自我分裂の論理的可能性への試論 フッサールにおける反省の問題 橋場 利幸 自己反省にまつわる逆説がある。私は一つの自我でありつつも、反省する自我と反省される自我の 役割を同時に演じなければならない、というのがそれである。私の中に相異する私が同時に存すると いう事態を眼前にすると、自己反省など不可能にも思われる。しかしそれを不可能としてしまうには、 われわれの心理的事実が反対するのである ─ なによりも私は現に今ここで自己反省しているでは ないか。フッサールは反省にまつわるこのような事態を「自我分裂 (Ichspaltung)」と表現した。われ われは反省において「反省する自我」と「対象を知覚する自我」という二つの自我へと分裂するにも かかわらず、両者は同時間のうちに並列的に共存するとフッサールはいう。さらに超越論的・現象学 的な反省においては、前者が「無関心な傍観者」へと転じることによって、内世界的関心を持つ後者 の自我と共存するという、新たな自我分裂が生じるとされる。しかしながら、フッサールの想定する このような自我分裂モデルには「問われざる前提」が存するようにおもわれる。すなわち、もし反省 者が「無関心な傍観者」になることによって超越論的・現象学的反省が遂行されるならば、自我はそ れ以前にすでに反省者と被反省者という二つの自我に分裂していなければならないはずである。とこ ろがその自然的反省における自我分裂に対しては、フッサールは心理的事実としての確認以上の根拠 を与えていないのである。相異する様相を持つ二つの自我が「生き生きとした現在」において共存す るという、フッサールの想定した反省モデルはどこまで妥当なものなのであろうか。現象学がプライ ヴェートな心理的事実性に止まることを潔しとしないのであれば、さらには超越論的・現象学的反省 が現象学全体の可否を担う鍵概念であってみれば、「自我分裂」という事態についての何らかの根拠 づけが必要となろう。しかも反省機能がわれわれ独自の能力を示す一指標と目されるからには、その 解明は、機械の知と人間の知の共存が現実となった現代において、それらの相互境界の確定づけの問 題でもある。 以下はフッサールの想定する反省モデルの根拠づけの試みである。私はここでフッサールの反省モ デルが自我分裂を「量的」分裂として想定するものであるということ、そのようなモデルは根拠づけ られないということ、したがってフッサールの反省モデルがカテゴリーミステイクの危険を孕んでい るということを指摘したいと思う。これによって、反省という事態が、同一の自我において「機能分 化」が生じるような「質的」変容として把握されるべきである、ということが逆照射されることにな る。同時に自我を反省者/被反省者へ二分する反省モデルに対しても再考が促されることが期待され る。具体的には以下の手順にしたがう。まずフッサールの設定した反省モデルから自我分裂の問題が 浮き立たされ(第 1 章)、次に超越論的・現象学的反省における自我分裂が自然的反省におけるそれ を前提とすることから、後者の論理的根拠づけの必要性が呈示される(第 2 章)。さらにいくつかの 101 反省モデルによる自然的自我分裂の根拠づけが試みられるが、いずれにおいても困難を孕まざるを得 ないという事態が議論される(第 3 章)。最後に上記の困難が、フッサールの反省モデルにおける自 我の「量的分裂」に起因する困難であるということ、したがって自我分裂という事態は、自我の「機 能分化」、つまり質的変容として把握されるべきことが提唱される(第 4 章)という手順がとられる ことになる。 1. 反省と自我分裂 フッサールは 1923 年および 24 年の『第一哲学』講義のなかで自我分裂の問題を扱っている。同論 では、自我が反省者と被反省者へと「自我分裂」するという自然的反省のモデルが呈示されるが、そ の際分裂した自我の同一性の根拠は「高次の反省能力」による明証性に帰される。さらには超越論的・ 現象学的反省における自我分裂という事態も語られる。われわれはまずフッサールの反省論を同講義 にそって追いかけることにしよう。 1.1. 自然的反省における自我分裂 フッサールは対象に没入した通常の知覚作用を「自己忘却 (Selbstverlorenheit)」[VIII 88] もしくは「直 線的な (geradehin)」[I 72, 78] 作用と表現する。それに対して反省は「より高次の段階の知覚という形態」 [VIII 88] である ( 1) 。われわれは反省によって「自らが自ら自身へと再帰的に関係するような自我」 [cp.cit.90] になりうるのである。反省を通してはじめてわれわれは自らの自己忘却を知ることができる。 素朴な知覚から反省への移行とは、家屋の知覚の場合を例に取れば、知覚対象が「家屋」から「私が 家屋を知覚しているということ」へと変化したことを意味する。つまり反省によって「以前は体験で あって対象でなかったものを対象にする」[I 72] ということが起こったのである。フッサールによれば、 このことは主体が「反省する自我として『私は知覚している』という作用を越えた」[op.cit.88] という ことを意味している。それでは以前家屋へと向かっていた知覚作用は消失してしまったのであろうか。 決してそうではない。確かに以前の知覚においてそうであったような、素朴な自己忘却という状態は 脱したにせよ、いまだに家屋への知覚作用は継続されているのである。フッサールによれば、反省に おいては「今現在も引き続いて家屋を観察している自我」と「自分が継続して家屋を観察していると いうことに気付いている自我」が共存しているとされる。これが「自我分裂」[op.cit.89] という事態で ある(2)。換言すれば、自我分裂とは、知覚作用を遂行している第一の自我の「その上に」第二の反省 する自我が存しているような事態なのである。 「 わ れ わ れ は 自我分裂において以下のようなものを持つのである。まず第一に、知覚作用を遂 行 す る 自 我、もしくは想起を遂行する自我、それゆえに存在に関心を持つような自我がある。 さらにはそれと一緒に第二もの、つまりそれの上に (darüberstehend) 位置する反省する自我、例 え ば 『 私 は家屋を知覚する』を観察するような自我が存するのである。この反省する自我は、 通常は同時に下位に位置する (darüberstehend) 自我と関心を共有し、場合によっては関心を持つ 102 態 度 を そ れ と 一緒に共有するような仕方で、共に信じ、共に推測し、共に疑うような自我なの である」 [op.cit.96] 上記のように反省者側の自我が「上に」位置する自我と表現されるのにしたがって、同書の他の箇 所では、反省される側の自我が「反省的に把握される(下の unten)自我」[op.cit.99] と表現されている。 これらの表現から考えると、フッサールは自我分裂を「空間的事物」的な分裂というメタファーによ って把握していることがわかる(3)。また同書には「新たに登場する (neu auftretend) 反省する自我」[VIII 99]「あらゆる新たな、より高次の段階へと上昇する反省が、新たな自我を遂行主観として登場させる ということ、すなわち、第三の自我とその作用が第二のものに関連し、第二のものが第一のものに関 連している、ということをいう必要はほとんどないであろう」[op.cit.89] といった表現も見られる。し たがってこれらの文脈から判断すると、フッサールは自我分裂を、一種の自我の「量的」分裂として 考えていたように思われる(4)。しかしながら、はたして反省をこのような量的分裂モデルで把握可能 かについては問題が残る(われわれはこの問題を後の第 3 章以下で扱う)。いずれにせよ、フッサー ルによればこの「二重化した自我」と「二重化した自我作用」は、時間的に離散しているのではなく 「生き生きとした現在」[ibid.] において共存しているという。 1.2. 超越論的・現象学的反省における自我分裂 上記のようなものがフッサールの想定する反省モデル、「反省の一般構造」[Landgrebe 311] であるが、 その詳細を検討する前に、まずはわれわれはフッサールの想定する反省の種別を確認しておく必要が あろう。フッサールは反省を「自然的反省」と「超越論的・現象学的反省」に区分しているからであ る。なぜこれらの区別が必要なのであろうか。