『ブ ラ イ ト ン ・ ロ ッ ク』試 論

滋賀大学大学院教育学研究科論文集
113
第 13 号,pp. 113-122,2010
原著論文
『ブ ラ イ ト ン ・ ロ ッ ク』試 論
―ピンキーの反逆とその意味―
小
林
良
子†
Ryoko KOBAYASHI
Abstract
Graham Greene stated that Brighton Rock was the best novel he had ever written. In this novel, he
deals with the metaphysical question of good and evil in contrast with the moral world of right and wrong
of our daily life.
Greene formed Pinkie as a 17-year-old murderer who does not have a sense of sin. The anti-hero
confronted God with an unprecedented scale of evil. Pinkie is provided with enormous pride, rejecting
salvation to the very end of his life. In Brighton Rock, Greene asks whether God exists or not by Pinkieʼs
revolt against God. Pinkie is always conscious of God, which means paradoxically that he is the nearest to
God.
キーワード:グリーン,ブライトンロック,カトリック,恩寵,告解,地獄
ながらも,犯人探しの娯楽小説には収まりきれ
は
じ
め
に
ない深刻な形而上的なテーマを含んでいる。読
み終わった読者の胸には,少年ピンキーの底知
グレアム・グリーン (Graham Greene, 1904-
れない悪の重さが残るのである。
1991) は 87 年の生涯のうち,その 60 年近くを
ハ ロ ル ド・ブ ル ー ム (Harold Bloom) は ピ
執筆活動に費やした。作品は小説だけに留まら
ンキーの造形について“the most memorable
ず,評論,戯曲,詩集など多岐に亘っている。
and the most vicious representation of a person
そ れ ら に は“Human nature is not black and
in Greeneʼs fiction”2) と述べ,グリーンの登場
white but black and grey.”1)という確信に満ち
人物の中でもその悪の要素によって最も記憶に
た,暗く陰鬱な世界が展開しており,「グリー
残る人物としている。
ンランド」と呼ばれる独特の小説世界を作り上
げている。
ピンキーは 17 歳の殺人者である。彼のもっ
とも恐ろしい点は,彼に人を殺したという罪の
主 人 公 の 少 年 ピ ン キ ー・ブ ラ ウ ン (Pinkie
自覚がなく,人間的な感情を欠落させている点
Brown) が犯す殺人事件を発端に展開していく
である。彼の灰色の眼には,10 代の若者にあ
ストーリーは,スリラー小説の要素を強く持ち
るはずの溌剌とした生命感がおよそ感じられな
い。“the slatey eyes were touched with the
†教科教育専攻 英語教育専修
指導教員:岩上はる子
annihilating eternity from which he had come
and to which he went”(20)3)と形容された眼は,
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良
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ピンキーが「虚無」と「破壊」を秘めた悪魔的
の向こう側」(ʻAcross the Bridgeʼ, 1938) にお
な存在であることを印象づけるものになってい
いては,メキシコとアメリカの国境,リオ・グ
る。彼は復讐のために人を殺し,口封じのため
ランデにかかる橋が境界となって,国際指名手
にさらなる殺人を犯そうとして,最後には地獄
配を受けている主人公のキャロウェイの天国と
への転落を思わせるような死を遂げる。作品の
地獄が描かれている。
なかで繰り返される「救済」はあるのかという
活字 になった最 初の長編 小説『内なる 私』
問いに対しては,明確な答えは提示されること
(The Man Within, 1929) は,グリーンが一人
なく,その答えは読者にゆだねられた形で終
の人間のなかに二つの世界を見出した作品であ
わっている。
る。エピグラフに「私の中のもうひとりの私は,
『ブライトン・ロック』でグリーンが追及し
私に対して怒っている」というサー・トマス・
た の は,社 会 的 な 正 義 と 不 正 義 (right and
ブラウン (Sir Thomas Browne) の言葉をあげ
wrong) を超えた善と悪 (good and evil) とい
ているように,グリーンは主人公アンドルーズ
う神学的な問題である。本論では,ピンキーの
のなかに住む二人の人間の葛藤に焦点をあてて
