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映画でみるリアリティー ∼『ビフォア・サンセット』の分析

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2005 年度研究プロジェクト
映画でみるリアリティー
∼『ビフォア・サンセット』の分析∼
経済学部 4 年 40 組
学籍番号20220199
福山
周
目次
序章:はじめに
0−1
マヤ・デレン
0−2
ノエル・バーチ
『リアリティーを創造的に扱う映画撮影法について』
『空間と時間の操作』と『創造的な芸術の編集』について
第1章:あらすじ
第二章:撮影のテクニックについて
2−1
ミディアムショット(Medium shot)
2−2
ロングテイク(Long take)
2−3
空間論的配置
第三章:ロマンティックコメディーというジャンル
3−1:ジャンル・コンベンション
3−2:社会への帰着(integration back into society)
3−3: コンベンションの反例
第四章:シンボル
4−1:移動手段
4−2:赤色
第五章:テーマとしてのリアリティー;信念について
第六章:まとめ
参考文献
2
要約
『ビフォア・サンセット』は、前作(『ビフォア・サンライズ』
)でジェシー
とセリーヌが出会ってから9年の月日が流れた設定であり、実際に9年後に映
画になった。ジェシーがパリの有名書店を訪れていると、セリーヌが現れる。
彼がアメリカに帰る飛行機が発つまで 85 分残っている。ストーリーを述べた
だけでは映画の特徴が伝わりにくいが、私はこの論文を通して『ビフォア・サ
ンライズ・』のユニークな特徴を分析する。まず、映画の時間が実際の時間で
あることに注目して、リアリズム映画のテクニックを論じる。真実味を出すた
めに、ミディアムショットとロングテイクが多く使われている。また、85 分と
いう短い時間の中で、主人公の二人の距離が縮まっていくかを表すにあたり、
空間論的配置が重要な議論となってくる。時系列に基づいて、二人の距離が物
理的にも縮まってきていることを示す。テクニックの次に、ジャンルにも触れ
ておく。ロマンティック・コメディーとの特徴を述べた上で、ジャンルと同調
している部分と反している部分を取りあげる。「色」がもつシンボルと「移動
手段」がもつシンボルをストーリー展開を交えて説明した。これらのシンボル
を解明することは、リアリティーというテーマを考えるにあたり、重要であっ
た。
序章:はじめに
私が『ビフォア・サンセット』という映画に興味を持ったのは、その前作である『ビ
フォア・サンライズ
<恋人までのディスタンス>』を見たとき、設定がとても「リア
1
ル 」だという印象が強烈だったからである。前作に感銘を受けたので、
『ビフォア・サ
ンセット』も同じような手法を使っているのだろうと期待をした。『ビフォア・サンセ
ット』は期待した以上にリアリティーを感じさせる映画であり、前作よりもリアリティ
ーの扱いが徹底していた。両方を通じて最も印象に残ったのは、映画の中の状況がとて
もドキュメンタリー映画のように、本当に起こったことのようだったからである。同時
に、なぜリアリティーが色濃く出た映画だったのかということに対して疑問を持った。
なぜならば、それらの映画には通常のロマンティック・コメディーと共通する点もある
からである。共通点を考慮した上で、通常のロマンティック・コメディーではないとい
う主張を肯定することは困難であった。共通する点としては、ストーリーを読めばわか
るように、二人の男女が主人公であること、その二人が恋に落ちること、などさまざま
である。よって、通常の映画と異なる点を抽出して、二つの映画がもつユニークな点に
焦点を定めて分析を行いたい。では、どのような視点をもって分析するべきか。
まず、リアリズム映画を論じるにあたり、リアリティーを表現する方法について論じ
た文献から、この映画の分析に必要な理論を紹介する。ドキュメンタリー映画作品を生
1
この論文においての「リアル」という言葉は、現実的とも訳せるかもしれない。しかし、英語の”Realistic”
に近い意味を持たせるために、あえて「リアル」とカタカナ表記にした。
3
んだマヤ・デレンの理論では、人々が映画をどのように認知しているかという初歩的な
視点から、より現実的な映画を撮影するための方法が述べられている。続くノエル・バ
ーチの論文には、リアリズムとフォーマリズムが特色を出すためのテクニックを紹介し
ている。双方の論文は、
『ビフォア・サンセット』を分析するために必要な理論である。
そして、この映画の特色あるテクニックがどのようにストーリー展開に寄与しているの
かを考える。リアリティーの感覚を表現するためには、テクニックだけでは充分ではな
い。テクニックに加えて、編集や台詞(脚本)なども一貫性してリアリティーを追求し
ている必要がある。同時に、この映画のジャンルはロマンティック・コメディーである
ことも実証する。通常のロマンティック・コメディーとは異なる点を見つけ、比較する
ことで、なぜロマンティック・コメディーにおいてのユニークさを論じる。最後に、こ
の映画を通じて伝わってきたテーマを考えて、
『ビフォア・サンセット』の検証とする。
0−1
マヤ・デレン
『リアリティーを創造的に扱う映画撮影法について』
『ビフォア・サンセット』がリアリズム映画と主張するにあたり、マヤ・デレンの理
論を参考にして考えてみる。前述の通り、デレンはドキュメンタリー映画の監督でもあ
ったので、デレンが考えるリアリティーについての理論は、自らの作品で実世界を表現
するためにも不可欠だったのだと考えられる。以下では、デレンの考えるリアリティー
を説明する。
映画を撮影するカメラというものは、逆説的な意味を含んでいる。なぜならば、カメ
ラは独りでに撮影をできるのに常に人の手によって動かされるからである。少しの努力
で最大限の結果を生むためにカメラが必要なのは、適切にカメラを扱える人がいて、被
写体が存在していること。初歩的なレベルでは、カメラは撮影者と観客を結ぶ理想的な
メディアとして機能する。しかし、実のところ映画はとてもあいまいなメディアなので、
単に人目にさらされないのではなく、実際に透明である。実体をつかむのが難しいので、
映画を創造的な美術品として、型にはめるのは難しい。隠された映画の撮影方法は、被
写体の実体が何なのかを映し出すことと、何ではないのかにも目を向けることが大事で
ある。
「イメージ( image )」という言葉は、”imitation”からできた言葉で、本物の物体ま
たは人物と見た目が似ていることを意味する。同時に、イメージは本物に似ていても本
物ではないということも表す。悪く言えば、映画の中の馬は本物の馬ではないので、映
画はイメージである。しかし、イメージには他に良い意味がある。それは、人々の目に
映ったイメージは、想像力を必要とする点である。リアリティーは、個人の関心という
フィルターを通ってから、偏りをもって修正されて、経験となる。よって、一つの概念
として記憶されるまでに、対立した経験や似たような経験とまざりあっている。
「リアリズム」が実際の物体を正確に描写するイメージを指すのでのであれば、映画
は実際の物体とは違うものだと認識されるべきである。映画を理解するときは、絵画な
ど抽象的なイメージを理解する手段とほぼ逆であり、最初に様子が表す意味を考え、次
に認識から生まれた理解がその様子を評価するのに重要となる。
4
実在する物体をイメージに差し替えるために、リアリティーを映し出す方法はなんな
のか。社会を映し出すドキュメンタリー映画を手本として、その手法が取り入れられて
いる。カメラの配置やアングルの使い方を熟知しているドキュメンタリー映画制作者は、
余計な技術的補助を避けるようにして、リアリティーの影響力を映画に出そうとする。
ドキュメンタリー映画の関心の的は、物体にもともと備わっている関心に近いものがあ
るのは明らかである。よってドキュメンタリー映画では戦時中高い評価を得ていた。評
価を得られたのは、フィクション映画を作るためには、リアリティーの効果や影響力を
正確に知っている必要があった。彼らはネオ・リアリストとして風景を撮影する流行を
生んだ。
舞台の上では、物理的に存在する役者がリアリティーを生んでいる。しばしば実際に
ある風景や距離や場所を人工的に作り、本物の代わりとしている。ストーリーはつじつ
まが合わなくても、周囲の太陽や道などのセットによってすっかりカバーされている。
このようなリアリティーの影響力は、映画にも登場する。これらは、「意図的な偶然
(controlled accident )」という技法で、本物の生命をもって自発的かつ自然に存在する
ものと、シーンのために故意に用意された人や物体のバランスをコントロールする。例
えば、ビーチのシーンを作るためにはビーチを選び、ビーチが混雑しているかまたはす
いているかなどを決める。故意に作られたシーンの中に、やり過ぎにならないように
緻密な計画が必要である。人工的なイベントは、もともとある情景から波や風などのリ
アリティーの部分だけを抽出する。映画においてだけ意図的な偶然である巧みな操作が
必要である。
もしイメージの質を保護することに関心を持つがあまり映画制作者が意図的な偶然
を創造することをやめて、映画を作るという過程をほとんど排除してしまえば、どのよ
うにして自分の創造力を企てるのだろうか。一度イメージの概念を創造的な過程におい
て排除すると、私たちの視野は広くなり、全体像をみるようになる。創造されたものは
認知したもの同士の関係から成り立っている。よって映画の編集は、シーンとシーンの
