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(社)日本ツーバイフォー建築協会 2004年度坪井記念研究助成 報告書
「枠組壁工法による米国近代住宅の意匠に関する研究」
玉田 浩之(京都工芸繊維大学大学院)
本稿は、枠組壁工法によるアメリカの近代住宅の意匠について考察しようとするもので
ある。枠組壁工法とはプラットフォーム工法を指す。しかしここではプラットフォーム工
法の全身であるバルーンフレーム工法、及びこれらに順ずるブレースド・バルーンフレー
ム工法を含めて検討を行う。日本では、一般にツーバイフォー工法という名で知られてい
る が 、 ア メ リ カ の 史 的 記 述 に 倣 い 、 以 下 で は バ ル ー ン フ レ ー ム 工 法 ( Balloon frame
construction)とプラットフォーム工法(Platform construction)などをそれぞれ区別して記述
することとする。また、英語の記述が Balloon Framing または Platform Framing とされている
場合は、それぞれバルーンフレーム構法、プラットフォーム構法と記述することにする。
19 世紀初頭にアメリカ中西部のシカゴで誕生したバルーンフレーム構法は、ランバーの
規格化と釘の大量生産にともなって、比較的熟練した技術を持たなくとも施工が可能にな
ったことから、急速に全米に普及した構法である。換言すれば、バルーンフレーム構法は、
アメリカ社会の近代化を背景にして生まれた構法であったといえる。そこで、ここではと
くにアメリカの近代化の過程における構法の展開と意匠の関係性に注目したい。
まずは、本考察を進めるにあたって、基礎的研究として、枠組壁工法の史実の整理が必
要である。以下では、収集した資料に基づいて枠組壁工法の史的記述の変遷について述べ
る。そして、アメリカ近代住宅の意匠の概要について述べたのちに、1930 年代のモダニズ
ム建築を事例として、枠組壁工法とアメリカ近代住宅の意匠との関係について考察をおこ
なう。
木造枠組壁工法に関する歴史的記述の変遷
これまで米国において発表された、主な枠組壁工法に関連する史的論考を以下に挙げる。
アメリカでは定期的に論考が提出されている。それらの多くは、バルーンフレーム工法の
起源に関するものであるが、近年に発表された論文には、バルーンフレーム工法からプラ
ットフォーム工法への展開についてアメリカ文化史の側面から論じたものがある。これま
で、アメリカ建築の通史では、バルーンフレームに言及するものが多いが、新たな知見を
述べたものはほとんど見られないため、ここでは省略させていただいた。
1
バルーンフレーム及びプラットフォーム工法に関する主要な文献
・ David Monteyne, Framing the American Dream, The Journal of Architectural Education,
September 2004, pp.24-33
・ Ted Cavanagh, Balloon Houses: The Original Aspects of Conventional Wood-Frame
Construction Re-examine, The Journal of Architectural Education, September 1997, pp.5-15
・ Paul E. Sprague, The Origin of Balloon Framing, Journal of Society of Architectural Historians,
December 1981, pp.311-319
・ Robert Jensen, Board and Batten Siding and the Balloon Frame: Their Incomparability in the
Nineteenth Century, Journal of Society of Architectural Historians, March 1971, pp.40-50
・ Progressive Architecture in America, The Balloon Frame, Progressive Architecture, May 1957,
pp.145-146
・ Walker Field, Reexamination on the Invention of the Balloon Frame, The Journal of the
American Society of Architectural Historians, vol.2, no.4, October 1942, pp.3-29
