第 4 講 不完全情報とインセンティブ問題

第 4 講 不 完 全 情 報 とインセンティブ 問 題
1.不 完 全 情 報
ある取引への(潜在的)参加者全員が、(潜在的な)取引機会の全てを知っている、特に、取
引を行う双方が取引される財・サービスについて完全な情報を持っているという状況を「完全情
報」(perfect information)と呼ぶ。これに対し、完全情報の条件が満たされていない場合を「不完
全情報」(imperfect information)と呼ぶ。いうまでもなく、現実の世界では、一般に情報は不完全
であり、その入手には費用がかかる。
不完全情報は、さらに二つの状況に分けられる。一つは、不完全情報だが、取引の双方とも
同じ情報をもっている場合で、「対称的不完全情報」(symmetric imperfect information)と呼ばれ
る。もう一つは、不完全情報でかつ取引の一方が他方と異なる情報をもっている、換言すれば、ど
ちらか一方が「私的情報」(private information)をもっているという場合で、「非対称的不完全情
報」(asymmetric imperfect information)と呼ばれる。以下でみるように、不完全情報の状況下で
はさまざまな厄介な問題が引き起こされるが、そのいくつかは単に情報が不完全であるということ
のみによってではなく、それが非対称的であることによって引き起こされる。いわゆる「情報の経済
学」では、誰が、いつ、何を知っているか、あるいは知らないかという情報に関する前提が決定的
に重要な役割を果たす。
(1)情報探索
一般に、類似の財・サービスでもその質、価格等は多様である。しかしそれらについて完全な
情報を得るのは、余りに費用がかかりすぎる。例えば、アパートを探す際、現在入居可能で、自分
の最低希望条件(場所、広さ、家賃など)をクリアーする物件は世の中に全部でどれだけあるかを
知ることはほとんど不可能である。職探しや配偶者探しなども同じである。もし必要な情報がすぐ
にタダで手に入るなら、そのリストの中で一番気に入ったものを選ぶだけでよい(もちろん相手も
OK であるという制約条件付きで)。しかし、実際には「情報探索」(search)には時間と費用がかか
るので、どこで手を打つか(optimal stopping rule)がより意味のある問題となる。これに対する一般
的な答えは、これ以上情報探索を続けた場合に得られるであろう便益と費用を比べ、「限界便益
=限界費用」となるところで探索を打ち切るというものである。
情報探索の代表的な例に「職探し」(job search)がある。ほぼ同一の仕事を提供する雇い主
が多数いるが、それぞれの提示賃金にはバラツキがあり、かつ実際の提示賃金額は応募してみ
ないとわからないとしよう。(求人広告の賃金はたいてい、最低いくらとか、いくらからいくらぐらいと
範囲をつけている。)求職者は、情報収集を続けるとよりよい賃金機会を見つける可能性もあるが、
一方で失業期間が長引くなどコストもかかる。この場合の求職者の最適戦略は、かなり一般的な
条件の下で、ある一定の賃金―「留保賃金」(reservation wage)と呼ばれる―を上回った場合に、
その仕事を受諾し、それ以上は、求職活動をしないというものである(reservation-wage strategy)。
このモデルの一つの含意は、同一の仕事に就く同質の労働者でも、「情報の不完全性に基づく賃
金格差」(information-based wage differentials)が観察されるということである。
不完全情報とインセンティブ問題
1
2001.10.11
奥西 好夫
(2)逆選択あるいは隠された情報
経済学で有名な例に、ジョージ・アカロフの「レモン」(米俗語でポンコツ中古車のこと)がある。
中古車の取引市場を考える。中古車の質にはバラツキがあり、売り手の方はそれぞれ自分が売り
に出す車の質をよく知っているが、買い手には質の違いはわからないとする(非対称的不完全情
報)。買い手から見たらどの車も同じなので、取引市場ではどんな車も同じ価格(平均的な質に対
応した価格)で取引される。すると、相対的に質の良い車の売り手は、その車の正当な価値以下
でしか売れないので、売りに出すのを止める。こうしたプロセスが続くと、市場はどんどん質の悪い
車で占められ、ついには誰も売り手がいなくなってしまう。
逆選択と市場の消滅
最
低
平均価格-1
最
高
質、価格
平均価格-2
平均価格-3
この「逆選択」(adverse selection)というのは、元々は保険用語で次の例に由来する。健康状
態の悪い人ほど健康保険(強制加入の公的保険ではなく、任意加入の私的保険を想定する)に入
ろうとする動機が強い。しかし、健康状態の悪い人の加入が増えると保険金支払いが増え、保険
料は高くなる。すると健康状態の良い人はますます保険に入らなくなる。ついには、保険加入者は
専ら健康状態の悪い者で占められ、保険自体が破綻するかもしれない。
