序論 0-1. 映像と都市空間:日本における芸術と環境 「映像芸術」とは、動きのある視覚的要素をスクリーンや画面にのせた全ての芸術形態 を指す。今日では、これらの映像は、ビデオ画面に登場したり、エレクトロニックや投 影によってもっと大きいスクリーンに映しだされる。日本では、日常的な環境の中で、 これらの使用が一層増え、あらゆる年令層の人々に利用されている。中谷芙二子が指摘 しているように 、年配の人たちはビデオカメラや、オーディオ、ビジュアル機器を操 作するためのリモート・コントロールを使いこなしている。ビデオテープレコーダー、 ビデオ・ディスク、衛星放送などがそれである。個人の家庭の中で、テレビが居間、寝 室、台所から風呂場まで、各部屋にあるなどというのも、決して珍しくはない。1989 年 に、武邑光裕は言っている。半径 2 メートルのパラボラアンテナがあれば、多くて 0,6 秒の遅れで、世界のどんなテレビ局の放送も、小さなポータブルテレビ一つで、家の中 のどの部屋にいても、直接受信できると 。 街を歩けば、壁面にはめこまれたモニターや、巨大なスクリーンがどこにでもあり、あ らゆる情報、天気予報、宣伝、流行のビデオ・クリップを流している。交通機関の中も 例外ではない。何年か前から、新幹線やいくつかの特急列車の中に、エレクトロ・ルミ ネセンスのダイオード画面が設置され、時間や目的地、列車の速さやその日の主なニュ ースを伝えている。また JR は、ラッシュアワーの混雑した電車の中で新聞を開く不便を 解消するため、車両のドアの上のところどころに、小さな液晶画面を取り付け、大新聞 から取ったニュースや、天気予報、そして避けられない広告を、文字だけで静かに流し ている。かくして、駅のホールや文化施設、大会社、デパートや商店、つまり、あらゆ る公共の場や半公共の場で、様々なサイズのモニターがちかちかと輝いているというこ とになる。 日本の都市空間で最も目を引くのは、おそらく巨大なスクリーンの増加だろう。ショッ ピング・ビル、スタジオ・アルタは、最も古い例の一つで、新宿という環境から切り離 せない。渋谷はといえば、立ち並ぶビルの壁に流れる映像が無かったら、印象がまった く変わってしまうだろう。殊に、ファッション・ビル、109 のスクリーン、フォーラム・ ビジョンが目立つ。六本木交差点にある書店、誠志堂の上に流れるファッションショー の映像は、間違いなく多くの通行人の注意を引きつけているにちがいない。池袋では、 高層ビルサンシャイン 60 から遠からぬところにあるショッピング・センター、テック 35 が、相撲や野球の決勝戦を一秒でも見逃したくないという通行人の足を引き止めている。 飛行機で日本に到着すると、夜の都会を彩る電気の光の明るさと、種類の多さに驚くか もしれない。その空間の中を実際に歩くと、一層明るい光の只中に身を置くことになる。 信号や映像が、陽気に点滅するカオスの中で混じり合う。しかし、それはこの都市環境 の中に隠れているメディアの網の、ごく一部でしかないのだ。 0-2. 新技術とその都市空間に対する影響 50 年代終わりになると、ニューヨークの摩天楼など、巨大な壁が出現した。その表面は 徐々にガラスで覆われるようになり、鏡のように、空と周囲の環境を大きく映し出した。 建物そのものが、巨大な三次元反射装置となり、物質性を失っていった。そこに映る人々 が動く速さ、物や車が移動する速さによって、都市空間が宙吊になり、浮遊しているよ うな印象を受けるようになった。光輝く電気装置の場合、効果はなお一層大きく、人工 的な映像と、現実の、または「自然の」映像を混ぜ合わせれば、だまし絵のような目の 錯覚を作り出すこともできる。都市は、「一種の巨大な映像の迷宮と化し、その時々刻々 と変化するスペクタクルの中に、われわれ自身がすべりこみ、イメージの一部と化して いるのに気づくのである」 ポスターによってマス・メディアの初めの形態の一つが現われた。このメディアは、写 真やグラフィックや文字を混ぜたフォト・モンタージュの技法を使い、様々な社会階級 の人々をますます多く引き付けながら、徐々に都市空間を覆い尽くしていった。映画の 発展と映画館の開設によって、人々は映像に魅了される初めの経験を味わった。このよ うにして、山口勝弘が言うように、「都市空間」という用語が、「映像都市空間」 とい う言葉に取って替わられるようになる。都市空間はその後二度と再び、単に物理的な空 間へと戻ることはなく、映像による情報の生産、再生産、流通の、見えないネットワー クにまで伸びていき、私たちの意識に介入し、態度や感性に深く影響するようになる。 *** テレビとビデオという新しい技術が利用され始めたのも、やはり 50 年代の終わり頃であ る。この新技術は、映画や写真のように、化学的プロセスを必要としなかった。そして、 以前からあったアニメーション技術や照明技術、絵画や彫刻などと結びついて、もしく は単独で、世界の映像都市空間の中で使われていく。一般に、この新しいメディアの特 徴を二つ挙げることができる。一つは、電子映像が、上映の時に光を発することだ。そ れによって、真昼の明かりの中でも見ることができるし、夜にはネオンや街灯と同じ働 きをすることもできる。もう一つは、ケーブル・ネットワークや VHF、UHF によって、 映像や情報をリアルタイムで送ることができるという点である。このような特徴は、必 然的に都市空間の構造を変えることになった。店のショーウィンドーや公共の場に、白 黒テレビが置かれるようになるとすぐに、人々はニュースやスポーツ中継を見に集まる ようになった。テレビを持つ家庭が増えると、テレビは、公共の場でのコミュニケーシ ョンを促すものではなく、家族的な核の集まりを強めるものとなり、家族は情報流通の 新しい装置の前に集まるようになる。しかし、テレビ受信機の数がますます増え、家庭 の中にまで溢れるようになると、もはやコミュニケーションの問題ではなくなった。一 人一人が自分だけの画面の前に座り、自分が選んだ番組を見るようになったのだ。 何世紀か前に 、すでに同じような映像空間の発展が見られた。