・ Giedion, Siegfried, Space Time and Architecture; the growth of a new tradition, Oxford
University Press, 1941, pp.281-288
・ Light Frame House Construction, Technical Information for the Use of Apprentice and
Journeyman Carpenters, United States Government Printing Office, 1931 (revised)
・ J. M.Van Osdel, History of Chicago Architecture, part II, Inland Architecture and News Record,
1883, p.36
・ George E. Woodward, Woodward’s country Home, New York, 1869
・ George E. Woodward, The Country Gentleman, 15 April 1860
・ William E. Bell, Carpentry Made Easy, Philadelphia, J. Challen & Son, 1859
図1:バルーンフレームの構造図
図2:バルーンフレーム工法のアイソメ図
出典: William E. Bell, Carpentry Made Easy, 1859
出典: George E. Woodward, The Country Gentleman,
15 April 1860
2
バルーンフレーム工法についての記述が最初に登
場するのは、1858 年のウィリアム・E・ベル(William
E. Bell)の著書『Carpentry Made Easy』においてであ
る(図1)1 。その二年後、1860 年に出版されたG・
E・ウッドワード(George E. Woodward)の著書にも
記載されている(図2) 2 。その後、J.・M・オズデ
ル(J. M. Osdel)の記述が発掘されたことによって、
バルーンフレームが 1830 年代初め頃に開発された
ものであることが明確となっている 3 。
これまでは、これらの文献を論拠にバルーンフレ
ーム工法はシカゴを拠点として 1833 年に開発され
図3:セントメアリー教会 St. Mary’s Charch,
た工法であると論じられてきた。この説を世間に広
1833 出 典 : S. Geidion, Space, Time and
く知らしめたのは、美術史家ジーグフリード・ギー
Architecture, Oxford University Press, 1941
ディオン(Siegfried Giedion, 1888-1968)である 4 。ギ
ーディオンは 1941 年に出版した記念碑的著書『空
間・時間・建築』において、アメリカの工業化の過
程で発明されたものとしてバルーンフレーム工法を
位置づけて、高く評価した。
バルーンフレーム工法が開発されたのは、1833 年
に建てられたシカゴのセントメアリー教会(図3)
においてであったとされる。ここでギーディオンは、
バルーンフレームの発明者はジョージ・スノー
(George Washington Snow, 1797-1870)であると述べ
ているが、これに対して異論を唱えたのは、ウォー
カー・フィールド(Walker Field)である 5 。1942 年
に彼は、開発者はスノーではなく、設計の責任者は
大工のオーガスティン・テイラー(Augustine Taylor)
だという。現在では、いずれにしても、バルーンフ
レーム工法の発明は 1830 年ごろという見解に違いな
い。この点については、その後 1981 年にポール・ス
図4:1830 年代のメアリーセント教会の位置
WARE HOUSE とされているところが最初の
敷地だった。P. Sprague, The Origin of Balloon
Framing, SAH Journal, Dec. 1981
プラーグ(Paul E. Sprague)が行った調査結果からも
裏付けられている 6 。ただしセントメアリー教会は建設当時、倉庫であった(図4)。実際に
は、別の場所に建っていた倉庫が移築され、教会としてリノベートされたことが明らかに
されている。しかし一階建ての構造であることから、バルーンフレームの原理が採用され
ているというにとどまり、完全なバルーンフレームではなかった可能性が指摘されている。
3
さらに、1997 年には、テッド・カバナの新たな文献史料の発掘により「バルーンフレーム」
