History Reported by ①1980年代 ●きっかけ 1986年の秋、フライングディスク競技の本場米国より、数名のアルティメットのトップ プレイヤーを日本に招き、日本人プレイヤーに対してクリニックをおこなうというイベントが 開催された。日本のプレイヤーにとっては、国内にいながらにして米国の精鋭プレイヤーに 手ほどきを受けられるため、好評を博したイベントであった。その招待選手のひとりに、米国でナイロン・バッグを製造して いる「Z-Creation(ジークリエーション)」という会社に勤めていたイアンMハッチンソンという人物がいた。 彼は来日にあたり、自社の製品素材(ナイロンとウレタン)を使って製作したアルティメット公式ディスクと同サイズの 「Z-BEE」 (ジービー)と名づけられた柔らかいディスクを持参する。この招待イベントの主催者であったヒーロー社(当時の正式社名はヒーロー工房) はこの「Z-BEE」を100枚ほど輸入し、販売することとした。しかし、当時の円とドルの関係から国内での販売価格はかなりの高額(約 3,000 円) となること。さらには、製品としてみたときの完成度が未熟。(リム<側面>の縫製など)などの理由から思うようには売れず、商品としては低迷する。 ●ゲームの発祥 そこで、販売物としてはあきらめ、自社が主催する参加型のディスクイベントにおいて、初心者向けプログラムの備品として使用することとした。 それらのイベントでおこなわれた遊び方は、プラスティックディスクにはできない「当てて遊ぶ」という発想から「ドッジボール」+「フリスビー」で 「ドッジビー」であった。これが現在おこなわれているゲームの根源、いわゆる発祥であると言える。 また、世界で最初におこなわれたディスク競技の発祥であるガッツ(お互いが思いっきり投げ合う)を安全におこなえる「ガッツビー」なども提案された。 逸 話 ただし、当時の状況は糸のような細い線が 1 本あったようなもので、実情は、ほんの一瞬で消えうせる可能性も充分にあったと思わせる逸話が残っている。 当時のヒーロー社はディスクの選手経験者が多く集まった会社であった。いわゆるディスク専門家の集団だけに、社内でこの「Z-BEE」の扱いに ついて否定的な意見も大きかった。例えば「あくまでも、おもちゃであり、我々が扱うべきモノではない」 「飛行性能が悪すぎ、ディスクのおもしろさが ない」などなど、ほぼ7:3で扱い中止の方向が大勢となりかけていた。この主張が通っていたら、今のドッヂビーはこの世に出なかったかも知れない。 しかし結果として、それらの意見を一蹴して「改良のうえ、扱い継続」の道を選択することとなるわけだが「ある体験からくる思い」がそこにはあった。 プラスティックディスクしかなかった当時、ヒーロー社は小学校の校庭開放などの場にディスクを教えに出向く活動をおこなっていたが、現場の責任者 である大人に言われた「あなた方のような専門家がいて教えてくれれば、ディスクは楽しい道具だけど、帰ってしまえば危険物になってしまうのです。」 この一言が頭から離れず、この大きな命題を解決できるアイテムではないのか?との思いが「これを簡単には捨てない。 」という判断に繋がった。 ②1990年代 前半 ●製品化 万が一、人にあたっても怪我することなく遊べる特長とその素材によってあえて飛距離が制限される特性は国土の狭い日本にあっているということを、 イベントを通して実感したことにより、あえて「Z-BEE」をフェイク(冗談)と表現するならば、国内での販売を前提とした「本気」の製品開発に 着手することをヒーロー社の方針として決定。その本気度は特許を出願、取得(特許 No.2927971)したことにも表れている。 「Z-BEE」は当時のアルティメット用公式ディスクである「FRISBEE165G」、(現在は「Ultra-star」)のサイズである直径270ミリを単純に模して製作されたが、 現在、公式ディスクとして使われている「ドッヂビー270」はその後の飛行性能テストなどから、最も遊びに適していることで採用されたサイズである。 