第16巻・第1号 2015年11月 - 15年戦争と日本の医学医療研究会

Vol. 16 No.1 ISSN 1346 – 0463
November, 2015
Journal of Research Society for
15 years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第16巻・第1号
2015年11月
目
次
世界と日本の平和博物館における平和教育・・・・・・・・・・・・・・・・・山根
戦後における満洲医科大学の学位授与・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西山
ヘルシンキ宣言の成立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土屋
和代
勝夫
貴志
1
9
22
私の中国留学体験より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・原
文夫
40
書評
熊野以素『九州大学生体解剖事件――七○年目の真実』・・・・・・・・・・・・原 文夫
石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・末永 恵子
49
52
案内・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 54
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 57
投稿規定など ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58
Contents
Peace Education at Peace Museums in Japan and the World・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・YAMANE Kazuyo 1
Postwar doctorates at Manchuria Medical School・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・NISHIYAMA Katsuo 9
The Formation of the Declaration of Helsinki・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・TSUCHIYA Takashi 22
My experience note of going to China for the study・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・HARA Fumio
40
Book review
Medical experiments during World War Two by Kyushu University by KUMANO Iso・・・HARA Fumio 49
Hitler and Nazi Germany by ISHIDA Yuji・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・SUENAGA Keiko 52
Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 57
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
第 37 回研究会記念講演
世界と日本の平和博物館における平和教育
山根 和代
立命館大学国際関係学部准教授(平和学)、国際平和ミュージアム副館長
Peace Education at Peace Museums in Japan and the World
YAMANE Kazuyo
Associate Professor of College of International Relations, Ritsumeikan University, Peace Studies &
Vice director of Kyoto Museum for World Peace
要旨:平和博物館は、平和教育の推進で大きな役割を果たしている。日本の平和博物館では、歴史教育に重
点が置かれている。1990 年代における右翼の展示への攻撃のため、侵略に関して展示をしている公立平和博
物館はほとんどない。しかし民立民営の平和博物館・平和資料館においては、戦争の被害の側面だけでなく、
侵略の展示を行なっているところがある。イギリス、オーストリア、ドイツなどには、いじめなど身近な問
題も含めた紛争解決に取り組み、平和主義者や平和運動の展示、また過去の歴史を直視した展示がある。中
国や韓国では日本の細菌戦など侵略の実態を展示している。東アジアにおける平和と和解のために、平和博
物館をもっと生かす必要がある。
キーワード Keywords:平和 peace、教育 education、博物館 museum、戦争 war
はじめに
平和のための資料館・博物館は、日本や海外の
各地に存在している。軍事博物館と平和博物館の
違い、平和博物館では何をなぜどのように展示し
ているのか、海外の平和博物館、日本における平
和博物館、そして海外の平和博物館から何を学ぶ
ことができ、日本から何を発信することができる
のかについて述べてみたい。
ればそれを聴くことが可能であった。また戦争を
なくすための会議がその博物館で開催され、実際
に私自身 2008 年に開催された平和歴史会議に招
待され、日本の平和主義者について報告をしたこ
とがある。具体的には東京に「女たちの戦争・平
和資料館」を創設された故松井やより氏と、岡ま
さはる記念長崎平和資料館の創設者である岡まさ
はる氏の活動と功績について報告した。また帝国
戦争博物館では、戦争の悲惨さを伝える写真の展
示もしているが、やはり平和博物館とは違うと思
う。
帝国戦争博物館でインタビューを担当している
リン・スミスさん(ウェブスター大学教授)は 2009
年に「戦争に反対する人々の声」という本を出版
された。そこに日本の被爆者の記事を執筆してほ
しいとのことで、私の父と高知に在住した長崎の
被爆者の体験を執筆した。英国の読者から、
「被爆
者の平和への願いが込められた体験と活動を知る
ことができて、とても良い」という反応があった
そうである。
フランスの戦争博物館を訪問した際は、武器の
陳列ばかりであったが、非常に驚いたことは、原
爆投下に関する展示がなかったことである。数枚
のパネルが重なっていた所へ行くと、やっと原爆
投下の写真を見ることができた。訪問者が意識的
に探さないと広島と長崎への原爆投下について知
ることができないとは、一体どういうことだろう。
当時フランスでは太平洋のムルロア環礁などでの
核実験が問題になっていたが、フランスの核政策
1.軍事博物館と平和博物館
1993 年にイギリスに留学する機会があり、その
頃国際平和研究学会ヨーロッパ支部の大会がハン
ガリーのブダペストで開催され、夫と共に 3 人息
子を連れて参加することにした。その際ヨーロッ
パ各地の反戦博物館、平和博物館、抵抗博物館な
どを訪問することにした。当時 3 人息子の年齢は、
11 歳、8 歳、4 歳であった。
ヨーロッパでは戦争博物館も訪問した。イギリ
スでは、ロンドンにある国立軍事博物館と帝国戦
争博物館を訪問した。英国国立軍事博物館では武
器や軍服が展示されており、訪問者は何となく「戦
争をした兵士は英雄である」という印象を持ち、
将来戦争が起こればそれを自然に支持するように
なるのではないかと考えさせられた。ロンドンの
帝国戦争博物館は第 1 次世界大戦を記念して 1920
年に設立された。戦車や戦闘機、そして潜水艦な
どが展示されてまさに戦争博物館だが、興味深い
ことにそこでは反戦主義者、徴兵忌避者、平和活
動家などにインタビューをして録音し、希望があ
連絡先:〒603-8577 京都市北区等持院北町 56-1
Address: 56-1 Tojiin Kitamachi, Kita-ku, Kyoto 603-8577
Tel: 075-466-3763 E-mail: [email protected]
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
とその戦争博物館での展示の内容と関係があるの
ではないかと考えさせられた。原爆投下の写真だ
けで、その結果どれだけ被爆者が苦しんだかとい
う展示はなかった。
1993 年ハンガリーのブタペストでヨーロッパ
平和研究学会大会が開催された際、ブダペスト戦
争歴史博物館を訪問する機会があった。1918 年に
開館した博物館は、第二次世界大戦中約 7 割の展
示物が破壊されたという。武器(刀、銃)、軍服、
勲章、子どもに描かせた戦争の絵(戦争を賛美)
が展示されており、逆に「平和博物館は、どうあ
るべきか?」と考えさせられた訪問であった。大
会の間、ゴドロの戦車解体工場を訪問する機会が
あった。ウィーン協定に基づいて戦車の解体が行
なわれており、砲身の輪切りを平和のシンボルと
してお土産にいただいた。そこで核兵器などの武
器を作らない、そして武器の貿易を禁止する、さ
らに現存する武器を解体することは、実際に可能
ではないかと考えるようになった。そのために軍
縮・平和教育が重要であるので、平和博物館・平
和資料館が果たす役割は大変大きいと思う。
2008 年にベルギーで国際平和研究学会大会が
開催された際、ベルギーの戦争博物館へ行く機会
があった。ここでも武器が多く展示されていた。
ちょうど 10 歳位の男の子を連れて訪問している
家族がいたが、兵士は英雄として展示されていた。
しかし他方では、戦争の悲惨さを描写した絵画が
展示されていた。戦争に強姦はつきものなのか、
母親が強姦された後兵士のヘルメットがお腹の上
に乗せられ、恐怖におののいている二人の子ども
が描かれた絵画があった。広島への原爆投下につ
いては、新聞記事の展示があった。しかし原爆投
下の結果どれだけ多くの人々が苦しんだのかを示
した展示はなかった。このようなことは、逆に平
和博物館で何を展示すべきなのかを考えさせてく
れた。
オーストラリアの戦争記念館は、1941 年に開館
した。その目的は、
「戦争で亡くなったオーストラ
リア人の犠牲的行為を記念し、戦争体験と戦争が
同国に与え続けている衝撃的出来事を思い出し、
理解するのを手助けするため」である。1880 年代
から朝鮮戦争、ベトナム戦争まで、オーストラリ
アが関わった紛争に関する遺品や写真などを展示
していた。捕虜(2 万 2000 人)の収容所を再現し、
タイ・ビルマ間鉄道建設で、2800 人死亡したこと
を題材にした写真やスケッチを展示し、映画「戦
場に架ける橋」が上映されていた。日本の平和博
物館ではほとんど展示されていないが、国際平和
ミュージアムでは戦争捕虜の写真を展示している。
軍事(戦争)博物館では、武器や軍服などを展示
して戦争を賛美し、未来の戦争を正当化する傾向
があると思う。それに対して平和博物館では、戦
争を批判し、平和を築くために教育をし、さらに
自分に何ができるのかを考え、討論することがで
きる場であると考えることができる。また平和教
育だけでなく、市民が平和研究、平和活動をする
November,2015
ことができる場でもある。
2.平和のための博物館
1992 年に第一回平和博物館国際会議が開催さ
れた時は、平和博物館という言葉を使用していた。
しかし平和の美術館やノーベル平和センターなど
様々な社会施設も含まれることから、
「平和のため
の博物館」(museums for peace)という言葉を使う
ようになった。
1995 年及び 1998 年に世界の平和博物館につい
て国連からガイドブックが出版された。その後私
は 2001 年に日本の 43 館の平和博物館でアンケー
ト調査を行ってみた。その際世界の博物館の動き
も調査してみた。平和博物館の定義をどうするか
で、どの博物館を含めるのかが決まってくるが、
当時世界の平和博物館を調べてみると日本の平和
博物館が非常に多いことがわかった。海外の平和
博物館が創立された年を見ると、1980 年代が一番
多く、世界の反核平和運動と関係がありそうであ
る。日本の平和博物館を含めて世界の平和博物館
を考えてみると、1990 年代が一番多く創設されて
いる。2008 年に第 6 回国際平和博物館会議が立命
館大学国際平和ミュージアムで開催された際、安
斎育郎教授に依頼されて『世界の平和博物館』と
いうガイドブックを編集した。最初英文で出版し、
その後山辺昌彦氏と日本語で編集し、国際平和ミ
ュージアムから出版された。このような冊子はま
だ出版されていないので、ドイツで出版したいと
いう話があった。ただどの博物館を入れて、どの
博物館を除外するのかについて様々な意見がある
ので、まとめるのがなかなか困難である。
さて海外の平和博物館だが、1992 年に第 1 回平
和博物館国際会議がイギリスのブラッドフォード
大学で開催され、その目的はイギリスの国立平和
博物館を建設するために、海外の平和博物館から
学ぶことであった。1998 年に国立ではないが、私
立のピースギャラリーが開館した。テーマは、非
暴力、紛争解決、戦争への抵抗活動、平和運動、
軍縮、国際法と国際機関、人権、環境保護である。
反核平和運動に関する展示が行われていた。例え
ば 1981 年グリーナムコモンにおいて女性の反核
運動があり、米軍基地の巡航ミサイル配備に反対
した。その結果核ミサイルだけでなく、米軍基地
も撤去されて公園になった。また地域における平
和問題(アジア系イギリス人への差別問題)にも
取り組んでいた。平和教育を行なうため、移動展
示物も作っている。
ロンドンにはナイチンゲール博物館があるが、
これは 1989 年に設立された。フローレンス・ナイ
チンゲールの生涯と功績が展示されている。例え
ば、クリミア戦争で傷病兵の看護に尽くした様子、
最初の看護学校に関する展示がある。世界で初め
て開校した看護学校のあった聖トーマス病院の敷
地内にあり、子ども達がよく訪問する。
ノルウェーにおいては、ノーベル平和センター
が 2005 年に開館した。アルフレッド・ノーベルの
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
生涯や、ノーベルに大きな影響を与えたオースト
リアの作家であるベルタ・フォン・ズットナー女
史との関係、そしてノーベル賞について、さらに
ノーベル平和賞受賞者の記録が展示されている。
またインターネットでノーベル平和賞受賞者に関
して情報を入手できるようにしている。授賞式の
ビデオを見ることができるようにもしている。さ
らに現在の紛争に関する展示あり、また 1964 年に
ノーベル平和賞を受賞したキング牧師とオバマ大
統領に関する展示もあった。もっともオバマ大統
領をどう評価し、どう展示するかは今後の課題で
あろう。
フランスでは 1988 年にノルマンディー上陸作
戦の地にカーン記念館が建設された。その目的は、
戦争の証言と記憶を次の世代に伝え、世界の平和
の意志を強固にするためである。第 2 次世界大戦
総合博物館と言える大規模な平和博物館である。
ノーベル平和賞受賞者に関する展示もあり、佐藤
栄作氏のノーベル平和賞受賞に関しては「日本で
は受賞に関して批判がある」という注意書きがな
されていた。いろいろ訪問した平和博物館の中で、
唯一保育所があった所である。子どもを預かって
くれるので、親はじっくり展示物を見ることがで
きる。
第一次世界大戦の激戦地ヴェルダンには 1994
年、司教館(18 世紀建築)に平和・自由・人権世
界センターが開館した。平和、自由、人権につい
て分析を行い、考察をするために建設されたので
ある。戦争と平和、人権、国連、ヨーロッパ、平
和に関して展示が行われている。また海外での人
道援助活動に参加するボランティアの養成・研修
もしており、さらに小学校から大学までの平和教
育に携わっている。
また抵抗と強制連行の歴史センターは、リヨン
の旧軍衛生学校(ナチスの秘密国家警察であるゲ
シュタポ本部が使用。抵抗運動者が拷問、殺害さ
れた)に、1992 年開館した。第 2 次大戦の歴史と
人々の生活、特に地下活動を再現し、現代との関
連を訪問者が考えることができるようにしている。
若者と研究者は、教育、研究の場として利用して
いる。
オーストリアのシュライニングにあるオースト
リア平和・紛争解決研究センターにおいて、1995
年に第 2 回平和博物館国際会議が開催された。そ
の結果 2001 年に平和博物館が開館した。平和の実
現を目指す歴史、そしてどのようにすれば平和の
実現が可能かを示す展示物がある。またテーマと
して、仲裁と和解(国際社会だけでなく、個人の
日常生活においても理想的な手段)を取り上げて
いる。具体的にはいじめの問題が取り上げられて
いて印象的であった。
オーストリアのウルフゼックには、オーストリ
アで最初に建設された平和博物館がある。1993 年
に元美術教師のフランツ・ドイチェ氏(ナチズム
への抵抗運動に関わった)によって開館された。
その目的は平和教育だが、平和博物館を「出会い
とコミュニケーションの場」として位置付けてい
た。オーストリアにおける反戦活動や、世界の平
和博物館に関する情報が展示されていた。例えば
立命館大学国際平和ミュージアムのポスターや、
高知市の平和資料館「草の家」から送った写真が
展示されていた。
館長のドイチェ氏の言葉で印象に残ったのは、
次の通りである。
「平和な時こそ、平和のために活
動しなければ。戦争が始まってからでは、遅すぎ
る。
」
「平和博物館は、展示するだけでなく、人々
に平和への積極的貢献ができることを気付かせる
所である。」
「言うだけでなく、行動を」などであ
る。彼はボスニア紛争の際、実際に平和博物館の
地下室に難民家族を引き受けたが、彼の行動力が
大変印象的であった。ドイチェ氏は高知市の平和
資料館「草の家」を訪問し我が家に滞在されたが、
残念ながら 2009 年に亡くなられた。
オーストリアにもナチズムに抵抗した人々に関
する抵抗資料館がある。1963 年に開館し、ナチ占
領による独立の喪失がもたらした恐るべき結果を
次世代に伝え、抵抗者の犠牲と苦難を知らせ、明
日の平和に備えるために設立された。オーストリ
アでは 1938 年から 1945 年まで、2700 人のオー
ストリア人が処刑された。 映画の「サウンド・オ
ヴ・ミュージック」を思い出す。オーストリアの
反ナチ抵抗闘争に関するもの(例えば強制収容所
の風景、地下印刷物を隠した秘密の戸棚など)が
展示されていた。またネオ・ファシズムの台頭を
警告した展示もあったが、日本の状況と似ていた
のでぞっとした。
オーストリアにはまた国際エスペラント博物館
がある。1927 年にウィーンに創立された。ザメン
ホフ博士は、世界の平和を実現するために、エス
ペラント語を創造した。1929 年オーストリア国立
図書館の一部になったが、1938 年ナチスによって
閉鎖された。その後 1947 年再び開館した。設置目
的は、エスペラントとその運動の記録を保存、展
示することである。国際会議に使用される言語は、
例えば国際平和研究学会では英語で、以前その問
題点が指摘されたことがある。英語を母国語とす
る人々にとっては有利であるが、そうでない人々
には不利だからである。
ドイツでは 1925 年エルンスト・フリードリッヒ
氏(1894―1967)がベルリンに反戦博物館を開館し
た。彼はポツダムの帝国劇場の役者であったが、
第一次世界大戦中前線で戦う軍隊を楽しませるた
めに前線へ送られた。しかし戦争の実態を知り、
徴兵忌避の結果、監獄、そして精神病院に送られ
た。1925 年に反戦博物館を開館したものの、1933
年ナチスの迫害のため閉館しなければならなかっ
た。皮肉なことにその反戦博物館で、ナチズムに
反対した人々が拷問にかけられたのである。彼は
ベルギーへ逃げ、1936 年に再び反戦博物館を作っ
た。しかしドイツがベルギーに侵略後、再び閉鎖
をせざるを得なかったのである。彼はフランスの
強制収容所に入れられたが、逃亡してフランスの
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November,2015
レマーゲンの橋平和博物館は、1980 年にレマー
ゲンの橋の一部を平和博物館にしたものである。
この橋はライン川にかかっていて、第一次世界大
戦中西部戦線に兵士や物資を送るために造られた。
1945 年米軍が進攻の際、ドイツ軍は破壊を企てた
が失敗し、結局過重な荷物を運んでいる際に壊れ
てしまったそうである。1945 年 4~8 月約 150 万
人のドイツ兵が米軍捕虜になり、ライン川付近の
草原で多くの兵士が飢え、寒さ、病気で死亡した
ことも展示されていた。橋脚の塔の内部を改造し、
平和博物館にしているが、戦争の悲惨さ、戦争捕
虜、橋の歴史に関する写真、不発弾などが展示さ
れていた。またノーベル平和賞受賞者に関する展
示もあった。資金作りとして、橋を改修する際に
出た石の破片を証明書と共にプラスティックに埋
め込んで売り出し、成功したそうである。
ドイツのリンダウは、オーストリア、スイスの
国境にある湖に面した美しい町である。1980 年建
築家トーマス・ヴェックス氏により平和博物館が
開館され、平和実現のための闘いの歴史が展示さ
れていた。日本に関連した展示物として、広島に
投下された原爆の惨禍と平和への願いを象徴した
こけしが展示されていた。また 1954 年ビキニ環礁
でアメリカの水爆実験の犠牲者となった第五福竜
丸の久保山愛吉氏のレリーフも展示されていた。
全般的に戦争の残酷さより、平和実現のために努
力した人々の歴史に重点を置いていた。
ドイツのケルン大聖堂では、興味深い展示があ
った。ホームレスの男性が、反核平和の署名を集
め、ダンボール箱の紙に訪問者が平和のメッセー
ジを書いた反核平和展示会をしていた。大聖堂か
ら目障りなので撤去するよう求められても、観光
客や平和活動家が許さなかったそうである。りっ
ぱな博物館がなくても、平和活動をする意志があ
ればこのような活動ができると感心した。
オランダのアンネ・フランクの家は、1960 年に
博物館として開館した。フランク一家の歴史、第
二次世界大戦とナチズム、ドイツによるオランダ
占領、ネオ・ナチズム、反ユダヤ主義、人種差別
など今日の問題も展示されていた。1947 年「アン
ネ・フランクの日記」初版が出版されたが、日本
語版もそこで販売していた。夏休みには海外の訪
問者が多く、並んで待たなければならなかったほ
どであった。
オランダの抵抗博物館は、1985 年アムステルダ
ムに設立された。その目的は、ドイツ・ナチスの
占領に対するオランダ人の抵抗の記憶を保存し、
人々に事実を知らせ、啓発するためである。第二
次世界大戦中の抵抗運動について、展示されてい
た。ナチスに抵抗する闘いは、逮捕、拷問、死を
覚悟しなければならなかったことがわかる。
南オランダ抵抗博物館は、1985 年ハウダで開館
した。その目的は、ナチズムに抵抗したオランダ
人の闘いを後世に伝えるためである。その背景に
は、ネオ・ナチズムの台頭があった。反ナチ抵抗
闘争の写真、絵画、抵抗闘争に使われた通信機、
抵抗運動に参加した。戦後彼とその家族はベルリ
ンへ戻り、戦争中の苦しみの補償として政府から
年金を受け取ったそうである。日本では元軍人に
しか年金がなく、被爆者や空襲の被害者への補償
はないので、ドイツと大きく異なった状況である。
その後孫のトミー・シュプレー氏(教員)が、1982
年に平和運動が高まる中、反戦博物館をベルリン
で開館した。ドイツ政府はこの反戦博物館を支持
し、財政的援助もしているという。反戦博物館の
歴史を展示し、戦争賛美の宣伝と戦争の実態の対
比を、死傷者などの写真によって示している。広
島、長崎の被爆者の写真も展示していた。そこで
は核戦争になった際に着ると良いと考えられてい
た服の展示もあった。台風なら役に立つかもしれ
ないが、いざ核戦争となれば全く役に立ちそうに
ないビニール製の服に驚いた。原爆の恐ろしさが
まだまだ伝わっていないのではないかと考えざる
を得なかった。1999 年に出版された『ベルリンで
ほとんど知られていない博物館』という本でシュ
プリー氏は「60 秒ごとに 150 万ドル(約 1 億 5000
万円)が武器の製造に使われている」と指摘して
いる。ちなみにドイツでは良心的徴兵忌避者の存
在が認められた時期があり、長崎市にある岡まさ
はる記念長崎平和資料館で、数年前から毎年ドイ
ツ人の青年が働いていた。
もうひとつベルリンに反戦博物館・平和図書館
があるが、1984 年に創設された。テーマは、原爆、
アンネ・フランク、ナチス・ドイツのポーランド
やロシアへの侵略などである。加害の展示をきち
んとしていたのが、印象的であった。反ナチの学
生グループ「白ばら」の展示では、ナチスに抵抗
した若者の知性的な表情が印象的であった。
ドイツ抵抗記念センターは、1968 年にベルリン
に開館した。展示内容は、1933 年から 1945 年の
間にファシストが犯した罪、ナチズムに抵抗した
軍人、自由主義者、社会主義者、共産主義者、キ
リスト教徒、労働者など様々な人々による抵抗運
動である。子ども達に抵抗運動の説明をする平和
教育が行われ、また平和教育の教材も作成されて
いる。
ベルリンの壁検問所博物館は、1963 年に開館し
た。展示内容は、ベルリンの壁の歴史、
「ガンジー
からワレサへー人権擁護のための非暴力の闘い」
などである。1993 年に訪問した際、ベルリンの壁
を命がけで越えた人々の写真、弾痕がのこされて
いる自動車などが展示されていた。多くの若者が
いたのが印象的であった。
1986 年に開館したケーテ・コルヴィッツ美術館
では、
女流画家ケーテ・コルヴィッツ(1867~1945)
の絵画や彫像を展示している。テーマは、貧困、
飢餓、死など、戦争で苦しむ人々である。戦争で
食料不足のため、子どもに食べさせることができ
ず苦悩する母親の絵画などが印象的であった。第
一次世界大戦で息子のペーターを亡くし、嘆き悲
しむ彫像を作ったが、それがベルギーの墓地に置
かれている。
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
ラジオ、自転車などが展示されていた。
オランダにはまたイ・ジュン平和博物館がある。
イ・ジュンは、1907 年ハーグ平和会議に参加する
ためにハーグに行ったが、死亡した。日本の植民
地支配に反対し、会議の参加を日本に妨害された
のである。1995 年彼が亡くなったホテルが、平和
博物館として開館された。ハーグ平和会議が 1999
年に開催された際、韓国のマスコミで注目されて
いた。
オランダには戦争・平和博物館が約 10 館あり、
移動展示物などについて交流している。オランダ
国立戦争資料館では 2005 年に戦争と子どもをテ
ーマにした展示物を作成し、全国で展示した。ま
た米国ワシントンのホロコースト記念博物館で、
アンネ・フランク特別展を開催した。アンネの日
記が国外で展示されたのは、初めてであった。
オランダのハーグには平和宮があるが、1913 年
に創設された。平和宮は、国際司法裁判所、常設
仲裁裁判所、有名な平和宮図書館、毎年夏に世界
中から法学生が集まる国際法ハーグアカデミーを
含め、多くの国際司法機関の本拠地である。平和
宮はハーグでよく写真撮影される歴史的建物のひ
とつで、ガイドが訪問者を案内するようになって
いる。1999 年 5 月 17 日平和宮博物館は、当時国
連事務総長のコフィー・アナン氏の参加の中で開
館した。この博物館には平和宮にある全ての機関
を展示している様々なショーケースがあった。博
物館では平和宮図書館、国際司法裁判所、常設仲
裁裁判所の重要な資料を展示し、平和宮の歴史と
そこにある諸機関の背景に関する情報を提供して
いる。午前 11 時と午後 3 時には案内者がいるが、
その際平和宮博物館も訪問することができた。団
体のみ平和宮を訪問することができ、その際あら
かじめ予約をする必要があった。
スイスの国際連盟博物館は、ジュネーブの国連
図書館の一部としてある。そこでは国際連盟の記
録、平和運動に関わった個人や組織に関する書類
の保管をしている。1998 年第 3 回国際平和博物館
会議に参加したウルスラ・マリア・ルーザー博士
は「平和とは、単に戦争がない状態を言うだけで
はなく、愛と希望と喜びに満ちあふれた状態と定
義すべきです。
」と言われ、印象に残っている。国
際連盟で事務局次長であった新渡戸稲造氏の彫像
も置かれていた。ちなみに新渡戸記念館が花巻市
と十和田市にあり、新渡戸氏の生涯を知ることが
できる。
ジュネーブには国際赤十字・赤新月博物館があ
るが、1988 年に設立された。そこでは創立者のア
ンリ・デュナンの生涯、1863 年以後の国際赤十
字・赤新月の歴史と人道主義的活動、最近の情勢
が展示されている。言葉による説明だけでなく、
音響効果だけで理解できる映画(デュナンの生涯)
は、よくできていた。数ヶ国語で展示しているし、
訪問者はボランティアの説明によって理解を深め
ることができる。
2009 年 5 月には平和のための博物館国際ネット
ワークの役員会がそこで開かれ、参加してきた。
その際、特別展示を見る機会があった。1976 年か
ら 1983 年までアルゼンチンで約 3万人の人々が圧
制者によって捕らえられて殺される状況があった
が、具体的に家族が揃った写真と、家族がいなく
なった後の写真の両方を展示して、圧制による人
権侵害、家族の悲しみと苦しみを具体的に表現し
ていた。デュナンは晩年ハイデン村の病院で過ご
したが、そこに博物館ができている。そこには日
本赤十字の関係者の贈り物(日本人形など)も展
示されていた。日本の看護師が訪問して寄贈した
ものが置かれていた。
ベルギーのディクスミュードにはイーペル塔が
あり、この平和博物館は 1930 年に開館した。第 1
次世界大戦、平和主義、フランドル解放の戦い、
第 2 次世界大戦に関して展示している。最初に塔
の一番上にエレベーターで上り、その後下に下り
ながら様々な展示を見て、最後に第 1 次世界大戦
の「塹壕」を通って外に出るようになっている。
毒ガスが使用されたことを知るために、毒ガスの
匂いと似たものを嗅ぐことができるように工夫し
ていた。
またベルギーのイーペルにはフランダース戦場
博物館があり、1998 年に開館した。そこは第 1 次
世界大戦の戦場で、約 50 万人の兵士が戦死した。
第 1 次世界大戦をテーマに展示されているが、漠
然と兵士のことを知るのではなく、特定の兵士を
選んでパソコンで彼の生涯について知り、その後
彼の墓地へ行くような取り組みが行なわれていた。
このようにして子ども達や訪問者は、具体的に戦
死した兵士のことを学ぶことができるように工夫
されている。どちらの平和博物館でも、感性に訴
えるように工夫をしていた。
スペインにおけるゲルニカ平和博物館は 1998
年に創設されたが、平和の文化の基本的考えや、
過去及び現在における平和の文化とゲルニカの歴
史との関係について展示や研究を行い、訪問者を
教育している。ゲルニカは 1937 年 4 月にフランコ
軍を支援するドイツ空軍の爆撃によって破壊され、
市民多数が死亡した。2005 年にはここで第 5 回国
際平和博物館会議が開催された。2009 年 7 月に出
版された岩波DVDブック『東京・ゲルニカ・重
慶空襲から平和を考える』という本には、館長の
イラッチェ・モモイショさんが多くの写真を提供
した。
