情報・資料 リヨン派遣報告

平成25年 8 月号
学内の動き
情報・資料
リヨン派遣報告
くらし環境系領域 准教授 有村 幹治
1 はじめに
筆者は本学の平成24年度若手
海外派遣事業に採用され,
2012
年 4 月から2013年 3 月までフラ
ンスのリヨンにある,リヨン第
二大学交通経済研究所に客員研
究員として滞在する機会を頂き
ました。約 1 年間の滞在期間に
おける研究生活について報告致
します。
2 交通経済研究所について
筆者の専門分野は,土木計画,都市・地域計画,交通
計画といったメゾスケールの空間計画となります。最初
に何故,今回,筆者がリヨンへの派遣を希望したのか,
その背景を以下に簡単に述べます。
現在,我が国は既に少子化・高齢化社会に突入してお
り,高度成長期の人口増加,モータリゼーションの進行
に伴うスプロール型都市開発は既に限界を迎えています。
その処方箋としてのコンパクトシティや公共交通指向型
都市開発(TOD : Transit Oriented Development)の概
念も専門家レベルには広く浸透しているのですが,その
実現の歩みは遅く,様々な組織・団体がそれぞれ思い描
く都市や交通のありかたを互いに主張しあう(もしくは
全く議論されない)状況が続いています。一方,フラン
スでは2000年以降,都市の姿が大きく変容しつつありま
す。例えば,グルノーブルではいままで都心部に通って
いた陸橋を,60年代の価値観のシンボルとして爆破解体
し,その代わりにライト・レール・トランジット(LRT
: Light Rail Transit)を導入しました。多くの街で,街
中の道路を歩行者に解放しており,その結果,中心市街
地の賑わいが復活しています。このような都市交通整備
に係る制度設計は,少子化・高齢化社会に突入し,従来
までの量的インフラ整備が終わり,質的な意味充実社会
にシフトしつつある我が国の都市・交通計画の方向性と
しておおいに参考になります。筆者は2006年に都市交通
計画の調査のために一度現地に入った経緯があり,今回
の滞在はその研究活動のフォローアップの意味もありま
した。
筆者が滞在したリヨン第二大学交通経済研究所(LET
: Laboratoire d'Economie des Transports)は,交 通 経
- 6 -
済学及び土地利用分析に特化した研究所です。フランス
国 立 科 学 研 究 セ ン ター(CNRS : Centre national de la
recherche scientifique),リヨン第二大学及び国立公共
事業大学校(ENTPE : Ecole Nationale des Travaux Publics
de l'Etat)により運営されています。研究所は,経済
学・地理学・社会学・工学等を専門とする約40人の常駐
研究員と約30人の博士課程学生,及び研究所スタッフに
より構成されています。主要な研究テーマは,交通と地
域・都市計画分野に関わるものであり,大きくは環境・
社会・経済を軸にした持続可能な開発の方法論の構築に
あります。
交通経済研究所での筆者の研究テーマは,2000年以降
に お け る フ ラ ン ス の 都 市 交 通 計 画(PDU : Plans de
déplacements urbains)の策定状況の把握と,日本の都
市交通計画にあたる都市交通マスタープランとの比較で
した。概略すると,フランスでは10万人以上の都市では,
都市交通計画を策定することが義務付けられています。
フ ラ ン ス で は1982 年 に 国 内 交 通 基 本 法(LOTI : Loi
d'orientation des transports intérieurs)において全ての
人の移動の権利(交通権)が制定されており,都市交通
計画の策定と,計画実現のための財源として10人以上の
事業所に交通税の負担が義務付けられています。これら
