憎いと思うようになった。
く広くなって行った。ひと月な
こうして、ぼくらの間に生じた難儀な亀裂は、日毎に深
カーニヴァル
いし五週間がまた経過して二月になった。二月とともに謝肉祭 を迎えた。ジェノヴァの
そのとき、ぼくは彼が青白い顔をして動揺しているのに気づき、次第に不安で落ち着か
「いや」と、彼はあわてて言った。
「どこかもっと静かな場所 ――話のできる場所がいい
な。ちょっと話したいことがあるんだ」
「マット、嬉しいよ。〈帆かけ船〉に行くかい?」
ゴッツォーリ
「遅かったな。四十五分ほど待ってたんだぞ。今晩、一緒に食事でもどうかね?」
ぼくは一時の感情に駆られやすい男だったので、このようにまた好意を示されると、す
ぐに昔のよい感情を呼び起こされた。
て次のよ う に 話 し か け て き た 。
プライスがプラットホームに立っていた。彼はつかつかと歩み寄り、ぼくの腕に手を置い
に出ていたあと、日暮れ時にジェノヴァに戻ってみると、びっくりしたことに、マット・
うなものはなかったからである。二日目のことだったと思うが、午前中ずっと汽車で路線
らしい装いが女性たちに少し見られた程度で、それ以外に謝肉祭のシーズンを特に示すよ
というのも、いくつかの主要道路には旗が一、二本しか掲げられておらず、あとはお祭り
人たちによれば、その年の謝肉祭は盛り上がりに欠けたそうである。確かにそうだった。
(11)
アミーリア・エドワーズ
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けてたっ て わ け だ よ 」
ペスカトーレ
に近い〈太公望〉という場末の小さな大衆レス
た
を一本注文し、がぶがぶ飲んでいた。
一日ぽっきりの使用で、あとはポイ捨てさ、永久にね。ぼくら二人とも、ひどい虐待を受
「ジアネッタがどうした?」
いらだっているように彼はサッと片手で唇をぬぐった。
「ジアネッタは不実な女だ ――不実どころか、もっと悪い女だ」と、彼はしゃがれた声で
言った。「彼女は、ちょうど髪につける花のように、正直な男の心を値踏みしてるんだ ――
「君の顔色から判断して、そう思ってたよ」
「君にとっても、ぼくにとっても、悪い話なんだ。ジアネッタのことさ」
「悪い話さ」
「どん
「それで、マット」最後の料理がテーブルに置かれると、ぼくはそう切り出した。
な話かね ? 」
ぐにシチ リ ア ・ ワ イ ン
この薄汚れた特別室で簡単な食事を注文した。マットはひと口も喉を通らない様子で、す
のど
トランへ行くことに決め、船乗りたちの溜まり場となってタバコの香りが漂っている、そ
な く な っ た。 ぼ く ら は モ ロ・ ヴ ェ ッ キ オ
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「どんな方法で? くそっ、はっきり言ってくれ!」
「女が自分を愛してくれる男どもを虐待し得る最悪の方法だ。こともあろうに彼女は我
鉄道員の復讐
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が身をロレダーノ侯爵に売りやがったのさ」
烈火のごとく怒りの血がほとばしり出て、頭と顔がカーッとなり、ほとんど何も見えな
くなって、まともに話ができない状態であった。
付けてみたんだ。でもね、彼女は大聖堂に入ると、あの男が待ってる説教壇の裏手へ真っ
「彼女が大聖堂の方へ行く姿を見たのは」と、彼は急いで話を続けた。「三時間前ぐらい
ざんげ
だったよ。司祭の所へ懺悔でもしに行くのかと思い、後ずさりして遠くから彼女のあとを
ちょうちょうなんなん
直ぐ行ったよ。あいつのことは覚えてるだろ ――一、二ヶ月前よく店に入り浸ってた老人
してる姿を見ると、ぼくはカーッと頭にきてね、何かするか何か言ってやろうと思って、真っ
さ。で、やつらが教会堂の方に背を向けて、説教壇の下でぴったり寄り添い、喋 々 喃 々 と
直ぐ教会堂の側廊を歩いて行ったんだよ。具体的に何かは分からなかったけど、とにかく、
自分の腕に彼女の腕を通させ、家に連れて帰るつもりだった。でもね、すぐ近くまで行く
と、やつらとの間に大きな柱があるのに気づいたんで、立ち止まったんだ。やつらからは
こっちの姿が見えないし、こっちからもやつらの姿が見えなかったけど、声ははっきり聞
こえたよ。で ――それで、ぼくは聞き耳を立ててたのさ」
「それで、君が聞いた内容は ――」
「恥ずかしい取引条件さ ――片方が美しさを、もう片方が金を出すってわけ。一年に数千
フラン、ナポリの近くに別荘 ――チェッ! 繰り返して言うだけで胸くそ悪いや」
アミーリア・エドワーズ
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ここで彼はブルッと身震いし、またグラスにワインを注ぎ、一気に飲み干した。
「そのあとはもう」と、ほどなく彼は話を続けた。
「彼女を連れ去ろうなんて考えはなく
は れ ん ち
なっちまったよ。すべてが血も凍るような、計画的で破廉恥なことだったんで、ぼくとし
ては彼女を記憶からぬぐい去り、彼女の運命に任せりゃいいような気になったのさ。で、
大聖堂をそっと抜け出し、長い時間、海のそばを歩きまわりながら、自分の考えを整理し
ようとしてたんだよ。それから、君のことを思い出したのさ、ベン。この浮気女がぼくら
の仲を裂き、生活を滅茶苦茶にしたことを思い出すと、気が狂いそうになったぜ、まった
く。それで、駅まで来て君を待ってたわけさ。君にも事の始終を知ってもらわないといけ
な い と 考 え て ね。 で、 た ぶ ん、 ぼ く ら は 一 緒 に イ ン グ ラ ン ド へ 帰 っ た 方 が い い ん じ ゃ な い
かって思 っ た ん だ 」
「ロレ ダ ー ノ 侯 爵 か ! 」
ぼくにはそれしか言えなかったし、それしか考えられなかった。マットが自分自身につ
てい
いて言ったように、ぼくは「茫然自失の体」であった。
「実はもう一つあるんだ、君に話しておいた方がいいと思うことが」と、彼は気が進ま
な い と い っ た 口 調 で 付 け 加 え た。
「女というものがどれほど不実になり得るものか、それ
よ」
だけを君に教えるためであってもね。来月、ぼくら ――ぼくらは結婚する予定だったんだ
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「ぼくらって? 誰のことだい? どういうことだ?」
「つまり、ぼくらは結婚することになってたんだ ――ジア