昆虫と自然 2011年1月号 (立ち読み)

特集・翅を失った昆虫Ⅱ−寒冷環境下での翅の退化
ガロアムシの生き残り戦略,
翅をすてる前と後
ミなどの原始的な昆虫にみられ,2はアブラムシ
やアリなどで良く知られる。しかし3のタイプは
案外知られていない。そこで本稿ではこの3のタ
イプの代表であるガロアムシという昆虫を紹介
し,翅を捨ててしまった原因をさぐってみよう。
に
わ
なお
丹羽 尚
(独立行政法人 理化学研究所
発生再生科学総合研究センター)
Profile: 1998 年徳島大学大学院工学研究科博
士課程修了。博士(工学)。国立遺伝学研究
所研究員,理化学研究所基礎特別研究員を経
て 2001 年より現職(研究員)
発見の歴史と分布
ガロアムシの目名は Grylloblattodea(Notoptera
を使う場合も少なくない)という。1914 年にカ
ナダの昆虫学者 E.M.Waker が北米のカナディアン
ロッキーでこの昆虫の仲間を最初に発見し,その
姿がコオロギとゴキブリの両方に似ていることか
ながしま
たかゆき
長島 孝行
(東京農業大学 農学部)
Profile: 1983 年東京農業大学農学研究科博士
後期過程修了。農学博士。2009 年より東京農
業大学農学部教授
Survival strategy of Grylloblattodea before and after
abandoning their wings
Nao Niwa: Riken Center for Developmental Biology
Takayuki Nagashima: Faculity of Agriculture, Tokyo
University of Agriculture
ら,Gryllus(コオロギのラテン語)と Blatta (ゴ
キブリのラテン語)を合わせた属名 Grylloblatta を
使ったことに由来する。日本では 1915 年に日光
中禅寺湖畔で当時のフランス外交官ガロアが最初
に採集したことから,採集者を記念してガロアム
シと呼ばれるようになった。
現在では約20種のガロアムシ類が北米北西部
とアジア極東地域(ロシア,朝鮮半島,日本)に
分布する。日本では本州中部をおもな生息地とす
るガロアムシ Galloisiana nipponensis をはじめ,
Key words
【ガロアムシ】
,【翅】
,
【生態】
,
【分布】
,【生活史】
オオガロアムシ G. kiyosawai,ヒメガロアムシ G.
yuasai,北海道からはエゾガロアムシ G. yezoensis,
それに香川県女木島から G. chujoi の5種が知られ
ている1)。また,埼玉県の十文字峠からは黒いガ
ロアムシ,対馬からは今年になって不明種の個体
が多数採取されている。
はじめに
直翅系昆虫のなかで完全に翅がない
唯一の昆虫
「翅がないのに昆虫なのですか?」。よく聞か
コオロギとゴキブリの両方に似た昆虫という
れる質問である。たしかに昆虫の大部分は翅をも
が,具体的にはどんな特徴があるのだろうか?
