菅野 淑 - 名古屋大学 文学研究科 文学部

日本における「アフリカン・ダンス」
菅野 淑 *
“African Dance” in Japan
KANNO Shuku
要旨
本稿は、日本社会において馴染みの薄いアフリカの舞踊や音楽に注目するものである。セネガル共和
国やギニア共和国で国家的に創造された「アフリカ・バレエ」が日本にもたらされた経緯とその歴史を
述べる。また、これらの演奏活動をおこなっている日本人に注目し、その活動の実態を報告する。
Abstract
In this paper, I focuses on “African Dance” in Japan. First, I mention that the history of “African Dance” in Japan.
Next, I report that the activity of Japanese who loves “African Dance”.
キーワード
アフリカ、舞踊、音楽、グローバリゼーション、ローカリゼーション
はじめに
セネガル共和国やギニア共和国では、植民地政府からの独立後、文化政策の一環として、国立舞踊団
(National Ballet troupe)が創立されていった。セネガルには、フランスから独立した翌年 1961 年に国立
舞踊団が創立された i。ギニアには 1940 年代後半にフォデバ・ケイタFodéba Keitaiiが、Le Ballets Africains
(アフリカ・バレエ団)を創立し[Charry 2000:9]、独立後国営化された[鈴木 2007:355]。
このような国立舞踊団の創立とその後の活動には、各国政府の政策が大きく関係している。国立舞踊
団創立の背景には、国民文化の創造、国民意識と国民国家の形成という意図があり、自国のダンスの「伝
統」を再構成する狙いがあった。国内の各村、各民族から選りすぐりの踊り手や演奏者、楽器が集めら
れ、様々なスタイルのダンスが合わさり、舞台用にアレンジされていった。
「伝統的」なリズムが新解釈
され、創造され、そして強化されていった。国立舞踊団は、国の規範やダンスのレパートリーの具体化
であるという。元来は、人々が円形となって演奏し踊っており、演者と観客の入れ替わりが可能となっ
ていた形態が、舞台にあがり観客に見せるために、その形態がライン状へ変化していった。[Charry
2000:194, 211、Castaldi 2006:9、鈴木 2007]。
セネガルの初代大統領レオポルド・サンゴール Lépold Sédar Senghor やギニアの初代大統領セク・トゥ
レ Sékou Touré は、舞踊を自国の文化の大使的役割を担うものと位置づけた。サンゴールは、
「バレエ」
をセネガルの文化大使として奨励し、国内および世界の主要な劇場でパフォーマンスするよう命じたと
*
名古屋大学大学院文学研究科,Nagoya University, Graduate School of Letters
101
いう。国立舞踊団は、自国の文化を表象するのみならず、
「アフリカ」を表象しているのである[ウシ 2006
(2004)
:22、Castaldi 2006:9]。
この国立舞踊団で踊られているものは、村で「伝統的」に踊られているものとは区別し、
「バレエ・ス
タイル」と呼ばれることが多い。この「バレエ」とは、いわゆる西洋のクラッシック・バレエのことで
はなく、
「太鼓演奏にあわせて激しく踊る伝統舞踊のことであり、そこに演劇の技法を持ち込んだ一種の
ミュージカル劇」[鈴木 2007:354]である。
このように国家的に創造された「アフリカ・バレエ」は、その形態が西欧式のいわゆるステージ用の
パフォーマンスに馴染みやすいものであったため、アフリカから世界各地へ一定の広まりをみせた。こ
うした「バレエ・スタイル」でおこなわれる舞踊は、
「アフリカン・ダンス」として日本に紹介され、現
在徐々に広まりをみせている。それらは、現在「アフリカン」や「アフリカン・ダンス」と日本人の愛
好者から称され、音楽やダンスのジャンルの一つとして扱われるようになってきている。これらは、か
つては欧米から始まったワールドミュージック・ブームを受け、欧米経由で日本に紹介されていたので
あるが、現在ではアフリカから日本へ、直接的にもたらされるようになりつつある。
本稿は、このような「アフリカン」の日本における受容状況と、その広がりについて報告し、日本に
おけるアフリカ舞踊および音楽に関する今後の研究のための足がかりを構築することを目的としている。
そこでまず、アフリカの舞踊や音楽が、日本にもたらされた経緯とその歴史を述べる。そして、現在「ア
フリカン・ダンス」やジェンベDjembé、jenbe、jembe iiiの演奏を愛好している日本人に注目し、どのよう
な人びとが集い活動しているのかを明らかにする。そして、愛好者を活動への参与の度合いによってレ
ベルに分類し、
「アフリカン・ダンス」やジェンベ、アフリカそのものに求めるものの変化を明らかにす
る。本稿においては、日本人の愛好者の呼び方に倣い、
「アフリカン・ダンス」およびジェンベなどのア
フリカ発祥とされる楽器による音楽を、
「アフリカン」と総称することにする。
Ⅰ.日本における「アフリカン」
1.その歴史と概要