またスペインのラヴァルドウイショに、平和博
物館が創設された。国立大学ハウメ一世大学平和
学・開発学修士課程で私が集中講義をした際、受
講生の一人が市長に要望して実現した。そこは、
町議会とバンカハ銀行社会貢献財団に支援されて
いる。
(スペインの銀行は、社会に貢献することが
義務付けられている。
)この博物館は 2000 年「人
権の日」である 12 月 10 日に開館した。その際広
島と長崎への原爆投下に関する 30 枚の写真パネ
ルが展示された。それらは現在博物館の展示物の
一部であり、他の場所でも展示されている。この
-5-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
写真パネルは高知にある平和資料館「草の家」の
寄贈によるものであり、岡村正弘館長夫妻によっ
てスペインに運ばれた。長年ラヴァルド ウイショ
自治体は、ハウメ一世大学の平和学・開発学修士
課程で研究する発展途上国出身の学生に、平和の
ための奨学金を出して援助をしている。その自治
体は、すべての政治団体が持続可能な開発そして、
公開討論会の開催による参加型民主主義の促進に
貢献することを考えていた。平和博物館やカステ
ロン市のバンカハ国際平和開発センターを創る考
えは、その修士課程で学ぶ大学院生から出された。
ハウメ一世大学は、これらの取り組みに対して、
学問的援助をしている。
イタリアのミラノでは、平和博物館を創る活動
がある。ピエラ・カラメリーノさんという教員と
1980 年にイギリスで知り合い、その後彼女に平和
資料館「草の家」の活動に関する英文通信を送る
ようにした。高知は空襲で約 400 名の方が亡くな
ったが、毎年空襲展など様々な取り組みをしてい
る。それを読んで彼女はゴーラという町における
空襲体験を思い出したそうである。1944 年に米軍
の空襲によって子ども達が 205 人亡くなり、ピエ
ラさんは幸い助かることができたそうである。ミ
ラノでは空襲で亡くなった子どもを抱いた母親の
像がある。自分の子どもが空襲で殺されたのに、
親は遺体を取りに行くことを兵士に禁止されたそ
うである。しかし一人の母親が命令を聞かずに子
どもの遺体を家に持って帰り、葬式をしたそうで
ある。ピエラさんはその時の記憶を次の世代に伝
えようと、空襲の生存者と共に学校の先生方と話
し合い、平和教育を行うようになった。また空襲
に関連した写真、文書や証言を発掘し、空襲体験
を多くの人々に知らせる催しを開いている。平和
集会では、ピエラさんの娘さんがハープの演奏を
されていた。
2007 年の秋に国際平和ミュージアム館長の安
斎育郎教授、名古屋大学名誉教授の澤田昭二氏と
イタリアへ反核平和の旅に参加した時、講演会と
ミラノでの空襲体験を朗読する集会を開いて下さ
った。私の拙い被爆二世の詩を、初めてイタリア
語で朗読をした。州政府の国際交流担当の方に会
う予定で集会の途中で会場を出ようとすると、ピ
エラさんの夫のジアンカルロさんが私を引きとめ
られた。すると空襲体験者が私の詩をイタリア語
で朗読して下さり、イタリア人の温かさを感じて
涙が出たことを思い出す。ミラノでは 2008 年平和
博物館委員会ができ、子ども達に空襲体験を伝え
る活動などを行なっている。
中東においてエルサレムにはユダヤ人大虐殺殉
難者・英雄記念局美術館がある。その目的は、第
二次世界大戦時のユダヤ人大虐殺を記念し、未来
への警告にするためである。展示として、ユダヤ
人の苦難を表す詩、小説、絵画などがあった。イ
スラエルとパレスチナの和解を目指す平和博物館
の計画があったが、1995 年の国際平和博物館会議
で失敗したという報告があった。
November,2015
しかし「両親のサークル・家族フォーラム」と
いう家族を失った両親の会があり、そこではパレ
スチナ人もイスラエル人も共に協力して紛争の解
決をしようとしている。2009 年 8 月に韓国のソウ
ルで第 3 回NGO国際会議が開催され、そこで歴
史と平和について論議された。その会議でパレス
チナ人とイスラエル人の男性が報告をしたが、ど
ちらも家族を失った悲しみを乗り越え、平和の実
現のために活動をしていることを知り、心強く思
った。
韓国のソウルには、平和博物館センターがある。
「すみません、ベトナム運動」においてベトナム
戦争真実委員会は、2000 年 6 月から「ナヌムの家」
のハルモニたちが寄付した約 700 万円を元に、ベ
トナム戦争の被害地域に平和歴史館建立計画を作
成した。韓国の軍隊はベトナム戦争中加害者であ
ったが、それを反省したからである。その後 2003
年平和博物館建立のため、市民募金運動を開始し
た。平和博物館センターでは、平和の実現のため
に努力した人々についてまとめ、平和教育で活用
することを目的としている。また海外の平和博物
館と連帯し、戦争を防ぐことも目的としている。
日常生活で接することができる平和のコーナー
(学校の廊下、職場の壁、NGОのある部屋の一
角、公民館の小さな部屋、図書館における平和の
コーナーなど)を使って活動をするやり方は、ど
こに国でもできそうでとても印象的である。
中国の南京大屠殺遭難同胞紀念館は、1937 年約
30 万人虐殺されたと言われているが、南京大虐殺
をテーマに 1985 年に開館した。その背景には、
1982 年日本の教科書問題がある。そこを訪問した
際、父親が娘に展示物の説明をしていたが、日本
人への敵意や怨念が生み出されるのではないかと、
気になった。しかし日本では見ることができない
展示は貴重なので、多くの日本人が訪問して歴史
的事実を知るべきであると思う。残念ながらまだ
731 部隊博物館を訪問したことがないので、紹介
することはできなかった。
インドには、ノーモアヒロシマ・ノーモアナガ
サキ平和博物館があり、反核平和展示会をバルク
リシュナ・クルヴェイ博士 が 8 月 6 日~9 日に開
催し、多くの人々に核兵器の恐ろしさを知らせ、
核兵器廃絶を目指している。地道な活動だが、心
強く思う。毎年8月に写真展や平和行進を組織し、
その写真を送って下さるので平和活動の様子がよ
くわかる。
また国立ガンジー博物館・図書館がニューデリ
ーに 1960 年開館された。ガンジーの生涯、思想を
広めること、またインドの他の地域にガンジーの
博物館を創ることを目的としている。図書館には、
4 万冊の蔵書がある。ガンジーの非暴力の思想と
戦争放棄を明記した憲法第 9 条は、もっと学校教
育や平和博物館で取り上げる必要があると思う。
アメリカのデトロイトには、
「刀を鋤に」平和セ
ンター・ギャラリーがある。1986 年に開館し、芸
術を通して、平和教育をすることを目的としてい
-6-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
る。1995 年スミソニアン博物館で原爆投下に使わ
れた爆撃機だけ展示され、被爆者の苦しみを示す
写真などは展示されなかった事件が生じた。その
際、
「草の家」から被爆者のパネル写真をこの平和
センターに贈り、それが展示された。イラク戦争
前には、若者がイラク戦争に反対する作品を制作
した。背景の新聞は、すべてイラク戦争に関する
記事だそうである。
平和のための博物館のネットワークは 1992 年
に結成されたが、そのウェッブサイトは次の通り
である。www.peacemuseums.org (英文)
また国内の「平和のための博物館・市民ネット
ワーク」では、通信ミューズと英文 Muse で、海
外のニュースや国内のニュースを発信している。
それは東京空襲戦災資料センターのホームページ
にあり、そこの山辺昌彦研究員、安齋育郎教授、
そして私が編集をしている。
て、大阪国際ピースセンター(ピースおおさか)
を挙げることができたが、2015 年 4 月から日本の
加害に関する展示が削除された。そこには市民ネ
ットワークの活動があり、市民は展示を歴史的事
実に基づいたものにしようと努力している。
注目すべき私立の資料館として、立命館大学国
際平和ミュージアム、女たちの戦争と平和資料館、
戦争と平和の資料館ピースあいち、岡まさはる長
崎平和資料館、
「草の家」、沖縄の「ヌチドウ宝の
家」等を挙げることができる。2005 年に、加害に
関する展示と市民の活動に関するアンケート調査
をしたが、市民の果たす役割がとても大きいこと
が明らかになった。
ヨーロッパにおいては、ナチズムへの抵抗博物
館が非常に多い。これはドイツがどれだけ多くの
国を支配したかを示しているが、ドイツの場合被
害者に謝罪と補償をしている。日本の場合はそう
ではないので、アジアにおける平和と和解のため
の努力が大きな課題である。
また平和博物館において芸術、文学の果たす役
割は大きいと思う。ただ知識を増やすだけでなく、
訪問者が感動して自分も平和の実現に何かしたい
と考えるようになることが重要であると思う。
世界各地、また日本各地で平和の実現のために
努力していることを知ると、大いに励まされる。
市民一人の力は小さいが、その小さな力が集まる
と想像以上に大きな力を発揮すると思う。高知市
にある平和資料館「草の家」は小規模でも、様々
な人々が集まって多彩な活動をしている。東アジ
アにおける平和と和解のために、中国へ平和の旅
を行ってきた。例えば著者を含め 1998 年に細菌戦
の実態を知るために湖南省の常徳へ行ったことが
ある。教科書でもマスコミでも学ぶことができな
かった細菌戦により、いかに中国の人々が苦しん
でいるかを知ることができた。細菌戦の被害者の
証言を記録して、草の家ブックレット No. 9『細菌
戦は実行されていた』を出版し、その後平和教育
の教材として使われている。また細菌戦の被害者
が日本に謝罪と補償を求めた裁判を「草の家」の
会員が支援したが、これは市民レベルの和解につ
ながっていった。このように東アジアにおける平
和と和解のために、平和博物館をもっと生かす必
要があると思う。
「草の家」の活動から学びたいという方が、海外
から訪問することがこれまで何度かあった。2010
年 2 月にはアメリカのデイトン国際平和博物館理
事長のビル・ショウ夫妻が、わざわざ高知の「草
の家」に来られた。急な訪問で講演会の開催はで
きなかったが、様々な人々と交流できたことを喜
んでおられた。自由民権運動の発祥地である高知
は、平和の分野でも貴重な存在である。
日本は海外に何を発信すべきであろうか?やは
り核兵器と原発の恐ろしさを、展示を通して発信
していくことが課題であると思う。
最後に英国のブラッドフォードやリーズでは、
平和に関連した場所を紹介した案内書と地図を市
3.日本の平和博物館の特徴と課題
日本の平和博物館は 1990 年代における建設が
最も多く、その背景として非核都市宣言運動があ
る。1991 年に宣言をしたのは自治体の 52%であ
った。
その後 2015 年 8 月 1 日現在で、88.8%
(1587
自治体)の自治体が非核都市宣言をしている
その展示内容への影響として、特に公立の平和
博物館において戦争の被害の側面(原爆や空襲)
に関する展示が多いことが指摘できる。1990 年代
における展示への攻撃(教科書問題も)が右翼に
よってなされたために、侵略に関して展示をして
いる平和博物館の数が減少した。しかし民立民営
の平和博物館・平和資料館においては後述するが、
被害の側面だけでなく、侵略の展示を行なってい
るところがある。
日本とアジア諸国の人々の歴史認識の相違が存
在しているが、教科書でもマスコミでもきちんと
歴史を教えていないことが大きな原因ではないか
と思う。歴史教科書を中国、韓国、日本で共に研
究して出版したが、このような歴史の本が多くの
学校で使われると歴史の認識は大きく変わってく
るのではないだろうか。(『未来をひらく歴史―日
本・中国・韓国=共同編集 東アジア三国の近現代
史』日中韓三国共通歴史教材委員会著)
今後平和博物館の交流が重要で、情報、展示物
の国際交流をもっと促進する必要があると思う。
4.まとめ
海外と日本の平和博物館の違いについて、次の
点を挙げることができると思う。
イギリス、オーストリア、ドイツなどには、い
じめなど身近な問題も含めた紛争解決に取り組み、
平和主義者や平和運動の展示、また過去の歴史を
直視した展示がある。ところが日本では歴史認識、
特に戦争の被害の側面を強調して展示が行なわれ
ているところが公立の平和博物館に多い。従って
海外の平和博物館から学ぶべきであると言えよう。
日本の加害の側面を展示した公立の博物館とし
-7-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November,2015
Yamane, K. (1995). Hiroshima & Nagasaki: The
Beginning of the Nuclear Age. In Medicine
and War. London. pp.10~15.
Yamane, K. (1995). Current Attitudes to the
Atomic Bombings in Japan. In Medicine and
War. London. pp46~54.
Burns, R, J., & Aspeslagh, R. (1996). A Peace
Museum as a Center for Peace Education. In
が無料で訪問者に提供している。日本の都市もこ
のような案内書を作成して、もっと平和に関連し
た所を全国に、そして海外へ紹介したらどうかと
考えている。
著者プロフィール
山根 和代(やまね かずよ)
1951 年、山口県大島生まれ、73 年、同志社女
子大学卒業(英文学専攻)、75 年米国ワシントン
州ピュジェット・サウンド大学修士課程修了(比
較文学)
、2006 年英国ブラッドフォード大学博士
課程修了(平和学)、82-2010 年高知大学非常勤講
師、2011年より立命館大学国際関係学部准教授
(平
和学)
、2013 年より国際平和ミュージアム副館長。
「平和のための博物館国際ネットワーク」(INMP:
International Network of Museums for Peace)理
事及び通信編集委員、
「平和のための博物館市民ネ
ットワーク」通信「ミューズ」と英文通信”Muse”
編集委員、The Journal of Peace Education (英国
出版の平和教育に関する学術誌)編集委員、国連平
和大学出版"Peace and Conflict Review" 編集委
員
Three Decades of Peace Education Around the
World. New York: Garland.
pp.307-319.
Yamane, K. (2008). Museums for Peace
Worldwide. Kyoto: Kyoto Museum for World
Peace, Ritsumeikan University.
Yamane, K. (2009). Grassroots Museums for
Peace in Japan. Berlin: VDM.
Yamane, K. (2010).“Japanese Peace Museums”.
In The Oxford International Encyclopedia of
Peace. Oxford: Oxford University Press. pp.
532-534
Spring, U., Günter, H. & Tidball, K. (Eds.)
(2013) Building Peace by Rebuilding
Community by Women in Japan. In
Expanding Peace Ecology: Peace, Security,
Sustainability, Equity and Gender. New
主要著書:
西田勝(編)(1995). ヨーロッパの平和博物館『世
界 の 平 和 博 物 館 』 日 本 図 書 セ ン タ ー pp.
150-158.
York :Springer.
Harris I. (Ed.) (2013).“Life is Treasure”House in
Japan. In Peace Education From the
Grassroots: Charlotte, North Caroline: IAP.
-8-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
戦後における満洲医科大学の学位授与
西山勝夫
滋賀医科大学
Postwar doctorates at Manchuria Medical School
NISHIYAMA Katsuo
Shiga University of Medical Science
キーワード Keywords: 731 部隊 UNIT 731, 非人道的研究
records, 文部省 Ministry of Education
Inhuman research, 学位授与記録 degree-granting
抄録: 満洲医科大学の戦後の学位授与者の中に、731 部隊やその他の非人道的研究に関連したと思われる者が
いるかどうかを明らかにすることを目的として、能勢岩吉編『日本博土録』第 1 巻、
『国立公文書館デジタル
アーカイブ』収蔵の満洲医科大学学位授与記録を調査した。その結果、多くの学位授与記録は、学位令、満
洲医科大学学位規程を満たした書面として収蔵されておらず、主論文あるいは参考論文も国立国会図書館の
博士論文として所蔵されていないことから充分に検討できる例は限られ、問題の学位授与者は 2 名、すなわ
ち、渡辺泰臣と倉井弘武のみであった。
1. はじめに
拙稿「日本の侵略先に設置された大学における医
学博士の学位授与」(2014) 1) において、日本の侵略
先に設置された京城帝国大学、満洲医科大学、台北
帝国大学において戦後、医学博士の学位が授与され
ていることを明らかにした。また、拙著「京城帝国
大学医学部の博士学位の授与について 物江敏夫朝
鮮軍管区防疫部長の場合」 2) において、「今後の課
題」として「物江の調査研究結果から、」「京城帝
国大学と同様に、日本の侵略先で学位授与が出来る
大学であった台北帝国大学、満洲医科大学の学位授
与者、学位論文、戦前戦後の学位授与過程の」
「今後
さらに系統的な調査研究が必要といえる」と述べた。
そこで、本稿では、満洲医科大学の戦後の学位授
与者の中に、731 部隊やその他の非人道的研究に関
連すると思われる者いるかどうかを明らかにするこ
とを目的として、学位授与記録を調査研究した結果
について述べる。
2. 方法
2-1. 能勢岩吉編『日本博土録』第 1 巻(以下、
『日
本博土録』
)3) 中の 1945 年 8 月 15 日以降の満洲医科
大学の学位授与者を抽出し、氏名、論文題目、授与
年、出身校、本籍の名簿を作成した。その際に、1945
年 8 月 15 日前の学位授与者の授与年別、出身校別の
人数を計数した。
2-2. 上記名簿の各人に関して、学位授与記録を調査
するために、『国立公文書館デジタルアーカイブ』3)
のサイトにおいて検索した。この際、キーワード「満
洲医大」でも検索し、
『日本博土録』に遺漏がないか
を調べた。
2-3. 検索できた被抽出者の情報を『日本博土録』と
突合し、整理した。
2-4. 『国立公文書館デジタルアーカイブ』で検索さ
れた者についての学位授与記録の複写を、特定歴史
公文書等利用請求書にて、国立公文書館に申請した。
得られた複写物について、悉皆閲覧し、731 部隊な
どに関連すると思われる記載の有無、その内容を検
討した。
2-5. 得られた複写物中の主論文題目で掲載誌の記
載の無い者については、国立国会図書館サーチで資
料種別「博士論文」に関し、検索した。
3. 結果
3-1. 『日本博土録』の調査結果
『日本博土録』の調査結果の総括を表 1 に示す。
満洲あるいは満州大は満洲医科大学(以下、満洲医
大)を指す。南満医学堂は満洲医科大学の前身であ
る。表 1 によれば、満洲医大の博士の学位授与者数
の総計は 250 名、
内戦後は 144 名で、
その殆どが 1946
年 4 月 28 日である。戦前の年度別授与者数は高々24
名(1940 年)である。戦前の年次推移からすれば、
戦後 1 年余りの間にその 6 倍にも相当する学位授与
がなされていることは異常な数といえる。卒業校別
に見ても、同様である。
さらに、1946 年 4 月 28 日には、卒業校が満洲外
に及び、特に日本国内からの授与者が 1 割あり、卒
業校の記載が無い者も 1 割以上を占めている。
『日本博土録』掲載の学位授与者名、学位論文題
目、本籍については、表 2(以下、名簿)に、
『日本
博土録』における掲載頁番号・段順・掲載順を附し
て、示す。本名簿の配列は、以降の調査を容易にす
連絡先:〒520-2192 大津市瀬田月輪町 滋賀医科大学社会医学講座衛生学部門
Address: Tsukinowacho, Seta, Otsu, 520-2192 Japan
E-mail address: [email protected]
-9-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
るために、
『国立公文書館デジタルアーカイブ』に保
存されている簿冊及び簿冊内の綴じ順に従い、配列
順に通番を附してある。
3-2. 『日本博土録』と『国立公文書館デジタルアー
カイブ』の突合結果
『国立公文書館デジタルアーカイブ』を検索した
ところ、合計 144 名が検索され、その氏名、学位授
与年月日は名簿と一致していることを確認できた。
名簿には、学位授与者ごとに、簿冊番号、資料請
求番号(略:本館-3A-023-01-昭 49 文部 000-、下 2
桁の 00)
、件名番号、学位授与年月日、文書番号(略:
第、号、番号のみの表記は「博学専」も略してある)
を記す。
表1. 『日本博土録』掲載の満洲医科大学年月日別卒業
校別医学博士の学位授与者数(学校名は原典による)
年月日
授
与
者
数
満
洲
南
満
医
学
堂
満
洲
大
附
属
専
門
部
1940
1941
1942
1943
1944
1945終戦前
戦前計
24
14
21
23
8
16
106
15
12
13
13
6
13
72
2
2
2
4
1
1
11
2
1945/9/21
1946/4/28
終戦後計
総計
2
142
144
250
2
98
100
172
5
5
16
6
6
8
卒業校
満
洲
歯
科
医
師
検
定
合
格
京
城
歯
科
医
専
日
本
国
内
記
入
無
0
0
0
0
1
1
1
1
1
1
14
14
14
17
17
17
1
日本国内の内訳:慶大、九州歯科医専(2)、日本医学校、高槻
高等医専、日本歯科医専、東京高等歯科医学校、日本大学専
門部歯科(2)、岩手医専(2)、熊本、大阪高医専、京都府立医専
通番. 氏名で表すと 1. 矢野四郎、2. 堀威比古(以
下同じ)についてのみ「公開」その他は「要審査」と
記されていたが、全員について一括して授与記録の
複写請求を行った。その結果、従前の「公開」文書
の請求に比べて時間を要したが、全ての複写を入手
できた。
3-3. 『国立公文書館デジタルアーカイブ』検索結果
(利用請求と複写情報の関連)
図 1 に『国立公文書館デジタルアーカイブ』の学
位授与記録複写の 1 例(1 jpeg ファイルに、見開き
複写で、計 2 頁分が収められている)を示す。
図 1 の場合、右側は簿冊の表紙である。赤字スタ
ンプの「非公開」が 2 重線で抹消されていることか
ら、筆者の請求を受けて、請求文の「要審査」授与
記録が審査され、
「公開」の決裁がなされたことが伺
- 10 -
November, 2015
われる。墨書で上書きされているように見えるが、
その下の文字は判読しがたい。上書き墨書「昭和二
十一年 第九」が検索結果の学位授与認可の項の和
暦年と冊番号と一致し、右下の白ラベルの「文部省
㊾」は文部省から昭和 49 年に国立公文書館に移管さ
れたことを意味し「3A 23-1 60」は国立公文書館の整
理番号とすれば、
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
の検索で示された請求番号との対応がつく。すなわ
ち、
『国立公文書館デジタルアーカイブ』の検索で示
された利用請求番号は、各簿冊の表紙の情報に基づ
き生成されたものといえる。
また、左側は 3. 小泉伸策の学位授与記録の先頭頁
であり、文部省の稟議過程を検討できる文書となっ
ている。左側の個別の学位授与記録は他の者のいず
れの学位授与記録も冒頭頁はかかる文書となってい
ることが明らかとなった。
図 1 の左側の冒頭頁によると、学位授与認可の起
案は昭和 22 年 2 月 4 日、学位申請年月日は昭和 22
年 1 月 27 日、決済は 2 月 15 日(昭和 22 年と思われ
る)となっているが、左端欄外にペン字「昭和 21
年 4 月 29 日を以て中国側の管理となったので前日た
る 4 月 28 日附を以て認可せんとす」
と記された後に
捺印がある。この記載捺印は、144 名の授与者中 141
名についてなされていた。その中には、
『日本博土録』
において昭和 20 年 9 月 21 日に学位授与と記されて
いた 1 矢野四郎があった。彼の申請は昭和 22 年 5
月 2 日、裁定は昭和 23 年 1 月 6 日であった。これよ
り、
『日本博土録』の記載が誤りであることがわかっ
た。『日本博土録』において、4 月 28 日付学位授与
と記されている 2 名、143 倉井弘武、144 金斗鐘に
ついては、記載内容は異なり、図 3 の欄左端外に「満
洲医大関係の学位は昭和 22 年横浜市立大学残務整
理事務所を設けて一括處理されたが、その際本人は
漏れたもので、種々調査の結果の事実に相違ないと
認められる」となっていた。さらに、その内 1 名、
143 倉井弘武には図 3 に示すように欄上端外に「本
件は、満洲医大関係の他の分と一括 21.4.28 日付けで
認可のこととしたい」との付記があった。144 金斗
鐘については、欄外追記は無いものの、決済日が昭
和 26 年 7 月 31 日となっていたのを 2 重取消線で抹
消し、昭和 21 年 4 月 28 日と訂正されていた。
すなわち、144 名の授与者中 143 名は実際の学位
申請年月日と以降の稟議が、昭和 21 年 4 月 28 日で
あったにもかかわらず、学位授与認可日が昭和 21
年 4 月 28 日とされ、それが『日本博土録』に採録さ
れていたことが判明した。
残る 1 人の 2 堀威比古は、
『日本博土録』におい
て記されていた学位授与日の昭和 20 年 9 月 24 日は
学位授与認可の発送日
(申請は昭和 20 年 4 月 27 日、
決済は昭和 20 年 9 月 13 日)の日付に当たることが
わかった。
『日本博土録』に掲載の出身校、本籍は、本頁の
記載事項と一致するので、本頁から採録されたもの
と判断された。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
簿冊・学位授与 認可原義所
図 1. 『国立公文書館デジタルアーカイブ』の学位授与記録複写の例(簿冊 9・3 と小泉伸策の場合)
3-4. 『国立公文書館デジタルアーカイブ』の授与記
録の全体的な検討結果
3-4-1. 授与記録の構成
冒頭頁以降の学位授与記録が綴じられていて、複写
できないものは、図 3 に示されているように、
「綴じ
開かず」のラベルが添えられた冒頭頁のみの複写が国
立公文書館から送られてきたが、「綴じ開かず」の理
由やどのような状態で綴じられているのかという詳
細な説明は得られなかった。このような国立公文書館
付箋「綴じ開かず」付は 21 名、学位授与記録の途中
頁で同付箋が付されていたのは、2 名であった。
授与記録の構成を見ると、
1. 学長から文部大臣に対する認可申請書
2. 調書(教授会審議結果に当たる)
3. 論文目録
4. 主論文審査要旨
5. 履歴書
となっており、京都大学医学博士に関する文部省の学
位授与記録と比べると、
1. 大学の本人に関する調査書
2. 大学の本人に関する意見書
が添付されていない。
なお、2 堀威比古については、昭和 20 年 8 月 9 日
付の大東亜大臣から文部大臣に対して「学位授与認可
ニ関スル件」が発出されている。このことから、文部
- 11 -
図 2. 『国立公文書館デジタルアーカイブ』の学
位授与記録複写の例(143 倉井弘武の場合)
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
図 4. 143 倉井弘武の授与記録にのみ添付されて
いた申請書
図 3. 『国立公文書館デジタルアーカイブ』の
学位授与記録複写の例(103 川崎定夫の場合)
3-4-2. 論文目録
135 名の内 68 名は主論文 1 件のみで参考論文は無
く、図 5 のような論文目録の頁が 1 頁あるだけであ
った。
論文目録のある授与者中で軍関係の雑誌をあげて
いるのは 1 名のみでその雑誌名は『満洲帝国軍医団
雑誌』であった。
大臣による学位授与認可の裁定を待つばかりの状態
で、敗戦を迎えたことが分かった。
143 倉井弘武については、図 4 に示すような昭和
26 年 3 月 28 日付の元満洲医科大学長守中清名の
「申
請書」には備考があり、「本件ハ昭和 22 年当時満洲
医科大学学位規程関係ノ整理セラレ候鈴木直吉(当
時横浜医科大学教授)ニオイテ一括処理セラルベキ
トコロ処理、
洩レト相成候モノ也」と記されている。
さらに、学位授与者全員について見ると、表 3 に
示すように、学位論文題目の論文が掲載されている
学術雑誌などはが全く記載されていな者が 135 名あ
った。満洲医科大学の学位授与については、
「満洲医
4)
科大学規程適用ノ件」 によれば、
「満洲医科大学に
関しては大正 8 年文部省令第 11 号大学規程に依る但
し同令中文部大臣とあるは関東長官とす」とされ、
日本本国の学位令(大正 9 年 7 月 5 日勅令 200 号。
以下、学位令)5) が適用されることになっていた。
学位令では「第七条 学位ヲ授与セラレタル者ハ授
与ノ日ヨリ六月内ニ其ノ提出ニ係ル論文ヲ印刷公表
スヘシ但シ学位授与前既ニ印刷公表セラレタルモノ
ナルトキ又ハ文部大臣ニ於テ其ノ印刷公表ヲ相当ナ
ラスト認メタルモノナルトキハ此ノ限ニ在ラス」と
記されている。それにもかかわらず、掲載予定誌名
の記載や「文部大臣ニ於テ其ノ印刷公表ヲ相当ナラ
スト認メタルモノナル」という類の但し書きの付記
はこの 135 名について認めることができなかった。
表 3. 1941 年 4 月 28 日付で学位授与とされた満洲医
科大学授与記録 144 件(
『国立公文書館デジタルアー
カイブ』
)の特徴
項目
掲載誌名が無い
内、主論文 1 件のみで参考論文無
しの論文
135
68
論文目録中に軍関係掲載誌が有る
1
論文要旨が有る
7
履歴書が有る
144
内、軍歴記載が有る
- 12 -
件数
11
内、731 部隊所属歴が有る
1
731 部隊との関連性が濃
厚と推察される
1
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
また、143 倉井弘武については、墨書と邦文タイ
プ印字の 2 種類が添付され、昭和 18 年 5 月 1 日 陸
軍技師として現地任官・関東軍防疫給水部嘱託拝命
と記されていた。すなわち 731 部隊所属歴を有する
者が 1 名いた)
。
図 5.
