国家間の歴史教科書編纂作業の世界的な展望 フランス・ドイツの共同

国家間の歴史教科書編纂作業の世界的な展望
フランス・ドイツの共同歴史教科書と北東アジア
金承烈(慶尙大学校教授)
抄録
2006年、フランスとドイツの共同歴史教科書が刊行されたことにより、両国の歴史
教育は国際社会の理解を深める新たな時代を迎えつつある。これはこれまで敵対して
きた両国が相互和解する歴史的な時代が迫っていることを予告している。本稿の目的
は同歴史教科書の特徴を概括するとともに教科書をめぐるフランスードイツ間の過去
の協力とグローバル化時代において同状況が有する意味などを検討することである。
さらに、北東アジアが直面している歴史教科書の紛争と関連し、フランスードイツの
共同歴史教科書が有する意味についても論じた。
キーワード
共同歴史教科書、二つの観点、和解、歴史葛藤、ドイツの過去の清算
(Vergangenheitsbewaeltigung)
Ⅰ.はじめに 1
1
同論文の一部は≪歴史3(histoire/GeschichteⅢ)≫が初めて出版された際、筆者がこれに関して書い
た批評である(Kim、2008年春)。本稿とその批評文の異なる点を取り上げると、本稿では≪歴史3≫と≪
歴史3≫両冊すべてを調査しており、同共同歴史教科書が北東アジアで持つ意味を論じた点である。
-1-
2004年、筆者はドイツとフランスが共同歴史教科書を作成していることをある知人
から聞いた。すぐ頭に浮かんだのは果たしてその作業が可能であろうかという疑問だ
った。一国の歴史教科書を多国主義的かつ欧州を包括する観点から作ることは望まし
いことだけではなく勿論不可能なことでもない。筆者はここ半世紀にわたりドイツと
フランスの間で進められた和解の歴史ももちろん周知している。しかし、両国が大き
く異なる民族の伝統を引き継いできたことから考えると、共通の歴史教科書を作り、
編纂することは大変大胆な挑戦であるわけだ。そうした中、2006年頃、両国の主要紙
により独仏の共同歴史教科書が刊行を間近にしていると報じられた。筆者はこのニュ
ースを耳にし少なからず驚いた。同年の夏、筆者はブラウンシュヴァイクで開かれた
国際学術に出席するためドイツに向かった。そしてベルリンで共同歴史教科書の編纂
責 任 者 で あ っ た ク レ ッ ト ( Klett ) 出 版 社 の ケ ル ナ ー ペ レ ハ ウ ス ( I. KoernerWellershaus)氏と対談する機会を得た。エルンスト・クレット社とナタン社は世界で
最も負担の大きい歴史教科書作成作業に自国を代表する出版社として選ばれていた。
筆者との対談でケルナーペレハウス(I. Koerner- Wellershaus)氏は次のように述べた。
「一週間前、日本のNHKテレビ局の記者のインタビューを受けたことがあるが、今日は
韓国の学者が訪問してくれた。同教科書が東アジアで呼び起こした強い関心を知り、
嬉しく、また感心した。」その後、帰国してから独仏の共同歴史教科書に対するマス
コミの関心が実に高いことを知った。フランスとドイツ両国の主要紙によると、この
変わった教科書の登場は新しい時代の到来を促すとともに、民族中心の歴史教育から
脱却し、一時代々宿敵として見なしていた両国が理解と和解を図る画期的な変化を示
した事件であった。そうした理解と和解を実現する手段は、両国の学生が歴史の国境
を越える方法を学ぶことであった(2006年5月1日付≪ル・モンド)と同年5月5日付≪
フランクフルター・ルントシャウ フランクフルター・ルントシャウ≫)。
独仏の共同歴史教科書の刊行は学界でも大きな注目を集めた。この独特の教科書につ
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いて分析した記者の多くは次の疑問を扱う傾向を見せた。:(1)同教科書の内容は最
近の研究結果をどの程度反映しているか。(2)その内容は学問的に正確なのか。
(3) 同独仏の共同歴史教科書が教訓を伝えるうえで如何に効果的なのか 2 。筆者は本
稿で発行に至る長い歴史過程を追いながら独仏の共同歴史教科書を検討したい。歴史
教科書をめぐり両国間で行われた協議の過程を論ずるとともに、独仏の共同歴史教科
書の特性、強み、弱みなどを各国が独自に作成している教科書と比較したい。その上、
同教科書の登場がこれまで異なった歴史解釈と関連し国をあげて議論が沸きかえって
いる北東アジアの状況において有する意味と北東アジアに及ぼす影響にも焦点を当て
てみたい。
Ⅱ.独仏の共同歴史教科書の基本的な特徴
独仏の共同歴史教科書の発行に当たり、直接のきっかけとなったのは「フランスー
ドイツ青年議会」に属する高校生550名だった。同学生らは独仏エリゼ条約調印40
周年を記念する2003年1月に初めて召集された。同条約により、1963年独仏青少年事務
所 ( Office
franco-allemand
pour
la
jeunesse
/ Deutsch – Französische
Jugendwerk)が設置された。青年議会に属する学生らはエリゼ条約調印20周年の一環
として独仏の共同歴史教科書を発行するよう求めた。当時のフランスのシラク大統領
とドイツのシュレーダー首相は彼らの要請を快く受け入れた。このような政府首班の
