1 やっと語れた「わたし」 - 中国帰国者支援交流センター

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やっと語れた「わたし」
−「中国残留婦人」野崎美佐子のライフストーリー−
聞き書き:資料収集調査員 南 誠
美佐子近影
野崎美佐子(のざき みさこ)の略歴
昭和 4(1929)年6月
北海道に生まれる
昭和 7(1932)年
樺太留多加郡へ移住
昭和 15(1940)年4月
からふとるう た
か ぐん
いじゅう
みなみこうざんとんかいたくだん
南 靠山屯開拓団として一家で渡満
と
昭和 20(1945)年 11 月頃
杜家に嫁ぐ(家族も同居)
昭和 30(1955)年頃
父親らの帰国を見送る
昭和 49(1974)年
三男と七女を連れての一時帰国[用語集→]
昭和 54(1979)年 10 月
永住帰国[用語集→]
はじめに
子供たちが言うの、
「何か書いてね、昔のあったことをね。書いて」
。前から言ってる。なかなか書
けない、前はね。書くと、こう思い出すと、胸が詰まっちゃってね、なかなか(書けなかった)。今
はもうだいぶ、こうやって、書けるようになって、しゃべるようにもなったけど。昔は、こういう
話をするのがつらくて・・・
美佐子は「中国残留婦人[用語集→]」である。昭和 15(1940)年、美佐子が 10 歳のとき、家族
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(両親、兄、弟3人、妹 1 人)と一緒に満洲へ渡った。敗戦後、混乱した情勢の中で、中
国人に助けられ、その家に嫁いだ。その後、
「中国残留婦人」となったのである。今まで、
その「胸を詰まらせる」ような歴史を自分の口から語ることはあまり多くなかった。思い
出すことでさえ、多くはなかったという。なぜなら、思い出すたびに、
「つらく」なるから
だ。
子供たちの要請に応えて、美佐子は筆を執った。聞き取りにいった私にも、そのメモ書
きを見せてくれた。本聞き書きは、そのメモ書きとインタビューを基にして、構成されて
いる。まとめるに当たって、本人の記憶を最優先にした。そのため、参考にしうる資料の
使用は最小限に抑えた。
美佐子の家を初めて訪問したのは、2003 年 11 月 12 日であった。玄関にあった大きな靴
箱、飾っていた写真の多さにまず驚いた。大きな靴箱は、子供や孫たちが集まるときのた
めに用意したものである。たくさんの写真は、常に、子供や孫たちの顔を見たいからだ。
私の聞き取りに対し、美佐子は「みな(子供や孫たち)に囲まれて、今は幸せ」だと、よく口
にしていた。
そんな美佐子にとって、「胸を詰まらせる」
「つらい」昔の出来事とは何だろうか。この
聞き書きを通して、その出来事を跡付けてみよう。
1.北海道から樺太へ
北海道生まれなんですけど、小さいとき樺太のほうに渡ってね。それで、(昭和)15(1940)年4月に、
私は 10 歳でしたけど、樺太留多加郡から、中国満洲のほうね、開拓団[用語集→満蒙開拓団]として渡ったの
です。
美佐子の父親は東京生まれであった。関東大震災の後に、1人で北海道へ移住し、そこ
で美佐子の母親と出会い、結婚した。そして、昭和4(1929)年6月 12 日、美佐子が生まれ
た。3歳のときに、一家が樺太へ渡り、10 歳のときまで暮らしていた。樺太へ移ったのは
「北海道にいても、土地もないし、それで樺太のほうへ行って、(畑)を開拓する」ためであ
った。
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<筆者:樺太のほうでは、どういう仕事を?>どういう仕事。農家ですね、うちはね。本当はね。
うちの父親は東京生まれで、東京大震災[関東大震災のこと]で、お母さんのところへ逃げた。
20 歳のときで。ちょうど東京大震災で、もう東京は地割して、すごかったなって話していたよ。
それで、北海道に逃げて、お母さんと知り合って。ん、だって、何もない。それで貧しかったみた
いですよね。それで、樺太に行って、樺太で畑を作って、農家の仕事をしていて。
その後、なぜ、樺太からまた満洲へ渡ったのかについては、美佐子は親からその理由を
はっきり聞いていない。
私が 10 歳のときかな。満洲へ行って。だから、私、その当時はね。親たち、どうして来たかって
ちゅう(のは)わからない。うちは樺太にいたときも、そんなに裕福な暮らしではなかったし。
両親は樺太で農業をしていた。幼い美佐子は農作業についての記憶があまりない。覚え
ているのは野原で遊んでいたことなどであった。
樺太の生活はね。まぁ、学校が遠いの。うちなんか、冬なんかスキーで行くの。
小学校4年生まで、樺太の小学校に通っていた。自宅から小学校までは、1時間ほどか
かる。冬は「雪の上を歩くのが大変なの、雪道が悪いし」、1年生のときから、スキーで
通学していた。夏でも、山道を歩くため、怖かったという。常に、兄と近所の子供たちと
一緒に、同伴通学していた。時には、親が心配し
て、途中まで迎えに来ることもあった。「今、考
えたら、よくやったって思うね」と樺太の生活を
振り返る。
樺太の生活も大変だわ、北海道も。今まで、終戦の時ま
でも、向こうで大変だった。
小学校での集合写真
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そう語る美佐子は、樺太から帰ってきたおじさんたちと、時々、樺太の話をする。「あ
そこなんか、お店なんかないよね」は話題のひとつであった。「街のほうになると(店が)
あるけどね。うちのあたりは、山だからないの。買い物なんか、1日掛か」る。
「そう、私も4年生のときぐらいかな。1回、一緒に」買い物に行ったことがある。「漫
画の本がほしくってね。友達が持っていてねって、漫画の本を買ってもらった覚えがある」。
クラスでは漫画がはやっていたため、親にねだった。買ってもらえたので、美佐子はとて
も喜んだ。しかし、どんな漫画だったのかは覚えていない。
日本も貧しかったよ。今はよくなったけど、昔は大変だった。まぁ、東京あたりはいいけど。うち
の友達は東京生まれで、あれもあった、これもあったって。(私は)当時なんか、飴玉買うだって、
大変だしね。お菓子なんて、食べたかしら。けど、飴玉は買ってもらって、食べた覚えがある。
美佐子はおばあさんの家に遊びに行くと、お小遣いを頂く。「そこのおばあちゃんの家
の前に、飴屋さんがあるのね。それで、おばあちゃんからお金をもらって。おばあちゃん
がお小遣いくれて、(そのお金で)買って」食べた。
2.
「満洲」へ
どうして、こんなところに
さんこうしょう
昭和 15(1940)年4月、
美佐子が 10 歳のとき、
一家は樺太留多加郡から中国旧満洲三江 省
い らんけん
依蘭県南靠山屯開拓団に入植[用語集→]した。
「どうして、こんな(ところ)に来ちゃったのか」と
いうのが満洲についての第一印象であった。
<筆者:どうして、こんなところというのは?>いや、最初はね。まさか、こういうとこと思わな
かったからね、日本から中国へ行ったとき。
ちょっと、どこ見ても、ちょっとなんかね、日本と違って、汚いっていうか、なんていうか。そう
いうのが。まぁ、昔からの習慣だからね。慣れるとよかったけどね。トイレもないし、風呂もない
し、トイレなんか、壁の向こうへ座って。おばあちゃんたちも知っていますよ。だから、どうして
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こういうところに来たのかなと思いました。においもするし、このにんにくのにおいとか、ネギの
においとか、きつくで。トイレもないし、まぁ、最初のうちは、ちょっと戸惑い。だんだん慣れる
とね。やっぱ、どこに住んでいても、慣れると。後から慣れたからよかったと。まぁ、国が違うか
ら、生活習慣も違う。
なのに、なぜ、満洲へ渡ったのだろうか。今となっても、美佐子は「どうして、向こう
へ行ったのかってね」と自問したりもする。
うちは樺太、今、ソ連のほうの、サハリン、そこから行ったから。どっちにしても、あまりいい生
活でなかったからね、うちはね。向こう(満洲)へ行って。だから、向こうへ行って、まぁ、食べる
ものが、田んぼを作って、お米食べれるから、まぁいいなと思ったのです。こっち(樺太)にいたら、
もう、お米なんかは配給で、そんなにお米だけでは食べれなかったからね。お米でも、何か大豆か、
何か混ぜないと、麦ね、そうやって食べないとだめだからね。
そうで、うちはなんかね。やっぱりわかんない。私は小さかったから、またね。ただ、まぁ。まぁ、
貧乏だったから、うちはね、だと思う。向こうでも、畑、狭い畑ね。そのときも、もう、食べるも
のも、やっぱり、お米も配給かな。あまり、お米のご飯に小豆とか、麦、麦だね、混ぜて食べた記
憶がある。お弁当でもね、その麦の入ったご飯でなければ、白いご飯はだめ。わからないけど。そ
れで行ったのかな。わからない、私。どういうふうにして、あの、開拓団で(満洲に)行ったのかね?