論文目録の 1 例(138 新田平三郎の場合)
3-4-3. 論文要旨
表 2 に示すように、論文要旨があった学位授与者
数は 7 名であった。
学位令 5) には「第六條 大学ニ於テ学位授与ノ認
可ヲ申請スルトキハ論文及其ノ審査ノ要旨ヲ添付ス
ヘシ」とあり、満洲医科大学学位規程(昭和 7 年 8
月 23 日 社告第 45 号)6) には「第七條 調査委員
ハ一年以内ニ論文ノ要旨ヲ記録シ調査ノ結果ヲ教授
会ニ報告スルモノトス但シ特別ノ事情アルトハ教授
会ノ議決ニヨリ調査期間ヲ延長スルコトヲ得」とあ
る。
すなわち、以上の要件を満たしている学位授与記
録は、
『国立公文書館デジタルアーカイブ』上では、
144 件中 7 件しかない。
3-4-4. 履歴書
履歴書は、全員添付されていたが、多くは、図 6
に示す在学(在教室)証明のような書面で、学位申
請日までの履歴は記されていなかった。
履歴書に軍歴記載があった者が 11 名あった。
内、86 渡辺泰臣はその履歴から、731 部隊との関
連性が濃厚と推察された。すなわち、履歴書による
と、
「昭和 15 年 3 月 吉林省農安縣副縣長兼百斯篤防
疫所長ヲ命セラル」が最後の履歴として記され、賞
罰欄には。
「昭和 18 年百斯篤防疫ノ功ニ依リ特命監
察使ノ特賞ヲ受ク」「昭和 19 年百斯篤防疫ノ功ニ依
リ民政部大臣ノ表彰ヲ受ク」とある。
昭和 15 年 3 月は、金子順一の学位論文 7) で明
らかにされた農安における最初のペスト攻撃(昭和
15 年 6 月 4 日)
、高橋正彦による報告 8, 9) のある農
安のペスト流行が始まった昭和 15 年 6 月の直前であ
る。
図 6. 履歴書の 1 例(81 川崎定夫の場合)
3-5. 国立国会図書館サーチの結果
得られた複写物中の主論文題目で掲載誌の記載の
無い者については、国立国会図書館サーチで検索し
た結果、いずれの者についても「一致するデータは
見つかりませんでした」という結果であった。
3-6. 『国立公文書館デジタルアーカイブ』授与記録
の論文内容に関する検討結果
論文題目、履歴書より掲載誌のレビューが必要と
思われる授与者 5 名について、表 4 に授与者別に論
文題目(表 1 より再掲)、論文要旨の有無、国会図書
館所蔵の有無、論文目録における掲載誌名の有無、
履歴書における詳細な履歴の有無を示す。
3-7. レビューが必要と思われる授与者の授与記録
表 4 に示すように 7 名中の 2 名(103 川崎定夫、
138 新田平三郎)は表に示す以上の詳細は授与記録
から得られない。
30 陣内六郎は論文審査要旨がないので、
論文目録
によるしかないが、それには論文題目にチフスが含
まれる雑誌名として、主論文については満洲医学雑
誌 41(3)、参考論文については同 39(2)、日本医学及
健康保険 3279 号、3288 号、東京医事新誌 3191 号が
- 13 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
あった。
69 林千冬の論文審査要旨によると、在満ロシア人
児童、哈爾濱国民学校男女合計 200 名、18 歳から 25
歳の在満白系ロシア人 454 名の口腔調査成績に関す
るものであった。
78 木村隆も論文審査要旨がないので、論文目録に
よるしかないが、それには論文題目にチフスが含ま
れる雑誌名として、主論文については満洲医学雑誌
39(6)、41(6) 、参考論文については 40(6) があった。
86 渡辺泰臣も論文要旨がなく、図 7 に示すように
掲載誌情報が記されていない論文目録しかない。副
論文には「ペスト発生ニ及ボス季節的影響ニ就イテ」
「ペスト自然治癒患者ノ年齢別統計」
「ペストニ対ス
ル『トリアノン』衝撃療法」
「農安縣ニ於ケル連続 5
ヶ年間ノ職業別死亡統計」があった。副論文 4 の題
目には用語「ペスト」は含まれないが、当時の農安
縣の疫学調査結果の恥部であるから疾病には「ペス
ト」も含まれていたと考えるのが自然であろう。
143 倉井弘武の論文審査要旨は、
「発疹チフス、リケッチャノ生物学的研究
本論文ハ 2 篇ヨリナル。即テ第 1 篇ニ於テハ発疹
チフス病毒ノ最小感染量ニ就キ詳細ナル考察ヲ試ミ、
第 2 篇ニ於テハ同病毒ノ各種理化学的影響ニ対スル
抵抗力ニ就キ論セリ」と冒頭に述べ、17 項目ノ要旨
ヲ記シ、最後に「病毒可及的純粋ニ取出スベク」
「材
料ヲ凍結、融解シ所謂純化病毒トナシ而モ実験動物
トシテ発疹チフス病毒ニ対シ最も感受性高キハタリ
スヲ使用セル点従来ノ業績ニ其ノ例ヲ見サルモノニ
シテ発疹チフス研究上新知見ヲ加エタルモノト言ウ
ヘシ」と述べている。
主論文は満洲医学 39(2)、39(4)に、参考論文 5 編
については全て発疹チフスに関する著で、掲載誌は
日本医学及健康保険 3140 号、3142 号、3179 号、3188
号、満洲医学雑誌 39(1)であった。
図 7. 86 渡辺泰臣の論文目録
表 4. 論文題目、履歴書より掲載誌のレビューが必要と思われる授与者
通
番
授与者氏名
論文題目
論
文
要
旨
30
陣内 六郎
69
林 千冬
発疹チフスに関する研究、第
十五報、広義発疹チフス病毒
の形変異に関する研究(両型病
毒相互変異循環説の提唱
露西亜人口腔の人種解剖学的
研究
78
木村 隆
86
渡辺 泰臣
チフス症に於ける菌座に関す
る研究
ペスト菌主の越年に関する実
験的研究
腸チフス免疫の形態学的研究
発疹熱及発疹チフス病毒に対
する「ゼネシキヌゲネズミ」
及「モウコハツカネズミ」の
感受性に関する実験的研究
発疹チフスに関する研究
103
138
川崎 定夫
新田 平三郎
143
倉井 弘武
掲
載
誌
名
履
歴
注目すべき履歴
無
国
会
図
書
館
所
蔵
無
有
有
昭和 16 年 5 月 1 日 微生教室へ
2 ヶ年間留学
有
無
有
有
無
無
有
有
昭和 19 年 7 月 満州国陸軍軍医
学校歯科教官兼診療部歯科診療
主任
病理学教室(稗田、藤波)
無
無
無
有
無
無
無
無
無
無
無
無
有
無
有
有
- 14 -
昭和 15 年 3 月 吉林省農安縣副
縣長兼百斯篤防疫所長
病理学教室(稗田)・助手/助教授
細菌学教室(北野)
微生物学教室研究生、昭和 18 年
5 月 1 日 陸軍技師として現地任
官・関東軍防疫給水部嘱託拝命
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
4. 満洲医科大学の沿革
本調査で明らかになった満洲医科大学に関する主
な出来事を、日本社会医学会において発表した「満
洲医科大学の沿革」に関する表に、下線付きで追記
したのが表 5 である。
表 5. 満洲医科大学の沿革(作成 2015 年 8 月 31 日)
年月日
関連する出来事
1905 年 9 月 26 日 関東総督府勤務令
1911 年 6 月
満鉄(南満洲鉄道株式会社)
が南満医学堂を奉天(現瀋陽)
に設立
1922 年 5 月
満州医科大学に改称
1923 年 4 月 1 日
「満洲医科大学規程適用ノ
件」制定
1932 年 3 月 1 日
満洲国設立
8 月 23 日 満州医科大学学位規程制定
1934 年 1 月
『満洲医科大学一覧』刊行
1945 年 8 月 15 日 日本がポツダム宣言を受諾。
10 月
八路軍: 接収
11 月
ソ連軍: 中長鉄路医科大学
9月2日
日本政府及び連合国代表が降
伏文書に調印
1946 年
国立鉄路医学院、4 月中華民
国国立瀋陽医学院
(文部省:4 月 29 日を以て中
国側の管理)
1947 年
横浜市立大学残務整理事務所
(学位一括処理)
1948 年 3 月
第 2 回国立瀋陽医学院(第 21
回満洲医大)卒業式
8月
全日本人職員帰国
11 月
中国医科大学へ統合
5. 考察
5-1. 『日本博土録』から抽出された戦後の満洲医科
大学に関する医学博士の学位者数は 144 名であり、
その内の 143 名は、1946 年 4 月 28 日を超えてから
学位授与認可の手続きが進められたにもかかわらず、
同日が学位授与認可日とされたことが判明した。今
後、1946 年 4 月 28 日授与とされる前の手続きにつ
いて授与記録をさらに詳細に検討し、実態を明らか
にしなければならないと考える。
5-2. 多くの学位授与者の論文目録は、主論文題目の
みで、掲載誌名が記載されていない、履歴書上の履
歴も在学証明の類のものであるなどなど、学位令、
満洲医科大学学位規程を満たしておらず、国立国会
図書館の博士論文としては所蔵されていなかったこ
とから、731 部隊やその他の非人道的研究に関連す
ると思われる学位授与者は 2 名、すなわち、86 渡辺
泰臣と 143 倉井弘武のみであった。
86 渡辺泰臣については、掲載誌名は無いが、論文
目録と履歴と総合すると、金子順一が記した「ペス
ト攻撃」直前から敗戦年迄の 5 年間、農安縣長兼百
斯篤防疫所長として、に纏わる学位論文と考えられ
る農安縣における 731 部隊による「ペスト攻撃」と
その後のペストの流行の疫学的追跡を行ったのでは
ないかと考えられる。
143 倉井弘武は履歴書から 731 部隊嘱託であるこ
とが明らかとなった。学位論文そのものは発疹チフ
スに関する動物実験を主とするものであり、論文審
査要旨からは非人道性について示唆されるものはな
い。彼の場合は、掲載誌名が記載された論文目録が
提出されているので、今後それらのレビューが必要
と思われる。
以上の 2 名は、陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部
データベースの検索でヒットせず、戦後の動静につ
いても、国立国会図書館やインターネットの検索で
もヒットせず、不明である。
5-3. 多くの学位授与者について、学位審査結果要旨
や詳細な論文目録、履歴書が国立公文書館の学位授
与記録に収蔵されていなかった。また、学位論文は
国立国会図書館には収蔵されていなかった。このこ
とから第 1 の可能性として、かかる文書は元来存在
しなかったことが考えられる。しかし、学位令 5) に
は「6. 大学において学位授与の認可を申請するとき
は、論文及びその審査の要旨を添附しなければなら
ない」と規定されており、いくら戦後の混乱期とい
えども、学位令 5) に反する学位授与認可がなされた
とは考えにくいとも言える。
143 倉井弘武について、昭和 26 年 3 月 28 日付の
元満洲医科大学長守中清名の「申請書」の備考に「本
件ハ昭和 22 年当時満洲医科大学学位規程関係ノ整
理セラレ候鈴木直吉(当時横浜医科大学教授)ニオ
イテ一括処理セラルベキトコロ処理、洩レト相成候
モノ也」と記されていたことなどから、満洲医科大
学の学位授与認可過程において、所定の物が散逸し
たかもしれないということも考慮していたほうがよ
いであろう。その点で、文部科学省だけでなく、鈴
木直吉(横浜医科大学教授)や横浜医科大学の後身
である現横浜市立大学について今後調査が必要であ
ろうと考えられる。
また、満洲医科大学図書館の図書については、現
中国医科大学(瀋陽)に継承されており、著者も参加
した 15 年戦争と日本の医学医療研究会「戦争と医学」
訪中調査団が短期調査を行ったところであるが、学
位授与関係までは及ばなかった。その意味で、同図
書の調査も今後の課題としてあげられるだろう。末
永は「旧満洲医科大学の歴史―医学研究医療活動教
育―」において、卒業生の戦後の日本での大学教授
在任者についても姓名を挙げて言及している。そこ
には鈴木直吉はないが、学位授与者と同姓同名の者
として梶本義衛はある。同一人であるかどうかは、
今後の検討課題としたい。
5-4. 京都大学の医学博士の学位授与過程の調査で、
731 部隊所属歴などを持つ者の中には戦後も学位授
与がなされていることを明らかにする過程で、京城
帝国大学医学部、満洲医科大学、台北帝国大学医学
部の戦後の医学博士の学位授与にも着目すべきと考
- 15 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
え、調査研究を行ってきた。前述の末永 12) は主に戦
中の満洲医科大学について論じているが、学位授与
には言及していない。731 部隊長を務めた北野政次
が満洲医科大学細菌学教授であったことや末永の
「満州医大解剖学教室は、生体にメスを入れ『新鮮
な脳』を素材にした。植民地人の身体を支配者がい
わば、資源のように利用する。ここに帝国医療の極
北がある。犠牲となった中国人は関東軍憲兵隊によ
って移送された。大学の研究者と憲兵隊とのつなが
りに関しては具体的実態の解明が今後必要である」
という指摘を考慮すれば、本稿が目的とした戦争加
担の史実を解明するためには、戦前の学位授与記録
についての調査研究も今後必要と考えられる。
November, 2015
9)
10)
11)
12)
5-5. 「1931 年 9 月 18 日、柳条湖事件に端を発して
満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領され
る。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国か
らの独立を宣言し、1932 年 3 月 1 日の満洲国建国に
至った」などと日本では言われているが、中国では
「偽満州国」
「偽満」と呼ばれてきた。本調査では、
学位授与認可の行政面でも、日本の文部大臣により
執行がなされていることが明らかとなった。このこ
とから、1940 年の満洲医科大学初の学位授与以来の
戦中の学位授与記録についての今後の検討は、日本
の傀儡としての満州国の実態の解明に役立つかもし
れないと言えよう。
文献
1) 西山勝夫: 日本の侵略先に設置された大学にお
ける医学博士の学位授与. 社会医学研究 第 55
回日本社会医学会総会講演集, 63-64, 2014.
2) 西山勝夫: 京城帝国大学医学部の博士学位の授
与について 物江敏夫朝鮮軍管区防疫部長の場
合. 本誌 15(2), 13-23, 2014.
3) 能勢岩吉編『日本博土録』第 1 巻, 教育行政研
究所, 1962.
4) 満洲医科大学: 満洲医科大学規程適用ノ件(大
正 11 年 4 月 1 日 関東庁令第 18 号)
. 満洲医科
大学一覧(昭和 9 年 1 月) pp21-22.
5) 学位令((大正 9 年 7 月 6 日). 満洲医科大学一
覧(昭和 9 年 1 月) pp22-23.
6) 満洲医科大学学位規程(昭和 7 年 8 月 23 日 社
告第 45 号). 満洲医科大学一覧(昭和 9 年 1 月)
pp37-38.
7) 金子順一: PX ノ効果略算法. 陸軍軍医学校防疫
研究報告 1(60), pp1-27, 1943.
8) 高橋正彦: 昭和 15 年農安及新京ニ発生セル「ペ
スト」流行ニ就テ 第 1 編 流行ノ疫学的観察
13)
(其ノ 1) 農安ノ流行ニ就テ. 陸軍軍医学校防
疫研究報告 2(514), pp1-18, 1943.
高橋正彦: 昭和 15 年農安及新京ニ発生セル「ペ
スト」流行ニ就テ 第 1 編 流行ノ疫学的観察
(其ノ 2) 新京ノ流行ニ就テ. 陸軍軍医学校防
疫研究報告 2(515), pp1-32, 1943.
15 年戦争と日本の医学医療研究会: 「戦争と医
学」訪中調査団記録. 15 年戦争と日本の医学医
療研究会会誌 5(1), 2004.
15 年戦争と日本の医学医療研究会: 「戦争と医
学」第 2 次訪中調査団記録. 15 年戦争と日本の
医学医療研究会会誌 5(2), 2005.
末永恵子: 旧満洲医科大学の歴史―医学研究医
療活動教育―. 同上 5(2), 2005.
Wikipedia: 満州国.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%
E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
本稿の一部は、日本社会医学会(2014 年 7 月 13
日)ならびに 15 年戦争と日本医学医療研究会(2015
年 3 月 15 日)において口頭発表した。
本研究の一部は平成 25~27 年度科学研究費補助
金[基盤研究(B)]「感染症政策における患者の人権保
障―日中諾法制比較調査」
(研究代表者・鈴木静・愛
媛大学法文学部准教授、課題番号 25285017)の助成
を受けて行った。
著者プロフィール
西山 勝夫(にしやま かつお)
関西医大衛生学助手、滋賀医大予防医学助手・助教
授・教授を経て名誉教授。スイス連邦立工科大学労
働生理学衛生学研究所及び米国ジョンズホプキンス
大学公衆衛生学部に留学。専門:社会医学、労働衛
生学。所属学会:米国公衆衛生学会、日本産業衛生
学会、日本社会医学会、日本科学者会議等。
「戦争と
医の倫理」の検証を進める会代表世話人、日本科学
者会議滋賀支部代表幹事、大阪労災職業病対策連絡
会会長、働くもののいのちと健康を守る滋賀県セン
ター理事長、15 年戦争と日本の医学医療研究会編
『NO MORE 731 日本軍細菌戦部隊』(文理閣, 2015
年 8 月 15 日)の編集責任者:西山勝夫、
『戦争と医の
倫 理 』 英 語 版 の 共 同 編 集 KOJIMA Somei,
NISHIYAMA Katsuo (eds): Collections of Panels WAR
AND
MEDICAL
ETHICS
Participation
and
Responsi-bility of the Japanese Medical Researchers and
Physicians for the Fifteen Years’ War(三恵社, 2015 年 8
月 15 日)
- 16 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
表 2. 名簿: 戦後における満洲医科大学の学位授与者別学位論文論題名、『国立公文書館デジタルアーカイブ』及び『日本博士録』の検索結果
通番 授与者氏名 学位論文題目
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
検索結果
簿冊番 請求 件名 学位授与 文書番号
号 番号 番号
1 矢野四郎
2 堀威比古
楠物神経ト胞細内細菌吸収トノ関係
頸胸部交感神経部切除並ニ迷走神経部切除ノ肺血液瓦斯代謝ニ及ホス影響ニツイテノ
実験
3 小泉伸策
満洲に於ける妊産婦の栄建持に母体栄養が胎見の発現に及ぼす影響
第三報胎盤に於ける「マグネシウム」並に「カリウム」含有量に就て
4 大西喬
諸種化学薬品の胎児発育に及ぼす影響(第一報)「ズルブオンアミド」剤の胎生組織に及ぼす影響に
関する実験的研究
5 梶本義衛
アドレナリンの家兎動脈血圧上昇機転に就て
6 大杉百合夫 「レ」線照射による局所性免疫力の増強に関する研究
7 佐藤優剛
満州に於ける健康者及び結核患者のビタミンC代謝
8 翠英賢
打撲白内障の発生織転に関する実験的研究
9 浜田豊博
「発疹チフス」に関する研究
10 伊藤英策
北満農村に於ける一酸化炭素中毒予防に関する研究
11 鄭信章
基礎液投与の血球フォオスフフオターゼ」反応に及ぼす影響に就て、特に血球の適応酵素について
20・25 341
20・25 341
13
30
『日本博士録』掲載箇所
出身校・本籍
頁 段 順 卒業
本籍
年月日
S20.9.21 学専200 391
S20.9.24 官専第39 391
3 12 慶大
福島
21・9 601 002 S21.4.28
18 412
3 13 満洲
香川
3 14 満洲
3 15 満洲
1 1 満洲
1 2 満洲
1 3 満洲
1 4 満洲
1 5 満洲大
附属専
門部
1 6 満洲大
附属専
門部
1 7 満洲大
附属専
門部
1 8 満洲大
附属専
門部
1 9 満洲
1 10 南満医
学堂
1 11 満洲
1 12 満洲
1 13 満洲
1 14 満洲
2 1 満洲大
附属専
門部
2 2 南満医
学堂
広島
山口
広島
静岡
福岡
長野
中華民国
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
601
601
601
601
601
601
601
003
004
005
006
007
008
009
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
18
18
18
36
153
153
143
412
412
413
413
413
413
413
21・9 601 010 S21.4.28
143 413
13 高全立
華北人小脳皮質の細胞構成について
21・9 601 011 S21.4.28
143 413
14 楊学志
満州に於ける妊産婦の栄養特に母体の胎児発育に及ぼす影縛に就ての研究、特に季節的影響に就
て
21・9 601 012 S21.4.28
143 413
15 朱逢春
16 郭文泰
変温脊椎動物に於ける「フオスファターゼ」反応研究
満洲農村に於ける漢民族の精神医学的研究
21・9 601 013 S21.4.28
21・9 601 014 S21.4.28
143 413
143 413
ビタミンB複合体の研究
瘰(甲状腺腫)の史的研究
膠様珪酸の連続投与に際する血液像
Phoaphaamidaseの組織学並に化学的研究
塗布剤の薬理学的研究特に血液像に就て
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
143
143
143
143
143
支那に於ける砒素剤の研究
21・9 601 020 S21.4.28
22 馬楊武
- 17 -
京都
大分
18 412
乳幼児「トラコーム」の発生に関する研究
張鳳書
魏如恕
黄順記
章栄凞
廖泉正
1 満洲
1 満洲
21・9 601 001 S21.4.28
12 夏徳昭
17
18
19
20
21
1
3
601
601
601
601
601
015
016
017
018
019
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
413
413
413
413
413
143 413
中華民国
中華民国
中華民国
中華民国
中華民国
中華民国
中華民国
中華民国
中華民国
中華民国
中華民国
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
通番 授与者氏名 学位論文題目
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
検索結果
簿冊番 請求 件名 学位授与 文書番号
号 番号 番号
『日本博士録』掲載箇所
出身校・本籍
頁 段 順 卒業
本籍
年月日
23 閻家樹
中国人に検出せる大腸菌属の菌型分類的考察並に同菌属に検出せる「サルモネラ」菌属O抗に就て
21・9 601
021
S21.4.28
143 413
24 李紹唐
25 野田久雄
概熱飽温環境下長時間在時の人体温調節に関する研究
神経軸策成分検出法の新法を用いて観察した歯齦の神経分布に関する研究補遺
21・9 601
21・9 601
022
023
S21.4.28
S21.4.28
143 413
153 413
26 占部博
組織の放射線感受性に関する生化学的研究、レ線及び超短波の悪性腫瘍水分並びに燐代謝に及
ぼす影響、特に超短波のレ線感受性に及ぼす影響
読書と照朗
組織の放射線感受性に関する生化学的研究
眼険圧迫による角膜乱視成立に就て
発疹チフスに関する研究、第十五報、広義発疹チフス病毒の形変異に関する研究(両型病毒相互変
異循環説の提唱
病原性皮膚絲状菌に関する研究
寒冷負荷並に其負荷時に於ける各種ビタミンの組織呼吸に及ぼす影縛
満洲生満洲育邦人健体小児の発育
熱河地方病性甲状腺胞の心臓に関する研究
地方病性甲状腺腫患者の体質病理、特に歯牙の研究
「カロチン」大最連続投与に関する実験的研究
21・9 601
024
S21.4.28
21・9
21・9
21・9
21・9
601
601
601
601
025
026
027
028
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
601
601
601
601
601
601
色に関する研究
27
28
29
30
高木恭造
江口慶之
野村穆
陣内六郎
31
32
33
34
35
36
福田忠
沢井祥二
周防友彌
冨岡恒男
荒川幸喜
西村秀美
37 藤巻快教
38
39
40
41
前田勝和
杉立厚
浜本定夫
庄司統一
42 天瀬文蔵
43
44
45
46
山田肇
馬場進
金子逸四
中野亨
47 大島敦智
48
49
50
51
片山竜男
衛藤馨
山本淳次郎
高淵久男
中華民国
36 411
3 満洲大
附属専
門部
2 4 満洲
2 5 九州歯
科医専
3 14 満洲
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
36
36
36
36
411
412
412
412
3 15 満洲
1 1 満洲
1 2 満洲
1 3 満洲
青森
福岡
山口
福岡
029
030
031
032
033
034
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
36
36
38
323
323
323
412
412
412
412
412
412
1
1
1
1
1
1
21・9 601
035
S21.4.28
323 412
1 10
眼精疲労に関する研究
肺炎並に膿胸に関する研究
蝿蛆療法に関する研究
角膜染色の著色持続性に関する研究
21・9
21・9
21・9
21・9
601
601
601
601
036
037
038
039
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
323
323
5
5
1
1
1
1
人体公感神経節切除及び同神経節酒精注射が発汗機能並びに表在血行に及ぼす影欝に就ての研
究
トリニトロオール中毒の病理解剖学的変化に就て
日満学生、生徒、児童の屈折異常特に近視に就て
痘瘡の疫学的並に臨床学的観察
心筋障碍を主徴とせる満州地方病(克山病)に関する臨床的研究、満洲医科大学内科学教室克山病
発生地帯住民並に克山病患者の血液像の研究
臓器病変と臓器珪酸
21・9 601
040
S21.4.28
21・9
21・9
21・9
21・9
601
601
601
601
041
042
043
044
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
21・9 601
045
S21.4.28
153 413
2
温血動物に於けるフオスフオターゼ反応の研究
満洲に於ける学童の口角炎に関する研究
「フオスファターゼ」の組織化学的研究
ヂフテリー毒素の解毒に関する研究
21・9
21・9
21・9
21・9
046
047
048
049
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
153
153
194
194
2
2
2
2
- 18 -
601
601
601
601
412
412
412
412
5 412
5
38
38
38
412
412
412
412
413
413
411
411
2
4
5
6
7
8
9
11
12
13
14
1 15
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
京城歯
科医専
日本医
学校
満洲
満洲
満洲
高槻高
等医専
満洲
1 16 満洲
2 1 満洲
2 2 満洲
2 3 満洲
6 南満医
学堂
7 満洲
8 満洲
10 記入無
11 記入無
中華民国
長崎
広島
兵庫
香川
東京
福岡
福島
長野
東京
東京
東京
和歌山
宮城
愛知
東京
広島
愛知
福井
鹿児島
福井
熊本
静岡
記入無
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
通番 授与者氏名 学位論文題目
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
検索結果
簿冊番 請求 件名 学位授与 文書番号
号 番号 番号
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
村田武夫
椛島春雄
久保不可止
福原澄雄
浅見望
佐藤文比古
海塚伝三郎
宮尾啓
野瀬善勝
大原信次郎
広瀬雅一
三島昌平
大沢義明
65
66
67
68
天河俊雄
岩田正道
和田信夫
五十嵐稔
69 林千冬
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
菱沼重郎
柏木胖
森畑宗彦
熊田正春
中沢治右
江島一郎
大内正太郎
尾形重直
木村隆
上村吉郎
80 小野亨
81 松岡義行
82 稲井鉄鳴
『日本博士録』掲載箇所
出身校・本籍
頁 段 順 卒業
本籍
年月日
伝染病の肝機能に関する知見補遺
満洲に於ける赤痢菌の分類学的研究
作業と照明
非サポニン法疾剤の作用機転並に其の分類について
豚コレラ菌毒性物質の研究
結核菌の抗酸性脱却について
家兎に於ける雌性器の「フオスファターゼ」反応について
塗布剤「金冠」の薬理学研究
満洲人の体格と地努、土壊並に栄養との関係
炕暖房時の快感帯について
胸部交感神経節酒精注射法を施行せる頸部結核性淋巴腺炎の治験について
人歯の熱伝導に関する研究
満洲に於ける産婦の影響について、特に母体の発育が母体に及ぼす影響、特に「ビ」Aの含有量につ
いて
小児科領域より見たる満洲に於ける「サルモネラ」症に関する研究
気道狭窄による窒息状態について
珪酸代謝と内分泌腺
北支那人大脳皮質、特に帯回転の皮質構成について
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
21・9
601
601
601
601
601
601
601
601
601
601
601
601
601
050
051
052
053
054
055
056
057
058
059
060
061
062
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
194
194
194
194
194
194
194
194
194
194
194
194
194
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
21・9
21・9
21・9
21・9
601
601
601
601
063
064
065
066
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
194
194
186
216
411
411
411
411
露西亜人口腔の人種解剖学的研究
21・9 601 067 S21.4.28
低酸素血状態並に諸条件下の心臓及諸臓器「チトクローム」量の態度
寒冷並に諸種薬毒物の白鼠諸臓器組織酸化能に及ぼす影響
フオスブアターゼの組織化学的力価定量法に就て
蒙古の「ペレンチ」に就いて
カシンベック氏病患者の血液像、殊に中性嗜好白血球の核型に就いて
爆風に因る聴器損傷
肝臓レ線照射による免疫学的影響についての実験的研究
満洲に桃山けるSALMONELLA菌属の伝染源に関する調査研究
チフス症に於ける菌座に関する研究
菌座に関する研究
21・10
21・10
21・10
21・10
21・10
21・10
21・10
21・10
21・10
21・10
青年義勇隊訓練生に於ける結核の感染及び発病に関する観察
満州こ於ける妊産婦の栄養、特に母体栄養が胎児発育に及ぼす影響に就ての研究
人類歯牙神経分布に関する研究補遺
21・10 611 011 S21.4.28
21・10 611 012 S21.4.28
21・10 611 013 S21.4.28
- 19 -
611
611
611
611
611
611
611
611
611
611
001
002
003
004
005
006
007
008
009
010
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
216 411
38
38
38
5
13
13
13
13
13
13
412
412
412
412
412
412
412
412
412
412
13 412
13 412
13 412
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
福岡
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
記入無
3 9 記入無
3 10 記入無
3 11 満洲
3 12 日本歯
科医専
3 13 東京高
等歯科
医学校
412 4 満洲
412 5 満洲
412 6 満洲
412 7 満洲
2 8 満洲
2 9 満洲
2 10 満洲
2 11 満洲
2 12 満洲
2 13 日本大
学専門
部歯科
2 14 満洲
3 1 満洲
3 2 九州歯
科医専
記入無
記入無
和歌山
福島
2
2
2
2
2
3
3
3
3
3
3
3
3
12
13
14
15
16
1
2
3
4
5
6
7
8
東京
山形
兵庫
和歌山
長野
山口
長崎
岐阜
東京
和歌山
熊本
新潟
熊本
広島
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
通番 授与者氏名 学位論文題目
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
検索結果
簿冊番 請求 件名 学位授与 文書番号
号 番号 番号
『日本博士録』掲載箇所
出身校・本籍
頁 段 順 卒業
本籍
年月日
83 岩崎堅三
21・10 611 014 S21.4.28
73 412
3
84
85
86
87
頸胸部交感神経節切除並に迷走神経頸部切除が家兎気道気道内抗元排泄に及ぼす影響に関する
実験的研究
辻正一
核酸構造の研究
森薫
Formol-Gel反応に就て
渡辺泰臣
ペスト菌種の越年に関する実験的研究
小林喜久雄 所謂回族の体質人類学的研究
21・10
21・10
21・10
21・10
54
54
54
54
3
3
3
3
88 加藤悠太郎 肺実質解糖酵素作用に関する研究
