第6章 白馬村の観光産業に対する長野五輪の影響

第6 章 白馬村の観光産業に対する長野五輪の影響とその“遺産”に関する研究
高尾将幸・植田俊
1
はじめに
2009 年 10 月,コペンハーゲンで開催された IOC 総会にて,2016 年五輪開催地に名乗
りをあげていた東京が落選の憂き目を見た.招致委員会が IOC へ提出した『申請ファイル』
では,1964 年の東京五輪開催時に作られた競技施設群を「オリンピック・レガシーの素晴
らしさを証明」するものと位置づけながら,それらの“遺産” (レガシー)を活用した「環
境五輪」の意義を訴えはしたものの,二度目となる開催の大義を欠いたことが「敗因」の
ひとつとされている.ただ,これまで我が国で開催されてきた五輪が,どのような政治的・
経済的背景のなかで登場し,招致から開催後にわたってどのような影響(
“遺産”
)をもた
らしてきたかに関する検証作業は,近年ようやくその端緒についたばかりである 1).
『Olympic Cities』の編著者であるジョン・ゴールドとマーガレット・ゴールドは,第
二版のイントロダクションで,五輪をめぐる種々の言説において“遺産 legacy”という語
が環境問題と持続可能性というより広いアジェンダの中で浮上し,とりわけ「スポーツ,
都市再生,環境的諸要素という広範なパッケージ」に加えて,
「技能,スポーツ参加,文化
的参加,ボランティア,国民的な誇り,都市の地位」といった多様な構成要素を包含する
タームであることを指摘する(Gold and Gold 2010: 4-5)
.それを踏まえたうえで,主題
としてその“遺産”を文脈化するにあたっての四つのポイントを提示している.第一に厳
密かつ長期的な遺産の評価が必要であること,第二に遺産をポジティヴに評価しようとす
る楽観的な傾向が存在していること,第三にスポーツの遺産と非スポーツ領域のそれとの
バランスを考慮に入れること,第四に種々の公正さ(世代間,社会的,経済的,環境的,
空間的)の問題を捉えることが,五輪の“遺産”を分析するうえで留意すべき点だとされ
ている(Gold and Gold 2010: 7)
.
こうした指摘は,言うまでもなく五輪開催を推進する立場からしばしば論じられる経済
効果(ブースターとしての五輪)や,将来世代への素敵な贈り物など,厳密な検証を欠い
た期待(夢)とそれを語る言説の氾濫に対する彼らの違和感から発せられている.それに
加えて,五輪それ自体がある特定の時代や名乗りを上げた都市のアジェンダに応じた可塑
性を有しており,継起する出来事を単純に還元するのではなく,歴史的な検証の必要性が
求められているという(Gold and Gold 2010: 10-1)
.五輪にまつわる財政的問題・環境問
題が散発的に提起される一方,各種メガ・スポーツイベント招致への動きがとまらない現
在,我が国においてもそれらが地域社会にもたらしてきた正負の“遺産”の検証とその積
み上げが求められていると言える.
本稿では,1998 年に開催された長野五輪でアルペン,ジャンプ,クロスカントリー,コ
ンバインドの競技会場地となった長野県白馬村を事例に,メガ・スポーツイベントのもた
らす“遺産”を検証してみたい.戦前より登山の名所として知られていた白馬村は,高度
成長期から高まり始めたウィンタースポーツへのニーズに応えてきた.同時に,多くの地
元出身の競技選手を輩出してきたメッカの一つでもあり,長野五輪招致が持ち上がった当
93
初もすぐに会場候補地に選ばれている.長野五輪の期間中,白馬会場で開かれたジャンプ
競技は多くの注目を集め,特に団体優勝が決まったシーンは今なお“長野五輪の記憶”と
して想起され続けている.しかし,他方で白馬のその後をめぐる言説はそれに比して驚く
ほど少ない.
白馬村とその観光に関する研究は,
(観光)地理学分野で行われた農業集落の民宿化に関
する諸条件の分析に始まった(浅川 1964; 石井 1977).近年では,土屋(1997)が土地
所有形態に着目して,スキー場開発における地元資本と都市の大資本の関係を類型化し,
考察を試みている.そのなかで,白馬村の八方尾根スキー場は外部資本(東急電鉄)を導
入しつつも,入会地に端を発する「共同体的土地所有」によってそれに強い規制をかける
ことに成功,地元主導のスキー場開発を達成した事例として評価されている.より具体的
には,地元の人びとが,宣伝およびスキー場経営を行う観光協会,共有地を管理する八方
振興会,地元区,リフト会社を通じて強固に結び付くことで,外部の東急資本による開発
を抑制しつつ地元に有利な観光産業を維持してきた.土屋の議論は八方尾根に限定された
ものだが,区,リフト会社,観光協会の結合形態は村内各スキー場にも見られるものであ
る.こうした単位が区ごとに並立し,各々が高い自立性を保持しつつ,独自に外部資本と
の関係を築いてきた.ここに白馬のスキー場経営の特徴がある.
ただこうした仕組みは,あくまで地元に有利であることを条件にした外部資本との共存
戦略であり,ある種の排他性を内包していることは否めない.こう言ってよければ,それ
は毎年一定数の観光客の訪問があることを前提にして,そこで得られる職や富を地元の人
びと(主に兼業農家の民宿経営者たち)で公平に配分するための仕組みなのである.この
点をおさえたうえで,バブル経済崩壊以降のウィンタースポーツの低迷や,そのただ中で
招致・開催されていく五輪がどのような影響を及ぼしたのか,あらためて検証が求められ
る.
こうした課題を引き受けた議論として,小谷(2003)や堀田(2007)が挙げられる.小
谷は,白馬における地元主導のゲレンデスキー中心の「殿様商売」の限界を指摘しつつも,
他方で五輪時に村民が総出で環境保全ボランティアを体験したことの意義を強調する.そ
うした自然保護への意識の高まりを好機ととらえ,総合的なフォーシーズン・グリーンツ
ーリズムによる地域振興を喚起するために,住民自身による「社会実験」の手法を唱導し
ていく.また,堀田は五輪がもたらした“副産物”として男子滑降スタート地点問題 2)に
焦点を当て,科学的な「専門知」が介在することで,従来の八方尾根に対する住民の「日
常知」の意味が,多様なアクターの関わりのなかから豊富化され,
「開発」に重きを置いて
きた利用から「保全」の方向へと歩み始めたことを評価する(
「生成するコモンズ」)
.ただ
その一方,自然資源の持続可能な(経済的)利用,すなわち観光産業に重きをおく地元社
会のこれからについては,その現状分析も含め,考察すべき課題として残されたままにな
っている.
これらの先行研究には重要な論点が提示されてはいるものの,五輪開催から間もない調
査研究ということで時間的な奥行きに欠ける.また,白馬ではアルペン競技以外にもジャ
ンプ,クロスカントリーが開催されたが,従来の議論では八方尾根とアルペン競技に考察
が集中してしまっている.複数の競技を開催するということは,同時にそれだけの施設の
後利用が課題として残るだけではなく,各会場を繋ぐアクセス道路などの開発事業と無縁
94
ではない.それらの事業がどのような位置づけで進められ,そして何をもたらしたのかに
ついて,ポスト五輪期までを射程に入れた検証・考察が必要だと考える.
以上の問題意識に基づき,本報告では白馬村行政関係者および観光関連事業者への聞き
取り調査を実施するとともに,行政が発行する統計資料の分析,さらに 2009 年 12 月に実
施した量的調査(関東学園大学“長野五輪研究会”が実施した「長野五輪が地域社会に与
えた影響に関する調査」
)3)の結果をもとに,白馬村における五輪後の 10 年について,観
光産業への影響と今後の課題という点から考察していきたい.次節ではまず白馬村の概要
に触れ,白馬の人びとの五輪開催に関する態度について分析する.そのうえで,白馬村の
村政において五輪関連事業がどのような位置づけにあったのかをおさえるとともに,それ
がもたらした影響を確認していく.最後に,環境保全やボランティアといった五輪の“遺
産”をめぐる人びとの実践に焦点をあわせ,考察を加えていきたい.
2
白馬村の概要と観光産業の発展
長野県北西部にある白馬村は,1956 年に北安曇郡北城村と神城村が合併し発足した.西
には北アルプス白馬連峰をいただき,中央に走るフォッサマグナにそこから流れ出す河川
によって,村内には扇状地が形成されている.長いあいだこの地域の主たる産業は農業や
養蚕であったが,戦後はスキー場開発による観光産業が隆盛するとともに,民宿経営との
兼業化が進展していった.そうした展開の大きなエポックとなったのが 1958 年の東急資
本の進出であり,外部資本の導入によるスキー場開発・経営はこれを契機に村中に広がっ
ていくことになる.1980 年代には移住者も大きく伸び,全国でも有数の冬のリゾートとし
てその地位を築いてきた.しかし,近年では転出による社会減が目立ってきており,直近
の国勢調査(平成 22 年度)では 40 年ぶりの人口減に見舞われている(図 1,図 2).
10,000
人口数
世帯数
9,000
7919
8,000
7,000
6572
8356
8906
9492
9500
4,000
3,500
7131
6292
9207
3,000
6495
2,500
6,000
5,000
2,000
4,000
1,500
3,000
1,000
2,000
500
1,000
0
[人]
1965
1970
1975
1980
1985
1990
1995
2000
出典:『白馬村村勢要覧』
(各年)より作成.
図 1 白馬村の人口および世帯数の推移
95
2005
0
2010 [戸]
200
総計
150
社会増減
100
自然増減
50
0
-50
-100
-150
1980 1989 1991 1993 1995 1997 1999 2001 2003 2005 2007 2009
[人]
出典:「白馬の歩み」編纂委員会編(2003)および『白馬村村勢要覧』
(各年)より作成.
図 2 白馬村の人口動態の推移
産業構造に関しては,1970 年代を通じて第三次産業従事者が急増,それに伴い第一次産
業の従事者が減少していく.第二次産業については,大規模な工場誘致などもなく大きな
変動はない(図 3)
.戦後一貫して民宿経営および農業の兼業化が進むとともに,1970 年
代後半以降は村外からペンション等の経営者が流入することで第三次産業従事者の増加に
拍車がかかった(図 4)
.当然,スキーを中心としたウィンタースポーツの大衆化がその要
因となったわけだが,地元に職=富が分配される仕組みが定着していくことで,多くの人
が村にとどまる時代が続いた.しかし,2000 年代に入ると施設数・総収容人数ともに減少
に転じており,前者で言うと直近のデータではピーク時の半分近くにまで減っている.
