第八章 楽しみの極致 ライブ ・ エンターテイメント

第八章 楽しみの極致
ライブ・エンターテイメント
1 テーマパークの華 ﹁ライブ・ショー﹂
ライブ・エンターテイメントは、 集客やゲストのリピートを増やす重要なマーケティン
グ・ファクターである。東京ディズニーランドに来園するゲストに提供するプログラムに、
ライブ・エンターテイメントがある。これはパレードとかステージ・ショーなどライブ︵生
身︶の出演者︵ダンサーとかパフォーマー︶を中心とするショーである。大きく二つに分類
される。一つはパークのあちらこちらに出現して、ゲストにご挨拶して握手したり、一緒に
写真に写ったりするミッキーマウスたちのディズニーのキャラクターや、また園内を演奏し
ながらパレードしているマーチング・バンドなどで、同じグラウンドで親しくゲストと接す
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第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
るグループをアトモスフィア・ショー︵雰囲気づくり︶と呼んでいる。これらの出演者たち
はパークの非日常性の祝祭気分を演出したり、またアトラクション待ちの長いラインについ
ているゲストの近くで演奏するなどして、待ち時間を紛らせたりしている。もう一つは昼夜
のパレードや各所のステージ・ショーなどで、公演時間が決められているものである。これ
はアトラクション同様にパーク全体の収容力の市場創造を担っている。前者の例として、多
数のディズニー ・キャラクター、 東京ディズニーランド ・バンドなどのミュージック ・グ
ループが六グループあり、 後者の例としては昼と夜のパレードとショー ・ベースなどのス
テージが六ヶ所ある。そのほかに、これは人間を使わないが花火もこのライブ・エンターテ
イメントに入る。
一九五五年のロサンゼルスのディズニーランドのオープン時にはライブ・エンターテイメ
ントのプログラムは二つしかなかった。ミッキーとミニーの二体のキャラクターとマーチン
グ・バンドだけだった。アトラクションに比べて後発の部門だった。その後必要に迫られて
拡大を続け、私たちが研修でディズニーランドを訪れた一九八〇年には、既にオープン後二
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十五年を経過して、大変充実したプログラムになっていた。その中で、私が身を震わせるほ
ど、感動し、驚愕し、圧倒されたショーがあった。それは﹁メインストリート・エレクトリ
カルパレード﹂であった。研修のカリキュラムに従って、夜の十時メインストリートの歩道
に座っていると、 美しく澄んだファンファーレが鳴り響いた。 続くオーバーチュア ︵前奏
曲︶に合わせて遠くから段々ランプポスト︵街灯︶の灯が消えて行く。漆黒になると周囲の
ゲストから拍手が起き出した。何が始まるか既にゲストは知っていた。やがてエレキ・サウ
ンド風のバロック音楽にのってパレードの先頭・ブルーフェアリー︵青の妖精︶が見えてき
た。ブルーに輝く裳裾を引き、輝く魔法の杖をもつ、ピノキオの天使・ブルーフェアリー。
神々しく、 優雅に、静謐に、やさしく。 続いてミッキーの乗るタイトル ・ロゴのフロート
︵山車︶。 さらに続く。目の前をディズニーの映画の名シーンが繰り広げられていくのだ。
延々三十分近く。数十台のフロートはあるいは赤に、或いはグリーンに、或いはブルーに輝
き、最後はアメリカを象徴するゴールドのイーグル。 総延長八百メートルになんなんとす
る、一大ページェントである。最後のフロートが行きすぎて、フィナーレの音とともに再び
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第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
街灯が点じられても、しばし茫然としていた。
﹁すごいもんだ、なんてものを創ったんだろ
う﹂とすっかり心うたれた。やがて研修に来ているのだという意識に変わり、個々の要素に
対する感想が湧いてきた。 先ず全体的な印象として、静的な美しさ、優雅さ、シンプルにして新鮮、ディズニーの世
界を一見のもとに示している等々。また圧倒的な物量、決して見飽きさせないがトータルの
量の物凄さ、さらに音楽の尋常でないアレンジの繊細さ、柔らかさ等々。誠に質が高く、完
成度も高い。次いでテクニカル上の疑問が湧いてくる。パーク全体に流れる音楽の基調音と
個々のフロートの音楽が見事に一致しているが、どういうようにシンクロ︵同調︶させてい
るのか。また、一体誰がどのようにして、このショーを発想したのか。さまざまなことが頭
をよぎるが、再び考えは﹁すごいものだ﹂というところに舞い戻る。一年後にスペシャリス
トとして中途採用したエンターテイメント部門の幹部社員を研修に派遣したが、彼らの感想
も全く同じであった。 彼らは日本のショー ・ビジネスの中心で活躍していた人材であった
が、このショーの質と量の高さは圧倒的だったと語った。
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私にはもうひとつ、発想の転換・イノベーションということで感心したショーがある。そ
れは打上げ花火である。日本の遊園地でも、夏の週末には花火を打ち上げて客寄せのイベン
トとするところは多い。しかし、ここでは夏休みの六月から八月いっぱい、
﹁ファンタジー・
イン・ザ・スカイ﹂と銘打った打上げ花火を公演している。この特長は音楽と花火の開花が
シンクロしていることだった。パーク全体が消灯し前奏音楽がなりはじめ紹介のアナウンス
が流れ、そしてオープニングの強打音が﹁ダン﹂と鳴る、同時に大輪の花火が開花する。開
花の爆発音と音楽の ﹁ダン﹂がピッタリあっているのだ。 それから音楽の強弱、 旋律の速
さ・遅さ、曲調の流れにあわせて、さまざまの種類の花火が打ち上げられる。フォルテッシ
モ︵最強音︶ のフィナーレに向けて、 これでもかとばかりに黄金の大輪が続けざまに弾け
る。音楽と花火の爆発音が同時に終わる。一瞬、シーンとした静寂が辺りを充たす。やがて
割れんばかりの拍手が湧き起こる。
わずか五分足らずの時間だが、短さを全く感じさせなかった。この音楽と花火のシンクロ
は、ドラマチックな迫力を生み出すということを教えてくれた。この劇的な相乗効果は実際
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第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
に体験して初めてわかるものだ。花火玉自体の完成度は日本が世界一であり、昔から隅田川
の花火大会など多くの催しが各地で行われているが、音楽と花火をシンクロさせる発想は日
本では生まれてこなかった。
2 四半世紀遅れの日本のエンターテイメント ・ビジネス
私は、エンターテイメント・ビジネスの世界では、日本はアメリカに二十年から二十五年
遅れていると思っていたが、こういうことを発想することでは、もっと開きがあるのではな
いかと思った。東京ディズニーランドのオープン時に、これらのプログラムを導入するに当
たっては、施設その他の導入と同様に、できるだけ内容を変えずに、ロサンゼルスのディズ
ニーランドそのものを持って来ようと努力した。
プログラムの企画、制作などの基本部分はウオルト・ディズニー社の協力を得ながらオリ
エンタルランドの社員でまかなえたが、ダンサーやミュージシャンなどの出演者は日本人を
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多数採用しなければならない、日本のいわゆる芸能界の企業とも交渉しなければならない。
しかし、当時の日本のエンターテイメント業界は日本独自に発展してきて独特のきめごと・
習慣があって、アメリカ・スタイルの仕事のすすめ方をしようとした社員たちは大変苦労し
た。その一例がオーディションである。 アメリカでは配役は全てオーディションで選抜す
る。その当時の日本には本当の意味でのオーディションはなかった。あるスターがいて、そ
のスターにあった企画を立て、スター以外の配役もそれまでに付き合いのある範囲から選ぶ
という習慣であった。またオーディションを受ける出演者のほうも、選抜される、時には落
されるということに強い抵抗感があって、オーディションに参加するのをいやがった。告知
の手段もなくて、当時は告知ポスターを作って駅やダンス・スクールなどに貼ってもらいに
歩いたのだ。大変苦労したが、このオーディション・システムを崩すことはなかった。今で
はオーディションの雑誌などもあり、ダンサーやシンガー、ミュージシャンがオーディショ
ンを受けるのに抵抗を感じなくなっている。その後、外国ミュージカルなども日本に移入さ
れオーディション・システムが採用されたこともあるが、このアメリカン・スタイルの公開
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第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
オーディションが日本に定着する先鞭を付けたのは私たちであった。
いま東京ディズニーランドで見られるようなショーとかパレードのプログラムの全体パッ