南靠山屯開拓団
南靠山屯開拓団は、三江省依蘭県に入植した十数の開拓団のうちの1つである。
これらの開拓団のうち3つの団については、列車や船により比較的順調に南下することが
ほうまさ
できたが、南靠山屯開拓団を含む残りの開拓団は、多くの苦難にみちた避難行の後に、方正[用語
い かんつう
又は伊漢通に辿り着き、ソ連軍の保護下に同地で越冬することを余儀なくされた。
集→]
伊漢通収容所では、食糧、衣類などの所持品の大部分を掠奪され、飢餓と寒気が募る中で
全員が栄養失調と悪疫に悩まされ、死亡者も相次いだ。こうした状況下で、中国人の妻とな
る者や子供を売る者などが続出した。
(満洲開拓史刊行会編集発行「満洲開拓史」
(昭41.4.17発行)より要約)
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開拓団の生活
満洲へ渡った野崎一家は樺太と同じように、農業に従事していた。
最初、行ったときは、大変でした。あの、何も
ないところに、ぽつっと、開拓団として入った
から。まぁ、徐々に家を建てたり、田んぼをね、
あぜ道っていうか、あれを作ったりね。いろい
ろそういうふうに、苦労したみたい。
最初のうちは、だんだんよくなると思ったんで
開拓団での集合写真
すけどね。何もなかったんですけどね。住むところも、まぁ、行ってから自分の家を建てて。
開拓団では「個人個人で田んぼを作って、作ったお米を納めて」いた。兄たちは「田ん
ぼの稲刈りとか、田んぼの植え付けとかね、そういうふうにやって」手伝っていた。美佐
子は妹の子守だけをした。当時の農作物は豊作だった。お正月のときに、餅を作ったりも
した。
あの、開拓したときだから、すごく出来がいいんですよ。お米でもね。野菜でもね。肥料を入れな
くても、すごくよくできる。お米なんか、すごいお米できて。餅米とかね。餅もつきますしね。餅
米あるから、ペタンペタンと餅ついてましたよ。
しかし、開拓団の生活が「ようやく楽になって、お米も取れて、お米のご飯も食べられ
るようになったのは、終戦直前であった」。
どっちも。日本にいても、そんないい生活じゃなかったし。満洲へ行っても、よくなんか、ただ、
配給されたものだけ着るしね。別に。そうですね。食べるものも配給。そういうのね。
<筆者:自分たちが作った食料っていうのはどうなっていたんですか?>最初はみな配給。後から
はなんか自分(たちで)作った、お米とかね。塩とか、お砂糖とか、そういうのはね、(ずっと)
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配給なんですよ。食べるものは自分たちが作ったんですよね。大豆も作ってるし、野菜とかも。
学校の制服までが配給だったという。冬は綿の入った洋服、夏は白いものだった。
「それ
を着て、みな学校へ行ったみたい」
。
中国人との付き合い
<筆者:開拓団の周りにどのぐらいの中国人が?>中国の人はね。ん、何軒もいないですけど、近
くの部落っていう、川の向こうにね。そこにうちらもよくね、あれ、してくれてね。向こうの人も、
何かあったら、持ってきたり。もね。中国人も、住んでるところがある。ぽつぽつでね。まぁ、あ
の、あれでないけど、川の向こうだけどね。その川のこっち、うちらの周りに団体でないけど。家、
そっちこっちあるんですよ。そこの人が、まぁ、いろいろね。教えてくれたり、畑作るのでも、い
ろいろね、教えてくれたり。
開拓団の周りに、中国の人が点々と住居を構えていた。その中国の人とは交流があった。
家を建てるのを手伝ってもらったり、農作業を教わったりしていた。このほか、互いに、食
べ物を交換したりもした。
<筆者:当時の開拓団のとき、中国人とのお付き合いはありました?>あります。よく、あの、近
くにいる中国、満洲の人がね。近くに来て、一緒に開拓団にいろいろ教えてくれたりね。その、家
を建てるのに、これはこういうふうにするんだよ、ってちゃんと教えてくれたり、親切に教えてく
れる人がいました。付き合いも、時々だから、餃子を作って持ってきたり、それはおいしいって、
おいしいって、食べてってね。
中国の人は「にらの餃子を持ってきてくれたり」した。それが「美味し」かった。日本人
は「餃子を食べるけど、作るのができない」。「だから、うちの近くの知り合った中国人は、
よく餃子を持ってきてくれたり」していた。こっちからは「お米なんかあげたり」した。「そ
ういうふうに」して、互いの交流が行われていた。そのような交流を通して、父や兄が「中
国語を覚え」た。
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学校での生活
開拓団の学校。4年生かな。そのとき。4年生で、ここの学校に入ったかな。それで、ここ卒業し
て、あとから、このレンガの学校が建ちました。最初はここにあったんですけどね。
美佐子は開拓団にある小学校に、4年生から通い
始めた。当初の小学校は、小さい事務所を仮校舎に
しただけであった。授業は午前と午後に分けて、行
われていた。この学校には野崎家の子供らが通って
いた。美佐子が卒業した翌年に、レンガの新校舎が
建てられた。弟が新しい校舎を使っていた。当時の
新校舎や運動会、弟のクラス集合写真を見ながら、
美佐子はうらやましそうに話してくれた。
新校舎での弟の運動会
<筆者:こちらの学校での生活はどうでしたか?>まぁ、学校は。でもね。でも、学校はろくに勉
強しない。もう、先生、もうみな兵隊へ行くし、仮の先生しかいないし。この先生も後から、K先
生っていう、高等(小)学校卒業した人が仮に来て教えていた。そういう人が、最後はもう訓練と
か、そういうことばかりやって、ろくに勉強もしなかったんですよ。自習、自習ってね。自習だ、
自習だって。先生がいないから、この時間は自分で勉強しなさいって言われるね。本読んだり。
学校で、先生に教えられた記憶はあまりなかった。教科書を読むだけの自習が多かった
という。自習のほか、訓練が中心だった。時は太平洋戦争に突入していた。学校の「先生
が、みな、若い先生は兵隊へ行って」しまった。仮の先生はやってくるが、まともな授業
はやっていなかった。もっぱら、防空壕を掘ったり、戦争に備えるための訓練に励んでい
た。
毎日、こうね。勉強する時間が少ない。訓練する、防空壕掘ったり、まぁね。勉強する時間は少な
いんですよね。学校にいるときはね、ほとんど、そんなに勉強なんか、なかなかできるものじゃな
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かったんですよね。
看護婦の見習い
きた
私はここ(開拓団の小学校)を卒業して、まぁ、私は北靠山屯の病院に、ちょっとあの、看護婦の見
習いとして行ってたんですね。北靠山屯、となりの開拓団だからね。
国民学校[用語集→]高等科を卒業した後に、美佐子は近くにある北靠山屯開拓団の病院に看護
婦の見習いとして行った。
高等科2年生でね、卒業して。そうでね、向こう、中学校なんて、そういうのがないから。6年卒
業したら、高等(小)学校で。高等科2年、2年(で)卒業して、私はとなりの開拓団。うちの開
拓団に病院がなかったから、となりの開拓団に行って病院行って、見習いっていうか、いろいろ手
伝ったり(していた)。
自ら看護婦の見習いをしたいと申し出たのである。その理由は次のようであった。
私はまぁ、友達2人いるんですよね。2人と一緒に。私はそういうのが好きだったからね。いろい