それにはまずフッサールの術語である自然的態度/超 越論的態度の区別を考えなければならない。フッサールは、世界存在への素朴な信念を伴ったわれわ れの日常的態度を自然的態度とよび、そのような信念を、超越論的・現象学的還元によって「カッコ に入れ」、もっぱら研究対象を純粋意識へと限定し、観察者の予備的信念や偏見から解放された態度 を超越論的態度とよんだのであった。つまり一般に反省といっても、上記のうちどちらの態度で反省 に臨むのかによってその意味は異なるのである。態度変更の問題については後の 2.1 節で扱うことと して、ここで先の自我分裂の話題にもどろう。先に見たとおり一般の反省、つまり自然的反省におい ては、自我は「対象に向けられている自我」と「反省する自我」へと分裂することになるのだが、フ ッサールは超越論的・現象学的反省における自我分裂を、自然的反省におけるそれとは異なった側面 からとらえている。自然的態度を遂行する自我は「自然的に世界の中に入って経験したり、その他の 何らかの仕方で生きている世界に関心を持つ自我」[I 73] であり、それゆえに対象存在の信念を持った 自我であった。したがってそこにおいては、たとえ反省において反省者/被反省者へと自我分裂した としても、両自我とも世界への信憑を保持したままなのである。しかもそれは必当然的な確実性を得 るために反省する自我ではなく、「その目的にとって十分なだけの確実性を手に入れれば満足する」 [Landgrebe 312] ような関心しか持たない自我である。ところが超越論的・現象学的反省においては事情 が異なる。なぜなら超越論的・現象学的反省とは、反省者側の自我が「判断抑制という自由な行為」 103 [VIII 98] に よ っ て 「 す べ て の 内 世 界 的 関 心 から解放」 [Landgrebe 313] された「無関心な傍観者 (5) (uninteressierter Zuschauer)」[I 73, VIII 92]へと変容する ことによって遂行されるような反省だからであ る。先の自我分裂とは異なり、ここにおいては「世界に素朴な関心を持つ自我の上に (über)、現象学 的な自我が無関心な傍観者として位置している」[I 73] という新たな意味での自我分裂が起こることに なる(6)。換言すれば、超越論的・現象学的反省においては、同一の自我のうちに「世界に関心を持つ 自我」と「世界に無関心な傍観者としての自我」、つまり「信念」と「判断中止」という、排他的様 相をもつ自我が、同時に共存することになるのである。前者の自我が、自然的態度を遂行する内世界 的な経験的自我であり、後者の「判断中止」という態度をとる「世界に無関心な傍観者としての自我」 が超越論的自我である(7)。ランドグレーベはこのような超越論的自我を「内世界的な条件や関心の連 関にはまったく組み込まれない自由な自我」とか「内世界的な関心の全体を裁判する倫理的自我」 [Landgrebe 316] と表現している。しかしながら相反する様相を持った超越論的自我/経験的自我の共存 という、フッサール自身においては確かに明証的であったであろう心理的事実を、はたしてわれわれ に対しても同様に根拠づけられるのであろうか。われわれはこれらの問いに答えるために、フッサー ルの自我論を確認しておかなければならない。 2. 自我の二重構造 ─ 経験的自我と超越論的自我 フッサールの自我論は多様な変遷を経験してきた。経験的自我のみが認められた記述的現象学の立 場から、超越論的転回を経て超越論的自我/経験的自我の「二重主観説」[Wüstenberg 125] へと転回を 遂げていったフッサールの自我観は「長くしかもおそらくは決して終結しない発展をこうむった」 [Kockelmans 327] といえるだろう。発展史的にみれば、フッサールの自我観は大きく三期に分類される ように思われる(8)。第一は『論理学研究』までの時期(∼1900)である。この時期はナトルプの意味 での「それ自身は内容とはなりえず、意識の何らかの内容でありうるようなものとは全く異質のも の」「決してそれ以上詳細に記述されもしない」[XIV/1 372-3] ような純粋自我が否定され、もっぱら経 験的自我のみを対象とした時期であった。第二は『イデーン I』に代表される時期(1900∼1916)で あり、非経験的自我としての純粋自我の存在が認められるようになる。純粋自我は、あらゆる作用の 中心極であって、恒常的にあらゆる体験に付随しつつもあくまでも体験の非実的な部分に止まる「内 在における超越」[III/1 124] とされる。また他者問題との関連で、自我に対して習性や人格的要素など の具体性も付与され、「モナドとしての自我」と称されるようになるのもこの時期である。第三は自 我を世界定立の源泉として考えるようになる時期(1916∼)で、ここでは超越論的自我がすべての意 味と存在妥当性を構成する源泉とされるようになる。またこの時期は純粋自我という表現は影を潜め、 超越論的自我もしくはエゴという用法が多くなる(9)。われわれは以下でフッサールにおける超越論的 自我と経験的自我の関係を議論することにしよう。 2.1. 主体の態度変更と自我の自己構成説 104 そもそも経験的自我と非経験的自我の関係は「超越論哲学の伝統において長い論争の歴史を持った 一つの主題」[Carr 87] であったが、このことはフッサールにとっても「純粋に固有なものに還元され た人間としての自我、また同時に還元された世界現象の内にある人間としての自我と、超越論的エゴ としてのわたしが相互にどのような関係にあるのか」[I 130] という問いであった。ある草稿では「カ ントや彼のすべての追随者」たちには超越論的自我と心理学的自我の関係への問いが不問に付されて きたと批判されている(10)。フッサールはこの問題をどのように解決したのだろうか。 フッサールの語る自我が、たとえ非経験的自我であっても、あくまで習性を備えた人格的自我 で もある [Carr 97] 以上、経験的自我と超越論的自我は同一主観のものでなければならないだろう。それ は「超越論的自我としての私は、世界的領域における人間的自我と同一のものである」[VI 267] とか、 「自然的態度の自我としての私はつねに超越論的自我である」[I 75] などと語っていることからも確証 される。しかし同時に、フッサールは両者の峻別も要求しているのである。たとえば「超越論的主観 性は心理学的主観性と異なったものである旨を ... 私は繰り返し言明してきた」[VI 158] といった言明 にそれが見られる。同趣旨のことはフッサールが哲学史的批判を行う際のキーポイントともなってい る。例えば、バークレー、ヒューム、ライプニッツなどの「偉大な観念論者たち」[op.cit.154] において は「心理学的主観性と超越論的主観性との間の著しい差違」[ibid.] が未解明であったという批判や、 デカルトに対する「エゴを純粋な心と同一視することによって首尾一貫性に破綻が生じている」[VI 82] といった批判にそれが見られる。さらにこれらの相矛盾する主張のみではあきたらず、フッサールは 超越論的自我と経験的自我が、相異しつつも同一のものだという要求をわれわれにつきつける。「経 験的主観性と超越論的主観性の相異は不可避的なものであり続けたが、その同一性もまたやはり不可 避的であり、しかもわかりにくいものであった。私自身が超越論的自我としては世界を『構成』しな がら、同時に心としては世界の中にある人間的自我なのである ... フィヒテが語っている自己自身を 定立する自我、これはフィヒテの自我以外の何ものでありえようか」[VI 205]。われわれはこれらの矛 盾した諸言明をどのように理解すればよいのであろうか。 これに対するフッサールの回答は、両自我の相異は、同一の自我の異なったカテゴリーに起因する 「意味的」なものであり、いわば「記述レヴェルのちがい」であるということである。両自我はあく まで同一の自我であり、それらが相異するように見えるのは、カテゴリーの異なる自我の各々の側面 を、あたかも同一カテゴリーにあるかのように見なしてその関係を考える「カテゴリーミステイク」 に起因するのである。実際に両自我が同一の自我であっても、あるレヴェルで見れば自我は超越論的 自我であり、あるレヴェルで見れば経験的自我なのである(11)。