最近のコスタリカ評価についての若干の問題 - キューバ研究室 Sala de

最近のコスタリカ評価についての若干の問題
『アジア・アフリカ研究』2002年第2号 Vol.42, No.1 (通巻364号)、
アジア・アフリカ研究所刊
アジア・アフリカ研究所所員
1)
新藤通弘
問題の所在
近年、コスタリカについて、さまざまな本が出版され、記事や報告書が多く書かれてい
る 1 。さらに本年になって各地で映画「軍隊をすてた国」が上映され、コスタリカへの関心
が一層高まっている。ほとんどは、コスタリカを「軍隊を捨てて、教育費に回した、民主
的で平和・中立の国」として期待を込めて語っている 2 。
しかし、これらの人々が、たとえ善意から行っているとしても、その内容には、社会科
学の立場からすれば、無視できない史実や現状についての美化、あるいは一面的な評価が、
少なからず見られる 3 。本稿は、本格的なコスタリカ社会論ではないが、現在、上記の理解
が日本各地で広がっていることを考慮して、共通して見られる一面的な評価と思われる事
象について、不十分ながらも問題を提起するものである。なお、80年代の中米紛争にお
けるコスタリカの役割、アリアス・プランの果たした役割については、別稿を期したい 4 。
2)
コスタリカの非武装の内容について
まず、「非武装の国」として、最も賞賛されているコスタリカの現行憲法を見てみよう。
コスタリカ憲法は、第12条で、次の通り規定している。
「常備機関としての軍隊は禁止される。
公共秩序の監視と維持のために必要な警察力を置く。
米州の協定によって、あるいは国家の防衛のためにのみ、軍事力を組織することがで
きる。いずれの軍事力も常に文民権力に従属する。軍隊は、個人的であれあるいは集団
的な形であれ、声明あるいは宣言を討議したり、発表したりしてはならない 5 」。
すなわち、コスタリカ憲法は、確かに常備軍の保持を禁止している。しかし、同時に非
常時には軍隊を組織できることを規定している。憲法第147条によって大統領と閣僚に
よって構成される政府評議会が、国会に国家防衛非常事態の宣言、徴兵の承認を要請し、
第121条によって国会の3分の2以上の賛成でそれは承認されることとなっている。つ
まり、非常時の軍隊は否定されていないのである。この点では、日本国憲法第9条の方が、
厳格に遵守されるならば法規的には徹底していると思われる。この常備軍廃止の理念は、
2000人の犠牲を出した、1948年の苦い内戦の経験からでたものである。その際コ
スタリカの国防、安全保障に関しては、米州機構(OAS)及び米州相互援助条約(リオ
条約)に依存することを念頭に置いていた 6 。
それでは、コスタリカの「警察力」は現実にはどのようなものであろうか。国際的に定
評のある英国・国際戦略研究所の『ミリタリー・バランス2000-2001』によれば、
次の通りである 7 。
「総治安兵力(準軍隊)
」8,400 人 (人口の 0.22%)
市民警備隊
4,400
国境警備隊
2,000
地方警備隊
2,000
(戦術部隊、特殊部隊を含む)
小火器(軽機関銃、小銃)のみ
8
市民警備隊 は、ロケット発射器90ミリをもっており、日本の警察(拳銃、ライフルなど
の小火器)以上の装備をしている。地方警備隊は小火器のみである。また、治安、諜報、対
テロ特殊部隊も存在している。多くの将校が、アメリカ、韓国、台湾、イスラエルの軍事
学校で軍事訓練を受けているといわれている 9 。
憲法制定後のコスタリカの国防、安全保障政策は、常備軍廃止を決めた当時の事情をそ
の後も引きずっていくことになった。米州機構は、歴史的には米ソ対決の時代に(194
8年4月)アメリカの西半球支配のために作られた集団安全保障機構である。同機構は、
80年代まではアメリカの政策がほぼ全面的に実行された組織であった。現在はさすがに
かつてのようなアメリカの一方的な支配が貫徹する場所ではなくなり、アメリカに対する
反対意見も述べられたりしているが、依然として強い反共的性格を持っている組織である。
それは、キューバを排除していること、オブザーバー諸国から中国、ベトナムなどが排除
されていることからも理解できよう。また、昨年の同時多発テロ事件、今回のベネズエラ
のクーデター未遂事件では、米州機構を舞台としてアメリカ主導でアフガン報復攻撃支持、
ベネズエラのクーデター派支持が推進された事実もある。同憲章第28条の集団安全保障
の規定をどう考えたらよいのか、問題もあるように思われる。依然として冷戦時代のマイ
ナス面をぬぐいきれていない組織といえよう。
リオ条約(米州相互援助条約)は、1947年9月結成された軍事条約である。アメリ
カの西半球支配の道具として利用されたことは、歴史が示している。コスタリカが、60
年代以降、アメリカを除いて近隣の中米諸国には覇権主義的、侵略的政権が存在しないと
いう国際環境の中で、非武装政策を維持できた条件は、自国の国防、安全保障をアメリカ
が主導する米州機構、リオ条約に依存したことと、いろいろな事例に見られるようなコス
タリカの対米従属外交によってのみ可能であったといえよう 10 。そうした対米従属性から、
後で詳しく述べるが、中米紛争の際にはレーガン政権による反サンディニスタ反革命勢力
であるコントラの出撃基地、支援基地の自国内設置を認めたのであった。また、同様の理
由でパナマの民族主義政権打倒をめざす反政府分子の訓練基地も自国内に認めたのであっ
た。この対米従属性は、現在も継続されており、中南米の左翼勢力の中では、歴代のコス
タリカ政権の内外政策は、決して自主的、革新的とはみなされていないのである 11 。
現在、コスタリカの警備隊は、1999年に結ばれたアメリカとの麻薬取締協定に基づ
いて、米軍と大西洋、太平洋で共同パトロールを行っている。対麻薬対策でココ島(国立公
園)の使用を米軍に認め、同島は、ほとんど軍事基地となりつつあることが懸念されている
12
。最近では、本年10月、麻薬撲滅の口実による米軍の中南米への派遣計画「コロンビア
計画」に基づいて、艦船15隻(7月の計画は38隻)をコスタリカに長期間寄港させたい
という要請を、コスタリカ政府は最終的に認めることになった。その際、米軍の兵員がパ
スポートなし、ビザなしで自由にコスタリカ領内に入国できる処置が取られたことに対し、
さすがにコスタリカ国内でも大きな論議を呼んでいる 13 。
なお、米軍の艦船の寄港は、7月コスタリカ国会で、コスタリカの憲法に抵触するので
はないかという批判が提出され、国会で4日間激しい討議が続いた。その際、アリアス元
大統領は、「別に他国の軍隊と戦う目的ではなく、麻薬取締の目的であるから、米軍の寄港
は認めるべきである。もっと財政赤字などの重要な問題を討議すべきである」と発言して
いる 14 。ここには、アリアス元大統領のアメリカに対する姿勢が如実に示されているように
思われる。
ちなみに、中南米においては、1950年代以降この半世紀間、アメリカの権益を侵す
政権と見られた民族的、あるいは革新的政権はすべて、この地域を「裏庭」=「勢力圏」
と考えるアメリカによる直接・間接的(傭兵を使用)軍事介入あるいは干渉を受けており、
キューバとベネズエラを除き政権は倒壊させられている。それらを列挙すれば、次の通り
である 15 。
1954年
グアテマラのアルベンス左翼政権、CIA(米中央情報局)支援の傭兵の
進入により倒壊 16 。
1961年
キューバのカストロ政権打倒をねらい、アメリカの傭兵がキューバのプラ
ヤヒロンに侵攻するも、撃退され失敗に終わる 17 。
1964年
ブラジルの民族主義的グラール政権、CIAの支援を受けた軍部により打
倒される 18 。
1965年
ドミニカのボッシュ民族主義政権、カーマニョ大佐を指導者とする民主勢
力、米軍侵攻より掣肘される。国連で非難される 19 。
1971年
ボリビアのトーレス左翼軍事政権、CIAの支援を受けた軍部クーデター
により倒壊する。
1973年
チリ、アジェンデ政権、CIAと呼応したピノチェットの軍事クーデター
により倒壊。国際世論から非難される 20 。
1983年
グレナダのモーリス・ビショップ左翼政権、米軍侵攻により倒壊。国連で
非難される 21 。
1989年
パナマ民族主義政権、米軍侵攻により倒壊。国連で非難される 22 。
1990年
ニカラグア、サンディニスタ政権、CIAの傭兵コントラとの長期干渉戦
争により経済が疲弊し、選挙で敗北、下野する。アメリカの干渉ハーグ国
際法廷で非難される 23 。
2002年
ベネズエラ、チャベス左翼民族主義政権に対し、アメリカが支援したクー
デター勃発するも失敗に終わる 24 。
チョムスキーによれば、
「米国は、その国の労働者の権利が抑圧され、海外からの投資条
件が良好であるかぎり、その国の社会改革を許容する。コスタリカ政府は、この決定的な
二つの義務をいつも遵守してきたので、ある程度の改革を許されてきたのである」25 とコス
タリカのこれまでの社会改革の性格を的確に指摘している。
こうした歴史的事実は、逆説的にいえば、中南米においてアメリカの干渉を受けない政
権あるいは政策は、革新的、民族的ではないということである。歴史的にみると、中南米
諸国の政府が、革新的な内外政策を実行しようとすると、アメリカの軍事介入を受けるの
で、みずからを武装して守らざるをえないという厳しい現実があるのである。国際世論に
訴えて、非武装を貫き、非同盟に参加し、革新的政策を実行することは望ましいとしても、
非現実的な考えとならざるをえない。コスタリカの場合はこうしたアメリカが憂慮するほ
どの革新的な内外政策を犠牲にし、かつ親米協調路線を維持してはじめて可能な非武装と
いえるかもしれない 26 。
3)
コスタリカの中立政策の内容
次にコスタリカの中立政策の実態はどうであろうか見てみよう。ところで、一般には、
中立の義務としては、次の5項目が挙げられている 27 。
戦時においては、①黙認義務(自国民が受ける不利益を黙認する)、②避止義務(一方の
交戦国に直接、間接の援助をしない)、③防止義務(交戦国による戦争目的の自国利用を防
止する)。また、平時においては、④侵略的軍事ブロックに加わらない、⑤自国領土に外国
軍事基地を置かない。
コスタリカの中立は、1983年のモンヘ大統領の大統領中立宣言によって確立された
といわれている。それでは、その中立宣言はどういう経緯で決定され、どのような内容を
持っているのであろうか。国民解放党のモンヘが1982年5月大統領に就任したとき、
コスタリカは深刻な経済危機に見舞われていた。対外債務は26億ドルにたっしており、
コーヒーなどの輸出価格も低迷していた。IMF(国際通貨基金)の指示による財政緊縮
政策を前政権と同じように実施する必要があった。首都サンホセには、CIAに支援され
たコントラと呼ばれる反サンディニスタ武装勢力である民主革命同盟(ARDE)が司令
部と放送局をもっており、北部では戦闘基地を設置していた。ARDEは、コスタリカ領
内から自由にニカラグアに出撃し、コスタリカに帰還するという活動を行っていた 28 。モン
ヘは、大統領就任後、こうしたコントラの反サンディニスタ活動を「秘密裏に、抑制して、
注意深く」行うということで、
「アンビバレント(どっちつかず)」な態度で許可していた 29 。
モンヘ政権は、反共主義と中立政策の追求の間で揺れていたのである 30 。モンヘ大統領は、
「膨大な援助を受けたアメリカに協力して、コスタリカ領内におけるコントラの存在と活
動に、殊更寛容であった」といわれている 31 。
しかし、国内でこうしたコントラの活動を容認することは、コスタリカの伝統的な中立
政策を矛盾するのではないかという批判が国内で高まってきた。国内のコントラの存在を
めぐって左右の対立も激化し、いくつかのテロ事件が起き、クーデターが噂されさえした 32 。
さらに83年半ば北部ではコントラの暴力事件で農民6名以上が殺害されるという事件が
起きた。国民解放党政府部内の左派は 33 、左翼政党の人民同盟、労働組合、一般市民による
コントラの国外追放の要求を背景に、中立を維持するよう右派の 34 モンヘに迫った。政権内
部の対立も激化した。コントラの活動に対する何らかの強い規制が必要であった。こうし
た動きに押されて、モンへ大統領は、1983年9月「永世、積極、非武装中立」を大統
領宣言として発表したのである 35 。
この大統領中立宣言では、①コスタリカを中米の紛争から隔離する、②コスタリカは、
2国間の紛争を武力で解決する戦争を行わない、③第3国の戦争に介入しない、④いかな
る武力紛争にも巻き込まれず中立外交政策を進める、⑤諸国家内部の武力紛争に対して恒
久的に中立を守る、⑥戦争状態にある当事者による作戦基地としてのコスタリカ領の使用、
武器・兵員の輸送、兵站活動、活動事務所設置の禁止、⑦紛争当事者に対する敵対行為あ
るいは支援行為を慎む、⑧軍拡に反対し、紛争の平和的解決を訴える、⑨西側民主主義体
制を擁護する、⑩こうした中立政策は、永世的なものである、⑪コスタリカの安全保障は
米州機構と米州相互援助条約に依存する、といった内容を含んでいた。
モンヘ大統領は、この内容を憲法に組み入れようとしたが、国会では3分の2に達せず
否決されてしまった。そこで大統領宣言としたのである。この宣言の法的な有効性につい
ては、さまざまな議論があるが、憲法は、第7条で条約、国際協定、約定は、国会の承認
を得てはじめて有効であると規定している。中立宣言は国際的な性格をもつものであるが、
国会の承認を得ていない。したがって、法的にはあくまでモンヘの大統領としての決意表
明であり、将来の政権の新たな宣言によって変更されうる性格のものである。この中立宣
言は、国内的にも国際的にも法的な根拠はもっていない。そうしたことから、コスタリカ
