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モンゴル族の歴史と諸部族の服飾

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研究ノート
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
森
は
じ
め
筆者は先に
川
登 美 江
に
南腔北調論集
山田敬三先生古稀記念論集刊行会編
1)
に 「モ
ンゴルの服飾文化」 を寄稿した。 しかし紙数の関係でモンゴルの歴史や, 諸部
族の服飾などは大幅に割愛せざるを得なかった。 しかし, 服飾もその民族の背
負ってきた歴史や社会状況と切り離して考えることはできないのは自明の理で
ある。 例えば, 文様一つにもその民族の歴史が刻印されていたりしてゆるがせ
にできない。 また, 暖房が完備されたことにより, 厚いコートの内側で薄手の
ファッションが楽しめるようになったし, 核家族で舅姑の規範が及びにくくな
り, ジーンズのような若者ファッションを壮年層が受け入れやすくなって, 老
壮年にまで流行し始めたことなど, いくらでも思いつく。
モンゴル族とは, モンゴル高原に活躍した遊牧の民を祖とする。 現在, 狭義
にはモンゴル国 (いわゆる外モンゴル) のハルハ族と中華人民共和国内蒙古自
治区 (いわゆる内モンゴル) のチャハル族を指すが, 広義にはロシア領にすむ
ブリヤート族, カルムク族, 中国領内のダグール族などを含む。 モンゴル族は,
モンゴル高原 (現在のモンゴル国と中華人民共和国の内蒙古自治区をあわせた
ものにほぼ一致する地域) を中心に, 主に内陸ユーラシアに居住する。 モンゴ
ル諸語のモンゴル語を母語とする。 人口は, 内蒙古自治区に約万, それ以
外の中国内に約∼万, ロシアのブリヤート共和国に万, モンゴル国で
は人口約万
人のうち% (約万人) がモンゴル族 (年統計年
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
鑑による) である。 遊牧民族として知られているが, モンゴル国でも内蒙古自
治区でも, 現在は牧畜をやめて都市や農村に居住する割合がかなり多い。 また,
内蒙古自治区では, モンゴル語を話せなくなった若い人も少なくない。 主な宗
教はチベット仏教の流派で, 文化的にチベットとの関わりが深い。 また, シャー
マニズムも存在している。
異なる国や地域に暮らすモンゴル諸部族の服飾には, 歴史と状況によって種々
の差異が生じた。 本稿ではモンゴル族の歴史と, 諸部族のさまざまな服飾につ
いて記述する。 なお, 本稿では衣装にとどまらず, 髪型やアクセサリ−なども
考察の対象にするため, 衣装よりも広い概念を表す 「服飾」 という語彙を使用
する。
また, 本稿では
南腔北調論集
南腔北調論集
で取り上げたことはすべて割愛したため,
と併読していただければモンゴル族全体の服飾に対する理解
がさらに深まるであろう。
第1章
モンゴル族の歴史
モンゴル族の歴史について, 中国の小学校社会教科書では以下のように記述
している。 少し長いが, これが現中国のモンゴルに対する見解を代表している
と思われるので煩を厭わず紹介しておく。
「第3課
元朝の大統一
―チンギス・ハン, フビライ―
チンギス・ハン, 蒙古を統一する
紀元∼世紀のころ, わが国の蒙古高原では多くの部族が活動してい
た。 各部族の間では, つねに残酷な戦争が行われ, 人民は安寧を得られな
かった。 当時のある蒙古の民謡は歌っている。
黒い空は渦巻いて, 諸国は戦争する,
・・・・
逃れる場所はない,
( )
ただ突撃し戦うのみ。
平安と幸福はない,
ただたがいの戦争のみ。
チンギス・ハンは, 名前をテムジンという。 彼の父親は, ある部族の首
領であった。 テムジンが9歳のときに, 父親は別の部族の人に殺された。
父親の部下はみな逃げてしまい, 母親は, 彼と数人の兄弟を連れ, 追っ手
から逃れて, あちこち放浪した。 幾重もの苦境が彼の意志と性格を磨き上
げ, 彼はますます堅固で勇敢になっていった。
幾重もの苦境の中で成長したテムジンは, 性格が堅固で, 作戦は勇敢で
あり, 次第に周囲の人々の信頼を勝ちとり, 一つの部落の首領になった。
彼は戦いにたけ, 騎兵を率いて, 相ついでまわりの部族を打ち破り, 蒙古
を統一した。 紀元年, テムジンは蒙古ハン [汗] 国 (わが国古代の匈
奴, 蒙古等の北方少数民族の最高統治者は可汗あるいは大汗と称し, 彼ら
が統治した国家を汗国と称した。) を建て, 推挙されてチンギス・ハン
[汗] (チンギス・ハンとは, 強大で有力な君主という意味) となった。
蒙古ハン国の建国は, 蒙古高原の戦乱と紛争の状況を終結させ, 蒙古人
民は安定した生活を送れるようになった。 その後, 蒙古の軍事力はますま
す強大になり, 蒙古の騎兵は当時の世界で最強の軍隊のひとつになった。
フビライ, 全国を統一する
チンギス・ハンが蒙古の騎兵を率いて東へ西へと征伐しているときに,
蒙古ハン国の広大な土地には, 大小のいくつかの政権があった。 中原と南
方には金と南宋, 西北には西夏, 西南には吐蕃と大理があった。 チンギス・
ハンの死後, 蒙古の軍隊は相ついで西夏と金を滅ぼした。 紀元年, チ