したがって両自我の差異は、実体的な それではないことになる。その際、自我のレヴェルの相異をもたらすのが、先の第 1.2 節で採り上げ た、主体の「態度変更」なのである。 「 私 の 超 越 論 的 自 我 は自然的自我と明証的に『異なって』はいるが、しかし第二の自我でもな け れ ば 、 また言葉の普通の意味で自然的自我から切り離された自我でもなく、逆にまた自然的 自 我 と 普 通の意味で結びついたりそれと組み合わされている自我でもない。まさにこの超越論 的 自 己 経 験の(充分な具体化においてとらえられた)領域が、単なる態度変更によっていつで も心理学的自己経験に変えられるのである」 [IX 294] 105 フッサールは態度変更という事態によって、われわれの世界との「かかわり方」の違いを問題とす る。われわれは通常あるものを知覚する場合、常に知覚対象が実在しているという信念に伴われてい る。なぜなら、われわれは知覚対象を懐疑しつつ知覚することはできないし、もし懐疑しているのな らば、知覚ではなく幻覚といった方が適切だからである。「知覚からそれに対する信念を取り去れば それはもはや知覚ではない」[VIII 87]。個別的対象が存在する普遍的地盤としての世界の存在も同様に 信念に伴われている。世界に対する信念を伴ったこのような態度が、フッサールのいう自然的態度で ある。ところがこの存在信念が問題なのである。フッサールがわざわざ主体の態度を区別する意図は、 対象存在への信念につきまとう先入見からの解放と、それによって現れる超越論的自我およびその相 関者である構成された世界の発見にある。「通常の素朴に遂行された私の家屋の知覚への反省の場 合 ... 単に私は『私はその家屋を知覚している』のではないし、家屋を知覚する自我と知覚すること の両方に対する観察者なのでもない。むしろ私は自我の知覚信念も共に持っているのであり、反省す る自我として、家屋を知覚している自我の信念をも共に遂行しているのである」[op.cit.91]。このこと は、自然的態度における「私はその客観を見る」が「私はその客観が現実的に存在していることを信 じている」の省略された記述であることを意味する [op.cit.92]。このことからフッサールがわざわざ超 越論的態度を設定する理由が明らかになるだろう。フッサールの意図は、世界に対する信念からの解 放にあるのである。「日常生活において行われる自然的反省においては ... われわれは存在するもの として前もって与えられている世界の地盤の上に立っている ... 超越論的・現象学的反省においては、 世界の存在及び非存在に関する普遍的なエポケーによって、そのような地盤から自らを解き放つので ある」[I 72]。 上記のような自然的態度から超越論的態度への態度変更は「超越論的・現象学的還元」[IX 293] とい う方法論的操作概念によって行われる。フッサールによれば、現象学的還元は「現象学的・心理学的 還元」「超越論的・現象学的還元」という二つのステップに、「形相的還元」が組み合わされること によって遂行される(12) が、これらのうち前二者の還元に各々対応して主体の態度が決定されるので ある。第一の還元である「現象学的・心理学的還元」は、当初は超越論的・哲学的現象学と峻別され てはいなかった [op.cit.277] にもかかわらず、後に超越論的現象学の「予備学 (Propädeutik)」[op.cit.295] と しての地位を与えられるようになった「現象学的心理学」という立場において遂行される還元である。 この立場においては「心理学的還元」によって外的対象の存在問題から解放されることによって、そ の研究対象をもっぱら主体の意識領域に限定し、さらには「形相的還元」によって意識に現れるもの の本質構造を記述することをその目的とする。しかしながら、「現象学的心理学」は、たとえ「現象 学」の名を授けられてはいても、世界内の対象を世界内のものとして研究する以上、あくまで自然的 態度における研究に止まる。したがってこの態度においては、自我は主体に対して自らを「経験的自 我」としてしか呈示しない。しかしながら、哲学が「第一哲学」たるからには、あらゆる可疑的なも のを廃去しなければならない。世界といえどもその可疑性を免れぬ以上、世界すらも意識における「現 象」に還元するような「普遍的判断中止」「徹底的な判断中止」[op.cit 293] が必要となってくる。これ に対応する操作概念が、第二の還元である「超越論的・現象学的還元」である。それによって到達さ 106 れた主体の態度が超越論的態度なのであり、このような態度において、世界のあらゆる意味をおのれ から湧出するような主体として現れてくるレヴェルが超越論的自我なのである。フッサールは、自然 的態度から超越論的態度へのこのような態度変更によって、同一の自我のうちの経験的側面が顕在化 したり、超越論的側面が顕在化したりすると主張するのである。これによって両自我の同一性が「単 なる態度変更によって生じる存在意味 (Seinssinn) の相互移行」[op.cit.294] という「意味的差異」に帰 されることになるのである(13)。 さらにフッサールは両自我の同一性を保証するために、経験的自我を「超越論的自我の自己客観 化」であるとする自我構造を持ち出す。 「 こ の 移 行[自然的態度から超越論的態度への態度変更]に際して、自我の同一性が必然的に 確 立 さ れ る。つまり、この移行を超越論的に反省すれば、心理学的客観化が超越論的自我の自 己 客 観 化 であることが見て取られ、こうして超越論的自我こそ、自然的態度の各瞬間におのれ にある統覚を課した当のものであることが見とどけられる」 [IX 294] ここでいわれる「超越論的自我の自己客観化」こそが、両自我の同一性を保証する深層構造であり、 可能根拠である。これがフッサールのいう「自我の自己構成」なのである。超越論的・現象学的還元 によって到達された超越論的自我は、世界を超越した位置にあって「あらゆるものを構成する自我」 [I 130] なのであった。現象学的立場では、世界内のあらゆるものは現象として構成されているという 身分を持つのみなのである。このことは世界における自我自身についても例外ではない。「人間とし ての私は純粋自我の現実的環境の存立部分であり、純粋自我はすべての志向性の中心として自我、人 間、人格性が構成されるような志向性も遂行する」[IV 109] のである。つまりフッサールは、経験的自 我自身も超越論的自我によって構成されたものだ、とするのである。 「 わ れ わ れ は 今や以下のようにいうことができよう:[超越論的]エゴとしての私は、私に対 して存在する世界を(相関項としての)現象として構成し、また今後も引き続き構成するので、 同 様 に 私 は、構成された世界全体の中で、通常の人間的―人格的自我の意味での自我の名の下 で 、 世 界 化する自己統覚を、世界構成に対応する構成的綜合によって遂行したのであり、その ような自己統覚の妥当性を主張し自己統覚を行い続けるのだ、と」 [I 130] フッサールは自然的態度における主観性を、超越論的に構成された人間的主観性であると見なして いるのである。超越論的な自我構成の立場から見れば、経験的自我とは、超越論的自我の「流入」に よる「自己統覚態」であり「外化された自我」[新 田 81] ということができるだろう。一見相異するよ うに見える経験的自我/超越論的自我だが、実は経験的自我は超越論的自我によって構成されたもの に他ならず、両者は同一のものであり、その同一のものがどのレヴェルで主体に現れるかによって、 経験的自我に見えたり、超越論的自我に見えたりするということなのである。 しかしながら自我の自己構成という自我構造は、つねに顕在的に意識に上っているわけではないと いうことが注意されるべきである。フッサールはこの事態を以下のように語っている。 107 「 人 間 と し て の わ た し の 素朴な自己意識においては、わたしは広大な超越論的問題次元に対し て 盲 目である。この次元は閉ざされた匿名性 (Anonimität) のうちにあるのである。わたしは確 か に 実 際 に超越論的エゴなのであるがしかしそれを意識してはおらず、わたしは自然的態度に お い て 対 象 極 に完全に委ねられており、もっぱら対象極に向けられた関心と課題とに完全に縛 り付けられているのである」 [VI 209] フッサールによれば、自我の自己構成という深層構造は、超越論的・現象学的反省によってはじ めて顕在化するのである。