1 題名:アラブ革命とソーシャル・メディア —An Arabian

題名:アラブ革命とソーシャル・メディア
—An Arabian revolution and social media—
明治大学情報コミュニケーション学部
江下雅之
ESHITA Masayuki
【要旨】
2011 年 1 月、チュニジアに端を発した政治的動乱はアラブ諸国に伝搬した。そこでは若者
を中心とする反政府活動の大規模化が見られたが、デモや集会の呼びかけ、抗議活動の様
子 の 伝 搬 など に ソ ー シ ャ ル ・ メ ディ ア が 積 極 的 に 活 用 され た と 評 さ れ て い る 。た し か に
twitter や facebook が多くの活動家に利用されたことは確かだが、一方ではアルジャジー
ラ衛星放送や携帯電話など、メインストリーム・メディア(MSM)も重要な役割を果たし
た。一般のブロガーが活躍する一方、twitter を通じて貴重な情報を伝え続けるジャーナリ
ストもいた。アラブ革命においては、市民、ジャーナリスト、MSM の活動を、ソーシャ
ル・メディアが融合した点に特徴を見出させるのである。
【キーワード】
ソーシャル・メディア、アラブ革命、MSM、twitter、facebook
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はじめに
2011 年が始まってまもなく、世界の目はアラブ世界に集まった。チュニジアに端を発し
た政治的動乱は即座にエジプトにも波及し、チュニジアのベンアリ政権、エジプトのムバ
ラク政権を次々と退陣に追い込んだ。動乱はこの二国にとどまらず、バーレーン、シリア、
イエメン等に広がった。そしてリビアではカダフィ政権をゆるがせ、本稿執筆時点では内
戦状態に陥っているところである。このような連鎖的な動乱の発生と長期政権の崩壊は、
1989 年の東欧革命を想起させる。そして情報の伝搬においてメディアの役割に注目が集ま
った点も、東欧革命と同様である。
2011 年のアラブ諸国における動乱(便宜的に〈アラブ革命〉と標記する)では、twitter、
facebook、YouTube などのソーシャル・メディアが情報の伝搬に絶大な威力を発揮したと
する指摘がある。実際、各地の動乱を現地から twitter で伝えるブロガー、携帯のカメラ
機能で撮影した映像を YouTube に投稿する市民、facebook のファンページでデモの参加
を呼びかける活動家が存在したことは確認できる。他方、チュニジア等はネット検閲が厳
しい国であり、エジプトやリビアでは動乱が激化した際にインターネット接続自体が遮断
された時期がある。このような状態のもとで、はたしてソーシャル・メディアが決定的な
役割を果たせたのかという疑問も生じてくる。
実際のところ、動乱の発生初期段階ではソーシャル・メディアは情報拡散に効果を発揮
した。また、現地ではなく欧州や米国、日本などから状況を追跡していた人々にとって、
ソーシャル・メディアはマスメディアよりも迅速に情報を収集できる手段として機能した。
しかし、紛争が激化した時点での現地では、通常の固定電話や携帯電話の SMS をはじめ、
活動家たちは利用可能な通信手段を総動員したのである。そこではソーシャル・メディア
が決定的な役割を果たしたとはいえない。
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2011 年 1・2 月における〈アラブ革命〉の展開
2.1
チュニジアのジャスミン革命
今回の〈アラブ革命〉はチュニジアに端を発した。そのきっかけと考えられているのが、
チュニジアの農村部シディジブドにおける 2010 年 12 月 17 日のムハンマド・ブアジジ青
年(当時 26 歳)の摘発事件である。彼は野菜などの無許可販売を理由に摘発を受け、市
職員から侮辱的な扱いを受けたという。市に対する苦情は聞き受けられず、彼は焼身自殺
をするに至った。この事件がきっかけとなって住民の暴動が起こり、20 名以上が死亡して
いる。暴動のニュースはインターネットを通じて拡散し、全国規模の反政府デモが生じた。
2011 年 1 月 4 日にブアジジ氏が亡くなったことで抗議活動は激化し、14 日にはベンアリ
大統領(当時)が亡命に追い込まれた。なお、ブアジジ氏の焼身自殺の現場となったシデ
ィブジドの名称は、後に twitter のハッシュタグに用いられ(# Sidibouzid)、チュニジア
動乱をめぐる情報交換のキーワードとなった。
2.2
エジプトの January 25 革命
チュニジアのベンアリ政権崩壊後、北アフリカのアラブ諸国では政府への抗議活動が若
者を中心に起きつつあった。そのなかでも、エジプトでは 2011 年 1 月 25 日に首都カイロ
のタハリール広場で大規模なデモ活動が実施された。このデモは facebook や twitter でも