特に、ジオラマやパノ ラマは、18 世紀に考案された環境芸術的な映像装置で、映画のマルチ・プロジェクター のプロトタイプであり、球形の画面を持った、もう一つのジャンボトロン とも言える ものである。現代では、何年か前から、小さなテレビ装置が発売されている 。山口は、 このような映像装置の発展を前にしたとき、必然的に二つの経験が可能になると書いて いる。一方では、画面の巨大化が、シミュレーション化した現実によって、環境を通し て私たちに影響を与える。他方、持運びできる小型機器は、18 世紀のイギリスではやっ た、風景が見られる手鏡の世界に私たちを送り返す。人々は今日、あらゆるサイズの画 面の間を歩き廻り、ポケットにもあらゆる種類のメディアを入れている。テレビ、ビデ オテープレコーダー、テープレコーダー、電話など、様々な音と映像の装置が、私たち の「生体内部環境」 を変容させ、再創造しているのである。 *** 70 年代になって、より大きい光る面を作るため、CRT(陰極線管)の画面をいくつか合 わせて使うことが多くなった。この現象は、60 年代のアートに特徴的だった、オブジェ やイコンの「アキュミュレーション」に、その先例を見ることができる。オリジナルの 映像が 25 にも 30 にも、あるいはもっと増幅され、映像効果も高まることとなる。映像 が一群となって動くか、あるいは一つだけ動いているかによって、インスタレーション の次元はまったく変わってしまう。カメラ効果は、簡単なズームやパンでも増幅され、 映像の速さは加速され、色の変化も強調される。この方面で最も研究を進めたのは、お そらくナム・ジュン・パイクだろう。すでに 1965 年には、ジョン・ケージの《Variations V 》の公演を機会に、25 台のモニターを使うことを考えていた。そして、資金が得られ るやいなや、パイクは最も大胆なフォルムとリズムでモニターを組み合わせてみせる。 1982 年には、385 台のモニターが、フランス国旗を思わせる色で、ポンピドゥー・セン ターの溝を照らしていた( 《トリコロール》)。そして 1988 年のオリンピックでは、ソウ ルの国立近代美術館のホールに、1003 台のモニターでできた塔がそびえていた。このモ ニターは、韓国の企業、サムソンによって提供されたものである。この巨大な彫刻には、 《タダイクソン(The More The Better)》 というタイトルがついていたが、それは、多 いことはいいことだ、という意味である。1990 年にデュッセルドルフで発表された作品 を挙げておこう。《ヴィーナス》 (Venus) は、柱のような彫刻で、めまぐるしい映像に よって、モニター自体が動いているような印象を与えた。 このような表現のためには、映像の編集や構成にも、また、作品全体の形やモニターの 配置にも、明らかにこれまでとは違った注意を払う必要が出てくる 。何人かのアーテ ィストが、時に目覚ましい技術を見せるとはいえ、この分野は、まだ未開拓な部分も多 い。しかし、家庭で使われる照明としてであれ、国際的な博覧会やクラシック、ロック のコンサートの際に多くの観衆に見せるものであれ、この視聴覚メディアのあらゆる可 能性を、できるかぎり探ってみることが必要であろう。 CRT やジャンボトロン、映写機、OHP など、様々に異なるシステムの利用法を考えると ともに、これら新しい道具を使って生産し、再生産する映像を、構成し、または分解す ることのできるソフトウエアの開発法についても、考えを巡らせなければならない。 0-3. ある伝統との関連 エリック・サティは、いっしょうけんめい聴くための音楽ではなく、食事の時に居合わ せた人が何を話していいかわからないときに、沈黙をおおうための音楽を考えた。サテ ィはこうして、玄関や待合室や客間など、様々な目的にあった有名な《家具としての音 楽》をいくつも作曲した。それ以来音楽と環境との関係が注目されるようになり、B.G.M. (バックグラウンド・ミュージック)という言葉も生まれた。これは飛行場のホールや ショッピング・センターなど、ある特定の建物の内部、または都市空間の戸外で聴くの にふさわしい音楽のことを指す。建物の建築構造に含まれるものであるから、設計の段 階からすでに、照明装置や視覚的な要素(記念碑、彫刻、壁画など)と同じように、音 を効果的に響かせるための複数チャンネルの電子音響システムを組み込んでおくことが 必要である。 70 年代の終わりになると、家具としての音楽のビジュアル版が登場した。これは B.G.V. (バックグラウンド・ビデオ)と呼ばれ、何を見ていいかわからないような何も無い空 間に置かれることを目的とした。それは見るための映像でもあれば見ないための映像で もあり、始まりもなければ終わりもないものだった。主に自然の風景を構成して作られ るものが多く、建物の窓の無い面を覆う「壁画」にも譬えられるもので、都市の風景に 思いがけない奥行をもたらした。 このような作品を最初に試みた一人に、「環境音楽」の作曲家、ブライアン・イーノ (Brian Eno) がいる。イーノの《空港のための音楽》は、現在九州の島にある福岡空港で聞くこ とができる。主にピアノと声からなるまばらな音が、浮遊する反復的なメロディーを作 り出している。イーノは次いで、たいへん心地よい視覚環境を作った。半透明のガラス で覆ったビデオ・モニターを使ったもので、色がゆっくりと連続的に変化していく様子 を見せるものである。 新井満は、宣伝フィルムの監督で、小説家でもあるが、日本の自然を撮影するのを好む。 たとえば、《北山杉》は京都の北山杉を一時間映すものである。厳しく動きを排した撮影 が、だんだんと変化していく自然の光を見せてくれる。 《富士山》もやはり一時間、夜明 けと夕暮に撮影されたものである。頂上付近でゆっくりと動いたり消えたりしていく雲 が、唯一の動きのある要素である。その他、大阪の箕面の《滝》、長野県の美和谷の桜(《湖 畔の桜》)、富山県の《呉羽》の楓の紅葉、岩手県《三陸海岸》の太平洋を臨む海岸など が丹念なロケハンの対象となり、新井のカメラに収められた。 新井によれば、これらの貴重な映像を撮影するには、カメラは絶対に動いてはならず、 ズームやパンで邪魔をしてはならないという。