このことは、超越論的自我が内世界的な自然的態度では見えないというこ とを意味する。自然的態度に生きる主体は超越論的自我であるにもかかわらず、それに気付いていな いとフッサールはいうのである。それでは逆にわれわれが超越論的態度をとる場合、つまり超越論的 自我が顕在化している場合は、経験的自我はどうなっているのであろうか。フッサールは現象学者の 態度変更を一種の「職業時間」に比している [VI 138-140] 。それによれば、われわれが現象学者として 判断中止という態度変更を行うのは、ちょうどわれわれがそのつどの職業的関心に応じて「今は会議 の時間だ、投票にゆく時間だ」という区別をしているようなものであるという。しかもわれわれは単 一の職業的態度のみに生きるのではなく、例えば「家長であり、同時に市民でもある」 [op.cit.139] と いった具合にさまざまな関心の中で同時にそれらを遂行している。その際われわれは一定の関心方向 へと自らを向けたとしても、それ以外の態度をとる主体が消失するわけではなく、どのような態度を とろうとも主体は同一の主体である。このことは超越論的自我と経験的自我の関係においても同様に 当てはまるであろう。つまり、たとえ主体が超越論的・現象学的反省において超越論的自我として顕 在的に機能しようとも、経験的自我がまったく消失してしまうわけではないのである。この意味で経 験的自我は「超越論的自我の潜伏態」「超越論的先歴史」[新 田 80] であるといえる。つまりフッサー ルは超越論的自我と経験的自我の関係を以下のように考えたのである。超越論的自我として超越論的 態度が遂行される限りでは経験的自我は背景へと退き、逆に経験的自我が遂行態にある限りでは超越 論的自我が背景へと退く。いわば超越論的・現象学的反省における自我分裂とは「見えるもの」と「見 えないもの」の相克関係を呈するのであり、一方が現れる限りでは他方が退くという関係を保つので ある。それはちょうどランドグレーベが指摘する通り「『遂行する自我』の自己自身との同一性は決 して対象化されない同一性であり、対象化される存在にかかわる概念によっては記述することはでき ず、むしろ『他在において一である』という『弁証法的』な関係としてのみ記述される」[Landgrebe 324-5] ものといえるであろう。 2.2. 現象学の暗黙の前提 ─ 自然的反省における自我分裂 われわれは超越論的自我と経験的自我の差異が、主体の態度変更に起因する意味的・質的差異に帰 せされることを前節で確認した。ところがここでひとつの問題が生じる。超越論的・現象学的反省そ のものの可能性の命運を握るものが、フッサールによって明確に問われぬまま、暗黙のうちに前提と されてしまっているのである。それはいったいどのようなものなのであろうか。われわれはまず、ど 108 のような手続きで超越論的・現象学的反省が遂行されるのかを再確認しておかなければならない。そ もそも自然的反省とは、現象学的なそれとは異なって、対象への存在信念を持ち続けているような自 我による反省であった。「通常は、あらゆる『私はこの対象を見ている』という形式の言明は、同時 に『この対象が現実的に存在していることを、私は信じている』ということを意味している」[VIII 92]。 フッサールは通常の反省をこのように分析することによって、それに暗黙のうちに前提されている存 在信憑を暴き出し、そのような暗黙の前提からの解放の可能性を模索するのである。つまりこのよう な通常の反省には、反省する自我が自らの存在信憑の「スウィッチを切る」という可能性が存してい るのである。 「 こ の よ う な 通常の場合には、変則的場合が相対しているのである。今や皆さんは、なぜ私が こ の よ う な ま っ た く 自明なこと[知覚には存在信念が伴っていること]を申しあげなければな ら な か っ た の か が 、すぐにおわかりになるであろう。すなわち、必ずしもつねに普通そうであ る 通 り に す る 必要はないということが、対照的に浮かび上がってくるということが重要なので あ る 。 つ ま り 反省する自我としての私は決していつも共に信じるものでなければならない、と い う わ け で は な い の で あ る 。現象学的還元の方法の理解にとって特別に重要であるのは以下の こ と で あ る。私は私の自由において、反省の自然的な信憑を共に行うことを拒絶することもで き る 、 と い うのがそれである 。私は知覚された家屋の現存在と存在仕方や世界一般の現存在に 対 し て 、 絶対的に無関心な傍観者として純粋に振る舞う、ということをなすことができるので ある」 [VIII 92] 超越論的・現象学的反省は、自然的反省における反省者側の自我が、存在定立を拒絶した「無関心 な傍観者」へと変貌することによってはじめて成立するのである。してみると、超越論的・現象学的 反省を遂行するために自我が「無関心な傍観者」へと変貌する際には、すでに自我が「反省する自我」 として確立されていなければならないことになる。すなわち超越論的・現象学的反省に先立って、す でに自然的反省における自我分裂が成立していなければならないのである。つまり超越論的・現象学 的反省は自然的反省を前提するのであり、いわば後者は暗黙のうちに前者の「背景」を構成している のである。しかしながらフッサールは自然的反省における自我分裂という事態を、以下のように高次 の反省による主体の事実確認に帰しているのみであって、そもそも自我分裂という事態が、心的事実 性以上の権利根拠を持つか否かは不問に付されたままなのである。 「 な に ゆ え に わ れ わ れ は 自らが自ら自身へと再帰的に関係するような自我について、それ自身 やその作用を『自己知覚』によって知ると語れるのだろうか ... われわれが分裂という比喩を使 用 で き た と い う こ と ... 統一的なものの分離を ─ そうして場合によっては一定の統一の維持 を ─ 指摘するということ、これらのことはどのようにして生じたのであろうか。それに対す る 解 答 は 、自我反省において実際にいつでも可能な生を考慮すればあらわれてくる。私はここ で い つ で も よ り 高次の反省を遂行することができる。すなわち、遡ってつかみ取ることによっ て 把 握 さ れ た 自我、生き生きとした作用の内で理解され、同時に反省的に観察された自我を概 観 す る こ と に よ っ て 、より高次の反省を遂行できるのである。そうして自らがすでに顕在的と 109 なった反省的自我であることを知るのである」 [VIII 90] フッサールは、主体が自らの体験を反省してみれば「様々な作用と作用主観の多様において、分裂 しつつも唯一であるものが自らそこで分裂するような同一の自我であること」「能動性における自我 生命が首尾一貫して『絶え間なく活動する態度において分裂するもの』以外の何ものでもないという こと」「あらゆるものを概観する自我が繰り返し自らを打ち立てうるということ」「その自我はすべ ての各々の作用と作用主観を同一化するようなものであるということ」が直ちに理解されるという [op.cit.91] 。しかしながらフッサールのこれらの説明は、結局フッサール自身の心理的事実性を訴える のみであり、そもそも自我分裂がいったいどのような根拠によって遂行可能とされているのかについ ては、まったく語られていない。自然的反省においては、それまで遂行されていた「対象を知覚する 自我」に加えて、あらたに「反省する自我」が確立される必要があるが、フッサールの「私は、私自 身をより高次の反省において見渡す自我として打ち立てることができるということを見るのであ る」 [ibid.] という説明では、はたして自我分裂はフッサール個人の心理的事実以上の身分を持ちうる であろうか。自我分裂という事態の想定は、われわれの心理的事実に照らし合わせると、確かに自明 なことのようにも思われる。しかし実際にそれによってどのような事態が名指されているかを説明す るためには、それでは十分ではない。例えば自我分裂という事態をまったく信じないような別の文化 世界の人間に対してこれを説明する場合はどうだろう。