1章 化学の歴史 - 名城大学 農学部 有機物性化学研究室

第一章
化学の歴史
武田和子 「化学と人間の物語」河出書房 1966
出典
アイザック・アシモフ 「化学の歴史」 玉虫文一、竹内敬人訳 河出書房 1967
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この章は、各時代の特徴を簡単なメモ程度で記し、興味深い部分を Wikipedia などで補填
する。
A) 古代の工芸技術
B)
前 4000-前8世紀(メソポタミア文明)p1
ギリシャ・ヘレニズム・古代ローマ(前8-3世紀)p8
C) 4-16 世紀
イスラム―インド―中国―ヨーロッパ
錬金術
p11
D) 近代化学の誕生 (17 世紀―18 世紀) p16
E)化学の拡大。隣接科学との融合(19 世紀)p17
F)無節操的飛躍と基礎科学(20世紀)p19
付録研究者業績等
A) 古代の工芸技術
p21
前 4000-前8世紀(メソポタミア文明)
この期間は、自然に入手できるか簡単な加工のみを要した金属、鉱石、宝石、
香料、薬、毒、染料、顔料、また科学として程度が高いガラスやそのうわぐす
りなどが開発された(項目、金属:金、銀、銅、錫 → 青銅 → 鉄 → 鋼、
石・宝石、ガラス・うわぐすり、染料と顔料、薬、香料、毒)。
「ものを焼く」、「金、銅など入手しやすいもので道具を作る」、「粘土を焼き
固める」など原始的な作業は「化学」にいれない・・・体系化と知識の蓄積・
応用により「化学」となるのは西暦紀元前 4000 年ほど前である。初期の化学は
エジプト(ナイル河)・メソポタミア(チグリス・ユウーフラテス河)で、イラ
ク・バグダッドの南の都バブ・イル(バベル)[→ バビロン → バビロニア
文明]は著名である。
知識階級の一部である呪い・占い師などは、加持祈祷、予言、天文(占星術)、
1
自然現象(気候)予測、医療、物質(金属、毒、医薬)の扱いに慣れていたが、
化学は最も汚い業務として職人・奴隷(金銀細工師、ガラス工、鉱夫、鍛冶屋
(武器作成は高等職)、鋳物師)にゆだねられ、何も記録を残していない(サイ
エンスではない)。
しかし、「物」を残す
1.金属加工品、武器、2.ガラスとうわぐすり、3.染料、4.薬、香料、に
つき、要点を箇条書きとする。
1.金属・合金(戦争の道具)
●金→銅(エジプトではシナイ半島産の銅が金より古く知られていた)
孔雀石(マラカイトグリーン) 青緑色鉱物(宝石)を炭火で焼く→緑青
粉末孔雀石+脂肪
→
アイシャドウ
●鉛(紀元前 3400)、銀
●青銅:銅と錫の合金 硬くて強い(難点 重く武器としては使いにくい)前
2700-2000
錫の産出地と交易人 ギリシャ・英国他、フェニキア人→エ
ーゲ海文明
シュメール人(鍛冶屋)
2
錫、アンチモン
●鉄:純粋な鉄の製造は困難・・隕石中から、貴重でありラピスラズリとい
っしょに首飾り・・・前 2000―1400 年ころから ハッティ人(ヒッタイ
ト、ヘテ)が鉄製武器でエジプトを悩ます
●前 1100 年 アッシリア 鉄器による侵略と記録
●真鍮:銅と亜鉛の合金 中国 前 2000 年
2.ガラスとうわぐすり
メソポタミア(アッシリア)・エジプト 前 5000 年―
●石英→薄緑色ガラス
●石英+孔雀石+石灰→水色、藍色 “エジプシャンブルー”最古の合成顔
料の一つ
●石英+コバルト → 青紫
●炭酸ソーダ+石英
→
加熱により透明ガラス
ラピスラズリ
マラカイト
3.染料
●インド藍(indigo): インド大青より 青色柱状結晶、水・アルコールに不溶
繊維に染めるため、一度可溶状態にして(この場合は還元体 無色)繊維に染
めてから、空気中に放置し酸化する(建染染料) ジーンズの青色
天然の染料から脱し、合成染料を開発するのは 19 世紀
3
1856
1869
William Henry Perkin アニリンの酸化でモーブ染料(紫)
茜染料 アリザリン, 1880 インディゴ BASF
********************** (この記号で挟んだ部分や囲み記事は参考である)
●媒染を要する染料を媒染染料、媒染に使う薬品を媒染剤
という。ウコンやキハダなど媒染を要しない例外もあるが、
天然染料の多くは媒染を必要とする。アカネは古くから染
色に用いられてきたが、1804 年頃にイギリスの染料業者が
アルミニウムミョウバンで先媒染処理する方法を開発した。
1826 年に色素のアリザリンが分離され、1869 年にアリザ
カリミョウバン
リンの化学構造が解明されると、構造の似た媒染染料が数多
く開発された。媒染染料が水に難溶である欠点を改善するた
め、1889 年に染料分子中にスルホ基などを導入して水溶性を
改善した酸性媒染染料が開発され、従来の先媒染に加え同時
媒染・後媒染も行えるようになった。有機媒染剤としては、
タンニンや硫化フェノールなどが用いられる。無機媒染剤と
しては 4 配位または 6 配位の金属イオン、なかでもアルミニ
クロムミョウバン
ウムイオン、鉄イオン、クロムイオン、銅イオン、鈴イオン、ニッケルイオンなどが为
4
に用いられる。具体的には、二クロム酸カリウム、塩化鉄、塩化錫、ミュバン、硫酸銅、
酢酸銅、酢酸アルミニウムなどが使われている。中には劇物に該当するものもあるため、
趣味の染織工芸などでは天然材料である鉄漿や灰汁なども使用されている。大島紬など
では泥に含まれる鉄分で媒染を行っている。
●変わった染料
クリムゾンまたはクリムソン (crimson) は濃く明るい赤色で、若干青みを含んで紫が
かる。彩度が高く、色彩環上ではマゼンタと赤の中間に位置する。元は昆虫コチニール
カイガラムシ(エンジムシ、学名 Dactylopius coccus)を乾燥したものから得られる
染料の色であったが、一般的に赤い色を指し示すようになった。原料となる昆虫は地中
海の国々で樫の木の一種ケルメス・オーク(Kermes oak) から捕集され、ヨーロッパ中
で売られた。ケルメス染料はアングロスカンジナビアン・ヨークにおいて、埋葬の際に
遺体を包む布などにみられた。コチニールの導入によって使われなくなった。これらの
色素は品質や色の強さにおいてほとんど変わらないが、同等の効果を得るために、ケル
メスはコチニールの 10 から 20 倍を必要とした。ミケランジェロの絵画や、軽騎兵、テ
ュルク、英国兵や王立カナダ騎馬警察の衣服に用いられた。今日では食品用の着色料、
医療用途、および化粧品にはカーミンが使われる。油絵具や水彩絵具にも用いられてい
る。イギリスでは伝統的に血の色と関連付けられており、それゆえ暴力、勇気、苦痛を
連想させる色でもある。カーキ色の迷彩服が導入されるまではイギリス陸軍の制服に利
用される特徴的な色であり、現在でも歩兵やブルーズ・アンド・ロイヤルズを除く重騎
兵、工兵等の正装(Full Dress)はこの色である。但し、この正装を着用する将兵は近
衛兵や各連隊の軍楽隊等に限られている。実際にはヘモグロビンの赤はより暗く、彩度
も低い。ポーランド語でクリムゾンに相当する karmazyn はマゼンタと同義語である。
うさぎ座の変光星うさぎ座 R 星はその赤い色合いから 「クリムゾン・スター」 と呼ば
れている。クリムゾンはいくつかの大学でスクールカラーに採用されている。ハーバー
ド大学、セント・ジョセフズ大学、アラバマ大学、ワシントン州立大学、インディアナ
大学、ユタ大学、オクラホマ大学など。日本では一橋大学などが挙げられる。
*******************************
4.薬・香料・毒
ミョウバン、ヒマシ油、天然ソーダ(防腐剤)、乳香、没薬
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●乳香
ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木から分泌される樹脂のこと。ボスウェリア
属の樹木は、オマーンなどの南アラビア、ソマリアなどの東アフリカ、インドに分布し
ている。 これらの樹皮に傷をつけると樹脂が分泌され、空気に触れて固化し、乳白色
~橙色の涙滴状の塊となる。乳香の名もその様子に由来している。 樹脂の性質は樹木
5
の種類や産地によって大きく異なるが、良質とされるものの
商業的な生産は为にオマーンで行なわれている。焚いて香と
して、または香水などに使用する香料の原料として利用され
ている。中医薬・漢方薬としても用いられ、 鎮痛、止血、
筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされる。乳香は
紀元前 40 世紀にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘さ
ボスウェリア属植物の花
れているため、このころにはすでに焚いて香として利用され
ていたと推定されている。古代エジプトでは神に捧げるため
の神聖な香として用いられていた。神に捧げるための香とい
う点は古代のユダヤ人たちにも受け継がれており、聖書にも
神に捧げる香の調合に乳香の記述が見られる。また、東方の
三博士がイエス・キリストに捧げた 3 つの贈り物の中に乳香
がある。日本にも 10 世紀には薫香の処方内への記述が現れるため、このころにシルク
ロードを通じて伝来したものと考えられている。日本正協会を含む正教会では、古代か
ら現代に至るまで、奉神礼で香炉で乳香を頻繁に焚いて用いる。振り香炉にも乳香が用
いられる。香水などへの使用が行なわれるようになったのは 16 世紀に入ってからであ
り、乳香を水蒸気蒸留したエッセンシャルオイルや溶剤抽出物であるレジノイドがこの
用途に用いられるようになった。
●没薬
フウロソウ目カンラン科コンミフォラ属(ミルラノキ
属)の樹木から分泌される樹脂のことである。 ミルラ
(あるいはミル、Myrrh)とも呼ばれている。 ミルラも
中国で命名された没薬の没も苦味を意味するヘブライ
語の mor、あるいはアラビア語の murr を語源としてい
る。コンミフォラ属の樹木はインドから南アラビア、
東アフリカ、マダガスカルに分布している。 これらの
樹皮から分泌される樹液は、空気に触れると赤褐色の
涙滴状に固まり、表面に細かい粉を吹いたような状態
となる。 ギリシア神話においては、ミルラノキはアド
ニスの母であるキプロスの王女ミュラが変身させられた姿であり、その流す涙が没薬で
あるとされている。 商業的な生産には樹皮に傷をつけてそこから分泌される樹脂を集
めたり、樹皮をはいでその下の樹脂層をかきとる方法が行われる。古くから香として焚
いて使用されていた記録が残されている。 また殺菌作用を持つことが知られており、
鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。 古代エジプトにおいて日没の際に焚かれて
いた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ
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作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。 ミイラの語源はミルラから来ている
という説がある。聖書にも没薬の記載が多く見られる。 出エジプト記には聖所を清め
るための香の調合に没薬が見られる。 東方の三博士がイエス・キリストに捧げた 3 つ
の贈り物の中にも没薬がある。 没薬は医師が薬として使用していたことから、これは
救世为を象徴しているとされる。 またイエス・キリストの埋葬の場面でも遺体ととも
に没薬を含む香料が埋葬されたことが記されている。東洋においては線香や抹香の調合
に粉砕したものが使用されていた。また、近代以降においては为に男性用香水に使用す
る香料の調合にも使用されている。 この用途には粉砕した没薬を水蒸気蒸留したエッ
センシャルオイルや溶剤抽出物のレジノイドが使用される。 この他、歯磨剤やガムベ
ースにも使用される。
●ソクラテスの死 毒ニンジン
学名「コニウム・マクラトゥム」が意味する通り、ヨーロッパ種のほうが中毒性のある
「毒草」として、はるかに有名である。ハーブとして有用な二年草で、1.5 メートルか
ら 2.5 メートルの高さに育ち、つるつるした緑の茎は、下半分に、たいてい赤か紫のぶ
ちやまだらが入っている。ドクニンジンは、ソクラテスの処刑に毒薬として用いられた
ことが知られており、茎の赤い斑点は、ヨーロッパでは「ソクラテスの血」と呼ばれる
こともある。小さな白い花は、花序の中で密集しており、全体で直径 10 センチメート
ルから 15 センチメートルほどになる。葉はきれいにレース状に分かれており、一様に
三角形をしている。とりわけ若葉は、パセリや、山菜のシャクと見間違えやすい。また
植物全体が、しばしばフェンネルやワイルドキャロット(菜人参の原種)と取り違えら
れる。種子はウイキョウ(フェンネルシード)に似ており、肉色をした根は、たいてい
枝分かれしておらず、パースニッツと取り違えられる。ドクニンジンは、植物全体が臭
気を放っていることが特徴と言われているため、食用植物
と区別するには、臭みが手がかりとなりうる。たとえばド
クニンジンを潰してやると、葉と根は、腐ったような(あ
るいはカビ臭い)不快な臭いがするのに対して、フェンネ
ルの葉は、アニスやリコリスのような芳香がする(ただし
パースニップも同じくらい臭いといわれるため、どのみち
注意は必要である)。ドクニンジンかそれ以外の安全な植
物かの見分けがつかないような場合は、ドクニンジンの毒
性の高さを考慮して、廃棄することである。ドクニンジン
は、かつては日本に自生していなかったが、近年ヨーロッ
パと気候の似た北海道の山野では帰化植物となっており、
毒ニンジン
このためシャクと誤認して採取され、摂取された結果の死
亡例も報告されている。
(北海道のほかに、東日本やアジア各地、北米大陸、豪州など
7
でも帰化植物となった例が報告されている。ドクニンジンは、しばしば水辺やどぶなど、
水はけの悪い土地で発見される。
)ドクニンジンは、各種の毒性アルカロイド(コニイ
ン、N-メチルコニイン、コンヒドリン、N-プソイドコンヒドリン、γ―コニセインなど)
を含む。これらの毒の中でも最も重大なのがコニインである。コニインは神経毒性の成
分で、中枢神経の働きをおかし、人間や家畜にとっては有害である。
●ヒヨス(Hyoscyamus niger)はユーラシア原産の
ナス科の植物である。現在は世界中に分布してい
る。ヒヨスは、マンドレイク、ベラドンナ、チョ
ウセンアサガオ等の植物と組み合わせて、その向
精神作用を利用して麻酔薬として歴史的に用い
られてきた。向精神作用としては、幻視や浮遊感
覚がある。ヒヨスの利用は大陸ヨーロッパ、アジ
ヒヨスの花
ア、中東で始まり、中世にはイギリスに伝わった。古代ギリシア人によるヒヨスの利用
はガイウス・プリニウス・セクンドゥスによって記録されている。この植物は Herba
Apollinaris と記述され、アポローンの神官によって神託を得るのに用いられた。昔の
バビロニアの歯痛どめに、ヒヨスの葉を粉にして歯のうろに詰めることがあった。ヒヨ
スには毒性があり、動物なら尐量で死に至る。henbane という英名は 1265 年まで遡る。
語源は定かではないが、"hen"はニワトリという意味ではなく、恐らくもともとは「死」
を意味していた。ヒヨスの葉や種子には、ヒヨスチアミン、スコポラミン、その他のト
ロパン・アルカロイドが含まれている。人間がヒヨスを摂取した時の症状には、幻覚、
瞳孔散大、情動不安、肌の紅潮等がある。また人によっては頻脈、痙攣、嘔吐、高血圧、
超高熱、運動失調等の症状が表れることもある。全ての動物が毒性の影響を受けるわけ
ではなく、ヨトウガ等のチョウ目の幼虫はヒヨスの葉を食糧としている。11 世紀から
16 世紀にホップに代用されるまで、ヒヨスはビールの原料として風味付けに用いられ
てきた(例えば、1516 年のビール純粋令では、ビールの原料として麦芽、ホップ、水
以外の使用が禁じられた)。
1910 年、ロンドン在住のアメリカ人ホメオパシー実践者であるホーリー・ハーヴェイ・
クリッペンは、妻を毒殺するのにヒヨスから抽出したスコポラミンを用いたと言われて
いる。またハムレットの父の耳に注がれたヘベノンという毒物はヒヨスのことであると
考えられている。(ただし他の説もある。)
***************************************
B)
ギリシャ・ヘレニズム・古代ローマ(前8-3世紀)
ギリシャ文明[前8世紀~前338年マケドニア(フィリッポス王)侵略]、ヘ
レニズム文明[前 340~前 30 年], 古代ローマ期[前 30 年~395 年(東西ローマ
8
帝国に分裂、5世紀に西ローマ帝国滅ぶ)]の化学とその背景の要点を箇条書き
で記す。
ギリシャ時代
●四元素説:土、空気、火、水
●デモクリトス(BC469-370) 原子論
● プ ラ ト ン (BC427-347) 、 ア リ ス ト テ レ ス
(BC384-322)の四元素説(下図)+天体 頭脳
(机上)派・・・天文、数学、哲学、しかし化学(奴隷、職人の仕事)は進歩
せず
ガリレオ・ガリレイは太陽中心説(地動説)をめぐって生涯ア
リストテレス学派と対立し、結果として裁判にまで巻き込まれ
ることになった。古代ギリシャにおいて大いに科学を進歩させ
たアリストテレスの説が、後の時代には逆にそれを遅らせてし
アリストテレス
まったという皮肉な事態を招いた。
ヘレニズム文明、古代ローマ期
●アリストテレスはマケドニア王子(フィリッポス王の息子)の家庭教師
王
子→アレキサンドロス三世
●ヘレニズム時代 (ギリシャ文明の拡散と古代オリエント文明との融合)とア
9
レキサンドリア(アル=イスカンダリーヤ)前 340-前 30 年の期間
●ローマ(帝国は前 27 年より、実用一点バリ、質実剛健、軍人国家)工学・土
木建築が進む
天文、数学、哲学は進歩せず
化学は置き去り
自然科学の中心はアレキサンドリア:プトレマイオス(アレキサンダー王の友
人・部下)王朝~クレオパトラ7世 → ローマ帝国に併合
プトレマイオス2世 学問芸術のパトロンとなり自然科学が隆盛 しかし、ヘ
ルメス为義による「まがい科学」が横行
******************************
●ヘルメス为義(英語:Hermeticism)とは、为として、ヘルメス・トリスメギストス
という著者に仮託された古代の神秘为義的な一群の文献ヘルメス文書に基づく、哲学
的・宗教的思想の総称。ヘルメス文書で扱われる、占星術、錬金術、神智学、自然哲学
などを含み、日本語では神秘学の名で呼ばれるような概念にも近い。
例:三位一体+錬金術
→ 水銀+硫黄+塩
贋金つくりが横行(金+亜鉛、銀+亜鉛、金+銅、銅+ヒ素(銀色))したため、3世紀
末
贋金・偽宝石つくりに関するヘルメス術禁止令(皇帝ディオクレティアヌス)
ヘルメス術の地下組織化と占星術・神秘为義の増強、アラビア、ヨーロッパへの浸透
中世錬金術:エリキシル(エリクサー) 賢者の石
どんな卑金属でも金・銀に変える、
どんな病気でも治す。
●辰砂(cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、赤
色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。
水銀の重要な鉱石鉱物。不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体
結晶として産出する。『周禮』天官冢宰の鄭注に「五毒 五藥之有毒者」のひとつにあ
げられるなど、中国において古くから知られ、錬丹術などでの水銀の精製の他に、古来
より赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されている。『史記』巻 128 貨殖列
伝に「而巴寡婦清 其先得丹穴 而擅其利敷世」、巴の寡婦清、その先んじて丹を得るも、
しかしてその利を擅(ほしいまま)にすること数世と、辰砂の発掘地を見つけた人間が
巨利を得た記述がある。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、
「辰
砂」と呼ばれるようになった。日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人
伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に
使用されていた。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いら
れ、古くは吉野川上流や伊勢国丹生(現在の三重県多気町)などが特産地として知られ
た。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16 世紀中期以後、天然・人工
の朱が中国から輸入された。現在では奈良県、徳島県、大分県、熊本県などで産する。
10
辰砂を空気中で 400–600 ℃ に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生
じる。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製する。
硫化水銀(II) + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄
陶芸で用いられる辰砂釉は、この辰砂と同じく美しい赤色を発色する釉薬だが、水銀
ではなく銅を含んだ釉薬を用い、還元焼成したものである。また、押印用朱肉の色素と
しても用いられる。伝統中国医学では「朱砂」や「丹砂」等と呼び、鎮静、催眠を目的
として、現在でも使用されている。有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて、辰砂の
ような水に難溶な化合物は毒性が低いと考えられている。辰砂を含む代表的な処方には
「朱砂安神丸」等がある。
**********************************
C)4-16世紀
イスラム―インド―中国―ヨーロッパ
錬金術
この期は、イスラム錬金術、ヨーロッパ錬金術の隆盛期にあたり、物質の知識
は蓄積されたが、学術としての化学は未熟なままである。
●イスラム錬金術
622 年 イスラム教によるアラビア部族の統一とペルシャ、中央アジア、シリア、
エジプト、小アジア、北アフリカ、イベリア半島への進出
十字軍以降 錬金術(アルケミー)書の翻訳がアラビア語→ヘブライ語→ラテ
ン語で行われ、アルケミーがヨーロッパに広がる。
4 元素説を踏襲。錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬
品の発見が多くなされており、実験道具が発明された。その成果は現在の化学
(Chemistry) にも引き継がれている。
●インド錬金術は8世紀におこるが、化学の芽は無し
●古代中国から10世紀
前 11 世紀―前 10 世紀 青銅、 前6世紀 鉄、ついで真鍮、亜鉛が開発され
る。シルクロードを経由して前2世紀以降西側の文物が入る。
140 年ころ 錬金術書:硫黄、水銀、金、鉛などの化学反応で丹を作成
紀元4世紀 錬金術書 「抱朴子」 不老長寿
唐
618 年
李淵―290 年間
907 年滅ぶ 唐時代は錬金術が隆盛(道教が国教で
11
あり、神仙思想が占める)。唐の6人の皇帝は丹薬で中毒死
唐時代に火薬、鉱物、樹脂、薬草、抽出法(毒、薬)、メッキ技術が進むが、化
学にならず。
宋
朱子学(実践道徳)
錬金術落ちぶれる
化学の芽は無し
●中世ヨーロッパ(5世紀―15世紀) 1000 年かけて錬金術から化学の芽が。
395 年 東ローマ(ビザンチン帝国 1000 年続く)、西ローマ(5世紀にゲルマン
民族の侵入で滅びる・・4世紀後半のフン族の侵入→ゲルマン民族(ゴート族)
の移動→西ローマ帝国簒奪 476 年→族間紛争→8世紀末イタリア、ドイツ、フ
ランスの基盤形成→11 世紀イギリス、北欧諸国)
キリスト教 4-5 世紀 ローマ帝国容認、11 世紀 2 つに分裂 ギリシャ正教(モ
スクワ)+ローマン・カトリック(ヴァチカン)
:後者が西ヨーロッパ文化圏を
まとめる(従って、宗教色の強い科学となる)
学術の活発化
12世紀
共通語(ラテン語)、大学(イタリア・ボローニャ、
フランス・パリ、イギリス・オックスフォード)
十字軍の働き:11 世紀より
イスラム文化をヨーロッパに持ち込む
12-14 世紀3人の錬金術師(本質的に宗教家)
マグヌス(12-13 世紀
ヒ素の
発見),ベーコン(13 世紀、オクスフォード大、パリ大に学ぶ、大西洋を西にす
すめ、さればアジアに到着する→コロンブス), ルル(13-14 世紀 無水アルコ
ールの作成法) 空想的、典型的錬金術師
医術化学
16-17 世紀
科学的な展開が一部にある(正確な実験・記述)ただし、
まだ錬金術の域
ヘルモント(16-17 世紀 ガス、柳の実験(光合成の観測)、定量的観測
グラウバー(ヘルモントの一世代後、硫酸ナトリウム 10 水和物は俗に芒硝ある
いはグラウバー塩とよばれ。 入浴剤、下剤、漢方薬)
***************************************
●マグヌス(12-13 世紀 ヒ素の発見)、アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus,
1193 年頃 - 1280 年 11 月 15 日・ケルン)は大聖アルベルトとも呼ばれる 13 世紀のド
イツキリスト教神学者である。またアリストテレスの著作を自らの体験で検証し注釈書
12
を多数著す。錬金術を実践し検証したこともその一端である。カトリック教会の聖人(祝
日は命日にあたる 11 月 15 日)で、普遍博士(doctor universalis)と称せられる。トマ
ス・アクィナスの師としても有名である。ピウス 10 世によって
教会博士の称号を与えられている『鉱物書』において、マグヌ
ス自身で錬金術をおこなったが金、銀に似たものができるにす
ぎないと述べられている。『錬金術に関する小冊子』では自分
で実験したことのみを記し金と銀の製法とできた金属について
ふれている。また 1250 年に著作にヒ素について言及し、その発
見者とされる。
●ベーコン(Roger Bacon、1214 年 - 1294 年)は、
「驚嘆的博士」
(Doctor Mirabilis)
とよばれた 13 世紀の哲学者。イギリス出身のカトリック司祭で、当時としては珍しく
理論だけでなく経験知や実験観察を重視したので近代科学の先駆者といわれる。オクス
フォード大、パリ大に学ぶ、
“大西洋を西にすすめ、さればアジアに到着する”と記す
→コロンブスが実践)
。思考より実証、実験为義、しかし、目的は金の創造。ベーコン
は神学や学問においてただただ先人に追随することを否定した。彼の『大著作』では数
学、光学、化学に関する記述が含まれ、宇宙の規模についてまで言及されている。さら
に驚くべきことにベーコンは後世において顕微鏡、望遠鏡、飛行機や蒸気船が発明され
ることまで予想している。また、宇宙の運行が人間の運命と心身に影響すると考えてい
た。どれを見てもその先見性には驚きを禁じえないが、ベー
コンは他にもユリウス暦の問題点を指摘し、アイザック・ニ
ュートンより 400 年も早く水の入ったグラスにおいて光のス
ペクトルを観測していた。彼は当時世界の最先端にあったア
ラビア科学と哲学に親しんでおり、近代科学を先取りして経
験と観察の重要性を強調した。ベーコンには百科事典を作る
構想があったようだが、未完に終わったのか断片しか残され
ていない。
●ルル(13-14 世紀
無水アルコールの作成法) ライムンドゥス・ルルス(Ramon Llull、
Raymond Lully, Raymond Lull, ラテン語:Raimundus , Raymundus Lullus , Lullius, ス
ペイン語:Raimundo Lulio、(1232 年 – 1315 年 6 月 29 日)は、マジョルカ人の著述家、
哲学者。彼は最初の为要なカタロニア文学を書いた。先駆的な選挙論も後に発見された。
数学ではゴットフリート・ライプニッツに影響を与え、ローマ法の注解者としても知ら
れる。1257 年に結婚し、2 人の子どもが与えられたが吟遊詩人のような生き方はかわら
なかった。マヨルカ王ジャウメ 2 世の執事となる。30 代前半の時に幻を見て新しく生
まれる経験をした。彼の人生の鍵となる出来事は回心である。Vita coaetanea にこの
説明がある。王の執事を勤め、空しい歌と詩を書き、不道徳にふけっていた。そして、
13
愚かな愛を与えた女に歌を書こうとしたとき、十字架にかけ
られたイエス・キリストの幻を見たという。そして、修道院
に入った。そこで神からイスラム教のサラセン人に対する福
音宣教の召しが与えられたという確信を得た。40 歳の時に宣
教師となってイスラムに伝道する。またフランシスコ会の修
道院を作る。1307 年にブギアへ宣教に行き投獄される。1314
年の 3 度目のイスラム伝道に赴くが、現在の北アルジェリア
においてイスラム教徒に石を投げられ、殉教した。
空想的、典型的錬金術師
ルル为義者の異端的化学と滅亡
16-17 世紀の妖術、魔法、
毒物、劇薬、暴音・光・煙を出す化学反応など、化学の暗部と「医術化学」(薬物学で
あったが、いつのまにか錬金術と融合し、卑金属は金属が病にかかったもので、病気を
治すと金属になるとの錬金術になる)
●ヤン・パブティスタ・ファン・ヘルモント(Jan Baptista van Helmont・1579 年 1
月 12 日 - 1644 年 12 月 30 日)は、17 世紀フランドルの医師・化学者・錬金術師。
「ガ
ス」という概念の考案者として知られている。当時スペイン領南ネーデルラント(ブラ
バント公国)のブリュッセルで、貴族の子として生まれた。1594 年までルーヴェン大
学で美術や古典を学び、続いてイエズス会の学校で神学や神秘学について学んだ。だが、
どれも彼の心を満足させることが出来ず、最終的に医学を学んだ。だが、学位を得たり
それを元にして仕官を得ることは虚名を得るに過ぎないとしてこれを拒絶し、医師の開
業資格を得ると、母校の外科学講師となった。ところが、疥癬症にかかった時にガレノ
ス医学に従った下剤による治療で却って病状を悪化させ、当時大学では为流ではなかっ
たパラケルスス医学に基づいた治療を行って漸く回復した。だが、ヘルモントにとって
この出来事がガレノスに絶対の価値を置いた当時の医学への失望を招き、持っていた医
学書を捨て去って放浪の旅に出た(後にこれらの書を焼却処分
にしなかったことを後悔したという)。ヘルモントは 10 年に渡
る旅の末に、1609 年にヴィルヴォルデ(ビルボルド)を領する
貴族の娘・マルゲリーテ・ファン・ランストと結婚、この地に
落ち着いて化学や錬金術の研究に没頭した。ヘルモントは「哲
学者の石」の存在を信じていたが、同時に熱心なキリスト教徒
であったため、古代ギリシアの自然哲学や中世スコラ哲学の弁
証法に対して懐疑的で、神が与えた力(人間の能力や聖書の言
葉)を通じてのみ、神が創造したものを理解できると考えてい
た。そのため、彼は多くの実験を積み重ねて自己の経験を深めていくことに努力した。
ヘルモントはアリストテレスの土・空気・火・水による「4 元素説」やパラケルスス(ヘ
ルモントの師)の塩・硫黄・水銀による「3 元素説」を批判して、この世界の物質は水
14
と空気の 2 要素でのみ成立し、しかも空気は様々な物質の物理的母体ではあるものの、
化学変化を起こして万物を生み出すことが可能なのは水だけであると唱えた。彼はこの
考え方は魚が水中の中でも生きていられることや生物を酸で溶かすと水に変わること
で証明できるとし、更にこの考え方は『創世記』における天地創造の記述とも合致する
とも为張した。ヘルモントは水から様々な物質が生み出される過程についての発生原理
について仮説を立て、これを「発酵原理」もしくは「根本原理」と命名した。彼が自己
の理論の証明のために行ったのが後に「柳の実験」と呼ばれるものであった。まず、き
ちんと質量を測定した一定量の土を鉢の中に植え、そこに同様に質量を測定した柳の苗
木を植える。それから彼は柳に対して水以外の一切の物を与えずに 5 年以上にわたって
観察した。その結果、5 年間で柳は 164 ポンド(現代の単位に換算して 70kg)も増えた
にも関わらず、土の量はわずか(同 100g)しか減尐していない事実を指摘し、植物が
水によって出来ているからこそ、これだけの生長ができたのだと为張した。また、ヘル
モントは 62 ポンド(同 27kg)あった木炭を燃やしたところ、1 ポンド分の灰しか残ら
ないことを指摘し、これは燃焼とともに残りの部分は水と水が特殊な発酵をすることで
生み出された物質となって空気中に放出されたと考えたのである。この物質はそれぞれ
の物体に元から含まれているもので燃焼などの作用によって露出されたものであると
考えたのである。そこで、彼はギリシア語で混沌を意味する「chaos(カオス)」という
語から、こうした物質を「gas sylvestre」と命名し、こうした物質が 4 種類は存在す
ることを指摘した。この 4 つは現在の二酸化炭素・一酸化炭素・亜酸化窒素・メタンで
あるとされている。また、ヘルモントが考案した「gas(ガス)
」という言葉はその後の
化学の進歩によって、その定義そのものは変化していくものの、その後の化学において
重要な役割を果たす概念となっていった。また、浸透の概念を考え出したのも彼であっ
た。また、彼は医学においても新説を立てた。彼は生物の器官はそれぞれ一定の役割を
しており、内部にはその役割を維持するための発酵体があること、そこに異質の発酵体
が入ることで器官の機能に異常をきたして病気を引き起こすと考え、病気を起こしてい
る器官に適した治療法の必要性を唱えた。その中で体内に入った食物は胃で酸によって
溶かされて腸壁において吸収されることを为張した。また、治療において磁石の利用を
行った。とろが、三十年戦争の最中であった 1621 年、当時の医学及び神学において常
識とされていた「武器によって生じた傷を治すには武器そのものに処置を加えれば良い」
という武器軟膏の考え方をヘルモンテが批判したとして、彼と不仲であったイエズス会
の修道士が異端審問所に告発した。その結果、彼は逮捕された。彼はその結果有罪とさ
れ自宅に幽閉され、更に自由に著書を刊行することを禁じられた。その措置は彼の死か
ら 2 年後まで解除されなかった。彼の没後、息子のフランシス・メリクリウス・ファン・
ヘルモントは、
遺稿を整理して赦免後の 1648 年に全集『Ortus medicinae(医学の起源)』
として刊行された(ただし、父譲りの研究家であったフランシス自身の著作が含まれて
いるという説がある)
。
15
●グラウバー(ファン・ヘルモントよりも 1 世代のちの人)
硫酸ナトリウム:飽和水溶液から常温で結晶されると 10 水和物が得られる。普通この
状態で存在することが多い。10 水和物は俗に芒硝(ぼうしょう)あるいはグラウバー
塩とよばれ、比重 1.464 の無色の結晶で、水に可溶。転移温度である 32.38 ℃で水和
水が結晶水になる。水和物を空気中に放置すると風解するが、無水和物を湿った空気中
におくと水和物となる。無水物はガラスの製造、乾燥剤、十水和物は下剤にしたり、防
風通聖散や桃核承気湯などの漢方薬などに配合される。また、温泉の含有物質として代
表的である。硫酸ナトリウムなど、アルカリ金属・アルカリ土類金属の硫酸塩を含む温
泉は総じて硫酸泉・硫酸塩泉と呼ぶ。人体に対する安全性の高い物質の 1 つであり、家
庭用の入浴剤の为成分として炭酸水素ナトリウムとともに用いられている。これらの説
明書には「風呂釜を傷める硫黄分は含まれていない」という記述がなされている。これ
は硫黄泉の成分を模した入浴剤(湯の花・ムトウ六一〇ハップ™等)とは異なり単体硫
黄を成分に含まないという意味で、もちろん、硫酸ナトリウムは硫黄化合物の 1 つであ
る。
**********************************
D) 近代化学の誕生 (17 世紀―18 世紀)
化学は錬金術、宗教から別離し始め、科学思考と定量実験が進み、法則が提案
され、酸素、水素などが発見される。フロジストン説(熱素)が長い間信じら
れたが、ラボアジェによりフロジストン説は打破され、近代化学が樹立され
る・・・この節の各研究者の歴史(本章末にまとめる)を見ることで、科学の
歴史を探る。
第一期
ボイル、フック、キャベンディッシュ、プリーストリー(以上英)
シェーレ(スウェーデン)
1661 ボイル 疑い深い化学者
第二期 フロジストン説
第三期 ラボアジェ(仏)、フロジストン説の打破、酸素、化学方程式、元素表、
科学的命名法
●ボイル(1627-1691)ボイルの法則、元素の定義、原子論 貴族、
錬金術的思考(金属を元素と考えず、別の金属に変化できると考えた)、神学、
フックの師、7 種の金属(金、銀、銅、鉄、錫、鉛、水銀)、2種の非金属(炭
素、硫黄)が古代より知られ、これらは元素である。他に、中世の錬金術師に
より見出されたヒ素、アンチモン、ビスマス、亜鉛は元素。
16
●フック(1635-1703)フックの法則、顕微鏡による観察、"cell" を
細胞の意味で初めて使用 きわめて幅広い科学者、性格が悪く弟子がいない。
ニュートンと激しく対立、ニュートンはフックの科学業績や肖像画を消却
●シュタール(1659-1734) 医師、プロセイン王の侍医、フロジス
トン説を提唱し、ボイル、フックの進めた科学的化学を逆行させ、長期間すぐ
れた化学者の成長は止まる:1780 年までにフロジストン説はほぼすべての化学
者に受け入れられ、皆、フロギストン獲得を目指す。
●キャベンディシュ(1731-1810)オームの法則、クーロンの法則を
発見ただし発表せず。貴族、人嫌いの偏屈者、研究のみのすぐれた実験家。燃
えやすい空気(水素)獲得
●プリーストリー(1733-1804)フロジストンを抜いた空気(酸素)
獲得, アンモニア、塩化水素、一酸化窒素、二酸化窒素、二酸化硫黄の発見。
電気化学、科学と神学、神学者、牧師、フロジストン信奉者、
●シェーレ(1742-1786)、火の空気(酸素)獲得、バリウム、塩素、
マンガン、モリブデン、タングステンの発見 アンモニアの合成。グリセリン、
乳酸、クエン酸・シアン化水素、シュウ酸、フッ化水素、酪酸、硫化水素を発
見、薬屋、すぐれた実験家、若死、科学集団とは別個の研究生活。
●ラヴォアジェ(1743-1794) 幅広い科学者、フロギストン説打破、
近代化学樹立、質量保存の法則、物質の命名法、化学方程式、経済官僚、ロベ
スピエールによりギロチンで断首刑、ベルトレ、デューマ、パストゥール、ベ
ルセーリウス、デーヴィーに影響を与える
E)化学の拡大。隣接科学との融合(19 世紀)
19 世紀に急展開した化学・概念・研究として、物理化学、原子論、分子、電気
化学、電磁気学、熱力学、有機化学、生化学、不活性ガス、電子、X 線、放射能
があり、20 世紀の科学の出発点である原子構造の解明、量子力学の構築につな
がる(以下、各研究者の特徴を示すキーワードを記す。詳しくは章末を参照)
●ドルトン(1766-1844)ニュートン信奉者、色盲、倍数比例の法則
17
●ボルタ(1745-1827)電池
●ベルトレ(1747-1822)ラヴォアジェの友人・弟子、物質の命名法、プルースト
と定比例の法則で論争し負ける。ナポレオンのエジプト遠征に同行
●プルースト(1754-1826)定比例の法則
●シャルル(1746-1823)シャルルの法則、気球
●ゲーリュサック(1778-1850)ベルトレの弟子、気体反応の法則
●アヴォガドロ(1776-1856)アヴォガドロの仮説
●ベルセリウス(1779-1848)化学で落第点の大化学者、アルファベット式化学記
号、ヴェーラーは弟子、陰気で一徹でありデーヴィと気が合わず。有機化学
開始
●デーヴィー(1778-1829)研究と遊びの達人、電気化学、ファラディーは弟子
●デュロン(1785-1838)ベルトレの学生、片目、片方の手に指がない
●プティ(1791-1820)ベルトレの学生・・デュロン・プティの法則
●ファラディー(1791-1867)化学、電磁気学など幅広い研究・教育、ファラディ
ーの法則
●ヴェーラー(1800-1882)有機化学の創始、尿素
●リービッヒ(1803-1873)有機化学、実験教育
●フランクランド(1825-1899)原子価
●ケクレ(1829-1896)有機化学、夢とベンゼン
●ファント・ホッフ(1852-1911)正四面体炭素原子、反応速度、ノーベル賞
●ファン・デル・ワールス(1837-1923)ファンデルワールス方程式、ノーベル賞
●ヴェルナー(1866-1919)配位化合物、ノーベル賞
●フィッシャー(1852-1919)単糖類、ノーベル賞、偉大な化学者、自殺
●マイヤー(1830-1895)元素の周期性
●メンデレーエフ(1834-1907)周期律、女性教育
周期律の提案後、化学的に獲得できない(化学反応しない)原子分子である不
活性ガスが見いだされる。
●レーリー(1842-1919)アルゴンの発見、ノーベル賞
●ラムゼー(1852-1916)不活性ガスの発見、ノーベル賞
ついで、電子(ストーニー、クルックス、ジョゼフ・トムソン)、X 線(レント
ゲン:電磁波)、ベックレル(放射線)の研究が、20 世紀の科学の出発点である
原子構造につながる(キュリー、ラザーフォード・・・、  線、量子)
●日本の化学者
宇田川 榕菴(1798-1846)
18
舎密開宗
F)無節操的飛躍と基礎科学(20世紀)
研究の項目を挙げ、活躍した化学者、物理学者(括弧内の数字はノーベル賞受
賞年)を示す。この節に出る研究者は数が多く、各人の歴史を Wikipedia など
で見ることで、科学の歴史を探ることが可能である。次章以降にその一部を紹
介する。
1.原子の成り立ち[レントゲン、ベックレル、キューリ(1911)、ラザフォード、
モーズリー、ユーリー(重水素、1934)、キューリ(1935)、チャドウィック
(中性子 1935)、フェルミ(1938 人工放射性元素)、ハーン、シーボーグ
2.量子力学 [プランク(1918), アインシュタイン(1921)、ボーア(1922)、ド
ブローイ(1929)、ハイゼンベルグ(1932)、ゾンマーフェルト、シュレーデ
ィンガー(1933)、ディラック(1933)、ハイトラー、ロンドン、パウリ(1945)、
ボルン(1954)、スレーター、ウィグナー(1963)、朝永(1965)、ファインマ
ン(1965)]
量子化学[ヒュッケル、ルイス、ポーリング(1954)、マリケン(1966)、福井
(1981)、ホフマン(1981)、コーン(1998)
3.結合(イオン結合:マーデルング、ボルン、ハーバー、共有結合:ポーリ
ング他多数、金属結合:ゾンマーフェルト他多数、ファン・デル・ワール
ス結合)
4.熱力学(19 世紀:ル・シャトリエ、カルノ、ジュール、クラジウス、クラ
ペーロン、ヘルムホルツ、ケルヴィン(トムソン)、ファントホッフ(1901)、
アレニウス(1903)、オストヴァルト(1909)、20 世紀:ネルンスト(1920)、
