式次第(プログラム) - 千葉高昭和43年卒業生同期会

千葉県立千葉高等学校
同窓会総会・懇親会
Ⅰ 同窓会総会 16:00
Ⅱ 懇親会
・千葉高ダンス部演技 16:40
・懇親会開会の辞 17:00
・乾杯 ・Dr. 林スーパーバンド医療漫談 ・校歌斉唱 18:00
18:40
・幹事年度引き継ぎ 18:50
・閉会 19;00
平成 22 年 2 月 6 日(土)
於:アパホテル&リゾート東京ベイ幕張 ❖ 先 生 の 思 い 出 ❖
《幹事年度(昭和43年卒)が千葉高で教えていただいた何人かの恩師の思い出を取りまとめたもの
です。改めて思う我が師の恩、本当に感謝しております。なお掲載はアイウエオ順、内容は43年同
期のHP(http://www.mane-ana.co.jp/chiba43/)から採り、編集・構成し直しました。
》
●稲葉 正先生(物理・地学)
石を薄く切片にして、プレパラートで結晶を見た地学授業の記憶は鮮やか。日本で一番古いという飛驒片麻岩を全員に配ら
れたクラスには今でも大事にしている者がいる。波動と気柱の単元だったか、長いビニールホースでラッパ演奏をされたのには、
クラス中がどよめいた。このようにお手製の資料と教材を用意されての授業が大半だったが、今思うと生徒のために多大の時間
を費やし準備されていたのだ。虹の理論、また、どんなに入り組んだ海岸線にも波が直角に打ち寄せる理由、あるいは、夜間
には遠くの音が何故聞こえやすいのか・・・等々、物質世界が明晰な理論で解明できることの面白さを味わった。生活態度、
服装にも厳しい先生であり、叱られたことも多いが、授業後、不明点・疑問点を食いつくように質問したら、わかるまで教えて
いただいた。情熱 れる熱血漢かつ正義漢の恩師である。
(来年、米寿祝いの会がS37年卒の呼びかけで開催予定)
●岩岡 貞太郎先生(英語)
風呂敷をマントのように肩に掛け、棒切れを振り回し、ハチャトリアンの「剣の舞」
に合わせて踊ってくれた記憶は鮮やか。いつも三省堂のカレッジクラウンなどを持参さ
れ、語源が載っている中辞典の意義を語られた。フォークソング同好会の顧問になって
くださった先生だが、その理由は、怪しげな同好会(ギターを弾いて歌うことは当時、
不良視されていた)を少しは応援してやろうと思ってくださったのか、あるいは先生自
身がおっしゃったように「君たちの歌は英語の発音がひどすぎるので、直してあげたい」
と思われたのか・・・。
●菊地 久治先生(国語)
『憂国』
『高瀬舟』
『トニオ・クレーゲル』
『盲目のジェロニモとその兄』などを朗読された。教室
教科書から離れて『春琴抄』
のカーテンを閉めさせて暗くし、持参のプレーヤーから音楽を流し、登場人物になりきって読まれる。人物の気持ちに加えて、
朗読は 第二の創造 との先生の思いも籠められているから、今も思い出は鮮烈。感動して、三島にはまった者、トーマス・マ
ンの生家まで行った者も出た。三島の『施餓鬼舟』という短編を先生が読み、生徒がノートに書き取る授業もあった。叱られ
て職員室に呼ばれた生徒は「これ、読みなさい」と『一房の葡萄』を渡された。修学旅行ではクラスの生徒に占い的アドバイ
ス。2年間で千葉高から転任されたが、その理由も今や伝説。卒業後、先生にコンタクトできたが、頂戴したお返事のラストに
引かれた三島の文章、水道橋路上で行き倒れでのご逝去。存在も思い出も小説のような先生だ。
(東京 城会50周年記念
誌に「鮮烈 菊地久治先生」を掲載)
●桜井 謙聿先生(物理・地学)
授業の一こまに天気図の読み方と書き方があった。等圧線の書き方では、ミリバール単位で記された数値を結んで気圧の高
低や密度を表すのだが、先生は「たとえ、気圧の高低差が著しい数値が近くにあっても、等圧線が急激にカーブすることはな
い。等圧線はゆるやかに描くものです」と強調された。私はこのことを勝手に敷延して心にとどめている。 数字にとらわれては
いけない、変化はゆるやかで、極端なことはそうそう起こらない と。大島の火山岩を古いリュック満杯に採集されて、各自に配
り、スライスしての岩石観察も指導される。リュックといえば、先生は山岳部の顧問をされ、何度かご一緒させていただいた。ク
ラスでは、先生が計画・バスの手配までして、養老溪谷や九十九里、鵜原に連れて行ってくださり、そして必ず写真を撮って
後で配っていただいた。本当に、大きくて優しく見守ってくださるような先生でした。
(09 年 9 月ご逝去)
●立野 良弘先生(国語)
「いつでも部屋
先生の思い出は、亡くなった忌野清志郎の「ぼくの好きな先生」の歌詞に重なる。キーワードは「たばこ」
(=視聴覚教室)に一人」
「劣等生のこのぼくに」だ。そう、
「劣等生のこのぼく」に先生の授業を覚えているわけはないが、今
考えると「ぼくの好きな先生」だったのだ。
「いつでもつまらなそうに たばこを吸いながら いつでも部屋に一人・・・ぼくと
同じなんだ 職員室がきらいなのさ」