という言葉は 1804 年には既に用いられていたことが明らかにされた 7 。このことは、1833
年にバルーンフレームは発明されたとされる説をさらに 30 年ほど遡ることになる。カバナ
の史料にもとづいて考えるならば、19 世紀の最初期には、アメリカ国内でバルーンフレー
ムというと言葉は認識されていたと思われる。しかしそれが具体的にどのようなものであ
ったのかについては明らかにされていない。
以上のように数々の論考が提出され、史実の修正
と明確化が試みられてきた。アメリカにおけるバル
ーンフレーム工法に関する歴史的記述はギーディオ
ンの著書の存在が大きい。著書『空間・時間・建築』
において「バルーン構造は、当時のアメリカの工業
化の水準と密接に結びついている」と述べている。
このように、バルーンフレーム工法はギーディオン
によってアメリカの近代化の過程において重要な発
明と位置づけられた。多くのアメリカ建築史の通史
においても、この見方はほぼ同じである。バルーン
フレーム工法にアメリカ独自の建築技術の展開をみ
ようとする論考は、アメリカ研究、及びアメリカ文
化史の分野でも近年注目されている。分野を問わず、
いずれの論考もアメリカ独自の建築工法として注目
図5:プラットフォーム工法
するという点で一致している。
興味深いことに、現在では、こうしたアメリカ的
な技術の展開を称揚したバルーンフレーム工法に対
する見方が、戦後のプラットフォーム工法の急速な
浸透に少なからず影響を与えたと考えられている。
いうまでもなくプラットフォーム工法の成立に大き
く貢献したのは、戦後のランバーの規格化と大量生
産と施工の簡便さのためであったが、近年の論考で
デイヴィッド・モンテーニュは、個人住宅を提供す
る際に、
「伝統的なアメリカの工法」であるという認
識が製造者及び消費者の心理をうまく捕らえ、プラ
ットフォーム工法として大量供給することを可能に
したと論じている。
一方、カリフォルニアのゴールデンラッシュとと
もに広まったとされるブレースの入ったバルーンフ
レームは、西部工法とも呼ばれるようにアメリカ西
4
図6:プレースド・バルーンフレーム
(西部工法)
海岸に多く見られる工法としてしられているが、バルーンフレームをどのように改良した
ものであったのかについての史料や研究は見当たらない。西部工法とプラットフォーム工
法(図5,6)のどちらにしても、バルーンフレームの改良として位置づけられることか
ら、これらの改良の過程については、今後研究を進める必要がある。
アメリカ近代住宅意匠の変遷
バルーンフレーム工法が開発された後の 19 世紀末から 20 世紀を通じて、アメリカ独自
の意匠をめぐる試行が展開されたのは周知の通りである。19 世紀末までは、コロニアル様
式という地域的な意匠の移入が顕著であった。それは、各国の移入者たちが独自に意匠を
展開した結果であり、言いかえれば、それらは各地域、各建築家の好みによって展開され
たものである。例えば、イギリス、オランダ、ドイツ、フランス、スペインの伝統を受け
継ぐコロニアル様式が存在した。それ以降は、A・J・ダウニングの著書に見られるような、
諸外国の様式を載せたパターンブックが流布し、それらを参照することが多かったといわ
れる 8 。同時期に、いくつかの様式の折衷によって、新たなアメリカの様式の創造が試みら
れていたが、ひとつの傾向へと収束するには至らなかった。
しかしながらアメリカ全土の中でも東海岸のニューイングランドに限ってみるとき、建
築意匠は、イギリスで既に流行していたゴシック・リヴァイヴァルなどの折衷様式が主流
となってくる。次第に、建築史家ヴィンセント・スカリーが指摘するような折衷様式から
派生したシングル・スタイルやスティック・スタイルと呼ばれる意匠が表れはじめるが、
これらの様式は主にフランス・パリのエコール・デ・ボザールに留学したエリート建築家
たち(リチャード・モリス・ハント、ヘンリー・ホブソン・リチャードソン、フォーレン・
マッキムなど)の手によるものであった。建築事例はごく限られたものであったが、彼ら
の創作が開始されたことによって、アメリカの建築意匠は新たな変化局面を迎えることと
なった。のである。
しかし 20 世紀に入って、モダニズムの理念がよく知られるようになると、さらに新たな
意匠が展開することになる。インターナショナル・スタイルという様式である。この簡素
で平坦な面や連続窓を視覚的特徴とする様式は、ニューヨーク近代美術館が「近代建築:
国際展覧会」にともなって出版された書籍『インターナショナル・スタイル』9 でヘンリー・
ラッセル・ヒッチコック(Henry Russell Hitchcock)とフィリップ・ジョンソン(Philip Johnson)