ボルン・ハーバーのサイクル、オンサーガー(1968)、ブリゴジン(1977)
5.化学反応(ポラニー(1986)、ホフマン・福井(1981), 平衡(酸・塩基 ブ
レンシュテッド、ローリー、ルイス、ピアソン、ハメット)、統計(ボルツ
マン、フェルミ、ボース、アインシュタイン)、連鎖反応(1956)、高速化学
反応(1967)、遊離基スペクトルスコピー(ヘルツベルグ 1971)
6.結晶構造・構造(ラウエ(1914)、ブラッグ(1915)、デバイ(1936)、ホジキ
ン(1964、生化学物質)、フィッシャー・ウィルキンソン(有機金属錯塩
1973)、リブスコム(ボラン、1976)、核酸の基本構造(1980)、巨大分子微
細構造(1982)、光合成反応中心(1988)
7.固体・金属・超伝導(固体物理、固体化学、材料化学:ローレンツ(1902)、
ゼーマン(1902)、フェルミ(1938)、ブロッホ(1952)、ショックレー(1958)、
ワイス、ネール(1970)、江崎(1973)、モット(1977)、アンダーソン(1977)、
ヴァンブレック(1977)、超伝導:オンネス(1913)、バーディーン(1972)、
19
クーパー(1972)、シュリーファー(1972)、ジョセフソン(1973)、クリッツ
ィンク(1985)、ベドノルツ(1987), ミューラー(1987)、ギンズブルグ(2003)
8.界面、表面(ラングミュアー(1932)
9.測定技術(電気炉 モアサン(1906)、質量分析 アストン(1922)、有機微
量分析 プレーグル(1923)、ラマン分光(ラマン 1930)、サイクロトロン
(ローレンス 1939)、高圧 ブリッジマン(1946)、NMR(ブロッホ 1952)、
位相差顕微鏡(ゼルニケ、1953)、ペーパークロマト(アミノ酸分析 1952)、
ポーラログラフィー(1959)、メスバウアー(1961)、レーザーの開発(1964)、
分子、原子の観測と操作・・電子顕微鏡・STMの開発(1986)、AFM,
田中(2002)
10.高分子、衣料、機材(シュタウディンガー(1953)、ツィグラー・ナッタ
(1963)、フローリー(1974)、ヒーガー・マクダイアミッド・白川(2000)
11・機能材料、有機合成化学
色素(バイヤー(1905))
エレクトロニクス(トランジスタ ブラッテン・バーディーン・ショック
レー(1956)、液晶(1888 ライニッツァー・レーマン)、
エネルギー材料,
天然物(ウッドワード(1965))
触媒(グリニャール(1913)、ボッシュ(1931)、ツィグラー・ナッタ(1963)、
野依(2001), 根岸・鈴木(2010))、クラウンエーテル(ペダーセン 1987)、
クリプタンド(レーン 1987)、分子認識(クラム 1987)、フラーレン(ク
ロトー・スモーリー・カール(1996)、ナノチューブ(飯島)、グラフェン
(ガイム・ノボセロフ 2010)
12.生化学、生命化学、医薬、農薬 (糖 フィシャー(1902)、クロロフィル
ウィルシュテッター(1915)、空中窒素固定法 ハーバー・ボッシュ、胆
汁酸 ウィーラント(1927)、ステリン類(1928)、アルコール発酵(1929)、
血液色素(1930)、ビタミン(1937、1938)、性ホルモン(1939)、食糧保存
(1945)、酵素(1946)、アルカロイド(1947)、血清タンパク質(1948)、抗
原抗体(ポーリング 1954)、合成ホルモン(1955)、ヌクレオチド(1957)、
インシュリン(1958)、炭酸同化作用(カルビン、1961)、リボ核酸分解酵
素(1972)、生体内エネルギー伝達(1978)、
13.環境化学 クルッツェン・モリーナ・ローランド(1995)
14.宇宙化学
20
付録研究者業績等参照
ロバート・ボイル
(Robert Boyle、1627 年 1 月 25 日–1691 年 12
月 30 日)はアイルランド・リズモア出身の貴族、
自然哲学者、化学者、物理学者、発明家。神学
に関する著書もある。ロンドン王立協会フェロ
ー。科学業績はボイルの法則、元素の定義、原
子論、で近代化学の創始者。彼の研究は錬金術
の伝統を根幹としているが、近代化学の祖とさ
れることが多い。特に著書『懐疑的化学者』
( The Sceptical Chymist) は化学という分野の
基礎を築いたとされている。ガリレオ・ガリレ
イ、オットー・フォン・ゲーリケ、フランシス・
ベーコンに影響を受けた。
アイルランド、ウォーターフォード州リズモ
アに生まれる。父は初代コーク伯リチャード・
ボイルで、その 7 番目の息子、14 番目の子である。リチャード・ボイルは 1588 年にア
イルランドに赴き、復帰地副管理官となり、ロバートが生まれたころには大地为になっ
ていた。
兄たちと同様、幼いころに現地の一家に里
子に出された。その結果ボイル家の子らは 4 年ほどで
十分にアイルランド語を理解し、通訳ができるように
なった。ロバートはラテン語、ギリシャ語、フランス
語を学び、8 歳のときに母が亡くなると、イングランド
のイートン・カレッジに送られた。当時、父の友人
Henry Wotton が校長を務めていた。
イートン・カレッジでは、父が家庭教師 Robert Carew
を雇い、息子たちの教育を任せた。しかし、ロバ
ートはあまり家庭教師の言うことを聞かなかった。
イートンで 3 年間を過ごした後、ロバートはフラ
オックスフォードにあるボイルとフック
が実験を行った場所を示す記念銘板
ンス人家庭教師と共に海外旅行に出た。1641 年にはイタリアを訪れ、その年の冬はフ
ィレンツェで過ごし、ガリレオ・ガリレイに師事した(ガリレオは 1642 年没)。
経歴 [編集]1644 年、大陸ヨーロッパからイングランドに戻ったボイルは、科学的研究
に強い関心を持つようになっていた。父はその前年に亡くなり、イングランドはドーセ
21
ットのスタルブリッジにある荘園とアイルランドはリムリック州の広大な地所を相続
した。後者は父がクロムウェルのアイルランド侵略に乗じて取得した土地である。それ
以降ボイルは科学的研究に生涯を捧げるようになり、後の王立協会の母体となった科学
者集団 "Invisible College" (見えない学校)の一員となった。彼らはロンドンのグ
レシャム・カレッジで頻繁に会合を開き、一部はオックスフォードでも会合を開いた。
1647 年に初めてアイルランドに所有する土地を訪れ、1652 年にアイルランドに移住し
たが、田舎ではなかなか研究が進まずイライラするようになった。ある手紙でアイルラ
ンドについて「野蛮な国で、化学について誤解されているし、化学用の器具もなかなか
入手できない。錬金術には不向きな土地だ」と記している。1654 年、アイルランドを
後にしてオックスフォードに移り住むことにした。
1657 年、オットー・フォン・ゲーリケの空気ポンプについて目にし、ロバート・フ
ックを助手として自ら空気ポンプの製作を始めた。1659 年に "machina Boyleana" と
名付けた空気ポンプを完成させ、一連の空気についての実験を始めた。オックスフォー
ド大学ユニバーシティ・カレッジには 19 世紀初めまで Cross Hall が建っていたこと
を示す碑文がある。当時ボイルはそのホールの一角を借りていた。空気ポンプを使った
研究成果を New Experiments Physico-Mechanicall, Touching the Spring of the Air,
and its Effects... と題して 1660 年に出版。この本に対して批判的な者の中にイエズ
ス会士の Francis Line (1595–1675) がおり、Line の批判に反論する形で「気体の体
積は圧力と反比例する」というボイルの法則に初めて言及することになった。
ただし、この法則(仮説)を最初に定式化したのは Henry Power で 1661 年のことで
ある。ボイルは Power の書いた論文も引用しているが、誤ってその作者を Richard
Towneley だとしていた。ヨーロッパ大陸ではこの法則を定式化したのはエドム・マリ
オットだとされることがあるが、彼がそれを発表したのは 1676 年のことで、その時点
までにはボイルの業績を知っていたと見られている。1663 年、チャールズ 2 世の許可
を得て "Invisible College" から王立協会が発足した。ボイルも設立協議会の一員だ
った。1680 年、ボイルは王立協会会長に選ばれたが、就任の際の誓いの内容にためら
いを覚え、会長職を辞退している。
ボイルは、「延命法」、「飛行技法」、「永久照明」、「鎧を極めて軽く硬くする技
法」、「どんな風でも沈まない帄船」、「経度を確認する確実な方法」、「想像力や記
憶などの能力を高める薬や苦痛を和らげる薬や悪夢を見ない安らかな眠りをもたらす
薬」といった 24 の「発明したいものの一覧」を作った。この一覧に挙げられた発明は
後にそのほとんどが実現しているという点で注目に値する。
ボイルはオックスフォード時代にナイト (Chevalier) となっていた。Chevalier は
その数年前に王室政令によって制定されたと見られている。ボイルがオックスフォード
にいたころは清教徒革命の後半にあたるが、Chevalier となったボイルがどういう役割
を果たしたのかはよくわかっていない。
22
1668 年、ボイルはオックスフォードからロンドンに移り、姉妹の Lady Ranelagh の
家に身を寄せた。
晩年 [編集]1689 年、もともと身体が丈夫ではなかったボイルの健康はめっきり衰え、
王立協会での活動も控えるようになり、火急の用事がない限り来客は火曜と金曜の午前
と水曜と土曜の午後だけに限るとした。そして、1691 年 12 月 31 日、何らかの疾病に
よる麻痺が原因で死去。St Martin in the Fields に埋葬された。
科学的探究 [編集]
ボイルの永久機関。サイフォンの原理を利
用している。ただし実現は不可能である。
ボイルの空気ポンプ
科学者としてのボイルは、フランシス・ベーコンが『ノヴム・オルガヌム』で採用し
た原則に忠実だった。ただしボイル自身はベーコンも含めて先人の影響を認めていなか
った。先入観を持たずに実験結果を判断するために同時代の哲学理論に影響されないよ
うにしたと何度か語っており、原子論やルネ・デカルトの原子論への反論についても研
究を控え、『ノヴム・オルガヌム』自体についても希に一時的に参照するに留めた。彼
の気質にとって仮説の構築ほど相容れないものはなかった。彼は知識の獲得を最終目的
と見なしていて、結果として何世紀もの間の先人たちよりも幅広い科学的探究の目的に
ついての展望を得た。ただし、これは彼が科学の実用化に全く注意を払わなかったとか、
実用化のための知識を軽んじたというわけではない。ボイルは錬金術師だった。金属を
変質させる可能性を信じており、そのための実験も行っている。また、ヘンリー4 世が
23
制定した錬金術によって銀や金を増やそうとする行為を禁じた法律を 1689 年に廃止す
るにあたって、重要な役割を演じた。彼の物理学における重要な業績として、ボイルの
法則の発表、音の伝播に空気が果たしている役割の解明、水が凍結する際の膨張力の研
究、比重と屈折の研究、結晶の研究、電気の研究、色の研究、流体静力学の研究がある。
化学も好んで研究した。最初の著作の題名は The Sceptical Chymist(懐疑的化学者、
1661 年)だが、その中で塩や硫黄や水銀が真の道理だと示すための似非錬金術師の行
う実験を批判している。彼にとって化学は錬金術師や医師の技法への単なる付加物では
なく、物質の構成を探究する科学だった。彼は物質の基本構成要素として元素の存在を
認め、混合物と化合物を区別した。物質の成分を検出する技法について様々な進歩をも
たらし、そういったプロセスを "analysis"(分析)と名付けた。さらに彼は元素が様々
な微粒子で構成されていると考えたが、それを確認する技術は当時存在しなかった。ま
た、燃焼や呼吸を化学的に研究し、生理学的実験も行ったが、優しい性格だったため解
剖にまでは踏み込めなかった。
神学への関心 [編集]自然哲学者としての一面とは別に、ボイルは神学についても時間
を割いた。ただし論争には無関心だった。1660 年の王政復古で彼は宮廷に好意的に迎
えられ、1665 年には国教会の聖職者になるという条件でイートン・カレッジの校長職
を提示された。しかし、彼の宗教的著作は教会に雇われた聖職者であるよりも俗人であ
るからこそ意味があるとして、その申し出を断わった。イギリス東インド会社の重役と
して、彼は東洋へのキリスト教布教に尽力し、宣教師への寄付や聖書の各種言語への翻
訳に資金を提供した。当時のカトリック教会は聖書はラテン語だけという方針だったが、
ボイルは各国の自国語で聖書が読めるようにすべきだという方針を支持していた。新約
聖書のアイルランド語版は 1602 年に出版されたが、ボイルの存命中はほとんど普及し
ていない。1680 年から 1685 年には、旧約および新約聖書のアイルランド語版の印刷に
私財を投じている[10]。この点では、当時アイルランドを支配していたイングランド人
はアイルランド人に英語の使用を強要しており、ボイルの態度とは異なる。ボイルは遺
言で遺産の一部を無神論、理神論、異教などの不信心者からキリスト教を守るための一
連のレクチャー (Boyle Lectures) を開催することに遺贈した。このときもキリスト教
内の論争には言及していない。
为な業績 [編集] 温度が一定の場合、気体の体積は圧力に反比例することを発見。こ
の法則はボイルの法則と呼ばれる。のちにジャック・シャルルがこの法則を温度変化が
生じた場合について一般化したボイル=シャルルの法則を発見した。ゲーリケが発明し
た真空ポンプを改良。のちにラカーユがこれらの真空ポンプの発明と改良を記念してポ
ンプ座を設定した。1661 年、さまざまな化学反応が微小な粒子の運動によって起こる
とした方が、アリストテレスの 4 元素説(空気、水、土、火)よりも妥当であると提唱
した。
24
著作 [編集]
『懐疑的化学者』(The Sceptical Chymist, 1661)
の表紙
オンラインで見られるボイルの著作
The Sceptical Chymist(『懐疑的化学者』) Project Gutenberg
Essay on the Virtue of Gems - Gem and Diamond
Foundation
Experiments and Considerations Touching Colours
- Gem and Diamond Foundation
Experiments and Considerations Touching Colours
- Project Gutenberg
Boyle Papers University of London
Hydrostatical Paradoxes - Google Books
25
ロバート・フック
(Robert Hooke、1635 年 7 月 18 日 - 1703 年 3
月 3 日)は、イギリスの自然哲学者、建築家、
博物学者。王立協会フェロー。実験と理論の両
面を通じて科学革命で重要な役割を演じた。ロ
バート・ボイルの弟子。科学業績は、フックの
法則、顕微鏡による観察、"cell" を細胞の意
味で初めて使用。
成人後の人生は 3 つの期間に分けられる。当
初は貧しいが優秀な科学研究者だった。その後
経済的に成功し、1666 年のロンドン大火では復興の
ために大いに貢献した。しかし晩年は気難しくなり、 リタ・グリアによるフックの肖像
様々な論争に首をつっこんだ。 歴史的にあまり名
(2004 年の想像)
が残らなかったのは、この晩年の所業が災いしてい
る。弾性に関する法則(フックの法則)、『顕微鏡図譜』、生体の最小単位を "cell"
(細胞)と名付けたことで知られている。その業績からすると、フックについて書かれ
た文献は驚くほど尐ない。一時期は王立協会の実験監督を務め、同協会の協議会の一員
でもあった。ロンドン大火後の焼け跡の測量を指揮し、焼け跡のほぼ半分の測量を行っ
た。建築家としても有名だったが、現存している建築物は尐なく、一部は他人の設計だ
と思われていた。大火後のロンドンの都市計画に関与し、今もその影響がロンドンの街
並みに残っている。
プロテクトレート時代にオックスフォード大学ウォドム・カレッジで学び、ジョン・
ウィルキンズを中心に結成された王党派の一団に参加した。医学者トーマス・ウィリス
や化学者ロバート・ボイルの助手を務め、ボイルが気体の法則を見出した実験に使った
真空ポンプの製作を手伝った。最初期のグレゴリー式反射望遠鏡を作って火星や木星が
自転していることを観察し、化石を研究して進化論を唱えた初期の 1 人となった。光の
屈折現象を研究して波動説に到達。物体を熱すると膨張すること、空気が比較的疎らな
微粒子でできていることなどを示唆した。測量や地図作成の分野でも先駆的業績を残し
ており、史上初の近代的平面図を作成した。ロンドン復興時には格子状の街区にする再
建案を提案したが、既存の道路をそのまま再建する案が採用された。重力が(距離につ
いて)逆 2 乗の法則に従うこと、惑星がそういった法則にしたがって運行していること
にほぼ気づいており、ニュートンがその考え方を発展させた。科学的研究のほとんどは
1662 年に就任した王立協会の実験監督として行ったものとロバート・ボイルの助手時
代に行ったものである。
26
生涯[編集]
フックの顕微鏡(『顕微鏡
図譜』にある版画)
フックの前半生については、1696 年に書き始めた未完の自
伝によるところが大きい。Richard Waller が 1705 年
に出版した The Posthumous Works of Robert Hooke,
M.D. S.R.S. でその自伝の原稿を参照している。Waller
の著作と John Ward の Lives of the Gresham
Professors、ジョン・オーブリーの Brief Lives がフ
ックのほぼ同時代の伝記的記録の全てである。
生い立ち[編集]1635 年ワイト島フレッシュウォーター
で生まれる。兄が 2 人、姉が 2 人おり、7 年後にさらに
もう 1 人生まれている。父は英国国教会の聖職者で、2
人の兄も聖職者になった。当然ロバートも聖職者にな
ることを期待されていた。父は地元の学校の責任者でもあり、ロバートの身体が弱いこ
ともあって自宅で勉強を教えた。父は王党派でチャールズ 1 世支持者であり、ワイト島
に逃げてきたことがほぼ確実である。ロバートも当然ながら忠実な君为制为義者として
育てられた。幼いころから観察することが好きで、機械や製図に惹かれていた。真鍮時
計を分解して木でその複製を作ると、それが十分に動作したという。製図の技法を学び、
石炭、石灰石、鉄鉱石などを原料として自分の手で素材を作った。1648 年に父が亡く
なり、徒弟修業が受けられるようにと父が残した 40 ポンドの遺産を手にした。父はロ
バートが機械好きだということで、時計職人か装飾写本の絵師になるだろうと考えてい
た。フック自身は画家にも興味があった。徒弟修業するつもりでロンドンに出たが、
Samuel Cowper やピーター・レリーの下で短期間学んで優秀さを見出され、すぐに
Richard Busby のウェストミンスター・スクールに入学できた。間もなくラテン語やギ
リシャ語を習得し、ヘブライ語も学び、ユークリッドの『原論』も習得した。また、そ
こで生涯の研究対象となる力学に出会った。学校の通常の教育と平行して Busby が個
人教授した生徒の 1 人だったと見られている。当時の文献には学校に「ほとんど出てこ
なかった」とあり、これは Busby が個人教授した生徒に共通している。Busby は熱心
な王党派で、チャールズ 1 世、2 世時代のイングランドで開花し始めた科学の精神をあ
らゆる手段で保持しようとした。これはプロテクトレート時代の聖書に忠実な教育とは
相反するものだった。Busby や選ばれた生徒達にとって英国国教会は科学的探究の精神
が神の御業に沿うものとして支持する枞組みだった。例えば Busby は Bishop of Bath
and Wells になった George Hooper について「ウェストミンスター・スクールで教育
を受けた中でも最高の学者、最良の紳士であり、完璧なビショップだ」と述べている。
27
オックスフォード時代[編集]1653 年、パイプオルガンも習っていたフックはオックス
フォード大学クライスト・チャーチの聖歌隊に居場所を確保した。そこで医学者トーマ
ス・ウィリスに出会い、化学助手として雇われ、大きな賞賛を受けることになる。また
自然哲学者ロバート・ボイルと出会い、1655 年ごろから 1662 年まで助手として雇われ、
ボイルの空気ポンプ "machina Boyleana" の製作、操作、実演を担当した。学士号を取
得するのは 1662 年か 1663 年ごろのことである。1659 年、ウィルキンズに空気より重
い乗り物で飛行するためのいくつかの要素を説明しているが、人間の筋力では不十分だ
と結論付けている。フックは自身のオックスフォード時代を科学への情熱を形成した時
代としており、このころ知り合った友人、とくにクリストファー・レンは生涯に渡って
の親友となった。当時のウォドム・カレッジはジョン・ウィルキンズの指導下にあり、
ウィルキンズはフックやその周辺に大きな影響を与えた。ウィルキンズも王党派であり、
その時代の不穏さと不確かさに気づいていた。王党派の科学者にとって、プロテクトレ
ートが科学を脅かそうとしていると思える切迫感があった。ウィルキンズが開催してい
た「哲学的会合」は明らかに極めて重要だが、ボイルが 1658 年に実施して 1660 年に出
版した実験以外にほとんど記録が残っていない。このグループが王立協会創設の中核と
なった。ボイルの空気ポンプの元になったのは Valentine Greatorex の使っていたポ
ンプで、フックは彼について「大事を成し遂げるには大雑把すぎる」と評している。フ
ックは特に目が鋭く、数学者としても優秀だった。どちらもボイルには欠けていた資質
である。Gunther はボイルの実験で計測値を読み取ったのはフックで、ボイルの法則を
数学的に定式化したのもフックだったのではないかと示唆している。いずれにしてもボ
イルにとってフックは得がたい助手であり、両者が互いに尊敬しあっていたことは明白
である。ウィルキンズが亡くなったとき、その蔵書から形見
分けしてもらえることになったフックは、トーマス・ウィリ
スがウィルキンズに贈呈した著書 De anima brutorum を譲
り受けた。その本は現在 Wellcome Library にある。
ぜんまい時計[編集]フックの自伝的ノートによれば、1655
年ごろから天文学に興味を持ち始めたという。1657 年ごろ
からジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリの振り子機
構を改良し始め、重力と計時機構について研究をすすめた。
当時の航海にとって大問題だった経度を特定する方法を思
クリスティアー
いつき、ボイルらの助けを得て特許を取得しようとしたと記
ン・ホイヘンス
している。その過程でコイルばね(ぜんまいばね)を使った懐中時計を発明している。
しかし特許は取得せず、発明をそのままにしておいたことで大きな富を得る機会を逃し
てしまった。そのことでフックは発明について用心深くなった。ぜんまい時計について
はホイヘンスが 1675 年 2 月の Journal de Scavans に発表しているが、フックがその
28
15 年前に独自に発明していたことはほぼ確実と見られている。1717 年、Henry Sully は
パリでアンクル脱進機について「ロンドンのグレシャム大学の幾何学教授だったフック
博士の発明」だと記している。William Derham もそれをフックの発明としている。
王立協会[編集]1660 年に王立協会が創設され、1661 年 4 月には同協会で細いガラス管
に水が吸い上げられる現象について議論が起こった。このときフックは管の太さと水位
の上昇に相関関係があることを報告している(いわゆる毛細管現象)。その報告は
Micrography Observ. 6 号に掲載され、その中で「重力の流動性」についても論じてい
る。1661 年 11 月 5 日、Robert Moray が協会のために実験を監督する者が必要だと提
案。満場一致でフックがそれに選ばれた。任命は 11 月 12 日に行われ、そこにはボイル
が彼を助手から解放したことへの感謝も記録されている。1664 年、John Cutler は王
立協会に毎年 50 ポンドを提供して Mechanick Lecture を創設。フックがその任に選ば
れた。1664 年 6 月 27 日、フックは協会事務局に常駐するようになる。1665 年 1 月 11
日には事務局長となり、Cutler の年金のほかに 30 ポンドの給料が支払われるようにな
った。王立協会での役割は、自分で考案した実験や会員が示唆した実験を行うことだっ
た。初期の実験としては、熱した空気を封入したガラス球が冷却されると割れる実験、
生命の持つ熱(Pabulum vitae)と炎(flammae)が同じであることを示す実験などがあ
る。また、犬を開胸した状態で生かしておけることを実験で示し、呼吸が肺への空気の
出し入れであること、静脈と動脈の血液が異なることを示した。
重力についての実験も行っており、物体の落下実験、物体の重量
測定実験、様々な高度での気圧測定実験、最大 61m の高さの振り
子実験などがある。太陽や他の恒星が 1 秒間に移動する角度を測
定する機器を考案し、火薬に威力を測定する機器を考案した。特
に時計用の精密な歯車を作る機械を考案し、フックの亡くなるこ
ろにはそれが普通に使われていた。1663 年から 1664 年にかけて、
顕微鏡を使った様々な観察を行い、1665 年に『顕微鏡図譜』を
出版した。レーウェンフックの業績を高く評価し、彼の観察記録
をラテン語訳して出版し、また、王立協会会員として招いた。
1664 年 3 月 20 日、グレシャム大学の幾何学教授職を Arthur
Dacres から引き継いだ。1691 年 12 月には医学博士号を取得し
顕微鏡図譜』にある
シラミの図
ている。
人柄と論争[編集]特に晩年のフックは短気で気位が高く、知的論争で相手を不快にさせ
る傾向があった。それでもウォドム・カレッジでの王党派の仲間たち、特にクリストフ
ァー・レンとは常に仲がよかった。彼の名声は死後に低下しているが、その原因は一般
にアイザック・ニュートンとの間の確執にあったとされている。ヘンリー・オルデンバ
29
ーグとの時計の機構の発明者がどちらかという論争もよく知られている。ニュートンは
フックの死後に王立協会会長となり、フックの業績を覆い隠そうと様々なことを行った。
唯一の肖像画を破棄したのもその一例である。レンの息子がレンの生涯について本を書
いているが、レンの業績を誇張する傾向が見られ、フックは軽視されている。フックが
再評価されるようになったのは 20 世紀に入ってからで、Robert Gunther や Margaret
Espinasse の研究によるところが大きい。長く無名だったが、今では当時の最も重要な
科学者の 1 人と認められている。フックは暗号をつかってアイデアを隠すことがあった。
王立協会の実験監督として、協会に送られてくる様々なアイデアを試し、後にそのアイ
デアは自分のものだと为張したという証拠がある。フックは極めて多忙だったため、自
分のアイデアを特許化して事業を起こすといった暇がなかった。科学全体が大きく発展
した時代であり、様々な場所で様々なアイデアが生まれていた。それでもフックが創意
に富み、大変な実験施設を作り上げ、様々な業績を残したことは事実である。重力の逆
2 乗法則を発見したというフックの为張については後述する。弾性、光学、気圧測定な
どの分野で多数の発明や工夫を行ったことは確かである。王立協会でのフックの論文は
ニュートンの時代に行方不明になっていたが最近発見された。これが新たな再評価に繋
がると期待されている。フックの性格の悪い面についての記述は多い。最初の伝記を書
いた Richard Waller もその人柄について「卑务で陰鬱で人を信用せず、嫉妬深い」と
評している。この Waller の評価がその後 2 世紀に渡って影響を与え、不機嫌で自己中
心的で非社交的だというフック像が定着することになった。例えば Arthur Berry はフ
ックについて「当時の科学的発見のほとんどを自分の手柄だと为張した」としている。
Sullivan はフックがニュートンとのやり取りにおいて「明らかに無法」であり、「虚
栄心」の持ち为だったと記している。Manuel は「怒りっぽく、嫉妬深く、執念深い」
と記している。More は「シニカルで毒舌」だったとしている。Andrade はやや同情的
だがそれでも「気難しく、疑い深く短気」だとしている。1935 年、フックの日記が出
版され、フックの別の面が明らかになり、特に Espinasse が詳細に研究している。彼
女は「不機嫌で嫉妬深い隠遁者というフック像は完全に間違いだ」としている。フック
は時計職人の Thomas Tompion や機器製造者の Christopher Cocks (Cox) といった名
の知れた職人とよくやり取りしている。また、クリストファー・レンやジョン・オーブ
リーとは終生親友だった。また、日記にはロバート・ボイルと頻繁に会い、お茶や夕食
を共にしていることが記されていた。実験助手のハリー・ハントともよくお茶を飲んで
いる。ハントの姪やいとこを自宅に招いて数学を教えてもいる。フックは、ワイト島、
オックスフォード、ロンドンで人生の大半を過ごした。結婚はしなかったが、恋愛がま
ったくなかったわけではないことが日記から判明している。1703 年 3 月 3 日、ロンド
ンで死去。死後、グレシャム大学の自室にかなりの大金を溜め込んでいることがわかっ
た。St Helen's Bishopsgate に埋葬されたが、墓の正確な位置はわかっていない。
30
力学[編集]1660 年、フックは弾性についてのフックの
法則を発見。弾性のあるばねの伸びに対して張力が比
例することを示した法則である。当初この発見を
"ceiiinosssttuv" というアナグラムで記述し、1678 年
にその答え "Ut tensio, sic vis"(英語では "As the
extension, so the force.")を発表した。フックの弾
性についての研究の成果としてぜんまいばねの開発が
フックが描いたノミ
あり、それを使ってそれなりの精度の携帯型の時計が作ら
れるようになった。この発明についてクリスティアーン・ホイヘンスとどちらが先かと
いう論争が起き、両者の死後も 1 世紀以上に渡って論争が続くことになった。しかし、
後に発見されたフックの 1670 年 6 月 23 日付けの文書で、王立協会でぜんまいばねのデ
モンストレーションを行ったことが記されており、フックの为張を裏付けている。20
世紀以降の視点からすると、弾性の法則を最初にアナグラムで発表したという事実が興
味深い。これは当時の科学界では珍しいことではなく、ホイヘンスやガリレオ・ガリレ
イらもアナグラムを使ったことがある。アナグラムは詳細を明かさずに先に発見したこ
とを示す手段だった。1662 年、新たに創設された王立協会の実験監督になると、毎週
の会合で行う実験をとりしきるようになり、この職を 40 年間務めることになった。こ
の職にあったことでフックはイギリスだけでなく世界の科学界の中心に位置すること
になり、同時に他の科学者らとの激
しい論争を引き起こす原因にもなっ
た。上述のホイヘンスだけでなく、
アイザック・ニュートンやヘンリ
ー・オルデンバーグとの論争がよく
知られている。1664 年にはグレシャ
ム大学の幾何学教授に任命され、力
学の Cutlerian Lecturer にも任命
された[28]。1680 年 7 月 8 日、ガラス
板の固有振動による振動節パターンを観察。
フックの顕微鏡
ガラス板に小麦粉をまぶし、その縁に沿っ
フックが描いたコ
ルクの細胞構造
て弓をすべらせて振動させ、振動パターンを観察した。
顕微鏡[編集]1665 年、顕微鏡と望遠鏡を使った観察記録(スケッチ)を『顕微鏡図譜』
(Micrographia) として出版。これには生物学の史上初の観察が含まれていた。コルク
を観察した際に小さな部屋のような構造を発見した。修道院の小部屋が並んでいる様子
に似ているため、これを小部屋という意味の cell(細胞)と名づけた。しかしコルク
31
は、植物の死骸であったために彼が実際に見たものは細胞そのものではなく細胞壁であ
った。フックが使った顕微鏡はロンドンのクリストファー・ホワイトが製作したもので、
現在はワシントン D.C.の国立健康医学博物館にある。『顕微鏡図譜』にはフック(と
おそらくボイル)の燃焼についての考え方が含まれている。実験から彼は燃焼には空気
に含まれる何らかの物質が関係していると結論付けていた。現代から見ればそれは酸素
だということが明らかだが、17 世紀には一般的な考え方ではなかった。さらにフック
は呼吸が空気の特定の成分に関係していると結論付けていた。Partington はフックが
そのまま燃焼について研究を続けていたら酸素を発見していただろうと記している。
天文学[編集]
『顕微鏡図譜』にある月とプ
レアデス星団のスケッチ
フックはこの土星のスケッチで、環と惑星が互いに影を落としている部分(a と b)に
注目している。さらに野心的な取り組みとして、フックは(太陽以外の)恒星の距離を
測定しようとした。対象として選んだのはりゅう座ガンマ星のエルタニンで、視差測定
で距離を求めようとした。何度かの観測を経て 1669 年に距離を求めることができた。
フックが使っていた器具はあまりにも不正確で、測定結果も正確な値からはほど遠かっ
た。りゅう座ガンマ星は 1725 年、ジェームズ・ブラッドリーが光行差を発見した恒星
としても知られている。恒星の距離測定以外にも天文学の分野で
活動している。『顕微鏡図譜』にはプレアデス星団と月のクレー
ターのスケッチがある。そのようなクレーターがどうやってでき
るのかも実験で研究している。土星の環を観察し、最初の連星(お
ひつじ座ガンマ星)を 1664 年に発見した。
建築設計[編集]
フックが一般に名声を得たのはクリストファ
ー・レンの助手としてロンドンの測量を行ったことからである。
フックとレンは 1666 年のロンドン大火後のロンドン復興に尽力
し、大火の記念碑、グリニッジ天文台、後に大英博物館となったモンタギューハウス、
精神病院の代名詞として知られた王立ベスレム病院な
32
ミルトン・キーンズの教会
どを設計した。他にも王立内科医協会の建物(1679 年)、ウォリックシャーの Ragley
Hall、バッキンガムシャーはミルトン・キーンズの教区教会も設計した。クリストファ
ー・レンと共同でセント・ポール大聖堂の建築に関わっており、ドーム建設にはフック
が考案した工法が使われた。大火後の再建において、フックは幹線道路を幅広くして街
区を格子状に設計し直すことを提案。この考え方は後にパリ改造、リバプール、アメリ
カの各都市で採用されている。大火後に不動産業者がこっそり境界をずらしていたため、
不動産の財産権についての議論が生じ、道路を従来と完全に変えてしまうフックの案は
問題を複雑化させるものとして反対された。土地の境界をめぐるいざこざが絶えず、フ
ックは測量士としての技量と仲裁の才能を発揮して多くの問題解決にあたった。建築家
としてのフックの業績については、Cooper の著書が詳しい。
フックとニュートン[編集]当時、天体間に働く引力や斥力を伝えているのはエーテルだ
と信じられていた。そんな中で 1665 年の『顕微鏡図譜』でフックは重力による引力の
法則を論じている。1666 年には王立協会で "On gravity"(重力について)と題して講
演をし、移動する物体は何らかの力を受けない限りそのまま直進すること(慣性の法則)
と引力は距離が近いほど強くなるという法則を追加した。Dugald Stewart は著書
Elements of the Philosophy of the Human Mind で、フック自身の世界体系について
の言葉を引用している。それによると、フックは次の 3 点を述べている。
1. 全ての天体は重力によってその各部分を中心に引きつけているだけでなく、天
体間で相互に引き付けあって運動する。
2. 外部から力が継続的に加わらない限り、天体は単純に直進し続ける。しかし、
重力によって天体は円軌道、楕円軌道などの曲線を描く。
3. この引力は天体同士が近いほど強くなる。距離と引力の強さの関係がどうなっ
ているか、今のところ私にも発見できていない。
1670 年の講演では、重力はあらゆる天体に作用すると説明し、重力が距離が離れるに
従って小さくなること、重力がなければ物体は直進し続けることを説明している。1672
年、アイザック・ニュートンが光の粒子説を発表すると、フックは光の波動説で応戦。
また、論文の内容の大部分は自分が『顕微鏡図譜』で既に発表済みと为張、大きな議論
となった。1674 年には "An Attempt to Prove the Motion of the Earth from
Observations"(観察から地球の運動を証明する試み)の付録として「世界体系」の若
干進化した考え方を公表している。フックは明らかに太陽と惑星の間に相互に引力が働
いていると仮定し、距離が近いほど引力が強くなるとしている。しかし 1674 年までに
フックが重力について逆 2 乗の法則が成り立つとした記述はない。フックの考えた重力
は従来よりも普遍性があったものの、万有引力にまで到達していなかった。また、付随
する証拠についても述べていないし、数学的に証明したわけでもない。これらについて
33
1674 年にフックは「(重力の)いくつかの度合いについて私はまだ実験的に検証して
いない」(つまり、重力がどういう法則に従うかをまだ知らない)と述べ、最終的に「先
にやらなければならないことがたくさんあって、これに専念できない」としている[39]。
1679 年 11 月、フックはニュートンと頻繁に手紙のやり取りをし始めた[41]。それらの手
紙の全文が出版されている。表向きの用件はフックが王立協会の通信(手紙)の管理を
することになったとニュートンに伝えるものだった。そのため、会員からそれぞれの行
っている研究について、あるいは他の会員の研究に対する見解について聞きたいという
手紙だった。そして、ニュートンへの刺激になればという形で様々な問題についてニュ
ートンの意見を訊ねている。中心となる天体の引力と接線方向への運動から惑星の軌道
が構成されること、フックの弾性についての法則、当時パリで生まれた新たな惑星の運
動に関する仮説(フックはその解説にかなりの文を連ねている)、国勢調査を実行・改
良する努力について、ロンドンとケンブリッジの緯度の差について、などである。ニュ
ートンは地球の動きを検出する実験として、空中に物体を浮かせて落下させる実験を提
案した。重要な点はニュートンが落下物体が垂線から逸れることで地球の動きを検出で
きると考えた点で、もし地面がなければ物体が螺旋軌道を描いて中心に落下していくと
考察している。フックはその考察には同意しなかった。その後も手紙のやりとりが続き、
フックが 1 月 6 日付けの手紙で、
引力はそれぞれの物体の中心間の距離の 2 乗に比例し、
速度は引力の平方根に比例するから、ケプラーが想定したように速度は距離に比例する
ことになると結論付けている。この速度に関するフックの推論は実際には間違っている。
1686 年、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』が王立協会に提
出されたとき、重力が距離の 2 乗に反比例するという見解は自分がニュートンに伝えた
のだと为張した。エドモンド・ハレーの同時代の記録によれば、フックはそれによって
曲線軌道が描かれるという点はニュートン独自の説だと認めていた。最近の研究で、重
力が距離の 2 乗に反比例するという仮説は 1660 年代末までには広く知られており、様々
な人々が様々な理由でそれを発展させていたことがわかっている。ニュートン自身も
1660 年代に惑星が円軌道だと仮定したとき、中心方向へ引っ張られる力は中心との距
離と逆 2 乗の関係にあることを示した。1686 年 5 月にフックが逆 2 乗の法則を自分の
ものだと为張したとき、ニュートンはその反論として他者のフック以前の業績を示した。
さらにニュートンはフックから最初に逆 2 乗の法則について聞いたのがもし事実だと
しても、それを数学的に定式化したのは自分であり、フックは単に観察から大まかに推
論したに過ぎないと为張した。一方でニュートンは『プリンキピア』の全ての版でフッ
クや他の先人(レン、ハレーなど)への敬意を表している。ニュートンはまたフックと
ハレーが 1679 年から 1680 年に交わした書簡が天体の運動に対する興味を持たせてくれ
たとしているが、それはフックがニュートンに何か新しい知識を授けたという意味では
ないとしている。ニュートンは数学と光学の発展に大いに貢献した先駆者だったが、一
方でフックは創造的実験家であり、あまりにも広範囲に手をつけたため、重力などの研
34
究に専念できなかったとしても驚くべきことではない。両者の死後数十年後の 1759 年、
アレクシス・クレローはフックの重力に関する著作を読んで「一見して得られた真理と
証明された真理には大きな隔たりがあることを示している」とし、「フックのアイデア
がニュートンの偉大さを減じることはない」とした。
肖像[編集]一時期フックの肖像画とされた絵。今ではヤン・ファン・
ヘルモントの肖像画であることがほぼ確実とされている。ロバート・
フックのものとされる肖像画が現存しないことは、フックとアイザッ
ク・ニュートンの激しい論争の結果とされることがある。フックが存
命中は王立協会はグレシャム大学で会合を開いていたが、その死後数
カ月以内にニュートンが会長となり、新たな王立協会の会合場所を建
設する計画が持ち上がった。1710 年に新たな建物に移転する際、フックの肖像画が行
方不明になり、未だに発見されていない。タイム誌は 1939 年 7 月 3 日の号でフックと
思われる肖像画が見つかったと発表した。しかしアシュレイ・モンタギューがその来歴
を調査したが、フックとの明確な関係は見つからなかった。さらにモンタギューはフッ
ク存命中のフックの容貌に関する記述を発見したが、その内容はタイム誌が発表した肖
像画とは全く似ていなかった。2003 年、歴史家 リサ・ジャーディン は新たに発見さ
れた肖像画がフックのものだと为張したが、シンシナティ大学の ウィリアム・ジェン
センがこれを論駁した。ジャーディンがフックの肖像画とした絵はフランドルの学者ヤ
ン・ファン・ヘルモントを描いたものとされている。他にフックを描いたと思われるも
のとして次のような作品がある。

