未完の大女優・園井恵子 - So-net

37.未完の大女優・園井恵子:「櫻隊全滅」と「無法松の一生」
(感想文の筆者:林
久治、記載:2015 年4月 20 日)
図1.(左)本「櫻隊全滅」の表紙。著者:江津萩枝(1910 年9 月 - 2008 年3 月
27 日)、発行所:未来社、発行:1980 年、定価:1800 円+税。映画「原爆の子」
(1952)で有名な新藤兼人監督(1912.4.22 – 2012.5.29 )が、本書を原作として
1988 年に映画「さくら隊散る」を製作した。(右)映画「無法松の一生のDVDの
表紙」。製作:大映(1943)、原作:岩下 俊作(1906-1980)監督:稲垣浩(19051980)、脚本:伊丹万作(1900-1946)、主演:阪東妻三郎(1901-1953)、園井恵
子(1913-1945)。
(1)前書き
本年の2月に私(筆者の林)は動画サイト「You Tube」で、「我輩は猫である」
(製作は現在の東宝、1936 年公開、87 分白黒)をたまたま見た。退屈老人の私が、
戦前の名作映画鑑賞を始めたのである。この映画の監督は山本嘉次郎(1902-1974)
で 、 主 人 公 の 「 珍 野 苦 沙 弥 」は 丸山定夫 (1901-1945)、「 迷亭」は 徳川夢 声
(1894-1971)が演じていた。
山本監督は戦前からの有名監督で、「エノケン・シリーズ」で大ヒットし、特撮
監督に円谷英二を起用して「ハワイ・マレー沖海戦」や「加藤隼戦闘隊」を製作し、
日本の特撮技術を開発したことでも有名である。しかし、本映画に私は、漱石の諧
謔があまり感じられなかった。80 年前の映画なので、万事がゆったりとしていた。
主役の丸山の演技は地味であった。本映画の唯一の見所は、徳川夢声の洒脱な演技
であった。
1
私は上記映画の直後に、市川崑監督(1915-2008)の「我輩は猫である」(製作は
芸苑社、1975 年公開、116 分総天然色)も参考のために見た。「珍野苦沙弥」は仲
代達矢(1932-)が、「迷亭」は伊丹十三(1933-1997)が、「金田鼻子」は岡田茉
莉子(1933-)が演じていた。市川監督も有名で、本映画は日本映画の絶頂期にふさ
わしい名作(迷作?)であった。出演者も有名人が多く、多彩な個性がよく出てい
た。特に、鼻子役の岡田は、「成金の厚顔な奥様」を面白おかしく演じていた。
私は丸山定夫の名前をこの時に初めて知った。そこで、「彼はどういう人物か」
をネットで調べ、次ぎの事が分かった。彼は「新劇の団十郎」と賞賛された名優で
あったが、大東亜戦争の末期には「桜隊」という新劇一座を率いて日本国内を巡業
していた。桜隊は 1945 年8月に、たまたま広島に疎開していて、8月6日に不幸に
も被爆した。
「桜隊」の隊員で被爆したのは九名であった。そのうち、原爆で倒壊した宿舎か
ら逃げ出したのは四名で、宿舎の下敷きになったまま焼死したのは五名であった。
丸山は即死ではなかったが、8月 16 日に原爆症でなくなった。桜隊のヒロインであ
った「園井恵子」も被爆したが、彼女は一見無傷であった。彼女は一緒に被爆した
高山象三と一緒に六甲の知人宅に避難したが、間もなく原爆症が発症して、8月 21
日に死亡した。
桜隊被爆の様子を江津萩枝が「櫻隊全滅」という本に書いていることを、私は知
った。本書の表紙を図1左に示す。さらに、新藤兼人監督はこの本や関係者の証言
をもとにして、「さくら隊散る」という映画を 1988 年に製作した。(なお、本映画
のDVDは中古品が販売されているが、高価である(7500 円より)。本映画の一部
は、次ぎの動画サイトで見ることが出来る。「さくら隊散る」の動画の一部/h ま
た、新藤監督は有名な「原爆の子」の映画を 1952 年に製作している。この映画のD
VDも中古品しかないが、「You Tube」の次のサイトで全編を見ることが出来る。
「原爆の子」の動画/Q )
園井恵子は被爆の2年前に、映画「無法松の一生」で主演男優・阪東妻三郎の相
手役である「吉岡よし子」を演じて好評を博し、大女優に成長することが期待され
ていた。現在、本映画のDVDは新品が販売されている(1854 円)。DVDの表紙
を図1右に示す。
本感想文では、本「櫻隊全滅」を読み、映画「無法松の一生」を鑑賞し、「未完
の大女優・園井恵子」に焦点を絞って、「ある劇団の原爆殉難」を勉強してみよう。