つ。しかし,そもそも昆虫には翅がなく,カブト
ガロアムシの体長は 20 ∼ 30mm で,成虫は褐色,
ムシの角と同じように進化の途中で手に入れたア
若虫は成虫と同じ形をしており,乳白色のものが
ウトグロース(外生物)であると考えられている。
多い。口絵図1にあるように,体の前半分は扁平
面白いことに,せっかく手に入れたこの翅を後
で,頭部の眼は小さく単眼はない。前口式のかむ
に捨ててしまったものもいる。つまり翅のない昆
型の口をもつ。糸状の触角と有節の尾毛は長く,
虫といっても次のようないくつかのタイプがある
多くの感覚器官を有する。このような形態的特徴
のである。1.もともと翅をもっていないタイプ,
は直翅系昆虫(多新翅群;シロアリ目,カマキリ
2.生活のある段階,または雌雄差によって翅を
目,ゴキブリ目,ナナフシ目,シロアリモドキ目,
なくしてしまうタイプ,3.大昔は翅をもってい
バッタ目,カワゲラ目,ハサミムシ目など)の基
たが現在は完全に捨ててしまったタイプ。1はシ
本体制を示すため,現在では直翅系昆虫の一員と
2
昆虫と自然 46(1),2011
ガロアムシの生き残り戦略,翅をすてる前と後(丹羽 尚・長島 孝行)
図1 ガロアムシ化石
(Rasnitsyn 2)より改変。スケールは10 mm)
みなされている。
しかし,他の直翅系昆虫が立派な翅をもつのに
場合が多い。そのことを考えると,ガロアムシは
他と違う方法で翅を無くしたのかもしれない。
対し,ガロアムシだけは翅がない。バッタやナナ
最近になって,昆虫の翅の起源について新しい
フシなどでは,種によって,あるいは雌雄によっ
仮説が報告された。遺伝子レベルでの解析結果を
て翅がないものがいるが,ガロアムシの場合は現
もとにしたこの説では,昆虫の翅は,筋肉を備え
存するすべての種において翅の痕跡すらない全く
た外突起を脚の基部に作る分子機構と,側背板領
の無翅である(若虫には翅原基も生じない)
。
域をさらに平坦に伸長させる分子機構の2つが組
昔のガロアムシは翅をもっていた
合わさったことで生じたという(Combinatorial
model) 3)。この説に従えば,ガロアムシにおい
現在は翅のないガロアムシも大昔は翅をもって
て飛翔筋(外突起の筋肉に相当)が残っている状
いたらしいことが化石記録と筋肉系の解析から示
態は,翅をつくる2つの分子機構のうち,側背板
唆されている。1976 年,ロシアのカラタウ山脈
を伸ばす機構だけをとりあえず抑制して,手っ取
からガロアムシの仲間と思われるジュラ紀後期の
り早く翅をなくすことに成功したと言えるかもし
化石が発見された(図1)。この化石では胸部に
れない(図3)。同じ直翅系昆虫でも無翅化の方
立派な4枚の翅をもっており,このころまでは空
法に違いがあることは大変興味深いが,いずれに
を飛んできたらしいことを示唆するものだった2)。
せよ,ガロアムシは大昔までは翅をもっていて,
さらに現生のガロアムシの胸部を解剖すると,多
それをいつしか捨ててしまったらしいことは事実
くの昆虫で飛翔に関係している筋肉がいくつか残
のようである。
っている(図2;多くの昆虫で関節飛翔筋となっ
ているt13,14,t− p muscle 群,翅を折り
たたむp3などがみられる)
。
低温環境への適応として翅を捨てた
では,なぜガロアムシはせっかくの翅を捨てて
同じ直翅系昆虫でもナナフシなどが無翅化した
しまったのだろうか?翅のない昆虫の多くは,そ
場合は,これらの筋肉の多くが無くなってしまう
の生息環境や生活様式と密接な関係があることが
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3
特集・翅を失った昆虫Ⅱ−寒冷環境下での翅の退化
翅を失った昆虫 シリアゲムシ類
は北海道にエゾユキシリアゲ Boreus jezoensis Hori
et Morimoto(図2)が分布するが,生態の詳細は
不明である。
ユキシリアゲムシの仲間と特徴
ユキシリアゲムシ科 Boreidae はシリアゲムシ目
もりもと
かつら
森本
桂
(九州大学名誉教授)
Profile: 1956 年九州大学農学部卒業。'56 ∼'61
年同大学院修了。'61 年「日本産ゾウムシ上科