音は撮影の際に最大限の注意を払って録 音され、どんな変形も加えない。人物は無論厳禁である。平和な雰囲気に「ドラマが生 まれる」危険があるからだ。 この種の映像は、伝統建築と深い関係がある。日本の家の中では、かつて生け花や山水 画が置かれていた床の間に、今テレビがおさまっている。B.G.V.を流すビデオは、した がって、「21 世紀の山水画」 と捉えることができ、明日の仕事に備えてストレスを受け た神経を休ませる効果があるといえよう。新井によれば、このような機能を感じること ができるのは、人の手が入った痕跡をすべて除いた時だけだという。たとえば、意志的 なカメラの動きや、映像に合わせた音楽などは邪魔である。B.G.V.は山水画と同じよう に、「引き算芸術」、もしくは、作り手の罪深い欲望を決して見せない「禁欲の芸術」に 入るものである。 0-4. 非物質性の探求 1989 年に開催された大規模な巡回展のカタログでもある〈ビデオ彫刻〉 のような著作 を読むと、ビデオ・アーティストは、しばしばビデオだけでなく、あらゆる素材を複雑 に組み合わせて使っていることがわかる。時には新しいビルの建設に加わり、プロジェ クトの視覚的音響的構造に直接介入することもある。西武グループのデパートの建築に 関わった建築家やデザイナーが経験したように、彫刻やビデオやホログラフィーの幸福 な組合せを実現することは可能であり、これらは当然ながら、クラシックな写真や印刷 されたポスターと、問題なく共存していくことになる。1985 年にパリのポンピドゥー・ センターで開かれた〈非物質的なるもの〉展を訪れた山口勝弘は、新しい映像技術がし ばしば同時に利用されていることに気づいた。たとえば、ホログラフィーやビデオが、 スライドを映写するスクリーンに開けた穴に現われ、コンピュータが作り出す映像を映 し出したりする。このような展覧会は、どのように「物」が消え、 「プロセス」に取って 替わるかを明らかにしている 。 高品位映像の技術が進むと、都市環境は、写真、フォトコピー、映画、ビデオ、印刷な ど、制御し、統合しなければならない多くのメディアに貫かれることになる。これらの 映像は、壁画や彫刻や記念碑と同じように、外部でも内部でも、環境の多くの部分を占 めている。このような状況から、大規模なパフォーマンスや「イベント」を、「都市空間 のスペクタクルとして」日常的に上演することも考えられるだろう。〈つくば科学博覧 会〉ソニー・ジャンボトロンで多くの人が気づいたように、建物の壁は、巨大なスクリ ーンとなって、ビデオを上映するための表面として用いられるとき、「フィルター」 と しての役割を果たすようになる。 *** このフィルターとしての機能は、山口によれば、マルセル・デュシャンによって早くも 注目され、実現されていたものだ。デュシャンは、人工的な視覚装置によって、都市環 境が受ける影響をすでに予測していた。 「《大ガラス》の方は、環境の中に宙吊にされたまま、どこへも行かないで空中に止まっている 存在、そしてもう一方の《遺作》の方は、厳重な壁の向こうの空間に、しっかりと閉じこめられ たまま、誰か一人の覗き見る人にだけ与えられるイメージとしての存在。 」 建築家、フレデリック・キースラーは、 《終わりのない家》 (Endless House) のような 作品で、どのような条件である存在が建築となりうるか、そしてどうしたら人間の知覚 に基づいた環境を作ることができるかを模索した。幾つかの展覧会の展示のデザインの 際に、キースラーはすでに観る者と作品が相互的な関係を持つことができる装置を考え ていた。したがって、建築の問題は、パフォーマンス、つまり、作品を前にしたときの 観客の態度の質を決定するようなソフトウエアの問題になる。いくつかの作品は、穴を 開けた壁の背後に置かれていたが、そのような作品は特にデュシャンの《遺作》を思わ せるものである。なぜならデュシャンのあの作品もまた、スペインの農園の本物の屋敷 の扉のすきまを通して、謎めいた風景を垣間見せるものだったからだ。キースラーもま た、観客が他の人を視界に入れないで、作品に集中できるような装置を想像していた。 デュシャンはヨーロッパを発って 1942 年にニューヨークに着いたとき、6 月から 10 月 までキースラーのアパートに泊まっている。二人の芸術家は、おそらく作品と環境を関 係づける観客のパフォーマンスと反応について、話し合ったにちがいない。もはやオブ ジェとしての作品について考えるときではなく、ある環境の中で機能できる作品につい て思いを巡らせるべきときだった。逆に言えば、そうすることによって、作品は環境的 に展示されることが可能になるのだ。キースラーは、《大ガラス》を「X線絵画」と呼ん だ。すなわち「透視されて存在し、虚空に明滅しながら人間に働きかける」絵画という 意味である 。そしてキースラーは《大ガラス》の初めの写真を撮った。キースラーは このようにして、《大ガラス》の、絵画、彫刻、建築という三重の性格を明らかにしよう とした。窓という装置も、この作品と同じように、外から中を見ることもできれば、中 から外を見ることもできる。《大ガラス》の場合は、窓だけが残り、周りの建築が消えて いる。それは、見えない建築が作品と環境の関係を保っているようなものだ。しかし、 《大 ガラス》はすべてのカテゴリーに自由に属しながら、どのようなカテゴリーにも入らな い。「映像と環境が融け合い、見る人も見られる人もその中に、そのそとに自在に現われ 消えてゆく状態。」 《大ガラス》はこのようにして、現代の環境が映像に対して持つあいまいな関係のシン ボルとなった。映像は視線を集め、その力によって日常的な物体の存在を疑問に付し、 不確かで非現実的なものにしてしまう。世界はそれによって豊かにもなれば軽くもなり、 もはや反映の戯れでしかなくなってしまう。 0-5. 「可能なもの」と「バーチャル」 どうしたら現代の環境と映像の関係のこのようなあいまいさを、より正確に理解するこ とができるだろうか。デュシャンにとって、これはおそらく、1913 年にどちらかという と謎めいた書き方で言っていた、あの「可能なもの」 ("possible")を解放する欲求の機能 であるにちがいない。 