逆 選 択 は 「隠 された情 報 」(hidden information )、あるいは「契約締結前の機会主義」
(precontractual opportunism)とも呼ばれる。中古車の例では売り手の車の質、健康保険の例で
は保険加入者の健康度合いといった取引において決定的に重要な情報が、取引相手に対し隠さ
れており(隠された情報)、隠されたまま取引が行われてしまう(契約締結前の機会主義)からであ
る。
逆選択への対応としては、第三者による情報の提供(例:専門の中古車ディーラー。もっとも
彼らが買い手に車の質を正直に伝えるという保証は必ずしもない。保証制度や評判などを通じた
何らかのインチキ抑止メカニズムが要るだろう)、財・サービスの標準化(例:チェーンレストラン。
買い手の側は知らない町に行っても、同じチェーンレストランなら同じ質の料理・サービスが提供さ
れると期待できる)、シグナル(例:巨額の広告、保証制度。これらは財・サービスの質がもし悪い
と売り手にも損害を与えるから、売り手の側に質を高めるインセンティブとして働く。逆に言うと、質
の高い財・サービスを提供する者でないと、巨額の広告をしたり、保証制度をつけたりしないであ
ろう。露天の時計売りと銀座に店を構えた時計店では、その売っている時計の質が大いに異なる
と推定できる)などがある。
不完全情報とインセンティブ問題
2
2001.10.11
奥西 好夫
(3)道徳的危険あるいは隠された行動
「道徳的危険」(moral hazard)、これも元々は保険用語である。健康保険に入ると、入らない
場合に比べ、リスク(病気、ケガ)が発生した場合のコスト負担が軽減される。しかし同時に、リスク
回避のためのインセンティブも減ってしまう。するとリスクの発生が増えてしまうかもしれない。
道徳的 危 険は「隠された行動」(hidden action)、「契約後の機会主義」(postcontractual
opportunism)とも呼ばれる。上の例からわかるように、問題の本質は、健康保険会社からは保険
加入者がどの程度健康増進のために努力をしているのか判断できないこと(隠された行動)、つま
りいったん保険契約を締結してしまうと、実際には病気など事故の発生原因が加入者の無茶苦茶
な生活にあっても(契約後の機会主義)、健康保険会社が加入者の保険金支払い要求を断るの
が困難なことにあるからである。
労働関係の例としては、労働者のサボリ問題(shirking、cheating)がある。経営者は外勤のセ
ールスマンの働きぶりは直接には観察できない。もしも売り上げに比例した賃金(commission)を
払えばセールスマンのリスク負担が大きくなる。(売り上げは本人の働きぶり以外の要因によって
も左右される。)しかし、逆に固定賃金(time rate)ではセールスマンはサボってしまう。こうしてリス
クとインセンティブのトレードオフ(trade-off)が生ずる。
(4)本人-代理人関係とインセンティブ
上 で取り上げた道徳的危険の問題は、より一般的な含意を持つ。「本人-代理人関係」
(principal-agent problem, agency relationship)と呼ばれる問題がそれである。個々の経済主体は、
ある行動をとった時の費用と便益が共に当人に発生するならば、各人の利己心に応じた経済合
理的行動をとり、いわゆるインセンティブ問題は生じない。(問題が生ずるとすれば、そうした個々
人の行動が社会的に最適といえるかどうかといったことである。)ところが費用と便益が同一人に
発生しない場合には、常にインセンティブ問題が発生する。
本人-代理人関係とは、「本人あるいは依頼人」(principal)がその目的を実現するために、自
分で直接やるのではなく、「他人すなわち代理人」(agent)をしてなさしめるという関係をいう。論理
的可能性としては、便益は全て本人に、費用は全て代理人に生ずることもあるかもしれない(奴隷
制?)。しかしそれでは一般に、代理人の方に、本人のために働くというインセンティブは生じない。
本人-代理人問題とは、本人が代理人をして、いかに本人の目的実現に沿った行動をとらせるか
ということである。その場合、代理人に強制的にやらせるというのではなく、代理人の自発的・合理
的選択の結果としてある行動をとらせなければならない。
この種のモデルは、通常 3 つの構成要素を含む。先ず、本人の目的関数である。本人はこれ
を次 の 二 つの 制約条件の下で最大化する。制約条件の第一は、「参加条件」(participation
condition あるいは individual rationality constraint)と呼ばれるもので、代理人が自発的にこの関
係に加わることを保証する条件である(「馬を水際まで連れていく」)。制約条件の第二は、「インセ
ンティブ両立制約」(incentive compatibility constraint)と呼ばれるもので、インセンティブの与え方
とそれに対応した代理人の自発的行動の関係を記述するものである(無理矢理でなく自発的に
「馬に水を飲ます」)。
