2004年7月1日発行 大阪大学大学院人間科学研究科・人間科学部国際交流室ニュースレター スウェーデンで見た高齢者福祉の実践と 私たちが創るネットワーク Study Tour to Sweden: A Week that Lasted a Year 私は、2003年2月16日からの一週間、大阪大学 の学生海外研修助成金でスウェーデンのヴェクショ ー市に行きました。私の所属する講座のメーリング リストに大阪大学「学生海外研修助成金」の案内を 見つけたのが、全ての始まりでした。この企画は大 阪大学の学生の積極性と企画力・実行力の向上を期 する目的で行われているそうです。 当時3回生だった私と中村寿美子さん、森奥なお みさん、小南佳子さんはこの企画に惹かれるものを 感じました。というのも、このメンバーは、3回生 の夏に秋田県鷹巣町に住民と行政が一体となって進 めている福祉サービスを見に行き、「現場を知る」 姿勢こそが大切だと学んできたばかりだったからで す。私たちは、自分たちの興味関心のある福祉分野 の勉強にこの企画を活かせるのではないかと考え、 同じ講座の院生であった吉村恵さんと吉岡洋子さん の協力を得て、応募しました。 ヴェクショー大学の学生寮に宿泊。安くておしゃれな部屋に感動。 (左から二人目が井原) Växjö University dormitory (M.Ihara, second from left) 以降 P8 へ続く No.2 ボランティア人間科学講座 ソーシャルサービス論 M1 井原真由子 Mayuko Ihara (M1, Research Center for Civil Society) I was a member of a group of Handai graduate and undergraduate students who visited Växjö city in Sweden for one week in February 2003. All seven of us were studying at the Research Center for Civil Society in the School of Human Sciences. The study tour was conducted under the auspices of the Overseas Training Program of Osaka University, a program to encourage students to plan and implement extracurricular educational activities overseas. My classmates Yoshiko Kominami, Sumiko Nakamura, Naomi Morioku and myself, all 3rd year students at the time, decided to apply for it together. We received assistance from Aya Yoshimura and Yoko Yoshioka, two graduate students who later became team members. We had just come back from a field-trip to Takanosu-cho in Akita Prefecture, where we learned the importance of observing social welfare services in action by talking to welfare recipients and administrative officials. This time, we wanted to study welfare services in Sweden. The title of our project is “Building an International Network of Social Services.” The objectives are basically twofold. First, to visit relevant institutions and to discuss social services in Sweden as well as those in Japan with students at Växjö University and local people. Secondly, to write about our experiences and findings and send them over the internet through our “e-mail magazines.” Continued on page 8 1 目的はなんでもええさかい、 阪大生は世界に飛び出していきなはれ 人間行動学講座 教授 森川和則 2 私は1988年に渡米し、サンフランシスコ近郊の に大変よく質問をします。受講者が数百人もいる大 スタンフォード大学の博士課程に5年間留学後、ロ 教室でもぼんぼん質問がでます。日本人なら恥ずか サンジェルス近郊のカリフォルニア工科大学、東海 しくて聞けないような初歩的な質問、みっともなく 岸のラトガーズ大学、ニューヨーク州立大学に勤務 て言えないようなアホな意見でも臆することなく堂々 し研究・教育を行い、1999年に帰国しました。通 と発言します。米国では日本の大学のように教師が 算10年余り米国の様々な大学のあり方、政治経済、 一方的に講義をして学生は黙ってノートを取る授業 文化、慣習、社会情勢、複雑な民族事情などを日常 はほぼ皆無です。それに比べ、日本の大学生のなん 的に経験し、日本との大きな相違に驚くことも多く とおとなしいこと。実はこれは大学以前の小中高教 ありました。研究上の成果・収穫はもちろんのこと 育の結果なのです。しかし、このおとなしくて控え ですが、総じて大変興味深くためになる経験だった めで遠慮がちな国民性は今日の国際社会で日本の国 と思います。 益を大きく損なっているのです。日本のように「沈 その間、英会話が上達したのは言うまでもありま 黙は金」的民族と欧米のように「雄弁は金」的民族 せん。ただし、研究中は論文の読み書きやコンピュ とが外交交渉やビジネス商談の場に臨めば、多くの ータ相手の仕事がほとんどでしたので会話量は非常 場合前者が損を、後者が得をします。私は阪大生に、 に少なく、ほとんど練習になりませんでした。むし もっと積極的に自分の意見を人前で表明する態度と ろテレビ番組のほうが英会話の練習に役立ちました。 技術を養ってもらいたいと思います。 おかげでアメリカの80∼90年代のテレビ番組には 私の経験に基づき、阪大人間科学部の学生の皆さ ものすごく詳しくなってしまいました。 (オタク?) んに留学をおすすめします。本学部からの留学生が 渡米して数年すると、寝ている間に見る夢が全て英 少なすぎると思います。もっともっと阪大から世界 語になってしまいました。帰国して半年間くらいは に飛び出していってほしい。そのために阪大は世界 逆に、日本語をしゃべろうとしても英語が先に出て 中に交換留学協定校をもっているのです。 くるので、それを頭の中で日本語に訳しながらしゃ とかく留学というと語学力をつけることが第一の べるという一人同時通訳をやっていました。ただし、 目的のように思われますが、そうではありません。 90年代に日本で起きた事件・変化・流行等は全く 私の考えでは、留学の第一の効用は視野を広げるこ 知らなかったので浦島太郎的状態でしたが。(例: とです。同じ大学・同じ国にずっと留まっていると、 キムタクって何?) どうしても視野が狭くなりがちです。しかし、阪大 日本の大学生と米国の大学生の大きな違いは、ま の常識は必ずしも日本の常識ではなく、日本の常識 ず後者が非常によく勉強することです。