89 岡崎平一
色視野、特に其臨床的意義に関する研究
90 武内忠男
塗抹標本に於ける血液ブオスファタ1ゼの顕微化学的証明方法の考察並に本法によるフオスファター
ゼ反応に就て
91 川崎正巳
満洲の糖蚊属(俗称ブト)刺螫症に関する研究
92 中田徳三
北支那人の解剖統計学的研究
93 河内健治
高温の生体内ビタミンAの消長に及ぼす影響に関する実験的研究
94 佐敷可也
蠍の研究
95 太田義弘
満洲産食品中の「ビ」A含有量並に北満洲に於ける開拓及原住民の「ビ」摂取量について
96 安井修一
満洲産畑リスの冬眠に関する研究
97 近藤武
猿の橋髄及延髄の形態について
98 竹中義一
北支那人大脳皮質特に側頭部及近接異種皮質の細胞構成学的研究
99 村上新太郎 満洲における家屋の換気暖房に関する街生学的研究
100 本幡正文
諸種要約下に於ける血液及局所皮膚中の鉄質含有廷に関する実験的研究
101 篠塚房次
在満蒙古族の人口生態に関する研究
102 永田捷一
満洲開拓農民家屋の研究
103 川崎定夫
腸チフス免疫の形態学的研究
104 永田輝一
低酸素血状件並に寒冷負荷心筋及其他諸臓器の組織酸化態に及ぼす影響
105 福井忠英
組織の放射線感受性に関する生化学的研究
106 大藤安登
組織の放射線感受性に関する生化学的研究、特に鶏胎子の糖代謝に及ぼす影響について
107 前原裕
満洲産畑栗鼠の冬眠に関する皮膚泌尿器科学的研究
108 安武貞雄
所謂心筋瘢痕の形成について
109 笠原源四郎 低酸素状態及其他条件に於ける心臓及諸臓器の糖原量について
110 江刺家敏男 「カシンベック」氏病患者の筋「クロナキシー」に関する研究
111 二木正夫
二酸化炭素の作用発現域に関する実験的研究
112 栗原春雄
満洲壮丁の体格に関する統計学的研究
113 間瀬幸治
満洲(大連市)に於ける小児結核の研究
114 高木斌
皮膚科頭妓に於ける「グルタ手オン」の研究
115 長沢正憲
内科領域よりせる満洲に於ける「サルモネラ」菌属症の臨床的並に細菌学的研究
116 尾崎吉助
凍傷に関する病理学的研究
21・10 611 019 S21.4.28
21・10 611 020 S21.4.28
21・10 611 021 S21.4.28
117 坂本賢二
21・11 621 026 S21.4.28
人体に於ける「ビ」A特に「カロチン」の吸収に関する研究
- 20 -
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
611
611
611
611
611
621
621
621
621
621
621
621
621
621
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621
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621
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621
621
621
621
621
621
015
016
017
018
022
001
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010
011
012
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015
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019
020
021
022
023
024
025
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
412
412
412
412
54 412
54 412
18 412
18
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
190
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190
190
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190
153
412
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
411
413
153 413
3 満洲
香川
満洲
満洲
満洲
岩手医
専
3 8 満洲
3 9 満洲
3 10 満洲
愛知
佐賀
大分
福島
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
満洲
南満医
学堂
2 12 満洲
茨城
兵庫
栃木
兵庫
広島
滋賀
新潟
奈良
熊本
大分
茨城
岐阜
茨城
長崎
岐阜
広島
鹿児島
福岡
岡山
北海道
岐阜
広島
愛知
山口
静岡
長野
3
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
2
2
2
2
2
2
2
2
2
2
4
5
6
7
11
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
1
2
3
4
5
6
7
8
9
11
東京
熊本
大分
山梨
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
通番 授与者氏名 学位論文題目
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
検索結果
簿冊番 請求 件名 学位授与 文書番号
号 番号 番号
年月日
実験的ガラクトーゼ白内障の研究
肺の血液還元グルタチオンに対する態度に就て
無唾液腺症の骨発育に及ぼす影響
満洲産蔬菜並びに可食野生草の灰分研究
腫瘍組織浸出液の示す補体結合反応の吟味
廻転斜位に就て
カシンベック氏病患者の乳酸代謝に関する研究
組織の放射線感受性に関する生化学的研究
ロダン加里の眼内移行に関する研究
抗山羊乳貧血因子「Plerin」の研究
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
弗素投与動物並にカシシベック氏病息者の骨弗素含量測定成績について
人流感病毒に関する実験的研究
華北人科円髄の細胞構成について
21・11 621 037 S21.4.28
21・11 621 038 S21.4.28
21・11 621 039 S21.4.28
186 410
186 410
186 410
ホルモンと諸臓器フオスファターゼ
満洲に於ける鼠チフス菌の分類学的研究
慢性弗素中毒に因る血液像の変化
人体弗素代謝に関する研究
青年義勇隊訓練生の栄養及其改善に関する調査研究
呼吸運動特に波動状周期性呼吸に関する研究
交感神経節切除並に迷走伸経切除の「フオスフアターゼ」反応に及ぼす影響に関する
組織化学的研究
138 新田平三郎 発疹熱及発疹チフス病毒に対する「ゼネシキヌゲネズミ」及「モウコハツカネズミ」
の感受性に関する実験的研究
139 三田 利亮
満洲に於ける「テタニー」発生に関する調査並に実験的研究
140 洪宝源
カシンベツク氏病ノ治療ニ関スル臨床的研究
141 周宗岐
地方病性斑状歯ニ就テ特ニ満洲ニ於ケル該病ノ分布状態
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
21・11
186
190
190
190
190
190
190
142 矢吹俊男
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
景崇徳
山蔦海
野島武夫
是枝正治
森岡実太郎
木下昌樹
北里亨
中田庄次郎
児玉洋二
田上喜也
『日本博士録』掲載箇所
出身校・本籍
頁 段 順 卒業
本籍
128 田辺正人
129 森田丁
130 庄司剛
131
132
133
134
135
136
137
馬渡寛
山下勇
宮永主基男
馬場博
坂上清
山口秀麿
染川清
621
621
621
621
621
621
621
621
621
621
621
621
621
621
621
621
621
027
028
029
030
031
032
033
034
035
036
040
041
042
043
044
045
046
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
S21.4.28
153
153
153
153
153
153
186
186
186
186
413
413
413
413
413
413
410
410
410
410
410
410
410
410
410
410
410
2 13 満洲
2 14 満洲
2 16 満洲
3 2 満洲
3 3 満洲
3 4 満洲
1 1 満洲
3 1 満洲
3 2 満洲
3 3 日本大
学専門
部歯科
3 4 満洲
3 5 満洲
3 6 岩手医
専
3 7 熊本
3 8 満洲
3 9 満洲
3 10 満洲
3 11 満洲
3 12 満洲
3 13 満洲
中華民国
東京
熊本
鹿児島
三重
福岡
熊本
広島
広島
千葉
島根
香川
岩手
佐賀
広島
石川
長崎
兵庫
長崎
台湾
21・11 621 047 S21.4.28
190 410
3 14 満洲
愛媛
21・11 621 047 S21.4.28
21・30 811 021 S21.4.28
21・30 811 022 S21.4.28
190 410
279 413
279 413
山口
中華民国
中華民国
人体ノ不感蒸世ノ策、気暴露ニ因ル変動
21・30 811 023 S21.4.28
279 413
143 倉井弘武
発疹チフスに関する研究
21・30 811 027 S21.4.28
国大179 413
144 金斗鐘
漢法解剖学の研究
21・30 811 028 S21.4.28
国大179 413
3 15 満洲
2 15 満洲
3 1 満洲歯
科師検
定合格
3 5 南満医
学堂
2 9 大阪高
医専
2 10 京都府
立医専
請求番号については、本館-3A-023-01-昭 49 文部-、下 2 桁の 00 を略し、文書番号については、第、号を略し、番号のみの場合は「博学専」も略してある。
- 21 -
福島
栃木
韓国
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November,2015
ヘルシンキ宣言の成立
土屋 貴志
大阪市立大学大学院文学研究科
The Formation of the Declaration of Helsinki
TSUCHIYA Takashi
Department of Philosophy, Osaka City University
要旨:今日の研究倫理においてバイブルのごとく参照される「ヘルシンキ宣言」は世界医師会が 1964 年に採
択した文書である。1947 年に設立された世界医師会は、当初からナチスの医学犯罪の衝撃に対応することを
迫られ、1948 年にジュネーヴ宣言、1949 年に国際医療倫理綱領を採択するが、肝心の医学研究倫理に関する
「ヘルシンキ宣言」を採択するまでには 17 年もかかった。
本稿はその紆余曲折した過程を粗描するとともに、
ヘルシンキ宣言の初版が、製薬業界と結びついた米国の強い影響の下に、被験者(研究対象者)の保護条項
を弱めたものとして成立したことを報告する。
キーワード Keywords: ヘルシンキ宣言 the Declaration of Helsinki、世界医師会 World Medical Association、医
学研究倫理 Ethics of Medical Research、人体実験 Human Experimentation
1. 世界医師会の結成 1)
はじめに
「ヘルシンキ宣言」は世界医師会が 1964 年にヘル
世界医師会は各国を代表する医師会をメンバー
シンキで開催された総会で採択した文書である。そ
(national member association) とする連合体で、
の後改訂が重ねられ、2015 年現在用いられている
国際連合などと同様に、第二次世界大戦における連
のはブラジル・フォルタレザでの 2013 年総会で採
合国側の人々によって設立された。ドイツ連邦共和
択された第 8 版である。法や行政指針とは異なり、
国 (当時は西ドイツ) と日本が加入したのは 1951
医師自ら「人を対象とする医学研究の倫理的原理」
年である。2014 年 12 月現在、111 の国と地域 (香
を宣言するという医療専門職の自律的綱領である
港など) の医師会が加盟している。
が、今日では、各国の法や行政指針、各研究機関の
世界医師会の前身は 1926 年に設立された「国際
規程も必ず参照する、研究倫理のバイブルとすらい
医師協会 (l'Association Professionnelle Interna-
える権威を保っている。
tionale des Médecins)」である。前年の英国医師会
本稿では 1964 年のヘルシンキ宣言初版が採択さ
館の落成式に集まった各国医師会の代表者や著名
れるまでの経緯を整理する。それにより、世界医師
な医師たちが提案し、設立総会には欧州の 23 カ国
会が設立当初からナチス医学犯罪の衝撃への対応
が加盟していた 2)が、
大戦下で活動を休止していた。
を課題とし「ジュネーヴ宣言」や「国際医療倫理綱
1945 年 7 月、ロンドンの英国医師会会館に集ま
領」が生まれたこと、ヘルシンキ宣言もナチス医師
った数カ国の医師たちは、国際医師協会を引き継ぐ
裁判判決の一部である「ニュルンベルク綱領」を参
組織を作ることを提案する。翌 1946 年 9 月の第 2
照しながら作成されていったこと、そして、ヘルシ
回会合には 31 カ国の医師会が招待され、29 カ国の
ンキ宣言の初版が、製薬業界と結びついた米国の強
代表が参加した。ここで設立委員会が指名され、定
い影響の下に、被験者(研究対象者)の保護条項を
款 (Constitution) の制定と第 1 回総会の開催を目
弱めたものとして成立したこと、を明らかにする。
指すことになった。会の名称については「国際医師
協会」のままにする案や「世界医師会連盟 (World
連絡先:〒558-8585 大阪市住吉区杉本 3-3-138 大阪市立大学大学院文学研究科
Address: Department of Philosophy, Osaka City university, 3-3-138 Sugimoto, Sumiyoshi-Ku, Osaka 558-8585, JAPAN
E-mail address:[email protected]
- 22 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
Federation of Medical Associations)」とする案もあ
相当を拠出しており、それ以外の各国医師会からの
ったが、これらの案は否決され「世界医師会 (World
拠出は 19,500 ポンド相当にすぎなかった 7)。
Medical Association)」に決まった
3)。世界医師会
設立総会は、世界医師会の目的として、以下の 7
つの項目を採択した 8)。
は、国際医師協会よりも多くの国々の参加を得て幅
広い活動を展開していくことが謳われる。この会合
には国際医師協会の役員も参加し、国際医師協会を
(i) 個人的交流その他の可能な手段を用い、各国の
解消して会計残金と共に世界医師会に引き継ぐこ
医師会の間および世界中の医師の間に、より密接な
とに同意した。設立委員会はフランス、ベルギー、
絆を作ること
スウェーデン、スイス、英国、カナダ、エジプト、
(ii) 医療専門職 (medical profession、医師) の名誉
スペイン、チェコスロヴァキアの 9 カ国の代表から
を維持し、利益を護ること
構成され、ロンドンとパリに暫定共同事務局を置く
(iii) さまざまな国の医療専門職が直面する専門職
ことになった。この時点では米国医師会はメンバー
上の問題について研究し報告すること
にはならず、オブザーバーとして参加した。
(iv) 医療専門職の利害に関わる事柄についての情
第 3 回設立委員会は 1946 年 11 月にパリで開かれ、
報交換を整備すること
定款および施行細則 (Bylaws) の案を修正すると
(v) 世界保健機構 (WHO) やユネスコ等の関連機
ともに、米国医師会の設立委員会への参加が決まっ
関と関係を築き、医療専門職としての見解を伝える
た。定款と諸施行細則の最終案は 1947 年 4 月にロ
こと
ンドンで行われた第 3 回設立委員会で承認され、最
(vi) 世界中のすべての人々が可能な限り高い水準
初の総会が同年 9 月にパリで行われることになった。
の健康を達成することを援助すること
メンバーである各国医師会は、その国の医師会に所
(vii) 世界平和を促進すること
属する会員の人数掛ける 20 スイスサンチーム、合
計最少 1 千スイスフランから最多 1 万スイスフラン
当時、英国医師会の会長 (Chairman) であったヒュ
の会費を払うことが提案された。最後となる第 4 回
ー・レット卿 (Sir Hugh Lett) は「WHO は世界中
設立委員会は、第 1 回総会の前にパリで行われた。
の政府を代表するのに対し、世界医師会は世界中の
1947 年 9 月 18 日に開かれた第 1 回総会では、定
医師会を代表するであろう。今日の専門用語を使え
款と施行細則がわずかに修正されて可決され、27
ば、一方は政府の『レベル』で機能し、他方は専門
カ国が世界医師会の設立メンバーとなった。フラン
職の『レベル』で機能するだろう」と書いている 9)。
ス医師会の代表が初代会長に選出され、初代理事会
当時は多くの国で外貨の両替が制限されていた
は 10 カ国によって構成された。総会 (General
ので、事務局はスイスか米国に置くのが最適と考え
Assembly) は毎年異なった国で開催され、理事会
られた。理事会は 1948 年、国連との連携を考慮し
(Council) が運営報告を行う。理事会は選任された 3
て、事務局をニューヨークに置くことにしたが、
人の役員と 10 カ国の医師会代表によって構成され
1974 年、世界保健機関 (WHO) や国際労働機関
る。英語とフランス語とスペイン語が公用語に採用
(ILO)、国際看護協会 (ICN)、国際社会保障協会
され、会誌も発行されることになった。第 7 節でも
(ISSA) などがあるジュネーヴに近い、フランスの
触れるが、米国は医師と製薬企業によって構成され
フィルネー・ヴォルテールに移転した。
る「米国委員会」を通して、毎年 5 万ドルを 5 年間
1964 年 7 月、世界医師会は米国ニューヨーク州
にわたり寄付すると申し出、この寄付金はスタッフ
に非営利の教育・科学団体 (NPO) として登録され、
の給料、事務局の賃料、会誌の発行費、理事会の旅
1965 年のロンドン総会で法人化が承認された。
費に使途を限定することで受諾された 4)。ちなみに、
世界医師会の 1948 年決算の総支出は 59,481 ドル、
2. ジュネーヴ宣言
1949 年上半期の総支出は 29,484 ドル、1950 年予
設立総会が開かれた 1947 年 9 月 18 日は、ニュル
5)。最初の
ンベルク医師裁判判決(8 月 20 日)から約 1 か月
数年間の予算の約 9 割は米国によって支えられてい
後のことであり、医師の社会的信用がナチス・ドイ
た 6)。1956 年の時点でもなお米国は 36,800 ポンド
ツの医学犯罪により世界的に大きく揺らいでいた
算の総支出は 75,700 ドルとなっている
- 23 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November,2015
最中であった。そこで世界医師会は設立当初から、
して許してはならない。医学研究と医療実践は、永
いやおうもなく医学犯罪の衝撃への対応を迫られ
遠の道徳的価値からけっして分離されてはならな
る。医師裁判は 1946 年 12 月 9 日に始まったが、ナ
い。医師は、政策の帰結が基本的人権を毀損したり
チスの医学犯罪はすでに 1946 年 9 月にロンドンで
否定したりするようになりそうな時は、医師仲間に
行われた第 2 回設立委員会で話題に上っていた。英
すみやかに指摘できなければならない。医療専門職
国医師会は「戦争犯罪と医学」という声明を起草し
は、再び医師仲間を陥れ、医師の理想という高い目
て世界医師会の設立総会に提出する。以下、その全
標をおとしめるようになるかもしれない傾向を見
文 10)を訳出しておく。
抜き、それと闘うよう、警戒していなければならな
い。先の大戦で犯された医学犯罪は、医学的な知識
戦争犯罪と医学
と進歩は、人道的動機に司られなければ、戦争が遂
医学的戦争犯罪人たちの裁判で示された証拠は、
世界中の医師に衝撃を与えている。この裁判は、人
行されるなかでいかに理不尽な破壊の道具になっ
てしまうのかを、あまりにも如実に示した。
道に反する罪を犯した医師たちが、高潔な専門職の
医学が国全体へ影響を及ぼすことは、しばしば過
一員に期待される道徳的・専門職的な良心を欠いて
小評価されている。医師ひとりひとりは、医学的意
いたことを明らかにした。彼らはすべての人間がも
見の主唱者や技術的専門家以上の存在である。医師
つ価値と神聖さを護る伝統的な医療倫理から逸脱
は信頼のおける人であり、友であり、頼りになる助
していた。
言者であり、身体に関する直接的必要の領域をはる
医師たちが行った犯罪は戦争犯罪委員会 (the
かに超える影響を及ぼす。医療専門職集団は、国際
War Crimes Commission) によって次のように分
親善の発展を世界中で促すことができる。
類されている:
したがって、世界医師会が以下の手続きをとるこ
(1) 戦争のための科学的研究という名目で支配権
とを勧める:
(1) 戦争犯罪に荷担した医師を罰する法的措置を承
力によって認められた、人間に対する同意なき実験
(2) 経験を得るために強制収容所の医療職員が自
認する決議を公表すること
(2) 医療に関する世界憲章を起草すること。この憲
ら企画して行った同意なき実験
(3) 収容所の被収容者を意図的に選び、医療上の
章は「ヒポクラテスの誓い」の精神である医療の目
放置あるいは致死的注射で殺したこと
的と倫理を現代で是認する形式を取りうるが、公表
(4) 病院や施設で、虚弱ないし精神薄弱の患者お
され医学教育および医療実践に適用されるべきで
よび子どもを意図的に殺害したこと
ある。
以上により、医師たちが、戦争の遂行および疾病
医学教育のカリキュラムは、医学の伝統的目的と
の研究のために反人道的実験を行ったことは明ら
倫理が浸透したものであるべきである。医療憲章で
かである。実験の過程および実験成果の応用におい
表明された諸原理を遵守する誓いは、医学校の卒業
て、彼らは、体制権力にとって政治的に望ましくな
式の一部に組み込まれるべきである。
い人々を意図的に殺した。彼らは、個人に対しても
医療実践において、世界医師会によるこの憲章の
集団に対しても人間を搾取し、人間の生命の神聖さ
採択と、憲章を構成する組織と、世界医師会報を通
と重要性を無視した。彼らは、社会が専門職として
した憲章についての広報は、こうした医学犯罪の再
の医師に寄せた期待を裏切った。
発を防止し、医学が社会全体に建設的かつ有益な影
これらの行いに荷担した医師たちは、一夜にして
響を与え続けることを保証するために、大いに貢献
犯罪者になったというわけではない。彼らの無道徳
するだろう。
なやり方は科学を、国家の手中にあり支配者がほし
いままにする道具とみなすよう仕向ける訓練と条
付録Ⅰ
件付けの結果であった。何よりも彼らは、政治的権
1945 年から 46 年のニュルンベルク裁判の報告書に
力を握る者の考えが医学の依って立つ価値を否定
基づく医学犯罪の要約
することになると気づかなかったと想定される。
(a) 真空および高圧の気密室の影響
(b) 人工授精による管理を含む、化学的・外科的・
これらの犯罪の原因が何であれ、その再来をけっ
- 24 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
放射線的な断種
する報告書が準備され、全世界の医師に公開される
(c) 輸血
(ii) 世界医師会は、英国医師会の声明に記載された
(d) 周期的な血液検査と様々な蘇生法を伴う、冷水
ような、医療専門職の特定のメンバーによって行わ
への投入
れた人間に対する犯罪を厳粛に非難する
(e) 肝臓穿刺
(iii) 医学の学位ないし修了証を授与される時、すべ
(f) 人為的な黴菌感染
ての医師は次の誓いに署名することが求められる:
(g) 身体部分の切断
「明文化されていようといまいと、他のすべての義
(h) 教育目的の実験的手術(適応のない手術)
務にもまさる私の第一の義務は、私を信頼するどん
(i) さまざまな期間ガスや化学物質にさらし、解剖
な人に対してもあたうる限りの治療を行い、彼の道
して結果を調べる
徳的自由を尊重し、彼に加えられるいかなる虐待に
(j) ガス、ベンゼン注射、死亡前の瀕死状態での火
も反対し、それに関連して、彼を虐待するよう私に
葬等による「慈悲殺」
迫るいかなる権威に対しても同意を拒む、というこ
とにある。患者が私の友であろうと敵であろうと、
付録Ⅱ
戦時や内乱であろうと、また彼の意見や、人種や、
憲章に含まれるべき諸原理
党派や、社会階級や、国籍や、宗教にかかわらず、
目的。——医療の伝統的目的は、階級や人種や宗派
私の治療と人間の尊厳に対する尊敬の念は、そのよ
にかかわらず、個人の身体的必要を救援する者とな
うな要素に影響されることはありえない」
ること、疾病の治療、苦痛の緩和、延命であった。
(iv) 世界医師会は戦争犯罪に関与した医療専門職
のちに疾病の予防が伝統的目的に加えられた。これ
のメンバーを罰する司法的措置を支持する
らすべては、慈悲と献身の精神を伴った科学的方法
(v) 世界医師会はドイツの医療団体が以下の公的宣
によって達成されてきた。
言を行うよう求める:
すべての人々が可能な限り高い水準の健康を達
「(a) 我々ドイツの医療団体のメンバーは、個人な
成することが世界医師会の目的である。
いし集団として、1933 年以来、精神病院と強制収
倫理。——医療には多くの変化があったにもかかわ
容所で行った非常に多くの残虐な行為と医療倫理
らず、
「ヒポクラテスの誓い」の精神は変わらず、
の侵犯を認識する。これらの行為は数百万人の死を
医師によって再び是認されうる。それが命じるの
もたらした。我々医療団体の多くの成員は、扇動
は:
者・技術者ないし実行者としてこれらの行為に荷担
医師同士の友愛
した。
(b) ドイツの医療専門職団体が、気づかないこと
患者のために献身する諸動機
治療の義務、殺人・自殺・中絶により生命の破壊
に荷担するのは重大な犯罪であること
はありえないこれらの行為に、まったく抗議せず、
黙殺することに甘んじていたことを残念に思う。
(c) 我々はこれらの犯罪を、厳粛に非難し、それ
清廉な生活と高潔な行動
患者を護るための専門職としての守秘
らを行った犯罪者たちを我々の組織から追放し、
医学的知識の普及と人類の利益のための発見
我々のすべての仲間に、人間の生命のみならず人格
と尊厳と自由を尊重すべきことを思い起こさせる」
設立総会ではデンマーク医師会からも戦争犯罪
に関する議題が提出された。英国医師会の声明が読
また総会は「医師たちが共同して戦争の手段を準備
み上げられ、会員の意見と、ナチスの医学犯罪のフ
したことに関する報告書を作成するよう理事会に
ランス人犠牲者の話を聞いた後、総会は勧告を起草
指示する」というオランダ医師会の動議を考慮して、
する小委員会を指名した。この小委員会は次のよう
理事会に報告書を作るよう求めた 8)。
な報告を総会に提出し採択された 8)。
これらの動きを受けて起草され、翌 1948 年 9 月
のジュネーヴでの総会で採択されたのが、いわゆる
(i) 1933 年以降ドイツと他の国々の医師や医療機関
「ジュネーヴ宣言」である。これは英国医師会の声
によって行われた犯罪および医療倫理の侵犯に関
明どおり「ヒポクラテスの誓い」の現代版ともいわ
- 25 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
れる。以下にその初版の全文 11)を訳出する。
November,2015
とを。
この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わ
ジュネーヴ宣言
が財を分かって、その必要あるとき助ける。その
1948 年 9 月、スイス、ジュネーヴにおける第 2 回
子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶこ
世界医師会総会で採択
とを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして
書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医
医療専門職の一員として迎え入れられるに際し、
術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規
私は、人道への奉仕に私の人生を捧げることを、厳
則にもとづき約束と誓いで結ばれている弟子ども
粛に誓う。
に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
私は、私の教師たちが受けてしかるべき尊敬と感
私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生
謝の念を、彼らに捧げる。
法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
私は、良心と尊厳をもって、私の職務を果たす。
頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚
私の患者の健康を、第一に配慮する。
らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具
私は、私に打ち明けられた秘密を守る。
を与えない。
私は、全力を尽くして医療専門職の名誉と高貴な伝
純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術 を 行
統を保持する。
う。
私の同僚は、私の兄弟である。
結石を切りだすことは神かけてしない。それを業と
私は、私の患者に私の義務を果たす際に、宗教や国
するものに委せる。
籍や人種や党派政治や社会的地位を考慮してしま
いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利
うことを許さない。
益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の
私は、受胎した時から、人命を最大限に尊重し続け
行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを
る。たとえ脅迫されても、人道の法に反して私の医
考慮しない。
学的知識を用いることはしない。
医に関すると否とにかかわらず他 人 の 生 活 に つ い
私は、厳粛に、自由に、私の名誉にかけて、これら
て秘密を守る。
のことを誓う。
この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術
の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬さ
興味深いのは『英国医師会雑誌 (British Medical
れるであろう。もしこの誓いを破るならばその反
Journal, BMJ)』の 1948 年 9 月 25 日の記事が「医
対の運命をたまわりたい。
学史ではほとんど引用されてこなかったので」とこ
(小川鼎三訳。引用に際し適宜改行を加えた)
とわって「ヒポクラテスの誓い」全文の英訳を掲載
している点である 12)。「ほとんど引用されてこなか
3. 国際医療倫理綱領
った」という記述に対しては、すでに複数の英訳が
翌 1949 年 10 月 11 日から 15 日にかけて、ロン
13)が、
当時
ドンの英国医師会館で行われた第 3 回総会では、ジ
あるという指摘が会員からなされている
の医学界一般にはヒポクラテスの誓いがほとんど
ュネーヴ宣言の内容をより具体的に医師の「義務」
知られていなかったことが窺われる。このことから、
として示した「国際医療倫理綱領」が採択された。
むしろジュネーヴ宣言が契機になって、ヒポクラテ
以下、その初版の全文 11)を訳出しておく。
スの誓いが医学界で一躍注目されるようになった
のではないかとも推測される。
国際医療倫理綱領
1949 年 10 月、英国ロンドンにおける第 3 回世界医
参考までに「ヒポクラテスの誓い」の全文の日本
語訳を以下に掲げておく。
師会総会で採択
医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パ
医師の一般的な義務
ナケイアおよびすべての男神と女神に誓う、私の
医師は、専門職としての行為を最高の水準に維持
能力と判断にしたがってこの誓 いと 約束 を守 るこ
しなければならない。
- 26 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
医師は、自分の職務を、利益を求める動機によって
が交わされた。草案では「患者に対する医師の義務」
影響されずに、果たさなければならない。
の 1 番目の条文のあとに「治療的妊娠中絶は医師の
次のような行為は反倫理的とみなされる:
良心と国内法が許す場合にのみ行ってよい」という
a. 自国の医療倫理綱領によって明示的に認めら
れているもの以外のあらゆる自己宣伝、
b. 医師が専門職としての独立を保てないような
医療のあらゆる形態に協力すること、
文言が続いていた。これに対しアイルランドが「堕
胎医への道を開くべきでない」と削除を求めたのに
対して、フランスは「治療的中絶に非常に厳しい条
件をつけている国もあり、ジュネーヴ宣言が堕胎医