なお、筆者(林)の意見を青文字で記載する。
(2)園井恵子と「無法松の一生」
私(筆者の林)は、日米開戦の1ケ月後の 1942 年1月に徳島市で生まれた。日米
開戦直後は、日本軍は快進撃であったが、1943 年から戦況は次第に悪化して行った。
金属類回収令は 1943 年に戦局悪化と物資(武器生産に必要な金属資源)の不足を補
うため、官民所有の金属類回収を行う目的で制定された。そのため多くの国鉄や私
鉄の路線が「不要不急」線に指定され、線路などが撤去された。京都嵐山の愛宕山
鉄道もこの時に撤去された鉄道の一つであった。また、全国の銅像や金属製品は兵
器に回収された。徳島の城山にあった「正午のドン」の大砲もこの時に撤去された。
1943 年における以上のような戦局悪化のご時勢に、戦争とは関係がない映画「無
法松の一生」が製作されたことが興味深い。銃後を守る人々にも、娯楽は必要であ
ったのであろう。主人公の「富島松五郎」を演じた阪東妻三郎(阪妻)は、当時の
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二枚目トップスターの一人であった。私が本映画を見た印象では、無法松役として
阪妻は格好が良過ぎる。私は「1965 年版の勝新太郎が適役であった」と思う。
ウィキペディアによれば、稲垣監督は吉岡夫人の役には当初、水谷八重子を候補
に挙げていたが、公演があったため断念。続いて東宝の入江たか子を呼ぶことにす
るが、東宝では入江と大河内の主演で「無法松の一生」をやる計画もあったため、
貸してくれずこちらも断念。次に結婚して宝塚歌劇団を退団していた小夜福子に出
演依頼をするが、折悪しく小夜は妊娠中で、かなりお腹が大きくなっていて出演を
辞退した。
しかし、小夜は「もし、ほかに候補の方がなかったらと思ってこの人を連れてき
たのです、私よりもピッタリだと思いますけど」と、後輩の園井恵子を稲垣らに紹
介した。園井はアスピリン中毒で口の周りに湿疹ができていてマスクをどうしても
外してくれなかったが、稲垣は小夜の言葉を信じて園井の起用を決めた。結局、園
井は稲垣の予想以上に吉岡夫人を演じて見せてくれた。稲垣は園井について、「ま
るでこの役をやるために生まれてきたような人だった」と評している。
図2.映画「無法松の一生」の有名なシーン。右から、園井恵子(1913-1945)、
阪東妻三郎(1901-1953)、沢村アキヲ。阪東妻三郎は「阪妻」の愛称で親しまれ、
田村高廣(1929-2006)や田村正和(1943-)の父である。子役の沢村は、後の長門
裕之(1934-2011)で、女優・南田洋子(1933-2009)の夫であった。
「櫻隊全滅」の「桜隊のひとりひとり」の章(p.168-169)によれば、園井は
1913 年、盛岡市に出生。宝塚歌劇団の男役スターで、1941 年に宝塚を退団。1942
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年には、東宝演劇研究会の公演「ファウスト」に客演し、「苦楽座」の旗揚げ公演
に客員参加した。それ以来は、苦楽座同人となって、新劇の舞台に執念を燃やすよ
うになった。1943 年には、大映が園井の麗質に眼をつけて、「無法松の一生」に阪
東妻三郎の相手役、「吉岡良子」に園井を起用、これが大当たりとなり、園井は女
優としての名声を一気に高めた。園井はその後も苦楽座を離れず、新劇女優として
の修行をつんだ。
苦楽座創立同人の一人であった徳川無声は、彼の随筆で次ぎのように書いている
(「櫻隊全滅」の p.23-24)。「『無法松の一生』では、園井の清純で妖しいまで
の美しさが観客を充分に魅了した。その年の映画ベスト・テンの一本として輝き園
井の女優としての名声が高まった。大映では園井に専属契約の話を持ち込んだが、
『折角ですが、私はまだ当分、苦楽座の人たちと、舞台の修業を致したいと存じま
すから』と彼女は断った。この時、彼女がもし、大映の専属となり、苦楽座から去
っていたなら、広島の原爆死はなかったわけだ。何を好んで彼女は、ロクに給料も
貰えない、苦楽座なんかに齧りついていたのであろうか?単に、舞台の修業をつみ
たいだけであったのだろうか、それとも、彼女を釘づけにして離さない、何ものか
があったのだろうか?」
有名な映画監督の山本嘉次郎も彼の「カツドウヤ紳士録」で次ぎのように書いて