は、国際的には一般に中立国家とは見なされていない 36 。内容は別として、中立政策を追求
する国家なのである。中南米で発行されている各種の『年鑑』などでも特に「中立国家」
として紹介されてはいない。
この中立宣言を見ると、宣言が出された動機がコントラの不当な国内活動を許してはな
らないという強い国民の要求からでたものであり、激化している中米紛争(ニカラグアは国
外からの干渉戦争であり内戦ではないが、グアテマラ、エルサルバドルとも各国内での内
戦)という各国内の武力抗争にコスタリカは、巻き込まれたくないという、いわば防御的な
中立であった。つまり、コスタリカが調停役として関与し、中米地域の和平を自主的に実
現する目的をもった中立宣言ではなかったのである。スイスや、オーストリアなどの国家
間の戦争に対する中立とは違った意味をもっていることに注意する必要がある。
この大統領中立宣言は、コントラを利用してコスタリカ領及びホンジュラス領からニカ
ラグアを攻撃する二正面作戦を考えているレーガン政権からは、当然のことながら好まし
くは思われなかった。しかし、モンヘは用心深かった。宣言の中には「西側民主主義を擁
護するために常に闘う」との条項を入れて、レーガンには「コスタリカは、思想的、政治
的にはアメリカの同盟国であることを保障した」37 のであった。レーガン政権は、すぐさま
反撃に転じた。AID(米国際開発局)の援助の停止をちらつかせつつ、中立宣言発表わ
ずか10日後の9月25日にはゴーマン米南方軍司令官をコスタリカに派遣し、コスタリ
カ北部の道路、橋梁、飛行場建設用の工兵隊の受け入れをモンヘに承認させた 38 。CIAが
後押しした反サンディニスタ・キャンペーンが大々的に組織された。84年8月には政権
内の左派が一斉に追放された 39 。その後モンヘ政権には、第三世界の国の中でも最大級のア
メリカの援助が行われるようになった 40 。83年から85年の間、アメリカの対コスタリカ
経済援助は、コスタリカ政府予算の3分の1に達したという計算もある 41 。コスタリカの中
立政策は、こうした中立宣言を発表したときの事情をその後も大きく反映している。
もちろん中立自体は評価できることであるが、問題は、モンヘ政権が実際に中立をどう
守ったかである 42 。しかし、その後のコスタリカ政府の態度には、前述した中立の基準、中
立宣言に反する重大な行為が見られることが問題である。
そのひとつは、1982年よりコスタリカ領北部にCIAに支援されたコントラと呼ば
れるニカラグアの独裁者ソモサの残党や反サンディニスタ勢力が結集した武装勢力の基地
を認めたことである。また、もうひとつは、83年からコントラへの支援物資を補給する
ための飛行場設置をアメリカに認めたことである。さらに、89年には、アリアス政権の
下で、コスタリカ領内で反パナマ政府ゲリラをCIAが訓練することを容認した事実もあ
る。
アメリカン大学政治学の教授であるウイリアム・レオグランデは、特に左翼的というわ
けでなく、リベラルな研究者と評価できると思われる。コントラ支援のための飛行場設置
問題の実態について、いささか長くなるが、彼の本から引用する(括弧内は、筆者注) 43 。
①コントラ支援物資補給飛行場
「CIAの「暗殺マニュアル」についてのスキャンダルが1984年10月に露呈し
たとき、フェルナンデス(米CIA要員)は、公式に譴責された一人であった。その後、
彼は、CIA支局長としてコスタリカに派遣され、コスタリカの公安責任者ベンハミン・
ピサと密接な協力関係を作り上げた。フェルナンデスは、ピサを通じてコスタリカ大統
領ルイス・アルベルト・モンヘとの協力を維持して、コントラがコスタリカ領土からサ
ンディニスタ政権のニカラグアに出撃する作戦を実行できるようにした。米政府はピサ
に大いに感謝し、ピサ夫妻はロナルド・レーガン大統領と短時間の会見をし、記念写真
の撮影をする栄誉を得た。
フェルナンデスは、オリバー・ノース(イラン・コントラ事件の首謀者)とタンブ(反
共的なサンタフェ文書の起草者の一人)の間を取り持つ人物となった。タンブが南部戦
線(コスタリカ領内のコントラの基地)についてワシントンと連絡を取りたいときには
いつも、ノース、エイブラムズ(現ブッシュ大統領民主主義・人権担当補佐官)
、ファイ
アだけが電報を受け取ることができるように、国務省チャンネルよりもむしろ『裏チャ
ンネル』すなわちCIAチャンネルを通じて連絡した。ノースの方は、直接フェルナン
デスと連絡を取った。
『コントラ支援計画』によるコントラへの物資救援のための緊急着陸地としてコスタ
リカ領内に飛行場を建設する必要が生じたとき、ノースは、タンブにコスタリカと交渉
するように命じた。タンブはコスタリカから合意を取り付けた。その条件は、飛行機は
コントラへの救援の役目が終わった後でのみ着陸できるので、飛行機はコスタリカ領内
では荷物をもっていないというものであった。こうしてコスタリカは、その架空の中立
を維持することができたのであった。飛行場用地は、シコード米軍退役少将の会社によ
って購入され、1986年4月には使用可能となった」。
②南部戦線の設置
「クラーリッジ(CIA中南米作戦部長)は、エデン・パストラ(元サンディニスタ
民族解放戦線の司令官の一人)の中にカリスマ性を認めた。彼は、その他の亡命者と違
ってニカラグア国内で人気があった。ホンジュラスにいるコントラは、依然としてほと
んど旧ソモサの国家警備隊のメンバーによって指揮されており、ニカラグア市民によっ
て恐れられ、憎まれていた。クラーリッジは、パストラが、ホンジュラスを基地とした
北部戦線とコスタリカを基地とした南部戦線の二つの戦線のコントラ軍を統一した指導
者となるように目論んだ。ワシントンは、パストラをニカラグアの第二革命のスターと
しようとしたのであった。しかし、この目的をパストラは達成することができなかった。
1982年パストラは、コスタリカに現れて記者会見を開き、彼の古い武装闘争の同
志を「裏切り者、暗殺者」と非難し、サンディニスタ軍とニカラグア市民に彼らを打倒
するよう訴えた」 44 。
この南部戦線を率いた民主革命同盟(ARDE)は、1982年9月コスタリカ領内でエ
デン・パストラと実業家のアルフォンソ・ロベロによって設立された、反サンディニスタ
武装勢力である。ソモサの残党が結成したニカラグア民主軍(FDN)よりもより反感が
少ない勢力としてアメリカのCIAにより期待され、支援を受けた。1984年4月まで
コスタリカ領北部で活動するARDEに対してCIAは毎月40万ドルの支援を供与した
といわれている 45 。
こうしたCIAに支援されたコントラのコスタリカ領内の行動の一部は、すでに198
2年頃からコスタリカ国内でも良心的な人々によって問題とされていた。たとえば、19
87年刊のトマス・ウォーカーの『レーガン対サンディニスタ-ニカラグアに対する布告
されざる戦争』には、アメリカによるコスタリカ領内における国家警備隊の訓練の実態、
各種作戦が詳細に述べられている 46 。
また、当時(1984年)、日本においても、次のように報道されていた。
「『第二のゲバラ』という茶番劇役者エデン・パストラのひきいる『民主革命同盟(A
RDE)』によるコスタリカ領からの侵入は、もしサンディニスタ政府軍が反撃のために
誤ってコスタリカ領に越境すれば、軍隊をもたないコスタリカへのニカラグア軍の国境
侵犯として、アメリカ軍の『コスタリカ支援―ニカラグア侵入』という口実を狙ったも
のである 47 」。
「コスタリカも、昨年11月『永世中立宣言』を行ったものの、自国内のニカラグア
反革命勢力の活動を依然として容認している」 48 。
当然のことながら、ニカラグアのサンディニスタ政権は、コントラによるコスタリカ領
土の使用に抗議を行っている。1984年4月16日ニカラグア国家再建政府は、次のよ
うに抗議した 49 。
「コスタリカ領土の公然とした利用は、最悪なものとなり、(ニカラグアの)ケサーダ
市やバラス・デル・コロラドなどの病院や、住民への医療サービス・センターが、現在、
傭兵侵入者によって使用されている」。
これに対して、コスタリカ国民や、良心的な政治家達3万人が、1984年5月中旬、
首都サン・ホセでコスタリカの中立を要求して集会を行った 50 。
最近日本を再三訪問して、講演を行っている国際反核法律家協会副会長のバルガス氏に
よれば、80年代のこうしたサンディニスタ政権打倒の秘密作戦をコスタリカ国民は、知
らなかったということである。しかし、こうした歴史的事実は、バルガス氏の前述の発言
をまったく否定するものである。まず当時の政権は、バルガス氏が属する国民解放党政権
であったということを想起しなければならない(表1参照)。それでは、同政権を支持して
いた多くの国民は、こうした事実を知らされなかったとすれば、どういう「民主主義的な」
政権であったとかということになる。事実は、多くの国民はそうした事実を知っており、
それを行っている政権を支持していたということである。そして、それに反対していたの
は、一部の少数の良識ある人々、あるいは革新勢力であった。このように多数のコスタリ
カ国民がアメリカのニカラグア干渉政策を支持していたのは、保守的なメディアを利用し
た支配層の巧みな世論操作に加えて 51 、国民の中にある伝統的な強い反共主義、反ニカラグ
ア意識があったものと考えられる。
(表1)コスタリカ歴代大統領(1970-2002年)
1970-1974
ホセ・フィゲーレス・フェレール
国民解放党
1974-1978
ダニエル・オドゥベル
国民解放党
1978-1981
ロドリゴ・カラソ
反対連合
1982-1986
ルイス・アルベルト・モンヘ
国民解放党
1986-1990
オスカール・アリアス
国民解放党
1990-1994
ラファエル・カルデロン
キリスト教社会連合党
1994-1998
ホセ・フィゲーレス・オルセン
国民解放党
1998-2002
ミゲル・ロドリゲス
キリスト教社会連合党
2002-
アベル・パチェコ
キリスト教社会連合党
それでは、なぜ、国民解放党政権が、自国内における民主革命同盟(ARDE)の反サ
ンディニスタ活動を容認していたのであろうか。それは、軍隊がないから規制できなかっ
たのではなく 52 、反共主義の立場からサンディニスタ政権を倒壊させるために、またアメリ
カの経済援助を受けるために 53 、容認することが自らに有利だと国民解放党政権が考えてい
たからである。それを規制する程度の必要な武力はもっていたし、国際世論に訴えれば、
またサンディニスタ政権と協力すれば、規制は可能であった。サンディニスタ政権は、再
三再四、その規制をコスタリカ政府に訴えていた。しかし、モンヘ国民解放党政権は、サ
ンディニスタ政権をマルクス主義政権と見ており、同政権の倒壊を希望していたのである。
また、アメリカからの経済援助もそうした動機のひとつとなっていた。80年代の 10 年
間でコスタリカは、こうしたアメリカのサンディニスタ革命政権への干渉政策への協力の
見返りとして、14億588万ドル(約3500億円)の援助を受けた 54 。これは、国民一
人当たり援助額としては、当時イスラエルについで最も高い数字であった 55 。その多くが、
警察隊の軍事訓練と装備に当てられ、警察の軍隊化が進んだといわれている 56 。
むしろ、サンディニスタ政権が、コスタリカ領内からのコントラの挑発にもかかわらず、
越境してARDE基地をたたかなかったことにも見られるように、同政権の民族主権尊重
政策、平和政策によってコスタリカの平和は守られたといえよう 57 。実質的には中立ではな
かったコスタリカの平和は、サンディニスタ政権にせよ、パナマの民族主義政権にせよ、
この当時の隣国政府の節度によって守られた側面もあることも見る必要がある 58 。
以上述べたすでに歴史的に定着している事実からすれば、
「モンヘ大統領が、アメリカか
らのコントラ支援基地の要請をきっぱり断り、コスタリカの中立を守り通した」という解
釈は事実と反することがわかるであろう 59 。モンヘ大統領の中立宣言にしても、大統領がい
わば「上から」中立理念を提起して実施したかのように言われているが、実際は「中立は、
国民が要求したため、国民解放党が受け入れたもの 60 」という重要な指摘を筆者は重視した
いと考えている。
③パナマ民族主義政権に対して。
アリアス政権の下でも、パナマ民族主義政権打倒のための訓練がコスタリカで行われた。
このことについて、これもリベラルなアメリカ人ジャーナリストの報告がある。
「1989年の9月初頭、CIAは、コントラとパナマ人のゲリラ・グループをすでに組
織しており、パナマ国内で不安定を引き起こしアメリカの介入を正当化する一連の事件を
引き起こすために、コスタリカ領内の基地で彼らを訓練していた」 61 。
「コスタリカの中立法にもかかわらず、CIAは、パナマを不安定にしてアメリカの介
入を引き起こすためにゲリラ・グループを組織し、訓練するための基地としてコスタリカ
を使用した。反ノリエガ勢力がコスタリカで訓練を受けていたとき、コスタリカのエルナ
ン・ゴラン治安相は、このような訓練が行われていることを完全に否定した」 62 。
このように見てみると、コスタリカの中立の実態は、前述の基準からすれば、かなり問
題を抱えているといえる。歴代コスタリカ政府は、その対米従属性から、アメリカのCI
Aの秘密活動は、それが秘密である限り表にでないと考えて、受け入れてきたのであろう
か。しかし、それは、レオグランデが指摘するように、「架空の中立」にしかすぎないとい
えよう。
4)
コスタリカの積極平和外交について
コスタリカの歴代政権の外交の根本は、親米反共外交である。コスタリカの外交関係を
みると、台湾と外交関係を維持し、中国とは外交関係をもっていない。また、キューバと