6,000
80.0%
70.0%
5,000
60.0%
4,000
50.0%
3,000
40.0%
30.0%
2,000
20.0%
1,000
10.0%
0
0.0%
1960 1965
総数(人)
1970 1975 1980 1985 1990 1995 2000
第1次産業
第2次産業
第3次産業
出典:
『白馬村村勢要覧』
(各年)より作成.
図 3 就業人口総数および産業構造別割合の推移
96
2005
900
40,000
800
35,000
ロッジ等
700
30,000
ホテル
600
25,000
500
ペンション
20,000
400
旅館
15,000
300
200
10,000
民宿
100
5,000
総収容人員数
0
0
[人]
[件]
出典:『白馬村村勢要覧』(各年)および白馬村観光局資料より作成.
図 4 就業別宿泊施設数および総収容人員数の推移
1,400,000
1,000,000
800,000
35,000
30,000
25,000
第二十三回国民体育
大会スキー競技会
第十一回全日本選抜
アルペンスキー大会
1,200,000
40,000
全日本選手権を
三年連続開催
1,600,000
第四十一回全日本スキー選手権大会
1,800,000
600,000
400,000
20,000
15,000
10,000
5,000
200,000
0
[スキー客数]
0
1956
1960
1965
1970
収容人員数
1975
スキー客数
1980
[収容人員]
出典:「白馬の歩み」編纂委員会編(1994)をもとに作成.
ただし、1956 年の収容人員数は資料の関係上 1957 年のデータである.
図 5 スキー客数および宿泊収容人員数の推移と各競技大会開催
競技イベントの招致・開催の歴史についても,
観光産業の発展を含めて確認しておこう.
図 5 では,戦後のスキー客および村旅館組合加盟宿泊施設の収容人員総数の推移に,白馬
で開催された全国規模の競技大会を時系列に沿って並べている.1960 年に初の全国規模の
大会である選抜アルペンスキー大会が開催されたのを皮切りに,1963 年には全日本スキー
選手権を初招致,1965 年からは三年続けて同大会の会場に採用されることになった.さら
に,1968 年には第 23 回国民体育大会の競技会場となるなど,この頃から相次いで全国規
模の競技イベントが開催されるようになる.図からは,収容人員数が競技大会の開催とと
97
もに一定の規模で増えており,それを追うようにスキー客の数も 1960 年代半ばから急増
していく様子がみてとれる.
こうした大会誘致に東急関係者が尽力したことは言うまでもない.村と一体となってス
キー場開発を展開していく彼らにとって,村外(都市)に対しては全国規模の大会が開か
れるスキー場を持つ白馬というブランドを発信するとともに,村内に対しては大会開催に
伴う様々な経済効果を実感してもらう絶好の機会であった 4).1967 年には新宿から南小谷
までの直通電車が運行されるなど,交通網の整備拡充も競技大会開催とそれによるスキー
客増加を支えた要因であった.
そしてまた,1961 年には冬季五輪開催都市に立候補していたことも見逃せない.1964
年の東京五輪開催を間近に控えたこの時期,スポーツに対する国民的な盛り上がりが起こ
ってくるなか,白馬でも五輪開催への夢が芽生えていた.あえなく札幌に敗れはしたもの
の,初めて国体を誘致した 1968 年には,雪印乳業株式会社からの多額の寄付を受け,八
方尾根に 70 メートル級のジャンプ台も完成させるなど,競技会場としてのグレードにも
拘りがでてくる 5).このように,競技イベントを招致・開催し,それに伴って知名度が高
まり,スキー客が増加,その収益による投資を行うことで,さらなる競技イベントを誘致
する…というサイクルが出来上がっていく.こうして 1960 年代以降,白馬の人びとはウ
ィンタースポーツのメッカとしての地位を確立しようと奮闘していった.その後の経緯は
後述するが,少なくとも白馬における観光産業が競技イベント誘致と連動しつつ展開し,
その積み重ねのうえに 98 年の五輪招致活動が浮上していったという歴史的経緯には,注
意を払っておくべきであろう.そうでなければ,メガイベントは単にスポーツを隠れ蓑に
した開発主義イデオロギーとその実現の契機でしかなく,国家や資本といったマクロな論
理の貫徹を促進するものに過ぎないという片落ちな議論に陥ってしまう.他方には,それ
を享受していく主体とその歴史が存在するのである.
次節では五輪開催が村政の中でどのよう位置づけられていくのか,関連する事業や施策
にも目を向けつつ確認する.
3
村政における五輪開催の位置づけ――白馬村総合計画を中心に
1985 年の初冬,県の競技団体レベルで五輪招致に向けた動きが起き,白馬村でもこれを
受けて同年 3 月には招致決議案が村議会に提出される.そのおよそ一年後,村政の長期的
な行政運営の展望を記した『白馬村第二次総合計画』(以下,
『第二次計画』と略記)が策
定される 6).その基本構想では「あたたかな心をはぐくみ,豊かな自然と活力みなぎる郷
土」を建設することが謳われ,自然との調和を意識した発展のあり方が示されている.
問題はその発展の方向性であるが,まず「国際的な観光地」として村が発展していくべ
きことが強調され,そのために「経済の高度成長によってもたらされたひずみや環境汚染
の問題を解決し,観光客を迎え入れるための都市基盤と村民が住み暮す身近な生活環境と
自然との調和をはかる」ことの必要性が述べられている.そして,
「冬季オリンピック招致
を踏み台に国際スポーツ・文化・観光基地にふさわしい『日本の白馬』
『世界の白馬』へと
大きく飛躍するため,生涯各時期における学習機会の整備充実につとめ,心豊かな人間形
成とうるおいのある地域生活を営む環境の整備を目標とする」と記されている.五輪開催
98
は,
「国際的な観光地」づくりの「踏み台」という,政策上の位置づけを与えられることに
なった.
では,
「国際的な観光地」を具体化するための事業・施策とはどのようなものか.『第二
次計画』中,四つの節からなる「施策の大綱」のなかの第 1 節「基礎的条件の整備」を見
てみると,
「土地利用計画」および「交通・通信計画」という二つの項目に分かれているが,
特に字数を割いて説明が加えられているのは後者である.そこでは「近年急速なモータリ
ゼーションの進展,観光産業の拡大発展に伴い,安全,快適な道路網を積極的に整備する
必要がある」とされ,そのなかでも「特に県都長野市と白馬村を結ぶ高速道路網の新ルー
ト開設を積極的に推進しなければならない」ことが,五輪開催の十年以上前に指摘されて
いる.
というのも,図 6 を見るとわかるように,1980 年代に入るころからスキー客数や一般
観光客数の伸びも鈍くなるなど,観光産業も徐々に低成長時代へと突入しつつあるのでは
ないかとの意識が白馬の人びとのあいだに広がり始めていた.その原因に挙げられたのが,
高速道路の延伸と自家用車を用いた観光形態の拡がりである.例えば,
『第二次計画』でス
キー客の動向について述べた箇所では,
「近年都市部近郊に次々にスキー場開発がなされた
ことに相まって,高速交通網の急速な発展によるスキー客の動向の変化がみられ,このま
までは今後必ずしもスキー客の大きな増加は見込まれない」と危機感を募らせている様子
がうかがえる.
それまで,白馬村への観光客の足となってきたのは国鉄をはじめとする公共交通機関で
あり,その輸送力の充実こそが観光産業の課題であり続けていた.だが,1970 年代中ごろ
を境に鉄道利用者は減少に転じる.白馬駅で降りた人々の数を見ると,1975 年のピーク時
で約 53 万人を記録した降客数は,5 年後の 1980 年には約 45 万人,さらにその 5 年後の
1985 年には約 28 万人と 10 年間で半分近くにまで減少してしまう 7).
3,000,000
2,500,000
登山
スキー
学生村
一般観光客
2,000,000
1,500,000
1,000,000
500,000
0
[人]
1956 1960 1965 1970 1975 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989
出典:「白馬の歩み」編纂委員会編(1994),白馬村(1986),白馬村観光局での収集資料より作成.
図 6 目的別観光客数の年次推移(~1989 年)
99
『第二次計画』
(白馬村 1986)にはこうした状況を示す,少し踏み込んだデータも載せ
られている.それは 1985 年に東京銀座三越店,大阪阪急イングスにて実施された,白馬
村のスキーに関するアンケート調査の結果だ(調査主体は不明)
.そこでは,今シーズン出
かける予定のスキー場に加え,その時に利用予定の交通手段を尋ねている.その結果,東
京銀座三越店では「乗用車」を利用すると答えた人が全体の 37.8%,「国鉄」が 32.3%,
「バス」が 25.7%となっていたが,大阪阪急イングスではそれぞれ 62.7%,20.2%,12%
と,半数以上の人が自家用車を利用すると回答した.この頃には,自家用車で行ける範囲
の観光地開発も進み始めていたのである.こうした変化を背景に,1980 年代以降,白馬村
における観光行政の大きな課題として「高速交通網の整備」が掲げられることになる.五
輪招致の話がもち上がってくるのも,そうした文脈のなかにおいてであった.
五輪招致への動きが本格化するのと歩調を合わせるように,交通網整備に向けた行政の
動きも活発化していく(図 7)
.長野冬季五輪招致委員会の設立が 1986 年 7 月,その 4 か
月後に JOC に対し五輪招致の正式立候補の意思が表明されると,さっそく同年 12 月には
「長野-大北五輪道路整備促進期成同盟会」が発足する.一般に長野県の大北地域とは,
県中信地方の大町市を中心とする地域のことを指すが,五輪関連道路の整備に向けた動き
は,白馬村単体というよりも,大北地域と長野市方面とを繋ぐという枠組みの中で進んで
いった.
年が明けて 1987 年 1 月には,県予算知事査定で白馬村に 90 メートル級のジャンプ台を
建設することが決定するなど,競技施設面での事業も動き出す.同年 8 月には白馬村長・
村議らが五輪関連道路整備促進を県に陳情,さらに 9 月には北安曇郡の町村議員大会で五
輪道路建設促進が決議されると,吉村午良長野県知事(当時)は白馬および志賀方面への
有料道路建設を検討することを表明した.その一か月後,白馬村では商工会長をトップに
「長野五輪招致白馬村推進協議会」
(推進協)が設立され,初動が鈍かった民間レベルでの
招致活動も,競技施設や関連公共事業が現実味を帯びていくなかようやく本格化していく.