不完全情報とインセンティブ問題
3
2001.10.11
奥西 好夫
こうしたモデルの簡単な例は、第 3 節で紹介するが、ここでは本人-代理人関係の難点がや
はり情報の非対称性にあることを強調しておく。もしも本人が代理人の行動を全てコストをかけず
にモニターできるなら、問題は大いに簡略化する。代理人の行動内容・水準に関する指標に直接
対応した報酬システムを仕組めばよいからである。しかし、本人が代理人の行動を不完全にしか
モニターできないなら、ことはそう簡単ではない。
(5)ラチェット効果
本人が代理人に対し、何らかの目標(target、performance standards)を設定させ、その目標
が達成されればより多くの報酬を支払うというインセンティブ・システムを考える。「代理人」は一生
懸命努力して目標を達成する。すると「本人」はこう考える。「何だ、やればできるじゃないか。これ
まではサボっていたんじゃないのか」といって、今度は目標をさらに高く設定させる。(目標は上が
る一方で後戻りしない、「ラチェット」と名付けられた所以である。)しかし、こうしたプロセスが続くと
予想されるなら、代理人は最初から高めの目標を設定する動機を失ってしまう。なぜなら、今努力
して報われれば報われるほど、将来報われることがますます困難になってしまうからである。
一般に、評価基準がよい結果の後には引き上げられ、結果が悪くとも引き下げられない傾向
を「ラチェット効果」(ratchet effect)と呼ぶ。具体例としては、公益事業の「経営努力」と料金設定
の問題、人事査定における対前年実績比の活用など多数ある。
ラチェット効果がもたらすインセンティブへの悪影響の根本原因は、本人と代理人の間で、評
価基準の設定にあたって過去のパフォーマンスを過度に用いない、と前もってコミットできないこと
にある(imperfect commitment problem)。(かりに事前にそうした契約を締結しても、事後的には、
新たに利用可能となった情報を用いて評価基準を再交渉することがより効率的である。)
(6)情報シグナリングとスクリーニング
企業が新規学卒者を採用するときなど、その労働力としての質は完全にはわからない。その
場合、高学歴者ほど、また、有名大学出身者ほど何らかの望ましい特性を持っている(例えば厳し
い受験競争を勝ち抜くだけの頭と体力、忍耐力があった)とするなら、学歴を新規学卒者の質を表
すシグナルとして用いることには合理性がある。この場合、大学で何を学んだかは二次的なことで
ある。
一般に、ある個人が自分にしかわからず 他人からは容易に確かめ得ない能力、特性等の情
報を他人に伝えるためにとる行動を「情報シグナリング」(signaling)と言う。シグナリングによる情
報が信用できる(credible)ものであるためには、その行動は当人にとって費用がかかるものでな
不完全情報とインセンティブ問題
4
2001.10.11
奥西 好夫
ければならない(costly-to-fake principle)。もし、ある特性を持っている者も、持っていない者も、と
もに容易にできることなら、その行為はシグナリングとしての役目を果たさない。先の学歴の例で
は、勉強の嫌いな人や勉強のための能力・体力・気力等の劣る人が高い学歴を得るのは、そうで
ない人に比べ苦痛が大きい。そうであってはじめて、学歴は勉強の好きな人や能力・体力・気力
等の優れた人を指し示す役目を果たしうる。
シグナリングは私的情報を持つ方が、その情報を持たない相手に情報を伝えるというケース
であった。これに対し、情報を持たない方が、私的情報を持つ相手からその情報を得るためにとる
行動は「スクリーニング」(screening)と呼ばれる。次に説明する「自己選択」(self-selection)はそ
の具体的な手段である。シグナリングの場合、単に口で言うだけでは信用できない(credible でな
い)ように、スクリーニングの場合も、単に口で言わせるだけでは信用できない。信用できる情報を
引き出すにはそれなりの 工夫が必要である。
(7)自己選択
企業の方から労働者にいくつかのメニューを提示し、それを労働者に選ばせることによって隠
された労働者の選好を推測することも可能である。いわゆる「自己選択」(self-selection)である。
例えば、企業は長期勤続志向の労働者を雇いたいとする。労働者が口で「ずっと勤めます」と言っ
ても必ずしも当てにならない。そこで図の A、B のような 2 種類の賃金プロファイルを提示して労働
者に好きな方を選ばせる。A は労働者の生産性(図では一定と仮定)と同じ賃金を常に払うが、B
は若いときは過少支払いし、長年勤めて初めて元を取れるというプロファイルである。ずっと勤め
るつもりならA でもB でもよいが、すぐやめる(あるいはいつやめるかわからない)ならA でないと
困る。したがって、B を選ぶ人は長期勤続志向だが、A を選ぶ人は必ずしもそうでないという推定
が可能となる。
賃金プロファイルと自己選択
賃金
B
A
年齢