造形の分析を中心に,彼がその強いプライドに
いる。
よって反逆しつづけたものとは何だったのかを
考察することによって,グリーンがこの作品で
1. 2
描こうとしたものを考えてみる。
『内なる私』において萌芽をみせていたよう
グリーンの改宗
に,グリーンの小説には人間存在の深奥へと迫
1.テーマの形成
る暗い深刻な神学的な世界が展開する。作家と
してはまだスタートしていない 1926 年,カト
1. 1
二つの世界
1904 年 10 月 2 日,グリーンはハーフォド州
バーカムステッドで誕生した。父はパブリッ
リックに改宗し,洗礼名に doubting Thomas5)
を選んだ。グリーンは当時について次のように
語っている。
ク・スクールの校長であったため,一家は学校
の寄宿舎の一角に居住していた。やがて学齢期
(When I was baptized, I made it clear that I
に達したグリーンは父親の学校に入学し,週日
had chosen the name of Thomas to identify
は学校で,土曜の午後と日曜は家庭で過ごすと
myself not with St. Thomas Aquinas but with
いう,二分された生活を送ることになった。学
St. Thomas Didymus, the doubter.) I eventu-
校と家庭は,父親の書斎のわきの廊下にある緑
ally came to accept the existence of god not
色のラシャを張ったドアによって隔てられてお
as an absolute truth but as a provisional
り,その仕切りは「平和と愛にみちた家庭」と
one.6)
「暴力が支配する地獄のような学校」とを隔て
る境目として少年グリーンの心に刻み込まれ
22 歳のグリーンは神の存在を「絶対的なも
た4)。背中合わせの異世界の存在は,グリーン
の」としてではなく,
「暫定的なもの」という
の世界観の形成に大きな影響を与えたと考えら
条件付きで受け入れるのである。
れる。長じて作家となったグリーンの小説の多
グリーンは批評家からしばしばカトリック作
くに,具体的あるいは象徴的な形で「天国」と
家に分類されることを拒否している。彼が注視
「地獄」を隔てる「境目」のイメージが現れる
するのはカトリックの人間というよりも,むし
のである。
短編 「地下室」(ʻThe Basement Roomʼ, 1936)
においては,主人公の幼いフィリップの無垢で
ろ善と悪のあいだで揺れ動く人間たちであり,
カトリックの教義をそのままに受け入れプロパ
ガンダのために書くのではないと主張している。
明るい世界と,執事ベインズ夫妻の愛憎の絡み
A Gun for Sale から Brighton Rock へ
合う暗い世界が,地上階と地下の部屋を隔てる
1. 3
一枚のドア越しに存在している。また短編「橋
6 作目の長編小説『拳銃売ります』(A Gun
『ブライトン・ロック』試論
115
for Sale, 1936) は,『ブライトン・ロック』へ
ナを描いたのとは異なる。グリーンは,作品の
の足がかりとなる作品として重要である。天涯
ブライトンは現実のブライトンそのものではな
孤独の殺し屋レイヴンは,ピンキーのデッサン
く,イメージによって膨らませたものであると
のような人物であったことを,グリーン自身
し,その理由について次のように述べている。
『拳銃売ります』の序文で次のように述べてい
る。
Why did I exclude so much of the Brighton I
really knew from this imaginary Brighton ? I
The main character in the novel, Raven the
had every intention of describing it, but it was
killer, seems to me now a sketch for Pinkie in
as though my characters had taken the
Brighton Rock. He is a Pinkie who has aged
Brighton I know into their own consciousness
but not grown up. The Pinkies are the real
and transformed the whole picture.8)
Peter Pans ― doomed to be juvenile for a
lifetime. They have something of a fallen
自分の知るブライトンをそのままに描こうと
angel about them, a morality which once
いう意志はありながらも,作中の登場人物たち
belonged to another place. The outlaw of
にのっとられ,風景全体が変えられてしまった
justice always keeps in his heart the sense of
というのである。つまり,
『ブライトン・ロッ
justice outraged ―7) (italics mine)
ク』には,風景を支配あるいは超えてしまうほ
どの強烈な登場人物が作り出されたと考えるこ
レイヴンはピンキーが成長することなく年を
とができるだろう。
取った姿であり,彼らはともに「堕天使」とし