ケージは日本には全くなかった。もっとも一部分だけ、例えばマーチング・バンドだけ持っ
ていたり、 劇場を一つ持っていたりする所はあったが、 東京ディズニーランド全体のパッ
ケージは、それまでの日本の遊園地にはなかった。また集客のための企画といえば、ゴール
デンウイークや夏休みなどに有名タレントやアイドルを招いての歌謡ショーというものが多
かった。そこでオリエンタルランドのこの担当部門を立ち上げるに当たって、部門名をどう
するかという問題があった。それまでの日本の常識だと芸能部とか実演部になる。社員に諮
ると﹁それはいやです、困ります﹂という。古くさく感じたのであろう。
﹁では何がいいか﹂、
というと﹁ロサンゼルスのディズニーランドとおなじエンターテイメント部にしてくれ﹂と
言うのでそう決めたが、そのころ、日本ではエンターテイメントとかファミリー・エンター
テイメントという言葉はまだ耳慣れないものだった。
東京ディズニーランドのライブ ・エンターテイメントはオープン時に社員 ・スタッフ百
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名、照明音響などのクルー百五十名、出演者六百名、外国人出演者六十名。プログラム数二
十三でスタートした。この部門は常に新鮮な魅力をゲストに与えるという役割を担っている
ため、プログラムの変更、スペシャル・イベントの制作等々、数多くのショーを次々と創作
して行かなければならない。たとえばスペシャル・イベントだけを取り出しても、四月十五
日の周年記念イベント、六月九日のドナルド誕生日イベント、九月十五日の敬老の日イベン
ト、十月のハロウイーン・イベント、十一月、十二月のクリスマス・イベント、十二月三十
一日のニューイヤーズ・イブ・イベント、一月のお正月イベント、二月十四日バレンタイン
デー・イベント等がある。それらのイベントの柱になるショーは殆どが毎回新作である。イ
ベントによっては複数のショーを創る。例えばクリスマスではシンデレラ城前のスペシャル
ショー、クリスマス ・パレード、 常時公演されているステージにクリスマスのスペシャル
バージョンをつける等々である。これだけ多くのショーを新たに創り出すためには、ディズ
ニー社の承認のもとではあるが、オリエンタルランドスタッフの主導性が発揮されなくては
ならない。 従ってこの部門は他と比べてクリエイティブな独立性が強い。
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第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
十数年の運営を続けている間に、幾つか変わってきた点がある。一つが、イベントの期間
が段々長くなってきたこと。例えばクリスマス・イベントは初年度は一週間であったが、そ
れが二週間になり、一ヶ月になり、現在では十一月、十二月の二ヶ月になった。その理由は
好評で短期間ではそれを目的に訪れるゲストの増加に対応できなくなったこと、また多額の
コストをかけるイベントはできるだけ長期間行おうとするビジネス上の理由もある。また日
本人のゲストの、 ショーを鑑賞する行動が変わってきたこともある。 アナハイムのディズ
ニーランドの研修中に、何度となく見てうらやましく思ったことがある。パレードを見るア
メリカ人ゲストが出演者から﹁ダンスを一緒にしましよう﹂と誘われると、喜び勇んで飛び
出して行き一緒に踊る。小さなステージや街角でバンド演奏が始まると老夫婦が踊り出す。
それをまた周囲のゲストが拍手する。こんな楽しいムードを見て、果たして日本人のゲスト
は楽しく参加してくれるのだろうかと、非常に気にかかった。案の定オープン当初、このよ
うな場に出てくれるゲストが少ないので、出演者たちが無理にお願いするなどして大変苦労
した。しかし、その後、こういうショーは絶やさずに続けてきたところ、今では日本人ゲス
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トもアメリカ人以上にショーへの参加を積極的に楽しむようになった。
3 オリジナル ・ライブショーへの挑戦
幾つか失敗したこともある。 ひとつは、 どんなショーでも三十分が限度ということであ
る。初年度の秋に ﹁イッツ・ア・スモール・ワールド﹂ というスペシャル ・イベントを行
い、シンデレラ城前に特設ステージを作り、アトラクションのスモール・ワールドのテーマ
﹁世界は一つ﹂でミュージカル・ショーを公演した。世界の歌と踊りということで、約四十
五分のショータイムであった。ショーの完成度が低いというわけではなかったが、三十分を
過ぎると立って外へ行く人が出てきた。それが時間とともに増えて行く。早速ショーに手を
入れて三十分を切るようにした。すると立つ人がいなくなった。大変な教訓を得た。パーク
というさまざまな魅力に溢れたところでは、いかに質の高いショーでもゲストを引きつけて
おくのは三十分が限度であるということなのだ。この三十分の中に、いかに凝縮された内容
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が詰まっているかが勝負である。その後この三十分原則を守ることにした。
﹁イッツ・マジ
カル﹂ は正味十五分、登退場を含めて十七分であったがゲストの評判は高かった。
もう一つ失敗例がある。ゲストには﹁ディズニーの世界﹂以外の有名タレントは不用であ
るということだ。ロサンゼルスのディズニーランドではスペシャル・イベントに有名なシン
ガーやビッグバンドを招いて公演するということが多かった。東京ディズニーランドでもそ
のようなイベントを行うべきだというディズニー社からの強い推奨があり、オープンの秋に
ヤーやシンガーを招聘して園内各所で公演した。それぞれのステージ周りにはたくさんのゲ
ストが張り付いて演奏を楽しんでいるので、この企画は当たったと思ったが、入園者の数を
見るとほかの日とほとんど変わっていない。ほとんど増えていなかったのだ。
また、これはニューイヤー・イブのことだが、大晦日の正零時に向かってカウント・ダウ
ンを行う。二十秒前・十九・十八⋮⋮三・二・一・ゼロ!で花火が盛大に打ち上げられる。
メイン会場はシンデレラ城前の特設ステージだが、そこだけでは大勢のゲストを収容しきれ
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﹁オール・ザット・ジャズ﹂というイベントを行った。日本内外のジャズのスター・プレイ
第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
ないので、ほかに園内に十箇所ほどの会場を設けた。それらのステージに当時人気のあった
ロック・グループ、ジャズ・シンガー、ポップス・グループ、カントリー・グループなど、
ロケーションのテーマに合わせて出演してもらった。しかし客席を充分埋める程度のゲスト
は集中するけれど、予想していた殺到というほどではない。ほとんど全てのゲストはシンデ
レラ城に行きたい、けれども既にいっぱいなのでこちらにまわって来たということだった。
後ほど、アンケート調査の結果を見ると﹁東京ディズニーランドにはウオルト・ディズニー
の現実には存在しないファンタスティックな世界だけでいい。外のものはいらない﹂という
意見が多く、反省させられた。ロサンゼルスのディズニーランドでは外部の有名タレントを
活用して、またアメリカ人ゲストも大いに楽しんでいるのに、日本では違うのだ。日本人ゲ
ストのほうがウオルト ・ディズニーのいう巨大な架空劇場の楽しみ方を良く知っているの
だ。日本人は確かにウオルト ・ディズニーへの思い入れが強い。
次は良かった例だが、 東京ディズニーランドで制作したショーで内容が優れていたため
に、逆にアメリカのディズニーランドやウオルト・ディズニー・ワールドへ持っていったも
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第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
のもある。一つは五周年を記念して新しくできた﹁ショー・ベース﹂という半野外劇場で上
演された﹁ワンマンズ・ドリーム﹂というミュージカル・ショーである。ウオルト・ディズ
ニーの生涯の夢を、 彼が生みだしたキャラクター、 ミッキーマウス、 ミニーマウス、 アリ
ス、ピーターパン、 白雪姫、シンデレラたちによって語らせるというものであった。 ミッ
キーがミニーにキッスするとモノクロ映画から天然色に変わり、アリスがいもむしと戯れ、
ピーターパンが空を飛び、女王が魔女に変身し、終にスーパースター・ミッキーを中心に大
団円になり幕が降りると、アンコールを求める拍手が鳴り止まなかった。
これはディズニー社のエンターテイメント随一といわれるショー ・ディレクターのバー
ネット・リッチさんを招聘して創ったものだが、 東京ディズニーランドのオリジナルの
ショーだった。これはディズニー・テーマパークで公演されたステージ・ショーのうち最良
のもののひとつという評価を受けた。ゲストの評判も大変高く、通常のショーだと二年から
三年で長くても五年で終了するのだが、 このショーは八年のロングランとなった。 ディズ
ニー社はこのショーを翌年アナハイムのディズニーランドのビデオポリスという劇場で公演