署名運動やバッヂ着用運動,さらに長野県早起き野球連盟による県下縦断炬火リレーの支
援など,草の根レベルでの招致機運が推進協によって盛り上げられていった.
そして,1988 年 6 月 1 日,JOC 総会の投票において長野が圧倒的な得票数で国内候補
地の座を勝ち取る.これによって,県会では長野-白馬ルート(以下,白馬ルートと略記)
の翌年度着工や調査区間の決定が下されるなど,事業が具体性を帯びていく.翌年 7 月に
は,
「大北五輪道路整備促進期成同盟会」が北信と一本化することで,新たに「冬季五輪関
連道路整備促進期成同盟会」が発足,その働きかけもあって 1990 年 8 月には建設省が白
馬ルートの一部を有料道路として新規採択し,予算要求することを決定する.
また,白馬ルート以外の交通網整備もにわかに動き出していく.とりわけ,国道 148 号
線については白馬村長が大町建設事務所や県に対し陳情を行い,さらに大町市長による建
設省への陳情に白馬村長も同行するなど,大北地域をあげた熱心な動きがみてとれる.
1991 年 6 月の五輪開催正式決定後,翌 7 月には小谷村で白馬・大町・小谷三市町村の「148
号線整備促進期成同盟会」の総会,8 月には松本市で「中信地区五輪関連道路整備促進期
成同盟発起人会」の総会がたて続けに開かれるなど,白馬ルートの建設促進に次いで,松
本市から新潟県糸魚川市方面を南北に結ぶ県西北部の交通網整備が,周辺諸自治体を巻き
込みながら強力におし進められていく.
100
図 8 は『平和と友好の祭典’98 オリンピックを迎える交通網整備(平成 8 年)
』(長野県
監理課 1996: 13)というフルカラーの冊子に掲載された国道 148 号線の写真である.写
真左側が整備する前,整備後を右側に配置して,その整備の成果が伝えられている.国道
148 号線の白馬-大町間は,いわゆる仁科三湖(青木湖,中綱湖,木崎湖)の湖畔を通る,
狭くてカーブの多い道路であったが,五輪開催を契機に新たに六つのトンネルとバイパス
が建設され著しく整備が進んだ.1993 年 3 月には,豊科-更埴間が開通して長野自動車
道がついに上信越道と接続するが,これをきっかけに大北地域と松本市域を結ぶ国道 147
号線(148 号線に接続)
,そして高瀬川右岸を走る県道 306 号線(
「大町有明線」
)もその
バイパス道路として拡幅されることになった.
出典:長野県監理課(1996: 20)より.
図 7 競技会場の配置と道路整備の概況
101
出典:長野県監理課(1996: 8)より.
図 8 国道 148 号線の整備状況
あわせて触れておかなければならないのは,同時期に行われた松本空港の改修工事との関
連である.ときあたかも,成田空港二期工事,羽田空港沖合展開,関西国際空港建設とい
う三大空港プロジェクトを含む「第 6 次空港整備計画」が総額 3 兆 1900 億円という巨費で
もって展開しており,松本空港の滑走路延長事業も第 5 次計画(1986 年)からの継続事業
として位置づけられていた.そして,この空港整備事業の上位計画には,もちろん 1987 年
策定の「第四次全国総合開発計画」
(以下,四全総と略記)の存在がある.四全総のキーワ
ードでもある「多極分散型国土の実現」において示された方向性では,構造的な不況に陥
っている地方圏の都市への重点的な整備として,
「国際交流機能の充実」が掲げられた(国
土庁 1987: 13-4)
.四全総ではその基盤として地方都市の空港・港湾を整備することで,ス
ポーツを含めた種々の交流の機会を形成することの必要性が強調されている.この点を鑑
みても,四全総から続く地域開発政策の流れのなかに,諸々の事業が五輪関連事業という
位置づけを得ながら,多層的に展開していったと見ることができる.
そしてまた,競技施設建設と公共事業の連動も見られた.国道 148 号線および白馬ルー
トとスノーハープを結ぶ農道,また白馬ルートからアルペン会場やジャンプ台に繋がる各
種村道の整備をはじめ,アルペンコースでは砂防事業のなかに建設計画が組み込まれるな
どしている(白馬村 2000: 266).当然,財政の予算構造も建設土木などの建設事業費への
重点化が生じる.会計決算の総額に占める普通建設事業費の割合は,1990 年の時点ですで
に 27.2%となっているが,競技施設や道路関連の建設事業が絶頂期を迎える 1995 年には,
なんと 50.7%にのぼっている 8).歳入決算総額に占める村債発行額とその割合の推移(図 9)
を確認すると,とりわけスノーハープや社会体育施設「ウィング 21」9),さらにその取り
付け道路(図 10)の建設が本格化する 1993 年以降,膨大な額の起債が認められている.
そこでは「地域総合整備債」など,自治体に有利な制度が活用された.1996 年には村債が
23 億円に対し,国庫支出金と地方交付税交付金をあわせて 34 億円,また県負担金も 20 億
円を超えるなど,五輪開催が迫るにつれて国・県レベルでの公共投資も増大していった.
土地価格についても触れておきたい(図 11)
.1989 年に土地監視区域に指定されるなど,
白馬も地価急騰に見舞われるが,1991 年をピークに全国的な急落が生じていくなか,例え
102
ば「白馬駅前」の地価はしばらく持ちこたえている.詳細なデータは確認できていないが,
その他の地価についても本格的な下落に見舞われるのは五輪開催後である.1981 年の時点
で三つしかなかった不動産業の村内事業所も,十年後の 1991 年には 39 にのぼっており,
民間資本の投資に加えて,大規模公共事業の続発がその要因になっていたと思われる.こ
うした開発に伴う地価高騰や財政の肥大化がどのような影響を及ぼすことになるのかにつ
いては,後段の五輪開催後の状況のなかで再び取り上げる.
ここまで,五輪関連事業の政策的な位置づけを確認してきた.次節では,五輪開催に対
して白馬の人びとがどのような態度を示しているのか,そして種々の関連事業を現時点で
どう評価しているのかについて,量的調査の結果をもとに分析していく.
2,500,000
30.0%
25.0%
2,000,000
20.0%
1,500,000
15.0%
1,000,000
10.0%
500,000
0
5.0%
1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007
村債発行額(千円)
0.0%
歳入決算額に占める村債の割合(%)
出典:『広報はくば』よび『白馬村村政要覧』より作成.
図 9 歳入決算額に占める村債発行額とその割合の推移
出典:オリンピック・パラリンピック冬季競技大会白馬会場の記録編纂委員会編(2000: 30)より.
図 10 「ウィング 21」取り付け道路開通記念式典の様子
103
出典:国土交通省(2011)より作成.
図 11 白馬村・全国の地価の推移(円/㎡)
4
五輪開催に対する態度――量的調査から
ここでは,量的調査の結果を見ながら白馬の人びとが五輪開催に示した態度を確認して
おく.図 12 は五輪開催に対する開催前後での開催市町村別の賛成/反対意見(「どちらで
もない」を含む)を示している.開催前の白馬村では賛成意見が平均値を超えており,相
対的に大きな支持や期待感があったことがうかがえる.だが開催後になると,白馬村は賛
成が 14 ポイント減少,反対派が 17 ポイントも上昇しており,自治体別に見てもその変化
は顕著である.
104
<開催前>
<開催後>
65.8%
59.6%
11.4%
20.2%
軽井沢町
23.7%
14.0%
御代田町
16.9%
23.8%
65.4%
59.2%
6.9%
27.7%
72.4%
80.9%
7.2%
10.5%
山ノ内町
17.8%
5.9%
75.7%
75.4%
9.0%
15.7%
長野市
10.4%
12.5%
白馬村
9.0%
17.3%
平均
14.9%
9.3%
72.2%
57.6%
27.8%
11.1%
71.9%
64.9%
20.2%
12.8%
棒グラフはそれぞれ上から「賛成」
,
「反対」
,
「どちらでもない」の値を示している.
また,左側が開催前,右側が開催後の値をそれぞれ示している.
図 12 五輪開催に対する開催前後の賛成/反対意見の割合(市町村別)
その具体的な理由とは何だろうか.図 13 では,開催後の反対理由の割合について,白馬
村と全市町村平均とを比較してみた.双方とも「地元が結果的に衰退したから」というの
が最も多い理由に挙げられているが,その差は歴然としている.つまり,結果として「地
元の活性化」につながらなかったことが,上記の否定的な意見としてあらわれていると考
えられる.インタビュー調査中にも,「五輪は何も残さなかった.むしろ,風評被害でマイ
ナスだった」
(五竜観光協会 S さん)
,
「オリンピックの効果は経済的な効果から言えば,逆
効果だった」
(八方区旅館経営者 M さん)といった声が聞かれたが,そうした感覚は広く共
有されているとみてよいだろう.
さらに,図 14 は開催前の市町村別の主な賛成の理由を示している.あてはまると思われ
るもの全てに印をつける項目だが,全市町村を通じて道路や新幹線など「交通網の整備」
に大きな期待が寄せられていたことがわかる.他の自治体に比して白馬村の数値が相対的
に高い項目として,
「得がたい経験ができるから」と「地元の知名度が上がるから」があが
っていた.特に後者については,同じような傾向を示す山ノ内町と,それ以外の三市町と
の間には大きな差がある.以上を踏まえると,白馬の人びとは五輪開催による「知名度の
上昇」や「地元の活性化」に大きな期待を寄せていたが,結果としてそれが達成されなか
った(「結果として地元が衰退した」)ことで,開催後にネガティヴな意見に転じたものと
大まかには理解できるだろう.