物語は聖霊降誕祭の休日,新聞記者ヘイル
て「踏みにじられた正義」という思いを抱えこ
(Hale) がピンキーに追われるところから始ま
んでいる。法を犯す犯罪人でありながら,どこ
る。死の恐怖と闘いながら必死にピンキーの追
かに人生の現実に塗れることを拒む純潔な部分
手を逃れようとするヘイルは,惨めな姿を見せ
を共有している。社会による裏切りと無垢の喪
まいというプライドに支えられながら,酒場で
失という体験がこの二人の主人公に共通するも
歌を唄いその日暮らしをしている享楽的な女性
のである。
アイダ (Ida) に同伴を求める。アイダは豊満
な肉体と明るさ,母のような憐みの心を持ち合
2.Brighton Rock の世界
わせている。ヘイルは彼女を傍に置くことで目
撃者をつくり,身を守ろうとする。だが,アイ
1930 年代のブライトンは海辺の保養地とし
ダが目を放した隙にヘイルは殺されてしまう。
て華やかな賑わいを見せる一方で,みすぼらし
殺害の場面は明確には書き込まれていないが,
く侘しい荒涼としたスラム街も広がっていた。
前後の状況から推測すると,ギャング団は長い
競馬場を中心とした犯罪の温床でもあり,グ
棒状の飴「ブライトンロック」をヘイルの喉に
リーンが『ブライトン・ロック』で描き出した
押し込むという,残酷な手口で殺人を犯したも
のはこうしたブライトンの側面であった。彼は
のと思われる。子どもの菓子が凶器に使われた
創作にあたっては綿密な取材を行うのを常とし
のだ。ピンキーは事件のアリバイ工作も完璧に
ていた。メキシコを舞台とした旅行記『掟なき
準 備 し た は ず だ っ た が,仲 間 の ス パ イ サ ー
道』(The Lawless Road, 1939) やアフリカの
(Spicer) がヘマをしたことで事件の目撃者を
英 国 植 民 地 を 舞 台 し た『事 件 の 核 心』(The
つくってしまう。
Heart of the Matter, 1948) についても,現地を
事件に関わることになる少女ローズ (Rose)
訪れ,取材したままの風景をルポルタージュの
は,カトリック教徒である。神の恩寵を信じ,
ように作品に投影している。
告解せずに死ぬことを恐れている。ピンキーは
『ブライトン・ロック』にも実在の風景,建
みすぼらしく無知なローズを軽蔑するが,自身
物が多く描かれているが,メキシコやインドシ
もカトリックであることや貧しい故郷の出身者
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であることから,共通点を見出し,全く相容れ
その眼からは“his grey eyes had an effect of
ない存在ではないと気付く。
heartlessness like an old manʼs in which human
一方,自らの信じる“right and wrong”に
feeling has died”(8) と,輝きを放つ瞳の奥に
従って生きているアイダは,ヘイルの死を不可
あるはずの炎が消え,冷酷な光があるだけだ。
解に思い,公正な裁きがくだることを求めて事
彼は生命力や女性的な魅力を嫌悪し,人間が兼
件の真相を探りあてようとする。
ね備えているべき愛や希望,さらには悲しみや
ヘイルの復讐を自らの手で行うアイダには信
恐怖心などを持ち合わせていない。ここにピン
仰は無縁である。奔放で慈悲深い彼女を,グ
キーの不気味さが潜んでいるのである。人間的
リ ー ン は 肯 定 的 に 描 い て は お ら ず,“There
な感情や想像力の欠落しているピンキーにとっ
was something dangerous and remorseless in
て,殺人は言葉以上の重みを持たず現実味を
her optimism”(35) と,彼女の楽観主義には
もって迫ることはない。人間らしい感覚を抹殺
危険で容赦のないものを感じさせる側面がある
することで感傷的にならないことがピンキーの
としている。
強みなのである。仲間に対しても,助け合いや
神の存在を信じていないアイダと対比的に描
思いやりの心を持つことがない。他人を哀れむ
かれているのが,カトリック教徒の 2 人,ピン
ことがないのは若さゆえとも思われるが,その
キーとローズである。『ブライトン・ロック』
未熟さがピンキーの残忍さを生み出していると
では,中心的な登場人物をカトリック教徒に設
も言える。
定したことで,これまでになく宗教的な問題に
彼が孤独な少年へと成長した背景には,極貧
正面から向かい合うものになっていく。この方
のあばら家で育った彼の生い立ちがある。貧し
針の転換についてデヴィテス (A. A. DeVitis)
い環境のなかで,土曜日の夜に子どもの目前で
は次のように指摘している。
行われる両親の性行為は,幼いピンキーに疎外
感を与え,性に対する嫌悪感を植え付けた。牧
That there must have been some confusion in
師への道を考えさせるほど,この体験は大きな
Greeneʼs mind about the kind of book he had
傷跡を残している。ピンキーは貧しさと性への
written is apparent from his first calling
拒絶を背負いながら,世の中の経験や価値に染
Brighton Rock an “entertainment” and only
まることを拒否し,世間やそれらを享受してい
9)
later a “novel.”