甲虫の比較形態と系統」で学位取得'61 ∼'77
年農林省林業試験場・同九州支場で森林害虫
研究。1978 ∼ 1997 九州大学農学部助教授・
教授。'97 年九州大学名誉教授 Flightless insects - Mecoptera
Katsura Morimoto: Emeritus Professor of Kyushu
University
Mecoptera の小さな科で,下記の特徴を持ってい
る。
科の特徴:雄では前翅が翅脈のない先細りの板
状となり,また後翅は針状となって前翅の下に収
まる。雌の翅は殆ど退化する。単眼は小さく,側
単眼は複眼近くにあり,中単眼はときに消失する。
卵巣は無栄養型。幼虫に頭蓋縫合線がなく,腹脚
を欠く。この科はつぎの2亜科に大別される。
オレゴンシリアゲムシ亜科 Caurininae は
Key words
【ユキシリアゲムシ】,【タスマニアユキシリアゲムシ】
【エゾユキシリアゲムシ】
,【翅の退化】
,
【生態】
Caurinus dectes
9)
だけがオレゴン州西部の海岸山
脈でコケからベルレーゼ装置および水洗で分離さ
れたもので,前頭部は短くて吻を形成せず,大き
な大顎をもっている。後胸と第 1 原節は癒着し,
第 2 ∼ 6 腹節は強く角質化して側膜状部は見えな
い。雌の第 9 ∼ 11 腹節は小さくて 8 節内部に落ち
ヨーロッパや北アメリカでは,冬になる
とユキシリアゲムシが出現し,雪の上で活
動する種も多く,褐色∼黒色の目立つ色彩
と危険を感じると跳躍して逃げる習性で古
くからよく知られている。ユキシリアゲム
シの属名 Boreus は,ギリシャ語で「北風」
または「北」を意味する。
雪の上に出現するシリアゲムシ類は,2
つの科が南・北半球の高緯度地域に離れて
分布し,南半球ではタスマニアにタスマニ
アユキシリアゲムシ科 Apteropanorpidae
(Apteropanorpa 2 種)(図1)が,また北半
球には北海道を含むヨーロッパから北アメ
リカにかけての全北区にユキシリアゲムシ
科 Boreidae の 3 属 24 種が知られている。こ
れら両科のシリアゲムシは,雪面で活動す
る昆虫の一般的特徴である小型,濃色,翅
の退化,成長期間の長期化などの共通特徴
をもち,一見よく似ているが系統的にはか
け離れており,特殊な生活環境に適応した
平行的変化と考えられている 8,13)。日本に
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昆虫と自然 46(1),2011
図1 タスマニアユキシリアゲ♂
翅を失った昆虫 シリアゲムシ類(森本 桂)
込む。幼虫に脚がない。成虫は 11 月下旬から 4 月
上旬に採集されている9)。
ユキシリアゲムシ亜科 Boreinae は全北区から 23
種の記録があり,前頭部は伸長して吻を形成し,
小さな大顎をもっている。後胸と第 1 腹節は癒着
せず,腹部側面の膜状部は顕著,雌の第 9 ∼ 11 腹
節は角質化した産卵管を形成する。幼虫に脚があ
る。
この亜科には2つの属が含まれる。
Hesperoboreus は,北アメリカ西部のオレゴン州
とカリフォルニア州に各1種が分布し,11 月か
ら 12 月に出現する。ユキシリアゲムシ属 Boreus
は多様で現在 21 種が知られており,4 種群8)や3
亜属 6) に分割される。成虫は殆どの種が 11 月末
期から 4 月にかけて出現し,日本のエゾユキシリ
アゲムシなど 3 種だけが 7 ・ 8 月の夏に採集され
ている8)。
ユキシリアゲムシ属の生態
ヨーロッパと北アメリカの種では,11 月末の
図2 エゾユキシリアゲ(上♀,下♂)
低温になって成虫が出現し,高山や極地では 3 ・
4 月と出現時期が遅くなる。成虫はコケや雪の上
を歩行し,危険を感じると跳躍する。新雪で表面
種ではこの活動は否定されている。成虫の活動に
が軟弱な場合にも跳躍を繰り返しながら移動する
は温度が関係するが,小型であることから体内熱
ことがある。成虫は薄暮期に活動するものが多く,
で体温を増加せることは不可能である。 Boreus
また夜間灯火に集まるという報告もあるが,別の
brumalis での研究では,活動は気温や雪面温度と
図3 交尾中の Boreus