日本の学生 は必ずしも世界の常識ではありません。普段当たり は大学受験以前で勉強をやらされすぎているので大 前だと思っていることが外国では全然当たり前では 学では一休みという人が多いですが(実は私も…)、 ないことに気づいてもらいたいです。高速道路を1 米国では高校までは遊んで大学から本気で勉強しま 時間走って1000円徴収されるのが普通だと思って す。米国式のほうが生産的であると思うのですが。 いるあなた、欧米の高速道路では何千キロ走っても もう一つの大きな違いは、米国の大学生がきわめて 無料が当たり前なのですよ。日本の外に住んでみる 積極的に発言するということです。米国の大学の授 ことで、日本を客観的に見る習慣がつき、それは日 業ではディスカッションが活発で、また学生は教師 本を良い方向へ改革していく原動力になると思いま す。 minority の人々が差別を受けるのを目の当たりに 留学の第二の効用は、自分が外国人になるという すれば、その印象は強烈です。自分が minority に 経験です。黒人、ヒスパニック、ネイティブアメリ なった経験のある人は日本に帰っても決して他人を カン、アジア人など、民族事情の複雑な米国で、人 人種、国籍、宗教、出自などで差別しなくなるでし 種・民族間の軋轢・対立・差別およびそれらに対す ょう。 る解決策を身近で見聞きしたことは私にとって非常 留学の第三の効用は、積極的に自分の意見を人前 に有意義でした。日本社会にも様々な差別が存在し で表明する態度と技術を養うことです。上述したよ ますし、近年は在住外国人も増えてきました。差別 うに一般に日本人はおとなしくて控えめで遠慮がち の源の一つは、自分が majority の一員であるとい です。それは日本人同士の間では美徳として尊重さ う驕りと、自分が異邦人あるいは minority になっ れますが、外国では通用せず自分が損をするだけで た経験の欠如だと思います。ある期間、自分が外国 す。留学すると大胆になれます。 人として暮らすと、majority であるその国民から 留学の第四の効用は外国に友人をつくること、第 有形無形の差別を受けることがいかに不快で不当で 五の効用は語学力を高めること、でしょうか。 やりきれないか、肌で感じられます。自分が差別を 目的はなんでもええさかい、阪大生は世界に飛び 受けなくても、自分が外国人である間に他の 出していきなはれ。 日本と中国の間で Between Japan and China 社会環境学講座D2 王 曄 Wang Ye (D2, Sociology) 私が日本の方々と初めて交流したのは、1978年 日中国交正常化された間もない頃です。当時九歳だ った私は、書道の中国代表として、中国を訪れた日 本人の方々と交流し、日本の方から「いつか日本で 勉強してきてね」という好意的な言葉を沢山もらい ました。復旦大学を卒業したのはちょうど天安門事 件の1989年でした。この事件をきっかけに大学卒 業生の留学を制限する政策が制定され、私も留学を 断念し就職しました。その後の日々は安定していま したが、その安定感に私はかえって不安も感じてい ました。この間も昔からの日本の友人たちと交流が 続いており、頻繁に上海でお会いしていました。そ のうち一人の女性の方は私の出身校で留学すること になりました。私より年上である彼女の姿を見て、 私の昔の夢も蘇ってきました。もう一回頑張って、 日本に留学したい、自分の視野と経験を豊かにした い、という気持ちになりました。留学先を日本にし たのは、私と日本の縁、また私の気質の中に何らか I first had contact with Japanese people in 1978, just after Japan and China normalized diplomatic relations. As a nine-year-old child representative of Chinese calligraphers, I got a chance to meet Japanese delegates visiting China. Many Japanese then kindly told me, “Come to Japan to study some day.” I graduated from Fudan University in Shanghai in 1989, the year the Tiananmen Square incident happened. The Chinese government subsequently restricted university students from studying abroad. I had to give up my dream and find a job. My life thereafter was stable and comfortable. Such stability, however, made me feel uneasy. During those years, I stayed in touch with Japanese friends and met some of them in Shanghai. One of them, who was older than me, began to study at Fudan University. Moved by her effort, my old dream revived. I decided to study in Japan as if going to an appointment decided many years ago. 3 の日本の雰囲気と通じるものもあったからではない But when I arrived in Japan, I found learning the か、と思います。中国で清少納言の枕草子を読むこ language quite a challenge. とがあり、「春は曙。やうやう白くなりゆく山際す difficulties that Chinese and Japanese have in trying to こしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」 communicate with and understand each other. という言葉に心を打たれました。日本は私にとって China, we often say that “we both have roots in the 絶対に遠くない国だと思いました。 same civilization” or “we are friendly neighbors”. As 実際日本に来てみて、言葉の壁は大きいと実感し a child calligrapher, I always wrote “Long live the ていますが、もっと大きいと思ったのは、むしろ両 friendship between China and Japan” when meeting 国がお互いを理解できていないということです。中 国では「一衣帯水」、「友好隣邦」、「同文同種」とい う言葉で日中の関係を簡単に表現してきました。書 道を通じて交流していた当時、子供の私が書いてい た言葉の定番は「中日人民友好万歳」という内容で I also faced the In the Japanese. It is easier said than done. I found the Japanese aesthetics and customs symbolized by “the chrysanthemum and sword” are rarely understood by Chinese in China. した。