自己選択の背後にあるのは、経済学の「顕示選好」(revealed preference)の考え方である。
すなわち人が何を考えているかを、何を言うかではなく、実際に何をするかで判断しようというわ
けである(いわゆる「踏み絵」の発想)。
(8)情報開示原理
もしある個人(あるいは企業)が何らかの望ましい特性を持っていて、それを他人に開示する
ことによって有利な立場に立てるとする。この場合、その個人が経済合理的であるなら、(仮に法
律的な義務がなくとも)自発的にその情報を開示するであろう。すると、それほど望ましい特性を持
不完全情報とインセンティブ問題
5
2001.10.11
奥西 好夫
っていない者も、事実上その情報を開示せざるを得なくなる。なぜなら開示しないことは、何らか望
ましくない特性があって開示できないのだと推測されてしまうからである。これが「情報開示原理」
(full-disclosure principle)と呼ばれるものである。
例えば、就職面接で個人的な思想・信条、家庭環境等について聞いてはならないという公的
規制があるとする。ここで、面接者の言動を制限しても、被面接者の言動も制限しないと必ずしも
十分ではない。なぜなら、望ましい属性を持っていると考える人は、聞かれなくても自発的に自分
の思想・信条、家庭環境等を言ってしまうインセンティブがあるからである。
(9)統計的差別
①個々人の特性、例えば職業能力に関する情報を得るのが困難な(コストがかかり過ぎる)
場合、②その個人について容易に知りうる属性、例えば性、皮膚の色などから推測するのは、①と
②に相関関係があるならば合理的となる。しかし、この場合、個々人はその真の属性によってで
はなく、その属する集団の平均値で評価されることになるから、平均と当人の属性に乖離がある
..
限り差別が発生する。こうした現象は、「統計的差別」(statistical discrimination)と呼ばれる。
【補論】分 益 小 作 制 、賃 金 雇 用 契 約 、借 地 契 約
「分益小作制」(sharecropping)とは、地主と小作人が収穫を一定割合(例えば 5 割)で分け合
うことをあらかじめ決めておくという制度であり、かねてより耕作者(=小作人)の労働インセンティ
ブをそぎ(例えば 5 割の高率課税と同じ)、所得分配上も問題であると批判されてきた。しかし上で
学んだ「リスクとインセンティブのトレードオフ」の観点からは、ある程度肯定的な見方も可能であ
る。
先ず、分益小作制に対する一つの代替的な制度として賃金雇用契約(wage contract)を考え
てみよう。この場合、天候不順などによる収穫変動のリスクは地主が全面的に負い、耕作者(=労
働者)は、そうしたリスクなしに一定の賃金収入を得ることができる。一般に、地主の方がリスク負
担力はあるだろうから、こうしたリスク分担は合理的かもしれない。しかし、もし耕作者に対する地
主のモニタリングが不完全なら、賃金雇用契約では耕作者に対し十分なインセンティブを与えるこ
とができない。
次に、もう一つの代替的制度として借地契約(rental contract)を考えてみよう。耕作者(=借
地人)は、一定の借地料を地主に払う代わり、耕地の利用権を得る。この場合、耕作者は収穫か
ら一定の借地料を差し引いた残りの部分は全て自分のものとなるので、強いインセンティブ効果
が生ずる。しかし同時に、天候不順などによる収穫変動のリスクも全て耕作者が負わねばならな
い。
こうしてみると、分益小作制は賃金雇用契約と借地契約がもつ難点に対する一種の妥協策と
言える。ただし、このことは、耕作者の自作農化(「農地解放」)が社会的により効率的である可能
性を否定するものではない(Stiglitz (1994)p. 48 もこのことを強調している)。
不完全情報とインセンティブ問題
6
2001.10.11
奥西 好夫
リスクとインセンティブのトレードオフ
耕作者のリスク
借地契約
自作農化
分益小作制
賃金雇用契約
効率 (総生産物)
Source:Stiglitz (1994) p. 48 を改変.
2.不 確 実 性 下 の行 動 と危 険 分 担
本節では、まず不確実性が存在するときの人々の行動仮説として経済学で最も広く用いられ
ている「期待効用定理」を紹介し、ついで最適なリスク負担のあり方について検討する。
(1)期待効用定理
期待効用定理 (expected utility theorem)
2 つの結果(例えば異なる所得水準)x、y が、それぞれ p、1 - p の確率で起こるとする。そのと
き、個人が選好の整合性に関していくつかの前提条件を満たすならば、その個人の選好は次のよ
うな効用関数によって整合的に表現できる。
E(u) ≡ pu(x) + (1 - p)u(y).
これは効用の期待値(expected value)の形をとっているので、「期待効用」(expected utility)と呼
ばれる。
通常用いられる不確実性がない場合の効用関数 u(x, y)は序数的(ordinal)と呼ばれ、(x, y)の
..