関係から、イメージの役割にそってイメージを伝える。現実や影響力を減少させたり、
リアリティーの特徴である潜在的な多彩な要素をとり除いたりすることなく、映画の全
体像を形成する。
ストーリーに沿って編集される場合とそうでない場合がある。創造的な手法の代表例
に、時間と空間の操作がある。ここでいる時間と空間の操作は、映画の構造を担うもの
である。例えば、時間によって空間を広げたり、空間によって時間を延ばしたりする。
人間が階段を上るシーンを三つのショットに分けて撮影し、そのショットを組み合わせ
れば、階段の長さはずっと長くなる。特に、違うアングルから撮影すれば同じ場所が重
複してもわからない。映画の一こまを止めることで、時間の流れが延長される。人物が
何かをしている途中でとまってしまうと一瞬のできごとが固定される。
時間と空間の操作に加えて、離れた時間、空間、人間の関係を創造することもできる。
異なる人物が異なる場所や時間に同じような動作をしたシーンをつなげると、シーンと
シーンには継続性がみられ、その一連の動作も一体化しているようになる。離れた場所
5
は同一の動作の継続によって、関連が明らかになる。
縮小と拡大や、継続と分離のアイディアは、映画のイメージを多様性のレベルを上げ
る。イメージには正確さがあるから、時間や空間を越えて人物のアイデンティティーを
形成することが可能となる。また、イメージにリアリティーがあるから、私たちは知識
と価値を有効活用できるようになり、地理的な位置を決めたり変えたりできるようにな
った。そして、イメージには影響力があるので、独立して主観的な継続を用いている。
以上より、20 世紀の映画はより本物に近い演劇や、速度の速い絵画などと捉えられ
てはいけない。映画は、無関係な展開が偶然にもつながったものであり、新しい考え方
や生き方の状況として区別されるべきである。実在のもの記録ではなく、方法とは切り
離したカメラの性質から体系的な経験を創造するのである。
0−2
ノエル・バーチ
『空間と時間の操作』と『創造的な芸術の編集』について
ノエル・バーチは上記の論文で、映画の中で時間の長さを操作する方法を4つと、空
間を操作する方法を3つ紹介している。このすべてが『ビフォア・サンセット』を語る
上で必要ではないが、一つのテクニックは正反対のテクニックが成立するから意味を持
つものが多い。よって多くのテクニックを網羅することは、『ビフォア・サンセット』
のリアリティー手法を分析する上で不可欠である。
ストレート・マッチ・カット:
二つの異なるショットが完全つながっているものを、ストレート・マッチ・カットと
いう。たとえば、誰かがドアに近づいて、手をドアノブにかけて、ドアノブを回しドア
を開けようとするショット1があるとする。続くショット2では、ドアの向こう側から
その人物がドアを開けて部屋に入ってくるという続きの映像を間髪入れずに撮影した
とする。このショット1とショット2をつなげれば、ドアを開けて部屋に入るという一
連の動作が何の省略もなく描写される。このように、あるシーンと次のシーンが時間と
空間においてつながっているものを、ストレート・マッチ・カットという。
時間的省略(temporal ellipsis):
あるショットと次のショットが時間的な省略がある編集方法である。先ほどのドアの
例をあてはめると、ショット1でドアを開けようとする動作をする。次のショット2は、
ショット1の続きから始まるのではなく、ドアを閉めてドアノブから手を離す動作を映
す。この場合、ドアを開けた後にその部屋に入ってくる動作が省略されている。この編
集方法は、しばしば古典的な手法を使った映画でも用いられる技法である。時間的省略
があると、ドアを開けてからの後が映されていないため、閉めたドアはショット1のド
アではなく、違う階のドアかもしれない。単純な動作の中にも、省略があると不明な部
分が出てくる。観客が理解できる範囲で省略が行われるのであれば、混乱することはな
い。
不確定期間の省略(indefinite ellipsis):
映画の世界ではなく、外部からのなんらかの情報を補うことで、ある一定の期間が省
略されたことがわかる手法である。外部からの情報とは、シナリオを関連したストーリ
6
ーや視覚から得られる内容である。登場人物同士の会話や、時計、カレンダー、服装の
変化などにより、年代、時代、時間などが省略されているのがわかる。映画の中で、何
日後かに起こったということがわかれば、ある一定期間が省略されている。
時間の逆行(time reversal):
時間を省略する技法ではなく、時を戻す編集方法である。例えば、ショット1でドア
を開けて閉じるという一連の動作を映すと、次のショット2ではドアが開けられる前に
戻り、また一連の動作を反復させるという少々人口的な方法を用いる。親しみやすい時
間の逆行に、フラッシュバックという技法がある。時間の省略が何分か何時間の一定期
間を省略できるように、フラッシュバックも同様に一定期間を逆行させる。よって期間
が確定している逆行(measurable time reversal)と不確定な逆行(indefinite time reversal)
がある。
空間的連続性(spatial continuity)
:
続いた二つのショットにおいて、同じ空間であることを表す技法である。時間的な
継続を伴っている場合と伴わない場合があるが、時間の流れが続いているストレート・
マッチ・カットと似たような操作を空間で行い、同じ空間を保持している。空間の特定
の一部分を常にコマに収めることで同じ空間であることを描写できる。ドアの例を用い
れば、ショット1に映っているドアやドアノブがショット2にも映っているので、同じ
場所であることがわかる。
空間的非連続性(spatial discontinuity):
続いたショットで異なる空間を描写するものであり、空間的連続性以外の空間を使っ
た技法を指す。例えば、ショット1ではある場所をいろいろな角度から映しているのに
対して、ショット2ではショット1の場所が部分的に近くに見える距離から映す。この
非連続性が強調されると、観客は混乱する。
空間感覚の攪乱(spatial disorientation):
空間的非連続性が極端に用いられた場合、観客は把握できなくなるので、攪乱される。
ある程度方向付けがされていれば、観客はその変化に適応でき、空間感覚は保持(spatial
orientation)される。連続した複数のシーンが連続性を保っているマッチ・カットとは
正反対である。
『創造的な芸術の編集』とは
映画がどのように編集されているかを定義するにあたって、カメラが見るものと観客
が見るものがどのように違うかについて最初に説明する。映画の中で頻繁に起こる現象
としてグラスの表面に起こる反射がある。例えば、グラスの両面に当たるライトの加減
を調整することで、グラスは反射せずに透明に映ってしまう。私たちがグラスに関心を
注いでいるからグラスの周囲よりもグラスが浮きだって視界に入る。これは無意識のう
ちに重要な情報を選択し、心理的に目を向けているので、関心のある物体を見るように
なっている。
そこで、グラスの映像とピンボールの映像を重ねてスクリーンで上映すると、二つの
異なるイメージを判断することが難しくなる。二つのイメージが一旦映画としてスクリ
7
ーンで上映されると判断できなくなるのだろうか。それは、スクリーンで上映されるも
の全ては、完全に同じ「リアリティー」と「現在」に直面しているからである。スクリ
ーンは二次元しかないので、上映された全てのイメージは、私たちの目の前で等しく存
在しているのだ。例えば、あるシーンを撮影するときに、脇に立っている俳優がいて、
距離を置いた後ろにランプが置いてあったとする。俳優が中心で目立っているわけでは
ないが、撮影の際はそのランプをどける必要がある。なぜならば、ランプがちょうど俳
優の頭の上を照らしているように見えるからだ。そのようなランプの存在で、観客は混
乱するわけでもなく、気にもとまらないだろう。しかし、スクリーンではそのような小
道具の配置は重要である。観客がスクリーンをみるとき、全体が一気に目に入ってくる
からである。スクリーン上の全てのものが同等に重要に見えてくるので、紛らわしいラ
ンプをどけて、明瞭さを求めることは不可欠である。実生活では気にならないところも、
映画を作る上では注意しなければならいのである。
映画の中では、話をしている人が話をしていない人よりも最初に気づかれるのは事実
にも関わらず、観客の目はフレーム全体の内容を見ている。同じような「見る」をいう
動作でも、
「視線を向ける(look)
」は頭の中で命じられる動作であるが、
「目に入る(see)」
は心理的な側面を持った動作である。映画を観るときは、絵画や写真を見るように、目
に入ることは視線を向けることとは無関係である。重要な部分だけ選出して見るものは、
無意識のうちに目に入るものとは相互関係ではない。
以上のことから留意する点は、観客は適当な距離を保って映画を見なければならない
ことである。スクリーンに近すぎると、スクリーン全体が観ることができなくなり、目
に入るべきものが入ってこなくなる。逆に、スクリーンに遠すぎると、関心のある部分
だけしか見なくなるので、映画監督が製作中に見ているイメージと違うものになってし
まう。よって、映画をみるとき、スクリーン上のフレームは常に全体像として認知され
るべきである。
以上のデレンとバーチの時間や空間に関するテクニックは、
『ビフォア・サンセット』
の「リアル」な感覚を論じるにあたり不可欠である。特に、映画の中で進む時間は実際
の時間と同じだからである。言い換えれば、一分前と現在が同じ時間軸を進んでいるこ