いる(「櫻隊全滅」の p.169-170)。「園井君は『無法松の一生』で阪東妻三郎氏
の相手役を演じ、その繊細巧緻な芸風と、清楚でそのくせ、どことなく漂うほのぼ
のとした色気とで、一躍、全国で人気を得たが、その『無法松の一生』一本きりで、
広島で原爆にやられて、死んでしまったのである。ところが、ほんとは、死ななく
て済んだのである。(中略)ボクは、ボクの次の作品に、ぜひとも園井君に出ても
らいたいと思った。そして、園井君にあてはめて、脚本を書いた。しかし、園井君
の行方が分からなかった。」
山本監督によれば、夏の暑い日に東宝撮影所の俳優事務室に行くと、「園井が二、
三分前、裏門を出て行った」と言われた。彼女は「こんな空襲の激しい最中に、長
い旅興行には行きたくないので、映画の方の仕事は無いだろうか」と撮影所に頼み
にきたそうであった。すぐ後を人に自転車で走らせて方々探したが、園井は見つか
らなかった。園井はその夜、劇団と一緒に汽車に乗り、広島に発ってしまった。
もしこの日に、山本監督が園井恵子に会っていれば、山本監督の製作で、園井の
主演による名作映画が誕生していたであろう。「もし園井恵子が広島に行っていな
かったら、杉村春子(1906-1997)と並び称される新劇女優となっていたであろ
う。」と言われている。(しかも、園井は杉村より格段に美人である!)原爆で亡
くなった園井恵子は、まさに「未完の大女優」であった。
(3)丸山定夫と移動劇団「桜隊」
「櫻隊全滅」の「桜隊のひとりひとり」の章(p.180-186)より、丸山定夫の略歴
を簡略にまとめてみよう。丸山定夫は 1901 年に愛媛県松山市に出生。文学少年だっ
た丸山はやがて戯曲に興味を持つようになり、1917 年、広島を拠点に全国を巡業す
る「青い鳥歌劇団」に入団し、俳優としてのスタートを切る。同時期に榎本健一
(1904-1970)、徳川夢声(1894-1971)らと知り合う。
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丸山はその後、上京し浅草の軽演劇団に入団、関東大震災(1923 年)後の楽屋で
「築地小劇場創設の趣意書」を拾った。1924 年、丸山は演出家・土方与志(18981959)の自宅に単身乗り込んで自身を売り込み、築地小劇場研究生として採用され
た。1928 年、築地小劇場の中心人物だった演出家・小山内薫(1881-1928)が死去。
これにより劇団内部に意思の食い違いが生じるようになり、翌 1929 年、丸山ら6名
が脱退、土方を中心にして「新築地劇団」を結成する。この頃から丸山らは、左翼
思想に傾倒していくようになった。
「新築地劇団」で丸山が演じた役は、尾崎士郎「人生劇場」の吉良常、ゴーリキ
ー「どん底」のルカ、チェーホフ「桜の園」のロパーヒンなど、90 以上にのぼる。
特にモリエール「守銭奴」のアルパゴン役は、彼の代表作とされている。丸山は新
劇の発展に貢献し、「新劇の団十郎」と賞賛されていた。
図3.映画「我輩は猫である(1936)」にお
いて、主役の珍野苦沙弥を演じた丸山定夫。
丸山は新劇の仲間を援助するために、「エノ
ケン一座」にコメディアンとして出演した。
また、丸山はPCL(東宝映画の前身)とも
専属契約し約 20 本の映画に出演し(この
「我輩は猫である」もその一つであっ
た。)、映画俳優としても独自の境地を開拓
した。
次に、移動劇団「桜隊」の結成と被爆の経緯を、「櫻隊全滅」の「桜隊の成りた
ちとその演劇活動」の章(p.15-50)より、年表形式で簡潔に紹介しよう。
1940 年夏
内閣情報局は、反体制的傾向があるとして、築地小劇場の流れをくむ、「新築地
劇団」、「新協劇団」、及び「テアトロン社」を解散させ、幹部多数を検挙。
1941 年6月9日
内閣情報局は、戦時文化政策推進のため、「日本移動演劇聯盟」を結成。
1942 年7月8日
劇団を政府の手で解散された新劇人の一部が、新劇団「苦楽座」を結成。創立同
人は、高山徳右衛、丸山定夫、藤原鶏太(後の釜足)、徳川夢声。
1942 年 12 月3-20 日
苦楽座は旗挙げ公演を新宿大劇場で行う。園井恵子は賛助出演。
1943 年1月
日本移動演劇聯盟は改組して社団法人となる。会長は藤山愛一郎。
1944 年 11-12 月
苦楽座は、西日本ほとんど全土を「無法松の一生」をもって巡回公演。
1944 年 12 月 24 日