ンギス・ハンの孫のフビライが南宋を滅ぼして, 全国を統一した。 チンギ
ス・ハンからフビライまで, 前後余年の時間をかけて, ついに全国の再
統一を実現した。
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
当時の中国は世界の強国で, 領域は非常に広く, わが国の歴史上のどの
時期をも超えていた。
全国統一後, 中原の多くの漢族が辺境に移った。 辺境の多くの少数民族
は, 蒙古の軍隊に従って南下し, 内地に入った。 各民族は雑居して, 相互
に影響し, 相互に交流して, 全国各地の経済, 文化の発展を促進した。」2)
8世紀, 黒龍江上流のシルカ川の南岸山地に, 狩猟と漁撈を生業とする
もうこつしつ い
蒙兀室韋という 「森林の民」 が住んでいた。 9世紀後半になるとシルカ川
流域を捨てて西進し, オノン・トラ・ケルレン三川の上流域に移動したか
つての 「森林の民」 は, 「草原の民」 へ転化し始めた。
それに伴いその構成員も分散状態から部族的連合を指向するようになる。
モンゴル部が初めて統一されるのは世紀はじめカブール=ハーン (チン
ギス・ハンの曽祖父) によってであるが, この統一も間もなく崩壊する。
モ ン ゴ ル と い う 名 称 は , こ の 時 の 小 部 族 名 に 由 来 し ,
(永久の中心, 永久の川) から出たものと, 多くのモンゴ
ル人は信じている。 世紀末から世紀はじめにかけて, テムジン (後の
チンギス・ハン) がモンゴル部族の再統一に成功し, 宿敵のタタール部を
滅ぼし, ついでケレイト部のワンカン, ナイマン部のダヤンカンを破り,
年オノン河畔のクリルタイ (大集会) で即位して, チンギス・ハンと
称した。 モンゴル帝国の誕生で, その部族名は, 民族を代表する総称となっ
た。 彼は西夏を攻め, ウイグルを帰服させ, 年に金の都, 燕京を陥れ
た。 中央アジアではホラズムをおさめ, 南ロシアを征服, ヨーロッパに衝
撃を与えたが, 年病死した。
彼の後を継いだ第3子オゴタイは, 甥のバトゥを総司令官としてアジア・
ヨーロッパ大遠征を行い, ロシア・ポーランド・ハンガリー・南ドイツを
席巻したが, バトゥはオゴタイの訃報を聞いて東方へ引き揚げた。 年
に第4代のハーン位についたモンケ・ハーンは, 弟のフビライに中国を治
( )
めさせた。
フビライはモンケ死後, 年に即位して都を燕京に移し,
易経
3)
の 「大なるかな乾元」 からとって国号を 「大元」 と改め, 年, モンゴ
ル人による征服王朝の 「元」 が誕生した。 フビライは年に南宋を滅ぼ
し, チャンパ・カンボディア・ミャンマー・ジャワを征し, 高麗を属国化
し, 日本を討ったが失敗した。 モンゴル草原では紛争が起こり, 衰退に向
かった。
世紀になり元帝国が崩壊すると, モンゴル民族は3勢力に分かれて攻
戦した。 世紀はじめには, 中部勢力にダヤン・ハーンが出て, 現在の内
蒙古自治区シリンゴール盟を本拠として勢力を振るう。 その勢力圏を左右
の両翼6万戸の制に分けておさめたが, これが現今に至るモンゴル諸部落
の起源となっている。 その勢力圏の南部では, トゥメット部のアルタン・
ハーンが傑出し, 内モンゴルの漢族と深いつながりを持つようになる。 中
央アジアに遠征したとき彼はチベット仏教に入信し, モンゴル族にチベッ
ト仏教を広めた。 現代のモンゴル族の主要な居住地であるモンゴル国と内
蒙古自治区におけるモンゴル族の分布は, この明代のダヤン・ハーンから
アルタン・ハーンの時代に, ほぼその配置のルーツを見ることができる。
年代になり, 明王朝によって元王朝が滅ぼされると, モンゴル族は
内部分裂し, 各部族集団の間では絶え間なく戦争が起こり, 集団群は分散
した。 その後, 世紀まで, モンゴル族は, おもに大砂漠の北方にある外
モンゴル (現在のモンゴル国), 大砂漠の南方にある内モンゴルと, 砂漠
の西側のアルタイ山脈を越えたジュンガル盆地などの三地域に広く居住し
ていた。
やがて満州族の清朝が興起すると, モンゴル諸部は清朝の勢いを過大に
評価して服従した。 また, ロシアや西方民族からの圧力に対して, 清の庇
護を求めて傘下に加わった部族もあった。 清王朝はモンゴル族を漢族と隔
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
離して味方にするため, 彼らの自治を容認しながらも盟旗制度 4) という
巧妙な統治方法を採った。 上述の三地域に対して, 中国の郡県制のように
行政区画を細分し, 全部でのチョールガン (盟, 数個の部族の連合), のホジョー (旗, 部族集団) を設立して, 多くの狭い牧場に分け統治を進
めた。 盟旗制度の基本単位は旗で, モンゴル帝国時代の軍制単位にならっ
て各部族長に土地と人々を与えた。 ある旗には7つのラマ寺があり,
その旗内ではすべての事務は, チベット仏教 (ラマ教) 寺院の僧侶が決定
処理し, 政治と宗教が一体となった統治形式を形成した。 この制度が確立
して以来, モンゴル族は一定地区内に活動範囲が限られ, 次第に定居牧畜,
農業を営む人たちが増加して, 受動的, 平和的, 消極的になっていった。
清王朝は同時にチベット仏教の信仰を勧めてモンゴルの好戦性を奪った。