フック本人が使っていた印章には特徴的な人間の頭部が描かれており、フック
の肖像だという为張もある。

1728 年のイーフレイム・チェンバーズの『サイクロペディア』の口絵版画には
ロバート・フックの胸像も描かれている。ただし王立協会の肖像画も 1710 年に
紛失していたはずで、何を元に描いたのか明らかでない。

埋葬されたロンドンの St Helen's Bishopsgate にはフックを記念したステン
ドグラスがあった[56]。ただし、非常に様式的なもので似せて描いたとは言えな
い。この窓は 1993 年の IRA 暫定派による爆破事件 (en) で破壊された。
2003 年、歴史画家リタ・グリアがフックを記念するためのプロジェクトを自費で開始
した。このプロジェクトはジョン・オーブリーとリチャード・ウォラーの 2 つの文献に
あるフックの容姿に関する記述に沿って新たに肖像画を描くことを目指した。グリアの
描いたフックの肖像画はイギリスやアメリカでフックを扱ったテレビ番組で使われ、本
や雑誌や広告にも使われた。
35
ゲオルク・シュタール
ゲオルク・エルンスト・シュタール(Georg Ernst
Stahl, 1659 年 10 月 22 日 - 1734 年 5 月 24 日 )
は、ドイツの化学者・医師である。アンスバッハ
生まれ。イェーナ大学で医学を学び 1683 年卒業。
1687 年、ザクセン=ヴァイマル伯ヨハン・エルン
スト 3 世の侍医となる。1694 年から 1716 年まで
ハレ大学の医学部教授を務め、その後ベルリンで
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世の
侍医となった。ベルリンで死去。
あらゆる可燃性物質の中には「燃える土」とい
う元素が含まれ、燃焼はこれが他の物質と分離す
る現象である(フロギストン説)ということを提
唱したが、これはヨハン・ベッヒャーの持論を発展させたものである。フロギストン説
は後にアントワーヌ・ラヴォアジエが間違いだということを証明した。また、発酵に関
しては約 1 世紀半後ユストゥス・フォン・リービッヒが展開したのと同様の説を唱えた。
医学においては、ヘルマン・ブールハーフェらの唯物論的立場に対して、アニミズム的
体系を公言した。また生気論を唱え、生気によってしか無機物を有機物に合成できない
とした。
36
ヘンリー・キャヴェンディッシュ
(Henry Cavendish, 1731 年 10 月 10 日 – 1810 年 2 月
24 日)は、イギリスの化学者・物理学者である。貴族の
家に生まれ育ち、ケンブリッジ大学で学んだ。寡黙で人
間嫌いな性格であったことが知られている。科学業績は、
水素の発見、キャヴェンディッシュの実験、オームの法
則、クーロンの法則である。
遺産による豊富な資金を背景に研究に打ち込み、多く
の成果を残した。金属と強酸の反応によって水素が発生
することを見出した。電気火花を使った水素と酸素の反
応により水が生成することを発見し、水が化合物である
ことを示した。この結果をフロギストン説に基づいて解
釈している。さらに水素と窒素の電気火花による反応で
硝酸が得られ、空気中からこれらの方法で酸素と窒素を取り除くと、のちにアルゴンと
呼ばれる物質が容器内に残ることを示した。彼の死後には、生前に発表されたもののほ
かに多くの実験記録が見つかっている。その中には、ジョン・ドルトンやジャック・シ
ャルルによっても研究された気体の蒸気圧や熱膨張に関するものや、クーロンの法則お
よびオームの法則といった電気に関するものが含まれる。これらの結果はのちに同様の
実験をした化学者にも高く評価された。ハンフリー・デービーはキャヴェンディッシュ
の死に際し、彼をアイザック・ニュートンに比して評価した。19 世紀には彼の遺稿や
実験結果が出版され、彼の名を冠したキャヴェンディッシュ研究所が設立されている。
生涯 [編集]
前半生 [編集]
先祖が住んだサフォーク州キャベンディッシュ村
の風景
他人とかかわるのを極度に嫌う性格であったため、
生涯については分からない点が多い。しかし、家系
については良く知られている。ヘンリーの祖先であ
るジョン・キャヴェンディッシュ(英語版)は 1366
年にエドワード三世により英国の首席裁判官に任命され、その息子はナイトの爵位を得
た[1]。そしてその後キャヴェンディッシュ家はデヴォンシャー公の称号を得た。ヘンリ
37
ーの父親であるチャールズ・キャヴェンディッシュ(英語版)は第二代デヴォンシャー
公ウィリアム(英語版)の息子であり、物理関係の研究を行っていた[2]。一方、ヘンリ
ーの母親のアン・グレイはケント公の 4 女である。アンは病弱であったため、ヘンリー
は英国内ではなく、療養先のニースでの出生となった。しかしアンは 2 年後、二男のフ
レデリックを生んだあとに死去した。ヘンリーは 1742 年、当時貴族の子供の教育に定
評のあったニューカム博士の学校に入学した。卒業後の 1749 年には、18 歳でケンブリ
ッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。大学では物理学と数学において優れた成績
を収めていたが、そこでは学位をとることなく、1753 年に退学した。退学の理由は明
らかにされていないが、学位授与式における宗教上の問題を回避したためと推測されて
いる。退学後、ロンドンに住む父親の住居で生活するようになった。1760 年から王立
協会会員となり、1766 年以降、同会においていくつかの論文を発表した。
後半生[編集]ヘンリーの父親は多くの財産を所有していたが、息子に生活費として与え
る金額は年間 500 ポンドに過ぎなかったので、ヘンリーはつつましい生活をしていた。
ところが 1783 年に父親が死去すると、長男であるヘンリーには多額の遺産が入りこん
だ。そのため以後は生活に不自由することなく研究に打ち込めるようになった。ジョル
ジュ・キュヴィエやジャン=バティスト・ビオによれば、父親の遺産を相続する前にも、
インドで財をなした伯父から財産を相続したとされており、ビオによるとその金額は年
間 30 万ポンドとされている。さらにトマス・トムソン(英語版)は、伯母がキャヴェ
ンディッシュに多くの財産を残したと述べている。そのためキャヴェンディッシュは父
の生前から巨額の富をもっていたという証言もあるが、キャヴェンディッシュ家の系図
にはその伯父や伯母に該当する人物を見つけ出すことはできないため、その真偽は定か
ではない。父親の死後、キャヴェンディッシュはモンタギュー広場とガウアー街の角に
ある屋敶に引っ越した。さらに資料を置くための別邸、および郊外のクラパムの別荘を
所有した。別邸は図書館として一般にも開放した。またクラパムの別荘は、実験室と工
作室として使用した。1810 年 2 月 24 日、病床にあったキャヴェンディッシュは召使い
を呼び、
「私の言うことをよく聞きなさい。私はもうじき死ぬ。
私が死んだら、いいかい、必ず死んでからだよ、ジョージ・キ
ャヴェンディッシュ卿(キャヴェンディッシュのいとこ)のと
ころへ行って、そのことを伝えなさい。わかったら、下がって
よろしい。」と告げた。その 30 分後、再び召使いを呼び出し、
先ほどの指示の内容を復唱させてから、ラベンダーの香水を持
ってこさせた。さらにその 30 分後、召使いが様子を見に部屋
に入ると、キャヴェンディッシュはすでに息を引き取っていた。
キャヴェンディッシュの遺体はダービーの教会内に
あるキャヴェンディッシュ一族の墓に葬られた。また、 キャヴェンディッシュの肖像画
38
残した遺産としては 5 万ポンドの預金のほかに、毎年 8000 ポンドの収入が保証された
財源と運河があった(当時の中産階級の平均所得は 200–800 ポンド)。さらには額面に
して 115 万 7000 ポンドの公債があり、英国最大の公債所有者であった。これらの財産
は弟のフレデリック・キャヴェンディッシュに贈与された。
人物[編集]寡黙であり、また大変な人間嫌いでほとんど誰とも言葉を交わすことがなか
ったといわれる。他人と会う機会は、王立協会の会合などに限られた。その会合では、
彼の機嫌が良く、近くで他人が興味のある話をしている時は、話に加わることがあった。
しかし彼に直接話しかけて、答えが返ってくることはほとんど無かった。それにもかか
わらず、キャヴェンディッシュの深い知識と高い才能は周囲に広く知られていた。ハン
フリー・デービーは「ニュートンの死以来、キャヴェンディッシュの死ほどイギリスが
大きな損失を被ったことはない」と讃えている。また、キャヴェンディッシュは女性を
嫌い、会うことを極力避けた。女性の使用人に夕食の注文をするときも、メニュー(基
本的に羊の肉しか食べなかったが)をノートに書き、ホールのテーブルの上に置いて知
らせ、直接顔を合わせないよう心がけた。彼の前に姿を見せてしまったために解雇され
た使用人もいた。しかし一方では、暴れまわる牛に追われている婦人を、散歩中のキャ
ヴェンディッシュが救ったというエピソードも伝えられている。ビオが「キャヴェンデ
ィッシュは、科学者の中で一番の金持ちであり、金持ちの中で最も偉大な科学者である」
と語っているように、キャヴェンディッシュは莫大な資産を持っていたが、政治的な名
誉や経済的な成功は望まず、生活も大変に質素であった。銀行への預金額が 8 万ポンド
を超えた時、銀行員が彼のもとを訪れ、資金を投資に活用するよう熱心に説いたが、キ
ャヴェンディッシュは聞く耳をもたず「これ以上私を煩わせるようなことをすると預金
を全部引き落とす」と答えた。また、募金を求められた時は、他の人の募金額のリスト
を見て、一番多い金額と同じ金額を寄付することを常としていた。そのため募金を求め
る人は、キャヴェンディッシュに自分の望みの額を出させるため、嘘のリストを見せる
こともあった。
生前に発表された研究[編集]
水素の発見[編集]
キャヴェンディッシュが使用した実験装置の図
1766 年の論文で、亜鉛・鉄・スズに硫酸あるいは
塩酸を加えると、可燃性の気体が発生すると発表し
た。この気体こそが水素である。しかしキャヴェン
ディッシュはフロギストン説を支持していたため、
この気体は金属から発生したフロギストンであると考えた。さらにキャヴェンディッシ
39
ュはこの気体の性質を調べ、これは通常の空気と比べて 11 分の 1 の質量しかもたない
と発表した(現在の測定では、空気と水素分子の質量比は約 14.4:1)。この実験にお
いて、硫酸や塩酸の代わりに硝酸を使用しても気体が発生することを確かめた。しかし
この気体は可燃性をもたなかった。この結果については、金属から出たフロギストンが、
硝酸と結合することで可燃性を失うからだと考えた。
水の合成[編集]1781 年、ジョセフ・プリーストリーは水素と空気を電気火花で爆発さ
せると容器の中が湿ることに気付いた。これを知ったキャヴェンディッシュは追試を続
けて、この反応では水が生み出され、反応の際に体積が 5 分の 1 だけ減尐することを確
かめ、この結果を 1784 年に発表した。この反応は水素と酸素から水が合成されたこと、
すなわち水は単独の元素ではなく化合物であることを意味する。しかしキャヴェンディ
ッシュはフロギストン説の立場から、
水素 = 水 + フロギストン
酸素 = 水 − フロギストン
と考え、この両者が反応して水が生成されたと解釈した。また水素と窒素(当時はフロ
ギストン空気と呼ばれていた)を電気火花で反応させると、硝酸が生成することも発見
した。そして空気中の窒素をこの方法ですべて反応させ、さらに酸素も取り除くと、あ
とには何物とも反応しない尐量の気体が残ると記した。この気体は 1 世紀以上あとの
1894 年、ジョン・ウィリアム・ストラットとウィリアム・ラムゼーによって再確認さ
れ、ライナス・ポーリングによってアルゴンと名付けられた。
地球の密度の測定[編集]
「キャベンディッシュの実験」に用いられた装置
1797 から 1798 年にかけて、いわゆる「キャヴェン
ディッシュの実験」を行い、地球の比重を測定し、
その結果を 1798 年に発表した。後年の科学者は、
この実験の結果と万有引力の法則から万有引力定
数が算出できることに気付いた。キャヴェンディッ
シュ自身は万有引力定数を算出したわけではない
が、今日ではこの実験は「地球の密度を測定した」というよりは「万有引力定数を測定
した」と捉えられていることが多い。
死後の反響[編集]存命中は王立協会の『フィロソフィカル・トランザクションズ』に
18 報の論文を発表したにすぎないが、未発表の原稿の中にはのちに日の目を見る優れ
40
た実験記録も残された。それらの論文の一部が初めて公表されたのは 1839 年のことだ
った。この年、英国科学振興協会会長のハーコートは、バーリントン伯爵(当時。1858
年に第 7 代デヴォンシャー公となる)が持っていた遺稿を読み、そのうちの化学や熱に
関する論文の一部を「英国科学振興協会報告」の中で発表した。キャヴェンディッシュ
の遺稿はその後、バーリントン伯からウィリアム・スノー・ハリス卿(英語版)に引き
継がれた。ハリスはその中の電気の研究に関して、キャヴェンディッシュが同時代ある
いは後世の科学者の発見を先取りしていたことに気付き驚いた。また、ウィリアム・ト
ムソンもハリスを通じてその遺稿を読み、これらの原稿は非常に価値があると評し、完
全な形での出版を望んだ。
キャヴェンディッシュ研究所の銘板
1867 年、ハリスが死去し、原稿はごく一部が出版
されたが、大部分はそのままデヴォンシャー公の元
に戻った。デヴォンシャー公は 1870 年、自らの財
産でケンブリッジに実験物理学の研究所を作る計
画を立て、その研究所の教授をジェームズ・クラー
ク・マクスウェルに依頼した。マクスウェルはこれ
を受諾し、1871 年に着任、1874 年に研究所の建物が竣工すると、初代所長になった。
この研究所はキャヴェンディッシュ研究所と命名された。このときデヴォンシャー公は
マクスウェルに、キャヴェンディッシュの原稿を手渡した。マクスウェルはこの原稿を
整理したうえで実験を再現し、1879 年『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気学論文集』
として刊行した。キャヴェンディッシュの死から 69 年後に出された同書により、キャ
ヴェンディッシュの電気に関する研究内容の全貌が初めて明らかになり、その研究の先
進性が広く知られるようになった。
死後に発表された研究[編集]
気体に関する研究[編集]1777 年から 1779 年に、蒸気圧をさまざまな温度条件で測定し
た。この実験は 1805 年にドルトンによっても行われ、1830 年代まではドルトンの測定
値が一般に使われていた。しかしドルトンは高温では測定をしていなかったため、測定
結果はキャヴェンディッシュのほうが正確だった。また 1779 年から 1780 年に、いくつ
かの気体の熱膨張率を測定した。その結果、膨張率は気体の種類によらず、温度が華氏
1 度上昇するごとに体積が 370 分の 1 だけ膨張することを示した。これはシャルルの法
則であり、1787 年すでにシャルルによって発見されていたが、この時点では公表され
ていなかった(ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックがシャルルの法則を発表するのは
1802 年)ため、キャヴェンディッシュはそれとは独立に発見したことになる。
41
クーロンの法則[編集]キャヴェンディッシュは、帯電させていない金属の球を帯電させ
た金属の球で包み、2 つの球の間を伝導性のある物質でつないで、外側の球から内側の
球へと電気が流れる様子を観測・測定した。その結果、電気力は 2 つの球の距離の 2 乗
に反比例するのを確かめた。このことは 1785 年にシャルル・ド・クーロンが別の方法
で発見し、現在ではクーロンの法則と呼ばれている。キャヴェンディッシュはこの実験
における逆 2 乗の法則からのずれを 50 分の 1 としたが、これは当時の電位計の感度が
良くなかったことによる制限である。のちにマクスウェルが、当時最新の電位計である
トムソン型象限電位計を使用してキャヴェンディッシュと同じ実験を行ったところ、そ
の精度を 21600 分の 1 まで高めることができ、キャヴェンディッシュの実験方法の確か
さが明らかになった。
オームの法則[編集]1781 年、キャヴェンディッシュはオームの法則を発見している。
実験方法は以下のとおりである。まず、ガラス管の中に塩の溶液を入れる。そしてその
管の中に両端から導線を差し込む。次にライデン瓶で電気を発生させ、そのライデン瓶
に片方の手を触れる。もう片方の手でガラス管に差した導線を持つと、電流はライデン
瓶からキャヴェンディッシュの体を経由してガラス管内の塩の溶液を通る。塩の溶液も
電気を通すが、電気が溶液中を通る距離が長いほど、抵抗が大きくなり、流れる電流は
小さくなる。この距離はガラス管に差し込む導線の位置を変えることで調整できる。キ
ャヴェンディッシュは複数のガラス管でこの実験を繰り返し行い、オームの法則にたど
り着いた。ゲオルク・オームがこの法則を発表したのは 1827 年であるので、キャヴェ
ンディッシュの発見はオームより 26 年先んじていた。電流を流す際にわざわざキャヴ
ェンディッシュ自身の体を経由させたのは、体に感じるショックの大きさで電流の大き
さを見積もるためである(当時は検流計は発明されていなかった)。このようにして行
った実験結果は、のちに検流計を使って行った結果と遜色なく、マクスウェルを驚かせ
た。
42
ジョゼフ・プリーストリー
(Joseph Priestley, 1733 年 3 月 13 日(旧暦) - 1804
年 2 月 6 日)は 18 世紀イギリスの自然哲学者、教育者、
神学者、非国教徒の聖職者、政治哲学者で、150 以上の
著作を出版した。気相の酸素の単離に成功したことから
一般に酸素の発見者とされているが、カール・ヴィルヘ
ルム・シェーレとアントワーヌ・ラヴォアジエも酸素の
発見者とされることがある。その生涯における为な科学
的業績として、炭酸水の発明、電気についての著作、い
くつかの気体(アンモニア、塩化水素、一酸化窒素、
ジョゼフ・プリーストリーの肖
二酸化窒素、二酸化硫黄)の発見などがあるが、最大
像画。エレン・シャープレス
の功績は「脱フロギストン空気」
(酸素)の命名であ
(Ellen Sharples) 画(1794 年)
る。1774 年夏、酸化第二水銀を加熱することによっ
て、得られる気体が燃焼を激しくすることを発見し、その気体の中でネズミが長生きす
ることを発見した。当時フロギストン(燃素)説の時代であったので、「脱フロギスト
ン空気」と考え、同年ラヴォアジエに話した。この気体が酸素である。この実験を追実
験することによってラヴォアジエは燃焼の化学的プロセスを解明することになった。し
かしプリーストリー自身はフロギストン説に固執し、化学革命を拒否したため、科学界
で孤立することになった。
プリーストリーにとって科学は神学に不可欠な要素であり、一貫して啓蒙合理为義と
キリスト教の融合を心がけていた。哲学的著作では有神論、唯物論、決定論の融合を試
み、それを "audacious and original"(大胆で独創的)と称した。彼は自然界を正し
く理解することで人類の進歩が促進され、キリスト教的千年王国が到来すると信じてい
た。言論の自由を強く信じ、宗教的寛容と非国教徒の平等な権利を为張、イングランド
におけるユニテリアン为義の確立に関与した。物議を醸す著作『誤りと迷信という古い
建物を爆破して』を出版しフランス革命支持を表明したことで、政治的疑惑を引き起こ
した。国教会に扇動された群衆が彼の家と教会に押し寄せ火を放ったため、1791 年に
はロンドンに逃げ、さらにアメリカ合衆国への移住を余儀なくされた。晩年の 10 年間
はペンシルベニア州ノーサンバーランド郡で過ごした。
生涯を通じて学者であり教育者だった。教育学における貢献として、英文法に関する
重要な著作を出版。歴史についての本では初期の年表を記載し、後世に影響を与えた。
こういった教育目的の著作が最も出版部数が多かった。しかし、後々に長く影響を与え
たのは哲学的著作である。影響を受けた哲学者としてジェレミ・ベンサム、ジョン・ス
チュアート・ミル、ハーバート・スペンサーらがおり、彼らは一般に功利为義者と呼ば
43
れている。
電気学の歴史
18 世紀のウォリントンは知的刺激に満ちていて「北のアテナイ」とも
呼ばれた。そんな中でプリーストリーも自然哲学への関心を深めていった。同じウォリ
ントンの講師で友人のジョン・セドン (John Seddon) と共に、解剖学の講義をしたり
温度についての実験を行ったりした。講師として多忙を極める中、電気学の歴史につい
て執筆することを決意。友人からイギリスの为な電気研究者ジョン・カントン (John
Canton) とウィリアム・ワトソン (William Watson) を紹介され、当時イギリスを訪れ
ていたベンジャミン・フランクリンにも会った。そして電気の歴史に含めたい実験を自
分でやってみるよう勧められた。他者の実験を再現するうちに、さまざまな疑問がわき
上がってきて興味をかきたてられ、結局自分でも新たな実験を考案することになった。
なお、カントン、ワトソン、フランクリンとリチャード・プライス (Richard Price) は
プリーストリーの年表と電気の歴史の原稿に感銘を受け、彼を王立協会フェローに推薦。
1766 年にフェローとなった。
1767 年、700 頁の The History and Present State
of Electricity(電気学の歴史と現状)を出版し、
高評価を得た。
前半は 1766 年までの電気研究史で、
後半は当時の様々な理論を解説し、今後の研究の
方向性を示唆している。この後半部分には自身が
新たに発見したことも書いており、木炭その他の
電気伝導率を調べ、導体と不導体の間に中間の物
質があることを示した。この発見はそれまで電気
を通すのは水と金属だけだとされていた通説を覆
すものだった。このような物質の電気的特性につ
いての実験や化学変化における電気の効果につい
ての実験は、プリーストリーが化学物質と電気
著書 Familiar Introduction to
の関係に興味を持っていたことを示している。
Electricity (1768) 初版に掲載
帯電球を使った実験で、電気の力が万有引力の
されている電気実験装置の図。こ
ように逆 2 乗の法則に従うということを最初に
の実験装置を兄弟と共に販売し
提唱した。ただし、それを一般化したり発展さ
ようとしたが失敗した
せることはなく、フランスの物理学者シャル
ル・ド・クーロンが 1780 年代にクーロンの法則を定式化することになった。
プリーストリーの自然哲学者としての強みは定量的なものよりも定性的な部分であ
り、電気を流した 2 つの点の間に「本当の空気の流れ」が生じるという観察を行ったが
それ以上定量的に実験することはなく、後に電磁気学を確立させることになるマイケ
ル・ファラデーやジェームズ・クラーク・マクスウェルがその記述に興味を持つことに
なった。著書は電気の歴史についての定番として 1 世紀以上に渡って読まれた。電池を
44
発明したアレッサンドロ・ボルタも、赤外線を発見したウィリアム・ハーシェルも、水
素を発見したヘンリー・キャヴェンディッシュもプリーストリーのこの著書を読んでい
る。History of Electricity の一般大衆向けの版 A Familiar Introduction to the
Study of Electricity (1768) も出版した。
自然哲学者として: 電気、光学、炭酸水本人は自然哲学を単なる趣味だとしていたが、
真面目に取り組んでいる。History of Electricity の中で、科学者を「人類の安全と
幸福」を推進する者だと記している。科学の実用面を重視し、理論的問題はめったに扱
わなかった。ベンジャミン・フランクリンを理想としていた。リーズに移ってからも電
気や化学の実験を続けていた。化学の実験については、近隣の醸造所から二酸化炭素を
もらっていた。1767 年から 1770 年にかけて、そうした実験について王立協会に 5 つの
論文を提出している。そのうち 4 つめまでの論文はコロナ放電などの放電現象について
もので、5 つめは様々な炭の電気伝導性に関するものである。その後、化学および空圧
に関する実験を为に行った。1772 年、5 巻の実験哲学史についての著作の 1 巻目 The
History and Present State of Discoveries
Relating to Vision, Light and Colours(通称
Optics)を出版。光学の歴史と同時代の光学実験
について見事に解説しているが、数学的素養が不
足していたため、最新の重要な理論については言
及を避けている。さらに History of Electricity
が自然哲学者にとって便利だったのは実験につい
て詳しく解説していたからだが、こちらの著作で
プリーストリーが気体の実験
はそれもなかった。そのため評価は高くなく再版
に使った器具
もされなかったが、光学についての英語の本とし
ては当時唯一のものである。結局あまり売れず、出版までの費用を賄えなかったため、
実験哲学史のその後の巻の出版をあきらめた。ジェームズ・クックの 2 回目の航海に天
文学者として参加を打診されたが、断わっている。ただし、その船員に炭酸水の作り方
を教えた。彼はそれが壊血病の治療に役立つと思い込んでいた。そして、Directions for
Impregnating Water with Fixed Air (1772) という小冊子を出版。炭酸水を販売する
ということは思いつかなかったようだが、後にヨハン・ヤコブ・シュヴェッペなどが炭
酸水の製造販売で富を得ている。1773 年、王立協会はプリーストリーの自然哲学への
貢献を称えてコプリ・メダルを授与した。
種気体の実験と観察カルネ時代はその生涯の中で唯一、科学研究が中心となった時期で
あり、科学的成果もこの時期が最も多い。この時期の実験はほぼ全て「気体」に関する
もので、その成果をまとめた 6 巻の大作 Experiments and Observations on Different
45
Kinds of Air (英語版) (1774–86) として結実した。そういった実験はその当時まで生
き残っていた四大元素説を否定し、フロギストン説を補強するものだった。フロギスト
ン説は 18 世紀の理論で、物質の燃焼や酸化はフロギストン(燃素)という物質が物体
から抜け出ることに他ならないとする説である。プリーストリーの「気体」についての
業績は分類が難しい。科学史家のサイモン・シャファー (Simon Schaffer) は、「物理
学または化学または自然哲学の一部、あるいはプリーストリー自身の発明の非常に特異
なバージョン」だと記している。しかも上述の著
作には政治的な意味でも野心的で、その中で科学
は「不当で不法な権威」を破壊することができ、
政府には「空気ポンプや電気機械を恐れる理由」
があるとしている。Experiments and
Observations on Different Kinds of Air の第 1
巻では、いくつかの発見を概説している。一酸化
ボーウッド・ハウスにあるプリ
窒素(NO、"nitrous air" =「硝石の空気」)の発
ーストリーが酸素を発見した実
見、塩化水素(HCl、"vapor of spirit of salt" =
験室
「塩酸の蒸気」、後に "acid air" あるいは
"marine acid air" とも呼んだ)の発見、アンモニア(NH3、"alkaline air" =「アル
カリの空気」)の発見、亜酸化窒素(N2O、"dephlogisticated nitrous air" =「脱フ
ロギストン化した硝石の空気」)の発見、酸素(O2、"dephlogisticated air" =「脱フ
ロギストン空気」)の発見である。また、のちに光合成の発見を導くことになる実験上
の発見についても記している。また、「空気の良さ」を判定するための "nitrous air
test" という試験方法も開発した。これは空気槽 (pneumatic trough) を使って一酸化
窒素と試験対象の気体を水または水銀の上の容器に送り込み、体積の減り方を測定する
もので、水電量計の原理と同じである。気体研究の歴史を簡単に概説した後、誠実かつ
あからさまに自身の実験について説明している。初期の伝記には「彼の知っていること
や教えようとしていることが何であっても、疑念や混乱や失敗さえもその爽やかな率直
さによって軽減される」と記している。安価で組み立てが容易な実験装置についても記
述している。そのため、同時代の科学者は彼の実験を容易に再現できると信じた。実験
結果に一貫性が見出せない場合はフロギストン説で説明付けている。しかし、そのため
にプリーストリーは気体を 3 種類しかないと結論付けてしまった。すなわち、"fixed"、
"alkaline"、"acid" の 3 種である。当時の急激に進歩する化学に背を向け、それ以前
の自然哲学者のように気体と「その認識可能な特性の変化」に集中した。一酸化炭素
(CO) も単離したが、それが別種の「気体」だとは気づかなかった。
酸素の発見 1774 年 8 月、それまでとは全く異なる「気体」を分離したが、その直後に
シェルバーン伯とヨーロッパ旅行に出かけたため、それ以上実験することができないで
46
いた。しかしパリで現地の化学者らと実験の再現をする機会に恵まれた。その中にフラ
ンスの化学者アントワーヌ・ラヴォアジエもいた。1775 年 1 月にイギリスに戻ると、
実験を続けて二酸化硫黄(SO2、"vitriolic acid air" =「硫黄の酸の空気」)を発見
した。同年 3 月、1774 年 8 月に発見した新たな気体について何人かに手紙で知らせて
いる。そのうちの 1 通が王立協会の会合で読まれ、協会のフィロソフィカル・トランザ
クションズ誌に "An Account of further Discoveries in Air" と題してその発見の概
要を記した論文が掲載されることになった。プリーストリーはこれを「脱フロギストン
空気」と呼んだ。これは、酸化第二水銀を太陽光で熱するという有名な実験で得られた
ものである。彼はこれをまずネズミで試してみた。すると驚いたことにその気体の中で
ネズミはかなり長く生き続けた。次に自分でその気体を吸ってみて「呼吸や燃焼にとっ
ては通常の空気より 5 倍から 6 倍良く、大気中に含まれるどんな気体よりも良いと信じ
ている」と記した。これこそが酸素 (O2) の発見だった。酸素についての論文と他のい
くつかの成果をまとめ、Experiments and Observations on Air の第 2 巻を 1776 年に
出版。「脱フロギストン空気」の発見はあまり強調されていないが(第 3 巻で大いに解
説している)、序文でそのような発見が合理的宗教にとっていかに重要かを語っている。
論文では、発見の経緯を時系列で述べており、実験から発表まで時間がかかったことや
当初の当惑などを記している。したがってプリーストリーが具体的にいつ酸素を「発見」
したと言えるのかは難しい問題である。その日付を特定することは、ラヴォアジエやス
ウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレとの関連で非常に重要である。シェーレ
も酸素を最初に分離したとしているが、出版はプリーストリーの後だった。ラヴォアジ
エはそれが純粋な気体であることを最初に述べた(つまり、フロギストン説とは無関係
に酸素を定義した)。
"Observations on Respiration and the Use of the Blood" という論文でプリース
トリーは気体と血液の関係を初めて示唆した。ただし、それもフロギストン説を使った
理解のしかただった。いつものように論文は呼吸についての研究史から始まっている。
その翌年、あきらかにプリーストリーに影響され、ラヴォアジエもフランス科学アカデ
ミーで呼吸について論じている。その後ラヴォアジエは様々な発見をし、呼吸における
酸素の役割を示した論文でフロギストン説にとどめを刺し、現代化学の礎を築いた。
1779 年ごろ、プリーストリーとシェルバーン伯は仲違いした。原因はよくわかってい
ない。プリーストリーの率直さがシェルバーン伯の政治家としての経歴に何らかの傷を
つけたのではないかと推測する同時代人もいた。スコフィールドは、そのころシェルバ
ーン伯が再婚しておりその妻がプリーストリーを嫌ったのではないか、と推測している。
プリーストリーはアメリカ移住も考えたが、結局バーミンガムのユニテリアン教会での
聖職の申し出を受けることにした。1780 年にバーミンガムに引っ越すと旧友に囲まれ
てしばらくは幸福に過ごしたが、1791 年にプリーストリーを標的とするバーミンガム
暴動 (Priestley Riots) が起き、逃亡を余儀なくされた。ユニテリアン教会の聖職者
47
に就任したが、日曜日だけ説教すればよいという条件で、他の時間は執筆活動や科学実
験に専念できた。リーズのときと同様に子供むけの学校を作り、1781 年には生徒が 150
人になった。聖職者としての給料はわずか 100 ギニーだったので、友人や支援者の寄付
で研究を続けた。
化学革命 [編集]バーミンガムでできた友人の多くはルナー・ソサエティ会員だった。
これは企業家、発明家、自然哲学者などの集まりで、毎月会合を開いていた。中核とな
っていたのは企業家のマシュー・ボールトン、化学者で地質学者のジェームズ・ケア
(James Keir)、発明家で技師のジェームズ・ワット、植物学者・化学者で地質学者のウ
イリアム・ウィザリング (William Withering) といった面々である。プリーストリー
はこの会への参加を要請され、会員それぞれの仕事の手伝いもした。この知的刺激に溢
れた環境で "Experiments relating to Phlogiston, and the seeming Conversion of
Water into Air" (1783) などの重要な科学論文を発表している。この論文は前半でラ
ヴォアジエの酸素に関する論文への反論で、後半は蒸気がどのようにして空気に「変換」
されるかを解説している。様々な物質を燃焼し、様々な気体収集装置を使って実験を繰
り返し、「流体静力学の常識に反して」気体がこれまで考えられていたよりも多くの物
体を通過できると結論付けた。この発見とプリーストリーのそれまでの成果は後の気体
拡散のさきがけであり、後のジョン・ドルトンやトーマス・グレアムによる気体分子運
動論の確立に結実することとなる。
1777 年、アントワーヌ・ラヴォアジエは
Réflexions sur le phlogistique pour servir de
suite à la théorie de la combustion et de la
calcination を出版。フロギストン説への一連の
反論を開始した。これにプリーストリーが 1783 年
に反論。プリーストリーはラヴォアジエの理論を
一部受け入れたものの、ラヴォアジエの革命的为
張全体に同意する準備ができていなかった。ラヴ
ォアジエの为張とは、元素と化合物という新しい
化学の考え方であり、物質の新たな命名法である。
ラヴォアジエの立論の基礎となったのは、皮肉な
ことにプリーストリーの「脱フロギストン空気」
や燃焼や水についての実験だった。結局プリース
トリーは生涯ラヴォアジエの新説を受け入れ
ることができず、フロギストン説に固執した。
ラヴォアジエの理論は「定量的」であり、化
アントワーヌ・ラヴォアジエとその
妻。ジャック=ルイ・ダヴィッド画
学反応によって質量が増えたり減ったりしないという概念(質量保存の法則)に基づい
48
ている。対照的にプリーストリーは熱、色、体積の変化の「定性的」な観察を好んだ。
彼の実験は「気体」について「水溶性、炎を支えるまたは消し去る力、呼吸可能かどう
か、酸またはアルカリの気体に対してどう反応するか、一酸化窒素や可燃性気体とはど
う反応するか、電気火花でどういう影響を受けるか」といったことを調べるものだった。
1789 年、ラヴォアジエは Traité Élémentaire de Chimie を出版し、Annales de Chimie
(英語版)という学術誌を創刊。プリーストリーもバーミンガムで科学論文を発表し続
けたが、ほとんどはラヴォアジエへの反論だった。プリーストリーを含めたルナー・ソ
サエティの面々は、フランスの新たな実験システムはあまりにも高価で再現が難しく、
複雑すぎると为張した。しかし結局ラヴォアジエの理論が一般に受け入れられ、それが
現代化学の元になった。プリーストリーがラヴォアジエの質量保存の法則などを含む新
理論を頑なに拒み、旧説に固執したことは多くの学者を当惑させた。スコフィールドは
これについて「プリーストリーは化学者ではなかった。現代的意味でも当時の感覚から
しても科学者ではなかった。彼はあくまで自然哲学者であり、自然の摂理を解明して神
学と一致させることを使命としていた」と記している。科学史家ジョン・マカヴォイも
ほぼ同様の考え方で、プリーストリーの観点では自然は神と同じ広がりを持つ無限なも
ので、仮説や理論は全てそのためにあり、ラヴォアジエの理論は受け入れられなかった
とした。マカヴォイは「プリーストリーがただ 1 人酸素理論に反対したのは、知的自由
や認識における平等といった原則についての強い懸念の表れだった」としている。プリ
ーストリー自身は Experiments and Observations の最終巻で、自分の最大の業績は神
学に関する著作で、「威厳と重要性において優れている」からだと記している。
非国教徒の擁護とフランス革命 [編集]
フロギストン説防衛に忙しかったプリースト
リーだが、バーミンガムで出版した著作の多くは神学に関するものだった。1782 年、
Institutes の 4 巻目である An History of the Corruptions of Christianity を出版
し、原始キリスト教の教えがいかにして「堕落」し歪んでいったかを記した。スコフィ
ールドはこの作品について「混乱していて、くどくど繰り返し、詳細で徹底的」と評し
た。この著書はキリストの神性から聖餐式の適切な形式にまで言及している。1786 年
には An History of Early Opinions concerning Jesus Christ, compiled from Original
Writers, proving that the Christian Church was at first Unitarian という挑発的
な題(キリスト教は本来ユニテリアン为義のようなものだった)をつけた本を出版。ト
ーマス・ジェファーソンは後にこの 2 冊の本に強い影響を受けたと記している。この本
を受け入れたのはジェファーソンや合理的非国教徒などごく一部で、三位一体を否定す
るなど神学上の過激さゆえ、酷評されることになった。
ハックニー時代 (1791–94) [編集]バーミンガムに戻ることができないプリーストリー
夫妻はロンドン近郊、ミドルセックス州ハックニーのロウワー・クラプトンに住み着い
49
た。そして、非国教徒向けの学校ハックニー新大学 (New College at Hackney) で歴史
と自然哲学の一連の講義を行った。友人たちが生活再建を支援し、資金や本や実験器具
を集めた。バーミンガム暴動で破壊された財産について政府に補償を求めたが、完全な
補償は得られなかった。An Appeal to the Public on the Subject of the Riots in
Birmingham (1791)を出版し、暴動の発生を許したバーミンガムの人々を非難し、「英
国政府の原則への違反」だと为張した。友人たちはイギリスを離れて、フランスかアメ
リカ合衆国に移住するよう説得したが、プリーストリーは再びユニテリアン派の教会で
説教をする仕事を引き受けた。聖職者として働いたのは 1793 年から 1794 年で、千年王
国が間もなく訪れるという信念から、断食説教を行っている。説教では聖書の予言と最
近の歴史を比較した後、フランス革命がキリストの再臨の前触れだと結論付けた。プリ
ーストリーは以前から千年王国を信じていたが、フランス革命後はその傾向が強くなっ
た[135]。若い友人への手紙に、自分は生きて再臨を見ることはできないだろうが、その
友人は「生きて見ることができるだろう……私が思うにそれは 20 年以内に起きる」と
書いている。日常生活も徐々に難しくなっていった。トマス・ペインとプリーストリー
の肖像が燃やされる事件が発生した。危険な風刺漫画も依然として出版され続けていた。
プリーストリーを悪魔やガイ・フォークスと比較した手紙が全国から送りつけられた。
王立協会の会員はプリーストリーから距離を置き始めた。政府への抗議に対する刑罰が
重くなり、フランスでは 1792 年にフランス国民公会で 3 部門でプリーストリーが選ば
れたにも関わらず、プリーストリーはアメリカ合衆国への移住を決意した。プリースト
リーがイギリスを離れて 5 週間後、ウィリアム・ピットの政権は過激派(非国教徒)た
ちを扇動罪で逮捕し始め、1794 年反逆裁判 (1794 Treason Trials) が起きた。
ペンシルベニア時代 (1794–1804) [編集] アメリカでは
科学者としてよりも非国教徒や植民地の自由の代弁者と
して知られていた 1794 年、ニューヨークに到着。すぐさ
ま様々な政治勢力がプリーストリーを引き込もうと寄っ
てきた。自分が新たな国で政治不和の原因となることを
嫌い、それらの誘いを断わった。夫妻は新居をペンシル
ベニア州ノーサンバーランドに定め、そこに向かう途中
でフィラデルフィアに立ち寄った。そこで一連の説教を
行い、フィラデルフィア・ファースト・ユニテリアン教
会 (First Unitarian Church of Philadelphia) の
創設を助けている。ペンシルベニア大学で化学を教
える機会を得て、夫妻はその近郊に家を建て始めた。
アメリカでは政治的論争を起こさないようにしよ
晩年の肖像画。レンブラント・
ピール (Rembrandt Peale) 作
(1800 年ごろ)[138]
うというプリーストリーの試みは失敗した。1795 年、ウィリアム・コベット (William
50
Cobbett) が Observations on the Emigration of Dr. Joseph Priestley と題した小
冊子を出版。プリーストリーはイギリスで反逆罪に問われているとして、彼の科学的信
用を傷つけようとした。さらにコベットがプリーストリーに送られた過激な出版人ジョ
ン・ストーン (John Hurford Stone) とリベラル作家ヘレン・ウィリアムズ (Helen
Maria Williams) の手紙(両者とも革命後のフランスに住んでいたことがある)を手に
入れたことで、プリーストリーの政治的生命はいっそう悪い展開を見せた。コベットは
自身の新聞にそれらの手紙を掲載し、プリーストリーが友人らと革命を扇動していたと
断言した。プリーストリーは防衛のために反論を出版せざるを得なくなった。家族にも
問題が起きた。息子のヘンリーがマラリアと思われる病気で 1795 年に死去した。そし
て、それにショックを受けた妻メアリーも病に倒れ、1796 年に死去した。妻の死後、
プリーストリーは友人への手紙に「全く混乱していて、何も手に付かない。家ではいつ
も妻がそばに座って読み書きしたり、彼女に読み聞かせたりしていた。だからどこにい
ても彼女を恋しく思う」と書いている。1800 年にもペンシルベニアの新聞がプリース
トリーを「フランスの为義」に酔っていると書きたて、プリーストリーと息子がそれを
精力的に否定した。常に重視していた教育関係のプロジェクトは続けていて、
"Northumberland Academy" の創設を助け、自身の蔵書を寄贈している。トーマス・ジ
ェファーソンとの手紙のやり取りで大学の適切な構成について意見を伝え、その助言が
バージニア大学創設の際に役立てられた。ジェファーソンとは親密になり、General
History of the Christian Church を書き上げた際には献辞にジェファーソンの名を挙
げ、「私は今やっと権力を全く恐れずにいることができる。好意的な政府の下で生きる
のはこれが初めてだ」と記した。プリーストリーはアメリカ哲学協会の支援の下で科学
研究を続けようとした。ヨーロッパの最新事情は中々入ってこなかったため、科学の最
新状況がわからず、科学の最前線からは退いた形となった。フロギストン説を擁護する
内容の出版が多かったが、自然発生説や夢に関する独自の成果もあげた。プリーストリ
ーの科学的成果は減尐したが、アメリカでは彼の存在そのものが化学への興味を刺激し
た。
51
カール・ヴィルヘルム・シェーレ
(Karl (または Carl) Wilhelm Scheele、1742 年 12 月 9 日 - 1786 年 5 月 21 日)はス
ウェーデンの化学者・薬学者。酸素をジョゼフ・プリーストリーとは別に発見したこと
で有名である。金属を中心とする多数の元素や有機酸・無機酸を発見している。現在の
低温殺菌法に似た技法も開発していた。当時スウェーデン領であったポメラニア地方の
シュトラールズントに生まれた。14 歳で薬剤師の徒弟として働き始め、その後も薬剤
師としてストックホルム、ウプサラ、ケーピンなどで働いた。当時の薬剤師は薬品の精
製のために化学実験の装置をもっていたため、シェーレも化学に精通していた。多くの
大学からの招聘にもかかわらず学者にはならず、ケーピンで没した。シェーレが若死に
したのは同時代の化学者の例に漏れず、危険な実験条件のもとで研究を進めたためだと
考えられている。また彼には物質を舐める癖があったため、毒性のある物質の毒にあた
ったのではともされる。
酸素と窒素の発見を逃す [編集]1771 年 - 1772 年に軟マンガン鉱)を濃硫酸に溶かし
て加熱し、発生した気体を動物の膀胱で作った袋に蓄えた。ろうそくの火にこの気体を
吹き付けると明るく輝くことを発見し、濃硫酸 (vitriol oil) の名前から「ビトリオ
ル空気」(後に「火の空気」)と呼んだ。これが今で言う酸素である。酸化水銀(II)
や硝石を加熱からも同じ気体を回収している。1773 年の時点で実験をすべて完了した。
シェーレはこれらの実験結果を「熱は『火の空気』とフロギストンからなり、酸化水銀
(II)の実験は熱によって『火の空気』が追い出される現象である」と解釈した。
さらに水素と空気の燃焼実験により、「火の空気」が空気の約 1/5 の体積を占め、空気
の为成分が「火の空気」ともう一種類の気体(窒素)であることも見出した。
52
シェーレの酸素の研究は、発見こそプリーストリーよりも早かったが、実験結果を著書
『空気と火について』(Chemische Abhandlung von der Luft und dem Feuer) にまとめ
たのが 1777 年と遅かった。プリーストリーは酸素の発見論文を 1775 年に王立協会に提
出しているため、現在では酸素の発見者はプリーストリーとされる。
シェーレの発見した元素と化合物 [編集]