ろ、こう患者の世話とかね。そういうのが好きだったから。世話するのが好きだったから、あの、
そこ行って、いろいろ・・・
病院に看護婦見習いとして行ったのはよかったが、しかし、
「その年の秋ごろかな。その
(病院の)先生(が)兵隊に召集されてね。そこは、もう先生がいないから、それで、うちは帰
ってきちゃったし。帰ってきて、もう終戦だからね」
。
以上のように、北靠山屯の病院の先生までが兵隊に召集されていった。先生のいない病
院は病院としての機能を失った。そのため、美佐子は南靠山屯開拓団の実家に戻るほか、
行く場所がなかった。戻ってから3ヶ月ほどして、南靠山屯開拓団にできた新しい病院に
勤務するようになった。しかし、それも長くは続かなかった。しばらくしてから、日本が
敗戦したのである。
「(南靠山屯の実家に)帰ってきてよかった」と美佐子は当時を振り返る。
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なぜなら、
「親たちと一緒に避難できた」からだ。
3.終戦・逃避行
終戦
まぁ、終戦にならなかったら、よかったかもしれないんですけれどね。
終戦の直前では「お米も取れ」ていた。開拓団では米に不自由していなかった。米に不
自由していた樺太の時代は、過ぎ去った過去の出来事となっていた。
<筆者:もし、終戦にならなかったら、どういう生活になってたんでしょうね?>そうですね。終
戦になってからはね、まぁ、苦労しましたよ。避難してる途中にね、もう子供たちはのど渇いた。
まぁ、一緒に兵隊さん、みなで一緒に歩いたから、のどが渇いたって言ったら、もう水のところま
で行けないから、はぐれたら、もうおいていかれたら困るから。そうで、馬がこう歩くでしょう。
雨降ったでしょう。雨降ったとこに水がたまるの。それ手で掬って、飲ませたの。今なら、そんな
の、ばい菌(が心配)
。でも、病気もしないで、それまでよく生きたと思います。まぁ、途中でね、
あかちゃんを捨ててくる、あかちゃんを。やっぱり、1人の御婦人は、もう何人もの子供を(連れ
て行けないから)。
終戦の前の「お米も取れた」時代よりも、美佐子にとってはその後の「避難」が与える
印象のほうが強烈であった。私の「終戦にならなかったら、どういう生活になっていたん
でしょうね」という質問に対し、彼女が終戦になってからの「避難」の悲惨な体験で答え
てきたところから、その心情が窺える。
避難せよ
昭和 20(1945)年8月 15 日、避難命令が出された。それを受けて、母は米や大豆を炒っ
て、非常食を作った。翌日、開拓団から出ることとなった。開拓団の一行はもっとも近い
大都市ハルビンを目指して、進んだ。なぜなら、大都市ハルビンでも行けば、そこから日
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本に帰れると思ったからだ。
うちは、開拓団の人、みな一緒に。あの、16 日?15 日かな。(避難)命令がきてね。もう、ここ。
日本は負けたから、日本へ帰らなきゃならないからってね。それで、うちの母親が急いで、米とか、
大豆とか炒って、リュックに背負わせて、まぁ、いつどうなるかわからないから、おなかがすいた
ら、食べるようにって。山をずっと越えて、隣に北靠山屯があるんですよね。ん、その北靠山屯の
人たちと一緒に、うちは南靠山屯、もうひとつは北靠山屯ね。その2つの開拓団がいっしょに、山
さ
が
し
へ逃げたんですね。最初は、沙河子ってちゅうところ(波止場)に行ったんですけど。そこで船に乗
って、ハルビンのほうへ行ったら、日本へ帰れるかと思って。そこへ行ったら、もう船は通らなく
なったし。
すべての船はソ連軍が物資を運ぶのに使っていた。ハルビンへ向かう船は見つからなか
った。そのために、
「ここ(沙河子)にいてもしょうがない」ということで、開拓団の一行は、
また山へ入っていった。
歩きながらね。ん、それで、夜になると、とうもろこしなんか集めて、みな、釜で茹でる。途中で
もね、その、ソ連軍の戦闘機くるとね、もう怖いからね、火はつけてるけれども、すぐ消しちゃっ
て。でも、通り過ぎたら、また火をつけて、また炊くんですよ。それで、山の中で何日ぐらいかな、
暮らしててね。
最初は「沙河子ってちゅうところの」近くの山の中にしばらく隠れていた。
「そうしたら、
日本の軍隊の兵隊さんが」やって来て、
「ここにいてもどうしようもないから、つぎの方正
っていうところまで」行こう、と言われた。その後、
「その兵隊さんたちと一緒に方正」へ
向かって進んだ。
開拓団一行の逃避行は悲惨なものであった。それは常に死との隣合わせのような状況で
あった。幾人も死に、幾人も脱落していった。
「避難する途中、河を越えなければならない」
が、そのたびに死者が出る。美佐子はそれを目のあたりにしていた。
その河を越えるまえにね、1人のおばあちゃんはね、うちの副団長の親なの。その親がね、もうだ
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めだから、渡れないし、もう歩けないし、ここで殺して、埋めていってくれって、兵隊さんに頼ん
で。銃で殺して。もう 80 何歳だからね、そこで亡くなった。
また、途中でお産する婦人、置き去りにされた子供もいる。
途中でお産してる人もいるし、子供を道端に捨てて、泣いてる子もいるし、埋めてる子もいるし、
見ててね、本当、見てるけど、どうしようもないね。助けることもできない。だから、それが今の
孤児[用語集→中国残留孤児]なの。あの、中国人が拾っていてくれて、育ってた孤児。道端に捨てていたり、
まぁ、生きていればね、拾って行って、育ってくれたっていう子はいますよ。だから、本当、かわ
いそう。そういうのを見てて、どうしようもないもんね。助けることもできないしね、ただ、見て
るだけ。
そういうのを見て、誰もがつらくなる。しかし、どうしようもなかった。誰もが自分の
ことで精いっぱいだった。
<筆者:やっぱり、つらいんですよね?>みな、そうだからね。かわいそうだけどね。子供が道端
で、もう泣いて、泣いて。置き去りにして、自分の身を守る、守るのはようやく。
方正に集まる開拓団
「方正に来ても、(それ以上)どこへも行けなく」なった。そこには、美佐子たちの開拓団
のほかにも、たくさんの開拓団が集まって
いた。みな、ハルビンを目指して、方正に
集まってきたのである。美佐子は途中でも
そんな開拓団を見てきたという。
途中でもね、方正の河を渡る。あれしてた
とき、もう、そっちこっちの開拓団の人が
大勢集まって、そこまで。まぁ、ほかの開拓団の人たちも、やっぱり方正まで来て、その船でハル
ビンまで行って、日本へ帰ろうと思ったんですね。
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方正に着いたときは「食べるものがなく」なっていた。仕方なく、
「子供たち(を)のっけ
てきた馬ね。馬を殺して、肉をみなで分け」て、食べた。馬肉がなくなると、そんな「食
べるものもなくて、困ってるときに」
、中国人が食べ物を持ってきてくれたという。
中国人もね、ほんとう、心のいい人ばかりでね。あの、いろんなものを、お味噌とか、とうきびの
茹でたのとか、なんじゃらこうじゃらってそういうのを持ってきてくるだよ。われわれにね。
方正に集まった開拓団に、
「伊漢通開拓団跡地に避難せよという命令が出された」