「(不可能なものの逆としてではなく 確からしさに関係があるのでもなく ありそうなことに従属するのでもなく) 可能なものとはただ すべての美学を焼き尽くす 物理的な「腐食」するもの(濃硫酸の類) 」 ミカエル・ギブソンが考えていたように、完全に「禁欲的な」 「可能なもの」 。それは「与 えられた」世界、つまりデュシャンの用語によれば、閉じた世界に含まれる。なぜなら、 規則は決まっていて、全てはもう終わっているから、参加者は「ストイックな放棄」を もって臨まなければならないからだ。 デュシャンは明らかに、当時支配的だった論理実証主義の基本的な理論を受け入れてい る。それによれば、全て真実の表現は、トートロジー的になるはずである。デュシャン はしかし、1912 年以来、この年にガストン・ド・パブロフスキーが『四次元世界への旅』 という小説の中で展開した思想に頼りながら、同時にそこから逃れようとしていた。デ ュシャンはそのことをピエール・カバンヌに告白している。 「三次元の物の影は、それがどんな物でも、太陽が地面に映す影のように、二次元になるという ことに私は気づいていた。だから、これは単に知的な類推なのだが、四次元世界は、三次元に物 を映すことができるのではないか。言い換えれば、私たちが冷静に見ている三次元世界の物体は すべて、実は私たちの知らない四次元世界の投影なのではないか。これは少し詭弁だが、可能な ことだ。この考えに基づいて、私は大ガラスの花嫁を描いた(・・・) 。 」 この「四次元世界」は、三次元空間における時間に関するアインシュタインの導入に相 当するばかりでなく、グレーズやメツァンジェのキュビズムへと入念に積み重ねられて いったフィクションと同じものであり、精神性のためのものである。ジャン・クレール によると、デュシャンはあるユーモアを持ってこの説を語っていたらしいが、もっと真 剣に、新プラトン主義の形而上学的な世界観を思わせるものでもある。というのも、三 次元世界が「四次元世界における実体のマトリックス(投影) 」であるなら、そのいわん とすることは、次のとおりだからだ。 「この世界で私たちを取り巻いている全ての物は、別の物体の鋳型にすぎないのだが、この別の 物体は、三次元世界の限界に囚われている私たちには見えない。もし私たちが直感によって四次 元世界に到達することができたら、この鋳型は私たちの目の前で「はじけ」、隠されていたフォ ルムが解放されるだろう。 」 このようなビジョンは、十分に魅惑的である。なぜなら、《大ガラス》が「教えのシナリ オ」とでもいうべきもので示しているような筋書きと終わりが、ガストン・ド・パブロ フスキーの小説と平行して展開されるからだ。 「天の川の長い流れの中で時間も空間も消 えてしまう宇宙的なオルガスム、または機械的運動の開花」 という、ハッピー・エン ドまで用意されている。 しかし、もしマルセル・デュシャンが試みた「可能なものの解放」の中に、官能の成就、 ーそれも想像的なものでもなければ象徴的なものでもなく、具体的で物理的なーを見る なら、本当にデュシャンのユーモアの壊滅的な性格を理解することができるのだろうか。 「宇宙的な」という形容がついたとしても、一体「オルガズム」が、冒頭でデュシャン が「可能なもの」の定義として言っていた、 「腐食するもの」、「濃硫酸の類」 、「全ての美 学を焼き尽くす」ものをもたらすのだろうか。 ジャン・クレールによる《大ガラス》の解釈は、おそらく「オルガスムの」婉曲表現の 方に、あまりにも偏ってしまったのではあるまいか。これではルネ・シャールが言った 「欲望に留まった欲望」の予告か転身にすぎない。確かにデュシャンは、《大ガラス》の 花嫁はただの「官能性のない冷たい存在」ではなく、「熱く(貞淑にではない)」「独身者 たちの不躾な申し出」を拒絶するのだと言った。しかし、「花嫁」が「内気な動力を伝え る発動機」であることには変わりがない。「内気な動力」つまり「一種の自動機械、愛の ガソリン」だとすれば、「自らの欲望の終わりに辿り着いた処女」は、処女にとどまるこ とによってのみ、開花することができるのだ。もっと皮肉なことには、このことに関し て、デュシャンはピカビアの車、《灯台の子ども》を引き合いに出している。「この車は 最高のスピードで坂を登るとき」、「登れば登るほど上に着きたいという欲望が強まる」。 加速するときは、「希望に疲れたかのようにゆっくりと」であり、「規則的に、一層速く エンジンをふかし」、最後に「勝ち誇ったエンジン音」を響かせる。もっとも、最終的な 「開花」の中に「処女性の栄光」と別のものだけを見るのは、短絡的にすぎるが。 メタファーの王国から離れるには、このような「栄光」が、トートロジーに似ているの かどうかを見極め、、技術の成功(勝ち誇ったエンジン音)が、何ものも逃れることがで きないように見える実証的な、または実証主義的な論理の完成と何らかの共通点を持っ ているのかどうか、観察するだけで事足りる。 しかし、《大ガラス》が社会の慣習に反するエロスの解放、もしくはもっと広い意味での 象徴的な解放というメッセージを伝えているかどうかという問題は、そのメッセージ(も しくは非メッセージ)が伝わるという条件のもとでのみ意味がある。ところで、 《大ガラ ス》には、衆知の事故が起きた。トラックでコネチカット州を通って運搬していたとき、 もう少しで取り返しがつかなくなるような損傷をこうむったのだ。1936 年、デュシャン の皮肉っぽい承認を得て修理が完了し、この作品は存在し続けることになったが、ガラ ス表面には一面に亀裂や縞模様、蜘蛛の巣のような筋が残った。もはやどこからどこま でが作家の描いた痕なのかも区別がつかなくなり、見る人は事故の痕を象捨して、模様 の合間から透ける環境を見なければならなくなった。これはある努力を要する。しかし、 「濃硫酸の類」という「可能なもの」の定義と、奇妙にも一致しているではないか。お まけに、「濃硫酸」を意味するフランス語の "vitriol" の中には、ガラスという意味の "vitre" が含まれている!