また現象学によって明らかにされた自我分裂 という事態を、学際的知識として諸学と共有する場合はどうだろう。現象学が「学」として諸学の基 礎づけの役割を果たすことを志向する限りは、それは単なる素朴な心理的事実性の確認にとどまるこ とはできないはずである。心理的説明以上の論理的根拠を欠いたままそのような事態が主張されるな らば、現象学の鍵となる方法である超越論的・現象学的反省そのものが基礎づけを欠くことになり、 このことは結局現象学そのものの成立を不可能とすることを意味する。超越論的・現象学的反省を遂 行する「無関心な傍観者」の存在が、現象学的記述の大前提となっているのであれば、まず自然的反 省における自我分裂が基礎づけらなければならない。そこで自然的反省における自我分裂という事態 に何らかの論理的説明を与える必要がでてくる。 3. 自我分裂の論理的可能性 前章でわれわれは超越論的・現象学的反省が自然的反省における自我分裂を前提とすること、した がって、まず自然的反省における自我分裂が根拠づけられなければならないことを確認した。本章で はその根拠づけの可能性がさまざまな視点から考察される。ここではいくつかの反省モデルを設定す ることによって、自我分裂という事態の論理的可能性の検討が試みられる。それではわれわれは具体 的にどのようなモデルを設定すればよいのであろうか。先の 1.1 節で見たとおり、フッサールが自我 分裂を「量的」な分裂としてとらえていた以上、さしあたり自我分裂の遂行方法として考えられるの は、以下のようなケースであろうと思われる。 (1) 自我は実際には分裂せず、同一の自我が反省者と被反省者の役割を交互に果たしているだけ 110 である (2) 自我は反省時において実際に、しかもそのときはじめて反省者と被反省者に自我分裂する (3) 自我は反省以前に、はじめから反省者と被反省者に分裂している われわれはこれらを各々「時分割モデル」「自己増殖モデル」「並列分散処理モデル」(14)と称し て、以下で各々の可能性を議論してゆくことにする。 3.1. 時分割モデル まず自我分裂を、同一の自我による見せかけの量的分裂として考えてみる。つまり、ここでは自我 が数的に分裂すると考えるのではなく、同一の自我が、反省者/被反省者という役割を、主体にはそ れと気付かれぬ程の瞬時において交互に遂行していると考えるのである。換言すれば、自我が二つの 異なった作用を時間的に交互に瞬時のうちに交代して遂行することによって、結果的に自我分裂を引 き起こしていると考えてみるのである。このモデルにおいては、自我分裂を、あたかも量的分裂であ るかのようにシミュレーションしているのみである。対象レヴェルと反省レヴェルの自我が、排他的 に交代することによって、同一の自我が、時間的・質的に変容するような過程を実現するのである。 これは以下のような状態遷移図であらわされる。 想起 想起 想起 対象レヴェルの 経験的自我 現象学的還元 反省レヴェルの 経験的自我 超越論的自我 反省レヴェルの 経験的自我 対象レヴェルの 経験的自我 fig. 1 時分割モデル しかしながらこのモデルによって反省を説明する場合の問題点は、反省が行われる際には、すでに 対象レヴェルの自我は存在していないということである。つまり、反省は本質的に以前の知覚の想起 に頼るほかはないということになり、以前の「私は知覚している」という生き生きとした知覚は「私 は私が知覚していたことを知覚している」として反省されるほかないことになる。したがってこのモ デルでは反省を「想起」と同一視してしまうことになる。また、自我が瞬時のうちに質的にまったく 相異する作用を遂行していると考えるだけの充分な根拠も見出し得ない。 3.2. 自己増殖モデル それでは、自我分裂を反省時にそのつど反省者側の自我が生起するようなものと考えればどうであ ろうか。このモデルは以下のようにあらわされる。 111 経験的自我 超越論的自我 経験的自我 経験的自我 現象学的還元 二重化 経験的自我 経験的自我 現象学的反省 自然的反省 経験的自我 経験的自我 経験的自我 fig. 2 経験的自我 自己増殖モデル このモデルが想定される論拠は、フッサールの「新たに登場する反省する自我」[VIII 88]「あらゆる 新たな、より高次の段階へと上昇する反省が、新たな自我を遂行主観として登場させるということ、 すなわち第三の自我とその作用が第二のものに関連し、第二のものが第一のものに関連する」[op.cit.89] といった言明である。ただしこのモデルで自我分裂を考える際に注意しなければならないのは、自我 分裂に際して新たに分裂した反省する自我が、反省される自我よりも「複雑さ」が決して減退しては ならないということである。なぜなら反省者側の自我は、対象を知覚する自我よりも能力が劣ってい るとは考えられないからである。しかしながら通常われわれは、生み出されるものは生み出すものよ りも複雑さが減退していると考えたくなる。はたしてこのような要求を満たしたモデルを論理的に説 明できるのであろうか。そこでこのモデルの論理的可能性を検討するために、われわれはフォン・ノ イマンの『オートマトンの一般及び論理的理論』(15)を考察する。ノイマンはこの問題をテューリング の理論的計算モデルである「オートマトン (automaton)」(16)の自己増殖の可能性として考察したが、 その際ノイマンは、分裂によって生じたオートマトンがそれを生じさせたものよりも複雑さが減退し ないような「自己増殖オートマトン」を論理的に考えたのである。 自己増殖オートマトンはどのように構成されるのであろうか。まず前提条件として、オートマトン を構築するのために必要な部品は豊富に存する(「貯蔵庫」の中に「浮いて」いるとされる)ことと する。自己増殖的オートマトン D は三つの部品からなり、各々オートマトン A、B、C と名付けられ る。第一のオートマトン A の部分は、他のオートマトンを構築するための情報を受け取ると、それを 忠実に作成するようなオートマトンである。ノイマンはこの情報を命令 (instruction) と呼んでおり、 記号 I であらわされる。このオートマトン A の中には命令 I を格納する場所がある。これは新たな増 殖段階において必要となる自分自身の設計書の収納場所である。第二のオートマトン B は「複写機 (reproducer)」である。これは与えられた命令(つまりオートマトンの設計書)を複写するものである。 これは親の持っていた子作りの情報を子に「複写」して渡すためである。第三のオートマトン C の部 分は「制御機械」である。これはオートマトン A と B を以下のように制御する。i) まずオートマト ン A に命令 I によって記述されたオートマトンを構築させ、ii) 次にオートマトン B に今参照した命 令 I をコピーさせ、iii) さらに A の中にコピーした命令を挿入させて、vi) 最後に新たに作った子のオ ートマトンを自身から切り離す。これらのオートマトン A、B、C によって構成されるオートマトン D に、D 自身を構成する命令を挿入することによって「自己増殖」が遂行される。その手順は以下の 通りである。まずオートマトン D 自身を構成するための命令 ID を「形成して (form)」[Neumann 420] こ れをオートマトン D の中の A の命令格納庫に挿入する。これをオートマトン E とする。ここまでの 112 様子を下図(17)に示す。 集合体 複写機 命令 I 制御機 → C 集合体(オートマトン) D 命令Iを複写 万能工作機 複写機 オートマトン D を記述した命令 B ID A → C 命令Iの挿入場所 fig. 3 B 制御機 万能工作機 E 命令Iを複写 A 命令IDの挿入場所 最初の親となるオートマトン D および自己増殖的オートマトン E の構成 ここで構成されたオートマトン E こそが「自己増殖オートマトン」なのである。なぜならこのオー トマトン E は、オートマトン D が自分自身の中に自分自身を構築するための命令を持つようなオー トマトンだからである。つまり、親となるオートマトン D が自分自身を作る命令 ID を持ったものが、 自己増殖的なオートマトン E なのである。親のオートマトンは自身に装着された命令を読んで、それ を忠実に構築すれば、自身と同じ子のオートマトンができるというわけである。