とが重要になってくる。第二章では、デレンの理論とバーチの理論がどのように映画を
リアルへと近づいているかを論証する。
第1章:あらすじ
前作の『ビフォア・サンライズ』(1995)で、ジェシーとセリーヌは電車の中で出会
い、一夜をウィーンにて共に過ごす。お互い気が合うことを確かめあうかのように、会
話を重ねるごとに、恋に落ちていった。二人は一緒にいられることはできないとわかっ
ていても、観覧車に乗ったり、公園に行ったりして思い出を作る。次の日アメリカに帰
らなければいけないジェシーは、半年後もう一度再会することを提案する。あえてお互
いの連絡先は交換しなかった。『ビフォア・サンセット』は二人が別れてから9年の月
日が流れた設定である。
8
今や作家となったジェシーは 2004 年、セリーヌとの出会いを小説にして出版した。
その宣伝のため、ジェシーがパリの有名書店を訪れていると、セリーヌが現れる。彼が
アメリカに帰る飛行機が発つまで 85 分残っている。2人は店を出て、街をさまよいな
がらさまざまなことを語り始める。
9年前に約束した半年後の再会、今の自分、過ぎ去った9年間の互いへの思いがある。
ドキュメンタリー風を得意とするリンクレイター監督の手腕が冴え、引き潮のように遠
のいたり親密度をグッと増したりする2人の微妙な距離感や、押し問答のような会話な
ど、普段の男と女をそのまま描いた雰囲気がある。脚本の作成に主演のイーサン・ホー
クとジュリー・デルピーが関わっていることで、アドリブのようなやりとりが続く。
結婚とか付き合うとかの約束より、一緒にいることがただただ楽しくて仕方ない。二
人でいるのがあまりにも当然すぎて、離れてしまうことや会えなくなることが予測でき
ないし、忘れてしまう。たとえ 85 分後に別れの時間がくると知っていても、一緒にい
ると互いのいま以外のことが頭からはずれてしまう。台詞にもあるように、そういう相
手にめぐり合う幸運は、一生に一度あるかないかの希少性を秘めている。
長い間パリの街を歩き回った二人は、セリーヌの家に行き着いた。そして、ジェシー
は飛行機に乗る時間に気がついてもその場を去ろうとはしない。セリーヌが CD に合わ
せて踊っているシーンで映画は終わっている。
第二章:撮影のテクニックについて
映画を観たときに、リアルだという印象を感じる映画はどのような映画か。デレンの
理論によれば、映画は「意図的な偶然2」で成り立っている。抽象的なフォーマリズム
の反対であるリアリズム映画では、偶然が本当に偶然のように見えなければ、観客は混
乱してしまう。私自身が考えるリアリズム映画の条件は、実写であること、コンピュー
ターグラフィックが使われていないこと、もし使われていたとしても気がつかない程度
のもの、などが挙げられる。この映画はドキュメンタリー映画ではないのに、本当にあ
ったことを記録したドキュメンタリー映画のような感覚をもたらせるのはなぜか。実際
に起こっていることをできるだけ忠実に描写した映画である理由として、視聴者がそう
感じる理由の一つに、テクニックがある。この章では、この映画が撮影のテクニックが
いかにリアリズムを創造しているかについて論じる。
2−1
ミディアムショット(Medium shot)
この映画の撮影にはミディアムショットが通常のハリウッド映画よりも多く使われ
ている。ミディアムショットとは人物の膝もしくは腰から上の姿がフレームに収まって
いる状態のショットである。一般的に便利なショットで、映像的な説明が必要なときや、
移動などの動きのあるとき、会話が交わされるときなどに非常に役に立つ。特に、『ビ
フォアサンセット』では、主役二人の腰から上がフレームにちょうど収まるツーショッ
2
詳細は 3 ページ参照。
9
ト(two-shot)が多い。会話のシーンでは、肩越しショット(over-the-shoulder-shot)が使われ
ている。これは、一人はカメラに対して肩や背中を向けていて、もう一人はカメラに対
して正面を向いているショットである。
ミディアムショットによって、空間的連続性3が保たれている。逆に、被写体に近い
クローズアップや、遠いロングショットを使うのと何が違うだろうか。まず、クローズ
アップショットや超クローズアップショットを使うと、映しているもの以外を表現して
いると錯覚する。たとえば、登場人物の「手」に焦点が当てられて、クローズアップに
なれば、そのフレームは「手」の詳細を映し出すというより、
「手」から連想できる「労
働」や「器用さ」などを思い浮かべるのが正しい。クローズアップショットは、新たな
シンボルや概念を表現する。クローズアップショットが連続して使われるフォーマリズ
ム映画では、画像の連続性から新たな概念を考える。ここでは、ショットのつながりが
重要になる。たとえば、
「手」のショットの次に、
「足」のショットになれば、共通点は
「人体」である。よって、視聴者は一つの画像がもつイメージを記憶して、連続性を考
える必要がある。多くのフォーマリズム映画では、実際関係がないようにみえるショッ
トとショットが連続するので、何を表しているのかわからないことがある。
この空間的連続性は、バーチの編集方法についての理論を考慮しても重要である。バ
ーチはスクリーン上に映っている全てを一度に見るべきだと主張している。この理論が
ミディアムショットを用いて実証されている。
まず、前述のようにミディアムショットは全体像を捉えるのに適しているから、スク
リーン上の情報を簡単に手に入れることができる。ジェシーとセリーヌのどちらかが会
話しているとき、会話している方しか気がつかないのは「視線を向ける(look)
」の「見
る」を実行している場合である。しかし、映画は全体像を掴んでこそ理解できるのであ
るから、話をしていない方も無意識のうちに視界に入ってくるべきである。この見方を
簡単に行えるためにミディアムショットが使用されている。
そして、ミディアムショットは監督の視線と同じ範囲がフレームに収まって
いるので、リアリティーを表現しやすい。バーチの理論にも出てくるように、映画制作
者が映画を作るときと同じような視界を持つことが映画鑑賞には必要である。ミディア
ムショットでは近すぎるものや遠すぎるものまで性格に映らないので、そのシーンが撮
影されたときと同じ感覚を持って映画を見ることを可能にしている。
以上のように、ミディアムショットは、リアリティーを表現するための視覚的な効果
と編集に役に立っている。
2−2
ロングテイク(Long take)
通常の映画に比べて、『ビフォア・サンセット』では、各シーンが長く撮影されるロ
ングテイクが多く使われている。一つのシーンが長いと、一連の動作や会話が時間的な
省略をされずにワンシーンに収まるので、観客がストーリーの出来事を混乱しないで理
3
5 ページのバーチの節を参照。
10
解することができる。言い換えれば、観客は見たままの映像を受け入れることができる。
この手法は、ニュースやドキュメンタリー映画などである事柄の記録を流すときに似て
いるので、リアリティーを描写するのに適している。この映画で、ロングテイクがもた
らす効果について、分析してみる。
まず、ロングテイクは、リアリティーを表現するのに適している。前述のように、よ
り臨場感を求めるニュースやドキュメンタリー映画の映像がロングテイクであるのは、
時間的省略をしないことで人工的ではないことを証明している。時間的省略があると、
編集をした人の意図によって、観客が決まったことにしか注意を払えないように操作さ
れている錯覚に陥る。よって、現実主義の逆である形式主義(formalism)に基づいた映画
はロングテイクを避ける傾向がある。形式主義の代表であるアイゼンスタインの映画は、
ショートテイクをつなぎ合わせて、特定のイメージを連想させようとしている。アイゼ
ンスタインの代表作である『戦艦ポチョムキン』の有名なオデッサ階段のシーンは、階
段を人々が駆け下りる一連のシーンを、いくつにも約 60 コマにも分割して表現してい
る。中心となる人物も次々と変わるので、観客は階段を駆け下りているさまざまな人が
スクリーンに映し出されるのを見る。あるコマは人物のクローズアップだったり、次の
コマはミディアム・ショットだったりと、カメラの距離やアングルなどのテクニックも
多様である。この場合、一連のできごとであるから時間的連続性はほぼ保たれているが、
被写体が次々と変わるので、空間的連続性は保たれていない。それに対して『ビフォア・
サンセット』では、ワンテイクの中ではもちろん、カットを挟んで違うシーンになって
もカメラと被写体との距離や撮影のテクニックが変わることはない。ロングテイクによ
って、ジェシーとセリーヌの行動を継続的に見ることができて、時間と空間の連続性を
保持している。
そして、ロングテイクは、リアルタイムを協調できる。この映画の特徴として、映画
の中は実時間に即していることがある。リールの長さが、映画の中で進む時間と同じで
あるから、時間的な操作があると、時間がずれてしまうのである。ロングテイクが続い
ていて、時系列を混同するような編集がないので、リアルタイムに起こっていることを
そのまま記録している感覚を出している。空間的連続性はジェシーかセリーヌを映すこ
とで簡単に表現できるかもしれないが、時間的連続性を証明するためには、息の合った
台詞や仕草などまで計算され尽くしている。
2−3
空間論的配置
二人の間の距離を空間論的配置から考える。空間論的配置は、人類学者のエドワー
ド・T・ホールによって、与えられた空間内において人間や動物が必要とする空間との
関係と定義される。空間論的配置は、考慮されるべき外的な事柄に影響を受ける。ジェ