は現在、領事関係のみである。コスタリカは、エルサルバドル、ウルグアイと並び中南米
でキューバと外交関係を持っていないわずか 3 カ国のうちの一つである。また、非同盟運
動には、消極的で第6回ハバナ会議に初めてオブザーバーとして参加し、その後もオブザ
ーバーの地位を抜け出ていない。これは、周りの中南米諸国、グアテマラ、ホンジュラス、
ニカラグア、パナマが非同盟運動の正式加盟国であるのと対照的である。コスタリカが非
武装、「積極」中立であれば、非同盟運動で展開されている多くの論点と一致するはずであ
る。しかし、非同盟運動で主張されているものの中には、帝国主義、新旧植民地主義、人
種差別、覇権主義、軍事ブロック、外国軍事基地、核兵器、多国籍企業によるグローバル
化に反対し、平和共存、完全軍縮の推進、南北問題、貧困の解決などを推進して、先進国
への強い非難と要求を含むものがある。コスタリカが、非武装、「中立」ではあっても、非
同盟運動に積極的に参加しないのは、こうした非同盟運動が掲げている課題への消極的な
姿勢があるように思われる。
一方で、対米協調あるいは従属性は、中南米の国の中でも際立っている。87年中米和
平の過程で、レーガンとの会談の際、アリアスは、コントラへの援助に抗議したが、レー
ガンは、立腹してアリアスに立ち去るように命じ、「あの小物は誰かね」と側近に述べた。
すると、その後アリアスは、アメリカの援助を失わないように、アメリカの許容限度を越
えることなく、行動したといわれている 63 。
近年では、昨年 9 月の同時多発テロ直後のリオ条約会議でコスタリカのロベルト・ロハ
ス外相は、ブッシュのアフガン報復攻撃を全面的に支持するとのべた 64 。9月21日大要次
のように発言している 65 。
「テロの実行犯及び共犯者は、すべての法律、国際法が厳密に適用されることを知る
べきである。この意味でアメリカ政府に指導された国際社会がテロに対して断固として
闘うことを、われわれは全面的に支持する。
・・・しかしながら、これらの行動は、国際法、特に人権、人道的国際法に基づいて
行わなければならない」
。
この発言は、アメリカのテロに対する闘いを全面的に支持すると述べたことと、アメリ
カの行動が、国連を中心に解決されるべきであるという言葉がまったくないことが特徴で
ある。その点は、同じリオ条約会議で、ベネズエラのルイス・アルフォンソ・ダビラ外相
の発言した内容と対照的である。同発言は、次のとおりである 66 。
「ベネズエラは、あらゆるテロに反対する。古くなったリオ条約に代わる新たな集団
安全保障条約が必要である。また、平和的解決を常に追求することが重要である。テロ
に対する行動は、国連憲章、OAS憲章、リオ条約憲章にもとづいて、国際法を尊重し
て行わなければならない」。
キューバのカストロ議長も、テロ反対、アフガンへの報復攻撃反対、国連を中心とした
話合いによる解決という原則的な立場を強調している 67 。同時多発テロに対する態度では、
中南米ではキューバとベネズエラ2カ国がテロ反対、国連中心の話合いによる解決という
原則的な態度を明確にしたのであった。
また、本年4月コスタリカは、国連におけるキューバの人権問題非難決議で、アメリカ
主導の決議案に賛成した。
さらに、本年の4月11日のベネズエラにおけるクーデター未遂事件についても、コス
タリカ政府は、チャベス政権自体に責任があるとして、クーデター派を厳しく批判する態
度はとらなかった。コスタリカ政府は、OSA会議ではクーデター政権を容認する動きを
アメリカとともにとった 68 。竹村卓氏は、
『コスタリカについて』の年表において、
「200
2年5月首都サンホセ開催の中南米リオグループサミットで、ベネズエラ軍事クーデター
を非難して国際世論をリードし、クーデターを失敗に追い込む」と述べているが 69 、竹村氏
はどういう資料に依拠しているのであろうか。むしろ、事実は逆で、コスタリカは、クー
デター派の暫定政権を承認しようと動いたのであり、そのため、チャベス大統領が復帰後、
クーデター批判の原則的態度をとった国として5カ国(メキシコ、キューバ、グアテマラ、
チリ、ブラジル)を具体的に名前を挙げて感謝したとき、コスタリカは入っていなかった
のである 70 。
本年 9 月の南アでの地球サミットでは、コスタリカのパチェコ大統領は、環境問題に触
れるのみで、これをもたらしている先進資本主義国の横暴などを指摘することはなかった 71 。
その点、新自由主義をそろって批判したベネズエラ、キューバと対照的であった。ベネズ
エラのチャベス大統領は、
「人道基金」の創設を訴え世界の軍事費の10%を拠出すること、
また発展途上国の対外債務の10%を同基金に回すことを提案した 72 。またキューバのペレ
ス・ロケ外相は、発展途上国の経済発展のために国際金融取引に 0.1%の取引税(年間 4000
億ドルの税収)、世界の軍事費の50%を国連開発寄金に回す(年間 4000 億ドルの拠出)
、
発展途上国の対外債務金利の免除(3300 億ドル)、先進国のGNPの 0.7%の発展途上国開
発への援助の即時実施を訴えた 73 。当然のことながら、こうした両国の提案は、多くの発展
途上国から賛同の拍手を得た。この事例は、国際会議におけるコスタリカの現政権の位置
を見極めるには、よい例と思われる。コスタリカが、国際的に積極平和外交でイニシアチ
ブをとっているとはとうてい言えないように思われる。
5)
パナマ国防軍廃止の経過について
パナマの常備軍の廃止は、民族主義的性格を維持するパナマ国防軍の解体を目的とした
89年12月のアメリカの侵攻による結果であることは、すでに各種の資料によって明白
となっている 74 。アメリカは、パナマ国防軍を解体し、パナマ運河返還後には、有事の際に
はアメリカ軍のみでパナマ運河の防衛に当たれるようにしたかったのである。パナマ研究
家の小林志郎氏は、この点を的確に指摘している 75 。
「米軍の軍事作戦(侵攻)は、米本土内の基地からいつでも軍隊を派遣してパナマ運河
を防衛できることを証明するための大軍事演習であったとも解釈できる。また、今後の運
河防衛をやりやすくする上で、パナマ国防軍は存在しないほうがいいのだ」。
また、侵攻した側のパウエル米軍統合参謀本部議長(当時、現国務長官)は、「パナマに
かかわるなら、ノリエガを排除するだけで問題は終わらない。・・・第一の目標はノリエガ
および国防軍を絶滅する。それが成功すればわれわれが文民政府を樹立し、新しい警備軍
(軍隊ではない)を創設するまでこの国を管理する」計画であったとパナマ侵攻の真の目
的を述べている 76 。
コスタリカのアリアス大統領(当時)は、米軍のパナマ侵攻直後の1990年1月に、
パナマがコスタリカに見習って軍隊を廃止するように提案した 77 。しかし、この提案は、ア
リアスの意図がどこにあれ、まったくアメリカのパナマ侵攻の目的に沿うものであり、客
観的には「非武装という見栄えの良い衣装で」パナマ侵攻を正当化する役割を果たすもの
でしかなかった。
米軍のパナマ進攻後開催されたOAS会議で、メキシコ、ニカラグア、エクアドル、ペ
ルー、チリなどは、米軍のパナマ侵攻が主権侵害に当たるとして厳しく批判し、ノリエガ
問題に関係なく米軍が即時撤退するよう要求した。アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、
コロンビアなどは、米軍侵攻を批判しつつ、ノリエガの退陣がパナマの民主化に貢献する
と主張した。コスタリカは、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドルとともに米軍の
侵攻に遺憾を表明するものの、それは独裁者ノリエガに責任があるとして、米軍の即時撤
退要求案が承認されないように働きかけたのであった。その結果、ニカラグアが提案した
米軍即時撤退要求案は、絶対多数の21票に達せず、賛成18、反対11(アメリカ、バ
ハマ、エルサルバドル、コスタリカ、ホンジュラス、グアテマラ、グレナダ、サンキッツ、
サンビセンテ、サンタ・ルシア、ジャマイカ)によって否決されてしまった 78 。反対に回っ
た国々は、カリブ海の小国を除いて、反サンディニスタ・ニカラグア政権、反キューバ、
反パナマ民族主義政権として当時知られていた反動的な国々であった。こうした事実もま
た、中南米で、コスタリカが国際的にどういう位置にあるかを明確に示しているものであ
る。コスタリカが、パナマを説得して、「軍隊を廃棄させた」とは、歴史的事実にはまった
く合致しないことは明白である。
6)
軍事費と教育費・社会福祉費の関係について
それでは、コスタリカの治安対策費はどうなのであろうか、(表2)を参照していただき
たい。イギリスの戦略研究所発行の『ミリタリー・バランス』2000-2001年によ
れば、コスタリカの治安費は、113億ドルで、金額では中米で第 3 位、GDP比で 0.76
㌫でやはり第 3 位である。この傾向は、中米紛争が終結したときの状況を反映している同
『ミリタリー・バランス』の 1990-1991 年版を見ても変わらない 79 。
(表2)中米6カ国の軍事・治安費比較
グアテマラ ホンジュラ エ ル サ ル ニ カ ラ グ コ ス タ リ パナマ
ス
人口
12,974,361 6,406,052
IISS
2000-2001
バドル
ア
カ
6,237,662
4,918,393
3,773,057
2,845,647
GDP
141 億㌦
54 億㌦
159 億㌦
29 億㌦
113 億㌦
97 億㌦
軍事・治安
1.14 億㌦
0.35 億㌦
1.12 億㌦
0.25 億㌦
0.86 億㌦
1.28 億㌦
GDP比
2.5%
0.65%
0.7%
0.86%
0.76%
1.3%
IISS
1990-1991
78 億㌦
44 億㌦
54 億㌦
29 億㌦
47 億㌦
45 億㌦
0.87 億㌦
1.38 億㌦
2.24 億㌦
18.90 億㌦
0.57 億㌦
0.96 億㌦
1.1%
3.1%
4.1%
65%
1.2%
2.1%
GDP
軍事・治安
GDP比
出典 IISS, The Military Balance 2000-2001, Oxford Univ. Press, London, 2,000.
ITSS, The Military Balance 1990-1991、メイナード出版(邦訳)
キューバ
IISS
2000-2001
人口
10,479,000
GDP
356 億㌦
軍事・治安
22.40 億㌦
GDP比
6.2%
IISS
1990-1991
人口
11,320,000
GDP
150 億㌦
軍事・治安
7.50 億㌦
GDP比
5%
一方コスタリカの教育費は、(表3)に見られるように、一般予算の中で20%程度を占
めている。しかし、この予算経費だけをみるとメキシコが25%で上位にあるし 80 、キュー
バも22㌫でコスタリカよりも教育が重視されていると言える。しかし、一方キューバは、
アメリカの干渉を常時受けている関係で、軍事・治安費に22億ドル、GDP比で 6.2%も
割かなければならない 81 。また、コスタリカは、歴史的に見れば既に常備軍を廃止する前の
「1948年までに6年間の義務教育が保障されており、
『兵隊の数よりも教師の数の方が
多い』と評されるほど、教育に力が入れられていた 82 。そして、国家予算における教育費の
占める割合は多かった」と竹村卓氏は述べている 83 。一方で、一般予算における教育費は少
ないものの、アルゼンチンやウルグアイの教育水準が高いことは、中南米でも広く知られ
ているところである。両国の識字率はいずれもコスタリカよりも高い。
(表3)教育に関する指標
平均就学
教育費/
対外債務
年数
一般予算
億ドル
初等教育
高等教育
総就学率
総就学率
識字率
%
%
%
メキシコ
114
18
91
7.2
25.5(?)
1502
キューバ
100
19
97
---
22.6
400
コスタリカ
107
94
6.0
20.6
44
ベネズエラ
94
93
アルゼンチン
120
47
96
8.8
6.2
1461
ウルグアイ
113
35
96
7.6
7.1
81
チリ
106
34
95
7.5
17.8
369
日本
102
44
---
9.5
6.0
---
スウェーデン
111
63
---
11.4
6.5
---
国名
%
381
出典:世界国勢図絵2002/2002、矢野恒太郎記念会
キューバ: Anuacrio Estadístico de Cuba 2000, Oficina Nacional Estadísticas.
それでは、コスタリカの社会福祉はどうであろうか。(表4)に見られるように、コスタ
リカは、社会・福祉関係予算に46%を当てており、高い比率である。確かにコスタリカ
は、中米のグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアと比べると、治安も
よく、教育水準も高く、医療制度も整っている。国民の97%が、医療を受けており、9
2%が衛生的な上水道を使用し、平均寿命は 76 歳で先進国並みである。平均賃金もニカラ
グアの 6 倍、エルサバドル、グアテマラの 2 倍である 84 。しかし、ウルグアイやアルゼンチ
ンは、それ以上の66%、あるいは50%を社会福祉予算に当てている。コスタリカの平
均寿命もキューバ、チリと同程度である。
(表4)社会福祉・生活水準比較)
乳児死亡
社会保
国名
障・福祉・
平均寿命
保健/一般
貧困ライ
テレビ受
率(1000
失業率
ン以下の
信機数/
人当たり)
%
家庭 (%)
1000 人
38.0
272
---
239
予算%
メキシコ
25.3
73
29
2.5
(?)