。そこ
の難民収容所[用語集→]には5集落があった。南靠山屯開拓団は第5班に編入された。最初は、
立ち去った「開拓団の人たちが作った野菜、トウキビ、大豆、高粱などを取って、食べた」
。
方正の山奥にはかつて日本兵が駐屯していた。その日本兵が撤退したときに、残した食
べ物を拾いに行ったりもした。
方正の山にね、日本の軍隊が、ソ連軍が持っていたもの、少しある、少し残ってる。それをうちら、
かまどを背負って、拾いに行くんですよ。うちらも年、15・6 歳だからできるからね。最初はそう
やって、食料とかを拾ってきて、それで、何ヶ月、方正にいたんですよ。お味噌とか、お菓子もあ
ったし、高粱かな、高粱もあったし。あの、高粱なんかまだつぶしてないやつ。それを拾ってきて、
瓶でこう、なんかつぶして、うちの親たちがそういうふうにして、皮をとってね。瓶のなかに入れ
て、棒で突っ突いたのかな。それで、皮を取って、それを入れて、なんか食べた。
そのほか、
「中国人がソ連兵に隠れて、食べ物を持ってくる」こともあった。
頭は丸坊主、昼は山
収容所にいた若い女性たちは、昼は山へ「逃げていた」
。それは単に日本兵が残した食べ
物を拾いに行くだけではなかった。山へ逃げたのは、ソ連軍(の将兵)に乱暴される恐れ
があったからだ。
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ソ連軍はひどいわ、あれは。
最初のうちはね、ソ連軍が来てね。うちらなんか、(頭を)丸ぼうずにして。昼間なんかいないの、
山へ逃げていて。もうソ連軍を見たら、怖くて。まぁ、その場で押さえられた人、もう何人も見て
ますからね。もうみながいる前で、押さえられて、あの、その。そういうのを見てますから、私た
ちが怖くて。まぁ、山へ逃げてね、ソ連軍が来る前にね。
ソ連、悪いことして大変だったよ、もう、怖くて、怖くて。昼間なんか、家にいられない、いられ
ないよ。うちらも、髪の毛、丸坊主にして、顔に黒炭を塗って、山へ逃げたよ。暗くなってから、
帰ってくる。そういう、あれしてたからね、ずっと。
そうやって、ソ連軍がやってくる前には、若い娘達は頭を丸坊主にし、朝早く山に隠れ
ていた。日が暮れてから、 (焚火用の)木の枝などを背負って帰ってくる。
ソ連軍がやってくるのは、最初の冬が訪れるまでの間だけであった。冬、寒くなってか
らは、ソ連軍がもう来なくなった。
連行される兄
9月始めごろ、日本の兵隊さんたちがソ連兵に監視され、何百人、何千人と国道を歩い
て連行されていた。その中には、開拓団の人も大勢いた。美佐子の兄やおじもその中にい
た。兄は昭和 20(1945)年6月に、兵隊に召集されていた。シベリア抑留を経て、3年後の
昭和 23(1948)年に日本へ帰国した。美佐子は目の前で連行されていく親族を見ているだけ
で、会話することさえできなかったのである。
9月の始めごろかな、それ(美佐子のメモ書きを指さして)にも書いてますけれども。日本の軍隊は
ね、みな、こう、どこからか。みな連れてきたかな、ソ連の兵隊がね、もう、何千人、何百人。銃
をもってね、それで、うちのお兄さんとか、おじさん、開拓団の人、みな、話しかけられないの。
銃をもってね、早く行って、早く行ってってね。ただ、顔をあわせるだけでね、みな、通ってきま
した、うちらが住んでる方正ってちゅうところがね。それで、方正ってちゅうところから、船でソ
連へ連れて行った、兵隊さんたちはね。
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私のお兄さんがソ連のほうへ行きました。ちょうど 20 歳だったからな、19 歳かな。そのとき、召
集命令がかかって。ソ連、最初は牡丹江に行ったんですけど、後からなんか、だから、ここ、みな、
兵隊に連れられて、方正まで来て、ソ連軍に攻められてきました。
忙しいお坊さん
開拓団にお坊さんがいるの。もうその人は忙しい、忙しい。まぁ、毎日、そっち行ったり、こっち
おー
行ったり、毎日、もうお経あげて。Oさんっていう(お坊さん)。
写真を見ながら、美佐子が説明してくれた。収容所の中で死者が続出したため、お坊さ
んが忙しくしていた。収容所の中では飢えやら、寒さやら、伝染病やらで、人は次から次
へと死んでいった。一家揃って死んでいく例も少なくはない。南靠山屯開拓団だけでも合
計 284 人の死者を出している。そのうち、方正の収容所で亡くなったのは、約 151 人だと
いう。美佐子の妹も収容所で死んだ。伝染病に感染しての死であった。その後、看護に疲
れきった母親は病気を患っていた。
毎日、もう大変だよ、その死体を埋めるのに。最初埋めてたけど、後からなんか埋めれないよ。う
ちの妹、11月だったかな、亡くなったとき。そのときなんか、土地はもう(凍っていて)かんかん
らかだもん。鶴嘴で掘っても、もうね、なかなか、ちょこっと掘って、そこへ置いて、草を上にか
けて、それで、それだけだね。次の年、山へ運んだけどね。開拓団、そこも開拓団なの、方正の開
拓団なの。そこ、うちら避難したところだね。
うちの隣の部屋、一家、みな、あの、息子も死んだし、みな死んだよ。もう、ひとつ隣の人は2人
だけ残った。5、6人かな、家族、次から次へと死んだ。
大体、開拓団は 500 人ぐらいと聞いたけどね。方正で亡くなったのは、151 人か。みな亡くなっ
た数は、ここに書いてあるが、合計 284 名だと。でも、これは知ってるだけ、知らない、知らん
のも。また、残ってるだけで、私が知ってて、帰ってきてない人も大勢いますよ。だから、この人
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は、たまたまこの開拓団のことを知ってて、亡くなった人、大体書いただけでね。私の知り合いで、
亡くなった人はここに入っていない。同級生とかね、入ってない、方正で亡くなったけどね。
寒さを忍ぶ
開拓団が避難を開始する8月は、まだ夏の季節であった。みなが薄着のままだった。し
かし、満洲の冬が訪れるのは早い。美佐子の話ではよく「凍死」という言葉が出てくる。
寒さを忍ぶために、穴を掘ったりした。穴の中は決して暖かいとはいえないが、しかし、
外よりは暖かかったという。そうやって、みなが知恵を絞って、寒さから身を守るのに必
死だった。
まぁ、みな食べるものがなくて、寒いしさぁ。11 月ごろになるとね、そしてね、穴を掘って、上
にこう、あれして、そうやって、あれしたよね。ずっと穴を掘って、上に木でこう渡して、草かけ
て、上にね、そうやって、中であれしてたけど、寝てたけどね。でなかったら、凍死だよ。中は、
まぁ、暖かいって言えば、外よりは暖かいよね。少し土を掘って。着るものもないし、毛布、かけ
るものもないし、だから、そういうふうにして生き延び、あれしないとね、凍死だからね。
中国の家庭へ
冬になって、ソ連軍が撤退した。変わって、やってくるのは、保安隊[用語集→]であった。後
に、美佐子が結婚する杜も保安隊員の中にいた。杜は日本の軍隊で働いていた。日本語が
少しわかっていた。
「ここにいると、皆が死んでしまうよ。家族を連れて、杜家にきたら、みんな暖かいオ
ンドルの上で寝れる、食べるものもある」と日本語で話しかけてくれた。
「妹は亡くなり、
母は病弱で、弟はまだ小さい。私が犠牲になれば、家族は助かる。きっといつか日本に帰
れるんだ」と思い、美佐子は杜家に嫁ぐことを決心した。一緒に両親や弟3人も杜家に入