シーとセリーヌの関係を、公的、社会的、個人的、親密な四種類の距離間から考える。
まず、ジェシーがプレス中に目が合った二人は、「公的な」距離である。公的な距離
は 4 メートルから8メートルかそれ以上もの距離がおかれる。この範囲は形式的で冷淡
11
なものである。この距離では、感情を見せることは礼儀に欠けるものと考えられる。空
間がかなり空いているから、一般的に人々は大げさな身振りをしたり、はっきり理解さ
れるために声を大きくしたりしなければならない。本屋の中で二人の周りには、記者、
店長、お客など大勢の人がいるので、お互い目が合っても、嬉しさの感情を表にだした
り、挨拶をしたりはしない。公的な距離を置いた二人は、同じフレームには登場しない。
以下の二つのフレームのように、別のショットで映される。ジェシーの驚いた表情から、
観客はジェシーが遅れて入ってきたセリーヌ気がついたことを認知できる。セリーヌと
ジェシーが交互に画面に登場することで、二人の距離が相当あいていることがわかる。
周囲にいるプレスや本屋の主人も、二人が知り合いであることには気がつかない。
公的な距離:セリーヌ(00:05:36)
公的な距離:ジェシー(00:05:42)4
ジェシーのプレスが終わり、かつて恋人同士だった二人は、恋人同士としてではなく、
知り合いとしてヨーロッパ風に頬にキスをし、挨拶をする。挨拶はあくまでも社交辞令
であり、二人の距離は一気には縮まらない。本屋の外でこれは、「社会的な」距離に分
類できる。社会的な距離は1メートルから4メートルぐらいまで離れた範囲で、個人的
でないビジネスや気楽な社交的集まりに相応しい距離である。たいていの場合は友好的
な範囲ではあるが、それでも個人的な距離よりは幾分堅苦しい関係のものである。多く
の場合、社交の席で二人の人間が親密な、あるいは個人的な距離をとっていると、それ
は不作法と考えられる。9年振りに再会した二人は、相手に不快感を与えないように社
会的な挨拶をして、礼儀をふまえている。下のフレームでは、ジェシーとセリーヌは緒
4
ビデオにダビングして計測したので実際の映画の時間とは多少異なるのでご了承願いたい。
時間:分:秒 で表示している。
12
一緒に写っているものの、二人の体は接触していないし、距離があいているのがわかる。
本屋の外は町であり、公の場所である。お互い目を合わせている(アイライン・マッチ)
が、客観的に見れば、親しそうにはみえない距離を保っている。
社会的な距離
(00:07:51)
「社会的な」距離から「個人的な」距離への移行は、散歩のシーンである。個人的な
距離は約 50 センチから1メートル以上離れた距離である。それでも腕一本分ぐらいの
距離にいるから、必要なら身体に触れることもできる。これらの距離は恋人や家族とい
うよりむしろ友人、知人に相応しいものだ。個人的な距離は、個人間のプライバシーは
保っている。
本屋で再会してから、二人の距離は、社会的な距離が長時間続いている。しかし、会
話をしていくうちに、二人の距離は個人的なものへと変わっていく。カフェから出た後、
散歩に行くことになった二人は公園へ向かう。公園のシーンは五つに分けられる。①階
段を上るシーン、②小道を歩くシーン、③橋を渡るシーン④小道を歩くシーン、⑤階段
を下りるシーンの五つである。①から②で、二人は過去の話をしている。9 年前の思い
出や、セリーヌの亡くなった祖母の話などである。③において、セリーヌが小さい頃か
ら見続ける夢の話をする。これが、過去から現在に繋がるトピックである。④で、現在
の話をする。セリーヌがジェシーに「もし二人が今日で死ぬとしたら・・・。」という
話をすると、ジェシーがセリーヌを引っ張って自分の膝に乗せて、ベンチに座る。ここ
で初めて、二人の手と手が接触する。体のコンタクトによって、二人はだんだんと距離
を縮めてくる。ベンチから立った後、④から⑤において新しいトピックを持ち出してい
る。例えば、今後の予定やジェシーの妻やセリーヌのボーイフレンドについてである。
観客も、登場人物の二人も新情報が提供されていることに気がつく。以上のように、①
から⑤に至るまでに、二人のトピックは過去、現在、未来へと変化している。もともと
知っている過去の記憶の再確認から、まだ明らかでない現在や将来のことを話すように
なり、お互いの伸密度が高まっている。お互いのプライベートを話していくうちに、二
人の距離が、社会的な距離から、より親しい個人的な距離へと変わっている。以下の二
つのフレームは、二人の距離が縮まっていくきっかけとなったベンチのシーンからであ
る。ジェシーとセリーヌが他方を引っ張るために、手を繋いでいる。本屋を出た後のぎ
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こちなさから考えれば、大きな変化である。
ジェシーがセリーヌを引っ張るシーン(00:38:54)
セリーヌがジェシーを引っ張るシーン(00:41:43)
「親密な」距離になるのは、車を出てから、セリーヌの自宅付近の中庭を二人で歩い
ているときである。親密な距離とは、肌が接触するほど密接なものから 50 センチほど
離れたものに至るまでの幅である。これは個人個人のあいだの愛、慰め、優しさなどを
肉体的に表現できる親密な関係にある者同士の距離である。見知らぬ人の場合には、そ
のような距離は侵入と見なされる。もし彼らがよく知らない人に彼らの空間が侵された
ら、彼らは疑念と敵意をもって反応することになるだろう。親密な距離を公衆の面前で
維持することは、多くの文化で、悪趣味と考えられている。
下のフレームにある中庭のシーンでは、二人の肩は文字通り接触していて、公衆では
なくプライベートな中庭を歩いている。お互いがお互いを受け入れているので、ごく自
然に肩が触れ合っている。親密な距離にいるので、二人を見た近所のセリーヌの隣人は、
一目見てジェシーをセリーヌのボーイフレンドだと思い、パーティーに招いている。片
方が、親密に見られるのを嫌がっていたり、心を開いていたりしなければ、肩が触れあ
うような親密な距離で歩くことはない。
「親密な」距離
(01:04:37)
14
今までの四つの空間論的な経緯を見れば、ジェシーとセリーヌの二人は、時間が経つ
につれてだんだん距離を縮めてきていることがわかる。二人の関係も、再会したすぐか
ら最後の中庭のシーンに比べて、だんだん成熟していっている。その要因となっている
ものは何なのか。以下では、ストーリー展開を助ける移動手段やジャンルなどについて
述べていく。
第三章:ロマンティック・コメディーというジャンル
この映画は、二人の男女が出会い、二人の本当の気持ちが明らかにならないまま、障
壁を乗り越える。ハッピーエンディングに至るまで、二人はお互いをだんだんに知って
いく。最後に自分の気持ちに気がついて結ばれる、というようなロマンティック・コメ
ディーのプロットに加え、二人が乗り換える移動手段も、ストーリー展開に関連してい
ると考えられる。この章ではまず、ロマンティック・コメディーというジャンルに基づ
いた分析を行う。次に、そのジャンルを支持しないアイディアを紹介する。
3−1:ジャンル・コンベンション
ジャンル・コンベンションとは、ある映画が決まったコンベンションの通りのアイデ
ィアを含むことで、その映画のジャンルを決定するルールやしきたりのことを指す。そ
して、「ビフォア・サンセット」がロマンティック・コメディーというジャンルに属す
ということは、「ビフォア・サンセット」がロマンティック・コメディーのジャンル・
コンベンションに基づいているからである。それでは、ロマンティック・コメディーの
ジャンル・コンベンションとは何なのか。主要なものに、
(1)教育と情報交換 (2)
登場人物(3)障害の克服(4)二人だけの世界がある。
(1)教育と情報交換
まず、二人の男女がお互いを知っていく上で、相手に自分の持っている知識や情報を
伝えることがある。これは、しばしば教育(education)や独学(self education)と表現
される。ジャンル通りのロマンティック・コメディーでは、出会ったときはお互いを知
らない場合が多いので、会話を重ねることで、相手を知っていくパターンがある。たし
かに、この「ビフォア・サンセット」は 9 年ぶりの再会から始まるので、お互いのこと
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を熟知している。ジェシーはセリーヌの考え方がわかるし、セリーヌもジェシーの性格
を知っている。しかし、ジャンル・コンベンションにおいての教育は単なる情報伝達を
意味するわけではない。一方がもう一方に何かを教えるプロセスが二人の関係を親密に
していくことが重要である。「ビフォア・サンセット」において、二人は会話から相手
の近況事情を知っていく。それに加えて、セリーヌは先頭をきってジェシーにパリを案
内している。案内できるのは、セリーヌがパリについての情報をたくさん持っていて、
それをジェシーにも公開しているからである。セリーヌは、自分の地元であるパリを紹
介しつつ、自分のアイデンティティの一部をさらけ出している。ジェシーは教わる側な
ので、セリーヌにリードされてパリの街を散歩している。どちらが関係を先導(lead)
しているかどうかも重要なポイントである。この映画はセリーヌがジェシーにパリを案
内しているのが主なので、セリーヌが先導者であると言える。行き先の先導者であるセ
リーヌは、恋愛においても先導者である。なぜなら、ジェシーが自分の気持ちを素直に
言っているときも、セリーヌは具体的には自分の気持ちを明かさない。
(2)登場人物
次に、ロマンティック・コメディーのキャラクターについて考える。ロマンティック・