キューバ
35.5
76
6
4.5
コスタリカ
46.6
ベネズエラ
77
10
5.8
18.2
140
73
19
13.9
44.1
180
アルゼンチン
50.3
74
17
17.4
13.1
223
ウルグアイ
66.6
74
14
15.4
5.6
239
チリ
45.7
76
10
9.5
16.6
215
日本
38.4
81
4
5.0
---
686
スウェーデン
48.3
80
3
4.7-5.6
---
519
出典:世界国勢図絵2002/2002、矢野恒太郎記念会
CEPAL, Balance Preliminar 2002.
しかし、貧困ライン以下の家庭は、18%、日常の生活必需品に事欠く絶対的貧困ライ
ン以下の家庭は、7.5%もあり 85 、これは中南米ではキューバ、ウルグアイやアルゼンチ
ンよりも貧困者の比率が大きいことを示している 86 。このことは、人口380万のコスタリ
カで、70万人が貧困ライン以下、35万人が絶対的貧困ライン以下の生活をしていると
いうことを意味している。つまり、約100万人、すなわち、4 人に1人以上が、かろうじ
て日常の食糧とその他の生活必需品を購入することができる生活水準にあるということで
ある。
一方でコスタリカでは、2000年度は12万5000戸の住宅が不足した。首都サン
ホセには数百名のストリートチルドレンがおり、全国で9000人の女性が売春を行って
いるとも報告されている 87 。その点では、医療費が基本的に無料、大学までの教育費も基本
的に無料である制度を40年間維持しているキューバと比較すれば、特に優れた福祉政策
とは呼べないであろう。
とすれば、コスタリカは、常備軍こそ持っていないが、国防・治安関係にはそれなりの
経費を費やしており、「軍隊を捨てた」分だけ国防・治安費が激減し、教育費や社会福祉費
に回されたと単純に跡づけることは難しいことがわかる。軍事費は、教育費、社会福祉費、
道路建設、電化推進などのコスタリカ社会全体の発展に向けられたと 88 いうのが客観的な判
断であろう。コスタリカは、中米の地域では確かに優れているが、ウルグアイ、アルゼン
チン、チリと同等の教育水準、社会福祉水準とみなすのが順当なところと思われる。
バルガス氏は、「1949年軍隊を廃止した際に、それまで軍隊に使われていた予算が、
まず教育に回されました。それから、社会的な保障に回されました」と述べているが、上
記の資料からは、氏が指摘する因果関係は見られないことが理解できるであろう 89 。
環境保護に関しては、コスタリカは、世界で先立って優れた政策をとっているとも言わ
れている。しかし、観光のための乱開発、海水浴場の私有地化などが問題となっている。
森林破壊率では、コスタリカは世界で上位 6 位にランクされるほど深刻な問題を抱えてい
る。輸出向け農業、急激な都市化などにより1960年代より森林の破壊が著しく進んで
おり、国土の42%が侵食されているという報告もある 90 。政府は、このことを懸念して1
988年自然保護の法律を制定した。しかし、80 年代からの新自由主義政策のもとで、環
境保護政策も困難を抱えているのが実情である。足立力也氏は、
「環境の先進国だというが、
よくよく見ると、自然保護区の山にいく途中で禿山ばかりが目につく」と環境保護に問題
があることを率直に指摘している 91 。
なお、コスタリカへの不法入国者の扱いについて、一言触れておきたい。ニカラグアか
らコスタリカに不法入国した人々は約30万人といわれているが、これらの人々はニカラ
グアからの難民ではなく、職をもとめて、またほぼ6倍近いコスタリカの賃金を求めて不
法入国した人々である 92 。コスタリカの雇用者側も、不法入国者を平均賃金よりも安く雇用
することができ、双方の必要性が一致して、大量に不法入国したと考えるのが現実的であ
ろう。こうした事例は、年間100万人以上と言われるメキシコからのアメリカへの不法
入国などにも見られる現象と同じものである 93 。
7)
コスタリカの選挙制度と政党
コスタリカ憲法では、第 3 章第99-104条で「最高選挙裁判所」について詳細な規
定を行っている。しかし、そこには、われわれからみれば特殊な制度が見られるが、コス
タリカに限られたものではない。中南米では、メキシコ、エルサルバドル、パナマ、ウル
グアイなどの憲法にも、選挙管理裁判所の設置の規定がある 94 。また 3 名の判事、6 名の判
事補は、最高裁判所の3分の2以上の賛成で任命されている。もともとの憲法制定過程か
ら、選挙による紛争を避けるための仲裁機関という性格を持っている。コスタリカ憲法そ
のものも第9条で、コスタリカを「立法、行政、司法の三権分立制である」と位置づけ、
最高選挙裁判所は、
「国家三権力から独立した地位をもって」、選挙の実施と監視を行う「任
務」を持つと規定している。つまり同裁判所は、選挙の実施と監視を行う「任務」をもつ
機関であり、四権目の権力とは規定していないのである。日本国憲法には選挙管理裁判所
の規定がないので、新鮮に感じるかもしれないが、コスタリカ独自の四権分立制度という
のは過大な評価ではないであろうか。むしろ重要なことは、何が規定されているかよりも、
実際いかに選挙が行われているかであろう。
コスタリカの選挙制度には、いくつかの積極面があるが、選挙自体は中南米の選挙文化
の枠を大きく越えるものではない。1986年の大統領選挙では、アリアスは、後ほど麻
薬取引で逮捕される、リカルド・アレム(選挙財政責任者)から違法な選挙資金を受け取っ
たという疑惑がもたれている 95 。また、マイアミに本社を置く「オーシャン・ハンター・シ
ーフード社」より5万ドルの選挙資金を受取り、自分の個人口座に預金した疑惑もある 96 。
さらに、今回の大統領選の期間中、現大統領のアベル・パチェコ陣営(キリスト教社会連
合党)が、台湾企業から100万ドル余の選挙資金を受け取った疑惑が報道されている 97 。
コスタリカでは、国が選挙資金を支給する代わりに、外国の個人及び法人からの選挙資金
の供与は憲法によって禁止されている。
2002年の大統領選挙においては、98年アリアス元大統領は、憲法第132条の大
統領再選禁止条項の改定を提唱して(一時国民の62%が賛成)、大統領選に立候補する構
えを見せたが、同氏が提唱している民営化、専売公社および国営企業の資産の売却―株式
化政策に国民の74%が反対しているのをみて、大統領選再出馬の動きを取りやめた経過
があった 98 。また、アリアスは、今回の大統領選では、自党のロランド・アラヤ・モンヘを
推薦したが、国会議員の選挙では、市民行動党の候補者を、近親者であることから支持を
表明した。
周知のようにコスタリカは、長期間、国民解放党(PLN)とキリスト教社会連合党(P
USC)が交代で政権を担ってきた。両党の違いは、国民解放党が中道左派、キリスト教
社会連合党が中道右派とみなされており、その政策には大きな違いがない。そのために国
民の政治への無関心が増加している。しかも二大政党制が長期間続いたことから、深刻な
政治腐敗も指摘されている。今回の大統領選挙では、政治腐敗の一掃を掲げた、市民行動
党のオトン・ソリス候補は決選投票には進むことができず、決戦投票では40㌫近い、棄
権率となったと言われている 99 。投票率は別として、各選挙ごとに選挙陣営を中心に選挙後
の利害関係がからんで国中が過熱する状態は、中南米一般に見られる現象であり、特にコ
スタリカが特別に熱心なわけではない。コスタリカの現実の選挙は、清潔でも、民主的で
も、いわんや模範的でもなく、中南米、あるいは資本主義国一般に見られる生きた生身の
人間が繰り広げている、決して清潔とはいえない個人的利害関係を強い動機として戦われ
る選挙である。
なお、現在コスタリカにおいて革新的な政党と考えられているのは、民主勢力党である。
その前身であるコスタリカ共産党は、1929年に創立された。同党は、歴史的に下層市
民、農業・プランテーション労働者連盟(FENTRAP)、労働総同盟(CGT)の間に
大きな力をもっており、労働法、社会保障金庫の制定に貢献した。43年にはコミンテル
ンの人民戦線結成の指示に従って、人民前衛党に改称した。しかし内戦終了後、1949
年ホセ・フィゲーレス政権が制定した憲法98条により非合法化され、非合法時代は75
年に憲法第98条が削除されるまで続いた 100 。その間、共産党の名前は使用しないものの、
1960年にはコスタリカ社会党が設立され、労働総同盟(CGT)
、公務員労働者を結集
した労働者統一同盟(CUT)の中で大きな影響力を維持していた。これらの組合は、首
都のサンホセ以外ではAFL-CIO加盟の民主労働者同盟(ORIT)よりも勢力が大
きいと言われている 101 。1978年には統一戦線党である統一人民党が人民前衛党、社会
主義党、真正革命運動によって結成され 102 、さらに、1992年にはコスタリカ人民党、
コスタリカ社会党、コスタリカ労働者党が結成する統一戦線である統一人民党を軸に進歩
党、愛国連合党、人道主義環境保護党が参加して、やはり統一戦線党である民主勢力党が
結成された。しかし、長期間に共産党の非合法時代が続いたことと、コスタリカのマスコ
ミが極めて保守的なことから 103 、国民の間に反共風土が極めてつよいことが特徴である。
民主勢力党は、内部分裂もあり今回の選挙では国会の議席をすべて失った 104 。同党の選
挙綱領には、民営化反対、政治腐敗の一掃、新自由主義反対、民族主権の確立は強調され
ているが、米州自由貿易圏構想(ALCA)を推し進めているアメリカの覇権主義への闘
いなどがうたわれていないこともひとつの特徴であった 105 。民主勢力党の選挙綱領におい
てこうした政策が提起されないとすれば、中道左派および右派の二大政党がどのような対
米政策を取るかは推して知るべしであろう。ちなみに、昨年12月、ハバナで中南米の左
翼政党・諸組織が参加して、第10回サンパウロフォーラムが開催されたが、これに参加
した組織は、コスタリカでは民主勢力党だけであり、国民解放党は同フォーラムには一度
も参加していない。
(表5)コスタリカの政党
政党
8)
議席 98 年
議席 02 年
キリスト教社会連合党(PUSC)
27
19
国民解放党(PLN)
23
18
市民行動党(PAC)
0
14
自由運動(ML)
1
5
革新党(PRC)
0
1
民主勢力党(FD)
3
0
80年代の国民解放党の政策の実態
それでは、国民解放党が政権を握っていたモンヘ大統領、アリアス大統領時代、80年
代の国民解放党政権はどういう政権であったであろうか。国民解放党は、一般的には社会
民主主義政党といわれているが、80年代にはアメリカや、国際金融機関のIMF、世銀
の圧力によって推進した新自由主義政策によって、その伝統的な社会福祉政策を転換しそ
の本質を変えてしまった 106 。80年代のコスタリカでは、
「それまでの(国民解放党内部の)
改良主義勢力の意思も想像力も弱体化してしまった。社会問題に関しては伝統的な改良主
義的近代化路線からプラグマティズム、日和見主義への政策転換が行われた。こうした保
守への移行は、モンヘによって開始され、アリアスによって意識的に追求された」と中米
研究の泰斗であるエデルベルト・トレス‐リバスは、的確に指摘している 107 。現在、同党
の支持基盤は、労働者階級ではなく、主として農村と都市中間層である。モンヘ大統領の
時代のレーガン政権との協調ぶりはすでに述べたので、ここでは、アリアス時代にしぼっ
て論じたい。
アリアスは、中米紛争を冷戦構造における東西対決の場と見ていた。しかし、80年代
の中米紛争は、それぞれの国内で60年代から発生した経済的、社会的諸矛盾の解決をめ
ぐっての各国内部の紛争であり、米ソの代理戦争ではなかった 108 。エルサルバドル、グア
テマラでは、寡頭制勢力・反動的軍部と革命勢力との内戦であったが、ニカラグアに関し
ていえば、
「内戦」ではなく、アメリカが支援した反革命勢力による国外からの「干渉戦争」
であった。アリアスの見解は、アメリカのレーガン政権が「サンタフェ文書I」で示した
極端な反共的な地政学的見地と同じものであった 109 。アリアスの立場について、アメリカ
のジャーナリスト・研究者マルタ・ハーネイは、その大著「敵対行為―1980年代のア
メリカの対コスタリカ政策」の中で次のように的確に指摘している。
「思想的には、実際アリアスはレーガン政権から遠く離れているわけではない。しか
し彼のニカラグア問題の解決は、かなり異なったものであった」 110 。
つまり、アリアスの思想はとても「非武装・積極中立」という模範的なものではなかっ
たのである。アリアスは、アメリカのレーガン政権の政策があまりにひどく、それと対立
することもあったが、両者とも反共主義では一致しており、基本的には、中米のサンディ
ニスタ民族解放戦線(FSLN)、ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)、グ
アテマラ民族革命連合(URNG)などのいわゆる左翼革命運動を押さえ込むことに和平
交渉の主眼があったことも、現在では広く認められていることである。
アリアス和平プランについて触れれば、同和平プランは、ひとつには、ニカラグアのサ
ンディニスタ政権打倒が目的であった 111 。しかし、中米の和平活動が、突然アリアスによ
って開始されたのではない。83年以来、中米紛争を、中米地域自身の自主的な話合いで
解決しようというコンタドーラ・グループ(メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ)、
及びその支援グループ(ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ)による地道な努