この偶然の一致は興味深く、面白い。その後、リリースされる235や200がそれぞれひとまわり大きいディスクの内径にスッポリ収まるサイズであるが、これも 飛行性能テストがおこなわれた結果であり、「飛び」と「サイズ」の関係は深いものがあることは否定できない事象である。 初期の製造ロット、500枚を製造。 ネーミングは「スーパーソフトディスク」とされた。 販売価格はZ-BEEと比較して約 2,000 円まで低減させた。 販売価格面の問題から輸入は考慮せず、国内工場での生産を模索した結果による。 盤面デザインは、プラディスクと共用とすることで初期コストを抑えるなどの工夫を施した。 同デザインのプラディスクは「ワールドフライヤー」と名づけられた。 当時の製品「スーパーソフトディスク」は270の1サイズのみ。 ドッジビー/ドッヂビーの表記は明確に決められてはいなかった。 何度かの盤面デザインや生地カラーの変更などがあった。例えば、DODGEBEEの文字が小さく1行、英文表記で 書かれているものと書かれていないものがある。(写真は「ない」タイプで最初期モデル) また、単に製品をつくることだけでは普及に限界があるため、遊び方を提案する活動として全国各地でフライングディスク・フェスティバルを積極的に おこない、ソフトディスクを使ったプログラムを必ず取り入れる活動をはじめた。 1994年当時のヒーロー社作成のカタログには数種類のゲームが紹介されており、 「ディスタンス」と「ドッジビー」が掲載されていた。 ③1990年代 後半 ●イベントアイテムから競技化の芽吹き ヒーロー社のイベントプログラムに採用する活動は、徐々にだが各地に波及する結果と なった。その最も効果的であったと思われる事例として、1998年10月、愛知県 フライングディスク協会主催によるフライングディスク・フェスティバルのプログラム に「ドッジビー」を採用し、新城市で実施。地元新聞、テレビ等で大きく紹介された ことがきっかけとなり新城市を中心に愛知県内での普及が急速に進んだ。メーカーで あるヒーロー社以外の動きとしては、おそらく初めてのものでありその意味は大きい。 なぜ新城市なのか? 当時、愛知県フライングディスク協会の事務局所在地であったことが最大要因。 新城市での一連の活動は、今日におよぶゲーム普及において果たした役割は大きい。 上記、フェスティバル実施以前、同年2月に小学校でドッジビーを試してもらった との記録が残っており、この時期に自治体との連携ができていた点はすばらしい。 その当時、ドッヂビーのメッカと言われるのも納得の活動状況である。 ●発展途上のスーパーソフトディスク 布モノを立体円形にすることと飛行性能を求められる製造は工場にとって、決して簡単なことではなかった。実際にZ-BEEやスーパーソフトディスク を今、手にとって見てみるとリム(側面部分)裏側の縫製処理やできるだけプラディスクに近い形状となる仕上がり具合は最新製品と比較すると誰もが これは・・・という感想を抱くことになるだろう。また、国内生産により価格低減ができたと言っても、まだ 2,000 円に近い価格は普及には足枷になると 感じていた。これはメーカー自身が言っており、商品としてはまだまだ発展途上であることは否定できない状況であった。 また、この頃より製造業における中国生産が主流となる時期であり、 「スーパーソフトディスク」のアジア圏での製造が模索された時期でもある。 ●メーカーCI 1999年、夏、㈱ヒーロー工房は社名変更および自社営業活動の領域別にブランディング化を推進することを決意。フライングディスク製品においても、 製造工程から盤面デザインやカラーリング、およびネーミングなどすべてを全面的に見直して一新。一挙にコーポレート・アイデンティティを整える動き の中、その一環として「スーパーソフトディスク」の全面変更にも着手する。これが、今日の「DODGEBEE/ドッヂビー」デビューに繋がる。 ④2000~2001年 ●「ドッヂビー」の確立 2000年4月、新年度スタートにあわせ、ヒーロー工房から株式会社ヒーローに衣替えとともにスーパーソフトディスクは「ドッヂビー」に変身。 