したがって、ガラスは、1912 年にはすでに、ガラスが守るこ とを目的としていた開放的な「内容」を、抹消しながら透かして見せることができたの である。そして、事故の後の作品にもう一度サインをしたいと主張したデュシャンの態 度は、状況を一層深刻なものとする。ミカエル・ギブソンが言っているように、 「戯言の ような言葉で失望と苦悩を隠しているからだ」 。半ば戯言だが、《大ガラス》によって、 作品と観客が作る全てを用いながら、デュシャンは今日、この関係の不確実性を告発し ている。作品と観客の関係は私たちの時代には、幻想になってしまったものだ。このこ とは、治療不可能な退廃の印ではあるまいか。 この告発によってさえ、ミカエル・ギブソンが言うように、デュシャンはこのような芸 術の「象徴的な」性格に注意を引き付けることができた。この言葉によってギブソンは、 「共有された夢」を指している。それは、与えられた文化によって、共通の(「ホログラ フィックな」)表象に聖なる、または聖化された(宗教的な意味でも論理学的な意味でも ない)価値が与えられることであり、それによって、そこに属している個人や集団に、 集合的に意味が分配されるのだ。ここから、デュシャンの態度に関する独創的な解釈が 出てくる。 「『芸術ではない作品を作ることはできないか。』と、デュシャンは若き日のノートの中 で自問している。ここで問題になっているのは質(いい芸術か、よくない芸術か)では なく、本質である。全ての作品(いい作品も悪い作品も)は、象徴的な秩序に関わる問 題に私たちを送り返してしまうかぎりは、本質的に芸術である。そして芸術であるかぎ りは、定義によって、『全てがトートロジーである』実在の(ヘーゲルの用語を使うなら、 定有的な)領域を超えている。」 結局、もしデュシャンが《大ガラス》の中に偶然を捕えたのだとしたら、デュシャンは そこに、芸術の独立を印すための、その時代の最良の方法を見ていたのだろう。何に対 する独立かといえば、秩序、特に自由をもった文化が超えようと努力せずにはいられな い生態系、すなわち、トートロジーの円環に対する独立である。 しかし、さらに論旨を進め展開させたい点がいくつかある。機械の秩序は今では生態系 の秩序の延長と言えるのではないか。デュシャンが「可能なもの」と呼んでいたものは、 今日の私たちなら「バーチャル」なものと呼ぶことができるのではないだろうか。これ は内容よりは、「人間と機械の相互関係のしきたり」 の中での操作の仕方、入り方のほ うが重要である。光学的な専門用語では、 "image virtuelle" というと、焦点が移動し た映像のことを指す。実体化するものをすべて奪われ、それは「現われるべきところに 現われる」 。そして、バーチャル・イメージが再現するものは、 「現実」の像と変わら ない。そのことによって、不確実性を退ける。 しかし、コンピュータによって、バーチャルという言葉の意味が広がり、正に不確実性 が導入されることになった。将棋をするときは、コンピュータも、時には不規則な駒の 動きに対応しなければならないし、いつも部分的にしか先が見えない(一定のルールに 従っていても)。このようなやりとりも、バーチャルと呼ばれる。もし単に「潜在的」で あるなら、作業の条件が、取らなければならない行動に対して「まだ整っていない」こ とを意味する。「バーチャル」は逆に、現実化の条件がきちんと決まっているところに介 入する。それにしても、現実化ということが未だに「力を持っている」のだ。現実化は そこにあるが、まだ非物質的な形でである。それは不確実性を受け入れる準備がある。 ミカエル・ギブソンが提案するデュシャン解釈の方に行こうとすれば、コンピュータの 「バーチャル」とデュシャンの「可能なもの」を重ね合わせることができるだろう。両 方とも、ドイツの哲学者、エルンスト・ブロッホが『希望の原理』の中で名付けた「主 観的に現実である可能なもの」に相当する。ただ、この可能なものは混乱のもとだとい うことを見ておかなくてはならない。デュシャンが芸術は「生態系の弁明ではない」と いうことを強調したのは、計画とその実現を隔てている、縮めることのできない距離に 対して、芸術を開かれたものとしておきたいと願ったからだ。このようにして保たれる 隔たりが、人間を象徴性へと返す。つまり、条件やコンテクストから脱しながら、変化 し、自らを刷新していくことができる、世界に対して開かれた文化の遊戯の場へと人間 を送り返すのだ。同じように、芸術はズレの王国として発ち現われる。作品が欲望を持 った機械だとしても、芸術家とは、それが故障するようにするものだ。 0-6. 空間の延長 日本のことに話を戻せば、ミカエル・ギブソンがデュシャン解釈の最後のページで、日 本の〈ネオ・ダダ〉に関して述べたことにならって、次のことを確認することになるだ ろう。日本のアーティストは西洋の「真似をする」どころか、ヨーロッパが象徴的表象 の領域で感じていたよりも、さらに大きい歴史的、文化的混乱を前にして、もともと同 じような態度を取ろうと決然と決めていて、転換を図ることができた。したがって、初 めのうちは、「もはや生活の新しい現実と相容れなくなった伝統の解体を加速する必要」 を認めた。ついで理解したのは次のようなことだった。 「解体されるのは精神(文化全体の構造)であり、伝統を手つかずで保存するのが重要 なのではなく、古い象徴的内容の変容を促すための隠された方法を探り、同一性と連続 性の絆が、古いものと新しいものの間で認められるようにしなければならない。」 これは山口勝弘の歩みの深い意味でもあろう。山口は「空間の延長」、個人的な空間の延 長をめざした。それらの空間は、身体の動きや仕草を増幅する。だから、空間は、空間 を構成するものの助けによって、この身体にテクノロジーの義足をつけるのだ。こうし て作品は、技術に対しては制御するものとして振る舞うことになる。作品は、技術を身 体の中に、したがって感性の中に組み入れる。このことによって、身体は常に目覚めて いることになる。身体にとって無縁のものとなる危険を孕んだ空間の再感覚化は、作品 によってうながされている。作品が「故障」するかぎり、つまり技術をバーチャル化し ながら制御しているかぎりは。