納税や兵役の免除などで優遇したラマ僧が男子の半数を占めるまでになり,
経済力の低下と人口の減少を招くことになった。 こうした中で, 条件付の
独立を保っていたハルハ族を中心とした外モンゴルは辛亥革命を機にロシ
アの力を借りて独立した。
香山陽坪氏は上述のようなモンゴルの歴史を次のように概括する。
突厥の後, ステップ地帯において空前の大活躍をしたのは, 言うま
でもなくモンゴル人である。 チンギス・ハンに率いられたモンゴル人
はユーラシア大陸北部に, そのほとんど全部を占める一大国家をつく
り上げたが, それはただ彼らの武力だけでなく, 遊牧民に伝統的に備
わった商業的手腕が大いにあずかったものと考えられる。 遊牧民の世
界史的な活動はモンゴル人をもって終わりを告げた。 現在, 遊牧民は
その装いを新たにし, 新しい社会に適合しつつある5)。
蒙古高原には歴史的に見ても多くの部族が居住していたし, 現在も各部
族で服飾が異なることがある。 モンゴル族の主たる服飾については前掲の
南腔北調論集
を参照されたい。
( )
第2章
モンゴル諸部族の服飾
世紀, モンゴル諸部にはみな自らの服飾の伝統があった。 森林部落と草原
部落の服飾に明確な違いがあっただけではなく, 草原部落間の服飾にさえ宗教
信仰などの文化的背景の相違により, 差異が存在したのである。 現代的意味で
の部族の服飾の特徴は清朝初期から形成され始めた。 清朝は盟と旗の境界を区
分し, 分割統治して部族, 旗間の自由往来を禁ずるなどの規定を定め, そ
の結果部族の特徴を持った服飾文化の迅速な形成を促した。
清朝末期には財力がありさえすれば種々のファッションが可能になったし,
漢族, チベット族, 満州族および西方の服飾文化がモンゴル族の伝統的な服飾
に影響を与えただけではなく, 地方的特色を持った服飾文化存在条件も提供し
た。 モンゴル部族の服飾の形成は歴史的産物だったのである。
<アラシャン>
世紀初頭, 清廷の公主を娶ってから, 清朝宮廷の服飾の影響を受け始めた。
しかしアラシャンの服飾は基本的には自らの部族の伝統を保留し, 西域の風格
には他部落と差異が認められる。 近代以降, 男子はスリットの入った蒙古袍
(デール) を着用したが, 裾幅は依然としてゆったりしていたので, 腰帯を締
めたとき往々にして背中に皺がよった。 女子は普通スリットの入らない長袍
(あわせまたは綿入れの長い中国服) を着て, 上にチョッキを羽織るが, 未婚
者はチョッキを着ない。 袖は狭く, 婦女の服はぴったりしているのが普通であ
る。 男女とも普段は馬蹄袖 (清朝が強制的に推進した標識的な装飾で, 両手を
広げて身体を支えて叩頭するとき, 人は馬のような姿勢になり, それで 犬馬
の功を表したのである) ではないが, 祭りや重要な儀式に参加するときは馬
蹄袖を着用して荘重さを示す。 馬蹄袖は夏, 冬に分けられ, 冬は皮革, 夏は繻
子や緞子で作る。 男女老少を問わずみな藍, 青, 紫のコートを着る。 チョッキ
は礼服なので, 儀礼的な場合は必ずチョッキを着用しなければならない。 男子
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
こ きん
の長袍の多くは濃紺, 青, グレーの棉で, チョッキは金色や庫錦 (金糸・銀糸
や色染めの毛糸などで模様を織り出した錦), 青のシルクを材料としている。
腰にはオレンジ色か若竹色の腰帯を結ぶ。 女子の長袍は多くは青か緑色の棉で,
ピンクの腰帯を巻く。
アラシャンは中国における 駱駝の里なので, 男女老幼みな馬以外に冬季
には主として駱駝に乗る。 そのため自分自身と同時に駱駝の装飾の色や配合に
とりわけ注意を払う。
<ウラート>
「ウラート」 とは 腕の優れた職人あるいは 職人の意味 (金, 銀, 鉄
職人) である。 だから多くの腕のいい職人の加工を経たウラートの服飾, 特に
佩飾の細緻精微さは類稀である。 長袍はスリットのあるものとないものがあり,
スリット入りのものは多くが体にフィットしており, スリットがないものはゆっ
たりしていて多くは野外の作業または遠出のときに着用する。 冬の厳寒期には
綿羊か子羊の皮の袍を着用する。 子羊の皮の袍には2歳以下の子羊の皮を選び,
セン セン ドー ロー
それを 森森徳勒と称す。 森森徳勒の表側は必ず鮮やかで豪華なシルク
を用い, 正月や祝祭日のときに着る礼服である。 男女とも遠出のときは山羊の
皮で作った突き合わせ仕立ての長着 (チュール) を着用して, 保温と野宿に備
える。 遠出のときは必ず自分のお椀と箸を携帯しなければならないので, 佩飾
には 「お椀箱」 という装飾品が加わる。
かなり特殊な風俗としては, 新婦を迎えたり, 送ったりする人は必ず新婦と
同じ色の馬に乗らなければならないことである。 新婦が新郎の家に着いたとき,
馬上で新鮮なミルクを飲み, 新郎は新婦を鞍ごと抱え下ろし, 白くて新しい毛
氈を踏んで部屋に入る。 既婚の婦女は頭飾りを付けないで年長者や重要な人物
に会うことはない。 頭飾の精美や華やかさには貧富の違いによって差があるが,
婦女が頭飾りを省略できるのは未亡人や独身の間だけである。 普段は一揃いの
ター トゥ アル
頭飾をつける必要はなく, 塔図爾という珊瑚を連ねて作った額のワッカだ
( )
けをつける。 塔図爾はウラートの婦女の頭飾の最も基本的な装飾品である。