105
0.0%
5.0%
10.0%
15.0%
20.0%
25.0%
交通網整備が十分でなかったから
新たな競技場は無駄だから
地元が結果的に衰退したから
自然環境を破壊したから
他にすべき施策があったから
全市町村
あまりいい経験ができなかったから
白馬村
その他
図 13 五輪開催後の反対理由の割合比較(白馬村と全市町村)
.0
20.0
40.0
60.0 [%]
交通網の整備が
進むから
新たな競技場が
建設されるから
地元が活性化す
るから
地元の知名度が
上がるから
軽井沢町
御代田町
得がたい経験が
できるから
山ノ内町
長野市
世界中の人々と
交流できるから
白馬村
図 14 五輪開催前の開催賛成理由の項目別割合比較(市町村別)
では,前節でも確認した五輪関連の交通網整備事業について,実際に白馬村の人びとは
どう評価しているのだろうか.まず行政に近い白馬村観光局(当時)の O さんは,
「新幹線・
長野道・上信越道ができたことがすべて.五輪が無ければ百年に一度とかいうレベルでは
なく,計画すら出ない,ありえない話だった」と話している.五輪開催自体を積極的に評
価していない八方区旅館経営者の M さんも,
「これ[道路整備]に関しては良かった」と述
べる.先述したように,白馬村では五輪開催後に多くの人びとが開催に対して反対へと転
じているが,道路をはじめとする交通網の整備が進んだことは,それでもなお開催の正当
性を述べる際の論拠として人びとに広く共有されている.
しかし,量的調査からは別の側面も見て取れる.調査項目中,五輪開催による「高速道・
106
高規格道路の整備」をどう評価するかという設問に対し,白馬村では「大いに評価する」
が 34%,「ある程度評価する」が 42%となっており,「あまり評価しない」13.2%,
「まっ
たく評価しない」2.1%を大きく上回る結果となった.しかしこれは,調査対象地間で見た
場合には決して高い値ではない.図 15 を見るとわかるとおり,五輪開催に伴う高速交通網・
高規格道路の整備に関して「大いに評価する」と答えた人の割合は軽井沢町に次いで低い.
軽井沢町では新幹線が通ることのインパクトが大きかったことを踏まえれば,相対的にで
はあるが道路建設に伴う期待感と満足度の落差が大きいのは,白馬村の人びとであったと
言えそうだ.
60.0
50.0
40.0
30.0
20.0
10.0
.0
[%]
白馬村
長野市
大いに評価する
山ノ内町
御代田町
ある程度評価する
軽井沢町
平均
あまり評価しない
まったく評価しない わからない
図 15 五輪開催に伴う高速交通網・高規格道路の整備に関する評価(自治体別)
実際に,開催後の反対理由の中で「交通網整備が十分ではなかった」と答えた人の割合
は 5%で,調査対象地のなかで最も高い値となっている.このことをどう理解すればよいだ
ろうか.
一つには素朴に,整備自体はやったがそれが地域の経済的な効果として実感されていな
いという側面があるだろう.民宿を営む A さん(さのさか観光協会)は五輪による交通網
整備に一定の評価をしつつも「でもね,白馬のもう一つの悩みはね,ここ高速道路が来て
ないんですよ.高速も来てないし,新幹線も来てないんですよ(中略)だから今,高規格
道路を要望しているところなんです」と話す.これはおそらく地域高規格道路「松本糸魚
川連絡道路」10)を指している.この計画は,五輪閉幕後の田中康夫知事時代に一旦大幅な
計画見直しにあうものの,村井仁が新たに県知事に就任した 2006 年以降,再び従来の規模
に近いかたちで進行している.A さんもこれまでに二度,陳情で県庁を訪れたらしいが,ポ
スト五輪後の落ち込みからくる失望感は,さらなる交通網整備への期待につながっている
ようだ(この点は次節にて詳述する)
.
もう一点は,村内でも地区ごとに恩恵を被った人とそうではなかった人の差が,広く認
知されるようになったことが考えられる.これもスノーハープに近い佐野区で聞き取りを
行っていた時に A さんから聞いたことだが,競技施設および施設周辺道路は農道として整
備され,その補償がかなりの額にのぼっていたという.農道のために供出された土地は主
に水田であるが,その地域一帯は水はけが悪く決して稲作に適した土地ではなかったとい
う.そのこともあって,関連用地の買収に際しては多額の補償金を手にした人と,そうで
はない人が近隣に住む人びとのあいだではっきりと分かれたようである.この点が,直接
107
的に交通網整備の不十分さという利便性や経済性に関わる評価に直結しているかどうかを
確かめる術はないが,少なくとも用地供出に際してその恩恵を受けた人とそうでなかった
人がいたことは事実である.そのことはまた,道路建設に伴う全般的な経済効果が発揮さ
れなかったことで,さらに強く意識されたはずである.この点について,節を変えてデー
タを交えながら詳しく見ていくことにする.
5
5.1
五輪関連事業の“遺産”――交通網整備と競技場建設の影響
交通網整備事業のインパクト
白馬の人びとが期待した道路整備の進展は,はたしてどのようなインパクトを与えたの
であろうか.すでに触れたように,五輪開催に向けた種々の道路整備がなされてきたわけ
だが,社会的・経済的なインパクトという点からすれば,村と外部とをつなぐ白馬ルート,
そしてこれまでの研究ではあまり触れられないが国道 148 号線の整備事業も取り上げる必
要がある
11).ここでは,通勤圏および商圏の面からどのような構造的変化が生じたかを確
認したうえで,観光産業と関連付けながら分析してみたい.
まず通勤圏であるが,村外での就業者が通勤先にしている自治体(ただし県内)を経年
的に追ってみた(表 1)
.全般的な傾向としては,五輪を挟んで十年ほどの間に村外に通勤
する人の数は 2 倍になっている.次に個別に見ると,大町市と小谷村への通勤者の数がそ
れぞれここ 15 年で 1.6 倍,2 倍と大きくその数を伸ばしていることがわかる.一方で,オ
リンピック道路の開通によって距離的には近くなった長野市方面について言えば,たしか
に増加しているものの同じルート中にある美麻村(現・大町市)を含めても,数としては
大きくない.ちなみに,表 1 では上から順に松本市から小谷村までは国道 148 号線を介し
て,長野市および美麻村は白馬ルートを介して,それぞれ白馬村と繋がっている.これを
見ると,通勤圏という面では明らかに 148 号線の影響が大きかったと言える.
また,図 16 では農家数と専業率の推移を表しているが,戸数そのものが大きく減少して
いる一方,専業率は高くなっている.これに五輪開催後の宿泊施設数の減少(図 4)を考慮
に入れると,それまで主流であった民宿との兼業形態が,再生産されていないものと推察
することができる.その背景にはもちろん跡継ぎ問題がある.さのさか観光協会の A さん
は,
「生活基盤を考えると民宿経営は不安定であり,とても再生産できる状態ではない」と
述べており,ご自身の子供も民宿を継ぐことなく大町市にある某食用きのこ製造企業の事
業所に勤務しているとのことだった.
「民宿のお嫁さんは大変だから,今の 50 代から 60 代
の子供世代のお嫁さんがなかなか見つからないのが現状」
(八方区旅館経営者 M さん)であ
り,後継者不足は悩みの種である.
108
表 1 村外勤務者の通勤先自治体別の年次推移(県内のみ)
松本市(※1)
大町市(合併前)
安曇野市域(※2)
池田町
松川村
小谷村
長野市
美麻村(2006年大町市編入)
その他
合計
(全就業人口に占める割合:%)
19
236
13
11
4
102
13
7
10
415
(8.7)
17
33
43
236
306
392
7
41
65
15
17
24
0
17
27
141
207
200
16
29
47
0
22
19
0
29
41
432
701
858
(8.2) (13.0) (16.2)
※1:2005年に梓川村、安曇村、奈川村、四賀村を編入。
※2:2005年に明科町、豊科町、穂高町、三郷村、堀金村が合併し発足。
出典:『国政調査』より作成.
1400
9
8
1200
農家数
7
専業率
1000
6
800
5
600
4
3
400
2
200
1
0
[戸]
0
1965
1975
1985
1990
1995
2000
2005
[%]
出典:『白馬村村勢要覧』より作成.
図 16 白馬村の農家数と専業率の推移
14,000,000
100.0%
90.0%
12,000,000
80.0%
10,000,000
70.0%
60.0%
8,000,000
50.0%
6,000,000
40.0%
30.0%
4,000,000
20.0%
2,000,000
10.0%
[千円] 0
その他所得
0.0%
農業所得
営業所得
給与所得
出典:『白馬村村勢要覧』(各年)より作成.
図 17 村民所得の推移
109
総計に占める給与所得の割合
さらに,項目別村民所得の推移を見ると,五輪開催とバブル経済の余韻が残る 1990 年代
を除けば,実は村民所得の全般的な額は 1980 年代末とほぼ同じ水準に落ち着きつつあるこ
とがわかる(図 17)
.ただその内訳では,給与所得の占める割合が約一割も増加し,他方で
営業所得が減少している.
村外への通勤者の増加,さらには人口動態上の社会減の趨勢,宿泊業の急激な縮小,農
業の専業化への傾向等をあわせて考えてみた場合,昔から白馬で宿泊業を営む家庭に育っ
た子供たちが,家業を継ぐことなく給与所得者になっているものと推察できる.五輪開催
時の関連道路整備,なかでも国道 148 号線の整備は,民宿・農家の兼業形態で家計を成り
立たせることが困難になってきた人々が,職場を求めて域外へと向かっていくための生活
基盤として機能し始めていると考えられる.
では,白馬ルートの影響とは具体的にどのような点にあったのか.ひとつには,後述す
るように海外からの観光客を呼び込むひとつの要因になったということが考えられる.も
うひとつが,商圏の変化である.五輪を挟んで白馬村住民の買物に訪れる地域を品目別に
表したものが図 18 および図 19 である.
五輪開催から八年が経過した 2006 年には,
衣料品,
身の回り品,文化品の三品目で長野市が高いシェアを占めるようになり,松本市へと買い
物に出かける人は激減している.白馬ルートの与えたインパクトは,こちらの商圏の方に
あったと言える.
100
80
60
40
20
0
衣料品
身の回り品
大町市
文化品
松本市
飲食料品
長野市
日用品
村内
贈答品
その他
出典:『長野県商圏調査報告書』各年より作成.
図 18 品目別の買い物場所(1989 年)
100
80
60
40
20
0
衣料品
身の回り品
大町市
松本市
文化品
飲食料品
長野市
村内
日用品
無店舗販売
出典:『長野県商圏調査報告書』各年より作成.
図 19 品目別の買い物場所(2006 年)
110
贈答品
その他
5.2
観光産業への影響
五輪関連道路という開発事業の眼目は,すでに確認したように「国際的な観光地」のた
めの基盤整備にあった.はたしてそれは,人びとが期待したような影響をもたらしたのだ
ろうか.次にこの点を検証していきたい.