政治的支持に支えられ、ドイツとフランス両国により2003年6月に独仏合同の委員会が
結成されるに至った。続いて同委員会は事業推進に向けた公式かつ概念的なガイドラ
インを打ち出すとともに、両国から教科書の作成に参加する専門家を集め編集チーム
を構成した。公式の出版社としてはナタン社(フランス)とエルンスト・クレット社
2
≪歴史3≫を分析した一編の論文が2006年に出版された≪ドキュメンテ≫(Documente、 2006、06/5)
特別版に載っている。
-3-
(ドイツ)が選ばれた。独仏の共同歴史教科書は全3巻。第3巻(≪歴史ー1945年以降
のヨーロッパと世界≫、L’Europe et le monde depuis 1945/Geschichte:Europa
und die Welt seit 1945)と第2巻(≪歴史ーウィーン協定から1945年に至る欧州と
歴 史 ≫ 、
L ’ Europe et le monde du congrès de
Vienne à 1945 /
Geschichte:Europa und die Welt vom Wiener Kongress bis 1945)はそれぞれ2006年
と2008年に発行されており、第1巻は来年に発行される予定だ。これら≪歴史≫はフラ
ンスとドイツの高校(ドイツではギムナジウム、フランスではリセ(Lycée)で使用され
る(Claret、 2006、 pp. 57-61; Francois、2007、 pp.73-76; Defrance、2008)。
世界で初めて両国が共同で作成した歴史教科書である≪歴史≫は、フランスとドイ
ツが長い間、これをめぐり協議してきた過去が無かったら考えられないし、また実現
し得なかったものであろう。このような意見交換は両国において民族主義的な歴史教
育を管理する上で実に貢献した。フランスとドイツはナポレオン時代から第2次世界
大戦までの150年間、4回の戦争を繰り広げながら敵対関係となった。人々は宿敵であ
った両国が欧州でもたらした途方もない大災難の種はまさに偏見に満ちた歴史教育の
せいだと考えた。フランスの歴史教育家の中には、すでに2回の世界大戦中、歪曲され
た歴史教育の危険性を認識し、自らが作成した歴史教科書においてドイツとドイツ人
の描写に当たりできるだけ宿敵のイメージを払拭するために努力した先駆者があった。
フランス国史教師協会の会長だったG.ラピエールは1926年次のように強調している:
「その教科書は若者を容易に『戦乱の恐怖に満ちた博物館』に掻き立てるとともに…
…不信感や憎悪、軽蔑、戦争の種を撒くためこれ以上使ってはならない。」
(Schueddekopf、1967、p.19)フランスの歴史家でありながら広く使われている中等
学校向けの歴史教科書の著者でもあるジュールス・イサアク(Jules Isaac)は第1次
世界大戦とその他の様々の事件に関しドイツの見解を載せた注目すべき教科書を執筆
した。同氏はこうした第2の観点は、学生らにこれまでとは違う立場でフランス史を見
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つめさせるとともに、歴史事実をより深く理解する上で寄与すると考えた。さらに、
自分の歴史叙述の方法を「二つの観点(deux points de vue)という概念で説明した
(Bendick、2000、p.312)。これを近年の用語で表現すると「二つの観点(deux
points de vue)」以外に「交差アプローチ(approche croisée)」だといえるだろう。
第2次世界大戦後、ドイツではゲオルク・エッカートのイニシアティヴの下、イサア
クと同様の目標を掲げるとともに、同一の方法を使い関係諸国が相互協力することで
教科書を作成するため力を入れた。同分野では、ゲオルク・エッカートが設立したブ
ラオンシュヴァイク(Braunschweig)のゲオルク・エッカート国際教科書研究所(Georg
Eckert Institute for International Textbook Research)が重要な役割を果たした
(Eckert、1951、pp.140-146;Harstick、2000、pp.105-115)。
歴史教科書をめぐるフランスとドイツの協議は1930年代に始まっている。当時両国
の参加者は教科書において厄介な歴史問題を扱う際、勧告すべき事項を盛り込んだ意
義深い文書(Les manuels scolaires d’histoire en France et en Allemagne)を作
成した。しかしナチス政権が登場したことでこうした協議は実を結ばずに終わってし
まった。両国間の協議は終戦後、すぐに再開された。当時生まれた最も重要な成果が
勧告事項を盛り込んだ二つの文章、いわゆる≪欧州問題に関する独仏間の合意≫
(
Deutsch-französische Vereinbarung über strittige Fragen europäischer
Geschichte) ( 1951 ) と ≪ ド イ ツ と フ ラ ン ス : 空 間 と 記 録 ) ( Deutschland und
Frankreich、 Raum und Zeitgeschichte)(1988)である。(Riemenschneider、1991、