コメディーにおいて重要な役割をする登場人物はいくつかいる。その一つは、賢者
(senex /wise old man)である。賢者は、自分の気持ちに気がつかない、又は素直にな
れない主人公に真実を気づかせるために働きかける役割を持つ。賢者の役割をしたのは、
セリーヌと同じアパートメントに住む中年夫婦である。ジェシーがセリーヌのアパート
についたとき、中庭でパーティーの準備をしていた夫婦は、二人を本当のカップルと見
ている。その背景には、二人の仲の良さが明らかだったことがある。妻はジェシーが帰
ることなど知らないので、当然のようにジェシーをパーティーに誘った。この働きかけ
はジェシーがパリに居残る状況をより自然な方向へもっていった。普通のロマンティッ
ク・コメディーでは、この賢者の役割はもっと極端である。実際に主役の二人にお互い
を好きになるようにアドバイスをしたり、二人が二人だけになるような場をセッティン
グしたりする。この映画では、賢者の登場シーンも少ない上、強制的に二人の気持ちを
気づかせるようなこともしないので、現実感覚に基づいているといえる。
この映画には、もうひとつジャンルに基づいた登場人物があった。それは、セリーヌ
のペット(猫)のチェである。ペットの役割は、ジェシーとセリーヌの子どもの真似で
ある。結婚して子どもがいる夫婦が安定したカップルだとすると、結婚の約束もしてい
ない二人の男女は、いつ別れてもおかしくない不安定なカップルである。そこで、ペッ
トが子どものような存在で登場して、二人はまるで夫婦のような雰囲気になる。セリー
ヌが子猫を抱き上げて階段を上った後、部屋の鍵を開けるときにジェシーに子猫を預け
るシーンがある。このシーンをこのコンベンションに当てはめるならば、子どもを抱い
ていた母親が父親に渡しているようにも見える。同時に、子猫の母親役であるセリーヌ
がジェシーに子猫を託したのは、ジェシーを信用していることの表れである。
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(3)障害の克服(overcoming obstacles)
ここでいう障害というのは、主にストーリーに出てくるさまざまな問題を指す。たく
さんの問題が二人のハッピーエンドを妨げているが、最後にすべての問題が解決され、
ハッピーエンドになるというコンベンションである。「ビフォア・サンセット」におい
て、障害を挙げるのであれば、言葉、時間、場所、恋人や妻がある。まず、言葉である
が、セリーヌの発したフランス語をジェシーが理解できなかったり、ジェシーのいうフ
ランス語がセリーヌに間違って解釈されたりしている。言葉の壁はストーリーの流れで
あるプロットにおいて影響しない。言葉が通じないから二人の関係に影響することは全
くないからである。しかし、ジャンル・コンベンションにおいて、言葉の壁を越えるこ
とは、二人の関係をより密度の濃いものへと持っていく。
最も明らかな障壁として、時間の制限がある。ジェシーがアメリカに帰るために、飛
行機に乗るまで一時間余りしかないからである。時間が短いということは、必然的に遠
くまで移動できないので空間的な制限も出てくる。
この映画は編集において時間や空間の操作がなく、リアルタイムで時が流れている。
そのため、映画が進行するにつれて、残された時間がなくなっていくのが容易に理解で
きる。逆にいえば、時間が永遠にないことは周知の事実であり、とてもリアリティーが
ある概念であり、ストーリーを語る上でも重要である。よって、一分の長さが縮小また
は拡大されることがないリアルタイムを起用することは、時間が二人にとって障害にな
っている様子を強調している。
(4)二人だけの世界(private world)
ロマンティック・コメディーにおいて、カップルは二人だけの世界を作っていくとい
うコンベンションがある。これは物理的に二人だけの場合と精神的に二人だけしか理解
できない場合がある。前者は簡単に見つけることが可能である。映画の中で、ジェシー
とセリーヌは二人だけでいる時間が長いので、話している間中ずっと二人だけの閉ざさ
れた世界にいることになる。周りはフランス語を話すフランス人ばかりで、二人が話し
ている言葉が英語であるから、やや混雑した街中にいても、二人だけの空間が保たれて
いる。1960 年代ぐらいまでのロマンティック・コメディー(スクリューボール・コメ
ディーという)では、しばしば森が登場した。主役のカップルが、何らかの事件に遭遇
して、二人きりで森に行くことになる。森は現実社会から隔離されていて、邪魔になる
人もいないので、カップルは物理的に二人きりになる。この映画のほとんどのシーンが
二人の会話であるが、物理的に二人きりになるのは最後のセリーヌの家である。セリー
ヌのプライベートの部屋であるから、セリーヌの許可なしに、又はベルなどの知らせが
ない限り、二人は安心して二人きりの空間を楽しむことができる。カップルはおだやか
な空間をもとめて、二人きりの世界を作ろうとする。
もう一種類のプライベートな空間として、精神的な意味での二人だけの世界がある。
二人しかわからない話題をしていたり、ジョークを共有していたりすると、第三者がそ
の会話に入ることはできない。何を話しているかを理解することはできても、二人だけ
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しか共有できない特別な感覚があるので、容易には二人にキャッチアップすることがで
きない。前作の「ビフォア・サンライズ」において、興味深いシーンがある。それは、
二人が夜のダイナーで電話をかける真似をするシーンである。セリーヌがジェシーの友
達を真似てアメリカン・アクセントでジェシーと会話をする。実際に電話をするわけで
はないので、この「ごっこ」遊び事態が二人だけの世界を作る重要な要素となっている。
その上、電話をする格好をまねてしている会話の内容が、ジェシーの心情を語るもので
あった。ジェシーは直接セリーヌに自分の気持ちを伝えることができないが、友達に電
話をかける遊びをする過程で、間接的にセリーヌに愛の告白をしている。このシーンを
考慮しても、カップルが二人だけの世界を作り上げて、第三者をよせつけない排他的な
行動をする重要性がわかる。二人は実際に二人だけになることは不可能であっても、通
じ合った心の中で二人きりになることで一種の安心感を得ている。
このように、ロマンティック・コメディーでは、カップルが二人だけの世界を作るこ
ともジャンル・コンベンションの一種である。二人は、二人しかわからない世界を想像
したり、実際に二人だけになったりすることで、安心感を得て密度の濃い関係を築いて
いく。
3−2:社会への帰着(integration back into society)について
前節より、ロマンティック・コメディーにおいて、中心となる男女はどちらかが先導
して関係を築いていく。そして、他の登場人物の力を借りながら、気持ちを揺るがない
ものにする。二人がハッピーエンドを迎えるまでには、さまざまな障壁が待ち構えてい
る。その障壁を越えると、二人は一緒になることができる。「ビフォア・サンセット」
の最後のシーンがセリーヌのアパートであるように、二人だけの世界に入ることができ
た。しかし、次に重要なのは社会への帰着である。言い換えれば、二人だけの世界を出
て、現実社会への逆戻りを果たし、社会に溶け込んでいくことである。このコンベンシ
ョンも、ロマンティック・コメディーでは欠かせない要素である。1950 年代までの映
画であれば、このコンベンションの実態は、二人が一緒になったことを公にすることで
ある。
3−3: コンベンションの反例
この映画がリアリズムに基づいたものであるが故、一般的なロマンティック・コメデ
ィーのジャンル・コンベンションとは掛け離れた特徴を持っている。言い換えれば、こ
の特徴が「ビフォア・サンセット」をリアリズムへ近づかせていて、ユニークな存在に
仕立てている。そして、これらの特徴は「ビフォア・サンライズ」の時よりも、一層濃
く浮かび上がっている。今まで述べてきたコンベンションに沿ったものがロマンティッ
ク・コメディーのジャンルであった。対して、以下のコンベンションの判例はリアリズ
ムに基づいたロマンティック・コメディーの新しい姿を形成するのに貢献している。
(1)ファルス・ラバー(偽の恋人)がでてこないシャドウフィギア
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ファルス・ラバー(false lover)とは、正しくない、偽の恋人のことである。偽の恋人と
いっても、運命やストーリーの上で真の恋人ではなく、形式上のパートナーというだけ
で、設定としてヒーローまたはヒロインの恋人として登場し、ライバルのような役柄で
あることが多い。ロマンティック・コメディー以外にも登場しがちなキャラクターであ
るが、ロマンティック・コメディーにおいては、真の恋人とは正反対の性格だったり、
極端に金持ちだったりする設定が多い。性格が悪かったり、お金持ちだったりする設定
によって、映画の観客は自然とファルス・ラバーを嫌い、主人公のヒロインを応援する
ようになる。しかし、この映画においては、ファルス・ラバーの性格の特徴が浮き彫り
になることはない。なぜならば、ジェシーの妻もセリーヌの恋人も、会話に出てくるだ
けで実際には登場しないシャドウフィギアだからである。登場しない恋人や妻が本当に
主人公の運命の相手かどうかは判断できないが、前作で恋人同士だったジェシーとセリ
ーヌが再会したのだから、また二人に結ばれてほしいと多くの観客は願っている。セリ
ーヌのファルス・ラバーは報道カメラマンであり、ジェシーと正反対な性格をもつかど