らが提唱したことで知られ、1920 年代以降、アメリカ全土に影響力を拡げていった。
インターナショナル・スタイルという様式を成立させた一つの重要な背景は、モダニズ
ム建築家たちの工業化への注目である。アメリカの工業化はモダニズムの建築家たちを魅
了したといわれる。アメリカで活躍したモダニズム建築家は、アメリカの工業化の利点を
活用すべく、鉄骨造、コンクリート造に注目していた。その一方で、モダニズムを寸法す
る建築家たちは近代化の所産であるバルーンフレーム工法にも着目していたと考えられる。
5
モダニズム建築の意匠とバルーンフレーム工法
1920 年代の後半になって、モダニズムはアメリカ建築意匠の主流を形成することとなる。
では、モダニズムの展開する時期において、バルーンフレーム工法はどのように採用され
たのであろうか。この考察を進めるには、モダニズムとバルーンフレーム工法の技術的特
質との関係に注意する必要がある。
ジーグフリード・ギーディオンが指摘しているように、バルーンフレームはアメリカの
工業化の進展にともなって実現可能となった。つまり、この工法は合理的な工法を探求す
る中で建築産業の工業化によって生み出されたものであったといえる。ここで注意すべき
は、合理化はモダニズム建築家の主要な理念のひとつであったということである。ギーデ
ィオンは 1941 年の著書のなかで「この単純で、有効な構造は、現代の建築家の要求に完全
に合致している」と述べている。20 世紀初頭のモダニズム建築家たちが共有していた理念
は、多くの人々が十分に享受しうる良質で機能的な住宅を大量生産し、大量供給すること
であり、合理的な工法を選択することは、モダニズムの建築家たちにとって、重要な課題
のひとつだった。合理化を実現するためには、建築の工業化は不可欠であり、アメリカの
目覚ましい工業化は注目に値するものであった。つまりモダニズム建築家の合理的である
ことの希求は工法の選択に密接に関わっている。バルーンフレームの本来持っていた技術
上の合理的特質が、モダニズム建築の理念と符合したために採用されていったものと考え
られる。
一方、バルーンフレーム工法の持っていたもうひとつの特質にも注目したい。ギーディ
オンはバルーンフレーム工法の本来の特質として、視覚的な「優美さ」と「軽快さ」を評
価している。モダニズム建築家たち(例えばリチャード・ノイトラやマルセル・ブロイヤ
ー)はバルーンフレーム工法の採用に並行して、シンプルな意匠を施していた。
「形態は機
能にしたがう」といった合理的な思想のモダニズム建築において、工法と意匠が無関係で
はあり得なかったことを想起するなら、彼らがシンプルな意匠を採用した理由が納得され
よう。以下では、アメリカを代表する近代建築家リチャード・ノイトラを取り上げること
によって、モダニズム建築の意匠と枠組壁工法の関係について検証を行いたい。
ケース・スタディ:リチャード・ノイトラ
ギーディオンが著書『空間・時間・建築』
のなかで、近代建築に見られるバルーンフレ
ームの実例として取り上げたのはリチャー
ド・ノイトラの作品である(図7)。ギーデ
ィオンは「リチャード・ノイトラの住宅の多
くは、バルーンフレーム構法本来の性質であ
る優雅さと軽快さを表現している 10 」と述べ
図7:ノイトラ設計のテキサスの住宅, 1937
ている。つまり「優美さ」と「軽快さ」は、
6
S・ギーディオン『空間・時間・建築』丸善出版 p.420
バルーンフレーム構法の意匠の特質であり、ノイトラの作品にはそれが見られると指摘し
ている。なぜ、彼はバルーンフレームを採用し、シンプルな意匠を施したのだろうか。
リチャード・ノイトラはアメリカを代表する建築家と評される。ノイトラは 1892 年のウ
ィーンに生まれ、アドルフ・ロース(Adolf Loos)、
やフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wight)
に師事し、その後、ロサンゼルスで独立した建築家
である。1930 年には近代建築国際会議(CIAM)の
アメリカ代表となり、まさにヨーロッパのモダニズ
ムの中心で建築を学び、アメリカで設計活動を行っ
ていた。1932 年のニューヨーク近代美術館の近代建
築:国際展覧会」において、ノイトラはアメリカを
代表するインターナショナル・スタイルの建築家と
図8:ロヴェル邸(1927-29)MoMA によりイ
ンターナショナル・スタイルの代表とされた。
して賞賛された(図8)
。
ノイトラは他のヨーロッパの建築家たちと同様に
とりわけアメリカの先進的なテクノロジーに関心を
寄せてアメリカへと移住した建築家のひとりである。
1927 年と 1930 年にアメリカ建築に関する著書『ア
メリカは如何に立てるか Wie baut Amerika?』や『ア