ったのである。
11 月半ばごろの出来事であった。
収容所にいた多くの人がこのような形で、
生きる術を現地の家庭に託して、入っていったようだ。
保安隊ってね、知ってる?中国人ね。うちの親父(後の主人杜)がそうなの、お父さん(後の主人杜)
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がそうなの。来てね、見張ってくれたりね、それで、助かったけどね。食べるものなんかね、やっ
ぱり、中国の人、いろいろ持ってきてくれる。お米とかね、粟とか、いろんなものを持ってきて、
売るの。まぁ、最初、お金持ってる人はいいんだけど、最後、お金もなくなったら、どうしようも
ないよ。だから、もうみな中国人のところにね。ここにいたら、凍死だから、凍死だから、みな、
うちへおいでって、みな来るのね、中国の人ね。
私の妹も、そこ(収容所)で亡くなってね。それで、うちの母親も病気で。でも、そこで、方正で亡
くなってない。私もお母さんも病気だし、弟たちも食べ物もない、着るものもないし、お父さんも
大変だから。私が犠牲になれば。この中国の、杜家にいってね、世話になったの。11(月)、もう正
月近かったね。
4.中国での「残留」
親たちとの 10 年間
親たちが日本へ帰ったのは、10 年後の昭和 30(1955)年だった。その間、ずっと一緒に暮
らしていた。樺太、満洲の時と同じように、みな農業に従事していた。
美佐子一家が入っていた杜家は地主階級であった。そのため、方正に土地を保有してい
る。杜家に入った最初の頃は、その土地を耕していた。しかし、その後の土地改革によっ
て、土地がいったん取り上げられる。
ラオドゥジィア
終戦の後、杜家の畑。あの、老杜 家 [杜さんの家。
「老」は親しみを表す接頭語]に私が行ったか
リ ジャン
すき
ら、そこの畑。杜家の畑を作ってね、うちの父親と弟。弟なんか、馬を連れて、犂 杖 [犂。家畜
に引かせて、土地を掘り起こす農具]とか、なんか引いてね。種まいたり、そんなことやってまし
たね。
お父さんもお年だし、そんなに働けないから。向こうには種瓜ってわかる、それを見張ってた覚え
があります。そういう仕事をしてたみたい。弟たちは、その、農家の、農業の、刈ったり、播いた
り、手入れしたり、そういう仕事をしてからね。
17
私はもううちで、家事ですね。もう、うちあたり、畑が多いから、時には、十何人も使ってね。
杜家に入った年に、病弱の母は死んだ。その後、父と弟2人がずっと農業に携わってい
た。一番下の弟だけが、学校に通っていた。
(弟たちの)中国語はぺらぺらです。もう 10 年間も向こうにいたから、(一番下の弟は)学校にも入っ
てたし。
(入ったのは)中学校かな、中学校まで入ったかな。真ん中の弟は学校へ入らなかったの、農家の手
伝いをしてたから。3番目の弟ね、一番下の弟だけ学校へ入れて。1番目と2番目は農家の仕事を
手伝って。でなかったら、食べれないから。
中国で 10 年間も過ごした弟たちは、一所懸命中国語を覚えようとしていた。しかし、日
本に帰ってからも、日本語を覚えるのに苦労したという。
言葉、そうですね。あの、やっぱり、中国語を使って、学校に行ってたんです。中国語を使っても、
ブゥシュヌ
帰ってから、不 順 [順調にいかないこと]したみたいで。夜勉強して、すごく苦労したみたい。
それで、いま、一番下の弟はもう亡くなった、去年に亡くなったん。その子は、あの、溶接じゃな
く、塗装をやってたんです。それを覚えるのに、必死で勉強したなんて言ってた、日本語の勉強を
ね。
最初は食べれなかった
杜家に入った当初は、中国の食べ物に慣れなくて、大変だった。時間が経つにつれ、食
べ物にも慣れてきた。とうもろこしの粉で作ったおかゆは、おいしかったという。日本に
帰ってきた父親は、美佐子に時々、とうもろこしの粉で作った食べ物をまた食べたいと懐
かしそうに話す。
食料、とうもろこしとか、大豆。そのとき、あの、米なんか作ってなかったから。とうもろこし、
大豆、高粱、粟。それで、んん、やっぱりね、とうもろこしなんか、碾いて。
18
最初はね。食べれなかった〜。なんかね。最初、行った時ね。粟のご飯とかね。もう、のどが詰ま
って。ぱさぱさだったからね。ちょっと食べづらかったかね。大変だったけどね。そんな慣れてく
るとね。まぁ、それしかないと思えば、食べないとおなか空くしね。まぁ、1年。まぁ、そう。す
ぐ慣れちゃって。みな、慣れて。最初、それを食べると、下痢したり、なんか大変だったけどね。
まぁ、最初のうちだけね。
バオ ミ ミエヌ ズ
よく、包米 面 子[とうもろこしの粉で作った小さなパン]
。で、こう、なべ(中華鍋)につけて。
それがおいしいの、それがおいしかったよ。うちの父親なんか、あの、日本へ帰ってきて、あれが、
おいしかったもんって言ってたもん。ん、釜にね、釜の縁にね、こう、ぺたんぺたん、くっつけて。
それがおいしかったよ、なんて、もう1度食べたいな、なんて言って。
<筆者:食べさせましたか?>だって、こっちにそういう釜もないし。向こうで作ってました、
10 年間一緒に住んでたからね。日本へ帰ってきて、私が(昭和)54 年に帰ってきて、あの、お父さ
んが、まぁ、そういう話をして。向こうでね、そういうの、食べたのを記憶があるって、おいしか
ったって。
土地改革
土地改革の際、多くの地主階級、富農階級などの財産が取られた。元地主階級であった
杜家が被った被害はわりと少なかった。杜家が所有する土地などの財産が一度取られたが、
しかし、その後の分配の際、杜家の分もあった。杜家では分配された土地を耕し、弟たち
は村の豚を集めて、放牧して、生計を立てていた。
うちは、うちの旦那はね、昔は、地主だったから。昔は地主だけど、だんだん、地主の時の旦那が、
おじいちゃんが亡くなって、中農になってたの、その当時はね。もう、財産は、畑少しあるだけで。
それで、やっぱり、なんか、やられたみたい。やられたって、まぁ、となりの町から来て、中農だ
からね、やられたけど、そんなにひどくはなかった。うちは割とね、ほかの人よりはね。んん、な
んか、杜家の人は、すごく優しい、ほかの人に面倒を見てたみたいでね。だから、私も、それでな
んか、助かったみたい。畑もね、最初は取られたけど、後からみな畑くれたからね、分けてくれた
19
ドウジォン
から。それ、同じ畑分けてもらって。闘 争 [土地改革の際の闘争]のときなんか、みな取られた
りなんかして、大変だった。
ほかの人はもうなんか、すごかったみたいよ、ものは取られるし。そのときは、私、長女抱いてた
の。もうほかの部落からきた人がね、長女を抱いてたあの、上にかけてた布団ね、小さい布団ね、
マオ イ
それを持っていかれた覚えがある。それで、毛衣[毛糸のセーター]って、あるっしょ。それを持
っていかれた覚えがある。それが、うちの部落じゃないの、ほかの部落から来て、来る人ね、そう
いう風にやられたことがある。やっぱり、中農だから、中農の家に来てね。でも、おばあちゃん、
ベイカン
おじいちゃんは北炕[北側のオンドル]にいたから、取られていなかったけどね。だから、知らな
い間に来たから、だから、私が北炕、おじいちゃん、おばあちゃんのとこへ行けば、大丈夫だった
けど。私はあかちゃん抱いて、うちの長女を抱いて、うちのとこにいたから、これがそうだって言
われて、やられたことがある。でも、そんなひどくなかったからね。