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開始したのだ。
さらに東京ディズニーランドのオープン十周年を記念してシンデレラ城前の特設ステージ
で行われたのが﹁イッツ・マジカル﹂であった。サプライズ︵驚き︶に溢れたスペクタクル
で巨大なショーであったが、正味の公演時間は十五分であった。前後のオーバーチュア、ク
ロージング音楽をいれると十七分であったが、ゲストには大変好評であった。十周年を祝福
するために来日していたディズニー社の人たちも絶賛してくれて、早速翌年、フロリダのウ
オルト ・ディズニー ・ワールドのテーマパークのエプコット ・センターで上演された。
4 ライブ・エンターテイメントの役割
このように東京ディズニーランドでも幾つかの、ディズニー・エンターテイメントの水準
に達するショーを創ることができたが、やはりソフトの文化であるライブ・エンターテイメ
ントの日米の隔たりはいまだ大きいと思う。それはパーク内のショーに限らない。その土台
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第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
を成すアメリカの娯楽・芸能・エンターテイメントの歴史の長さ・蓄積の大きさが日本のそ
れを遥かに凌駕しているのだ。映画であり、レコードであり、ハリウッドであり、ブロード
ウエイであり、そういったものの蓄積の上にテーマパークのライブ・エンターテイメントも
あるのだ。前に述べた二つのショー、
﹁ワンマンズ・ドリーム﹂も﹁イッツ・マジカル﹂も、
企画立案し制作したのはオリエンタルランドのスタッフであるが、クリエイティブの根幹の
部分はディズニー社の助力が必要であった。それは演出、音楽、美術等であった。
ライブ・エンターテイメントの第一の役割は、 パークにライブ感 ︵生き生きとした躍動
感︶を与えることである。運営のキャストがゲストにパーソナル・タッチのおもてなしをす
る。そこにミッキーマウスやアリスが来て握手をしてくれると、ゲストは普段の日常を離れ
て、さらにディズニーのファンタジーの世界に自ら入っていると強く感じてくれるのであ
る。
もうひとつの役割は、 ゲストに常に新鮮な魅力を提供することである。 一〇〇%近いリ
ピーターに常に新しい変化・魅力を感じてもらわなければならない。アトラクションのよう
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なハードの施設を新たに創ろうとすると、最低でも四年から五年の時間がかかる、また投資
も巨額なものになる。そのため過去の例でも新規アトラクションの導入は一年半とか二年或
いは三年おきになる。その間をライブ・エンターテイメントのニューショーで埋めているの
だ。レギュラーショー︵年間を通じて公演されるショー︶のパレードは二年ないし三年で新
しくなる。その変更のタイミングを、ちょうどアトラクションの新設が無い時に当てること
になっている。またライブ・エンターテイメントのほうはアトラクションほどの時間と金は
かからないので、 頻繁な変更が可能である。 前に述べたようにスペシャル ・イベントの
ショーのほとんどは毎年新しくなる。過去、五周年、十周年、十五周年と周年イベントを
行ったときに東京ディズニーランドの業績は飛躍しているが、この記念イベントの中味をな
すプログラムはほとんどがライブ ・エンターテイメントのスペシャルショーなのだ。
ディズニーのようなテーマパークのライブ・エンターテイメントは、かつての日本には存
在しなかったし、現在でも東京ディズニー・リゾート以外には一、二の例しか見られないの
で、文化・娯楽・芸能の新たなもうひとつのジャンルであるとは見なされていない。 しか
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第 8 章 楽しみの極致−ライブ・エンターテイメント−
し、これだけ多くのゲストが楽しんでくれている、 来園目的の大きな部分がライブ ・エン
ターテイメントなのだ。ショーのひとつひとつを見ると、パレードであり、ステージ・ショー
であり、マーチング・バンドであり、キャラクターであり、花火でありで、従来の日本にも
存在していたものだが、 全体をひとつのパッケージとして見た場合、 ディズニー ・テーマ
パークのライブ・エンターテイメントはひとつの新しいジャンルを創造したのだと思ってい
る。
205
第九章 ディズニー・テーマパークの本質
1 娯楽性と教育性を追求したウオルト ・ディズニー
ウオルト・ディズニーは、
﹁娯楽は楽しいだけではなく、それによって何かが学びとれる
ものでなくてはならない。また、学びとれるものにするべきである﹂という確固たる哲学を
もっていた。そして、彼は自分自身のこの考えを人々に伝える最も良い方法は﹁娯楽を媒体
として自分の考えていることを﹃体験﹄させることだ﹂と考えていた。彼のつくった企画デ
ザイン会社︵WDI︶の役割は、その体験を楽しく人々に提供する工夫をするためにつくら
れたものだった。 ウオルト・ディズニーの親友の一人レイ ・ブラッドリーの言葉を借りれ
ば、
﹁世界の人々が何か大事なことについて話し合っていると思った時には、ディズニーの
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第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
企画デザイン会社ではそれをもう実際に考えたりデザインしたりしている﹂。この言葉の真
意は、ウオルト・ディズニーは常に世界の流れの先を読んでいたということである。ウオル
ト・ディズニーは、
﹁今の世界情勢を見ると、私たちは人類共通の利益のためにマスコミュ
ニケーションの手段を使って何かをやる重い責任を背負っている﹂、﹁あらゆる世代の人々、
条件の異なるあらゆる人々に、娯楽と共に知識をもたらすための一つの基本を、私たちは長
年にわたる実験と経験から学んだ。それは事実であれ寓話であれ、ストーリーを物語る方法
で体験してもらうことである﹂とも語っている。五十年前のことだ。
一九五五年に開園したカリフォルニア州ロサンゼルスのアナハイムのディズニーランドに
続くウオルト・ディズニー・ワールドは、一九七一年、フロリダ州のオーランドにオープン
した。東京の山手線の面積の一・五倍の一万一千ヘクタールの敷地に、ディズニーランドと
ほぼ同じテーマパークの﹁マジック・キングダム﹂、一九八二年に二つめの未来の実験的都
市のシンボルとして﹁エプコット︵EPCOT︶センター﹂、そして一九八九年には映画の
世界が体験出来る三つめの﹁ディズニーMGMスタジオ﹂、一九九八年に、動物の生態系と
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自然保護をテーマにした﹁アニマル・キングダム﹂と四つのテーマパークを造り、それぞれ
のパークに最新のテクノロジーを駆使したアトラクションを設置したのである。中でも、ウ
オルト ・ディズニーがかねてから提唱していた ﹁エクスペリメンタル ・プロトタイプ ・コ
ミュニティー・オブ・トゥモロー﹂
︵実験的未来都市︶のシンボルとして建設した﹁EPC
OTセンター﹂は、ディズニー・ワールドの中核をなすもので、メインエントランスの﹁ス
ペースシップ・アース﹂
︵宇宙船地球号︶をシンボルとするフューチャー・ワールド︵未来
世界︶と、ラグーン︵きれいな浅い湖︶をとりまくワールド・ショーケースによって構成さ
れている。フューチャー・ワールドは、立体映画の﹁ミクロ・アドベンチャー﹂をはじめ、
エネルギーの問題を探求する﹁ユニバース・オブ・エナジー﹂、未来の農業のあるべき姿の
﹁ザ・ランド﹂、海洋科学をテーマとした﹁リビング・シー﹂、生命科学に挑戦する﹁ワンダー・
オブ・ライフ︵生命の驚異︶﹂、未来の自動車をテーマとする﹁テスト・トラック﹂等、資
源・食糧・自然・生命・交通など﹁人類の未来﹂ をテーマとした十のアトラクションがあ
り、また、ラグーンを取り囲む周囲には、日本をはじめとする、アメリカ、イギリス、ドイ
208
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
ツ、カナダ、イタリア、フランス、ノルウェー、モロッコ、メキシコ、中国など世界各国の
文化や自然環境を表現したワールド・ショーケースがあって、ラグーンのボートに乗り世界
一周も楽しめる。
これらの施設は緑溢れる広々としたスペースに取り囲まれて、周囲には湖や人工ビーチ、
二十に及ぶホテルや国際会議場、産業の展示や産業の情報交換の機能を備えた巨大なコンベ
ンション・センター等の都市施設、ゴルフコースをはじめとしたスポーツ施設、カルチャー
センター等のレクリエーション施設があちらこちらに点在し、湖岸には複合商業施設﹁ディ
ズニー・ダウンタウン﹂がつくられて世界を代表するリゾート地として、内外から毎年延べ
四千万人以上のゲストが訪れている。 このディズニー ・ワールドの中は無公害の電気自動
車、圧縮ゴミ処理装置、発電所、自然を利用した汚水処理装置、等々、自然保護と環境保全
のための最新技術が数多く応用されている。ここは、ウオルト・ディズニーが提案したある
べき二十一世紀の都市計画像が追求されているのだ。