まずは目的別観光客数の推移について,全般的な傾向からおさえておこう(図 20).スキ
ー客については,バブル経済とスキーブームで約 280 万人を記録した 1991 年をピークに,
プレ五輪期には緩やかな下降線をたどっているが,五輪開催時には一度大幅に落ち込む.
先に指摘したように,五輪による混雑予測が風評被害をもたらしたことが大きくかかわっ
ている.ただその後,1999 年および 2000 年シーズンにはいったん増加に転じている.人
びとが望んだ五輪による地域活性化の効果が実際に見えかけた.しかし,それもつかの間,
2003 年度に 150 万人を割り込むことになる.これは,最初の低迷期と言われた 1980 年ご
ろと同じ水準である.五輪開催の「知名度の上昇」によってふたたびスキー客を呼び込も
うという戦略は,この段階では必ずしもうまくいっていなかった.
他方で,五輪開催とともに一般観光客数が上昇していることが見て取れるが,この増加
分にはジャンプ競技場の訪問者が多く含まれている.『白馬村村勢要覧』内の「目的別観光
客数推計」にて,ジャンプ競技場を目的とした観光客数を,2007 年度の値までだが確認す
ることができる.それによると,五輪開催の翌年(1999 年)には約 37 万人もの観光客が
ジャンプ競技場を訪れているが,2007 年には 99,000 人と五輪から 10 年を経ずして三分の
一以下にまで減少している 12).その後,
「目的別観光客数推計」の項目そのものから「ジャ
ンプ競技場」が外れてしまっている.
ちなみに,目的別観光客数の推移からは,具体的な滞在目的をはじめ,宿泊なのか日帰
りなのかといった滞在形態も判然としない.
3,000,000
登山
学生村
2,500,000
2,000,000
1,500,000
1,000,000
500,000
0
出典:「白馬の歩み」編纂委員会編(1994),白馬村(1986),
白馬村役場、白馬村観光局での収集資料より作成.
図 20 目的別観光客数の年次推移(1990 年~)
111
スキー
一般観光客
40,000
30,000,000
観光消費額
35,000
日帰り客数
25,000,000
延宿泊客数
30,000
20,000,000
25,000
20,000
15,000,000
15,000
10,000,000
10,000
5,000,000
5,000
0
[百人] 1989
0
1991
1993
1995
1997
1999
2001
2003
2005
2007
2009
[千円]
出典:『観光地利用者統計調査結果』(各年)より作成.
図 21 日帰り客および延宿泊数と観光消費額の推移
そこで,長野県が発行する『観光地利用者統計調査結果』を用いて,白馬村を訪れる日
帰り観光客と延宿泊客数,さらに観光消費額全般の推移を調べてみた(図 21).これを見る
と,延宿泊数が減少していく一方,日帰り客数は五輪開催前後の増減があるものの一定の
水準を維持している.また,観光消費額は延宿泊数に概ね対応しており,その一方で日帰
り客数の増減は観光消費額にさほど影響を及ぼしていないことも読み取れる.日帰りの観
光客数は五輪開催後も一時は増加に転じ,その後も 60 万人から 70 万人の間で推移してお
り,バブル期に比しても決して減少したとは言えない.むしろジャンプ台も,観光スポッ
トの一部として実際には機能しているともとれる.つまり,訪問はしても一時的な滞在地
になりつつあるというのが実態であろう.これはまさに,道路整備によるアクセスの「改
善」によるところが大きい.
また,スキー客に関して言えば,車中泊を含む格安ツアーの登場,あるいは素泊まりの
みのパッケージといった旅行会社による価格競争に民宿業者が巻き込まれる事態が生じつ
つある.やや見づらいが,図 21 では 2000 年代中ごろから延宿泊数に比して,観光消費額
の減少幅が大きくなってきているが,これも食事などの村内での消費が減っていることが
原因であると思われる.聞き取り調査でも「
[高速]バス代,リフト代,レンタルスキー代,
ウェア代合わせて日帰り 8000 円できるとか,あるいは泊まっても 2000 円とか 2800 円.
ほとんどが 3000 円以下ですね」
(さのさか観光協会 A 氏)
,
「結局,旅行業者は価格競争で
すから,そのしわ寄せは宿に来るんです」
(八方区旅館経営者 M 氏)といった話が常に話題
にのぼった.しかし,宣伝ノウハウに乏しく,固定客離れが進むなか,それでも客を連れ
てきてくれる旅行社を頼みにする宿が少なくないのが現実なのだという.
この点に関連して,五輪開催の直接的な影響についても触れておきたい.プレ五輪の年
からであるが,五輪関係者は一泊当たりの値段が決められ,彼らが数か月という単位で宿
泊していたという.しかし繰り返しになるが,関係者らが使用したところはほんの一部で
112
あり,それ以外は風評被害に苦しんだというのが実情のようだ.とりわけ,五竜スキー場
では選手が練習するため混雑するといった根拠がない情報が流れ,固定客の足が遠のくな
ど周辺の宿は大きなダメージを受けている.また,スノーハープ周辺の地区では指定の宿
としての条件を満たせず,契約を結べない民宿もかなりあったそうだ.
さらに,一部の宿泊業者のあいだでは五輪開催時には集客増を見込んだ設備投資も行わ
れていたという.1970 年にいったんは撤退した県内大手銀行も,五輪開催が決定した 1991
年にふたたび白馬に支店を出した.バブル経済の余韻が残るなか多くの融資がなされてい
ったものと思われる.しかし,
「借金コンクリート」という言葉さえ人びとの間で囁かれて
いるなど,それを回収する見通しを与えてくれるデータは確認できていない.先に触れた
ように,バブル期に急騰した地価(図 11)もなかなか下落せず,2008 年度には村の固定資
産税の徴収率が 54.3%(県下最下位)にとどまるなど,経営的に厳しい状況に見舞われて
いる事業者が多いのは確かだと言える 13).その一方,村の税収全体に占める固定資産税は,
総額として減少しつつも 70%前後の割合を占め続けており(図 22),宿泊業の落ち込みは
村の財政にとっても痛手となっている.
1,800,000
80.0%
1,600,000
70.0%
1,400,000
60.0%
1,200,000
50.0%
1,000,000
40.0%
800,000
30.0%
600,000
400,000
20.0%
200,000
10.0%
0
0.0%
固定資産税収総額(千円)
税収に占める固定資産税の割合(%)
出典:『白馬村村政要覧』(各年)より作成.
図 22 税収に占める固定資産税の割合と総額の推移
5.3
競技施設の後利用
では,五輪を機に整備された各種競技施設の後利用の状況はどうか.
すでに 1992 年に竣工していたジャンプ競技場は,
開催年である 1998 年には約 53 万人,
その後 2002 年までは毎年 20 万人以上の人びとがリフトを利用している(表 2)14).2000
年に発行された『白馬会場の記録』では「今後は,周辺道路,駐車場,休憩施設,タワー
内の飲食サービス,さらに競技以外の利用等,一般の人々が訪れたくなるための不断の整
備,工夫が求められる」と,観光資源として活用するための課題も示されていた(オリン
ピック・パラリンピック冬季競技大会白馬会場の記録編纂委員会編纂 2000: 463)
.実際に,
閉幕後すぐに“はとバス”が五輪開催地を見学するツアーを準備するとともに,修学旅行
生も数多く訪れていたようだ.リフトに乗る人びとの行列ができ,警備員も配置されるほ
どの混雑ぶりであったという.
113
表 2 ジャンプ台およびスノーハープの利用状況の推移
ジャンプ台
リフト乗車人員
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
スノーハープ利用者数
(内、イベント等利用者数)
1,327
48,918
122,338
113,752
167,867
392,764
539,391
360,482
283,103
264,691
216,062
166,746
134,778
119,642
108,883
100,494
946(0)
13,544(0)
14,218(9,500)
12,917(4,400)
11,639(2,000)
11,025(2,001)
30,190(25,178)
20,410(15,000)
21,056(15,610)
21,942(12,800)
出典:白馬村調べ.
出典:筆者撮影(2009.3.12)
.
出典:筆者撮影(2009.3.12)
.
図 23 ジャンプ台の様子
図 24 ジャンプ台タワー内の様子
(軽食を販売していた形跡がある)
しかし,近年ではその利用者数も 10 万人程度にまで減少している(先述したようにジ
ャンプ台を目当てにした観光客数は,2007 年度の時点で 10 万人を切っている)
.白馬村
観光局にて収集した資料によれば,平成 19 年度実績で,維持管理費に年間約 9000 万円の
費用がかかる一方,リフト代収入は 4200 万円にとどまる.それでも村役場関係者によれ
ば,コンサート会場等のイベント誘致によって活用を図ろうとしている.ただ,観光資源
としての投資を望む一方,県からすればジャンプ台施設の位置づけが「体育施設」だとい
うことで付帯設備などの建設許可が下りない状況にあるという.言うまでもなくこの点は,
建設計画段階で県と協議して解決しておくべき問題であり,後利用計画の杜撰さが浮き彫
114
りになっている 15).さらに,競技施設という面からみると,2007 年にはノーマルヒル(村
管理)が FIS 公認を外れるなど,修繕・改装費用を捻出する困難から国際競技大会を開催
するための施設としての位置づけすら脅かされつつある.
五輪閉幕後に一般利用へ供されたスノーハープは,長期的に見た場合には利用者数が増
加傾向にある.SAJ,FIS の公認コースで国際的な競技場としても稼働し,グリーンシー
ズン期にはクロスカントリーやマウンテンバイクの大会,サッカーや陸上競技の練習に用
いられるなど活用の幅は広がっているようだ.この点に関しては,
『白馬会場の記録』にも
あるように,五輪開催以前に開かれていた後利用に関する懇話会での議論内容に沿ったも
のとなっている(オリンピック・パラリンピック冬季競技大会白馬会場の記録編纂委員会
編 2000: 463)
.五輪後のスキー客増加やジャンプ台目当ての観光客が一時的なものに終わ
ったという結果から,グリーンシーズンへの期待は広がりを見せている.他にも,例えば
旅館経営者の M さんは,常連になっている冬のスキー客を車で送迎するときに,見どころ
となる夏の自然スポットを教えたり,あるいは自分で育てた有機野菜を振る舞ったりとい
った工夫を凝らしているという.施設を用いたイベント誘致だけではなく,グリーン期の
魅力を伝えようという試みが広がっているようだ.
出典:筆者撮影(2009.3.12)
.