苦楽座は東京に帰還。東京はこの頃から敵機の空襲を受けるようになり、演劇の
興行が困難になった。そのため、苦楽座は解散した。
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1945 年1月
丸山は、苦楽座の仲間や他の新劇人にも呼びかけ、移動劇団桜隊を結成し、日本
移動演劇聯盟に加盟。発足当時の桜隊に参加した人は以下の通り。俳優は永田靖
(隊長)、丸山、園井、槇村浩吉、池田生二、多々良純、水谷正夫、水谷三重三、
遠山義雄、高山象三(高山徳右衛の一人息子)、仲みどり、利根春江、島木つや
子、演出家は八田元夫、裏方は土方浩平、鉄一郎、江守純子の計 17 名。
1945 年1月 24 日-2月3日
桜隊は、神奈川県下の 11 箇所を巡演。その後、空襲下の東京で稽古。
1945 年2月 18 日
桜隊は、東京駅 22 時 40 分発の呉廻り広島行き列車で出発。
1945 年2月 20 日
桜隊は、朝2時に広島着。その日から昼と夜の公演を行った。昼は、広島陸軍病
院第一分院。800 余名の傷病兵に喜ばれる。夜は、警戒警報発令で途中中止。な
お、桜隊の公演は劇場ではなかったので、舞台の設定と撤去は隊員が行った。
1945 年3月2日
桜隊の広島での最後の公演。丸山らは夜行列車で東京に発つ。
1945 年3月 10 日未明
東京大空襲。
1945 年6月 22 日
日本移動演劇聯盟は、所属劇団の地方疎開を決行。この日、桜隊は中国地方分駐
隊として、広島市堀川町の聯盟中国出張所兼寮に着任。永田と多々良が応召した
ので、隊長は丸山、事務長は槇村、以下田辺若男、水谷、池田、高山、遠山、園
井、仲、島木、羽原、森下、それに槇村夫人の小室と島木の母・笠の計 14 名。初
の移動活動は山口県下に予定していたが、空襲がひどくなり中止。町内の奉仕活
動に参加。
1945 年7月5日夜8時
桜隊は、広島放送局のラジオドラマに出演。(もちろん、生放送。)
1945 年7月6日未明
桜隊は、広島駅を出発し、島根、鳥取両県に、約 10 日間の巡演活動。八田も参加。
丸山は 39 度の発熱をおして出演。
1945 年8月はじめまで
7月 14 日、八田は聯盟本部と打ち合わせのため帰京。池田は家族の疎開先の沼津
が空襲で全滅したとの報を聞いて帰沼。田辺、水谷、遠山は仕事のメドが立たな
いので帰京。槇村は男優補強のために上京。堀川町の寮に一緒にいた聯盟加盟劇
団「珊瑚座」(関西新派系と吉本興業系)は厳島の存光寺に疎開。
1945 年8月6日(広島原爆の当日)
堀川町の寮に居たのは、丸山、高山、園井、仲、島木親子、羽原、森下、小室の
9名。
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1945 年8月6日午前8時 15 分
米空軍は広島市に世界ではじめて原爆を投下。(筆者の林は、「これは一般市民
に対する大量虐殺兵器の使用であり、明らかに国際法に違反した最も恥ずべき残
虐行為である」と鬼畜米国を強く非難したい。)以下に、9名の桜隊員の被爆の
状況を簡単に紹介する。詳しくは、「櫻隊全滅」の本をご覧下さい。
①
②
③
図4.現在の広島市中央部 爆心地(★)、桜隊の寮があった所(①)、さくら隊
原爆殉難碑(②)、比治山公園(③)。桜隊の寮は爆心地から東方約 750mの地点。
(4)丸山定夫の被爆
「櫻隊全滅」の「被爆の朝から夜」の章(p.51-62)と「丸山定夫の死まで」の章
(p.70-92)によれば、丸山(40 歳)は、肋膜炎が治らず寮の二階で寝ていた。鋭
い閃光が走り、巨大な爆発音に家がゆれた瞬間、天井が体の上に落ちてきて、気を
失った。耳もとで木材の燃える音がし、キナ臭い匂いがしたので、丸山は正気に戻
り、梁を押上げて隙間からやっと外に出た。(丸山は二階で居たので落下物が比較
的少なく、脱出できたのであろう。)辺りは一面の火の海で、大勢の人が東に走っ
て逃げていた。殆ど皆着衣はなく、頭髪は逆立ち、剥げて垂れ下がっている自分の
皮膚を引きずって駈けている者も多かった。
丸山はその人達と一緒に比治山(図4の③)まで来て、再び気を失った。気がつ
くと、横にトラックが止まっており、それに乗せられたり、船に乗せられて、海岸
の大きな倉庫の中に運ばれた。ここは鯛尾臨時収容所で、床の莚の上で8日まで過
ごした。丸山は、梁にはさまれて首から背中まで打撲裂傷を負い、這い出すときに