<オルドス>
オルドスとは 「多数の宮殿または宮殿の守護者」 を意味する。 彼らがチ
ンギス・ハンの宮殿を警護していたことから名づけられた。 オルドス文化は最
も特色を備えた内モンゴル地方の文化の一つで, オルドス方言は古代モンゴル
語音と語彙を最も多く保留した地方語である。 オルドス服飾文化は古代の伝統
およびその形式の保留が豊富多彩なことでは他部落の追随を許さない。 オルド
スの服飾風俗の中では, とりわけ頭部の装飾と扮装に凝る。 頭部は人間の活気
と幸運の象徴であると考えるため, 男女老幼を問わずみな崇敬する青と白の綿
布やシルクで頭部を包む。 夏季にスカーフをかぶる習俗は, オルドス地区が砂
塵の多い環境であったことと無縁ではない。
オルドス人は秋, 冬, 春には帽子をかぶる。 女性の帽子の縫製工芸はとりわ
け素晴らしい。 二匹の龍が玉に戯れる図案の婦女の帽子は, オルドス地区服飾
文化のメルクマールの一つであり, それはモンゴル服飾文化の伝統を体現する
と同時に, 漢民族文化との融合過程を暗示している。 清朝時代は近代オルドス
服飾の風格, 様式形成にとって重要な歴史プロセスであった。 この時期にオル
ドス人の着衣はもともと着用していたゆったりとした長袍が淘汰され, スリム
なスリットの入った長衣に変わった。 オルドスの婦女のチョッキと頭飾は現代
の舞台衣装の出典の一つになっている。
<チャハル>
チャハル族の服飾は, 清代のチャハル八旗の服飾文化を包括している。 元朝
および北元時期, チャハル族は長期にわたってモンゴルの政治, 経済, 文化の
中心地――上都 (現北京) の周囲に居住していたため, チャハル族の服飾は各
地の服飾の特徴を吸収し, 各地のモンゴル人がみな受容できる比較的典型的な
様式風格を形成した。 チャハル人は冬季には濃い色の布で縁取りし, 布か銅の
ボタンを付けた綿羊の皮のスリットが入った大袍を着用する。 チャハルの長袍
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
の馬蹄袖は袍子の色と同じ材料で製作する。 馬蹄袖のない長袍を着用する人は,
寒冷期にはモンゴル語で ドゥゴタイと呼ぶ
余の長さの手袋をはめる。
チャハルの男子はよく紫, 赤, 黄, 青の長袍を身につけ, 女子はピンク, 緑,
青のコートを着用し, 男女とも対比の強烈な腰帯を締める。 夏には長いシャツ
を着て, 馬に乗るときは堂々たるマントを羽織る。 身体虚弱か, 溺愛する子ど
もには左側にスリットの入った袍子を着せる。 そうすれば子どもを守ることが
できると信じているのだ。 チャハルの既婚の女子は外側に背後にスリットの入っ
アオジー
マーゴー
た突合せ式の奥吉 (チョッキ) と奥吉瑪格 (奥吉より短く, 裾が広い) を着用
する。
チャハルの男女はみな帽子かスカーフをかぶる。 冬季には防寒用耳輪 (毛皮
製の小さい輪状のもので, 耳にはめて防寒する) とマフラーをするが, この点
は他の地方と異なっている。 チャハルの娘は歳になると, 1本のお下げを背
中に垂らす。 娘は結婚前, 昔からの親戚友人のために煙草入れなどの装飾品を
作って記念品とする。 これはチャハル部落が清代に帰郷させられたり, 娘が遠
方に嫁すなどの辛い歴史を経たことと関係がある。 老年の婦女は頭飾をつけず,
地味な色のスカーフをする。
<スニート>
スニート部落は大モンゴル国時期におけるモンゴルの諸部落の一つで, 古い
服飾の伝統を持っている。 長袍は上はゆったりとしているが, 下は扇形に広がっ
ている。 袍の身頃にはスリットは入らず, 袖は長くて袖口を締めない。 古代ス
ニートの袍の袖はみな馬蹄袖だったが, 婦女と中年, 青年の馬蹄袖はやや小さ
く, 老人はラッパ状の大型の馬蹄袖を好んだ。 服が汚れないよう婦女は乳絞り
の季節には白や水色の長袍を着た。 冬季, 野外で野宿や遠出をするときは男女
レイ
とも山羊, 黄羊 (モンゴル地方に産する野生の羊。 蒙古羚ともいう), 子駱駝
の皮で作った大きな外套を着用する。 普段, スニート人は主として黄色の腰帯
を締める。 清朝の統治期間, 黄色は皇族の色だと考えられていたので, 平民は
( )
普通とりわけ腰帯や靴には黄色は使用しなかった。 しかし, この部族は自己の
部族が尊崇する伝統的な色彩である黄色を堅持しつつ清朝統治の年間を過
び
ごした。 スニート人の性格が意地っ張りで勇敢であることがわかる。 男子は鼻
えん こ
煙壷 (嗅ぎ煙草入れ) などのほか, 独特の長煙管の袋を左前方に下げる。 この
袋の製作はとりわけ精美で, 解放前は中等品一セットが大きな家畜1頭分に値
した。 鼻煙壷の代わりにこの袋を交換して挨拶することもできる。
スニート地区の娘は普通あまりおしゃれに気を使わない。
<ウジュムチン>
美しく広大なウジュムチン草原の景色が, 地域の特色を備えた服飾文化の創
造に果てしない霊感を与えた。 様式はゆったりとして, 色彩は鮮やかで, 縁飾
りが広く厚いのがここのデールの共通の特徴である。 ウジュムチンの男女は一
年中好んで長袍を着る。 大多数の袍に庫錦で三指の幅のレースが縫いつけられ
る。 毛を内側にした皮の袍は, 羊の皮をいぶして焦げ茶色にし, 羊の皮の中ほ
どを用いて袍を縫い合わせるため, 1着の袍に8∼頭の成年の羊の皮を必要
