ティツィアーノ 「ヴィーナスとアドーニス」: 片思いと笑い 鈴木繁夫 名古屋大学 問い (1)男性が右手に持っ ているもの、肩か らかけているは何 か ●槍と角笛 (2)女性があわてて男 性を抱いているの は、どんなものか らわかるか。 ●瓶が倒れてい る (3)アモルはどこにい て何をしているか。 ●木陰で寝ている。 ティツィアーノ「ウェヌス女神とアド―ニス」 1560年 プラド版 (4)季節はいつ頃で、 時間は何時頃か。 ●晩春。9時頃 ウェヌス女神とアド―ニス ウェヌス女神 「彼は狩りに行きたいという強い欲求にかられて、ウェヌ ス女神のもとから今まさに出発しようとしているように見え ます。片手には狩人の投げ槍を持ち、もう一方の腕には 犬たちを結んだ綱が巧みに結わえられています。」 アド―ニス 「こちら側に背中を向け、…アドーニスのほうに顔を振り向 け、両腕で必死に彼を引きとめようとしている。…その顔に は、若者を待ち受ける不吉な最期への、心に迫る恐れの 表情が明らかに現れています。」 • 典拠:ロドヴィーコ・ドルチェによる書簡 1554年 細野喜代訳 狩りに行く アド―ニスを あわてて引 き留めよう とする女神 不吉の予感 ティツィアーノ「ウェヌス女神とアド―ニス」 1560年 プラド版 オウィディウス ローマの詩人 (前43 – 後 17/18年) 『変身物語』15巻・250物語 人間や神々が植物や動物に 変身してしまう逸話を集めた もの。 • 著者の連想・創意 • 人知を越える偶然の力 『愛の技法』 恋人の見つけ方・口説き方・ 恋愛の仕方を、神話・逸話を ふんだんに引用し、笑いなが ら説いている。 『変身物語』:ウェヌス女神とアド―ニス 1. ウェヌス女神はアモル神の矢で誤って傷を負う。 2. 女神は若者アド―ニスに恋する。 3. 女神は、皮膚が焼けるのもかまわず、この若者と一緒に ひ弱な動物を狩る。 4. 女神は若者にどう猛な動物は狩らないように警告する。 5. 若者は理由を問うと、説明するからといって、木陰で若者 の膝に頭をのせながら逸話を話し始める。 6. 話し終わると、女神は凱車に乗って天空に戻る。 7. その後、アド―ニスは猪を攻撃し、その牙に突かれて死 ぬ。 8. 女神は、その死を悼み、若者をアネモネに変身させる。 典拠: 10巻519-559行, 708-739行 アタランタ:求婚者を殺害する女 グイドー・レニー「アタランタとヒッポメネース」1612年頃 アネモネの野(イスラエル) 想像力: 詩人 v.s. 画家 ●オウィディウス:両思いの形跡 女性が若者に恋をする←偶然の力 若者は女性に恋をしているかどうか曖昧←連想・創意 ●ティツィアーノ:片思い←連想・創意 女性が若者に恋をする 若者は狩りに恋をする オウィディウス:あきらかな片思い 水の精サルマキスが若者ヘルム・アプロディトスに恋をする→性欲に かられ、性的誘惑 若者は水の精から逃げる。 サルマキスの願いがかなえられ、<男=女>に変身。 ←偶然の力 • 『変身物語』4巻285-379行 両性具有 想像力の行き先:春画 依頼の発端 ティツィアーノが、フェリペ(ハブスブルク家皇太子)から、1553 年頃に依頼。 題材 オウィディウス『変身物語』 題材選択まで画家一任 絵画の連作名:<ポエジーア>(詩想)→ 全6枚の神話画 連想・創意 目的 女性の裸体の魅力を伝えるべく、女性を様々な角度から描くこ と 私室に飾る春画 ペアとなる絵画 前面姿の 裸体 ティツィアーノ 「黄金の雨 の受けるダ ナエ」 1553–1554年 背中姿の裸体 ティツィアーノ「ウェヌス女神とアド―ニス」 1560年 プラド版 裸体から韜晦へ <ポエジーア>(詩想) ×本文に即して描く挿絵 画家が想像力を駆使した連想を描く 連想 古典文学や古典作品から選び出し、それらを複合す る 「ほどよく離れた」結びつけ。 宮廷の韜晦趣味 • 何が描かれているのかが即時的にはわからない • 迂回してこめられた意味→鑑賞者が読みこむ努力 光学世界と詩的世界 オランダ型光学世界 イタリア型詩的世界 再現表象化 の目的 ある一定の場所で、ある瞬間 に観察者としての人間の目に 映るもの 神の眼差しに向けられるもの 参照される 枠組み 観察者がつかむ客観的な世界 観察者がつかむ理 念的な世界 効果 絵画 (1)個人的な主観性が絵画の構成原理のうちに入り込む (2)唯一無二の中心はなく、観察者が中心となる。 ある個人が世界を観察するひとつの枠 ティツィアーノ趣向 連想 手段:古典文学や古典作品から選び出し、それらを複合する 距離:「ほどよく離れた」結びつけ。 