路上で裸の胸

朝涼の眼鏡こぼちて庭青し 秋櫻子
『玄魚』
眼 鏡 を 壊 し て し ま っ た。 眼 鏡 を 掛 け て い れ ば 庭
の 木 々 の そ れ ぞ れ が は っ き り 分 か る。 竹 も 草 も 苔
も ま た し か り。 そ れ 無 し で 庭 を 眺 め る と 全 体 が 青
み が か っ て 見 え る。 そ の 濃 淡 で、 あ れ は 何、 こ れ
は? と 思 い な が ら す べ て が 青 く 見 え る と い う、 偶
然 と は い え「 平 常 で は な い 」 経 験 に 新 鮮 な 驚 き を
感 じ て 暫 く そ の 中 に 身 を 置 い て い る。「 涼 」 で あ
小野恵美子
る か ら 失 敗 は そ れ と し て 貴 重 な 一 齣 で あ ろ う。
羇
花
柚
子
心
を
に
沈
め
て
德田千鶴子
椀
坊
泊
女 生 徒 と 花 蜜 柑 の 香 積 む 渡 船
年
の
一
瞥
け
は
し
竜
舌
蘭
て ん と 虫 気 づ け ば 襟 に 峠 み ち
少
親 ご こ ろ て ふ 持 て 余 し 送 り 梅 雨
黒 南 風 や い つ し か 無 心 に 拾 ふ 貝
捨 つ る も の 数 へ て を り し 端 居 か な
清 夏
水原春郎
棄
風
て
や
切
稚
れ
に
ぬ
言
軍
葉
事
の
郵
生
便
れ
虫
出
干
で
す
目 覚 め で は 初 蟬 の 声 待 ち て 居 り
薫
今年の梅雨は例年と違い不安定である。青空がみるみる黒雲に覆われたと思うと、雷鳴
がして俄に降り出した雨が路上をたたきつける。然し場所によっては、少しも雨の降らな
い所もあるようだ。我が家のある杉並区は、予報通りによく降ってくれ、自然家に閉じこ
もって過さざるを得ない。
今月は千鶴子の誕生の時のことを書くことにする。千鶴子が生れた時「これで小児科医
の第一歩」と師に言われた。
昭和二十四年二月十八日、予定日より五日早く生れた。当時私は国分寺に住んでいて八
王子に住む父が診てくれ、康子は二度程、父が勤めていた宮内省病院に行った丈で、特に
何の心配もしなかった。今では考えられない呑気さだろう。
十七日夜私が病院から帰ると、少しお腹が痛いと言う。電話で父に聞くと、明朝八王子
へ来るようにとの答であった。まんじりともせず夜を明かすと、用意の荷物を持って朝一
番の電車に乗った。当時はタクシーに乗るなど出来ず、八王子の駅からも歩き、途中浅川
にかかる暁橋を渡る頃、漸く空が白みかかって、時々襲う痛みに立ち止まるのを励まし励
まし四十分ほどで家に着く。門が大きく開かれ、父母と離れに住む祖母とお手伝のシンさ
んが待っていてくれた。シンさんは神田の病院以来の看護婦さんで、産婆の免許を持って
いる。皆の顔を見ると私も康子も安心した。父が初産は夕方までかかると言うので、私は
慶應病院の勤めに行き、夕方帰宅しても未だ始まつていなかった。そして六時過ぎ二九八
〇瓦の元気な産声を聞くことが出来たのだった。
八 月 集
橋づくし
木
村
風
清
若
洲
ふ
橋
く
清
竹
正
の
井
切
口
涼
近
し
藤
清
正
暁
井
嗣 治 の 裸 婦 の 白 さ や 窓 若 葉
代
平仮名でてふてふと書き風光る
永
青
佃