図 25 スノーハープ(クロスカントリー競技場)の様子
ただその一方,スノーハープに対して村が負担する維持管理費は年間 1600 万円となっ
ており,使用料の 110 万円と比較しても巨額の費用がかかり続けている(平成 19 年度実
績).スノーハープを用いてスポーツ合宿の誘致を進めたい近隣の民宿経営者からは,
「芝
生が傷むというので,
[行政は]合宿誘致にも貸すのをためらいがち」という話も聞くこと
ができた.いずれにせよ,施設の維持管理費の大きさが,観光のための活用にさえ支障を
きたしている側面もあるようだ.
付言すれば,五輪開催時の収益を原資に設立された「長野オリンピック記念基金」の原
資が払底し,その配分事業を行ってきた「長野オリンピックムーブメント推進協会」が平
成 21 年度をもって解散している 16).これまで同協会は,県内を中心に国際競技大会の開
催や選手強化事業などに年総額で 4 億円もの財政的支援を行っており,白馬村で開催され
た競技大会にも毎年数千万円にのぼる補助がなされていた.通常,競技大会の開催には自
治体をはじめ地元による財政的負担が不可欠であるが,施設の維持管理費の捻出すら困難
115
な財政のもとでさらなる競技イベントを誘致することは,人的なものも含めてこれまで以
上の困難が予想される.先のスノーハープの利用もそうだが,五輪のための競技施設の維
持管理が,競技大会の誘致や観光資源としての活用を阻害する要因になっているという皮
肉な現実が見えてくる.
以上,交通網や競技施設の建設整備などがもたらした影響を,いくつかの側面から確認
してきた.これまでのところ,その“遺産”はきわめてネガティヴなものに映る.当初掲
げていた「国際観光地化」も,所詮は五輪に乗じた公共事業を呼び込む名目に過ぎず,メ
ガイベントに衣替えした開発主義イデオロギーに,白馬の人びとはただ翻弄されただけの
ようにも見えてしまう.先述したように,彼らが五輪開催に期待した理由は,白馬の「知
名度があがる」こと,そしてそれにともなって「地元が活性化すること」であった.しか
し,イベント開催による集客増,そして設備投資へといったサイクルが機能した状況は確
認できなかった.
ただ,五輪の“遺産”は施設や道路など物的なもの,そしてそれがもたらすマクロな影
響に限られるものではない.むしろ,五輪の“遺産”とは何なのか(何だったのか)を同
定し,今後に向けてどう活用しようとしているのか(あるいはまたそれがかなわないでい
るのか)
,というプロセスや白馬の人びとの取り組みにも目を向ける必要があるだろう.次
節ではそうした動きのなかで,とりわけスポーツと関連するいくつかの実践を取り上げて
みたい.
6
6.1
創造される“遺産”
環境保全活動とスポーツボランティア
「環境五輪」としての意義が大きく問われた象徴的な出来事として,すぐさま思いつく
のが男子滑降スタート地点問題である.堀田(2007)が詳述しているように,五輪の男子
滑降競技スタート地点問題という“副産物”を契機に,地元企業やボランティアはもとよ
り,国や県レベルでの多様な主体が関与しながら,自然環境の保護政策の動きが生じてい
る.たしかに堀田の言うように,白馬の人びとの日常生活の営みにおいて獲得・蓄積され
てきた知識(「日常知」
)に,自然科学的な専門知の入り込む余地が生まれてきたことの意
義は大きい.つまり,従来は白馬の人びとが経済的な利用を前提にして,美化活動に近い
登山道の清掃活動や,植物の踏み荒らしを防ぐための道の整備,貴重な植物の盗掘を防止
するパトロールを自分たちで行ってきたのに対し,スタート地点問題以降,長野県自然保
護研究所の研究員等とリフト稼働日の協議の場が持たれたり,植生復元のボランティア作
業等が専門家の関わりによって可能になるなど,自然保護への比重が高まってきたのであ
る.地元の人びとにとって,所有という点では長らく「自分たちのもの」という意味づけ
がなされてきた八方尾根というコモンズに,学術的な専門知が加わることで,管理の面か
らそれが持つ意味が豊饒化していったこと,すなわち「将来世代の他者」の利用も視野に
入れた新たな関わり方が生まれてきたことを堀田は評価する.
しかしながら,
「スポーツのグリーン化」
(Chernunsehinko 1994=1999)の実現可能性
を,冬の競技スポーツの人材育成や大会開催実績といった白馬の歴史性に求める堀田の議
論は,論者の希望的な観測でしかないし,
「観光地としての地元社会の存続」という課題の
116
考察はいまだ得られていない.したがって,ここではまず自然保護とスポーツとの接点を
模索する活動を取り上げるとともに,その拡がりを追っていくことで五輪の“遺産”を別
の角度から検証してみたい.
ここで取り上げてみたいのは,HAKUBA Team’98(以下,Team’98 と略記)というボ
ランティア組織とその活動である.この組織の特徴は,白馬村で開催される競技大会等の
スポーツボランティアに加え,環境保全のためのボランティア活動を並行して行っている
ところにある.白馬村以外にも関東,関西に事務局があり,会員は 2000 年時点で 170 名
を超えている(県内在住者が 84 名,さらに白馬村在住者が 9 名)
.白馬事務局を切り盛り
している W さんは,1980 年代初頭のペンションブームの頃,東京から八方尾根スキー場
のある W 区へ移住,以来山荘を経営している人物だ.W さんによれば,Team’98 の結成
は長野五輪のボランティア参加者のなかから継続的な組織を作ろうという声が上がったこ
とが結成のきっかけだったという.当時からボランティア参加者に宿を提供していた W さ
んは,今なお組織の中心的なメンバーとして活動している.
ところで,五輪招致に向けた活動が盛んになりだした頃,実は W さん本人は当初反対に
回っていたという.その理由を尋ねてみると,W さんがある村人に対して招致に賛成する
理由を聞いたところ「道路もできるし,施設もできる.インフラを整備するために呼ぶ」
という答えが返ってきたことにあったそうだ.その時 W さんは「インフラを整備するとい
う目的のために五輪を招致するのはおかしい.オリンピックは人びとの交流のためにある
べきだ」として,反対にまわることを表明している.だがその後,五輪開催が正式に決定
すると,彼は反対活動をやめボランティア活動へと転じていく.Team’98 は,そうした活
動の延長線上に存在し,スポーツ活動と環境保全活動とを両立する村内外の人びとの繋が
りによって,五輪から十年以上経った今日まで続いてきた.競技大会開催においても多く
のマンパワーが必要とされるなかで,Team’98 の存在意義は決して小さなものではない.
年に一度開催されている総会に,村の行政関係者や競技団体関係者が訪れるのもそのあら
われと言える.
Team’98 の理念は以下のとおりである 17).ここでは五輪のボランティアをきっかけに集
まった人びとによる,スポーツと環境保護活動を両立させようとする意志が,明確に謳わ
れている.この理念に沿って,各種競技大会のボランティア活動はもとより,登山道の清
掃活動,間伐,炭焼き,萱刈などの地道な環境保全活動が現在に至るまで継続して実施さ
れている.森林整備ボランティアに関しては,W さんの経営する山荘が通常より格安で提
供されるか,あるいは村内宿泊施設が紹介されるなど,観光へと繋げる努力もなされてい
る.
・長野オリンピック・パラリンピックで培われた,多くの感動を糧として,私たちボ
ランティアの手で新しい活動を企画し,育て,創り上げる.
・白馬村を拠点としてスポーツイベントのサポートをはじめ,環境保護への取り組み
などを通して,多角的なボランティア活動を展開していく.
・このような活動を通して,この精神を今後に継承し,多方面に発信していく.
(白馬チーム 98 ホームページ管理委員会 2011)
117
図 26 は,Team’98 が年に二,三回にわたって発行している『会報』の一部である.参
加できなかった会員にも様子が伝わるようカラーの写真付きで作成されており,通常は 6
ないし 8 ページほどの分量ではあるが,多いときには 10 ページを超えることさえある.
先に挙げたスポーツボランティアや環境保全活動の報告を中心に,白馬以外での活動報告
が全国の会員からも届けられるなど,会員同士の情報交換の役割も果たしているようだ.
図 26 HAKUBA Team’98 の『会報』
ちなみに,W さんによれば「
[当時活動していた]環境保護団体の人間は,そんなこと
にはかかわっていない」という.また,
「植生活動は毎年行っています.あんなの[彼らの
運動]は売名行為ですよ.もし本当に白馬の自然を考えているのなら,毎年この活動に来
ているはずだがそうした活動には関わっていない」
(八方区旅館経営者 M さん),
「スノー
ハープにボランティアで草刈りに出かけているが,
『貴重な花だからこれは刈るな』と注文
がつくんです.でも,利用者が来て蛇が出ると困るから綺麗にしておきたいのだけど」
(さ
のさか観光協会関係者)という話も聞いた.スタート地点問題で“環境五輪”としての意
義がいったんは強調されたが,自然環境の経済的利用と保護的利用は,必ずしも調和的な
関係にあるわけではないようだ.
6.2
五輪をきっかけにした繋がり
Team’98 のスポーツボランティアは,多くの競技大会支援の実績を積み上げ,2005 年
に開催された第 8 回スペシャルオリンピックス(以下,SO と略記)の支援活動も行って
118
いる.当時の『会報』には,
「厳寒 氷点下 11 度の活動報告」と題して,厳しい環境下で
実施された駐車場の車両誘導作業が報告されている.そしてこの大会をきかっけに,W さ
んと新たに関係を築いた人物に K さんがいる.K さんもまた,1970 年代半ばに大阪から
移住して,以来白馬でロッジとペンションを経営している.
当時,まだあまり知られていなかったモーグル競技をいち早く子供たちに教えるなどし
ていたが,それが発展して NPO 法人「白馬スノースターズ」を立ち上げるに至った.そ
うした経験もあって,SO を支援する会をおこし,募金や競技の普及活動を行っていたと
いう.これをきっかけに,以来 W さんと活動を共にすることになる.