「友好」というものが、私の心の中で既に疑 Now, the theme of my study is the formation of 問のないこととして思い描かれていたので、簡単に modern Chinese urban culture and the change of 書けていました。ところが実際の友好関係の成立は women’s image. それほど簡単なことではないです。そして、 「菊と刀」 という風に象徴された、一見矛盾する、けれども見 When I was a research student at Osaka University, I 事に一体化した日本の独特な美学と風俗人情に対す listened to lectures by my current advisor, Professor る理解を、普通の中国の人々が知る機会もなかなか Yosuke Koto, and was very much attracted to words ありません。 and concepts such as globalization, modernity and 私の現在の研究テーマは、「近代中国都市文化の post-colonialism. Sociology seemed to open the door 形成と女性像の変容」です。 for me to objectively understand issues I encounter 大阪大学の研究生のとき、現在の指導教官である every day as a foreigner away from my homeland. 厚東洋輔先生の社会学の授業を受け、グローバル化、 現代性、ポストコロニアルなどの言葉に惹かれまし た。単にこれらの言葉に惹かれたというよりも、留 Yokohama foreign settlement, the history from Edo to 学生として初めて国から離れて、距離をおいて物事 Tokyo, and the ambivalence Japanese intellectuals had を見るという不思議さを、社会学の講義を通じて感 felt when exposed to western culture. じました。そして、私の心のなかにある色々な葛藤 China may have different paths to modernity. But as にも気づきました。例えば自分のアイデンティティ East Asians, we are similarly attracted by Western や日進月歩の中国の今に対する戸惑い、などです。 culture and caught in a kind of dilemma. I think it is そうしたとき、横浜の居留地や江戸から東京への meaningful to do a comparative study between the two 変遷に関する研究、また沢山の日本の知識人たちの societies. 欧米とアジアの文化の挟間で現れたアンビバレント な心境についての研究に触れ、深く感銘を受けまし 4 I was also quite moved when I learned about the Japan and The City of Shanghai is the epitome of Chinese た。たしかに日本が明治時代以降、近代・現代性を modernity, Westernization, and urbanization. Opened 求めてきた道は、中国と違うかもしれません。しか at the end of the 19th century, Shanghai flourished in し同じアジアの国として、日本が西洋の現代性に魅 the 1930s. After a blank between 1949 and 1980s, it せられる同時にまたいろいろな葛藤も抱いてきた点 revived as a cosmopolitan city. では、中国と比較できる可能性が極めて大きいと思 reflects all the problems of modernity in China. By いました。中国の現代性追求のプロセスは今も終わ reviewing its history and problems, we will be able to っていないとしばしば言われています。中国の現代 understand where we Chinese come from and where 化と西洋化、また都市化という三つの問題は錯綜し we strive to go. Today Shanghai ています。そして中国の現代化・西洋化・都市化と With these goals in mind, I study the modernization of いえば、まっさきに浮かび上がってくるのが、都市 Japan, while using Shanghai as a showcase for 上海です。 analyzing the formation of Chinese urban culture and 19世紀末に開港され、30年代に繁栄した上海は、 women’s image in the process of modernization. I do 1949から80年代までの空白を見事に乗り越え、現 so from the point of view of sociology along with 在再び昔の繁栄を取り戻しつつある、という認識は、 other disciplines. 近年しばしば見られます。歴史に翻弄されてきた上 海は、中国の20世紀の運命を象徴しています。現 While studying at graduate school, I have written 代中国の多くの問題が、上海というものに濃縮され articles for newspapers and magazines, to introduce ています。上海のことを理解するのは困難であり苦 Japan as I see and understand it. Because the Japanese 痛でもあり、それをある程度理解しないと、私たち government sent the SDF to Iraq, antagonistic feelings はどこから辿り着いてきたのが分からないし、これ against Japan are growing in China. My efforts may からどこへいくのも分からないでしょう。 not be significant, but I do hope that people to people こうした認識から、私は日本の近代化について勉 as well as country to country communication will be 強すると同時に、上海を一つの切り口にして、近代 strengthened through my research and writings. 中国の都市文化と女性像の変容について、政治経済 史、文学史、文化史に加えて、社会学の立場からの I cherish the words of sociologist Georg Simmel: アプローチを試みています。 “For a fish, the ocean is his homeland. For a person 大学院での研究の傍ら、私は、中国語の新聞、雑 like me, the world is my motherland.” 誌など利用して、私が見た日本、私が理解した日本 In between China and Japan, I do not feel pressed but を中国人に紹介してまいりました。