でもね、あとから、いろいろなものを分けるのがあるでしょう。取ったものを、取ったものを分け
るの。うちも分けてもらった、馬なんかね、中農だけど、牛かな。牛1頭分けてもらって、だから、
なんか、よかった。それで、物も分けてもらったし。中農だけど、富農から取ってきたものをみな
分けるみたい。
<筆者:そのとき、土地、農地の分配も?>そうそうそう、土地ももらった、うち。本当、最初は
取られたけど、後からみな分けたの。なんか、分けて、うちももらって。それで、なんか、うちの
親兄弟の分もみな分けてもらって。それで、あそこで畑を作ってたからね、牛1頭でいろいろ畑や
ってね。
帰る父親たち、残る「わたし」
昭和 30(1955)年、公安局[用語集→]から通知が来て、親たちは帰ることにした。帰国が決まっ
た時は、日本人孤児と結婚した弟の家族も一緒だった。その嫁は臨月間際だった。
あの、最後の帰国だって言われてね。じゃ、公安局に話してね。じゃ、お父さんが今帰らなかった
ら、どうしても帰りたいからって、お前には悪いけど。私がね、私も、まぁ、帰れるならね、日本
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人だしね、帰ったほうがいいと思って、手続きして、公安局に手続きして帰ってきた。
美佐子は親たちが帰っていくのを見て、一緒に帰るかどうかについて深く悩んだ。なぜ
なら、当時、3人の子供が生まれていたからだ。最終的には、美佐子が自分たちを救って
くれた杜や子供たちの家族を見捨てることができずに、親達と一緒に帰らないことを選択
した。しかし、家族と一緒に帰れるなら、帰ることを選んだ、と美佐子は涙ながら語った。
<筆者:その当時、自分は帰れないって、どうしてそう思ったの?>いけないと思ったのは、やっ
ぱり、子供がいるから。家族連れて、帰ってこれるなら、帰ってくるけど。だって、子供 10 人も
いるし、捨てて帰ってこれないからね、その当時。
お父さんが、だからね、あの、まぁね。連れて行かれないけど、一緒に帰れないけど、先に帰って
ね、日本に帰って様子を見て、日本がどういう。そのうち、きっと、家族で日本へ帰る時期がある
から。それで、先にまず帰ってね。何もないからね、みな一緒に帰っても大変だからね。そう言わ
れて、先に帰るから、もしも帰れるなら、ちゃんと手続きをやるし、お金も送るから。
まぁ、私は幸せです、いま。こんな孫(や)大勢の子供に囲まれて。あの当時は苦労したけどね。で
も、最初のときはね、どうしようかなって思って。置いて帰ってきたら、子供たちがかわいそうだ
なと思ってね。別に、これはね、帰ったらね、子供たちはどうしようかと思って、親たちが帰って
きたときね。
納底子
親たちが帰った後、美佐子は1人となった。私の「中国に残っていたとき、どういう仕
事を?」という質問に対して、次のように答えた。自ら描いた絵葉書を見ながら、説明し
てくれた。
ナ ディ ズ
貧しかった当時の中国では、靴は手作りであった。
「納底子」とは、靴の底を作ることだ。
一番最初はね、中国も大変だったよ。貧しかったんですよ。
21
私はなんで、終戦当時、中国でも困難だからね。これは灯油。灯油、あの皿に置いて、その火、綿
ミエヌ
をあれして、火をつけて。それで、この「納底子」
、靴の底を1針1針を縫ったり、この綿の、 棉
クゥ
褲[綿入れのズボン]を作ったりした。その思い出があったから、これを飾ってますよ、ここに。
だから、昔こういうのを。
こういう仕事をしてたんだって、やっぱり、みな同じ。中国人もみな、こういう仕事して、1針1
針、麻を紐に作って、1針1針縫って、私もみな。中国の人は昔からそういう生活で苦労してるだ
と。本当そうだもん、靴でも、「納底子」。
最初のうちは、できなくて。うちの年寄りたちね、教えてくれて、こういうふうにするだよって。
麻紐を作るにも、今、経験ないんでしょう、今はね。最初、年寄りはみなそうですよ、こうね、麻
紐で、こう、紐作って、1針1針縫って、靴作ったもんね。みな、手作りだからね。今、何でもあ
るから、ミシンもあるし。洋服だってね、昔はみな手作りだからね。
お正月
イェヌシエヌツァイ
お正月も大変。うちなんか、冬になると、向こうは、冬でもいろいろ、用事あるよね。淹 鹹 菜 [い
イェヌスワヌツァイ
ろんな野菜の漬物]、 淹 酸 菜 [白菜の漬物]、まぁ、いろいろ。こういう、ふちをあれしなきゃ
リィウチョアンフォン ズ
いけないし、寒いところはね。<筆者:溜 窓 縫 子[隙間の目張り]?>そう、溜窓縫子。だから、
昼間はそれをやって、夜は仕事ね。夜の11時にもならないと寝れない。朝も早く起きなきゃね。仕
事があるからね、まぁね。
溜窓縫子とは、窓の隙間を塞ぐことである。中国東北部の防寒対策のひとつである。冬
に入る前から、各家庭はこのような作業をする。
また、お正月のときに、家族のみなに新しい洋服を作る習慣がある。そのために、金を
工夫しなければならなかった。
ヤン ジュ
マイ ジュ ガオ ズ
だから、お金はね、いろいろ工夫して。夏は野菜を売ったり、冬は養猪[養豚]、売猪羔子[子豚
マイジィダヌ
を売ること]、あの、夏は、売鶏蛋[玉子を売ること]。そうゆうふうにして。
22
1年間飼った豚は、お正月のときに殺す。半分は売って、半分は自分たちで食べる。
「こ
っちで食べる豚肉と、向こうで食べる豚肉、違うの。向こうで食べた豚肉がとても美味し
い」と美佐子が懐かしそうに語る。
人民公社と文化大革命
人民公社[用語集→]は共同ですね。なんでも共同だったんです、ご飯食べるのもみな一緒に食べて、仕
事もみな一緒。私は、あの、まぁ、子供3人いたかな、こっちで言えば保育園って言うようなとこ
トゥオ ア ル スオ
ろ、なんてちゅうか、中国語忘れちゃったわ、 託 児所、そういうところに子供あずかって、私が
子守したことがあります。歌を歌ってあげたり、いろいろね、そういうふうにして、世話したこと
がある。食事なんか、まぁ、なんか、大きな釜で炊くんだよね。そして、みなこう、茶碗持ってき
て、もらうの、いっぱい、いっぱいで。だから、そういう生活をして、共同生活だから、あの、食
きん
料なんか秋に配給ね。どのぐらいだったかな、200斤[1斤は 0.6 ㎏に相当]
、まぁ、忘れた、向
こうのあれね。
ハオディ
<筆者:じゃ、野崎さんは向こうで農業とかをやっていた?>そうですね、あの、薅地[草取り]
とか、やったことがあります。でも、子供が、小さい子もいるから、そんなにも(農作業に)出なか
ユアヌ ズ
ったですけどね。でも、自分の、あの周りの野菜、あの、 園 子[家庭菜園]とか、そういうのを
ヤンジィ
やってました。うちはね、養猪、養鶏[養鶏]
、みな、そういうのを飼って、やっぱり、そういう
のを飼わないと、お金が入らないからね。養猪して、売ってね、それで、生活費。そういうふうに
ヤンムゥジュシャデェ
してたから、養母猪啥 的[
「メス豚を飼うなりして」という意味]
。
平穏だった人民公社時代の生活は、その後に訪れてくる文化大革命[用語集→]によって壊され
ていった。文化大革命の時、日本人に対するまなざしが厳しかった。方正の残留婦人Mさ
んは、スパイ容疑で牢獄に入れられたようだ。その後、公安局の指示で、残留日本人らが
集会を開催した。その場で、
「スパイしないように」と言われた。そのとき、集まった日本
人同士はそれほど会話しなかったという。
23
うちの5番目の娘が生まれた当時、ちょうど文化大革命だった。大変だった、あの時。文化大革命