る人間たちに敵意を剥き出しにするのだ。
敵対するギャング団のボス,コレオニは警察
『ブライトン・ロック』は対比的な二つの世
を味方につけるほど世知に長け,裏社会でビジ
界を描き出しており,グリーン自身も「本格小
ネスを展開するといった権力と支配の現実を見
説」として位置づけている。
せつけている。豪華ホテルを根城にするギャン
物語の前半では,アイダが執着する「正と不
グ団のボスの贅沢な暮らしぶりは,ピンキーの
正」の道徳的世界,ピンキーとローズが生きて
なかに嫉妬と同時に激しい憎悪をかき立てる。
いる「善と悪」の神学的世界の狭間に,グリー
コ レ オ ニ の 自 信 に 満 ち た 姿 は“as a man
ンは立っているように思われる。しかし物語の
might look who owned the whole world, the
展開とともに,信仰のないアイダの存在が薄れ
whole visible world that is, … and the laws
“right and wrong”が後退し,“good and evil”
which say ʻthis is Right and this is Wrong. ʼ”
が比重を増していく。
(67) と見える。彼は裏社会を牛耳っているが,
そこは彼らなりの法が支配する世界であり,そ
3.ピンキーの造形
の意味ではコレオニもアイダと同じように
“right and wrong”の世界の住人である。法に
3. 1
ピンキーのイノセンス
少年ピンキーの顔つきには得体の知れない
「飢え」と「プライド」が刻まれている。また
よって「正と不正」が決められる“visible”な
世界であり,コレオニはピンキーの住む“invisible”な闇の世界の中に入ることはできない。
『ブライトン・ロック』試論
117
なぜならこの闇は信仰を持つ者にしか与えられ
この「一種のゆがんだ純潔の影響はどんな情欲
ない世界であるからだ。
よりも悪質である」とアメリカの作家ハリー・
テリー・イーグルトン (Terry Eagleton) は
シルヴェスター (Harry Sylvester) が指摘す
ピンキーの悪について“Pinkie may be “evil,”
るように,ピンキーはその未経験を仲間に嘲ら
but he is not “corrupt” : his evil is a pure,
れたとき,人を殺しかねないほど激怒し,その
pristine integrity, a priestly asceticism which
体内には「毒」が渦巻く。
refuses
the
contaminations
of
ordinary
ピンキーの毒は,肉体の中に潜む憎悪に留
living.”10) と指摘している。酒を飲まず,タバ
まらず,他人を脅かす凶器としても存在する。
コも吸わず,女性とも関係せずにいることは,
例えば,ピンキーは敵を斬りつけるための剃刀
ピンキーにとって汚れた大人の世界に染らない
を所持し,さらに「硫酸」のビンをポケットに
という一つのプライドの根拠なのである。現実
忍ばせている。この毒でピンキーはローズを脅
の世界に塗れることを拒絶するピンキーは,あ
し,口封じを計る。あるいはアリバイ工作に失
る意味では成長を拒絶し,腐敗した大人の社会
敗したスパイサーを死に追いやる過程において
に入ることを拒絶する少年,という一面を持っ
毒は猛威をふるう。追い詰められていくスパイ
ているとも言えるのである。
サーは“like a man with a poisoned body”(86)
と毒が彼の身体に侵入し,ついに逃げ場がなく
3. 2
毒の象徴
なったとき“it was like an abscess jetting its
イノセンスをプライドのひとつの根源とする
poison though the nerves.”(87) と,毒が彼の
ピンキーは,“no gain to recompense you for
全身に回る様が直喩によって表現されている。
what you lost”(97) と性体験を拒絶している。
スパイサーはピンキーから発せられる毒によっ
本能的に性欲が疼くときでさえ,彼は土曜の夜
て蝕まれるのである。彼は毒をもつことで社会
を思い出しその性体験を避けて通れないものか
に対峙し,誰にも汚されることのないプライド
と苦悩する。
を貫こうとする。ピンキーの毒が凶器にもなり
得るのは,彼の内側に存在する強いプライドが
Was there no escape ―anywhere― for
anyone ?