命令 ID をさらに複雑 なものにすれば、親以上に複雑なものも構築しう。このモデルは説明されるべきものを前もって前提 とするような論点先取の悪循環は何ら存しない、とノイマンは注意している。 「オートマトン E は明らかに自己増殖的である。ここには何ら循環論法(悪循環 vicious circle) が含まれていないことに注意しよう。D を記述する命令 I D がつくられて D に所属させられると きに、オートマトン E に決定的段階が生じる。I D の構成が要求されるときには、オートマトン D は既に存在していて、I D の構成によっては決して修正されない。I D は E を作るために単に付け 加えられるに過ぎない。D と I D が形成されるべき一定の年代順的かつ論理的な順序というもの があって、その過程は論理法則に従った合法則的かつ正当なものである」 [ibid.]。 それではこの自己増殖オートマトンモデルは「自己増殖モデル」の論理的可能性を証明したといっ てよいのであろうか。残念ながら、このノイマンモデルでは自我の自己増殖を説明することは不可能 である。ノイマンのモデルは決して文字通りの「自己」増殖ではない。なぜならノイマンの論法は、 親となるものの記述(すなわち命令)をあらかじめ「形成して」[ibid.] 用意しておいてから、その後 に自己増殖をはじめるというものだからである。つまりこのノイマンモデルでは、オートマトンの情 報が記述されたものが前もって存在する、ということが暗黙のうちに前提とされているのである。こ のことは「自己増殖モデル」による反省の根拠づけにおいて、以下のようなさまざまな困難を引き起 こすということを意味する。まず第一に、最初の自我分裂が始まる際に、当の自我(すなわち反省主 体)以外のものによる当の自我の記述があらかじめ必要となるということである。第二に、自我が自 身を完全に記述した情報を持っていると考える充分な根拠があるかという問題もある。第三に、そも そも自我を完全に記述することが可能なのかという根本的な困難もある(18)。これらから考えると、こ のモデルも自我分裂に対する十分な論拠を与えないように思われる。 113 3.3. 並列分散処理モデル それでは上の二説とは異なり、はじめから相異するレヴェルの自我の並列的な存在を想定してみて はどうであろうか。このモデルは以下のような状態遷移図であらわされるだろう。 反省レヴェルの経験的自我 超越論的自我 経験的自我に戻る 現象学的還元 現象学的反省 自然的反省 対象知覚レヴェルの経験的自我 fig. 4 並列分散処理モデル つまり自我分裂をその時点で自我が反省者/被反省者へと分裂するのではなく、あらかじめ存して いる対象レヴェルの自我のうちに、同様にあらかじめ存している反省レヴェルの自我の存在が顕在化 する機会だと考えるのである。フッサールは「顕在態における自我生命は首尾一貫して『絶え間なく 活動しつつ分裂するもの』以外の何ものでもない」[VIII 91] と述べている。ここから考えると、反省を、 その時点ではじめて自我分裂が生起するような事態としてとらえるのではなく、既に生じていた自我 分裂に気付くような機会だと解釈することも可能であろう。つまり自我分裂とは、潜在態にある反省 する自我が、顕在態へと移行することだと考えるのである。確かにこのモデルは先に採り上げたフッ サールの「生き生きとした現在」における分裂した自我の共存をうまく説明できるように思われれる。 またこのモデルを裏付ける事実として、認知心理学でいわれるところの「メタ認知 (metacognition)」 がある(19)。たとえばわれわれは、計算問題を解いている最中に自分の計算方法が間違っていることに 気付いたり、道を歩いている途中でその道が自分の意図していたものとな異なることに突然気付いた りする。これらは自己忘却を越えた反省、メタレヴェルの認知と考えなければならない。しかもこれ らの行動は自然な自発的行動である以上、主体が意識的に反省という事態に入ってから気付かれたと は考えられない。むしろ「認知に関する認知」[市 川 119] としてのメタ認知が、あらかじめ対象レヴェ ルの知覚においても働いていたと考える方が自然であろう。しかしながらこのモデルの問題点は、レ ヴェルごとに分化した「諸自我」の同一性の保証をどうするかということである。もしもその保証を、 これらの自我のうちの反省レヴェルの自我による同一性の確認に求めるとしても、反省レヴェルの自 我自身がどうして自ら自身を越えて、自らと他の自我との同一性を自己対象化的に「反省」できるの かが再び問題になる。もしもこれらすべての自我を統制する最上位の自我をどこかに設定したとして も、同様の循環的事態が生じてしまうであろう。それではわれわれは自我分裂という事態を根拠づけ ることを諦めなければならないのだろうか。われわれは心理的事実性のみに甘んじなければならない のだろうか。 114 4. 機能分化としての自我分裂 われわれは上記で自然的反省における自我分裂という事態をさまざまなモデルで説明しようと試 みた。しかしながらいずれのモデルにおいても、論理的に整合的な説明を与えるには多大な困難が存 することを確認した。この困難はどこに存するのであろうか。本論の冒頭(1.1 節)で確認したとお り、フッサールは「われわれは自我分裂において以下のようなものを持つ ... まず第一に、知覚作用 を遂行する自我、もしくは想起を遂行する自我 .. がある。さらにはそれと一緒に第二もの、つまり それの上に (darübergestehend) 位置する反省する自我 ... が存するのである」[VIII 96] として反省をと らえた。このことはフッサールが、第一の自我が「上に」あり、第二の自我が「下に」あるという「空 間的事物」[Broekman 122] のメタファーを用いることによって、自我分裂を自我の「量的分裂」として とらえていたことを意味する。これによれば、反省とは自我が自我自身を、あたかも空間的事物を知 覚するかのように、知覚するということになる。しかしながら、自己反省作用を、単に自我が空間的 事物の認識において遂行する作用の方向を向け変えただけのもの(20)としてとらえてもよいのであろ うか。はたして自己反省を外的事物の知覚をモデルにして考えてもよいのであろうか。われわれが前 章で試みたような、自然的自我分裂の根拠づけの困難さは、フッサールが自我を空間的事物に類比し て反省モデルを構築しているところにその原因があるのではないだろうか。つまり先の困難は、反省 モデルを自我の「量的」な分裂として把握することに起因しているのである。自我分裂を自我の「量 的」分裂として説明しようとすると、あたかも自我が複数の自我へと事物化されてしまうかのような 様相を呈し、前章で試みたような自我分裂の根拠づけの困難を生ぜしめることになるのである。 それでは反省モデルを量的な自我分裂として把握できないのであれば、われわれはそれをどのよう なものとして考えればよいのであろうか。ここで考えなければならないのは以下のことである。先の 第 2 章でわれわれが確認したとおり、フッサールは超越論的・現象学的反省における自我分裂の場合 に「超越論的自我」という「特権的身分」を持つ高次レヴェルの自我を要請することによって、ちょ うどラッセルが「タイプ理論」によってパラドックスを回避した(21)ように、分裂した自我の同一性の 問題を、実体的差異ではなく「記述レヴェルの差異」として解決したのであった。同様に、自然的反 省における自我分裂の問題も「カテゴリーミステイク」として解決されるべきではないだろうか。つ まり「知覚する自我」と「反省する自我」の相異は、ちょうど経験的/超越論的自我の場合と同様に、 同一の自我の相異する「層」もしくは「機能」としてとらえられるべきなのである。確かに反省とい う状態に入った自我は、ある意味で反省者と被反省者へと分裂しているといえるであろう。しかし、 それはあくまで同一の自我内での相異する「機能分化」としてとらえるべきなのであって、各々の部 分をもって「自我」と名指すことは誤解をもたらすのである。換言すれば、反省者と被反省者は、自 我のうちの「非自立的契機」なのであって、それらをあたかも「自立的契機」でもあるかのような「自 我」という語によって名指すことは、カテゴリーミステイクなのである。反省における自我分裂とは、 あくまで数的に同一の自我における「質的」変化としての「機能分化」なのである。 