組み合わせに関する選好の順序のみが問題である。すなわち、ある組み合わせ(x1 , y1 )が他の組
み合わせ(x2 , y 2 )より好まれるか、嫌われるか、どちらでもない(無差別)かのみが問題で、どれだけ
.
かは問題でない。これに対し、不確実性下の効用関数 u(x)は基数的(cardinal)と呼ばれ、u(x)の大
..
きさ自体も問題となる。
ところで、期待効用と紛らわしい概念に期待値の効用、
u(E) ≡ u[px + (1 - p)y]
がある。これは、px + (1 - p)y という結果が確実に起こる場合の効用である。期待効用定理は不確
実性の下で、人々は期待値の効用ではなく期待効用の最大化を図ることを主張している。
不確実性に対する人々の選好に関しては、次の 3 つの区分がなされる。
a.危険回避的(risk-averse)
⇔ E(u) < u(E)
⇔ 凹型(concave)効用関数
b.危険中立的(risk-neutral)
⇔ E(u) = u(E)
⇔ 線形(linear)効用関数
c.危険愛好的(risk-loving)
⇔ E(u) > u(E)
⇔ 凸型(convex)効用関数
不完全情報とインセンティブ問題
7
2001.10.11
奥西 好夫
このうち危険回避的な場合を例に、効用関数、期待効用、期待値の効用等をグラフで描くと次のよ
うになる。
効用関数と期待効用
効用
効用関数 u(.)
u(y)
u(E)
E(u)
u(x)
1-p
0
p
結果(所得など)
x
E=px+(1-p)y
y
risk premium
certainty
equivalent
income
危険回避的な人にとっては、期待値(E)に相当する所得を確実に得る方が、平均としてはE で
も実際にはそれより高かったり低かったりする不確実な場合よりも好ましい(u(E) > E(u))。したがっ
て不確実な場合の効用(E(u))と同等の効用をもたらす確実な所得の水準(certainty equivalent
income)は期待所得(E)より低い。両者の差は危険プレミアム(risk premium)と呼ばれる。
(2)基本公式
前項の図からも明らかなように、一般に次の関係が成り立つ。
等価確実所得 = 期待所得 - 危険プレミアム
数式で書くと、
ŵ ≈ w -
1
r( w )•Var(w).
2
(1)
ここで、
ŵ = 等 価 確 実 所 得 、す な わ ち不 確 実な所得と効用を等価にする確実な所得(certainty
equivalent of the random income)、
w = 期待所得、すなわち不確実な所得の平均値(mean of the random income)、
1
r( w )•Var(w) = 危険プレミアム(risk premium)、
2
u"(.)
r(.) ≡ 絶対危険回避度(coefficient of absolute risk aversion)。もし経済主体が危険回避
u'(.)
的ならu”< 0 なので、r(.) > 0 となる(危険に対する選好に関わらず u’> 0)。
参考までに、(1)式の導出は次の通りである。
不完全情報とインセンティブ問題
8
2001.10.11
奥西 好夫
Taylor 展開により
u(w) ≈ u( w ) + (w - w )u’(w ) +
1
(w - w )2 u”(w ).
2
両辺の期待値をとると
1
E[u(w)] ≈ u( w ) + E[w
w
- w )2 ] u”(w )
1
42-4
3] u’(w ) + 2 E[(w
1424
3
0
Var(w)
⇒
E[u(w)] ≈ u( w ) +
1
Var(w) u”(w ).
2
(2)
w の等価確実所得 ŵ は、その定義により
u( ŵ ) = E[u(w)].
(3)
また、ŵ とw が十分近いとすると、Taylor 展開により
u( ŵ ) ≈ u( w ) + ( ŵ - w )u’(w ).
(4)
以上の(2)、(3)、(4)より(1)が得られる。
(3)効率的な危険分担に関する簡単なモデル
A、B の 2 人が、それぞれ不確実な所得機会(例えば来年の所得)WA、WB に直面しているとす
る。ただし不確実といっても、平均はそれぞれ WA 、WB 、分散は Var(WA)、Var(WB)であることはわ
かっており、、A、B の所得の不確実性の源泉は互いに独立であるとする(Cov(WA, WB) = 0)。さら
に、A、B の絶対的危険回避度は所得水準に関わらず一定で、それぞれ rA、rB であるとする。
最も効率的な危険分担、すなわち両者の等価確実所得の合計が最大となるような危険分担
のあり方を求めるには、第 3 講で学んだ(社会的)価値最大化原理(value maximization principle)を
適用すればよい。
仮に、両者が何らの危険分担を行わないなら、等価確実所得の合計は、基本公式(1)を用い
1
1
ると、
WA - rAVar(WA) + WB - rBVar(WB)
(5)
2
2
となる。
これに対し、両者が、効率的な危険分担を実現するため、次のような取り決めを行うとする。
A は WA のうちα、WB のうちβ、そして定額γをB から受け取る(γはマイナスでもよい)。一方、B は WA
のうち(1 - α)、WB のうち(1 - β)を受け取り、定額γをA に支払うことになる。すなわち、A の所得は
αWA + βWB + γ、B の所得は(1 - α)WA + (1 - β)WB - γ、と表せる。この場合、両者の等価確実所得
の合計は、
1
rAVar(αWA + βWB + γ)
2
1
+ (1 - α) WA + (1 - β) WB - γ - rBVar[(1 - α)WA + (1 - β)WB - γ]
2
1
2
2
= WA + WB - rA[α Var(WA) + β Var(WB)]
2
1
2
2
- rB[(1 - α) Var(WA) + (1 - β) Var(WB)].