1769 年 - 酒石酸の発見

1771 年 - 四フッ化ケイ素の発見(蛍石から)

1773 年 - 骨灰を原料とするリンの安価な製法を発見

1774 年 - バリウムの発見(軟マンガン鉱の不純物として)

1774 年 - 塩素の発見(塩酸を二酸化マンガンで酸化)

1774 年 - マンガンの発見(軟マンガン鉱から、単離は助手の J.G.Gahn)

1774 年 - アンモニアの合成

1775 年 - ヒ酸の発見

1778 年 - モリブデンの発見(輝水鉛鉱から)、シェーレグリーン(顔料 CuHAsO3)
の合成

1779 年 - グリセリンの発見(オリーブ油の加水分解生成物から)

1780 年 - 乳酸の発見(腐敗した牛乳から)

1781 年 - タングステンの発見(灰重石から酸化タングステン(VI)を単離、灰重
石を英語でシェーライトと呼ぶ)
このほかクエン酸・シアン化水素(シアン化水素酸の別名をシェーレ酸という)・シュ
ウ酸・フッ化水素・酪酸・硫化水素を発見した。
53
アントワーヌ・ラヴォアジエ
アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ
(Antoine-Laurent de Lavoisier, 1743 年 8 月 26 日 1794 年 5 月 8 日)はフランス、パリ出身の化学者であ
る。科学業績は、近代化学の確立。
来歴[編集]1774 年、精密な定量実験を行い、化学反応
の前後では質量が変化しないという質量保存の法則を
発見した。また、当時は燃焼を物質に含まれているフ
ロギストンが空気中に出ていく現象であるとするフロギストン説が支配的であったが、
1777 年に燃焼が物質と酸素が結合することであると説明した。フランスの科学者クロ
ード・ルイ・ベルトレーらとともに、物質の命名法を確立し、元素を定義付け、また、
水の成分が酸素と水素であることを発表した。ただ、これは彼に先立って英国人のヘン
リー・キャヴェンディッシュが既に発見していたが、かなりの変人だったキャヴェンデ
ィッシュはラヴォアジエの発表に何の関心も優先権も为張しなかったため、ラヴォアジ
エに優先権が発生することとなった。熱が物質であるというカロリック説には肯定的で
あった。酸の元は酸素であると考えて(実際は水素イオン)、この名称をつけた。1789
年、ラヴォアジエは『化学原論』を出版し、化学方程式、33 の元素表を示し、近代化
学の革命を成し遂げた。生命現象は化学変化であると言い出した生理学者。
化学方程式第一号
ブドウ汁の量
= アルコールの量
+ 炭酸ガスの量
人物[編集]裕福な生まれだったにもかかわらず、実験器具を買う費用が必要だったこと
から、市民から税金を取り立てて国王に引き渡す「徴税請負人」の職業に就き、徴税請
負人の長官ジャック・ポールズの娘マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズと結婚した。
妻のマリー・アンヌは夫の役に立とうと英語、ラテン語、イタリア語を学び、系統学的
な化学や絵画の描き方などを習得した。そして最新の英語論文や手紙を夫のためにフラ
ンス語に翻訳し、実験の際には非常に細かい点までスケッチし、記録に残した。ルイ
16 世支配時の 1791 年に国家財政委員に就任し、フランスの金融・徴税制度を改革しよ
うとした。しかし、フランス革命勃発後の 1793 年に徴税吏であること、徴税請負人の
娘と結婚していたことなどを理由に投獄された。徴税請負人は市民から正規の税に加え、
高額な手数料をとったため革命政府の標的とされた。ラヴォアジェ自身はそこまでひど
い徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していたが、1794 年 5 月 8 日の革命
裁判所の審判で「水と有害物質をタバコに混入した」との(架空の)罪で死刑とされ、
その日のうちに 断頭台で処刑された。裁判長は「共和国は科学者を必要とせず」と言
う。ラヴォアジエが投獄・処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でも
54
あったジャン=ポール・マラーが、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォ
アジエによって(彼によれば「実験もせず憶測の内容であったため」)却下されたこと
の逆恨みによるものであるとも伝えられている。天文学者・数学者のジョゼフ=ルイ・
ラグランジュは、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と
同じ頭脳を持つものが現れるには 100 年かかるだろう」とその才能を惜しんだ。なお、
処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬き
を続ける」と宣言し、実際に瞬きを行なったという話があるが、ラヴォアジェの処刑は
35 分間で 28 人を処刑する流れ作業の途中で行われ、当時実際に死刑に立ち会った人の
記述にそのような話はなく、ボーリュー医師の 1905 年の論文をもとに 1990 年代以降創
られた都市伝説と考えられる。処刑2年後にラヴォアジエの裁判がやり直され、前の判
決は向こうであるとし、ラヴォアジエは無罪になった。現在ではパリの市役所にラヴォ
アジエの功績をたたえ、像が飾られている。
ラヴォアジエの元素表[編集]ラヴォアジエは、『化学原論』で、次のものを元素として
挙げている。これらの中には、現在元素ではないことが判っているものも含まれている。
分類
自然界に広
くあるもの
非金属
金属
土
元素
光、熱素、酸素、窒素、水素
硫黄、リン、炭素、塩酸基(塩素)、フッ酸基(フッ素)、ホウ酸基
アンチモン、銀、ヒ素、ビスマス、コバルト、銅、スズ、鉄、モリブデン、
ニッケル、金、白金、鉛、タングステン、亜鉛、マンガン、水銀
ライム(酸化カルシウム)、マグネシア、バリタ(酸化バリウム)、アル
ミナ、シリカ
他、積立養老年金、生命保険のような社会保障制度の提案、公共教育制度改革案「すべ
ての児童は、その社会的身分によって差別を受けることなく、国家の負担によって、人
として受けるべき初等教育を授けられなければならない。これは社会が児童に対して負
っている義務である」
55
ジョン・ドルトン
(John Dalton, 1766 年 9 月 6 日 - 1844 年 7 月 27 日)は、
イギリスの化学者、物理学者ならびに気象学者。科学業績
は原子説、倍数比例の法則、ドルトンの法則。また、自分
自身と親族の色覚を研究し、自らが先天色覚異常であるこ
とを発見したことによって、ドルトニズムの語源となった。
ジェームズ・プレスコット・ジュール(ジュールの法則、
ジュール・トムソン効果)は弟子
生い立ち [編集]カンバーランド州イーグルスフィールドでクェーカー教徒の一家に生
まれる。機織りの息子であり、地元の小学校で初等教育を受けたが、そこの教師が 1778
年に引退すると、12 歳にして教師となった。15 歳のとき兄と共に近くのケンダルでク
ェーカー教徒の学校を運営。1790 年ごろ法律家か医師になることを志したが、当時の
イングランドでは非国教徒は大学に入学できなかったため親族に反対され、1793 年ま
でケンダルに留まり、その後マンチェスターに引っ越した。盲目の哲学者で博物学者の
ジョン・ゴフ (en) に師事して科学知識を身につけ、新たに創設されたマンチェスタ
ー・アカデミー(後のハリス・マンチェスター・カレッジ)で数学と自然哲学の教師に
なった。1800 年までそこで教師を続けたが、大学の財政が悪化したため職を辞し、数
学と自然哲学の家庭教師として働くことにした。
若いころのドルトンはイーグルスフィールドのクェーカー教徒エリヒュー・ロビンソ
ンに強く影響を受けている。ロビンソンは有能な気象学者で機器製作者であり、ドルト
ンに数学と気象学への興味を植えつけた。ケンダルにいたころ、ドルトンは
Gentlemen's and Ladies' Diaries 紙に寄せられた様々な問題や疑問に答えており、
1787 年から気象学に関する日記をつけ始めた。その後の 57 年間で日記には 20 万以上
の気象観測記録が記された。同じころジョージ・ハドレーの大気循環理論(ハドレー循
環)を独自に再発見している。ドルトンの最初の出版物は Meteorological
Observations and Essays (1793) で、後の発見の萌芽がいくつか見られる。しかしそ
の独創的論文に他の学者が注目することはほとんどなかった。2 作目の Elements of
English Grammar は 1801 年に出版。
1794 年、マンチェスターに移って間もなく、ドルトンは Manchester Literary and
Philosophical Society、通称 "Lit & Phil" の会員に選ばれた。その数週間後自らの
色覚を題材にした論文を発表し、先天色覚異常が眼球の液体培地の変色によって起きる
という仮説を提唱した。西欧近代科学においては、ドルトンが自らの色覚を観察し発表
するまで先天色覚異常に関する学術研究が行われていなかったとの定説がある。ドルト
ンの仮説の誤りは存命中に明らかになったが、研究の先駆性が評価され、先天色覚異常
56
をドルトニズムと呼ぶようになった。ドルトンの死後保存された眼球の組織を 1995 年
に調査したところ、ドルトンの先天色覚異常は中波長の錐体細胞(M-錐体)が働かない
もの(2 型 2 色覚)であることが判明した。なお、ドルトンは論文で次のように記して
いる。他者が赤と呼ぶ色は私には単なる影のやや明るい部分にしか見えない。オレンジ
色、黄色、緑は様々な明るさの黄色にしか見えない。
この論文に続いて、雤と露、湧水の起源、熱、空の色、水蒸気、英語の助動詞と分詞、
光の反射と屈折といった様々な为題の論文を書いた。
原子説 [編集]1800 年、Manchester Literary and Philosophical Society の職員とな
り、翌年には "Experimental Essays" と題した一連の重要な論文を発表。気体の混合
物について、真空または大気中での様々な温度における水蒸気や他の蒸気の圧力につい
て、蒸発について、気体の熱膨張率について論じた。この 4 つの論文は 1802 年の Lit &
Phil の学会誌 Memoirs にて出版された。
2 番目の論文は次のような強烈な意見表明から始まる。全ての弾性流体が圧縮によっ
て液化されることはほとんど疑いない。純粋な気体を冷却し高圧をかけることで影響を
与えることを諦めるべきではない。0℃から 100℃までの様々な温度での水蒸気圧の測
定実験の後、ドルトンは 6 種類の異なる液体の蒸気圧を観察し、同じ温度変化による蒸
気圧の変化は液体の種類に依存しないと断定した。
4 つめの論文では次のように記している。空気が温度に比例して膨張することから、
定圧状態のあらゆる弾性流体は水銀柱のように加熱によって等しく膨張すると結論付
けられない十分な理由はない。したがって、他の物質よりも弾性流体について絶対量と
熱の性質から一般法則が導き出しやすいと思われる。
気体の法則 [編集] つまりドルトンは、ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックが 1802 年
に発表したゲイ=リュサックの法則またはシャルルの法則に到達していた。その後 2、
3 年間、ドルトンは同様のテーマの論文を発表し、1803 年の水や他の液体による気体の
吸収についての論文でドルトンの法則と呼ばれるようになる分圧の法則を提示した。ド
ルトンの研究の中でも最も重要とされているのは、化学的原子説である。彼が原子説に
到達したのは、エチレンとメタンの研究または亜酸化窒素と二酸化窒素の分析が元にな
ったという説があるが、どちらもトーマス・トムソンの権威によっている。しかし、Lit
& Phil のドルトンの実験室で発見されたノートの分析により、倍数比例の法則が何故
成り立つのかを考える過程で、一定の質量比率の原子の相互作用によって化学反応が起
きているという考え方に到達した、すなわち、大気や他の気体の物理特性を研究する過
程で純粋に物理的概念として原子説の考え方に至ったと断定された。この考え方は前述
のドルトンの法則を提示した液体による気体の吸収に関する論文の最後の方に初めて
書かれているが、論文の発表は 1803 年 10 月 21 日で、それが出版されたのは 1805 年の
ことである。ドルトンは次のように記している。何故、水はあらゆる気体を同じ量だけ
吸収しないのか? 私はこの疑問を当然考察し、自身で完全に納得したわけではないが、
57
気体を構成する究極の粒子の数および質量に依存するのではないかとほぼ確信してい
る。
原子量 [編集]ドルトンは相対原子質量(原子量)の
表を出版した。最初の表には、水素、酸素、窒素、
炭素、硫黄、リンという 6 種類の元素が掲載されて
おり、水素原子の質量を 1 としている。この論文で
は、どうやってそれらの値に到達したのかは説明さ
れていない。しかし、実験室のノートには 1803 年 9
月 6 日付けで、同時代の化学者らによる水、アンモ
ニア、二酸化炭素などの分析からそれら元素の相対
原子質量を求めたことがわかった。気体が全て原子
から成ると確信したドルトンは、次に原子の相対的
大きさ(直径)を求めるという問題に直面した。そ
して組み合わせは常に可能な限り単純なものになる
と仮定し、化学反応が異なる質量の粒子の組み合わ
せで起きるという考え方に到達した。この点が古代
ギリシアのデモクリトスやルクレティウスの原子論
と異なる点である。この考え方を物質全般に拡張することで倍数比例の法則が導かれ、
実験によってそれが正しいことを確認した。「酸素はある量の窒素またはその倍の量の
窒素を化合するが、その中間の量の窒素とは化合しない」という倍数比例の法則の元に
なったと思われる記述が 1802 年 11 月に発表した論文にあるが、この論文が実際に出版
されたのは 1805 年であり、その間に加筆された可能性も否定できない。
1808 年の著作 New System of Chemical Philosophy には 2 原子、3 原子、4 原子の
分子などが化合物を表す最も単純な形態として一覧で描かれている。彼は化合物の構造
が整数比率で表されると仮定した。従って、元素 X の原子 1 個と元素 Y の原子 1 個が結
びついて 2 元化合物となり、元素 X の原子 1 個と元素 Y の原子 2 個(またはその逆)が
結びついて 3 元化合物になるとした。New System of Chemical Philosophy に示された
化合物の構造は、現代の観点から見て正しいものもあれば、間違っているものもある。
ドルトンが A New System of Chemical Philosophy (1808) で描いた様々な原子や分
子彼は元素記号も発表したが、それは黒く塗りつぶされた丸が炭素を表す、といったよ
うなものであったため広まりはしなかったものの、歴史的な意義はあった。New System
of Chemical Philosophy ではその記号を使って元素や化合物を表している。
ドルトンの原子論の 5 つの原則 [編集]
1.ある元素の原子は、他の元素の原子とは異なる。異なる元素の原子は相対原子質量
によって互いに区別できる。
58
2.同じ元素の原子は、同じ大きさ、質量、性質を持つ。
3.化合物は、異なる原子が一定の割合で結合してできる。
4.化学反応は、原子と原子の結合の仕方が変化するだけで、新たに原子が生成したり、
消滅することはない。
5.元素は原子と呼ばれる小さな粒子でできている。
ドルトンは次のような「単純さ最大の法則」も提唱したが、独自に検証できなかったた
め論争を生んだ。元素がある特定の比率でのみ結合するとき、それに反する証拠がない
限り最も小さい整数個の原子が化合すると推定すべきである。これは、自然の単純さへ
のドルトンの確信から生まれた単なる仮説だった。当時、化合物の分子を構成する原子
が何個なのかを推論できる証拠は存在しなかった。しかし、相対原子質量を求めるには
何らかの分子式を仮定する必要があり、このような法則は初期の理論には必須だった。
ともかく「単純さ最大の法則」により、ドルトンは水の分子式が OH、アンモニアの分
子式が NH だと推定し、それらは間違っていた。ドルトンの原子説はその根幹が不確か
だったが、その原則は生き残った。確かに、化学反応において原子がさらに小さな粒子
に分裂したり、原子が生成したり破壊されたりしないという原則は、原子核融合や原子
核分裂の存在と相容れないとも言えるが、そういった反応は原子核反応であって化学反
応ではないとも言える。さらに原子には尐しだけ質量の異なる同位体が存在するため、
同じ元素の原子は同じ大きさ・質量・性質を持つという原則は正確ではない。それでも
ドルトンの生み出した原子説は極めて重要であり、アントワーヌ・ラヴォアジエの質量
保存の法則以来の化学史上の重大な進歩だった。
その後 [編集]
ドルトンは原子説をトムソンに伝え、トムソンの System of Chemistry 第 3 版 (1807)
にその概要を掲載することに同意し、自身も New System of Chemical Philosophy の
第 1 巻の第 1 部 (1808) に初めて原子説を記した。同著の第 2 部は 1810 年に出版され
たが、第 2 巻第 1 部が出版されるのは 1827 年のことである。目新しい部分は付録だけ
で、本体の内容に目新しさはなかったため、何故これほどまで出版が遅れたのかは不明
である。また、第 2 巻第 2 部は出版されなかった。1817 年から亡くなるまでドルトン
は Lit & Phil の会長を務め、多数の論文をその学会誌に発表した。ただし重要な論文
は初期のものに集中している。1814 年の論文では、定量分析(滴定)の原理を解説し
ており、その分野では最初期のものである。1840 年にはリン酸塩とヒ素に関する論文
を王立協会に提出して出版を断わられ、激怒して自分で出版した。その後も 4 つの論文
が同様の経過をたどった。中でもそのうち 2 つ(「様々な塩に含まれる酸、塩基、塩の
量について」と「砂糖の新たな容易な分析法について」)はドルトン自身が原子説に次
ぐ重要な論文だと考えていた。その中である種のカルボン酸無水物を水に溶かしたとき
59
体積が増えないという現象について、水分子の隙間に塩が入り込むからだと推測してい
る。ドルトンの有名な弟子としてジェームズ・プレスコット・ジュールがいる。
ドルトンの実験手法 [編集]ドルトンは、より精度の高い実験器具が入手可能であって
も不正確な器具で満足していた。ハンフリー・デービーはドルトンは「実験者としては
極めて粗雑」だとし、手よりも頭で必要な結果を得ていると評した。一方で後の歴史家
がドルトンの重要な実験を再現し、ドルトンの実験結果が極めて正確だったことを確認
している。New System of Chemical Philosophy の第 1 巻第 2 部の序文でドルトンは他
者の公表した結果を鵜呑みにしたことで何度もひどい目に合ったとし、可能な限り自分
で確かめられたものしか採用しないとしていた。したがって、おそらくゲイ=リュサッ
クの気体の体積についての法則も完全に受け入れたわけではなかったと見られる。塩素
についても、デービーがその特性を正確に測定した後も自分で求めた原子質量を使って
いた。イェンス・ベルセリウスの元素記号の表記法にも反対していた。
公的生活と私生活 [編集]ジョン・ドルトン(出典: Arthur
Shuster & Arthur E. Shipley: Britain's Heritage of Science.
London, 1917)原子説を提唱する以前から科学界では有名だっ
た。1804 年、ロンドンの王立研究所で自然哲学の講師を務め、
1809 年から 1810 年にも講師を務めている。ただしその講義を
聴講した者の言によれば、声が不明瞭で説明も要領を得ず、講
師としてはあまり優秀ではなかったという。1810 年、ハンフリ
ー・デービーが王立協会フェローにドルトンを推薦したが、ド
ルトンは恐らく経済的事情からこれを辞退している。しかし、
1822 年に本人の知らないうちに王立協会フェローに選出された。
1826 年ロイヤル・メダルを受賞。1818 年にはフランスの科学アカデミーの通信会員に
選ばれ、1830 年には亡くなったデービーの代わりに同アカデミーの外国人会員に選ば
れた。1833 年、首相のチャールズ・グレイはドルトンに 150 ポンドの年金を授与し、
1836 年には 300 ポンドに増額した。ドルトンは 1 度も結婚せず、友人も尐なかった。
25 年以上に渡って友人の W. Johns (1771–1845) とマンチェスターで同居していた。
年に一度湖水地方に旅行に出かけるときと時折ロンドンに出かけるとき以外はマンチ
ェスターで研究に明け暮れた。1822 年にパリを訪れ、同時代の科学者らと会っている。
60
死とその後 [編集]
Chantrey 作のドルトンの胸像
1837 年に脳梗塞を患い、1838 年の 2 度目の脳梗塞で言語障
害となったが、実験を続けた。1844 年 5 月、3 度目の脳梗塞
を発症し、同年 7 月 26 日に最後の気象観測記録を震える手
で日記に記した。7 月 27 日、マンチェスターの自室でベッド
から落ちて亡くなっているのを同居人が発見した。マンチェ
スターの墓地に埋葬されたが、その墓地は今では運動場にな
っており、もともとの墓は出版物に写真で残っているだけで
ある。Chantrey がドルトンの胸像を作り、それが Royal
Manchester Institution の玄関ホールに置かれた。Chantrey
はドルトンの全身像も作り、
現在はマンチェスターの市庁舎に
ある。統一原子質量単位は非公式にドルトン (Da) とも呼ばれ
ている。月にはドルトンの名を冠したクレーター (en) がある。
マンチェスターにはジョン・ドルトン通りがある。マンチェス
ター・メトロポリタン大学の工学部にはドルトンの名を冠した
建物があり、その前にドルトンの彫像がある(1855 年、William
Theed 作)。マンチェスター大学にもドルトンの名を冠したホ
ールがあり、ドルトンの名を冠した化学と数学の奨学金がある。
Manchester Literary and Philosophical Society はこれまで
に 12 回、ドルトン・メダルを授与したことがある。クェーカ
ー教徒の学校でもドルトンの名を冠している講堂がいくつも
存在する。1940 年 12 月 24 日、Manchester Literary and
Philosophical Society の建物が爆撃を受け、ドルトンに関
ドルトンの carte de
する資料の大部分が失われた。残った資料はマンチェスターの
visite(1840 年ごろ)
John Rylands Library が所蔵している。
マンチェスターの市庁舎にあるドルトンの像
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アレッサンドロ・ボルタ
アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・
ヴ ォ ル タ 伯 爵 ( Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio
Anastasio Volta、1745 年 2 月 18 日 - 1827 年 3 月 5 日)は、
イタリアの自然哲学者(物理学者)。電池(ボルタ電池)を
発明した。メタンの発見。
前半生と業績
イタリア北部のコモ出身。1774 年、コモ国
立ギムナジウム(Liceo Ginnasio Statale Scuola Reale di
Como) 物理学教授となる。1775 年、電気盆(静電気をため
ボルタの電堆
る器具)を改良し、広く紹介した。その印象が非常に強か
ったため、電気盆自体は 1762 年にスウェーデン人教授ヨハ
ン・ヴィルケが発明したにも関わらず、一般にはボルタが
発明者と誤って紹介されることが多い。1776 年から 1777
年にかけ、沼に発生する発火性のガス(現在のメタン)が
水素とは異なる物質であることを発見。密閉容器にメタン
を入れ、電気火花で燃焼させる実験を行った。また、今日
では静電容量と呼ばれているものを研究して電位(V)と電
荷(Q)を分けて研究する手段を確立し、それらが比例することを発見した。この業績か
ら、後に電位差の単位がボルトと名付けられることになった。1779 年、パヴィア大学
で実験物理学の教授となり、この職を 25 年務めた。1794 年、テレーザ・ペレグリーニ
と結婚し、3 人の息子をもうけた。
ボルタとガルヴァーニ 1791 年ごろから、ボルタはルイージ・ガルヴァーニが「動物
電気」と名付けた現象を研究しはじめた。それは、2 種類の金属をカエルの脚に接触さ
せると、その筋肉がけいれんするという現象である。ボルタは、カエルの脚が電気伝導
体(いわゆる電解質)であり、同時に検電器として機能していると考えた。彼はカエル
の脚の代わりに食塩水に浸した紙を使い、それを 2 種類の金属で挟むことで電気の流れ
が生じることを確かめた。こうして彼は電気化学列を発見し、電解質を挟んだ 2 種類の
金属電極で構成されるガルヴァーニ電池の起電力は、2 つの電極間の電極電位の差だと
いう法則を見出した(そのため、同じ金属では電位が等しいため、起電力が生じない)。
これをボルタの法則とも呼ぶ。1800 年、動物電気をカエルの筋肉自体に蓄えられてい
たものだというガルヴァーニの説への反証として、ボルタは一定の電流を作り出す初期
の電池であるボルタの電堆 (voltaic pile) を発明した。ボルタは最も発電効率のよい
金属電極の組み合わせを亜鉛と銀だとした。当初、塩水を入れたワインゴブレットに 2
種類の金属電極を入れて 1 つの電池とし、それらを直列につないで実験していた。ボル
タの電堆はゴブレットの代わりに塩水を染み込ませた紙を使ったものである。
62
世界初の電池電堆の発表に際して、ボルタはウィリアム・ニコルソン、ティベリウス・
カバルロ、エイブラハム・ベネットの影響に敬意を表した。ボルタのもう 1 つ発明とし
て、拳銃の遠隔操作がある。彼はライデン瓶に蓄えた電気をコモからミラノまでの約
50km の距離で送り、ピストルを発射させた。導線で電流を送るために、木の板を使っ
て地面から絶縁した。この発明は電信の考え方と同じであり、電気を使った通信のさき
がけとなった。ボルタが作った電池は世界初の化学電池とされている。亜鉛と銅の 2 種
類の電極を使っていた。電解液には硫酸または塩化ナトリウムと水を混ぜた食塩水を使
った。電解質は 2H+ と SO42- という形で存在している。亜鉛は電気化学列上で銅や水
素よりも高い順位にあるため、負の電荷を持つ硫酸塩 (SO42-) と反応する。正の電荷を
持つ水素イオン(陽子)は銅から電子をもらい、水素ガス H2 を発生する。このように
して亜鉛の電極が負、銅の電極が正となる。2 つの電極をつなげると、電流が流れる。
このとき、次のような化学反応が起きる。
亜鉛
Zn → Zn2+ + 2e-
硫酸
2H+ + 2e-→ H2
銅は反応せず、単に回路を形成する電極として作用する。この電池には欠点もある。た
とえ薄くても硫酸は危険であり、扱いにくい。また、水素ガスが完全には放出されず、
亜鉛電極の表面に蓄積して電極と電解液の間の障壁を形成するため、電池の発生する電
力は徐々に小さくなっていく。同じ原理の電池は例えばレモンに 2 種類の電極を刺すこ
とでも実現でき、学校の理科の実験などでよく使われている。
晩年と死後ボルタはベンジャミン・フランクリンとナポレオン・ボナパルトの崇拝者
であり、ナポレオンがオーストリア皇帝を名乗っていた 1810 年から 1815 年、ナポレオ
ンはボルタに敬意を表し、パドヴァ(パドア) (Padova) 哲学教授の称号を贈った。1810
年には伯爵に变されている。1819 年にコモ近辺のカムナーゴ(現在のカムナーゴ・ヴ
ォルタ。分離集落)に隠棲し、1827 年に同地で死去し、同地に埋葬された。1881 年、
ボルタを記念し、電圧の基本単位の名はボルトとすることが決まった。
彼の肖像は、ユーロ導入前のイタリアの 10,000 リラ紙幣に、ボルタ電池と共に描か
れていた。
電気・電流の歴史:コハクをこすると物体を引きつける(古代ギリシャ)、ギルバート
(1540-1603)命名[誘電体
エレクトリックス、電気を帯びる、電荷]、フランクリン
(1706-1790)[一種の電気流体のみ、正負の電荷]、ボルタの発表6週間のちに、逆反応
の例をニコルソン(1753-1815)、カーライル(1786-1840)が発表[水の電気分解による
水素と酸素の発生]
63
クロード・ルイ・ベルトレー
(Claude Louis Berthollet、1748 年 12 月 9 日 1822 年 11 月 6 日)は、サヴォイア公国およびフ
ランスの化学者である。1804 年、フランス元老
院の副議長となった。ラヴォアジェの弟子。ゲ
ーリュサックは弟子。化学物質命名法。
生涯クロード・ルイ・ベルトレーは、1748 年に
当時サヴォイア公国の領土だったアヌシー近郊
にあるタロワールで生まれた。
ベルトレーはアントワーヌ・ラヴォアジエや
その他の化学者と共に、化学物質の命名法や名
前の体系を決めた。それらは現代の化合物の名
称の体系の基礎となっている。さらにベルトレーは染料や漂白剤の研究を行い(塩素を
漂白に使うなど)、そしてアンモニアの組成を決定した。逆反応、延いては化学平衡の
特性を認識した初期の化学者の一人である。強力な酸化剤である塩素酸カリウム
(KClO3)は、ベルトレーの塩として知られている。
フランスの化学者ジョゼフ・プルーストと定比例の法則の妥当性について長く論争し
たことで知られている。プルーストは化合物を構成する元素の割合はその製法に関わら
ず一定だとし、ベルトレーは初期状態の反応物質の比率によって変化するとした。プル
ーストは正確な測定によって自説が正しいことを証明したが、化学界の権威だったベル
トレーがいたため定比例の法則はすぐには受け入れられなかった。それが受け入れられ
たのは 1811 年にイェンス・ベルセリウスが認めてからである。しかし、後にベルトレ
ーが全く間違っていたわけではないことも判明している。すなわち、定比例の法則に従
わない化合物も実在することがわかった。そういった不定比化合物は、彼をたたえて「ベ
ルトライド化合物」(berthollides) と名づけられた。
1794 年に理工科大学の教授になった。ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征には
科学者チームの一員として随行し、Institut d'Égypte の物理学・博物学部門の一員と
なった。1801 年、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。1822 年、
フランスのアルクイユで死去
ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征:ロゼッタストーン解読(L. & R. Atkins、
)
新潮社)、シャンポリオン(ヒエログラフを解読した言語学者) vs.
グ(弾性体のヤング率で著名)
)
64
トーマス・ヤン
ジョゼフ・プルースト
(Joseph Louis Proust,1754 年 9 月 26 日- 1826 年 7 月 5
日)はフランスの化学者である。定比例の法則を唱え、ベ
ルトレーとの論争を通じて化合物が、元素の整数比の組合
わせでできているという概念を広めたことで知られる。
プルーストはアンジェに生れ、父親の薬局で化学を学ん
だ。ジャック・シャルルと親しく、1783 年頃気球による飛
行の研究を行った。その後スペインのセゴビアの砲兵学校
の化学の教授になり、1789 年からスペイン王、カルロス 4 世のマドリッドの化学研究
所の所長になった。1792 年にはプルーストが設計したスペイン最初の気球がカルロス 4
世の前で飛行した。1806 年フランスに戻った。1808 年、カルロス 4 世が退位し、ジョ
ゼフ・ボナパルトがスペイン王になると保護者を失った。1816 年に科学アカデミーの
会員になった。
プルーストの業績は 1794 年にブドウ糖など糖類の研究で業績をあげた。この頃から
ベルトレーと、化合物中の成分元素の量の比が一定かどうかの論争と金属の酸化物に関
する実験を行い 1799 年に定比例の法則が確立されたとされる。
65
ジャック・シャルル
ジャック・アレクサンドル・セザール・シャルル (Jacques
Alexandre César Charles, 1746 年 11 月 12 日 - 1823 年 4
月 7 日)はフランスの発明家、物理学者、数学者、気球乗り。
1783 年 8 月、ロベール兄弟 と共に世界で初めて水素を詰め
た(有人)気球での飛行に成功。同年 12 月には有人気球で
高度約 1,800 フィート(550 メートル)まで昇った。モンゴ
ルフィエ兄弟の熱気球に対して、シャルルのガス気球は
Charlière と呼ばれた。シャルルの法則は気体を熱したときの膨張の仕方を示したもの
で、ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックが 1802 年に定式化したが、ゲイ=リュサック
は公表されていないジャック・シャルルの業績を参照してシャルルの法則と名付けた。
1793 年、科学アカデミー会員に選ばれ、間もなくフランス国立工芸院の物理学教授と
なった。
世界初の水素気球約 100 年前の 1662 年にロバ
ート・ボイルが発表した「ボイルの法則」や同
時代のヘンリー・キャヴェンディッシュやジ
ョゼフ・ブラックらの業績を学んだシャルルは、
水素が気球を持ち上げるのに適していると考
えた。彼は乗り物を設計し、ロベール兄弟に製
作を依頼。彼らはパリのヴィクトワール広場
ゴネスの村人たちが気球を恐れ、ジ
にあった工房で気球を作り始めた。軽くてガ
ャック・シャルルとロベール兄弟が
スが漏れない気球を作るため、彼らはゴムを
作った気球を襲撃する様子
テレピン油に溶かし、絹のシートにそれを塗
ったものを縫いあわせるという製法を考案した。もともとの絹布は赤と白だったが、ゴ
ムを塗ったことで赤と黄色になった。1783 年 8 月 27 日、シャルルとロベール兄弟はシ
ャン・ド・マルス公園(現在はエッフェル塔が建っている)で世界初の水素入り気球の
飛行試験を行った。観衆の中には当時 77 歳のベンジャミン・フランクリンもいた。こ
のときの気球は径が約 4m で体積 33m3 と小さく、9kg 程度の荷重しか持ち上げられなか
った。気球に詰める水素は、0.25 トンの硫酸を 0.5 トンの鉄くずに注いで発生させた。
そうして発生した水素を鉛の管を通して気球に詰めた。しかし、水素を一旦水に通して
冷やすという工程を省いたため、熱い水素が気球に入れられてから冷却されて収縮した
ため、気球を膨らませるのに苦労した。気球が膨らんでいく様子は毎日告知され、26
日には大勢の観衆がヴィクトワール広場に集まっていた。このためシャン・ド・マルス
公園への運搬は深夜に行われた。気球は北方に漂っていき、馬に乗った人々がそれを追
66
跡した。すると 45 分後に 21km 離れたゴネスに着陸した。ゴネスの村人は落ちてきた気
球を恐れ、熊手やナイフでそれを引き裂いてしまった。なお、このプロジェクトの資金
は Barthelemy Faujas de Saint-Fond が寄付を募って集めた。
世界初の有人水素気球飛行 1783 年 12 月 1 日 13 時
45 分、シャルルとロベール兄弟はパリのテュイル
リー宮殿で新たな有人気球の初飛行を行った。モン
ゴルフィエ兄弟の熱気球での有人飛行の成功の 10
日ほど後である。380m3 の水素気球で、シャルルと
ニコラ=ルイ・ロベールが搭乗した。気嚢には水素
放出用バルブがあり、それに網が被せられていて、
その網で人間が乗り込むバスケットを吊るす構造
である。高度を調整するバラストとして砂を詰めた
袋を使った。
高度約 1,800 フィート
(550 メートル)
まで上昇し、日没ごろにネル=ラ=ヴァレに着陸
ジャック・シャルルとニコラ=
するまでの 2 時間 5 分で 36km を飛行した。ルイ・
ルイ・ロベールの 1783 年 12 月
フィリップ 2 世が率いた一団が馬で気球を追いか
1 日の初飛行の様子を描いた同
け、シャルルとロベールが気球から降りる際には、 時代のイラスト。コンコルド広
気球が再び浮かないよう押さえつけたという。シ
場からテュイルリー宮殿(1871
ャルルはその場で気球で再び飛行することを決め
年破壊)を見たもの
たが、水素ガスを一部失っていたため単独で乗り
込むことにした。すると気球は急上昇して約 3,000 メートルの高度に達し、没したはず
の太陽が再び見えたという。耳が痛くなってきたため、シャルルはバルブを操作して水
素ガスを放出し、約 3km 離れたトゥール・デュ・レイに静かに着陸した。それ以降シャ
ルルが気球に乗ることはなかったが、水素ガス気球はシャルルの栄誉を称えて
Charlière と呼ばれるようになった。この初飛行を見た観衆は 40 万人に達したと言わ
れている。プロジェクト資金集めの募金に応じた数百人は特等席で離陸を見物した。そ
の特等席にはアメリカ合衆国大使だったベンジャミン・フランクリンもいた。また、シ
ャルルは尊敬するジョセフ・モンゴルフィエを招待し、上空の風を調べるための小さな
気球をモンゴルフィエに放ってもらった。
その後
ムーニエの飛行船:シャルルとロベール兄
弟の次のプロジェクトは、ジャン=バティスト・ム
ーニエが提案したやや長い気球に操縦機構をつけ
た飛行船の原形に基づいたものだった。設計はムー
ニエの考案した空気房を採用し、一種の推進機構と
67
舵を備えていた。シャルル自身はこれには搭乗しなかった。1784 年 7 月 15 日、ロベー
ル兄弟が M. Collin-Hullin とルイ・フィリップ 2 世を同乗させ、サン=クルーからム
ードンまで 45 分間の飛行を行った。しかし、推進機構と舵は役に立たず、ガス放出用
バルブを備えていなかったため、高度約 4500 メートルに達したころ気球が破裂しそう
になり、ルイ・フィリップ 2 世が気嚢を切り裂いてガスを放出させた。1784 年 9 月 19
日、ロベール兄弟と M. Collin-Hullin は 6 時間 40 分の飛行を行い、パリからベテュ
ーヌ近郊のバーヴリーまでの 186km の飛行に成功した。これが航続距離 100km を越えた
最初の飛行である。水素気球は熱気球に比べて効率的だったため、間もなく取って代わ
った。1785 年 6 月 15 日にピラトール・ド・ロジェが熱気球と水素気球の複合気球によ
るドーバー海峡横断に挑んだが引火爆発による事故で死亡、史上初の航空事故となった
(もちろん、当時複合気球での火気の使用は危険だとシャルルは警告したが、ロジェは
無視した)。現在では、水素気球は水素の引火爆発の危険性から製造はほとんど行われ
ておらず、引火爆発の危険性の無いヘリウム気球に取って代わられている。
発明





シャルルは次のような発明をしている。
気球からガスを放出するバルブ
液体比重計(浮秤)
反射式角度計
ウィレム・スフラーフェサンデのヘリオスタットの改良
ガブリエル・ファーレンハイトの気量計の改良
また、シャルルはベンジャミン・フランクリンの電気についての実験を確認している。
シャルルの法則シャルルの法則は、気体を熱したときの膨張の程度を説明したもので、
1802 年にジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックが発表したが、彼はジャック・シャルル
の未公表の成果を参照して法則名にシャルルの名を冠した。1787 年ごろ、シャルルは 5
つの風船にそれぞれ異なる気体を詰める実験を行った。風船の温度を 80℃まで上げて
みたところ、どの風船も同じ大きさまで膨張した。ゲイ=リュサックは 1802 年の論文
でこの実験に言及し、気体における体積と温度の正確な関係を明らかにした。シャルル
の法則は、定圧下では理想気体の体積が絶対温度に比例するというものである。すなわ
ち圧力が一定のとき、気体の体積はその絶対温度に比例して増大する。彼が示した式は、
V1/T1 = V2/T2 である。
私生活サントル地域圏、ロワレ県のボージャンシーに生まれる。自分より 37 歳も若い
Julie Françoise Bouchaud des Hérettes (1784–1817) と結婚。詩人のアルフォンス・
ド・ラマルティーヌが彼女と恋に落ちたといわれている。ラマルティーヌの『瞑想詩集』
(1820) の発想の元になったのは彼女との出会いと死別だという。シャルルは妻より長
生きし、1823 年にパリで死去した。記念碑 ネル=ラ=ヴァレにシャルルとロベールの
1783 年 12 月 1 日の初飛行を記念した石碑がある。
68
ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサ
ック
ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック(Joseph Louis Gay-Lussac、
1778 年 12 月 6 日 - 1850 年 5 月 9 日)は、フランスの化学者 、物
理学者である。ベルトレの弟子。気体の体積と温度の関係を示すシャルルの法則の発見
者の一人である。アルコールと水の混合についても研究し、アルコール度数のことを「ゲ
イ=リュサック度数」と呼ぶ国も多い。なお、フランス語での Joseph Louis Gay-Lussac
の発音を日本語に音写すれば、「ジョゼフ・ルイ・ゲ=リュサック」が原音に最も近い
といえるだろう。
生涯
リモージュ近郊のサン=レオナール=ド=ノブラに生まれた。家庭で教育を受け
ていたが、1794 年に父がロベスピエールの恐怖政治の犠牲となって逮捕されたため、
パリに行ってエコール・ポリテクニーク(国立理工科学校)に入学する準備を開始。1797
年に入学した。3 年後、国立土木学校 (Ecole des Ponts et Chausses) に移り、間も
なく指導教官クロード・ルイ・ベルトレーにつく。1802 年に理工科学校の化学者アン
トワーヌ・フールクロアの助手になり、その後 1809 年に化学の教授になった。1808 年
から 1832 年までソルボンヌ大学で物理学の教授を務めたが、パリ植物園の化学の教授
の職を務めるためにソルボンヌを辞めた。1821 年、スウェーデン王立科学アカデミー
の外国人会員に選ばれた。1831 年、下院のオート=ヴィエンヌ県代表に選ばれ、1839
年には上院議員となった。1809 年、 ジュヌヴィエーヴ=マリ=ジョゼフ・ロジョ
(Geneviève-Marie-Joseph Rojot)と結婚。彼女は服地店の店員だったが、カウンター
で化学の教科書を学んでいたのをゲイ=リュサックが見て、知り合うようになった。5
人の子をもうけた。長男ジュール(Jules)はギーセンのユストゥス・フォン・リービ
ッヒの助手となった。ジュールにもいくつか著書があり、ファーストネームのイニシャ
ルが父と同じであるため (J. Gay-Lussac)、時々混同され
ることがある。パリで亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地
に埋葬された。子孫の一部はブラジルやカナダにも住んで
いる。
業績
熱気球に乗るゲイ=リュサックとビオ
69

1802 年、気体の体積が温度上昇に比例して膨張するという法則「ゲイ=リュサ
ックの法則」を発表した。ジャック・シャルルがゲイ=リュサックより前に発
見していたことからシャルルの法則と呼ばれることが多い。

1804 年、ジャン=バティスト・ビオとともに熱気球に乗り、6400m の高度まで
上がって地球大気の調査を行った。ゲイ=リュサックの目的は、異なる高度の
大気サンプルを集め、温度と湿度の関係を記録することだった。

1805 年、アレクサンダー・フォン・フンボルトと共同で、大気組成が気圧(高
度)によって変化しないことを発見した。彼らはまた、水が体積比で水素 2 と
酸素 1 でできることを発見した(気体反応の法則)
。

1808 年、気体反応の法則を発表するとともに、ルイ・テナールと共同でホウ素
の単離に成功した。

1810 年、ルイ・テナールと共同で、塩素酸カリウムとの化学反応で発生した CO2
と O2 を測定することによる定量的分析法を開発した。

1811 年、ヨウ素が元素であるとし、その特性を詳述し、iode という名称を提案
した。

1824 年、新型のビュレットを開発した。またインディゴの水溶液を作る方法の
標準化についての論文の中で、ピペット (pipette) および ビュレット
(burette) という用語を世界で初めて使った。