まず名称を、あえてドッジボールと一線を隔す意味で、 「ドッヂ」を採用して、 現在の「ドッヂビー」に統一し、ロゴ化を図る。 盤面デザインを一新。 (現在の盤面デザインがデビュー) カラーバージョンもそれまでの3種から4種へ増やし、選択肢を拡大。 サイズはタイプ270を継承しつつ、新たに270の内側にスッポリ収まる タイプ235を導入して2サイズとしてシリーズ商品として完全リニュアル。 広告出稿も実施し、本格的な商品デビューを果たす。 ここで現行「ドッヂビー」の基礎が固まり、大きく動き出す。 その後、2002年、春には、新サイズのタイプ200がリリースされ、現在と同様の商品バリエーションが確立された。 製品リニュアルにあわせる形で、ゲーム名称も「ドッジビー」や「ドッヂビー」または「ディスクドッジ」など、複数が混在して使われていたものを、 「ドッヂビー」に統一した。また、製品ロゴを競技ロゴへ共通転用することを容認する措置がとられた。これは、初期段階で複数のコミュニケーショ ン手段をもってユーザーと接触するよりも1点集中することで知名度の加速と統一を狙ったものである。 ●初の大型大会開催 2000年8月には、愛知県フライングディスク協会主催で全国初の大規模な大会「第1回ドッヂビーこども選手権しんしろオープン」(53チーム、 450人参加)が愛知県新城市でおこなわれた。 ●関連バリエーション商品の充実 また、同年の秋には、同素材を用いたマーカーコーンや専用キャリングバッグ、また数量限定の特別カラーバージョン270が同時にリリースされるなど、 ゲームの普及とともに、多数量購入者のニーズに備える商品ラインが整い、学校備品としての購入が,顕著に増え始める。 過去、フラインディスクの歴史の中では、用具、競技ともに米国生まれ、米国育ちが基本であり、アメリカンスポーツと称されることが普通であったが、 「ドッヂビー」については、製品として、遊びとして、ともに日本発祥であることが大きな特徴であり、2000年にそれが確立されたものである。 ⑤2002~2004年 ●ドッヂビージャパン設立 この頃より、ドッヂビーってなんですか?どこで売っていますか?ルールはあるのですか?などの問い合わせが多く寄せられることとなってきた。 それらのニーズに対応するために、メーカーや販社、いわゆる製造販売とは別の動きができる普及組織の必要性に迫られてきた。 そこで日本フライングディスク協会役員有志が中心となり、メーカーおよび販売会社協力の元、 数ヶ月の準備期間を経て2002年10月ドッヂビージャパンが設置された。 まずは、ドッヂゲームの公式ルールを制定し、ルールブック、指導カリキュラム、大会運営マニュアル の「テキスト3部作」の作成配布と専用ホームページを開設して、それらの情報開示をおこなった。 また自治体へのドッヂビー導入の働きかけなどの普及活動や消費者ニーズや導入先などの調査、データ 収集活動をはじめる。 ●商品供給と普及の両輪体制が確立 2003年度(03年4月~04年3月)には、販売数量が年間5万枚を超え、2000年度のリニュアルから4期連続で前年対比20%以上の高い 伸び率を示し、全国的な広がりが見え始めてきた。 また、今後の販売数量もさらに加速することが予想され、ユーザーニーズに対応すべく製造と流通を専門分離する必要に迫られることになったことから、 2004年4月より、株式会社ヒーローが製造元、株式会社クラブジュニアが総発売元という商品供給体制が確立された。 ●地域に根ざした活動が顕在化 2004年10月には、ドッヂビージャパン主催で静岡県富士市において「ドッヂビーチャレンジカップ」が開催された。 地元、富士市と愛知県新城市の小学校が対戦する初の地域交流大会で、小学生選手をはじめ、同伴した父兄も応援で、大いに盛り上がった。 富士市の小学校では全25の小学校にドッヂビーが導入されており、愛知県新城市に次ぐメッカとして市を挙げた活動となっており、現在も続いている。 また同年には、調布市でも全市内の小学生を対象とした大型大会が開催された。