また日本人の先 生が中国で発表する論文を翻訳したり、先生方の著 作を中国の出版社に紹介して出版したり、中国語を 日本の方に教えたり、また世界卓球大会、中国の天 津市、広東省などの関西招商会の通訳もやってきま rather see myself standing in a unique position beyond the frame of nations. I will continue my pursuit to promote better understanding between the two peoples. した。自衛隊のイラク派遣などで、中国では反日感 情が高まっている今、たしかにこういう私の活動は 困難でかつ弱いものかもしれません。しかし相手の ことを理解かつ尊重する気持ちは、人と人にしろ、 国と国にしろ、極めて重要だと、こうした活動を通 じてよりいっそう強く感じるようになりました。 私は社会学者ジンメルの次の言葉に共感します。 「魚 にとって大洋がそうであるように、自分や自分のよ うな人間にとって世界が祖国である」。 中国と日本の間に挟まれるのではなく、むしろこ の縁を利用し、国の枠を越えて、より良き理解を求 めて活動をしていくのが、私の留学の目的だと思い ます。その考えを、これからも、私の研究と活動に 貫いていきたいです。 王曄さんは上海の復旦大学でジャーナリズムを学んだ後、 1998年に来日しました。日本語学校、本学研究生を経て、 平成13年に人間科学研究科博士前期課程に入学。現在は 博士後期課程2年に在学中で、理論社会学を専攻しています。 5 シンチョン 「新村ブルース」に魅せられて: とても楽しい韓国留学のちょっと辛口な体験記 日本学術振興会特別研究員(PD) 太田心平 私が韓国に出会ったのは人科の学部二年の夏でし もの現地調査をするためには正規留学が一番クリー た。大学院に進学してからは頻繁に韓国で長期滞在 ンな方法であることなど、理由や目的は色々とあり シン するようになり、ソウルの代表的な学生街である新 チョン ました。しかし、最終的に私を正規留学にいざなっ 村を拠点に、大学で語学研修を受けながら、学生民 たのは、新村で垣間見た韓国の学生生活への憧れだ 主化運動世代の人々をインタビューして歩くという ったようです。 現地調査を行いました。その成果が修士論文になり こうして私は国際交流室なき当時の人科で孤独に ました。 留学の準備をし、入試に受かり、文部省のアジア派 当時の私にとって新村は独特の味がある街でした。 遣制度によって留学に出ました。何の間違いかトン 学生には何より向学と探究を求めるのが韓国社会の トン拍子でしたが、憧れていた新村には行けません 傾向です。図書館の閲覧室には夜中まで真剣な眼差 でした。韓国のほとんどの大学は徹底した学科制を しが溢れていましたし、街のいたる所で自分の可能 とっており、人類学科がある大学は新村にはなかっ 性に挑戦する若者の姿が見られました。反面、遊ぶ たからです。私が入ったソウル大の本部キャンパス 時には大いに遊び、飲む時にはトコトン飲むのも、 は、新村から一時間近くも離れたところで、実はず 韓国の大学生です。友だちどうしの喧嘩や、大人社 っと通ってきた阪大の吹田キャンパスにソックリな 会を罵る大声、さらには同じ酒場に居合わせた客ど 立地条件でした。正直、「こんなはずではなかった」 うしで熱唱する学生運動歌などが、街中から聞こえ とも思いました。しかし、これしきでは済まない数々 ました。若い憂いと希望に満ちた日々。当時の私に の計算違いが、その後の留学生活には待っていたの とっては、それが新村であり、韓国の学生生活の姿 でした。 でした。 コースワーク中には、時に阪大の20倍を越すリ 博士課程に進学した私は、色々な理由から韓国へ ーディング量や、授業ごとに課されるフル・ペーパ の正規留学を決意しました。世界で韓国研究をリー ー形式の発表文・討論文・期末報告書の作成にも苦 ドしているのが日韓両国であること、日本とは異な しめられました。濃密な研究室の人間関係がもつれ、 る韓国の学問ベースも身に付けたかったこと、何年 気が滅入ったことも多々ありました。ですが、そん なことよりずっと私を悩ませたのが、学問のあり方 についての日韓両国の違いです。韓国研究では日韓 が世界水準をリードしているとは言え、韓国の学界 では研究戦略や政治手腕が日本と比べ物にならない ほど問われるように見えてきました。こう見える背 景には、私が韓国で権力の中枢にあると言われる場 所に留学したことがあるのも事実でしょう。しかし 私にはどうしても、日本の研究者が地道な研究を異 常なまで神経質に行うのに対し、韓国の学界は融通 が利く反面で研究者まで研究より権益闘争に没頭し ているように見えてなりませんでした。また、韓国 誕生日にソウル大の学友たちが開いてくれた、 サプライズ・パーティーにて 6 の学問ベースには歴史意識や現代思想の影響が強く、 日本の学問ベースとの違いは純粋に学術的なものと 付き、希望が沸きました。 も言えないようでした。日韓の学界に見られるこれ こんな憂いと希望が、もともと私の憧れていた韓 らの相違は、片方に身を置いている限り文化の違い 国の学生生活の味だったのかもしれません。 として冷静にとらえることが可能でしょうが、いざ 研究や調査を目的として外国に滞在する人々は多 両方に属してしまうと身を引き裂かれるような悩み く、今後も増える一方でしょう。そのうち大多数は の原因になります。このままでは頭が変になると思 研究者として現地の一般人に接することとなります うことさえ日常茶飯事になりました。 が、それはそれで素晴らしいことです。でも、人と そんな時に私の心の支えは、釜山や大邱にいて私 して未熟な私にとっては、それ以前の問題として、 を「ソウルの友だち」と呼ぶ学部時代の友人たちや、 正規留学を通して現地の人々と同等の身分に立ち、 語学研修時代に寝食を共にしたルームメートたち、 より自然な形で彼(女)らとぶつかるということが、 そして修論の現地調査時代に知り合った悪友たちで とても貴重な訓練となりました。それにです。たと した。また、「シンペイは日本語も話せていいね」 え計画通りに進む留学があったとしても、それでは と言ってくれる同学たちや、私を「韓国産の日本人 新しいことなんて何も見えないし、自分も何も変わ 人類学者の第一号」と称して下さる若手の先生方も、 れないのではないでしょうか。 私を慰めてくれるようになりました。これらの時期 にも、それぞれに色々な苦しみがあったはずです。 でも、その苦しみの過程で衝突してきた韓国の人々 が、後々になると私に力を与えてくれたのです。き っと「今の敵も明日の友」になる ! このことに気が 太田心平さんは94年に人間科学部に入学。学部のころ NPO活動で訪れた韓国に関心を持ち、博士前期課程在学中に 韓国の西江大学に計9ヶ月の短期留学をしました。2000年に 博士後期課程に進学後、同年9月からソウル大学人類学科の博 士課程に留学。2003年2月に単位取得修了した後に現地で人 類学を教えた経験も。現在は両大学の博論を同時に準備中です。 