東京ディズニーランドを含め、ディズニー・テーマパークは、﹁楽しみながら学習する﹂
209
という思想を根底にもっている。 特にフロリダのディズニー ・ワールドのEPCOTセン
ターで試みたことは、人間のあり方を、これまでとは違った発想で考えられないかというこ
とで踏み出したものであった。そして、その発想は非常にユニークな試みであった。ウオル
ト・ディズニーはこの試みによって究極的には﹁世界の融合と調和﹂は可能だと信じていた
のだ。
現在のWDIの副社長でトップデザイナーである、そして﹁九人の侍﹂のオリジナル・ナ
インの一人であるジョン・ヘンチは、ウオルト・ディズニーのもとで、
﹁ファンタジア﹂を
はじめとするディズニー映画でさまざまな役割を果たし、
﹁海底二万哩﹂では特殊効果部門
でアカデミー賞を受賞、 ディズニーランドでは主にトゥモローランドの開発にたずさわり
﹁スペース ・マウンテン﹂ をデザインし、 ディズニー ・ワールド、 東京ディズニーランド、
ユーロ・ディズニーランドにも構想段階から参画した。その彼がEPCOT構想について、
﹁ウオルト・ディズニーの求めたディズニーのテーマパークの究極的段階と呼ぶのには未だ
早いが、彼が今までと違った方向に踏み出した第一歩だった﹂と語っている。
210
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
ウオルト・ディズニーは、
﹁社会は個人の集合体として成り立っている。従って、個人に
とって良いものであれば、それは社会全体にとっても良いものであり得る。それと同様に、
国という単位も集約すると個人の集合体として成り立っているものであるから、 ディズ
ニー・テーマパークでの一人一人の体験がゲストにとっても良い影響をもたらすものであっ
てほしい﹂、という思いであったのだ。しかしそれをパークで実現することは決して容易な
仕事ではなかった。彼はゲストにいろいろと異なる文化を体験してもらいながら、それを一
つの教育の場としていくというコンセプトで発想したのだ。世界が一つに融け合って地球上
の平和を達成するためには、それぞれ異なる背景をもった人間に、他の異なる文化を体験し
て理解してもらうことが大切である。EPCOTにこのようにたくさんの異なる文化を集め
て、ゲストに一ヶ所で見せ体験してもらう、そのことによって、異なる文化を背景とする一
つ一つの国の人間の違いが見えてくるのではないか、と考えたのだ。
こうしてEPCOTは、科学・芸術・社会・経済・価値観・書物等の領域での違いでその
異文化がはっきりと相互理解できるようにデザインされた。ゲストは楽しく﹁体験﹂しなが
211
ら、その異文化が実はお互いの文化を補い合う形で成り立っているのではないか、というこ
とを理解するようになる。そして一つ一つの文化が相互に世界の人類の文化に貢献し合って
いることも解って来るのだ。つまり、そのような形で異文化を﹁体験﹂してもらい、ゲスト
に新しいあるべき世界を考えてもらうことができれば、これまで、ゲストが抱いていた偏見
や狭い視野が改められていくのではないかと考えたのだ。そうすることによって、世界の文
化は一つ一つの国や人間の集団の上に全体が成り立っているということが見えて来る。この
ような考え方を押しすすめていくことで人類の融和と世界平和に到達できるのではないかと
考えたのであった。
しかしこれは時間のかかるプロセスである。 今、世界にはいろいろな問題が山積してお
り、ウオルト・ディズニーの考えた世界が本当に実現する日が来るのか、非常に楽観的な考
え方ではないのか、と私たちは考えてしまう。しかし、ジョン・ヘンチをはじめディズニー
の企画デザイン会社の人たちがウオルト・ディズニーから学んだ重要な哲学は、このように
楽観的なものであったということは実に興味深い。 ジョン・ヘンチは私にこう話してくれ
212
た。
﹁ウオルト ・ディズニーほど未来の可能性を信じ切っていた人は他にいない。 それから
年にディズニー・ワールドという実現的未来都市・EPCOTのアイデアに関してプレゼン
テーションをした時、ウオルト・ディズニーは﹃人々の望みをかなえる﹄ということを何時
も口癖のように言っていた。彼の仕事の核心には常にそれがあるのだ﹂。
この話も私にとってウオルト・ディズニーの哲学を知る上で興味深かった。私自身も、世
界の人類の底流意識に、 いまこのようなニーズが実際にあると確信している。
世界は原子の構造から成っていると同様に、いろいろな要素の集合体である。現実はこの
ように異なる要素が存在しているのであり、それら要素が一つ一つかけがえのない価値を有
している。この多様なものを一つの考えで縛るのではなく、異なる要素が互いに依存しあっ
て共生している方が自然なのだ。むしろ、世界はいろいろ異なる要素の﹁関係のネットワー
ク﹂が張りめぐらされた集合体であるという考え方を、私はこのEPCOTセンターで学ん
213
﹃人々の望みをかなえる﹄ということも彼が常に口にしていた大切な言葉だった。一九六六
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
だのだ。私が世界に対してもっていた固定観念がこのようにゆっくり変わり、 そういった
新しい世界をつくりあげていくために、ディズニー・テーマパークが、その一翼を担ってい
ると思うようになった。
2 EPCOTの原点 ﹁イッツ・ア・スモール・ワールド﹂
その具体例をあげたい。EPCOTセンターにフエローシップ・プログラムがある。世界
各国から留学生を一年間招き、EPCOTセンターで仕事と勉強をしてもらう。世界から集
まった青年たちが互いの交流を通して相手から知識や文化を学び、それをカリキュラムとし
てフロリダ大学から単位が貰えるのだ。まさに生きた産学共同プログラムである。これは若
者たちがお互いに異文化を相互理解し合うすばらしいプログラムなのだ。
私たちもEPCOTのオープン後にここで研修を受ける機会があり、その青年たちと仕事
を通して交流した。その時の友人たちとの文通は今でも続いている。お互いに相手を知り理
214
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
解し合うことができたからだ。ディズニー・ワールドでは帰国した学生に対して、その後、
この﹁体験プログラム﹂によってどんな変化が起きたか、帰国後どのような効果をあげてい
るかを長期的な視点から取り組み、実際にその追跡調査を行っている。面白いと思うのは、
このように大切な異文化の相互理解を堅苦しい文化交流プログラムではなく、誰でもが楽し
いと思うエンターテイメント・プログラムの体験方法でこれを達成していることである。他
に例をみないユニークさである。この方法を最初に考え出したのがウオルト・ディズニーで
ある。私は研修を通してこの彼の考え方にすっかり勇気づけられたのである。
ジョン・ヘンチは﹁ウオルト ・ディズニーが早い機会に、 EPCOTを考えついたこと
や、彼の成し得た様々な業績を過去に遡って考えてみると、また、ディズニーのスタジオの
運営、彼のやってきたプロセス、彼の作品などを考えてみると、究極的にはそういった﹃世
界の融合と調和の交流の場﹄の創造と進化を目指していたのではないか、というところに結
びついていく﹂ と述懐していた。
長い年月と複雑なステップを積み重ねていかないと、その成果は望めないが、私たちも日
215
本においてウオルト・ディズニーの思いを汲んだエデュケーショナル・エンターテイメント
︵教育的娯楽︶の﹁小さな世界﹂の場を提供できたことを、心からうれしく思っている。
﹁イッツ・ア・スモール・ワールド﹂についても特に記しておきたい。﹁イッツ・ア・ス
モール・ワールド﹂はウオルト・ディズニーのインスピレーションから生み出されたもので
あった。このアトラクションは、一九六四年のニューヨーク世界博覧会に出展されて大きな
反響をよんだ。その前年、ペプシコーラとユニセフの幹事がバーバンクのディズニー・スタ
ジオにウオルト・ディズニーを訪ねて、
﹁子供の福祉向上のために活動している国連機関ユ
ニセフのためにニューヨーク博に何かを出展したい。何か娯楽性のある乗物がほしい﹂とリ
クエストしたのである。
この﹁イッツ・ア・スモール・ワールド﹂は、
﹁世界の文化とのかかわり合い﹂をテーマ
にした世界異文化交流のアトラクションで、EPCOTのルーツとなっているものである。
ウオルト・ディズニーは前々から、人形で世界の子供たちを表現し、その子供たちに﹁人類
の調和と世界の平和の歌﹂を唄わせたい、という構想をあたためていたのだ。
﹁ウオルト・
216
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
ディズニーがテーマパークの究極の方向性を最初に示した小さな足跡だった﹂、とジョン・
ヘンチは私に語った。﹁スモール・ワールド﹂は非常に限られた時間の中でアーティスト、
音楽家など全ての作業が行われた。特に音楽は有名なリチャードとロバートのシャーマン兄
弟が三日でかき上げたものだ。ウオルト・ディズニーが彼らに﹁スモール・ワールド﹂の構
想を話し、
﹁普遍的なテーマで、世界中どこの国の言葉でも歌え、どんな楽器でも演奏でき
る歌をつくってくれ﹂と注文したのだ。非常に興味深いのは、兄弟が演奏し、一人が歌い始
めたとき、ウオルト・ディズニーが直ぐ﹁これだ!﹂と言って﹁これは大きな成功になる﹂