これは市教育委員会が予算措置をしたうえで、体育指導委員が中心となり 地元健全育成委員や各学校PTAなどがコラボレートした結果、実現した大会であり、理想的な今後のあり方を示唆するものと言えるだろう。 ⑥2005年 ●ナゴヤドームの全国大会 2005年7月31日(土曜日)記念すべき、第1回ドッヂビー全国大会がナゴヤドームにおいて開催された。 参加選手は10都府県から148チーム総数2,208人。引率、観戦者を加えると、3,000を超す人が集まり、国内におけるフライングディスクの 最大イベントとなった。本大会は、小学生低学年および高学年の2部門と一般部門(中学生以上、年齢性別の制限なし)のカテゴリーでおこなわれた。 第1回ドッヂビー全国大会は、新城市にある大海自動車㈱による特別協賛の申し出をきっかけに、30周年を迎えた日本フライングディスク協会は記念 事業として、さらに地元、愛知県フライングディスク協会とドッヂビージャパンの3者によって構成された実行委員会の主催でおこなわれた。 全ての部門で性別分けをしない、また一般部門においては参加年齢層が10代~50代までと幅広く、同一種目にファミリーで一緒に、または親子間の 対戦ができる競技会とした。 「子どもたちの力試しの場」であると同時に、大会当日以前の練習などを通して、コミュニケーションが図れるなどの評価が 高く、ドッヂビーの特長が明確な数字という形になってあらわれた。 また、ドーム球場での実施は、 「ドームで全国大会がおこなわれている。」という場所のメジャー効果もあり、全国に向けた情報として大変有効に働いた。 その後、全国大会が継続的におこなわれることとなった地元愛知県では県内各地域へ急速に普及が進み、通年にわたり恒常的にプレイをおこなう競技者層 が登場し、ドッヂビークラブが多く存在するまでになった。さらに、審判員の育成など環境整備面における充実度はまさに日本一と言っても過言ではない。 ●ドッヂビージャパン発展解消 第1回ドッヂビー全国大会終了後の2005年11月、ドッヂビージャパンは初期の役割を果たしたものとして、JFDAに新設されたドッヂビー推進室 と統合する形をとってドッヂビー普及団体の一本化をおこなった。2005年はドッヂビーの歴史で大きな転換点となる年となった。 ⑦2006~7年 ●JFDAによる全国大会主催と公認化 同時期、JFDA(日本フライングディスク協会)傘下の各道府県協会においても、ドッヂビー普及がかなり活発化してきた。 2006年7月16日ナゴヤドームでおこなわれた第2回ドッヂビー全国大会から以降は、地元有力媒体社その他との共催の形をとり、実質主催者と してJFDAが全国大会を取り仕切る形が恒例化した。これらの動きを受けてJFDAは、2006年に世界連盟が公認するプラスティックディスクを 使用する10種目に追加して、日本協会初の独自判断による新規公認種目としてドッヂビーを採用した。 ●国内普及に伴う多様化と問題点 2005~6年ごろより、全国各地域でローカル大会が活発におこなわれるようになり、大きなものは千人以上が集まる 大会がみえるようになった。普及に伴い、ルールにおける不明点への質問が激増するとともに、いくつか問題点が指摘 されるようにもなる。ひとつは、ドッジボール形式のゲームであるため、相手にぶつけて人数を減らすことで勝敗を競う ことを批判する声や、そのゲーム性から捕り難いスローが有効であり、特に子どもたちはより変化するスローを好む傾向 が顕著に見られるようになる。その投げ方が肘や腕に相当なる負担を与えることが懸念されるといった意見である。 その検証のため、JFDAが健康学的見地の専門家に調査依頼をおこなったところ、やはり危険性は否定できないという 結果がでた.これを受けて2007年初頭にJFDA制定の公式ルール上、ある範囲のスローを禁止する措置を とった。この結果、地域大会ではその判断を歓迎する声も聞こえてきたが、2007年7月29日におこなわれた 第3回ドッヂビー全国大会における参加者数は、大幅な減少となった。ただし、この年より台湾チームの参加や 地元以外の他府県からの参加チームが増加するなど、地域的な広がりを実感できる事例も見えていた。 ●世界販売と国際普及 2007年全国大会に台湾チームの参加といった現象に見られるように、日本発祥のドッヂビーは世界に向けても 広がりをみせており、メーカーである ㈱ヒーローの報告ではすでに商品の販売が開始、各国協会がすでに設置または設置予定として、①日本、②台湾、③モンゴル、④米国 また、今後早い時期に予定されている国として、⑤韓国、⑥カナダ、⑦ドイツ、⑧スイス、⑨フィンランドといった状況である。 製品の供給がまずは重要という観点から考えるに、当初はメーカー主導になるものと思われるが、前述の各国をまとめた形で世界連盟の設立が数年内に 現実化する状況にある。 ⑧2008年 ●DBJA設立{今後の国内普及体制の確立} 2008年を迎え、近い将来、世界連盟の設立が確実な情勢から日本についてもドッヂビー専門協会の必要性 が高まってきた。また、国内においてドッヂビーは急速に普及したがため、指導者や審判員の育成といった周 辺の大人に向けた対応が追いついていない状況は否定できず、専門組織化することは早かれ、遅かれ必要にな ることを前提に08年4~9月を準備期間として同年10月、日本ドッヂビー協会が設立を果たした。 ●全国大会の限界と可能性 ナゴヤドームにおける夏休み中の全国大会は、かなりの認知が得られるようになってはきたが子どもたちが中心であるが故に、 父兄の立場的に見た場合、移動におけるリスクと費用の問題が依然として残っている。その根本解決策が見当たらない状況が 続き、本当の意味での全国大会にふさわしい参加者の広域性が確保できない中、2008年9月21日(日曜日)に行われた 第4回ドッヂビー全国大会は初の試みである秋期開催となった。この時期、学校行事とのバッティングにより、地元、他府県 共に参加者は減少、さらに予測外の世界的不況による協賛企業獲得の不振に見舞われ、大会運営上は大変に厳しい結果となる。 しかし、大会内容面では面白い成果もあった。2年連続2回目となる台湾チームが小学生高学年部門に参加したが今回の参加 以前に台湾国内で予選大会をおこない、そこで優勝したチームが代表として遠征してきたとのことでそのプレイ内容は、国内 チームではなかなか見られない変化スローを殆んど使用しないスタイルで、かなりの研究と練習を積んできた結果が鮮明に見 ることができるものであった。結果、同部門、初優勝を飾るすばらしい結果を残した。 この年の全国大会は運営上のつらさと限界、かつ参加者の広がりや可能性といった両面が見える意味深い大会であった。尚、 この大会は日本ドッヂビー協会準備期間中のため、例年通りJFDA主催、DBJA主管としておこなわれた。 その後、同年12月に開催されたJFDA理事会において次回2009年第5回ドッヂビー全国大会の開催を断念することを決定。2005年にはじまっ たドッヂビー全国大会は一度も場所を移すことなくナゴヤドームでの4回開催をもって、一旦終了することとなった。 全国大会の付帯イベントとして初の試みであるドッヂディスタンスの公式大会が日本ドッヂビー協会主催によっておこ なわれた。日本記録を公認する初の場となり、結果として現在の日本最長記録は33・98メートルと記録が認定された。 また、この記録大会が実質的にDBJAとして主催する初の大会でもあった。DBJAにとって、新体制のドッヂビーに とって初ものづくしのイベントとなり、9・21は新旧がクロスした節目となる1日として後々に記憶されるだろう。 ⑨2009年 ●国内の活動 2008年、秋の日本ドッヂビー協会設立後の基本方針により「地域における大会への協力・支援」を活動の中心軸にするとされ、協会の具体的活動は 地域大会のきっかけづくりとなる一般向けの体験型講習会や大会開催スタッフに向けた審判講習などの積極的実施に特化した。 しかし、協会設立時の中心メンバーが東京近郊に寄っているため、これらの動きはどうしても東京を中心とした関東圏に偏ってしまう問題もあった。 全国的に一律におこなえる協力・支援の必要性を感じ、その具体策として認定大会制度を発足させた。 