日本におけるアフリカ音楽の需要は極めて低く、文化事業などでアフリカ人ミュージシャンが招聘さ
れることがあったが、それはごく限られた範囲内での演奏でしかなかった[鈴木 2008]。1965 年に、ギ
ニアのアフリカ・バレエ団(Le Ballet Africains)が日本公演をおこない、その後、アフリカ各地の歌手や
音楽グループが来日公演をおこなった。特に、1980 年代後半から 90 年代前半にかけて、ジェンベを中
心とするアフリカの舞踊・音楽が日本に広がりをみせ始めた。その背景には、ワールドミュージック・
ブームがある。当時の日本は、バブル経済期にあたり、音楽家の公演に企業スポンサーがつきやすかっ
たこともあり、その頃には、多くのアフリカ人音楽家の来日公演が開かれていた。また、日本人による
セミナーやワークショップ等の活動がおこなわれ、紹介されてきた[白石 1993、鈴木 2008]。
そのような中、アメリカで西アフリカの舞踊・音楽を学んだ柳田知子氏と砂川正和氏が、1987 年に「ド
ラム&ダンスシアター ウォークトーク」を主宰し、日本人としては初めて日本に西アフリカの舞踊・
音楽を紹介した。彼らは、ジンベ(ジェンベ)のワークショップとそれらに合わせて踊る、ダンスのワ
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ークショップを開催した。開催当初は少人数であったが、その一期生には現在東京を中心に活動をおこ
なっている武田ヒロユキ氏が、第二期生には寺崎卓也氏などが顔を連ねていた。そこで学んだ者達が、
現在はジェンベの演奏やダンスの大御所的な存在となっている[菅野 2009]。
1990 年には、マリ人ギタリスト、ママドゥ・ドゥンビアがサリフ・ケイタのツアーメンバーとして来
日し、翌年来住する。彼が西アフリカのミュージシャンとしては最初の来住者であると思われる。ママ
ドゥは現在も日本に在住し、音楽活動を継続している。1992 年に、ギニア生まれのセネガル人ユール・
ジャバテが来住した。前出の砂川氏らと数回、共に活動をし、また、ママドゥ・ドゥンビアとユニット
を結成した。ユール・ジャバテも現在も日本で活動をおこなっている[鈴木 2008:73-74, 77-78]。
1993 年に、ママディ・ケイタMamady Keïtaivのルポルタージュ映画『ジャンベフォラ:聖なる帰郷』が
日本公開された。これは、1991 年にヨーロッパで制作されたもので、ママディ・ケイタがベルギーから
ギニアの首都コナクリを経て生まれ故郷に帰るまでを追ったものである[鈴木 2008:66-67]。
それにより、
ジェンベを中心としたアフリカ音楽は広まりをみせ[柳田 2000]、この映画に影響されジェンベの演奏を
始めたという人は少なくない。同 1993 年、柳田氏が「セネガルでジンベとダンスを学ぶためのツアー」
を主催した。これが、現在毎年のように開催されているアフリカ現地で太鼓とダンスを学ぶツアーの先
駆けであると考えられる。
1990 年代に入りと、ワールドミュージック・ブームもひと段落し、日本ではバブル経済の崩壊ととも
に、アフリカ音楽に対するマーケットは収縮していき、来住していたアフリカ人の中には、日本を離れ
たものもいたが、多くは残った[鈴木 2008:68]。収縮傾向にあったにも関わらず、1995 年以降、毎年
のように西アフリカから舞踊・音楽の演奏および教授活動をおこなう人々が来住しており[菅野 2009]、
日本人の間にもジェンベ・ブームは草の根的に日本各地に広まっている[鈴木 2008]。
2.近年の動向-2000 年以降を中心に
2004 年、鹿児島県三島村にアジアで初めて、先述したママディ・ケイタが主催する西アフリカの「伝
統音楽」を学ぶ学校「タムタムマンディング」の日本校(
「Tamtam Mandingue Japan」
)が設立された[菅
野 2008]。このように、アフリカ人と日本の村が共に作りあげた学校があるのみならず、日本人や在日
するアフリカ人個人が講師を務めるジェンベ教室や「アフリカン・ダンス」クラスは、全国の主要都市
を中心に存在している。しかし実際のところ、一般的にはあまりその存在が知られていないのが現状で
ある。
欧米諸国には、それ専門の舞踊団やスタジオが創立されており、多くのアフリカ人ミュージシャンや
ダンサーが所属しているだけではなく、それを受講する生徒数も多い。しかし、現在の日本にはそのよ
うなシステムはない。しかしながら、近年ではテレビ番組内でエクササイズの一つとして西アフリカの
ダンスや音楽が取り上げられ(番組内でも「アフリカン・ダンス」と称される)
、在日するギニア人ミュ
ージシャンが出演したり、日本人ダンス講師が出演したりするようになった。また、在日セネガル人ダ
ンサーによる、アフリカン・ダンスの要素を取り入れたエクササイズDVDの発売もされている。ダンス・
スタジオでは、
「アフリカン・ダンス」をベースにし、ヨガやストレッチを組み合わせた新たなエクササ
103
イズを働く女性向けにおこなっているところもある。その他にも、障害者への教授活動がおこなわれた
りもしている。これらのことが新聞や雑誌記事にも取り上げられることもあり、愛好者以外にもその情
報が伝えられるようになってきている。また、
「フリースタイル v」と称される手法でジェンベの演奏を
楽しむ人も増えてきている。
Ⅱ.