目瞑りて明日を想へばひき蟇の声
る
の
砂 風 呂 や 胸 の あ た り に 夏 落 葉
来
歩
燕
一
力 抜 く こ と を 覚 え て 扇 風 機
歩
あぢさゐの白より生れて今日の色
一
全 身 で 物 言 ふ 嬰 や 若 葉 風
衣
し
更
代
前
隆
三
武家屋敷
大
森
三
保
白 々 と 珊 瑚 の 浜 や 海 び ら き
河
水 浴 び て 雀 も 衣 更 へ て を り
茅 花 流 し 捕 鯨 港 あ と 波 碧 く
田植定規
不細工にメロン切らるる野外草
茅花流し火山灰地の畑の黒々と
春
羽抜鶏抱きし温さの手にのこる
原
石 積 み の 高 き は 涼 し 武 家 屋 敷
野
風 鈴 の 軽 く 叩 か れ 買 は れ け り
凧
雨 あ が る 大 樹 に 巣 立 鳥 の 声
世
水跳ねて田植定規の位置きまる
出
次 々 に 雲 立 ち 昇 る お 花 畑
次
雷 雨 去 り 嫩 葉 ひ ろ ぐ る 牧 檞
母の日の来れば母恋ふ百寿かな
石
病 む 妻 へ 降 る 近 道 の さ く ら 蕊
肩 乗 り の 初 子 の 見 入 る 出 世 凧
澤
新 緑 の 夜 明 の 鳥 語 牧 に あ ふ れ
たてがみに菖蒲葺きあり草競馬
沼
十 勝 野 へ 太 陽 し づ む 麦 は 穂 に
田植終ふ手鏡ほどの小さき田も
麦は穂に
はまなすの海霧ぬれ咲けり岬の牧
子
醪
風 雪 集
蔟
の
繭
薄
々
鈴
と
木
柱
に
漱
も
春 星 に 被 曝 燈 台 点 り け り
上
山 吹 や 禰 宜 の 切 火 の 筆 供 養
大 粒 の 雨 の 斜 め に 夏 来 る
澤
厚
子の分も生きよ生きよとほととぎす
深
蕗の灰汁こぼし過不足なき日暮
簾
茅 葺 の 端 の ほ つ れ や 時 鳥
降り出でてけぶらふ玻璃や藤の花
美
こ き り こ や 都 忘 れ も 濃 紫
蟻地獄無邪気に過ぎし日の遠く
本
口 重 き 人 と 連 れ 立 つ 滝 の 前
風鈴や子に何時よりの聞き上手
松
樟 新 樹 手 負 ひ の 鳥 を 匿 へ る
宵 宮 や 多 目 に 使 ふ 煮 切 酒
良
城 内 へ ひ ら く 黒 門 夏 つ ば め
部
内 濠 の 静 け さ 余 花 の か く れ 径
渡
ガラス器の気泡ひとつぶ夏近し
女 体 め く 朝 の 安 達 太 良 夏 兆 す
み
坂 道 を 曲 る 下 駄 音 花 う つ ぎ
桐 咲 け り 父 よ 母 よ と 呟 け ば
ふ
著莪の花護摩木の文字の滲みけり
踏めば鳴る歳月の階みどりさす
藤
筒 鳥 や 堂 の 跡 て ふ 分 岐 点
青 梅 雨 や 鬱 の 除 染 土 庭 隅 に
伊
蚊 食 鳥 夜 も う づ く ま る 畝 傍 山
玉
子
子
馬 醉 木 集
德田千鶴子
選
水 原 春 郎
持 山 の 一 本 選 ぶ 初 幟
帰路は早植田となりてゐし故郷
七変化色をさらつて行く山雨
ゴンドラのぐらり眩む新樹光
堰下のしぶきの渦やつばくらめ
詣路にこころ和らぐ二輪草
もてなしを胸にたたみて河鹿笛
黒帯に闘志のまなこ雲の峰
村中にポストは一つ土筆生ふ
八 重 桜 水 満 々 と 疏 水 行 く
春 霞 夫 指 す 方 に 男 体 山
紺 碧 の 空 並 列 の 鯉 幟
武者人形飾りて町家奥深き