メリカ Amerika』を出版しているが、そのなかでノ
イトラは、当時のシカゴの高層ビルの建設技術や都
市計画、構法、大量生産された建築資材などについ
て論じている(図9)。さらには、ノイトラはバルー
ンフレーム工法を写真とともに紹介し、その後いく
つかの作品でバルーンフレーム工法を試しているこ
とから、ノイトラのバルーンフレーム構法への関心
は極めて高く、アメリカの注目すべき構法として認
図9:
『アメリカ』表紙(E・リシツキーによる)
Neutra, Amerika: Neues bauen in der welt, 1930
識していたと考えられる。
リチャード・ノイトラの構法に対する見方
ノイトラの構法に対する見方は、技術の合理性の追求にあった。その最たる目的は建築
資材と設計手法、及び構法の標準化であった。バルーンフレーム工法は、標準化されたス
タッドや大量生産された釘を用いることを前提としており、標準化を目指す過程で生まれ
た工法のひとつであったといえる。まずは、ノイトラの標準化を追及する過程に焦点を当
てて、1920 年代および 30 年代のノイトラの住宅作品をみていきながら、バルーンフレー
ム構法の採用の過程を追ってみたい。
7
標準化の追求における壁構法の意味
ノイトラは標準化の意義を規格統一にみて、
標準化を重視していたことは明らかであるが、
どのように標準化を実践に移していたのであ
ろうか。ノイトラの標準化に向けた最初の試み
は、ダイアトムハウスにみることができる(図
11)。ここでは標準化部材によってユニットを
つくることが前提とされ、ユニットの組み合わ
せによって住宅を構築する方法、すなわちユニ
図 11: ONE-PLUS-TWO DIATOM HOUSE (1926)
ット化という設計手法が試みられている。ユニ
ット化は、巨視的に見れば、ユニットという標
準を想定した設計手法であったといえるが、微
視的には、他の作品との互換性を持たないユニ
ットによって構成されるにとどまっていた。
一方、ロヴェル邸では、標準化された鉄製材
やサッシが用いられており、サッシ幅を基準尺
度とするモデュールに則って、柱や梁を配置し
ている。したがってロヴェル邸は、ノイトラが
モデュールを設計段階に持ち込んだ最初の試
図 12: PLYWOOD MODEL HOUSE (1936)
みであったといえる 11 。数年後のビアード邸で
は、一定のモデュールを設計に持ち込んだだけでなく、モデュールに基づいたパネル化を
行っている。ここでは、モデュールに基づく鉄製壁パネルが耐力壁をなし、これら耐力壁
の組み合わせによって住宅を構成するという構築方法が試みられている。ここで採用され
たパルマー・パネル・システムは、モデュールに基づいた設計とパネルを用いた構築方法
の実現をもたらしており、再び、スンタバーグ邸で採用されることとなる 12 。
そして 1936 年には、木造壁工法を基礎とするプライウッド・モデル・ハウスが建設され
る(図 12)。この住宅は、モデュールに基づいて耐力壁をパネル化し、このパネルの組み合
わせによって住宅全体が構成されている。一定のモデュールごとにパネル化し、それらを
もとに構成するという構築方法は、ビアード邸やスタンバーグ邸で用いたシステムと共通
のものである。プライウッド・モデル・ハウスでは、このシステムに精通していたノイト
ラが、耐力壁としての鉄製パネルを木製パネルに置換することによって実現したものと思
われる 13 。このように 1920 年代後半から 30 年代にかけて、断続的に実験的工業化住宅が
発表されているが、1920 年代と異なり 30 年代にみられる特徴のひとつはパネル化である
(表1)。この時期に行われたパネル化は、上記のノイトラの標準化への取り組みの変遷か
ら判断するならば、モデュラー・コーディネーションに基づく構築方法を追究する過程で
導き出された、プレファブリケーションのための手段であったといえる。
8
表1:1920 年代後半及び 30 年代の工業化に関連する主要住宅作品の工法
名称
設 計 年
主材料
基本構造
具現化された特徴
備考
One Plus Two Diatom House
1920S-
鉄
軸組工法
ユニットの採用
吊り下げ構造+木質パネル
Lovell House (HealthHouse)
1927-29
鉄
軸組工法
モデュールの採用
吊り下げ構造
VDL Research House
1932
木+鉄
壁工法+軸組
モデュールの採用
バルーン・フレームの改良
Beard House
1934
鉄
壁工法+軸組
壁パネルの採用
パルマー・パネル・システム
Josef von Sternberg House
1934-35
鉄
壁工法
壁パネルの採用
パルマー・パネル・システム
