なぜ人々は買い物で現金を使用するのか?

論文要旨(ノンテクニカル・サマリー)
なぜ人々は買い物で現金を使用するのか?
(原題:Why Do Shoppers Use Cash? Evidence from Shopping Diary Data)
マンハイム大学
若森 直樹
カナダ中央銀行 Angelika Welte
近年の ICT (Information Communication Technology) の急速な発達を受けて,電子マネーや
携帯電話を使用した新しい決済手段が台頭してきている.このような現象は,既存の決済手段を
提供してきた銀行やクレジットカード会社に加え,新しい決済手段を提供し始めた電子マネー発
行主体や加盟店,携帯電話事業者,さらには貨幣を発行している中央銀行や政策立案者など多方
面から熱い注目を集めている.しかしながら,多くの次世代型の決済手段の出現にも関わらず,
先進各国では現金が未だにその主要な地位を占めていることが各国中央銀行や経済学者によっ
て報告されている.例えば,アメリカやカナダ(北米)では 25 ドル(約 2500 円程度)以下の商
取引では,現金が未だに 50%以上のシェアを占めていおり,同様の現象がオーストラリア,オラ
ンダ,フランスなどの先進国でも散見されている.
このような小額取引における現金の優位性の背景には二つの可能性が考えられる.一つは,ク
レジットカード受け取り手数料(merchant discount)の支払いを避けたいと考える商店側が小
額取引でクレジットカードでの決済を受け付けない可能性であり,もう一つは,消費者自身が小
額取引においては決済が速い現金を好んで使っている可能性である.従来のような集計化された
(マクロ)データだけではこの二つの要因を識別すること,つまり,どちらの要因がどの程度の
影響を与えているのかを定量的に示すこと,は不可能である.しかし,消費者が日常生活でどの
ように決済手段を選んでいるのかという問いは,社会的に望ましい(効率的な)決済手段を提供
したいと考える政府の観点から非常に重要な政策的問題である.また,ある特定の決済手段(ク
レジットカードや電子マネー)を出来る限り頻繁に消費者に使ってもらいたいと考える民間企業
の視点からも,この問題はマーケティングの要になる重要な問いである.
そこで本論文ではその二つの要因を識別するため,カナダ中央銀行が収集した非常に独特なマ
イクロ・データである「買い物日誌データ(shopping diary data)
」を最新の計量経済学手法を
用いて分析した.我々が使用したデータには二つの特徴がある.第一の特徴は,同一消費者の三
日間に渡る買い物履歴を記録した点であり,第二の特徴は,実際に用いた決済手段(現金・クレ
ジットカードなど)だけでなく,使用可能だった全ての決済手段を記録している点である.一点
目の特徴により各消費者レベルの決済手段のパターン(よりクレジットカードを好んで使う,も
しくはどんな状況でも現金を使おうとする等)を把握することが可能になり,それに二点目の特
徴を加えることにより,小額取引で消費者が好んで現金を選んでいるのか,それともクレジット
カードを使用できなかったのかを識別することが可能になる.手法としては,消費者の各買い物
における決済手段の選択行動を,最新の離散選択モデルである一般化多項ロジットモデルを用い
て推定したところ.推定結果から,各消費者の異質性 (heterogeneity) を体現する係数 (random
coefficients や scale coefficients) が統計的に有意,なおかつ,マグニチュードの側面でも重要
であることがわかり,さらに,そのような異質性を導入したモデルほどデータとのフィットが良
くなることが示された.
推定した結果を利用して,あまねくカナダの全商店(レストラン等も含む)に金額の多寡に関
わらずクレジットカードの受け取りを義務化した際に,カナダ経済全体で現金やクレジットカー
ドの使用量がどの程度変化するかのシミュレーションを行った.その結果によれば,経済全体で
の現金の使用量は約 8%ポイント程度の減少が予想される.換言すれば,現在の現金の優位性を
支えているのは,商店側のカード受け取り率の問題ではなく,消費者側の現金を使いたいという
選好の問題であることをシミュレーション結果は示唆している.
日本は他の OECD 各国と比べると「電子マネー先進国」である.カナダ銀行が収集したよう
な消費者レベルのデータがあれば,本論文で提示した分析方法を用いることによって電子マネー
というイノベーションが消費者余剰に与えた影響を定量的に評価することが可能になる.さらに,
電子マネーを受け取る商店側のデータもあれば,このマーケットの二面性(two-sided market)
にも焦点をあてることが可能になり,日本でもそのような研究が期待されると考える.