brumalis, ♂(下)は前翅
で♀を保持する
昆虫と自然 46(1)
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特集・翅を失った昆虫Ⅱ−寒冷環境下での翅の退化
カワゲラ目における
翅の多型性
わかった。カワゲラ目では退化的な翅の多型が出
現することは珍しくないといえる。
それでは,なぜカワゲラ目では退化的な翅の多
型が生じるのであろうか。今のところ,カワゲラ
目の翅の退化について確実に答えられるような研
究はほとんど行われていないのが現状である。本
きしもと
とおる
岸本
亨
(つくば国際大学医療保健学部
教授)
Profile: 1986 年筑波大学大学院博士課程生物
科学研究科修了(理学博士)。'94 年より現在
の所属
Wing polymorphism in Plecoptera
Toru Kishimoto: Faculty of Health Science, Tsukuba
International University
稿では,カワゲラ目において退化的な翅が生じる
分類群とその生態特性を概説するとともに,翅の
退化の要因について解説する。
翅の多型性の類型化
カワゲラ目における翅の長さは,一般的に,長
翅型(macropterism),短翅型(brachypterism),
微翅型(micropterism),無翅型(apterism)の4
つの型に類型化されているが,これは便宜的であ
Key words
【カワゲラ目】
,【翅の多型性】
,【翅の退化】
,【生態特性】
【要因】
り,類型化の基準には厳密な基準はない。
Brink 1)によると,短翅型は長翅型と比較して
短いものを指し,長翅型の 50 ∼ 90%の長さであ
る。多くの場合,折り畳んだ翅の先端が腹部末端
を越えない程度の長さから(長翅型は翅の先端が
腹部末端を越える),腹節の第 2 ∼4節程度まで
はじめに
のものをいう。短翅型が現れる種では,一方の性
だけに現れたり(性的二型),地域個体群によっ
カワゲラ目は,カゲロウ目やトビケラ目などと
て二型が現れたりする場合がある。また,短翅型
ともに水生昆虫類としてよく知られている有翅昆
は体長と翅長との相対的なものであり,翅の長さ
虫類である。カワゲラ目は今までに世界で約
は変わらないが体長が異なるために短翅型となる
3500 種が記載されている小さな昆虫群であるが4),
場合があるので気をつけなければならない 1,2)。
熱帯地域から南極を除く寒帯地域まで広く分布す
微翅型は長翅型の 50%より短い,膜状の翅である
る。
が,痕跡的であり,翅としての機能はほとんどな
カワゲラ目は幼虫が河川や湖沼などの水中に生
い。無翅型は完全に翅がない(図1a,図2)か,
息し,成虫は陸上生活をする種がほとんどである
微翅型よりも痕跡的で,翅としての機能を全く有
が,幼虫が陸生の種や幼虫から成虫まで一生を水
しないようなパット状のもの(図1b)である。
中で生活する種も知られている。
さて,カワゲラ目の多くは発達した翅をもって
おり,休息する時には後翅の後方の部分を折りた
たみ,さらにその上に前翅を水平に重ねる。学名
退化的な翅が出現する分類群と
その生態特性
カワゲラ目は2亜目 16 科に分けられている。
の Plecoptera はこのような翅の状態に由来してい
ミナミカワゲラ亜目 Antarctoperlaria は4科からな
る。しかしながら,この名前の由来に反して,カ
り,オーストラリア,ニュージーランド,南アメ
ワゲラ目は飛ぶことがあまり得意ではないし,さ
リカ大陸に分布するが,北半球とアフリカ大陸に
らに,短翅型,微翅型,無翅型などの翅が退化的
は分布しない。キタカワゲラ亜目 Arctoperlaria は
な種が意外と多く知られている。筆者が標本や文
12 科からなり,多くは北半球に分布するが,カ
献で確認したところ,カワゲラ目の 16 科のうち,
ワゲラ科 Perlidae のように北半球から東南アジア,
13 科において退化的な翅をもつ種がいることが
南アメリカ,アフリカまで広く分布する科もある。
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