「個人のアイデンティティーを破壊しない包括的な意識の モデル」 を提案するこの種の試みを前にすると、技術は「不躾に論理的」なものとし てしか現われない。それは技術が、「技術によって支配される感性を、配慮をもって扱わ ないからだ」 。しかし、治療法はすでに《大ガラス》の中に示されていた。 「機械を恐れるかわりに、それを超えなければならない。つまり、私たちの個人的な心理宇宙の 中に、身体イメージの中に、世界のイメージの中に機械を吸収するのだ。専門的なシステムは、 ファウストを愚か者にしてしまうわけではない。しかし、彼は自分の身体の内部にシステムを取 り込むべきだ。なぜなら、ファウストの本当の問題点は、精神的なことがらに人生を捧げたこと ではなく、あらゆる凡庸な知識人と同じく、自分の身体とのコンタクトを失ったことにあるから だ。そこから、ブロンドのマルグリットとコンタクトを保つ、エロチックな興味以上の興味が生 じるだろう。 」 現代においては、マルグリットは《裸にされた花嫁》に大変似通って見える。 0-7. 情報における連続と非連続、現代の葛藤 20 世紀の芸術の進化の特徴は恐らく、連続と非連続という 2 つの極との間で揺れ動いて いると言えるだろうことだろう。こうした動揺は理論物理学によって始まり、他の多く の分野にも波及した。その葛藤は、数と大きさの公約量の不可能事というピタゴラスの 哲学の問題にまで遡ることができる。その後も、この問題はデカルトとライプニツとの 対立、そしてバシュラールとベルグソンとの対立にも現われている。 コミュニケーションと情報伝達の分野では、非連続、いわゆるディジタルな方法が用い られている。特に現代美学の分野では、コンピュータ技術がアナログへ傾くか、または ディジタルへ傾くかによって、激動的な変化が起こっている。その上に立って、まった く新しい芸術的な実践が誕生したと言ってもよいだろう。エドモン・クーショが述べた CG の定義を思い出せば、 「CG イメージは、化学的または磁気的な媒体に光子の束によ って残った跡ではなく、プログラムされた指示によるコンピュータが計算した数のマト リックスとして存在する」 ということになる。 情報のアナログな伝達の場合、一つの量はもう一つの量によって表象され、その二つに よって連続的に変化する。ディジタルな伝達の場合にも、一つの量はもう一つの量によ って表象されるが、その変化はコードによって非連続的に行なわれる。しかしアナログ な伝達は必ず元のメッセージに多少の歪みを与える。だが、伝達されるメッセージが一 連の 2 進法であるなら、伝達を損失無しに行なうことができるから、元のメッセージは 無事に復元される。サンプラー技術によって、複雑なメッセージを送ることもできる。 ディジタルの中立性によって、視覚と聴覚を同時に伝達し、処理することもできる。デ ィジタルなコンピュータはインターメディア制作の理想的な媒体であるから、電気通信 は最近コンピュータによるシステムを用い、唯一のコードに基づき、伝達操作を行なう ようになったようだ。情報の空間的な通過を加速し、音楽、ビデオなどのテレ・ヴィジ ュアルな(放送による)芸術に於て、リアル・タイムの具体化へ進展できるようになっ た。 従って、ビデオ・アートのような芸術分野の進化をその源から研究すれば、論理的な一 貫性を見出すことができるだろう。ビデオ・アートは、視覚的なだけではなく、ナム・ ジュン・パイクがジョン・ケージの好敵手だと考えられるように、 「音楽的」だともいえ る 。ディジタルな技術の発展は、レディー・メイド的なイメージにである「アナログ」 的な方法にどのように影響を与えるのか興味深い。 初期のビデオ作家の仕事をみると、アナログ的な方法(類比)がルールであったと思わ れるが、ついでディジタルな非連続性が現われると、アナログ、ディジタル両面の補完 的性格を調べるようになる。アナログとディジタルの対立は不自然なのではないだろう か。それを接合したり、組み合わせることによって、現在の複雑なテクノ・情報的なネ ットワークに参加することができるようになるのではないか。また合成ビデオを追究し、 逆説的にピタゴラスの時代の考え方 るのだろうか。 に参照させる作家は、どのような活動を続けてい 0-8. 日本の映像芸術作家の分類のために 日本の映像芸術を取り扱うこの試論の中では、いささか作為的ではあるが、新しい詩学 の出現と密接に結びついてきたテクノロジーの発展のダイナミズムを見失わないように、 芸術家のタイプを三つに分けようと思う。ここでは、作品の先駆的な性格と、テクノロ ジーとの関係を考慮し、8 人の芸術家を選んだ。それぞれが、独創的な芸術上の意図によ ってメディアの新しい使い方を打ち出し、国の内外で評価を得た人たちである。共同で 行った作業もあり、同じグループや組織に参加していたこともある。 まず始めに実験映画の研究から始め、三人の「冒険者」を紹介したいと思う。寺山修司、 飯村隆彦、そして松本俊夫である。彼らは 1950 年代の終わりに実験映画を作り始めた最 初の芸術家たちである。ビデオが登場するまで、映画は、実験映画にせよドキュメンタ リーにせよアニメーションにせよ、映像と光と音を併せて使うことのできる唯一の手段 であった。60 年代を通じて、エレクトロニクス技術の発展に伴い、インターメディアに よる芸術の実験で、映像と音楽を関わらせる試みが多く現われる。飯村と松本は、ジー ン・ヤングブラドが「Expanded Cinema (拡張映画)」と名付けたジャンルのために開催 された〈クロス・トーク・インターメディア〉というフェスティバルの第一回に参加す る。「Expanded Cinema」とは、新しいテクノロジーを使った全ての芸術上の実験を指 す。 1970 年には〈大阪国際万国博覧会〉が開かれ、山口勝弘、松本俊夫、中谷芙二子が一堂 に集まる。1972 年に発足したグループ、〈ビデオひろば〉には、山本圭吾も加わる。1981 年には、〈ポートピア'81〉というフェスティバルで中島興の独創性が認められる。以来、 芸術とテクノロジーをテーマにした国際的なフェスティバルには、必ずといっていいほ ど、これらのビデオ作家の作品が含まれるようになる。