全身に擦過傷を負っていたので、身動きの出来ない状態であった。
東京に帰っていた八田と槇村は、広島に空襲があったという情報に接したが詳細
は不明であった。「とにかく行こう」と、八田と槇村は補充男優二名を連れて、切
符を工面して8日午後の列車で東京を発った。列車を何回も乗り換えて、10 日の昼
に広島に着いた。聯盟事務所は門の石柱のみを残して、灰になっていた。門柱には
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白墨で「桜隊、厳島に連絡せよ」と書いてあった。八田らが厳島の存光寺に着いた
のは日暮れであった。
丁度 10 日に、鯛尾の収容所から一人の被爆負傷者が厳島に帰ってきた。その人の
家族が、「タイビ島に居る。レンラク頼む」と丸山が書いた紙片を存光寺に届けた。
11 日に、八田と槇村は宇品陸軍輸送部の受付に行き、鯛尾収容者の名簿を見たが、
丸山の名はなかった。二人は「鯛尾から対岸に移された負傷者が多い」と聞き、そ
の名簿のある建物に辿り着くと、家族の安否を探す人々で一杯であった。その名簿
に丸山の名はあったが、当日はそこに行く手段がなかった。
8月 12 日に、八田と槇村は、宮島口から呉線の小屋浦までの切符を入手し、臨時
収容所となっている国民学校で丸山を発見した。彼はパンツ一つで全身土気色をし
ており、死人のように眼をつぶって横たわっていた。体温は 40 度近かった。その夜、
丸山は二人に連れられて厳島の存光寺に辿り着き、被爆以来6日目に蒲団に横たわ
った。厳島に一人しかいなかった医者は女医で、「肋膜炎が進行している所へ特殊
爆発のガスを吸っている」との診断であったが、特別の手当てはされなかった。
丸山の病気とケガをなおすために「丸山と八田はとりあえず東京に帰ったら」と
いう意見があったが、丸山は「隊員の消息が分からない以上、自分達だけが帰る訳
にゆかぬ」とはねつけた。寮の近所の生存者から、「高山、園井、および仲は逃げ
たようだ」という情報があった。しかし、他の5名の手掛かりはなかった。
13 日に、八田は丸山の看病で残り、捜索隊(槇村と珊瑚座の5名)は、もう一度
寮の焼け跡を捜索しようということになった。捜索隊は、再び寮の跡に行き、指先
で白い灰を掻き分けると、6人の白骨が発見された。みんなが髪のピンがあったの
で、女性だと分かった。行方不明の5名の隊員(島木親子:41 歳と 22 歳、羽原:
23 歳、森下:23 歳、小室:30 歳)の他に炊事婦が一人居たらしい。捜索隊が現地
で昼食を取っていると、羽原の両親が広島駅から尋ねて来た。老夫妻は、皆の白骨
を少しずつ袋に入れて、涙一滴もこぼさずに帰って行った。
(桜隊の八田と槇村、および珊瑚座の人達は、桜隊の捜索のために、原爆投下直後
の広島市内に度々出かけていた。原爆が放射性物質を大量に撒き散らしたことに、
当時の日本人は思いも到らなかった。後々、彼らに原爆症が発症したとは、特に伝
わっていない。捜索隊の方々の仲間を案じる心情に、私は感動した。)
14 日は、槇村は丸山の看病で残り、八田と珊瑚座の人々は、消息不明の高山、園
井、および仲を捜索するために、広島市内に行った。その日の朝から、丸山は原爆
症特有のはげしい食欲不足と喉の不通状態が起こった。この夜、庫裏に位牌を並べ
て通夜となった。
8月 15 日、丸山は日本の無条件降伏を知り「これで日本はよくなりますよ、いい
芝居をやりましょう」と平然と言っていたが、苦労して手に入れた卵を「今は欲し
くない」と食べなかった。丸山は、食事は全然とれず、熱が燃えるように高かった
が、それが原爆症とは誰も知らなかった。
珊瑚座員の大矢章三は次ぎのように証言している。「15 日の夜になって、苦しみ
はひどかったらしいが、丸山さんは決して声にだして訴えなかった。皆も疲れてい
たので、十時頃には寝てしまった。叩き起こされて隣室の丸山さんの寝床に行った
が、既に亡くなっていた。丸山さんは、両手で虚空をつかみ、かきむしっている形
で手も指も硬直していたので、寺の住職にお経をあげてもらいながら、皆で胸の上
に手を組ませるのは簡単ではなかった。とても肉親には見せられない苦しみの形相
であった。あれが原爆死というものか…あの時のことは生涯忘れられない。」
8月 16 日に丸山は死亡し、17 日に火葬された。私(林)は「原爆で誰にも見取
られることなく、言語に絶する苦しみの中で孤独に死んで行った被爆者が多いなか