力があったのである 112 。そうした努力は、84年9月コンタドーラ合意として結実した 113 。
その後もコンタドーラ・グループは86年6月まで何度も和平修正案を提案したが、中米
諸国は承諾するものの、アメリカはコントラへの援助を禁止する案に賛成せず、コンタド
ーラ・グループの和平交渉は頓挫したのである。モンヘ大統領は、コンタドーラ・グルー
プによる交渉過程への参加を拒否し、コスタリカは、87年1月まで同グループにも、同
支援グループにも参加することはなかった 114 。87年2月、コンタドーラ・グループの和
平交渉が行き詰った中で、しかし、同グループの努力の上に立って、アリアス大統領の和
平案が提起されたのであった。
しかし、実は、このアリアス和平提案によって合意された「エスキプラス合意II」115 は、
アメリカが合意案を誠実に実行する、つまりコントラへの援助を停止するということに過
度の信頼を置くという弱点をもっていた。アメリカの良心的知識人といわれるノーム・チ
ョムスキーは、80年代の中米紛争に関する数々の著作を出版しているが、同氏によれば、
「アリアスとホワイトハウスおよび米国議会は、この和平計画を実行に移す意図を全然も
っていなかった。米国はコントラに対するCIAの援助を三倍に増やし、数ヶ月のうちに
この和平計画は完全に死んだ」と指摘している 116 。また、トニー・アビルガンによれば、
「(サ
ンディニスタ政権は、)アリアス大統領をはじめとする中米の大統領が企んだ詐欺にはまり、
1990年2月の選挙で敗北したのであった」 117 と手厳しく批判している。実際、意図し
た「詐欺」であったかどうかは一層の検証が必要であるが、和平合意後の経過は、アメリ
カによって合意が踏みにじられ 118 、アリアス大統領もそれを支持して 119 、サンディニスタ
政権は、予想外に選挙で敗北する結果となったのであった。
また、反パナマ政府ゲリラに対するコスタリカ領内の訓練の容認、米軍のパナマ侵攻に
対する態度、本年7月の麻薬対策のための米軍艦船のコスタリカ長期寄航支持については、
前に述べた通りである。
次に、アリアス大統領時代の国内政策はどうであろうか。コスタリカにおいて、37億
ドルに達する膨大な対外債務の返済に対するIMF(国際通貨基金)の圧力に押されて 120 、
国民に過酷な影響を及ぼす新自由主義構造調整政策を最初に導入したのは、アリアス大統
領であった 121 。同政権のもとで、社会・経済的国家機関が解体され、警察力は、レーガン
大統領の要請を受けて、
「カムフラージュされた軍隊」として再組織された 122 。他の中米諸
国と比べると低い水準ではあるが、
「アリアス政権下で、警察の軍隊化が進行し、少なから
ずの左翼活動家、農民運動、労働組合運動の活動家が不当逮捕され、拷問を受けた」こと
をコスタリカ人権委員会は報告している 123 。アリアス政権下の1988年治安対策費は1
5%、89年には13%増大するとともに、治安部隊による人権侵害も増大した 124 。国民
解放党は、次第に保守的な立場に移行し始めた。公務員の大量解雇、賃金切り下げ、弱者
切捨て、教育・福祉予算削減、規制緩和、民営化の推進などによって、一般市民の生活は、
大きな影響を受けている。また、「連帯主義」の名前で労使協調路線が労働組合運動に導入
され、戦闘的なバナナ労働組合などが、切り崩され分散化されてしまった 125 。トレス‐リ
バスが述べているように、国民解放党がすすめる新自由主義が、同等の伝統的な社会民主
主義そのものも維持できなくしているのである 126 。
9)
おわりに
以上述べたように、コスタリカには、依然として寡頭制(オリガルキア)の存在、対外
債務問題、対米従属問題、外交の自主性問題、非同盟運動への消極的な態度、米軍長期寄
港問題、米州自由貿易圏推進に対する国内農業保護の問題、財政問題、政権の汚職、警察
力の民主化の問題、高い選挙の棄権率、民営化推進により中小企業破壊の問題、労使協調
路線推進の問題、教育、社会福祉制度の条件低下の問題、保守的メディアによる情報操作、
拡大する貧富の差、人種差別、先住民の居住区問題 127 、環境保護問題、人権抑圧問題、男
女性差問題、少女・少年売春問題、年少者労働問題など山積している。これらの問題の多
くは、他の中南米諸国のほとんどが程度の差はあれ、大なり小なり抱えている共通の問題
である。コスタリカで比較的中間層が発達しており、治安が良く、教育、社会福祉政策が
進んでいるといっても、コスタリカだけが例外ではありえない。
現実政治は多面的かつ複雑で、本年7月の国会における米軍の長期寄港問題討議におい
ても国民解放党の内部でさえも、憲法擁護の立場からそれに反対する議員とそれに賛成す
る議員とが大激論を交わしたのであった。いわんや当然のことながら、コスタリカ社会に
は、伝統的な寡頭制勢力(オリガルキア)、超保守的なメディアから、比較的発達した中農
層、小農、中小企業家、あるいは都市中間層、貧困ライン以下の生活をする人口の3分の
1を占める下層住民、最下層を構成する先住民、黒人、そうしたそれぞれの階層・階級に
支持基盤を持つ政党、中道右派のキリスト教社会連合党、中道左派の国民解放党、二大政
党に飽き足らない市民を結集する市民行動党、一層の社会改革をめざす民主勢力党、エコ
ロジスト、宗教者、政治に無関心な無党派層、戦闘的なバナナ労働者労働組合、労使協調
路線を追求する労働組合、親米、反米まで様々な階級的利害を代表する勢力が同居してい
るのである。これらをひとまとめにした「平和で民主的な」コスタリカ国家は、現実には
存在しない。コスタリカ社会を「非武装・平和・中立・教育・福祉国家」として一面的に
描くことによって、これらの政治的、経済的、社会的、階級的矛盾をめぐって、コスタリ
カ社会の各社会勢力がそれぞれの階級的基盤に立って、日常的に闘いをすすめていること
を忘れてはならない。
いうならば、コスタリカは、国としては、折角「非武装・中立」の憲法と大統領宣言を
有しているが、それらを非同盟の立場に立って、名実ともにそれぞれの内容を一層高める
ことができないでいるのが現状といえよう。それは、コスタリカには、こうした課題の担
い手である強力な革新政党、強大な革新勢力が存在しないところからきているように思わ
れる。
こうしたコスタリカを、以上述べた問題を抜きにして、「軍隊をすてた平和・積極的中立
国家、模範的民主主義国家」と描くことは、歴史的事実に反するし、脱階級史観的な見方
といわざるをえない 128 。この現象は、ちょうどソ連のゴルバチョフ大統領の経済顧問であ
るミリューコフが1989年来日し、日本社会を調査して、「日本では生産及び生産手段の
所有において極めて高度に社会化が進んでいる」と報告したことを思い出させる 129 。もし、
その報告を読んだソ連国民が当時の日本(いわゆる日本型社会が頂点に達していた時期)
を素晴らしいものと考え、日本の支配層(自民党、財界など)と連帯や交流を進めたなら
ば、ソ連の人々が目指す「社会主義」はその程度のものかと言うことになったと思う(実
際にそうなったが)。同じように、コスタリカ社会を、「軍隊を捨てた平和・積極的中立国
家、模範的民主主義国家」と見て賛美するならば、その人々の目指す平和・中立・民主主
義の日本は、その程度のものかということになるであろう。
注1で引用した人々の中の多くの人が目指す「平和・中立・民主主義の日本」は、非同
盟運動、核兵器廃絶運動、海外軍事基地撤去運動、憲法9条厳守運動に積極的に参加し 130 、
アメリカの帝国主義政策、覇権主義政策に断固反対し、国内においては経済の民主化を推
進し、福祉政策を重要視し、大企業の横暴から勤労市民を擁護するなどといった内外政策
で革新的政策を実行する国であるはずである。そうした目的からすれば、コスタリカ社会
の歴史と現実は、かなり異なったものといわざるをえない。
現在、日本で行われているコスタリカ社会への積極的評価は、そのほとんどが、国民解
放党の立場にたったバルガス氏、カレン女史、モンヘ元大統領、アリアス元大統領などの
説明に基づいているように思える。しかし、自主的・客観的な分析にもとづいて、コスタ
リカをいわば等身大で見ること、社会科学的にいえば、コスタリカ社会にも民族的、階級
的諸矛盾が存在するのであり、それらを史的唯物論の立場から見ることが重要であること
をわれわれに教えているのではないであろうか。
1
そうした書籍、記事、報告集の中で筆者の目に留まった主なものをあげると次のようなも
のがある。いささか長くなるが、筆者の見解と対比していただくために引用した。下線は
筆者によるものである。
・早乙女勝元編『軍隊のない国コスタリカ』(草の根出版会、1999年)。
「アメリカは、ニカラグアへの経済封鎖のほかに、反政府勢力コントラを支援し、85
年以来170億ドルもの援助を行ったという。一方のソ連は革命政府に肩入れして、ニカ
ラグアの内戦はついに泥沼状態になった」。25ページ。
「それこそ素手で、(中米)内戦のさなかにあるニカラグアをはじめ中米諸国に、積極的
に和平を働きかけたのだった」。98ページ。
・日本反核法律家協会主催、カルロス・バルガス氏講演2000年9月25日
http//hccweb1.bai.ne.jp/hankaku/d3-1valgas.htm
「1948年にホセ・フィゲーレス元大統領が軍隊を廃止するという法律を作りまして、
この憲法は結局、コスタリカから輸出というような形で、パナマもこの憲法にしたがって、
コピーをした形になって軍隊を廃止いたしました」。
・
「日本国際法律家協会訪問へのカルロス・バルガス氏2000年10月14日講演」、
『コ
スタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』
、コスタリカの人々と
手をたずさえて平和をめざす会。
「以前、コスタリカに米軍基地を置こうという欲望を抱いた人達もいたことがありまし
た。それは、ニカラグア内戦の時ですね。また、アメリカ軍がパナマから撤退した時もそ
うでした。
しかし、我々はアメリカと対等な立場を保つために、その誘惑を断ち切ったわけであり
ます」。163ページ。
・緒方靖夫『視点を変えるとこんな日本が見えてくる』(新日本出版社、2000年)3
4-36ページ。
「コスタリカは、軍隊も、軍備も、軍事費もない国です。自分の国で平和を守るために
は、近隣の国も平和にしなければならない。これがまたコスタリカの発想です。
・・・平和教育の根本を徹底して、兵士を先生に変え、軍事費を教育費にまわして、国
の教育予算は国家予算の3分の1を占めています」。
・「平和憲法の世紀」に向けた事例研究、非武装・積極中立のコスタリカ(上)『今週の
憲法』第36号2000年12月18日
「コスタリカの非武装は、1949年以来の憲法『常設制度としての軍隊は禁止される』
規定が守りぬかれた上に、1983年モンヘ大統領による『コスタリカの永世的、積極的、
非武装中立に関する大統領宣言』によってその趣旨の徹底が図られてきたことによる」。
・藤原真由美「軍隊を捨て、平和を輸出する国 コスタリカ」(『婦人通信』2001 年 2 月
10 日 NO.509)
「アリアス大統領は、自国の平和を維持するためには周辺の国々も平和にならなければ
とイニシアチブをとり、
「トラクターは戦車より役に立つ」と、軍隊をもたないことがどれ
だけ国民の生活を豊かにしたかを実証的に説いて中米諸国を回りました。その結果、ニカ
ラグアの 8 万人の軍隊は 1 万 3 千人に減り、パナマの軍隊は廃止されたのです。
「国際火消
し」と自称するこの積極的な平和外交が評価され、アリアス大統領は 1987 年、ノーベル平
和賞を受賞しました」。
・水島朝穂「50 問・これが核心だ」
(別冊『世界』岩波書店、2001 年 4 月所収)
「実は一九八三年に非武装中立宣言をした背景には、隣国ニカラグアの内戦の激化があ
りました。アメリカがニカラグアの反政府組織コントラを支援して、コスタリカ国内に出
撃拠点を作ろうとしていました。コスタリカは、この脅威に対して、非武装中立宣言によ
って応えたわけです」。
・上田耕一郎『戦争・憲法と常備軍』(新日本出版社、2001年)8ページ。
「カント以来の常備軍廃止の人類的理想をすでに実現した国々がある。人口のもっとも
多い国が中米のコスタリカ共和国(353万人)で半世紀前に軍隊を廃止した。昨年9月こ
の国を訪問した池田眞規弁護士から資料をいただいた。氏はそこには日本国憲法の理念を
実現した非武装中立の模範的な民主平和国家がありましたと感動的に語っている」。
・児玉房子『コスタリカ賛歌―絵かきが目と手と足でみた』
(草の根出版会、2001年)。
「こんなにも支持政党をはっきり表明できるということは思想や信条で差別されない保
障があるということだろう」(19ページ)。「国土の4分の1を自然保護区にし、熱帯原
生林の動植物をしるにはコスタリカは欠かせないといわれている」(78ページ)。
・池田眞規「軍隊を捨て平和国家に、中米コスタリカに学ぶ」『平和新聞』2001年4
月25日号。
「外交の方針は、積極的な平和外交である。・・・近隣の国々で武力紛争が起きると、大
統領や外交官を派遣して、紛争解決の仲裁役を買って出る。・・・近隣を説得して常備軍を
廃止させる(パナマが94年廃止)。・・・このコスタリカの経験を見ると、軍隊の廃止、清
潔な選挙制度の確立、徹底した平和教育、積極的平和外交の全てが有機的に相互作用して、
平和国家を建設したことが分かる」
。
・池田眞規『コスタリカ視察報告:コスタリカに学ぶ-軍隊なき平和国
家』http://hccweb1.bai.ne.jp/hankaku/b2-1costarika.htm, 2001.5.29.
