第 17 回 足もとに眠る歴史展 回せ! −回転運動から考古資料を考える− 2009.3 東海大学校地内遺跡調査団 東海大学分文学部展示活動委員会 −本書の製作にあたって− ・本書は第 17 回足もとに眠る歴史展「回せ!−回転運動から考古資料を考える−」 (平成 21 年3月 24 日〜4月 17 日)の 展示解説書である。 ・展示会開催にあたり、下記の方々には多大なご協力をいただいた。記して感謝する次第である(敬称略)。 明石 新(平塚市博物館)、大倉 潤(秦野市教育委員会)、菅原良彦(新潟県山北町森林組合)、 田尾誠敏(東海大学)、立花 実(伊勢原市教育委員会)、 平塚市博物館古代生活実験室「火おこし班」の皆さん、 東海大学考古学研究室、文学部展示活動委員会 ・二宮町無量山西光寺住職 秋山光洋氏からは、石臼の使用方法・用途などについてご教示いただいた上、本展示会に むけその実物をお借りした。また、陶芸家 和田教義氏には、電動ロクロによる製陶法をご教示いただき、実際にこ れを使用させていただいた。記して感謝する次第である。 ・書中、王子ノ台遺跡(東海大学)の資料を用いた記述があるが、これらには分析途上の資料が含まれることから、本報 告では修正・変更される場合もある。 ・本書の執筆・編集は、東海大学校地内遺跡調査団 −目 次− はじめに 1.回転運動と回転方向 ・・・・・・・・・・・・・・ 2.直接的資料と間接的資料の統合 ・・・・ 3.回転していた道具 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 火鑽具 (ひ きりぐ ) 火鑽具( 4.火鑽具の種類 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.出土木製品にみる火鑽具 ・・・・・・・・・・・ 6.古代発火法の推定 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 錐:ドリル 7.揉錐器・石錐 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8.土器への穿孔−補修孔− ・・・・・・・・・・ 9.石への穿孔 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10.管玉にみる究極の穿孔法 ・・・・・・・・・・ 紡錘車 (ぼ うすい しゃ) 紡錘車( 11.紡錘車の種類 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12.糸の素材と撚りの方向 ・・・・・・・・・・・・ 13.紡錘車の回転 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ロクロ (轆 轤) ロクロ( 14.須恵器の製作技術とロクロ ・・・・・・・・ 15.考古資料にみるロクロ ・・・・・・・・・・・・ 16.ロクロの回転 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17.糸切底にみるロクロの回転方向 ・・・・ 石 臼 18.臼と杵 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 19.石臼の構造 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20.臼の目と回転方向 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 21.壊された石臼 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ おわりに 参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 1 1 2 3 3 4 4 5 5 6 7 8 9 9 10 10 11 11 12 12 13 宮原俊一による。 はじめに 現代人を象徴する身の周りの道具や装置、機械に は、人力や火力、電力といった動力の違いこそあれ、 あらゆるかたちで回転運動が応用されている。今や、 回転が生み出す力や効果は、私たちの生活には欠か すことができないものとなっている。 しかし、はるか昔から人間はこの回転が生み出す 力やその効果を、意識的あるいは無意識的に利用し てきた。動力は人力であっても、回転が生み出す力を 累積的な経験と知識によって、あらゆる道具に応用 し、作業効率を高め、生活をより豊かなものにしてき たのである。 こうした観点から、今回の展示会では、かつて回転 することによって機能していた道具(もはや遺物と 呼ばれる考古資料)に焦点をあて、古代の技術の一端 にふれてみたいと思う。 そして、回転する方向についても定めておこう。時 計の針が時を刻みながら進む方向は右回転(右回り) で、その逆は左回転(左回り)としておく。後に、こ の回転方向が問題となる場合があるため、左右の方 向についてはこのように定めておく。 2.直接的資料と間接的資料の統合 「かつて回転していた」考古資料は少ない。少ない 上に、東海大学が所蔵する考古資料の中に、直接回っ ていた資料はわずかなものに限られてしまう。 しかし、考古資料には実際に残っている直接的な 資料の他に、痕跡として残る間接的な「証拠」もある。 そしてこの間接的な資料から、多くの情報を読み取 ることができるのである。 例えば、先に触れたロクロなどは完全な形で出土 した例はない。ただし、ロクロによってつくられた須 1.回転運動と回転方向 恵器あるいは土師器などには、ロクロ製作に固有の 物理学でいう「回転運動」の定義は難しい。数式や 特徴が何らかの痕跡として残されている場合が多い。 公式によってもこの運動を説明することができるが、 出土遺物として直接的な資料に乏しくとも、間接 ここでは単に、中心の定まった物体が回転する運動、 的な資料から得られる情報を統合することによって、 視覚的に「回っている」現象を回転運動としておく。 すでに失われた道具やその使用方法を推測すること また、回転運動が生み出すエネルギーは、 「はずみ」や も不可能ではないのである。 「いきおい」といった惰性、回転体の中心部からより 外側へと力の方向が拡散する遠心力など、あらゆる 3.回転していた道具 エネルギーに変容し、これを応用することで回転運 今回の展示会では、はじめに、回転摩擦によって生 動の生み出す効果も多岐にわたる。 