It
was
worth
murdering
攻撃性となって現れるからである。
a
world…the Boy laughed again at the fine
3. 3
words people gave to a dirty act : love, beauty
グリーンがピンキーの最大の特長としてプラ
evil の本質
… All his pride coiled like a watch spring
イドを盛り込んだ理由は,プライドがカトリッ
round the thought that he wasnʼt going to
ク教義上の 7 つの大罪の一つであるからと考え
give himself up to marriage and the birth of
られる。聖歌隊の一員であり,牧師になるこ
children, he was going to be where Colleoni
とを望んでいたピンキーだが,彼は自分の存
now was and higher … (97)
在の根底に潜む悪を“Itʼs in the blood. Perhaps
when they christened me, the holy water didnʼt
人々が愛と呼ぶ行為をピンキーが汚れたもの
take. I never howled the devil out.”(136) と自
と考えることについて,批評家たちはトラウマ
覚している。それは聖水でも取り除くことがで
と関連付けている。それに対し,ウィリアム・
きない,生まれ持ったもの,ぬぐい去れないも
バーミンガム (William. J. Birmingham) はグ
のとされている。
リーンの小説における性関係は明らかにコミュ
ピンキーの反逆は,その犯罪行為によって社
ニケーションの行為として表わされているとし,
会に向けられているように見えるが,実はより
ピンキーの性に対する拒絶はコミュニケーショ
巨大なものに対する反逆が意図されているので
11)
。孤
ある。
『拳銃売ります』でレイヴンがアンに問
高の誇りを持つピンキーにとって,処女性は自
いかけたように,ローズがピンキーに神の存在
尊心を保つ重要な役割を担っているのである。
を問う場面がある。
ンの断絶を意味していると述べている
118
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子
ʻOf course itʼs true,ʼ the Boy said. ʻWhat else
could there be?ʼ he went scornfully on. ʻWhy,ʼ
4.Brighton Rock における宗教性
he said, ʻitʼs the only thing that fits. These
atheists, they donʼt know nothing. Of course
4. 1
thereʼs Hell. Flames and damnation, …tor-
ピンキーは,彼の自我と相容れないものに憎
ments. (54-55)
イノセンスの喪失
悪を感じ,また如何なるものにも影響を受けな
いプライドを絶対の自信としていた。だが,や
ピンキーは神を信じている。神がいなければ
がて他人を寄せ付けない閉ざされた心にも変化
この世は整合しないとさえ思っている。しかし
が訪れる。その様子は,音楽のモチーフと共に
ヘイルを弔った牧師の“ʻOur belief in heaven,ʼ
テキストに書き込まれている。
the clergyman went on, ʻis not qualified by our
彼にとって音楽は苛立ちの触媒であった。
disbelief in the old medieval hell.ʼ” (34) とは同
ローズと会話しているときに聞こえるヴァイオ
じ考えに辿り着けない。人々は神を信じると同
リンがピンキーの神経を刺激する。
時に天国を信じている。たとえ天国の対極にあ
る地獄がなくとも,天国があるという牧師の信
Only the music made him uneasy, the catgut
仰に対して,ピンキーの天国の存在は曖昧であ
vibrating in the heart ; it was like nerves
る。だが,それに対して地獄のイメージは強烈
losing their freshness, it was like age coming
で,常にその存在を意識している。ピンキーは
on, other peopleʼs experience battering on the
永遠を苦痛という形でしか描くことができない。
brain. (47)
ピンキーが地獄をイメージできるのは,すで
に地獄を体験しているからである。幼年期には
他人に同情したり共感することのないピン
親からの疎外感や貧しさが,また児童期には校
キーだが,音楽だけは彼を不安にさせ,彼自身
庭での暴力による支配が彼の脳裏に地獄を焼き
の 閉 じ た 殻 に 亀 裂 を 生 じ さ せ る。安 藤 は
付けている。彼は神は存在するが,救済は自分
「Pinkie にとって,音楽と言うものは,醜い自
のためにはないことを知ったのである。ピン
己を映し出す鏡なのである。
」12) と述べている
キーは神の存在を信じているにもかかわらず,
が,山形は音楽がいつも負の反応を引き起こす
“he wasnʼt made for peace, he couldnʼt believe
とは限らないとし,
「音楽は自我の原点を呼び
in it. Heaven was a word : hell was something
起こす原因であり,ピンキーの閉ざされた自我
he could trust.” (248) と,平安とはただの言
に打ち込まれる楔」だと指摘している13)。ピ
葉に過ぎず,彼に実感できるのは地獄だけなの