pp.137、148)。1951年に発表された勧告案の主な目標は両国が一方的かつ民族主義の
歴史観を否定し、相手国に対する敵対的な固定観念を打ち破ることだった。これに対
し1988年の勧告案の主な目標は、自国の学生らに相手国の歴史を教えることでドイツ
とフランス間の相互理解を深めることだった。両勧告案をつなぐ共通の糸口は欧州で
国民社会主義とファシズムを通じ、絶頂期を迎えた民族主義を反省し、批判する見解
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だった。ドイツはこれまで過去の清算に着実に取り組んできただけではなく、欧州統
合の過程においても重要な役割を果たすことで欧州の和解に大きく貢献してきた。歴
史教科書をめぐるフランスとドイツ間の協議はこうした歴史過程に沿って進められた。
ドイツ側の編集責任者であるペーター・ガイスは、≪歴史≫の特徴を次のように要
約している:人々は常にまたは少なくとも二つの見解を持っているはずが、こうした
複数の見解は学生らが歴史に対する自分の姿勢と自分ならではのイメージを形成する
のに貢献する。これは民主的かつ自由主義的な歴史教育にとって非常に効果的だ。人
は相手の観点も知るべきであり、自国の歴史もそうした方式で考えるべきだ
(Deutsche Welle、July10、2006)。」一方、共同歴史特別委員会に属するフランス
会員の一人だったエティエンヌ・フランソワ(Etienne François)は、次のように述
べている。
もし、独仏の共同歴史教科書チームに属するフランス委員である私たちがドイツ人
に対し、つねに戦争を引き起こす好戦的民族だと考えていたならば、私たちが進めた
共同作業は成功できなかったはずだ。そして、ある民族が自らが犯した攻撃と占領の
口実を見つけるとともにその行為を正当化しようと努力したならば、それもまた同様
の結果をもたらしただろう。たとえば、ドイツ国籍の委員が不平等なベルサイユ講和
条約のせいでドイツでナチスが必然的に政権を握るようになったと主張したならば、
この共同作業はこれ以上続けられないだろう。如何なる国の歴史であれ、当然ながら
そこには光と影両方が存在する。一方の栄光はもう一方の恥辱である。ナポレオン時
代にフランスが隣国を攻撃したことで怒りを買ったことがまさにその事例に当たる。
従って共同の歴史教科書の刊行は該当国自らが自国の歴史の暗い影を明らかにする勇
気を出したときこそ実現できる(朝鮮日報2006年7月10日付)。
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以上の発言は≪歴史≫に1930年代以来、歴史和解を目指して続けられてきた両国の
努力から生み出された基本的な考え方(民族主義への批判)と方法(「二つの観点」
と「交差アプローチ」)が取り入れられているとともに適用されている事実を強調し
ている。これは実に長い歳月をかけて続いてきたドイツとフランスの努力が実を結ん
だすばらしい成果の一部であろう。
Ⅲ.≪歴史≫と国史教科書 3
欧州で近代的な意味での国民国家が成立して以来、歴史教育は民族に中心を置いて
進められてきた。これにより第一の教育目標もまた、学生らが祖国の歴史と一体化に
なることであった(Berghahn & Schissler、1987、pp.1-16)。したがってある両国
が共同の教科書を作成することとしたならば、両国の歴史、特に違う道を歩んできて
おり、あらゆる敵対行為に巻き込まれてきたその歴史を叙述する共通項を模索するこ
とが最も大きなハードルである。しかし≪歴史≫の編集者らにとってこれは大きな問
題にならなかった。彼らの前に立ちはだかった最も大きなハードルは歴史教育をめぐ
る異なった概念の間で誰もが受け入れられる均衡を模索することだった。そのような
教育学面でのジレンマは歴史の教科過程の構成や歴史教育の実践、教科書の構成問題
まで波及した(Geiss、2006、 p. 97)。同問題については当然ながらより踏み込んだ
議論が必要だが、本稿では紙面の制約のより省略する。一般に≪歴史≫は、ドイツよ
りフランスの歴史教育の慣行により合致しているように見える。では、本書を書いた
著者10人は≪歴史≫の内容と関連して如何なる方法を通じて共通項を見つけ出したの
だろうか。本書は実は、フランスードイツによる歴史教科書の研究が70年間以上行わ
れる中、生み出されたあらゆる突破口に支えられている。
フランスとドイツ両国で1950年代と1960年代に出版された歴史教科書に記述されて
3
本章の国史教科書への分析は、 金承烈と李鎔在が共同執筆した本に基づいている( by Kim and Lee、
2008、 pp. 160-205)
-7-
いた両国の国史の内容は一般的に1951年に発表された勧告案に基づいて修正された。
幾つかの例を挙げてみよう。1870年に勃発した普仏戦争について両国は1951年版の勧
告案により、自国の歴史教科書に相手の立場を取り入れると同時に、相互不信が徐々
に増大された結果発生した事件であると明示するよう求められた。さらに、同勧告案
は歴史教科書において「 エムス電報事件」のような歴史的な誤りを修正し、明確な根
拠もないのに「悪質なごまかし」や「憎悪」、「宿敵」のような嫌悪感を催させる表