2
α WA + β WB + γ -
(6)
これを最大にするα、βを求めるため、(6)式をα、βに関して微分して0 とおく。まず、αについて微分
不完全情報とインセンティブ問題
9
2001.10.11
奥西 好夫
して 0 とおくと、
1
1
rA2αVar(WA) - rB(- 2)(1 - α)Var(WA) = 0
2
2
rB
α=
.
rA + rB
⇒
(7)
同様に、(6)式をβについて微分して 0 とおくと次が得られる。
rB
β=
.
rA + rB
(8)
(7)、(8)を(6)に代入して整理すると、最大化された等価確実所得の合計が次のように求まる。
2
1
rB
WA + WB - rA[Var(WA) + Var(WB)]
2
rA + rB
2
1
rA
- rB[Var(WA) + Var(WB)]
2
rA + rB
1 rA rB
= WA + WB [Var(WA) + Var(WB)].
(9)
2 r A + rB
(
)
(
)
これを何らの危険分担が行われない場合(α = 1、β = 0、γ = 0)、すなわち(5)と比べると、
1 rA rB
(9) - (5) = WA + WB [Var(WA) + Var(WB)]
2 r A + rB
1
- WA + WB [rAVar(WA) + rBVar(WB)]
2
2
1 rA 2
=
Var(WA) + rB Var(WB) > 0 (if rA + rB > 0).
2 r A + rB
r A + rB
{
}
{
}
すなわち、危険が両者間で分担されると、等価確実所得の合計は大きくなる(パレート改善)。
危険分担の原理 (principle of risk sharing)
複数の経済主体が統計的に独立な危険に直面しているとき、その危険負担をお互いに分担す
ると、危険に伴う費用(危険プレミアム)は減少する。
また、(7)、(8)からは次の含意も得られる。
効率的危険分担の原理 (principle of efficient risk sharing)
危険が効率的に分担される場合には、ある経済主体が分担する危険(不確実な所得)は異なる
危険原因(所得源)を通じて一定である。また、その危険分担の程度は、その絶対的危険回避度に
反比例する。
すなわち、危険回避度の小さい方に、より多くの危険を負担させるのがよい。例えば A が危険回
避的(rA > 0)でB が危険中立的(rB = 0)なら、B に全ての危険を負担させるのが最も効率的である。
ただし、この議論では道徳的危険(moral hazard)の問題は考慮されていない。
3.危 険 分 担 とインセンティブのバランス
本節では、第 1 節(4)で触れた「本人-代理人関係」の簡単な数学モデルを検討し、リスク負
担とインセンティブのバランスについて考える。以下のモデルは Milgrom and Roberts (1992) Ch. 7
に依拠している。
不完全情報とインセンティブ問題
10
2001.10.11
奥西 好夫
(1)モデルの設定
労働者(agent)が企業(principal)のために働くという「本人-代理人関係」を考える。企業にと
って重要なのは、労働者がどの程度一生懸命働くか―仮に「努力」(e)と呼ぶ―だが、それは不完
全にしか観測できないとする。労働者にとって「努力」のコストは、
C(e)
C’(e) > 0、C”(e) > 0、
企業の利潤は、
P(e)
P’(e) > 0
で表されるとする。ただし、企業が観測できるのは e そのものではなく、
x≡e+ε
である。ここでεは「誤差」あるいは何らかの不確実要因を示す確率変数で、E[ε] = 0 とする。さらに
企業にとって x 以外に、第 2 の指標 y も観測可能であり、Cov(y, e) = 0、E[y] = 0 と仮定する。
企 業は x、y という 2 つの観測可能な変数に基づき、労働者に対し次のルール(linear
compensation rule)で報酬を支払うとする。
w = α + β(x + γy) = α + β(e + ε + γy).