じる熱から火をおこす道具「火鑽具」についてみてい 一言で回転運動といっても、いつまでも同じ方向 く。次に、同じ回転摩擦でも局所的な破壊に応用され に回る回転もあれば、断続的に回る場合もある。ま た穿孔道具「錐:ドリル」について、そして、持続的 た、左右の回転方向を反復的に変えるのも回転の一 な回転運動によってその中心部に生じたねじる力を 種である。ここでは、便宜的に二通りの運動に分けて 利用した糸つくりを「紡錘車」から考え、さらに、回 考えていくこととする。 転が生み出す惰性の力を利用し、粘土から形を作り まず、ひとつの工程が終了するまで、ある一定方向 上げるための道具「ロクロ」について考えてみる。最 のみに回転する運動を連続回転運動(または定向回 後に、回転摩擦を利用して対象物を、すり潰したり粉 転)とし、ひとつの工程が終了するまで、左右反復し 砕する道具「石臼」について考えてみる。 ・ て回転方向が変わる回転を連続的回転運動(または いずれも回転運動の力なくしては機能しない道具 反復回転)とする。 であり、これを使用した人間は、回転が生み出す力や 例えば、陶芸教室で使用される製陶用の電動ロク 効果をおおいに活用していたことがわかる資料でも ロは、粘土塊から器の形を引き出すまでは、一定の方 ある。 向に回転していることから連続回転運動と言える。 また、電動式のドリルも連続回転運動によって穴を 火鑽具 (ひきりぐ) 火鑽具( あけるが、同じ穴をあける道具である錐は、両手の掌 回せ!→ 摩擦熱 → 発 火 で錐の棒軸をはさみ、掌を交互に前後することで錐 はじめに発火具として知られる火鑽具から見てい ・ 先を反復させて穴をあける。これが連続的回転運動 こう。発火方法については古来より、摩擦や打撃に である。 よって生じる熱や火花から火種を得る方法が知られ 1 ているが、火打石と火打金を使う打撃式以前は、摩擦 式発火法による方法が主流であったと考えられてい る〔鳥居 1925 など〕。 摩擦法とは、木と木をこすり合わせて生じる摩擦 熱によって火種を獲得する方法であり、効率よく摩 擦熱を得るために回転運動が応用された。まっすぐ な丸棒を板に押し当て棒を急速に回転させる方法、 すなわち火鑽である。回転する棒を使用した発火具 の総称を火鑽具と呼ぶ場合もある。 考古学ではこのまっすぐな棒を火鑽杵(ひきりぎ ね)と呼び、これを押し付ける受け板を火鑽臼(ひき りうす)または火鑽板と呼ぶ。火鑽臼は板材の側縁に V字の溝が彫られ、杵の先端を受けるためのくぼみ があらかじめ溝近くに設けられている(このくぼみ を臼と言う場合もある) 。杵と臼の摩擦よって生じた 熱を帯びた木屑が、火鑽臼の溝にたまり徐々に熱を 蓄積していき、やがて溝中に火種が生じるのである。 る[図1] 。ただ杵を回転させるのではなく、火鑽臼 に杵を押し付けるようにして摩擦熱を発生させる。 回転をともなう火鑽具の中ではもっとも簡易な道具 立てとなる。 弓鑽法は弓状に反った棒(火鑽弓)の両端に紐を結 びつけこれを弦とし、らせん状に紐を火鑽杵に巻き つけ、弓を前後させることで杵を回転させる方法で ある[図2] 。火鑽杵を火鑽臼に押し付ける必要が生 じることから、杵の上端部をくぼみのある木片や石 などのあて具(ハンドピース)で押さえつけなければ ならない。紐鑽(ひもきり)法は弓を使用せず、火鑽 杵に紐を巻きつけ、紐の両端を交互に前後させて杵 図2 弓鑽法 ハンドピース 火鑽杵 4.火鑽具の種類 度重なる発火実験を通して古代の火おこしの復原 を行なった岩城正夫氏にしたがい、各種の火鑽具を 概観してみよう〔岩城 1977〕 。 まず、火鑽杵に回転運動を与える方法には揉鑽(も みきり) 、紐鑽(ひもきり)、弓鑽(ゆみきり)、舞鑽 (まいきり)などの手法が考えられている。いずれの 方法でも、火鑽杵の動きは反復回転、すなわち連続的 回転運動である。 揉鑽法は両の掌で丸棒状の火鑽杵を手挟み、掌を こすりあわせるように前後させ火鑽杵に回転を与え 図1 火鑽弓 図3 舞鑽法 揉鑽法 火鑽杵 火鑽杵 火鑽弓 (火鑽臼) 火鑽臼(火鑽板) はずみ車 2 を回す方法であるが、弓鑽法と同じく杵を上端から 押さえつける必要がある。 舞鑽法は火鑽の中では最も発展的かつ効率的な方 法と考えられている。横木の中心に穴をあけ、これに 火鑽杵を通す[図3] 。横木の両端には適度な長さの 紐を取り付け、紐の中央部は杵の上端に固定する。さ らに、火鑽杵の下方にはずみ車を装着し、紐がらせん 状に杵に巻きつくように横木を上下させれば、回転 するはずみ車の勢いによって火鑽杵を反復回転させ ることができる。この横木についても火鑽弓と呼ぶ が、弓鑽法の弓とはまったく別種のものであり、その 機能も大きく異なる。 静岡県登呂遺跡から火鑽弓と考えられる木製品 (スギ)と火鑽臼(タブノキとスギ)が出土しており [図4] 、 これをもって弥生時代には舞鑽法が行なわれ ていたと考えられている〔大場 1947〕 。 弓鑽法は弓または紐の前後運動を杵の回転運動に 変換させることで、揉鑽法よりも効率よく杵を回す ことができる。舞鑽法は横木の上下運動に連動した 杵が、はずみ車の惰性と反復運動によって回転する ため、弓鑽法よりも容易に回転運動を生み出すこと ができる。さらに、舞鑽は駆動力となる弓の上下運動 と同じ方向に力が働くことから、作用点がずれにく いという利点もある〔福山 1997〕 。 の出土が確認されており、古墳時代にはその出土例 が増加する傾向にある。さらに、中世と近世の出土例 までもが確認されていることから、打撃法導入以降 も摩擦式発火法が行なわれていたことがわかる〔高 嶋 1989〕 。 また、使用された樹種については、火鑽杵・臼とも にスギが多く、全般的に針葉樹が目立つ〔布谷1988〕 。 ただし、これらの火鑽具がどのような方法で使用 されたかについて判断することは難しい。それは、火 鑽具がセットになって出土する例が非常に稀だから である。杵と臼の組み合わせは、忍路土場遺跡をはじ め、富山県江上A遺跡(弥生時代後期) 、大阪府利倉 遺跡(古墳時代前期) 、新潟県延命寺遺跡(飛鳥時代) などの遺跡で確認されてはいるものの、これに火鑽 弓やはずみ車をともなう例は皆無である。 6.古代発火法の推定 岩城氏は自身の実験成果と、全国から出土した火 鑽杵の太さや樹種などを検討し、これらが揉鑽式に 用いられたものであるとした。 