現は使用しないように求めた( Deutsch-Franzoesische Vereinbarung、1951、 Nr. 7
-8)。
ド イ ツ で 出 版 さ れ た ≪ 歴 史 教 科 書 ( Lehrbuch der Geschichte ) ≫ ( Stein &
Kolligs、1912)を見ると、ドイツに対するフランスの好戦的な態度が強調されている。
また、≪ドイツ児童向けのドイツ人民の歴史( Geschichte des deutschen Volkes
fuer den deutschen Schuljugend)≫(Verlag Emil Roth Siegen、1934)ではフラン
ス国民に対し「粘り強くドイツの統一を反対」しているため「傲慢」で「戦争に狂
奔」した人間だと烙印を押した(p.259)。これとは対照的に1970年に出版された教
科書≪時代の鏡3( Spiegel der Zeiten 3)≫( Verlag Moritz Diesterweg、1970)
ではナポレオン三世政権の政治目標をフランスの観点から記述している。
ドイツとイタリアにより民族統一に注がれた努力についてナポレオンは当初、ある
程度宥和的な態度を見せていた。しかし、彼はプロシアが自国の領土をフランス東部
の国境近くまで拡大しかねないといった恐怖に襲われた。こうした脅威を阻止すべく、
彼は緩衝地帯を設けるため努力を入れた。さらに、南部ドイツ諸国が北ドイツ連邦に
加盟できないよう努力した。ドイツ国民の大多数は、このようなフランス政府の対ド
イツ政策がドイツ統一を妨害していると確信し、憤怒していた(p.191)
-8-
続いて、フランスの歴史教科書を検討してみよう。≪フランス歴史と制度、概念お
よび一般歴史の概括( Histoire de la France et de ses institutions et notions
sommaires d'histoire générale) ≫(Rieder、1916)によると、「同戦争(普仏戦
争)の勃発への責任はプロシアのビスマルク首相にある。彼は悪質なごまかしを持ち
込 ん で 戦 争 へ と 掻 き 立 て た 。 」 ( p . 456 ) ≪ 高 級 歴 史 ー 1852 年 か ら 現 代 ま で
( Histoire、 cours supérieur、1852 à nos jours)≫ (J. de Gigord、1926)で
はフランス大使がプロシア王を侮辱したと知られ、ついに世論を戦争へと煽ったエム
ス電報事件を歪曲し、一般に広げたという理由でビスマルクを非難した。(p.34)し
かし、1962年に出版された歴史教科書≪中級フランス史(Histoire de France, cours
moyen)≫では同事件がより客観的な視点から記述されている。
1870年に勃発した普仏戦争は、プロシアの首相であったビスマルクが望んだところ
だった。彼は、この戦争でプロシアが勝利すれば、他のドイツ系の諸国がプロシアを
支持し、ついにはドイツの統一につながると考えた。同じくナポレオン三世とその側
近もまた戦争を望んでいた。彼らはこの戦争でフランスが勝利すれば、フランス政府
は内部の政敵を圧迫するのに十分な力を獲得できると考えた。
戦前、出版された教科書と1960年代以降、出版された教科書で1870年戦争について
記述された内容を見ると、両国が1951年の勧告案を受け入れていることが鮮明に伺え
る。≪歴史2≫に記述された1870年戦争の内容にもまた、それまで両国において進めら
れた状況が反映されている。
ビスマルクは、フランスの安保と影響力は中部欧州における新たな大国の浮上と衝
突すると思ったため、フランスとの戦争なしにはドイツの政治的統一は困難だと考え
-9-
た。これは、ナポレオン三世が自ら戦争に不干渉の態度を示しながら、ルクセンブル
クと南部ドイツ系の諸国の中立を取引しようとした1866年の普墺戦争の当時、すでに
鮮明に露呈されていた。しかしビスマルクは、ナポレオン三世の政策を拒否した。
ビスマルクの拒否により、フランス国民は激昂に駆られた。この感情はプロシア王
の親戚であったレオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンがスペイ
ン王位の継承候補者として名前が挙がったと報じられた1870年に一層悪化した。プロ
シア王朝によりフランスが取り囲まれることを恐れたフランスのグラモン外務長官は、
レオポルトが候補者を諦めるとすぐにプロシア王に会い、未来永劫に渡ってスペイン
の王位候補者をホーエンツォレルン家から出さないことへの約束を求めた。ビスマル
クはフランスを戦争に引き込むチャンスを見逃さなかった。彼はヴィルヘルム一世が
エムス電報(Ems Dispatch)を通じグラモンの要求を拒絶したことを知り、電報を刺
激的な内容に短縮して公表した。フランス政府はこの侮辱を口実に1870年7月19日プロ
シアに宣戦を布告した。(p.38)
≪歴史2≫には1870年に勃発した戦争によりプロシアに併合されたアルザス=ロレー
ヌ地方について、別途の「記録(dossier)」を学生らに提供されている。上記の文章
を通じて、著者らはなぜフランスとドイツが100年以上にわたりこの地方をめぐり戦っ
てきたかを説明し、長期にわたった紛争が残した歴史の負の遺産を提示している(pp.