を背景に,フランスの諸都市は,都市内のあらゆる属性
の人々の移動の確保と,環境に優しく経済的な交通シス
テム構築のための都市交通計画を戦略的に策定します。
都市交通計画の方向性は都市の状況により異なりますが,
ほぼ共通して,都心部の自動車交通を抑制し,その一方
で交通の便を確保するために公共交通を整備する方向に
向かっています。とりわけLRT(写真- 1 )ネットワー
ク整備は,自動車を使用せずに都市内の多くの活動場所
写真- 1 モンペリエ市内のLRT
平成25年 8 月号
情報・資料
へのアクセスを可能とする施策として位置付けられてい
ます。また歩行者>自転車>公共交通>自動車の順に優
先順位を付けた道路整備は,現在,既に少子化・高齢化
社会に入った我が国の都市交通計画にも参考になる部分
が多いものです。
日本でも多くの都市で都市交通マスタープランが策定
されていますが,そのプランに記述された施策の全てが
実行されることは無く,また縦割りにされた複数の事業
主体の事業実施計画が寄り添う形で記述されてしまいま
す。フランスの場合,10年先の都市交通のビジョンを設
定し,そのビジョンを実現するために予算処置を行い,
PDUを立案する都市交通調整機関(AOTU : Autorité
organisatrice des transports urbains)が設置され,総合
的な調整を行います。そして,10年のビジョンを実現す
るために 5 年間間隔で都市交通計画を改定していくとい
う実効性が高い制度設計になっています。
筆者は,リヨン,グルノーブル,モンペリエ等の自治
体や研究所,大学にヒアリングを重ね,現地の都市交通
計画PDUに関する資料収集を行い,それを整理するこ
とで研究を進めました。
研究所以外はリヨンで日々の生活を送ることになるの
ですが,これにもちろん最初から上手くいくはずがあり
ませんでした。これについては後述します。
の姿に近づいていきます。現在のリヨンでは,ローヌと
ソーヌの合流地点にあるリヨン・コンフルエンス地区で,
日本のNEDOと東芝によるスマートコミュニティ実証事
業が進行中です。実証事業では,ビル全体で消費するエ
ネルギーより,多くのエネルギーを作り出すビルの実証
実験,EVカーシェアリングシステムの導入,家庭内エネ
ルギーモニタリングシステムの構築等が実施される予定
です。このコンフルエンス地区では南方向の軸線の道路
を挟み, 2 つのタワー型ビルが建設される予定です。こ
れは,リヨン市民の祖先がローマ時代に南方から来たこ
とから,南方への門を意味するように計画したとのこと
でした(写真- 2 )。
3 リヨンの街
写真- 2 リヨン・コンフルエンス実証実験地区模型
リヨン都市圏にはリヨン市の人口を含めて約120万人
の人口を誇ります。都市圏としてはフランス第三位の経
済圏になります(現在の第二位はマルセイユとのこと)。
ローヌ・アルプ地方の首都であり,北ヨーロッパと地中
海地域の接点に位置しています。リヨンはフランスにお
ける金融センターのひとつであり,多くのフランスの銀
行の本店が置かれ,永井荷風が横浜正金銀行の社員とし
て滞在したこともある街です。市内にはローマ劇場の遺
跡があり,現在でもときどき現役として使用されます。
ローヌ河とソーヌ川に挟まれた場所に位置し,古代よ
り交通結節点であり,物資が集積する土地でした。リヨ
ンの旧市街はユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録され
て い ま す。ま た 国 際 刑 事 警 察 機 構 イ ン ターポール
(ICPO)本部が置かれていることや,ミシュランの星付
きレストランが沢山ある食の都としても知られています。
リヨンの歴史を概略すると,紀元前 1 世紀はローマ帝
国の支配下にあり,交通の要衝として発展します。その
後 3 世紀になると現在の世界遺産として登録されている