ンキーは音楽のなかで,「生」と「死」が自分
だ。
の手に負えないもの,自分で創るものではない
グリーンは徐々にピンキーの心の底にある虚
と気付く。音楽は,本来ピンキーのなかで麻痺
無を読者に垣間見させ,憎悪の根幹に触れさせ
していた何かに働きかけるのである。ピンキー
る。こうして読者はピンキーの世界へと招き入
が“Agnus dei qui tollis peccata mundi, dona
れられ,彼の根源的な悪に向き合わされること
nobis pacem.”と讃美歌を口ずさむとき,“In
になる。ピンキーの“evil”は,法で裁かれる
his voice a whole lost world moved―”(54) と,
殺人罪にあるのではない。人間の日常生活を拒
彼のなかで失われた一つの世界が揺れ動き,幼
絶し,社会生活や性へも背を向けて受け入れよ
き頃のカトリックの信仰心が目を覚ますのだ。
うとしない “annihilating eternity”「虚無へと
眼前の世界を神に見放された地獄と感じてい
つながる永遠」への傾斜こそがピンキーの悪の
るピンキーは,地獄堕ちすることを恐れず,神
本質であるのだ。彼は「虚無」の世界からやっ
に祈りこそしない。だが「地面と鐙のあいだ」
てきて,神の救済を拒絶する人間として存在し
に慈悲が存在することを認めている。しかし競
ているのである。
馬場でコレオニ一味に剃刀で切り付けられたと
き,初めて苦痛と恐怖を知り,死というものを
『ブライトン・ロック』試論
119
意識する。祈る時間さえないことに気付くので
い結婚をし,自ら「火あぶりの刑」を受け入れ
ある。これを機に永遠の苦痛は,それまでの堕
る こ と は“Now it was as if he was damned
地獄という観念から,“now it meant the slash
already and there was nothing more to fear
of razor blades infinitely prolonged.”(117) と
ever again.”(198) と,ピンキーが完全に地獄
いうように生々しい現実へと変化する。
堕ちをしたことを意味している。
一方,アイダは犯罪少年と関わり合いになっ
自らのイノセンスとプライドが,内に潜む悪
ている少女ローズを救うことに情熱を注ぐ。
を究極の悪へと育て上げ,またその悪こそがピ
ローズはそんなアイダを “she couldnʼt burn if
ンキーの自我をも創り上げていたのだった。だ
she tried.”(121)「神からも相手にされていな
がしかし,音楽の侵入とローズの介入によって
い存在」として軽蔑している。信仰心のないア
これまで保持してきたイノセンスは崩壊する。
イダに,ピンキーのような大罪は犯せない。
これはピンキー自身の崩壊でもあると考えられ
ローズの“Iʼd rather burn with you than be like
る。
Her.”(121) という言葉には,自分も地獄落ち
する覚悟が込められており,少女の芯の強さや
4. 2 ローズの役割
揺るぎない愛が安っぽい音楽のようにピンキー
ロ ー ズ の 愛 は 深 く,ピ ン キ ー は 時 に“His
を感動させ,これまで一切心を開かなかったピ
words stumbled before her carved devotion.”
ンキーの内部へと侵入する。ピンキーは音楽も
(151) とローズに聖女を重ね合わせ,言葉をつ
ローズも初めは拒絶するのだが,それらの侵入
まらせる。ローズは,ピンキーが殺人犯である
を妨げられない。
と勘付きながらも,彼を愛し,彼に寄り添う。
物語を通してピンキーは“the Boy”と書か
アイダはローズの仕事場へ押しかけて行き説
れている。大人になることを拒否している少年
得を試みるが,ローズを危険なピンキーから引
ピンキーは,身の安全を確保するためスパイ
き離すことができない。
サーを殺し,ローズとの結婚を決意するが,そ
れは同時に地獄へと近づくことを意味する。な
The Nelson Place eyes stared back at her
ぜなら彼は性体験を“burn”「火あぶりの刑」
without understanding. Driven to her hole
だと考えているからだ。神に立ち向かうピン
the small animal peered out at the bright and
キーは善良なローズを地獄に引きずり込むこと
breezy world; in the hole were murder,
で さ ら に 神 に 背 く。祈 り の 言 葉 は“credo in
copulation, extreme poverty, fidelity and the
unum Satanum”「我が唯一の悪魔を信ず」へ
love and fear of God, but the small animal had
と変化し,キリスト教の神に対して反逆の姿勢
not the knowledge to deny that only in the
を露わにする。ピンキーは酒を飲むようになり,
glare and open world outside was something
結婚によって性を受け入れる。彼はこれまで保
which people called experience. (131)
持してきたイノセンスと引き換えに,罪を重ね
ることで神への冒瀆を繰り返す。反逆の手を緩
ここではローズの住む穴ぐらの暗い世界と,
めることはないのだ。神の恩寵を受けるのを拒
アイダの住む風通しの良い明るい世界が並列さ
絶し,結婚式は教会で行わず区役所に届けを提
れている。ローズの生まれ育ったネルソン・プ
出することでピンキーとローズは共に大罪を犯
レイスの町には,殺人や性交,貧困,忠誠と共
す。性体験を終えたピンキーは,他人を受け入