Plywood Model House
1935-36
木
壁工法
壁パネルの採用
木質パネル
また、1930 年代にノイトラは、パネル化を行う際に、鉄骨軸組工法でなく、壁工法を採
用している点が注目される。こうした工法の選択は、当時のアメリカにおける標準化の状
況把握に由来するものであったと思われる。ノイトラ自身が問題視していたように、標準
化の徹底していない当時の状況下では、鉄骨軸組工法を用いる場合、部材間の整合性が得
られず、本来のプレファブ化の利点を生かすことができなかった 14 。それに対し、壁工法は
柱と壁を一体として施工可能なため、パネル化の容易な工法であった。こうした壁工法の
施工上の利点がノイトラを軸組工法から壁工法への変化を導いたと考えられる。
しかし、ノイトラが壁工法を採用した最大の理由は、コストにあったと思われる 15 。鉄骨
軸組工法は、住宅に適用するには、まだ工費が高く、ローコスト住宅の大量生産を行うに
は不十分な状況であった。ノイトラは当時の標準化の状況と経済性を考慮し、鉄骨軸組工
法に代わる工法を模索した結果、壁工法を選択したと考えられる。
とりわけ木造壁工法に関して、ノイトラはアメリカの在来工法として早くから関心を示
しており、その後 30 年代を通じて実験的に改良しつつ採用していた。ノイトラは 1932 年
のVDLリサーチハウスで、ブレースド・バルーン・フレーム工法に改良を加えて採用して
いた 16 。また、ビアード邸の設計段階では、パルマー・パネル・システムだけでなく、合板
パネルを用いた壁工法の採用も検討に加えていた 17 。この構築方法は、のちに大量生産の可
能なローコスト住宅として、プライウッド・モデル・ハウスと名づけられ、実現されるこ
ととなった。プライウッド・モデル・ハウスは、アメリカの在来工法である木造壁工法を
構法の基礎として用いることによって、より開かれた構法としてのパネル化へと展開して
いる。建築生産の観点からみるならば、技術的試行を通じてノイトラは、いわゆる「クロ
ーズド・システム」をあらゆる住宅に適用可能な「オープン・システム」へと移行させよ
うと試みていたと考えられる。つまりノイトラは 1930 年代の技術的試行を通じて、工法の
特殊性を可能な限り排除し、一般性のある提案をしようとしていたと考えられる。ノイト
ラはアメリカの工業化の現実や工法を考慮しつつ、様々な工法や素材の技術的試行するこ
とによって、モデュールの導入を踏まえた、標準化パネルによる構築方法を設計手法とし
て確立し、アメリカの新たな工業化住宅のプロトタイプを提示することとなった 18 。
このようにバルーンフレーム工法はノイトラの設計の合理性の追求過程において参照さ
れており、その後も改良を加えながらも継続的に採用されることとなったのである。
9
結びにかえて:アメリカ建築の探求における工法と意匠
この小論は、アメリカの近代住宅の意匠と枠組壁構法の関係性の一端に触れたに過ぎな
い。現在、アメリカでは当然の構法としてとらえられているバルーンフレームやプラット
フォームは近代の発明であり、アメリカ近代住宅の展開において重要な意味を持ちえたこ
とを示そうとした。
これまでアメリカ建築史研究では、アメリカ国内の独自の建築構法としてのバルーンフ
レーム構法が注目され、主にその起源の解明に重点が置かれてきた。しかしアメリカの建
築構法の発展は、工業化や近代化との関連性から考察することが必要であろう。今後は近
代化の最中から現代に至るまで、これまで提示されてきた種々の見解を分析することによ
り、バルーンフレーム及びプラットフォーム構法に対する認識の変遷の構造的理解を試み
たい。今後も調査の対象を広げ、これらについてのバルーンフレーム及びプラットフォー
ム工法の変遷とあわせて、検証を試みたいと考える。
注
1
William E. Bell, Carpentry Made Easy, Philadelphia, J. Challen & Son, 1859
2
George E. Woodward, The Country Gentleman, 15 April 1860 その他には次の論文がよく
知られる。George E. Woodward, Woodward’s country Home, New York, 1869
3
J. M.Van Osdel, History of Chicago Architecture, part II, Inland Architecture and News
Record, 1883, p.36 これら論争の経緯については既に、杉山英男氏の著書にて論じられている
ので参考にされたい。『安心という住居学』三水社、1997、p68-81
4