は大変だよね。まぁ、経験がない(だろう)けど、うちらは経験したからね、わかるけど。もう、や
っぱりね、日本人だから、ん、なんかね、手紙来たりしても、厳しいよね、向こうね、スパイのあ
れしてるかじゃないかと思ってね。まぁ、そういうことはしないけどね、こっちから本を送ってい
ても、みな、中身、こっちの本なんか、変なのはあるでしょう、こう、なんでいうかな、人に見せ
られないような、あれっていうか、
(女性の裸の写真などの)変な本。そういうのはね、みな取っ
ちゃってるみたい。うちの父親たちが、そういう本、婦人、なんの本だったかな、送ってきたこと
がある。その中身、みな取っちゃって、そういうことあったってな。
<筆者:文化大革命のときに、日本人だということでなにか?>そうですね、やっぱ、日本人に厳
しいっていう。うちの部落は、そんなにも厳しくはないんです。部落によって、厳しいところがあ
ります。うちのとなりの部落なんか、1度日本へ帰ってきた婦人が、あの人がそうなの、同じ同士
だけど、話しても、そんなに話さないの、日本語。だから、日本語で話さない、中国語で。だから、
余計な言葉を言わないように、みな気をつけてる、お互いね。うちで日本語をしゃべらないから。
しゃべったら、周りに(疑われる)。
5.日本へ
一時帰国
昭和 49(1974)年、美佐子は三男と七女を連れて、里帰り[用語集→]した。父や兄弟が帰国の手
続きをしてくれた。34 年ぶりの祖国であった。父はもう 84 歳になっていた。兄弟や親戚
の人たちが暖かく迎えてくれた。父親は泣きながら、
「申し訳ない」と声をかけてくれた。
里帰りは6ヶ月間だけだった。その後、美佐子は中国に戻り、家族と日本への永住帰国
を相談したら、みなが賛成してくれた。86 歳の舅は、孫たちと別れるのがつらかった。そ
の後、舅は美佐子の夫の兄弟と一緒に住むことになり、美佐子一家は日本へ永住帰国した。
もう里帰り、帰ってきたとき、もうどこ見ても、これが日本か。飛行機が大阪を飛んでて、
あ〜これが日本か。やっぱ懐かしかったんですよね。
中国、どんなによくしてもらっても、やっぱり自分が日本人だから、祖国に帰りたかったからね。
24
まぁ、うちの兄貴と親たち、親戚の人、北海道から東京まで、ここまで迎えに来て。まぁ、そのと
きは本当、なんていうか、もう、涙も止まらないぐらい懐かしかった。兄弟、何十年ぶりに会って
ね、20 年かな、30 年ぐらいかな。まぁね、こうやって無事に帰ってこれたから、ほんとう、よか
った。
もう、帰ってきたら、泣かれて。泣いて、お前には申し訳ないことをしたってね。おいてきちゃっ
たからね、一緒に連れて帰ってこればよかったって。でも、私はこれでよかったと思う。あの、親
兄弟が無事に帰ってこれたから、それでよかったと思ってる。でなかったら、ほんとう、いまのね、
孤児みたいに、だったら、大変だと思う。
永住帰国
一時帰国して、中国に戻った美佐子は、舅の後の世話をして(舅の死を見届けて)から、
日本への帰国を考えていた。しかし、夫は「日本で商売したい」と言って、日本行きに積
極的だった。当時の中国の体制では、個人経営は困難であった。ましてや、農村部にいて
はさらに困難である。その後、兄弟から旅費を送ってもらった。その旅費で、昭和 54(1979)
年 10 月 25 日、美佐子は永住帰国の夢を果たしたのである。
方正の収容所で、美佐子が犠牲になったおかげで、親兄弟たちが助かった。それに対し
て、兄弟たちはいまでも感謝している。だから、永住帰国にも、すぐに同意してくれた。
私はもうどうせ、そのうち、帰れるだから。私も1度帰ってきたし、生活にも困らないしね。いろ
いろなもの、お金も持っていったし、物もたくさん持っていったし。何年か暮らせる、十分にいい
生活できるから、まぁ、おじいちゃんがね、なくなるまで、もう 86 歳だから、それまで、と思っ
てたんですよ。でも、どうしてもね、商売したいって。向こう、商売できないでしょう。
今でも、兄弟はね、感謝。お姉さんのおかげだよ、それはね。無事に帰ってこれたのは、お姉さん
のおかげだよってね。北海道に行ったり、いつも、みな暖かく迎えてくれる。
商売を始める
美佐子は永住帰国して、いったん、北海道に落ち着いた。その後、夫は商売を始めたい
25
と言って、東京に移り住んだ。その商売とは大豆製品を売るものであった。呼び寄せた既
ガヌドウフゥ
バイイエ
「百頁」の商品名で流通]の製法を習わせ、その三女を中
婚の三女に干豆腐[中国の豆腐。
心に、美佐子一家が東京で干豆腐などの大豆製品の商売を始めたのである。現在でこそ、
商売は軌道に乗り、日本全国に販売網を持つまでに成長している。しかし、一から始めた
商売で、当初は大変だったという。最初の頃は製品を背負って、配達に行ったり、営業し
たりしていた。そうした苦労や努力が実って、今日のような会社までに成長したのである。
今では、子供たちが力をあわせて、会社を支えている。そんな子供たちの姿を見て、美
佐子は自分が一番幸せだという。
帰ってきた当時、北海道にいたんです。工場で働いていたんですけど、うちの旦那がどうしても、
商売、こういう商売をやりたくて、って、まぁ、向こう(北海道)ではそんなにできないから、売る
とこもない。知り合いがいるね、知ってる人で、同じハルビンの人だけど、こっちに来て、その人
を知ってるから、それで、東京に来て、商売を始めた。一から始めて、大変だったみたいだけど。
娘、三女、向こうで、半年間、干豆腐作るのを習って、それで、こっちに呼んだよね。それで商売。
作ることはわかるけど、向こうで時々作るけど、そういう商売までできなかったの。向こうで、み
な、時々、自分で干豆腐、あのね、作ったりするからね。
まぁ、今は、よかったのかな。本当に、よかった。でもね、うちの旦那も、そういう、あれが、や
っぱり、子供たちのことを思って、
「どうしても、そういう商売をやりたいし」ってね。まぁ、そ
れが私一番助かります、幸せです。子供たちね、仲良くね、嫁さんとかね、向こうでも仲良く働い
ていたし。
今を生きる
今では、孫の面倒を見たり、絵手紙を書いたりして、生活を楽しんでいる。毎月1回の
三互会[用語集→中国帰国者三互会]婦人部の集まりも、楽しみの1つである。
婦人部が主催する旅行、踊りなどは楽しい。その中でも出会う、同じ体験を持つ人たち
との会話が、楽しいという。
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<筆者:今は、日ごろは何をしていますか?>孫の、今も、孫を2人家に置いてますよ。学校休み
でしょう、休みだから、うちに来たりして。
私は絵手紙を習ってるから、絵を描いたり、ぼけない程度に、これを書いてないと、字が忘れちゃ
うんですよ。忘れるんですよ、字も忘れるし、字も下手だし。
毎月あるんですよ、婦人部の会議。そういう楽しみも。みなと、楽しいですよ。歌を歌ったり、踊
りを踊ったり、中国のね。それで、みな会話したりね、向こうのこと、昔のこととかね。家庭のこ
ととか、こういうときはどうしたか、あの、ね、どういうふうに生活したか、そういうの、いろい
ろ聞いたりね。わからない人、われわれはもうみな知ってますから、知らない人はよく聞きます。
向こうで、どういうふう、どこにいたんですか、どこで生活してたんですか、何年に来ました、と
か。
おわりに
過去は「胸を詰まらせる」
