東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ― マルチ・アーカイブを利用した

227
2010 年度
人文科学研究所共同研究 研究報告
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―
マルチ・アーカイブを利用した
「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
研究代表者: 山口 守(中国語中国文化学科・教授)
研究分担者: 金子 明雄(国文学科・教授)
紅野 謙介(国文学科・教授)
三澤真美恵(中国語中国文化学科・教授)
1. 本研究の目的と概要
本共同研究では,
「戦時・戦後プロパガンダ」に焦点をあて,日本・韓国・中国・台湾に
関する比較研究を行うことを考えた。その際,アメリカ国立公文書館をはじめ世界各地の公
文書館・資料館が所蔵する多言語の資料を複合的に利用するマルチ・アーカイブ方式を採用
すること,韓国・木浦大学東アジア研究所との三度目となる最終的な共同ワークショップの
場で討議を行うことが,
方法論上および成果公開上の特徴といえる。本共同研究における
「戦
時・戦後」の「戦」には,日清・日露戦争,第一次世界大戦,日中戦争,アジア太平洋戦争,
第二次世界大戦,国共内戦,朝鮮戦争,東西冷戦などを含めている。たとえば,大正デモク
ラシーの時代は日清・日露戦争,第一次大戦の「戦後」であるが,この時期のプロパガンダ
は,それ以前の日清・日露戦争,第一次大戦における「戦時」のプロパガンダと,東アジア
内部の自己・他者表象,歴史表象といった点でどのような連続性と非連続性をもっているの
か。それは,続く日中戦争,アジア太平洋戦争の「戦時」におけるプロパガンダとどのよう
な連続性,非連続性をもっているのか。さらに,それら日本のプロパガンダは,植民地とさ
れた朝鮮半島や台湾における「戦時・戦後」
(そこでの「戦」には植民地征服戦争や脱植民
地化過程における内戦も含まれる)のプロパガンダと,どのような相互関係をもっているの
か,といったことが問題の射程に入ってくる。つまり,本共同研究は,マルチ・アーカイブ
方式を採用し,国際共同ワークショップを通じた比較分析を行うことで,東アジアにおける
異なる時期,異なる地域の「戦時・戦後プロパガンダ」がもつ連続性と非連続性の諸相とを,
明らかにしようとするものである。
228
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
2. 研究活動
当初予定していた韓国・木浦大学東アジア研究所とのシンポジウムは,
「東亜現代中文文
学国際学術研討会」
(日本大学文理学部中文学科・慶応大学文学部中文学科・東京大学文学
部中文研究室主催,本人文研共同研究費及び科研費(基盤 C)
「東アジアにおける中国現代
文学受容の基礎的研究」2009 − 2011 年度,研究代表者:山口守による共催)に木浦大学中
文学科の林春城教授を招聘することで発展的に討論の場を移行させた。この他,今年度は以
下のような国際学術交流を積極的に展開して,本研究が意図した東アジアにおけるマルチ・
アーカイブの諸相の研究について,具体的な学術討論を進めた。
①
クリスチーヌ・レヴィ氏(ボルドー大学・フランス国立在外共同研究所)講演「1911 年
の大逆事件―例外状態の通常化の機能」
(2010 年 6 月 25 日)
②
三澤真美恵『帝国と祖国のはざま』
(岩波書店,2010 年 8 月)合評会(2010 年 11 月 24 日)
③
申鉉準氏(韓国・聖公会大学)講演「韓国流行音楽の起源 1960−1975:アジアの相互比
較研究に向けて」
(2010 年 11 月 26 日)
④
国際シンポジウム「20 世紀東アジアにおける視聴覚メディア相互連関」
(2010 年 12 月 10
日,科研費(基盤 B)
「20 世紀東アジアにおける視聴覚メディア相互連関」2008−2010 年
度,研究代表者:三澤真美恵による共催)
⑤
国際ワークショップ「行為体・媒介・移動」
(2011 年 2 月 27 日,東アジア文学文化研究会,
科研費スタート支援「帝国日本における出版市場の再編と合法・非合法商品の資本化に
関する研究」2010−2011 年度,研究代表者:高栄蘭による共催)
。
3. 個別研究
①「巴金の山川均批判」
山 口 守
巴金の山川均宛公開書簡を取り上げる前に,まず通州事件を簡単に概観しておいた方がよ
いだろう。盧溝橋事件から 3 週間経った 1937 年 7 月 29 日,日本の傀儡政権である「冀東防
共自治政府」所属の保安隊が日本の軍隊・特務機関・警察の各施設及び旅館を襲撃して,日
本人・朝鮮人に二百名を超える死者を出したとされる。事件後,日本国内の新聞報道は,当
初の戦況報道めいた見出しからすぐに扇情的なものへと変わり,
『東京朝日新聞』を例にと
れば,
「通州邦人の安否憂慮」
(7 月 31 日)
,
「通州の我が守備隊,邦人六〇名保護」・「一千
名の武装を解除」
(8 月 1 日)等から,数日後には「保安隊変じて鬼畜,罪なき同胞を殺害,
銃声杜絶え忽ち掠奪」(8 月 4 日)
,
「殲滅した敵は意外,鬼畜の保安隊」
・
「鬼畜 ! 臨月の腹を
蹴る」・「鬼畜の都,通州へ一番乗り」
(8 月 5 日)
,「この暴虐 ! 通州惨劇第一報」
(8 月 8 日)
等へと一挙に感情的な言葉の羅列へと変わっている。特に「鬼畜」という人間性全面否定の
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
229
形容を用いたことが,後で見る巴金反発の理由にも繋がっている。
この通州事件は盧溝橋事件直後に起きたことで,拡大した日中戦争初期の象徴的事件とも
なり,報道が新聞を超えて雑誌にまで広がっていった。例えば雑誌『改造』は盧溝橋事件後
の戦争拡大を受けて「日支事変と現下の日本」という特集を組んだ 9 月特大号を発行したが,
その中の「北支事変の感想」と題した欄に,
山川均は「支那軍の鬼畜性」なる短文を寄稿した。
同文で山川均は「新聞は 鬼畜に均しい という言葉を用いているが,
鬼畜以上という方が当っ
ている」との表現を用い,これに巴金が激しく反発して公開書簡を発表したのである。この
山川均の文章に対して戦後日本では,例えば判沢弘が,山川均の時局批判に関わる文章には
「山川の思想と性格とを熟知している読者ならば,山川流の反語と皮肉の底に冷徹な批判を
読み取るであろうが,素朴な読者は山川の意図を充分には汲みとる術を持たず」
,「支那軍の
鬼畜性」も「日支事変勃発直後の通州事件の報道に激昂する国民感情の風圧に真向から立向