「アフリカン」の日本人愛好者
1.日本人愛好者の実態
日本人の愛好者がジェンベや「アフリカン・ダンス」に出会ったきっかけは、様々である。例えば、
インドを旅行中にジェンベを知ったものや、ニューヨークのダンス・スタジオで「アフリカン・ダンス」
に知ったというものもいる。また、アジア雑貨店でインドネシア産のジェンベを見かけたことがきっか
けだったり、最近ではレイブ viなどの野外イベントにおいて「フリースタイル」でジェンベを叩いている
人を見かけたことがきっかけで興味を持った、というものもいる。他にも、Hip Hopやジャズダンスを習
っており、その「ルーツ」と愛好者らから見なされている「アフリカン・ダンス」に関心を抱き、ダン
ス・クラスに通い始めた、というものもいる。
筆者は、2005 年から断続的に、愛知県名古屋市を中心に、
「アフリカン・ダンス」やジェンベの演奏
をおこなっている人々を対象に参与観察を続けている。詳細は、別紙図表参照してもらいたい。この地
域をみるだけでも、愛好者の年齢層は 20 代から 4・50 代にかけての男女である。筆者が調査を開始して
からの数年の間に、レベル 1(下記参照)程度の愛好者の入れ替わりは多く見受けられた。しかし、レ
ベル 2 以上の、いわゆる「名古屋「アフリカン」界」で中心となっているメンバー構成に大きな変化はみ
られなかった。職業は、自営業から、正社員、派遣・契約社員、フリーター、学生、公務員と幅広い。
その職業は、以下に述べる「アフリカン」への関与の大小によって異なってきている。また、この数年
の間に、転職したものも数名いる。
2.日本人愛好者の分類
このような愛好者を、筆者は「アフリカン」に参与する度合いによって、3 つのレベルへの分類を試
みた。レベルごとの活動詳細は、次節で述べる。
表 1.
「アフリカン」へ参与状況レベル
レベル 1
ジェンベに興味を持ち始めた、または、
「アフリカン・ダンス」に興味を持ち始めた
程度の愛好者。また、
「フリースタイル」で演奏する人々もこのレベルに含むことにす
る。月に数回、ジェンベ教室や「アフリカン・ダンス」のクラスに通う、習い事感覚
である。太鼓を叩いたり、踊ったりすることが楽しく、ストレス発散になっている。
特別に太鼓やダンスが技術を身につけてなくとも、クラスの進むスピードについてい
けなくとも、楽しむことができる。アフリカ現地渡航経験があるものはほとんどいな
い。
レベル 2
自分達でグループを編成し、同じクラスを受講し、習得してきたことを仲間内で演奏
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することを楽しむ愛好者。ステージに立つこともあるが、それは不定期である。固定
の仕事をしつつ、趣味の範囲で「アフリカン」を楽しんでいるレベル。クラスや合宿、
イベントにも頻繁に参加する。現地渡航経験者も増える。
レベル 3
自らが太鼓やダンスの講師となったり、日本の「アフリカン界」では有名なグループ
に所属し、アフリカ文化・音楽を社会に伝えていく立場になっている愛好者。いわば、
「セミ・プロ」である。アルバイトや派遣、契約社員など時間的拘束が比較的少なく、
融通の利く仕事をしている。あるいは、演奏活動・講師活動のみで生活しているもの
も中にはいる。現地への渡航経験は数回に及ぶ。さらに、現地ワークショップ・ツア
ーの企画者となり、毎年のように渡航するものもいる。また、現地から自身の講師を
日本に招聘する場合もある。
以上のように「アフリカン」の日本人愛好者を分類したが、これらのレベルによって愛好者の「アフ
リカン」に対する向き合い方、関わり方にも変化がみられる。例えば、レベル 1 では、
「アフリカン」に
対する特別な「こだわり」はなく、自身が演奏しているものが、漠然と「アフリカの中でも、西の方の
リズム」といった程度の認識をもつ。クラスでは、講師が提示したリズムを受動的に叩いたり踊ったり
する。
「バレエ・スタイル」や「村・スタイル」
(
「伝統的」な演奏法のことを、日本人愛好者はこのよう
に称する)の区別を気にかけることはない。
レベル 2 では、レベル 1 に比べ「アフリカン」に対しての「こだわり」が生じてくる。ギニアのリズ
ム、ないしセネガルのリズム、マリのリズムといった国ごとに分けて、そのリズムを認識するようにな
る。クラスにおいては、受動的におこなうが、自身の属するグループでは好みの国のリズムを中心的に
練習する。
「バレエ・スタイル」か「村・スタイル」の区別を認識するようになる。
レベル 3 では、
「アフリカン」に対する探求心がさらに強くなる。そのリズムが、どこの地域ないしど
この民族のもので、どういった機会に誰によって踊られるものか理解している。このレベルになると、
日本「アフリカン界」での全国的な知名度もあがる。人によっては、それにより、全国を演奏や講師活
動で廻ることもある。インストラクターとして、専門的な知識をもつようになる。
105
日本における
「アフリカン」
の愛好者は、以上のように、
分類することができる。この
レベルは、ピラミッド式に考
レベル 3
人数:少
えることができる。当初は、
知識・技術:
愛好者誰もがレベル 1 である。
高
そこから、さらにレベルをあ
げていく愛好者、そのままの
レベル 2
レベルの愛好者と分離してい
く。レベルが上になればなる
ほど、その人数は少なくなっ
人数:多
ていき、
「アフリカン」に関す
レベル 1
る知識や演奏の技術はあがっ
知識・技術:
低
ていくのである。