パリの近代美術館で〈エレクト ラ〉展が開かれた 1984 年からは、河口洋一郎がほとんどのフェスティバルに加わるよう になる。徐々に注目を浴び始めていた合成映像というジャンルを取り扱った国際的な催 しにも、河口は名を列ねることとなる。日本の現代アートを特集した海外の展覧会では、 常にこれらの芸術家が招かれた。1989 年にアントワーペンで開かれた〈ユーロパリア〉 には、山口、松本、中島、そして中谷が参加している。1989 年と 1991 年に初めて山口 が名古屋で開催した〈ARTEC〉展でも、彼らの業績に敬意が払われ、中島、山本、河口 が重要なインスタレーションを発表している。この論文では、一人の映画作家やビデオ 作家だけに焦点を絞るのではなく、活動領域が一つのメディアに限定されない作家を研 究の対象としている。映像制作だけに専念しているアーティストではなく、他の様々な 分野でも積極的に活動を行っているアーティスト、物質的な媒体を使っていようと非物 質的な媒体を使っていようと、映像によって表現していようと音によって表現していよ うと、またはオブジェや動き、環境や観念によって表現していようと、様々な芸術分野 の相互作用に働き掛けているアーティストに注目したい。取り上げる順序は、単に時間 の流れによるのではなく、論理展開によっているのがお分りいただけるはずである。 *** 論文の第一部では、日本における実験映画とインターメディア・アートの形成と発展を 概観し、映画作家でありビデオ作家でもある二人の芸術家の作品を紹介する。 詩人の寺山修司は詩やシナリオを書くだけではなく、演劇の公演を行い、また、これら の活動を展開するための場所も創設した。何百にものぼる評論や詩を書き、何十本と作 った映画や演劇は今日でもなお国の内外で上演されている。60 年代にはオピニョン・リ ーダーとして影響力を発揮し、日本におけるアングラの生みの親の一人となった。ビデ オや映画を使って寺山が紡ぎだした一連の詩は、数知れない芸術家に影響を与えた。そ して最後に制作した《ビデオ・レター》は、まったく新しい一つの独立したジャンルだ と言えるだろう。飯村隆彦は疲れを知らない旅行者であり、実験映画の分野で日本を代 表する存在となった最初の作家の一人である。飯村は映画の起源について考察し、それ をゼロ地点として再定義した。1971 年には日本で初めてのビデオ・パフォーマンスを行 い、相互作用的なインスタレーションやパフォーマンスを世界中の美術館で発表してい る。飯村の最近の作品は風景に関するもので、テクノロジーによって新しい視点を設定 している。 第二部では、アナログとデジタルの両方を相互補完的に使って実験を行った三人の芸術 家の作品を取り上げたい。松本俊夫は映画作家であると同時にビデオ作家である。政治 活動や組合活動を行いつつ、50 年代半ばから、方針において決して妥協しない短篇・長 編映画を作ってきた。碩学でもある松本はまた、多くの記事を書き、日本の映像研究に 欠かせない五冊の本をまとめた。中谷芙二子は、芸術、社会、自然などすべての分野で エコロジー的な意識を持ち続け、また、東洋では未だ問題の多い男女間のバランスにも 注意を払い続けている。霧や緑地を使った環境彫刻という自らの芸術活動を積極的に展 開するかたわら、日本の新人アーティストを海外の重要なビデオ作家に引き合わせたり、 国際的なフェスティバルを企画したり、ビデオ・アートの普及を目指してギャラリー・ スキャンを創設したりと、幅広い活動を行ってきた。山口勝弘の活動も、やはり芸術作 品を作るという行為に止まらない。山口は彫刻家でありビデオ作家でもあるばかりでは なく、建築家で理論家でもある。新しいメディア全てを自由に使いこなし、芸術、テク ノロジー、社会のオプティミスティックな関係を提案する山口の思想は、ヨーロッパの アヴァンギャルドと日本の空間の伝統的な概念の両方に影響を受けている。 第三部では「デジタルの開拓者」を三人取り上げる。山本圭吾は、ビデオをその視覚的 要素のためではなく、人間の体を流れている「気」など、エネルギーの流れを見せるた めに使った最初の芸術家の一人である。山本はこうして、映像と音のネットワークを実 際に使用した先駆者の一人となった。ビデオは今日ではコンピュータであり、このよう なエネルギーを伝えるには最適の手段である。 中島興はシャーマニズムや仏教、道教と結びついた哲学的観念を形にし、西洋の人々に も理解可能なものとした。中島は技術に造詣が深く、合成映像やビデオからサンプリン グした映像を混ぜ合わせるための、様々な編集機器を考案した。 河口洋一郎は、ここで扱う作家のうちでは一番若い。1975 年からコンピュータのプログ ラミングに着手した河口は、今日、芸術として認められたコンピュータの分野で、世界 最高の専門家の一人である。河口は、コンピュータの機械的な構造の中に有機的な性質 を吹き込むことに他の誰よりも成功している。コンピュータは、今や総合科学であると 同時に総合芸術である。 *** 60 年代以来、西洋の芸術家は日本の芸術家とは比べものにならないほど楽に活動ができ たと言わなければなるまい。芸術と新しい技術の関係に理解を示す美術館や芸術家団体 は、まず初めにカナダとアメリカに現われる。そして、日本に調査、情報収拾にやって きたカナダ人のアーティスト、マイケル・ゴールドバーグは、関心を示す日本人たちに、 グループを作ってビデオ制作の活動を展開するよう呼び掛ける。当時ヨーロッパやアメ リカの芸術家たちが、自国の政府や基金から助成金を得ていたのに対して、日本政府の 現代アートへの援助は皆無に等しかった。 また、60 年代から、日本はドラマやバイオレンス映画、そしてチャンネル CBS などが 作ったニュース番組などを通して、アメリカのテレビ文化の侵入を受け、次第にあふれ る映像を受け入れたり拒絶したりする方法を身に付ける必要に迫られる。日本の芸術家 たちは、自国の経済的援助の欠如ばかりでなく、西洋文化、特にアメリカからの、映像 の度を越した流入にも対処しなければならなくなった。