Profile: Dr. Chandavone Phoxay - From Pediatrics to Human Sciences Public Health, Lao PDR, and the Japan International Cooperation Agency (JICA), she is currently a member of the committee on the “Maternal and Child Health Handbook Project” financially supported by the International Rotary 2650, Japan. On her recent trip back to Osaka with her daughter Micky for the defense of her Ph.D. dissertation submitted to the School of Human Sciences, she visited the Office of International Exchange (OIE) for an informal interview. Dr. Chandavone Phoxay was an Assistant Professor at the Research Center for Civil Society, the School of Human Sciences until November last year. She spent three years assisting students, both Japanese and international, while continuing her own research work. She was the first non-Japanese faculty member of RCCS. Now back in her home country, Lao PDR, Dr. Phoxay works for the Ministry of Health. After briefly being in charge of a joint project between the National Institute of Da-san (as she is fondly called in Japan) is a pediatrician by profession and was assigned for seven years to the Intensive Care Unit of Mahosot Hospital, the largest hospital in Laos, before coming to Japan to study. “Many people ask me why I changed my profession,” she smiles. Friendly and soft-spoken, one may not expect her to tell a story of overcoming a great sense of loss and pain to reconstruct a new life. But it was the sudden death of her husband that irreversibly changed the course of her life and career. Subsequently, she decided to quit practicing. “Not only did I feel guilty for not saving my husband, but 7 I guess I had witnessed too many deaths in ICU,” she says. with him at the School of Human Sciences, Osaka University. After becoming a lecturer of maternal and child health in a medical university, she persuaded the Lao government to send her to Japan to study more about the latest public health issues and findings. She spent two years in the Faculty of Medicine, Tokyo University, where she received a Master’s degree and met her supervisor Dr. Yasuhide Nakamura, who eventually recruited her to work 8-year old Micky spent a year in Osaka. Reunited with her mother at home, she aspires to study in Japan when she grows up. “In the beginning, she was a bit homesick in Osaka, but misses everything Japanese now,” said Da-san. Though it is too early to say, it will be a real pleasure to welcome yet another talented student from Laos. 表紙の つづき スウェーデンで見た高齢者福祉の実践と私たちが創るネットワーク Study Tour to Sweden : A Week that Lasted a Year 企画書のテーマは『福祉に関する国際的ネットワ ークの設立に向けて』としました。目的は大きく分 けて二つありました。まず、学生ならではの立場か ら、現場の視察をもとに現地学生と議論し、日本の 福祉についても伝えること。またメンバーが携わる 本学での「ノートテイク」の活動である「障害学生 支援」のあり方を考えること。 次に、結果を我々の中だけに留めるのではなく、 メールマガジンという媒体を通じて世界に発信し継 続することです。これらの目的を大阪大学人間科学 部の私たちはスウェーデン・ヴェクショー大学の学 生とともに達成しようと思いました。交流協定を結 んだばかりのヴェクショー大学に大阪大学人間科学 部の魅力を知ってもらうチャンスだとも考えました。 審査に向け、メンバーの家に泊まりこんで企画を 考えました。またプレゼンテーションの練習では、 講座の先生方や先輩方にも見ていただき、いろいろ な意見を参考にした上で審査に臨んだ結果、スウェ ーデン行きのチャンスを手にすることができました。 それから出発までの約4ヶ月間、私たちはヴェク ショー大学と連絡をとりながら日程や訪問先を確定 させていくのと並行して、スウェーデン・日本の福 祉に関する勉強を分担して進めていきました。その 準備の中で、日本語・英語ともに流暢な韓国からの 留学生のムン・チヒョンさんにもこのメンバーにな ってもらうことになりました。海外留学経験をもつ 人、旅によく出る人、細かい事務手続きをすばやく こなせる人、みんなの意見をうまくまとめてくれる 人など、メンバーそれぞれが自分の得意分野を生か し、準備にかかりました。あまり話をしたことのな かった講座の先輩ともうちとけ、メンバー7人が一 8 Continued from page 1 As we proceeded with the preparations, Gi-Hyun Moon a graduate student from South Korea, also joined the team. All of us worked hard studying the welfare systems in the two countries and making travel arrangements. As the departure day approached, we became united as one team. Växjö is located in the middle of southern Sweden, about 3 hours by train from Stockholm, the capital. Växjö University was established in 1967 and has 10,000 students. It is one of the most international universities in Sweden, accepting about 400 students every year from all over the world. Växjö University and the School of Human Sciences, Osaka University signed an academic exchange agreement in 2002. Since then, there has been a regular exchange of ケア付き住宅で暮らしている高齢者と。