硫酸合成の鉛室法を改良し、1827 年に、鉛室で生成した窒素酸化物を回収する
ため、鉛室の後段に接続するゲイ=リュサック塔を考案した。
なお、パリにはゲイ=リュサックの名を冠した通りがあり、生誕地サン=レオナール=
ド=ノブラにもゲイ=リュサックの名を冠した通りや広場がある
70
アメデオ・アヴォガドロ
アメデオ・アヴォガドロ(il Conte Lorenzo Romano
Amedeo Carlo Avogadro di Quaregna e Cerreto,
1776 年 8 月 9 日 - 1856 年 7 月 9 日)は、イタリ
アのトリノ出身の物理学者、化学者。「分子」、
「アボガドロの法則」でとくにその名が知られて
いる。生涯トリノ近郊を離れることがほとんどな
かった。
来歴
アヴォガドロは大学で法学と哲学を修めた。
学位取得は教会法に関するものであった。大学卒
業後は弁護士となり、法律事務所を開く。ところ
が、1800 年ごろから数学と物理学に興味を覚え、
自然哲学者への道を進む。トリノ科学アカデミー
に送った最初の論文は 1803 年、電気に関するものであった。トリノからもほど近い、
コモ生まれの物理学者アレッサンドロ・ボルタが最初の電池を発明してから 3 年後のこ
とである。1809 年にはトリノから 50km ほど東に位置するヴェルチェッリ大学の物理学
教授となった。アヴォガドロは精力的に研究を進め、早くも 1811 年にアボガドロの法
則を発表する。論文の題名は『物質の基本粒子の相対的質量とこれらの化合比率を決定
する一つの方法』である。しかし反響は尐なかった。
トリノを含むピエモンテ地方とサルデーニャ島などを領土としていたサルデーニャ
王国の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ 1 世は、1820 年にイタリア初の数理物理学
教室をトリノ大学に設立する。初代教授はアヴォガドロであった。トリノ大学では電気、
毛管現象、比熱などの研究を進めた。しかし王の退位直後、1822 年、アヴォガドロの
与り知らぬ政争のため、教室は閉鎖されてしまう。しかたなく、弁護士事務所を開き、
最初の仕事に戻った。1834 年に数理物理学教室が再開されると再び教授となり、1850
年まで留まった。研究内容は、気象学、計測学、統計学などであった。
アボガドロの法則「同温同圧のもとでは、すべての気体は同じ体積中に同数の分子を含
む」というのがアボガドロの法則の基本的な内容である。1811 年当時、物質が原子か
ら構成されると为張する原子説はほとんどの化学者に共通の認識となっていた。1803
年にイギリスのドルトンが原子量を初めて公開しており、近代的原子論が確立された直
後であった。ドルトンは一種類の元素からなる気体は原子から構成されると信じていた。
ドルトンの为張はさまざまな実験事実を説明できたが、説明できない現象が残っていた。
気体同士の反応である。例えば水素 2 容積と酸素 1 容積を化合させると必ず水蒸気 2 容
71
積となる(反応前後の温度が等しい場合)。ドルトンの为張に従って、この反応を現代
風に記述すると、以下のようになる。
一単位の水素原子と一単位の酸素原子が結合する
と、一単位の水蒸気となる。これは 2 対 1 対 2 とい
う実験結果と合致しない。アヴォガドロの为張は二
つの部分からなる。まず、同単位の気体は同じ体積
を占めること、次に、気体は原子ではなく、同種の
原子が 2 つ結合した分子からなるというものであ
る。以上から、反応式は以下のように変化する(図
アヴォ ガドロ による 水素
と酸素の反応モデル
参照)。
分子に付いている係数は、2 対 1 対 2 であり、実験結果を直接説明できた。
アヴォガドロの最初の仮説(同単位の気体は…)は 1811 年以前にドルトンも採用する
など、画期的とは言えなかった。しかし、2 番目の分子仮説と結びつけることで真価を
発揮した。アボガドロの法則は、例えば学校教育などで化学を初めて教授する際、初年
度に必ずと言っていいほど扱う重要な基本法則である。しかし、アボガドロの法則は一
見、古い仮説を組み合わせただけのように見えることもあり、発表後も重要性が理解さ
れなかった(法曹界の出身故に論文の文章が難解だった事も一因と言われている)。ア
ヴォガドロの死の直後に著わされた 1858 年のスタニズラオ・カニッツァーロの論文「ジ
ェノバ大学における化学理論講義概要」、さらに 1860 年に開催された原子量と分子量
の基準がテーマとなっていたカールスルーエ国際化学者会議でのカニッツァーロの発
表を受けて、初めて再評価された。
アヴォガドロの着想は唯一無二でさえない。例えば、電流の単位として名が残るフラ
ンスの物理学者アンドレ=マリ・アンペールはアヴォガドロとは独立に 1813 年、同様
の法則を考案している(やはり再評価前には注目されていない)。しかし、気体反応の
基本法則を初めて定式化したのは、アヴォガドロである。
(*)0 度、1.013×105Pa(パスカル)で、1mol 6.0221×1023 個の気体分子を集めると、
その種類によらず 22.414 l(リットル)となる
72
イェンス・ベルセリウス
イェンス・ヤコブ・ベルセリウス(Jöns Jacob Berzelius,
1779 年 8 月 20 日 - 1848 年 8 月 7 日)は、スウェーデ
ンの化学者である。アルファベットを使った新しい元
素記号の表記法を提案し、ケイ素、セレン、トリウム、
セリウムを発見した。そして、カルシウム・バリウム・
ストロンチウム・タンタル・ケイ素の分離を行った。
近代化学の父と呼ばれる人々の一人である。弟子にフ
リードリヒ・ヴェーラーがいる。
1802 年にウプサラで医学の学位をとり、カロリンスカ医科大学で薬学と化学の教師
となった。1807 年ストックホルム大学の教授になった。1828 年までにそれまで知られ
ていた 43 の元素の原子量を多くの化合物を研究して求めた。これはジョン・ドルトン
の求めた値よりも飛躍的に精度を高めたものである。元素記号をアルファベットで表す
現在の方法を提案した。
ベルセリウスは元素を電気的に陰性な元素と陽性な元素とに分類して、分子は反対電
荷間の電気的引力により結合をつくるという電気二元論を考えた。また、ハロゲン・同
素体・異性体・有機物などの科学用語を創案した。1808 年にストックホルムの科学ア
カデミーの会員、1818 年にはその長官となり、1835 年には男爵に变せられた。
化学の世界で第一人者となった晩年には、間違った自説(二元論、基が有機化合物の単
位で分解できない)を修正できず、正しい説を提案した研究者を迫害した。
73
ハンフリー・デービー
サー・ハンフリー・デービー(Sir Humphry Davy、1778
年 12 月 17 日 - 1829 年 5 月 29 日)は、イギリスの化
学者で発明家。電気分解により、アルカリ金属(ナト
リウム、カリウム)やアルカリ土類金属(マグネシウ
ム、カルシウム、バリウム)ホウ素を発見し、塩素や
ヨウ素の性質を研究した。ベルセリウスは On Some
Chemical Agencies of Electricity と題したデービ
ーの 1806 年の Bakerian Lecture を「化学の理論を
豊かにした最良の論文のひとつ」としている。この論文は 19 世紀前半の様々な化学親
和力理論の核となった。1815 年、デービー灯を発明し、可燃性の気体が存在しても坑
夫が安全に働けるようになった。マイケル・ファラデー、ウィリアム・トムソンの師
生涯
1778 年 12 月 17 日、コーンウォールのペンザ
ンスに生まれる。教区記録簿によれば、ロバート・
デービーの息子で、1779 年 1 月 22 日に洗礼を受け
たという。父は木彫職人で、利益よりも芸術性を追
求する傾向があった。旧家の出身で、多尐財産があ
った。妻グレースの家系も旧家だが、それほど裕福
ではなかった。グレースの両親は熱病で相次いで亡
くなり、グレースは姉妹と共にペンザンスの外科医
ジョン・トンキンの養子になった。ロバート・デー
故郷ペンザンスにあるデー
ビーとグレースは 5 人の子をもうけた。ハンフリー
ビーの像
は長男で、他に弟ジョンがおり、3 人の妹がいた。
幼いころ一家はペンザンスから近郊にある先祖から
受け継いだ土地に引っ越した。トンキンは幼いデービーの聡明さを見抜き、父親を説得
して私立学校に転校させた。当初ペンザンスのグラマースクールに通っていたが、J. C.
Coryton という聖職者の指導を受けるようになった。デービーは記憶力がよく本から素
早く知識を吸収した。特に好きだった本としてバニヤンの『天路歴程』があり、歴史書
もよく読んだ。8 歳ごろには、市場の荷車の上に立ち、尐年たちを集めて最近読んだ本
の話を聞かせていた。そうして詩を愛するようになった。
同じころデービーは科学実験を好むようになる。これは为にクエーカーで馬具工を営
んでいたロバート・ダンキンの影響である。ダンキンは自分でボルタ電池やライデン瓶
を作り、数学の原理を視覚化する模型を作ったりしていた。それらを使ってダンキンは
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デービーに科学の初歩を教えた。後に王立研究所の教授になったとき、デービーはダン
キンから教わった実験の多くを再現することになる。1793 年、デービーはトルーロー
に行き、Cardew という博士の下で教育を終えた。Cardew は後に「彼がこれほど才能が
あることを見抜けなかった」と述べている。デービー自身は型に嵌められずに放ってお
かれたことが自分にとってはよかったと後に述べている。
年季奉公と詩人
1794 年に父親が亡くなると、トンキンはデービーをペンザンスで病
院を営む外科医ジョン・ビンガム・ボーラスに弟子入り(年季奉公)させた。年季明け
は 1795 年 2 月 10 日となっていた。その病院の薬局でデービーは化学を学び、トンキン
の自宅の屋根裏で化学実験を行った。デービーの友人はよく「あいつは手に負えない。
そのうち俺たちを吹っ飛ばすだろう」と言っていた。また、妹の服に腐食性の化学物質
で大きなシミを作ったことがある。デービーの詩人としての側面は多くの者が言及して
おり、デービーの伝記を書いたジョン・アイルトン・パリスもデービーの詩について簡
単に触れている。
デービーが最初に詩を書いたのは 1795 年のことで、The Sons of Genius
と題したその詩は若さゆえの未熟さが目立つ。その後数年間に多数の詩を生み出した。
中でも On the Mount's Bay と St. Michael's Mount は感受性豊かで楽しげだが、真
の詩的想像力は示されていない。デービーは間もなく科学に専念するため詩作を断念す
る。17 歳のとき、初恋を詩にしていたころ、デービーは熱の物質性という問題をクエ
ーカーの友人と熱心に議論していた。ダンキンはデービーについて「人生で出会った中
で最も議論上手」だと述べたことがある。ある冬の日、デービーはダンキンをペンザン
スを流れる川に誘い、2 つの氷の板をこすりあわせると氷が溶け出すほどのエネルギー
が生まれ、こするのをやめると復氷によって氷の板がくっつくという実験を披露した。
後にデービーは王立研究所でさらに洗練させた形で同じ実験を披露し、注目を浴びた。
初期の科学的関心
王立協会フェローだったデービス・ギルバートは、ボーラス博士の
自宅の門のところで偶然デービーと出会った。若者の話に興味を持ったギルバートは彼
に自分の書斎を使わせることを申し出、自宅に招待した。そこで、聖バーソロミュー病
院の付属医学校で化学講師を務めていたエドワーズ博士と出会う。エドワーズ博士はデ
ービーに実験室の器具の使用を許可し、ヘイルの港の水門の問題を話した。当時、銅や
鉄でできた水門が海水によって急速に腐食することが問題となっていた。当時ガルバニ
ック腐食は知られていなかったが、その話からデービーは後に船体に銅版を葺いた船で
の実験を思いついた。ジェームズ・ワットの息子グレゴリー・ワットは療養のためペン
ザンスを訪れ、デービーの母の家に滞在した。そこでデービーと友人になり、デービー
は彼から化学を学んだ。ウェッジウッド家も冬をペンザンスで過ごす習慣があり、デー
ビーは彼らとも面識があった。トーマス・べドーズとジョン・ヘイルストーンは地質学
上の論争(地球上の岩石は火山によってできたのか、原始地球の海で鉱物が析出して結
晶化したのか)を戦わせていた。2 人はデービス・ギルバートの案内でコーンウォール
75
の海岸の調査旅行にやってきた。その際にデービーとも知り合うことになった。べドー
ズはそのころブリストルに気体研究所を創設したところで、研究所を指揮する助手を探
していた。そこでギルバートがデービーを推薦。デービーの母とボーラスはそれに賛成
したが、トンキンはデービーがペンザンスで外科医として働くことを望んでいた。しか
し、デービー本人がべドーズの研究所で働くことを望んでいることを知ると、それを許
した。
気体研究所 1798 年 10 月 2 日、デービーはブリストルの気
体研究所にやってきた。この研究所は人工的に製造した気
体を医療に応用することを目的としており、デービーは各
種実験の指揮を任された。べドーズとデービーの間に交わ
された取り決めは寛大なもので、デービーは父の残した不
動産の相続権を全て放棄して母に渡すことができた。デー
ビーは医者になることをあきらめたわけではなく、エジン
バラ大学で学ぶことを考えていたが、間もなく研究所の一
ジェームズ・ワット
画でボルタ電池を多数作り始めた。ブリストルではダラム
伯と知り合い、気体研究所で製造した亜酸化窒素(笑気ガス)を定期的に吸引しに来た
グレゴリー・ワット、ジェームズ・ワット、サミュエル・テイラー・コールリッジ、ロ
バート・サウジーとも友人になった。ちなみにデービー本人も笑気ガス中毒になってい
る。このガスを最初に合成したのはイギリスの自然哲学者で化学者のジョゼフ・プリー
ストリーで、1772 年のことである。彼はそれを「フロギストン化窒素ガス」と称して
いた(フロギストン説)。プリーストリーはその発見を著書 Experiments and
Observations on Different Kinds of Air (1775) に記し、鉄のやすり屑を硝酸に浸し
て熱するという製法も記述した。
ジェームズ・ワットはデービーの亜酸化窒素吸入実験のために運搬可能なガス室を製
作した。これにより、ワインによる二日酔いの治療に亜酸化窒素が役立つという結論が
得られた(デービーの実験記録に「成功」と記されている)。笑気ガスはデービーの周
辺の人々や友人には人気があり、デービー本人もそのガスに痛覚を取り除く能力がある
ことに気づいていたにも関わらず、デービー本人はそれを麻酔剤として使うということ
に思い至らなかったようである。笑気ガスの麻酔剤としての使用はデービーの死後数十
年経って、医療や歯科治療で一般化することになった。デービーは研究所の仕事に熱心
に取り組み、周辺の観光案内をしてくれたべドーズ夫人と長い不倫関係を結んだ。1799
年 12 月、初めてロンドンを訪れ、そこでさらに友人を作っている。様々なガス実験で
デービーはかなりの危険を冒している。一酸化窒素の吸引実験では、口中で硝酸 (HNO3)
が発生したと見られ、口の粘膜を激しく損傷する結果となった。一酸化炭素の吸引実験
では、死線をさまようことになった。外気を取り入れてやっと生気を取り戻し「私は死
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なない」と言ったデービーだが、回復するまで数時間を要した。デービーは実験室から
庭によろめき出て、自分の脈を取ってみた。実験記録には「糸のようで (threadlike)、
脈が極めて速くなる」と記している。その年、デービーは West-Country Collections の
第 1 巻を刊行した。その半分はデービーの論文 On Heat, Light, and the Combinations
of Light、On Phos-oxygen and its Combinations、Theory of Respiration である。
1799 年 2 月 22 日、デービーはデービス・ギルバートへの手紙にカロリック説が間違っ
ていると確信していると記していた。4 月 10 日のデービス・ギルバートへの手紙では、
昨日繰り返し実験することの重要性を証明する発見をしたと記している。それは純粋な
笑気ガスを製造する方法を確立したという発見だった。彼はさらに 7 分近く笑気ガスを
吸引し続けても全く問題なかったと記している。同年デービーは Researches,
Chemical and Philosophical, chiefly concerning Nitrous Oxide and its Respiration
を発表した。後年、デービーはそれらの未熟な仮説を出版したことを後悔している。デ
ービーは気体研究所で電気を使った実験も行って成功したと、デービス・ギルバートへ
の手紙に書いている。
王立研究所 1799 年、ベンジャミン・トンプソンはロンドンでの「知識普及のための研
究所」の創設を提案した。科学を知らない一般人向け(貴族向け)に公開実験を行い、
科学の普及に貢献することを目的としている。それが王立研究所である。1799 年 4 月
に建物を購入。トンプソンが所長となり、最初の講演者はガーネット博士だった。
デービーの Researches は斬新な内容で化学に関する発見で溢れていたため、自然哲学
者らの関心をひきつけ、デービー自身が一躍注目されるようになった。デービーの動向
を長い間気にしていたジョゼフ・バンクスは 1801 年 2 月、デービーを公式に呼び寄せ、
ベンジャミン・トンプソンやヘンリー・キャヴェンディッシュと共に面接した。デービ
ーは 1801 年 3 月 8 日のギルバート宛ての手紙で、バンクスやトンプソンからロンドン
の王立研究所での仕事と電気の研究への資金提供の申し出があったことを記している。
また、その手紙の中で、べドーズの気体研究所での仕事は続けられないだろうと記して
いる。1801 年、デービーは王立研究所で化学講演助手兼実験为任となり、同研究所の
発行する雑誌の編集助手も務め、研究所内に部屋を与えられ、燃料と給料を支給される
ことになった。
1801 年 4 月 25 日、デービーは比較的新しい分野である動電気学(静電気の対義語。
電流が流れる電気を扱う)の講演を行い、天職の 1 つに出会った。彼は友人のコールリ
ッジと人間の知識の本質や進歩などといった話題でよく会話を交わし、講演では科学的
発見によって文明が進歩していくというビジョンを観客に提示した。講演では単に受動
的に観察し考察する学者というよりも、自身の実験器具を自在に操って能動的に周囲を
支配した。最初の講演は絶賛され、6 月の講演では最終的に 500 人近い観客が集まった
という。デービーは講演に華々しい、時には危険ですらある実験を組み込み、天地創造
77
の引用を散りばめつつ、本物の科学的情報も織り込んで解説した。講演者として人気を
博しただけでなく、ハンサムなデービーは女性からの人気も高かった。Gillray の風刺
画で描かれた観客のほぼ半数は女
性である。動電気学の一連の講演
が終了すると、デービーは農芸化
学の一連の講演を開始し、さらに
人気を博した。1802 年 7 月、王立
研究所で 1 年あまりが経過したこ
ろ講演助手から正講演者に昇格し
た。23 歳のことである。ガーネッ
ト博士は健康上の問題を理由に静
かに引退した。1803 年 11 月、デー
ビーは王立協会フェローに選ばれ
た。18010 年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。
James Gillray による風刺画。王立研究所でガーネット博士が行った講演の様子。ふ
いごを持っているのがデービー、右端にいるのがベンジャミン・トンプソン。ガーネ
ット博士は被験者の鼻をつまんでいる。
新元素発見
1806 年、「結合の電気化学的仮説」を発表。
デービーはボルタ電池を使った電気分解の
先駆者であり、よくある化合物を分解して
様々な新元素を発見した。彼は溶融塩の電
気分解によって非常に反応性の高いアルカ
リ金属であるナトリウムやカリウムといっ
油に浸した金
金属マグネシ
た新たな金属を発見。カリウムは 1807 年、
属ナトリウム
ウムの結晶
水酸化カリウム (KOH) の電気分解で発見している。18 世
紀になるまで、ナトリウムとカリウムは区別されていなか
った。カリウムは電気分解で単離された最初の金属である。
ナトリウムは、溶融した水酸化ナトリウムを電気分解する
ことで同年デービーが単離した。1808 年には石灰と酸化
水銀の混合物を電気分解することでカルシウムを発見し
た。これは、ベルセリウスらが石灰と水銀の混合物の電気
分解からカルシウムのアマルガムを得たと聞き、自分でも
試してみた結果である。その後も電気分解実験を続け、マ
グネシウム、ホウ素、バリウムを発見した。
6 つの元素を発見した化学者は、デービーただ一人である。
78
ボルタ電池
塩素の発見
塩素は 1774 年、スウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレ
が発見したが、"dephlogisticated marine acid"(フロギストン説参照)と名付け、酸
素を含んだ化合物だと誤解していた。シェーレは、二酸化マンガン (MnO2) と塩化水素
(HCl) から塩素を作った。
4 HCl + MnO2 → MnCl2 + 2 H2O + Cl2
シェーレは塩素ガスの特性をいくつか観察しており、リトマスを脱色する効果があるこ
と、昆虫を殺す効果があること、色が黄緑色であること、王水とよく似た臭いがするこ
となどを記している。しかし、シェーレはその発見を公表することができなかった。1810
年、塩素を現在の名称である "chlorine" と名付けたのはデービーで、彼はそれが化合
物ではなく元素だと为張した。彼はまた、塩酸(塩化水素水溶液)を電気分解しても酸
素が得られないことを示した。この発見により、酸は酸素の化合物だとするラヴォアジ
エの定義を覆した。
有名人になる
デービーは講演者として多くの観客を集め、名声を謳歌した。笑気ガス
(亜酸化窒素)などの気体の生理作用の実験でもよく知られ、笑気ガスがアルコールに
優ると述べているが、そのことも問題とはされなかった。
後にデービーは三塩化窒素の実験中の事故で視力を損なった。この化合物を最初に作
ったのはピエール・ルイ・デュロンで 1812 年のことだが、彼も 2 度の爆発で指を 2 本
失い、目を損傷している。この事故のためデービーは助手としてマイケル・ファラデー
を雇うことになった。
ヨーロッパ旅行
1812 年、ナイトに变せられ、王立研究所
での最後の講演を行った後、裕福な未亡人と結婚した。1813
年 10 月、フランスを始めとするヨーロッパ大陸に『新婚旅行』
へ旅立つ。この際に実験助手としてファラデーを伴っている
(夫人の使用人が当時敵対していたフランスに同行すること
を拒んだため、彼女はファラデーを使用人として扱ったとされ
る)。この旅行はまた、ナポレオン・ボナパルトがデービーに
鉱石に埋まったダ
贈ったメダルを受け取るための旅でもあった。パリではゲイ=
イヤモンドの結晶
リュサックに依頼され、ベルナール・クールトアが分離した奇
妙な物質の調査を行った。それは現在ヨウ素と呼ばれている元素で、デービーはそれが
元素に違いないと述べている。
一行は 1813 年 12 月にパリを発ち、イタリアへ向かった。
フィレンツェに滞在すると、ファラデーを助手として一連の公開実験を行った。このと
き太陽光線を集めてダイヤモンドを発火させる実験を成功させ、ダイヤモンドが純粋な
炭素で構成されていることを証明した。次にローマへ行き、さらにナポリとヴェスヴィ
オ山を訪れている。1814 年 6 月、ミラノでアレッサンドロ・ボルタと会い、さらにジ
ュネーヴへ向かった。ミュンヘンとインスブルックを経由してイタリアに戻った。その
79
後ギリシャとコンスタンティノープルに向かう予定だったが、ナポレオンがエルバ島を
脱出し情勢が不穏になってきたため、イングランドに帰国した。なお、夫妻に子供はで
きなかった。
デービー灯
1815 年にイングランドに戻ると、デービーは
炭鉱で使うランプの実験を始めた。当時、炭鉱で坑夫が使
うランプの火が充満したメタンに引火して爆発する事故
が頻発していた。特に 1812 年、ニューカッスル近郊で大
きな事故があり、地下での明かりの改良が急務となってい
た。デービーはランプの火を鉄製の細かい網で覆うことで、
ランプ内で燃えているメタンが外に出て行くのを防止す
ることを思いついた。これがデービー灯である。安全灯の
アイデアは William Reid Clanny や当時無名だったジョ
ージ・スチーブンソンも提案済みだったが、金網で炎が広
がるのを防ぐというデービーのアイデアはその後の設計でよく使われるようになった。
スチーブンソンのランプは北東の炭鉱地帯ではよく使われた。炎が外に広がるのを防ぐ
という考え方は同じだが、その手段がデービーとは異なる。しかし、目の細かい金網を
使ったランプは従来よりも暗く、坑道内の湿気の多い環境では金網が錆びやすく务化し
やすかった。そのため、かえって爆発事故による死者数が増加したという。デービーが
デービー灯の原理を発見する際にスミソン・テナントの成果を参考にしたのではないか
という議論もあるが、一般に両者はそれぞれ独自にその原理に到達したとされている。
デービーは特許を取得せず、その発明によって 1816 年にランフォード・メダルを受賞
している。
酸と塩基
1815 年、デービーは酸を置換可能な水素(金属と反応したとき金属元素と
部分的または完全に置換される水素)を含む物質と定義した。酸と金属を反応させると
塩が生じる。塩基は酸と反応して塩と水を生成する物質とされた。これらの定義は 19
世紀の化学ではほぼうまく機能した。
晩年と死
デービー灯発明の功績が認められ、1819 年 1 月、デービーは当時のイギリ
スの科学者(平民)としては最高の栄誉である準男爵を授爵。翌 1820 年には王立協会
会長に就任。デービーの実験助手マイケル・ファラデーはデービーの成果をさらに発展
させ、当代一の科学者となり、デービー最大の発見はファラデーを見出したことだと言
われるまでになっていた。しかし、これを快く思わなかったデービーは、ウィリアム・
ウラストン自身が否定しているにもかかわらず、ファラデーが「ウラストンの研究を盗
んだ」と非難したりもした。そのため、ファラデーはデービーが亡くなるまで古典電磁
気学の全ての研究を一時期やめざるを得なかった。1823 年頃、ファラデーが王立協会
80
の会員になることを猛烈に反対したが、ファラデーは 1824 年には会員となっている。
快活で多尐過敏な気質だったデービーは、あらゆる仕事に独特の熱意とエネルギーを
示した。彼の詩や散文が示すように、デービーの精神は非常に想像力豊かだった。詩人
サミュエル・テイラー・コールリッジはデービーを「化学者になっていなかったら、詩
人として成功していただろう」と述べ、同じく詩人ロバート・サウジーも「彼は本質的
に詩人だ」と述べている。言葉を操る才能と説明の才能に恵まれたデービーは、講演者
として大成功を収めた。コールリッジは「暗喩のストックを仕入れるため」にデービー
の講演を聞きに行ったという。名声を得ることを人生最大の目的としたデービーは、些
細な嫉妬で問題を起こしたりもした。エチケットには無頓着で常に率直だったため、普
通なら避けられる問題に直面することもあった。生涯釣り(サケマス類のフライフィッ