かうことなく権力や時勢に妥協し,真顔で同調して見せつつ,いわねばならぬところはピシ
リと言ってのけている」
(『転向』中巻,
思想の科学研究会,
1960)と独特の抵抗の表現があっ
たと解釈する。日本の中国侵略,とりわけ盧溝橋事件直後に発生した通州事件に関して,た
とえ死者の多くが日本人だったとしても,社会主義者山川均が中国人兵士の反乱行為を「鬼
畜以上」と考えるはずがなく,そこには検閲や弾圧を予想した巧妙な言語的抵抗が隠されて
いたと捉える意図がそこに窺える。山川均自身が当時社会民衆党など左翼が雪崩打つように
ファシズムに呑み込まれていったことを戦後批判して
「民族感情とか国民感情というものが,
外でもりあがってきたばかりでなく,彼ら自身の頭の中でも強まってきた。つまりプロレタ
リア的な国家観念にブルジョア国家観念がうち勝った,知らずしらずのうちにブルジョア国
家のイデオロギーに支配されるようになっていた」
(
『山川均自伝』岩波書店,1961)と回想
しているように,国家主義・帝国主義に取り込まれていく人々と一線を画して,山川均はし
たたかに抵抗したという印象がそれらの評者にあるのだろう。事実,
「支那軍の鬼畜性」発
表数ヵ月後の 1937 年 12 月,山川均は「人民戦線事件」で逮捕され,その後は敗戦まで断筆
していることが,そうした印象をより強めているに違いない。
仮に「支那軍の鬼畜性」において山川均が「しなやか」な抵抗を見せていたと解釈するな
らば,同時代の他の社会主義者との比較において,それは本当に抵抗と認定するに足る言語
表現だったのかを検証して見なければならない。
『改造』1937 年 9 月特大号は発売禁止処分
を受けたが,
「北支事変の感想」に寄稿した 13 人のうちで,中野重治は「
「北支事変」は恐
らく二つの問題を持つであらう。第一はそれが何であるかの問題である。第二はそれがどう
なるかの問題である」と冷静に書き出しながら,
「単純に見られた中国の武力は,日本のそ
れに現在劣ってゐるであらうか ? たしかに劣っているであらう。何時までそれは劣つてゐる
まゝに止まるであらうか」と,意図的に「支那」ではなく「中国」という国名を使用しなが
ら,戦争への警鐘を鳴らしている。また向坂逸郎は「興奮状態といへば,新聞紙上に現はれ
る二三文士の興奮した様子は余り見よくない。国に重大なる事件があればあるほど,日頃高
230
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
級なる知識人をもつて任じてゐる人々のことだから,冷静なる態度を持すべきではあるまい
か。すぐに批判力を失つて血が頭に来るなどといふのは,社会の発展を背負う筈の知識人と
してはづべきことではないかと思ふ。目の前に生起してゐる事柄には誰でも注意してゐる。
知識人はその後に来るものに深い平静な考察をひそめなければならぬのではあるまいか」
と,
巴金の山川均批判にも通じるような知識人批判を展開している。少なくとも,抵抗と言うな
らば,中野重治や向坂逸郎の言語的抵抗は「素朴な読者」にも充分意図を汲み取れるもので
あり,山川均の文章のように,彼を「知らない」人の自由な解釈を拒否するようなところは
ない。
巴金が発表した「山川均先生へ」と題した公開書簡は,自らが発行人となった『烽火』第
4 期,5 期に連載したものである。発表当時の 1937 年 9 月∼ 10 月は,上海にまで拡大した
戦火によって,巴金の周囲でも多くの犠牲が出ていた時期である。日本の軍事侵攻による上
海での戦火は 8 月 13 日に始まるが,自らが編集執筆する雑誌『吶喊』
(後の『烽火』
)創刊
号で,巴金は当時上海で目にした戦争被害を克明に描写している。つまり巴金にとって戦争
や死は眼前に存在しているものであり,自分がいつ死者となるかもしれない恐怖の中を生き
ていたのである。山川均宛の公開書簡の中でも,9 月 8 日に上海郊外の松江駅が爆撃されて,
戦火から逃れようとした多くの避難民に死者が出た惨劇を告発しながら,その事実をどう受
け止めるかについて,巴金は「このような冷静な殺戮について,あなたはどう説明しますか。
そこにはもっと重大な鬼畜性や残虐性が見られませんか」
(
「山川均先生へ」
)と迫っている。
もちろんこうした言葉の中には山川均の文章への対抗的な表現はあるが,山川均と決定的に
違っているのは,巴金は戦火と死の恐怖の渦中にあり,山川均は権力の監視や妨害に晒され
ながらも,巴金たちに死の恐怖を与えている帝国の側に身を置き,しかも日常的な死の危険
に瀕しているわけではないという点である。
またこうした戦争拡大局面にあっても,実は巴金は日本の良心ある人々への期待を捨てる
ことはなかった。上海事変勃発直後,巴金は「日本の軍閥,政治家,浪人の失敗や日本帝国
主義の崩壊は,まさに日本の民衆が幸福を得る第一歩である。だからこそ,我々の勝利はひ
たすら日本の民衆を利する。日本の民衆は敵をはっきり見定め,中国の兄弟に刃を向けるべ
きではなく,国内の敵を攻撃すべきである」
(
「應該認清敵人」『吶喊』第 2 期,1937 年 8 月
29 日)と,日本民衆への呼びかけを書いている。中国語で書く以上,それが日本の民衆に
そのまま届くと巴金が考えているはずがない。基本的にはまずこれを読む中国国内の人々に
向けて自分の戦争への立場を表明しているのであり,次に中国語を解する日本の誰かの手で
日本の民衆へ間接的にこの声が届くことを期待していると考えるべきだろう。この点を見れ
ば,日本国内の特殊な文脈や解読方法でしか成立しない言説を展開するより遥かに多元的な
表現行為である。もっと言えば,
山川均の「支那軍の鬼畜性」にはこのような越境性はない。
戦火のさなかにあって巴金の主張は非常にはっきりしている。戦争は日本の帝国主義勢力
を利するだけで,民衆の抑圧からの解放には繋がらず,日本の労働者農民は中国への軍事侵
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
231
略に加担すべきではなく,日本国内の敵と戦うべきだというもので,しかもそうした努力を
続けている良心的な人々が日本国内に存在するはずだという期待がそこにある。巴金日本滞
在中のエッセイ集『点滴』
(1935)に見られる厳しい近代日本批判が,アナキズムを通じて
形成された日本への関心が侵略という形で裏切られて跳ね返ってくることへの怒りと悲しみ
が宿っているように読めること,また日本滞在時の知人武田武雄への公開書簡が一方的に糾
弾するだけのものでなく,むしろ悲しい運命に至らないために努力をすることを呼びかけた
ものであり,そこには日本の侵略行為を支えるのが,政治家や軍人だけでなく,ごく一般の