そこで、本来の目的ではなかっ たにもかかわらず、自分たちの感性により適した方法を見つけるために、自分たちが財 産として持っていた文化の一式を使い、それに拘わり続けることとなったのではないか。 実際、日本は時に無視できないほど濃厚な文化的過去を所有している。例えば山本圭吾 にしても、1975 年までは自分の作品に「日本的性格」を与えようとしてはいないと言っ ていたが、海外滞在が度重なるにつれ、日本的性格が顕れてきた。山本は今でも故郷の 田で働くことがあり 、子どもの時から知っている祭りにも参加している。このような 活動は、当然のことながら山本の作品にも独特な色彩を与える。山本が実践し続けてい る仏教儀式は、日常生活の一部となっており、現代のメディアの使用法と共鳴しあって いる。 山口勝弘の場合にも、似たことがいえる。山口は初め、20 世紀芸術の流れを研究し、ロ シアの構造主義や〈バウハウス〉 、ことに建築家のフレデリック・キースラーが提起した 問題を研究した。そして、箱庭の世界や都市空間に見られる日本の伝統的な空間概念と、 20 世紀の西洋の芸術家たちの探求とに深い類似が見られることを指摘してきた。70 年代 初頭以降、最新のテクノロジーを使った実験は、山口の最初の方向付けを裏付けてさえ いるようである。 *** いま日本における継続性と非継続性について触れたように、20 世紀西洋の芸術に関して も、二つの異なった傾向が認められる。一つは、ルネッサンス以来造形芸術の分野でも 音楽でも進められてきたある企てを、尊重する傾向である。芸術や科学の様々な領域を 区分けし、それぞれの分野の中をさらに明確に、専門的に定義していく。もう一つの傾 向は、むしろ区分を開放し、混合させ、コミュニケーションと相互作用を行うこと、つ まりそれぞれの分野がネットワーク状態にあることを再認識することである。後者は透 視画法、集中化、ヒエラルキー、線形性を拒否し、多様性、分散化、円環性を提案する。 前者がデカルト哲学を後盾にしているとすれば、物質の構造と「世界の統一性という観 念」 を研究した量子物理学を論拠とする後者は、東洋哲学と通じるものである。 明治時代になって西洋世界に門戸を開いた日本は、西洋の文化的構造を受け入れると公 言し、政治、経済、行政、教育の各方面で完全にシステムを変更した。同じようなこと が芸術の世界でも起こった。特に大学では、西洋の絵画、彫刻、音楽を、19 世紀まで発 展してきた形で学ぶために、日本の伝統芸術は脇へ追いやられた。 しかし日本が方向転換を行った直後に、この方向は疑問に付されるようになる。そして、 新しく生まれた〈未来派〉、〈ダダ〉、〈シュールレアリズム〉の動きに、初めから敏感だ った日本の芸術家たちは、大変早くからこの「解毒剤」の恩恵を受けることになった。 次いで第二次世界大戦が芸術の世界を含む全ての構造を覆し、日本ではほとんど全ての 価値観が崩壊し、見なおされることとなったのである。 日本がそのために大変苦しんだのは確かだが、この根本的再検討は悪いことばかりでは なかった。19 世紀西洋芸術への方向転換は、幸運にも深く浸透してはいなかった。〈実験 工房〉、〈具体〉、〈九州派〉、〈ネオ・ダダ・オーガナイザー〉、〈ハイ・レッド・センター〉 から〈ビデオ・アース〉、〈ビデオひろば〉といった、50 年代から 70 年代にかけての多 くの前衛運動がそのことを示している。「実験的な」芸術に携わる者は常に、その定義に より、あまりにも秩序立った「土台」を疑問視するものなのである。戦後の再検討はこ うして一つの力となり、未だ「継続性」の幻想に捉われているヨーロッパの前衛を超え る前衛へと、日本の芸術家たちを導いていくのである。 60 年代の初め、前衛芸術家たちは疑問によって鼓舞されていたといえるだろう。ジョン・ ケージやインターメディア・アートの代表者たちは、東洋哲学を見直し、それを芸術に 適用することを提案していた。そこで日本の芸術家たちは、「継続性」というビジョンを 選ぼうが、「非継続性」というビジョンを選ぼうが、またありとあらゆる価値ある組合せ を試そうが、自由になった。ビデオ・アートの先駆者たちは、新しい芸術における熟練 工ではなかった。(技術の変遷の速さを鑑みれば、ビデオ・アートは新しい芸術とは言え ず、中間といったところである。)むしろ、芸術とテクノロジーの様々な分野の具体的で 実践的な開放と集中を行う責任者であった。 したがって、これらの作家の作品は、分野の間に位置する、または分野を超えて位置す るその性格によって、吟味されるべきである。アナログ世界からデジタル世界へと移り 変わっていくテクノロジー一般の流れの中で、視覚を超え、時空間の全体的な意識に迫 る問題を提起できるかどうかが、作品の評価の決め手になる。したがって、ここでは純 粋に形式的な作品は取り上げず、環境としての、つまり複数で、相互に作用する作品群 に焦点を絞ろうと思う。それぞれの作品の良し悪しを批評する必要はないだろう。この 論文の目的は、「国際的な」状況における価値基準を提案することではない。むしろ、今 述べた概念に立脚して、作品の性質を論じることに意義を見いだしたい。 どの作家の作品も、無論、数十ページで語りきれるものではない。一つ一つの作品が、 無限の世界を包含している。ここではそれぞれの作品群の中で、私にとって最も示唆的 で独創的と思われる要素に絞って言及することにした。重要でないと思われる作品につ いては取り上げていないので、否定的な見解の入る余地は無い。 結論では、取り上げた作品をテクノロジー・アートの発展に特有な文脈の中に位置付け、 その共通点を明確にしようと思う。私たちは今、90 年代の初めから、人類史上かつてな い時空間を設定してきた、技術の発展と情報ネットワークに関する概念の発達の最終段 階にさしかかっている。日本文化の習慣や特徴、とくに社会的コミュニケーションの構 造や方法を見ると、このような環境で育った芸術家は、情報ネットワークの焦点を最も よく理解し、それをポジティヴに発展させるための使用法を生み出すことに長けている と思えてならない。
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