58-59)。この独仏共同の歴史教科書には「フランス人とドイツ人の相互認識」と題
した特別のコラムまで用意されている。このコラムはなぜ、そして如何なる経緯で
「宿敵( Erbfeinde/ennemis héréditaires)という概念が生まれ、またなぜ同概念が
妥当性を欠いているかを学生らにわかりやすく説明するために書かれたものである。
(p.77)
戦後の資料はそれ以前の資料に比べ、著者にとってさほど問題にならないようであ
- 10 -
る。しかし、両側の著者らが互いに矛盾する評価を下す主題は依然としてあるが、そ
の一つが、ヨーロッパにおけるアメリカの役割に関する内容である。フランス側の主
席編纂者のギョーム・ル・カントレックは「フランス人はドイツ人を親米だとし、ド
イツ人はフランス人の観点を反米だと捉えた」と述べた(Deutsche Welle、July 10、
2006)彼らが見出した解決策は、このような矛盾をありのまま明らかにし議論すること
だった。
欧州と米国の関係に対する両国の認識は異なる点が多かった。欧州が理念的に異な
る二つの陣営に分かれるのを直接経験した西ドイツ(FRG、ドイツ連邦共和国)におい
て米国という存在は、欧州を(マーシャル・プランを通じて)経済的に支援し、
(NATO を通じて)保護する強大国であった。しかし、大半のフランス人は、ド・ゴー
ル将軍が目指していた自立政策の影響を受け、米国を帝国国家と見なし「汎大西洋主
義 (atlantisme)」を米国のヘゲモニー政策だと捉えた。西ドイツでは「西洋統合
(Westintegration)」という言葉が、汎大西洋主義という用語より多く使われていた
(Histoire/Geschichte III、 p. 127)。
《歴史》は、学生のために他国の歴史まで詳しく紹介したという点でも意義深い。
従来のドイツとフランスの歴史教科書では、相手国家の観点は考慮しながらも、実際
にその歴史を教科書で言及する作業は疎かにしてきた。これとは対照的に《歴史》は、
「民族統一の熱望?:ドイツ系の諸国(1850-1870)(pp.34-35)と「民主独裁?:フ
ランスの第2帝政(pp.36-37)の例から分かるように、フランスとドイツの歴史を同一
の時期として扱っている。この章では伝統的な歴史教科書には見られなかった資料が、
学生に提供されている。例えば、フランスの学生はヴァイマル共和国と東ドイツにつ
いて、さらに詳しく学べるようになり、ドイツの学生はフランスの第3共和国とフラン
- 11 -
スの植民地について詳しく学ぶことができる。このような状況がまさに1988年の勧告
案で提示された内容だった。《歴史3》では、戦後ライン河の両岸で成し遂げた政治
的な発展に関する内容が記述され「フランスとドイツ、民主主義の二つの模範」とい
う小題目のついた文章で、両国を比較する質問が与えられている。例えば、学生は
「フランスとドイツの政治構造を比較し、長所と短所について論じなさい」という課
題が出される(Histoire/Geschichte III、 Ch. 14 & 15)。フランスとドイツが成し遂
げた政治的発展を説明する章を別途にした一方、社会経済的発展については「戦後の
フランスとドイツの経済と社会発展:『発展の類似性』」というタイトルの同一の章
で説明している。そこで学生は、フランスとドイツの経済的成長から見られる類似性
と差異への洞察力が得られるのだ。相互に比較する観点を提供する、これらのセクシ
ョンは、《歴史》の特徴だと言えるが、これは歴史的教訓に鑑みると非常に重要だと
言える。
《歴史》はヨーロッパの観点を進展させたとも言えるだろう。1950年代に入り、欧
州統合が始まって以来、欧州は民族主義的な歴史教育の抑制を通じ、相互に異なる民
族的視覚に調和を成す役割をした。歴史教科書問題により、フランスとドイツ間で行
われた協議の過程は、このような傾向をさらに加速化させた。しかし、フランス・ド
イツの歴史教科書が多くの国で構成されている欧州の観点に到達する方法は少し異な
った。ドイツでは強力な連邦制意識に加え、民族概念と関連した歴史的な断絶が確か
であるため、戦後の民族主義は完全に信頼を失ってしまった。これは、ドイツの歴史
教育が民族と関連した基準を超え、統一以降にも引き続き国籍を超越した欧州の観点
を包容することに役に立った。一方、大革命以来、民族主義と普遍主義を結合しよう
とする伝統が強かったフランスでは、欧州統合の進展につれ、ヨーロッパのアイデン
ティティを支持する方向に発展してきた。従って、フランスでは民族としてのアイデ
ンティティがしだいに国籍を超越したヨーロッパのアイデンティティに変わりつつあ
- 12 -
る(Soysal et al.、 2005、 pp. 13-34)。
《歴史》は両国のこのような傾向に従っ
ている。しかし、一般的な国史教科書と比較すると、同書は一国の歴史より、ヨーロ
ッパの観点をより強調している。戦後の欧州統合については、より詳しい説明を加え
ている。さらに、第2巻では「ヨーロッパとその加盟国:葛藤と挑戦(1815-1945)」
という題目の特別な章をもうけ、民族主義の時代を論じている(pp.356-369)。欧州
統合に関する歴史的研究の多様な結論を反映したこの内容は、《歴史》を他の歴史教
科書とは異なる特徴がある。
IV. フランス・ドイツの共同歴史教科書への批判
フランス・ドイツの共同歴史教科書には、前述した多様な長所にも関わらず、批判
的に検討する内容も含まれている。関係者は《歴史》のフランス版とドイツ版が同一
だと主張するが、実際は異なる。ナチス治下のユダヤ人とジプシーの犠牲者の数を例
にあげると、ドイツ版ではそれぞれ600万と50万人と記述しているが、フランス版では
500万と20万人と記されている(Histoire/Geschichte III、p. 14)。この数は両国の学
者が一般的に認めている数値と見られる。編纂者は恐らくその差が僅かであった為、
別途に説明をせず矛盾に目を瞑ったのだろう。しかし、これより重要な矛盾も解説な
しに含まれている。例えば、両国の編纂者は、戦後ドイツの復興に関しそれぞれ異な
る説明をしている。ドイツ版によると「民主的且つ平和的なドイツを復興するのは連
合国の最優先の目標だった。しかし、ソ連は民主主義の概念を権威主義的且つ集散主
義的な方法だと解釈した(Histoire/Geschicht2200wkdtjse III、 p. 26)」。
興味深いのは、フランス版で、ソ連に対するこの最後の文が抜けているという点だ。
これは誰が見ても些細な差異だと言えるが説明が少し必要な、注目に値する差異であ
る。同書では共産主義の受容問題に関し国ごとに異なる意見を説明する、特別なセク
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ションが含まれている(Histoire/Geschichte III、p. 127)。共産主義はフランスより