(左が井原、右がムン) つとなっていくのを感じ、スウェーデンにいく日が 待ち遠しくてたまりませんでした。 また100万円という大きなお金を大学から頂いた ので、そのお金をどういう風に使うかということを 何回も話し合いました。欲張りな私達は、できる限 り個人の負担を少なくするために、飛行機は安い時 期の一番安い航空会社を選びました。宿泊について も、ヴェクショー大学の学生寮やユースホステルを 利用しました。今まで乗ったことのないプロペラ機 に乗り、あまりの揺れと恐怖心でメンバーのほとん どが酔ってしまいましたが、それもこのメンバーだ ったからみんなで乗り切れたような気がします。ス ウェーデンの学生が実際に生活している部屋を借り たことも、スウェーデンの学生生活を垣間見る事が でき、とても楽しかったです。 私たちが行ったスウェーデン・ヴェクショー市は 南スウェーデンの中心に位置する街で、人口7.7 万 人です。またヴェクショー大学は、国際色が強く、 経済やバイオサイエンス、教育、保健福祉などの学 部をもち、現在拡大中の大学です。 現地では、メンバーの研究テーマ・関心から、障 害者福祉を主に考える「障害者チーム」、高齢者福 祉を主とする「高齢者チーム」、メディアを主とす る「新聞社チーム」に分かれました。 私は、高齢者福祉を中心とした地域福祉に興味が あったので、「高齢者チーム」に属しました。メン バーはムンさんと大阪大学からヴェクショー大学留 学中の山口宰さん(当時M1)の3人でした。 「高齢者チーム」は、1日目に高齢者のためのケ ア付き住宅を、2日目にヴェクショー市の高齢者福 祉担当者と、グループホームやケア付き住宅、デイ ケアセンター、レストランなど地域の人も同じよう に利用できる施設を訪問しました。 日本の老人ホームのように、何人かで一室を共有 しているのではなく、個人が自分の使い慣れた家具 を個室に持ち込んでいました。自分の部屋として生 活できることが当然だと認識されていると強く感じ ました。また、医療と福祉が密接な関係であること、 一個人の要介護者の情報をその周りの人全てが共有 し、連携していくことがケアの必要な高齢者の地域 生活を支えるのに必要だと感じました。 そして3日目の夜は、看護福祉学部の学生とフィ ールドで感じたこと、両国の福祉制度についてディ スカッションを行い、企画の目玉であったメールマ ガジン1号を発信することが出来ました。 それぞれ熱き思い出を胸に帰国した後、各フィー ディスカッションをしたヴェクショー大学看護福祉部の学生と (メンバー前列左から・小南・吉村・ムン・森奥・井原 後列左から中村・ウォルフガングさん・ミアさん・ヨアキムさん) students between the two universities. We got to stay in the dormitory of Växjö University and observe local student life. We very much enjoyed meeting and talking with Swedish students. Once we arrive in Växjö, the members were divided into three groups in accordance with their areas of interest. First was a research group concerned with the elderly, second with the disabled, and the third with the media coverage on social services and related issues. We saw a lot in each field. The final day of our study tour, we got together to report the outcomes and discussed the welfare systems of the two countries. Our “e-mail magazine No. 1” was created and sent out from Sweden. On returning home, we immediately proceeded with follow-up activities while our memories of the people and the country were still fresh. We prepared web pages in Japanese and English and sent the “e-mail magazine” all over Japan and beyond. We also wrote a final report and distributed copies to students, faculty and all concerned. We much appreciated receiving comments and opinions from recipients and wrote replies as best we could. Our international social service network thus expanded little by little. In March 2004, many of us graduated from Osaka University. I decided to go to graduate school to study more about the community welfare services. Some 9 スウェーデン・ヴェクショー大学との学術交流協定について 国際交流室担当・ボランティア人間科学講座・助教授 斉藤弥生 人間科学研究科&人間科学部は、2002年7月にスウェーデン・ヴェクショー大学との間で学術 交流協定を結びました。縁があり、コンタクトパーソンとなった私ですが、「せっかく協定を結ん でいただいたものの、誰も関心を持ってくれなかったらどうしよう…」とかなり不安を感じていま した。しかし、この2年間に大学院生3名と学部生2名がスウェーデンで学び、ヴェクショー大学 からも2名の院生が阪大にやってきました。さらに昨年度の学生海外研修助成金では、6名の学生 をヴェクショーに送り出すことができました。関係の皆様のご協力のもとで、出だしは好調です。 スウェーデンの大学は春学期(1月末∼6月半)と秋学期(8月半∼1月半)の2学期制で、留 学の申請時期も年に2回あります(6月初旬と11月下旬)。ヴェクショー大学で取得した単位は、 規定の範囲で本研究科、本学での取得単位に認定されます。多くの学生の皆さんに、留学を通じて、 世界の広さを感じる機会を持ってもらいたいと思っています。 ◆スウェーデン・ヴェクショー大学の詳細は、ホームページ http://www.vxu.se を参照。 ◆今回、ボランティア講座の学生が作成した『ヴェクショー大学&大阪大学 共同企画.平成 14 年度大阪大学学 生海外研修報告書:福祉に関する国際的ネットワークの設立に向けて』は、現地からの福祉に関するレポート 等が盛りだくさんで、留学希望者にとっても有益な情報です。人間科学部国際交流室で閲覧できます。 ルド報告をこのプロジェクトに興味を持ってくださ った日本全国はもちろん、世界中の方に日本語版と 英語版のメールマガジンを流しました。