図 1 日本人愛好者のレベル分け
3.日本人愛好者の活動
3-1.レベル 3-講師、
「セミ・プロ」として活動する日本人愛好者の事例
日本に住むセネガル人やギニア人の数は、欧米諸国に比べ非常に少ないため、
「アフリカン」の活動を
支えるのは、自ずと日本人の愛好者が中心となる。10 年以上「アフリカン・ダンス」を愛好しているあ
る日本人によると、10 数年前の講師といえばアフリカ人で、それを受講する日本人もごく一部に限られ
ていた。しかし、現在では、
「アフリカン・ダンス」が以前に比べ日本社会に浸透していくに従い、日本
人講師が増加し、生徒はアフリカ人と日本人の講師を「選ぶ」ことができるようになってきた、という。
見方によれば、双方で生徒を「取り合う」状況になった、とも言うことができると考える。
かつては、日本人が実践する「アフリカン」といえば、全てがアフリカ人の講師がおこなうことの模
倣にすぎず、この種の活動は何はともあれアフリカ人を欠いては成り立たなかった。だが、次第に、独
自の方法で「アフリカン・ダンス」や音楽を習得してきた日本人による教授、演奏方法が広まりつつあ
るのが現状である。しかし、
「本場」のアフリカ人が教える「本物」の太鼓やダンスではなく、日本人が
教えることの利点が日本人講師にとっては必要となる。日本人愛好者が、自身がアフリカで習得してき
た技術を日本人向けに講師活動をおこなう際は、そのまま伝達するのではなく自身の解釈を入れるなど、
よりわかりやすい教授をしなければならない。
例えば、以下の様な事例がある。筆者はセネガルで、セネガル人のダンサーにサバール・ダンスsabar
を習っていたことがある。そのサバール・ダンスには、飛び上がるようにステップを踏む、代表的な動
106
きがある(
「サバール・ステップ」ないし「フェチfeccvii」と日本人愛好者はそのステップを称する)
。そ
れは、右足をまず一歩前に踏み出し蹴り上げ(ターン)
、次に同じ右足(タ)で地面を軽く踏み、続いて
左右左(タンタンタン)の順番でステップを踏むものである。そのステップの足数を口で表現するため
に、括弧内に記したカタカナをつなげると「ターンタ、タンタンタン」となる。これが、筆者がセネガ
ル人から習得したステップであった。サバール・ダンスには、このステップを連続しておこなうことが
頻繁にみられる。これは難解なステップで、筆者はなかなかリズムに乗ってステップを踏むことができ
ずに苦労していた(日本人愛好者の語りからも、筆者以外にもこのステップを踏めず「難しい」と感じ
ているものは多い)
。
しかし筆者は、サバール・ダンスを日本に紹介した第一人者である日本人女性のクラスを受講し、そ
のステップの説明を受けた時に、ようやく難解と思っていたそれを踏むことができたのである。彼女の
説明によると、実際に踏んでいる足数は、
「ターンタ、タンタンタタン」だという。つまり、右(ターン)
、
右(タ)
、左右(タンタン)左(タ)
、右足(タン)で踏み切って左足軽く付き、再び右足を出す、とい
うステップだったのである。その「タタン」という細かい一歩を、セネガル人は感覚的、無意識に踏ん
でおり、それをあえて言語化し、説明に加えてはいなかったのである。
また、別の事例がある。先のステップに入るために必要な一足がある。それは左足で踏むのだが、そ
の際に体重を軽く乗せるように上半身を軽く左側に倒す。次の瞬間に右足に体重を移し、その右足で上
に飛び上がるように地面を蹴る。そして、右足を前に出す。これが先に述べた「ターン」の部分となる。
この「左右」が次のステップに入る合図であり、
「助走」
(ないし「準備」
)となる。セネガル人講師に習
った際には、その「助走」は説明に入ってはいなかったにも関わらず、セネガル人講師がお手本で踊っ
た際には、その「助走」を踏んでいたのである。のちに筆者が在日セネガル人講師から習った際に、そ
の師はその助走部分を「0(ゼロ)
」とカウントしていた。しかし、日本人講師はその部分を「1、2」と
カウントしていた。セネガル人講師が「0」とカウントするように、セネガル人の中ではカウントするに
値しないステップだったのである。しかし、筆者はその「助走」を知ったことにより、次のステップに
スムーズに入ることができるようになったのである。
このように、日本人講師がその 1 つのステップを追求し研究した結果、日本人でもより容易にそれを
理解し踊ることができるようになったのである。この日本のサバール・ダンス第一人者である講師は、
サバール(特に、舞踊団でダンサーが集団で揃って踊る形式ではなく、祭りなどで「フリー」で踊る形
式)を理解するために何度もセネガル現地に足を運び、現地語(ウォロフ語)を習得し、どの音を聞き、
どのタイミングで踊っているかなどを、セネガル人講師に自身が理解するまで教えてもらったという。
そしてそのために、多くの時間と金銭を費やしたという。しかし、その労力のおかげで、筆者のような、
サバール・ダンスを習う日本人愛好者が理解しやすいように、この講師は解釈を加えることができたの
である。
事例で紹介した日本人講師をはじめ、この講師が所属するサバール・パフォーマンスグループは、
「ア
フリカン・ダンス」の中でもサバールという、より「マニアック」な文化を日本に「ストレート」に伝
えつつも、
「お客さんに楽しんでもらう」ために、日々試行錯誤しながら活動をおこなっているとメンバ
107
ーは語っていた。
レベル 3 の愛好者は、
「セミ・プロ」的な立場にあるため、他のレベルの愛好者からは、ある種の尊敬