うかは判断しかねる。むしろ、セリーヌと考え方が若干合わないのではないかという印
象を持たせる。ジェシーのファルス・ラバーは結婚した妻である。ジェシーがセリーヌ
の夢をみると告白していることから、この妻がファルス・ラバーという設定が前面にで
てきている。以上の情報から、観客は会話に登場するだけの恋人と妻をファルスと判断
し、ジェシーとセリーヌが運命の二人であることを望む。セリーヌの恋人もジェシーの
妻も、会話に出てくるだけで、実際には登場しないのがユニークである。
シャドウフィギアであると、観客はその人物の重要性に疑問を感じる。主人公は映画
の初めの方に登場するのが基本パターンだとすると、なかなか登場しないキャラクター
は重要度が低いことは経験的に理解できる。また、実際に登場しないと、実在するかど
うかもわからない。観客だけではなく、話を聞いているお互いも、本当に実在するのか
を確かめたいと思っている。ジェシーがセリーヌにボーイフレンドのことを好きかと聞
くと、セリーヌが間髪いれずに「もちろん」と答えるシーンが興味深い。なぜなら、ジ
ェシーはセリーヌにそれ以上質問をしないからである。ジェシーがセリーヌの気持ちを
正確に把握できていないのは明らかで、もっと知りたいと思っても聞けない歯がゆい思
いがある。疑いが晴れない状況の中での二人のやりとりは、観客が簡単に感情移入でき
るリアリティーがある。形式上のパートナーである人についての話は、真実と作り話の
境が不明だからである。観客は、通常のロマンティック・コメディーとの差異に気がつ
き、二人が結ばれないのではないかという焦燥感をもつ。
(2) コンベンションに沿った発展の行動がない
普通のロマンティック・コメディーはストーリーがわかりやすく、ひねくれた展開が
ないという特徴もある。ひねくれた展開は、観客の意思に反した展開であり。予想する
ことができない結果になる。わかりやすい展開は、自然の原理に即しており、映画を観
たことのある人であればしばしばストーリーが予想できる。この点において、『ビフォ
ア・サンセット』のユニークな点は、二人の密接度が伝わらないことである。ロマンテ
19
ィック・コメディーにおいて、カップルの男女は結婚または婚約というゴールに向けて
だんだんと親密な関係になっていく。この変化が明らかなのは、タイムエリプシスが理
解できる範囲で留まっているからである。もし、二人が出会ったシーンの次がキスシー
ンであれば、観客はなぜこの二人が突然恋人同士になっているのかわからない。逆に、
告白のシーンがあれば、次にキスシーンを期待する。代表的なロマンティック・コメデ
ィーでは、カップルが経る段階は順序立って登場するので、観客は混乱を避けられる。
しかし、『ビフォア・サンセット』では、ジャンル・コンベンションに基づいた行動が
見られない。よって、ジェシーとセリーヌがこれからどのような関係になるのかを予想
することができない。二人は観客が確かだと思える行動をしないので、ストーリーにお
いての不確実性は大きくなる一方である。この特徴は、まるで不確実性に富んだ実際の
男女関係を詳細に表しているようにも思える。
(3) プロット
ロマンティック・コメディーのプロットには、主人公のカップルは始め反発しあって、
それが逆転して恋愛になるという展開が多い。相手にはライバルであるファルス・ラバ
ーがいることが多いので、主人公の二人はお互いが運命のカップルであることに気がつ
きにくい。むしろ、相手を好きになるまでに、いがみ合う時期が続く。相手に反発して
いるが、共同作業を行うことでわだかまりがなくなり、お互いを許し合うようになる。
恋愛関係になる前のカップルは、まるで幼稚園児のように自分の感情を相手に知らせる
ことがある。現実社会で、知り合ったばかりの大人の男女が嫌味を言い合うことなど少
ないので、ロマンティック・コメディーらしいコンベンションである。また小さなきっ
かけにより仲直りをして、恋愛に発展するような人間関係は、非常に現実離れしている。
このような逆転を含む非現実的な展開がこの映画には見当たらない。『ビフォア・サン
ライズ』であっても、初対面から話がはずみ、どんどんとお互いに惹かれあっていく。
たしかに、『ビフォア・サンセット』の再会の後は、ジェシーが別れから半年後に一人
でウィーンに行った事実が明らかになるまで、落ち着かない時間帯が続く。大人になっ
て社会経験を積んだ二人は、一瞬で打ち解けるほど柔軟ではないからである。しかし、
相手に皮肉を言うなどの反発はないので、人間関係の秩序が崩れない。このようなプロ
ットは、実際に人間関係が経る段階を描写していて、現実的な印象を与える。
(4)エンディング
エンディングがはっきりしないのは、ロマンティック・コメディーにおいて珍しいこ
とである。(2)と(3)でも述べたように、大体のロマンティック・コメディーにお
いて、可プルが進む発展段階が決まっているように、エンディングにもコンベンション
がある。ロマンティック・コメディーのエンディング自体は、いくつかバリエーション
があり、愛の告白、婚約、結婚、家庭を築いている、などである。主人公のバックグラ
ウンドなどにより、二人のゴールとなるエンディングは異なってくる。ジェシーとセリ
ーヌの場合、結婚できる年齢であり、セリーヌが結婚に対する願望を語るシーンもある
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ので、プロポーズがハッピーエンドであるように期待される。しかし、この映画では、
そのようなコミットメントをつくらないし、作ろうともしていない。(2)に続いて、
エンディングは確定していない部分が多い。ジェシーが飛行機に乗り遅れることはわか
っていでも、ジェシーがこの後どれぐらいパリにい続けるのかはわからない。また、相
手をどの程度好いているのかを証明する台詞や態度もない。二人の恋の行方もわからな
いので、エンディングはオープン・エンディングである。
前作の『ビフォア・サンライズ』では「約束」という一種のコンベンションに基づい
たエンディングである。前作では約束をして終わるが、今回は約束すら交わさない。
『ビ
フォア・サンセット』の方がリアリズムの意識が強いせいか、なんのコミットメントも
ないまま映画は終わってしまう。
終わりがないということは、ジェシーとセリーヌの関係が継続することの表れだと考
えられる。実際にコミットメントを表明して、何の疑問も生まれないような終わり方を
すれば、登場人物の生活もそこで終わってしまう印象を与える。完璧なエンディングが
ないこの映画の場合、ジェシーとセリーヌの生活は、観客の生活が映画が終わっても続
いているように、続いていくのである。
第四章:シンボル
この映画は統一性を持たせるために、決まったものが一本の線のように使われている。
そのようなものは実際の機能だけではなく、他の意味を表すようなシンボルとしての機
能を持ち合わせている。映画の展開に合わせてそのようなものを追っていくと、シンボ
ルがどのような意味を持っているかが明らかになる。フォーマリズム映画では、観客が
わかりやすくシンボルを出す場合が多いが、リアリズムの映画では、シンボルは一見隠
れたところにあり、注意して観ていないとわからないことが多い。第三章でロマンティ
ック・コメディーというジャンルを紹介したが、シンボルもそのジャンルの決まりごと
の一貫として登場していると言える。
4−1:移動手段
二人は、再会してから、徒歩、ボート、車と移動手段を替えている。最後にジェシー
ンが飛行機でアメリカに帰ることを入れれば、最後の移動手段は飛行機である。この移
動手段を替えていく過程は、ストーリー展開であり、二人の親密の度合いを表している
のではないかと考える。二人の関係は、移動手段や乗り物とも平行な関係を保っている。
最初はジェシーが椅子に座っていて、セリーヌは立っているところから始まる。次に二
人は、揃って歩いてカフェに行きゆっくりと時間を過ごす。長い間散歩をした後、ボー
トに乗って、ドライバーの元へ到着する。最後に車に乗り、セリーヌの自宅へ着く。そ
して、登場はしていないが、飛行機も重要な移動手段である。映画の中では、ジェシー
がアメリカに帰るための飛行機の予約があることが前提で、ストーリーが続いている。
徒歩からボート、車への移動手段の変化は何を意味するのだろうか。移動手段の変化は、
二人の関係が発展する過程のメタファーであると私は考える。
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この移動手段の変化をみるにあたって、二つのことに注意したい。(1)乗り物のス
ピードと、(2)視野の広さである。移動中に何が見えて、何が見えないかは、スピー
ドや乗り物によって変わってくる。
まず、長い間続く徒歩はどうだろうか。徒歩は、最もゆっくりした移動手段である。
歩いている本人がスピードを調整できるし、好きなところで止まることもできる。スピ
ードと行き先が自由自在なので、周りの景色もよく見ることができる。散歩をしている
二人は、周りの自然を見ながら、相手のペースも肌で感じている。ここでは、相手と波
長を合わせることも重要である。もし一方が早く歩き過ぎると、もう一方に合わせなく
てはならない。お互いが相手の歩く早さとバランスをとりながら、歩いている。波長を
合わせていても、二人の間にはまだ距離がある。歩いているときは、距離の取り方も自
由だからである。空間論的配置の節でも述べたが、再会したばかりの二人は、お互いの
居心地の良い距離を保って歩いている。よって、徒歩のシーンにおいて二人の関係は、
方向性が定まっていない上、お互いを探り合っている状態といえる。