目的:従来の考え方を転倒→韜晦趣味 ティツィアーノの新趣向:複雑化 アド―ニスは、ウェヌス女神の申し出る性的快楽を味合わずに死ぬ。 • 性的快楽に耽っていれば死なない。 • しかしアドーニスは本来やりたいことをやれない。 →性的快楽礼讃否定 アドーニスは死ぬから、性的快楽の拒絶は正しくない • アドーニスは女性の忠告に従うべきだった • しかしアドーニスは本来やりたいことをやれない。 →女性への従順否定 韜晦:転倒の妙味(1) 恋愛詩(ペトラルカ)の男女 男性の態度:女性の恋い焦がれ、憂鬱になる 女性の態度:女性は男性の恋を受け入れない。男性への侮蔑。 ティツィアーノの新趣向 男女の役割が逆転→女性への従順否定 • 男性アドーニス:女性の愛を受け入れない • 女性ウェヌス神:男性に恋い焦がれる 恋愛詩の<女々しさ>を暴露 韜晦:転倒の妙味(2) プラトン的愛の男女 男性は愛の力によって神的なものへと近づいていく。 理性 v.s. 感情 ティツィアーノの新趣向:志向のせめぎ合い ウェヌス女神=悦楽志向 appetitus concuspiciblis • 愛、快、楽事→官能へののめり込み アドーニス=勇猛志向appetitus irascibilis • 勇気、希望、怒り→苦難への熱意 性的快楽礼讃否定 ウェヌス女神 =悦楽志向 アドーニス =勇猛志向 ティツィアーノ「ウェヌス女神とアド―ニス」 1560年 プラド版 悦楽志向と勇猛志向 ティツィアーノ 「黄金の雨 の受けるダ ナエ」 1553–1554年 欲望のせめぎ合いと<らしさ> <らしさ>のパタン ウェヌス女神=悦楽志向 が勇猛志向に勝 る→女性らしさ アドーニス=勇猛志向が悦楽志向に勝る →男性らしさ <女々しさ>への恐怖 悦楽志向の 優位 アンニバーレ・カラッチ「リナルドとアルミーダ」1601年頃 <女々しさ> のアド-ニス 悦楽志向の 優位 コルネリス・ファン・ ファールレム 「ウェヌス女神とアドー ニス」 1614年 女々しい男性たち ウェヌス女神の 星の下にあ る多血質: 「楽曲の踊りを し、密かな愛 の喜びを求 める者」 ヘルマン・ヤンツ 「多血質」 1566年 <男らしさ>と<女らしさ> ティツィアーノ 「ウルビーノ公爵像」 1536-1538年 ティツィアーノ 「ウルビーノ公爵夫人像」 1536-1538年 夫婦像 ティツィアーノ 「ウルビーノ公爵像」 1536-1538年 ティツィアーノ 「ウルビーノ公爵夫人像」 1536-1538年 1515年結婚 <らしさ>という枠 両性の<らしさ> 「男の勇気は支配的なものであり、女の勇気は服 従的なものであるということは明らかである。… … 『女に飾をもたらすは沈黙』と。しかしこれは男に とってはもはやそうでない。」 (アリストテレス『政治学』1620a. 20, 30) <らしさ>の モデル:フロイド(1) <らしさ>のモデル:フロイド(2) 分離 母親が自分とは別個の存在という認識 個体化(individuation) 自分自身で自立的に自分の精神機能・運動機能 をどれだけ達成しているか <らしさ>のモデル:フロイド(3) 小此木啓吾『現代人の深層心理』 <らしさ>のモデル:ユング(1) 河合隼雄『ユング心理学入門』 <らしさ>のモデル:ユング(2) 河合隼雄『ユング心理学入門』 <らしさ>のモデ ル:ユング(3) 河合隼雄『影の現象学』 <らしさ>を作る自己 自己 (1)意識と無意識とを含んだこころの全体性の中心 (2)意識と無意識を統合する機能の中心 (3)意識と無意識の合一から生じる 意識 自我 自己(核) こころ(全体) ユング『人間とシンボル』 内なる異性 (3) こころに存在する対立的な要素を統合する 男性的なものと女性的なもの 思考と感情 意識 自我 自己(核) こころ(全体) 影(同性) アニマ(異性) ユングの個体化 人生は変身の連続 「個体化(individuation)とは、ユニークなバランスのとれ た存在となっていくことである。個体がこころの最奥にある きわめて独自の単性を包含しようとするかぎりにおいて、 個体は本来の自己へとなっていくということである。」 ユング『自我と無意識の関係』 注意! 「自我の一面性に対して、無意識は補償的な象徴[イメー ジ]を生ぜしめ、両者間に橘渡しをしようとする。