ハート=ネグリ『帝国』を巡って

ハート=ネグリ『帝国』を巡って
沖 公祐(東京大学大学院経済学研究科)
まず,
『帝国』の概要を見てみよう.
権力は,差異を管理運営し,利用するのである.
ハート=ネグリは,グローバリゼーションの時代に
このような〈帝国〉という権力は内生的に現われて
おいて,新たな主権的権力が出現していると主張する.
きたのではない.生産と交換のグローバリゼーション,
ハート=ネグリのいわゆる〈帝国〉にほかならないが,
すなわち,経済のグローバリゼーションをその裏面に
それは,旧来の国民国家システムやその拡大としての
伴っている.もともと帝国主義の拡大傾向は,資本の
帝国主義とは異なり,ボーダーをもたない,
「単一の支
「世界市場をつくりだそうとする傾向」(Grundrisse )
配論理のもとに統合された一連のナショナルかつ超ナ
からその駆動力を備給されていたが,この傾向はいず
ショナルな組織体」であるという.
〈帝国〉は単なる比
れ世界の有限性と衝突する(ハート=ネグリは,ロー
喩として持ち出されているのではない.ハート=ネグ
ザの剰余価値の実現における非資本主義的外囲への依
リによれば,
〈帝国〉は,グローバルな法的権力と警察
存という議論に基づいてこの衝突=矛盾を設定してい
権力を備えたものとして現にあらわれているのである.
る.この問題点はすでに多くのマルクス経済学者から
実際,現代の戦争はクラウゼヴィッツ的な意味での外
指摘されている).この衝突の帰結が 1929 年大恐慌だ
交の延長としての戦争ではなく,内政的な警察行為と
とされるが,それによって直ちに〈帝国〉が成立したわ
して語られる.例えば,他国の紛争に介入していくと
けではない.その後の脱植民地化と生産の脱中心化に
きには,国連憲章に訴え,世界の警察として行動する
よって,
〈帝国〉の第一の側面,グローバル化は促進さ
といった具合である.
れつつあったと言ってよいが,他方で,規律社会はむ
しろ強化されることになった.すなわち,ニューディー
〈帝国〉のグローバルな側面が権力の横への浸透だ
とすれば,縦への浸透が生権力 bio-power である.そ
ルを通じて規律的統治はその最高形態(テーラー主義,
れはまた,
「規律社会 disciplinary society から管理社会
フォード主義,福祉国家体制の三位一体)に達し,ま
society of control への移行」(フーコー=ドゥルーズ)
たそれは,第二次大戦後,グローバルに波及していっ
としても特徴づけられる.
〈帝国〉は,監獄,工場,学
たのである.
校,病院などの規律的諸制度を通じて社会的指令のメ
1960 年代末から 70 年代にかけての全世界的な闘争
カニズムがつくられるような規律社会ではない.むし
の広まりが規律的統治に攻撃を加えたことで,規律的
ろ,
〈帝国〉では,そうしたメカニズムは個々の主体に
体制,特に資本の規律的生産は変容を余儀なくされた.
内面化される一方で社会全体にネットワーク状に張り
すなわち,生産の情報化とサーヴィス化であり,これ
巡らされる.と同時に,
〈帝国〉は,生を権力の対象と
には物質的労働の非物質的労働へのシフトが対応して
し,生を管理するようになる.権力の生政治的な側面
いる.ハート=ネグリは非物質的労働という言葉で三
が,
〈帝国〉のもうひとつの顔である.
つのものを指している.産業内のコミュニケーション
このような二つの顔をもつ〈帝国〉の指令は,包含
労働(ex. JIT),シンボルを扱う労働(ex. コンピュー
的契機,示差的契機,管理運営的契機の三つの契機を
タ),情動労働(ex. ケア労働)であるが,これらの
含んでいる.
〈帝国〉はあらゆる外部を併呑していく包
労働は直接に協働的であり,本来は生(生活)の領域
含的な面をもつが,他方で,
〈帝国〉内部に対してはむ
に属するものであった.このような労働によって行な
しろ差異を称揚する(自由と民主主義は世界に遍く輸
われる生産をハート=ネグリは生の生産と呼ぶ.
出されねばならない—自由と民主主義の帝国に包含さ
こうして見ると,ハート=ネグリの言う〈帝国〉は,
れねばならない—が,文化的,民族的アイデンティティ
グローバル資本主義とぴったりと一致している(一致
等々は尊重されるべきである).その上で,
〈帝国〉的
しすぎている)ことが分かる.すなわち,主権のボーダ
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レス化には生産の脱中心化が対応し,生政治には生生
資本主義)においても,国民国家−国民経済が前提と
産が対応している.このため,
〈帝国〉の政体は純粋に
される点は選ぶところはない.