「つらい」と言っていた美佐子に、あえて、思い出すことにつ
いて聞いてみた。
思い出して、まぁ今はね、もう慣れちゃったっていうか。前はね、だめなの、思い出したら、胸が
いっぱい(に)なってね、しゃべれないの。今はね、何回もこういうの、しゃべったことがあるの。
この間も学生さんが来て、川崎のほうで、なんか、高校卒業で、こういうことを書くから、調べに
来た。
だから、今はもう慣れてるっていうか。思い出したら、つらいですけどね、前はね。だから、これ
がなかなか書けなかったの。でも、今書かないとね、だんだん、こう忘れてきたら、書けなくなる
って思って、思い出して書いたの。
話すと、だんだん慣れてくる。それが美佐子の回答であった。また、聞き取りの中に、
時折、
「思い出すと、面白いね、昔」とさえ話してくれた。
27
「つらい」過去、
「思い出すと、面白いね、昔」
。一見、矛盾しているように見える2つ
の見方。しかし、そのような過去に対する2つの態度は、美佐子の中に並存している。そ
んな美佐子は、過去を振り返って、次のように話した。
今、振り返ってみると、あの、よ、よくできたな、と思ってね、思いますよ。まぁね、若かったか
らね、よくああいうふうにね、10人も子供育って。でしょう、向こうは農家が大変だからね。町に
いる人、ハルビンあたりの人の話は、そんなに苦労してなかったみたい、あの、私、同じ友達でも
ね、ハルビンから来た人ね。
中国での残留地域は、都市部か農村部かによって体験が異なる。美佐子は、比較的に苦
労の多い農村部での残留体験をもっている。そんな苦労した体験は、忘れたほうがいいと
言う。苦労した経験に囚われることなく、常に前向きの姿勢。それが美佐子の人生の座右
の銘だったのかもしれない。
それでも美佐子は自分の境遇に対して、どうしてこうなったのかと疑問を抱きつつも、
それが「運命」であったと話す。
悪いことは考えないの、いいことばかり考えるの。悪いことはもう捨てちゃう、いいことばかり考
えて、それが一番の幸せ。悪いことはもう思い出さないほうがいい、今はこうやってしゃべるけど。
苦労したことなんか、忘れちゃうよ、忘れたほうがいいの。だから、これからのね、幸せに暮らし
てたら、幸せでいればいいの。
まぁ、どうして、向こうへ。まさか、こういうふうになるとは思わなかったですよね。誰もね、思
っていなかったでしょうね。まぁ、運命だと思ってます、今は。まさか、こういうふうになってね、
一生の運命だと。でも、私今はね、本当に幸せです。子供 10 人いますけど、10 人の子供もちゃん
と兄弟仲良く、工場を継いでくれるしね。だから、私は本当、幸せです。1人、何の不自由もなく、
生活できるから。
美佐子のメモ書きの最後に、過去を振り返り、未来へ向けて「世界の平和」を願う、と
書いてある。これは美佐子が辿ってきた「不運の歴史」を振り返っての願いであり、その
28
歴史を知れば知るほど、その願いの重さが伝わってくる。その願いの言葉を書き記して、
本聞き書きをいったん締めくくる。
あーあー、
無事に日本祖国に帰って来れてよかった、
生きていて、
本当によかったと思っています。
今、私は 73 歳、年老いになるとだんだんと記憶が悪くなり、今、戦後の経験を残しておき、子孫
に二度とこういう経験のないように皆で平和を守りましょう。世界の平和、心からお祈り致してお
ります。
◇◆◇◆◇◆◇
聞き書きを終えて
野崎美佐子さんとのインタビューは計3回(2003 年8月2日、11 月 12 日、12 月2日)、約7時間に渡
って行われた。野崎さんと初めてお会いしたのは、千葉のボランティアOさんからの紹介であった。1
回目のインタビューはOさんも同席していた。場所は野崎さんのお子さんたちが経営する工場であった。
その後、支援・交流センターの委嘱を受け、正式のインタビューを2回、いずれも野崎さんのご自宅で
行った。本文の中でも触れたように、本人の記憶を最優先にしたため、参考文献は開拓団の概要を除い
て割愛した。本文のすべては、野崎さんと私とのインタビューを基にして編集されたものである。
野崎さんのライフストーリーの特徴はどんなことに対しても、ネガティブではなく、ポジティブに考
えていくことである。家族が協力し合って、会社を成功へと導いていけたのも、このような精神があっ
てこそできたといえよう。そのような姿勢に何か教えられたような気がする。野崎さんのライフストー
リーの詳細は本文の中で既述している。皆さんも、この中から何か自分なりのものを読み取れることを
心より願っている。
今となって、
「中国残留婦人」である野崎さんは自らの体験を語っていなければ、誰もが彼女を普通の
老婦人だと感じるに違いない。誰もがその笑顔の裏に隠されている「不運の運命」を知ることもできて
いなかっただろう。野崎さん自身もまた、
「胸が詰まる」
「つらくなる」という理由で、自ら思い出すこ
とも、語ることもしようとしなかった。しかし、一方において、三互会婦人部の集まりでは同じ体験を
持つ人たちと一緒にいると、そのような過去であっても、みなは懐かしく語り合う。なぜ、このような
事態が起こったのだろうか。それは、他者が彼女らの体験に耳を傾けようとしない状況の中で、彼女ら
は自らの体験を語れない(語りたくない)状況であったからだ。彼女らが一所懸命語ったとしても、他人
29
には聞いてもらえない、理解してもらえないような状況下では、同じ体験を持つ人としか語り合うこと
が出来なかったのである[注]。何十人もの中国残留日本人のライフストーリーを聞いてきた経験から、多
くの人がこのような感情を持っていることを痛感してきた。このような「語ることができない」彼女ら
が置かれた状況を意識して、本聞き書きのタイトルを「やっと語れた『わたし』
」と名づけたのである。
しかし、語ったとしても、それを完璧なものだと思うことはできない。なぜなら、中国残留婦人と言っ
ても、そのライフストーリーは十人十色であり、それらを総括していくことはできないからだ。また、
1人のライフストーリーであっても、私たちはそのすべてを知ることもできない。
本聞き書きは、私に対して語られたものである。もし他の人が聞いていたら、違うものになっていた
かもしれない。また、もし本文において、何か分かりにくい箇所でもあったら、それは質問の仕方が的
を射ていないといった私の力量不足による問題であることを、お詫びすると共に、断っておきたい。こ
のようなことから、1つ考えさせられることがある。それは、私たちが本聞き書きを通して知った野崎
さんのライフストーリーは不完全なものであり、さらにその変化していく語りに耳を傾けるべきである
ということだ。
これまで、野崎さんを含めた中国残留婦人 (ないし中国残留日本人)らのライフストーリーは公の場で
あまり語られてこなかった。本聞き取りプロジェクトによって、それが公の場へと公開されていく道が
開かれた。中国残留婦人を祖母に持つ私は、このようなプロジェクトに参加できたことを光栄に思う。
しかし、当事者としての私でさえも、知らないことがまだ多い。今後、さらに聞き取りを積み重ねてい
く必要性や緊急性を痛感している。
最後に、長時間にわたって私の聞き取りに付き合ってくださった野崎さんに、御礼を申し上げたい。
(み
なみ まこと)
[注]
『サバルタンは語ることができるか』
(G.C.スピヴァク著)参照。
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