揉鑽式発火法で重要な点は道具の寸法であり、実 験結果では、火鑽杵の直径は 9 〜 10 ㎜、火鑽臼の厚 さは7〜 13 ㎜が最適で、出土資料した資料もこの数 値に近いものが多い。さらに、火鑽臼に残る焼けたく ぼみの内径からも、杵の太さを推定できることから、 これらの臼についても揉鑽式用のものとし、古代の 5.出土木製品にみる火鑽具 出土木製品の中には、丸棒の先端部や板材のくぼ 発火法が揉鑽式で行なわれていたことを指摘したの みに焼けこげた痕跡を認めることで、火鑽に用いら である〔岩城・関根 1983〕 。 れた道具を抽出することができる。 また、高嶋氏も忍路土場遺跡出土の火鑽臼につい おしょろどば 北海道忍路土場遺跡から出土した火鑽杵と火鑽臼 て、使用時の臼の傾きと発火作業時の姿勢を考慮し はいずれも縄文時代後期のものであり、これまで確 た実験結果から、これが揉鑽式に使用された可能性 認されている火鑽具としては最古のものとなろう。 が高いと指摘している〔高嶋 1985〕 。 これを報告した高嶋幸男氏の集成では、弥生時代中 両氏の見解は、時代を問わず全国で出土した火鑽 期以降、本州と九州の各遺跡で火鑽杵または火鑽臼 臼と火鑽杵の全てが、揉鑽法に用いられたとするも 図4 登呂遺跡出土木製品 火鑽弓 火鑽臼 3 ので、その根拠として、出土した火鑽杵には、弓鑽法 で上端を押さえつけた時に生じるリング状の摩擦痕 や、杵の軸部に紐との摩擦による光沢痕といった痕 跡が認められない点や、火鑽杵と火鑽臼が共伴する 場合でも、杵が細すぎて弓鑽や舞鑽には向かないこ とをあげている。 また、登呂遺跡出土の火鑽弓であっても、同時に火 鑽杵やはずみ車が発見されていない事実に加え、穿 孔(穴あけ)用の錐としても使用することができると いう指摘もあり〔堅田 1968、木下 1969〕 、即、発火用 の道具と判断することに慎重にならざるを得ないの である。 発火効率の点からすれば、弓鑽法や舞鑽法がすぐ れた発火法であることに間違いないが、身近でかつ 簡易な材料・道具でも、十分に火をおこすことができ るという揉鑽法の利点も大きい。 いずれにしても、発火法を特定する出土木製品や 出土状況が少なすぎるのであるが、そもそも、出土例 が少ないということ自体を問題にしなければならな い〔後藤 1954〕。それは、いつの時代であっても火は 人間の生活に欠かすことができないものであり、火 を絶やすことなく守りつづけ、その取り扱いには十 分注意を払っていたであろうことは容易に想像でき る。こうした見方から、火にまつわる古代の習慣や慣 例が、決して多いとはいえない火鑽具の出土状況と も密接に関わっているものと考えられるのである。 図5 手抉法 7.揉錐器・石錐 (もみきりき・いしきり) 手抉法は道具をもつ手・腕の力がそのまま道具に 伝わり、直接作用していたことになる。 剥片の一部を打ち欠き、鋭く尖らせてこれを錐先 とした揉錐器または単に錐と呼ばれる打製石器が旧 石器時代から確認されている。縄文時代以降、同様の 石器を石錐(せきすい・いしきり)と呼ぶ場合もある が、やはりこれも穿孔用に使用された石器と考えら れている[図6] 。穿孔する対象はあらゆるものが想 定できるが、縄文時代については出土遺物から、土器 や土製品、石製品、木製品、骨角製品、貝製品などが あげられる。 これらの穿孔具は、連続的回転運動をともない、よ り扱いやすくするために柄(握り)を装着して使用し た可能性もある。また、適度な長さをもつ丸棒の先端 に錐先となる石器を装着すれば、穿孔作業の効率を より高めることができる。丸棒が回転することで、錐 先と接触する部分は削り取られ、または抉り出され て穿孔が進行していく。発火具でみた回転摩擦とは、 熱が生じるだけでなく、局所的な破壊をもともなっ ているため、揉錐、弓錐、舞錐といった具合に発火具 と同じ道具立てで穿孔具を説明することもある。 錐:ドリル 回せ!→ 摩 擦破壊 → 穿 孔 穴(孔)をあける道具−穿孔具−にも、回転運動が 利用されている。もっとも簡単な方法が片手に持っ た先端鋭利な道具を、手首を回したり指先で回転さ せたりして穴をあける方法である。これは手抉(たく じり)法と呼ばれる穿孔方法のひとつである[図5] 〔寺村 1998〕 。 人間は手の親指を他の指と向かい合わせ、密着さ せることができる。さらに、前腕の尺骨とこれに連動 する橈骨を回転させることができるため、手首をよ じったり、ねじったりすることが可能となる。このよ うな骨格上の条件が整ってはじめて指先で物を持っ てねじったり、手首を回したりすることができるの である。こうしたことから、人間はかなり古い時代か ら回転を応用した穿孔を行なってきたと考えられて いる。 4 図6 石錐(王子ノ台遺跡:縄文時代) 8.土器への穿孔−補修孔− 時折、土器の表面には補修孔と呼ばれる小さな穴 をみつけることができる[写真1] 。土器が破損した 場合に割れ目(ひび)をまたぐように一対あるいは数 対の小さな穴をあけ、紐を通してとじつけて修繕し、 再利用を可能にする工夫であるとされている。石錐 または骨角器などを押し当てて回転させ、穿孔した ものと考えられている。 小林行雄氏が「穿孔接合」と分類したこの方法は、 古くは縄文時代草創期の土器に確認されており、福 写真1 土器の補修孔 (王子ノ台遺跡:縄文時代後期深鉢) 写真2 穿孔をもつ縄文時代の玉 (王子ノ台遺跡:縄文時代) 井県鳥浜貝塚では、前期の土器の補修孔に、紐が付着 した状態で出土している〔鳥浜貝塚研究グループ 1983〕 。 この穿孔をともなう結合方法は縄文時代に限らず、 弥生時代以降も土器をはじめとする容器を修繕する 方法として行なわれ、土器以外にも破損した石製品 (縄文時代の抉状耳飾)や銅製品(古墳時代の銅鏡)な どを修繕する方法として用いられた〔小林 1964〕 。 9.石への穿孔 石製の玉をはじめとする垂飾や石製品には、小さ な孔があけられている。滑石のように比較的軟質な ものから翡翠(硬玉)のように非常に硬い材質にいた るまで、さまざまな石に穿孔を認めることができる。 日本ではすでに旧石器時代に孔をもつ玉の出土が 確認されており、縄文時代になるとさまざまな種類 の玉がつくられるようになる〔寺村 1998〕 。 早期末から前期にかけて、滑石製の抉状耳飾りが さかんにつくられるようになり、前期後半から中期 になると翡翠大珠と呼ばれる穿孔をもつかつおぶし 形の玉が現れる。