裸の島に思う 小学校での映画会 裸の島というと、変なタイトルだなと想像

裸の島に思う
小学校での映画会
裸の島というと、変なタイトルだなと想像される方が多いと思う。しかし、これは、お
堅い名作映画の名前である。私が小学生のころは、まだまだ日本が貧しかった。娯楽も一
般的でなかったのか、年に一回程度、小学校の講堂で映画会が開催されていたように記憶
している。その中の一つに、小学校 6 年頃にでも見た映画であろうか、妙に心に残ってい
たものがある。
その映画は、モノクロで、おまけに無声映画と来ている。貧しい時代ではあったが、さ
すがに当時でも他の映画はカラーで、声も当然入っていた。映画の舞台は瀬戸内海の小さ
な島である。樹木もろくになく、斜面を一面耕して畑を作っている。それて裸の島なので
あろうか。その島には水源がないので、櫓漕ぎの小船に水をいっぱいに入れた桶を積んで、
隣の島から運んできて、斜面を担いで上がり、畑の苗に水をやるのが日課であった。何と
も重労働である。それで、奥さんが躓いて桶の水をこぼしてしまう。すると主人が抱き起
してあげるのかと思いきや、平手打ちをしてしまう。そこまでしなくてもいいのにという
思いと、さぞかし貴重な水なんだろうという思いが心に残った。夫婦には子供がいて、貧
しいながら幸福そうに生活している。しかし、ある時、高熱が出て、島外に医者を呼びに
行くが間に合わずに死んでしまう。葬儀も済んで、また畑の作物に水をかける生活が始ま
る。奥さんが突然、水の入った貴重な桶をひっくり返して、地面に突っ伏して泣き叫ぶ。
主人は、今度は平手打ちをすることもなく、ただ見つめている。そうすると奥さんは気を
取り直して、また黙々と水やりに取り組んでいくというようなストーリであった。
心には残ったが、名前で覚えていたのは奥さん役をした乙羽信子さんだけ。監督の名前
も、頭の禿げた個性的な主人役の役者の名前も分からないまま、そのうち、映画の名前す
ら忘れて、何十年も経った。
それが、50 歳近い頃であったと記憶している。テレビに新藤兼人監督が出ていた。その
時、スチール写真に裸の島の一カットが出てきた。それを見て、何十年も前の映画で、妙
に記憶に残っていたのはこの映画だったと瞬時に気が付いた。大監督の作品だったんだと
いう思いと共に、生き別れた古い友人に再開したような嬉しさがこみ上げてきたことを覚
えている。
貧しい日本
モノクロで無声映画の裸の島が何故、心に残っていたのか定かではない。しかし、貧し
さ、母親の愛情、父親の厳しさ、親子愛、可愛そうな薄命の子供の運命などが心に何か刻
まれたのであろう。今、考えても難しいテーマの映画だと思う。学校の先生は、よくぞ小
学生に見せたものだと思う。ただ、5 月 29 日に、新藤監督が 100 歳で亡くなられて、裸の
島の話題がいくつか取り上げられていた。その中で知ったことであるが、この映画はモス
クワ映画祭でグランプリに輝いたとのことであった。それで、学校での上映となったので
あろう。学校の講義の一環として見せられた映画であるが、私には、人が生きていく厳し
さや親子愛、人生などについて教えてくれる大いなる教材となった映画であったことは間
違いない。新藤兼人監督の作品は、この一本を見たきりである。しかし、一本の映画が、
また、一冊の本が琴線に触れるかもしれない。多くの名作に触れることも生き方の一つだ
と思う。
再生された松原泉
重信川の河川敷に復元された松原泉周辺の清掃活動が、6 月 2 日に曇り空の下で実施され
た。当日は句会ライブも併せて実施され、賑やかな清掃活動となった。松原泉の復元工事
は平成 18 年に完成している。その時、植樹されたドングリなどの樹木が成長し、当時とは
見違えるような景観を呈している。植樹した木は、近くの小学校の児童たちがドングリを
拾ってきて、それを 2 年間大事に育てたものである。植樹した年は、夏が暑く、少雨であ
ったので、少し枯れてしまったが、生き延びた樹木が今では立派な林を形成しつつある。
松山市は、今年も 5 月中旬から少雨傾向が続いている。そのため地下水位の低下が激し
い。また、作物や樹木も雨が降らなくて命からがらの状態である。松原泉の周囲に生育し
ているドングリの木 2 本も、葉っぱが部分的に枯れている上に、木全体の葉っぱが萎れて
いた。他の木々も裸の島の作物と同じような状況になっていたので、傍らを流れる小川か
ら水を汲んでかけた。これで一週間くらいは雨が降らなくても持ちこたえると思われる。
木は歩くことができず、自分で水を求めることができない。生命あるものを大切にしたい。
北朝鮮
北朝鮮では、この 1 月から 2 月にかけて多くの人が餓死したと報道されている。昨年 7
月の水害による収穫の減少と国家への過酷な供出が原因とのことである。北の農民はたと
え餓死するような状況になっても助けを求めて移動することができない。松原泉のドング
リと同様に移動すらできずに、空腹の絶頂で餓死していく。戦後の貧しき時代を象徴する
ような裸の島よりも、もっと過酷な現実が北朝鮮にあることを再認識させられた。
平成 24 年 6 月 2 日
矢田部 龍一