(1)
ここで、w = 賃金、α = 基本給・定額部分を示すパラメーター、β = 刺激給部分の強さを示すパラメ
ーター、γ = 第 2 の指標に対するウェイトを示すパラメーター、である。
労働者の等価確実所得は、
1
E(w) - C(e) - rVar(w)
2
= α + β(e + ε + γ y ) - C(e) = α + βe - C(e) -
1
rVar[α + β(e + ε + γy)]
2
1 2
rβ Var(ε + γy).
2
(2)
(2)を最大化するe の水準は、(2)をe に関し微分し0 とおくことにより、
β - C’(e) = 0.
(3)
これはインセンティブ両立制約(incentive compatibility constraint)と呼ばれる。一方、企業の等価
確実所得は、企業が危険中立的と仮定すると、
P(e) - E(w) = P(e) - (α + βe).
(4)
社会的価値最大化原理を適用すると、問題は、(2) + (4)を(3)の制約の下で最大化する(e, α, β, γ)
は如何となる。すなわち、
max P(e) - C(e) -
1 2
rβ Var(ε + γy)
2
(5)
s.t. β - C’(e) = 0.
(3)
ここで注目すべきは、本人-代理人関係がない場合との比較である。もし単一の危険中立的な経
済主体が自ら働き自ら利潤を獲得するなら、目的関数は単に「P(e) - C(e)」であり、(3)式の制約条
件は不要である。この場合、最適努力水準(e0 )は「P’(e) = C’(e)」(限界収益=限界費用)を満たす
ように決まる。しかし、本人が危険回避的な代理人を使って利潤をあげようとするなら、最適努力
水準(e1 )は後出(10)式よりC’(e) = P’(e)/[1 + rVC”(e)]を満たすように決まり、e0 より低い水準とな
る。これは他人を使うことによるインセンティブの低下と、その他人が危険回避的であることによっ
不完全情報とインセンティブ問題
11
2001.10.11
奥西 好夫
て発生するコストである。
本人-代理人関係のコスト
P’(e), C’(e)
C’(e)
•
•
P’(e)
β = P’(e)/(1 + rVC”)
e1
0
e
e0
(2)γの決定 - 評価指標の問題
まず、e を固定した時、いかなるα、β、γが最適かを考える。(3)式により、e を固定するというこ
とは、βを固定することである。αは企業-労働者間の所得分配には影響を与えるが、最大化問題
には入っていない((5)式を参照)。したがって、Var(ε + γy)を最小にするγが上記の最大化問題を解
く。
2
min Var(ε + γy) = Var(ε) + γ Var(y) + 2γCov(ε, y).
γに関して微分して 0 とおくと、
⇒γ=-
2γVar(y) + 2Cov(ε, y) = 0
Cov(ε, y)
.
Var(y)
(6)
すなわち、もしy とεが独立なら(Cov(ε, y) = 0)、第二の指標 y を評価に加える必要はない(γ = 0)。
しかし、もしy とεが独立でないなら、すなわち y がεに関し何らかの有用な情報を持つなら、y を評
価に取り入れることは効率(efficiency)を改善する。
評価のための情報の有用性に関する原理 (informativeness principle)
報酬の決定に当たって、労働者の努力水準の観測誤差を減らすのに有用な指標を適当なウェ
イトで取り入れることは効率改善をもたらす。また、ウェイトはその指標が正確なほど大きくすべき
である。
【例 1】εは特定製品市場の好・不況を表す指標、y は経済全体の好・不況を表す指標(GNP など)と
する。もしCov(ε, y) > 0 ならγ < 0 となる。すなわち、y がいい時εもいいので、x ≡ e + εが高くとも、そ
れはεが高いという効果を含んでいる。したがって、高い x をそのまま e の指標として使うのではな
く、割り引いてやる必要がある。
【例 2】労働者のパフォーマンスを評価する場合、個人毎の絶対評価がいいのか、他の労働者との
相対評価がいいのかという問題である。労働者のパフォーマンスは次の要因からなるとする。
xi = ei + εi + ξ.
(7)
ここで、xi = 労働者 i の観測された努力、ei = 労働者 i の実際の努力、εi = 労働者 i に特有な誤差、
ξ = 全労働者に共通な誤差、である。絶対的評価(absolute performance measure)は、(7)式その
ものが評価指標で、その分散は、
不完全情報とインセンティブ問題
12
2001.10.11
奥西 好夫
Var(xi) = Var(εi) + Var(ξ).
(8)
一方、相対的評価(relative performance measure)の評価指標は、
xi - xj = (ei - ej) + (εi - εj)
であり、その分散は、
Var(xi - xj) = Var(εi) + Var(εj)
(9)
となる。(8)と(9)の比較により、
Var(ξ) > Var(εj)
の場合には相対的評価の方が効率的となる。すなわち、測定誤差が主として労働者間で共通の
要因による場合には、相対評価を用いることによってより正確な努力水準の推定が可能となる。
(3)βの決定 - インセンティブの強さの問題
γを固定し、(5)を(3)の制約の下で最大化するβを求める。(3)を(5)に代入すると、
2
1
P(e) - C(e) - rC’(e) V.