c. たとえ患者が知っていたとしても、専門職とし
を暗黙に非難している」と応じた。カナダ、ベルギ
て適切な報酬以上に、患者の診療に関して何らかの
ー、スペイン、オーストリア、ポルトガルはアイル
金銭を受け取ること
ランドを支持したが、英国は「妊婦の生命が危険な
人間の身体的・精神的な抵抗力を弱めるような行為
ときに治療的中絶を行わず妊娠を継続させるのは
や助言を行えるのは、その人のためになる場合だけ
道徳的な殺人になるのでは?」と反論する。インド
である。
は「この問題は妊婦と胎児とどちらの生命を保護す
医師は、新発見や新しい治療技術を公表する場合、
るのかという問題を提起するので、文言は削除し、
最大の用心をもって行うべきである。
医師の良心とその国の法律に任せるべきだ」と述べ、
医師は、自ら真実と立証したことだけを、保証し証
オーストラリアは「妊婦の幸福を重視すべき」と示
言するべきである。
唆した。採決の結果、文言を削除する動議は 19 対
22 で退けられたが、小委員会を指名して条文全体の
患者に対する医師の義務
見直しを行うことになった。小委員会は結局、治療
医師はつねに、人間の生命を保護する責務を心に留
的中絶に関する文言を削除し「医師はつねに、受胎
めておかなければならない。
時から死に至るまで、人間の生命を保護する責務を
医師は患者に、完全な忠誠を尽くし、医学のすべて
心に留めておかなければならない」というだけの条
の資源を活用しなければならない。検査や治療が自
文を提案する。上に訳出したように、最終的には「受
分の能力を超える場合には、必要な能力をもつ他の
胎時から死に至るまで」という文言も削除されてい
医師を呼ぶべきである。
る。
医師は、自分に対する信頼を保つため、患者につい
また、「専門職としての『完全な』独立を保てな
て知っているすべてのことに関して絶対的な秘密
いような医療に協力する」のは反倫理的であるとし
を守る。
ていた草案に対しては、デンマークから「
『完全な』
医師は、他の者が進んで行うし行いうるとの確信が
というのは達成不可能なので削除すべき」という指
ない限り、人道的義務として救急医療を行わなけれ
摘がなされ採択された。「自らの能力を超える検査
ばならない。
ないし治療が自分の能力を超えると思われる場合
には他の医師を『呼ぶ (summon)』べきである」と
医師どうしの義務
なっていた条文については、インドから「summon
医師は、自分に対して振る舞ってほしいように、同
という言葉は法的な含意がある」という指摘があっ
僚の医師に対して振る舞うべきである。
たが、この条文は修正せずに草案どおり採択された。
医師は、同僚の医師から患者を引き抜いてはならな
そのほか、
「人間の身体的・精神的な抵抗力を弱め
い。
るような行為や助言」に関する条文については、ル
医師は、世界医師会が承認したジュネーヴ宣言の諸
クセンブルグから「いかなる状況下でも、医師は、
原理を遵守しなければならない。
人間の身体的・心理的抵抗力を弱めることを許され
ない。ただし、患者のために厳密な治療ないし予防
1949 年 10 月 22 日付の『英国医師会雑誌』は、
の適応がある場合を除く」という修正案が出された
終わったばかりのロンドン総会について報告し、国
が、最終的には上記のような簡潔な条文が採択され
際医療倫理綱領の審議過程を描写している 5)。
た。
とくに「治療的妊娠中絶」をめぐっては長い議論
このようにして採択された国際医療倫理綱領は
- 27 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November,2015
「綱領が示す諸原理に一致する場合に限り、各国医
師会長協議会、代議員会などに諮って、加入への活
師会は綱領の言葉遣い (wording) を変更してもよ
動を本格化させる
いということが同意された」5)という。
に積極的に働きかけた結果、1950 年 10 月に入会届
18)19)20)21)。GHQ
も世界医師会
書類が送付される。この経緯について『日本医師会
4. 西ドイツと日本の加入
雑誌』は、
発足したばかりの世界医師会にとっての大きな
問題は、枢軸国であったドイツと日本の医師会の扱
予て日本医師会は代議員会の承認を得たる世界
いであった。設立総会ではドイツ医師会の加入を 25
医師会 World Medical Association への入会方を
年間認めないとする動議がチェコスロヴァキアか
P.H.W サムス准将、ジョンソン大佐を通じて依頼中
ら提出されたが、これは否決されていた 14)。しかし
であったが、昨年末サムス准将帰米の際、在ニュー
ながら、上述のように、世界医師会にとってナチ
ヨークの世界医師会事務所(本部はスイス)に日本
ス・ドイツの医学犯罪とどう向き合うかが最初の課
医師会が世界医人と伍して行くよう、世界医師会へ
題であり、その回答がジュネーヴ宣言と国際医療倫
入会方を懇請されてあったが、先月之が入会届書が
理綱領であっただけに、とりわけ西ドイツの医師会
送付し来りたるを以て、之を事務局長が翻訳し、之
の加入を認めるかどうかは、処理の難しい問題にな
を厚生省渉外課長が校閲し、且つ之の各条項に就き
ると思われた。
理事会に諮り、先般其の願書をジョンソン大佐に校
1949 年 10 月、理事会は西ドイツ医師会の指導的
閲して貰い航空郵便を以て発送した。
メンバーと私的会合をもつべく調整を始め、翌 1950
最も之が最後的許可は世界医師会の審議機関と、
年 1 月にスイスとスウェーデンの理事が、議事録を
総会に於て決定せらるることとなるのであるが、非
残さず一切公表しないという約束の下、西ドイツ医
常に困難を見せて居た本問題も、漸く其の曙光を見
師会の 2 人の役員と会う。だが、1934 年から 1939
るに至った次第である。独逸と日本に対しては、戦
年にかけてナチスに関与していたカール・ヘーデン
時中の医師関係者(軍医)の残虐行為が問題となっ
カンプ (Karl Hädenkamp) 医師を西ドイツ医師会
て、簡単に入会出来ないような話がジョンソン大佐
が雇っていることが、加入への一つの障碍になった。
からもあって、日医もどうかと思って居たのだが、
西ドイツ医師会はヘーデンカンプの働きと人柄を
願書提出まで来た以上前途はさして困難でないと
高く評価したため折衝は長引いたが、結局、ナチス
考えられる。尚本願書には会費最高 8 万数千円、最
時代の医学犯罪を認め、二度とそのようなことを起
低 2 万円弱であるが、日本医師会の経済的事情、日
こさないと誓う(たとえば医師資格を取得する際に
本の終戦後の経済界の不況等を訴えて会費は最低
ジュネーヴ宣言を課す)声明を西ドイツ医師会が出
にして貰うことにジョンソン大佐の了解を得て、願
すことで折り合った
15)(声明文本文は後掲)
。
書にも之の旨を記載した次第である。22)
一方、日本医師会が加入へと動き出すきっかけは
米国から与えられた
16)。1948 年
[引用にあたり旧漢字は常用漢字に改めた。以下同様]
8 月、米国医師会
の会長・理事長・事務総長・2 名の理事の 5 名から
と報じている。ちなみに、この文中にある「戦時中
なる代表団が日本を訪れる。代表団のうち会長と理
の医師関係者(軍医)の残虐行為」とは、西ドイツ
事長はジュネーヴでの世界医師会総会に赴く途上
に関してはナチスの医学犯罪を指すことは明白だ
であった。サムス准将ら GHQ 幹部も同席し、日本
が、日本に関しては、731 部隊等による医学犯罪を
医師会の会長・副会長以下の幹部と、日本医師会館
指すかどうか不明である。いうまでもなく 731 部隊
で 2 日間にわたって会談が行われる。その最後にヘ
等の医学犯罪は米国との取引によって隠蔽されて
ンダーソン米国医師会理事長は世界医師会につい
いたので、せいぜい米軍の捕虜虐待として裁かれた
て説明し、
「私の希望いたしますのは、日本も民主
九州帝国大学事件くらいしか指さないものと推測
的な国家として、この世界医師会の一つになられる
される。とはいえ「非常に困難を見せて居た」日本
ことであります」と、加入を勧めた
17)。
の加入は、GHQ の後押しによってようやく実現す
翌 1949 年になると日本医師会事務局は、GHQ を
ることになった。
1950 年 10 月にニューヨークで行われた世界医師
通して加入手続きを照会するとともに、都道府県医
- 28 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
会第 4 回総会で、西ドイツと日本の加入の是非につ
文は 16)を参照]。3 ページにわたる声明のうち、
『日
いて審議した。総会の議長は、1948 年に理事長と
本医師会雑誌』が主要部分を訳出している。翻訳が
して来日し上述のように世界医師会への加入を勧
不適切な箇所もあるが、歴史的重要性を考慮し、そ
めていた、
ヘンダーソン米国医師会会長であった
23)。
のまま転載する。
イスラエルは西ドイツの加入に対して「独逸医師が
戦時中、ユダヤ人を迫害し、6 百万の無辜の民ユダ
○「独乙人医師によつて人類に対して罪の行われた
ヤ人に対し、或は強制ステリゼーション[引用者
ことは世界に於ける独乙人医師の名声を無くした
註:sterilization, 断種]を行ったり、或は生体解剖
事実を独乙人医師及び彼等の職業的団体は知つて
の如き、非人道的、野蛮行為等の例を挙げて反対し
いる」
た」23)。結局のところ総会は、翌年の総会までに徹
○西独乙医師会の委員会は次の処置をとつた。
底的な調査を行い各国医師会の意見を問う権限を
1. 1947 年 6 月 14 日以来,免許証を得る各医師はこ
理事会に与える決議を行う。これに従い同年 12 月
の団体[引用者註:世界医師会]によつて修正され
15 日、事務総長は各国医師会に、大戦中の医学犯罪
た「ヒポクラテス」の誓[引用者註:ジュネーヴ宣
に関する日本医師会と西ドイツ医師会の声明を含
言]を行う。
む文書を添付した上で、日独医師会それぞれの加入
2. 1947 年 10 月 18 日に人類に対する凡ての罪及び
に関する可否投票を、翌 1951 年春に行われる理事
人類に対する戦争犯罪に参加した凡ての独乙人医
会までに返送するよう求める 16)24)。これに対し 31
師を責める決議が可決された。
カ国の医師会が回答し、日本医師会については 30
3. 1947 年 11 月 29 日に委員会は出来るだけ速かに
カ国、
西ドイツ医師会については 28 カ国が賛成し、
国民社会党[引用者註:ナチス(国家社会主義ドイ
24)。
ツ労働者党)]政府によつて人種,宗教又は政治的
両国の加入が決まった
各国医師会へ賛否を問う際に添付された文書の
理由のため権利を剥奪された凡ての医師に全医学
うち、大戦中の医学犯罪に関する日本医師会の声明
的権利を回復せしむることを独乙政府に要求した。
は以下のようなものであった[英文原文は 16)を参
○更に 1949 年 9 月に提出し,1950 年 1 月 28 目に修
照]。
正した声明書は世界医師会によつて是認された。
その声明書は次の如くである。
日本医師会の 1949 年 3 月 30 日に行われた代議員会
独乙医師団は或る独乙医師が個人的及び団体的に
の年次会に於て次の決議が満場一致で可決された。
第三独乙国会当時に沢山の惨酷及び虐待行為への
「日本の医師を代表する日本医師会は此の機会に
参加及び被実験者の許可なくして人体に対する残
戦時中に敵国人に対して行つた暴行を非難し,又行
忍な実験の計画及びその実行を認めねばならなか
われたと主張され,そして 2,3 の場合には実際行わ
つたことを慣怒を以てせねばならなかつたし又 遺
れたという患者の虐待行為をとがむ」
憾に思つた。
日本医師会長 高橋 明 24)
幾百万人の人類の死の結果をもたらしたこれらの
行為と実験を実行したため,独乙医学は医学の道
このように、日本医師会の声明は数行の簡単なもの
徳的伝統を犯し,医学の名誉の質的低下を来し,
である。なお、文中の「戦時中に敵国人に対して行
そして戰争及び政治的怨恨のために医学を売春的
つた暴行」とは必ずしも医学犯罪を意味するもので
に使用したことを我々は認める。有罪犯人は罰せら
はなく、戦争行為一般をさしていると考えられる。
れた。或者は連合国裁判により他の者は独乙裁判に
また、上述のように、731 部隊等で行われた医学犯
より罰せられた。
罪は隠蔽されていたので、文中の「行われたと主張
○独裁の制度がこれらの行為を看破することを不可
され,そして 2,3 の場合には実際行われたという
能にし,そして自由なる意見の凡ゆる表明を抑制し
患者の虐待行為」とは、九州帝国大学「生体解剖」
たことを我々は遣憾に思う。それ故我々は独乙及
事件を指す程度であろう。
び他の国で 1933 年来医師によつて犯された罪を嫌
これに対し、上述の折衝の結果として提出された
西ドイツ医師会の声明は詳細なものだった[英文原
悪し琲斥する。
○この声明書を世界医師会に提出するに当り我々は
- 29 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November,2015
将来独乙人医師が斯樣に医学を裏切ることを全力
医師と、カナダ・米国・イスラエルの医師会がゼヴ
を以て防止することに努めることを医学及び全世
ェリンクの辞任を求めたが、ドイツの医療業界から
界に対しておごそかに誓いする。それで我々は 19
の多額の寄付に財政を依存していた世界医師会は
47 年 10 月 18 日に自発的に採用して,その後に発
ゼヴェリンクを擁護し続けた 15)。
表した我々の決議文を繰返して書いて西独医師会
ゼヴェリンクを告発した米国の医師 M・J・フラ
によつて発行された。20 人の SS 医師,科学者及び
ンツブラウ (Michael J. Franzblau)29)はまた、1996
3 人の高級官吏についてのニュレンベルグ裁判に関
年から世界医師会の準会員会議で日本医師会の追
する報告書及び此の出版物に於ける我々の立場に
及も始める。準会員 (associate member)とは、医師
ついて述べる。独乙医学団体は医学の職業的義務
ないし医学生が、自国の医師会が世界医師会に加入
に対して罪を犯した医師を職業的裁判権を以て全
していなくても、個人会員として認められる制度で
力で罰する。将来高い水準の職業的行動を約束する
ある。総会期間中に事務総長が主催する準会員会議
意志のない医師に対しても同様に我々は対処する。
が行われ、そこで決議された案件は直接総会に上げ
○「従つて 1952 年度の独乙医師会議ではその職業的
て採決が行われ、採択されれば世界医師会としての
規則を変更するに当り,1948 年に「ジエネーバ」
決議となる 30)。日本医師会の準会員会議報告による
で世界医師会が採用した「ジエネーバ宣言」を予約
と、フランツブラウは 1996 年、南アフリカのサマ
購読することを各医師に要求した。24)
ーセットウェストで行われた総会時の準会員会議
で「第 2 次大戦中の日本帝国陸軍 731 部隊に所属し
日本医師会には 1951 年 5 月 22 日付で世界医師会
ていた医師の非人道的行為を非難する声明を本会
から正式に加入承認と、ストックホルムで行われる
[引用者註:日本医師会]が正式に文書で提出す
当年の総会に、代表 2 名、副代表 2 名、オブザーバ
べきであり、かつ関与していた医師の訴追を[日本]
24)25)26)。同じ頃に
政府に求める内容の決議案」を提出したが、議長を
西ドイツ医師会にも同様の通知があったものと思
出していたベルギー医師会から、「日本医師会が
われる。日本医師会は副会長以下 4 名の代表を派遣
WMA 加盟に際して提出した 1949 年の声明文に戦
ー数名を招聘する通知があった
した
27)。
時中の非人道的行為を非難する本会の立場がはっ
しかしながら、両国に対する批判は 1990 年代に
きり述べられているとして、この声明文で本 件 は
再燃する。1993 年、世界医師会の次期会長に選ば
決着しているとの決議案」が圧倒的多数で採択され、
れていたドイツ医師会長 H・J・ゼヴェリンク (Hans
フランツブラウの提案は退けられた。この時に拠り
Joachim Sewering) は、ナチスの親衛隊員および党
所とされた「日本医師会が WMA 加盟に際して提出
員であった過去が明るみに出て強い抗議を受け、次
した 1949 年の声明文」こそ、上述した簡単な声明
15)。ゼヴェリンクは
1959 年
である。フランツブラウはこれを不服として、以後
から世界医師会の活動に参加し、1968 年から西ド
2002 年に至るまで毎年、総会時の準会員会議に同
イツ医師会の代表となり、1973 年から 20 年間にわ
様の決議案を提出し、その度に否決され続けた。
たって財務担当役員 (treasurer) を務めていたが、
2002 年の準会員会議では、とうとう「この決議案
1933 年に親衛隊に入り、1934 年からは党員にもな
の審議に入る前に、以上の[すでに日本医師会加入
っていた。1942 年夏からダッハウ近くのシェーン
時
ブルン障害者施設で医師として働き、1943 年 10 月
を 議
26 日、施設に入所していた 14 歳の女性をエグルフ
可決し、さらに、今後この主旨の決議案が準会員
ィング治療介護施設に送る。彼女は 11 月 16 日に死
会議の場で再び取り上げられないようにするため、
亡したが、エグルフィングは障害者の「安楽死」を
WMA の議事運営規則に則り、この案件を無期限に
実行していた施設だった。ゼヴェリンクは彼女が殺
延期する動議を可決し」
、2003 年以降同様の決議案
されると知っていたはずだと非難され、人種・宗
は今後一切提出を禁じられた
教・国籍・政治上の意見による迫害の実行者を米国
年代後半の世界医師会全体の準会員数は 1200 人台
に入国させないために米国司法省が作成している
であるのに対し、日本からの準会員数がそのうちの
「監視リスト」にも掲載された 28)。ドイツの複数の
800 人強(約 2/3)を占めている 30)ので、準会員会
期会長の座を辞退した
- 30 -
の声明で解決済みという]理由からこの決議案
論の対象として取り上げないという動議を
16)。もっとも、1990
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
議で日本を非難する決議が通ることは困難と思わ
の条件を定めた。シブリエは医療倫理委員会の報告
れる。
補遺で、患者に行う場合の条件と健康者に行う場合
の条件を別立てにし、計 5 カ条の原案を提示した。
しかし、翌 1954 年の理事会では、医療倫理委員
5. 1954 年の「人体実験に関する決議」
以上のように、会の内外からナチスなど戦時中の
会の原案に対し、健康な被験者が「完全に情報を与
医学犯罪や医療倫理違反に関して厳しい目が注が
えられている (fully informed)」という条件は研究
れていた世界医師会にとって、ジュネーヴ宣言と国
に重大な障害となる、という反対が米国から寄せら
際医療倫理綱領の採択だけでは不十分だった。とく
れた。この反対は、ニュルンベルク綱領以来の「完
に人体実験については、医療専門職団体である世界
全に情報を与えられている」という条件が、戦後の
医師会として、歯止めとなる一定の基準を示す必要
プラセボ(偽薬)対照臨床試験の発展と相容れなく
があった。そこで 1952 年、常設委員会として「医
なっていることを反映していた。英国とデンマーク
療倫理委員会 (Committee on Medical Ethics)」を
も米国に同調する。オランダ代表のハルストは、ワ
理事会の下に設置した
1)。
クチン実験においてはプラセボ使用は認められな
すでにフランスでは人体実験の問題に関して国
いと主張したが、英国の H・クレッグ (Hugh Clegg)
立医学会が 1952 年に検討を行い、患者本人の利益
は、ワクチン実験は法的に有効な同意ができない子
になる実験的治療(後の「治療的実験[研究]」
)と患
どもに行うことがほとんどなので言及する必要は
者本人以外の他者のための実験(「科学のための実
ないと応じた。結局のところ理事会は米国の提案を
験」、後の「非治療的実験[研究]」)を区別し、前者
受け入れ、健康な被験者がプラセボ群に割り付けら
は「医師の権利のみならず義務でもある」が、後者
れることに関する文言を削除した案を総会に提出
は「自由に受け入れるか拒否できる、情報を与えら
する。
れた志願者 (informed volunteers)」以外に対して
行うことを禁じていた。
同年 10 月にローマで行われた第 8 回総会は「人
体実験に関する決議:研究と実験の関係者のための
ちなみに、治療的研究と非治療的研究の峻別は、
諸原理 (The Resolution on Human Experimenta-
人体実験に関する省令の先駆である 1900 年の「プ
tion and the Principles for Those in Research and
ロイセン宗教・教育・医療大臣命令」からすでに行
Experimentation)」を採択した。マスメディアによ
われており、「この命令は、診断・治療ないし予防
る性急でセンセーショナルな実験結果の第一報を
接種を目的とする医療的介入には適用されない」と
規制することや、知的障害者や子どもの同意の問題
していた。1931 年の「ドイツ保健評議会指針案」
が議論され、保護者や法的代理人の書面による同意
では、治療的研究を「新治療法」、非治療的研究を
が提案された。書面による同意は決議として採用さ
31)。ナチスの医
れる 15)。採択された「諸原理」の全文を以下に訳出
「科学的実験」として区別している
学実験は治療を目的とするものではまったくなか
する。
ったので、ニュルンベルク綱領は非治療的研究だけ
を取り扱っているといえる。
1953 年 、 オ ラ ン ダ 代 表 の L ・ A ・ ハ ル ス ト
人体実験に関する決議:研究と実験の関係者のため
の諸原理
(Lambert Anthonie Hulst) は、世界中の医学雑誌
Ⅰ. 実験の科学的および道徳的諸側面
が「被実験者 (test persons)」を保護するようにな
「実験 (experimentation、実験台にすること)」と
るためのガイドライン作成を世界医師会に求めた。
いう言葉は、実験それ自体だけでなく、実験者にも
医療倫理委員長のフランス代表 P・シブリエ (Paul
適用される。なにびとも一切実験台にすることを試
Cibrie) は、人体実験の問題をナチスの医学犯罪か
み得ないしすべきでもない。科学的な質の高さが明
ら切り離して論じようとする。その結果、医療倫理
白で常に尊重されていなければならない。また、ひ
委員会は、(1)実験実施者が科学的・倫理的に適格で
とりひとりを尊重する一般的規則を厳格に守らな
あること、(2)実験の第一報は十分慎重に行うこと、
ければならない。
(3)患者と健康者に行う実験を区別すること、(4)被
Ⅱ. 実験の最初の結果を賢明かつ慎重に公表するこ
実験者が危険性を完全に理解していること、の 4 つ
と
- 31 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
この原理は第一に医学出版界に適用されるが、多
November,2015
きか、どのような形の綱領が望ましいのか、につい
くの場合この規則が医学雑誌の編集者たちによっ
て、理事会の意見は割れていた。そこでクレッグは、
て遵守されてきたことは悦ばしい。一般の報道は、
米国・西ドイツ・フランス・英国・イスラエル・日
医学出版界ほどには、賢明かつ慎重な規則を守らな
本・インド・トルコ・チリなど 11 カ国に、新たな
いことがある。世界医師会は、早まったり裏付けを
綱領の作成に関する意見を求める。クレッグは綱領
欠いたりする報道の有害な影響に注意を促す。公衆
が取り扱うべき論点として、(1)医学生を用いた医薬
の利益のために、各国医師会はこの危険を回避する
品の効果試験、(2)無接種群を対照とする百日咳や結
方法を模索すべきである。
核の予防接種、(3)新薬の治療的な対照試験、(4)囚
Ⅲ. 健康な者に対する実験
人や精神病院入院患者を予防的ないし治療的対照
自分の身を実験に差し出す人に、確実に完全な情
試験に用いること、(5)病院入院患者にその症状とは
報が与えられるよう、ひとつひとつ手続きを踏まな
関係のない研究に用いること、の 5 点を示した(数
ければならない。人間に対する実験で最も重要な要
か月後、フランスの医師の求めに応じ、(6)特定の国
素は、研究者の責任であって、被験者の同意ではな
において女性を一時的ないし永続的な不妊にする
い。
実験、を追加)
。
Ⅳ. 病む者に対する実験
こうした検討の結果 1960 年 4 月の理事会に提出
絶望的な個別例の場合は、斬新な手術や治療を試
された医療倫理委員会報告は大いに議論を呼んだ。
みてもよい。こうした例外はまれであり、本人か最
インドをはじめとする数カ国は「囚われた被験者」
近親者の承認が必要である。その場合、決断を下す
に関する憂慮を表明する。フィリピン代表は有人宇
のは医師の良心にほかならない。
宙飛行の倫理的側面を検討するよう促す。デンマー
Ⅴ. 実験の特質、実験が必要な理由、および実験が
ク代表は特定の宗教の観点が入らないよう配慮を、
含む危険性について被験者に知らせることの必要
スイスの医師はイスラムや仏教の国々に対する理
性
解を、それぞれ求めた。性格変容実験を考慮に入れ
各々の被験者に、提案されている実験がどのよう
るべきだとの複数意見もあった。
なもので、なぜ必要なのか、どんな危険性があるの
1954 年の決議やヘルシンキ宣言に至る草案には
か、必ず知らせるべきである。患者に責任能力がな
明記されていないものの、議論はニュルンベルク綱
い場合、同意はその患者に法的責任を持つ者から得
領を参照しながら行われていた。1960 年の理事会
るべきである。いずれの場合も、同意は書面で得る
では、動物実験を課したニュルンベルク綱領は厳し
べきである。32)
すぎるという意見が表明されている。1960 年 9 月
の医療倫理委員会報告は、ニュルンベルク綱領は
6. 草案をめぐる論争とヘルシンキ宣言初版の採択
様々に異なる国々の状況の中で働く医師にとって
1954 年に決議を採択した後も、人体実験の問題
不十分である、と述べている。クレッグ自身『世界
は世界医師会医療倫理委員会の課題であり続けた
医師会雑誌 (World Medical Journal)』の 1960 年 3
15)34)。だが、次の具体的な動きが報告され
月号の記事で、BCG ワクチンの効果が 34 年間も判
るのは 1959 年まで 5 年間を下る。この 5 年の間に
定されたなかったことを挙げながら、ニュルンベル
どのような議論がなされたのか、あるいはなされな
ク綱領は「医師の葛藤」を解決するためには不適切
かったのか、については不明である。以下、主に S・
であり、医学者は「患者への共感的ケア」を行う「ヒ
レーデラーの論文「境界なき研究:ヘルシンキ宣言
ポクラテス的理想」を求めている。
という
の起源」15) に依拠しつつ、1959 年から、1964 年
検討を加速させるため、クレッグは 1960 年 9 月
にヘルシンキ宣言初版が採択されるまでの経緯を
までに自ら新たな綱領の草案を起草し、理事会と医
まとめる。この論文は、世界医師会の文書館に所蔵
療倫理委員会に提出して修正と改善を求めた。この
されている議事録やメモなどを閲覧し、その経緯を
草案は、実験対象になるのは完全な選択能力を発揮
描き出した画期的なものである。
できる精神的・身体的・法的状態にある人でなけれ
1959 年、英国医師会の H・クレッグが医療倫理
ばならないとしていた。クレッグは、研究者に依存
委員長に就任したとき、人体実験の綱領を改訂すべ
する関係にある被験者(学生、患者、部下の技師な
- 32 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
ど)、戦争捕虜、刑務所や矯正施設の入所者を実験
2. 臨床研究を患者個人の診療と結びつける医師は、
対象にすることに反対し、精神病院の入院患者も被
患者の完全な同意が事前に得られていない限り、知
験者として望ましくないとした。
識を獲得するためだけの実験を行って医師への患
医療倫理委員会の修正を経て、翌 1961 年の理事
者の信頼を濫用することがあってはならない。
会と総会に提出された草案の全文を以下に訳出し
3. 疾病予防のための人体実験は、実験室実験および
ておく。ちなみにこの草案全文は 1962 年 10 月『英
動物実験、ないし他の科学的データに基づくべきで
国医師会雑誌』に掲載されたが、そのとき同誌の編
ある。
集長に転身していたのがクレッグであった。
4. 治療および予防医学の対照実験は、人に対する実
験の一般的および特定の倫理的規則に従って行わ
一般的な諸原理と定義
れるべきである。
1. 人に対する実験は、研究者が内的および外的な環
5. 薬物や実験的手段により被験者の性格を変える
境を意図的に変え、その変化の影響を観察する行為
かもしれない実験を行う際には、特別な用心が払わ
である。
れるべきである。
2. 上述の環境の変化は、次の条件を守る場合にのみ
6. 病気の人の治療において医師は、命を救うか痛み
行われるべきである:
や苦しみを緩和する唯一の希望をもたらすと判断
(a) 実験の性質・理由および危険性が被験者に完全
でき、患者本人あるいは患者の法的代理人の同意が
に説明されること。被験者は実験に参加するかどう
得られているなら、誰も試みていない実験[的治療]
かを決める完全な自由をもつべきである。
を自由に行えるべきである。
(b) 子どもが実験の被験者になる場合には、実験の
性質・理由および危険性は、子どもの親か法的後見
知識を得るためだけに行われる実験
人に完全に説明されること。彼らは子どものために
(健康であれ病気であれ)被験者のために行われる
実験に参加するかどうか決める完全な自由をもつ
のではなく、知識を得るためだけに行われる実験は、
べきである。
以下に掲げる、最も厳しい保護条件の下で行われる
(c) 施設にいて親族による養護を受けていない子ど
べきである:
もは人体実験の被験者になるべきでない。
(a) 被験者はその選択能力を完全に発揮できる心理
(d) 実験は、科学に熟達した人によって、熟練した
的・身体的・法的な状態にあるべきである。
医師の監督の下でのみ、行われるべきである。
(b) いかなる医師も、教師に対する医学生・医師に
(e) 実験の過程で被験者はいつでも自由に実験参加
対する患者・部署の長に対する技師のように、被験
を取りやめられるべきである。
者が研究者に依存する関係にある場合、人体実験を
(f) 研究者、研究を行っている委員会、ないしそれ
軽々に行うべきではない。
らに関連する科学または医学に熟達した人は誰で
(c) 軍人であろうと一般市民であろうと、戦争捕虜
も、もし研究を継続すれば被験者に害を及ぼすかも
はけっして被験者に用いられてはならない。
しれないと判断される場合には、自由に研究を中止
(d) 軍事的侵略ないし占領、あるいは行政的ないし
できるべきである。
政治的理由により拘束されたいかなる市民も、けっ
(g) 被験者が被るかもしれないあらゆる危険性は、
して人体実験に用いられてはならない。
被験者への直接的利益や他者への間接的利益に照
(e) 刑務所・更生施設・矯正施設に収容されている
らし、被験者にその危険性が説明されたら自由に受
人々は——「囚われた集団」であるから——被験者
け入れられるかどうかを考えて、注意深く評価され
として用いられるべきではない。年齢や知的障害の
るべきである。
ゆえに、または自由選択能力を発揮できない立場に
置かれているために、同意を与えられない人々も同
患者に利益をもたらすための実験
様である。
1. 患者に利益をもたらすかもしれない実験を行う
(f) 精神病院や知的障害のための病院に収容されて
医師は、患者が完全かつ事前に同意した範囲を超え
いる人々は人体実験に用いられるべきではない。35)
て実験を拡大するべきではない。
- 33 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
この草案に関しては、とくに、子どもと囚人を実
November,2015
世界医師会総会で採択
験対象とすることを禁じるべきかどうかで議論に
なった。子どもについては、親や後見人の法的権利
序言
との兼ね合いを主張する意見がある一方、全面的に
人々の健康を護るのは医師の使命である。医師の
禁止すべきとする意見もあった。囚人については、
知識と良心はこの使命を達成するために捧げられ
実際に被験者とされている場合もあるが、クレッグ
る。
とイタリアの医療倫理委員 A・スピネリは被験者に
世界医師会のジュネーヴ宣言は「私は私の患者の健
すべきではないと主張した。人体実験の定義が必要
康を第一に考慮すべきである」と医師に命じ、国際
か、どこまで各国に遵守を求めるか、に関しても各
医療倫理綱領は「人間の身体的・精神的な抵抗力を
国の意見は一致しなかった。1961 年中にクレッグ
弱めるような行為や助言を行えるのは、その人のた
から医療倫理委員長を引き継いだスピネリは、引き
めになる場合だけである」と宣言している。
続いて草案の検討を行うが、1962 年には米国の 2
実験室での実験の成果は、さらなる科学的知識を
人の理事が、囚人の被験者禁止に疑問を呈し、法的
得るため、および苦しむ人々を助けるために、人間
地位と広報に関して草案の文言の練り直しを求め
に応用されることが欠かせないので、世界医師会は、
た。
以下の勧告を、臨床研究を行う各医師のための指針
1963 年に医療倫理委員会は、施設の子どもと、
として作成した。ここに起草された基準は世界中の
精神病院や刑務所や矯正施設に収容されている
医師たちにとって一つの指針にすぎないことが強
人々をめぐる論争が膠着状態にあると報告してい
調されなければならない。医師たちは自国の法律に
る。施設の子どもと囚人を被験者にすることを米国
よる刑事上・民事上および倫理上の責任を免除され
は認めさせようとし、フランスと英国は禁止を主張
ない。
していた。後述するように、米国では医薬品の治験
臨床研究の領域では、その目的が本質的に治療的で
に囚人を用いており、ワクチン開発では子どもの被
患者のために行われる臨床研究と、その本質的目的