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呼びかけられ、数千人が広場に集結した。また、エジプト北部のアレキサンドリアでも二
万人がデモに参加し、エジプト全土では数万人規模に達したとする報道もあった。これほ
ど大規模な反政府デモは、エジプトでは 1977 年以来であった。反政府デモは継続し、1
月 27 日には IAEA 前事務局長のエルバラダイ氏がエジプトに帰国し、ムバラク退陣を主
張した。エジプト政府は 28 日に夜間外出禁止令を打ち出し、さらにインターネット接続
の遮断や携帯電話網のブロックなどでデモ鎮圧を図ったが、活動家たちの多くは広場に留
まった。2 月に入ると親・反ムバラク両派の対立が激化した。2 月 8 日には全国のデモ参
加者が数十万人規模にもふくれあがった。ムバラク大統領は 2 月 11 日に辞任へと追い込
まれ、軍が暫定的に政権を運営することとなったのである。
2.3
他のアラブ諸国への波及
ムバラク政権崩壊の影響は他のアラブ諸国に波及し、2011 年 2 月 15 日から 16 日にか
けて、カダフィ独裁政権のリビアにまで飛び火した。北東部の都市ベンガジや北西部のゼ
ンタン等で反政府デモが発生したのである。このデモでは 30 名以上が負傷し、facebook
では 17 日を「怒りの日」と名付けてデモが呼びかけられた。対イタリア抵抗運動の英雄
の名前を冠した「ムフタール革命」の遂行が訴えられた。リビアの反政府デモは首都トリ
ポリにも及び、衝突は激化の一途をたどった。ベンガジは反政府勢力の拠点となったが、
カダフィ大佐は妥協を拒み、リビアは内戦状態に陥ってしまった。ほぼ同時並行的に、チ
ュニジア、エジプト、リビアほど激化はしていないが、バーレーン、イエメン、シリアで
も反政府活動が活発化している。
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ソーシャル・メディアと〈アラブ革命〉を取りあげた報道
チュニジアのジャスミン革命によってベンアリ政権が倒れて以来、世界中の報道機関が
ソーシャル・メディアの役割に注目した。たとえばフランスのリベラシオン紙は 2011 年 1
月 17 日付で「ソーシャル・ネットワークがこの革命の一主役となった」と題する記事を
掲載した。この記事では、誰もが自分なりの方法で革命に参加したこと、市民自身がジャ
ーナリストとして活動し、twitter や facebook を駆使したことを紹介している。また、1
月 15 日付の米国のニューズウィーク誌は「サイバーアクティビストが独裁者打倒に貢献
した」と題する記事のなかで、チュニジアの市民の一部が情報やビデオを集めて facebook
に投稿したこと、twitter でサイトの更新情報を広げていたことを紹介している。
日本でも同様に、報道機関がソーシャル・メディアの役割を大きく取りあげた。共同通
信社は 1 月 15 日に配信した記事「崩れた独裁、アラブ震撼
自由を渇望、民衆が蜂起」
のなかで「ツイッター革命」という項目を設け、twitter によってデモの情報が広がり、
YouTube に警官隊と若者の衝突する映像が掲載されたことを報じている。朝日新聞は 1 月
16 日付で「(時時刻刻)独裁崩壊、波立つ中東
強権、ネットに敗北
チュニジア政変」
と題する記事を掲載し、チュニジアでは国民の 3 割がネットを利用し、2 割にあたる約 200
万人が facebook に登録していることを伝えている。また、同日付の毎日新聞でも、facebook
および twitter が情報の伝搬に活用されたことが書かれている。もちろん、他紙も同様で
あり、17 日以降もチュニジアの革命に言及する記事の多くで、ソーシャル・メディアの貢
献が多かれ少なかれ取りあげられたのである。
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1 月 25 日以降、報道の中心はエジプトでの動乱となったが、ここでもソーシャル・メデ
ィアの役割に言及されている。たとえば 1 月 26 日の産経新聞は、facebook で数万人がデ
モ参加の意思を表明したこと、エジプトで twitter が接続できなかったことを伝えている。
同日付の中日新聞でも、反政府系市民団体がネットを通じてデモが呼びかけられ、facebook
で 8.7 万人が賛意を示したと報じている。1 月 27 日付の朝日新聞では、
「(時時刻刻)ネッ
ト革命、飛び火
フェイスブック「チュニジアに続け」
エジプトデモ」と題する記事で
以上の情報を詳細に記述している。
このように、〈アラブ革命〉の報道においては、facebook、twitter、YouTube 等のソー
シャル・メディアに言及する記事がきわめて多かった。しかし、実際に活動した何人かの
ブロガーや twitter ユーザが紹介され、facebook のファンページでの反応は示されてはい