その K さんが特に問題として指摘するのは,村そして競技団体が競技大会を開催する能
力を徐々に減じてきている点だ.K さんによればインターハイや全国中学校スキー大会な
どの開催が,徐々に自治体の負担になってきているのだという.例えばこんな出来事があ
った.2001 年 8 月,サマーコンバインド大会および白馬カップとしてそれまで実施され
てきた複合・純飛躍競技大会を,財政難を理由に村(競技団体)が返上したことが新聞紙
面にて突如報じられた.この時,Team’98 でもボランティア活動を計画していた W さん
は,なんとか記録会だけでも開催しようという動きに呼応し,村内外の諸組織にも声をか
けながら全日本スキー連盟に働きかけ,開催にこぎつけている.運営に関してもイベント
会社に代わって,Team’98 がその経験を活かし全体を切り盛りしたそうだ.五輪開催地と
いうブランドと施設を活用した競技大会誘致,
それを踏み台にした観光振興という展望は,
すでにこの時点で危ういものになりつつあった.ただ,五輪を契機にして生まれたボラン
ティア組織などの人びとの繋がりが,かろうじてそれを支えていたのである.
さて,2009 年 8 月,関東地方の大学全六校が参加して「宇津木妙子杯兼白馬 CUP 争奪
大学女子ソフトボール大会」が開催された.そのイベントを主導したのが K さんである.
これ以前,K さんは自身が野球経験者ということもあり,白馬で社会人の野球チームを作
ろうと動いたことがある.自身の回想によれば,
「まずは地元でトップレベルの野球をみせ
る,それから普及活動を展開する」という構想を描いていたのだが,公式の試合ができる
グラウンドがないということで,村に働きかけたりはしたものの実現しなかった.そして
そのころ,某新聞社デスクとして長野五輪も取材した経験を持つ E さんが,白馬村観光局
の局次長に就任している.K さんはさっそく彼とコンタクトをとり,社会人野球の構想な
どを披露するとともに,スポーツを通じた地域振興への協力を要請している.
これを受けた E さんは,新聞社時代に築いた人脈を活かし,女子ソフトボール代表の元
監督である宇津木妙子氏に働きかけた.そして,実現したのが上記の大会である.またこ
の時には,地元の大学である松本大学の支援があったことも見逃せない.2010 年 9 月に
は,
「スポーツを通した北アルプス山麓地域の思考」をテーマに,松本大学と日本体育・ス
ポーツ政策学会の共催セミナーが催され,大会でのアンケート結果分析が学生によって披
露されるなど,単なるスポーツイベントという枠を超えた活動へと展開しつつある
18).
2011 年 6 月には,
「スポーツで白馬・大北地域を救えるか」というテーマで,再びセミナ
ーが開催される予定である.
119
図 27 第 1 回大会のポスター
K さんによれば,こうした動きに思い至ったのは,五輪開催後であったという.開催前
は「いいことばかり」が語られ,期待も膨らんでいったが,
「終わった後の実感としては借
金だけが残ったというだけ」であった.ところが,K さんは競技大会の支援活動を行うう
ちに,W さんや E さんといった人びととのつながりを築きながら,スポーツを通した地域
振興へと足を踏み出しいく.それが,ソフトボールの競技大会開催というかたちで結実す
ることになる.
2010 年に開催された第 2 回大会では,上野由岐子投手を擁するルネサスエレクトロニ
クス高崎が特別ゲストとして参加,参加校数も 9 チームに増えている.多くの注目を集め
た 2008 年北京五輪閉幕後,金メダルを獲得したにもかかわらず,正式種目からの除外に
伴い強化費が大幅に削られたことは記憶に新しい.K さんによれば,この大会は「ソフト
ボールが正式にオリンピックの正式競技に復帰できるように,オリンピックを開催した白
馬がそれを応援しようという動き」と位置づけられているという.
6.3
“よそ者”たちがもたらす変化
ところで,ここまで触れてきた三人は白馬以外の地から移住してきた,いわゆる“よそ
者”である.「何十年住んでも“よそ者”」(K さん)扱いされる移住者にとって,旧住民
との壁は簡単に取り払われるものではない.ところが,このソフトボール大会に関しては
興味深い話が聞けた.というのは,白馬は以前,ソフトボールが盛んな地域だったことが
あって,この大会には昔から村に住む人びとが支援に駆け付けたという.これには,K さ
んが関係者を配宿したことも奏功したようである.
E さんは,いろいろなアイディアを持つこうした K さんの行動力を高く評価する.その
一方で,E さんが特に強調するのが,地元の人びと(旧住民)の協力の大切さである.五
輪の“遺産”を発信していくためには,財政的・人材的な協力を広く求めることが不可欠
だとする E さんの主張には,従来の集落別のスキー場開発の排他性を,別のかたちで繰り
返してしまうことに対する危惧が見て取れる.
さて,ソフトボール大会などの実績がはずみになって,K さんは「白馬スポーツ・自然
120
振興協議会」を発足させる.先に挙げたセミナーの主催者にも,その名が連ねられている.
組織の目的には「北アルプス及び白馬村を拠点にスポーツの普及と発展を実践」
すること,
そして「生涯スポーツを楽しめる地域としての環境を整備」すること,
「白馬の自然,農業
を通して,この地域で生活する人や,訪れる人々に対して,自然と共生する機会を積極的
に推進すること」が掲げられている.
「スポーツ」と「自然」を活かした地域おこしに向け,
宿泊業の経営者(新旧住民を問わず)をはじめ,多様な人材を抱えるボランティア組織や
大学,そして観光局(行政)を含めた,ゆるやかなつながりの萌芽がここには見て取れる
19).
また,すでに報道にも出ているが,白馬村は五輪開催から数年を経て多くの外国人観光
客が訪れる地になっている.とりわけ 2000 年代中ごろから,その割合を大きく伸ばして
いるのがオーストラリアからの観光客であるが,これは必ずしも行政や観光事業者たちの
計画的な誘致活動によって実現したものではない.先述したように,
「国際的な観光地」化
というのは五輪招致当時からの目標であり,村は五輪開催から二年後,観光振興本部を設
置し「都市的アメニティ」を備えた「環境共生型リゾート」をコンセプトとした観光地づ
くりに踏み出す(白馬 21 観光振興対策会議 2001).ただし,当初行政が想定していた観
光客誘致先は韓国や台湾といった東アジアの国々であり,将来的には著しい経済成長を遂
げつつある中国からの集客をも見込んでいたと思われる 20).
表 3 白馬村を訪れる外国人観光客(上位 5 位)の延宿泊者数・割合の推移
2005年
順位
延宿泊数(人)
1位 韓国
2位 オーストラリア
3位 香港
4位 台湾
5位 シンガポール・マレーシア
総数
15,710
5,558
2,899
2,070
1,740
27,977
2009年
延宿泊数(人)
構成比(%)
48.4
17.1
8.9
6.4
5.4
オーストラリア
台湾
韓国
香港
アメリカ
17,163
6,152
4,220
3,129
2,854
33,518
構成比(%)
40.2
14.4
9.9
7.3
6.7
出典:『観光地利用者統計調査結果』
(各年)および白馬村観光局資料より作成.
ところが,実際にはオーストラリアから観光客も含め大勢の人がやってくることになる
(表 3)
.そのきっかけを作っていったのが,ホテルやペンションの経営者らが結成した「白
馬ツーリズム」である.彼らの多くもまた,土地を買って移り住んだ“よそ者”である.
その彼らは,以前から白馬で旅行代理業を営んでいたオーストラリア人社長との連携を強
め事業展開を図ると同時に,国土交通省の外国人旅行者訪日促進活動である「ビジット・
ジャパン・キャンペーン」からの援助をうけて渡豪し,現地の代理店にプロモーションを
かけていった.その後,現地の旅行エージェント招聘の実現にもこぎつけるなど,後の成
果の発端はここにある 21).
オーストラリア人観光客の滞在の特徴は,平均して一週間,長い時は一か月間も滞在す
ることがあるという点だ.それに伴って生じるのが食泊の分離である.長期的に滞在する
ため,いろいろな食事(特に日本食)を楽しみにしている人も少なくない.そのため,英
121
語のメニューやクレジットカード導入,オリジナルのショップガイド等の作成に関しても
周辺の飲食店の協力を呼びかけていった.また,多くの人びとがスキーを主たる目的に滞
在しているが,一方で日本文化に触れる機会も欲しているという.ここ数年,白馬村観光
局も,長期滞在する外国人旅行客に日本文化体験などのプログラムを提供したり,さらに
は夕食で外出する人びとのための周遊バスを運行するなど,こうした民間の動きに協力す
る姿勢をとってきているという(観光局関係者(当時)O さん).
K さんや W さん,さらに E さんらが口をそろえて語っているように,オーストラリア
からの観光客が白馬を訪れる一番の理由は「オリンピックを開催した地」であることだそ
うだ.そういう訪問者こそが,五輪の“遺産”であると K さんらは話す.それは,観光客
であるということももちろんだが,
それに加えオーストラリアからやってくる人びとが
「白
馬の良さを教えてくれる」という点にも対して言えることだという.K さんが五輪開催地
というブランドを活用しようと模索するきっかけのひとつに,
「オリンピック・シティには,
スポーツを通じて教育や社会貢献をやる義務と権利がある」というオーストラリアからの
観光客の言葉に感銘を受けたことがあった.
「五輪は何も残さなかった」,
「残ったのは借金
だけ」
,
「道路はできたけど人は泊まらなくなった」等々,調査期間中に五輪開催を評価す
る声は,どちらかと言えば消極的なものが多かった.しかし,訪日する外国人観光客との
交流の中で,五輪を開催したことの積極性を学び,村の今後に繋げようとする人びとの姿
がそこにある.W さんや白馬ツーリズムのメンバーらが居住する W 区では,スコットラ
ンド出身でロッジを経営する人物が区長に就任するなど,観光客/“よそ者”/地元民(旧
住民)という枠からはみ出す関係性も起こり始めており,今後の動きが注目される.
ただその一方で,表向きは個人の住宅であるとしながら,海外で課金を済ませた人びと
に「友人」を装わせて長期滞在させているケースもあるという(W さん)
.同じインフラ
や自然環境を利用しているにも関わらず,そこにフリーライドして商行為に及んでいるの
は,公平さの点でも問題だ.また,一部には廃屋を購入・改築して営業を始める場合もあ
るようだが,これについても為替が原因で外国からの観光客が大幅に減った場合には,あ
と処理をしないまま帰国されてしまう可能性も不安材料だとの懸念もある(八方区旅館経
営者 M さん)
.さらに,食泊を基本的に分離して滞在している外国人観光客にとって,必
ずしも食事は店でとるとは限らない.時には食料品を買い込んで,滞在する宿で調理をす
ることもあるため,夜でも外を徒歩で移動しているケースがある.役場関係者の話では,
そうした状況を治安面で不安視する村民も少なからずいるとのことだ.