穿孔をもつ勾玉や丸玉、管玉など、 玉の種類も増え、石材も多岐にわたって使用される ようになるが、後期以降になると小さい玉が目立つ ようになる[写真2] 。また、玉のほかに、環状石斧 や有孔石斧といった弥生時代にも引き続いて現れる 石製品がすでに認められている。 弥生時代には勾玉や管玉など各種の玉に加え、石 包丁や石製紡錘車、有孔石剣など孔をもつ種々の石 製品が現れる。その穿孔技術は非常に卓越したもの であり、古墳時代へと受け継がれていく。 これら、石への穿孔については孔の内壁に認めら れる回転痕[写真3]の観察から、錐先を回転させる 5 写真3 玉の小孔内壁にみられる回転痕 (王子ノ台遺跡:縄文時代) 方法が大いに活用されていたことがわかる。さらに、 翡翠や琥珀といった硬い石材には、細かい石英粒な どの研磨剤の使用が考えられる。錐の先端は木質の ものであっても、この研磨材を使用することで硬質 な石にも穴をあけることができるのである。 10.管玉にみる究極の穿孔法 弥生時代から古墳時代の管玉には、わずか数ミリ ほどの径となる小孔が、2㎝以上にわたってあけら れていることもあり、まさに究極の穿孔技術をここ に見ることができる。 古代玉作の研究で知られる寺村光晴氏によれば、 弥生時代から古墳時代の管玉・勾玉は、原石採取→荒 割→形割→調整→研磨→穿孔→仕上げといった一連 の工程を経てつくられる〔寺村 1966〕 。 玉の未製品などの観察から、古代の玉作りが仕上 げ直前の段階で穿孔が行なわれていたことが明らか にされたのである。手間のかかる研磨が終わった後 紡錘車 (ぼうすいしゃ) 紡錘車( 撚糸・製糸 古代の布や衣服が考古資料として現在まで残るこ とは非常にまれである。しかし、わずかに発見された 織り物(布)の断片またはこれを製作した織機の部 品、さらには土器などに残された布や糸の圧痕など から布の構造や素材について詳細な分析がおこなわ れている。 布を織るには糸が必要であり、十分な長さの糸を 効率よくつくる道具として使用されたのが紡錘車で ある。紡錘車は定向回転を維持するはずみ車の役割 をはたす紡輪(ぼうりん)の中心に、紡軸(ぼうじく: 紡茎ともいう)と呼ばれる心棒が一本通る[図9]。 紡輪を回転させることで紡軸も回転し、紡軸先端 にある鉤によって繊維素材に撚りが伝えられる。紡 錘車によって撚られた素材は、適度な強さと均等な 太さをもつ糸に生まれ変わるのである。 回せ! 図7 仕上げ直前の管玉にみる穿孔 (神奈川県海老名本郷遺跡:古墳時代 寺村 1990 より転載) → 撚りをかける・ねじる → 11.紡錘車の種類 図8 各種の錐(寺村 1998 より転載) に、難易度の高い穿孔を行なうのである[図7]。 管玉の穿孔は錐を回転させて行なう。錐には棒錐 (尖錐) 、平錐、管錐(くだきり)など先端形状による 種別があるが[図8] 、全ての錐は穿孔の進行にとも なって削りかす「錐糞(きりくそ)」が出る。この錐 糞を効率よく排出することができるのが管錐である。 管錐は錐先がパイプ状に中空となっているため、 効率よくパイプ内に錐糞を排出しながら穿孔作業を 進めることができる。管錐の材質については何らか の金属が考えられるが、硬質な金属では玉を破壊し たり研磨剤をはじいてしまう。このことから、研磨剤 が付着しやすい軟質な金属製パイプの使用が想定さ れている〔寺村 1980〕 。 また、管錐に回転を与える方法として、弓錐法や舞 錐法の使用も考慮できるが、錐の先端がわずかにブ レてしまい、小さい孔の穿孔には適さないとされて いる。寺村氏は、工房址で発見される特殊なピットの 存在から、正確な中心軸と連続回転運動を維持でき る円盤、またはロクロを利用した一種の工作機械が 使用されていたものと想定している。 紡錘車の形態や材質につい ては種々のものがあり、形態 は銭型、截頭円錐型、扁珠型、 半截扁球型などに分けられる。 縄文時代には土製の有孔円板 や土器片を円形に加工し、中 央部に孔をあけた土器片製有 孔円板などが出土しているこ とから、これを紡錘車と考え る研究者もいる〔長崎 1978 ほ か〕 。 弥生時代以降は、土製の紡 錘車に加え、石製・木製・骨角 製の紡錘車も使用された〔佐 原 1964 など〕。古墳時代中期以 降、截頭円錐形の滑石製紡錘 車の出土が目立つようになり、 線刻によって文様がほどこさ れたものもある[写真4] 。そ して、奈良時代以降、鉄製の紡 錘車が使用されるようになる [図9] 。 紡錘車は紡織技術にかかわ る道具の中でも考古資料とし て比較的同定しやすく、その 研究報告も多い。早くからこ 6 紡 輪 紡 軸 図9 鉄製紡錘車 (王子ノ台遺跡) 紡錘車でつくられる糸には左右の二種の撚りが考 えられ、これは紡輪の回転方向によって違ってくる。 糸を垂直にみて、繊維の方向が左上から右下に傾い てみえるものが右撚り(S撚り)で、これは紡輪を上 からみた場合、左回転で撚られる糸である[図 10A] 。 これとは反対に、繊維の方向が右上から左下へと流 れるものを左撚り(Z撚り)という。紡輪が右回転で 回ってできる糸である[図 10B] 。 一本の繊維からつくる糸を単糸といい、左右どち 写真4 滑石製紡錘車 (弥杉・上ノ台遺跡出土) らかに撚った糸を片撚糸(かたよりいと)という。ま た、二本以上の片撚糸をそろえて反対方向に撚った の紡錘車に注目していた八幡一郎氏による一連の研 ものを諸撚糸(もろよりいと)と呼ぶ。合わせる本数 究をはじめ、用途や機能について多角的に研究が進 により、双子糸(ふたごいと) 、三子糸(みこいと)な められてきた。近年では鉄製紡錘車の東日本への波 どというが、諸撚糸の場合、はじめに糸に与える撚り 及・導入の様相から、当時の社会背景に迫る研究や を下撚り、これを2本以上そろえて撚りをかけるこ 〔古庄 1992〕、大量出土の石製紡錘車の検討から、布 とを上撚りと呼ぶ。下撚りと上撚りは撚る方向が逆 生産の実態に迫ろうとする試みもある〔中沢 1996〕 。 になることで安定した糸ができあがる[図 10C・D] 。 布目順郎氏がこれまでに分析した古代の布に使用 12.糸の素材と撚りの方向 されている糸の撚り方向をみると、弥生時代から古 糸の素材となる繊維は大きく三種類に分けられる。 墳時代の布(絹・麻)には右撚りの糸が多く使用され 絹糸は蚕の繭から長い糸を引き出すことができるた ている〔布目 1988〕 。また、これまで報告されている め長繊維と呼ばれる。