に神への愛と恐れがある。これがローズの生き
れたことで,孤高のプライドと同時にイノセン
る世界であり,ローズはアイダの明るい世界を
スを失う。彼はこの経験がヘイルやスパイサー
求めているわけではないし,アイダの価値観を
の死よりも,ずっと死に似ているように感じた。
受け入れるつもりもない。信仰心のないアイダ
ピンキーは「人間の最後の欠点から卒業」し,
の言葉はローズの心に響くことはないのである。
大人と同等になれたというプライドによって,
ピンキーが,アイダと対面するローズを目撃
再び死に対する恐怖心を捨てる。教会の認めな
する場面では,『ブライトン・ロック』の中心
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的テーマが浮上する。アイダとローズは“It
悪」として神の存在に立ち向かう姿は変わらな
was Nelson Place and Manor Street”(135) と
いのだ。
表現され,貧しい人が犇めいているネルソン・
プレイスという狭い路地のローズの世界と,い
4. 3 ピンキーの終焉
かにも中産階級の住居する大通りというアイダ
ローズとの結婚により,ピンキーはこれまで
の世界が対比的に描かれている。ローズとアイ
自由に暮らしていた領域を侵されるように感じ
ダを隔てるものは‰the love and fear of GodŠ
であり,ローズとピンキーを結びつけているの
る。彼女の存在はピンキーに重く圧し掛かり,
“He knew what the end might be ― it didnʼt
も‰the love and fear of GodŠである。彼らに
horrify him : it was easier than life.”(225) と,
とって,アイダは地獄や天国から離れた異世界
地獄堕ちをいよいよ死と結び付けて意識し始め
の 住 人 で あ り,ピ ン キ ー は“She was good,
る。
heʼd discovered that, and he was damned : they
ピンキーの弁護士 Mr Prewitt も事件の目撃
were made for each other.”(135) とローズを
者であり,彼の口から真相が漏れるのを阻止し
「善良なるもの」として,自分自身を「地獄落
ようとピンキーは彼の家を訪ねる。プルウィッ
ちするもの」として,互いに補完し合うものと
トは不本意な結婚生活を 25 年間も続けており,
して認識する。
グリーンがアイダではなく,ピンキーとロー
ズを中心として物語を展開していくのは,彼ら
の世界を掘り下げるためである。彼が問題とす
ピンキーの行き詰る未来を予感させるかのよう
に「地獄はここにある」という考えを強調する。
マーロー作『ファウスト博士』の一行を引用し,
“You know what Mephistopheles said to
るのは,神の存在を軸として自分の生を生きる
Faustus when he asked where Hell was ?... Why,
人間たちである。グリーンはインタビューで次
this is Hell, nor are we out of it.”(228) と,若
のように述べている。
気の過ちによってはまりこんだ転落の人生を,
逃れられない地獄として生きていることをピン
Human beings are more important to be-
キーに語る。自分の在るべき場所から追い立て
lievers than they are to atheists… I think that
られているピンキーは,プルウィットと自分の
the flatness of E. M. Forsterʼs characters, and
将来を重ね合わせ,またプルウィットの妻と
Virginia Woolf ʼs or Sartreʼs, for example,
ローズを重ね合わせ,“Nothing at all except
compared with the astonishing vitality of
dying.”(234) と,死以外に自由になる術がな
Bloom in Joyceʼs Ulysses, or of Balzacʼs Pere
いことをたった二日間の結婚生活によって知る。
Goriot, of David Copperfield, derives from the
物語はピンキーの死というクライマックスへ
absence of the religious dimension in the
向かっていく。しかしグリーンは,彼から救済
former.14)
を奪おうとはしない。ローズとの心中を装って,
彼女を殺す計画を企て田舎へと車を走らせるそ
このようにグリーンはフォースターやウルフ,
の最中にも,常に神は彼らの隣にあり,救済の
実存主義を主張するサルトルが扱う無神論者の
手は差し伸べられている。祈りはこれまで天国
登場人物に魅力を感じず,信仰のある者により
を覗こうとしなかったピンキーに,小さな希望
深い関心を向けている。
を与えるが,地獄堕ちが避けられない運命であ
ローズは常にピンキーに寄り添うことで大罪
ると覚悟しているピンキーとローズは,其々に
を犯し,神の救済は自分たちの所には訪れない
「鐙と地面のあいだ」に救済を求める自らを戒
と感じる。しかしそれは神の存在を否定するこ
とにはならない。彼らの人間の本質を形成して
める。
死への葛藤の中,絶望することはカトリック
いるカトリック信仰が揺るがされることはなく,
教徒の最大の罪とされているため,ローズは生
ローズはピンキーが神と対決している舞台から
きる希望を放棄できず,生を選択する。そこへ
下りることを許さない。つまり彼らが「善と
アイダとピンキーの仲間が警官と共に現れる。
『ブライトン・ロック』試論
121