日本人であることを見つめる冷徹な眼差しがあったこと,そうした経緯と相通じる視点が当
時の巴金の言論には見られる。それゆえ,こうした期待感が社会主義者である山川均に対し
てより強かったとしても自然であったと言えよう。
山川均への公開書簡で巴金は「先生,私は自分たちが鬼畜以上であるとか以下であるとか
を弁明しようとは思いません。私たちは共に人類の一員です。身体内外の組織も同じです。
同じように理性を持ち,同じように教育を受け,同じように自由を必要とし,同じように生
存を必要としています。人間だとか畜生だとか,どう呼ぼうと,本質においてはっきり同じ
です。だから私は今,あなたを自分と同じひとりの人間と考え,あなたの理性に訴えたいと
思います」,「私は偏狭な民族主義者ではありません。民族間の憎しみを煽ったり,むやみや
たらとわが方の軍人のいかなる行動も弁解するつもりはありません。
あなた方のところでは,
多くの論客が日がな一日大和民族の黄金時代を夢見て,
「皇軍」が堂々と世界を征服するこ
とを大げさに妄想しています。我が方では,四億五千万人がささやかな目標を持っているに
すぎません。私たちは自分の自由を勝ち取り,生存を維持しようとしています。誰でもこう
した最低限の要求を持っているはずではありませんか」と呼びかけているが,
巴金の主旨は,
通州事件の事実関係を争うものではなく,殺害という普遍的に不幸な事態をどのように解釈
するかという立場の議論である。戦争によって避けがたく起こった不幸な事件の原因がどこ
にあり,誰がそれに責任を負うべきかを問うている。戦争が必然的にもたらす無辜の民衆へ
の甚大な不幸を現実として,また歴史として認めたうえで,巴金はそうした行為の原因と見
解を山川均に問いかけているのである。
そこでは言語的抵抗という表現行為の問題は関係がない。問題は山川均の文章に対する解
釈の妥当性議論ではなく,日本国内の限定された文脈で表現行為を行い,読者にその効果を
期待する閉鎖的な山川均の言説と,国境を越えて別の社会で読まれることを想定するほど開
放的な巴金の言説が,果たして対話可能かどうかである。仮に解釈をめぐる相違があったと
しても,その相違を認識する対話があれば,相違は次の議論へ発展する。だが巴金が山川均
に公開書簡を書いても,
その当時山川均からの反論または弁明はなかった。また戦後長い間,
山川均のこの文章はほぼ取り上げられることがなかった。その事実が,残念なことに,対話
の長期的不可能性に現実感を与えている。
232
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
②「大逆事件の時代と文学の成型――二つの「耽溺」評価をめぐって」
金 子 明 雄
1 はじめに
いわゆる「大逆事件」が起きた一九一〇(明治四三)年は,大正期以降に日本近代文学
の中心となって活躍する数多くの文学者を輩出した『白樺』
『三田文学』
『新思潮』
(第二次)
の三誌が創刊された年であり,日露戦後の自然主義文学の隆盛によって社会 = 文化的地位を
確立した近代文学が,多様な展開の萌芽を示した時期とされる。本研究の目的は,アナーキ
ズムの主張やそれに対する批判などを含めた,当時のジャーナリズムに流通する言説全般の
構造に対して,文芸ジャーナリズムの側から補助線を引くことにある。
具体的には,一九〇九(明治四二)年一月に小栗風葉が『中央公論』に,二月に岩野泡鳴
が『新小説』に,相次いで同じタイトルの小説「耽溺」を発表し,恰好の比較の材料となっ
たこと。その一方で,二月の『中央公論』に風葉の妻小栗籌子(加藤籌子)が,耽溺生活を
おくる夫の留守宅の困窮を描いた「留守居」を発表し,文士の家庭生活を暴露する作品内容
と,前月号の「耽溺」の末尾に「留守居」の広告文を掲載するという際どい出版戦略が物議
を醸したことに着目し,この当時の文芸ジャーナリズムにおいて小説評価の枠組がどのよう
に構成されていたかを分析し,文学作品をめぐる批評言説の様態が,文芸ジャーナリズムひ
いてはジャーナリズム全体の動向にどのようにフィードバックされるかを考える。
2 二つの「耽溺」評価
「耽溺」発表以前,創作の量やそれらへの注目の度合いから見て,小栗風葉は創作界の中
心人物の一人であり,自然主義つまり新しい創作潮流の作家として位置づけられていた。表
現技巧が評価される一方で,作家としての態度の遊戯性,時代の思想に追随する模倣的な振
舞い,表現すべき自己の不在など,
作家本人の内面性が批評の対象となる場合が多かった。
「耽
溺」への直接の批評では,主人公(あるいは作者)の思想内容(耽溺)の浅さ,それを作品
にする際の作者の反省・客観の欠如に批判が集中しており,描かれる思想と描く態度の両面
で批判がなされた。
その一方で,それまで小説家としての評価が高いとは言えない状況にあった岩野泡鳴の
「耽
溺」に関しては,風葉「耽溺」との比較において相対的に高く評価される場合が多いものの,
具体的な評価の中心は明確ではない。しいてまとめれば,描かれている人物の実感が表現さ
れている点や,描く態度が真面目である点となるが,表現技巧の不足,観照的態度の不足は
批判されており,泡鳴の主張(主客合一)に対応する,描かれている内容と描く態度を接合
する新しい批評的観点が提示されているわけではない。
直接的な「耽溺」批評では分かりにくい泡鳴評価のタイプを,
もう少し時間の幅を長く取っ
て確認してみると次のようにまとめられる。まず,作者の創作態度に論点を定めて,その思
想・内省あるいは主観を評価するタイプがある。しかし,主客合致の泡鳴の主張から見ても,
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
233
この点への評価を維持するにははじめから無理がある。第二に,描かれた作者に論点を定め
た観点で,その実感・主観の生々しさ,率直さを評価しようとするタイプがある。この場合,
描く作者・描かれた作者の区別はしばしば曖昧になる傾向がある。第三に,評価と呼んでは
おかしいが,描かれている出来事すなわち事実へ着目した,いわば楽屋落情報への興味を示
すものがある。当然,作品が「日記」のようなものであることへの嫌悪も含めて,小説とし
ての評価は否定的になる場合が多い。最後に,作者レベルにせよ登場人物レベルにせよ,そ
の内面性の質には批判的でありながら,その真率さの強度や,そこから受ける好印象を評価
するものがある。若干奇妙な批評となるが,批判的対象でありながら,なんとなく好印象を
感じているという言説が構成される。
「耽溺」以降の泡鳴評価においては,これらのいくつ
かのタイプの批評言説が,はっきりしたヘゲモニー関係を示さずに共存することに特徴が見
出せる。
3 批評の文脈としての「芸術と実行」論争