次に、ジェシーとセリーヌが観光者向けのボートに乗る。このボートが徒歩と違うの
点は4つある。まず、スピードは一定であり、徒歩より速い。進むスピードは徒歩より
速いので、速く目的地に着く。次に、遠くまで見渡せるので、文字通りの観光(sightseeing)
が可能である。徒歩をしていると、目線は自分の背の高さであり、遠くまで見渡すこと
ができない。ボートが観光用ということもあるが、ボートの上からある程度遠くまで見
える。セリーヌが「パリがこんなに美しい場所だと忘れていたわ」というシーンにも表
せるように、今まで見慣れていた情景をもう一度見直すことは、新しい気持ちになれる。
広い世界を感じることで、さわやかな気分を味わえる。そして、ボートの上の空間は決
まっているので、空間においての自由度が低くなる。二人は狭いデッキの中で居場所を
見つけなくてはいけない。徒歩では、片方だけ好きな方へ行くことも可能だったが、デ
ッキの上では行く場所が定められている。よって、二人の間の距離もある程度限定され
る。また、停留所は選べても、目的地が決まっている。進む方向も決まっているので、
自由自在に進んだり、止まったりできない。概して、ボートは徒歩に比べて、より限定
的である。別れの時間が迫ってきて、ジェシーのセリーヌはだんだんとわだかまりを無
くそうとして、努力している。しかし、双方とも素直になれず、不安定なままボートを
降りる。
車は、ボートよりも発展した関係を表している。ボートのような停留所はないが、運
転手はジェシーの言う通りの場所へ連れて行くので、権力者が好きな場所へ行くための
乗り物である。スピードは、ボートよりも早い。進むスピードが速いと、車の外の状況
や風景などに目を向ける余裕はない。二人の視線はお互いに向かっており、たまに運転
手を見るか見ないかの程度である。二人の距離は、今までで最も限定されている。車の
後部座席は狭いので、車の中で二人は移動することができないからである。空間が限定
されていて、別れの時間も迫っているので、二人の議論は灼熱する。今まで隠していた
ことをいうこともあり、車での移動中にさまざまな事実が明らかになった。二人とも相
手のことしか見えない分、考えることも話すことも視野が狭くなっていて、二人の距離
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がまた一歩近づいたことを表現している。長い道のりを経て、焦って加速しながら、二
人はセリーヌの部屋という最終目的地に到着する。
そして、二人の頭の中には常に、飛行機がある。今までの三つに比べて、飛行機は移
動距離が最も長い。パリからニューヨークへ移動するには、時間、費用も掛かる。車よ
りは広くても、離陸してしまえば勝手に降りることは不可能なので、自由度が高いわけ
ではない。簡単に手配できる乗り物ではないので、飛行機に乗ることは、映画の中では
「別れ」のメタファーとして機能している。前作と同様に、飛行機の時間が迫っている
ことは、二人の別れの時を表しているからである。
以上より、移動手段が変わるにつれて、乗り物のスピードはだんだんと速くなってき
ている。これは、別れの時が近づいてきて、二人は焦りを感じている様子とつながる。
また、視野の広さはだんだんと限定されてきている。精神的にも相手のことを考えてい
るためか、物理的にも相手のことしか見えなくなってきている。この条件が揃うことに
より、はじめて自分の気持ちを見つめ直すことが可能になり、最後の別れである飛行機
で移動することを選択しなかったことにつながる。
4−2:赤色
この映画には赤色がたくさん使われている。この赤色が表すシンボルについて論じた
い。私は、赤色はそれ自体が意味するシンボルと、黒と対照的な暗闇の中にある赤が意
味するシンボルの二種類あると考える。まず、赤色がシンボルとして、情熱、愛、ハー
ト、生命などポジティブなものが多い。この映画では、二人が恋に落ちる過程を表して
いることから、情熱を表す色として、赤が使われている。赤と対照的な色に、黒や白な
どの目立たない色がある。パリの町並みは、地味なベージュや灰色などで彩られている。
そして、ジェシーは黒のジャケットを着ていて、セリーヌは黒のタンクトップを着てい
る。よって、フレームの中は、暗い色であることが多い。そこで、赤色が暗い色のフレ
ームにあると、「暗闇の中にある赤」として目立つ。具体的に、赤色はどのように機能
しているかを見てみる。
ジェシーはこの時、セリーヌを思いながら書いた自分の小説について語っている。同
時に、ジェシーは恋について語っているのである。赤いテーブルクロスと、シャンパン
グラスの中の赤い花が、ジェシーのセリーヌへの情熱を表している。フレームの 25 パ
ーセントぐらいが赤色のテーブルクロスであり、暗い店内がジェシーがいるところだけ
明るく見える。ジェシーが恋に燃えることを予測しているようである。
また、セリーヌの登場のシーンにも赤色が使われている。
ジェシーの登場シーンである。(00:01:18)
23
セリーヌの登場シーン(00:05:36)
赤色がセリーヌのシーンに登場していることは、セリーヌ自身がジェシーの恋の対象
であることを示唆している。白いジャケットを着ているセリーヌの背景に赤い柱があり、
ピュアなイメージを持つ白色と情熱の赤色が対照的である。ここで重要なのは、セリー
ヌはジェシーの恋の対象であっても、恋愛に対しては懐疑的であることがセリーヌの原
論からわかる。例えば、セリーヌは現在の恋人に依存することなく、一人で生活してい
くことに恐れを感じていない。また、結婚をしていないことも永遠の愛を誓うことへの
疑心とも言える。以上のように、情熱的な愛を信じないセリーヌが、これからジェシー
と恋仲に戻るかどうかを決める再会のシーンを映したフレーム内に赤色が入っている
ことは興味深い。
次に赤色が多く登場するのは、標識である。日本の道路標識と似たように、赤色で書
かれた標識が多く登場する。道路標識だけがクローズアップされることはなくても、バ
ックグランドやフォアグランド(手前)に映し出される。ジェシーとセリーヌの意思表
示というよりは、第三者の立場からジェシーとセリーヌへ指示しているようである。
目立つために使われた赤は、情熱の恋までの道筋に二人を連れて行くためのサインと
して機能している。二人が進んでいる道は正しい道どうかは、最後になるまでわからな
い。なぜなら、二人は素直に気持ちを打ち明けるまでに相当の時間を費やしている。こ
の意味において、二人は赤色のサインを無視しているとも言える。
例えば、散歩中の二人の背景に出ている標識は、二人の間に登場しているので、二人
の関係の境界となっている。パリの街ではまだ再会したばかりで打ち解けていないので、
24
二人の関係は心地よいものではない。また、散歩中の背景に出てきているときは、お互
いの気持ちを探っている途中である。二人が結ばれるのはまだ早いと警告しているよう
である。
パリの街(00:10:36)
散歩中の背景(00:35:22)
また、セリーヌのアパートの入口に登場する赤色のバーは、車の立ち入り禁止を表し
ている。ジェシーとセリーヌはここで車をおりて歩き始める。バーを越えられるのはセ
リーヌと親しい人だけであり、住民が許可した人しか通ることができない。よって、こ
のバーはジェシーとセリーヌの境界となっていた今までの標識とは違い、「二人だけの
世界」と現実の世界の境界となる入口とも解釈できる。
セリーヌのアパートの入口(01:03:36)
そして、最後に赤が印象深く登場するのが、セリーヌの部屋の中である。二人が歩い
た後に最後に行き着く場所であり、映画はこの場所でエンディングを迎える。セリーヌ
の部屋は、第三章でも説明したように、「二人だけの世界」である。同時に、さまざま
な移動手段を経て、標識の指示を見ながらたどり着いた最終目的地である。なぜならば、
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この映画はセリーヌの部屋で終わっているからである。最後のシーンとなるセリーヌの
部屋に赤が多く登場することは、赤のシンボルを論ずるにあたって重要である。最後の
シーンを分析して、この映画においてのシンボルとしての赤色を定義できる。
セリーヌの部屋(01:07:22)
まず、最後のシーンほど明るい色がたくさんでてくるシーンはない。庭園を歩いてい
るシーンを例にとってみると、橋を渡る前まではバックは緑の木々だけで、目立つもの
はない。会話を重ねることで二人の距離が縮んでくると、背景の木々の中に赤い花が咲
くようになる。この場合の赤は愛を表すのに加えて、生命をも表しているようである。
ジェシーとセリーヌは、9 年前は恋人同士であったが、二人の愛は一回終わってしまっ
たように感じるため、9 年前よりも現在は距離を置いている。そこで、トンネルをくぐ
ったり、橋を渡ったりする行為は、まるで産道を通って子どもが産まれるように、二人
の愛が命を再度吹き込まれていくことのシンボルにもなる。花の赤色は、情熱の愛と、
二人の愛が再び誕生したことも表す。
色の変化は、実際に黒い土から芽がでて、花になる植物の成長過程を色別に表したも
のになる。カップルの最終目的地までの過程も、黒から緑、そして赤へと変化している。
このように、二人の関係は、再会をしてから、距離を縮めて情熱の赤に転換してきてい
ることがわかる。
次に、
「二人だけの世界」が赤色なのは、
「二人の愛」の部屋となったからである。最
後の二人の会話を考慮することで、セリーヌの部屋が情熱の赤色をしていたことが説明
できる。
Celine : Yo ,baby, you gonna miss that plane.
Jesse: I know.