木綿(綿花)や羊毛などの短い 弥生・古墳時代の織布など、圧痕もふくめた資料を一 繊維は短繊維、そして麻や樹皮といったある程度の 瞥すると、右撚りの糸をもちいてつくられた布が多 長さをもつ植物繊維を準長繊維という。これら繊維 いように思われる。 素材がもつ性質によって、使用する紡錘車の形態や 上からみた紡輪の回転方向 糸のつくり方も異なるとされている。日本では木綿 の栽培が中世後半以降にはじまることから〔永原 2004〕、これ以前の糸はそのほとんどが絹糸か麻糸 圧痕となってあらわ れる撚りの方向 (または植物繊維)ということになる。 長繊維である絹糸は蚕の繭から得る。蚕が繭をつ くる時に吐き出す膠着物質(セリシン)によって糸は 片撚糸にでき る繊維の方向 緊密に密着している。しかし、熱湯に繭を長時間ひた すことでこの膠着物質は分解していき、密着してい A B B A た繭糸ははがれやすくなり、指先で解くことができ 左撚りの糸 右撚りの糸 る。数本の繭糸を合わせて引き出し太い糸にした後、 これが乾燥すれば再び軽く膠着するため、引き出し た糸には撚りをかけなくても(無撚のまま)糸として 使用することができる。絹糸がもつ性質とこれに見 安定した諸撚 糸にできる撚 合った製糸工程がその背景にあることから、古代の りの方向 絹糸には無撚または弱撚が多いと考えられているの D C である〔布目 1988〕 。 D C 一方、麻をはじめとする植物繊維は、繊維同士をつ なぎ合わせ、撚りをかけなければ糸としてその長さ や強度を得ることができない。そこで紡錘車が使用 されたのである。 図10 紡錘車の回転方向と糸の撚方向 7 13.紡錘車の回転 の補助具を使用した例をみることができる。この方 法でもやはり紡輪は左回転となる。 国外では膝または腰で回す方法も知られており、 紡輪より下の紡軸を膝または腰にあてがい、右掌で はさみ前方(腰の場合は下方)へこすりつけるように 紡錘車を回す。補助具を使用した場合と同じく、やは り紡輪は左回転で回り、右撚りの糸ができる。 以上のように、右利きの人間がより自然に紡錘車 を回す行為では、紡輪は左回転となり、右撚りの糸が 出来上がることになる。この逆の動作を行なった場 合、もしくは利き手が左の場合にはもちろん逆の撚 り、すなわち左撚りが自然にできあがることとなる。 太田氏も指摘するとおり、撚りの方向とはその民 族がかつて指先によって紡錘車を回す「原始撚法」で つくられる糸の撚り方向を継承しつづけるのが常で あろう。こうした根強い伝統が途切れるのは、糸車な ど紡錘車とは仕組みの異なる製糸道具が登場して以 降のことと考えられる。 では、なぜ古代の布に使用された糸は右撚りのも のが優勢となるのか少し考えてみたい。 これには紡錘車の回し方が大いに関係しているも のと考えられる。紡錘車を用いて撚りをかける方法 は、指先で紡軸を回したり、紡錘車を膝の上で転がし たり、または紡軸を両手ではさみ手をすり合わせて 回す方法や補助具を使用して回す方法など種々知ら れている〔藤村 1985〕 。 製糸する人間を右利きとした場合、紡輪の下に突 出する棒軸を親指と人差しでつまみ、これをひねっ て紡錘車を回す[図 11] 。紡輪は左回転で回り、糸は 右撚りとなる。 紡軸の上端を指 で回すことも可 能だが、鉤にか けた繊維が回転 作業の障害とな るため、紡軸下 端を操作する方 図11 紡錘車を使用した が容易となる。 「原始撚法」 太田英蔵氏はこ れを「原始撚法」 と呼び、麻をは じめとする準長 繊維全般に認め られる特徴であ るとしている 〔太田 1966〕 。 補助具で回す ツムジダイ 方法も知られて いる。 ツムジダイと テシロギ 呼ばれる糸撚台 の上に紡輪下の 棒軸を置き、軸 を別の板(テシ ロギ)で挟みな がら前方へ押し 出すのである [図 1 2 ]〔大倉 2002〕 。 『信貴山縁起尼 君巻』や『越能山 図12 補助具を利用した回転法 都登』などにこ (『越能山都登』より) ロクロ (轆轤) ロクロ( 製 陶 ロクロは土器や陶磁器の成形、調整、施文などに用 いられる陶車の一種である。現在、ロクロといえば陶 芸教室でみかける電動式のものを想像するが、古代、 ロクロの定義は広かったようである。 小林行雄氏は『倭名類聚抄』や『延喜式』などの記 述から、ロクロが木工用、金工用に用いられた道具で あったことを指摘し、ほぼ水平に据えられた回転軸 をもつロクロを「横軸轆轤」とした。そして、縦の軸 をもち水平方向に回転する製陶用のロクロを「竪軸 轆轤」として二分した〔小林 1962〕 。両者とも、回転 を利用して対象物に形を与えるという機能では一致 している。 ロクロは須恵器の製作技術とともに日本へもたら されたと考えられており、その初現期については4 世紀末とする報告もある〔浜中・田中 2007〕 。 かつて、近畿地方を中心に中部地方にまで広がり をみせる弥生時代中期の櫛描文土器の施文が、轆轤 によるものとする考えがあったが、後に回転台を利 用したものとされ〔佐原 1959〕 、須恵器生産などに用 いられたロクロとは区別されている。 しかし、弥生時代の土器製作に使用された回転台 についてはその実態が明らかではなく、ロクロとの 機能的境界が不明瞭であり、かつ技術的側面におい 回せ!→ 8 粘土成形・整形・施文 → ては使用する民族・個人によってもロクロそのもの の使用方法が大きく異なっている〔佐原 1972 訳〕。 そこで、本書では惰性による連続回転運動をある 程度維持しながら、可塑性をもった粘土を成形・調整 することができる道具を古代のロクロとし、おもに 古墳時代後半から奈良・平安時代に使用されたロク ロを対象に話を進めていきたい。 14.須恵器の製作技術とロクロ 古代のロクロが完全な形として出土した例はない が、須恵器をはじめとするロクロ製品には、水びきの 跡や回転ヘラケズリ、ロクロから製品を切り離す際 の跡など、ロクロ使用にともなう特有の痕跡を認め ることができる。 横山浩一氏は古墳時代の須恵器製作を体系的に述 べる中で、ロクロは須恵器の成形(形づくり)だけで はなく、仕上げや施文にも使用されていることを指 摘している〔横山 1959〕 。さらに、坏のような小形製 品については、はじめからロクロを使用して成形し、 甕や壺といった大形のものや、ロクロでは作りにく い器形については、粘土紐を巻き上げてつくる「巻上 げ法」によって成形し、叩きしめたのちに仕上げをロ クロで行なうとしている。 