験者を必要としていた。同年、草案は検討とコメン
が純粋に科学的で研究対象となる人に治療的価値
トが求めるために全てのメンバー国に送られたが、
はない臨床研究との、根本的な区別が認識されなけ
10 月末までにコメントを寄せたのはフィンランド 1
ればならない。
国だけであった。
1964 年に入り、医療倫理委員会は「臨床研究を
行う医師の指針となる倫理的原理
I. 基本的諸原理
(Ethical
1. 臨床研究は、医学研究を正当なものとする道徳的
Principles Guiding Doctors in Clinical Research)」
および科学的な諸原理に従わなければならず、実験
と題した草案を理事会に提出したが、施設の子ども
室実験および動物実験、ないしはその他の科学的に
と囚人を被験者にしてよいかどうかは未決であっ
確立した事実に基づくべきである。
た。理事会で長時間討論が行われた結果、タイトル
2. 臨床研究は、科学に熟達した人によって、熟練し
を「臨床研究を行う医師の指針となる勧告
た医師の監督の下でのみ、行われるべきである。
(Recommendations Guiding Doctors in Clinical
3. 臨床研究は、目的の重要性が、被験者への避けが
Research)」と改め、施設の子どもと囚人に関する
たい (inherent) 危険性に見合うのでなければ、正
条文を削除した修正案が総会に提出される。6 月の
当に行うことができない。
ヘルシンキでの総会はこの修正案を全会一致で採
4. それぞれの臨床研究の計画は、避けがたい危険性
択し、文書の重要性を強調するためにこれを「ヘル
を、被験者や他の人々への期待できる利益と比較し
シンキ宣言」と名付けた。以下にこの初版の全文を
て、事前に注意深く評価すべきである。
訳出する。
5. 薬物や実験的手段により被験者の性格を変える
かもしれない臨床研究を行う際には、医師によって
ヘルシンキ宣言:臨床研究を行う医師の指針となる
特別な用心が払われるべきである。
勧告
1964 年 6 月フィンランド、ヘルシンキでの第 18 回
II. 専門的ケアと結びついた臨床研究
- 34 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
1. 病気の人の治療において医師は、命を救うか、健
切 用 い ら れ ず 、 も っ ぱ ら 「 臨 床 研 究 (clinical
康を回復するか、苦しみを緩和する希望をもたらす
research)」という言葉に置き換えられていることで
と判断できるなら、新しい治療的方法を自由に行え
ある。これは婉曲語法と思われるが、今日、医学界
なければならない。
ではその他にも、中身は実験にほかならないのにそ
もし可能ならば、患者の心理に反しない限り、医
れを覆い隠したような言葉、たとえば「臨床試験
師は、患者が完全な説明を与えられた上で自由に与
(clinical trial)」や「治験」などが、広く用いられて
える同意を、得るべきである。法的に能力がない場
いる。
合、同意は法的後見人からも得るべきである。身体
ヘルシンキ宣言初版の構成は 1961 年草案を受け
的に無理な場合、患者の許可は法的後見人の許可で
継ぎ、基本的諸原理と、患者に利益をもたらす可能
代替される。
性のある研究(治療的研究)と、治療的効果はなく
2. 医師は、患者に対する治療的価値によって正当と
科学的知識の獲得が目的の「非治療的研究」との三
される限りにおいてのみ、新しい医学的知識の獲得
部構成になっている。後述するように、この構成は
を目的とする臨床研究を専門的ケアに結びつける
2000 年に改訂第 6 版が採択されるまで維持される
ことができる。
ことになる。
ニュルンベルク綱領と比較すると、被験者の「情
III. 非治療的臨床研究
報を与えられた上での自由な同意」
(今日でいう「イ
1. 純粋に科学的な目的で人間に行われる臨床研究
ンフォームド・コンセント」。ニュルンベルク綱領
において、臨床研究が実施される人の生命と健康の
の 1)については、非治療的研究に関しては必須と
保護者であり続けることが、医師の義務である。
し(III-2 および 3)原則として書面で得ることとし
2. 臨床研究の性質・目的および危険性が医師によっ
た(III-3c)が、治療的研究に関しては「もし可能
て被験者に説明されなければならない。
ならば、患者の心理に反しない限り」
(II-1)という
3a. 人間に対する臨床研究は、被験者の、情報を与
免除条件をつけており、書面での取得も求めていな
えられた上での自由な同意なしには行えない。被験
い。被験者に対する危険性を上回る重要な目的があ
者が法的に無能力ならば、法的後見人の同意を得る
ること(I-3 および I-4。ニュルンベルク綱領の 2 お
べきである。
よび 6)
、動物実験の要請(I-1。ニュルンベルク綱
3b. 臨床研究の被験者は、選択能力を完全に行使で
領の 3)
、研究者の熟達(I-2。ニュルンベルク綱領
きる心理的・身体的・法的状態にあるべきである。
の 8)
、被験者が非治療的研究参加を取り止める自由
3c. 同意は原則として書面で得るべきである。しか
(III-4b。ニュルンベルク綱領の 9)
、危険な場合の
し、臨床研究の責任はつねに研究者に留まるのであ
研究の中止(III-4b。ニュルンベルク綱領の 10)
、
って、同意が得られた後であっても被験者に責任が
などはニュルンベルク綱領と共通している。
だが、第 5 節で述べたように、ニュルンベルク綱
移ることはけっしてない。
4a. 研究者は、被験者が研究者に依存する関係にあ
領はナチスの医学犯罪という非治療的研究を対象
る場合はとりわけ、被験者の人格全体を保護するた
としており、治療的研究に関する規定はない。ヘル
めに、個々人の権利を尊重しなければならない。
シンキ宣言初版は、治療的研究、なかでも実験的治
4b. 臨床研究の過程のどの時点でも、被験者ないし
療に関し「命を救うか、健康を回復するか、苦しみ
その後見人は、研究継続に関する許可を自由に取り
を緩和する希望をもたらすと判断できるなら、新し
消せるべきである。
い治療的方法を自由に行えなければならない」
(II-1)
研究者ないし研究班は、もし研究を継続すれば被
と述べ、医師の裁量を大幅に認めている。この記述
験者に害を及ぼすかもしれないと判断される場合
は 、 最 新 の ヘ ル シ ン キ 宣 言 2013 年改訂版でも
には、研究を中止すべきである。36)
「個々の患者の治療において、証明された介入法
が存 在 しないか、その他の既知の介入法が有 効 で
ヘルシンキ宣言初版を 1961 年草案と比較したと
なかった場合、医師はそれが命を救うか、健康を回
き、まず目を引くのは「実験 (experiment)」ないし
復する か、苦しみを緩和する希望をもたらすと判
「人体実験 (human experiment)」という言葉が一
断できる なら、専門家の助言を求め、患者ないし
- 35 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
法的代理人
November,2015
からインフォームド・コンセントを
また、米国の製薬企業はワクチンの開発にも力を
得た上で、未証明の介入法を実施してもよい」37) と
入れていたが、ワクチン実験には子どもが被験者と
いう 37 条の文言の中に残っている。
して必要で、1950-60 年代には施設の子どもたちが
数多くワクチン試験の対象となった。たとえば、J・
7. 子どもと囚人の利用禁止の削除——米国の影響
ソークのポリオワクチンはパルケ・デイヴィス製薬
また、1961 年草案に明記されており激しい論争
会社(1970 年にワーナー・ランバートに買収され、
を呼んだ、施設の子どもと、「囚われの集団」すな
ワーナー・ランバートは 2000 年にファイザーに買
わち戦争捕虜、拘束された市民、刑務所・更生施設・
収される)と提携して開発されたが、最初に実験が
矯正施設・精神病院・知的障害者施設などに収容さ
行われたのは施設の知的障害児に対してだった。麻
れた人々を、非治療的研究の被験者とすることの禁
疹ワクチンは、女性刑務所で母親である受刑者と一
止は、ヘルシンキ宣言初版には盛り込まれなかった。
緒にいた幼い子どもたちや、グループホームの知的
この禁止を主張した英国やフランスは、禁止の削除
障害児や身体障害児に行われた。ニューヨーク近郊
を求めた米国に押し切られた形になった。『英国医
のウィローブルック州立養護学校では、重い知的障
師会雑誌』は、ヘルシンキ宣言草案の審議過程で囚
害のある幼児や子どもたちが、肝炎ワクチン開発の
人を被験者に用いることを認めたのは「米国の影響
ための実験台にされた 15)。
による」38) と明記し、採択されたヘルシンキ宣言
一方、第 1 節で述べたように、世界医師会は当初
を歓迎しながらも「[草案の]修正が多少草案を弱
から財政を米国医師会に大きく依存していた。米国
めたことを残念に思う」39) としている。しかしそ
医師会は世界医師会向けに「米国委員会」を製薬企
れは、これらの禁止を受け入れるわけにはいかない
業と共に組織していた。米国委員会には多数の医師
米国の事情と、米国の意向を受け入れざるを得なか
が個人として加わっていた(1949 年には 1200 人の
った世界医師会の事情によるものであった。
米国人医師から 10 ドルずつを集めた)ほか、ワー
第 5 節で述べたように、1954 年の決議に関して
ナー・ハドナット(ワーナー・ランバートの前身)
、
も世界医師会は、プラセボ対照試験に関する言及を
ホフマン・ラロッシュ、アボット、イーライリリー、
削除するよう主張した米国の提案を受け入れてい
バロウズ・ウェルカム(現グラクソ・スミスクライ
た。G・アナスは「1964 年のヘルシンキ宣言の最終
ン)、フィリップ・モリス、チャールズ・ファイザ
的な採択を後押ししたおそらく最も重要な単一の
ー(現ファイザー)
、マクニール・ラボラトリーズ
出来事は、米国食品医薬品局 (FDA) が、サリドマ
(現ジョンソン・エンド・ジョンソン)
、E・R・ス
イドの悲劇を受け、米国内の実験的医薬品研究の標
クイブ(現ブリストル・マイヤーズ・スクイブ)と
準化を提案したことである」と述べる 40)。サリドマ
いった製薬企業の重役も「関心のある実業人有志
イド薬害を教訓とした 1963 年の食品医薬品化粧品
(interested business friends)」として名を連ねてい
法改正(キーフォーヴァー・ハリス修正)と FDA
た。上述したように米国委員会は 1947 年から 5 年
の新たな規制によって、新薬の承認のためには有効
間、毎年 5 万ドルずつ拠出して草創期の世界医師会
性と安全性を「実質的証拠」によって示さねばなら
を支えたが、1950 年代末から 1960 年代初頭でも世
なくなり、プラセボ対照を含む大規模な無作為化比
界医師会の活動資金の約 3 分の 1 を出していた。
較対照試験が必要になる。そうした治験の被験者と
1964 年末からは毎年 10 万ドルを 5 年間拠出すると
して刑務所の囚人は欠かせなかった。『英国医師会
確約している 42)。米国からは人材的にも、事務局長
雑誌』は、アウシュヴィッツの被収容者に対するナ
や理事、会誌の編集長などを輩出した。A・スミス
チスの医学実験を裁いた米国自身がいまや受刑者
は『米国医師会雑誌』の編集長から『世界医師会雑
を実験台にしていると指摘し、「米国の刑務所の受
誌』の編集長へと転身したが、彼の任期中の 1950
刑者はすばらしい実験材料だ——それにチンパン
年代は医薬品開発が盛んな時期であり、1951 年に
ジーよりずっと安く上がる」という「私の知るある
270 万ドルだった広告料は 1959 年には 800 万ドル
38) 。
まで増えた。スミスは編集長退任後、米国製薬企業
FDA によると 1972 年までに治験薬の 9 割以上は主
の連合会会長に就任したが、なお米国委員会の会長
に米国の刑務所の囚人を被験者としていた 41)。
として世界医師会への影響力を保ち続ける。1959
米国の優秀な医学者」の発言を紹介している
- 36 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
年にスミスは、世界医師会には運営上および財政上
ンセントは立会人の下での文書化が求められた。し
の問題があり、米国委員会はこれ以上関与できない
かし、対照群にプラセボ(偽薬)を投与することや、
と警告する。米国の憂慮を伝えるため、米国医師会
研究終了後に被験者に医療を提供することをめぐ
の評議員会は、ヘルシンキ宣言草案がまさに検討さ
る論争は続き、2002 年と 2004 年には該当する条項
れていた 1963 年、米国医師会と世界医師会の関係
に「明確化のための注釈」が加えられる。2008 年
について、委員会を作って検討する。この委員会に
の改訂でこれらの注釈の内容は本文に繰り入れら
は、世界医師会の医療倫理委員会の委員であり、囚
れた。
人と施設の子どもの被験者禁止に反対していた G・
2013 年フォルタレザ総会で採択された現行版 37)
ドーマンが加わっていた。そして、ヘルシンキ宣言
では 3 度目の全面改訂が行われた。序文、一般的原
が採択されたのち、1965 年 12 月に米国委員会は解
理の後は、内容ごとに見出しをつけ、該当する条文
散する
15)。
を集めて整理した。研究による損害の補償と治療を
このように、世界医師会には、米国の意向に逆ら
保証すること、社会的弱者を保護すること、研究終
いがたい事情があった。一方、米国の医学界はヘル
了後の医療提供について事前に条項を定めること、
シンキ宣言を歓迎し、米国医師会、米国内科医会、
全臨床研究をデータベースに事前登録すること、な
米国外科医会、米国小児科医会などが同宣言を採用
どが明記され、プラセボ対照試験に関する規定も明
する。学会発表や医学雑誌への投稿にあたっては、
確化された。
ヘルシンキ宣言を遵守して研究を行ったことを署
名で確約した文書を要求されるようになった。
結語
ナチスの医学犯罪を裁くためにニュルンベルク
8. その後のヘルシンキ宣言改訂の概要
綱領を起草し、戦後の世界の研究倫理基準を定めた
ヘルシンキ宣言はその後 7 回におよぶ改訂を経て
のは、米国の判事たちであった。ニュルンベルク綱
いる。そのうち、とくに大幅な改訂がなされたのが、
領の第 1 条は「被験者の自発的な同意は絶対に欠か
1975 年、2000 年、2013 年である。
せない」とし、被験者が「同意を与える法的能力を
1975 年東京の総会で採択された最初の改訂版 43)
持っていること、力や詐欺や欺瞞や拘束や出し抜き
は、「特別に任命された独立の委員会」による事前
などのいかなる要素の介入も、その他隠れた形の束
の研究計画審査や、ヘルシンキ宣言に従わない研究
縛や強制も受けることなく、自由に選択する力を行
成果を医学雑誌が掲載しないよう求めること等、大
使できる状況にあるということ、および、理解した
幅な改訂が行われた。インフォームド・コンセント
上で賢明な選択を行うために、当該のことの諸要素
は基本的諸原理へと移されたが、書面で得ることは
に関し十分な知識を持ち理解すること、を意味して
「望ましい (preferably in writing)」とされるに留
いる」と述べている 47)。
まった。
しかし、ナチスの医学犯罪への悔悟から出発した
その後 3 回の小さな改訂を経て、1999 年には米
世界医師会が人体実験の基準として定めたヘルシ
国の R・ルヴァインを座長とする作業班が宣言の見
ンキ宣言の初版に、施設の子ども・戦争捕虜・拘束
直しに着手した。ルヴァインの作業班は従来のヘル
された市民・刑務所や矯正施設の被収容者・知的障
シンキ宣言を厳しく批判し、抜本的な改訂を提案し
害者や精神障害者を非治療的研究の被験者にして
た。だが、この作業班報告をめぐって医療倫理委員
はいけないという文言を盛り込ませなかったのは、
会は紛糾し、結局、3 人の女性理事からなる新作業
同じ米国の、医学界や製薬業界であった。
班に改訂案の作成が委ねられた
44)45)。2000 年のエ
ディンバラ総会で採択された改訂版
46)は
「A.
序論」
「B. 全ての医学研究の基本原理」「C. 医療ケアと
世界的に製薬業界の力が陰に陽に医学界を動か
している今日、この歴史の皮肉が何を意味するのか、
深く考える必要がある。
結びついた医学研究のための追加原理」の三部から
なり、治療的研究と非治療的研究を峻別する構成を
撤廃して、治療的研究に特有な条件を別立てで定め
る形をとった。書面によらないインフォームド・コ
- 37 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November,2015
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31) 土屋貴志:日本軍が行った人体実験はなぜ「悪
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
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著者プロフィール
41) Harkness, J.: Research Behind Bar: A History
土屋
of
American
1961年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科哲学
Prisoners, Ph.D. Dissertation, University of
専攻博士課程単位取得満期退学。専門は倫理学、医
Wisconsin, Madison, 1996. Cited in 15).
療倫理学、人権問題研究。杉野女子大学・横浜国立
42) Gilder, S.: World Medical Association Meets in
大学・千葉大学等の非常勤講師を経て、1994年より
Helsinki, BMJ, (2), pp.299-300, August 1, 1964.
大阪市立大学教員(2015年現在准教授)。15年戦争
43) World Medical Association: Second version of
と日本の医学医療研究会幹事。
Nontherapeutic
Research
on
- 39 -
貴志(つちや たかし)
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November,2015
私の中国留学体験より
原
文夫(15 年戦争と日本の医学医療研究会監事、元大阪府保険協会事務局長)
My experience note of going to China for the study
HARA Fumio
はじめに
私は 2014 年9月から 2015 年1月までと、同年
4月から7月まで、中国遼寧省大連市にある遼寧
師範大学国際教育学院に留学し、主に中国語を学
んできた。定年退職し手に入れた“時間”を有効
に使うこと、2000 年頃から関わってきた中国の皆
さんとの交流を今後も続けていくこと、そのため
に僅かであっても中国語を理解したいしまた中国
について知りたいと考えたからだ。
遼寧師範大学国際教育学院には、世界各国(40
カ国ほど?)から中国語を学ぶために留学生が集
まってきていた。私は1年足らずの短期間で中国
語をマスターすることは極めて困難だということ
を再認識したが、しかし、この間に中国という国、
中国人の世界で様々な体験をし、また 20 歳前後の
若い中国の学生たちや他国の留学生と交流を深め
られたことは得がたいものだった。
考えが変わった。広島や長崎では、まったく罪の
ない多くの子供たちまでが無残に殺された。私は
いかなる戦争も二度と繰り返してはならない、
そのために歴史を学び教訓にしなければと改めて
思った。そして私はいつも中国と日本の皆さんに
言い続けている、
『重慶から広島へ、広島から重慶
へ』と」
。
なぜ大連へ 井上ひさしの「夢の都」
定年退職が1年後に迫る頃、私は中国留学へ向
けて準備をはじめた。行き先をどこにするか。
私も参加して 2013 年に保団連が 731 部隊跡地
などを視察した旅の折、現地ガイドの1人が日本
語の堪能な大連在住の人だった。彼の話では、大
連は海に面していて 1 年を通じ気候が良く、海風
があるので北京等のような大気汚染(PM2.5)は
あまり見られない、とのことだ。私はそれを思い
出し、さらに日本と中国の近現代史で重要な場所
だった大連になぜか関心が及ぶようになった。
そうした中、古本屋で井上ひさし著の『井上ひ
さしの 大連 -写真と地図で見る満州』
(小学館、
2002 年刊)という本を見つけて購入した。井上氏
は国民学校(小学校)の生徒だったころ大連に引
っ越していった友達から届いた絵葉書を見てから、
大連が「夢の都」として心にこびりついてしまい、
以後、なけなしのお小遣いをはたいては大連に関
する絵葉書などを買い集めたという。氏によれば、
「その頃の大連には信じられないほどたくさんの、
後に名を成す若い日本人たちが必死の思いで生き
ていたことが、絵葉書の収集を通して次第に分か
ってきた」、
「日本の敗戦以降でも、極東赤軍管理
下の地獄のような大連で、懸命に生きていた若い
日本人たちの名を挙げれば、大連放送局アナウン
サーに糸居五郎、大連放送管弦楽団にジョージ川
口と秋吉敏子、そして放送局では藤沢嵐子や黒木
曜子が歌っており、それを聞いていた中学生に山
田洋次や清岡卓行や羽田澄子がいた。
・・・・・こ
のような、のちの日本文化を背負うことになる人
たちが、懸命に生きていた大連は、別の意味でや
はり私の『夢の都』であり続けている」
。この井上
ひさしの本が、私の背中を強く押してくれた。
それからインターネットで情報を集めていると、
かつて大連の大学に留学し、現在は埼玉県在住で
大連への留学者をボランティアでサポートしてい
る方を知った。その方のアドバイスを頼り留学先
を模索する中で、遼寧師範大学を知り計画を練っ
留学の動機 ―歩平先生に学び
私は 2014 年4月に、42 年間勤めた職場を定年
退職したが、その職場に在職中の 2000 年に中国の
東北地方、戦前に「満州国」の一部であった黒竜
江省のロシア国境沿いに存在する「関東軍ソ満国
境要塞群」の日中合同調査に参加したことを契機
に、中国の歴史研究者などとの交流に関わってき
た。
しかし、この中の中国の皆さんとの交流や中国
語への対応は、通訳に依存しないと何もできない
点をもどかしく感じていた。そしてある時、2000
年当時からお世話になっていた歩平・中国社会科
学院近代史研究所所長(当時。その前は黒竜江省
社会科学院副院長)が、次のように言われたこと
が、私が中国語を学ぼうと考える契機になった。
歩平氏は 2005 年 5 月に発刊された日本・中国・
韓国 3 国共同編集『未来をひらく歴史 -東アジ
ア3国の近現代史』の中国研究者代表を務め、ま
た 2006 年、当時の第一次安倍晋三内閣時に発足し
た日中歴史協議で中国側座長を務めるなど中国を
代表する近代史研究者である。
彼はこう言った。
「その国の歴史やその国のこと
を真に学ぶためには、やはりその国の言葉を学び
その国の言葉で理解することが大切だ。私はそう
考え、日本語を学んできた」。「私の父は日本軍の
重慶無差別爆撃で負傷し、九死に一生を得た。私
も当初は日本への強い憎しみを持っていた。しか
し、歴史研究者として日本の広島と長崎を訪れて
連絡先:〒586-0044 大阪府河内長野市美加の台2-31-15
Address: 2- 31- 15 Mikanodai Kawachinagano City Osaka
- 40 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
た。以後、大学の入学手続き書類をネットで入手
して申し込み、審査許可を受け取ってから中国総
領事館(大阪市西区)へ出向いて半年の留学ビザ
申請をし、またネットで大連までの格安航空券を
購入した。
年以来 40 か国以上の国および地区の 12,000 人以
上の留学生および華僑学生を受け入れている。
・大連について
大連は遼東半島の南端に位置し、東に黄海、西
に渤海、南に海を隔てて山東半島を望む位置にあ
る。日本の仙台市、アメリカのサンフランシスコ
市と同緯度だが、気候はモンスーン型温暖気候に
属し、他の中国東北地方と比べて温暖で過ごし易
いため中国各地からの観光客も多い。現在、多く
の外国企業が進出する経済先進地域で、
「北方の香
港」とも呼ばれる港湾都市である。
歴史的には、大連はかつて三山浦と呼ばれる小
さな漁村にすぎなかったが、19 世紀後半、ヨーロ
ッパ列強の侵略が本格化すると、清朝政府はその
圧力に屈し 1898 年、帝政ロシアとの間に旅順と大
連を租借地とする条約を結ぶ。翌年、帝政ロシア
の勅令により青泥窪一帯は「ダーリニー(ロシア
語で「遠い」
)とされた。その後、日露戦争を経て
日本による直接統治が始まった 1905 年、日本軍に
より現在の都市名である「大連」と名付けられ、
都市として大きく発展するに至っている(『地球の
歩き方』等より)。
大連は日露戦争以降の日本と中国・ロシアの関
係史、戦前の日本帝国によるアジア侵略の重要な
舞台・拠点となってきた。かつて日本の「関東州」
であり、旧「満洲国」の玄関であった。そして現
在は中国の中でも日本企業が多く進出し、そこへ
の就職をめざすために日本語を学ぶ人たちが多い、
日本との関係の色濃い街である。また大連港は、
中国で現在唯一の空母「遼寧」(ロシアから購入)
の母港でもある。
遼寧師範大学(国際教育学院)
同校のホームページによれば、以下のとお
り。 ・・・1951 年8月に旅大師範専科学校とし
て、初等・中等教育の教師を育てるために創立さ
れ、1983 に遼寧師範大学と改名、これまで 20 万人
余りの人材育成を進めてきた。現在、
職員 1800 人、
専任教員 1000 人余、全日制学部生約 15,000 人、
修士・博士生 5,000 人余が在籍している。20 の学
部と大学院、さらに3つの博士課程研究ステーシ
ョンが存在し、45 の博士学科及び 160 の修士学科
がある。学部生は 86 の学科・専攻が学べる。
「徳
に厚く、博く学び、人に師たれ」を校訓とし、大
学院教育、留学生教育およびその他各種教育の発
展に力を入れている。
同校の国際教育学院は、留学生・華僑学生・対
外中国語修士生を対象にした学院で、中国国家教
育部認定の留学生受け入れ校、中国国家教育部指
定の中国政府奨学生受け入れ校、国務院華僑事務
所認定の中国語認定基地である。また中国の中国
語能力検定試験(HSK)の大連試験センター。1985
- 41 -
私の留学生活
・私のクラス
中国の大学(各学校)は9月が新年度で、翌年の
1月までが前期、3月から7月までが後期である。
私が在籍していた時の外国の語学留学生は、多分
200~250 人ほどだったと思う。アジアをはじめ欧
米や中東、中南米やアフリカなど 30~40 カ国から
来ていたが、一番多かったのは韓国人だった。日
本人は全体から見れば 1 割程度で、20 歳前後の交
換留学生等もいる一方、私のように定年退職か早
期退職して来ている人が半数ほどだった。定年退
職後の留学生は日本人以外にはあまり見かけなか
った。
9月5日、前期のクラス分け試験で私は初級4
班とされた。クラスは初級が4つ、中級が3つ、
高級が2つ? 初級4班は易しい方から4番目と
いうことである。
クラスの人数は様々で、私のクラスは当初 20 人
を少し超えていて、韓国人、ロシア人、ドイツ人、
そして日本人が3人(私と女性3人)だった。し
かし1~2週間ほどのうちに各人の希望でクラス
移動があり、どういうわけか韓国人と日本人だけ
のクラスになってしまった。韓国人はまだ現役の
大学2~3年生や、20~30 歳代で企業から派遣さ
れて来たという人や夫の仕事の関係で中国に来て
いるという主婦など様々だった。日本人は全員 60
歳を超えた面々で、最高齢は年が明けると 70 歳に
なる女性だった。
クラス担任は、まだ 30 歳前と思われる可愛らし
い女性で口語(スピーチ)の教師だった。若い韓
国の留学生たちは、彼らの親よりもまだ高年齢の
私達日本人に何かと配慮してくれているように感
じた。韓国は儒教の国だ。毎日の授業に欠かさず
出席し遅刻しないのは私達日本人の4人と班長の
朴君、そして韓国人の2人ほどで、頻繁に遅刻し
てくる学生も少なくなかった。クラスに籍はあっ
てもほとんど見たことのない学生もいて、3か月
後に氏名が校内に張り出され退学処分(国外退去)
とされた。比較的取得し易い「就学ビザ」で入国
し、どこかで働きお金を稼いでいるのではないか
ということだった。
翌年4月には後期の中級1班に途中編入した。
前期のクラスメートが日本人と韓国人で若干名い
て、いろいろと教えてくれた。担任の教師はモン
ゴル族だという中年女性で、総合(文法など基本)
の担当だった。学生は 30 人ほどで、やはり韓国人
が一番多く、日本人は数人、そしてロシア、旧ソ
連圏だったタジキスタンやウズベキスタンなど、
またイスラム圏からも数人がいた。班長は韓国人
の女性が選ばれていた。ここでも毎日遅れず出席
するのは日本人と2~3の韓国人で、他はよく欠
席・遅刻していた。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
・私の部屋
私は大学構内にある外国人留学生寮に入居した。
留学生が学ぶ国際教育学院はここから歩いて3~
4分でとても便利だった。
最初の私の部屋(2号楼、1 階南向き、1人部
屋、
)はトイレ・シャワー室付ワンルームで、ベッ
ド、机、洋服ダンス、エアコン、テレビ、それに
冬の暖房用スチーム(暖気)があり、部屋代は1
日 60 元(現在のレートで1元は約 20 円)だった。
外見は綺麗だがしかし建物はかなり古く、机や洋
服箪笥などは壊れていて引き出しがきちんと収ら
ず、シャワー室のドアは下の部分が腐食して開閉
の度に少しずつ剥がれ落ちる。テレビは当初、日
本のNHK衛星放送が映らず、エアコンもほとん
どフィルターなどの掃除をしたことが無いらしく、
初めて使用した時には焦げ臭い埃が吹き出した。
洗面台の蛍光灯は何処かが壊れているらしく点灯
せず、管理人に修理を要請したが、修理に来たの
は1か月後だった。修理人がやってきて修理して
帰ったが、部屋の入り口の元のスイッチのある壁
に大きな穴をあけたまま、さらにその壊れた壁の
破片が床に散乱したままだった。やむなく自分で
ガムテープを買ってきて穴を塞いだ。
ベッドは大きなサイズで部屋の半分を占めてい
た。シーツは月に2回洗ったものと交換できたが、
薄手の布団と毛布が各1枚と枕があるだけで、し
かも毛布はかなり古く、毛玉がいっぱいで部屋中
が埃だらけになるため掃除が欠かせなかった。そ
のため、私は安い中国製のハンドクリーナーを買
い、3日に1度は掃除した。
冷蔵庫と電子レンジ・電気プレート、そして電
気洗濯機は各フロアに共用の場所(炊事・洗濯場)
があり、留学生は空いている時にそれを使ってい
た。洗濯機はカード(100 元で無くなるとチャージ
する)を購入して使用するシステムだ。私は近くの
スーパー(超市)で安い電気ポットとマグカップ、
コップを買い、部屋でお湯を沸かしてコーヒーや
インスタントラーメンなどを食べられるようにし
ていた。
翌年4月に再び訪れた時は、冬休み中に寮の内
装などが改修されていて、私は2人部屋に1人で
入居した(日本人留学生は大半が同様)
。机やベッ
ド・シーツ、洋服箪笥からテレビやエアコンが新
品となり、電気ポットも設置されていて快適だっ
た。ただし、部屋代が1日 70 元に値上げされた。
・食事
食事は大学構内に5ヶ所の大きな学生食堂があ
り、中国各地の様々な料理から韓国風や「日式」
という看板を掛けて丼や麺など、あるいはおかず
とご飯(米飯)等が売られていて、学生たちはカ
ード(飯卡、100 元でチャージする)で買って食
べていた。その他、大学の周囲に様々な学生相手
の店や屋台が立ち並び、低価格の食べ物を販売し
ていた。また果物屋が何件も並び、リンゴや梨、
ミカン、ブドウ、スイカ、メロン、バナナなど各
- 42 -
November, 2015
種の果物が豊富に売られていた。
私はいつもリンゴと棗(なつめ)あるいはトマ
トを買い、朝食はスーパーで買うミニパンとリン
ゴ半分、そしてコーヒーか紅茶で済ませていた。
昼食はだいたい学生食堂を利用していたが、日本
でいう丼(盖饭)や麺などが安いもので 6 元くら
いから、高くても 14~15 元で食べられる。あるい
はトレイに好きななおかずを盛ってもらい、ご飯
(米饭)を食べてもよい。10~12 元ほどだ。だか
ら、ここでの食生活は1日数十元で十分賄える。
何れも量が多く、私はいつも3分の1ほどを残し
た。夕食は大学の外の店で食べるか(値段は学生
食堂とあまり変わらない)
、店から買ってきて部屋
で食べた。
学生食堂でも学外の店でも、料理は大体が油を
多用したものが多く、またよく分らずに注文した
ら、辛すぎて食べられなかったりで慣れるのに苦
労した。一度、夜中に気分が悪くなり、数回嘔吐
したことがあったが、多分油ものを食べたことが
原因かと思われる。以後、食事にはかなり慎重に
なった。
私の中国での食生活でこれまでと大きく変わっ
たのは、晩酌などをほとんどしなかったことだ。
それは毎日予習・復習をしないと授業についてい
けないという、より切迫した現実があったからだ。
こういう生活が続いた結果、なぜか私の体重は帰
国時には中国留学前より数キロ減り、ベルトがゆ
るゆるになり当惑した。
・授業と教師について
学校の授業は月曜日から金曜の朝8時からで、
1科目が途中5分間の休憩をはさみ 9 時 35 分まで、
2科目が 10 時から 11 時 35 分までだ。科目は、前
期が「総合」
「口語」
「読写」
「聴力」の4つだ。
「総
合」は一番ベースになる中国語の基本を学ぶもの
で、初級の教科書では 25 の短編の話(物語など)
を読み、漢字を覚え文法を理解するものだ。
「口語」
は日常会話が出来るようになる事を主眼とするも
のだ。
「読写」は字の如く中国語での読み書きがで
きるための訓練で、前期の教科書には韻を踏んだ
リズム感のある文章などが続き、毎回短い作文が
求められた。
「聴力」も字の通りで、中国語の話を
いかに正確に聴き取るか、聴く力を養う教科だ。