をうけている。それは、何度もアフリカ現地に渡航している、アフリカ講師を日本に招聘している、長
年「アフリカン」の音楽活動をおこなっている、アフリカ人ミュージシャンと結婚し、かつ自身も講師
として活動している、などの点で羨望のまなざしを受けているようである。レベル 3 のグループには全
国的に固定ファンが存在している。そこには、
「アフリカ現地仕込み」のメンバーの太鼓やダンスの技術
もさることながら、そのグループ独自のパフォーマンスがファンを惹きつけていると考える。
3-2.レベル 2-定期的な活動をおこなう日本人愛好者の事例
このレベルは、定期的に「アフリカン」の活動をおこなっている愛好者である。名古屋にある日本人
愛好者によって結成された、いくつかのグループは、たいてい週に 1 回程度、定期的に練習をおこなっ
ている。彼らは、例え次の出演機会が決定していなくとも、練習をおこなう。練習するリズムは、以前
から取り組んでいたものの場合もあるが、メンバーの誰かがクラスなどで習得してきたリズムを新たに
取り込み、練習することもある。
例えば、あるグループのメンバーのうち数名が合宿形式のワークショップに参加したとする。そこで
メンバーがダンス担当者、ジェンベ担当者、ドゥンドゥン担当者にそれぞれ分かれ、集中的にその担当
パートを習得する。それを、グループに持ち帰り、それぞれ習得してきたものを合わせると、ダンスと
太鼓による一つのステージ用に作られた曲が完成することになる。各担当者は、他のメンバーに自身が
習得したパートを教えることができ、また、数名で同じものを習得してきているので、リズムなどの確
認を互いにとることができる。
また、一つのグループ内で、少なくとも 2 名以上のメンバーが同じ講師からダンスや太鼓を習得した
ということが必要になる。なぜなら、以下の理由が挙げられる。例えば、習得したものが 1 名だけでは、
その人自身が講師レベル程度のジェンベやドゥンドゥンなどの太鼓の演奏技術を習得しており、他のメ
ンバーにそれら全てを教えることができる技量がなければ、太鼓のアンサンブルを完成させることは難
しい。また、1 名がダンスの技術のみを習得していても難しい。なぜなら、
「アフリカン・ダンス」には
太鼓のリズムが不可欠であり、それらも他のメンバーに伝えることができなければ、ダンスと太鼓のア
ンサンブルは成立しない。ダンスと太鼓の「掛け合い」が「アフリカン・ダンス」の「魅力」である、
と語る日本人愛好者が多いように、CDなどの音源を利用したものは好まれない viii。さらに、同じリズム
やダンスの振り付けであっても、
そのアレンジ ixがそれぞれの講師によって異なっていることもあるため、
習得するのは同一の講師からの方が望ましい。こういった事情により、それぞれ数名の同一の講師から
習得した日本人を核に各グループが結成される。
レベル 2 のグループは、例えばレベル 3 の日本人愛好者グループを名古屋に招聘した際に前座を務め
たり、地元の祭りに出演したりする。メンバーは固定の仕事をしており、その都合もあるため、遠方ま
でライブをおこなうために出向くことは、あまりみられない。
108
3-3.レベル 1-「初心者」レベルの日本人愛好者の事例
先述したように、ジェンベやダンスを始めたばかり、ないし数ある習い事の一つとして参加している
のみの愛好者である。このレベルの愛好者は入れ替わりが多くみられる。このままレベル 2 に向かう場
合、
「アフリカン」を習うこと自体を止めてしまう場合、何年もレベル 1 の場合とある。また、
「アフリ
カン」以外にも、ベリー・ダンスや和太鼓、サーフィンなど、同時進行で習い事や趣味の活動を進めて
いる。
このレベルの愛好者は、月に何回かひらかれているクラスに、特に他の用事がないときに限り比較的
軽い気持ちで参加するパターンが多い。こうした姿勢は、イベントに対しても共通する。彼らは特に「ア
フリカン」に必要以上のこだわりを持たないため、
「アフリカ」でありさえすれば少々の地域的バリエー
ションなどどうでもよく、セネガル・ギニア・マリのどこの国の人が公演をおこなっても、それを見に
いく傾向がある。
こうした人たちは、クラスに通うことで「アフリカン・ダンス」やジェンベの演奏が上手になりたい
という気持ちは持っている。ただし、そうはいってもこのリズムや振り付けの意味や形を追及したい、
ということにはさして関心がなく、それよりも楽しくみんなで汗をかいて踊る、叩く、ということに積
極的意義を見出している。それゆえに、クラス受講者全員で出演するような発表会で「みんなで一緒に」
踊りたい、ジェンベを叩きたいという意思はあっても、積極的に人前で踊りたい、叩きたいという意思
はあまり見受けられない。
Ⅲ.二極化するレベル 3 の日本人愛好者たち
レベル 3 に達した日本人愛好者を観察していると、彼らが「アフリカン」に求めるものが二極化して
いる傾向が見受けられた。それは、ステージ・パフォーマンスや「バレエ・スタイル」を追求し、人前
で自身の技術を「見せる」ことを求める派と、
「村・スタイル」を追求し、アフリカ現地で太鼓やダンス
が生活に密接しているような、
「本来」の形を求める派の二つである。
ステージに立ち、人前で演奏することが活動の中心となっている。より「かっこいい」ものや、
「新し
い」
「アレンジ」されたものを演奏したいという意識がみられる。最近では、アフリカ現地の「バレエ・
スタイル」を模し、ステージ・パフォーマンスに演劇を取り入れるグループが出てきている。ある日本