とする。 これは湿気が来ず, 虫食いを防ぎ, 変形しないという。 これにもさま
ざまな縁飾りをつける。
チャームーチャー
炎暑の夏には彼らは 察 木 査 という白い長衣を着るが, これは現代的意
味でのシャツではなく, 使用する布地と縫製技術は夏季の長袍と大差ない。 た
だ必ず白い布地で身ごろを作り, 黒か濃い色の布で縁飾りをつけるだけである。
モンゴル民族は古代においては白を尊び, 特殊な身分の人に白の袍を着せる習
俗があった。 ゆえに彼らが白い長袍を着用するのは夏の暑さを避けるほか, 祖
先の伝統を引き継ぐ面があると推測しうる。
ここの諺には 隆盛の象徴は腰帯であるという言い方がある。 それは 「腰
帯は乱れた衣服をきちんと整えることが出来る, 人生, 社会には目に見えない
腰帯があって, 規範作用を持っている」 という意味である。 そのため腰帯
は特別な作用と象徴的意義を持った装束であり, 腰帯を結ぶことにとりわけ気
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
を使い, チョッキを着た既婚婦人と, 夏の チャームーチャーを着たとき以
外は, いかなる場合や季節でも腰帯をきちんと締めなければならないし, 腰帯
の長さは必ず5m以上でなければならない。
ここの男女はみな各種の材質のチョッキと奥吉瑪格を着る。 皮, 絹, 木綿の
区別があり, 礼装と普段着の二種に分かれる。 礼装の縫製は凝っていて, 年始
やお祭り, 重要な場合に着用する。 普段着は日常生活用品である。
彼らの帽子は主要には二種ある。 一つは各種の皮製で, 円形の, 上部が尖っ
た耳当て付きの帽子, もう一つは錦で作ったきのこ状の円形帽で, 暖かい季節
に被る。
ウジュムチンの男女の佩飾の基本的様式, 付け方はチャハルなどの部族と似
ているが, 名称, 形状, 使用習俗に相違がある。 例えば男子は親指に大きな指
輪を嵌め, 未婚の女子はネックレスと6本の垂れ飾りのついた耳飾りをつけ,
既婚婦人は中指には指輪を嵌めないなどである。
<アバガ>
アバガ部落は清代以後に形成されたもので, 主要な成員はチンギス・ハンの
弟の配下の子孫である。 アバガの服飾は隣り合うスニートやチャハルなどの部
族の影響を受けているが, 総体的にはやはり独自の特色を保持している。 その
中でも南部アバガ人と北部アバガ人には一定の区別がある。 例えば南部アバガ
人はぴったりした裾, 上にはスリットが入り, 精巧な馬蹄袖のついた長袍を好
む。 北部アバガ人は扇形の裾に, 大きく開いた馬蹄袖のあるゆったりとした長
袍を着用する。
アバガ人は冬には羊皮の袍に広い単色または色柄付きの絹で縁取りし, 棉袍,
裏付きの袍子には細い布で縁取りし, 一列の布ボタンをつける。 既婚婦女の袍
ハーヤンピー
子には袖口に飾りをつける。 男子は 哈陽皮という楕円形の, 前後の直径が
やや長い皮の帽子をかぶる。 老人は 哈陽皮をかぶるとき前つばをちょっと
下げ, 青年は前後を押し下げて被り, 謙虚さを示さなければならない。 このほ
( )
か狩人が被る外側が白く, 内側が黒い皮の帽子もある。 夏季には男女を問わず
スカーフを巻く。 娘や男子はみな腰帯を締める。 男子の腰帯は広く, 娘の腰帯
は狭くて鮮やかである。 既婚婦人は腰帯を締めない。
アバガの男子も褂子 (単の中国服) とチョッキを着るが, 縁取りはしない。
時には多数の布ボタンをつけた バトール(英雄の意) チョッキを着用する。
成年の婦女は対襟の縁取りのついた美しいチョッキを着る。 その腰部には衣服
の裾のような装飾帯が縫い付けられ, 両側には兜蓋装飾が縫い付けられている。
そうするとチョッキは上下二枚で組み合わされているように見える。 チョッキ
は礼装なので, 年始やお祭り, あるいは重要な場合しか着ない。
アバガの娘は1本のお下げを背中に垂らし, 上前袵の位置に掛け飾りという
真珠を連ねた装飾品をつける。 この点が他の地区と異なっている。
老人は靴の外側に山羊皮のカバーを付けるが, この点も特別である。
アバガの女性の装飾の中では, 額網 (額ネット), 辮網 (お下げネット) な
ハオリーバオ
どに地方の特色がある。 浩力宝は胸の両側に装飾チェーンを掛け, このチェー
ンにさらに輪式の垂れ飾りをつけたものである。
<バーリン>
バーリンは大モンゴル時期の古い部族である。 バーリン人は服飾の工芸の完
璧さ, 色彩の美観, 様式の適中, 材質の良さを追求する。 バーリンの服飾はや
や強い地方的特色を持っており, 四季服, 礼装, 専業服, 普段着などに分けら
れる。 しかしバーリンの人は四季を通じて長袍を着ることを好み, 「袖は枕,
前身ごろは敷布団, 後ろ身ごろは掛け布団, 背中はテント, 上おくみはポケッ
ト, 馬蹄袖は手袋」 と賞賛する。
バーリン人の冬の服飾には羊皮・棉・袷の袍子, 皮と棉のズボン, 皮と棉の
帽子, 革靴, 綿と布の靴下などがある。 野外で馬の群れを守って夜を明かした
り, 遠出をする人はさらに各種の皮の 蒙古袍を着, 靴には綿羊の皮のカバー
をかぶせ, 首には子羊か狐の皮のマフラーを巻く。 婦女は普通スリットのない
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
長袍を着て腰帯を締めない。
バーリン人の普段着の上着には1本の縁取りがあり, 各部位に一列の布ボタ