そうした様々な課題を抱えつつも,五輪を開催した地であるということが,単なる観光
客ではなく,多くの“よそ者”が白馬を訪れ,そしてあらためて自らの地を見直すととも
に,様々なつながりを創るきっかけを人びとに与え続けている.
7
おわりに
本稿では,長野五輪の招致・開催がもたらした影響について,白馬村を事例として取り
上げ,その開発事業がもたらした構造的な影響を分析するとともに,観光とスポーツをめ
ぐる新たな実践に触れてきた.
最後に結論という点で言えば,まず長野五輪開催とそれに伴う種々の開発が,白馬の人
122
びとが期待した観光産業の発展を帰結したとは言い難い現状にある.スキー客の大幅な減
少をはじめ,宿泊業の急激な縮小,財政的な逼迫という現実は,種々の観光振興の施策が
必ずしも奏功しているわけではないことを示している.
その一方,
計画的なものではなかったにせよ,
海外からの観光客が大きく伸びたことは,
一つの明るい話題として共有されてはいる.けれども,為替変動による不安定さ,あるい
はまた五輪に伴う設備投資の回収状況,そして跡継ぎ問題などを鑑みた場合,それによっ
て暮らしを成り立たせることがはたしてどの程度可能なのか,必ずしも楽観視できる状態
にはない.例えば,外国人向けの観光資源を有さないと判断された一部の地区は,外国人
観光客向けに配布される観光マップやバスツアーのルートから,実際に除外されるという
事態も生じている.
特定の方向性に沿った観光地としてのブランド化が別の可能性を抑え込んでしまうとい
うのは,観光産業が外部からの“まなざし”という象徴的次元に多くを依拠する以上,あ
る意味では致し方ないと言えるかもしれない.しかしながら,一自治体として見た場合,
様々にある財政的負担(五輪の公共投資も含め)を等しく村民が負担する仕組みになって
いる以上,行政サービスの公正さを担保するためにも,観光振興の方向性を慎重に議論す
る場が必ず必要になってくると思われる.
また,前節ではスポーツボランティアと環境保全活動を結び付けている W さん,ポスト
五輪期の競技大会を支援したことがきっかけとなりスポーツを通じた地域おこしのあり方
を模索する K さん,さらに新聞社社員時代に得たスポーツ関係者との人脈を何とか活用し
ようとする E さんらの,
“遺産”をさまざまに活用し,あるいは自らそれを再び創りだそ
うとする実践を追ってきた.現時点では,関係する人のさまざまな思いがあり,必ずしも
はっきりとした方向に向けて進んでいるわけではない.五輪ブランドの活用にしても,長
野五輪開催からはや十年以上が経過している現在,はたしてどの程度活用することが可能
なのか,楽観視できる状況にはないだろう.
しかし,色々な人びとの繋がりから実現したソフトボール大会,そこに付与された「五
輪の正式種目を外されたソフトボールを,五輪を開催した白馬が支える」というメッセー
ジは,やはりスポーツに関わる私たちに何がしかを訴えかけている.五輪種目か否かで支
援のあり方を大きく変えるスポーツ振興の仕組み,都市からの一方的な開発主義的まなざ
しによる自然環境の改変と大規模なモノカルチャー的リゾート化,アスリートを地域から
切り離そうとする資本や国家の論理に対して,それはとても小さな実践ではありながら,
従来のスポーツ振興や観光開発への問題を投げかけているものと理解すべきだろう.本稿
で見てきたゆるやかなつながりが,今後どのような力となっていくのか,今しばらく注視
する必要がある.メガイベント開催とその“遺産”の是非を単純な論理に回収せず,従来
の範囲を超えた繋がりの糧にして,その意義を問おうとする人々の実践に,これからも学
べることは少なくはない.
[注]
1) スポーツの社会科学的研究においては,Rouche(2000)がこの問題を正面から取り
上げた最初の論考だと言える.これに続く形で,Horne and Manzenreiter(2006)
,
さらに五輪の開催各都市に焦点を当てその遺産を検証した Gold and Gold eds.(2010)
123
が相次いで出版されるなど,メガ・スポーツイベントに関する研究が盛んになりつつ
ある.日本に目を向ければ,吉見俊哉の万博に関する論考(吉見 1992, 2005)をは
じめ,万博開催に伴う大規模開発とそれに対する地元地域社会の対応をめぐる問題系
に焦点を当てた町村・吉見編著(2005),オリンピック開催の歴史を開催国の経済成
長の水準に焦点を当てつつ,グローバルな観点から整理しなおした論考として町村
(2007)
,生活論的アプローチを掲げメガイベントの実証研究に挑んだ松村編(2006)
があげられる.また,東京オリンピック開催をめぐる歴史研究として,戦前の幻のオ
リンピックと都市との関係性に焦点をあわせた論考を集めた坂上・高岡(2009)
,1964
年の東京オリンピック開催に伴う都市空間の改変については石坂(2009)をそれぞれ
参照のこと.
2) 当初,滑降競技の会場には志賀高原岩菅山が決定していたが,長野県自然保護連盟
などが中心となって自然保護を訴え,計画の見直しを県に対して要求した.その後,
新たな会場として選ばれたのが既存のコースを持つ白馬八方尾根スキー場であった.
当初のスタート地点は,国立公園第 1 種特別地域を避け 1680 メートルで了承されて
いたが,その後,国際スキー連盟が 1800 メートルまで上げることを要求する.長野
オリンピック組織委員会と全日本スキー連盟は「環境保護」を盾にこれを認めず,両
陣営は対立する.この時,地元の事業者の意思決定機関である八方尾根開発(株)の審
議会が,1800 メートルスタート地点を希望することを決議するなど,地元としてはよ
り高度なコース案を望む国際スキー連盟に賛成する立場をとっていた.詳細は堀田
(2007)を参照のこと.
3) 本調査は 2009 年 12 月 5 日から 12 月 22 日まで,4 つのオリンピック開催地(長野
市,軽井沢町,山ノ内町,白馬村)に御代田町を加えた 5 つの地域で実施した.各地
域とも選挙人名簿から無作為抽出で選んだサンプル 500 票(長野市のみエアウェーブ
/アクアウィングが所在する朝陽地区 500,長野駅から善光寺に向けた中心部:第一
地区・第三地区 500 のあわせて 1000 票)の計 3000 票に質問票を郵送し回答を得た.
ここでは主に白馬村を中心に得られたデータを使用する.調査全体の詳細については
本報告書末の参考資料を,その他の開催地域に関するデータや分析については本報告
書各章を,それぞれ参照のこと.
4) 戦後,進駐軍による登坂機の導入がスキーの大衆化の一因になったことはよく知ら
れている(永井 1998)
.ただ,レジャーとしてスキーを楽しむというスタイルが,ど
のようなメディアやチャンネルを通じて人びとに膾炙していったかは検証を要する.
5) 「白馬の歩み」編纂委員会編(1994: 282-93).
6) 以下,ことわりがない限り『白馬村第二次総合計画』
(白馬村 1986)からの抜粋で
ある.
7) 白馬村(1986: 133)
,および「白馬の歩み」編纂委員会編(1994: 162).
8) 『広報はくば』
(各号)にて確認.
9) 総事業費は 22 億 5600 万円,1997 年に供用開始され,五輪施設ではないものの開
催期間中は白馬オリンピック総合本部が設置されていた.
10) 長野県松本市から新潟県糸魚川市に至る延長約 100 ㎞の交流促進型の道路として計
画されている.また,長野自動車道などの高規格道路網と一体となって,観光地を結
124
ぶ広域観光ルートとして期待されている(長野県道路建設課 2011)
.現状では松本市
側の国道 147 号線および糸魚川方面の 148 号線が,地理的には該当する.
11) 白馬ルート沿線の各自治体において,道路建設がその地域社会の「定住条件」にど
のような影響を及ぼしたのかについては,佐藤(2006)を参照のこと.
12) ただしこの値は,施設の実際の利用人数とは推計が異なることに注意する必要があ
る.
13) 『朝日新聞』
(2009.12.3)より.ちなみに,固定資産税の徴収率で白馬村に次いで
低いのが野沢温泉村の 55.4%,さらにその次が山ノ内町の 63.1%と,五輪会場地とな
った比較的小規模な自治体で,軒並み納税率が低くなっている.
14) ただし,リフト乗車人員数とそれを目的に訪れる観光客数とは必ずしも一致しない
ことに注意が必要である.とりわけ前者に関して言えば,競技者が利用する場合にも
カウントされている.
15) この点については,2001 年策定の第三次総合計画後期計画においても指摘されてい
る(白馬村 2001)
.また,2003 年 1 月に白馬村が主催したシンポジウム「長野冬季
オリンピックの遺産の活用と地域創造」にゲストで招かれたフランス・アヌシー市の
ミシェル・クワノン氏からも「オリンピックが終わってから,その会場の後利用を議
論するのはおかしいとしかいえません」との批判をあびた(白馬村観光推進本部
2003: 28)
.
16) 五輪閉幕後,
スポンサー料やグッズ販売などによる収益 45 億円のうち 40 億円が「長
野オリンピック記念基金」として積み立てられた.それを主たる財源に,選手強化や
冬季競技大会への助成額や内容を決定していたのが任意団体である「長野オリンピッ
クムーブメント推進協会」である.発足当初は長野県知事が会長を務めていたが,田
中康夫が県知事に就任してから,以後は民間から選出されていた.初年度の 1998 年
は 1 億 3 千万円,翌 1999 年以降は毎年約 4 億円の助成を行っていた.2010 年 8 月に
基金の払底を理由に同協会は解散,
残額約 3 億円は長野県と長野市へ寄付されている.
17) 主な活動についてはホームページでの閲覧が可能である(白馬チーム 98 ホームペ
ージ管理委員会 2011)
.
18) セミナーの概要については以下のウェブページにて確認することが可能である(松
本大学 2010)
.
19) 「一般社団法人白馬スポーツ・自然振興協議会定款」より抜粋.
20) 国土交通省所管「平成 14 年度地域間交流・連携構想策定事業」の選出を受け,白
馬村観光推進本部が行った事業をまとめた『地域創造を考える――冬季オリンピック
が残したもの』には,「北東アジア,とりわけ中国,韓国を視野に入れたウインター
スポーツの普及活動拠点化構想の実現」
(1 ページ)がはっきりと打ち出されている.
21) 以後の内容は,聞き取り調査で知り得た内容と鈴木(2009)がもとになっている.
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