ドイツにより否定的に受け入れられた。このため、フランス版では共産主義と関連し
た部分が省略されたと思われる。
フランス・ドイツの共同歴史教科書に対するもう一つの批判は、題目をヨーロッパ
と世界の歴史書であるとしたにも関わらず、フランスとドイツの観点に偏りすぎてい
る問題だ。第2巻の題目は「ウィーン協定から1945年までのヨーロッパと世界」であり、
第3巻の題目は「戦後のヨーロッパと世界」である。他国の歴史教科書とは異なり、こ
こでは19世紀のオーストリア・ハンガリーとロシア、アメリカの歴史については言及
していない。つまり、このフランス・ドイツの共同歴史教科書を通じ学習する学生に
は、教師が別途に資料を提供しない限り、アメリカの奴隷解放宣言とエイブラハム・
リンカーンの政治的な業績、或いは南北戦争に関する歴史を学ぶ機会はないだろう
(Roszkowski、 2009)。しかし、共同教科書の編纂者は、このような批判に対して、他
国の歴史教科書の大半に含まれている一部の世界史事件と変化を犠牲する代わりに、
フランスとドイツの歴史に焦点を合わせようと意図的に決定したと反駁した。そのた
め、《歴史》はフランスとドイツを中心としたヨーロッパの歴史教科書と呼ばれてい
る。
しかし、ポーランドからの激しい批判は真剣に受け止めるべき事項である。ドイツ
(西ドイツ)が歴史教科書を改善するためにポーランドと共同作業を始めて30年以上
が過ぎた。しかし、この協力作業の結果物の一部は、フランス・ドイツの共同歴史教
科書にまったく反映されなかったのだ。例えば、この教科書では、ポーランドが「相
当な規模の西プロイセンとポズナン地域を獲得した」と記述されているが、この土地
の大半が歴史的にポーランド人が引き継いだものだという事実は言及していない
(Histoire/Geschichte II、p. 222)。そのため、まるでポーランドが所有する権利の
ない領土を所有しているかのような意味を孕んでいる。欧州議会のポーランド議員が
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表現したように、ドイツ・ポーランドの国境地域の歴史は、西プロイセンと同じく今
まで激しい論争の対象になり、ドイツ・ポーランドの歴史教科書委員会は、自国の利
益を最大化する方向で、この問題を解決するために、あらゆる努力を傾けてきた
(Gemeinsame deutsch-polnische Schulbuchkommission、1995; Roszkowski、2009)。
上述のものは省略を通じた歴史歪曲に当たると主張できるだろう。この部分は恐らく、
ドイツ・ポーランドの共同歴史教科書をテーマとした最近の論議の裏で、重要なきっ
かけとなった要因の一つだろう(Strobel、 2008、 pp. 26-28)。
東アジアの状況と関連付けると、《歴史》は不適切且つ不正確な情報の事例を含ん
でいる。この教科書では「反人類的犯罪」が、戦後の戦犯をニュルンベルク(ドイ
ツ)と東京(日本)で開かれた戦犯裁判に起訴する際に適用した疑いの一つだと主張
する(Histoire/Geschichte III、 p. 14)。しかし、実際に東京では「反人類的犯罪」
が法的な論拠とされなかった。その代表例として、人体実験で悪名高い日本の741部隊
は起訴されなかった。これがまさに、東京の戦犯裁判がニュルンベルク裁判より不徹
底で、不満足な裁判とされる理由の一つである。日本は降伏したほぼ直後に、国際社
会の好意を取り戻した。これが、日本が隣国に犯した悪行と関連し充分に妥協せずに
いられた理由である。従って、《歴史》で日本が過去を適切且つ徹底的な方法で解決
したかのように記述したのは、非常に納得のいかないものである。
戦争の評価から「記憶の義務」まで
日本は、隣国を軍事的に占領していた期間のうち、隣国国民に行った野蛮な行為に
対して公式的に謝罪した。それにも関わらず、中国での反日感情はエスカレートした
(Histoire/Geschichte III、 p. 32)。
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資料3.日本の最初の公式的謝罪
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の
危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に
対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、
疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意
を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内
外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。(村山富市 日本内閣総理大臣)
この文の後には次のような興味深い練習問題が出される:「日本は戦後、自国の過
去問題にどのように対処してきたか(Histoire/Geschichte III、 p. 33)。
このような問いにフランスとドイツの学生は果たして如何なる反応を見せるだろう
か。上の資料を見ると、学生は過去を清算しようとする日本の戦後の努力に肯定的な
印象を受けるだろう。さらに、上に引用した声明書の直ぐ後には非常に感性的な村山
総理の発言が登場する。「同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、
核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推
進していくことが肝要であります(Histoire/Geschichte III、 p. 33)。」
もし、こ
の両国の歴史教科書の編纂者が、首相のたび重なる靖国神社訪問を含め、日本国内で
活発に展開されている民族的な談論と活動が招く対立を視野に入れたら、日本の戦後
の行為を如何に記述できたのか、筆者は疑問に思う所だ。
この特別な場所は、たとえ敗北に終わっても、その戦争が大儀のためであったと信
じている日本人が神聖視している場所である。《歴史2》では、戦中に日本が行った
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残酷な行為を詳しく説明している。ひいては、次のような重要な問題も提起した:
「日本の悪行は、ナチス・ドイツが犯した蛮行と比較できる(Histoire/Geschichte II、
pp. 316f.)。
ドイツの歴史学者のアクセル・シルド(Axel Schildt)は、このセク
ションが不適当だと主張した(Schildt、 2006、 pp. 65-66)。
それにも関わらず、
これは戦後日本が歴史的な和解に注いだ努力を扱った内容に問題が多いという点より