「耽溺」以降の泡鳴評価のバラエティの意味を理解するには,一九〇八(明治四一)年頃
から展開された自然主義をめぐる「芸術と実行」論争が参考になる。
この時期,「文学」の成型を要求する基盤として,芸術としての文学の自律化の要求,検
閲問題とかかわる文学の一般道徳からの卓越化の要求(それは文学の経済的自律,道徳的卓
越を制度化する機関としての文芸院問題とかかわる),また検閲にまつわる道徳的追及やス
キャンダルからの解放とかかわる芸術的創作活動の日常生活からの卓越,芸術的創作内容の
素材(モデル)からの卓越の要求などがあり,これらの「至高の地点」
(中山昭彦)を求め
る複数の動きが輻輳的に作用することで,
「文学」領域を画定する分割線が設定される。
そのような議論は,直接的に以下のようなかたちで小説批評の枠組とかかわる。
例えば田山花袋は,
描く作者と描かれる作者自身という関係性を前提にして,
描く態度(す
なわち観照・客観・自己批評の姿勢)に前者の卓越性を確保しようとする。このラインは経
験に対する文芸の卓越を主張し,懺悔・愚痴としての創作を否定することになる。「描かれ
ているのは私であるが,同時に私ではない」という同趣旨の主張を正宗白鳥も行っている。
ただし,注意したいのは,そのような立場が直接的な仮想敵としているのは,登場人物 = 作
者として事実そのものを穿鑿する楽屋落小説の読解コードである点である。
その一方で,描く行為(文芸)と他の実際的な行為(経験)の一元化を望む文芸上の直接行
動主義,行動原理としての自然主義の広がりがある。その点は島村抱月も認めており,批評の
側に自らの立場を批評の本流として保持しつつ,そのような傾向を理論化する必要が生じてい
る。ところが,片上天弦が,描く / 描かれるという主客の関係性の描かれる側(経験レベル)
に「観照」的態度を求めたり,長谷川天渓が,描く自己をさらに「静観」するメタ意識を求め
たりすることからもわかるように,そこには明らかな理論的混乱が生じているのである。
石川啄木は,そのような事態の帰結を面白い表現で指摘している。
「安価といふ言葉が流
234
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
行して来た」
(「評論」『スバル』明治四三年一月)というのである。
「安価なる告白」「安価
なる理想」とは,結果的に,実効的なレベルで機能する統一的な批評尺度が不在化し,描く
行為のレベルにおいても,描かれる対象のレベルにおいても,あるいはその合一のレベルに
おいても,その質的内容ではなく,その強度を問題にするしかなくなっている事態を露呈し
ている。それは先に分析した泡鳴評価の多様化や最後に挙げた批評タイプの登場という現象
と符合している。
4 楽屋落コードの命脈
そのような批評枠組のあり方とその帰結を,少し別の角度から見てみよう。
「耽溺」の前後の時期,
小栗籌子はさほど活発とはいえないが着実な創作活動を行っており,
その評価も決して悪くはなかった。もちろん,男性作家に関係する女性は,たとえ自立した
書き手であっても男性作家の家庭の枠の中で見られる傾向は顕著であったし,小説が作家の
家庭の事実をそのまま描いているという楽屋落小説的解釈コードに従う場合も多かった。そ
もそも風葉「耽溺」の場合,
はじめから楽屋情報をセットする目的と思われる文章が見られ,
それらを参照しつつ作品を批評するコードすら成立していたので,
「留守居」が「耽溺」の
楽屋落情報の決定版として否定的な評価の対象になるのは当然であり,「留守居」を筆頭に
した楽屋落情報の存在が,
「耽溺」そのものを事実そのままの楽屋小説と見なさせる方向に
作用したことも確かであろう。
当時の女性に対する差別的な認識からすれば,創作態度と登場人物の両面における思想や
実感の程度や,主客合一の強度を要求する批評において,女性作家がその基準で高く評価さ
れるのは大変困難であることは容易に推測できる。また,事実を模倣する,事実をそのまま
書く能力だけを認められるとするならば,楽屋落小説の書き手としてしか期待されないとい
う構造的劣性に閉じこめられることも明らかである。
「留守居」以後の小栗籌子の創作は,
大局的には,この時期の閨秀作家が入り込んだ隘路にはまりこんでいるように思われる。
しかし,そのような批評環境の中で興味深い傾向も見られる。
その一つは,単に事実をそのまま描いただけという批判が通用する一方で,楽屋落的読解
の意味が重みを得ていく現象である。楽屋落的面白さを文学的評価に直結させる批評が出現
する一方で,木下杢太郎(
「二月の小説」
『スバル』明治四二年三月)のように,事実そのま
まの「主婦の日記」を批判しつつ,実は,読者がそれを素材にして自分で小説を書く面白さ
を語ってしまう場合もある。そこでは,抱月の芸術的観照の論理が,楽屋落情報を読む面白
さとして「非高級文学読者」に横領されているのである。
また,作品を通して直接的に書き手その人の姿やその境遇を思い浮かべてしまう読解は,
逆説的に,小説を事実そのままの日記のようなものとして読む楽屋落的読解を媒介にして,
読者が「手記」や「日記」の理想的な受け手として自らを主体化する状況を示している。こ
れらの読者は,きわめてコミュニケーション指向的に,作品の普遍的な価値を受けとめるの
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
235
ではなく,私だけに受けとめることのできる表現に内在する個別的な意味を実感的に受け
取っているのである。ここでも,抱月の高級読者と普通読者を区別することによって芸術と
しての文学を卓越化する論理が,その小説を実感的に理解していると信じる特定の読者とそ
の価値を理解できない読者を区別する論理として横領されているのである。その状況を,文
芸ジャーナリズム全体に反転させたところに,「無駄話」のジャンル的自立とその専門的書
き手の浮上という現象が見出せるのではないか。つまり,
当時流行したとされる
「無駄話」
(生
方敏郎「無駄話を論ず」
『読売新聞』明治四二年五月二日)は,
芸術化し,
同時に男性ジェンダー
化した「楽屋落小説」として流行していることになろう。ここでは既に,自然主義小説に楽
屋落的情報提供する文筆活動が,
それ自体として自立し始めていることが見られるのである。
自然主義文学の出現時に,スキャンダルやゴシップの回路から小説の可読性を支えた作家の
実生活情報や創作裏話は,明治末から大正初期にかけて,小説の可読性の構造そのものを微
妙に変容させながら,文学的コミュニケーションそのもののあり方に変化をもたらしている
のである。
③「伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』の猥褻裁判とその背景」