「まず彼らは、国政の民主化の第一は清潔な選挙制度の確立が先決だと考える。その方法
として立法、行政、司法の「三権」から独立した第四権の常設の『選挙管理裁判所』とい
う近代憲法学の通説にもない国家機関を創設し、これに選挙のすべてを管理させることに
した。 この選挙管理裁判所はすべての干渉から独立して民意を反映した清潔な選挙を実
施する権限と責任を持つ。選挙の結果の発表も選挙管理裁判所が行うのである」
。
・西山明行「軍隊のない国コスタリカ訪問報告」2001.12.9 『日本反核法律家協会報告』
「コスタリカは、『三権分立』ではなく『四権分立』です。・・・最近アメリカと言えば
戦争、戦争と言えばアメリカという感じですが、中米などはしょっちゅう内紛があり、ア
メリカが口出ししたら収まらず、かえって酷くなった。非武装中立のコスタリカが口を出
すと収まるという現象があるようです。だから信頼感が違うような感じがします。政府軍
と反政府軍の難民を受け入れているというのも大きな特徴です。」
「コスタリカは、「三権分立」ではなく「四権分立」です。選挙管理裁判所があり、ここ
で選挙の公正ということを徹底してやるということです」
。
・カルロス・バルガス氏講演、『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみ
たコスタリカ』、コスタリカの人々と手をたずさえて平和をめざす会。
「1986年の中米紛争時、紛争の環境の中にあって、中米の紛争環境というのはニカラ
グアのサンディニスタ政権に対してホンジュラスの介入があり、戦争が起こりそうになっ
たとき、アメリカ合衆国はこのホンジュラスの政権を支持しようとしたわけです。・・・ア
メリカとコスタリカは友達です。また、連帯もしています。しかしながらコスタリカはア
メリカに従属していないということです」。35ページ。
・「カレン女史のスピーチ」『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみた
コスタリカ』
「四つ目の権力として『選挙に関する最高裁判所』を設置しました。これは、非常にほ
かの国々とも違いまして、違うメカニズムをもったものなんですけれども、これによって、
クリーンな選挙が確実になったということです」。133ページ。
「以前に創価学会の核の脅威展というのがありまして、創価学会の池田会長と私の息子
のホセ・マリア・フィゲーレス(1994-98年大統領)と非常に懇意なのです。もし
も池田様にお目にかかることがありましたら、よろしくお伝えください」。143ページ
・ルイス・アルベルト・モンヘ「モンヘ元大統領に訊く」『コスタリカ報告集2002年
1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』
「ニカラグアは当時紛争の中にあり、ソ連とキューバの支援を受けていました。・・・ホ
ンジュラス・エルサルバドルでも紛争が起きており、やはりキューバの援助を受けていま
した。・・・アメリカはホンジュラスなどの左翼勢力を制圧しようという政府を支援してい
ました。冷戦構造がはっきりと現れていました」。57ページ。
・自由法曹団『有事法制のすべて』
(新日本出版社、2002 年)。
「80 年初め、隣国ニカラグアで内戦が起こったときは大変な危機だった。ニカラグアとコ
スタリカは国境を接しているが、ここにアメリカの息のかかったゲリラがいる。彼らが負
けてコスタリカ領に逃げ込んでくる。それを追ってニカラグア兵がくる。そうすると、ニ
カラグア側のコスタリカも武装しようという話になる。
・・・そこでレーガン政権がコスタリカに軍事基地を作らせてくれ、というようなことを
言うわけだね。これを当時コスタリカの大統領だったモンヘ氏は、断固拒否した。そして
世界に非武装中立を誓う。これが、1983年の「非武装中立宣言」だ」。128ページ。
「・・・実際にアリアス大統領の和平工作によって、1987年、和平協定が成立してし
まう。これでアリアス大統領はノーベル平和賞を受けるわけ。
このように、コスタリカの平和主義は、世界の平和を積極的につくり出していこうとい
う、積極的非武装、積極的平和主義だと言ってよいと思う」。129ページ。
「コスタリカの平和主義は、コスタリカの成熟した民主主義のシステムによって、支え
られている。
まず、驚くのは、軍隊がない分、50年にわたり国費の三分の一をいつも厚生面、そし
て教育に使ってきたという事実だ。コスタリカの子供たちは、みな均等に教育の機会を与
えられ、学校で平和と民主主義、人権保障を学ぶ」」130ページ。
・伊藤千尋「平和憲法の国コスタリカ、非武装という強さ」『週間金曜日』400号、2
002年2月22日。
「(1949年軍隊を廃止した。)その後、「兵士の数だけ教師」を合言葉に、それまでの
軍事予算を教育予算に変えた。以後年間予算の三分の一が教育費になった」。「
(80年代の
中米紛争が激化した時)ニカラグア政府軍に追われたゲリラがコスタリカに逃げ込んでき
た。こうしたときに『永久的非武装、積極的中立』を宣言したのがモンヘ大統領だ。」「彼
の後を継いだアリアス大統領は、対話によって中米全体の紛争を終わらせてしまった。彼
の発想は、いわば『国際的火消し』である」。
・伊藤千尋「コスタリカと中米の歴史」『コスタリカ報告集、2002年1月―2月平和
視察団のみたコスタリカ』17ページ。
「(中米和平協定の)功績によって87年アリアスはノーベル平和賞をもらいました。日
本でもノーベル平和賞をもらった総理大臣がおりましたが、ただ長期政権にいたというだ
けでもらった。ああいう名目的な平和賞ではなくて、この人はほんとうにすごいです」。
・早乙女愛・足立力也『平和をつくる教育―「軍隊をすてた国」コスタリカの子どもた
ち』(岩波ブックレット、2002年)。
「コスタリカも結局数ある貧しい発展途上国のひとつであり、しかもこれといった資源
がなく、コーヒーやバナナの輸出と観光でなんとか糊口をしのいでいる。逆にそういった
逆境が、コスタリカの「教育偏重」傾向を強くした。・・・そのために、軍隊すら廃止して
しまったのだ。少ない資源を教育にふるいわけるために」
。39-40ページ
・藤森研「軍隊を持たない国―コスタリカと比較して」、東京土建一般労働組合『建設労
働のひろば』10月号、18ページ。
「80年代にアメリカはニカラグア干渉を行いましたが、それを遂行するためにコスタ
リカに飛行場の建設を提案します。ところが時の大統領(モンヘ)は、一方に肩入れする
のでなく中米全体の平和に寄与する『非武装積極中立宣言』を発して、アメリカ政府の意
図を挫いてしまうのです。・・・さらに米州機構(OAS)を活用して両国の和解調停に乗
り出し、アリアス大統領は87年ノーベル賞を受けています」。
・池田眞規「カレン・オルセンさんについて」
『カレン・オルセンさん招聘企画挨拶文』。
2002年10月。
「この国は半世紀以上にわたって、非武装・中立の平和国家、民主主義国家として発展
してきました。・・・アリアス大統領は、中南米の和平に貢献したことで89年ノーベル平
和賞を受賞しました。同時にコスタリカは、国としてもノーベル平和賞を受賞しています」。
2
執筆者の多くは、同時に日本において憲法を守る運動や有事法制反対運動に参加してい
る人々である。筆者もこうした運動を支持し、積極的に関わって行きたいと考えている。
3
本稿は、社会科学の立場から、コスタリカの史実と現実をできるだけ客観的に把握する
ことを目的としているものであるが、筆者は、上記の運動を進める立場からしても、誤っ
た認識にもとづく評価からは、運動を進めるための力となる正しい教訓を学べないのでは
ないかと憂慮している次第である。
4
現在までのところ、筆者とほぼ同じ考えで、上記の一面的評価、賛美が行われていること
を批判したものは、筆者の知見するかぎり、わずかに小澤卓也「映画“軍隊を捨てた国(マ
マ)”を観て」(『歴史評論』NO.261、2002年11月号、110-11一ページ)の
みである。小澤氏が指摘する「コスタリカの平和の安直な神話化および伝説化」について
は、同じ内容をすでに筆者も指摘したことがある。日本アジア・アフリカ・ラテンアメリ
カ連帯委員会機関紙、2001年6月1日号、同千葉県支部講演レジュメ(2002年1
0月5日)を加筆訂正した『コスタリカをめぐる8つの神話』(本稿は、ある雑誌に掲載予
定であったが、結局未掲載となった)参照。
5 コスタリカ憲法(スペイン語)よりの拙訳。第3項については、他の翻訳には誤訳が見ら
れるが、正しくは、「声明あるいは宣言を討議したり、発表したりしてはならない」という
意味である。
6
1949年憲法の制定過程については、竹村卓『非武装平和憲法と国際政治-コスタリカ
の場合』(三省堂、2001年)75-84ページ参照。
7
IISS, The Military Balance 2000-2001, Oxford Univ. Press, London, 2,000
8
コスタリカの警察法には、明らかに日本の警察法とは違った規定が見られる。それは、コ
スタリカの警察が、軍隊的な側面を持っていることから来るものと思われる。市民警備隊
(Guardia Civel)の警備隊 Guardia(グワルディア)という用語は、軍隊(Ejercito)と警察
(Policia)の中間の強度をもつ「治安機関」である。警備隊(Guardia)は、中南米では歴
史的にはかなりの重装備をもったり、軍隊そのものである場合もある。そうした語感をも
つものとして市民警備隊がコスタリカ国民に捉えられていることを知る必要がある。すな
わち、装備からしても性格からしても日本の警察力とは違ったパーセプションといってよ
いであろうか。
9
Efraín Valverde y Nidia Aguilar, La barahunda de Costa Rica en Ginebra: Made in USA,
http://www.rebelion.org/internacional
10
中南米一般において、国民は、
「北の巨人」に対して歴史的な関係から「ヤンキー」とか
「グリンゴ」とか呼んで嫌悪感をもっており、その感情を吐露する場合が少なくない。し
かし、政治の現実は複雑で、そうした感情をもちながらも現実の力関係あるいは利害関係
でアメリカ政府との関係のあり方が決められている。コスタリカの場合もそうで、対米従
属性と同時に時に対米批判がでてくる複雑な側面をもっており、対米関係を一面的に捉え
てはならない。
11
筆者は、最近キューバ人研究者、またプエルトリコ独立運動の活動家とコスタリカにつ
いて話す機会があったが、前者は、
「コスタリカは、軍隊を持たないのではなく、アメリカ
がいざというときに守ってくれるので、持つ必要がない」と述べたし、後者は「コスタリ
カが軍隊を持たないといったからといって、現実のコスタリカの行動から見れば、中立で
もなく、積極的な平和外交とはいえない」と厳しい批判を行っていた。こうした見解は、
中南米左翼一般の見解と思われる。
12
Ibid.
13
Granma, Octubre 18, 2002.
14
Nacionales, Julio 6, 2002.
15 アメリカのモンロー主義の史的展開については、岡部廣治「米国の『勢力圏』思想と革
命ニカラグア-『モンロー主義の史的展開』-」『経済』1986年1月号参照。
16
グアテマラについては、岡部廣治「グァテマラの問題」
(
『歴史学研究』、第 174 号、1954
年 8 月号)、Guillermo Toriello Garrido, Guatemala, Más de 20 Años de Traición, Ediciones
Ciencias Sociales, La Habana, 1981 を参照。なお岡部氏は、Richard H. Immerman, The CIA
in Guatemala: The Foreign Policy of Intervention, University of Texas Press, 1982
を推奨しているが、筆者未見。
17
アメリカに支援された反革命軍のキューバ侵攻事件(プラヤヒロン侵攻)については、
近年新たな公開資料にもとづいて研究がなされている。最新の研究は、Juan Carlos
Rodríguez, The Bay of Pigs and the CIA, transulted by Mary Todd, Ocean Press, Melbourne,
1999, James G. Blight and Peter Kornbluh, Politics ofIllusion: the Bay of Pigs Invasion
Reexamined, Lynne Rienner Publishers, Boulder, 1998 などを参照。
18
エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地』大久保光夫訳(新評論、1986年)2
70-271ページ
19
トマス・J・マコーミック『パクス・アメリカーナの五十年』松田武・高橋章・杉田米
行訳(東京創元社、1992年)243-244ページ。
20
チリのピノチェットのクーデターの背景については、多くの書籍・論文が内外で刊行さ
れているが、さしあたっては、岡倉古志郎・寺本光朗編『チリにおける革命と反革命』(大
月書店、1975年)、Helios Prieto, Chile: Los Gorilas estaban entre nosotros,
Editorial Tiempo Contemporaneo, Bueos Aires, 1973 を参照。
21
アメリカのグレナダ侵略については、岡知和『踏みにじられた“香料の島”-アメリカ
のグレナダ侵略―『文化評論』No.274,1984 年1月号を参照。
22
パナマのノリエガ国軍司令官の麻薬疑惑を利用したアメリカのパナマ侵攻については、
拙稿『国際法を蹂躙したアメリカのパナマ侵略』世界政治90年2月下旬号、新原昭治『ア
メリカの戦略は世界をどう描くか』
(新日本出版社、1997年)、小林志郎『パナマ運河』
(近代文芸社、2000年)を参照。
23
1980年代の中米情勢については、日本共産党出版局『中米―前進する民族自決の戦
い』(1985年)、同時期の日本共産党中央委員会発行の『世界政治』に詳細な資料と論
文が掲載されている。アメリカのレーガン政権によるサンディニスタ政権打倒政策につい
ては、さし当ってはノーム・チョムスキーの次の本が参考になる。Noam Chomsky, The Culture
of Terrorism, South End Press, South End Press, Boston, 1988. Noam Chomsky, Deterring
Democracy, Hill and Wang, New York, 1992. Noam Chomsky, Necessary Illusions: Thought
Control in Democratic Societies, South End Press, Boston, 1989
24
アメリカに支援されたベネズエラの政界・財界・軍部・労働組合・マスコミ・カトリッ
ク教会が一体となってのチャベス打倒クーデター未遂事件については、拙稿「4月11日
ベネズエラ・クーデター未遂事件」
『アジア・アフリカ研究』、通巻363号、2002年
第1号を参照。
25
ノーム・チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』益岡賢訳(現代企画室、1
994年)29ページ。
26
キューバのフェリーペ・ペレス・ロケ外相は、本年4月コスタリカが、ジュネーブの国
連人権委員会でアメリカが後押ししたキューバの人権非難決議に賛成に回ったのを受けて、
記者会見で「もはやコスタリカに欠けていることがあるとすれば、それは、アメリカに併
合を要請することだけであろう」と述べた(Granma, April 12, 2002)。この発言は、若干
冷静さを欠いた発言にも思えるが、コスタリカの対米従属性の一面を指摘したものである。
27
岡倉古志郎、土生長穂、立木洋『非同盟・中立』
(新日本新書、1982年)27-31
ページ。
28 Clifford Krauss, Inside Central America: Its People, Politics, and History, Simmon
& Shuster, London, 1991, p.224.