人愛好者によると、近年はこの「バレエ・スタイル」が日本国内で流行しているという。この追求派の
グループは、全国各地で演奏活動をおこなうことが多くみられる。
セネガルやギニアなどにおいては、音楽やダンスが生活に密接に関係した存在である、ということを
受け、実際に自ら農業を営んだり、仲間同士で共同体のようなものを結成したりする傾向にある。追求
派のように常に新しいものに取り組むのではなく、同じリズム/曲を長く演奏し、その場に参加してい
るもの全員がそのリズムを演奏でき、踊ることができるようになることを望む。多くのリズムに挑戦す
るのではなく、
「ゆっくり」
「丁寧」に一つのものに取り組む意識がみられる。各地で演奏活動を頻繁に
おこなったり多くのイベントに出演するよりも、地元のお祭りなどに出演することが多くみられる。
109
3.二極化の結果
以上のような二極化が、一つのグループ内でも現れてくることがある。それは、演奏方法や練習方法
など、メンバーそれぞれの求めるものの違いから生じるものである。その結果、時には「対立」してし
まったもののうち誰かがそのグループから「抜ける」こともある。そして、
「抜けた」ものは、自身が追
求したいと考えている方向性と一致する、ほかの愛好者と新たなグループを結成するようになる。
また、このレベル 3 になると、同一地域内に居住するもの同士とのみならず、全国各地に点在するレ
ベル 3 の愛好者と共にグループを結成することがある。例えば、あるグループは、福岡、大阪、京都、
長野、静岡からメンバーが集結して活動している。そしてそのメンバーは各自、地元でも別のグループ
に参加している。こういったグループが必ずしもそういうわけではないが、地元のグループでは自身の
望む演奏形態ができなくとも、そういった他のグループではできる、ということもある。
表舞台に立つことが多く、全国各地でライブ活動をおこなうことも多い追求派は、日本の愛好者内で
の知名度は高くなるが、反対に「アフリカ村回帰」派は、地元以外の地域に出ることが少ないため、全
国的な知名度は低くなる。しかし「村回帰」派も、レベル 3 の愛好者内では、知名度はある。
二極化が起きている現在日本の愛好者だが、数少ない日本の愛好者人口ではあるがゆえに、レベル 3
程度の愛好者は、身近な仲間だけではなく、全国各地にメンバーを求めることができる。
Ⅳ.日本で主に演奏されるリズム
日本人の「アフリカン」愛好者の中で好まれて演奏され、踊られているジェンベのリズムがいくつか
ある。そのリズムは、アレンジは異なっていても、よく演奏されているため、レベル 2 や 3 の愛好者で
あれば少し聴いただけで、どのリズムかを言い当てることができる。ジェンベのリズムは、一説による
と 300 種類ほど存在するとされているが、実際に日本で演奏されているリズムは、そのうち 20 種類程度
である。以下に、特に頻繁に演奏されるものを挙げる。そのリズム発祥の民族や地域、演奏される機会
などは、説明をおこなう人によって少しずつ異なることもあるが、本稿においては筆者が聞き取りをお
こなったものを元にしながら述べる。
表 2.日本で主に演奏されるリズム一覧
リズム名
民族
説明
ドゥンドゥンバ
マリンケ
脚注ⅺ参照
ジョレ
ティミニ
別名「アシコ」
、祭りのリズム
カサ
マリンケ
農耕のリズム
クク
マニアン
満月時や祝祭時に演奏されるリズム
ランバン
バンバラ
グリオ xのリズム
ヤンカディ
スス
満月やラマダン明けに踊る誘惑のリズム。
マクル
スス
ヤンカディの後に演奏されるリズム
マンジャーニ
マリンケ
若い女性のためのリズム
ソコ
マリンケ
割礼の前に演奏されるリズム
110
ソリ
マリンケ
通過儀礼で演奏されるリズム
ティリバ
ランドーマ
祭りに踊られるリズム
ソソネ
バガ
仮面ダンスのリズム
バラクランジャン
マリンケ
通過儀礼で演奏されるリズム
ギネファレ
スス
祝祭などで女性が踊るリズム
ここに挙げた 13 種類のリズムのほとんどが、ギニアに住む民族発祥とされるリズムである。ジェンベ
が元々、現在のギニアを中心とする地域で発祥したとされていることから、ギニアのリズムが多いと考
えられる。また、これらが、日本において主に演奏される理由として考えられるのは、当初それらを同
じ師から習得したリズムだからではないだろうか。例えば、ワークショップ・ツアーで現地に行った場
合、どの人が催行しても、たいてい受け入れ先のバレエ団はいくつかほぼ決まっており、講師もほぼ似
通っている(同じでなくとも、同じバレエ団に所属している人が講師を務めることがある)
。そのため、
アレンジが異なる場合もあるが、同じリズムを日本人は習うこととなる。さらに、現地で学んだ日本人
が帰国後、今度は自身が講師となれば、習得したリズムをそのまま他の日本人に教授する。そうして、
次第に同じリズムを演奏する日本人が増えていったと考えられる。演奏されるリズムが限られているた
め、日本人の愛好者同士はそのリズムを共有することができ、日本のどの地域に行っても仲間に加わる
ことが出来やすいのである。
Ⅴ.アフリカ現地に近づくために
Ⅲ章で述べたように、二極化する傾向にあるレベル 3 の愛好者達ではあるが、彼らが同様に求めるも
のがある。それは、ステージ・パフォーマンス中に観客が演者の中に「飛び込んで、即興で踊る」とい
うことである。
アフリカ現地において、ダンスや太鼓が娯楽などで「伝統的」に演奏される形態は、その地区の広場
で太鼓演奏者も含め人々が二、三重の円形になって集うものである。年齢等によって踊るリズムが異な