ンがつく。 礼装には金, 銀, 銅, 翡翠, 象の骨, 駱駝の骨のボタンをつけ, ヘ
リには庫錦など絹の縁取りか, 三本の幅の狭い縁飾りと, 三つずつが一列になっ
た布ボタンが縫い付けられている。 ある青年男性の礼装は以下の如くである。
頭には貂か川獺の皮の帽子をかぶり, 上述の袍子を着て赤か黄色の腰帯
を締め, その上に絹の褂子かチョッキを羽織り, 足には刺繍のある黒靴を
履き, 右股の上に銀鞘のモンゴル刀を下げ, 左股の上に銀のチェーンで皮
カバーのついた火打ち鎌を下げる。 夏には頭に円頂紅穂帽をかぶり, 濃い
色の長袍を着, 足には盤紋図案の布靴を履く。
盤紋の靴はバーリン地区の一大特色である。
バーリンの娘はスリットのない長袍を着て腰帯を締め, 黒のチョッキを羽織
り, 頭に赤い緞子を結び, 刺繍入りの布靴を履く。 成年の婦女はチョッキを着
ず, 赤い頭巾を被らない。 春秋には耳カバーをつけ, 棉袍を着る。 バーリンの
女子は幼少のころから手芸の伝統を受け継ぐ。 そのためバーリンの服飾は精緻
さが音に聞こえているだけでなく, 歴史上でも多くの名匠名工が出現した。
バーリンの風俗では娘はイヤリングをし, 既婚婦人は垂れ下げ式の耳輪
ス イ ホ
穂赫をつけていなかったら不吉だと考える。 薬指
穂赫)をつける。 もし には指輪をしてはならない。
<カルチン>
カルチンは大モンゴル時期の弓術士の子孫である。 カルチン服飾は後金 (女
真族) と清朝 (満州族) の影響をかなり強く受けた。 歴史的変遷と各地区の距
離が離れているため, 各旗県間の服飾文化にも一定の差異が存在している。 し
かし似通った生活方式と共同区域の文化の存在により, 個性差の方が共通の特
性より小さいので, 以上の地区の服飾文化をカルチン服飾の大きな体系の中に
包含することにする。
( )
ここの服飾も季節, 男女, 年齢などの状況によって当然異なった様式と類型
に分かれる。 冬季には男子は耳当てと縁を折った各種の毛皮または丸いフェル
グアピーマオ
トの 瓜皮帽(おわん帽, 半球形の帽子) をかぶり, 縁取りのある羊皮の長
袍を着る。 重要な場合は藍色の子羊の皮の長袍を着, 赤や緑の腰帯を締める。
右股の所に食事用ナイフ, 左側には財布, 背中の腰帯にはキセルを入れたタバ
コ袋を下げる。 老人は紫の円頂庫錦の縁取りした帽子を好み, 着ている衣服の
色も若い人に比べてやや暗い。 婦女の特徴は頭髪に3∼5本のセットになった
金, 銀のかんざしを挿すことである。 縁取りした羊皮の袍, 木綿のズボン, 布
靴を身につける。 春秋の季節には男女を問わず織物の棉の服を着るのを好む。
男子の服にはスリットが入っている。 夏季には円頂前鍔帽か, 頭巾をかぶり,
男女とも布靴を履く。 婦女はスリットの入らない藍か緑の長袍を着, 内着とズ
ボンだけで外出することを避ける。 袍子を着ないときは奥吉かまたはチョッキ
を羽織る。
婦女の頭飾りは多種多様で, 成年女子がとりわけ凝る。 既婚婦人は赤い頭巾
を被り, 二本のお下げにする。 未婚の娘は髪を分けることは許されず, お下げ
は1本にして未婚の証明とする。
タートウ アル
カルチンの婦女の主要な頭飾りには額箍, 耳輪などがある。 塔図爾が頭
飾りの基本で, その他の佩飾はその上に一定の規則に従ってつけられる。 娘は
塔図爾をつけない。 カルチン人は耳輪に付ける垂れ飾りを 穂赫といい,
この点が西部モンゴル人と異なっている。 既婚婦女は 塔図爾を必ず付けな
ければならない。 塔図爾によって垂れ飾りの数が決まるので, 塔図爾と
耳輪の数は同じになる。 耳輪は 塔図爾の輪状の金属を指す。 老婦人は 穂
バオロー
赫をつけず, 耳輪に 薄勒をつける。 カルチンの 薄勒が腰のそばの下
げ飾りを指しているのではない事がわかる。
ここの服飾文化は農業と牧畜業の生活方式を兼ね備え, 満, 漢の服飾要素を
吸収し, 地方と部族の特色を備えた民族文化形式の一つである。
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
<ブリヤート>
ブリヤート部落の服飾, とりわけ帽子と長袍は歴史伝統の痕跡を留めるとと
もに, 自己の部族のメルクマール的特色を堅持している。
関係資料の記載によれば, 世紀, ブリヤート人はバイカル湖の周囲の個
の部族連盟に隷属していた。 そのためブリヤート人は歴史の由来を忘れないよ
うに伝説の中に次のように言う。
帽子の頂珠 (本来は清朝の官吏が帽子の頂につけた丸い玉。 その色と
質によって等級を区別した) で太陽を象徴し, 赤いフリンジで陽光を代表
し, 帽身上に∼条の横向きの網目模様を縫いこんで部族の組成を表現
する6)。
ブリヤート人は, 帽子は歴史伝統を記録するだけではなく, 部族と個人の隆
盛を象徴していると考えるため, これらの帽子や頂珠を製作するときは特に細
心で厳粛である。 しかしある地方のブリヤート人には歴史認識の相違によって,
部族の祖先を象徴する網目模様は8本あるいはもっと多く本に限る習俗があ
る。
ブリヤートの男袍は通常は青, 藍, 紫の絹織物で表を作り, 前襟に赤の明る
いものと暗いもの二種の合計三色の絹のテープで縁取りする。 身ごろはゆった
りとしており, 馬蹄袖を有し, ピンク, 薄緑または紫色の腰帯を結ぶ。 冬季に
は帽子をかぶる。