シング)に親しみ、化学に関する書物以外に、釣りに関する本も執筆した。1826 年、
健康上の理由により王立協会会長職を退いた(数年前より脳卒中の発作があった)。1829
年、療養のため訪れていたスイスで父方から受け継いだ心臓病により死去。最後の数カ
月は有名な "Consolations In Travel" を書いて過ごした。それには、詩の自由な批評、
科学や哲学についてのエッセイが含まれている。デービーはジュネーヴの墓地に埋葬さ
れた。デービーの研究は、ファラデーによって引き継がれた。
栄誉と後世への影響

]月のクレーター Davy はハンフリー・デービーに因んでいる。
故郷のペンザンスにはデービーの像がある。その側にある記念銘板には、そこ
が生誕地だと記されている。

ペンザンスには、Humphry Davy School がある。また、ハンフリー・デービー
の名を冠したパブもある。

デービーは最初のクレリヒュー(人物四行詩)の为題にされた。

デービーはロンドン動物学会の創設メンバーである。

王立協会は 1877 年、
「化学の何らかの重要な新発見に対して」贈るデービーメ
ダルを創設した。
81
ピエール・ルイ・デュロン、アレクシス・
プティ
ピエール・ルイ・デュロン(Pierre Louis Dulong 、
1785 年 2 月 12 日 - 1838 年 7 月 19 日)はフラン
スの化学者、物理学者である。比熱に関するデュ
ロン=プティの法則で知られる。ルーアンに生ま
れた。エコール・ポリテクニークで学んだ。始め、
薬学を学んだが、ルイ・テナールのもとで、一般
化学に転じた。1820 年から 1829 年の間、アレク
シス・プティの後を継いで、物理学の教授となった。
その後研究为任(directeur des etudes)を務めた。
化学の分野では、化合物の複分解、亜硝酸、リン
の酸化物、窒素の酸化物、金属の触媒作用などの
研究に功績があった。1812 年、三塩化窒素が自己反応熱によって爆発がおこることを
自らの 2 本の指と片目を失うことによって発見した。物理化学の分野ではプティと共同
で金属の比熱が、金属の原子量に反比例することを示し、デュロン=プティの法則と呼
ばれる。
デュロン=プティの法則
デバイ模型とアインシュタイン模型による低温の比熱
デバイ温度程度の高温になるにつれ、デュロン=プティの法則による 3NAkB(赤線)へ
と近付く
デュロン=プティの法則 (Dulong-Petit law) とは、固体元素の定積モル比熱 CV が常
82
温付近(デバイ温度より大きい領域)ではどれもほとんど等しく、 CV = 3R = 3NAkB ( =
5.96 cal/mol・K、 R は気体定数、 NA , kB はそれぞれアヴォガドロ定数とボルツマン
定数)であるという法則。
1819 年にフランスの物理学者であり化学者でもあるピエール・ルイ・デュロンとア
レクシ・テレーズ・プティ (Alexis Thérèse Petit) が独立に実験的に見出して発表し
た。その後 1871 年にルートヴィッヒ・ボルツマンがエネルギー等配分の法則より理論
的な説明を与えた。
エネルギー等配分の法則からの導出
固体中での原子の格子振動を、それぞれ独立な調和振動子として考える。エネルギー等
配分の法則より、自由度 1 あたりのエネルギーの期待値
は、
と表される。ここで kB はボルツマン定数、 T は絶対温度である。
調和振動子は自由度 3 の運動エネルギーと自由度 3 のポテンシャルエネルギーをもつ。
これは、固体中の原子が x,y,z の 3 つの軸方向に振動しており、その振動がそれぞれ
の軸方向に運動エネルギーとポテンシャルエネルギーをもつことに対応している。よっ
て全自由度は 6 となり、 NA 個の調和振動子(=1 モルの原子)の全エネルギーは
である。更にその定積比熱は定義より
となり、求めることができた。
デバイ模型からの導出
デュロン=プティの法則は、デバイ模型からも導くことができる。ここでは、デバイ模
型の格子比熱としてデバイの比熱式が既に求まっているとして導出する。
デバイの比熱式は 1 モルあたり
83
である。ここで ΘD はデバイ温度であり、
である。
では積分の上限が小さくなるため、被積分関数の ex を
と近
似することができ、
となり、求めることができた。
電子比熱との関係
エネルギー等配分の法則を用いた求め方も、デバイ近似による求め方も、固体中の格子
振動による比熱(格子比熱)を取り扱っている。しかし本来固体の比熱には自由電子に
よる電子比熱の寄与もあるはずで、古典論によるとこの電子比熱の値は
とい
う無視できない大きさを持つはずである。このため、なぜ金属においてもデュロン=プ
ティの法則が成り立つのかが当初疑問に思われていた。その後、自由電子を量子統計力
学で取り扱うと古典的に取り扱った場合の 1/60~1/100 程度の電子比熱しか生じない
ことが分かり、この疑問は解決されることとなった。
法則の適用範囲と例外
デュロン=プティの法則は非常に単純な法則であるが、高温における比較的単純な結晶
構造の固体の比熱についてはよい一致を示す。実際、室温での固体金属元素のモル比熱
は 2.8R ~ 3.4R の範囲に収まる(ベリリウムは例外的に 2.0R である)。しかし低温
の領域においては、量子力学的性質が現れてくるためデュロン=プティの法則ではその
比熱を説明することができない。このような低温の場合については、フォノンの考えを
用いたデバイ模型が良い近似となる。
更に軽い非金属元素についても、標準状態では量子的効果が表れているためデュロン
=プティの法則には従わない。例としてはホウ素や、炭素を含む分子固体の大半が挙げ
られる。これらの物質においては、(分子 1 モルあたりの比熱は 3R よりは大きくなる
ものの、)固体中の原子 1 モルあたりの比熱は 3R よりも小さくなる。例を挙げると、
84
氷の融点における比熱は分子 1 モルあたり約 4.6R であるが、これは原子 1 モルあたり
では 1.5R にしかならない。原子 1 モルあたりの比熱が 3R よりも低くなるのは、低温
の軽い原子では本来とり得る振動モードをとることができなくなるためである。この現
象は液体よりも固体において多く見られる。例えば液体の水の比熱は原子 1 モルあたり
3R に近く、デュロン=プティの法則に従っている。
高温での非常に多原子の気体の比熱の理論的な最大値は、デュロン=プティの法則の
原子 1 モルあたり 3R の値に近付く。このように多原子の気体でも高温において固体の
ような比熱を持つのは、気体の離れた分子間にはポテンシャルエネルギーがなくなり、
それによる比熱への(小さな)貢献がなくなるためである
85
マイケル・ファラデー
マイケル・ファラデー(Michael Faraday, 1791 年 9
月 22 日 - 1867 年 8 月 25 日)は、イングラン人の化
学者・物理学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)
で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られ
ている。ファラデーの電磁誘導の法則、電気化学,フ
ァラデー効果、ファラデーケージ、ファラデー定数、
ファラデーカップ、ファラデーの電気分解の法則、電
気力線、直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を
研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後にジェームズ・クラーク・
マクスウェルが発展させた。同様に電磁誘導の法則、反磁性、電気分解の法則などを発
見。磁性が光線に影響を与えること、2 つの現象が根底で関連していることを明らかに
した。電磁気を利用して回転する装置(電動機)を発明し、その後の電動機技術の基礎
を築いた。それだけでなく電気を使ったテクノロジー全般が彼の業績から発展したもの
である。
化学者としては、ベンゼンを発見し、塩素の包接水和物を研究し、原始的な形のブン
ゼンバーナーを発明し、酸化数の体系を提案した。アノード、
カソード、電極(electrode)、
イオンといった用語はファラデーが一般化させた。
ファラデーは高等教育を受けておらず、高度な数学もほとんど知らなかったが、史上
最も影響を及ぼした科学者の 1 人とされている。科学史家は彼を科学史上最高の実験为
義者と呼んでいる。静電容量の SI 単位「ファラッド (F)」はファラデーに因んでいる。
また、1 モルの電子の電荷に相当するファラデー定数にも名を残している。ファラデー
の電磁誘導の法則は、磁束の変化の割合と誘導起電力は比例するという法則である。
ファラデーは王立研究所の初代フラー教授職 (Fullerian Professor of Chemistry)
であり、死去するまでその職を務めた。
アルベルト・アインシュタインは壁にファラデー、ニュートン、マクスウェルの絵を
貼っていたという。
ファラデーは信心深い人物で、1730 年に創設されたキリスト教徒の一派であるサン
デマン派(グラス派)に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデー
の生涯と仕事に影響している」と記している。
前半生
ジョージ 3 世時代の 1791 年に、ニューイントン・バッツ生まれる。現在のサ
ザク・ロンドン特別区の一部だが、当時はサリーの一部でロンドン橋から南に 1 マイル
ほどの場所だった。一家は決して順調ではなかった。父ジェームズはサンデマン派信者
で、妻と 2 人の子をかかえて 1791 年にウェストモーランド(現在のカンブリア)のア
86
スギルという小さな村からロンドンに出てきた。その村では鍛冶屋の見習いをしていた。
マイケルが生まれたのはその年の秋である。マイケルは 4 人兄弟の 3 番目で、学校には
ほとんど通っていない。14 歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた ジョージ・リ
ーボー のところに年季奉公に入った。7 年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中には
アイザック・ウォッツの The Improvement of the Mind もあり、彼はその中に書かれ
ていた为義と提案を熱心に実践した。多数の本を読むうちに科学への興味が強まり、特
に電気に興味を持つようになった。特に影響された本としてジェーン・マーセットの『化
学談義』(Conversations on Chemistry)があった。またファラデーと同じく見習いで
働いていた画家の卵マスケリエはファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデー
は絵が非常に上手く、科学系の本にある実験装置などを正確に書き写したといわれてい
る。1812 年、20 歳となり年季奉公の最後の年となったファラデーは、ジョン・テイタ
ム の創設したロンドン市哲学協会(City Philosophical Society)の会合で勉強する
ようになった。また、当時のイギリスで有名だった化学者ハンフリー・デービーの講演
を何度も聴講した。その入場券はロイヤル・フィルハーモニック協会の創設者の 1 人 ウ
ィリアム・ダンス がファラデーに与えたものだった。ファラデーは 300 ページにもな
ったデービーの講演の際につけたノートをデービーに送った。それを見て感心したデー
ビーは、すぐさま好意的な返事をした。ファラデーが科学の道を歩みたいと言ったとこ
ろ「科学は苦労の連続である。今は何の仕事もない。もしあったら連絡する」といわれ、
ファラデーは落胆した。しかしその後、デービーは塩化窒素の実験中の事故で目を負傷
し、ファラデーを秘書として雇うことにした。王立研究所の助手の 1 人が解雇されると、
ハンフリー・デービーは代わりを捜すよう依頼され、1813 年 3 月 1 日、ファラデーは
王立研究所の化学助手となった。
当時の階級社会では、彼はその出自のために紳士とはみなされなかった。デービーが
1813 年から 1815 年まで長いヨーロッパ旅行に出かけることになった時、彼の従者は一
緒に行くことを拒んだ。ファラデーは実験助手として同行し、パリで従者の代わりを見
つけるまでは従者の役も果たすことを依頼された。結局ファラデーは旅行が終わるまで
助手兼従者として働くことになった。裕福な家の出だったデービー夫人ジェーン・アプ
リースはファラデーを対等に扱おうとせず、馬車で移動する際は御車席に座らせ、食事
も使用人と一緒に摂らせた。この扱いにファラデーは落胆し、イギリスに戻ったら科学
の道をあきらめようと考えたという。ただしファラデー自身は上流階級になろうという
意欲は薄く、後にナイトに变せられる話があった時も断ったとされる。この旅行でファ
ラデーはヨーロッパの有名な科学者らと出会い、アイデアを刺激された。
ファラデーは敬虔なキリスト教徒だった。彼の属するサンデマン派はスコットランド
国教会の分派である。結婚後しばらくして輔祭を務めるようになり、若いころ過ごした
集会所の長老を 2 期務めた。その集会所は 1862 年にイズリントンに移転しており、2
87
期目はこちらで務めた。1821 年 6 月 12 日、サラ・バーナード (1800–1879) と結婚し
たが、子供はできなかった。2 人はサンデマン派の教会で家族を介して知り合った。
業績
化学ファラデーの初期の化学の業績は、ハンフリー・デービーの助手としてのものだっ
た。特に塩素を研究し、2 種類の新たな炭素塩化物を発見した。また、ジョン・ドルト
ンが指摘した現象である気体の拡散に関する初期の実験も行ったが、その物理的重要性
をより完全に明確化したのはトーマス・グレアムとヨハン・ロシュミットである。いく
つかの気体の液化に成功した。また、鋼合金を調べたり、光学向けの新たなガラスを作
ったりしている。後にそれらのガラスは、磁場中に置くと通過する光の偏光面を回転さ
せるという発見に役立ったこと、および磁石の極と反発する反磁性体だと判明したこと
で歴史的に重要となった。また、化学の一般的手法の確立にも貢献している。ファラデ
ーはまた、後にブンゼンバーナーと呼ばれ実験用に広く使われ
るようになった熱源装置の原型を発明した。ファラデーは化学
の幅広い分野で活動し、1823 年に塩素の液化に成功し、1825
年にはベンゼンを発見している。気体の液化は気体が単に沸点
の低い液体の蒸気に過ぎないという認識の確立に役立ち、分子
凝集の概念により確かな基盤を与えることになった。1820 年、 テトラクロロエチ
レン分子
ファラデーは炭素と塩素で構成される化学物質 C Cl と C Cl
2
6
2
4
を初めて合成したことを報告し、翌年公表して
いる。また、ハンフリー・デービーが 1810 年
に発見した塩素の包接水和物の構成を特定し
た。1833 年、電気分解の法則を発見し、アノ
ード、カソード、電極 (electrode)、イオンと
いった用語を定着させた。これらの用語の多く
はウィリアム・ヒューウェルが考案したもので
ある。また、後に金属ナノ粒子と呼ば
1850 年ごろの研究室で作業中のファラ
れることになるものについて初めて報
デー。作者の Harriet Jane Moore はフ
告している。1847 年、金コロイドの光
ァラデーの生活を水彩画で描いた。
学特性が金塊のそれと異なることを発
見した。これは量子サイズの現象の最初の観察報告と見られ、ナノ科学の誕生と言えな
くもない。
電気と磁気ファラデーは特に電気と磁気の研究でよく知られている。彼が記録している
最初の実験は、7 枚の半ペニー貨と 7 枚の亜鉛シートに 6 枚の塩水を浸した紙を挟んで
88
積み上げたボルタ電池を作ったことだった。この電池を使って硫酸マグネシウムを電気
分解している(1812 年 7 月 12 日付けの Abbott への手紙に記述がある)。
デンマークの科学者ハンス・クリスティアン・エルステ
ッドが電気と磁気の関係を示す現象を発見すると、1821
年にデービーとウイリアム・ウォラストンが電動機を作
ろうとしたが失敗した。ファラデーは 2 人とその問題に
ついて話し合い、電磁回転 (electromagnetic
rotation) と名付けた動きを生じる 2 つの装置を作り
上げた。1 つは水銀を入れた皿の中央に磁石を立て、上
から水銀に浸るように針金をたらし、その針金と水銀を
通るように電流を流すと、電流によって生じた磁場が磁
電磁力による回転実験
石の磁場と反発して針金が磁石の周囲を回転し続けると
(1821 年ごろ)
いうものである。
もう 1 つは単極電動機と呼ばれるもので、
逆に磁石側が針金の周りを回るようになっていた。それら
の実験と発明が現代の電磁技術の基礎を築いた。この成果
に興奮したファラデーはデービーやウォラストンの許可を
得ずに、それを公表した。これに怒ったデービーとファラデーの関係
ソレノイド
が悪化し、デービーは電磁気以外の研究をファラデーに押し付け、数
年間電磁気研究から遠ざけたと見られている。デービーはファラデーが王立協会の会員
になることを猛烈に反対し、自分が見出したファラデーの頭角に嫉妬を抱き始めていた。
しかし、ファラデーの友人の推薦により、協会員に選ばれた。また、デービーはウィリ
アム・ウォラストン自身が否定しているに関わらず、ファラデーを「ウォラストンの研
究を盗んだ」と非難したりもした。もっとも、デービーは「私の最大の発見はファラデ
ーである」という言葉を残している。小学校しか卒業してない製本屋の見習いが 19 世
紀最大の科学者と言われるようになったことを考えると、この言葉は正鵠を射ていると
いえる。
1824 年、ファラデーは導線を流れる電流を外部の磁
場によって調節可能かどうかを研究すべく簡単な回
路を製作したが、そのような現象は見つけられなかっ
た。3 年前、同じ実験室で光が磁場に影響されるかを
実験しており、そのときも何も見つけられなかった。
その後 7 年間は光学用ガラス(鉛を加えたホウケイ酸
ガラス)の製法を完成させることに費やし、後の研究
でそれが光と磁気の関係の研究に役立つことになっ
た。光学の仕事以外の時間を使って電磁気を含む実験
電気化学の祖とされるイギリスの化学者
89
ジョン・ダニエル
(左)とファラデー(右)
の論文を書いて公表し、デービーとのヨーロッパ旅行で出会った海外の科学者とも文通
した。デービーの死から 2 年後の 1831 年、ファラデーは一連の重要な実験を行い、電
磁誘導を発見した。わずか数カ月前にジョゼフ・ヘンリーも発見しているが、2 人に先
行してイタリアのフランチェスコ・ツァンテデスキが 1829 年と 1830 年に同様の論文を
発表していた。
他の科学者たちが電磁気現象を力学における遠隔力と考えていたのに対して、ファラ
デーは空間における電気力線・磁力線という近接作用的概念から研究している。ファラ
デーの突破口は、鉄の環に絶縁された導線を巻きつけてコイルを 2 つ作ったことであり、
一方のコイルに電流を流すともう一方のコイルに瞬間的に電流が流れることを発見し
た。この現象を相互誘導と呼ぶ。この鉄の環のコイルは今も王立研究所に展示されてい
る。その後の実験で、空芯のコイルの中で磁石を動かしても電流が流れることを発見し
た。また、磁石を固定して導線の方を動かしても電流が流れることを発見。これらの実
験で、磁場の変化によって電場が生ずることが明らかとなった。このファラデーの電磁
誘導の法則は後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが数理モデル化し、4 つのマク
スウェルの方程式の 1 つとなった。そして、さらに一般化され場の理論となっている。
ファラデーは後にこの原理を使って原始的な発電機を製作している。
1839 年、電気の基本的性質を明らかにする一連の研究を完成させた。ファラデーは「静
電気」、電池、
「動物電気」を使い、静電気による誘引現象、電気分解、電磁気学などの
現象を生み出した。彼は、当時の科学界で常識だったこれらの電気の種類の違いは存在
しないと結論付けた。そして電気は一種類だとし、強さや量(電圧と電流)の違いが様々
な現象を引き起こすとした。
後年ファラデーは電磁力が電気伝導体の周囲の空間に及んでいるという説を提案した。
しかし他の科学者はその考え方を拒絶し、ファラデーの存命中は認められなかった。フ
ァラデーの帯電した物体や磁石から磁力線が出ているという概念は、電磁場の視覚化手
段を提供した。このモデルは 19 世紀後半の産業を支配した電気機械式装置の開発にと
ってきわめて重要となった。
反磁性 1845 年の実験で使ったガラス棒を手にしたファラデー。その実験で誘電体中の
光が磁場の影響を受けることを示した。1845 年、ファラデーは多くの物質が磁場に対
して弱く反発することを発見し、その現象を反磁性
(diamagnetism) と名付けた。また、光の進む方向にそっ
て印加された電磁場によって直線偏光の偏光面が回転す
ることを発見。これをファラデー効果と呼ぶ。ファラデー
のノートには「私はついに磁気の曲線または「力の線」を
解明し、光線を磁化することに成功した」と記してある。
90
晩年(1862 年)、磁場によって光のスペクトルが変化するのではないかと考え、分光
器を使って実験している。しかしファラデーが使っていた機器ではスペクトルの変化を
捉えることはできなかった。同じ現象を後にピーター・ゼーマンが改良された機器で研
究し、1897 年に公表、1902 年にノーベル物理学を受賞することになった。1897 年の論
文でも、ノーベル賞講演でも、ゼーマンはファラデーの業績に言及している。
ファラデーケージ静電気を研究する中
で、ファラデーは帯電した導体では電
荷がその表面にしかないことを示し、
それら電荷は導体内部の空間には何も
影響を及ぼさないことを証明した。こ
れは電荷が内部の電場を打ち消すよう
に分布するためである。この電場を遮
外部の電場が電荷の配置を変化させ、
蔽する効果を使ったものをファラデーケ
それによって電場が打ち消される
ージと呼ぶ。ファラデーは優秀な実験为義
者であり、明快かつ簡潔な言葉で考えを伝えた。しかし、数学の知識は乏しかった。そ
のため電磁誘導の法則を自分で定式化できず、ジェームズ・クラーク・マクスウェルら
が定式化することになった。またファラデーの電気力線の使用についてマクスウェルは、
ファラデーが高水準の数学者にも匹敵する思考の持ち为であり、将来の数学者はファラ
デーの業績から様々な貴重な方法を引き出すことができるだろうと述べている。
王立研究所と研究以外の業績 1824 年には王立協会フェローに選ばれ、1825 年にはデー
ビーの後をついで英国王立実験所長となった。1933 年、ファラデーはジョン・「マッ
ド・ジャック」・フラーの推薦で王立研究所の初代フラー教授職に就任した。これはフ
ラーの後援によって創設された化学の教授職であり、名誉職であって講義を行う義務は
ない。王立研究所での化学や電磁気学の研究以外に、ファラデーは民間企業やイギリス
政府に依頼された仕事に時間を割いた。例えば、炭鉱での爆発事故の調査、法廷での専
門家証人、高品質な光学ガラスの成分検討などである。1846 年、ハスウェルの炭鉱で
95 人が死亡した爆発事故を調査し、チャールズ・ライエルと共に詳細な報告書を提出
した。その報告書は法科学的にしっかりしており、石炭の粉塵が爆発の威力を増加させ
たとしていた。しかし、炭塵爆発への対策は 1913 年に別の炭鉱で大事故が発生するま
でなされなかった。海洋国家でもあるイギリスの有名な科学者として、ファラデーは灯
台建設や運用、船底の腐食を防止するプロジェクトなどにも時間を割いた。
ファラデーは今では環境学と呼ばれる分野でも活躍した。スウォンジでの工場による汚
染を調査し、造幣所での大気汚染について助言したりしている。1855 年 7 月、タイム
ズ誌にテムズ川の汚染問題について手紙を送り、パンチ誌に風刺画が掲載されることに
91
なった。1851 年、ロンドンで開催された万国博覧会では、計画立案と評価に参加した。
また、ナショナル・ギャラリーでのコレクションのクリーニングと保護についても助言
し、1857 年には同ギャラリー運営委員会の委員も務めた。教育にも関与している。1854
年、王立研究所で教育について講演し、1862 年にはイギリスの教育政策についての持
論を伝えるために公立学校委員会に出席した。また当時一般大衆の間で流行っていたこ
っくりさんや催眠術や降霊会には否定的立場で参加しており、教育に関しては政府に対
しても大衆に対しても厳しかった。ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の
優秀な科学者たちを集めた金曜講演(1825 年より開始)、尐年尐女向きのクリスマス・
レクチャー、有名なロウソクの科学などであり、今日まで続いているものも多い。ファ
ラデーは 1827 年から 1860 年まで 19 回のクリスマス・レクチャーを行った。
晩年 1832 年 6 月、オックスフォード大学はファラデーに名誉博士号を授与した。ファ
ラデーは終生ナイトの名誉を辞退し続け、王立協会会長職も 2 回辞退している。1838
年、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれ、1844 年にはフランス科
学アカデミーの 8 人の外国人会員の 1 人に選ばれた。1848 年、アルバート王配殿下の
申し出によりサリーのハンプトン・コート宮殿に無料で住めるようになった。1858 年
に引退したファラデーは晩年をそこで過ごした。
クリミア戦争 (1853–1856) の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要
望がきたとき、倫理的な理由からこれを断わった。彼は机をたたいてこう言ったという。
「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い平和为義者だっ
たことも伺える。1867 年 8 月 25 日、ハンプトン・コート宮殿内の自宅で椅子にもたれ
たまま、眠るようにして死去した。生前ウェストミンスター
寺院への埋葬を拒否していたが、アイザック・ニュートンの
墓のそばに記念銘板が設置された。遺体はハイゲイト墓地の
非国教徒向けの区域に埋葬された。
記念
ロンドンのサボイ・プレイスにあるファラデー像(作
John Henry Foley
ロンドンの IET 本部のそばのサボイ・プレイスにファラデー
の像がある。同じくロンドンのエレファント・アンド・キャ
ッスルのロータリーの中央にはブルータリズムの建築家ロド
ニー・ゴードン が設計し 1961 年に完成したマイケル・ファラデー記念館 (en) がある。
ファラデーが生まれたニューイントン・バッツの近くである。同じく生誕地に近いウォ
ルワースにはファラデーの名を冠した小さな公園がある。ラフバラーのラフバラー大学
には 1960 年にファラデーの名を冠したホールが建てられた。その食堂の入口付近に青
銅製の変圧器の像があり、中にはファラデーの肖像がある。エディンバラ大学の理工系
92
キャンパスにはファラデーの名を冠した 5 階建ての建物がある。ブルネル大学やスウォ
ンジー大学にもファラデーの名を冠した建物がある。また、イギリスはかつて ファラ
デー基地 という南極基地を運営していた。ファラデーの名を冠した通りはイギリス各
地(ロンドン、ファイフ、スウィンドン、ノッティンガムなど)にあり、フランス(パ
リ)やドイツ、カナダ、アメリカにもある。1991 年から 2001 年にかけて用いられた 20UK
ポンド紙幣に肖像が描かれている。王立研究所で電磁スパーク装置を使った講演中の様
子が描かれている。