と断言したということである。音楽の部分的描写ですばらしいものだということが彼には直
ぐ解った。 まさに彼の卓越したインスピレーションだった。
ジョン・ヘンチが指摘しているように、このアトラクションは、ディズニーのテーマパー
クの形を究極的にどのようなものにしたいかを決定づける、まさに原点になったものだ。す
なわちそれは、一言で言うと﹁普遍的価値﹂のアピール。世界の中にはいろいろな異なる文
化があるけれども、その根底には一つ変わらないものがあって、それが全て共通している。
217
ウオルト・ディズニーはそれを表現しアピールしたかった。私はジョン・ヘンチから興味深
い話を聞いた。彼がスモール・ワールドのオープン間もなくボートに試乗した時のことだ。
﹁音響装置の故障で音が全く出なくなってしまったことがあった。その時、ボートに乗っ
ていた観客がなんの躊躇もなくイッツ・ア・スモール・ワールドの歌を口ずさみ始め、する
とやがてみんなの歌声となって曲が終わるまでみんなで歌った﹂。なんと感動的なできごと
だろう。
﹁イッツ・ア・スモール・ワールド﹂のアトラクションに対して、ウオルト・ディズニー
は彼の抱いていたオリジナリティをどんどん拡げていった。このアトラクションの製作に参
加したディズニーの企画デザイン会社︵WDI︶の人たちにとっても、ディズニー・テーマ
ショーの﹁普遍性﹂や﹁メッセージ性﹂の大切さについて知る、良い教育素材になったこと
は想像に難くない。東京ディズニーランドでも、私たちは同じこのアトラクションの運営に
出会えた。その私たちにとっても、すばらしい教育素材になったことは言うまでもない。そ
れは今までとは違ったタイプの人々、 例えば、いろいろな信条、 宗教の違い、 国の違いな
218
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
ど、考え方の違うたくさんのゲストの人たちとここで接する機会に出会えたし、それによっ
て私たちも学んだり得たりしたものが非常に大きかった。一九九三年四月、
﹁イッツ・ア・
スモール・ワールド﹂のメロディーを作曲した弟のロバート・シャーマンが東京ディズニー
ランドに来園してくれた。 香港旅行の折に予定してくれたものだった。 彼は、東京ディズ
ニーランドに着くとまず真っ先に﹁イッツ・ア・スモール・ワールド﹂に直行することを希
望した。そして、ボートが流れ出すと太った大きな身体をゆすり、なんと自分の手でタクト
をとりながら、明るく陽気に﹁小さな世界﹂を歌ってくれたのだ。それもいつのまにかとい
う感じで自然そのものであったのが、非常に印象的である。彼は、齢と膝の関節痛のため車
椅子に乗りながら、 東京ディズニーランドの一日をゆっくり楽しんだのだ。
3 アーティストを魅了したウオルト ・ディズニー
ウオルト・ディズニーの周りには実に優秀なアーティスト・人材が集まる。ウオルト・ディ
219
ズニーがウオルト・ディズニー・プロダクションズとは別に、テーマパークの企画デザイン
会社として、一九五三年にウオルト・ディズニー・インコーポレート︵WDI︶を設立して
今年がちょうど創立五十周年を迎える。インコーポレートからその後、ウオルト・エライヤ
ス・ディズニーの名前を縮めて、 WEDエンタープライズと改称し、 その後また、 ウオル
ト・ディズニー・イマジニアリング︵WDI︶に変えて今日に至る。WDIはディズニーラ
ンド及び、その後ウオルト・ディズニー・ワールド、東京ディズニーランドなど十一のテー
マパークの設計と技術部門を担当し、その役割を果たして現在に至っている。WDIは世界
で最も規模の大きな企画デザイン会社で、スタッフはこれまでのエンターテイメント業界で
は、私の尊敬するジョン・ヘンチをはじめとして、他に匹敵するもののない優秀な創造的な
人材と組織を擁している。デザイナー、建築家、ライター、画家、彫刻家、エンジニア、科
学者など、 いろいろな専門分野出身の個性と想像性豊かな人々の集団である。
ディズニー・テーマパークの構想実現に携わって来たアーティストは実に多彩だ。例えば
ポール・ヘネシー。彼は初期ディズニーランドのコンセプト・スケッチを描き、特にフロン
220
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
ティアランドの建築や様式に大きな影響を与え、その後映画界で美術監督として活躍し﹁足
長おじさん﹂、
﹁南太平洋﹂、
﹁アニー﹂などを手がけ、
﹁ミクロの決死圏﹂でアカデミー賞を
受賞した。
ピーター・エレンショー。彼は初期のディズニーランドにおいて、多くのプロジェクトに
かかわり、
﹁海底二万哩﹂など、ディズニーのライブ・アトラクション映画でスペシャル・
エフェクトに使用する背景を数多く描き、一九六四年の﹁メリー・ポピンズ﹂で特殊視覚効
果部門でアカデミー賞を受賞した。
ドロシア・レドモンド。彼女は映画﹁風と共に去りぬ﹂や﹁裏窓﹂のセット・デザインな
どを描き、ディズニー・テーマパークで主にインテリア・デザインを担当し、実物を再現し
た﹁ニューオリンズ・スクゥエア﹂や東京ディズニーランドのシンデレラ・キャッスルのモ
ザイク壁画などで、 その手腕を見せた女流アーティスト。
ハーバート・ライマン。彼は映画﹁大地﹂などの美術制作を経て、ディズニーでは﹁ピノ
キオ﹂、
﹁ダンボ﹂などでストーリー・スケッチや背景を担当した。最初のディズニーランド
221
の構想図を依頼された時には、 わずか数日で描き上げ、 それ以来、 生涯にわたり世界中の
テーマパークの開発にかかわった。東京ディズニーランドの美しいシンデレラ・キャッスル
やワールドバザールは彼がそのモデルとなるコンセプト・スケッチを描いてくれたものだ。
彼は東京ディズニーランドがオープンして二年目に来日し、ワールドバザールからキャッス
ルを臨む情景を見て ﹁すばらしい!﹂と言って、とても喜んでくれた。
ハーパー・ゴフ。彼は映画﹁カサブランカ﹂などのセット・デザイナー、スケッチ・アー
ティストを経て、ディズニーでは﹁海底二万哩﹂のノーチラス号をデザインし、ディズニー
ランドの建設では﹁メインストリートUSA﹂、
﹁ジャングルクルーズ﹂の制作を担当、ウオ
ルト・ディズニー・ワールド・リゾートのEPCOTセンターでは、各国パビリオンの開発
を担当した。
マーク・デービス。彼はアニメーターとして、シンデレラやオーロラ姫、ティンカーベル
など数々のディズニー・キャラクターを生み出し、人や動物の動きの特徴をユーモラスに表
現する才能は、 アニメーション映画のみならず、 ディズニー ・テーマパークでも発揮し、
222
ンボリー﹂ など、多くのアトラクションをデザインした。 日本には彼を信奉するアニメー
ターが数多い。
クロード・コーツ。彼はディズニー・アニメーション映画の背景を描き、ディズニー・テー
マパークでは、
﹁カリブの海賊﹂
﹁ミッキーマウス・レビュー﹂
﹁ホーンテッド・マンション﹂
などの制作を担当し、東京ディズニーランドでは﹁シンデレラ・キャッスルのミステリー・
ツアー﹂をデザインした。
このようにWDIには俊才が綺羅星の如くで枚挙にいとまがないのだ。
4 ウオルト・ディズニーの文化遺伝子を受け継ぐ人々
ロサンゼルスのディズニーランドのオープンは東京ディズニーランドの約三十年前であ
る。私は友人から、よく、
﹁三十年前のディズニーランドのデッドコピー︵丸写し︶をつくっ
223
﹁ジャングルクルーズ﹂
﹁ホーンテッド・マンション﹂
﹁カリブの海賊﹂
﹁カントリーベア・ジャ
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
て、いま東京ディズニーランドは大変当たっているけれども、その間の時の流れというもの
は一体なんだったのか。 永久にこの形で続くものだろうか﹂ という質問をよく受ける。 ま
た、﹁ウオルト・ディズニーという天才の代替が次に現れるということは考えにくいから、
ディズニーランドの継続性はどう考えたら良いのか﹂という質問もよく受ける。
一般的に言えば、この質問に対する最も適切な答えは、ウオルト・ディズニーの﹁ディズ
ニーランドは常に変化し進化していくものだ﹂という言葉にある。東京ディズニーランドが
本当にロサンゼルスのディズニーランドのデッドコピーのままで何も変化しなければ、一時
的な万博と同じで単なるアトラクションの展示イベント会場で終わってしまう。﹁あそこは
一度見たからもう行かなくてもいい﹂という一過性のものなのだ。もちろん、ディズニーラ
ンドには変化しないものもある。しかし、たとえば今あるパークを新鮮なものに革新するこ
とは常にやっていく。常に何かを新たにつけ加え進化していく。ディズニーランドが五十年
の歴史を経ても人を引きつけていく力があるのはその革新力、進化力にあるのだ。だから、
﹁このままの形で続けていけるのか﹂という質問は、私に言わせれば﹁入れ物﹂
︵器︶と﹁中
224
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
味﹂を混同した質問だということになる。問題は中味の進化なのだ。ウオルト・ディズニー
はいわば自分の﹁文化遺伝子﹂を引き継ぐ、WDIという想像性豊かなシンクタンクをつく
り、自分の哲学や自分がストーリーを物語る方法、そして自分が生きている間に作った正し
いシステムが生き続けていくようにした。そしてまた、それ以上に私自身がすばらしいと思