しかし、こ れはつねに、自我の積極的な協同態勢をもってしなくて は、起こりえないことに、注意せねばならない」 ユング『心理療法の根本問題』河合隼雄訳 <らしさ> 外的態度:ペルソナ 相補的過程 内的態度:アニマ アニマ(異性) ティツィアーノ 「ウルビーノ公爵像」 1536-1538年 ティツィアーノ 「ウルビーノ公爵夫人像」 1536-1538年 恋による<らしさ>の転倒 外的態度:ペルソナ 相補的過程 内的態度:アニマ アニマ(異性) 原典の変身 <詩想> 古典を材料に新たな理念を作り出す • 依頼主の無関心 参照枠 様々な観念が互いに絡まり合って、常識として 人々の間に流通している言語空間 <詩想>による参照枠への揺さぶり • 性的快楽礼讃否定+女性への従順否定 <らしさ>のすれ違いがもたらす笑い 愛が本来の 機能を果た さない <らしさ> のすれ違 いがもたら す笑い ティツィアーノ「ウェヌス女神とアド―ニス」 1560年 プラド版 男性らしさの 保持 ローザンヌ版 (1554年) 原画 男性らしさの 保持 アニマとの交 際拒否:死 ローザンヌ版 (1554年) 原画 これ以降のスライド は参考資料。 コピーは不要です 背中姿の裸体から<男らしさ>の勧め 「殿下と妃殿下(フィレンツェ公コ シモ公と公妃エレオノーラ・ テ・トレド)のご意思によって、 お二人の愛情を表すために 制作されました。と申します の も、殿下ほど、妃殿下を 愛したお方はおいでにならな かったからです。」( 「ヴァサーリ の解説「ウェヌスに愛され忠告を受け る狩り人アドーニ ス 」) ティツィアーノ「ウェヌス女神とアド―ニス」 1560年 プラド版 整序化を拒む嗜好 オウィディウス的皮肉 道徳的な権威への笑い 二種類の異なる激情同士のぶつかり合い から生じる混乱 <らしさ>の勧めは しない 参照枠の恋愛 恋愛の参照枠:現代 「幸福な恋愛は、西欧文学の中では歴史をもたない。しか も相思の愛でなければ、ほんとうの恋愛とは見なされな い。」 (ルージュモン) 恋愛の参照枠:16-17世紀 (1)相思の愛、(2)男性から女性への片思いでなければ、 ほんとうの恋愛と見なされない。 ティツィアーノ詩想 女から男への献身(女性らしさ)と、男の憤怒情熱(男性ら しさ)のすれ違い ティツィアーノの 結婚生活 ●お手伝い(床屋の娘)との 事実婚(5年間)から正式な結婚(1525年)へ: ●再婚せず ティツィアーノ「聖家族」 1519-1526年 恋にまつわる偶然と運命 偶然 ウェヌス神がアモルの矢にあたった ウェヌス神アドーニスをみてしまった 運命 猛獣と愛とは犬猿の仲である。 女神がアドーニスの死を予感する 病める自我 女神のたましいは対象喪失に陥り、アネモネという代替 物で代理。 たましいの統合が行われない。 堅牢な秩序を「カキマゼル」のに芸術の力 恋は倫理的な規制を受けるものではなく、むしろ 美的規制をうけるものであった 肉体」のことだとして完全に蔑視 するにしては、 精神的なものを感じさせるし、それは「最高のも の」というにしては、あま りにも動物性をひきずっ ている 父に対しても母に対しても、われわれは関係の 切断と回復 を何度も繰り返さねばならないのだ。 ローザンヌ版 (1554年) 原画 ロンドン版 ダルウィッチ版 ローマ版 ウェヌス女神とは手に負えない自然の情熱 一人で事を運びうる情熱の化身である。つま りウェヌス女神とは'歓待が恋人を二度目に垣 根の中に導いた時には彼の考慮の外にあっ た状況の要素 牧歌 プラド版 ローザンヌ版 対象喪失 悲哀の心理なしに'ただガツガツと食べつづける肥満少女の姿こそへ悲哀を排除した世界の象徴 であ 父母と 一体化していたのだがへ その一体感が失われてしまったからである。一体化していた対象を失 い、 何事も自律的に処理してい-ことのできない幼-未熟な状態のまま見棄てられ'一人ばっちにな ってしまった。しかし彼女にはそうした不安もなければ悲哀もなかった。自分が失われたという 感覚だけが 片思いをしていた同級生の男の子が、自分の親しいグループの女子の一人と、町を連 れだって歩いているのをみてしまった。そしていくら勉強ができても'彼と仲良-できないのな らつまらないという気拝がおこった。その時は'ほんの一瞬その思いがかすめただけのようであ ったが、それをきっかけにして'受験進学一本やりで頑張ってきた心は空中分解してしまった。 彼女は心の中で、内的な対象喪失をおこしたのだが'それと同時に自分自身をも失ってしまった のである。彼女は彼を失ったというほどの実感もなかった。悲しいとかさみしいという ワシン トン 版 ゲッ テ ィ 版
© Copyright 2024 Paperzz