婦女の袍子は未婚と既婚の二種に分けられる。 未婚の袍の縁は赤, 黒二種の
テープで装飾するほか, さらに絹や緞子のテープ一本で縁取りする。 三指幅の
縦方向のプリーツで腰を絞らなければならない。 娘はチョッキを着ず, 袍子に
は馬蹄袖もない。 頭には貂や川獺の皮で作った尖頂円形帽をかぶる。 帽子のつ
ばの下に真珠やメノウをつないだ飾りをつけ, 両側に金銀の輪の垂れ飾りをか
け, 胸の前に円形の飾り (もともとは仏像の箱) をかける。 成年女性の袍子の
特徴は, 縫いつないだ袖, 縁取りした肘飾り, プリーツのスカートなどである。
( )
この種の袍子は, 普通切りそろえた7枚の布で作られるという。 民間伝説の中
バオロージン
では, それは内モンゴルブリヤート部族の祖先の一つの薄勒金夫人が他族と英
雄的に戦い, 敗戦後, 敵が夫人の遺体を解体した。 その後, ブリヤート人は女
性英雄を記念し, 民族精神を高揚するために遺体が解体された部位によって衣
服を裁断し, 新たに縫製して今日ブリヤート特有の婦女の衣服が形成されたの
だという。 婦女は袍子の外側に同じ布地で縫製した襟なしの前ボタン式のチョッ
キを着, 重要な場合には奥吉も着用する。
ブリヤートモンゴル人は, 春秋の季節にはフードつきの外套を着る。 ブリヤー
ト人の居住環境は比較的湿度が高く寒冷なので, 靴は普通厚底で爪先上がりの
ブーツである。 つまり, ブリヤートの服飾は, モンゴル族の古代服飾の伝統を
継承すると同時に, ロシアの風格を適当に吸収し, 鮮明な部族の特色を持った
服飾文化を形成した。
第3章
雲南省に住む蒙古族の服飾
雲南省のモンゴル族の服飾をことさらに取り上げたのは, 元朝がその成立の
過程で雲南を戦略的用地とみなして, 年, 余万人のモンゴル族軍隊を派
遣し, 強大なモンゴル族の勢力を形成していたからである。 元朝は年に滅
亡したが, 雲南に封ぜられていた梁王は投降せず, 新たに建国された明王朝と
年にわたって対抗した。 洪武年(), 明王朝は万の大軍を率いて雲南
に進攻し, 余万人のモンゴル軍を打ち破った。 梁王は自殺し, 元朝の雲南に
おける統治は最終的に終結した。 敗戦したモンゴル軍は故郷に帰還できず, 雲
南に住み着くしかなかった。 定着したモンゴル族はその他の民族と融和し, 他
の民族から学んだ。 余年の転変を経て, 雲南モンゴル族の言語文字, 生産
方式, 生活習俗, 飲食服飾はみな漢族や他の少数民族の多くの内容と形式を借
用した。
雲南省のモンゴル族は約
人。 そのうち
人は雲南省通海県興蒙郷
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
に居住し, ほかには都市部などに広く分散している。 元王朝が滅びた後, この
村に人のモンゴル人が残り, 興蒙村の祖先となった。 この村では独自の言
イ
葉を使い, 内蒙古自治区で通用する言葉ではない。 彜族は最も早く雲南省通海
県に居住した少数民族であり, 雲南モンゴル族の言語文字と服飾頭飾には彜族
の影響が大であった。
北方のモンゴル族の伝統的な服飾は蒙古袍であり, 男女とも着用する。 これ
は草原生活には最適であるが, 雲南高原の湖のほとりでは不便である。 人びと
は次第に蒙古袍をやめて, 漁労や農耕生活に適した服飾を着用するようになっ
た。 男子は民国以前にはまだ長袍を着, 腰帯を締め, 北方モンゴル族の服飾と
似通っていたが, 中華人民共和国建国後は漢族男子の服飾と変わらなくなった。
女子は長袍を着ず, 中くらいの長さの上着と長ズボンを着用する。 上着は合
サンディエシュイ
計3枚で, 色が違い, 長短も異なり, 三 畳 水 と称する。 1枚目は肌にじ
かにつけるもので, 袖丈は手首まである。 長さは太股まであり, 高い衿と袖口
には花柄の縁飾りをつける。 2枚目は中間に着るもので, 衿はなく, 身丈が股
まで達し, 袖丈は肘までで, 袖口に縁飾りがある。 丈は1枚目よりやや短い。
3枚目で外側に着るものは衿も袖もなく, 丈は腰までの対襟 (前ボタン式で,
襟が前で合わさる) のチョッキで, 左側に1列, 小さな銀製の約個のボタン
を付け, 右側に6∼9個の小さなお椀くらいの大きさの円形の銀ボタンをつけ
る。 ボタンがきらきら光って非常に美しい。 チョッキは衿口のボタン1個で留
めるだけで, その他の銀ボタンは装飾用である。 外から見える衿, 袖, 腰周り
にはすべて刺繍と縁飾りが施される。 こうした衣服は彜族の女性の影響を深く
受けているが, しかしハイカラー, 袖口およびその花柄の図案になお北方モン
ゴル族の服飾の痕跡を留めている。 上着の色は緑や水色が多い。 上着が華やか
なので, ズボンは黒や青一色の長ズボンが多い。
年代以来, 内蒙古自治区と興蒙郷の交流が増加し, 興蒙郷の代表が内蒙古
を訪問した際, 北方モンゴル族の同胞が贈った蒙古袍を持ち帰った。 日常着に
( )
は不便だが, 祭りには着用して強烈な民族的特色と民族の一体感をアピールし
ている7)。
む
す
び
多数の部族を有するモンゴル族の服飾は, そのたどってきた歴史や居住地域
の相違などのため, 上述のように各部族によって違いが生じた。 婦女の頭飾り
など, 同じモンゴル族とは信じられないほど多様であるが, それぞれに美しく
豪華である。 しかし, モンゴル族も御多分に洩れず近代化の波に洗われて, 次