うのは、ウオルト・ディズニーが残した組織・WDIが、常にウオルトを進化させようとい
うバイタリティと情熱をもって仕事をしていることである。 それがロサンゼルスのディズ
ニーランドを五十年と言う一般的に言われる業態の生命をはるかに超えて存在させているゆ
えんなのだ。
WDIのスタッフたちはカルフォルニア、フロリダ、パリ、東京、香港を含めて現在千五
百人、この組織の才能あふれるスタッフを率いているのが、私の親しい友人であり、敬愛す
る現WDI副会長で、クリエイティブを担当するマーティー・スカラーである。彼は、一九
五五年ディズニーランドが開園を一ヶ月後に控えていた時にウオルト・ディズニーのグルー
プに入った。そして一九六六年までウオルト・ディズニーの身近でディズニー・テーマパー
225
ク学を学んだ。マーティーはこれまでに十に及ぶディズニー・テーマパークすべてのオープ
ンに参画した。
・一九五五年⋮⋮ディズニーランド
・一九七一年⋮⋮マジック・キングダム
・一九八二年⋮⋮EPCOTセンター
・一九八三年⋮⋮東京ディズニーランド
・一九八九年⋮⋮ディズニーMGMスタジオ
・一九九二年⋮⋮ディズニーランド・パリ
・一九九八年⋮⋮ディズニー・アニマル・キングダム
・二〇〇一年⋮⋮ディズニー・カルフォルニア ・アドベンチャー
・二〇〇一年⋮⋮東京ディズニーシー
・二〇〇二年⋮⋮ウオルト・ディズニー・スタジオ・パリ
彼は一九七四年、コンセプト&プランニング担当副社長になり、その後社長に就任するま
226
第 9 章 ディズニー・テーマパークの本質
で、WDIの全クリエイティブ開発は彼の指揮下にあった。特に一九八二年のEPCOTセ
ンター以降、八つのテーマパークは全て彼がクリエイティブ面での考え方を強力に推しすす
めたものだ。二〇〇五年、ディズニーはマーティーの指揮下で、間もなく香港に十一番目の
ディズニー・テーマパークを開園する。マーティーはウオルト・ディズニーのクリエイティ
ブな考え方を学び、それを取り入れていくうちに、ウオルト・ディズニーの哲学・思想を受
け継ぎ、WDIでクリエイティブ面におけるリーダーシップと手腕を発揮するようになっ
た。これまで彼は、内外で次代を担うテーマ性をもったパークやエンターテイメントのリー
ダーを幾人も育成してきた。 彼の影響はディズニー ・テーマパークの随所で、 そして、彼
の育てたテーマパーク・ビジネス界のアーティストや技術者、クリエイティブの人たちの言
葉の中からたくさん見出すことができる。
マーティーの作った言葉のいくつかはウオルト・ディズニーの言葉として世につとに有名
である。その一つをあげておきたい。
227
ミッキーの十戒︵ *著者注︶
一、 観客を知れ
二、 ゲストと同じ靴をはけ
三、 人の流れとアイデアの展開を体系づけよ
四、 人の目をひきつけるものをつくれ
︵ *奥まっているところに、視覚的に惹きつけるものを創れ︶
五、 コミュニケーションは視覚に訴えよ
六、 過度に与えずわくわくするものを創れ
七、 ひとつのショーは、ひとつのストーリーで話せ
八、矛盾をさけ、同一性をつらぬけ︵ *テーマ性の大切さ︶
九、 扱うのではなく、もてなせ
十、たゆまぬ努力を維持せよ︵ *質を維持せよ︶
228
1 成功に導いた外部 ・内部要因
東京ディズニーランドは多くの人たちの支持を得て二十周年を迎えることになった。
導入計画段階で、またオープン直後に至るまで、不成功を囁かれたり、事業的な採算性を
疑問視されることが多かった。しかし、私たちは公有水面を埋立てた土地を払い下げした責
務から、人々に、社会にかけがえのない価値を還元できるように、新しい生活文化を創造・
導入しようと努力してきた。その結果一定水準の成功を収めることができたと信じている。
この成功がどうしてあり得たのかを最後に二つの視点から考えておきたい。ひとつはオープ
ン時の一九八三年の日本及び日本人の時代背景についてである。いわば外的環境要因につい
229
第十章 東京ディズニーランドの歴史的意義
第 10 章 東京ディズニーランドの歴史的意義
てである。もうひとつが内部にかかわる要因である。成功に導くためにオリエンタルランド
社とディズニー社の他にどのような要因を必要としたかについてである。
一九六〇年代から一九七〇年代にかけて、日本の産業政策、経済政策は、成長︵ワーク中
心︶から福祉︵レジャー・生活中心︶への転換が課題になっていた。通産省︵現・経済産業
省︶も﹁生産重視から生活重視﹂への産業政策を検討していた。日本の経済・産業は、物価
問題、資源・エネルギー問題、公害問題、過密・過疎問題など、多くの問題に直面し、その
問題解決に取り組んでいた。
そのころ、千葉県は京葉工業地帯開発整備計画に従い、東京湾岸の埋立と企業誘致を検討
していた。しかし、政府の政策転換を受けて、埋立地に無公害施設、生活文化サービス施設
の誘致を推進することにしたのだ。この政策転換がのちに、誕生したばかりでなんの実績も
ないオリエンタルランドに、夢のようなビジネス機会をもたらすことになるが、その時点で
は誰もそのような未来がくることを認識してはいなかった。今日のディズニー・テーマパー
クを誰一人描くことはできなかった。
230
第 10 章 東京ディズニーランドの歴史的意義
ところが、一九七二年に田中角栄氏が首相に就任すると、
﹁日本列島改造計画﹂の具体化
が進み、浦安地域の埋立地での﹁レジャー施設計画﹂が現実化したのだ。今から振り返って
みると、経済企画庁が一九七二年一月に四十五日間の欧米レジャー事情視察団を出し、その
報告が立教大学の斎藤精一郎教授と日経広告研究所の松田義幸研究員によって、日本経済新
聞の経済教室欄 ︵三月二、 三日に上下︶ に掲載され、レジャー、 リゾート、 テーマパーク
に、民間企業が大きなビジネス機会のあることに気づいたのである。そして、通産省の名次
官といわれた佐橋滋氏が余暇開発センター理事長に就任すると、日本のビッグ企業が業種を
超えてセンターのメンバー企業として参加したのだ。三井不動産も会員企業になり、江戸英
雄さん、坪井東さんも浦安プロジェクトに協力を要請していたと伺っている。私自身も一九
七三年八月に堀貞一郎さんと欧米レジャー施設視察に四十日間出かけることになり、経済企
画庁の視察団の報告書を大いに参考にさせていただいた。中でも、ディズニー・テーマパー
クの報告に強い関心を抱き、 視察に出かけたのである。
フロリダの実験的未来都市のディズニー・ワールドは世界最大規模のレジャー・プロジェ
231
クトで、一九七三年の時点でも東京の山手線内の面積の一・五倍の十分の一︵マジック・キ
ングダム︶しかできていなかった。そのプロジェクトには、最初から自然保護運動を展開し
ているシエラクラブから役員を迎え、プロジェクトの計画、実施、管理に参加してもらうな
ど、当時、消費者運動で伸び悩んでいる民間デベロッパーによい反省材料を提供していたの
だ。
私は堀さんと一緒に視察し、実感したことは、
﹁ディズニー・ワールドは遊園地、テーマ
パークの域を超えた、民間主導によるリゾート都市経営だ﹂ということであった。私は、こ
の思いをディズニー・テーマパークを誘致してから今日まで後輩たちに語り続けてきた。実
際に二十年を経過して、まさに﹁東京ディズニー・リゾート都市﹂としてハード、ソフト共
に進化してきたと確信している。
次にオリエンタルランドにかかわる成功のための内部的要因について考えてみたい。
第一は本物の魅力。東京ディズニーランドが人々を引きつけるのは、家族が一緒に楽しめ
るという明快なウオルト・ディズニーのテーマパーク哲学・思想であり、その哲学・思想を
232
表現したシンデレラ城やアトラクションであり、ミッキーマウスなどのキャラクター群であ
り、ライブ・ショー、キャラクターグッズ、 飲食サービスである。 ところが浦安にディズ
ニーランド誘致が決定すると、周囲がにわかにかまびすしくなった。
﹁あのとおりのものがもし間違いで日本に出来たら、これはとんでもないことになるぞ﹂、
私たちを元気づけてくれたことは、 人々の東京ディズニーランド実現に対する期待であっ
た。建設計画当時、周囲から日本の資本で日本につくるのだからアトラクションの構成や内
容も﹁桃太郎﹂や﹁孫悟空﹂などを入れて日本的にいじった方が良い、という意見や提言が
多くあった。しかし私たちは﹁ディズニーランドをつくるためにディズニー社と契約したの
であって、ディズニーランドまがいのものをつくるためではない﹂と反論した。それは今で
も間違いではなかったと確信している。
第二は立地条件。東京ディズニーランドの立地条件は半径六十キロメートルの首都圏を中
心とする日帰り圏にカルフォルニア州をはるかに上回る三千五百万人もの人口を擁してい
233
﹁まず出来ないだろう﹂。しかし専門家や業界の疑心暗鬼をよそに、それ以上の感懐をもって
第 10 章 東京ディズニーランドの歴史的意義
る。ディズニー社の首脳部はこれを見てディズニー・テーマパークの立地として、ロサンゼ
ルスのディズニーランド以上の好条件だと確信したのである。この立地条件が、年間千五百
万人集客のビジネスを可能とした重要な要因であったのだ。しかし、仮に、立地条件が如何
に優れていてもこのビジネスの成否の最大の鍵は内容にある。立地条件に恵まれたスリルラ
イドのある遊園地でも、せいぜい年間百五十万人ないし二百万人の集客力しかない。たとえ
他施設には無い最も人気のあるスリルライド遊園地でも、日本では年間二百五十万人ないし