ここでは大半がヘッドホンで、流される中国語(会
話など)を聴き取る方式での授業だった。後期の
中級では「読写」の替りに「報刊閲読」で、新聞
や雑誌の記事などをできるだけ早くポイントを掴
み読み取る訓練だった。
もちろん授業もすべて中国語のため、当初は私
にはちんぷんかんぷんで焦った。そのため、授業
についていくために、予め予定されている課の単
語を辞書で調べて意味を理解しておくなどの予習
が欠かせなかった。また判らないことは先生に聞
くこともあるが、日本人同士で確認しあったり韓
国人のクラスメートに聞いたり手探りで学んだ。
後期には辅导講師の中国人院生などに教えてもら
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
うことが多かった。
教師は前期もまた後期も4教科とも女性だった。
というより、この学校では女性教師が8割以上を
占めていて当然そうなるようだ。また、中国語の
発音を聴き取り理解するには女性の声の方が適し
ている。そして前期の「口語」と「読写」の教師
はまだ若い独身女性で、私達からみると自分の娘
よりまだ若く、最初はなにか不思議な感覚だった
が、熱心に教えてくれてこちらもその熱意に応え
ねばならない、という気持ちになった。
・私の1日と1週間
留学生たちは授業が終わると多くは食堂へ昼食
を摂りに行き、午後はフリーで、部屋に帰って復
習や予習をしたり、食堂の片隅や喫茶店で自主学
習(辅导学習や互相学習)したり、学外で個人教
授を受けたりそれぞれだ。また学校として行う特
別講座の「中国の歴史」
「中国語について」や太極
拳教室などに参加したり、自主的に同校院生など
のサークルが開く中国伝統文化の紹介(切り絵、
音楽・楽器・・)などに参加したりだった。
私は朝 6 時に起床し(日本と時差が1時間あり、
日本の 7 時が中国の6時)、洗面などを済ますと、
テレビを見ながら朝食を食べ、そのあと当日の授
業の予習でCDを聴いたり漢字の読み書き訓練な
どを少しして教室へ出かけた。
午後は前期では週3回(月、水、土)
、後期は 4
回、各2時間、同校の院生を講師に中国語を学ぶ
辅导学習と、毎週土曜日に3時間、同校日本語学
科の学生と中国語と日本語の相互(互相)学習に
取り組んだ。また週に4~5回、夕方の 1 時間ほ
ど学校の北側にある 50mほどの山に登り、山頂に
ある運動具を使うなどで運動をした。夏は学校の
グラウンドの周りを近所の住民たちが歩いてぐる
ぐる回り運動していたので、その列に加わり体を
動かしたこともあった。
日曜日は部屋の掃除や洗濯など、そして予習・
復習に費やした。夜は夕食の後シャワーを浴び、
予習復習やテレビを見たりし(中国語の勉強のた
め)
、毎日午後 10 時からはインターネットのスカ
イプで日本の妻と会話した。これは双方の日々の
様子を共有し必要事項を相談するためだが、毎日
互いの顔を見ているため、中国と日本という距離
感をあまり感じることがなかった。
・辅导・互相学習と中国の学生たち
私の自主的な中国語学習(辅导学習)の講師は、
同校で外国人のための中国語教育を専攻している
大学院生だった。最初は先輩の日本人留学生から
紹介された瀋陽出身の 24 歳の女性で、彼氏が日本
の佐賀大学大学院に留学していて、彼女は日本語
を話せないものの日本の事情にはよく通じていた。
辅导学習は1時間 30 元を支払い教えてもらうの
だが、彼女は非常に優秀で、私の中国語のレベル
に合わせ、最初は発音練習から始め、雑談などを
交わしつつ少しずつ私が中国語会話に対応できる
- 43 -
よう努めてくれた。また授業でわからなかったと
ころや宿題のチェックまで幅広くサポートしてく
れた。
しかし彼女は、12 月半ば過ぎに突然政府から連
絡を受け、韓国で中国語を教えるポストの試験に
合格したとのことで、すぐに北京での研修に出向
かなければならなくなり、以後、私の辅导講師は
彼女の知り合いの院生に交代した。その彼女は山
東省・阳台出身で、物腰のやわらかい 24 歳の女性
だった。彼女もなかなか優秀で、やはり私の中国
語のレベルを見極め、会話能力を高めるようにい
ろいろと配慮してくれた。彼女も後に行き先が決
まって別の院生に交代し、この間に5人の院生に
世話になった。
一方、私の互相学習の相手をしてくれたのはや
はり先輩留学生の互相学習相手から紹介していた
だいた朝阳出身で同校日本語科専攻の3年生の女
性(20 歳)だった。日本語を学び始めて2年だと
いうが、なかなかどうして日常会話はあまり不自
由がない。学習では、私が彼女に日本語を教え、
彼女に私の中国語をチェックしてもらうのだが、
私の中国語力が足りないため、つい日本語の会話
になってしまった。彼女には私が留学生国際文化
交流会で発表する「日本伝統文化の一つ、
“茶道”」
のPPTの中国語を手直ししてもらうなどいろい
ろとサポートしていただいた。
この他、同校日本語学科の学生とは 10 人ほどと
よく関わった。昼の時間に学生食堂へ行くと、日
本語学科の学生たちが毎日のように何人か私たち
日本人留学生を目当てに食事をかねてやってきた。
少しでも日本語の会話をして日本語能力をアップ
させたいのだ。
ところで、この大学の学生は 90 パーセント以上
が女子で、ほとんど女子大のような感じだ。今の
中国では、教師は主に女性の職業のような趣があ
る。そしてこの遼寧師範大学には地元の遼寧省な
ど中国東北地方をはじめ中国の全土から学生が集
まってきていた。私たちが萌ちゃんと呼んでいた
19 歳の日本語学科の学生は、パンダの古里・四川
省から来ていたが、「どうして遠い大連に来た
の?」と聞くと、
「北京や上海の大学は学費や生活
費が高いから」で、比較的安いここ大連にきたの
だという。春節などで実家へ帰るのに、列車で 10
数時間もかかるそうだ。
彼女・彼たちに聞くと、学生寮では1~2年生
は8人部屋、3~4年生は4人部屋で、自分の机
の上がベッドになっているという。しかしそこで
はあまり集中できないので、朝起きて食堂へ行き、
朝食が済むとすぐ図書館へ出かけ、そこで自分の
席を確保し、授業から帰るとその席で夜まで勉強
するとのことだ。3年生には 11 の教科があり、日
本語の教科書のいくつかを見せてもらったがなか
なか高レベルだ。それらの試験が断続的にある。
試験の結果が彼女たちの目標である留学や就職な
どに繋がっており、なかなか息を抜けない。土日
にも講義や試験があるのだという。私はこういう
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
彼女・彼たちをみていて、今の日本の若者とは異
なるひたむきさを強く感じた。
・同学・朋友との交流
私の手探りの留学生活で、一番頼りになったの
は日本人の留学生たち、とくに先輩留学生たちだ
った。中国という国や社会、大学でも寮でも伝達
や連絡が日本のように懇切丁寧ではない。毎日自
分でアンテナを張り、注意していないととんでも
ないことになりかねない。これは私が遼寧師範大
学に留学してきた時、日本人留学生の先輩たちか
ら異口同音に聞いたことで、実際そのとおりだっ
た。しかし私たちは留学生どうしの繋がり、特に
日本人ネットワークで様々に対応してきた。
最初に寮に入った時、中国で 7 年暮らしている
という熊本県出身の T さんが、荷物運びから携帯
電話の購入などさまざま手伝ってくれた。京都か
ら来ている I さんには、食事や食堂のことを教え
ていただいた。I さんは、2年前から留学しており、
一度油っこい食事のために肝臓の数値が悪化して、
以後さまざま注意しているとのことだった。また
しばしば起こる寮の断水に備え、バケツに水を蓄
えておくことなども教えていただいた。同じく 1
年前から留学している東京の B さんや H さんから
は、辅导・互相学習のことを教えていただいた。
Hさんには私の部屋のテレビで当初見られなかっ
たNHKを見られるように調整していただいた。
それから、同期で留学した日本人同士でも助け
合った。やはり中国で働いていた経歴がある S さ
んは、私のパソコンがおかしくなったとき修復し
てくれた。また彼の行きつけの日本居酒屋は、一
つのオアシスだった。何か困ったことなどあれば、
これらのネットワークが本当に頼りになった。
先にも触れたが、私のクラスメートで特に私も
信頼を寄せ親しかったのが朴君だった。もともと
理工系で鉄鋼関係の研究職にいる彼は、ギターを
弾いて歌もうまくプロ顔負けの声量がある。お酒
も大好きらしく、席を隣にした話の中でしばしし
ば意気投合した。そして私が彼を日本居酒屋へ誘
い、彼は私を韓国人が集まる焼肉店へ招待してく
れた。朴君は 12 月 23 日に行われた「留学生クリ
スマス&新年交流会」で、中国人研究生とデュエ
ットで出場し見事な声量で歌って満場の喝采を浴
びた。クラス最後のお別れ会で、もし日本へ来る
ことがあれば、必ず連絡をとり再会しようと約束
した。
・諸行事、交流会への参加
私は僅か 1 年に満たない短い留学期間に、でき
る限り中国を知り、中国人と交流したいと考え、
いろんな催しや機会に積極的に参加した。
前期には、
新入生運動交流会(14 年9月 21 日)
、
全学参加の体育会(9月 29 日)、青島旅行(9月
29 日~10 月 2 日、日本人留学生 4 人で)、旅順へ
の日帰り旅行(10 月5日)、中国語弁論大会(10
月 16 日、日本人留学生も何人か登場)
、大連現代
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November, 2015
博物館へ(12 月4日、日本人留学生3人で)、留
学生文化交流会(12 月5日、私ともう 1 人の 2 人
で「日本伝統文化の一つ“茶道”」を発表)
、大連
出身の世界的古箏奏者・关杰が率いる古箏芸術学
校の音楽発表会を聞く(12 月 14 日、市庁舎ホー
ルで)
、留学生などを中心にしたクリスマス&新年
会(12 月 23 日)
、クラスのお別れ昼食会(12 月
31 日、近くの中華料理店で)、大連京劇院へ出か
け初めて京劇(四郎探母)を鑑賞(2015 年1月2
日)
、前期の修了式(结业式、私は「全勤賞」と「活
動参加賞」を受賞)
、中国人ツアーに加わり西安旅
行へ(1月8~11 日)など・・。
後期には、大連市森林動物園へ(4月 18 日、中
国人学生と)
、同校日本語学科 1 年生の「日本語コ
ーナー」で「私の中国留学体験記」を報告(4月
23 日)
、
労働公園でチューリップ鑑賞
(4月 27 日)、
ロシア街へ(4月 29、ロシア人のクラスメート等
と)
、海浜リゾート金石灘へ(4月 30 日、中国人
学生と3人で)
、旧満鉄跡博物館・旧ヤマトホテル
へ(5月2日、中国人学生と)
、大連市徒歩大会へ
参加(5 月 17 日)
、留学生音楽会(5月 20 日)、
風邪のため大学の診療所を受診(5月 25 日、3日
間点滴、1週間登校休む)
、映画鑑賞(5月 30 日、
中国人学生と)
、日本人留学生有志の昼食会(6月
4日)
、開通した大連市の地下鉄に初乗車(6月6
日、中国人学生と)
、日本語学科の学生たちと西山
ダムへハイキング(6月 11 日)
、旅順へサクラン
ボ狩り、夕方は大連の日本人会による MATURI
に参加(6月 13 日)
、丹東へ旅行(6月 27、28
日、日本人留学生・中国人学生と3人で)
、後期終
業式(7月3日)
・・・等々。
・期末試験と終業式
前期の期末試験は、クリスマスイブの 12 月 23
日から始まり最後は大晦日の 31 日だった。12 月
に入ると、担任の教師が試験のスケジュールを報
告し、併せて「60 歳(55 歳?)以上はストレスに
ならないよう無理に受けなくても良いです。所定
の日数などを超えていれば“終業証”を出すこと
になりました」と学校からの決定を説明してくれ
た。
すると、クラスの仲間たちが一斉に私や別の日
本人留学生に向かって、
「やったね!」と拍手して
くれた。しかし私は先生に、
「私はすでに 65 歳を
超えていますが、試験を受けてもいいですか?結
果に関わらず、受けてみたいのです」と聞いた。
すると若い先生は驚いたように「当然可以(もち
ろんいいですよ)
」と答え、クラスメートの何人か
がまた拍手してくれた。
以後、計画を立てて試験のための復習に取り組
んだ。しんどいというより何十年か以前の学生時
代を思い出して懐かしさを覚えた。この中で、口
語(スピーチ)の試験は私が一番苦手で、しかも
当日、抽選でテーマを引き、そのテーマに関して
中国語で3分間話すというものだった。こうした
面試、口試は私には初めてだったので、補導講師
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
の院生に相談した。するとその院生は、大体試験
に出そうなテーマは決まっているので、問題を立
てて回答を準備し覚えておくと良いと教えてくれ、
さらに模範解答づくりを手伝ってくれた。例えば、
「今回の留学での忘れがたい出来事」
「私の夢」
「中
国語学習の方法について」
「最も好きな季節は」な
ど8問想定して備えた。
しかし試験当日に私が引いたテーマはこの想定
を外れ、
「幸せについてのあなたの考えを述べよ」
だった。私は、しかし咄嗟にクリスマスイブの夜
に、日本の孫たちに電話をして話した時のあの嬉
しさを思い出し、家族の絆などに関して話し何と
かお茶をにごした。
明けて1月3日、前期の終業式が行われ、私は
晴れて「全勤賞」と「活動積極参加分子賞」なる
ものをいただいた。前期を1日も休まず遅れず過
ごせたことは何よりも幸運だった。
後期はみんなより1カ月遅れて参加したので、
当初は期末試験を受けないつもりだった。しかし、
直前になり、結果はともかく、せっかくの機会だ
から経験してみよう、と考えを変えた。今度はあ
まり復習をする余裕がなく、さらに試験期間中に
丹東への旅行を組み込んでしまい自信がなかった
が、しかしチャレンジして良かった。
困ったことなど
・不親切な連絡
最初に面食らったことは、日本では学校の行事
などスケジュールは全員に徹底周知するよう文書
で個別に配布されるが、この大学では校舎内の掲
示板と、ものによっては各教室に B5版の「通知」
を張り出すだけであり、自分で注意していないと
知らずに経過してしまうことだった。聞けばこれ
が中国での普通のスタイルだという。もっとも、
今の学生たちはほぼ全員がスマホを携帯し、そこ
に大学が発するスケジュールや、クラス毎、ある
いは友人たちで自主的に設けた連絡網(
「微信」を
利用)があり、みんなで情報を共有しているとい
う状況もあった。
しかし私は、短期の留学ということで、中国で
は電話とショートメールのできるいわゆるガラケ
ーといわれる旧型の携帯電話しか所有していなか
った。したがって、絶えずクラスの同僚たちとコ
ミュニケーションを保ち、授業や試験、学校行事
等の日程などを確認していないと情報から疎外さ
れてしまいそうだった。これは日が経つに連れ、
慣れていったが。
たっぷり汗をかき、帰ってからシャワーを浴びよ
うと水道を動かしたが、また水が出ない。寮の玄
関の掲示板には張ったばかりのピンクの紙があっ
たが、いつ復旧するかは書かれていない。そこで
管理人に風呂屋が近くにないかを聞き、友人を誘
って富民広場にある「サウナ」まで出かけた。料
金は1人 20 元でタオルを借りると5元要るが、私
たちは自分のタオルを持参していたので 20 元で済
んだ。
「サウナ」と言っても、ここには1つの大き
な浴槽と立ってシャワーを浴びる場所、そしてマ
ッサージをする台などのほかは何もない。しかし、
日本を離れて以来ゆっくりと暖かい湯船につかる
のは初めてで、ほんとうに「生き還る」という言
葉がぴったりだった。
またある日、私の部屋のトイレの水が流れっぱ
なしになっているらしく、静かになると水流音が
耳障りだ。宿直の管理人のところへ行き、見てく
れるように要請したが、彼は、今は夜なので対応
は明日にしてくれと言う。私は水が流れっぱなし
になっており無駄だし、水流の音も気になること
を言い、今見てほしいんだと再度要請したが埒が
開かない。その管理人は「私には(当直だけの仕
事なので?)どうしようもない。明日の朝、別の
管理人に言ってくれ、また要件をここに書いてお
いてくれ」とノートとペンを出してきた。私は諦
めて、
「自分で直してみるよ」と言って自室に戻っ
た。そして便器の水槽の蓋を外して見た。やはり
トイレの水量調節と水を流すスイッチとの間の鎖
がない。水の中に手を入れて探すと鎖が見つかり
簡単に修復できた。中国ではやはり自力で生きて
いく必要があるのだと改めて納得した。
・散髪のこと
大連にいる間に幾度か散髪に行った。最初は、
まだ言葉でのやりとりに自信がないため中国語の
メモを書き、それを理髪店の女性スタッフに見せ
て取り掛かってもらったが、懸念していたとおり
結局、かなり短く刈り上げられてしまった。30 分
ほどで散髪は終わったが、支払いはなんと 10 元だ
という。
日本円にすれば僅か 150~160 円ほどだ(こ
の時は1元が 16 円程)
。私が日本でいつも行く散
髪屋さんでは 3,500 円だから、実に 15 分の1の値
段だった。
2度目もその理髪店へ行った。今回はまた短く
切られないようにさらに念入りに注文のメモをつ
くり、また口頭でもできるだけ説明して理髪に臨
んだ。洗髪は女性が行い、散髪を今回は責任者ら
しき男性が担当した。この男性は散髪しながら、
「日本人ですか?」と聞く。
「そうです」と答える
と、前回よりもかなり入念な散髪で、最後に整髪
料まで塗ってくれた。そして今度の料金は 29 元だ
という。前回の倍額だが、日本円なら 600 円程度
だ。まあいいかと帰路についた。
宿舎に戻り、管理人のおばさんに「理髪してき
たよ。どう?」と言うと、
「かっこいい。この宿舎
にいる留学生の中で一番ハンサムだよ」と笑いな
・断続的な停水など・・
ここへきて当惑したことの1つは、しばしば起
こる断水(停水)で、それも事前に予告がないこ
とだった。原因は大学の前を走る黄河路の下で大
連で初となる地下鉄の工事が行われており、時折
水道管に当たったり、工事の関係で水圧に変化が
出たためだと聞いた。
ある時、付近の丘の上の公園へ運動に出かけて
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
がら答えてくれた。
・夜中に騒ぐ隣人を注意
2014 年の秋だった。私の隣の部屋の住人はどん
な国のどんな人なのか知らないが、普段は不在の
時が多いものの、夜遅くに何人かの男女が集まり、
大声で話したり笑ったりする声が翌日の 1 時過ぎ
まで続くことがしばしばあった。初めはたぶん若
い仲間なのだろうから、すこしは大目にみて我慢
しようと思っていた。しかしある日の夜、9 時半ご
ろから騒がしくなり、11 時を過ぎると周りが静か
になるため隣室の騒がしさが際だってきた。特に
女性の甲高い大声が耐え難い。自習の中国語 CD の
音声も聞き取れない。仕方がないから 12 時過ぎま
で待つことにし、ベッドに寝ていたが甘かった。
12 時半になっても彼らは相変わらず何の遠慮もな
く大声で話し続けている。これはもう注意するし
かないと思い、行動することにした。しかし、私
の中国語はまだ幼稚なレベルでしかなく、彼らに
伝わるのか自信がない。そこで、かねて私の辅导
講師の大学院生に相談し教えてもらっていたいく
つかの中国語のフレーズのメモを持って外に出た。
そして、まだ大声の聞こえる隣室のドアを強く3
回ノックした。とたんに部屋が静かになった。反
応がない。私は再度強く3回ノックした。すると、
そろそろと誰かがドアに近づきゆっくりとドアが
開いた。若い東洋人の男子だった。
私は中国語で「隣の部屋のものです。今、12 時
過ぎです。あなたたちの大きな声のせいで、私た
ちは休めないし勉強もできません。とても迷惑で
す。静かにしてください。あなたたちが毎日この
ようなら、私たちは事務所(学校当局)に行き、
対応を相談します。いいですか。
」と一気にまくし
立てた。相手は、私の言葉が通じたかどうかはと
もかく、私の言わんとすることはわかったようで、
「道歉道歉(すみません、すみません)」と繰り返
した。私はとりあえず鉾を収めて自室に戻って寝
た。寝ながら、私の対応はこれでよかったのだろ
うか、もう少し別の話し方の方がよかったのか
な?などと思いをめぐらした。隣室はさすがにそ
れ以来静かになった。
翌日、管理人の女性と話したが、私の隣人は中
国人だという。私が、ここは外国の留学生宿舎の
はずだがなぜなのか?と聞いたが、彼女は「私に
はわからない。もっと上のレベルで決められたこ
とだから・・」と申し訳なさそうに答えてくれた。
たぶん「帰国子弟」なのかもしれない。
・キャッシュカードを取り忘れる
15 年4月、私は私の口座のある興業銀行の ATM
で、銀聯カードを使って学校へ収めるお金を引き
出した。そして近くのスーパーで買い物をし、支
払いを銀聯カードで済ませようとしたがカードが
ない。しまった、銀行の ATM から取り出してなか
ったことを思い出し、あわてて銀行へ走った。し
かし ATM には見当たらなかったため、すぐ銀行の
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November, 2015
窓口で相談した。日曜日にも関わらずなぜか行員
達が来て営業していた(清明節休暇の振替?)が、
行員は私があまり中国語を話せない日本人だと分
かり、日本語が堪能で以前から私がお世話になっ
ていた顧さん(女性幹部)に電話をつないでくれ
た。顧さんは、今日はお休みで自宅にいたが、私
の話を聴き、
「後日、銀行へ来てくれれば調べてお
いて対応します。心配いりませんよ」と言ってく
れた。地獄に仏、安心した。
数日後に銀行へ行くと顧さんが笑顔で待ってい
てくれて、
「カードは ATM の中にありました。お渡
ししますから、書類にサインしてください」との
ことだった。聞けば、この ATM は引出し等を終了
してから 120 秒放置すると自動的に ATM の内部に
取り込まれるようになっているそうだ。私は安堵
し、顧さんに何度もお礼を述べて宿舎に帰った。
・風邪で発熱、初受診
2015 年5月、少し風邪気味になり体を冷やさな
いように注意していたが、数日後にどうにも辛抱
できなくなり、知りあった同校の日本語教師をし
ている K 氏に相談した。K 氏は先日、咳き込む私
を見て、
「もし必要なら病院を紹介しますからお気
軽に相談してください」と言ってくれていた。早
速、翌日に医療機関へ同行してくれることとなっ
た。
夜、熱にうなされながら、中国の病院受診とは
どんなものなのか、一応、留学前に日本の保険会
社の「海外留学保険」に加入しており、いざとな
った時にはそれを利用するしかないかな・・・な
どと考えが浮かんでは消えていた。
翌日、ふらふらしながら初めての受診に出かけ
た。そこは大学のキャンパス内にある診療所だっ
た。当日は診療所にあまり受診者が見当たらず、
おだやかな雰囲気だった。そこには内科系、外科
系、婦人科系の3科があり、24 時間、365 日対応
とのことだ。私を診察した内科の Y 医師は、60 代
絡みの温和な方で、日本で研修を受けたことがあ
るといい、日本語も少し話せて安心感を持てた。
私は受診前に、K 氏からのアドバスで、自分の病
状をメモして持参した(中国語の勉強も兼ねて中
国語で)
。Y 医師は一応これらに目を通し処方箋を
書いてくれた。しかし、日本の医療機関でのよう
な血液や尿検査などはしなかった。処方箋を持っ
て再度受付へ行き費用を支払ったが、総計で 21.37
元、日本円で 2,400 円ほどだった。診察・投薬等
をあわせ、支払ったのはこれだけだ。
私の病状だが、Y 医師の前で体温を何度測って
も 38.8 度だった。すぐ点滴をと言われ別室で点滴
を受けた。そして明日も点滴に来るように言われ
て宿舎に帰った。
翌日も午後1時にクリニックを訪れ点滴を受け
た。その日の担当医師からは、明日も点滴に来る
ようにと言われた。そして「遼師大門診部医療収
費収据」を示して何やら説明してくれる。見ると
点滴にあたる薬品などの明細の項目数点の「数量」
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
部分が3となっている。そうだったのか、Y 医師
の指示は、
「三天安静,三次点滴」つまり私の病気
への対応としては、先ず3日間は安静にして毎日
点滴する。同時に咳止めの薬を飲む。その3日後
から気管支炎の薬を飲む・・・。Y 医師はそうし
た趣旨の説明をしてくれていたのではないかと理
解した。やはりこういう診察の時などには、きっ
ちりと言葉の確認が必要だ。そのためには、日本
語のわかる中国の友人などに同席してもらうのが
ベストだ、と改めて思った。
翌日、最後の点滴が 12 時過ぎに終わった。そこ
で医師か看護師に3点の質問を用意してきたので
医師に聞いた。1つは咳止の薬はどのように飲め
ば良いのかだ。薬箱には“「用法・用量」
:口服 一
次6克、1日2次”とある。この間、私は1人で
判断して1袋の中の顆粒6個だけを1日2回づつ
飲んできたが、果たしてこれでよいのだろうか?
しかし医師は、
“一次一 dai”だと言う。次に気管
支炎の薬「罗红霉素片」の用量のことだ。薬箱に
は“成人 一次 150 ㎎1日2次、也可以一 300 ㎎
1日1次”とある。私は既に1錠ずつ2回飲んで
いたが、医師からは1日2錠ずつを“明日から”
飲むように、と言われた。そうなのか、これはわ
かった。半日ほど飲むのが早すぎた。
3 点目、と思った時、件の医師はさっといなく
なってしまった。そこへさっきの看護師さんがや
って来て、何か質問があったんじゃないの?と聞
いてくれる。
まず先ほどの第1質問。医師の言う“一次一 dai”
と、薬箱にある「一次6克」のことを確認した。
彼女は薬箱の中に顆粒を入れた袋を示し、これが
「一 dai」だと言う。そうか、
「dai」とは「袋」な
のだ。そういえば薬箱の記述「規格」の欄に「毎
袋装6克」とある。克とは重さの単位グラムのこ
とで、
「一次6克」がどの位なのかよくわからず、
とりあえず“独断の安全運転”で顆粒6個のこと
と解釈して飲んでいたのだった。1袋には 40 個ほ
どの顆粒があり、40 個全部と6個では7倍弱の開
きがある。危なかった。
看護師は「次は何でしたか?」と聞いてくれる。
私が受けた点滴の内容の中で抗生剤はどれです
か?と「医療収費収据」を示して訊ねると、彼女
はすぐにその中の 0.9%?化钠(ナトリウム)注射
液 259ml、注射用阿齐霉素(アチムス)0.5g、利
巴韦林注射液2㎎ 0.1g をチェックして「輸液」
とし、その中の阿齐霉素(アチムス)0.5g が抗生
剤だと説明してくれた。これで治療の核心がわか
った。彼女に手を振り「謝謝!」
、そして「ありが
とう!」も加えてクリニックを後にした。
なおこの間、私は日本人留学生の先輩や同僚た
ちから、相次いで貴重な差し入れをいただいた。
お粥、果物、ポカリスエット、サンドイッチ・・・・
そして S さんからは体温計を貸していただいた。
これは助かる、体温計を持参していなかった自分
の甘さを実感していたところだったからだ。お粥
は食欲のない、また体力の無い時に格好の食事だ。
今回、改めてそれが身に沁みた。スイカは熱のあ
る時に食べられる貴重な食材で、夢中で食べてし
まった。林檎とバナナは私の毎日のルーチン食で
助かった・・・・。と、こんな具合で、私は日本
人留学生ネットワークにしっかりと支えられ、何
とか窮地を脱することができた。
中国国内旅行 ―忘れがたい事々も
留学中の休日を活かし、私は4回中国国内旅行
を行った。先ず 2014 年秋の国慶節(中国の建国記
念日)の期間、日本人留学生の仲間4人で、3泊
4日で青島へ行った。青島はドイツが最初に開い
た港を中心とした美しいヨーロッパ風情の街だっ
た。同時にもう一つのスポットの「崂山」に登っ
た。崂山は老子など道教の山で、麓に 2000 年以上
の歴史を誇る大清寺がある。海からすぐに 1000
メートル以上と言われる山が切り立ち、特にこの
日は快晴で、山の上からの眺めは最高だった。そ
して偶然私たちは、崂山の麓のバスターミナルで
地元「山東テレビ」のインタビューを受けた。マ
イクを向けられ、中国語で、
「どちらから来られた
のですか?」と聞くので、私はすぐに「リーベン
(日本)
、ダーバン(大阪)から」と言うと、テレ
ビの女性記者は、
「崂山の印象はいかがですか?」
と聴いてきた。すぐに私たちは「風景がとても素
晴らしい」と答えると、そのキャスターも満足そ
うに微笑んだ。
翌朝、旅行社の添乗員とバスの運転手が、
「夕べ
の山東テレビのニュースで、皆さんのインタビュ
ーが放映されていましたよ」と教えてくれた。後
にその録画も送ってくれた。
続いて旅順の視察を 10 月 5 日に日帰りで行った。
高速道路を車で走って1時間半ほどで旅順に着き、
先ず旅順日露監獄旧跡博物館へ行った。入場する
のに身分証が必要とのことで、遼寧師範大学の学
生証が役立った。そして旧いロシア風の建物の旅
順駅、旅順港を眼下に見渡せる標高 130 メートル
の白玉山、旅順博物館、さらに203高地などを
見て廻り、日露中韓4カ国の絡まる近現代史に思
いをはせた。
2015 年1月の冬休みに入り、私は1人で中国人
団体ツアーに申し込み西安へ3泊4日の旅をした。
大連空港から西安に飛び、西安で中国各地から来
た観光客と合流してバスで西安をめぐるものだっ
た。大連からの参加者は日本人の私1人であり、
団体行動では言葉もあまり聞き取れない。また私
の行くコースの参加客は毎日入れ替わるなどで心
細かった。旅行では、安倍仲麻呂の碑、永泰公主
墓、懿(い)徳太子墓博物館、章懐太子墓、乾陵、法
門寺、華清池、秦始皇兵馬俑博物館、大明宮国家
遺跡公園、大雁塔(慈恩寺)など秦から唐の時代
の歴史の跡をたどり貴重な視察ができた。
この旅の間、私はみんなとはぐれないように絶
えず注意し緊張を保ったが、それでも集合場所を
間違えそうになるなど幾度か危うい場面があった。
しかし、親しく言葉を交わしたハルビンの親子(母
- 47 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
と女子中学生)
、杭州から来た新婚の若い夫婦、遼
寧師範大学を知っているという高年の夫妻などが
時折私に目配りしてくれ、冷や汗を流しながらも
楽しく旅を続けることができた。
6月末には若い日本人留学生(大学生)と中国
人で遼師大日本語学科の学生の3人で、やはり中
国人ツアーに申し込み、北朝鮮国境の街・丹東へ
1泊旅行した。今度は言葉の心配があまりなく安
心だった。この旅では、鴨緑江を遊覧船で北朝鮮
領土内まで入り、また北朝鮮の岸辺に 30mほどま
で接近し、また北朝鮮の兵士や岸辺で魚をとる人、
あるいは羊を飼う人などと手を振りあうなど、忘
れがたいことがあった。
November, 2015
のNHK衛生放送で、例えば香港での天安門事件
に関する集会などが報じられようとすると、即座
に画面が真っ暗にされてしまう。その一方、毎日
どこかのチャンネルでかつての日本軍の侵略と戦
う中国軍などの「抗日」番組が放送されている。
私の付き合った大学の院生や学生たちに、1989
年に起きた天安門事件について訊ねてみたが、
「聞
いたことがない」という人が大半で、また聞いた
ことはあっても「内容は知らない」というレベル
だった。しかし、
「南京大虐殺」や「731部隊」
に関しては一応ほとんどの人が「知っている」と
答えた。
「南京大虐殺」や「731部隊」に関して日本
人留学生と話すこともあったが、若い留学生は余
り知らない様子で、退職留学組の人たちでは、
「聞
いたことはあるが、真実はどうなんでしょうか?」
という人が多かった。
このような状況の反映なのだろうか、私が中国
人ツアーに加わりで西安に旅行した時、同じツア
ーにいた中年女性が、私があまり中国語がわから
ない日本人だと聞くなり、私の近くで聞こえよが
しに、
「この人、日本鬼子(リーベングイズ)?」
と言ったのだ。さすがに私も黙っておられずへた
な中国語で「中国では、毎日テレビで以前の日本
軍・日本鬼子のドラマが放送されているから、そ
う思われるんですね」と応じた。すると私と親し
くしてくれていた新婚夫婦が、その中年女性に、
「この人は、中国人と仲良くするために定年退職
して大連の大学で学んでいるんですよ」と説明し
てくれた。件の女性は少し申し訳なさそうにうな
ずいていた。
政府がどうであれ、私たち民間レベルでは大い
に交流し相互理解を広げていくべきだろう。お互
いに両国のことを学びあうことは、未来のために
真に必要なことだと私は改めて実感している。
留学から帰って
今回の短い中国留学では、当初考えていたほど
中国語を習得することはできなかったが、しかし
中国の学生をはじめとする“民衆”と交流し、ま
たさまざまな経験を通じ、今の中国というものを
より知ることはできたように思う。
私が今回中国に来ていて気になったことの一つ
は、中国の色んな場所で日本の国旗がみられない
ということだった。例えば遼寧師範大学の運動会
の時、沢山の世界の国旗が飾られていたが、なぜ
か日本の国旗は見当たらなかった。また 2014 年の
国慶節の時、青島旅行で青島ビール工場を見学し
広いホールでビールを飲んだ際、頭上に世界の国
旗がたくさん飾られていたが、日本の国旗はなか
った。私は日本では「日の丸」の国旗を好きにな
れないのだが、しかし国外に出た場合、自国のシ
ンボルがあるかないかは別だ。今の国家間の関係、
特にこの間の日本政府の歴史認識、かつての 15 年
戦争を真に反省しようとせず、首相や閣僚が靖国
参拝などを繰り返すという姿があり、中国がこれ
らに反発して国民に愛国心を煽るといった状況が
反映しているのだろう。
そして今の中国の、共産党政権の下での言論の
統制も気になった。例えば今の中国ではインター
ネットの普及が目覚しく、大学生はほぼ全員がス
マホを持ちかつ駆使している。しかし日本では何
の制約もなく使っているユーチューブやライン、
フェイスブックなどは政府によって規制されてお
り、一般国民は見ることができない。テレビでも、
政府に不都合なニュースは基本的に報道されず、
中央電子台(日本のNHKにあたる?)ではかつ
ての建国の英雄たち、毛沢東、邓小平、朱徳など
を讃える連続ドラマが放映されていた。また日本
(本誌編集委員長からのお誘いで、この体験記を
書かせていただきましたが、
「戦医研」のテーマと
は直接関わりのない内容なのでいささか躊躇しま
した。何かの参考になれば幸甚です。2015.8.)