Giedion, Siegfried, Space Time and Architecture; the growth of a new tradition, Oxford
University Press, 1941, pp.281-288
5
Walker Field, Reexamination on the Invention of the Balloon Frame, The Journal of the
American Society of Architectural Historians, vol.2, no.4, October 1942, pp.3-29
6
Paul E. Sprague, The Origin of Balloon Framing, Journal of Society of Architectural
Historians, December 1981, pp.311-319
7
Ted Cavanagh, Balloon Houses: The Original Aspects of Conventional Wood-Frame
Construction Re-examine, The Journal of Architectural Education, September 1997,
pp.5-15
8
Andrew Jackson Downing の著作例;『Cottage Residence』(1842)、『The Architecture of
Country House』(1850)
9
H.R.ヒッチコック、P.ジョンソン『インターナショナル・スタイル』鹿島出版会 1978。1932
年の「近代建築・国際展覧会」と同時に出版された。
10
S・ギーディオン『空間・時間・建築』丸善 p.420
10
11
ノイトラはロヴェル邸以降、30 年代までモデュールに則った設計を進めている。
12
パルマー・パネル・システムは建築家 Vincent Palmer によって興された会社 Palmer Steel
Buildings Inc.のシステムを指す。H.H. Robertson 社のデッキプレートを耐力壁として用い、
鉄製のハニカムパネルと組み合わせる構法である。当時ノイトラは、この構法に精通しており、
Beard 邸や Josef von Stanberg 邸、California Military Academy などで用いている。このシ
ステムについては以下の文献に詳しい。“The prefabricated house” Architectural Forum,
vol.78, no.3, March 1943, pp.78-79
13
パネル化への関心は、活動初期に保持していたもので、ノイトラの 1927 年の最初の著書でパ
ネル化について紹介している。ここでは 1m×2m のモデュールのパネルを提示しているがプラ
イウッド・モデル・ハウスで採用されたモデュール(3feet, 3+1/2inch)とほぼ同じである。
Neutra, Wie Baut Amerika?, 1927, p.48 Abb.47
14
Richard Neutra, How America Build, 1936-37, Architectural Review, vol.81, March 1937,
p.132
15
この点について、E・R・フォードが既に指摘しているので参照されたい。エドワード・R・
フォード、八木幸二監訳『巨匠たちのディテール 1928-88 Vol.II』 丸善株式会社、pp.93-97
16
地震の頻発するアメリカの西海岸では、通常のバルーン・フレームを改良し、ブレースを入
れた工法が一般的となっていた。VDL リサーチハウスはこの工法を改良したものである。
Neutra, Amerika, Die Stilbilding des Neuen Bauens in den Vereiningten Staaten, Verlag
von Anton Schroll & Co. in Wien, p.135
17
エドワード・R・フォード、八木幸二監訳『巨匠たちのディテール 1928-88 Vol.2』丸善株式
会社 p.93
18
アメリカにおけるグロピウスの工業化住宅の試みは 1943 年以降のことで、そこでパネル化を
行っていたことを想起するなら、ノイトラの工業化に向けた取り組みの先進性がうかがわれる。
因みにそこでは、3 フィート 4 インチ(約 1m)モデュールのパネルを用いた構法が提案され
ていた。また、ノイトラと他の建築家たちとの違いとして、当時の近代建築家たちが柱と壁を
分離した軸組構造を用いていたのに対し、1930 年代のノイトラは、柱(スタッド)を内包す
る耐力壁、すなわち壁構造を基本としていたことが挙げられる。
11