政治的なものではなく,政治的なものと経済的なもの
また,ハート=ネグリの特徴として,
〈帝国〉をかな
の複雑なハイブリッドとして理解される.ハート=ネ
りはっきりと段階として規定している点が挙げられる.
グリによれば,それは三層から成るピラミッド構造を
すなわち,
〈帝国〉は新たな主権と新たな資本主義を備
なすという.第一層は,アメリカを軸とした G7(+2?)
えた新たな段階だと言うのである.70 年代以降のアメ
諸国と国連や IMF・WTO のような国際機関から成り,
リカを中心とした政治経済体制の動揺を過渡期として
これは〈帝国〉を統合する役割を果たす.接合の働き
ではなく,その不安定さ(ハート=ネグリの言う危機
をもつ第二層には,主として多国籍企業によって形成
や腐敗)を本性とする〈帝国〉段階として見ている.
〈帝
されるグローバルなネットワークと諸国民国家が位置
国〉には,中心が欠けている点が問題になろうが,む
する.第三層は,民衆の利害を代表する従属的国家,
しろ,ハート=ネグリは権力と搾取の脱中心化が〈帝
メディアと宗教団体,NGO によって構成される.
国〉であると捉えている.
ただ,ハート=ネグリの議論は,今ある現象を〈帝
このような〈帝国〉は,抵抗の主体に対する対応とし
て成立したとハート=ネグリは主張する.これは,
「すべ
国〉と名づけてみただけという印象が否めない.
〈帝国〉
ての社会の歴史は階級闘争の歴史である」という『共
は,多様な組織から構成されるネットワーク状の複合
産党宣言』の認識と響き合う.ただ,マルクスが資本
体だと言うのであるが,その多様性は〈帝国〉自体が
主義における抵抗の主体をプロレタリアートに求めた
もつ多様性なのか,単に十分な抽象化がなされていな
のに対し,ハート=ネグリは,マルチチュードと名指
いだけではないのか,と言った疑問が残る.
している.マルチチュードは,あらゆる近代的主権に
ハート=ネグリは,
〈帝国〉を「示差的包摂」と一応
通底した潜勢力(構成的権力)であると同時に権力の
捉えてはいるが,格差や分断といった側面を軽視しが
対象でもある.
ちであるといった批判がある.これはハート=ネグリ
〈帝国〉におけるボーダーや規律的制度の弱体化は一
が〈帝国〉を「平滑空間」と表現していることなどか
見自由をもたらすポジティヴなものに見えるが,むし
ら強く受ける印象であるが,これに対しては,脱領土
ろ,権力と搾取の対象をかつてないほどに遍在化(非−
化に伴う条理化や再領土化を看過すべきではないとい
場)させる.しかし,だからといって,グローバリゼー
う主張がなされよう.
ションに反グローバリゼーション(ローカリゼーショ
〈帝国〉はアメリカ帝国主義=アメリカナイゼーショ
ン)で対抗するべきではないとハート=ネグリは主張
ンではないか,という反論もあるが,これは一点目と
する.
〈帝国〉はかつてないまでに強大な権力機構であ
二点目の問題をどう見るかということに帰着する.国
るが,その肯定的な面を無視することはできない.す
民国家を超える,脱中心化された権力というハート=
なわち,
〈帝国〉は,権力と搾取の偏在性ゆえにこそマ
ネグリの主張を認めた上で,なお固有名に拘るならば,
ルチチュードが異種混交的なままに連帯する可能性を
それは単なるナショナリズムである.
フーコーの生権力をハート=ネグリが(意図的に?)
もたらすのである.
誤解しているという点からユニークな見解も展開され
以上のような『帝国』の議論に対して,どのような
ている(小泉義之).ハート=ネグリの言う生権力の対
象となる生とは生活過程のことを指すが,フーコーの
ことが問題になるだろうか.
これまで,グローバリゼーションにおける主権を巡っ
場合,身体そのもの(ビオスではなくゾーエー),すな
ては,国家主権の衰退(国家の退場)という点に議論
わち,生殖・誕生,死亡,健康,寿命などが問題にされ
が集中してきた.しかし,ハート=ネグリに言わせれ
ている.そうだとすると,生活過程のみならず〈再生
ば,この議論は,主権を国民国家に還元している点で
産〉過程に権力が,また,情報化やサービス化よりも
限界がある.
『帝国』を評価するにあたって,この点を
むしろヒトゲノムやクローン,臓器移植,生殖といっ
認められるかが分岐点となろう.典型国を分析ツール
た領域に資本が介入してくる点が問題になるはずだと
とする宇野の段階論においても,中心国を基軸と見な
いう主張である.
すウォーラステイン(や岩田理論)の世界経済(世界
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