ったり、楽器によっては演奏も職能集団に限られてはいるが、観客で踊りたいと思ったものは誰でも、
その人々が集まる輪の中の演奏者の前に飛び出し、即興で踊ることができる(演者となることができる)
。
太鼓奏者の前に飛び出した踊り手は、20 秒間程度リズムに合わせてステップを踏むと、再び観客側へ戻
る。演奏者の中でメインとなる太鼓奏者は、飛び出した踊り手のステップに合わせ、リズムを叩く。そ
こでは、踊り手と太鼓奏者の掛け合いがなされる。その他の観客は、手拍子をしたり歌ったりし、時に
は演奏者や飛び入りした踊り手への賛辞の歓声をあげる。即興で踊る踊り手のステップと太鼓奏者の演
奏が合った場合、人々の歓声は大きくなる。開催される内容により異なるが、例えば村の祭りなどで、
そのような観客を魅了する演奏をした演奏者や踊り手には、おひねりが渡されることもある。このよう
に、演者(特に踊り手)と観客の入れ替えは、常に自由であり、誰でも参与者になることができた。
このような形式を、現地や映像などで知見した日本人愛好者からはこれらを、
「アフリカン・ダンス」
の「醍醐味」と語る愛好者もいれば、その「即興性」が一番の魅力であると語るものもいる。
「バレエ・
111
スタイル」の演奏法をとる日本人グループでも、ステージ・パフォーマンスの最後には必ず、観客が飛
び入りで踊ることができる場面を作っている。また、ダンス・クラスの最後に受講者が一名ずつ太鼓の
前に出て、その日に習った踊りを踊る場面がないクラスは「つまらない」と語るものもいる。
このように、日本人愛好者の中には、アフリカ現地で「伝統的」に踊られている祭りのスタイルを好
むものが増えている。そのため、近年ではドゥンドゥンバ・パーティ xiやタンヌベールtànnibéer /tànnëbéerxii
の形式をとったイベントが開催されることがある。そこでは、演奏者を囲むように人々が円形ないし馬
蹄形に集い、次々と踊りたいものが演奏者の前に飛び出し、思い思いの振り付けで踊る。そして、時に
は、現地での形式を真似し、おひねりまで出ることがある xiii。あるイベントでは、それ専用にイベント・
オリジナルのセーファーフランCFAxivが作られ、会場に入場する際、入場者全員にその紙幣が配られた。
そして、観客は飛び入りした踊り手や演奏者におひねりをあげていた。その空間は、雑多なものであり、
演者と観客の入れ替わりが自由となる。まさにその状態は、愛好者達から「現地の祭りそのもの」と形
容され、その場の「一体感」を生み出している。レベル 3 の愛好者が望んできた形式が、少しずつなが
ら実現する環境が作り出されてきているのである。
Ⅵ.おわりに-日本における現在の「アフリカン」
これまで日本に「アフリカン・ダンス」やジェンベがもたらされた経緯から、現状、そして日本人愛
好者の実態およびその活動状況を明らかにしてきた。
ワールドミュージック・ブームをきっかけに日本に広まってきた「アフリカン・ダンス」やジェンベ
であるが、それはまだ 20 年程度のことであり、その大半の年数は限られた日本人愛好者内での愛好でし
かなかった。それが、さらなる広がりを見せ始めたのは、2000 年以降なのではないだろうか。先述した
ように、1995 年以降、毎年のように西アフリカ出身のミュージシャンが日本に移住するようになり[菅野
2008]、日本人の現地渡航者も増え始めた。それにより、現地で知り合ったアフリカ人ミュージシャンと
結婚したり、現地講師を日本に招聘したりと、これまでなかったもの同士のつながりが生まれてきた。
それが、広まる要因の一つとなったと考えられる。
また、これまで日本では、アフリカの「伝統」音楽といえばまずはジェンベが想起されていた。しか
し近年では、これまで演奏される機会はあったものの、ジェンベ程の注目をされていなかったケニアや
ジンバブエ、ガーナ、ナイジェリア、ガンビアなどの「伝統的」な楽器やダンスを愛好する日本人も増
えつつある。他にも、現代のアフリカ・ポップスを使用したダンス・グループも登場している。その愛
好者たちは、少数ながらも積極的に活動をおこない、知名度を広めつつある。
実際のところ、いまだに日本のアフリカのダンスや音楽は相対的にみればマイナーな地位にとどまっ
ており、それほど有名ではないし、あくまでも愛好者のネットワークの中での活動が中心となっている。
また、演奏活動も「アフリカン」を愛好者が主催するイベントや、国際交流イベントなどでの演奏が主
であり、なかなか一般的に知られる機会は多くない。いまだに「アフリカン」は「マニアック」な位置
づけにあり、愛好者以外からは「わからない世界」であるという。しかし、他のジャンルのダンス愛好
者から、
「アフリカン(・ダンスを)やってみたい」や「アフリカン(・ダンス)を(振り付けに)取り
112
入れたい」という語りがあったり、パーカッションの一つとしてジェンベやサバールの太鼓を活用した
いという語りもある。
「アフリカン」という用語が日本のダンス界、音楽界において使われ始めたことも、
アフリカ系の舞踊音楽が、我が国におけるダンス・シーン、あるいはミュージック・シーンにおける新
しいジャンルとして定着してきた証左といえるのではないだろうか。
日本は、これまでどちらかというと欧米起源の文化を積極的に受容し、根付かせ、日本化していく傾
向があった[トービン 1995]。しかし、本稿の事例において、現在では、欧米諸国と比べて日本社会に馴
染みが薄い地域の文化でさえも、一部において積極的に受容されていることが明らかになった。それは、