日 月 を い た だ く 兜 緑 さ す
黒塗の禰宜の木沓や著莪の花
子 燕 や 天 井 低 き 虫 籠 窓
米山のり子
木
船越 和香
恩塚 夕子
あきる野
栃
都
川鍋 絹子
京
裸枇杷ばつてん訛の媼より
訪ねゆく坂や朱欒の花香り
石 垣 は 舟 虫 の 宿 出 島 川
狛 犬 の 阿 吽 に 応 へ 夏 落 葉
黄菖蒲にまひるの風の遊びをり
白牡丹しづかに満ちて茶肆の庭
窓若葉嬰の寝返りころころと
残照の雲のやはらに蚊食鳥
早 世 の 姉 の 面 影 あ や め 草
瀬音して小格子灯る鱧の茶屋
往還の列そぼ濡れて賀茂祭
乱鶯やまはり道して賀茂の餅
掛軸は忍の一字や武具飾る
和三盆添へて新茶の届きけり
生家守る一人の暮し柚子の花
気負ひ無き老のもてなし豆御飯
金
長
津
沢
崎
田中 珠生
米尾 芳子
木下 慈子
大
平野 暁美
泉
津
唐
馬醉木集
選 後 反 芻
德田千鶴子
米山のり子 今年の梅雨は本当に異常ですね。ゲリラ的に大雨を降ら
せて、雹や竜巻も尋常でない形での発生です。
何だか日本全体が変わっていくようで(季候に限らず)
小さな不安が広がってきます。
六月二十九日、東京で同人研修会が開かれました。
ゲストの講演者は黒田杏子氏。
飾り気のないお人柄の真情こもったお話に、パワーを戴
いた思いがしました。「現在の俳句界は、実は秋櫻子の山
脈なのよ」、と言っていただき、身の引き締まる思いです。
「貴方は秋櫻子先生によく似ているわね」。骨格や顔が似て
いるとは、祖父を知る方が、よくおっしゃって下さいます
が、肝心の中身がね。少しでも近づけるよう精進せねばと、
今更ながら思ったことでした。
持 山 の 一 本 選 ぶ 初 幟 男の子の初節句を祝って立てる初幟。
現 代 で は、 十 メ ー ト ル も の 長 竿 を 立 て ら れ る 土 地 や 家 は
限られて、座敷に飾る内幟が主だろう。しかし此の句の初
幟は、堂々と風にはためく景だ。持山から吟味された一本
という措辞に、子の誕生を喜び元気に育ってほしいと願う
気持が伝わってくる。
も て な し を 胸 に た た み て 河 鹿 笛 川鍋 絹子 恩塚 夕子 胸に畳むというのは、心に秘めておくの意である。訪れ
た先から受けた暖かいもてなしを、忘れないよう大切に胸
に納める作者、河鹿蛙の澄んだ声もまた作者の思いを高め
たに違いない。
村 中 に ポ ス ト は 一 つ 土 筆 生 ふ 藤井 彰二 〈ポストは一つ〉に村の様子がうかがわれる。どんな句
の場合も季語が大切だが、此の句は特に下五で緊まったと
思う。「生ふ」という動詞を入れたのが適切、ポストとの
取り合せも相応しい。
キ ャ ラ メ ル の 箱 の 中 よ り 兜 虫 穐好須磨子 出掛けた先で思いがけず兜虫を捕まえた。持って帰りた
いのだが虫籠の用意がない。とっさに思いついたのは食べ
かけのキャラメルの箱、残っていた飴は急いで出して、兜
虫をしまった。早く帰って見せたいな。そんな童心(ある
いは祖父ごころ?)の可愛いらしさが素直に伝わってきた。
吊 り て す ぐ 海 の 風 呼 ぶ 簾 か な 簾を吊ると夏が来たとしみじみ思う。簾は風通しもよく
日を遮る役目もあって、部屋に涼を呼ぶ。作者もその感覚
を楽しんでいらっしゃる。飾り気のない詠みぶりに好感。
略)