29 Ibid., p.225.
30 John A. Booth, Costa Rica: Quest for Democracy, Westview Press, Boulder, 1998, pp.
184.モンヘは、大統領就任直後、ワシントンを訪問し、レーガン政府に「中米において全
体主義のマルクス・レーニン主義者達が大規模攻撃を行っており、コスタリカはニカラグ
アに指導されたマルクス・レーニン主義の包囲網に脅かされている」と訴えた(Martha Honey,
Hostile Acts: U.S. Policy in Costa Rica in the 1980s, University Press of Florida,
Miami, 1994, p.300)。
31 Ibid., p.120.
32 Thomas W. Walker and Ariel C. Armony ed., Repression, Reistance, and Democratic
transition in Central America, SR Books, Wilmington, 2000, p.99.
33 国民解放党は、親キューバ反米派から、反キューバ親米派まで含む幅広い党である。
34 モンヘは、国民解放党の中では右派に属していたといわれている(Guía del Tercer
Mundo, 1984-1985, Periodistas del Tercer Mundo A.A., México, 1984, p.87)。
35 原文は、http://www.geocities.com/CapitolHill/7145/neutra.htmlを参照。
36 Diana Kapiszewski ed., Encyclopedia of Latin American Politics, Oryx Press,
Westport, 2002, pp.92-101.、Al sur del río bravo: monografías de países de américa
central y del sur, Editora Política, La Habana, 1991, pp.63-73.、あるいは『ラテン・アメ
リカ事典』ラテン・アメリカ協会、1996年版633-652ページでも特にコスタリ
カを中立国家と記載していない。「モンヘ大統領は外交面において非武装中立を唱えた」と
いう程度である(同書、636ページ)。
37 Martha Honey, op.cit., 301.
38 モンヘは、ムルシエラゴ米訓練基地、道路、橋梁、サンタエレナ飛行場建設を容認する
代わりにCIAから相当な金額を受け取ったといわれている(Jeffrey Toobin, “Opening
Arguments: A Young Lawyer’s First Case; The United States vs.Oliver North, New York,
Viking, 1991, pp.96-115; David Johnston, “Book Accuses the CIA, New York Times,
Feb.5, 1991, cited in Martha Honey, op.cit., p.371.しかし、モンヘのCIAとの関係は、
50年代にさかのぼる。当時モンヘは、CIAから資金を受けていた米州地域労働機構(O
RIT)の書記長であり、同様にCIAから資金を受け取っていた国際労働調査協会(I
ILR)の役員も行っていた。モンヘは、ホセ・フィゲーレス(彼はCIA要員であった
と後年認めている。注100参照)とともに国民解放党の幹部養成学校「米州政治教育協
会」(IIEP)を設立した。このIIEPは、IILRから資金を受け取っていた。つま
り、国民解放党の幹部養成学校には、間接的にCIAの資金が流れていたのである。この
IIEPの初代書記・会計は、ルーマニア人亡命者のサチャ・ボルマンで、彼もまたCI
A要員であった(Martha Honey, op.cit., pp.531-532.)。
39 これは、一種の平和クーデターであったとも言われている(Coautores, Centroamérica:
una historia sin retoque, El Día en Libros, México, 1987, pp.54-55.)。
40 モンヘ政権は、1983年だけでもアメリカの1億2500万ドルの経済援助とIMF
の1億ドルの借款を受け取った(Clifford Krauss, op.cit., p.224)。
41 Ibid.,p.224. モンヘによるこうした工兵隊の即座の受け入れ、
アメリカの援助の急速な進
展と、その後のモンヘによるコントラ秘密基地の容認を考えあわせると、国内外の反対意
見をかわすために大統領中立宣言を行ったのではなかったかと推測させられる。
42 ここで筆者は、エンゲルスが、
「一般的にいえば、ある党の公の綱領より、その党が実際
になにをやるかということの方が重要です」
(ゴータ綱領にかんするエンゲルスのベーベル
宛手紙、マルクス=エンゲルス著『ゴータ綱領批判・エルフルト綱領批判』全集刊行委員
会訳(国民文庫、1986 年)55 ページ)と述べたことを思い出す。憲法や、永世中立宣言よ
りも、実際にその国がなにを行っているかということが重要なのである。
43
William M. LeoGrande, Our Backyard: the United States in Central America, 1977-1992,
The University of North Carolina Press, Chapel Hill, 1998, pp.405-406.
44
Ibid., p.295.
45
Thomas W. Walker ed., Reagan Versus the Sandinistas: The undeclared War on Nicaragua,
Westview Press, Boulder, 1987, p.26.
46
Ibid., pp.47-48.
47
岡友和「本格化するレーガンの中米軍事介入」
、『赤旗評論版』1983.8.1
48
岡友和「強まるレーガンの中米軍事侵攻の危険」、『赤旗評論版』1984.10.8. そのほか、
岡知和「緊迫した情勢下ですすむ選挙準備」
『世界政治』、1984年3月下旬号、14頁、
増田紘一「民族自決―中米和平への道」『世界政治』1985年1月号6頁、「オルテガ司
令官記者会見」(同15頁)ほか、この当時の雑誌『世界政治』には多くの言及がある。
Alberto Prieto Rozos, Centroamérica en Revolución, Ediciones Políticas, La Habana,
1987, p.261.
50
Ibid., pp.262-262.
51
チョムスキーは、「コスタリカにおいては、実際には富裕な超保守主義者達が、主要な日
刊紙と放送局を掌握しているので、住民はしばしば一方的な筋書きを手に入れることがで
きるだけである」というアメリカの西半球問題評議会(COHA)と新聞協会の討議を引
用している(Noam Chomsky, The Culture of Terrorism, South End Press, Boston, 1988,
pp.121-122.)。
52 モンヘ政権は、
前政権よりもはるかにコントラの国内活動に寛容であった。それまでは、
国内で活動が発覚した場合、エデン・パストラのような著名なコントラでも警備隊に逮捕
され、収監されるか、国外追放されたが、モンヘ政権になってからは、数週間収監される
だけで国外追放されることはなかったといわれている(Clifford Krauss, op.cit, p.225.)。
53 モンヘは、アメリカの経済援助を受けるために(1981年―89年間で11億400
0万ドルにのぼり、前政権の10倍に達した)
、サンディニスタ政権打倒の協力を行ったと
いう事実は、いろいろなところで指摘されている(たとえば、Thomas W. Walker and Ariel
C. Armony ed., Repression, Reistance, and Democratic transition in Central America,
SR Books, Wilmington, 2000, p.99.を参照)。
54
John A. Booth, op.cit., pp. 215-216.
55
Tjabel Daling, Costa Rica: a Guide to the People, Politics and Culture, Latin America
Bureau, New York, 1998, p.22.
56
Navis Hiltunen Biesanz, Richard Biesanz and Karen Zubris Biesanz, The Ticos: Culture
and Social Change in Costa Rica, Lynne Rienner Publishers, Boulder, 1999, p.91.
57 サンディニスタ政権は、
「ニカラグア国家再建政府評議会綱領」において、民族自決権の
尊重と非同盟外交の推進を述べている(『世界政治』第557号1979年9月下旬号、3
7ページ。
58
元CIAのデビッド・マックミシェルは、1981年にコスタリカ国境でニカラグアを
挑発しニカラグアのコスタリカ侵入を引き起こす計画をCIAはもっていたと証言してい
る(Noam Chomsky, op.cit., p.121.)。当時中米で記者活動を行っていたクラウス記者も同
49
じ内容の証言を直接聞いている(Clifford Krauss, Inside Central America: Its People,
Politics, and History, Simmon & Shuster, London, 1991, p.227)。
59
アメリカが支援したコントラによるニカラグア侵略は、サンディニスタ政権によりハー
グの国際司法裁判所に提訴され、1986年「他国の内政への不干渉という国際慣習法上
の義務違反」として断罪された。詳しくは岡部廣治『たたかうニカラグア』
(新日本出版社、
1986年)139-141ページ参照。同裁判記録については、International Court of
Justice, Case Concerning Border and Transborder Armed Actions (Nicaragua v. Honduras)
Volume 1, 1992 及び、『世界政治』1986 年1月下旬号―87 年7月上旬号、1986 年8月上旬
号、10 月上旬号―11月下旬号を参照。
60
Alberto Prieto Rozos, op.cit., p.261.
61
Christina Jacueline Johns and P.Ward Johnson, State Crime, the Media, and the
Invasion of Panama, Praeger, Westport, 1994, p.26.
62
Ibid., p.125.
63
The US Council on Hemispheric Affairs, “News and Analysis”, Aug.18, 1988, cited
in Noam Chomsky, Necessary Illusions: Thought Control in Democratic Societies, South
End Press, 1989, p.267. バルガス氏は、「コスタリカが、30億ドルのアメリカからの
援助を受けながら米軍のコスタリカ領使用を断って、永世中立をとったのは、非常に大き
な賭けであった。しかし、コスタリカはその賭けに勝った。経済的援助は無くても中米に
コスタリカありという国になりうることができた」と述べている(バルガス氏の講演、『コ
スタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』154ページ)。しか
し、もはやどちらが歴史的真実かは、明白であろう。
64
バルガス氏は、
「コスタリカがアフガニスタン爆撃に対して、直接的な支援、賛成等を示
したことはありません」と述べているが(カルロス・バルガス氏講演、『コスタリカ報告集
2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』、コスタリカの人々と手をたずさえて
平和をめざす会、55ページ)、ロハス外相の発言をどう説明するのであろうか。
65
www.oas.org/OASpage/crisis/CR_s.htm
66
Ibid.
67
Fidel Castro, Comparecencia en la TV Cubana, Granma, Noviembre 4, 2001.
68
El Proceso, Mayo 1, 2002.
69
http://jca.apc.org/costarica/consinfo.html
70
La Jornada, Abril 16, 2002.
71
Discurso del Presidente la República de Costa Rica, Dr. Abel Pacheco de la Espriella
en Cumbre Mundial sobre Desarrollo Sostenible, Johannesburgo, Dirección de Prensa,
Lunes 2 de septiembre, 2002, Presidencia de la República, Costa Rica.
72
Discurso del Presidente Constitucional de la República Bolivariana de Venezuela,
Hugo Chávez Frías, durante la inauguración de la II Cumbre Mundial sobre el Desarrollo
Sustentable, Ministerio de Communicación e Información, Venezuela.
73
Intervención pronunciada por el Ministro de Relaciones Exteriores de Cuba, Felipe
Pérez Roque en la Cumbe Mundial sobre Desarrollo Sostenible, Johannesburgo, Granma,
Septiembre 4, 2002.
74
詳細は拙稿、前掲論文51ページ、新原昭治、前掲書、20-23ページ参照。
75
小林志郎、前掲書、297ページ。
76
コリン・パウエル+ジョゼフ・E・パーシコ『コリン・パウエル自伝―マイ・アメリカン・
ジャーニー』統合参謀本部議長時代編(角川文庫、2001年)31-43ページ。
77
Noam Chomsky, Deterring Democracy, Hill and Wang, New York, 1992, p.224.チョム
スキーは、このアリアス提案を「偽善的」と批判している。
78
Luis Dallanegra Pedraza, La OEA y La invasión de EUA a Panamá,
http://www.geocities.com/luisdallanegra/EUA_Amla/capit_25.htm.
実は、1980年代よりコスタリカの警察力は倍増したと言われている(Efraín Valverde
y Nidia Aguilar, La barahunda de Costa Rica en Ginebra: Made in USA,
http://www.rebelion.org/internacional/aguilar2900.htm)。
80
メキシコにおいては、予算における教育費が中南米で一番高い比率を示しているが、同
国の教育水準を見ると、この数字の信憑性に首を傾げざるを得ないのは、筆者一人ではな
いであろう。
81 軍事費は確かに再生産構造に組み込まれず、非生産的なものであるが、教育や社会福祉
の推進は、その国の政府や国民が、どういう教育、社会福祉推進理念を持っているかにか
かっている。そうでなければ多額の金額を軍事費に割かざるをえないキューバの教育、社
会福祉水準の方が、コスタリカより優れている実情や、コスタリカの治安対策費が90年
代ほぼ同じ水準を保ちながらも、教育、社会福祉費が減額されている実情を説明できない
であろう。
82 「兵士の数だけ教師」という合言葉は、素晴らしい政策として聞こえるが、さほど難し
い目標ではない。たとえば、キューバは、2000年度教員数は 206,657 人で(Anuario
Estadístico de Cuba 2000, Oficina Nacional de Estadísticas, La Habana, 2001, p.297)、
軍隊 58,000 人(The IISS, The Military Balance 2000-2001, Oxford Universiy, London,
2000, pp.236-237)のほぼ4倍、日本は、教員数は112万8000人で、自衛隊員23万
8000人のほぼ5倍である(『日本国勢図絵98-99』国勢社、485ページ、533
ページ)。たとえ兵士の数を減らした分だけ教員を増やしてもそれらは、現教員数の4分の
1あるいは5分の1増えるに過ぎない。
83
竹村卓、前掲書、78ページ。
84
Tjabel Daling, op.cit., p.40.