旧市街地区に人々が住み始めます。16世紀にはフランス
最初の証券取引所が誕生し,欧州の商業と金融の中心地
に変貌します。19世紀には紡績機の発明により,絹織物
産業が盛んとなります。またリュミエール兄弟が映写機
を発明し,初めて映画撮影が行われます。第 2 次大戦中
はレジスタンスの中心地となりました。筆者が滞在した
LETの建物はゲシュタポの本部が置かれた建物で,自
分のデスクの前の窓の下で銃殺刑も執行されていたとの
ことでした。戦後はインフラ開発が進み,現在のリヨン
- 7 -
このようにリヨンでは近代建築のみならず,各時代の
インフラや建物がそのままの形で重層的に重なり,多様
性のある都市景観を形成しています。リヨンは世界遺産
である旧市街地が有名ですが,その一方でユネスコの創
造都市ネットワークにメディア部門で登録されています。
そのため,一年中何処かで何かのイベントが開催されて
います。
毎年 7 月から 8 月にかけては,旧市街地のフルヴィ
エールの丘にあるローマ劇場でla Nuit de Fourvière(フ
ルヴィエールの夜)というイベントが行われ,分野を問
わず,高名なアーティストによるコンサートやバレエ,
演劇等が催されます。紀元前に造られたローマ劇場で今
日グローバルに活躍する現代アーティストが講演するの
ですから,これはまさにインフラ造りにかけてはローマ
人の右にでる者はいないなと考えつつ,この祭典の期間
を過ごしました。
ま た,毎 年 12 月 8 日 か ら11 日 に か け て はFête des
Lumières(光の祭典)が市内で開催され,市内のいた
るところで,光を主題とした芸術作品・映像作品が設置
されます。このお祭りは,ペストが欧州で流行した際,
リヨン市民がフルヴィエールの丘の上に立つノートルダ
ム聖堂のマリア像に祈りを捧げたところ,流行が治まっ
たことに由来します。このお祭りの期間中の夜は,リヨ
ン市内の明かりは消され,その代わりに家々の窓際に蝋
燭が灯され,建物や道路はイルミネーションで一杯にな
ります。写真- 3 はこのお祭り期間中の旧市街をソーヌ
平成25年 8 月号
情報・資料
川方向からみた景観,写真- 4 は旧市街のサン・ジャン
大聖堂に映し出された 3 Dマップマッチング技術による
アニメーション映像作品です。世界遺産である旧市街地
の街路や建物を,そのまま最新型のイベント会場として
使用し,一日述べ100万人集客する手法は,都市経営の
視点からも興味深いものでした。
当官にはあたりはずれがあるらしく,運悪く私達の担当
官は「フランス語しか話さない」移民局窓口担当官でし
た。紆余曲折を繰り返し,なんとか滞在許可証を頂くこ
とができました。
フランスでは日曜日はアラブ系・アジア系以外のお店
は全て閉店してしまいます。市内至る所にある朝市は開
いていますので,そこで肉・魚・果物,またワインやパ
ン等を仕入れることができます。ミシュランの三ツ星を
維持し続けるポールボキューズの名を冠したレアール市
場ではウサギやキジなどのジビエも買えます。また高速
道路が発達したことから北部から新鮮な牡蠣も届き,市
場に並びます(写真- 5 )。
写真- 3 光の祭典(ソーヌ川から旧市街地方向)
写真- 4 サンジャン大聖堂前に集まる観光客
4 日々の生活
リヨンでの日々の生活は山あり谷ありの連続でした。
筆者はフランス語は話せないまま出国しています。研究
所は英語でコミュニケ―ションが取れますので問題は無
いのですが,研究所外の生活は日々苦労の連続でした。
リヨン到着後は,まず現地情報を集めながら,住居を
探さなくてはなりませんでした。当初,研究所が斡旋し
てくれた家具付きレジデンツは,短期滞在者向けのもの
であり,一年間腰を据えて生活することを考えると,も
う少し安くて広い部屋を探す必要がありました。土地勘
が働かない街ですので,インターネットの賃貸サイトの