メールマガ ジンを読んでくださった方からの質問や意見に私た ちなりの考えをお答えするなど、少しずつネットワ ークができつつあるように思います。また帰国して 一ヶ月後に報告書や本企画の HP を作り、自分たち の活動を形に残すことができました。 メンバーは、それぞれ一般企業や市役所に就職し たり、博士課程に進学しました。私はこの4月に大 学院に進学しました。この企画を振り返ると、学年 を越えて、同じ関心を持つ学生が集まり、熱く議論 したことはとても貴重な学習の機会でした。私にと って、メンバーは大学生生活にとても素晴らしい刺 激を与えてくれました。先輩には、その後も卒業論 文や進路のことで相談に乗ってもらったりしました。 この企画は終わってしまいましたが、私たちの関 係はずっと続くでしょう。たくさんの方の優しくあ たたかい支援があったからこそ、私たちは日本と全 く違う美しい風景の中で、たくさんのことを貪欲に 吸収することができました。この経験を糧として、 これからもいろいろなことに挑戦していきたいと思 います。 私たちの滞在にあたり、お世話になりましたヴェ クショー大学の鈴木満先生他、関係の皆様に心から 感謝を申し上げます。 10 started doctorates, others started working in private companies or local government offices. With the completion and distribution of a bound copy of the final report, our Växjö project officially ended. Looking back on the experience of the past year, I must say that the study tour provided a wonderful learning opportunity for all of us. Students from different academic years who shared the same concerns traveled and studied together. Heated discussions often led to new findings. For me, the members were a wonderful stimulus to my college life. Some senior students gave me practical advice on the contents of my BA thesis and coursework and assisted my studies in many ways after the trip. Although the program is finished, our strong tie will remain unchanged. We wish to thank all the people who provided support, advice and encouragement to all of us throughout the Växjö project. We are especially grateful to Professor Mitsuru Suzuki, faculty and staff of Växjö University for supporting our study tour. I will always cherish the memories of beautiful scenery and kindness of people in Sweden while undertaking my new challenges. 追悼 先生、ありがとう…… ――池田寛先生を偲ぶ 郭 嫻 左から郭嫻さん、池田教授、東ひろみさん 2004年2月6日朝6時05分、先生が亡くなられた。 8時過ぎ、出かける準備をしていた私は一本の電話 でそれを知った。よい天気であった。修士論文の口 頭試問の日でもあった。 コミュニティ教育学に修士論文を提出するのは、 東ひろみさんと私の二人だった。池田先生を慕って 教職を二年間休職し、大学院に入った東さんに、ど うやって知らせたらよいか分からなかった。10時 過ぎ私は研究室に着いた。しかし、そこにはすでに それを聞いていた東さんの姿はなかった。彼女の携 帯電話がようやくつながると、向こうから東さんの 泣き声が聞こえた。私はつい強い口調で 「泣かないで。先生は私たちが泣くことを望んでい ないはずです。いまは口頭試問の準備をしなければ ならないでしょう。」 年上の東さんにずいぶん失礼だと分かっていた。 でも、私たち二人が動揺せず落ち着いて口頭試問を 受けることを池田先生は、きっと願っておられると 信じていたからだった。 無事に、口頭試問を終えたことを先生にご報告す ることができたとき、嬉しかった。池田先生の学生 として、悔いはなかった。ただ、口頭試問の時、先 生にそこに座ってもらいたかった。学位証書を先生 の手からもらいたかった。そして、 もっと先生と喋りたかった。 もっと朗らかな笑い声を聞きたかった。 もっと多くのことを教えてもらったり、 指導してほしかった。 もっと先生が作ったお好み焼きや焼きそば、 餃子を食べたかった……。 池田先生にお会いしたのは、1999年の2月であ った。 その日、人科北館402号室を尋ねると、私の話を 聞いた池田先生はすぐ授業への出席を許可しサイン をしてくださった。困っていた私に他の先生も紹介 してくださったおかげで、申し込み期限ぎりぎりに ようやく日本語学校から脱出できることになった。 もし初めてお会いした池田先生の助けがなければ、 私は、おそらくもう一年間日本語学校にいなければ ならなかっただろう。大学で日本語を専攻して四年 間勉強していた私にとって時間・お金の無駄になり かねなかった。留学生の私にとって先生は恩人であ る。 その後、聴講生である私に菊池先生、阿部先生、 厚東先生など素晴らしい先生方の授業を受けるよう アドバイスしてくださった。他の先生に「私のとこ ろの留学生です…」と私を紹介し、授業に出席でき るよう頼んでくださった時、ほっと安堵した記憶は 一生忘れない。 当時、私は異国に漂う一本の浮き草のようであっ た。私にとって、大学や、バイト先や、下宿などは、 単に長く停まれない、誰も知らない駅であった。多 くの人々の中に、知り合いもいなかった私は独りぼ っちであった。先生の何気ない話しのおかげで、研 究室に行けるようになり、みんなと親しくなった。 阪大には、私を受け入れるところがあると思い、大 学に行くのが好きになった。 そこに行けば、先生の話を聞ける。先生から読む べき本、論文をもらえる。先生やみんなと漢字のゲ ームをして、人よりできることがあると思って喜ぶ。 人と喋ったり、議論したり、いろいろな話を聞いた 11 りすることができる。時々お好み焼きや、焼きそば や、餃子などを食べられる。私は知らないうちに、 まるで自分が教計(コミュニティ教育学に変更する 前の講座名だった)の一員であるようにふるまいは じめた。 みんなに受け入れてもらっている、そこに所属し ている、みんなと平等であるという感覚をもつこと は、私たち留学生にとって大事なことである。池田 先生は、そのきっかけ、そういった雰囲気を作るよ う心がけてくださったようである。 先生の多くの学生たち、先生がかかわった教育現 場の多くの教師や地域の方々は、研究者である先生 を尊敬しているのはもちろんのことだが、それ以前 に先生の人間性にひかれていたと思う。学生を公平 に扱い、困っている学生を温かく助けるなど、マイ ノリティに深い関心を持ち研究してこられた先生は、 日頃の生活においても弱い立場にいる人々に明るさ と希望をもたらし、元気づけられた。 2月8日のあのとき。