著者プロフィール
原 文夫(はら ふみお)
1949 年長野県生まれ。1972 年日本福祉大学卒業。
1972 年大阪府保険医協会事務局入局。事務局長な
どを勤め 2014 年定年退職。15 年戦争と日本の医学
医療研究会会員・監事など。
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
書評
熊野以素『九州大学生体解剖事件――七○年目の真実』
岩波書店 2015 年、本体 1900 円、ISBN 978-4-00-061039-1
原 文夫 HARA Fumio
Book Review
This book is based on facts on “Medical experiments during World War Two by Kyushu
University”, including new Documents which the author has found. She has spent so much
effort in order to be handed down the truth to future generations. Her uncle was one of the
doctors involved in the experiments.
by KUMANO Iso
戦後 70 年となる今年(2015 年)、あの戦争を振
り返り記憶に刻む様ざまな取り組みが各所で行わ
れ、また出版等がなされているが、本書もちょう
ど古希を迎えたという著者が、 「九州大学生体解
剖事件」の被告であった自身の伯父のことを中心
に、新資料に基づき事件を検証して改めて「真実」
を明らかにし、後世に伝えようとまとめられたノ
ンフィクションである。
私(原)がこの書評を書かせていただこうと思
ったのには、実は以下のようないきさつがあった
からだ。
ている福岡県の東野利夫医師を取材し、氏の著書
『汚名』に記されている内容をベースに、発掘さ
れた当時の資料や映像などでつくられ、2005 年 12
月 27 日に放映されたドキュメントだった。
翌日、私はその DVD を熊野さんに郵送した。す
ると数日後にお礼の手紙が届いた。そこには自身
が幼い頃から世話になり深く影響を受けた敬愛す
る伯父・鳥巣太郎は、戦前、九州大学医学部の助
教授であったが、米軍捕虜の生体解剖事件に関わ
って戦後米軍に逮捕され、横浜の軍事法廷で死刑
判決を受けたこと、後に減刑されて服役後、出所
して市井の一開業医として生涯を終えたことなど
が記され、この伯父の事件および裁判に関して改
めて真実を知りたいと思っていることなどが記さ
れていた。 ・・・それから7年が経過した。
「九条世界会議 in 関西」での出会い
2008 年5月6日、大阪市此花区の舞洲アリーナ
で開かれた「九条世界会議 in 関西」の展示ブース
に、私の所属する大阪府保険医協会も出展し、前
年(2007 年)に大阪で行われた「戦争と医学・展」
に展示したパネルや書籍の紹介、そして 731 部隊
などに関するビデオ上映などをおこなっていた。
その折、私がたまたま九州朝日放送制作の九州大
学生体解剖事件に関する DVD「許されざるメス」
をパソコン視聴していた時、傍でみていた年配の
男性が突然「あ!」と声を上げ、連れの女性を呼
びに走った。一緒に戻ると、男性の夫人らしいそ
の女性は涙目で声を上げ食い入るように映像を見
つめた。そして見終わった女性から、
「このビデオ
に映っていた九大関係者の1人が私の伯父です。
驚きました、こんな映像があったなんて。私はこ
の事件の被告だった鳥巣太郎の姪なんです。何と
かこのビデオを手にいれたいのですが、お願いし
ます」と名刺を差し出し懇願された。名刺には「
“九
条の会・豊中いちばん星”呼びかけ人 熊野以素」
と書かれていた。
このビデオ(DVD)は私たちが「戦争と医学」
「戦争と医の倫理」の問題を取り組む中で知り、
九州朝日放送へ要請して入手したもので、主に九
大生体解剖事件の直接関係者で現在唯一現存され
軍事裁判・再審査資料からみる「真実」
日本の敗戦直前、九州大学医学部で第一外科の
助教授であった著者の伯父・鳥巣太郎は、思いが
けず米軍捕虜の生体解剖事件に関わり、裁判では
首謀者の一人とみなされて絞首刑の判決を受けた。
しかし鳥巣の妻・路子は夫から聞いていた事件と
のかかわりや自身も知る事実経過等から、この判
決の理不尽さを受け入れられず、多くの困難や妨
害にも関わらず、必死の努力で証拠や証言を集め
て再審査を請求する。そしてついに減刑を勝ち取
った。
この“九大生体解剖事件”の裁判記録は、当初
日本側には残されておらず、米国の国立公文書館
で読む以外に真相に迫る手立てはないとされてい
た。しかし著者は日本の国立国会図書館が 1998
年に米国からこれを入手しマイクロフィルム化し
ていることを知った。さっそくコピーを取り寄せ
読み進むうちに、これまで誰も読んでいないと思
われる再審査資料を多数発見した。当時の BC 級
裁判(軍事裁判)では、全てが真実の究明を尽く
され公正妥当な判断で裁かれたとは言い難い。軍
連絡先:〒586-0044 大阪府河内長野市美加の台2-31-15
Address: 2- 31- 15 Mikanodai Kawachinagano City Osaka
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
事裁判であるため再審査は非公開で、被告および
関係者にもその経過は知らされず、結果のみが通
知されるだけだった。知られざる再審査資料の中
身は何なのか。
著者は本書の「まえがき」で、以下のように述
べている。
― 法廷では許されなかった証言を、被告たち
は嘆願書の中で詳しく語っていた。そこから浮か
び上がってきたのは、軍と医学部の組織犯罪とし
ての九大生体解剖事件の真相である。白昼堂々行
われた捕虜移送、内外の研究者の目の前で繰り広
げられた公開の手術、世紀の手術とまで呼ばれた
最新の実験。顧みられない医の倫理。その中で苦
悩する伯父。戦後の軍事法廷に渦巻く陰謀。罪を
自覚するがゆえに追い詰められる伯父の姿・・・。
平時ならば善良な医師として生きたであろう
人々が、恐ろしい戦争犯罪に加担していく。すべ
ては戦争の狂気がもたらした悲劇であった。この
事実を歴史の闇に葬ってはならない。再び「戦争
のできる国」になろうという逆流が渦巻く今日こ
そ、明らかにしなければという思いで、本稿を記
した。
で、事件関係者の逮捕、取り調べ、被告の関係者
による救援活動、裁判の開始、その中でのスケー
プゴート、被告人の証言、そして判決の模様が辿
られている。
第 4 章は「再審査」である。ここが本書で初め
て詳細が明らかにされた部分と言える。米軍軍事
裁判での再審査の困難さ、鳥巣被告の妻路子が困
難をはねのけて真実を求めた経緯、その結果とし
ての減刑。それらを通して現れる事件の全体像の
確認・・・が述べられている。
終章は「伯父と私」である。伯父・鳥巣太郎は
心ならずも事件に加担して(させられて)しまい、
そのことを終生悔いて生きた。1978 年に作家上坂
冬子のインタビューを受けた際、鳥巣はこう述べ
ていた、
「・・・言い訳は許されんとです。当時反
戦の言動を理由に警察に引っぱられた人たちがお
りました。あの時代に反戦を叫ぶことに比べれば、
私らが解剖を拒否することの方がたやすかったか
もしれません。ともかくどんな事情があろうと、
仕方がなかったなどというてはいかんのです」
(上
坂冬子『生体解剖 九州大学医学部事件』
)
。
そして著者は子供の頃、伯父・鳥巣の福岡の家
で暮らすこともあり、伯父が一開業医、医師とし
て患者の診療に全力を尽くす姿、そして時折交わ
した伯父との言葉などから、著者は伯父を深く敬
愛するようになっていったという。法学部の大学
生になり体調を崩して伯父の家で療養し、ベッド
で日本国憲法の教科書を読んでいた著者に、鳥巣
が「以素子、憲法の解釈はただ一つだ。あの憲法
を作った日の気持ちに立ち返って考えればすぐわ
かる」
「日本は永久に戦争を放棄したのだ」と強い
調子で語ったことを著者は回想している。
著者は高校の社会科教諭を長年勤めて退職した
後、自身の暮らす地域で市民組織「九条の会・豊
中いちばん星」を呼びかけて立ち上げ、現在も平
和を守る取組などで奮闘されている。
著者は主にこの再審査資料に基づき、あらため
て事件の実相を探り、とりわけ他の関係著書では
あまり光を当てられていなかった伯父・鳥巣太郎
の事件との関わり、伯父の自身の罪責に関する苦
悩、そして夫を死の淵から救出しようと奔走する
伯母・路子の当時の必死の思いと姿などを浮かび
上がらせた。
本書は5つの章で構成されている。第1章が「生
体実験」である。ここには連日米軍の B29 による
爆撃に曝されていた当時、九大医学部・第1外科
の石山福二郎教授などが、軍部からの圧力と要請
を受けて、撃墜した B29 の搭乗員捕虜たち8人を
用いた生体解剖に至る状況と4回にわたる生体解
剖の概略が記されている。「捕虜は適当に処置せ
よ」という軍(大本営、福岡の西部軍司令部?)
の指令があったという多くの被告たちの証言と、
それを医学実験の生体解剖に用いることを発想し
指示した人物と経緯の推定、それを進んで受け入
れ、自身の医学研究の成果に繋げようとした石山
教授、教授に服従協力しあるいは協力させられた
医学者たちの状況が描かれている。また石山教授
からの要請を軍からの命令と受け止め、捕虜の手
術(生体解剖だとすぐに知る)の場所として解剖
学の手術室使用を容認した解剖学の平光吾一教授
の関わりにも触れている。
第2章は「告発」で、敗戦と、事件の首謀者で
あった小森卓軍医見習士官の死および石山教授の
自殺。しかし、内部告発から事件は外部へ漏れ、
関係した軍と医学者たちによる隠ぺい工作の経緯
が描かれている。ここではとりわけ軍の卑劣さ、
無責任さが厳しく指弾されている。
第3章は「B 級戦犯裁判“九大生体解剖事件」
立場により異なる視点と評価 ―他の関連著書
より
九州大学生体解剖事件を克明に追って書かれた
ノンフィクションは、上記の 1979 年に出された作
家の上坂冬子による『生体解剖 九州大学医学部
事件』
(毎日新聞社)と、同年に出た事件当時医学
生として生体解剖の現場にいた一人である医師・
東野利夫の『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』
(文芸春秋)が知られている。いずれも米国立公
文書館所蔵の横浜軍事法廷での公判記録(相原他
29 名の件公判記録)を軸にまだ生存していた関係
者への取材なども踏まえて事件を振り返り、「真
相」を検証しようとしたものだ。両書とも関係者
への配慮から、一部の人物が仮名で著されている。
東野は事件当時、医学生で平光吾一教授の解剖
学教室に所属していて事件にかかわることになっ
てしまった。彼は生涯をかけてそれを悔い続けて
いる。同時に、事件を主導したのが当時の軍(直
接には西部軍の佐藤吉直大佐、小森卓軍医)とそ
50
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
の意向を受けた第1外科の石山福二郎教授であっ
たにも関わらず、米軍人捕虜の手術(生体解剖)
が解剖学教室で行われたことから、石山教授が自
殺してしまっていたなかで、解剖学の平光教授お
よび解剖学教室があたかも事件の中心であるかの
ような受け止めが一部にあるが、それはおかしい
とし、その「汚名」を拭う意味も込めて事件およ
び事件にかかわる前後の広範な経緯も独自に調べ
「真相」を明らかにしようとした。
一方、上坂の『生体解剖』では、生体解剖の場
所を提供した解剖学の平光教授に対して厳しい見
方を据えており、同時に石山教授に捕虜の「手術」
をやめるよう申し入れながら拒否され、心ならず
も一度だけ手術に加わって死刑判決を受けた(そ
の後減刑)鳥巣助教授には、比較的同情的な眼を
向けている。裁判でもそうだったが、同じ事件で
も立場や視点により評価がそれぞれである。本書
(熊野著)と併せ、あらためて目を通して痛感し
た。
医学部医学歴史館が会館したが、ここに初めて生
体解剖事件に関する2点のパネルが展示された。
本年 6 月 24 日付の西日本新聞は、この展示をめ
ぐるいきさつを以下のように報じている(
「狂気の
メス 九大生体解剖事件」
)
。
展示資料は①事件に関する記述がある「大学五
十年史」の見開き、②教員と学生で「反省と決意
の会」を開いた大学側の対応などをまとめたパネ
ルの 2 点で、一部の卒業生から「これでは何も学
べない」と厳しい批判が上がった。住本英樹学部
長も「十分とは思っていない」と認める。その一
方で「これが最大公約数だった」―とも。
パネル展示については、歴史館の建設が進んで
いた昨夏、事件を取り上げる決断を下し、事件関
係者であった東野利夫医師と面談を重ね、逮捕後
に自殺した石山教授の遺書の写し、犠牲になった
米兵捕虜の名前や写真、裁判記録などを紹介する
てはずだったという。しかし、今年 2 月になり、
この事件の展示内容に限り、教授会が一言一句ま
で相談して決めることになり、学部長自らが陣頭
指揮をとる体勢にし、結局上記の 2 点の展示に止
めたとのことだ。住本学部長は記者会見で、2 点
に止めた理由を「一次資料が少なかったから」と
説明した。事実、当時のカルテや捕虜リストは軍
や大学が廃棄して残っておらず、本人や家族の手
記も内容に食い違いがあり、
「関連資料から何を選
ぶのか、判断する力がわれわれになかった」とし、
「ここからは決して後退しないという大学として
の決意表明だ。これをスタートとしたい」と述べ
ている。
九州大学での新たな動き
九州大学生体解剖事件は、戦争という狂気の時
代、しかも天皇制ファシズム下の人権意識が希薄
な中で、かつ医師に対し当時はまだ明確に「医の
倫理」というものの定めのなかった状況下で引き
起こされた事件であったが、わが国では残念なが
らまだその教訓が引き出され活かされているとは
言い難い。
九州大学は、事件が発覚した直後の 1946 年 7
月 16 日に開かれた会合(基礎臨床委員会?)で、
事件と大学との組織的関与を否定し(軍事法廷で
の主任検事の最終論告でも否定している)経過し
てきた。ただ 2008 年 11 月に、同大学医学部を会
場にして開催された日本生命倫理学会第 20 回年
次大会で、事件関係者であった大学 OB の東野利
夫医師の基調講演「いわゆる“九大生体解剖事件”
の真相と歴史的教訓」が行われた。そして今年 4
月 4 日に、学部創設 112 年の歩みを紹介する九大
評者プロフィール
原 文夫(はら ふみお)
1949 年長野県生まれ。1972 年日本福祉大学卒業。
1972 年大阪府保険医協会事務局入局。事務局長な
どを勤め 2014 年定年退職。15 年戦争と日本の医学
医療研究会会員・監事など。
51
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
書評
石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』
講談社現代新書 2015 年
末永 恵子 SUENAGA Keiko
Book Review
Hitler and Nazi Germany
by ISHIDA Yuji
20世紀当初、ヨーロッパ随一の文明国であっ
たドイツになぜナチが台頭したのか。ドイツにお
いて選挙を通して成立した内閣が人権と民主主義
を公然と否定するに至った歴史的プロセスをたど
ることは、立憲主義と民主主義破壊への危機感を
募らせる日本の読者にとって、たいへん示唆に富
むものである。
本書『ヒトラーとナチ・ドイツ』は、ヒトラー
とナチ・ドイツの盛衰を、厖大な研究史の成果の
蓄積をふまえ、独自の視点でコンパクトな新書に
まとめ上げられた石田勇治氏の労作である。
論点は多岐にわたっており、ひとつひとつがた
いへん興味深い。特に著者はナチ時代のドイツを
語る際、ヒトラーとナチ体制が人々を惹きつけた
「魅力」に注目する。ヒトラーのカリスマ性とそ
れを演出した巧みなプロパガンダによってナチ党
は、国民的人気を獲得したことはよく知られてい
る。
しかし、人気を生み出す基盤については、今ま
で必ずしも十分な説明がなされていたわけではな
い。著者は、その点について次のように述べてい
る。
ラーに卓越した経済政策の才能があったわけでは
なかったが、国家予算さえ国会の承認を要しない
状況下、大規模な土木建築を中心とする分野に予
算が投入されたと言う。アウトバーン建設が失業
対策によりなされたことは有名である。
詳述されていて興味深いのは、失業率減少のた
めの方策である。失業率という数字を改善させる
ために政府はいわば統計のトリックとでも言うべ
き方法を用いていた。
失業率とは、いうまでもなく労働力人口に占め
る失業者の割合である。まず、ヒトラー政府は労
働市場における若年労働力の供給を減らすために、
さまざまな形の勤労奉仕制度を導入し、当初任意
としていた奉仕を後に義務化した。同様に労働市
場における女子労働力の供給を減らすために、女
子就労者を家庭に戻す政策(結婚奨励貸付金制度
等)が導入された。そして、もうひとつの大きな
失業者減少策は、一般徴兵制度の導入であった。
この3つの政策により労働市場から、若者や女子
が遠ざかり、それまで失業者だった男子が職に就
くようになった。つまり、好景気となって純粋に
全体の求人数が増加したことによる失業率低下で
はなく、求職者数を意図的に減らすことによる低
下であったのである。
このような失業者数の減少を啓蒙宣伝省が大々
的にラジオや新聞を通して詳しく国民に伝えたこ
とにより、国民は強い関心を抱くようになり、失
業問題の解消に取り組むヒトラー像に好印象を持
つようになる。
この失業対策への一般国民の支持のもとに、ヒ
トラーは国民統合を図ったのであった。その際に
重要な概念は「フォルクスゲマインシャフト」で
あったという。
「民族共同体」と訳されるこの言葉
は、ヒトラーの視点からすれば、ユダヤ人や「反
社会分子」などを排除し、
「民族同胞」を統合する
共同体であった。既存の社会において不遇をかこ
っていた人々はこの新しい共同体に期待を寄せた
者も多く、その一員たるべくナチ党や党の分肢組
織に加入していった。そして、多くの人が時流に
ナチ体制は、
「民族共同体」という情緒的な概
念を用いて「絆」を創り出そうとしただけで
なく、国民の歓心を買うべく経済的・社会的
な実利を提供した。その意味で、ナチ体制は
単なる暴力的な専制統治ではなく、多くの
人々を体制の受益者、積極的な担い手とする
一種の「合意独裁」をめざした。このもとで
大規模な人権侵害が惹起され、戦争とホロコ
ーストへ向かう条件がつくられていったので
ある。
では、ナチの経済政策の功績はひとえにナチに
帰すものだったのか。著者は「実はドイツの経済
はヒトラー政権の誕生前にすでに景気の底を脱し、
いまや政府の強力な後押しがあれば一気に回復局
面へ移行できる段階にあったのだ」と見る。ヒト
連絡先:〒960-1295 福島県福島市光が丘1 福島県立医科大学 医学部 人間科学講座
Address: 1 Hikarigaoka,Fukushima,960-1295,JAPAN Department of Human Sciences
Fukushima Medical University School of Medicine
e-mail: [email protected]
52
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
従ってなんらかの形でナチ党に関わっていったと
いう。
このような自発性は、
「フォルクスゲマインシャ
フト」から排除されないようにという消極的な意
図からというよりも、人々が生活を浮上させる新
しいチャンスとしてとらえたことを意味した。
人々はナチ党関連の行事に熱心に関わって行った。
このような点が、当時の文脈に即して具体的に
語られることにより、ヒトラー政府の失業対策や
国民統合の概念が、まさにドイツ国民の目に「魅
力」に映ったことが納得できる。
しかし、国民統合の先にヒトラーが見据えてい
たのは、戦争のできる国であった。そして、ホロ
コーストを可能にした土壌もこの「フォルクスゲ
マインシャフト」である。
当時「魅力」的に見えていたものが実は毒を含
んだものだった。経済的に明るく映ったものは、
長期的には継続不能で行き詰まる。つまり、ドイ
ツ社会はヒトラー独裁を容認し、懐疑的態度では
なく希望的観測によって支持していたのである。
ヒトラーと手を結んだヒンデンブルク大統領な
どの保守派さえ、ヒトラーを甘くみていた。彼ら
はヒトラーの過激な反ユダヤ主義は大衆受け狙い
の政治宣伝に過ぎないとみなしていたという。つ
まり、後の反ユダヤ立法に結実したさまざまなユ
ダヤ人差別の合法化を予想できなかったようであ
る。当初、大多数の人々は「そこまでひどいこと
にはならないだろう」と高をくくっていたのであ
る。
ここからどのような教訓が導き出されるのだろ
うか。本書を読んで評者は、有権者には政治家に
騙されない賢さ、事の本質を見極める力が不可欠
だと、切に思った。
ヒトラーは『我が闘争』の中で、
「巨大な大衆の
受容能力は非常に限られており、理解する力も弱
- 53 -
いが、忘れる力は大きい」と述べたが、これは、
「安
保法案が成立すれば国民は忘れる」と言った与党
議員の発言を彷彿とさせる愚民観である。
また、「広範な大衆は本能のかたまりに過ぎず、
その感性は、対立を欲すると主張する人間同士が
握手をすることなど理解しない。広範な大衆が望
むことは、強者の勝利と、弱者の根絶あるいはそ
の無条件の服従である」と、好戦的で支配=服従
関係しか眼中にない大衆像を描いていた。
大衆は、弱肉強食を原理とする支配と服従の関
係のしか理解できないと言うのである。裏を返せ
ば、和解や粘り強い交渉に興味を示さないと言う
ことになる。
ここに、ユダヤ人脅威論のプロパガンダや軍拡
を容認する土壌があることは容易に想像できる。
ヒトラーに過度な期待を寄せ、政権に対するチ
ェックを怠り、自発的に独裁を受け入れていった
当時の大衆のあり方を、現代人は他山の石とする
ことができる。有権者が、議会制民主主義におい
て「合意独裁」を容認しないこと、それが戦争の
悲劇を繰り返さないために必要であろう。
本書は、ホロコーストという20世紀の悲惨に
至るドイツの政治過程や社会状況をわかりやすく
多面的に説いている。現代日本の政治状況と符合
することも多く、人権や民主主義について考える
上で大きな示唆を得ることができる。
評者プロフィール
末永 恵子(すえなが けいこ)
1965 年福岡県生まれ。福島県立医科大学医学部
人間科学講座講師。著書『死体は見世物か』
(大月
書店)
、
『戦時医学の実態―旧満州医科大学の研究
―』
(樹花舎)15 年戦争と日本の医学医療研究会幹
事。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
第 38 回定例研究会(公開)のご案内
日
時
2015 年 11 月 22 日(日)11:00~17:00
会
場
東京大学医学部教育研究棟第 5 セミナー室(13 階)
記念講演
ナチ時代のドイツと「過去の克服」
石田勇治
東京大学大学院総合文化研究科・教授
講演要旨
ナチ支配下のドイツ・ヨーロッパでは、ユダヤ人や心身障害者など数多くの
人びとが国家的メガ犯罪の犠牲となった。これはナチ・ジェノサイドと呼ばれ
るが、いったいなぜ文明化された世界でそのようなことが起きたのだろうか。
そして戦後のドイツは、この忌々しい過去とどのように向き合い、失った信用
を取り戻していったのだろうか。本講演では、ナチ・ジェノサイドの諸要因を
検討し、あわせて戦後ドイツの「過去の克服」の歩みを振り返る。
講師プロフィール
専攻、ドイツ近現代史・ジェノサイド研究。東京外国語大学卒業、東京大学
大学院社会学研究科(国際関係論)修士課程修了、マールブルク大学社会科学
哲学部博士課程修了。主な著書に『ヒトラーとナチ・ドイツ』
(講談社現代新書)
、
『過去の克服-ヒトラー後のドイツ(新装版)
』(白水社)、
『20 世紀ドイツ史』
(白水社)、編著に『図説ドイツの歴史』
(河出書房新社)、共編著に『ジェノサ
イドと現代世界』
(勉誠出版)、史料集に『資料
ドイツ外交官の見た南京事件』
(大月書店)などがある。
侵華日軍 731 部隊罪行陳列館落成式への参列と長春・瀋陽調査の結果
西山 勝夫
湖南省常徳の湖南文理学院主催細菌戦国際会議について
西里 扶甬子
15 年戦争中の開業医たちの「出征」(石川県医師会会報から)莇 昭三
ヘルシンキ宣言
土屋 貴志
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
15 年戦争と日本の医学医療研究会会則
第1条
本会は 15 年戦争と日本の医学医療研究会(Research Society for 15 years War and Japanese Medical
Science and Service)という。
第2条
本会は 15 年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的とする。
第3条
本会はその目的達成のために次の事業を行う。
1.15 年戦争と日本の医学医療に関する史実・証言の収集調査とその研究
2.会務総会の開催
3.15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌(Journal of Research Society for 15 years War and
Japanese Medical Science and Service)などの発行
4.その他必要な事業
第4条
本会の目的・会則に賛成する個人は会員となることができる。入会を希望する者は氏名、連絡先を
添えて事務局に申し込めば入会の手続きがなされる。団体としての会員は認めない。
2) 学生会員、会誌会員、賛助会員、顧問をおくことができる。入会を希望する学生は氏名、連絡先
を添えて事務局に申し込めば入会の手続きがなされる。会誌会員、賛助会員については、希望する
者・団体は氏名あるいは団体名、連絡先を添えて事務局に申し込めばその手続きがなされる。顧問
は会務総会で決定する。
第5条
会員、学生会員、会誌会員、賛助会員は毎年,その年度の会費を収めなければならない。会費を払
わないときは,その資格は失われる。
第6条
会員、学生会員は総会に出席して研究調査の発表や史実の紹介・証言を行い,15 年戦争と日本の医
学医療研究会会誌(Journal of Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science
and Service)上における発表の資格を持ち,また同誌の配布、諸行事の案内を受けることができる。
会員、学生会員は会務総会において会務を議決する。
2) 会誌会員、賛助会員、顧問には会誌が配布される。
第7条
本会の会務の遂行は、会務総会において会員、学生会員中より選出された若干名の幹事よりなる幹
事会がこれに当たる。幹事の任期は 2 年として再任を妨げない。
2)会には幹事の互選による幹事長、副幹事長をおく。幹事長は会を代表する。副幹事長は幹事長を
補佐し、幹事長にことある時はその代行を務める。
3)会には監査をおく。監査は会の会計その他の会務を監査しその結旺を会務総会に報告する
第8条
年次予算、会則変更等重要事項の決定は会務総会の議決を経なければならない。会務総会は委任状
を含め会員の過半数の出席で成立する。
第9条
本会の諸行事、出版物などは会員外に公開することができる。
第 10 条
本会の会計年度は、毎年 1 月に始まり、同年 12 月に終わる。
付則
第1条
第2条
第3条
本会則は 2000 年 6 月 17 日より発効する。
本会則によって世話人が決定されるまで現在の世話人がその会務を遂行する。
会費などは当分の間
会費 年度ごとに必要に応じてその額を定める(2000 年度は 5000 円)。
雑誌購読料 実費とする。
第 4 条 2002 年度の会計年度は 2002 年 3 月 17 日より同年 12 月 31 日までとする。
附記 2001 年 6 月 16 日改訂
附記 2002年3月17日改訂
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 16 巻 1 号
2015 年 11 月
編集後記
今年は大変な年になってしまいました。9 月 19 日未明の参議院本会議での「安保関連法案」の強行採決
です。戦後レジームからの脱却と言って戦前を懐かしがる歴史観、国家観の持ち主が一国の首相を担って
いるというこの国の体質。まことに天皇の戦争責任を問わなかったツケが回ってきているようです。
7 月に豊下楢彦『昭和天皇と戦後日本 <憲法・安保体制>にいたる道』
(岩波書店)が刊行されてい
ます。著者はこれまで『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』
(岩波新書)や『昭和天皇・マッカーサ
ー会見』
(岩波現代文庫)などで、戦後の天皇の行動を追跡してきましたが、今回のものは最近公にされ
た『昭和天皇実録』を検証する形でこれまで論じてきたことをあらためて論拠づけるものになっています。
それによると、ポツダム宣言受諾後、昭和天皇には2つの危機があった。一つは憲法改正作業の過程で
天皇制が廃止される危険性があったし、東京裁判で自身が訴追される可能性もあった。第二の危機が共産
主義による天皇制打倒という脅威であった。ここで選択した道が米軍による天皇制の防衛と安保体制の形
成だったというのです。象徴天皇になってからもいかに政治に介入し続けたか。そして最も大事にしたの
が皇室の維持と共産主義から守ることで、その立場からいかにリアリストに徹したかを説得力を持って教
えてくれます。政府を跳び越えてマッカーサーやダレスと駆け引きをする姿は、一般に抱かれている戦後
の天皇像と違い過ぎます。
戦前の元首から戦後象徴天皇に変わっても、この国は天皇制国家であることに変わりがなかったのか?
だから今、また別の右派の立場から「戦争できる国」にひた走っているのか。この書は、戦後史の見直し
が必要かと思わされるほどの内容を持ったものだと言えます。
70 歳に近い私も戦後生まれ、戦争体験者は戦後 80 年にはほとんどいなくなります。ふたたび戦争のに
おいが漂いはじめた今こそ、つなぎの世代である私たちが語っていかなくてはいけないし、本会も医学医
療の分野から 15 年戦争にからんだ出来事を風化させないために、微力であれ力を尽くさなければと思い
ます。
(若田 泰)
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 16(1)
November, 2015
本誌に掲載された論文等の扱い
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写して頒布・配布すること、あるいは公開のデータベース等に登録することを禁止します。
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載許可願」を当研究会に提出して下さい。
3)当研究会は、当該論文等の全部または一部を、当研究会ホームページ、当研究会が認めたネットワーク媒体、
その他の媒体において任意の言語で掲載、出版(電子出版を含む)出来るものとします。この場合、必要によ
り当該論文の抄録等を作成して付することがあります。
2010 年 3 月 21 日
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
投 稿 規 定
会員の皆さんからの、論文・総説・随想・書評・資料解題などの積極的なご寄稿をお待ちしております。ただし内
容は、本研究会に関係したものに限ります。論文掲載の可否は編集委員会で決定します。
掲載原稿の規格は以下のとおりとします。
①ファイルは Windows(あるいは Macintosh)のワードで作成し、印刷した原稿 1 部と FD、CD、USB のいずれかで
提出してください(メール輸送も可、送り先は戦医研事務局でアドレスは [email protected] )。図、表、写真
は表題、説明を明記しデジタルデータで提出してください。
②原稿の分量は、2 万字以内を目安にしてください。印刷は白黒印刷となります。
③原稿は、既刊号を参考にされた上、題目、キーワード、著者の氏名・肩書き・所属・連絡先住所(以上は邦文、欧
文)、電話・FAX・E-mail アドレスを記したものを先頭頁とし本文、文献、著者プロフィールを記して下さい。
④表記は、新仮名遣いを基本とし、句読点は明瞭に、英数文字は半角文字とします。外国語の人名、雑誌名は原
語を付記することが望ましい。
⑤度量衡は C,G,S 単位とし m,cm,mm,kg,ml,mg/dl 等を用い、数字は算用数字を使用します。
⑥文献は、本文の終わりにまとめて記載してください。本文中の引用順に 1),2)と番号を付し(上付きで)、下記の
順、要領で書いてください。
雑誌の場合 著者名:題名,雑誌名,巻数,頁-頁,西暦年号
単行本の場合 著者名:書名,版数,発行者,頁-頁,西暦年号
著者名は 1 人までとし、2 人目からは他(または et.al.)とする。
外国雑誌名を略する場合は、index medicus 所載のものに従う。
なお手書きしかかなわない場合は市販の400字詰原稿用紙に記入して下さい。なお図表はコピーしますので良質
のものをお願いします(手作りですので電子文書での寄稿にご協力の程を願います)。
2003 年 3 月 15 日 編集委員会
2010 年 3 月 21 日 改定
15年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
委員長 若田 泰
委員 大川 義弘、末永 恵子、土屋 貴志、長島 隆、原 文夫
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