「自然の法則が一貫しているなら、これほど素晴らしいことはない。そんな中
で実験はそのような一貫性を調べる最良の手段だ」

「働きなさい。完成させなさい。出版しなさい」 — 若かりしウィリアム・クル
ックスへの助言

来世について聞かれたときの言葉「憶測? 私には全くない。私は確信している」

「次の日曜日で 70 歳になるのだから、記憶力が衰えても不思議ではない。この
70 年間私は幸せだった。そして希望と満足感がある今も幸せだ」

「さらに試行せよ。何が可能かを知るために」アメリカ合衆国ペンシルベニア
州のアーサイナス大学の理学部のホール玄関に刻まれているファラデーの名言
とされる言葉。

「あなたが科学者の説を認めるならば、あなたは科学に大きな貢献をすること
になるだろう。あなたがそれに対して『はい』とか『いいえ』と言うだけでも、
将来の進歩を助けることになる。一部の人は自分の考えに固執して口にするの
をためらうに違いない
93
フリードリヒ・ヴェーラー
フリードリヒ・ヴェーラー(Friedrich Wöhler, 1800 年 7 月
31 日 - 1882 年 9 月 23 日)はドイツの化学者。シアン酸アン
モニウムを加熱中に尿素が結晶化しているのを 1828 年に発見
し、無機化合物から初めて有機化合物の尿素を合成(ヴェーラ
ー合成)したことで知られる。また、ユストゥス・フォン・リ
ービッヒと独立に行なわれた異性体の発見、ベリリウムの発見
などの業績がある。弟子に酢酸をはじめて合成したヘルマン・コルベがいる。
生涯
ヴェーラーは 1800 年 7 月 31 日ドイツ、フランクフルトの Eschersheim で生まれ
た。1823 年(23 歳)でヴェーラーはハイデルベルクにあった Leopold Gmelin の研究室
で薬学の勉強を終えた。そして、ストックホルムでイェンス・ベルセリウスの指導のも
と研究を発展させた。1825 年から 31 年(25~31 歳)までヴェーラーはベルリンの工芸
学校で化学を教え、1836 年(36 歳)までカッセルの高等工芸学校に留まった後、ゲッ
ティンゲン大学の化学の正教授となり、生涯ゲッティンゲン大学に留まった。
尿素の化学合成と異性現象の発見ヴェーラーは 1828 年、偶然に有機物である尿素を合
成したこと (ヴェーラー合成) から有機化学の父と呼ばれている。当時有機物は動植物
の中で生気の力により作られると信じられていた。ヴェーラーは無機物から有機物を人
工的に作り出すことにより、動物精気によるとされていた有機化合物の合成が人工によ
って可能であることを示し生気論に打撃をあたえた。以前は、同じ組成を持つ化合物が
異なる物理・化学的性質を持つ異なる構造の化合物(異性体)として存在することは無い
とされていた。しかし、シアン酸アンモニウムが質量の変化無しに尿素に変換すること
を示したことからヴェーラーは従来の説を覆し異性体と異性化を発見した。1830 年ヴ
ェーラーはリービッヒと共にシアン酸とシアヌル酸そして尿素に関する研究結果を発
表した。ベルセリウスはスウェーデン王立科学アカデミーへ宛てた報告の中で、発表さ
れた研究結果は物理・化学そして鉱物学の分野における研究の中で最も重要なものであ
ると述べた。
为な発見と研究
ヴェーラーは尿素の化学合成以外にも多くの業績を残してい
る。ヴェーラーの業績はカルシウムカーバイドの合成、ケイ素
の発見、ベリリウムの発見、アルミニウムの単離等多岐にわた
る。
94
ユストゥス・フォン・リービッヒ
ユストゥス・フォン・リービッヒ男爵(Justus Freiherr
von Liebig, 1803 年 5 月 12 日 - 1873 年 4 月 18 日)は、
ドイツの化学者。名はユーストゥスまたはユスツス、姓
はリービヒと表記されることもある。有機化学の確立に
大きく貢献した、19 世紀最大の化学者の一人。アウグス
ト・ケクレ、アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフ
マン、エミール・エルレンマイヤーは弟子。
自らが研究していた雷酸塩 (AgONC) と、フリードリ
ヒ・ヴェーラーが研究していたシアン酸塩 (AgOCN) は全
く性質が異なるが分析結果が同じであったことから異性
体の概念に到達した。燃焼法による有機化合物の定量分
析法を改良してリービッヒの炭水素定量法を創始し、
様々な有機化合物の分析を行った。ヴェーラーとともに苦扁桃油からベンゾイル基
(C6H5CO-) を発見し、有機化合物の構造を基によって説明した。ほかにも、クロロホル
ム、クロラール、アルデヒドなどをはじめ多くの有機化合物を発見している。応用化学
においては、植物の生育に関する窒素・リン酸・カリウムの三要素説、リービッヒの最
小律などを提唱し、これに基づいて化学肥料を作った。そのため、「農芸化学の父」と
も称される。また教育者としても抜きん出ており、体系だったカリキュラムに基づいた
化学教育法を作り上げ、アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンをはじめ多くの
優秀な化学者を育成した。彼が教授職を務めたヘッセン州のギーセン大学は、今日では
「ユストゥス・リービッヒ大学ギーセン」と彼の名を冠した名称に改められている。
生涯
生い立ち
ダルムシュタットに薬物卸売商の 10 人の子供の次男として生まれた。8 歳
のときにギムナジウムに入学したが、勉強よりも父親の仕事や実験を手伝うのが好きだ
ったという。
リービッヒが生まれたダルムシュタットは、1806 年に成立したばかり
のヘッセン大公国の首都であり、宮廷所在地でもあった。宮廷図書館には大人向けの化
学関連書籍がそろっており、学校よりも図書館を好んだ。学校の課題よりも化学に興味
があったため、成績もよくなかった。リービッヒが子供のとき、行商人が爆薬である雷
酸水銀によって動く魚雷の玩具を売りに来た。彼はこれを見て、自分の父親の店で材料
を揃えて同じものを作り、それを商品として店で売るようにした。彼はこの雷酸水銀を
ギムナジウムに持っていっていたが、それが爆発を起こし、退学させられてしまった。
1817 年のことであった。そこで彼はヘッペンハイムの薬剤師のもとへ徒弟として住み
95
込むことになった。彼は居室として与えられた屋根裏部屋で雷酸塩の実験を続けていた。
しかし、また爆発事故を起こしてしまい、ヘッペンハイムから追い出されて実家へと戻
った。その後、1820 年にヘッセンの政府からの奨学金を受け、新設されたばかりのボ
ン大学に入学しカール・カストナーの元で学んだ。そして翌年にはカストナーとともに
バイエルン王国のエアランゲン大学へと移った。彼は雷酸塩の研究を続けており無機化
合物の分析法について学びたいと考えていたが、カストナーがこのテーマに明るくなか
ったためリービッヒは失望し、やがて学生運動に身を投じることになった。そして町の
住民と衝突した際に、暴力を振るったために逮捕されてしまった。
パリへ留学
釈放された後、エアランゲン大学から博士号を取得。生まれ故郷のヘッセ
ン大公であったルートヴィヒ 1 世から留学の奨学金を認められて 1822 年にパリ大学へ
と入学した。パリ大学にはルイ・テナールやジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックたちが
おり、当時の化学の最先端を走っていた。リービッヒはソルボンヌ校(パリ大学理学部)
に加わった。当時は国によって化学の研究方法や理論が異なっていた。例えばドイツ地
域の化学では学生に実験は認められておらず、講義を受講することしかできなかったの
である。ソルボンヌ校では観察、仮説、実験、理論が現在知られる科学的手法として有
機的に結合しており、リービッヒ自身の研究手法ともなった。リービッヒはアレクサン
ダー・フォン・フンボルトの紹介でゲイ=リュサックの研究室で研究を行うことができ、
1824 年に雷酸塩の研究結果について発表し、フンボルトの推薦状を持ってドイツに帰
国した。ルートヴィヒ 1 世はこれをみて大学に諮ることなく、わずか 21 歳のリービッ
ヒをギーセン大学の助教授に任命した。彼の能力は同僚にも直ちに認められ、翌 1925
年には教授へと昇進した。
ギーセン大学での初期の活動
リービッヒの年齢で大学教授になるのは異例のことで
あった。ソルボンヌ校の経験から、リービッヒは世界で最初期となる学生実験室を大学
内に設立した。兵舎を改築して初学者向けの練習実験室と経験を積んだ学生向けの研究
実験室に分け、大勢の学生に一度に実験させて薬学や化学を教えるという新しい教育方
式を始めた。ここでは学生は定性分析と定量分析、化学理論を系統立てて教えられ、最
後に自ら研究論文を書くことを求められた。実験から化学を学びたい学生がイギリス、
フランス、ベルギー、ロシアなど各国から集まり、ギーセンは化学教育のメッカとなっ
た。アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン、フリードリヒ・ケクレ、シャルル・
ヴュルツ、シャルル・ジェラール、エドワード・フランクランド、アレキサンダー・ウ
ィリアムソンといった著名な有機化学者もここで学び、リービッヒの教育手法が各国に
広がっていった。これはドイツが有機化学の中心地となる礎となった。1826 年に彼は
イェンス・ベルセリウスの下でフリードリヒ・ヴェーラーが研究していたシアン酸塩が
雷酸塩と同じ組成を持っていることを発見した。このように異なる性質を持ちながら同
じ組成を持つ化合物はベルセリウスによって異性体と名づけられた。これが縁でヴェー
96
ラーと親しくなり、以後たびたび共同研究を行うようになった。その後も、二人は生涯
文通を続けた。
リービッヒの最大の失敗は、臭素の発見にかかわるものである。1826 年にギーセン
大学教授に就任した直後、海水から食塩を精製する実験中にわずか一滴ではあったが赤
褐色の液体を得た。このとき、実験を進めず塩化ヨウ素が得られたものと早合点してし
まう。翌年、フランスのアントワーヌ・ジェローム・バラールによる臭素発見の報を受
け、例の液体を調べるとほぼ純粋の臭素であった。
1831 年に二重のガラス管の内側に蒸気を、外側に冷却水を通じて蒸気を凝縮する冷
却器を発表した。これは現在リービッヒ冷却器の名で呼ばれており、広く用いられてい
る。同年にはフランスのウジェーヌ・スーベイラン、アメリカのサミュエル・ガスリー
と同時期にクロロホルムを発見。
1832 年にはヴェーラーとともに苦扁桃油(ビターアーモンドオイル)について研究
を行い、その为成分であるベンズアルデヒドに対して様々な実験を行った。その結果、
反応によって変化しない C7H5O という単位(当時は 2 倍量で計算していた)が存在する
ことに気がついた。これをリービッヒたちは基(根(こん)、ラジカル)と呼んだ。こ
の結果はジェラールによって発展され、さらに原子価の理論へとつながった。
また、
同じ年に化学の論文誌である『薬学年報』(Annalen der Pharmacie) を創刊し、自ら編
集を行った。これはその後 1840 年に『薬学および化学年報』(Annalen der Chemie und
Pharmacie) となり、さらにリービッヒの死後には彼を記念して名を『ユストゥス・リ
ービッヒ化学年報』(Justus Liebigs Annalen der Chemie) と改められた。この雑誌は
1997 年に『ヨーロッパ有機化学ジャーナル』(European Journal of Organic Chemistry)
と名を変え、発行が続けられている。彼はこのように啓蒙活動に熱心で盛んに書籍を執
筆し、また文才もあったため、化学界のグリムとも呼ばれた。その後 1834 年にエチル
基を発見、1835 年にアルデヒドを精製し命名するなどの業績を挙げた。
応用化学への転向 1837 年には生化学へと研究分野を移し、ヴェーラーとともに尿酸の
研究を行った。ヴェーラーと共同で最初の配糖体(アミグダリン)を発見し、翌 1838
年にヴェーラーと共著の論文『有機酸の構造について』で、未知の有機化合物の構造を
決定する方法を述べた。またベルセリウスが開発した燃焼法による有機化合物の元素分
析の改良を行った。リービッヒの炭水素定量法にジャン=バティスト・デュマの窒素定
量法を組み合わせ、フリッツ・プレーグルによって改良されたものが現在も使われてい
る微量分析法である。1840 年、
『有機化学の農業および生理学への応用』(Die organische
Chemie in ihrer Anwendung auf der Agrikultur und Physiologie) を発表し、植物の
生長に対する腐葉土の重要性を否定。同年、ロンドン王立協会のフェローに選出され、
コプリ・メダルを受賞。1841 年には植物が土の中のカリウムやリンを生長に必須とし
ていることを明らかにした。そして土の中で最も尐ない必須元素の量によって植物の生
97
長速度が決定されるというリービッヒの最小律を提唱した。それに基づいて従来の農業
を土中の栄養を略奪するものだとして排し、化学肥料を開発した。また動物体内の代謝
などについても研究を行い、体温や筋肉のエネルギーは脂肪や炭水化物といった食物が
体内で酸化されるときのエネルギーに由来すると述べた。1842 年『有機化学の生理学
および病理学への応用』(Die Tierchemie oder die organische Chemie in ihrer
Anwendung auf Physiologie und Pathologie) を発表。1844 年、化学啓蒙書『化学通
信』(Chemische Briefe) の初版を出版。1845 年に男爵に列せられ、以後フォン・リー
ビッヒと称した。
ミュンヘン大学への異動後 1852 年、バイエルン王マクシミリアン 2 世の招聘に応じ、
28 年間にわたったギーセンでの研究を後任に任せてミュンヘン大学へ異動した。これ
は過労による不眠症の治療のためである。ミュンヘン大学では、実験を止め講義や文筆
を中心とする生活へと切り替えた。1859 年にはバイエルン科学学士院院長に就任。こ
のころ、食品などに関する研究を行った。その成果をもとに 1865 年に肉エキスを抽出
する会社を設立、また 1867 年には育児用ミルクを作成した。肉エキスは後に栄養学的
にはあまり意味がないことが明らかになったが、嗜好品として商業的には大成功し、食
品加工産業の先駆となった。1873 年にミュンヘンで死去。南墓地に埋葬された。
人物
リービッヒは学生時代からカリスマ性のある社交的な人間で、国内外に多くの友
人を作り、教え子とも進んで親しく付き合った。しかしその性格は好く言えば情熱的、
悪く言えばかんしゃく持ちであったといわれる。彼は妥協するということを知らない頑
なな人間で、夢中になって研究へ打ち込む一方、自らが「間違っている」と考えた理論
には激しい攻撃を加え、それはしばしば個人へも及んだ。そのため味方も多いが敵も多
かった。ベルセリウスとの間には酸や触媒の理論をめぐって激しい議論がおき、『有機
化学の生理学および病理学への応用』の内容に関する論争ではついに 10 年来のつきあ
いがあった両者は絶交してしまった。また、発酵が単なる化学反応か生物の作用かをめ
ぐってルイ・パスツールとも長い論争を繰り広げ、敗れている。その一方、壮年期に肥
料の研究に乗り出したのはこの時期にヨーロッパを襲った飢饉を解決しようとしてだ
ったといわれるし、普仏戦争の終結に際してバイエルン科学学士院で「今のドイツの学
者はフランスに学んだ。次のフランスの学者はドイツに学ぶであろう。両国民が常にこ
のように手をとりあうべきである」と演説をするなど、きわめて進歩的な思想の持ち为
でもあった。
関連項目

生化学
98
リービッヒの名が冠された用語
・リービッヒ冷却器:蒸留用や還流用の冷却器の一つ。保温管としても用いられる。ガ
ラス製の内管と外筒からなり、外筒と内管の間に冷媒を流し、内管に通した気体などを
冷却する。
・リービッヒ‐グラハム冷却器:グラハム冷却器の別名。冷却効率を上げるため、リー
ビッヒ冷却器の内管を螺旋状に改良したもの。
・リービッヒ石 (liebigite):ウランの含水炭酸塩鉱物。組成式は Ca2(UO2)(CO3)3・11H2O。
リービッヒの名前にちなんで名づけられた。
・リービッヒ滴定:銀滴定によるシアン化物イオンの定量法。シアン化物イオンが銀イ
オンと反応して安定な錯体を作ることを利用する。
・リービッヒのカリ球:カリ球の一種。球の中の水酸化カリウムが二酸化炭素を吸収し、
その質量の変化によって試料中の炭素の量を測定するのに用いる。
・リービッヒの最小律:
「植物の生長は、必要とされる無機養分のうち最も尐ないもの
によって決まる」という法則。
・リービッヒの炭水素定量法:有機化合物の定量分析法の一つ。
・リービッヒ法:非電解質中の硫黄の定量法の一つ。水酸化カリウムと硝酸カリウムを
用いて試料中の硫黄を硫酸イオンにする。リービッヒ滴定のこと。
99
エドワード・フランクラ
ンド
エドワード・フランクランド(Edward Frankland, 1825
年 1 月 18 日– 1899 年 8 月 9 日)はイギリスの化学者。
経歴
ランカスターの近くチャーチタウンに生まれる。
ランカスターのローヤル・グラマースクールを卒業したのち、街の薬屋の徒弟として 6
年間過ごした。1845 年にロンドンへ出てリオン・プレイフェアの研究室に入り、つい
でマールブルクのローベルト・ブンゼンのもとで働いた。1847 年にハンプシャー州の
クイーンウッド・スクールで科学修士号を得た。そこではジョン・ティンダルに出会っ
ている。1851 年にはマンチェスターのオーウェン大学で化学の第 1 教授になった。6 年
後にロンドンに戻って聖バーソロミュー病院で化学の講師となり、1863 年に王立研究
所の化学教授に就いた。若い頃から独自の研究に携わり、大きな成功を収めている。
ある種の有機ラジカルの単離といったような分析化学上のテーマに興味を持ったが、
すぐに合成化学に転じた。師のブンゼンによって提示されたカコジルについての研究は、
有機金属化学史上の重要な発見をもたらしたが、このときフランクランドはわずか 25
歳の若さであった。この研究において彼が導き出した論理的演繹法による考え方は、カ
コジルそのものよりも興味深く、また重要である。カコジルとそれから生成させられる
金属無機化合物の間の類似性、また酸素、硫黄、塩素と金属との無機化合物の真の分子
様式を知り、それらはカコジルの有機置換基を酸素などで置き換えることによって得ら
れると考えた。これを基にしてフランクランドは化合物の結合に関するそれまでの定説
を改め、1852 年にある基質中の原子はそれぞれ限られた飽和容量を持ち、よってそれ
らは決まった数の結合しか作ることができない、という説を発表した。このようにして
発見された原子価についての定理はその後の化学における理論の発展に支配的な影響
を与え、近代構造化学の拠り所となる概念の基礎を作った。
応用化学におけるフランクランドの功績は水の供給に関するものである。1868 年に
河川の汚染に関する第 2 王立委員会の一員となり、完璧な設備を有する実験室を与えら
れた。6 年間その問題に関する研究を行い、その知性によって下水や産業廃棄物などに
よる河川の汚染、および公共利用のための水の精製法に関する多くの有益な情報をもた
らした。1865 年には王立鉱業学校でアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンの
跡を継ぎ、ロンドンで供給される水に関する月例報告を統計局へ提出する役務を負い、
100
生涯これを続けた。当初は水の純度に関して厳しい批評を行っていたが、後年では品質
の高さと健康に対して害のないことを強く確信するようになった。
フランクランドは化学・微生物学の両面から分析を行っていた。彼が検査を始めた頃
の前者の分析法に不満を持ち、2 年を費やしてより新しく正確な方法を開発した。1859
年、フランクランドはモンブランの頂上でジョン・ティンダルと共に一夜を過ごした。
この探検の目的の 1 つはロウソクの燃焼速度が大気の濃度によって変化するかどうか
を確かめるためであり、答えは否であった。このときフランクランドによって得られた
他の観測結果は、その後広範な結果をもたらす数々の実験の原点となった。山頂ではロ
ウソクの光は非常に弱くなることに着目し、燃えている場所の大気圧の変化によって与
えられる炎への影響を研究した。例えば水素を存在させたときのように、大気圧の増加
は炎の輝度を高めることを見出した。10 から 20 気圧下では通常の条件下よりも明るい
炎を出して燃えることから、固体粒子の存在のみが炎の明るさを決める因子ではない、
という結論を導き出した。さらに、高濃度の気体の燃焼時のスペクトルは液体や固体の
それと類似することを示した。加圧下において発光する気体のスペクトルの段階的な変
化を追跡し、非常に希薄な場合には鋭い直線が観測されるのに対して、圧を上げていく
と幅が広がって不明瞭なバンドとなっていき、液体状態と同等の濃度では連続した均一
なスペクトルとなることを観測した。これらの結果をノーマン・ロッキャーと共同して
太陽物理学に応用し、太陽の外層は液体や固体状態の物質ではなく、気体や蒸気ででき
ているという見解を導いた。
フランクランドとロッキャーはヘリウムの発見者でもある。1868 年、彼らは太陽光
のスペクトル中にそれまで知られていたどの物質にも対応しない黄色い輝線があるこ
とに気づき、これを当時知られていなかった元素であるヘリウムによるものと帰属した。
1897 年に名誉大英勲章第 2 位 (Knight or Dame Commander) を授与された。
ノルウェー・グブランスダーレン (Gudbrandsdalen) のゴラー (Golaa) で休暇中に死
去した。
101
アウグスト・ケクレ
フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラー
ドニッツ(Friedrich August Kekulé von Stradonitz, 1829
年 9 月 7 日 - 1896 年 7 月 13 日)はドイツの有機化学者。
ハイデルベルク大学、ベルギーのヘント大学(英語版)
を経て、1867 年より終生ボン大学教授の職にあった。メ
タン、硫化水素などの型を提唱し、メタンの型を拡張して、
炭素原子の原子価が 4 であること、また炭素原子同士が結
合して鎖状化合物を作ることを提唱した。その後、芳香族
化合物の研究へと移り、ベンゼンの構造式として二重結合
と単結合が交互に並んで六員環を構成するケクレ構造(亀の甲)を提唱した。ヤコブス・
ヘンリクス・ファント・ホッフ、エミール・フィッシャー、アドルフ・フォン・バイヤ
ーは弟子。
ケクレは原子同士が連なっていく夢を見て鎖状構造を思いつき、ヘビ(ウロボロス)
が自分の尻尾を噛んで輪状になっている夢を見てベンゼンの六員環構造を思いついた
といわれている(後述)。その後、置換ベンゼンの異性体の数をケクレ構造で説明する
ためにベンゼン環は 2 つのケクレ構造の間を振動しているという仮説を提唱した。
生涯 1829 年にヘッセン大公国の軍事参議官であったカール・ケクレを父としてダルム
シュタットに生まれた。1847 年にダルムシュタットのルートヴィヒ・ゲオルクス・ギ
ムナジウムを卒業し、ギーセン大学に入学する。入学当初は建築学を志望していたが、
1848 年にユストゥス・フォン・リービッヒの有機化学の講義を聴講して感銘を受け、
一旦退学し有機化学へと転向した。1849 年にギーセン大学に再び入り、リービッヒの
門下生となった。1851 年に大学を卒業し、パリ大学のジャン・バティスト・アンドレ・
デュマの元へと留学した。ここでシャルル・アドルフ・ヴュルツやシャルル・フレデリ
ック・ジェラールと知り合い、彼らの研究していた型の説を学んだ。翌年リービッヒの
元へと戻り、アミルオキシ硫酸の研究で博士号を取得した。その後、スイス・クールで
分析化学者アドルフ・フォン・プランタの下で助手を務めた。1854 年にロンドンに移
り、聖バーソロミュー病院のジョン・ステンハウスの助手となった。ケクレはここで働
く間にアレキサンダー・ウィリアムソンらと知り合った。ここでケクレは硫黄化合物に
関する研究を行なった。そして、ウィリアムソンが提唱した水の型の概念が硫黄化合物
にも適用できることを提唱した。
1856 年にハイデルベルク大学のローベルト・ブンゼンの元に移り講師となった。こ
こでケクレは今度は炭素化合物についての研究を行ない、1857 年メタンの型の概念を
提唱した。さらに翌年、これを拡張して炭素原子の原子価が 4 価であり、互いに結合し
102
て鎖状化合物を形成できるという説を提唱した。この年、ヘント大学の教授に就任した。
ケクレはここで不飽和脂肪酸の幾何異性体について研究し、二重結合の概念を考察して
いる。1865 年にはベンゼンのケクレ構造を提唱した。1859 年に有機化学の教科書
『Lehrbuch der organischen Chemie』の第 1 巻を出版した。この教科書は 1880 年に第
4 巻第 1 部まで刊行されたところで中断してしまったが、これ以降に作られる有機化学
の教科書の模範となった。また、世界初の化学者の国際会議である 1860 年カールスル
ーエ国際会議の開催に力を注いだ。1867 年にボン大学へと移り、さらに芳香族化合物
に関する研究を続けた。1872 年に 2 置換ベンゼンの異性体の数を説明するため、ベン
ゼン環は 2 つのケクレ構造の間を振動しているという仮説を提唱した。これによりベン
ゼン環の安定性の原因は不明なままであったが、異性体の数は矛盾無く説明できるよう
になり芳香族化合物の整理・体系化が可能となった。1878 年、1886 年、1891 年にドイ
ツ化学会の会長を務めた。1895 年に皇帝ヴィルヘルム 2 世により貴族に列せられ、ケ
クレ・フォン・シュトラドニッツ (Kekulé von Stradonitz) と称した。1896 年にボン
で死去。
ケクレの門下からはアドルフ・フォン・バイヤー、オットー・ヴァラッハ、ライナー・
ルートヴィッヒ・クライゼンといった著名な有機化学者が出ている。
ケクレの夢
ケクレは、彼が提案した 2 つの構造理論、炭素が互いに結合して鎖状化合
物を作ること、ベンゼンが環状構造を持つことについて、夢からインスピレーションを
得たと为張している。この夢は、1890 年にベンゼンのケクレ構造提案 25 周年を記念し
て行なわれたベンゼン祭での記念講演の内容を、翌年ケクレ自身が書き起こした講演記
録に記述が残されている。それによれば、まずケクレは 1854 年にロンドン滞在中に馬
車の中で、大きな原子が小さな原子を引き連れて飛び回り、大きな原子同士がそのまま
連なっていく夢を見て、炭素が互いに結合して鎖状化合物を作ることを思いついたとい
う。また、1861 年にベルギーのヘントで教科書を執筆していた際に、ストーブの前で
うたた寝をしたときに再び連なった原子が蛇のようにうねっており、さらに 1 匹の蛇が
自身の尻尾に噛み付きながら回っている夢を見て、ベンゼンの環状構造を思いついたと
いう。講演記録以外にも、ケクレの息子がこれらの夢の話を聞いたことがあるとの証言
を残している。しかし、本当にケクレがこれらの夢を見たかについては疑う向きもある。
ジョン・ウォティッツとスザンナ・ルドフスキーによると、ケクレの話が夢を見てから
その公表まであまりに長い時間が経っていること、また当時の新聞にもベンゼン祭に関
する記述があるが、そこにケクレの夢の話がまったく書かれていないこと、講演記録が
後からケクレ自身によって書き起こされたことから講演記録の信憑性が薄いとしてい
る。また、ケクレは鎖状化合物の夢についての講演の最後に、この夢と同じような記述
が 1886 年に出版されたヘルマン・コップの本に書かれていることを述べている。そこ
で実はコップの記述を借りて自身の夢として講演したのではないかとしている。
103
ベンゼン環の夢についてはベンゼン環の炭素を六角形に配置した図はオーギュス
ト・ローランの 1854 年に出版された本に記載されており、ケクレもその本を読んだこ
とがあったこと、そして環状構造はそこから充分着想できたであろうとしている。また
1886 年に彼がドイツ化学会の会長に在職していたとき、懇親会で学会誌のパロディが
作られ、そこにベンゼン環が 6 匹の猿が手と尻尾をつないだ絵で表現されていたので、
これに対してユーモアで答えるために蛇の話を作ったのだとしている。またユーモアか
らではなく、これらの理論のプライオリティを補強するために夢の話を作ったのだろう
という为張もある。
104
ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッ
フ
ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ(Jacobus Henricus
van 't Hoff, 1852 年 8 月 30 日 – 1911 年 3 月 1 日)はオラン
ダの化学者。物理化学の分野で大きな功績をあげ、特に熱力学
において「ファントホッフの式」を発見したことで知られる。
これによって 1901 年に最初のノーベル化学賞を受賞した。こ
の他、有機化学や反応速度論、平衡、浸透圧、立体化学に関
する研究がある。
生涯 1852 年、ロッテルダムの医師の家に 7 人兄弟の 3 番目として生まれる。幼いころ
から科学や自然に興味を持ち、植物採集に頻繁に出かけていた。学校に通うようになる
と哲学と詩にも興味を持つようになり、バイロンを崇拝するようになった。父の希望に
反して、ファント・ホッフは化学の道へ進むことになった。まず 1869 年 9 月にデルフ
ト工科大学に入学し、1871 年 7 月に化学工学の学士号を取得。通常 3 年かかるところ
を 2 年で卒業した。次いでライデン大学に進学し、化学を学ぶ。1872 年、ボン大学の
ケクレのもとへ留学。1874 年にはパリ大学のヴュルツのもとへ留学した。同じ研究室
に、ル・ベルがいた。1874 年、ユトレヒト大学にて Ph.D. を取得した。ユトレヒトの
獣医学学校で化学と物理学の講師となる。1878 年、アムステルダム大学の化学・鉱物
学・地質学の教授に就任。同年、結婚。2 人の娘と 2 人の息子をもうけた。1896 年、ベ
ルリン大学へ招聘される。1901 年、最初のノーベル化学賞を受賞。1911 年 3 月 1 日、
結核によりベルリン近郊で死去。
経歴博士号取得前の 1874 年、ファント・ホッフは有機化学についての重要な論文『現
在の化学において用いられている構造式を空間的に拡大する試みについて』を発表し、
光学活性の説明として炭素の化学結合(共有結合)が正三角錐の頂点に配置されるとい
う説(不斉炭素原子)を提唱した。パストゥールが発見していた光学異性体を説明する
ものである。ル・ベルが独立にほぼ同じ内容のモデルを提案した。この理論は後にフィ
ッシャーが糖類を詳しく研究した結果確実なものとなる。1874 年、ファント・ホッフ
は立体化学についての成果を La chimie dans l'éspace という著書にまとめた。彼の
理論は革新的であり、当時の学会からは批判が大きかった。特にドイツの学術誌
Journal für praktische Chemie の有名な編集者ヘルマン・コルベは痛烈な批判をして
いる。1884 年、反応速度論に関する著書 Études de Dynamique chimique(化学反応速
度論に関する研究)を出版。その中で反応次数を求める新たな手法を提唱し、化学平衡
の熱力学の法則を応用している。また、現代的な意味での化学親和力の概念も導入して
いる。1886 年、
「稀薄溶液の浸透圧は絶対温度と溶液のモル濃度に比例する」というフ
105
ァントホッフの法則を発見。浸透圧を表す式(ファントホッフの式)が理想気体の状態
方程式と同じ形であることを示した。この業績により、1901 年の最初のノーベル化学
賞を受賞している。1887 年、ドイツ人化学者ヴィルヘルム・オストヴァルトと共に科
学雑誌 Zeitschrift für physikalische Chemie(物理化学誌)を創刊した。スヴァン
テ・アレニウスの電解質の理論についても研究し、1889 年にアレニウスの式の物理学
的根拠を与えた。ベルリン大学ではシュタースフルトの岩塩鉱床を研究し、ドイツの化
学産業発展に大いに貢献した。
受賞・栄誉 1885 年、オランダ王立科学アカデミーの一員に選ばれた。また、ハーバー
ド大学 (1901)、イェール大学 (1901)、マンチェスター大学 (1903)、ハイデルベルク
大学 (1908) からそれぞれ名誉博士号を授与されている。1893 年に王立協会からデー
ビーメダルを授与され、1897 年にはフェローに選出された。1911 年、プロイセン科学
アカデミーからヘルムホルツ・メダルを授与。1894 年、レジオンドヌール勲章のシュ
ヴァリエに選ばれた。
106
ヨハネス・ファン・デル・ワールス
ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールス(Johannes
Diderik van der Waals、1837 年 11 月 23 日 - 1923 年 3
月 8 日)は、オランダの物理学者。分子の大きさと分子間
力を考慮した気体の状態方程式を発見し、1910 年にオラ
ンダ人として 3 人目のノーベル物理学賞を受賞した。ヨハ
ネス・ファン・デル・ワールスの業績の重要さは以下の点
にある。
1. 彼の状態方程式は気体と液体を区別なく扱うことが
できた。これは気体と液体が連続であるということを示しており、全く新しい考え
方であった。
2. 彼の状態方程式は多くの気体・液体に当てはまり、きわめて普遍性が高かった。
3. この普遍性により、当時液化されていなかった水素やヘリウムの状態方程式を予言
することができ、低温物理学への道が拓かれた。他に、この研究を発展させた混合
気体の理論や、液体の表面張力に関する研究もある。
略歴と業績 1837 年 11 月 23 日、オランダのライデンに生まれる。ほとんど独学で科学
知識を身に付け、学校の先生になった。1862 年からライデン大学で聴講。ラテン語や
ギリシア語ができないため正規の試験を受ける資格がなかったが、1865 年まで余暇を
見つけてはここで勉強していた。1864 年、デヴェンターの中学校に赴任。のち、この
町で中学校の校長になっている。それからしばらくして法改正により古典学の試験を免
除され、ライデン大学に入学。1873 年、
『液体と気体の連続性について(On the Continuity
of the Liquid and Gaseous States)』と題する博士論文を発表。この中で、分子間力
と分子自身の体積を考慮し気体と液体の両方を含む状態方程式を示す。マクスウェルは、
ネイチャーでこの論文を以下のように激賞している。「ファン・デル・ワールスの名はま
もなく分子科学の最先端に記されるであろう」「この論文はオランダ語を勉強しようと
いう気運を起こさせるであろう」
。1876 年、新設されたアムステルダム大学の物理学教
授に任命される。ファント・ホッフやド・フリースとともにこの大学の育成に努め、他
からの招きを断って引退までとどまった。1890 年、ギブズの熱力学理論を分子系に用
い、二成分系(混合気体)の理論を発表。1893 年、表面張力に関する論文を発表。こ
の論文による、
「表面張力は(Tc − T)αに比例する」という式はファンデルワールスの式
と呼ばれている。1895 年、熱力学ポテンシャルを運動論の立場から扱った論文を発表。
1910 年、「液体及び気体の物理学的状態に関する研究」によりノーベル物理学賞受賞。
1923 年 3 月 9 日、アムステルダムで死去。1937 年、アムステルダムでファン・デル・
ワールス生誕百年を記念する国際会議が開かれる。
107
背景と影響彼の研究の始まりは分子運動論から理想気体の法則を導いたクラウジウス
の論文である。これに触発され、二酸化炭素の状態を詳しく調べて臨界温度を求めてい
たアンドリューズの実験(1869 年)を分子論的に説明できないかと考えた。そして、
理想気体の状態方程式に分子間の引力(ファンデルワールス力)と分子の大きさをそれ
ぞれ表す二つの定数(ファンデルワールス定数と呼ばれる)を導入することで実験結果
を上手く説明できることを発見した。分子間力や分子の大きさは気体によって異なるた
め、当初彼の発見した状態方程式の定数は気体ごとに異なった値を持っていた。しかし
彼はさらに研究を進め、温度・圧力・体積の尺度を変えるだけで多くの気体や液体の性
質が同じ状態方程式であらわされるという法則を導き出した。この成果によって、デュ
ワーの水素液化やカメルリング・オネスのヘリウム液化の方法が開発された。この後、
ファンデルワールスの状態方程式の誤差を埋めるべく、クラウジウスほか多くの物理学
者によって様々な方程式が提案されているが、分子間力と分子の大きさを考慮するとい
うファン・デル・ワールスの直感は今でもそのまま残っている。
ファン・デル・ワールスの名がついた用語