これは全国どこでおこなわれる大会であっても基本的に認め、参加者各個人へ配布いただくことを目的に大会参加人数分のドッヂビーデザインのグッズを 数量制限することなく大会主催者へ無償プレゼントするサービスを開始。だが初期のころは、告知が行き届かず半期で5件程度の申請であった。 諸事情により遅れていた協会公式ホームページ www.dbja.jp が7月にやっと開設となった。 それに伴って認定大会の申請も急速に伸びてHP開設後半期で約20件の申請があり、 無償という点が支持されたのか、かなり認知が上がり今後も順調に増えると思われる。 ●ルール改定 2009年10月、ドッヂディスタンスの改訂ルールが発表された。 引き続き、11月にゴールドッヂ、12月にはディスクドッヂもそれぞれ改訂ルールが発表となった。 ディスクドッヂにおける違反スローについて大きな変更があり、小学生はバックハンドおよびフォアハンドの基礎スローのみとすることとなった。 ただし、地域大会は主催者ローカルルールでおこなうことを推奨しており、この改訂ルールが厳密に適用されるような広域自由参加の大型大会が現在の ところ、存在しないがために大きな混乱もなく、ルールに関する問い合わせも特に増えるようなことはなかった。 ●海外の動向 2009年3月、世界ドッヂビー連盟(Federation of International Dodgebee Associations)略称FIDA の設立準備室が米国に設置された。との情報があった。 8560 Oakwood Place Rancho Cucamonga, CA. 91730 Tel: 909-260-3208 Fax 909-481-6263 Hero Disc USA 内 担当:Sam Ferrans www.dodgebee.com ⑩2010~11年 ●国体デモンストレーションとしてのスポーツ行事(通称デモスポ)にドッヂビー採用 2010年最大のニュースは2013年東京国体デモスポ行事にドッヂビーが2区市で採用決定したことだろう。 交渉自体は2009年前半より開始していたが、本決定がなされ初の関係者が一同に会する会議が 2010年6月2日(水曜日)10:30より千代田区役所の会議室で行われた。出席者は(役職はすべて当時) 千代田区 区民生活部 文化スポーツ課 課長 佐々木 勝広氏/スポーツ振興係長 柴崎 仁氏/同 主事 田辺 隆氏 調布市 生活文化スポーツ部 国体推進室 室長 源後 哲郎氏/国体推進係主任 菊地 英一氏/同 主事 小林 幸平氏 そして日本ドッヂビー協会 代表 稲垣 敬雄/同 副代表 林 昌永の8名との記録が残っている。 また、先催である2012年岐阜国体においても多治見市でのドッヂビー採用が決定していた時期でもあり、 2年連続および2区市採用とドッヂビーの将来性を感じさせる大きなトピックスと言え、これ以降、国体デモスポ 準備として指導・審判員資格試験を、東京都を中心に試験的実施を開始するなど総合的な普及活動が活発化した。 ●新規ディスク登場! また製品としての新規リリースがあり大手ボールメーカーモルテンブランド のドッヂビーがOEM生産により3月より販売が開始された。 ●認定大会制度が確立 協会の重要施策となる認定大会は08年に5件からスタート、 09年の28件、そして2010年に38件の申請となった。 翌2011年には63件の申請とさらに大きく飛躍するのだが 認定大会の事務的オペレーションなど基礎的な確立がなされた時期である。 ●2011年、12月主催大会をスタート 荒川区において初の主催大会を実施。また同日、同場所で指導・審判員資格講習会を実施するなど、運営面での許容量やスタッフの質と量のチェックと いった多岐に亘る自己能力の確認など、あらゆる意味でのトライアルをおこなったことは後々の大きな財産となった。 ⑪2012年 ●DBJA主催 ディスクドッヂ大会のシリーズ開催 認定大会による各主催者様の意見を聞く機会が増える中で他地域との交流を望む声が日に日に大きくなって きており、それらのご要望に応えることの必要性と2連続での国体種目に決定したことから統一ルールの啓蒙と普 及という観点でDBJAが主催する「中域大会」を 2012 年よりスタート。 