しかしながら、反省の問題にはいまだ多大な困難が存していると言わざるを得ない。まず第一に、 量的自我分裂によらず自己対象化を遂行する「機能分化」を可能にする反省モデルとはどのようなも 115 のか、という認識論的問題がある。これは自我の持つ反省機能が通常の知覚機能とどのように相異す るのかという問題でもある。第二に、なぜ反省が生じるのか、つまり、なぜ機能分化が生じるのか、 なぜ機能分化が顕在化/潜在化するのかという発生的問題がある(22)。第三に、反省の高次化はどこま で可能なのかという論理的・物理的両面の問題が存する(23)。第四に、把握された知覚内容が、反省の 高次化によってどのような質的変化を被るのかというノエマ論的問題が存する。第五に、他者が反省 を行っていること、もしくは他者に自己意識があるという事実を、観察者はどうして知ることができ るのかという他者論的問題がある(24)。その際には、談話理解に伴う言語論的側面も含めて考察されな ければならないだろう。これらの諸問題については、今後機をあらためて取り組むこととしたい。 引用文献一覧 フッサールの著作は Husserliana : Edmund Husserl. Gesammelte Werke, Den Haag から いう形式で示す。その他の引用文献は [著 者 名 , ペ ー ジ ] [巻 数 , ペ ー ジ ] と という形式で示す。邦訳のみから参照したも のは(邦訳参照)と記し、引用に際しては邦訳のページ数を示す。 Aspray, William, & Arthur Burks (ed.), Papers of John von Neumann on Computing and Computer Theory, MIT Press & Tomash Publishers, London, 1987. Boden, M.A. (ed.), The Philosophy of Artificial Intelligence, Oxford U.P., 1990. Brand, Gerd., Welt, Ich und Zeit, Den Haag, M. Nijhoff, 1955. 新田義弘他訳『世界・自我・時間 ─ フッ サール未公開草稿による研究』国文社, 1976.(邦訳参照) Broekman, Jan M., Phänomenologie und Egologie, Nijhoff, Den Haag, 1963. Carr, David, Interpriting Husserl. Crtitical and Comparative Studies, Kluwer, 1987. 磯江他訳『フッサール ─ 批判的・比較的研究』晃洋書房, 1993.(邦訳参照) Dennett, D. C., “Cognitive Wheels. The Frame Problem of AI”, in: Boden(1990), 1984. 信原幸弘訳「コグニ ティヴ・ホイール ─ 人工知能におけるフレーム問題」『現代思想』vol.15-5, 1987, p.128-150. 福村晃夫, 稲垣康善, 『オートマトン・形式言語理論と計算論』(講座情報科学 6), 岩波書店, 1982. Gibson, James, J., The Ecological Approach to Visual Perception, Boston, Mass, 1979. 古崎敬ほか訳『生態 学的視覚論』サイエンス社, 1985.(邦訳参照) Hennrich, Dieter, Fichtes ursprüngliche Einsicht, Frankfurt a.M., 1967. 座小田豊他訳『フィヒテの根源的洞 察』法政大学出版局, 1986.(邦訳参照) 市川伸一, 伊藤裕司(編著),『認知心理学を知る』おうふう, 1993. Kockelmans, Joseph J., Edmund Husserl’s Phenomenology, Purdue U.P., Indiana, 1994. Landgrebe, Ludwig, Der Weg der Phänomenologie. Das Problem einer ursprünglichen Erfahrung, Gütersloh, 1963. 山崎庸輔他訳『現象学の道』木鐸社, 1980.(邦訳参照) ─ , The Phenomenology of Edmund Husserl, Edited with Introduction by Donn Welton, Cornell U.P., 1981. Luger, G.F.(ed), Computation & Intelligence. Collected Readings, AAAI & MIT Press, 1995. McClelland, J.L., D.E.Ruhmelhart, G.E.Hinton, “The Appeal of Parallel Distributed Processing”(1986), in: G.F.Luger(1995). Minsky, M., “A Framework for Representing Knowledge”(1981), in: G.F.Luger(1995). 宮坂和男, 「書評:E.フッサール、E.フィンク『超越論的方法論の理念』」日本現象学会編, 現象学年 116 報 11(1996)所載, pp.103-108. Neumann, John von, “The General and Logical Theory of Automana” (1948), in : Aspray & Burks (1987). 品 川嘉也訳「人工頭脳と自己増殖」, 世界の名著『現代の科学 II』, 中央公論社, 1978. 新田義弘,『現象学』岩波書店, 1978. Russell, Bertrand, Logic and Knowledge. Essays 1901-1950, Routledge, 1956. 菅田一博 他,「記述(遺伝子)なしの自己増殖セル・オートマトンについて」別冊数理科学『ゲーデ ルとテューリング ─ 計算機・生物・脳』(1986.10) 所載, サイエンス社, pp.94-103. Schwabe-Hansen, Elling, Das Verhältnis von transzendentaler und konkreter Subjektivität in der Phänomenologie Edmund Husserls, Solum Forlag, Oslo / Wilhelm Fink Verlag, München, 1991. Searle, John. R., Intentionality, Cambridge U.P., 1983. ─ , The Rediscovery of the Mind, MIT Press, 1992. Smith, David Woodruf, and Ronald McIntyre, Husserl and Intentionality, D.Reidel, Dordorecht, 1982. Ströker, E., Register.Husserls Werk. Zur Ausgabe der Gesammelten Schriften, Meiner, Hamburg, 1992. Turing, Allan M., “Computing Machinery and Intelligence”, Mind LIX, no.2236, Oct 1950. in: Boden(1990). 和田英一,「自己増殖」土屋俊他編『AI 事典』(1988) 所載, UPU, pp. 378-9. Wüstenberg, Klaus, Kritische Analysen zu den Grundproblemen der Transzendentalen Phänomenologie Husserls unter Besonderer Berücksichtigung der Philosophie Descartes’, E.J.Brill, Leiden, 1985. 1. フッサールは反省も知覚としているが(cf. VIII, p.88, IX, p.438)自然的態度における内世界的対象 の知覚作用と、反省レヴェルの作用との質的差違を考慮していないことには問題が残る。 