人びとの移動に付随して、そしてインターネットなどのメディアを通して、日本とアフリカ間で直接的
にもたらされているものであり、まさにミクロなレベルでのトランスローカルな動きといえるのではな
いだろうか。今後は、これらの動きに注目し、ローカルからローカルな場への文化の移動としてこの現
象を考察していきたい。
i
セネガルの国立舞踊団は、首都ダカール中心部にある La compagnie du théâtre Daniel Sorano にある。コ
メディや演劇の部門がある中で、舞踊団は“La Lingère”と呼ばれる。
ii
(1921-1969)ギニアでアフリカの劇場を創立した(のちにギニア国立舞踊団の 1 つとなる)
。大統領
セク・トゥレと交流があった。1950 年代、ギニアで最も人気のある作家、芸術家となった。しかし、1969
年にセク・トゥレに対する陰謀に加担した罪で死刑宣告を受けた[ウシ 2006(2004)
:22]。
iii
ジャンベやジンベとも呼ばれる。特に日本ではジャンベと呼ばれることが多いが、これは間違いであ
る。鈴木によると、
「ママディ・ケイタの映画の原題“Djanbéfola”をカタカナに翻訳する際に、an [εn]
をフランス語風に「エン」とせず、英語風に『アン』として『ジャンベフォラ』と間違って表記したも
のが、そのまま普及したものと考えられる」[鈴木 2008:67]。また、ジンベは地域による呼称であると
いう。
iv
1950 年ギニア北東ワソロン地方生まれのジェンベ奏者。現在は、アメリカのサンディエゴに拠点を移
し、ヨーロッパ、アジア、アフリカを行き来しながら、世界各地でジェンベの普及活動をしている[ウシ
2006(2004):18-20]。
v
特別にジェンベ教室に通って叩き方やリズムを習得せず、ただ鳴り物として「ファッション」の要素
の一つとしてジェンベを叩くことを、
「フリースタイル」と愛好者は称している。
vi
野外や街路地に置いたサウンド・システムでハウスやテクノをはじめダンス音楽を楽しむ、野外型イ
ベント[上野 2005:6]。
vii
フェチは、セネガルの主要言語であるウォロフ語で「踊る danser」という意味である。
viii
近年では、セネガルの現代ポップスの音源を使用し、現地のプロモーションビデオを真似し、ステー
ジ・パフォーマンスをおこなう日本人グループも存在している。
ix
アレンジは、誰でも加えることができるという。あるアフリカ人講師によると、一つのリズムの中で
基本となる太鼓のリズムやダンスのステップを習得していれば、決められた拍数の中であれば、アレン
ジを加えても構わないという。
x
「起源は 12 世紀~13 世紀ごろに遡り、かつては王侯貴族が抱える専属の語り部であった。彼らはひと
つの職業的階層(カースト)を形成していた。グリオは王家の系譜や来歴を記憶する歴史家であり、楽
器を演奏する音楽家であり、詩人でもあった。……現代の共和国で、主人を失ったグリオは歴史家より
も、音楽家として伝統を継承することになる。
」[白石 1993:157]。グリオは、マンデ Mande ではジャ
リヤ jaliya、ウォロフ wolof ではゲウェル géwël と称されている[Tang 2007]。
xi
ドゥンドゥンバ(ドゥヌンバ)は、ギニアのマリンケ族のリズムの総称である。元来は男性のみが踊
る祭りのリズム。人気のあるリズムで、現在では、ギニア全土およびギニア以外の西アフリカ地域でも
113
親しまれている[ウシ 2006]。
xii
タンヌベールは、セネガルでおこなわれる野外ダンス・パーティのことである。街の一画で、夜 10
時頃から始まる女性のイベントであり、地元警察の許可を得て開催される。そのイベントに女性はそれ
ぞれ着飾って出かける。演奏されるリズムは、一連の決まりがある[Tang 2007]
xiii
日本でおひねりが出る場合は、たいてい 1,000 円札が主流である。時には、それ以上の金額がでるこ
ともあるが、たいていそれはアフリカ人からアフリカ人への時が多い。提供者は、それを演者の額に貼
り付けたり、口にくわえさせたり、ジェンベを肩から吊るす紐と服との間に挟めたりしておひねりを渡
す。
xiv
西アフリカ、中央アフリカ地域の旧フランス植民地を中心とする地域で使用されている通貨。セネガ
ルなどを含む西アフリカ地域は、Banque Centrale des Etats de l’Afrique de l’Ouest, BCEAO が発行したもの
を使用している(1 ユーロ=655.957CFA)
。また、ギニアは、ギニア・フランを使用している。現地へ渡
航経験のある日本人のイベント主催者が、これらの通貨の使用経験があることから、CFA という単位を
使い、より現地へ近づけようとしたと考えられる。
参考文献
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、
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講座-大地と人間の物語-11 アフリカⅠ』 立川武蔵/安田喜憲監修 池谷和信/佐藤廉也/武
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参考ホームページ
World of Djembe
http://www.alles.or.jp/~moumba/menu.htm
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