紅 野 謙 介
文芸評論家の中村光夫は 1951 年 5 月の記事
1)
のなかでこう書いていた。
「チャタレイ夫人の恋人」の裁判について考える場合,まず忘れてならないことは,ぼ
くらがわずか六年前まで,世界に類の少い過酷な検閲制度の下に生きていたということ
です。西鶴のような古典ですら伏字なしには刊行を許されず削除のない翻訳小説はむし
ろ例外であり,映画のセップンの場面さえ,すべてカットされたのは,決して昔ばなし
とは言えない近い過去の事実なのです。
こうした「過酷な検閲制度」を動かしていたのは「内務省か警視庁の小吏の勝手な裁量」
であり,それに文学者も芸術家も抗議できない「封建主義」が生きていたと,中村は書いて
いる。中村光夫は,戦後日本の再出発に際して冷静さを保ち,アメリカ軍の占領という事態
にも批評的なまなざしを注いでいた批評家である。その中村にしてこの発言があった。しか
し,出版法が廃止された時期を考慮してみれば,この「六年前」という時間のとらえ方は必
ずしも正しくない。
「過酷な検閲制度」を支えた出版法の廃止は敗戦後,4 年をへた 1949 年
のことである。少なくともチャタレイ摘発事件の 1 年前まで法律は存在した。しかし,廃止
はされていなかったが,実質的に出版法は機能不全に陥っていた。その代わりに機能したの
が,GHQ/SCAP による占領下の検閲制度である。検閲している痕跡を消すことを目指した
占領軍の検閲がいかに機能したかは,近年深く追究されているところである。憲法も出版法
とも異なる超法規的措置が占領下では作動していた。しかし,GHQ/SCAP は,1948 年頃か
ら次第に占領軍による事前検閲から新聞や出版社による自己検閲へ政策転換を進める。占領
の終結,日本の独立国家としての機能回復に向けて,新たな法制度の必要が生じていた。
236
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
たとえば,新たな政治規制の政令として 1949 年 4 月に制定されたのが「団体等規制令」
である。1946 年に制定された「政党,協会その他の団体の結成の禁止等に関する件」
(勅令
第 101 号)が GHQ の政策に反対する団体,旧日本軍関係者,右翼団体などを取り締まる法
律であったのに対して,これを改編した「団体等規制令」では「暗殺その他の暴力主義的企
画によつて政策を変更し,又は暴力主義的方法を是認するような傾向を助長し,若しくは正
当化する」団体を取締りの対象に含めた。これによって左翼団体や外国人団体,在日朝鮮人
連盟,在日朝鮮民主青年連盟なども解散処分を受けた。さらに,このポツダム命令は,占領
から脱した 1952 年には「破壊活動防止法」へと改編されることになる。
出版法の廃止と前後することになるが,
刑法第 175 条自体の制定は,
1907 年 4 月。条文は
「猥
褻ノ文書,図画其他ノ物ヲ頒布若クハ販売シ又ハ公然之ヲ陳列シタル者ハ五百円以下ノ罰金
又ハ科料ニ処ス販売ノ目的ヲ以テ之ヲ所持シタル者亦同シ」となっていた。これが改定され
るのが,1947 年 10 月。条文は猥褻ノ文書,図画其他ノ物ヲ頒布若クハ販売シ又ハ公然之ヲ
陳列シタル者ハ二年以下ノ懲役又ハ五千円以下ノ罰金若クハ科料ニ処ス販売ノ目的ヲ以テ之
ヲ所持シタル者亦同シ」と改められ,刑が重くなった。さらに 1948 年 12 月には「罰金等臨
時措置法」により,罰金が 50 倍に引き上げられた。いわゆるカストリ雑誌の流行や戦後の
性風俗の変化に対応して,刑法第 175 条を前景化する施策が整えられていったのである。
もちろん,実際の出来事はそのとおり単純には進まない。1949 年 5 月に刊行された石坂
洋次郎の『石中先生行状記』
(新潮社)が警視庁によって猥褻文書として押収された。しかし,
日本著作家組合の抗議や新聞世論の声を見ながら警視庁はこれを撤回した。さらに 1950 年
1 月にはノーマン・メイラーの翻訳『裸者と死者』
(山西英一訳,改造社)がふたたび猥褻
文書として発売頒布禁止の処分が出たが,GHQ からの抗議があり,すぐに警視庁は発禁を
取り消した。錯綜する力関係のなかで揺れと試行錯誤がつづいていたのである。チャタレイ
事件のときに,小山書店らが勝てると踏んだのも,こうした警視庁の失態を見てであろう。
警視庁としてはアメリカではまだ無削除版が出ていないなかで(出ていたのはフランスとイ
タリア),確実に汚名を挽回しようとしたと推測される。
1950 年 6 月には朝鮮戦争が勃発する。占領期から独立国家へと日本はその政治的主権を
回復していくようになるが,占領軍による事前検閲から日本政府による団体等規制令と刑法
第 175 条による新たな統制は,ジグザグなコースを歩みながらもマスメディア各社による自
己検閲と連動しながら,戦後的な検閲体制を用意していったのである。
一方,摘発された『チャタレイ夫人の恋人』の版元・小山書店の内実はどのようなもので
あったか。
小山書店の関係者に江崎誠致という作家がいる。1957 年に戦争小説「ルソンの谷間」で
直木賞を受賞した作家であるが,その江崎は戦争中に小山書店に入社。出征,復員をへて,
戦後ふたたび小山書店に復職。編集者として活躍したが,1949 年に退社。新たに冬芽書房
を創業し,1952 年頃まで出版業をつづけた。この冬芽書房は日本共産党の党分裂時代に臨
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
237
時中央執行部の意向を受けて,
『人民文学』の創刊を支援し,
江馬修らの著作を刊行するなど,
共産党を中心とする政治運動に深くコミットした出版社であった。江崎の回想によれば,さ
らに党活動資金を捻出する「特殊財政部隊」の役割もあったという。とすれば,独立前に在
籍した小山書店の社内がどのような状態にあったかも想像されよう。
さらに『チャタレイ夫人の恋人』の刊行において,きわめて奇妙なアンケートが初版には
付されていたのである。主旨説明にはまず次のように書かれていた。
このたび小社は「チャタレイ夫人の恋人」を刊行いたしましたが,この作品は発表にあ
たり,全世界の物議をかもしたものであります。もちろんわが国では最初の完訳であり
ますから,いろいろの論議が行われると思います。われわれは,この作品につき次のよ
うな読書調査を行い,社会学・心理学の貴重な資料といたしたく考えております。御多
用中恐縮ですが,この調査を意義あらしめるために,ぜひとも読者みなさんの御協力を
得たいと存じます。
そして,具体的なアンケートの質問は以下のようになっていた。
一 . チャタレイ夫人のような結婚の場合には,次のどの方法が適当であると思いますか?