ピンキーはローズと仲間に裏切られたと思い込
いであり,グリーンは『ブライトン・ロック』
み,硫酸のビンを投げつけるが運悪くビンが割
において,神を問題としながら生き続ける人間
れ,硫酸がピンキーの顔にかかる。彼は炎を上
にこそ,永遠の人間的価値を認めているのであ
げながら眼を押さえて崖から転落して死ぬ。こ
る。
の描写は,ピンキーが地獄の劫火に焼かれる姿
を連想させ,地獄に落ちたこと意味しているよ
うである。「地獄では眼が見えない」と話して
いたように,ピンキーは闇に引き込まれ,“It
was as if heʼd been withdrawn suddenly by a
hand out of any existence ― past or present,
whipped away into zero ― nothing.”(264) と,
虚無の世界へと転落していく。
結
び
本論では,社会が定めた人為的な基準である
「正と不正」と絶対的真理の「善と悪」の対立
が『ブライトン・ロック』においてどのように
描かれているのかを考察してきた。グリーンは
キリスト教の神にアンチを突きつける存在とし
てピンキーを造形し,これまでに類を見ないほ
ど妥協のない悪で神に挑戦させている。ピン
キーはすべての人間が心の底に抱え込んでいる
プライドを武器にすることによって,神に対決
する。
グリーンは地獄堕ちに値する人物を描きなが
らも,「鐙と地面のあいだ」に救いの可能性を
残していると述べている。『ブライトン・ロッ
ク』は神への信仰をストレートに描くのではな
く,救済を拒絶するという逆説的な形で描くこ
とで,神の存在を問うているのである。地獄の
存在を疑うことは,天国の存在を疑うことと等
しく,天国がなければ神も不在である。そこに
あるのは虚無の世界だ。
神の不在を嘆くことも,神の恩寵を信じて祈
ることも,神を問題としていることに変わりは
注
1 ) Graham Greene, The Lost Childhood and Other
Essays (Eyre & Spottiswoode, 1951) p. 14.
2 ) Harold Bloom, Modern Critical Views : Graham
Greene (Chelsea House Publisher) p. 4.
3 ) 以下,原文の引用は Brighton Rock (Penguin,
2004) による。また訳文については『ブライ
トン・ロック』(早川書房,2006) を使用した。
4 ) 青木雄造『グレアム・グリーン 20 世紀英米
文学案内 24』(研究社,1971) p. 7.
5 ) 使徒トマスが主の復活の証拠をみるまでは信じ
なかったことから,こう呼ばれる。
6 ) Marie-Francouise Allain, The Other Man :
Conversation with Graham Greene, (Original
title : L’ Autre et son double, English translation : Simon and Schuster, 1981) p. 145.なお,
インタビューが行われたのは 1979 年で,グ
リーンは 75 歳である。
7 ) 1973 年出版の Heinemann 版へのグリーンによ
る序文。p. viii.
8 ) Ibid., p. xiii.
9 ) A. A. DeVitis ʻReligious Aspects in the Novels
of Graham Greeneʼ, Harold Bloom, Modern
Critical Views Graham Greene, p. 80.
10) Terry Eagleton, ʻReluctant Heroes : The Novels
of Graham Greeneʼ (1987), Harold Bloom,
Modern Critical Views Graham Greene, op. cit.,
p. 117.
11) ウィリアム・バーミンガム「グリーンの小説
六 つ の 問 題 点」(野 口 啓 祐 訳『グ レ ア ム・グ
リーン』1966,南窓社,所収) p. 32.
12) 安藤幸雄「グレアム・グリーン研究“Brighton
Rock”に つ い て」『立 正 大 学 文 学 部 論 叢』18
号,1964。p. 28.
13) 山形和美『山形和美全集 第 4 巻』(彩流社,
2008) pp. 286-291.
14) Allain, op. cit., p. 152.
ない。グリーンがこれほど罪の世界を描くのは,
そこでなければ人間の本質と神の恩寵がぶつか
り合わないという確信からである。神の存在を
信じる者の心のなかに神は存在し,また神の存
在を疑う者の心のなかにも神はすでに存在して
いることを,グリーンはピンキーを通して伝え
ようとした。これは人間が自らの存在意義を探
しながら生きる上で避けられない形而上学的問
主要参考文献
安徳軍一『グレアム・グリーン文学の核心 ―解釋
ノート―』(東京教学社,1982)
グレアム・グリーン『ある種の人生』(
「グレアム・
グリーン全集 23」早川書房,1988)
―――,
『内なる私』(
「グレアム・グリーン全集 1」
早川書房,1992)
122
小
林
―――,
『21 の短編集』(
「グレアム・グリーン全集
13」早川書房,1999)
宮本靖介『グレアム・グリーンの小説 ―宗教と政
治 の は ざ ま の 文 学 ―』(音 羽 書 房 鶴 見 書 店,
2004)
良
子
山形和美『グレアム・グリーン文学事典』(彩流社,
2004)
Peter Erlebach, Thomas Micheal Stein, eds., Graham
Greene in perspective : a critical symposium
(P. Lang, 1991)