アルジェリアとライ・ミュージック 粕谷祐己 アルジェリアに育ったライ・ミュージックは、20年ほど前から国外にもファン層を広げ、今 では世界中で愛好されています。残念なことに日本ではまだなじみが薄いのですが、ライを聞い てみると、これほど遠い土地の音楽文化がモダン化されて、われわれ日本人の心も一瞬でつかん でしまう魅力を持っていることに驚かされます。 このジャンルの基本的性格を決定づけたのはシェイハ・リミッティでした。1940 年代から歌 い始めた彼女は、愛国歌や宗教歌とともに、肉体的な愛を、特に女性に対して称揚した歌で注目 を集めました。晩年になってから伴奏に電気楽器を導入して歌い始めた彼女は、常に進取の精神 を失わない人でした。 1962 年、長い戦いのあとアルジェリアは独立しますが、当時は外国からさまざまな音楽が流 れ込んで若者の心をとらえ、アルジェリア固有のジャンルは衰退の危機にさらされました。その ときトランペッターのベルムーが自分のバンドで伝統的ライの伴奏を近代的なものに革新して 支持を集め、アルジェリアの音楽を守ることに成功しています。日本で現在、どれだけの人が日 本の伝統音楽(民謡、邦楽など)を心から愛して歌い、鑑賞しているかと考えると、日本にベル ムーのような人が出なかったのが本当に残念に思われます。 1970 年代に入ると、モロッコの民衆音楽の影響もあり、また日本製のラジカセやシンセサイ ザーの普及もあって、ポップ=ライと呼ばれる現行のライのスタイルが確立します。ポップ=ラ イはその野卑な内容を難じられながらも、アルジェリア全国の若者の圧倒的支持を得て、外国の マスコミの注目も集めます。そこで「ライの王様」シェブ=ハレドが政府の支援を得て 1988 年 に作ったアルバムが『クッシェ』で、伝統の香りを失うことなく超モダン化したその音でワール ドミュージックの傑作として世界で高く評価されました。 しかしその同じ頃、アルジェリアはかつてない苦難の時代に入っていきます。政情が不安定に なりイスラム原理主義が台頭、無差別テロが横行することになります。テロの犠牲者は 10 万人 にのぼると言われます。1994 年にはカリスマ的人気を誇ったライ歌手、シェブ=ハスニが暗殺 される事件が起こり、歌手たちの多くはフランスにのがれていきます。 1990 年代末は、フランス国民が移民系文化に最も親しみを覚えていた時代でした。1998 年に はアルジェリア系移民二世のジダンの率いるフランス・チームがサッカーのワールドカップを制 して国民的英雄となりましたが、同じ年の 9 月にアルジェリア系の三人の歌手、ハレド、ラシー ド・タハ、フォーデルによる合同コンサート「アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ」がパリで開かれ、 大成功を収めます。モダン化したライは、フランス在住の北アフリカ系移民二世、三世の若者に とって、自らのルーツのアイデンティティを象徴するものとなりました。 1999 年、ブーテフリカ大統領が就任するころ、テロもようやく終息しました。いまやアルジ ェリアは世界経済の中で飛躍をとげようと力いっぱい努力しています。 日本もまた、外国で行うものとしては史上最大級のプロジェクトである高速道路建設をアルジ ェリアで行っています。 文化は、とくに音楽は、二つの国が相互理解をはかる最良の懸け橋となるものです。魅力的な ライを聞きながら、日本と深く関わりのあるアルジェリアをもっと知ろうではありませんか。
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