ても、ソーシャル・メディアが具体的にどの場面でどのような役割を果たしたのかは、十
分に描かれていたとはいい難い。そして 1 月 29 日付の英国ガーディアン紙の「チュニジ
アの革命は twitter や WikiLeaks が生み出したのではない。しかし助けにはなった」と題
する論評のように、twitter 革命のような形容に疑問を投げかける見解も出ている。
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現実の活動実態
チュニジアのジャスミン革命では、
「Nawaat de Tunisie」氏(@nawaat)がデモの様子
を頻繁に YouTube に投稿し、更新情報を twitter で広げていた。氏が投稿した YouTube
画像は、数万回以上参照されたものもある(1 月末時点)。また、革命後に閣僚となったブ
ロガーの Slim Amamou 氏もまた、一時的に治安機関に拘束を受けたものの、それ以外の
期間ではフランス語で多くの情報を発信していた。閣僚就任後には、閣議の様子を twitter
で「実況中継」したこともあった。ジャスミン革命では、市民によるソーシャル・メディ
アの活用が大きな役割を果たしていた。
一方、エジプトの場合、事態はより複雑であった。インターネット接続の遮断と携帯電
話網のブロックが実施され、一時的に国内の通信インフラが麻痺させられたからである。
ソーシャル・メディアを存分には使えない事態が発生した状況下で精力的な情報発信をお
こなっていたのは、カタールの衛星放送事業者アルジャジーラのカイロ支局である。この
局自体もエジプト政府から弾圧を加えられ、1 月 30 日には支局が閉鎖されもした。しかし、
機材を持ち出したクルーが独自の放送を続け、タハリール広場の緊迫した様子を映し続け
た。また、ダン・ノーラン氏、エイマン・モヒェルディーン氏をはじめとするアルジャジ
ーラ所属の記者は、支局閉鎖後もデモ隊に混じりながら現場の情報を twitter で報じ続け
た。これらジャーナリストの果敢な活動が、エジプト情勢を世界に伝えたのである。
一方、インターネット接続が遮断されたとき、カイロの活動家たちは持てる手段を総動
員して情報の収集・伝達につとめた。フランスの放送局 France24 のインタビューを受け
たエジプトの活動家バセム・ファティ氏によれば、インターネット遮断は決定的な障害に
はならなかったという。インターネットと携帯網が遮断された後、彼らは電話による連絡
網を駆使した。携帯網が復活してからは SMS で情報をまわした。インターネットの遮断
は情報流通の障害にはなったが、それによって活動が中断することはなかったというので
ある。また、フランスのレクスプレス誌が 1 月 29 日付で「エジプトの〈デジタル革命〉
のすべて」と題する記事を出しているが、そこでもネット遮断時にフリーVPN や携帯網が
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駆使されたと報じている。
〈アラブ革命〉においては、一般市民がソーシャル・メディアを駆使したのは事実だが、
それだけで革命が進行したのではない。プロのジャーナリスト、MSM 等の存在があって
こそ、現地の情報が瞬時にして世界に広がったのである。
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結論
ソーシャル・メディアが〈アラブ革命〉において情報の伝搬に活用されたことは事実で
ある。世界中の人びとが革命の進行をほぼリアルタイムで追跡できた。現場にいる市民が
直接発信するその情報の伝搬速度は MSM には達成できないものである。この部分に注目
するなら、〈アラブ革命〉を「ソーシャル・メディア革命」と形容できなくはない。
一方、現地入りした多くのジャーナリストは、この強力な情報発信ツールを自身の報道
活動に用いた。その情報が世界中で拡散した。彼らの情報をリアルタイムで追跡した者に
とり、テレビや新聞が伝える情報の多くが既知のものであった。単純に考えれば、これは
ソーシャル・メディアが MSM に勝利したともいえる。しかし、そこで中心的な役割を果
たしたのは MSM に属するジャーナリストだったのである。
〈アラブ革命〉において顕著だったことは、MSM とソーシャル・メディアとが相互の強
みを活かすことで、強大な情報発信力が実現したことである。このような融合により、現
地入りしたジャーナリストと活動的な市民とが長期政権を倒すほどの威力を発揮できたの
である。ソーシャル・メディアとは、MSM に対立的な媒体なのではない。ソーシャル・
メディアは情報の発信力を増幅するものであり、その対象には MSM も含まれるのである。
(終わり)
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