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で、丸山は仲間に救出され手厚い看護の下で死亡した。さらに、懇ろな死出の送り
を受けることもできた。そういう意味で、丸山は幸福であった」と考えている。
(5)園井恵子と高山象三の被爆
「櫻隊全滅」の「被爆の朝から夜」の章(p.51-62)と「高山象三と園井恵子の死
まで」の章(p.93-99)を参考にして、園井(31 歳)と高山(21 歳)の被爆状況を
簡潔に紹介する。園井は、丸山の朝食の膳を二階から下げてきて、階段の下に居た
ところ、閃光を感じ、爆風に吹き飛ばされて、庭に叩きつけられて一時気絶した。
高山は二階の座敷に居て庭を見ていたが、爆風に吹き飛ばされて、庭に叩きつけら
れて一時気絶した。二人は家屋の下敷きにもならなかったし、直接閃光にも晒され
なかったので、着衣もあった。高山が足の指先に小さな創傷を負っただけで、園井
は全く無傷であった。
二人は火をさけて、比治山に着いた。山は避難者でいっぱいで、着衣のない血ま
みれの人、顔も手足も焼けただれて男女の見分けもつかぬ人、目の前で悶絶する人、
狂乱して叫び続ける人など、地獄さながらの光景であった。比治山の東側は、山の
陰になって原爆の被害が軽かった。二人は比治山の6キロ東の海田市町に接待を受
けた家があることを思い出して、7日にその家にたどり着いた。二人は、一晩そこ
でお世話になった。
8日に二人は、山陽本線上り復旧一号車が出る話を耳にして、その家の人たちが
「しばらく体を休めてから」と止めたが、二人は「早く六甲の中井家に行きたい」
一心で、海田市駅に行き神戸に向かった。中井家は、園井の宝塚時代からの熱心な
後援者で、園井は日頃から「六甲の家」と呼んでいた。六甲山麓の中井家に駆け込
んだ時の二人はまだ極めて元気な様子であった。園井は中井家のママに、「助かっ
たのよ、私、助かったのよ」と叫んで飛びついた。高山は少し風邪気味だと言い、
喉を一寸つまらせていたが、元気であった。
10 日になると、高山の健康状態に異変が出始めた。喉が詰まり、呼吸が苦しく、
歯が痛くなり発熱もしていた。しかし高山は普段から扁桃腺肥大を起こしやすい虚
弱体質であったので、「風邪のため」と周囲の者も思い、特別な心配をしなかった。
11 日には、高山は歯痛と歯ぐきに出血をみたので、園井が歯医者に連れて行った。
この頃から、高山の体温は高くなり、喉が腫れ、食欲不振が出てきた。高山の看病
をしていた園井自身も、体内の異常を感じたようであるが、気丈な園井はそれに打
ち克とうと努力していた。
丸山死亡の翌日の 17 日には、高山の体温は 40 度を越し、医師の診断では「ジフ
テリア」なので、中井家では消毒液を置いた。園井もこの頃から、発熱や喉に蓋を
したような食欲不振で、元気を喪失した。19 日には、八田が中井家に辿り着いた。
その時には、高山は重態で殆ど意識がうすれていた。園井も 38 度を越す熱を出して、
隣室で寝ていた。
20 日の朝には、高山の体温は 40 度五分、41 度と上昇し、蒲団からころげ出て、
手で畳をかきむしり、足で床を打つ。渇を訴えるので水を与えても一滴も喉を通ら
ず、喉の組織は破壊しつくされて、黒血が止めどなく噴出し、その度に体をくねら
せてもがき苦しみながら、その日の午後、高山は 21 歳の生涯を終えた。
21 日に高山の両親が中井家にやっと駆けつけたが、高山象三の棺は火葬場に送ら
れた後であった。この頃、園井の容態はいっそう悪化していた。高山夫人は「薄田
のママ」と呼ばれていた人で、新劇人のママさん的な存在で、しかも看護婦を職業
としていた。高山夫人は一人息子を失った悲しみに打ち克って、かいがいしく園井
の看病にあたった。
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著者の江津萩枝は「そのママさんに、園井はたとえ短時間でもみとりをうけるこ
とが出来たのは、一つの救いであったように思われてなりません」と書いている。
「無法松の一生」の舞台やスクリーンで、ヒロイン吉岡良子を演じて、清純、可憐、
そして妖しいまでに美しかった園井恵子は、8月 21 日に 31 歳の生涯を終えた。独
身であった。(不謹慎ではあるが、私は「丸山と園井はどの程度かは不明であるが、
恋愛感情があったのではないか」と邪推している。それで、いいじゃないか!)