これは、楢崎彰一氏が奈良・平安時代の須恵器につ いて、当初からロクロによって成形された小形のも のと、大形品を製作する際に粘土紐を「まきあげ」て 叩きしめる二通りの成形法があるとする考え方とほ ぼ同じである〔楢崎 1961〕 。 しかし、田中琢氏は奈良時代以前の須恵器につい ては、そのすべてがはじめに粘土紐を巻き上げて成 形したもであるとし、ロクロによる須恵器製作を段 階的に説明している〔田中 1964〕 。すなわち、第一段 階に任意の太さの粘土紐を巻き上げておおよその器 形をつくり、第二段階でその大きさに応じ、小形のも のはロクロによって細部を成形し、大形のものは叩 きしめたのち、仕上げ調整を行なうとした。 その根拠として、奈良時代以前の須恵器の底部外 面に粘土紐の継ぎ目が凹凸に渦巻状またはらせん状 に残されていることや、外面を丁寧にヘラで削る古 墳時代の坏であっても、粘土紐の継ぎ目で亀裂が入 るものがあることなどをあげている。田辺昭三氏も この考え方に近く、成形のはじめからロクロを利用 するのは、瓶に糸切痕が出現して以降のことである とした〔田辺 1966〕 。 こうした二通りの解釈に、阿部義平氏はらせん状 の痕跡が成形過程において製品をロクロから切り離 9 す「ヘラ切り」の痕跡であることを復原実験により検 討し、須恵器の成形法には巻き上げとロクロによる 水びきの両者があるとする横山・楢崎両氏の見解を 補強する結果となった〔阿部 1971〕 。 しかしこれについても、 「ヘラ切り」はロクロによ る水びき成形固有のものではないとする批判的な意 見もあり〔田辺 1984〕 、一次成形の段階でロクロを使 用して粘土塊から器体を引き出したか否かの問題に ついては、いまだに統一した見解がないように思わ れる。須恵器製作に関わる研究史を瞥見しただけで も、ロクロ技術を考える際に一次成形の手法、ロクロ から成形品を分離する底部切り離しの手法、最終工 程でもある調整手法といった各工程を細分化した上 で、総合的に理解していかなければならないことが わかる。 15.考古資料にみるロクロ さて、古代のロクロには、手で回す手ロクロ(手回 しロクロ)と足で回転を与える蹴ロクロ(複盤ロク ロ)の二者が概説的に説明されている。いずれも粘土 を乗せた回転台が、惰性によってある程度の速さで 定向回転する。手ロクロは、手だけでなく紐などを 使って回す場合も想定され、回転台そのものがはず み車の役割を果たしていたものと考えられる。一方、 蹴ロクロは固定的なものとされ、須恵器工房址など で発見されるいわゆるロクロピットが遺構として認 識されている。しかし、ロクロそのものについては出 土資料に乏しく、古代のロクロの構造を理解するこ とはきわめて難しい。 近年、青森県野木遺跡で9世紀前半から 10 世紀後 半までの遺物が出土する水場遺構から、蹴ロクロの 部品と考えられる木製品が出土した[図 13] 。これは 図13 青森県野木遺跡出土のロクロ回転盤 (中嶋 2000a より転載) 図14 回転盤を利用した蹴ロクロの推定復原 (中嶋 2000b より転載) 直径約 25 ㎝、厚みが4 cm ほどの円板の中心に、直径 7㎝ほどの円孔があけられており、さらにその周縁 には等間隔に径3㎝ほどの孔が4箇所穿たれている。 報告者の中嶋友文氏は近世以降の蹴ロクロなどを 参考に、古代のロクロの復原を行なっている[図 14] 〔中嶋2000b〕 。氏の復原から、出土木製品がロクロ(回 転台)の回転を維持させるため、足で操作する回転盤 であることがわかる。 この野木遺跡では、ロクロピットをもつ住居址も 複数軒確認されており、ロクロ土師器とともに土器 焼成遺構が発見されていることから、本遺跡がロク ロ土師器の生産遺跡であるとともに、出土木製品が ロクロの部品であることはほぼ間違いないであろう。 ロを左に回すことが合理的とされる) 、②ロクロやカ ンナなどの道具、③作業姿勢、内的要因として④利き 手、⑤動作習慣、社会的要因として⑥工房内での技術 規制、⑦技術の伝習システム、経済的要因として、⑧ 利便性・コストなどが想定されている。 このため、水びきと回転ヘラケズリの回転方向が 異なることもあり〔柴田 1993〕 、陶邑窯や猿投窯をは じめとする各地の窯跡出土の坏類を検討した北野博 司氏らは先行研究を追認しながらも、各窯によって 水びきとヘラケズリの回転方向が左から右へと移り 変わる過程に差異が生じていることを明らかにした 〔北野他 2002〕。 また、菅原雄一氏は、ロクロの回転方向などを根拠 に、陶邑窯の東西に見られる地域差を明らかにした 上で、各地方の窯相互の検討を行ない、陶邑窯での地 域差を反映した系譜を地方窯に見出し、須恵器の生 産体制とその背後にある工人集団の技術拡散にまで 論を展開している〔菅原 2006〕 。 16.ロクロの回転 ロクロの回転方向を指し示す根拠に糸切底がある。 糸切りとは、一本の糸によって、ロクロから須恵器や 土師器などのロクロ製品を分離する際に用いられる 手法である。糸の一方を手で持ち、他の糸のはしを底 部と定めた部位に挿入し、糸をもった手を外側に水 平に引くことによって製品を切り離すことができる。 通常、糸による切断面には指紋状の痕跡が残り[図 15] 、この痕跡をもつ底部を糸切底という。糸切りは ロクロが回っていることが前提とされていることか ら、停止した状態で両手で糸を引っ張り、手前に引き 切ることを「静止糸切り」と呼ぶ。このため、糸切り を「回転糸切り」として区別する場合もある。 糸切底の外周付近で個々の曲線が途切れる所が、 糸が切断面から抜け出た部位であり、これを見極め ることにより、切り離し段階でのロクロの回転方向 を判断することができる。図 15 はロクロの右回転を 示している。 図 15 10 糸が抜け出た部位 糸が抜け出た部位 ロクロはどのような形態であっても、その回転方 向は右か左である。ロクロの回転方向は、器面に残る 水びきの痕跡や回転ヘラケズリ、底部に残る糸切り 痕などで判断することができる。 田辺昭三氏は大阪府陶邑窯出土の須恵器(坏類)に 残る回転ヘラケズリの観察から、ロクロの回転方向 について述べている。5世紀代は左回転が主体であ り、6世紀には右回転が主体となり、7世紀には右回 転のみになるという結果であった。そして、この変化 が漸移的であることから、朝鮮半島から受容したロ クロによる製作技術が、次第に日本化していく過程 を示すものであるとした〔田辺 1966〕 。 ロクロの回転は左右のどちらかであるが、一つの 製品を作り上げるまで始終一方の方向に回転してい るわけではない。