85
CEPALがいう貧困ラインとは、日常の食糧や衣料などの生活必需品をかろうじて購
入できる収入がある家庭で、絶対的貧困とは、日常の食糧は購入できるが、生活必需品は
購入できない生活水準のことを指している(CEPAL, Anuario Estadístico Latinoamericano,
2000, p.xxxiii.)。
86
いろいろな統計によれば、コスタリカの貧困ライン以下の家庭は、18-25%の間を、
絶対的貧困ライン以下の家庭は、8-10%を示している。即ちほぼ4分の1の家庭が貧
困ライン以下で生活している。たとえば、Noam Chomsky, Deterring Democracy, Hill and
Wang, New York, 1992, p.222. あるいは、Efraín Valverde y Nidia Aguilar, La barahunda
de Costa Rica en Ginebra: Made in USA を参照。
87
Tjabel Daling, op.cit., p.45.
88 Daniel Camacho, “Costa Rica: virtudes y vicios de una democracia ‘Perfecta’”, en
Pablo González Casanova, Marcos Roitman Rosenmann ed., La democracia en América
Latina, La Jornada Ediciones, México, 1995, pp.424-425.
89
カルロス・バルガス氏「講演―その1」
『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視
79
察団のみたコスタリカ』44ページ。
Noam Chomsky, Deterring Democracy, Hill and Wang, New York, 1991, p.222.
91
早乙女愛・足立力也、前掲書、61ページ。
92
Tjabel Daling, op.cit., p.21.
93 オースティン・アメリカン・ステーツマン特別取材班『ラ・フロンテェラ』中嶋弓子訳
(弓立社、1989年)67ページ。
94
これらの各国の憲法は、http://lanic.utexas.edu/参照。
95
アリアスは、自陣営の財政責任者リカルド・アレムより300万コロン及びキーホルダ
ーやステッカーなどの提供をうけた。また二人でロスアンゼルスに選挙資金の受け取りに
90
いった。その結果、アリアスは、大統領に当選後アレムを論功行賞として「中米経済統合
銀行」のコスタリカ代表に任命した。その後アレムは、地位を利用してコロンビアの麻薬
マフィアと結託してマネーロンダリングを行い、5000万ドルも蓄財した。アレムは1
988年に麻薬取引が発覚するも、無罪となった。しかし、アレムは釈放後も麻薬取引を
行い、1995年マイアミで逮捕、無期懲役を宣告された。その後、司法取引を行い懲役
13年に減刑された(La Fiesta del Cerdo: ?Quién le teme a Ricardo Alem?
http://lafiestadelcerdo-2002.americas.tripod.com/lafiestadelcerdo/id53.html)。
96
Noam Chomsky, Deterring Democracy, Hill and Wang, New York, 1991, p.223.
97
Granma, Octubre 18, 2002.
98
Costa Rica: Vientos de reelección, Tico Page,
http://www.ticopage.com/reeleccion.html
99
Fiona Ortiz, Reuters April 7, 2002.
100
ホセ・フィゲーレス(ドン・ペペ、カレン女史の夫)は、コスタリカでバナナ・プラン
テーションを経営するユナイティッド・フルーツ・カンパニーが彼を「中南米で最良の同
社の広告代理店」と述べたほど、同社と親密な関係を持っていた。また彼は、アメリカの
CIAからも秘密資金援助を受けていた(Noam Chomsky, op.cit., p.273 and pp.385)。後
年、フィゲーレスは、こうしたユナイティッド・フルーツ・カンパニー及びCIAとの関
係から、バナナ労働者の間に強い影響力を持つ共産党を非合法化したと述べている(Noam
Chomsky, op.cit., pp.385-386)。1975年彼は、CIAの協力者として30年間働いて
きたことを自ら公言している(William Blum, Killing Hope: US military and CIA
interventions since World War II, Consortium Book Sales & Dist, 1995, p.83.)。フ
ィゲーレスは、また、前述のプラヤヒロン侵攻事件を支持し、ジョンソンのドミニカ侵攻
も弁護したのであった(Noam Chomsky, op.cit., p.273)。このように、ホセ・フィゲーレ
スの実像は、
「軍隊を捨てた」憲法制定者としての平和の姿よりも、CIA協力者、反共の
闘士としてのもうひとつの姿が浮かび上がってくるであろう。
101
Robert Wesson ed., Communism in Central America and the Caribbean, Hoover
Institution Press, Stanford, 1982, pp.104-106.
102 1980年代初頭、統一人民党の党員数は、3万5000人と寿里順平氏は報告してい
るが(寿里順平『中米の奇跡コスタリカ』(東洋書店、1984年)288ページ)、現在
はかなり減少しているように思われる。
103
コスタリカのマスコミは、チョムスキーをはじめ多くの識者が指摘するように極めて保
守的である(Efraín Valverde y Nidia Aguilar, op.cit.)。中米紛争においては、同国の
主要紙『ラ・ナシオン』などのマスコミがいっせいに反サンディニスタ・キャンペーンを
行い、反サンディニスタ政府の方向に世論を誘導していったことが指摘されている(Harry E.
Vanden, “The Effects of Globalization and Neoliberalism in Central America:
Nicaragua and Costa Rica” in Gary Prevost and Carlos Oliva Campos ed., Neoliberalismo
and Neopanamericanism: The View from Latin America, Palgrave Macmillan, New York,
2002, p.168).また、こうした反サンディニスタキャンペーンに、CIAがコスタリカ国内
のジャーナリストに資金を与えたといわれている(Clifford Krauss, Inside Central
America: Its People, Politics, and History, Simmon & Shuster, London, 1991, p.227)。
104 2002年の国会選挙では、同党から人民統一党が分離して、カンビオ2000を結成
した。得票率は、民主勢力党は 1.98%、カンビオ2000は 0.85%であった。
105
Partido Fuerza Democática, En defensa de la Patria y los Costaricenses: Nuestros
Compromisos Básicos.
106 Diana Kapiszewski ed., Encyclopedia of Latin American Politics, Oryx Press,
Westport, 2002, p.99.
107 Edelberto Torres-Rivas, “Personalities, Ideologies and Circumstances: Social
Democracy in Centro America” in Menno Vellinga ed., Social Democracy in Latin
America: Prospects for Change, Westview Press, Boulder, 1993, p.247.
108
この点については、数々の優れた欧文文献もあるが、さしあたっては、次のものを挙げ
ておく。Centro de Estudios Internacionales, Centroamérica en Crisis, El Colegio de
México, Mexico, 1980. CECADE CICDE, Centroamérica: Crisis y Política Internacional,
Siglo XXI, Mexico, 1982. Thomas P. Anderson, Politics in Central America, Praeger,
New York, 1982. 日本語文献では、日本共産党出版局『中米―前進する民族自決の戦い』
(1
985年)所収の諸論文を参照。
109
「サンタフェ文書 I」については、日本共産党中央委員会発行、
『世界政治』第619号
1982年4月下旬号及び第621号1982年5月下旬号を参照。
110
Martha Honey, op.cit., p.481.
111
アリアス大統領(当時)は、1988年シュルツ米国務長官と会談したときの模様を反
サンディニスタ感情を顕わにして、次のように語っている。
「今日のサンディニスタは、悪いやつらだが、あなたがたはいい人達だ。彼らは正体を
現したのだ、と私はシュルツ氏にいった」(Richard Boudreaux, Los Aneles Times, August
5, 1988, cited in Noam Chomsky, Necessary Illusions: Thought Conrol in Democratic
Societies, South End Press, 1989, p.267.)
。
112 上記注1で引用した人々の言及の中には、コスタリカ側にしろ、日本側にしろ、域内の
自主的解決をめざすコンタドーラ・グループの長年にわたるねばり強い和平交渉があって
こそ、最終的にエスキプラス合意が実現したことがほとんど触れられていないことが特徴
である。
113
和平交渉過程については、Sung Ho Kim, “The Emergence of the Peace Process in Central
America”, in Perspective War and Peace in Central America, Ohio University, Ohio,
1992 を参照。このコンタドーラ合意の重要性については、加茂雄三「中米史の現段階―「エ
スキプラスⅡ」の歴史的意義」、加茂雄三・細野昭雄・原田金一郎編著『転換期の中米地域』
(大村書店、1990年)所収、18-19ページを参照。
114 John A. Booth, op.cit., pp.185; Clifford Krauss,op.cit., p.229.
115
エスキプラス合意Ⅱの全文については、日本共産党中央委員会発行『世界政治』第74
8号1987年9月上旬号を参照。
116
ノーム・チョムスキー、前掲書、67-68ページ。
117
同上、67ページ。この点については、サンディニスタ民族解放戦線も同じ見方をして
いる(Visión Sandinista,
http://www.fsln.org.ni/vsandinista/archivo/2002/julio/11al17/analisis/
118
チョムスキーが指摘しているように、アメリカ側は、エスキプラス合意を誠実に守る気
持ちはなかった。レーガン政権は、とにもかくにも「『人道援助』を継続してコントラを少
なくとも1年間はホンジュラス領に戦闘可能な状態で維持し、外交交渉が行き詰った際に
抑止力として使用する」つもりであったと、当時のベーカー米国務長官は述べている(ジ
ェームズ・A・ベーカーIII『シャトル外交、激動の四年』仙名紀訳(新潮文庫、1998
年)122-128ページ。これは、明らかにエスキプラス合意に違反するが、こうした
アメリカ政府の意図をアリアス大統領がどれだけ知っていたか、今後の公開文書で解明さ
れるものと思われる。
119
Noam Chomsky, Necessary Illusions: Thought Control in Democratic Societies, South
End Press, Boston, 1989, p.226, pp.392-393. チョムスキーは、「アリアスは、ソ連や
キューバのニカラグアへの武器供給は繰り返し批判したが、エスキプラス合意直後、アメ
リカがコントラへの援助を増大したことに対しては口を閉ざしていた」(Noam Chomsky,
Deterring Democracy, Hill and Wang, New York, 1992, p.275)と非難している。
120
Tjabel Daling, op.cit, p.21.
121
Harry E. Vanden, op.cit., p.169.
Noam Chomsky, op.cit., p.223.
123
Efraín Valverde y Nidia Aguilar, op.cit.
124
Noam Chomusky, op.cit., p.223.
125
Navis Hiltunen Biesanz, Richard Biesanz and Karen Zubris Biesanz, op.cit., p.102.
126
Kees Biekaart, “The Double Defeat of the Revolutionary Left in Central America”
in Jolle Demmers ed., Miraculous Metamorphoses: The Neoliberalization of Latin
American Populism, Zed Books, London, 2001, p.197.
127 1万から3万人といわれる先住民は、全土の 6.3%にあたる居留地で生活している。彼
らは土地の所有権を有しないが、生活地域は白人の狩猟者、森林伐採人、無地農民、鉱山
発掘者などによって頻繁に侵入を受けている。また、先住民を「考古学ツーリズム」の観
光対象としているという批判もカトリック教会から出されている(Tjabel Daling,
op.cit.,pp.48-49.)。コスタリカの先住民問題については、西川長夫・原毅彦『ラテンア
メリカからの問いかけ』
(人文書院、2000年)所収、小澤卓也「白色化された国民―コ
スタリカにおける国民イメージの創設」を参照。
128
映画『軍隊をすてた国』は、ドキュメンタリーというよりも、製作者の主張を伝える宣
伝映画と言ってよいであろうが、結論として「平和・民主・中立国家コスタリカ」のイメ
ージを引き出すためにかなり主観的な論理の展開が行われている。それが意図的に行われ
ているとは筆者には思われないが、もしそうであれば、小澤氏がいうように、「
『平和』物
語作りに情報操作が行われている」ことになるであろう(小澤卓也、前掲論文、110ペ
ージ)。
129
A.ミリューコフ編著『日本経済に学べ[ソ連・ミリューコフ報告]
』中村裕・服部倫卓
訳(朝日文庫、1991年)36-37ページ。
122
130
バルガス氏は、米軍基地と自衛隊の関係について、
「結局、自衛隊という軍隊があるとい
うことが、米軍基地を日本に置くことを許容してしまう理由を作ってしまうことにもなっ
ているわけです」と述べている(『カルロス・バルガス氏の講演』『コスタリカ報告集20
02年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』164ページ)。しかし、これは、アメリ
カの帝国主義の世界制覇政策、日本のアメリカへの軍事的従属性、日米安保条約の性格を
理解しない見地である。また、ここには、コスタリカのように国家安全保障は、集団的安
全保障に委ねればよいという考え方が潜んでいる。筆者が知るかぎりでは、バルガス氏の
諸発言の中に、日米軍事同盟である日米安保条約破棄の提言や、核廃絶の課題において最
大の核保有国であるアメリカに核廃絶を強く要求する主張が見られないのが特徴である。
こうした点を、小澤氏は、「あたかも自衛隊の存在に反対しながら、日米安保条約に従って
日本に駐留する米軍の存在を肯定する反戦論者のようなものである」と鋭く批判している
が、正鵠を射た指摘であろう(小澤卓也、前掲論文、111ページ)
。
(完) 2002年11月5日記。