1 そのまま結婚を続ける 2 他に愛人をつくる 3 離婚する
二,恋愛は精神的なものだけで成り立つと思いますか ?
1
成り立たない 2 成り立つ 3 成り立たせたい
三,本書中の性行為の描写をどう感じましたか ?
1 美しい 2 いやらしい 3 ワイセツ
四,あなたは,本書を読みながら性的興奮を
1 感じた 2 感じなかつた
五,あなたがもし検閲官だつたら,本書を
1 発禁にする 2 一部分削除する 3 そのまま出版させる
六,その他の読後感(この項の記入は各人の自由)
亀井秀雄はこのアンケートに注目し,
「一読して分るように,問一と問二は(若くして夫
が性的に不能になった場合の)結婚生活についての問いかけだが,問三は,この作品が性行
為の描写に注目すべき特徴をもっていることを示唆し,問四は性的興奮の有無を問いかけて
いる。これは,
「性行為の描写」に読者の興味を喚起し,期待を抱かせるレトリックではな
いか。しかも問五によれば,その描写によって惹き起こされる「性的興奮」の度合いは,
「発
禁」や「削除」を想定させるほど強烈なものであるらしい。/ そういうアンケートを挟んだ
こと自体,出版者がこの作品を猥褻性の高い小説と自覚していた証拠だろう。検察側はそう
指摘し,裁判における争点の一つとなった」と記している 2)。また,
「調査目標もはっきり
しないまま,ただ思いつきを列挙しただけのいい加減なもの」とした上で,裁判の過程でア
ンケートを作成した民主主義科学者協会の城戸浩太郎(当時,東京大学大学院生)の証言を
紹介している。
238
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
実際にこのアンケート作成に関わったのは,心理学者の南博,望月衛,城戸浩太郎たちで,
戦後,人文・社会・自然科学の学者たちを横断的に結集した日本共産党と密接な関聨のあっ
た団体・民主主義科学協会
(略称・民科)
が背後にあった。小山書店は作成に関与していなかっ
たばかりでなく,第 2 巻刊行直前に持ち込まれたと小山久二郎は回想している 3)。城戸は「協
会として,現代の日本人の性意識を調査したい」と言い,
「協会全体の願い」だと主張し,
「文
部省から五万円醵出して貰う内約まで取りつけてある」と語ったという。小山社長はこのア
ンケートの内容に「多少ひるむような気持」になったが,研究の進展をたてにとった強い申
し出に押されて,突貫作業で 2 巻に挟み込んだ。訳者の伊藤整もまた『裁判』のなかで「本
書に対する悪評が新聞紙上に現われたのはこのアンケートをきっかけにしてであった」
,
「若
し検察当局が新聞記事をきっかけにして起訴を決定したのであれば,この起訴の最初の動機
となったものである」とした上で,
事前に「このアンケートのことは全く知らなかった」
「訳
,
者として言えば,勿論それは一応前もって出版社なり企画者なりから私に話があって然るべ
きものであった」とコメントしている。
これは出版慣習からして驚くべき事態である。少なくとも民間出版社がアカデミズムの一
団体からのアンケート申し出を安易に受け入れ,訳者にも知らせていない。なぜ,このよう
なことが起きたのか。南博(1914 ∼ 2001)は京都大学哲学科卒,戦時中にコーネル大学で
博士号を取得し,戦後,思想の科学研究会にも関与し,多くの社会心理学の業績をあげたい
わゆる「進歩的」な学者である。1950 年には一橋大学助教授となっていた。望月衛(1910 −
93)
は,東大心理学卒。
陸軍で航空心理学の業務ののち,
戦後は映画会社の東宝で,
「企画やセー
ルスにしたがった」4)という。1951 年に東洋大学教授となった。大学院生の城戸浩太郎(1927
− 57)は,戦前からの心理学者城戸幡太郎を父にもち,社会学・社会心理学者として将来を
嘱望されていた俊秀である。とりわけ父の城戸幡太郎は,小山書店にとって企画中の小中学
生向け『生活百科事典』の編集責任者に委嘱していた学者であった。
彼らは戦後の新しいアカデミズムの流れのなかで,
勇み足を踏んだと言えようか。しかし,
いかに優秀な若手学者たちであったとして,アンケートのずさんさは否めない。ましてそれ
が民科を背後にもつがゆえに,予想以上の大きな力となり,かつ加えて組合活動家や共産党
関係者を社員に擁していた小山書店に拒否する力はなかった。強引に押し切られるかたちと
なったアンケートに警視庁・検察が挑発を看取したのも無理はない。
芸術か猥褻かという二元論の背景にあったのはこうした力学である。猥褻という問題の立
て方が矮小なように,ここに働く政治の力も矮小である。しかし,矮小な要因が積み重なっ
て事件は大きくなり,イデオロギーをめぐる対立が露呈していったのである。
注
1) 中村「
『検閲制度』の亡霊」
(『朝日新聞』1951.5.9)
2) 亀井「チャタレイ裁判と検閲の影」2005.08
http://homepage2.nifty.com/k−sekirei/otaru/chatterley.html
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
239
3) 小山久二郎『ひとつの時代 小山書店私史』
(六興出版、1982.12)
4) 望月衛『欲望 その底にうごめく心理』裏表紙のプロフィール(光文社、1955.02)
④「植民地期台湾における映画統制強化の諸相(1930 年代半ば∼ 1945 年)
」
三 澤 真美恵
映画やラジオなどの視聴覚メディアは,言語や風俗習慣を異にする台湾人を統治しようと
する植民地行政にとって有効なプロパガンダのツールと捉えていた。日本による台湾の植民