ファンデルワールス力

ファンデルワールス結合

ファンデルワールスの状態方程式

ファンデルワールス半径
108
アルフレート・ヴェルナー
アルフレート・ヴェルナー(Alfred Werner,1866 年 12
月 12 日 – 1919 年 11 月 15 日)はスイスの化学者。遷移
元素錯体の八面体形の構造を提唱し、1913 年にノーベル
化学賞を受賞した。錯体化学の創始者。無機化学の分野
では最初のノーベル化学賞であり、1973 年までは唯一だ
った。
生涯アルザスのミュルーズで生まれる(当時はフランス
に属していたが、1871 年にドイツに併合された)。化学
を学ぶためスイスのチューリッヒ大学に進学し、1890
年に博士号を取得。パリで研究生活を送った後、1982
年にチューリッヒ大学に戻り教授となった。1895 年、スイス市民権を得た。1919 年死
去。
配位化学 1893 年、ヴェルナーは錯イオンを含む配位化合物の正しい構造を提唱した最
初の人物となった。それは、中心に遷移金属原子があり、その周りに中性または陰イオ
ンの配位子があるという構造である。例えばコバルトは CoCl3•6NH3 という化学式で表
される錯体を形成するが、ドットで表されている部分の関係は謎だった。ヴェルナーは
[Co(NH3)6]Cl3 という構造を提唱し、Co3+ イオンを 6 つの NH3 が取り囲んで八面体を形
成しているとした。3 つの Cl- は自由イオンとして分離しており、ヴェルナーは水溶液
の電気伝導率の測定と硝酸銀を使って塩素陰イオンを沈殿させる実験で確認した。後に
CoCl3•6NH3 の化学的性質についてのヴェルナーの提案を確認するのに、磁化率の測定も
行われた。
cis-[Co(NH3)4 Cl2]+
trans-[Co(NH3)4 Cl2]+
複数種類の配位子のある錯体では、観測される異性体の数がヴェルナーの説によってう
まく説明できる。例えば彼は "Co(NH3)4Cl3" には緑と紫の 2 つの異性体があることを説
明した。ヴェルナーはそれらが 2 種類の幾何異性体であり、[Co(NH3)4Cl2]Cl という化
学式で表され、
電気伝導率の測定によって 1 つの Cl- が分離していることを確認した。
109
コバルト原子が 4 つの NH3 と 2 つの Cl という配位子に囲まれて八面体形を形成して
いる。緑の異性体はトランス型で Cl は相対する頂点に位置するが、紫の異性体はシス
型で Cl が隣接する頂点に位置している。ヴェルナーは光学異性体の錯体の存在も予測
しており、1914 年に hexol と名付けた化学式 [Co(Co(NH3)4(OH)2)3]Br6 のキラル化合
物の合成に成功した。
原子価の性質ヴェルナー以前の化学者は元素の原子価を、結合の種類を特に区別せず、
何個の結合を持てるかという数としていた。しかし例えば [Co(NH3)6]Cl3 のような錯体
では、ヴェルナーは Co-Cl 結合は「为」原子価 3 に相当する距離の長い結合だが、Co-NH3
の結合は弱い「副」原子価 6 に相当し、距離が短いと考えた。この後者の 6 という値を
ヴェルナーは「配位数 (coordination number)」と名付け、分子(この場合は NH3)が
中心の金属原子に直接繋がる数と定義した。彼は他にも配位数 4 と 8 の錯体を発見して
いる。この見方や他の類似の見方にのっとり、リヒャルト・アベッグは 1904 年に「ア
ベッグの規則」と呼ばれるものを提案した。それは、元素の正の最大の原子価と負の最
大の原子価の差は 8 になる、というものである。この規則をさらに発展させたのがギル
バート・ルイスで、彼は 1916 年に「オクテット則」を定式化した。
今日では、ヴェルナーの为原子価は酸化数に対応し、副原子価は今も配位数と呼ばれ
ている。上の例での Co-Cl 結合はイオン結合に分類され、Co-N 結合はルイス酸 Co3+ と
ルイス塩基 NH3 の配位結合に分類されている。
110
エミール・フィッシャー
ヘルマン・エミール・フィッシャー(Hermann Emil
Fischer,1852 年 10 月 9 日 – 1919 年 7 月 15 日)はドイツ
の化学者。1902 年に糖類およびプリン誘導体の合成でノ
ーベル賞を受賞した。エステル合成法(フィッシャーエス
テル合成反応)の発見で知られている。
生涯
生い立ちケルン近郊のオイスキルヒェンで、実業家の息子
として生まれる。本人は自然科学の研究者となることを望
んでいたが、父親が事業を手伝うことを強制した。しかし、
商売に不向きな性格であることが判明し、父親もあきらめた。1872 年、ボン大学で学
び始めたが同年中にストラスブール大学に転校。1874 年、フタレインの研究で博士号
を取得し、大学で職を得た。
経歴 1875 年、フォン・バイヤーがミュンヘン大学のリービッヒの後任として招請され、
フィッシャーも有機化学の助手としてついて行った。1878 年、ミュンヘン大学の員外
講師となり、1879 年には分析化学の助教授となった。同年、アーヘンでの化学の教授
職を提供されたが、断わっている。1881 年、エアランゲン大学の化学の教授に就任。
1883 年には Badische Anilin- und Soda-Fabrik という企業の化学工場の監督を依頼
されたが、学界に残ることを選択した。1885 年、ヴュルツブルク大学の化学の教授に
就任し、1892 年まで務めた。ベルリン大学の A・W・ホフマンの後任として招請され、
同大学化学部長となり、1919 年に亡くなるまで務めた。
研究特に有機化学の分野で活躍した。フィッシャー投影式の発案、などの功績がある。
1875 年、フェニルヒドラジンを発見。ミュンヘンでも彼の後を追ってやってきたいと
このオットー・フィッシャーと共にヒドラジン誘導体の研究を続け、トリフェニルメタ
ンから染料を作ることが出来るという新たな理論を構築し、実験でそれを証明した。エ
アランゲンでは、茶・コーヒー・チョコレートの有効成分、すなわちカフェインとテオ
ブロミンを研究し、この分野の一連の化合物の構成を特定し、最終的にそれらを合成し
た。
フィッシャーの名声を高めたのは、プリンと糖の研究である。1882 年から 1906 年に
かけて行われたその研究では、様々な物質を扱っている。当時よくわかっていなかった
アデニンやキサンチン、植物由来のカフェイン、動物の排泄物に由来する尿酸やグアニ
ンなどである。いずれも二環式の含窒素複素環構造を基本として、それぞれ異なる位置
にヒドロキシ基やアミンがあり、そこに独特な尿素類も含まれる。これらの基本となる
仮説上の物質をフィッシャーが 1884 年にプリン (purine) と名付け、1898 年に合成に
111
成功した。1882 年から 1896 年にかけて、フィッシャーの実験室では様々はプリン誘導
体が合成された。1884 年からフィッシャーは糖についての重要な研究を開始し、それ
までの知識を一変させ、新たな渾然一体となった知識を獲得するものとなった。1880
年より以前からグルコースがアルデヒド基を持つことは知られていたが、フィッシャー
は酸化によってアルドン酸になることやフェニルヒドラジンと反応させることでフェ
ニルヒドラゾンとオサゾンを形成することなど一連の変換を明らかにした。1888 年ま
でにオサゾンまでの変換過程からグルコース、フルクトース、マンノースに関連がある
ことを明らかにした。1890 年、グルコン酸とマンノン酸の間でのエピ化により、糖類
の立体的・異性体的性質を明らかにした。1891 年から 1894 年、既知の糖類の立体構造
を全て明らかにし、ファント・ホッフとル・ベルの 1874 年の不斉炭素原子の理論を巧
妙に応用して、未知の異性体の存在を予言した。異性化により異なるヘキソースの間で
相互合成を実現し、次いでペントース、ヘキソース、ヘプトースの間で相互の合成を実
現し、彼の理論の価値を証明した。フィッシャーの最大の成果は、グリセリンを原料と
してグルコース、フルクトース、マンノースを合成したことであり、1890 年に成功し
た。この糖についての重要な研究は 1884 年から 1894 にかけて行われ、特にグルコシド
の研究が最も重要であり、
他の研究はそこから発展した。1899 年から 1908 年にかけて、
フィッシャーはタンパク質の研究で成果を収めた。彼は個々のアミノ酸を分離し特定す
る効率的な分析手法を捜し求め、新たな環状アミノ酸プロリンとヒドロキシプロリンを
発見した。彼はまた、様々な光学活性のアミノ酸からタンパク質を合成する研究も行っ
ている。彼はアミノ酸を鎖状に結合するペプチド結合の技法を確立し、ジペプチド、ト
リペプチドといったペプチドの合成に成功した。1901 年には Ernest Fourneau と共同
でジペプチドの一種グリシルグリシンの合成に成功。また同年、カゼインの加水分解に
ついての研究を発表。自然界にあるアミノ酸を実験室で作り出し、新たなものも発見し
た。フィッシャーのオリゴペプチド合成は最高でオクトデカペプチドまで到達し、その
特性は自然界のタンパク質とよく似ていた。このような業績とその後の研究によりタン
パク質についての理解が深まり、その後の研究の基礎を築いた。
他にもフィッシャーは休日にシュヴァルツヴァルトで採集した地衣類の酵素や化学
物質を研究したり、皮なめしに使われる物質を研究したり、晩年には脂肪を研究したり
した。1890 年には、基質と酵素の相互作用を視覚的に表す「錠と鍵のモデル」を提案
した。ただし、その後の酵素の研究により、このモデルは必ずしも正しくないことが判
明している。フィッシャーはグルコースなどの糖やカフェインなどのプリンを合成した
ことで有機合成化学の先駆者とされている。
私生活 18 歳のとき、ボン大学に入学する前にフィッシャーは胃炎を患った。エアラン
ゲン大学在籍中の最後の方でも胃炎が再発し、ヴュルツブルク大学に移籍する前に 1 年
間チューリッヒで休暇を過ごさないかというチューリッヒ工科大学在職中のヴィクト
112
ル・マイヤーの申し出も断わらざるを得なかった。
記憶力が優れていたが、話し下手で、原稿を書いて丸暗記して講演するというやり方
をとっていた。
ヴュルツブルクでは散歩を趣味とし、シュヴァルツヴァルトにもよく通った。管理職
となってからは、特にベルリンで化学だけでなく科学全般について基盤確立の重要性を
頑強に为張した。科学的問題についての鋭敏な理解や直観、真理を愛する姿勢や仮説を
実験で証明しようとする姿勢から、真の偉大な科学者の 1 人とされている。
1888 年にエアランゲン大学の解剖学の教授の娘と結婚。結婚の 7 年後に妻が亡くな
っている。3 人の息子をもうけたが、そのうち 1 人は第一次世界大戦で戦死した。別の
1 人は徴兵による訓練のせいで 25 歳のときに自殺した。フィッシャー自身も 1919 年に
ベルリンで自殺している。長男のヘルマン・オットー・ローレンツ・フィッシャーはカ
リフォルニア大学バークレー校で 1948 年から亡くなる 1960 年まで生化学の教授を務め
た。
受賞・栄誉 フィッシャーはプロイセン枢密顧問官 (Excellenz) に選ばれ、いくつかの
大学から名誉博士号を贈られている。また、プール・ル・メリット科学芸術勲章とマク
シミリアン勲章を受章。1902 年には、ノーベル化学賞を受章した。
様々な化学反応や化学における概念にフィッシャーの名がつけられている。

フィッシャーのインドール合成

フィッシャー投影式

フィッシャーのオキサゾール合成

フィッシャーのペプチド合成

フィッシャーエステル合成反応

フィッシャーグリコシド化
1919 年に亡くなると、ドイツ科学会がエミール・フィッシャー記念メダルを創設した。
なお、フィッシャー・トロプシュ法は全く別人の Franz Emil Fischer の名を冠した
ものである。
113
ロータル・マイヤー
ユリウス・ロータル・マイヤー(Julius Lothar Meyer、
1830 年 8 月 19 日 - 1895 年 4 月 11 日) は、ドイツの
化学者・物理学者。元素の周期表の作成をメンデレー
エフとほぼ同時に行った。スイスのチューリッヒで薬
学を学び、その後ドイツのいろいろな大学で研究し、
最初は呼吸の生理学的研究を行い、1857 年に血液中の
ヘモグロビンが酸素と結合することを発見した。1864
年、マイヤーは 28 の元素を原子価の値によって 6 つの
グループに分けた初期の周期表を発表した。当時原子量の測定値は不正確であったので、
原子量順に並べることは、まだ有効ではなかった。
1869 年、メンデレーエフは当時知られていたすべての元素を修正された原子量の
順にならべ、いくつかの未発見の元素も予測した周期表を発表した。数ヶ月後メンデレ
ーエフとはまったく独立に、マイヤーは 1864 年の周期表を改良、拡張した周期表を発
表した。マイヤーの原子量の順に図示された周期表は、メンデレーエフの周期表が化学
者たちの信頼をえることを支援することになった。
114
ドミトリ・メンデレーエフ
ドミトリ・イヴァノヴィチ・メンデレーエフ(ロシア語:
Дмитрий Иванович Менделеев
ドミートリイ・イヴァ-ナヴィチ・ミェンヂェリェーイ
ェフ、1834 年 1 月 27 日(グレゴリオ暦 2 月 8 日) -1907
年 1 月 20 日(グレゴリオ暦 2 月 2 日))はロシアの化学
者であり、元素の周期律表を作成し、それまでに発見さ
れていた元素を並べ周期的に性質を同じくした元素が現
れることを確認し、発見されていなかった数々の元素の
存在を予言したことで知られている。また、「石油の無
機起源説」の提唱者としても近年再評価されてい
イリヤ・レーピンによるドミト
る。
リ・メンデレーエフの肖像画
経歴
メンデレーエフは西シベリアのトボリス
クに母マリア・ドミトリーヴナ・コルニレフと父
イワン・パブロヴィッチ・メンデレーエフの 14
人の子供の末っ子として生まれた。14 歳、当時
中学校の校長をしていた父を亡くした。1849 年
に貧しい家族とともにサンクトペテルブルクに
移り住み、1850 年には大学へと進学した。卒業
後の 1855 年に結核と診断され黒海近くのクリミ
ア・ペニンシュラへ中学(高校?)の化学の教師
として赴任した。しかし翌 1856 年に病気から快
復すると再びサンクトペテルブルクへと戻った。
1859 年から 1861 年の間気体の密度についてパリ
で研究を行う。また、ドイツのハイデルベルクで
グスタフ・キルヒホッフと共に分光器についての
研究を行った。1863 年再びロシアに戻り、サンク
トペテルブルクの化学技術大学で化学の教授とな
った。また同年、Feozva Nikitchna Lascheva と
結婚した。
メンデレーエフの最初の英語版
の周期表。
(1891 年のロシア語の
第 5 版をベースにしている。
)
1865 年にジョン・ニューランズがオクターブの法則を発表した。メンデ
レーエフも同様の考えを持っており、1869 年の 3 月 6 日にロシア化学学会で The
Dependence Between the Properties of the Atomic Weights of the Elements と題し
た発表を行った。そこで、
1. 元素は原子量の順に並べると明らかにその性質ごとの周期性を表す。
115
2. 科学的特性の類似する元素はほぼ同じ原子量であるか(例:白金、イリジウム、
オスミウム)
、原子量が規則的に増加するか(例:カリウム、ルビジウム、セシ
ウム)である。
3. 元素グループ内での原子量順に並べた元素の配列はいわゆる原子価だけでなく、
ある範囲まで、独特の化学的特性と一致する。
4. 広範囲に存在している元素の原子量は小さい。
5. 分子の大きさが化合物の性質を決定するように、原子量の大きさが元素の性質
を決定する。
6. 未知の元素の発見が期待される。たとえば、共に原子量が 65 から 75 の間であ
り、科学的特性がアルミニウムに類似する元素およびケイ素に類似する元素が
存在するであろう(後年、該当するガリウム、ゲルマニウムが発見される)。
7. 元素の原子量は原子番号順で前後する元素の原子量に関する知識により修正で
きることがある。たとえば、テルルの原子量は 123 から 126 の間にあり、128 に
はなりえない。
8. 元素の特徴的な特性はその原子量から予言できる。
ということを指摘した。メンデレーエフが周期表を発表し
メンデレーエフメダル
た数ヵ月後、ドイツのロータル・マイヤーが事実上同一の
表を発表した。このため、周期表はメンデレーエフとマイヤ
ーの共同成果であると考える者もいるが、未発見の元素の予
測の質がよかったため、メンデレーエフ単独の功績とみなさ
れている。1893 年、メンデレーエフは度量衡局の所長とな
った。ここでのメンデレーエフの仕事はウォッカの製造技術
の標準化であった。メンデレーエフは、エチルアルコール分
子 1 に対して水分子 2 の割合で混合するのが最適であると結
論づけたが、これは体積比にして 38%アルコールと 62%の水に相当する。これにより、
1894 年に新法が制定され、すべてのウオッカは 40%(体積比)のアルコールを含むものと
規定されたこの比率は現在においても多くのウオッカで用いられている。メンデレーエ
フの研究は、1906 年のノーベル化学賞にノミネートされるも、たった一票の差でアン
リ・モアッサンに敗れる。翌年に死去。功績を顕彰するため、様々なものの名前に彼の
名が残されている。例えば元素名(メンデレビウム)、月のクレーターの名前、タター
ルスタン共和国の都市メンデレーエフスク、モスクワ地下鉄 9 号線の駅(メンデレーエ
フスカヤ駅、「メンデレーエフの駅」という意味)、日本の国後島の空港(メンデレー
エフ空港)など。メンデレーエフスカヤ駅の装飾は分子模型をかたどったユニークなも
のである
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ジョン・ウィリアム・ストラット
(ジョン・レイリー)
第 3 代レイリー男爵ジョン・ウィリアム・ストラット(英:
John William Strutt, 3rd Baron Rayleigh、1842 年 11
月 12 日 - 1919 年 6 月 30 日)は、イギリスの物理学者。
レイリー卿(レーリー卿あるいはレーリ卿とも。Lord
Rayleigh)としても知られる。光の散乱の研究から空が
青くなる理由を示す(レイリー散乱)、地震の表面波(レ
イリー波)の発見、ラムゼーとの共同研究によるアルゴ
ンの発見、熱放射を古典的に扱ったレイリー・ジーンズ
の法則の導出などを行った。このほかにも流体力学(レイリー数)や毛細管現象の研究
など、古典物理学の広範な分野に業績がある。「気体の密度に関する研究、およびこの
研究により成されたアルゴンの発見」により、
1904 年の ノーベル物理学賞を受賞した。
希ガス、0族元素
業績レイリー散乱
1871 年、レイリーは波長より十分小さい粒子による光の散乱を表
す式を導いた。これはレイリー散乱と呼ばれ、それによれば散乱光の強度は波長の 4 乗
に反比例する。晴れた大気の場合、散乱をおこす粒子はほとんどが空気の分子のみ(こ
のような大気をレイリー大気という)で、太陽光の可視波長よりも粒子サイズが十分小
さいためこの理論で説明できる。
雲の水滴(直径数μm)や大気中の塵などのエアロ
ゾルは波長に比べて十分小さいとはいえないので、この理論は当てはまらない。
レイリー波の発見
アルゴンの発見
レイリー・ジーンズの法則
年表
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1842 年 - エセックス州モールドン近郊のラングロード・グローブに生まれる。
1861 年 - ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学(-1865 年)。
1871 年 - バルフォアの姉妹イヴリン・バルフォアと結婚。
1873 年 - 父親ジョン・ジェームズ・ストラットの死去によって爵位を継承し、
レイリー卿となる。また、王立協会会員となる。
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1879 年 - マクスウェルの後任として第 2 代のキャヴェンディッシュ研究所所長
となる( - 1884 年)
。
1884 年 - マクスウェルから引き継いだ、電磁気学の基礎単位の精密な基準を定
めるプロジェクトを完成させる。
1885 年 - 王立協会幹事となる( - 1896 年)。同年、現在レイリー波と呼ばれ
る地震波(表面波)を発見。
1887 年 - ロンドン王立研究所の自然哲学教授となる( - 1905 年)。
1892 年 - 空気から酸素を除いて作った窒素が、アンモニアを分解して作った窒
素より重いことを示す。
1894 年 - ラムゼーと共同でアルゴンを発見。
1900 年 - レイリー‐ジーンズの式を導出。
1901 年 - エーテルを見つけるための実験を行うが、失敗に終わる。
1904 年 - ノーベル物理学賞を受賞。
1905 年 - 王立協会会長となる。
1908 年 - ケンブリッジ大学名誉総長となる。
1919 年 - エセックス州ウィザムのターリング・プレイスで死去。爵位は息子で
物理学者のロバート・ジョン・ストラットが継いだ。
生涯
生い立ちレイリーは 1842 年 11 月 12 日、エセックス州モールドン近くのラングロード・
グローブで、第二代レイリー男爵ジョン・ジェームズ・ストラットの息子として生まれ
た。1861 年まで家庭教師から教育を受けたが、若いうちは病弱で、勉学はたびたび中
断された。その後ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入って数学を勉強した。
1865 年に卒業すると翌年トリニティ・カレッジのフェローとなり、結婚するまでその
地位にあった。卒業後アメリカに旅行し、帰国後にターリング・プレイスの自宅に実験
器具を取り寄せて研究を始めた。彼の研究は、キャヴェンディッシュ研究所所長であっ
た期間を除きほとんど自宅で行われた。
初期の研究 1860 年代から 1870 年代にかけてレイリーが自宅で行った研究は、为に音波
や光波の性質に関するものだった。1870 年にはヘルムホルツの研究を発展させて音の
共鳴に関する論文を発表した。1871 年には「空が青いのは空気中の塵が光を散乱する
からである」というティンダルの推論を理論的に証明した。この、光の波長と粒子の大
きさがほぼ等しいときの光の非弾性散乱はレイリー散乱と呼ばれている。つづいて回折
格子に興味を持ち、分解能に精密な定義(レイリー限界)を与えて分光器の発展に貢献
した。レイリーは 1872 年にリュウマチ熱を患い、暖かい土地での療養を余儀なくされ
た。そのために訪れていたエジプトのナイル河畔で、音響学の古典『音響理論(The
Theory of Sound)』を執筆した。1873 年に爵位を相続した後も彼は研究を続けたが、
これは貴族としては風変わりなものと見られた。
ケンブリッジ]1879 年、レイリーはケンブリッジ大学の実験物理学のキャヴェンディッ
シュ教授に就任した。ここではマクスウェルの仕事を引き継いで精密測定技術の改良を
進め、1884 年には電磁気学の単位(アンペア、ボルト、オーム)の標準を定めた。ま
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た彼は電位差を精密に測定するためにレイリー電位計を発明した。この研究はイギリス
における標準化の先駆といえるもので、レイリーは 1900 年に標準局(National Physical
Laboratory)が設立されると、終生その運営理事会議長を務めた。
王立研究所 1887 年、レイリーは王立研究所教授に就任したが、もっぱら自宅で研究を
して過ごした。この時期彼は「全ての元素はいくつかの水素からなり、そのため全ての
元素は整数の原子量を持つ」というプラウトの仮説の実験的検証のため、いくつもの気
体密度の精密測定を行った。彼の得た結果は他の物理学者の実験と同様この理論を否定
した。しかしそれに付随して、空気中の窒素の密度はアンモニアを分解して得た窒素よ
り 0.5%程度大きいということも見出した。当然彼はその誤差の原因となる不純物が試
料に含まれないよう工夫したが、問題を解決することはできず、1892 年に「ネイチャ
ー」に短いノートを発表して化学者の助けを求めた。それから 2 年間、レイリーはラム
ゼーと共同でその原因を研究した。そしてついに空気中に存在する新元素アルゴンが不
純物であることを突き止め、1895 年に発表した。この業績により、彼は 1904 年のノー
ベル物理学賞を、ラムゼーはノーベル化学賞を受賞した。
熱放射 1900 年、レイリーは黒体放射のエネルギーを与える式を導いた。これは古典物
理学から導かれたが、長波長域でしか実験結果と一致しない。短波長側の実験結果とよ
く一致する式はヴィーンによって提案されていた。レイリーの提案した式の定数は 1905
年に求められたが、ジーンズによってその誤りが訂正されたのでレイリー・ジーンズの
法則の名前がある。
晩年当時現れつつあった量子論や相対論に対して、レイリーは機械論的な古典物理学の
立場から辛辣な批判を加えた。彼は最後まで熱放射を古典物理学で説明する望みを捨て
ず、エーテルを不要にする相対論を嫌悪をもって見ていたといわれる。レイリーは 1919
年 6 月 30 日に、エセックス州ウィザムのターリング・プレイスで死去した。彼には三
人の子供がおり、爵位は長男で物理学者のロバート・ジョン・ストラットが継いだ。
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ウィリアム・ラムゼー
ウィリアム・ラムゼー(William Ramsay,1852 年 10 月 2
日 – 1916 年 7 月 23 日)はスコットランド出身の化学者
である。1904 年に空気中の希ガスの発見によりノーベル
化学賞を受賞した。なお、同年のノーベル物理学賞は希
ガスであるアルゴン(怠け者)を発見した功績によりレ
イリー卿が受賞している。希ガス、0族元素
生涯
前半生グラスゴー生まれ。叔父に地質学者の Sir Andrew Ramsay がいる。グラスゴー・
アカデミーで学び、さらにグラスゴー大学に進学し、化学者トーマス・アンダーソンに
師事。その後ドイツのテュービンゲン大学に留学しヴィルヘルム・ルドルフ・フィッテ
ィッヒに学ぶ。そこでの博士論文のテーマは Investigations in the Toluic and
Nitrotoluic Acids(トルイル酸とニトロトルイル酸について)だった。グラスゴーに
戻ると、アンダーソンの助手として働いた。1879 年、ユニバーシティ・カレッジ・ブ
リストルの化学の教授となり、1881 年に結婚。同年、学長に就任したが、なんとか時
間をやりくりして有機化学や気体の研究を続けた。
経歴 1887 年、アレキサンダー・ウィリアムソンの後任としてユニヴァーシティ・カレ
ッジ・ロンドン (UCL) の化学の教授に就任。ここで多くの発見を行った。1885 年から
1890 年にかけて、窒素の酸化物に関する論文をいくつか発表しており、それがその後
の業績に繋がっている。1894 年 4 月 19 日の夜、ラムゼーはレイリー卿の講演に参加し
た。1892 年、レイリー卿は空気から酸素を取り除いて得た窒素の密度は化合物を分解
して得られる窒素のそれよりも大きい、という事実を「ネイチャー」誌に報告していた。
これは空気中には酸素、窒素以外のものが含まれているという事を暗示する。ラムゼー
とレイリーは講演後に話し合い、これを追究することにした。当時アンモニアの合成を
研究していたラムゼーは、高温でマグネシウムと化合させて窒化マグネシウムとして窒
素を取り除くことにより、空気中の不活性な重い気体を取り出すことに成功した。ラム
ゼーはこれを同年 8 月にレイリーに知らせている。これをアルゴンと名付け、1895 年
にレイリーと共に発表。さらに 1895 年、太陽のスペクトル観測によって存在が予測さ
れていたヘリウム(太陽の元素)をウラン鉱に含まれる窒素の中に発見した。さらに未
発見の希ガスを発見するために、空気を液化することなどによって、1898 年、クリプ
トン(隠れたもの)、ネオン(新しいもの)、キセノン(見知らぬもの)を発見した。
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1903 年、ソディとウラン鉱中のヘリウムがウランのアルファ崩壊によるものであるこ
とを示した。
アルゴンの発見をきっかけとした諸研究により、1904 年、ラムゼーはノーベル化学賞
を、レイリーはノーベル物理学賞を同時受賞した。1910 年には、ラドンの特性を研究
している。
1905 年にはラムゼーの学界での名声を利用した詐欺事件が発生している。Industrial
and Engineering Trust Ltd. は海水から金を抽出する秘密の技法を開発したとして、
ラムゼーの名を利用して資金を集め、イギリスの海岸の土地を購入して金抽出工場を作
ろうとしたが、金が生産されることはなかった。
私生活ラムゼーはマーガレット・ジョンストン・マーシャルと結婚し、娘と息子を 1 人
ずつもうけた。死の直前までバッキンガムシャーのヘイゼルミアに住んでいた。1916
年 7 月 23 日、鼻腔癌によりバッキンガムシャーのハイウィカムで死去。ヘイゼルミア
の教会に埋葬された。ヘイゼルミアには、ウィリアム・ラムゼーの名を冠した高校があ
る(1976 年開校)。
ヘリウム
ヘリウム原子の存在を示す最初の証拠は、1868 年 8 月 18 日に太陽の彩層部分の光を発
光分光分析した際に見つかった、波長 587.49 ナノメートルの黄色い輝線だった。これ
を発見したのは、インドのグントゥールで皆既日食を観察していたフランス人天文学者
のピエール・ジャンサンだった。彼は当初、この線はナトリウムを示すと考えたが、同
年 10 月 20 日にイギリス人天文学者ノーマン・ロッキャーがやはり太陽光を分析して黄
線を観測し、ナトリウムのフラウンホーファー線記号 D1 や D2 に近かったことから、D3
と名づけた。ロッキャーは、この元素が太陽を構成する地球では知られていない元素だ
と結論づけ、彼とイギリスの化学者エドワード・フランクランドは、ギリシア語で太陽
(ἥλιος) を意味する「ヘリウム」と名づけた。
121
宇田川榕菴
宇田川 榕菴(うだがわ ようあん、1798 年 3 月 9 日
(寛政 10 年 1 月 22 日) - 1846 年 6 月 22 日(弘化 3
年 5 月 29 日)
)は江戸時代後期の日本の蘭学者。名は
榕、緑舫とも号した。宇田川榕庵とも表記される。
概説大垣藩医江沢養樹の長男として生まれ、1811 年
に津山藩医宇田川玄真の養子となった。1817 年に津
山藩医となった後、1826 年には幕府の天文方蕃書和
解御用の翻訳員となってショメール百科事典の翻訳
書『厚生新編』
(こうせいしんぺん)の作成に従事す
るため江戸に移った。 養父である宇田川玄真、また
その養父である宇田川玄随、養子である宇田川興斎も
蘭学者、洋学者として知られている。シーボルトとも
親交があり、高橋輝和『シーボルトと宇田川榕菴 江
戸蘭学交遊記』
(平凡社新書、2002 年)に詳しい。
養父との共著で 1822 年から 1825 年にかけて『遠西医方
名物考』
(えんせいいほうめいぶつこう)、1828 年から 1830
ボルタ電池の解説
(舎密開宗より)
年にかけて『新訂増補和蘭薬鏡』
(しんていぞうほお
らんだやくきょう)
、1834 年ごろに『遠西医方名物考
補遺』といった薬学書を出版している。1822 年(文政
5 年)『菩多尼訶経』
(ぼたにかきょう)、1835 年(天
保 6 年)に『理学入門 植学啓原』
(りがくにゅうもん
そくがくけいげん)を出版して西洋の植物学を日本に
はじめて紹介した。菩多尼訶は植物学を意味するラテ
ン語 Botanica の字訳であり、経はその本文を経文に
なぞらえて執筆したことによる。また、1837 年(天保
8 年)から死後の 1847 年(弘化 4 年)にかけて日本で
はじめての近代化学を紹介する書となる『舎密開宗』
(せいみかいそう)を出版した。舎密は化学を意味す
るオランダ語 Chemie の字訳である。 舎密開宗の原著
はイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーが 1799 年に
化学実験図(舎密開宗より)
出版した Elements of Experimental Chemistry を J・B・トロムスドルフ(de:Johann
Bartholomäus Trommsdorff)がドイツ語に翻訳、増補した Chemie für Dilettanten を、
さらにオランダの Adolf Ijpeij がオランダ語に翻訳、増補した Leidraad der Chemie
voor Beginnennde Liefhebbers, 1803(『依氏舎密』)である。 しかし、単なる翻訳で
122
はなく Adolf Ijpeij による Sijstematisch handboek der beschouwende en werkdaadig
Scheikunde(『依氏広義』)、スモーレンブルグ(F. van Catz. Smallenburg)の Leerboek
der Scheikunde(『蘇氏舎密』)などの他の多くのオランダ語の化学書から新しい知見の
増補や、宇田川榕菴自身が実際に実験した結果からの考察などが追記されている。宇田
川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作
って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶
解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語は宇田川榕菴の造語である。
また、自然科学分野に留まらずオランダ語の度量衡に使用する単位についての解説『西
洋度量考』やオランダの歴史、地理を解説した『和蘭志略稿』
、コーヒーについての紹
介『哥非乙説』
(こひいせつ)なども記している。なお、coffee の日本語表記である「珈
琲」は、この榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われている。
墓所は泰安寺(岡山県津山市)
。
ウィリアム・ヘンリー (化学者)
ウィリアム・ヘンリー(William Henry、1775 年
12 月 12 日 - 1836 年 9 月 2 日)はイングランドの
化学者。マンチェスター生まれ。父トーマスは薬
剤師。1795 年から医学を学んだが病気によって中
断し、学位を取得したのは 1807 年になってからだ
った。その間の時間を化学の研究に充てたヘンリ
ーは、1799 年に"An Epitome of Chemistry"を著し
た。この書は、ドイツ語訳、オランダ語訳を通し
て日本にも伝わり、1840 年に宇田川榕菴によって
『舎密開宗』として出版された。また、1803 年、
「気体の溶解度は圧力に比例する」とした論文を
発表、この法則はヘンリーの法則と呼ばれている。
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