2. 自我分裂という術語の時代的背景に関しては Broekman, p.118、Waldenfels, p.239 などを参照。 3. この点については Broekman, p.122 を参照。 4. フッサールが自我分裂を相互に完全に分離・独立した量的分裂と考えていなかったことは、自我分 裂を「樹木の枝の分岐」[VIII 90] と表現したことから理解される。しかしそれにしても分裂した各々 の自我が量的・並列的に併存する同レヴェルの存在者として把握されていることには変わりない。 5. フッサールは「無関心な傍観者」の他にも「関与しない傍観者 (unbeteiligter Zuschauer)」[VIII 98] も しくは「純粋な観察者 (reiner Betrachter)」[ibid] などと表現している。 6. 現象学的反省における自我分裂の場合にも、先に見た(1.1 節)自然的反省におけるそれと同様に 「上に」という空間的・量的メタファーが用いられていることに注意されたい。 7. この「傍観者」をそのまま超越論的自我としてよいのかどうかについては議論がある。例えばフィ ンクは両者を区別するが、フッサールは両者をほとんど混同しているという。cf. 宮坂, p.104. 8. 以下の分類はコッケルマンスによるものである。cf. Kockelmans, pp.327-8. 9. シュトレーカーらの作成した索引による。ただしこの索引はフッサールのすべての著作をカバーし ているわけではないので、この判断は厳密なものではない。cf. Ströker, pp.140-141, 165. 10. ブラントの引用したフッサールの草稿 K III I, pp.23-25 に見られる。cf. Brand, pp.83-84. 117 11. ここで、そのようなレヴェルの異なる自我を反省している主体、すなわち「観察者」は一体どの レヴェルにあるかという問題が存するが、ここではこの問題を扱うことはできない。 12. この「現象学的還元」のレヴェル分けについては Smith & McIntyre, pp. 93-104 を参照。 13. スミスとマッキンタイアーは超越論的自我と経験的自我の差違を「記述レヴェルの違い」に帰し ている。「フッサールの超越論的自我の理論は、第二のエゴの理論ではない。あたかも経験的エ ゴの背後に立ちその活動を操作する超越論的あやつり人形師のような第二のエゴの理論ではない のである」[Smith & McIntyre 99]。むしろフッサールの超越論的自我は「自身のエゴ、自身の経験、及 びそれら相互の関係やそれらの世界への関係などのあらゆる記述から方法論的に独立したような、 さらにはそれに先立つような自己自身を記述するレヴェルがあるということを意味する」[ibid.] も のだとされる。カーは両自我の差違を「自我と自我ならざるものの関係を把握する二通りの把握 の仕方」[Carr 98] に帰している。それによれば、経験的自我は世界内の事物や生起と「因果的」な 関係に立つが、それに対して超越論的自我はそれらと「志向的」関係に立つのである。「経験的 自我とは世界の中に登場するものであるが、超越論的自我とは世界に対して存在するものであ る」[op.cit.100]。 14. この「並列分散処理 (Parallel Distributed Processing: PDP)」という名称は McClelland et.al. (1986) の ものである。ただし彼らはこの認知パラダイムを反省モデルとして提唱したわけではない。 15. ノイマンは 1948 年にカリフォルニア工科大学で講演を行ったが、本論文はそれをもとに 1951 年 に出版された報告論文である。同論文では、人間を中心とする自然界のオートマトンとしての生 物と人工のそれとしての計算機が比較検討され、その内容は物理的な大きさ、記憶容量などの比 較から、W. C. McClloch 及び W. Pitts の論理的な神経回路網 (neural network) モデルと生物の神経 系統の比較にまでいたる広闊なものである。なおノイマンはここで紹介したものの他にもいくつ かの自己増殖のモデルを考えたようである。cf. Aspray & Burks, pp. xvii-xviii, pp. 363-390. 16. 現在一般に「オートマトン理論」とよばれているものは、理論的計算モデルもしくは形式言語理 論を中心とするもので、ノイマンがここで問題にしているものとはかなり異なっている。前者に ついては多数の文献があるが、例えば福村ら(1982) などが簡明である。 17. この図は菅井ほか(1985) を参考にして修正したものである。 18. ノイマン自身も、自己増殖オートマトンの場合のように完全な情報を含んだ命令が現実世界には 存在しないこと、むしろ一般的な指示者にとどまるだろうと指摘している。cf. Neumann, p. 420。 ただし分裂の際の命令を厳密な記述とは見ずに、充足されるべき未規定部分を持った「フレーム」 (cf. Minsky (1981))のような構造的知識、内部地平を持った一般的な指示者と考えることもでき る。 19. メタ認知については市川ほか, pp.119-128 に簡明な解説がある。 20. このことはヘンリッヒによって「自我の反省理論」として指摘されながらも、なぜかそれ以上の 分析が行われなかった事柄である。cf. Henrich, p. 59. 118 21. カントールのような素朴集合論の立場においてはパラドックス(自己自身を含まないようなすべ ての集合を要素とする集合 R を考えた場合、この集合自身は R に含まれるか否かという問題)が 生じるが、ラッセルは「タイプ理論」によって「集合」と「集合の集合」とを相違するカテゴリ ーとして峻別することによってこれを回避したのであった。 cf. Russell, pp.254-269 22. 反省はしばしばこれまでの行為が「うまくゆかなくなった」場合に喚起される。このことに関連 するのが、サールの「背景 (Background)」の議論である(cf. Searle(1983), pp.141-159)。サールは われわれの知識に暗黙のうちに働く「背景」能力は、志向的状態がその充足の条件の達成に失敗 する「崩壊 (breakdown)」[op.cit.155] のケースによって明らかになるという。さらにはまた、自己 反省もしくは自己対象化という事態が、しばしば他者による「自己忘却」的状態からの「呼び覚 まし」によってうながされるという事実から考えると、反省機能の顕在化という問題は、暗黙の 知識としての「背景」や「他者論」をも含めた問題系を形成するのではないかと思われる。 23. 反省の無限の高次化を問題にする際には、記憶能力/記憶容量の限界という経験的・物理的事実 にも充分考慮が払われるべきであろう。このことは「無限後退」という論理的側面からの批判に 隠れて、これまであまり注目されなかった事実であるが、人工知能による知能のシミュレーショ ンが現実問題として行われるようになった 1960 年代以来、われわれの知識量の問題が「フレーム 問題 (frame problem)」として明らかになってきた(cf. Dennet(1984))。これに対してはさまざまな 提案が行われているが、いずれも決定的なものではない(そもそもフレーム問題は擬問題である という所見もある)。しかしこれらの結果、知識の「外的資産」が考慮されるべきことも明らか になってきた。われわれが高次段階の反省を遂行する際には外部の情報を補助記憶装置として用 いる。それは紙によるメモであったり、他者であったりするが、おそらく高次の反省にはこのよ うな事物や他者などの外的資産が「背景」(cf. Searle(1983) (1992))として考慮されるべきであろ う。なお、知識の「外的資産」を重視するものに、ギブソンのアフォーダンス理論(cf. Gibson(1979)) などがある。 24. 一般に自己反省能力こそが人間独自の能力と見なされているからには、他者の自己意識の問題は 人間と人工知能の分水嶺としての「テューリングテスト」(cf. Turing (1950))とも絡んでくる。 119
© Copyright 2024 Paperzz