検索と,不動産屋への飛び込みを繰り返し, 6 月には築
400年の比較的新しい(?)アパートに引越しすること
ができました。
また滞在許可書がまだ手元にない状況ですので,移民
局で許可書の発行手続きをする必要がありました。朝 7
時から移民局の前でアフリカやアジアから来た人々と共
に列をなし,ようやく窓口にたどり着いたのは10時。担
写真- 5 レアール市場
日常生活における衣・食・住の問題中,衣は問題無い
ものとして,食・住に関しては早い段階でなんとか解決
することができました。生活環境が整ってから,ようや
くフランスがラテンの国であることを実感し始めました。
社会より個人が強く,ストライキやデモがよく起こりま
す。高速鉄道のTGVも,地下鉄もよく止まります。タ
クシーが列をなしてデモ行進(運転?)する光景も見ら
れました。駅内にある故障したエスカレーターも,担当
者がバカンス中なのか,暫くそのままで放置されていま
す。銀行備え付けのATMから現金を引き出すと,引き
出し金額とは異なる少額の紙幣が出てきます。クレーム
を付けてから返金処理されるまで 2 ヶ月間掛ります。万
- 8 -
平成25年 8 月号
情報・資料
事がスローペースであることに気づいてから,日本的な
社会の「精度」を求めることを辞め,達観の境地に入れ
るように努めました。
7 月14日の建国記念日を迎えると38度を超える熱い夏
が始まり,バカンスシーズンに突入しました。研究所に
は誰もおらず,官公庁にも人がいないため研究はままな
りませんので,早々に切り上げバカンスを楽しむことに
しました。車を借りて,ブドウ畑が続くブルゴーニュや
プロバンス等,地方をゆっくりと巡りました。とはいえ,
本業が土木計画ですので,どうしてもインフラの造り
方・使い方に目がいきます。写真- 6 は白ワインで有名
なシャブリ村を運転していたときに出会った木製ベンチ
です。座ると,特級・ 1 級のブドウ畑と,街の中心にあ
る教会が視界に迫ります。村の何を外部から来る人々に
見せたいのか,沿道にあるベンチの置き方一つで地域の
アイデンティティをさりげなく演出してしまうあたり,
この国の地方の奥深さと余裕を感じました。
写真- 6 視点場のデザイン(グラン・クリュ街道)
10月に入ると街にも研究所にも人が戻り,研究も進み
だしました。スカイプを使って室工大に残した学生の研
究指導,国際学会への参加や論文投稿準備,休みの日は
地域のお祭りや光の祭典を楽しんでいると,既に12月の
クリスマスシーズンに入っていました。年末年始は高熱
を伴うガストロアンテリット(ウイルス性胃炎)を患っ
てしまい,体重を 5 kg落としました。そのため,正月
の記憶はほぼありません。年明けは研究所内の討論会で
成果発表を行い, 2 月になると体重も少しずつ戻り,帰
国準備に入りました。 3 月はリヨンで知り合った友人た
ちに別れを告げ,休日は行けなかった土地を訪問し,唐
突に帰国日を迎えました。帰国後は,そのまま本学の卒
業式に向かいました。
5 おわりに
リヨン滞在中,研究はもちろん,多くの研究者との討
論や自治体技術者との交流,また街を日々歩く経験から
も多くのことを学ぶことができました。
若手研究者海外派遣事業は本学独自の制度で,制定後
まだ日も短いため,事例の蓄積はあまりなされておりま
- 9 -
せん。もしフランスへの派遣を希望する先生がおりまし
たら,少なくとも私が経験した,海外滞在時の学生ケア,
講義の調整,帰国後の再スタートの方法等,相談に乗る
ことはできますので,どうぞお気兼ねなく御連絡くださ
い。
最後に筆者を心強く押し出してくれた佐藤学長,本学
関係者の皆様,建築社会基盤系学科の皆様,また交通経
済 研 究 所 で お 世 話 に なったProf. Charles RAUX, Prof.
Bruno FAIVRE D'ARCIER,また一年間リヨンでの生
活を支えてくれた妻に感謝申し上げます。