重要ではない。筆者は、フランス・ドイツの共同歴史教科書の編纂者らが、日本の不
誠実な姿勢を、ドイツの真実且つ積極的な姿勢と比べることに疑問を提起し、時に東
アジアでくり返している歴史問題をめぐる対立を表現する、付加的な資料を提供する
べきだという意見を提示したい。
V. 北東アジアの受容
冒頭で言及した通りに、韓国と日本は、フランスとドイツの共同歴史教科書に大き
な関心を見せてきた。この教科書の第3巻は、両国で正式に翻訳され2008年に出版され
た。日本語翻訳の作業は、ある民間の出版社が担当し、韓国語翻訳版は政府から支援
を受けている北東アジア歴史財団が推進した。北東アジア歴史財団は、日中韓の間で
歴史問題の論争がピークに達した2006年に設立された。韓国と日本では、日本の歴史
教科書への論争が最初に発生した1982年以来、フランス・ドイツの歴史教科書の修正
活動に対して関心を傾けてきた。最初の論争は、日本政府が民族主義を促進する目的
から歴史教科書の内容を「修正」する動きを見せた後に始まった。隣国への日本帝国
の侵攻を指す時に使っている「侵略」という用語は「進出」に替わった。このような
日本教育の右翼化は、隣国が警戒心を強化させた。
韓国と日本の一部の進歩的な学者で構成された、ある小規模の集団が解決策を模索
し始めた。彼らは、ナチスの脱線行為が招いた歴史的な外傷を解決するために、ドイ
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ツが選択したアプローチ方法を研究し、北東アジアの歴史解釈論争の解決策に適用で
きる方法を見出そうという意見を提示した。歴史教科書を改善することは、ドイツが
頭を悩ませていた過去問題を克服する過程で重要な部分を占めた。韓国と日本の学者
らは、両国の関係が、政治経済的な能力から見る場合、相対的にドイツとポーランド
の関係に、より類似していると考え、フランス・ドイツのプロジェクトよりは、ドイ
ツ・ポーランドの歴史教科書プロジェクトに注目した。1983年、ドイツ教育歴史に関
する日本人専門家である西川正雄は、ドイツ・ポーランドの歴史教科書への改善作業
と1977年の勧告案を研究する、小規模の団体を組織した。彼は、ドイツ・ポーランド
の教科書事業の原則、即ち、民族主義への批判的な反省を特に強調した。「ドイツ・
ポーランドの教科書委員会の勧告案は、両国国民に其々の歴史意識を批判的に省察し
ようと呼びかける声明書である」 (Naghara、 1983、 pp. 71-81; Masao、 1985、 p.
127; Sin、 2008、 p. 31)
韓国では2000年代初めに入り、ヨーロッパの教科書プロジェクトへの関心が高まり
はじめた。当時は、第2次の日本歴史教科書関係の論争が起こった時期であり、中国で
東北工程が発足し、古代史をめぐり韓国と中国の間に対立を招いた時期だった。(Ahn、
2006、pp. 15-30; Fuhrt、2006、pp. 45-57)ハン・ウンソクとキム・スンリョルをはじ
めとする韓国の歴史家が、ドイツ・ポーランド、フランス・ドイツの歴史教科書の改
善作業に関する本と論文を出版した。彼らはまた、過去の負担から脱却するために、
ドイツが長年傾けてきた努力を強調した。彼らは、ジュール・アイザックが支持する
「二つの観点」の方法を採択することによって、偏った民族主義的な歴史意識を超え
られた方法に注目した。(Kim & Lee、 2008; Hahn et al.、 2008) 《歴史》も翻訳さ
れた。北東アジア歴史財団の設立を支援した盧武鉉前大統領は、アジアの諸国民が
「過去を直視し、歴史を理解するための共同の土台を作らなければならない」と強調
した。「ドイツは戦後、過去を徹底的に省察し、長い期間残っていた欧州歴史の古傷
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を解消し、欧州統合の心理的な土台作りをリードしました。ドイツはまた、フランス
及びポーランドとの共同歴史教科書の編纂に主導的に乗り出したことからも分かるよ
うに、すでに目に見える成果を出しています(2007)」2007年には、地域内の対立の
根本的な原因である偏った民族主義を、相互信頼と理解を育てる、開放された民族主
義へ転換する目的として、全国の学校教科課程に「東アジア歴史」という科目を導入
した。東アジア歴史教科課程を開発した北東アジア歴史財団は、《歴史》への言及も
忘れなかった。そのように《歴史》は、世界の至る所で、二ヶ国以上が共同で編纂す
る歴史教科書の模範になる役割を果たすことができる。
北東アジアでは、諸国が協力して教科書を改善しようとする試みが今まで幾度もあ
った。その中、西川正雄 がリードしてきた比較歴史教育協会の作業は、教科書を改善
しようとする最初の試みであった。この協会は、1990年代にアジアの比較歴史教育を
テーマとして、国際討論会を幾度も開催した。しかし、本格的な国際協力は2001年と
2002年に入りようやく実りを結びはじめた。日中韓3ヶ国の政府によって、日韓歴史委
員会と日中歴史委員会が創設された。しかし、政府が主導する事業は各国政府の公式
的な立場と世論に影響されるしかないため、これといった成果は得られなかった。
(Sin、 2008、 pp. 15-53)
これとは対照的に、市民社会(非政府組織と学者、教師
団体等)では、多くの役立つ補助資料を作成した。その中で注目に値する資料は、
《未来をひらく歴史―東アジア3国の近現代史》(日中韓共同歴史教科書委員会、
2005)というタイトルの北東アジア歴史共同参考書があげられる。同書は日中韓3ヶ国
が3年間協力した結果として誕生した。《未来をひらく歴史》は3ヶ国で2005年、同
時に出版されており、大衆から大きな関心を受けた。 4
国と国が協力して作る歴史教科書だとしても、批判がまったく無いわけではない。
外国教科書で日本に関して間違ったり否定的だったりする情報を修正する目的で活動
4
同書は英語に翻訳され、2009年秋、ハワイ大學で出版される予定だ。
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している、国際教育情報センター傘下の調査委員会の議長である別技篤彦はドイツ・
ポーランドの歴史教科書事業を友好的に評価していない。「最近欧州諸国は歴史を否
定的な方法で記録する文章を教科書から削除するために一種の妥協点を探そうとして
いる。……
例えば、ドイツはポーランドと両国共同教科書の編纂作業を通じて、ポ
ーランドの国民の間で反ドイツ感情が悪化し得るドイツ・ロシアの不可侵条約に関す
る内容を、歴史教科書には含めないという勧告案に意見の一致を見た。……
これは
対外的に、東アジア国家の間で「日本の侵略」という論争の余地がある、表現問題に
ついて多くの意味を示唆している。(Atshitto、 1983、 p. 177; Sin、 2008、 pp.