・・・。ユーモア・警句をサラッと言われる先生で「石ころをダイヤモンドと信じて疑わず、
それも人生ですなぁ」とのお言葉も忘れ難い。
「大脱走」で S・マックィーンが乗ったようなバイクで来られたり、退職されてから
アマチュア無線を始められたり、国語の先生なのに機械が好きな不思議な先生だった。
●旭爪 謙作先生(数学)
稲葉先生とともにレッドパージで大学を追われた先生という があり、畏敬されていた。大学教養課程の数学を千葉高で授
業されていた感じで、劣等生は理解できなかったが、赤点にはならなかった。京都修学旅行に際してはおすすめの料理屋を教
えていただいたり、水曜は歌舞伎を見に行くからということで学校には来なかったとの もあった文化人。酒好きも本当だ。下
校時、坂の下の酒屋に寄ろうと言われ、コップ酒2杯を立ち飲みでご馳走になる。さらに京成千葉駅裏のカウンターだけのスナ
ックでウイスキーの水割りも。津田沼で下車するとパチンコ屋に入り、早々に球がなくなった先生は「S君出てますね」と言って
球を持っていかれた。
「大学は逃げていきませんから」とのお言葉が耳に残っている。
(お孫さんの旭爪あかねさんの小説『稲
の旋律』を映画化した『アンダンテ∼稲の旋律』が公開予定)
●目良 弘先生(数学)
勉強は淡々とやるが、ほかのことは生徒に何事もまかせるといった感じの先生だった。大
原町から当時はめずらしかった自家用車で通勤しておられたが、事故を起こされ、担任が
替わる。数学の授業では、黒板に数式を書き並べて、説明を加えながら問題を解いていか
れた。長くなると、あまり整っていない文字が右下がりに落ちていった。生徒に顔を向ける
よりも、黙々と黒板に向かっておられた時間のほうが長かったと記憶している。説得調では
なく、後ろ姿で模範を示して生徒に行動を促すタイプで、教え込まれるのに反撥を感じて
いた私は、数学は目良先生の時だけ成績は良かった。
●本野 建二郎先生(英語)
シェークスピアの原文の一節と、福田恒存・坪内逍遙・大久保康雄などの訳文とを並記した手作り資料をもとに比較考察し
つつ授業を進められた。
「僕は仏典の英訳を将来したい」と遠くを見ながら話しておられたのが印象深い。シェークスピア戯曲
を聞かせていただいたり、接頭語・接尾辞から単語の意味を推測することも手作り教材で教わった。
「何故彼女はそうしたか?」
を「Why did she do so?」と訳すのは英語的表現ではなく、抽象名詞を主語にして「What made her do so?」とするのが英
語であると教わった。黒板に「San Fransisco」と書かれた時、留学経験のある生徒から「シスコは c i・・・では?」との質問。
先生、少しも慌てず、教壇を降りて腕組みのまま黒板を眺め、ややあって一言「そうか、フランチェスカと言うからな」と、サッ
と「s」を消して「c」に直された。眼の醒めるようなその瞬間に只々啞然。英語(語学)という世界の奥行きがグンと広がった
瞬間だった。(08 年 9 月ご逝去 )
●山沢 敏夫先生(生物)
入学して初めての担任が、農夫のような風貌の温和な山沢先生だったのが、千葉高生活を伸び伸びと過ごせた一因だった
ような気もしている。黒板に貼られた模造紙の花の構造図。紙が黄ばんでいるのに驚いたが、近づいて見たら、マジックインキ
ではなく墨で書かれていた。伝統校と改めて感じた瞬間だ。鯛の骨が喉にひっかかって苦しまれたときのことと、卵が分割を繰
り返していく様子を、面白い顔で体をくねらせて実演されたことを、おぼろに覚えている。
千葉中學校校歌
千葉中學校
作詞
楠見恩三郎
作曲
一
雲に聳ゆる冨士の高根
空に連なる袖の浦波、
ひろ
千葉高等学校校歌
松 原 至 大
作詞
弘田龍太郎
作曲
一
袖が浦辺の
明け暮れに、
波路はるかに
仰ぎ見る
すめおおぎみ
遙けきこの海 きこの山、
富士の高根の
すなおさは、
いのち
皇大君の廣き惠、
つか
われ等
健児の生命なり。
かしこ
の葉しげき
岡という
古きゆかりの
地に生まれ、
二
山より高く海より深し、
いとも 畏 み仕へまつらん、
いざいざいざや。
葉の岡、
くず は
正しき文化
推し進め、
二
綠覆へる
流れたゆまぬ都川水、
若人出でて
幾春秋。
まなびや
︵昭和 年制定︶
今日を歩まん
われ等みな。
世界平和の
民となり 、
母校のほまれ
身につけて、
三
遠き歴史は
力なり、
深きは其水繁きは其蔭、
いくしお
さはなる功こもれる學舎、
幾入そめて綠はまさる、
こた
おおじ
たま
敎へつつしみ應へまつらん、
いざいざいざや。
まなび
三
雪にみがける心の玉 、 螢てらせる 學 の大路、
こ
學 の友のかたき望み、
まなび
たどるや我か道守るや我か魂、
暑さにきたへ寒さに凝りて、
日々にいそしみつとめはげまん、
いざいざいざや。
︵大正4年制定︶
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