2
(5’)
ここで V ≡ Var(ε + γy)である。(5’)をe に関し微分して 0 とおくと、
P’(e) - C’(e) - rVC ’(e) C”(e) = P’(e) - β - rVβC”(e) = 0
P ' (e )
⇒β=
< P ’(e).
1 + rVC" (e )
(10)
インセンティブの強さに関する原理 (incentive intensity principle)
最適なインセンティブの強さ(β)は次の 4 つの要因に依存する。
(i)
追加的な努力によってもたらされる利潤増加の程度(P’(e))が大きいほど強い。
(ii) 努力指標が正確に測定される(V が小さい)ほど強い。
(iii) 労働者の危険回避度(r)が小さいほど強い。
(iv) 労働者のインセンティブに対する反応の程度が大きい(C”
が小さい)ほど強い。
以上はいずれも(10)式による。(iv)の C”
が小さいほど「労働者のインセンティブに対する反応
の程度」(∆e/∆β)が大きいというのは下図で示される。インセンティブの強さ(β)を高めたとき、「努
力」の限界費用の増え方が小さい(C”
が小さい)なら、労働者の努力水準はより大きく増す。一般に、
労働者に裁量の余地が大きい場合に、こうしたことが起こりやすいであろう。
β
C”とβの関係
C’(e)2
C”が小さい
C’(e)1
∆β
e
∆e 2
不完全情報とインセンティブ問題
∆e 1
13
2001.10.11
奥西 好夫
(4)より正確な評価指標観測のための活動
費用をかけて監視(monitor)することによりV を減らせるとする。いま、観測誤差の分散をV に
まで減らすのに最低限必要な監視活動のための費用を M(V)で表す。当然のことながらV を下げ
るには M を増やさねばならない(M’(V) < 0)。また、M を増やさねばならない程度は V が小さいとき
ほど大きい(M”(V) > 0)とする。
この場合の価値最大化問題は、
1 2
max P(e) - C(e) - rβ V - M(V)
2
(5”)
s.t. β - C’(e) = 0.
(3)
e、βを固定し、(5”)を最大化するV を求めるため、(5”)をV に関し微分し0 とおくと、
1 2
1 2
- rβ - M’(V) = 0
⇒ - M’(V) = rβ .
2
2
(11)
監視強度に関する原理 (monitoring intensity principle)
インセンティブの強度(β)が強い場合には、観測誤差が小さくなるよう(V が小さくなるよう)、より
積極的な監視がなされる(M が大きくなる)。
これは(11)式による。大きいβと小さい V が対応していることは下図で示される。そこで右下が
1 2
りの直線は- M’(V)を、点線の水平線は rβ を表している。
2
βとV の関係
- M’(V)
より高いβ
(1/2)rβ 2
V
より小さい V
(5)労働者が複数の活動を行う場合
最後に、数式は省略するが、次の原理も応用上重要である。
異なる活動間の均等報酬原理 (equal compensation principle)
労働者が複数の種類の活動を行い、企業はそれらの 間の時間や努力の配分が識別できな
い場合、企業は、労働者の各活動からの限界便益が等しくなるように報酬を決める必要がある。
そうしないと、労働者は限界便益の低い活動には時間や努力を費やさなくなる。
一人の労働者が複数の活動を行っている例には、大学教員の研究、教育、学内行政、対外
活動等、研究者の基礎研究と応用研究、生産労働者の直接生産活動と後輩の指導育成活動、な
ど多数ある。こうした場合、測定が容易な活動のみをベースにした報酬は、測定が困難な(しかし
不完全情報とインセンティブ問題
14
2001.10.11
奥西 好夫
重要な)活動へのインセンティブを阻害してしまう。もし測定困難な活動が企業にとって非常に重
要であるなら、測定が容易な活動をベースにしたインセンティブ給を導入するよりも、(ある一定期
間)定額のサラリー一本でやる方が望ましいことが十分にあり得る。この場合、長期的なインセン
ティブは昇級、昇進等、他の手段で対応することになろう。
参考文献
ジョセフ・E・スティグリッツ『ミクロ経済学』(東洋経済新報社、1993)12 章、13 章、15 章など。
Frank, Robert H. Microeconomics and Behavior (McGraw-Hill, 1991) Chapter 16.
Milgrom, Paul and John Roberts. Economics, Organization & Management (Prentice Hall, 1992)
Chapters 5, 6 and 7.
Stiglitz, Joseph E. Whither Socialism? (MIT Press, 1994)
不完全情報とインセンティブ問題
15
2001.10.11
奥西 好夫