三百万人レベルの集客であった。ファミリー・エンターテイメントのパークであり、親も子
どもも一緒に楽しめるストーリー性のあるディズニーランドであるが故に、立地が生きたの
である。
第三は低コストの開発用地。もう一つの重要な成功要因は、低コストで取得した開発用地
であることだ。大型レジャー施設開発は、その開発のベースとなる土地の取得価格が低廉で
なければ、事業の成功は見込めない。概してレジャー産業は採算の見通しが立てにくい開発
事業であるだけに、地価が極めて安く、土地取得価格を殆ど考慮しないで全体の総事業費を
234
第 10 章 東京ディズニーランドの歴史的意義
低く抑えた開発ができなければ、事業としての魅力はないし、また事業としても成り立ちに
くい。東京ディズニーランド用地は、千葉県から当時一坪一万六千八百円という極めて安い
価格で払い下げを受けたものであった。 これが事業の成功を可能にした。 もし、 そうでな
かったならば、全体の開発資金は東京ディズニーランド総事業費の二倍を優に超していたこ
とは自明で、恐らく経営的には開業後に残余の土地︵東京ディズニーシー用地︶の売却をも
考慮しなければ採算の目途すら立っていなかった筈だ。一九八三年に千八百億円の総事業費
をかけて東京ディズニーランドを開業し、その僅か三年後の一九八六年に累積赤字を一掃す
る好業績を挙げ得たのも、好調な東京ディズニーランド事業の収益に加えてホテル用地の売
却益が計上できたためで、それらの問題を含めて考えてみても、土地の取得が低コストだっ
たという意味は非常に大きい。低価格での払い下げによって、民間企業の開発事業が円滑に
すすむというメリットを千葉県が大きく評価していたことと、それによってオリエンタルラ
ンド側は事業の社会的な側面を重く見るという官民双方の長所が結合されて、理想的な結果
を生み出したプロジェクト事例だと言える。
235
第四はスポンサー制度。松下電器産業、富士写真フィルム、第一生命、日産自動車、日本
コカコーラなど、一流企業︵三十一社︶が東京ディズニーランド施設のスポンサーに参加し
ている。これらの企業は各施設の入口にあまり目立たないサインの社名をつけたり、自社の
販促に東京ディズニーランドの名称やシーンを使う権利と引き換えにスポンサー料と年間会
費を負担する。 加えて、これらの企業は、 自社の広告活動の中で東京ディズニーランドの
様々な写真を使用し東京ディズニーランドのイメージと自社製品を関連づけて宣伝する機会
が多く、また、販促利用目的で東京ディズニーランド・チケットも多量に購入して使用して
くれる。このスポンサー制度は、 成功を経営的な側面から支える大切な役割を果たしてお
り、オリエンタルランドとしては、スポンサー企業の参加価値を高めていく責任を常に負っ
ている自覚と認識を欠かせない。
第五は地元行政の協力。東京ディズニーランド実現の過程で、地元の行政の強力な支援が
あった。特にレジャー施設は当時、銀行融資等が非常に難しいビジネスだった。その資金調
達のために千葉県が強力な支援をし、融資の肩入れをしてくれたことは、このプロジェクト
236
第 10 章 東京ディズニーランドの歴史的意義
実現の欠かせないファクターであった。同時に浦安が市をあげてこのプロジェクトを待望・
熱望していたということ。このことは、かつてカリフォルニアでスキーリゾート開発をすす
めた時に、大きな開発計画が地元住民の反対で挫折したという苦い経験を持っているディズ
ニー社の経営陣にとって、プロジェクト遂行の強い味方になった。
第六は運営組織。オリエンタルランドの運営組織が機能的につくられていったということ
も、成功要因の一つとして欠かせない。仮にディズニーランドというすばらしいブランドが
あっても、もしオリエンタルランドの運営組織力が弱体なものであり、施設を生かす力に欠
けていたら、おそらく東京ディズニーランドは成功しなかったであろうし、今日のように日
本の風土に根付くことはなかったであろうと思う。多分それは万博のような一過性のもので
終わっていたに相違ない。要するに、顧客満足のリピート性を生み出す運営、つまり運営の
サービスの質、これが万博と根本的に違うファクターであって、その面でオリエンタルラン
ドの運営組織力はすばらしい力量を発揮したと言ってよい。 別の言い方をすれば、 ディズ
ニーというすばらしいブランドとそれを運営していくオリエンタルランドの運営組織力の良
237
い形での相互作用が生み出した成果だと言っても良い。
2 成功を継続するための要件
次に成功を継続する要件について述べておきたい。
第一はディズニー・ブランドの独占。ウオルト・ディズニーは映画のなかで果たしてきた
七十年の歴史と実績の上に、テーマパークという新しい娯楽ジャンルを開発していった。彼
の映画制作の経験と知識と技術があって、はじめてテーマパークの実現があったということ
を考えると、実にテーマパークの歴史というものは、ディズニーランドのオープンの五十年
前から既に助走があったと考えるべきである。その歴史的なディズニー・ブランドの日本国
内独占は、 オリエンタルランドの事業経営の成功と、 その継続の最も重要な要因である。
ディズニー社は、東京ディズニーランド・オープンの四十五年ほど前から、日本において映
画、出版のみならずマーチャンダイズのためのキャラクター版権、テレビ番組などの事業展
238
第 10 章 東京ディズニーランドの歴史的意義
開を広範囲にすすめていて、東京ディズニーランドのオープン当時には、既に日本市場でそ
のブランド・イメージが確立されていた。従って、人々にとってディズニーランドは一度は
行ってみたい夢の世界だったわけで、その意味で言えば、東京ディズニーランドはオープン
前からディズニー・テーマパーク・ビジネスの全国的な潜在市場を手中に入れていたと考え
てよい。しかも、ディズニー ・ブランドに対するこの独占体制は今後も継続する。
第二は資金力と企画・デザイン力。ウオルト・ディズニーも、この事業の投資は回収を急
ぐべきではないことを強調している。特に初期投資は大きなリスクも伴うが、それ故に成功
時の回収率が良いというのもこのビジネスの持つ特性である。施設の完成後は顧客のリピー
トを促進していくために継続的な追加投資は不可欠である。従って、それだけの資金負担に
耐えられる企業体質であることがこのビジネスをやっていく前提になる。では資金力があれ
ばそれで充分か、というと決してそうではない。資金を生かして使う能力、即ち、企画・デ
ザイン力と創造力がなければこの事業の成功はおろか、成功の継続は決定的な条件を欠くこ
とになる。この創造性という点では世界をもってしても、いまディズニーの右に出る企業は
239
ない。
特にディズニーがすばらしいのは、芸術家、アーティスト、技術者など多くの人材を集め
て、映像芸術を革新し続け、その蓄積をテーマパーク開発に投入していることである。ディ
ズニーランドのコンセプト、ストーリー、シーンそれから数々のアトラクション、キャラク
ターなどを開発してきた人たちはすべてこれらのクリエーターたちだった。そこには若き日
のサルバドール・ダリの姿も見られたように、ここで働く芸術家たちの水準は非常に高い。
ディズニー ・テーマパークの美術的美しさの因って来るところかも知れない。 ウオルト ・
ディズニーはこの人たちに対して、ディズニーランドが成長し続けることについて次のよう
に語っている。
﹁私の見方では、ディズニーランドは決して完成しないでしょう。映画は違う。映画は一
度完成してしまうと、私たちはそれと手を切ってしまう。たとえ改良されうるものがあって
も、私たちはそれについてもはやなにも手を加えることはできない。実は、私はいつも生き
ているもの、成長し続けているものを仕事の対象としたかった。私たちはディズニーランド
240
第 10 章 東京ディズニーランドの歴史的意義
で初めてそういう仕事を得ることができた。﹂
まさにウオルト・ディズニーの本懐というほかない。ディズニー・スタジオにもWDIに
もその理念と豊かな想像力が脈々と息づいているのである。ディズニー・テーマパークのゲ
ストの感動は、人間が人間の想像力のすばらしさに対して感ずる感動で、これを求めてまた
人々はディズニーランドにやって来る。しかし、これからわれわれが認識しておかなければ
ならないことは、特に今は、東京ディズニーランドのオープン当時と違って、人々の時代に
対する態度変化がもっと敏感になってきているということである。一つのものが世の中の注
目を浴びる期間が、この二十年間のうちにとても短くなって来ているし、新しいものも直ぐ
時代遅れになっていく。創造力と資金力の面でこの時代の変化にきちんと適応していけるか
がこれからの重要な課題になる。アトラクションやショー・イベントはいつもホームランだ
けを必要としているのではない。それよりも、確実なシングルヒットを続けていける能力の
方が益々不可欠の条件になって来ているのである。
第三は無駄のない要員計画。レジャー産業の中でも、とりわけ質の良い接客サービスやメ
241
ンテナンスに重点をおくディズニー ・テーマパークのような事業は多数の人手を必要とす
る。ゲストに対してきめ細かなサービスをしていくフルオペレーションと、尚且つ人手を極
力省いていく省力化という二律背反をどのように調和させていくか。世界で最も人件費の高
いわが国では、 その点に於ける創意工夫が今後の経営の成否を決める分岐点になる。