先にも触れたように、各工程によっ てロクロの回転方向を変える場合もある〔津田 1994〕 。左右どちらかの回転を選択するかについては いくつかの理由が考えられている〔北野他 2002〕 。 まず、技術的要因として①粘土の配向性 (たとえ ば、粘土紐を右方向に巻き上げ成形したものは、ロク 17.糸切底にみるロクロの回転方向 須恵器坏の糸切底(弥杉・上ノ台遺跡:9世紀中ごろ) 写真5 ている。左右に長い上石が、扁平な石皿の上を反復直 線運動することで小麦などの穀類を製粉することが できる。やがて上石の反復運動から回転運動への移 行、すなわち上石の自重と回転運動の惰性を利用し たロータリーカーンへと発展し、より効率よく穀類 を製粉することを可能にした。 日本では縄文時代の石器に石皿と磨石のセットが ある。石皿は中央が浅くくぼむ皿形を呈し、これを下 石とし、片手に持てるほどの円礫を利用した磨石を 上石とする。ドングリなどの堅果類や根菜類を叩き、 そしてすりつぶすために使用された道具と考えられ ている〔渡辺 1973 ほか〕。弥生時代以降も石皿と磨石 によるすり潰しや製粉加工はつづき、古墳時代前期 まで使用されつづけた〔浜田 1992〕 。しかし、その後 は食物の粉砕・製粉には木製の臼や杵、またはすり鉢 が用いられ、中世にいたってようやく石臼が普及し ていくのである。 同じ諸撚糸による糸切りの痕跡 糸を使わずにヘラによってロクロ回転台の上面を こするように外側から中心にヘラを移動すると、回 転台と成形品を分離することができる。一般にはヘ ラ起しというが、これは阿部氏のいう「ヘラ切り」の 痕跡に相当し、糸切りの痕跡同様に成形品分離時に おけるロクロの回転方向を判断することができる。 糸切りの痕跡は、二本以上の糸を撚ってつくった 諸撚糸(もろよりいと) [図 10C・D]であれば、その 痕跡も明瞭かつ規則的な曲線となって現れる。しか し、同じ糸を使用しても、糸を挿入するタイミングや 引き切る速さの違い、あるいはロクロの回転速度の 違いなどによって、糸切りの痕跡はさまざまな形状 に変化する[写真5] 。 19.石臼の構造 三輪茂雄氏の説明に従い、石臼の構造をみてみよ う〔三輪 1978〕。石臼は上臼(雌臼)と下臼(雄臼) の二つの石で構成され、上臼の下面はやや凹面とな り目が刻まれ、下臼上面は水平かやや凸面となり、上 臼と同じ目が刻まれている[図16] 。上下の臼を重ね、 凹面と凸面によってできる隙間を「ふくみ」という。 上下の臼面は、周縁部に近いほど密に接触しており、 これを「すり合せ部」という。 上臼には中心からややずれたところに「供給口」が あり、ここから送られた原料が、ふくみによる隙間に 入り込むようになっている。下臼の中央には「芯棒 孔」が貫通しており、ここに「芯棒」 (主に鉄製)を 差し込んでつめ木などで固定し、上臼中央には芯棒 を受ける「芯棒受」けがある。 また、上臼を回転しやすくするための工夫として、 上臼側面に「挽き木」 (握り)を装着するためのほぞ 孔や、縦方向の溝が彫られている場合がある。 臼の目は「主溝」と「副溝」からなっている。図 17 石臼 (いしうす) 石臼( 製粉・粉化 石臼は円盤状の二つの石を上下に重ね、上の石を 定向回転させることにより、石の接触面で穀類など を挽きつぶす製粉(粉化)道具である。挽臼・碾臼(ひ きうす)とも呼ばれ、その原型は今から約 3000 年ほ ど前に古代オリエントに現れたロータリーカーン (回転挽臼)に求められるという。中国を経て日本へ 伝わり、中世後半から近世にかけて広く普及するよ うになる。 現在でも使用されており、臼の研究で知られる三 輪茂雄氏は、広義の石臼(くぼみをもつ石製の臼な ど)と区別するため「粉挽き臼」と称しているが、こ こでは考古学用語として使用されている石臼で解説 を進めていく。 回せ! → 粉砕 → 18.臼と杵 人間は食物加工の工程で、穀類や堅果類を粉砕し 製粉する道具に臼と杵、またはこれに相当するさま ざまな道具を使用してきた。 西アジアでは初期農耕の開始以降、小麦製粉用の 石器としてサドルカーン(鞍形石皿)の使用が知られ 図 16 11 石臼の構造(三輪 1978 より転載) では、上臼・下臼と もに中心から放射 状に8本の主溝が 刻まれており、そ れぞれの主溝に平 行して等間隔に5 本の副溝が刻まれ ている。8本の主 溝によって8等分 された区画を、さ らに5本の副溝で 区画していること から、8分画5溝 式のパターンとい う。 上下の臼を重ね 合わせれば、図 17 ( a) の上臼が裏返 図 17 臼の目(三輪 1978 より転載) しになり( b) に重 なるため、(c)の透視図のようになる。実線が上臼、 点線が下臼の目である。上臼を左方向に回転させる ことで、主溝は45°ごとに重なり合うが、副溝はまっ たく重なり合うことがない。そして、上下の副溝が交 差する点は、左方向の回転に従い、周縁部へと移動し ていくことがわかる。 こうした仕組みをもつことによって、供給口から 入れられた原料は粉砕され、さらに下臼の溝につ まった粉は、上臼の溝によって斜めの方向から徐々 に外側へと押し出されながら粉化していくのである。 これを臼の目の運搬作用というが、とくに供給口付 近では大粒の原料が入り込むことから、これを臼面 に均等にいきわたらせるため、 「ものくばり」が供給 口下部(上臼下面)にもうけられている。 20.臼の目と回転方向 三輪氏によれば、日本の石臼(民俗資料・考古資料) には4〜8分画が確認されており、中でも8分画と 6分画が主体である〔三輪 1975〕 。8分画は近畿地方 を中心に分布し、6分画は主に九州地方と関東地方 から長野県を中心とする中部地方にかけて分布して いる。地方によっては分画の違いとともに、目のパ ターンにも特色がある。 例えば、副溝が短くなる箇所で、隣接する主溝に平 行して副溝が並ぶ溝を「こぼれ目」というが、東京都 五日市の伊奈石(砂岩)でつくられた石臼に、この「こ ぼれ目」が特徴的である。 通常、石臼は右方向に回しても粉は出てこない。こ れは目の運搬作用が内側へと働いているためである。 一部の例外をのぞき、石臼は左に回転することでは じめて機能する。では、なぜ左回転なのか。その理由 についてはよくわかっていない。