中域大会とは、区市町村の枠は超え、移動負担を感じない程度のエリアでの集いを想定した大会として、 東京国体準備の側面から開催エリアを都内中心に開催地元行政との共同でシリーズ的に国体本番 (2013年秋)までに4回開催。参加者は常に増加傾向で推移するなど成功と言える大会となった。 また、東京国体のリハーサルの側面も持たせ、開催地関係者を中心とした審判団を積極的に採用するなど、 あらゆる意味での検証を重ねる場として有効に機能した。今後もこのコンセプトを踏襲し、東京以外の地域へ 広げていくことで、地域普及の施策として確立させて行きたいと考えている。 ●東北復興支援大会 前年に起きた大震災を支援する目的であらゆる企業・団体が支援活動を 行う中、縁のある企業からのオファーで東北3県(福島/宮城/岩手) を会場にドッヂビー大会の開催と大会前日に現地関係者を集めて指導・審判員 講習会をおこなう講習・大会キャラバンを2ラウンド、夏休みの時期に実施。 前日講習は地元に根付いていただきたいという思いから、DBJAより逆提案し、 採用いただき実施され、中域大会シリーズとともに有意義な施策となった。 ⑫2013年 ●東京国体デモスポ行事 ドッヂビー開催 前年の9月30日、岐阜県多治見市でのドッヂビー大会に続き、2大会連続となる国体デモスポ行事、本番の年。 早朝、2020年東京で五輪開催が決定!!日本スポーツ界における重要な日となった9月8日(日)千代田大会、開催! 小学生部門1部門のみ。 24チーム367人の選手、 観戦保護者約500名スタッフ関係者を含めると約1000名が集う。 4チーム×6リーグによる予選、決勝トーナメント×8チームにより対戦の結果、荒川区のチームが優勝、 上位4チームは荒川区×2チーム、千代田区×2チームとなった。 9月23日(月祝)調布大会開催!! 小学生低学年部門に11チーム、159人、小学生高学年部門に27チーム、375人 選手合計38チーム、534人、選手観戦保護者約800名、 スタッフ関係者を含めると約1,500名が集った。 低学年は5/6チームの2リーグによる予選、各リーグ上位2チーム、計4チームの決勝トーナメント 高学年は3チーム×9リーグによる予選、決勝トーナメント×18チームにより、対戦の結果、両部門ともに上位4チームすべてが調布市となった。 ⑬2013~14年 ●国体デモスポ終了後 年齢性別の差を感じさせない、ドッヂビーの大きな特長。 また、震災以降、地域コミュニティの重要性が見直されている社会傾向。 さらには統一ルールでおこなわれることで、初対面であっても即時スムーズな交流ができる、スポーツの基本。 これらを総合的に考慮して東京国体終了後の協会が定めた方針は、統一ルールによっておこなわれることを前提に 提唱する複数の種目を同時に開催することを基本とした「広域大会」を日本各地で開催する。 こととして、2013 年末に「広域ドッヂビーコンペティション」シリーズをスタートさせた。 第1回は関東大会として2013年12月22日、東京都武蔵野市、武蔵野総合体育館で 開催。この大会では同時に東京国体2大会の上位各4チームによる王座決定戦もおこなった。 DBJA主催大会、過去最高の47チーム、645名が集まった。 このシリーズ共通のテーマである「ディスクドッヂ」「ゴ-ルドッヂ」「ドッヂディスタンス」 の複数種目を同時におこなうにあたり、会場が複数に分散した時の難しさを実感。 また、観客も楽しめる付帯イベントや施設を充実させ、誰もが楽しい大会として評価された。 第2回は近畿・中部大会として2014年3月9日、 愛知県豊田市、スカイホール豊田で実施。 この大会では主催大会として初となる 「障がい者部門」が設定された。 第3回は中国・四国大会として2014年5月18日、岡山県岡山市、ももたろうアリーナで県子ども会連合会が共催となり開催された。
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