どうしても押さえられない すすり泣きがホールのあちこちから聞こえた。先生 は笑って送ってほしかったかもしれないが、気持ち がこもった涙を我慢してくださったと思う。 直前まで、先生は本を読み続け、書き続けておら れた。私は先生の「民主主義の現実態と可能態」と いう文に特に心を打たれ、「市民性教育 (citizenship education)」についての先生のお考えについて、多 くの学生の皆さんに考えてほしいと思う。院生たち は、「本を分けるということは私にとっては、自分 の骨の一本一本を与えるようなものだ!苦しいが、 その後院生たちが生かしてくれる」という先生の願 いをきっと叶えるだろう。先生、どうぞ安心して上 から私たちを見守り続けてください。 日本に来て、先生に出会って良かった。これから は、もっと頑張る人間、もっと人を信じる人間にな る。そして、先生に敵うような研究者になるよう努 力する。 先生、五年間ありがとう… 記 郭 嫻(カク カン)さんは、2004年3月に人間科学研究科 コミュニティ教育学・博士前期課程を修了しました。中国 河南省出身で、北京第二外国語学院日本語学科を卒業後、 1998年に来日しました。故池田寛教授は、多くの留学生 の教育に力を注いでこられましたが、郭さんが学位論文の 指導をうけた最後の留学生ということになります。ここに 謹んで池田先生のご冥福をお祈りいたします。 お知らせ 部局間協定校スウェーデン・ヴェクショー大学への派遣について 第Ⅰ期現地〆切: 6月はじめ 8月半ばに留学を開始するもの 第Ⅱ期現地〆切:11月末 1月末に留学を開始するもの ヴェクショー大学への派遣を希望する人は、同大学のHPから申請書のダウンロードができます(www.vxu.se から英語を選択)。授業のシラバス、住居、現地での生活費などについての情報も掲載されていますので、参 考にして下さい。留学希望者は、早めに国際交流室または各系の国際交流室担当教員まで申し出て下さい。 学生交流協定(大学間)に基づく協定校への派遣公募者の募集時期 第Ⅰ期募集:2004年7月 2005年1月から3月までに留学を開始するもの (今年度の募集は終了しました) 第Ⅱ期募集:2004年9月 2005年4月か6年3月までに留学を開始するもの 募集のお知らせは、国際交流室前に掲示されます。詳細は教務掛まで問い合わせてください。 12 ルンティップ・チョナパライさんは、2004年3月に人間科 学博士号を取得しました。博士論文のタイトルは「メディ アとアイデンティティ構築 − タイ都市部の若者における トランスナショナルなテレビ・ビデオ・インターネットの 消費」です。得意のタイの踊りと歌に、パーティー会場は 大いに沸きました。 Rungthip Chotnapalai received her Ph.D. from the School of Human Sciences in March 2004. Her dissertation is entitled, “Media and Identity Construction: A Case Study of Thai Youth’s Consumption of Transnational Television/Video Programmes and the Internet.” Once she started dancing in a traditional Thai costume, all gathered to have a better view. 留学生の学外活動 人間科学研究科ボランティア人間科学講 座博士後期課程3年次在学のブイヤン・シ ャフィさん(左から二人目)は、2004年 4月に英国で開かれた公衆衛生世界会議に 参加、母国バングラデシュで調査研究を行 っている「バングラデシュにおける母子健 康手帳の開発と初期評価のためのパイロッ トスタディー」のポスター展示をおこない ました。研究者や政府・NGO 関係者など、 約3000人が参加した学会の模様を国際交 流室に知らせてくれました。 Bhuiyan Shafi (2nd from the left), PhD candidate in International Collaboration at the School of Human Sciences, is showing his booklet to participants of the 10th International Congress on Public Health, held from 19 to 22 April 2004 in Brighton, United Kingdom. He exhibited a panel entitled “Pilot Development and Preliminary Assessment of Maternal and Child Health Handbook in Bangladesh” at the conference attended by some 3000 people including academics, medical professionals, government officials, NGOs and experts from multidisciplinary backgrounds from all over the world. 14 原稿募集のお願い Contributions Welcome OIE Bulletin(国際交流室ニュースレター)への投稿を歓迎いたします。常日頃感じていること、 疑問に思っていることなど、留学生の立場からでも、一般学生の立場からでも結構です。率直な 意見交換や提言に大いに期待します。また、留学生や卒業生の各方面での活躍、教職員や在学生 の国際的な経験や活動についても紙面で紹介したいと思いますので、そのような情報がありまし たら 「人間科学部・国際交流室」(〒565-0871吹田市山田丘1-2/e-mail:[email protected]) まで連絡いただければ幸いです。 The Office of International Exchange welcomes contributions to the OIE Bulletin. Articles/letters should be addressed to : The Office of International Exchange, School of Human Sciences, Osaka University, 1-2 Yamadaoka, Suita, Osaka 565-0871 Japan. e-mail : [email protected] Our Website 大阪大学人間科学研究科・人間科学部ウェブサイト http://www.hus.osaka-u.ac.jp/(日本語) School of Human Sciences, Osaka University website http://www.hus.osaka-u.ac.jp/english/index.html (English version) 編集 大阪大学大学院人間科学研究科・人間科学部 国際交流室 編集委員(平成16年度国際交流室室員) 石川真由美、木村涼子、斉藤弥生、中川 敏(編集責任者)、スコット・ノース、森川和則(50音順) 発行 大阪大学大学院人間科学研究科・人間科学部 国際交流室 (住所)吹田市山田丘1−2 古紙配合率100%再生紙を使用しています。 OIE Bulletin(国際交流室ニュースレター)は留学生、一般在学生、国内外の研究者、国際交流に関わる教職員の自由な情報・意見交換の場となることを意図してつく られています。内容は必ずしも大阪大学大学院人間科学研究科・人間科学部の公式見解を示すものではありません。
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