右利きの人が石臼 を回すのは右手になり、左手で原料を入れることに なるため、両手を内側にかきこむような自然な動作 になるとか、右手を前方に伸ばすことで臼を押し回 し、惰性の力で引き戻すことが容易だとする考えも あるが、これでは左右の回転を決定付ける根拠に乏 しい。むしろ、右利きの場合、右回転で回すほうが自 然のような気もする。 慣例的に左回りが維持されてきたという社会的な 要因はあるだろうが、先にみた紡錘車やロクロにく らべ、石臼は利き手の別や作業時における姿勢・動作 などが、回転方向とこれが生み出す効果に大きく影 響するものではないため、技術的な規制は緩いもの であったろう。唯一考えられるのは、石臼をつくった 製作者側の都合、つまり石工などの職人に伝統的な 規制が働いて目の刻み方が守られ、使用者側は単に 道具として石臼を機能させるため、左回転を当然の こととして使用してきたとみるべきではなかろうか。 21.壊された石臼 中・近世の遺跡から出土する石臼は、そのほとんど が破片の状態で出土することが知られている。通常 の使用法では、破片となって割れることはないため、 故意に壊されたものと考えられている。 神奈川県内出土の石臼の破損状態を分析した小池 聡氏によれば、上臼は下臼に比べ磨耗が早いことか ら、上臼が磨り減って極限に達した段階で、上臼・下 臼はともに2分割もしくは4分割を意識して壊され、 廃棄された可能性が高いとしている〔小池 2000〕 。そ して、臼を故意に壊す理由として、 「魂ぬき」が考え られている。 石臼の「魂ぬき」については、三輪氏が収集した各 地に残る古い石臼の処分方法などでも知ることがで きる。古来、日本では使い古した道具を廃棄する時 に、必ずある種の礼を尽くした。特に石臼は、食物加 工の工程で、粉化・製粉の効率を高める道具でもあっ たことから、その生産性が神聖視され、ときには「た たり」を畏れることすらあった。 神聖観や畏敬の念によって生まれた意識の中で、 「魂ぬき」という神聖化停止を目的とした行為が、 割って破壊することであり、破片にすることでただ の石として石臼を捨てることができるのである。 12 鳥浜貝塚研究グループ 1983「口縁部にヒモが付着した土器」 『鳥浜貝塚− 1981・1982 年度調査概報・研究の成果−』p.38 図 48 福井県教育委員会 渡辺仁 1962「穿孔法」 『日本考古学辞典』p.306‑307,東京堂 この「魂ぬき」説に従えば、かつて日常生活の中で 石臼が果たしていた役割がいかに大きく、尊ばれて いた道具であったかということを、その出土状況か らも知ることができる。 ●紡錘車 大倉 潤 2002「石製紡錘車表面の擦痕・剥離痕をめぐって」『日々の考古学−東海大学 考古学教室開設 20 周年記念論文集−』p.231‑244 東海大学考古学教室 太田英蔵 1966「織物」 『古代史講座 13 古代における交易と文化交流』p.264 〜 302 学生社 佐原 真 1964「紡錘車」『紫雲出』p.100 〜 104 長崎元広 1978「縄文の紡錘車−有孔円板の用途と意義−」 『長野県考古学会誌』32 長野県考古学会 中沢 悟 1996「紡錘車の基礎研究(1)」 『研究紀要』13 群馬県埋蔵文化財調査事業団 中沢 悟 1996「紡錘車の基礎研究(2)」 『専修考古』6 専修考古学会 永原慶二 2004「Ⅱ 古代・中世における苧麻と麻」 「Ⅳ 苧麻から木綿へ」 『苧麻・絹・木綿の社会史』p.24 〜 98 吉川弘文館 布目順郎 1983「絹−日本は中国以外の最古の絹産出国−」 『森浩一対談集 古代技術の復権』p.164 〜 187 小学館ライブラリー 布目順郎 1988『絹と布の考古学』雄山閣 藤村淳子 1985「紡錘車」 『弥生文化の研究』第5巻 道具と技術Ⅰ 雄山閣出版 古庄浩明 1992「鉄製紡錘車の研究」 『国学院大学考古学資料館紀要』第8号 八幡一郎 1931「弥生式土器の布目」 『人類学雑誌』第 46 巻第9号 八幡一郎 1950・1951「日本の紡錘車」ほか 『人文学舎報』拾参・拾四 八幡一郎 1967「弥生時代紡錘車覚書」 『末永先生古稀記念古代学論叢』 おわりに このたび、錐指(すいし)という言葉を知った。錐先の ように小さいたとえであり、見識のせまいことを言う。 今回は「回転」をキーワードに、5つの道具について考 えてみた。回転はおもしろい。回転運動とそれが生み出す 力を人間は長い歴史の中で利用し続け、そして現在にまで 至っている。もしかすると、この「回転運動の応用」は人 間の技術水準、または技術的発展過程を推し量る目安にな るのかもしれない。 しかし、考古学で扱える範囲はごく限られた「かつて回 転していた道具」である。ここから知り得ることはまさに 錐指の域にあるのだろう。すでに失われた道具をより深く 理解するために、研鑽という言葉も忘れてはならない。 最後に、三輪氏の言葉を記しておきたい。 「道具は使う状態においてはじめて活きてくる。そのすばら しさも、使ってみたときにしかわからない。もう一歩進め て、その道具を自分でつくろうとするとき、そこに発見す るのは、凝縮された人類の知恵であった」(三輪 1978)。 〔参考文献〕 ●火鑽具 岩城正夫 1977『原始時代の火』新生出版 岩城正夫・関根秀樹 1983「古文献に見られる古代発火技術について」 『和光大学人文学部紀要』第 18 号 岩城正夫 1985『原始技術論』 新生出版 大場磐雄 1947「登呂発見の火鑽具に就いて」 『考古学雑誌』第 34 巻第 11 号 大場磐雄 1949『登呂 前編』p.52 − p.54 毎日新聞社 堅田 直 1968「ひうちとひきり」『みつがらす』第3号,p.17 帝塚山考古学研究室 木下 忠 1969「木器」 『新版考古学講座』4 原始文化〈上〉 雄山閣出版 後藤守一 1954「発火具」 『登呂 本編』p.199‑201 日本考古学協会編 高嶋幸男 1985『火の道具』柏書房 高嶋幸男 1989「忍路土場遺跡出土の木製発火具」 『忍路土場遺跡・忍路5遺跡 −北後志東部地区広域営農団地農道整備事業用地内埋蔵文化財発掘調査報告書−』 第4分冊 p.77 〜 86 (財)北海道埋蔵文化財センター 鳥居龍蔵 1896「発火用紐錐ニ就テノ二事実」 『東京人類学会雑誌』126 東京人類学会 鳥居龍蔵 1925「上代吾人祖先の発火法」 『人類学上より見たる我が上代の文化』,1975 年『鳥居龍蔵全集』第1巻所収 布谷知夫 1988「発火具」 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