第に特有の民族服飾が失われつつある。 とりわけ都会の住人にその傾向が著し
く, 普段は漢装, 祭りや重要な儀式などの際だけ各自の民族衣装を着用するこ
とが多くなっているように見受けられるのは甚だ残念であるが, 世の流れ, 生
活の変化などでやむを得ないのかもしれない。 だが, 内蒙古自治区の若い人た
ちの中には漢語だけで用を足し, モンゴル語が話せない人たちも出てきている
今, 民族のアイデンティティーの確立のためにも可能な限り伝統的な民族服飾
を大事にしていって欲しいものである。
註
1) 山田敬三先生古稀記念論集刊行会編
方書店
2) 小島晋治監訳・大沼正博訳
史―中国小学校社会教科書
3)
易経
南腔北調論集
中国文化の伝統と現代
東
年
世界の教科書シリーズ②
明石書店
年
わかりやすい中国の歴
∼
書名。 2巻。 五経の一つ。 占いの書で, 周の文王や孔子によって大成され
たといわれ, 万物の変化の原理と処世訓を述べており,
周易
とも称す。
4) 盟旗制度:清朝の満州族の軍隊組織と戸籍編成。 八旗とは正黄・正白・正紅・正
藍 (四つの原色) と黄・白・紅・藍 (四つの原色に別の色の縁取りをした
もの。 には縁取りの意味がある) の8種の旗印。 後に蒙古八旗・漢軍八旗を増設
した。 八旗に属する官吏は常時は民政を掌管して戦時には将校となり, 平民は兵役
に服する。
( )
モンゴル族の歴史と諸部族の服飾
5) 香山陽坪著
騎馬民族の遺産/北ユーラシア
沈黙の世界史6
新潮社
年
6) 烏雲巴図
格根莎日編著
蒙古族服飾文化
内蒙古人民出版社
年
(「諸部族の服飾」 の項は主として本書を参照した)
7) この項は主として 「参考文献」 の () と () を参照した。
主要参考文献
[歴史]
(1) ドーソン著・田中萃一郎訳
刷
蒙古史
上巻
年初版
岩波書店
年第6
年
同上下巻
(2) 小貫雅男著
モンゴル現代史
山川出版社
(3) ハイシッヒ著・田中克彦訳
(4) 特・官布扎布
阿斯鋼訳
年
モンゴルの歴史と文化
現代漢語版
岩波書店
新華出版社
年
中央公論新社
年
蒙古秘史
(5) 白石典之著
チンギス・カン 蒼き狼の実像
(6) 杉山正明著
大モンゴルの世界
年
陸と海の巨大帝国
角川書店
年
(7) ジョン・マン著, 宇丹喜代実訳 チンギス・ハンー―その生涯, 死, そして復活
年
東京書籍株式会社
[服飾]
(8) 小川安朗著
民族服飾の生態
(9) 沈従文編著
中国古代服飾研究
() 周・高春明著
栗城延江訳
() 京都書院デザインセンター
東京書籍株式会社
年
商務印書館香港分館
中国五千年
年
女性装飾史
京都書院
年
色彩のコスチューム―中国少数民族の服飾―
株
年
式会社京都書院
() 李澤奉・劉如仲編著
清代民族図誌
青海人民出版社
年
() 芳賀日出男著 素材フォトバンク 世界の民族・衣装・小間物 (株) グラフィッ
ク社
年
() 梁京武主編
老服飾
北京・龍門書局
() 国立歴史民俗博物館編
年
よそおいの民俗誌
化粧・着物・死装束
慶友社
年
(
) 田中天&
著
() 朱和平著
コスチューム
中国服飾史稿
() 文化学園服飾博物館
中世衣装カタログ
中州古籍出版社
年
年
文化・服装学総合研究所
新紀元社
世界の伝統服飾―衣服が語る民
( )
族・風土・こころ−
() 華梅著
年
文化出版局
() 李昆声・周文林主編
雲南美術出版社
年
施潔民訳
五千年の歴史を検証する
白帝社
雲南少数民族服飾
中国服装史
() 文化学園服飾博物館編
文化学園服飾博物館名品選
年
文化学園服飾博物館
年
() 華梅著
中国服飾
年
() 鐘茂蘭・範朴編著
五州伝播出版社
中国少数民族服飾
年
中国紡織出版社
[その他]
() 小島晋治・辻康吾・太田勝洪・高橋満編
中国百貨
年初版
大修館書店
年第6版
() 馬寅主編・君島久子監訳
() 斉星著・伊藤克訳
概説
年
アジア諸民族の生活文化
年
モンゴルに暮らす
() 小長谷有紀著
() 窪徳忠著
年
岩波書店
モンゴル万華鏡―草原の生活文化
モンゴル朝の道教と仏教
() 川合宣雄著
年
三省堂
北京・外文出版社
(
) 小玉新次郎・大澤陽典編
() 一ノ瀬恵著
中国の少数民族
中国歳時記
モンゴル悠々旅行術
() 郭浄・段玉明・楊福泉主編
年
年
第三書館
雲南少数民族概覧
() 主編:拓暁堂・副主編:劉忠民, 尚林
年
角川書店
平河出版社
雲南人民出版社
中華旧俗
() 李澤奉・劉如仲編著
清代民族図誌
() 市川捷護・市橋雄二
中国の少数民族を訪ねて
年
年
中国書店
年
青海人民出版社
年1月第1刷
白水社
年4月第2刷
() 赤塚不二夫
文・横山孝雄
(
) 編集室編
マンガ
中国の知識百科
モンゴル―草原の国を好きになる
主婦と生活
年
株式会社トラベルジャー
年
() 後小路雅弘監修
モンゴル近代絵画展図録
() 萩野矢慶記写真集
() 司馬安編著
雲南の少数民族
() 宮紀子著
成吉思汗管理箴言
年
里文出版
年
中国民航出版社
年
モンゴル時代の出版文化
() 堺屋太一著
産経新聞社
年第2次印刷
年
名古屋大学出版会
堺屋太一が解くチンギス・ハンの世界
() 中国民族 (カード) 民族画報社編輯出版
講談社
発行年月日不明
年
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