地統治においても,統治初期から宣撫活動や通俗活動の一環として幻灯や映画が警察官や
教育者によって利用された。とはいえ,台湾人知識分子もまた,これらの視聴覚メディアを
世界一般の人々と同じ娯楽や文化を享受するためのツールとみなして,一九二〇年代以後は
総督府の映画上映活動に抵抗するような内実をもった独自の映画上映会を開催していた。だ
が,時に競合する多様な映画上映空間は,日本による中国への侵略戦争が本格化するに伴っ
て,配給会社や上映館の統合という強制的な市場の一元化が進むなか,次第に閉ざされてい
くことになった。以下では,一九三〇年代半ば以後に,植民地台湾の映画統制がどのように
強化されていったのかを概観したい。
1 情報統制機関の設置
日本の中国への侵略は「満州事変」後いよいよ露骨になり,一九三七年盧溝橋事件を契機
として全面戦争の状態に至る。国家の総力を動員する総力戦下,植民地台湾において異民族
たる台湾人を戦争に動員するために展開されたのが「皇民化」運動(「寺廟整理」,改姓名,
日本語使用などを通じた「同化政策の徹底」
)であった。近藤正己は皇民化を,植民地から
「人力」「人命」を吸い上げるための「人心」の動員システムと捉えている(近藤正己『総力
戦と台湾――日本植民地崩壊の研究』東京:刀水書房,一九九六年,一四一頁)
。
こうした状況下,植民地期台湾における情報統制を組織の面からみるならば,最もドラス
ティックな動きは,盧溝橋事件直後の一九三七年七月一五日,台湾総督府内に「事変解決ま
で島内の新聞,ラヂオ,映画其の他の言論機関は勿論地方庁ならびに一般地方民に対して
統制連絡の徹底を図ることを目的」
(
「臨時情報委員会 総督府内に一五日から設置」
『大阪
毎日新聞台湾版』一九三七年七月一六日付)として「臨時情報委員会」が設置されたこと
である(同委員会は時局の緊迫によって同年八月二四日「臨時情報部」に独立し,その後
一九四二年一月二三日「情報課」および「情報委員会」という形で改組強化される)。台湾
人に対する情報統制を徹底するにあたって,あらためて問題になったのが植民者と被植民者
の間の使用言語の違いであった。それを象徴するのが,事件後間もない七月一六日から台北
放送局を通じて放送された「福建語(台湾語)」による時局ニュースに対する反応である。
放送開始翌日,同放送は「総督府,軍部の緊密な打合せの結果非常処分として対岸にいる在
留邦人特に台湾籍民に対し」情報を提供するための放送と説明されたにもかかわらず(
「福
240
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
建語で放送 JFAK の時局ニュース」
『大阪毎日新聞台湾版』一九三七年七月一八日付),新
聞の漢文欄すら廃止の時代に「台湾語放送」を行うことは「時代に逆行する」と台湾軍部お
よび民間から「強硬な反対論」が噴出している(
「台湾語放送に波紋 ! 時代逆行だと反対意
見猛烈」『大阪毎日新聞台湾版』一九三七年八月七日付)
。「台湾語放送」をめぐる紛糾には,
異言語の被殖民者に対する情報統制につきまとう矛盾が露呈している。結局,ラジオ放送に
おける台湾語ニュース番組は継続することになるのだが,
こうした統制の自己矛盾のなかで,
特に台湾人を対象として「 支那事変 解説」を目的とした「片仮名,
漫画入りの印刷物配布」
を行っていることなどは,台湾人の理解を考慮しつつ日本語を使用した情報宣伝策として考
案されたものといえる(
「本島人に判り易く 片仮名,漫画入りの印刷物配布 文教局 支
那事変 解説」
『大阪毎日新聞台湾版』一九三七年九月一九日付)
。
2 映画解説言語をめぐる矛盾
映画は,まさにこうした状況下で,識字技術や異言語の問題を解消する可能性をもった視
覚メディアとして効果を期待された。ニュース映画は当時「例外なしの超満員」であったが,
その影響力について総督府発行の『台湾時報』は「大衆にたいしては眼を通じて注入される
思想の影響力ほどに強烈なものはなく,国語が未だ常用化されていない本島農村などでは一
層明瞭であって,これほどに手っ取り早く,かつきわめて有効な教化方法は他にはない」
(原
保夫「時局とニュース映画」
『台湾時報』一九三七年一一月号)と認識している。
しかも,新聞や学校では禁じられた台湾語が,映画の巡回上映では観客の理解を深めるも
のとして許容されていたことは注目に値する。字幕については「映画を見たかったら,日本
語を覚えよ」(杉山静夫「台湾映画界瞥見」
『映画旬報』一九四三年一一月二一日)として漢
文字幕は許可されなかったし,一九三七年に新聞漢文欄の廃止や中文創作禁止,公学校の漢
文科廃止などに伴って映画の「解説者台湾語廃止」も唱えられた(
「解説者台湾語廃止」
『台
湾公論』一九三七年一二月五月号,二九頁)
。だが,
「国語普及が徹底的でない今日,台湾語
の解説も蓋し止むを得ない」
(
「社会教化と映画活用 本島人大衆に対する映画のもつ重大使
命」
『台湾芸術新報』一九三八年八月一日号,一頁)として,巡回上映における台湾語によ
る説明は事実上日本の敗戦後まで継続したのである。たとえば,一九四〇年五月に台北州で
設定された「部落民の慰安日」では,
台北州教化映画協会の活躍が期待され,
その際「 忠臣蔵
や 楠公父子 その他の時代物は上映直前に台湾語の解説をするといった考慮」がはらわれ
ている(「部落民の慰安日 期待される教化映画の活動 農村の活動力を培う」
『大阪朝日新
聞台湾版』一九四〇年五月一五日)
。この点,実際に台湾語の解説を行っていた陳勇陞氏の
発言は非常に示唆的である。