(和訳)
セリーヌ:ベイビー、飛行機に乗り遅れるわよ。
ジェシー:知ってるよ。
ジェシーの”I know.”の後に省略されているのは、”I’m gonna miss the plane” であるか
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ら、ジェシーは飛行機に乗らずに、セリーヌの部屋から出ないことが予想される。言い
換えれば、アメリカに帰れないことをわかっていながらも、ジェシーはパリに残って、
セリーヌとの関係を続けることを決めたのである。ジェシーが最初に部屋に案内された
ときは、ただセリーヌの歌を聞くだけであっても、パリに居残ることになり、ジェシー
のこれからの人生のターニングポイントとなった。よって、セリーヌの部屋は、情熱の
愛を表す赤色であった。
概して、この映画に赤が出てくる場合は、「情熱的な愛」や「生命」などというポジ
ティブな概念のシンボルである。
第五章:テーマとしてのリアリティー;信念について
序章に示したリアリティーに関する文献と今までに行った映画の分析を考慮すると、
『ビフォア・サンセット』が他の映画とは異なったユニークな手法が広範囲に及んで見
受けられる。やはり、この映画の最も大きな特徴となっているのは、映画と現実の距離
が近いことである。通常の映画の場合、観客の立場は冷静な傍観者として映画の展開を
みる。この映画において、傍観者と主人公の二人との距離が縮まっていることは、逆の
立場から見れば、現実が映画に近いのである。そのリアリティーを特色づけるために、
テクニックが使われているのは現在までの分析でわかっている。それでは、具体的にど
の程度まで観客は映画の中の時間を共有することができているのだろうか。以下では、
テーマを考えるにあたって、観客と映画のイメージとの距離について考えたい。
「映画みたい」という形容詞は、ある特定の映画を真似ている状況を表すときよりは、
まるで映画の中のように非現実的なことが起こっている状況を表す形容詞である。映画
の中では、現実では起こらないようなことがあたかも実現しているように描写される。
物理的に現実離れした状況を表すジャンルとして、津波や大雪によって地球が滅亡しそ
うになる SF 映画があげられる。ストーリーが幻想的なものとして、絶滅したはずの恐
竜やアニメから生まれた怪獣のキャラクターなどが登場するファンタジー映画や子ど
も向けの映画がある。これらの映画でしばしば起こるような状況は、映画の中でしかお
こらないことを人々は認知している。では、その意味において『ビフォア・サンライズ』
は「映画みたい」なシーンはあるか。私はほとんどないのではないかと考える。たしか
に、電車の中で出会う『ビフォア・サンライズ』の状況は、少々ロマンティックすぎる
かもしれない。しかし、二人の生きている会話や感情を考えると、ロマンティックすぎ
るのはほんの一部であり、ほとんどが現代に生きるカップルの生活を映画に映し出した
リアリティーが感じられる。
最もリアリティーが感じられる理由に、ジェシーとセリーヌの信念が鍵となっている。
映画の中で、実際の人間と同じ感覚を持っていると認知できることは少ない。通常のロ
マンティック・コメディー映画において、登場人物がどのような信念を持っているかは
重要視されず、何を信じるかよりも、誰のことを好きかの方が大切な情報として扱われ
る。よって、観客は主役の二人が何を考えているのか、何を信じているかなどの質問へ
の答えは水面下にあり、追及しようとはしない。この映画では、ジェシーとセリーヌの
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信念がテーマになっているので、普段は明らかにならない部分まで観客が理解できるの
で、リアリティーを感じることができる。それでは、どのような信念が共有されている
のだろうか。
世の中は不確実性に富んでいるということが、共有の信念として認識されている。不
確実という言葉の意味は、何が起こるかわからないことと今の状態がずっと続く保証は
ないことの二つある。前者は、超能力など特別なパワーがない限り、人間は未来を予測
できない。いつ運命の相手にめぐり合えるのか、いつ結婚できるのか、そしていつ死ん
でいくのかなどの人生の節目となる出来事がどのような過程を経て現実に起きるのか
は予測できない。この事実をジェシーとセリーヌは受け止めていることが、読み取れる。
9 年後の再会を果たして、9 年前の反省を言い合うシーンがある。そのシーンにおいて、
セリーヌとジェシーはそれぞれの不確実性への信念を語っている。
セリーヌは、9 年前は将来に対してポジティブな期待ばかりしていたので、ジェシー
以外にも出会いはたくさんあると考えていたことを認めている。9 年前に連絡先を交換
しなかったのも、将来への不安がなく、半年後の約束をお互い果たすというポジティブ
な先見であった。9 年経って考えれば、9 年間の間にジェシーほどの人には会えなかっ
たし、傷つくことを恐れていた自分を見つめなおしている。必要以上に期待をすること
を諦めたセリーヌは、もう一つの現実の不確実性に直面している。今ジェシーと共有す
る時間が永遠に続くことは保証されていない。ジェシーと一緒にいる時間が幸せな余り
現実逃避しがちであるが、セリーヌはいつでもジェシーとの別れがきても良いように心
の準備を欠かさなかった。それは、ジェシーがボートに乗ろうと言ったときも、ジェシ
ーが歌を歌って欲しいと言ったときも飛行機のことを言及している。
ジェシーも同じ様に、9 年前と現在を比べている。半年後にウィーンで再会するとい
う約束を果たそうとしたジェシーだが、セリーヌが来なかったために悲しい思い出とな
った。セリーヌが言うように、9 年前の悲しい思い出もパリで再会したことによって良
い思い出になった。9 年前のウィーンのシーンはないので、ジェシーの詳細については
情報がないが、セリーヌに裏切られた気持ちがあったのは確かである。だからジェシー
はセリーヌを忘れようとして他の女性と結婚した。何十年後の将来のことを考えずに結
婚を決めたが、今になって 50 歳を過ぎてから妻を愛していなかったという状況になる
ことを恐れている。現在の状況が永遠に続かない不確実性の中には、人の気持ちも含ま
れている。ジェシーは、妻よりセリーヌを愛しているという確かな思いを糧に人生を送
ってきた。
不確実な世界の中で一つでも確実なものが求められていることは、映画を通じて感じ
られた。ジェシーとセリーヌも確実なものを探していた。二人は、相手から常に大事に
される安心感が必要である。そして、お互いを信じるという気持ちだけは、自分の信念
がしっかりしている限り、高い可能性をもって保証されるということに気がついた。自
分が相手を大事にしている限り、相手も自分を大切にしようとして、お互いに愛し合え
るということに気がついた。信念によって二人の関係が安定になるというメカニズムが
わかっても、言葉に出してわざわざ確かめることはしない。なぜならば、言葉にすると
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いうこと自体が、不確実な部分を持っているからである。言葉にしたり、文書にしたり
して、契約や約束を交わすことは、それらが必ず守られるという保証がないのにしばし
ば実行される。契約や約束が守られないときがあるのならば、言葉や文書は単なる補助
的な意味しか持たない。よって、ジェシーとセリーヌは、わかりやすく言葉や文書にし
て再確認する必要はないと思っている。
現実に対して悲観的ではないが、ポジティブとも言い難いジェシーとセリーヌの信念
は、観客と同調できる感覚である。同調できる理由は、観客は「映画みたい」なロマン
スを以前ほど求めなくなっているからである。おとぎ話のようなストーリーよりも、不
確実なものも超越する方が、リアリティーに基づいている。この映画は、リアリティー
を追求するために、ジェシーとセリーヌの弱さまで詳細に映し出し、ジェシーとセリー
ヌも観客と同じような、社会を苦労しながら生き抜く人物像を創造している。
ジェシーとセリーヌは世の中の不確実なものに対して不安を感じているが、お互いを
信じあうことで二人の関係はある程度安定することに気がついている。二人の感情や認
識に焦点を当てることで、観客は二人の不安などを感じる。観客は、完璧ではない二人
のリアリティーを受け入れ、同調することができるので、リアリティーが一貫してこの
映画に表れていると考える。
第六章:まとめ
一つの映画の詳細を突き詰めると、さまざまなことが明らかになった。また、今回の
検証では、リアリティーをキーワードとして扱ったため、『ビフォア・サンセット』が
なぜドキュメンタリー映画のようなリアリティーを表せているかが明らかになった。デ
レンの理論をふまえれば、映画がどのように実世界をフィルムで表しているかがわかっ
た。デレンの述べる時間と空間をつなげるテクニックがこの映画でも多く使われていた
のは、現実主義に基づいた撮影方法が取り入れられていることを示している。ミディア
ムショットとロングテイクは、実際に起こっている現象を、監督が見たままを観客に伝
えるのに適したテクニックである。空間論的配置を時系列に準じて検証していくことで、
何の計算もなさそうな二人の配置は、実は二人の関係の密度を表していることがわかっ
た。映画が進むにつれて二人の関係が変化していくことは、会話や動作の他に無意識の
うちに感じられるようになっている。空間論的配置は、隠されたテクニックである。
テクニックとは少々離れた議論として、この映画がロマンティック・コメディーとい
うジャンルに属することについて触れた。ロマンティック・コメディーのコンベンショ
ンに当てはまる点と反する点を挙げることで、ジャンルの中でも特色があることを説明
した。そして、コンベンションと一致しない点を取り入れたのは、リアリティーを追及
する上で不可欠な要素であった。
次に、移動手段と赤色が表す意味について論じた。一度見ただけでは気にならなくて
も、見返してみると乗り物や赤いものが多く登場していることに気がついた。それらを
リストにしてみると、ストーリー展開や二人の関係の変化とも比例している部分が見つ
かった。色が象徴するものを考えるシンボリズムは頻繁に登場する議論であるが、乗り
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物がストーリー展開の補助的な要素を持っていたのは興味深かった。乗り物のスピード
が重要だったのも、この映画がリアルタイムで進んでいったからである。
前章で述べたテーマは、二人の会話や思考から情報を得て、私が個人的に考えたもの
である。日常会話で頻繁に出てこない「輪廻」や「宗教」などを語っている二人が最も
重要としているのは「信念」ではないかと考えた。言い換えれば、二人がお互いにもっ
ていた質問も信念に関する質問に集約できる。よって、信念とリアリティーを結びつけ
たテーマが重要だと考えた。
以上のように、この映画には、リアリティーを求めるという一貫した目的があった。
テクニックからテーマまで技巧を凝らしたからこそ、『ビフォア・サンセット』がユニ
ークな作品に仕上がったのだと考える。
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参考資料
『ビフォア・サンライズ
恋人までの距離(ディスタンス)
』
原題:“Before Sunrise”
監督:リチャード・リンクレーター
製作:アン・ウォーカー=マクベイ
脚本:リチャード・リンクレーター、キム・クリザン
製作年:1995 年
製作国:アメリカ
『ビフォア・サンセット』
原題:“Before Sunset”
監督:リチャード・リンクレーター
製作:アン・ウォーカー=マクベイ
脚本:リチャード・リンクレーター、イーサン・ホーク、ジュリー・デルピー
原案:キム・グリザン
製作年:2004 年
製作国:アメリカ
参考文献
Deren, Maya
Cinematography : The Creative Use of Reality, 1960.
Burch, Noel
Spatial and Temporal Articulations and Editing as a Plastic Art,1973. Ed.
Lehman, Peter Defining Cinema : Rutgers University Press, 1997.
Giannetti, Louis Understanding Movies : Prentice Hall, 1998(堤和子、増田珠子、堤龍一郎訳
『映画技法のリテラシーⅠ:映像の法則』
)
Linklater, Richard Krizan, Kim “Before Sunrise” screenplay ,Vintage Books, 2005.
Linklater, Richard; Delpy, Julie; Hawke, Ethan “Before Sunset” screenplay, Vintage Books,
2005.
参考 HP
・ あらすじ
http://www.coda21.net/eiga3mai/text_review/BEFORE_SUNSET.htm#more
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