(6)仲みどりの被爆と米国のプレスコード
仲みどり(36 歳)の被爆と彼女の死に到る経緯は、別の物語として語る価値が充
分にある。本感想文ではそこまで書く紙面がないので、詳細は省略せざるを得ない。
詳しくは、「櫻隊全滅」の本や「さくら隊散る」の映画を参考にして下さい。なお、
「さくら隊散る」の映画における、東大病院での仲の治療の様子は、次ぎの動画サ
イトで見ることが出来る。「さくら隊散る」の動画の一部/h
仲の最期をごく簡単に紹介すると(p.100-108)、仲は被爆直後に桜隊の寮から一
人で這い出し、広島市内をさまよった。彼女は8日の「山陽本線上り復旧一号車」
にパンツ一枚にカーテンをまいた半裸の状態で乗り込んで、東京の実家に辿り着い
た。仲は「自分は助かったのだ」と思いながら、体の極度の疲労感、水も喉に通ら
ないひどい食欲不足などに思い悩み、8月 16 日に東大付属病院に出かけて行った。
仲はそこで親切な医学生の助けを得て、放射線医学を専門とする都築外科に入院
できた。入院直後の血液検査の結果は、白血球数が極端に少なく、都築教授は広島
の新型爆弾が原爆であることを認識した。都築外科の人達の懸命な治療のかいもな
く、仲みどりも8月 24 日午後0時 30 分に、36 歳の生涯を終えた。「死因名」は世
界ではじめて名付けられた「原子爆弾症」で、仲はその第1号であった。
著者の江津萩枝は次ぎのように書いている(p.108)。「ただ仲は、東大病院挙げ
ての医学的処置と看護のおかげか、臨終はまことに安らかで、静かなものであった
と言われている。広島でさまよったあげく死んだ人々は、何の手当ても受けられず、
せいぜい、傷口にマーキュロ、火傷にヒマシ油、高熱にアスピリンがあれば上等で
あった。医師にかかることのできた人も、その診断は、①特殊爆弾のガスを吸いこ
んでいる、②ジフテリアにかかっている、③細菌弾の菌におかされて胃腸がやられ
ているという程度で何の処置も受けられなかった。」
また次ぎのようにも書いている「多くの人々は土間や地面に莚をひいて寝かされ
たが、それもあれば上等だった。そこにゴロゴロと並べて寝かされて、河岸に上が
った魚のように、そこでそのまま死んでいった。水を求め、その水も喉を通らず、
もがき苦しみながら、原爆の何たるをも知らずに、なぜこのような目に会っている
のかを考えることもなくに。」
仲の遺体は、死の1時間後に、剖検処理に移された(p.109)。東大医学部標本室
には、仲の小さな標本が2個保存されている(p.120)。その一個は、「広汎なる出
血を示す」との説明のある「肺の一部」で、もう一つは「機能低下せる骨髄」との
説明のある「大腿骨と胸骨の一部」である。東大では、都築教授を団長とする調査
団を、8月 29 日に広島に送り込んだ。理研などの調査団も続々と送りこまれた。
9月8日には、米国の原爆効果調査団が始めて広島に乗り込んだ(p.116-117)。
団長のファーレル代将は「幾万という被爆者の生き残りが、ものすごい放射線障害
によって苦しんでいる」ことに驚いた。彼らは「日本では被爆者は皆死んでしまっ
た」と思い込んでいた。ファーレルは、ただちに「プレスコード」を設けて、原爆
被災に関することを新聞雑誌等で報道することを一切禁止した。
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このプレスコードは、米国だけが原爆の効果に関する資料と知識を独占しておく
ために、体験者日本の上に厳しくとられた処置であった。日本の各種調査団による
調査資料は、総て米国本国に没収された。米国から見れば、「被爆者」はあくまで
も、投下した原爆の効果を実際に基づいて測定するモルモットに過ぎなかった。米
国側の診問内容は、爆心からの距離、遮蔽物、被爆時の体位など、基礎資料作成に
必要な科学的事務条項に限って追及され、治療については全く放置され、被爆人体
標本を「われわれの宝物」と呼んでいた。
図5.左:広島市の「さくら隊原爆殉難碑」は、図4の地点(②)にある。右:園
井恵子の像は、彼女の故里の岩手川口駅近くにある。
(7)筆者・林の感想
現在でも、日本人が中近東に行くと、現地の人達から「我々イスラム教徒は、十
字軍以来、キリスト教徒から酷い目にあってきた。日本もキリスト教国の米国から
広島と長崎に原爆を落とされて、あなた方日本人は随分と米国を憎んでいるでしょ