「日本人の映画館は,台南の延平戯院や高雄の金鶏館などのロードショー(一番館)
。そう
いうところは日本人ばかり。台湾人はほとんどいなかった。日本語教育の影響の強い台湾人
くらい。しかし,台湾人の多い二番館,
三番館では,
かならず弁士がいた。市内の映画館でも,
「東アジアにおける戦時・戦後プロパガンダ―マルチ・アーカイブを利用した「日本・中国・台湾・韓国」の比較研究」
241
弁士がいる場合には台湾語。日本人なら日本語字幕やトーキーがわかるから。一般の台湾人
は日本語なんてわからない。
「皇民化」が始まってからも,みんな生活で大変で,そんなに
日本語喋れる人はいなかった。それに台湾語を使うのは『日本の文化を伝えるため』で,そ
れが民衆にわからなくちゃ意味がないし。無理に日本語にしたら反感を持つだけだろう。だ
から,自分も終戦までずっと『台湾語弁士』
。新劇や改良劇の場合も「なるべく日本語」と
いうことで,強制はされなかった。なにしろ観客がわからなきゃ,
何の意味もないからね」
(国
家電影資料館資料組洪雅文・薛恵玲・王美齢による陳勇陞氏へのインタビュー。一九九八年
一二月一一−一二日,陳勇陞氏の自宅にて,筆者も同行)
。
台湾人の日本語理解率は一九三七年には三七 % だが[台湾教育会,一九三九:一〇五四]
,
この数字も現状とはかなりズレがあり,水増しされた可能性も指摘されている。台湾人の映
画受容において,台湾語による映画の説明がいかなる意味をもったかについては次節で検討
することとし,ここでは総督府が統制における自己矛盾に気づきながらも,映画のほか,演
劇やラジオ・ニュースなど,新聞や学校にアクセスしない層に向けたメディアには台湾語の
解説を許容していた事実を確認しておきたい。
3 映画配給・上映システムの一元化
その後,戦局が緊迫するなかで,地方への配給上映はますます重要と考えられ,
「どんな
田舎の部落でも月に二回は楽しい娯楽映画とためになる文化映画が観られるようにという目
標」
(「農村の隅々まで娯楽映画 台湾映画協会から巡回して贈る」『大阪朝日新聞台湾版』
一九四一年五月一〇日付)で一九四一年八月総督府情報課内に「臺灣映画協会」が設置され
た。同協会では,一九四三年以後「本島に対し供給される映画は,理想的には出来得る限り
本島の生活の中から取材され編輯されることが望ましい」(片岡純治「思想戦とその武器―
―言論・放送・映画・写真に就いて」
『台湾時報』一九四三年七月号,六八‐七五頁)とし
て,定期的な台湾ニュース映画『映画月報』の製作も行っている。さらに,対岸の中国大陸
や南洋についても,
「共栄会」が「地元住民の宣撫,日本軍兵士の慰安」のために映画館経
営や巡回上映を行っている(
『映画旬報』八四号,一九四三年六月一一日)
。なお,共栄会は
一九三八年日本軍が厦門を占拠した後,
「文化,経済工作を強化すると共に台湾と厦門とを
密接に結びつける強固な機関」を求める声によって,「台拓,台銀,台電,華南の各代表者
林龍祥,辜振甫,林熊徴,顔欽賢」らが発起人となり,
「総督府より加藤外事課長,木原調
査課長」出席の下で協議決定された組織という説(「厦門の復興工作へ 経済文化の強化 華僑に呼びかけて積極的に 乗り出す共栄会生る」
『大阪毎日新聞台湾版』一九三八年八月
二三日付),「総督府報道部の共栄会」
(
「映画「広東」七日から台北市で公開」
『大阪朝日新
聞』一九四〇年六月二日付)
,
「情報部が対南支・南洋方面の映画配給のため組織している共
栄会」(「農村の隅々まで娯楽映画 台湾映画協会から巡回して贈る」
『大阪朝日新聞台湾版』
一九四一年五月一〇日付)
と記述に食い違いがあるうえ,
「泰国陸軍武官室勤務共栄会映画班」
242
(『台湾時報』一九四〇年一一月号)という記述からは軍との関係も強いと考えられ,その性
格についてはさらに調査が必要である。ただし,以上の記述がいずれも総督府各部門との関
連に言及しており,
「一年の経費は百万円を越え,台湾総督府がその半分近くの補助金を出
しており,総務長官がその業務監督の責任をおっている」
(『映画旬報』八四号,一九四三年
六月一一日)との記述もあることから,実質的には総督府の組織経営によるものと推測され
る。
さらに,一九四二年総督府は民間の映画会社およびその他の娯楽興行会社を「台湾興行統
制会社」に統合した(
『台湾公論』一九四二年三月号,
二九頁)
。「台湾興行統制会社」は,
「臺
灣全島の興行物を一手に収めて統制配給」
(下田喜八「映画のこと」『台湾公論』一九四二年
五月,六〇∼六一頁)を行う,映画の配給・上映を含めた興行方面の一元的統制会社である。
同社設置の前段階として,それまでの外国映画を配給する会社は,一九三七年に設立された
「台湾映画配給株式会社」
(日本人系)
,
一九三九年一月に設立された「台湾映画株式会社」
(台
湾人系)に,それぞれ統合されていた。これによって,かつて総督府も統制しきれないほど
拡大多様化していた台湾映画市場は,総督府によって一元化されたといえる。料金について
も一九四〇年八月には警務局保安課の指導で封切物でも五〇銭にまで引き下げており,総督
府はすでに競合する勢力のなくなった市場に,
統制会社から「紅白」二つの配給網を通じて,
総督府にとっての「正の要素」を広める映画のみを流通させることができるようになったと
いえる。そこでは,本国から移入した国策映画,本国映画会社に協力して製作した台湾に関
する劇映画や記録映画,独自に製作した定期ニュース映画などが配給・上映され,台湾住民
が外国製の映画を見る機会は減少した。ここに,台湾の映画市場は完全な統制下に置かれる
ことになった。