第四は社会的貢献。 これからの時代は、 一つの事業を通して、 何らかの形で社会に役立
ち、社会と共存していく経営哲学がますます大切になってくる。ウオルト・ディズニー・ワー
ルドがEPCOTセンターで、世界各国から留学生を集めて産学協同のフェローシップをす
すめ、
﹁人類の未来のために、今、世界に求められているものは何か﹂を青年たち自身の体
験を通して考えさせている意味を改めて問うてみる必要がある。この事例はウオルト・ディ
ズニーが追い求めていたディズニー・テーマパークの社会的な役割の一つのあり方を示唆し
ていて実に興味深いが、そこまで踏み込まなくとも、東京ディズニーランドでも学生たちに
仕事を通じて実学を学ばせる産学協同プログラムを開発することなどが考えられてよい。ま
た日本の﹁顧客満足﹂経営、顧客サービスの水準を上げるスクーリング・センターにしても
242
第 10 章 東京ディズニーランドの歴史的意義
よい。 何れにせよ社会貢献の選択肢は多岐にわたる。
第五は礼儀正しい親切なサービス。 東京ディズニーランドにとってアトラクションや
ショーも大事だが、人を引きつけていく最も基本的な要件はやはり ﹁人の心にとどく接客
サービス ﹂である。キャストのサービスの質が高く、園内が清潔で美しくフレンドリーな
雰囲気がみなぎっていれば、ゲストのパーク体験の満足度は高い。そのために、キャストの
モラルを高めていくための教育を常に怠ってはいけないし、また何よりもキャストが常に楽
しく働ける職場を目指す企業でなければいけない。
最後に以上の五つの要件に関連づけて、ウオルト・ディズニー自身が語ったエピソードを
あげておきたい。 或る時、ウオルト・ディズニーはアドベンチャーランドのジャングルク
ルーズの前を通りかかって、
﹁このライドにはもう乗らなくていい。前に見ているから﹂と
言って施設を素通りしていくゲストの言葉を耳にして非常に驚き、WDIのデザイナーたち
にジャングルクルーズのシーンをもう一度見直して、新しいシーンをつけ加えるように即座
243
に指示した。
﹁終りは決してない。常に開発を続けて付け足していく。ディズニーランドは生き物なの
だ。息をして生きていくものには変化が必要である。﹂
﹁ディズニーランドは常に製作中であったり、成長の途上であったり、新しいものを付け
加えている途上であったりする。そして、それを繰り返し語って来たことが、それらの形を
変え、ディズニーランドを何時も新しいままに保って来た。それはまた、常にゲストの新し
い楽しみ方であったり、学習方法であったり、家族や友人と一緒に経験できる数々の冒険で
あったりする。﹂
これらはウオルト・ディズニーの言葉であるが、常に何かを加えて新しさを保つことがリ
ピートの源泉であることをわかり易く説明している。
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人生は出会いだと言われる。 私もこれまで人生の節目に、 大切な三人の人たちに出会っ
た。いや、 むしろ三人の人たちが私の人生の節目を作ってくれたと言ったほうが正しい。
最初は江戸英雄さんである。
江戸さんは私の学友・江戸久男君の叔父にあたる。甥子たちにとっても、当時から江戸さ
んは憧憬の存在だった。仲の良い私たちは日本橋の本社へ、当時、社長になったばかりの江
戸さんにたびたび会いに行っていた。叱られることも誉められることもいつも一緒だった。
かつての秘書だった方々には、今でも学生時代の迷惑を引きずっているようで頭が上がらな
い。私は就職の相談に江戸さんを訪問した。その時、江戸さんから、
﹁これから第三次産業
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おわりに
おわりに
の時代が来る。レジャー産業だ。私の知人が千葉県の船橋市に、埋立地から湧出した天然ガ
スを利用して大規模レジャー施設をつくって大変成功している。三年間そこで勉強してみた
らどうか﹂ というサジェスチョンを受けた。
二番目の人が丹澤善利さんである。
興味を感じてそのつもりになり、紹介されてお目にかかったのが丹澤善利さんだった。丹
澤さんは、 財界人のプロデューサーと呼ばれ、 多彩な事業を通して当時の話題を幾つもつ
くった人である。私はその丹澤さんのもとでサービス業の洗礼を受けた。三年が経って、江
戸さんが﹁約束の三年が来たので、上澤君を引き取りに来た﹂と、丹澤さんを訪ねて来られ
た。その時、丹澤さんが﹁この青年はうちにとって必要になっているから、もう戻すことは
出来ない﹂と応答された。それは丹澤さんの江戸さんに対するコンプリメントに違いないこ
とがわかっていながらも、私は丹澤さんの言葉がとても嬉しかったのである。それ以来﹁こ
の人のために﹂ と思う気持ちが強く、 丹澤さんのもとで新時代のサービス業に情熱を注い
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おわりに
だ。時が経って、江戸さんから﹁これから浦安で、いよいよ大規模レジャー施設の開発が始
まるが、行ってやってみないか﹂というお話を頂いた。丹澤さんがその事業の発起人だった
こともあって、 そのことについては私もよく知っていた。 江戸さんからそのお話を頂いた
時、丹澤さんは既に此の世の人でなく、 会社も一つの時代を終えていた。 江戸さんのお話
が、株式会社オリエンタルランドと私の縁の始まりだった。入社に際しては勿論試験があっ
た。ちなみに、丹澤さんは丹澤章浩さん︵元・オリエンタルランド専務取締役︶の厳父にあ
たる。
三番目の人が高橋政知さんとの出会いだった。
ディズニーとの契約交渉が、やがて会社にとって天下分け目の危機に立った時、
﹁俺と一
緒にアメリカに行こう。これに懸けよう﹂と声をかけて頂いた。会社の将来に心身を賭した
高橋さんの真剣な気持ちに、﹁この人のためなら﹂、﹁この人と一緒に﹂と私も奮い立った。
このプロジェクトは、何よりも私自身の夢でもあった。高橋さんと二人で、ディズニーとの
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最終契約交渉の詰を胸に秘めて、最初に一緒にアメリカに渡ったのは一九七九年一月二十五
日のことだった。その三ヶ月後の同年四月三十日、私たちは再びアメリカに向かい、ディズ
ニー本社で最終契約を締結、私はその歴史的署名に立ち会った。最終契約を締結し、融資に
も目途がつき東京ディズニーランドもようやく建設に向かうと、高橋さんから今度は、
﹁運
営が鍵だ。全責任をもってやってほしい﹂とのご下命だった。
私は、私なりに力を注いだがしかし非力だった。
その非力な私を幹部やキャストたちが志を一つにして支えてくれた。その甲斐あってか、
幸い東京ディズニーランドも日本人の多くに受け容れられ、今ではわが国の新たな生活文化
として定着し、東京ディズニーランドはアメリカのディズニーランドに勝るとも劣ることの
ない運営を確立し、その後の拡張の基盤もしっかりとできた。何よりもこれは、オリエンタ
ルランドの全役員、全キャストの組織力とチームワークが獲得したすばらしい成果だった。
私にとってこの仕事の面白さとやり甲斐は、何といってもたくさんの人々に出会える機会に
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おわりに
恵まれたこと、たくさんの人々の笑顔に出会ったことである。東京ディズニーランドの運営
は私の人生を豊かにしてくれた。これまでこの仕事一筋に歩んでこられたのは、私の人生の
節目となった三人の方々との出会いと、そして、多くの良き先輩、同僚、そして、後輩、キャ
ストの皆さんのご指導やご支援の賜物にほかならない。深く感謝を申し上げる次第である。
合掌
二〇〇三年七月十七日 上澤 昇
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【著者 略歴】 上澤 昇(エンゼル財団 AMS 研究室特別顧問)
AMS
: Angel Museion Studies
1934 年静岡県生まれ。1957 年中央大学法学部法律学科卒業。同年朝日
土地興業株式会社入社。1972年9月株式会社オリエンタルランド入社。
1974年レジャー開発本部レジャー企画室長。1979年取締役レジャー事
業本部ディズニーランド部長。1983年常務取締役。1991年専務取締役。
1993 年取締役副社長。2001 年退任。その後 2003 年までディズニー・リ
ゾートライン取締役会長に就任。
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ディズニー・テーマパークの魅力
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2003 年 9 月 10 日 発行
非売品
著 者 上澤 昇(K A M I S A W A N O B O R U )
発行者 松田義幸(MATSUDA YOSHIYUKI)
発行所 実践女子大学生活文化学科生活文化研究室
〒 191-8510 東京都日野市大坂上 4-1-1
TEL(042)585-8918
印刷所 日野テクニカルサービス株式会社
〒 191-8660 東京都日野市日野台 3-1-1
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