う。キリスト教徒から酷い目に会ってきた我々とあなた方が共闘して、キリスト教
国をやっつけましょう」とよく言われるそうである。このような話を聞いても、大
抵の日本人は被害者意識がないようである。
「一人を殺せば殺人者となるが、数万人を殺せば英雄になる」との諺がある。現
在においても、米国の大半の国民は、広島と長崎への原爆投下を是認している。そ
の理由の一つは「日本人は真珠湾を不意打ちして、米国に戦争を仕掛けた。そのよ
うな卑怯なジャップには、懲罰として原爆を落としても少しも構わない」である。
もう一つは「もしあの時米軍が原爆を使わなければ、日本本土決戦になったであろ
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う。そうなれば、数万人の米国兵士が死んだであろう。原爆はそうならないように、
終戦を早めた」である。
私は「このような理由付けは、米国の手前勝手な詭弁である」と思う。最初の理
由に対しては、私は「1941 年当時、米国政府は世界大戦に参戦して大儲けをしたか
った。しかし、米国民の厭戦気分のために参戦できなかった。そこで、「ハル・ノ
ート」などの理不尽な要求を日本に突きつけて、日本を戦争に挑発した。」と反論
したい。(なお、米国の挑発に乗った日本軍部も稚拙であった。)
第二の理由に対しては、私は「1945 年当時、日本は早期終戦を望んで色々な交渉
を始めていた。米国はわざと交渉を遅らせて、原子爆弾を日本の都市にどうしても
落としたかった。その真意は、原爆の威力をモンキー・ジャップを材料として実験
して、ソ連に対しても戦後の政治で圧倒的な優位に立ちたかった。」と反論したい。
我々日本人は謙虚な民族であるので、米国と正面切って争いたくなかったのであ
ろうか。米軍の原爆に対する「プレスコード」を遵守して、原爆に対する異議をあ
まり主張しなかった。広島の原爆死没者慰霊碑にある「安らかに眠って下さい 過ち
は 繰返しませぬから」いう文章は、「過ちは 繰返さない」の主語が、「広島市民か
日本国民」であるかのように解釈される恐れがある。このような、曖昧な態度では
ダメである。米国大統領には、広島と長崎の謝罪を要求すべきである。特に、核軍
縮でノーベル平和賞を授与されたフセイン・オバマ君にはぜひ謝罪して欲しい。
実を言えば、私の家内の叔母も広島の原爆で死亡した。叔母夫婦に子供が出来な
かったので、家内の母が「気候の良い広島に移住したら」と助言したらしい。原爆
投下の時、叔父は玄関に居て戸外に逃げられたが、叔母は家の中にいて崩れた家屋
の下敷きになり焼死した。家内の母は「妹に広島移住を勧めなければよかった」と
一生後悔していた。桜隊の人々にしても、家内の叔母にしても、夫々の人生を背負
って生活し、人生の半ばで原爆死せざるを得なかったのである。
このような個人個人の人生を無視し、「数万人の米兵の命を救うために、広島と
長崎で数十万の一般市民が犠牲になっても仕方なかった」と、単に人数に還元して
言って貰いたくはない。今年は戦後 70 年を迎え、被爆体験者も減少し、原爆被害の
悲惨さを訴える声も小さくなっている。誠に、憂慮すべき事態である。
我々のような戦前・戦中の世代が出来ることは何であろうか?その一つは、原爆
の資料を残し、原爆の悲惨さを(本感想文のように)、具体的に訴え続けることで
あろう。「櫻隊全滅」の本はあまり売れていないようで、絶版寸前であろう。「原
爆の子」のDVDも、「さくら隊散る」のDVDも、現在は中古品でしか買えない。
しかも、大変高価である。これらの貴重な資料を「資本主義の自由競争原理」に委
ねてはならない。日本の政府や大企業や篤志家は、これらの原爆関係の本や映画を
安価に販売できるように、補助金や寄付を出すべきである。
日本国内の総ての図書館や学校は、原爆関係の本や映画を常備して、一般市民の
勉強や子供の教育に大いに提供すべきである。小学生に英語を教えるより、こちら
の方がよっぽど重要である。又、原爆関係の本や映画を外国語に翻訳して、外国か
らの賓客に贈るなり、世界遺産として全人類に普及すべきである。
さらに、私は日本政府に「対米追随の政策を悔い改め、売国条約であるTPPを
断固拒否し、沖縄の基地を県外か国外に早期に移転することを」強く要求する。
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