24-25) 中曽根元日本首相にもヨーロッパの歴史教科書の改善作業について、これと類
似した意見があると見られる。日本で最も影響力のある大きな保守派政治家の一人で
ある中曽根は、2008年4月、日本と中国は歴史的な差異を克服するために、ドイツとフ
ランスに比較できる程努力し、アジアの繁栄と安定を振興の為、広範囲の関係定立に
乗り出さなければならないと提案した。彼の提案は未来と和解を目指す口調であった
が、今までドイツによる過去の贖罪努力や、ナチスの犠牲者に許しを求めた行為から
見られるような、永久に肯定的な効果に注意を注ぐことはできなかった。(Hovat、
2008) 西川正雄の弟子である近藤孝弘は、ヨーロッパの共同歴史教科書プロジェクト
をそのように解釈するのは、南京大虐殺や戦時強制徴用、朝鮮半島の植民地支配など
の未解決問題に取り組む努力を避ける意図が含まれている、歪曲された盗用と同じだ
としている(Kondo、 2000、 pp. 322-331)。
VI. 結論
《歴史》はフランスの歴史(Histoire)とドイツの歴史(Geschichte)が、互いに過去
に敵と見なした両国の著者が共同で執筆し同一の内容で構成された稀な本である。
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《歴史》は1951年と1988年の勧告案に提示した基本思想と方法を遵守して発展させる。
この本の第3巻は2008年末頃に両国で約8万部が売れた。《歴史3》の冒頭で言及した
ように、ライン河の両岸の学生は、同書を通じて相互理解を深め、より開放的且つ包
容的な欧州の観点を発展させるようになる。歴史を学ぶことにより国家間の反目と葛
藤が解消される。歴史教育はまた、民族葛藤の歴史を欧州共同の歴史意識と、一層一
致させることができる。
時に《歴史》は、フランスとドイツ中心に記述されたにも関わらず、欧州の歴史教
科書だと主張する点において批判される。しかし、同書はフランスとドイツの学生の
為に作られた教科書であるため、このような批判は避けられない。近いうちに、もう
一つの共同歴史教科書が世の中に公開される予定だが、ドイツとポーランドが作った
教科書がそれである。欧州国家間の共同歴史教科書であれ、歴史教科書を改善するた
めの協議であれ、歴史教科書をめぐる多様な類型の協力は、欧州の歴史意識の増進に
役に立つだろう。この目標のために、《歴史》は両国間の歴史教科書を改善する事業
の模範になるだろう。
《歴史》は欧州だけではなく、北東アジアでも注目されてきた。周知のように、北
東アジアは未だアジア諸国が民族的なアイデンティティと意識を認識するようになっ
た19世紀末と20世紀頭に形成された民族主義の影響下に置かれている。1982年以来、
日本と韓国の学者で構成された小集団が、民族間の葛藤以降に歴史教育が担う役割に
関心を持つようになった。北東アジアで民族主義が発達しはじめたのは、僅か1世紀も
経っていなかった。従って、学者は民族主義を克服する方法に関して適用可能な教訓
を欧州から探そうとした。彼らが研究を通じて解った事実は2000年に入り、出版され
はじめた。(日中韓共同歴史教科書委員会、2005;日韓共同歴史教科書グループ、
2005;韓国歴史教師協会と日本歴史教育協議会、2006;韓国歴史教科書研究会と日本
歴史教育研究会、2007)喩え彼らの研究結果が、補助資料の形態に結ばれて出版され
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たが、彼らの作業は北東アジア諸国の国史教科書に影響を与えるだろう。北東アジア
の歴史教科書に関する協議は現在、初期段階に止まっている。つまり、これと関連し
た国々は、相互の歴史解釈と観点に関しまだ学習の過程にあるといえよう。《歴史》
は、北東アジアの共同歴史教科書プロジェクトに希望を与える灯台の役割を果たすだ
ろう。
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