こちら - 舩橋晴俊研究室

舩橋晴俊先生近影
10. 交流した研究者から
1
2
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
舩橋晴俊
研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
一般社団法人 比較社会構想研究所 ❖ 2015
写真篇
小学校3年生のころ(1957 年)
自宅の庭の朝顔の棚の前で「少年の笑顔」
高校卒業アルバムから(1966 年)
坊主刈りの頭に輝く目が印象的な生徒会
議長だった
東京大学社会学研究室助手時代(1977 年ごろ)
狭い助手室で業務をこなす
ii
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
フランス政府給費留学生として渡仏(1986-88 年)
当時の身分証
環境社会学研究会創設のころ(1990 年)
鳥越皓之氏(左)と故飯島伸子氏(中央)と
大磯の自宅で(1989 年ごろ)
三男の食事の世話もするイクメンだった
写真篇
iii
大磯町でのゴミ問題調査(1996 年ごろ)
現場を大切にするフィールドワーカー
市ケ谷共同研究室にて現地調査の打合せ(2001 年)
グリーンコンシューマーの方々と
パリのヴァンセンヌの森を再訪(1999 年)
留学時代を懐かしみ,のびのびと両腕を拡げる
iv
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
襟裳岬にて放送大学ロケ(2002 年)
襟裳岬の緑化と再生の歴史を説明する
自宅書斎で執筆中(2009 年ごろ)
膨大な資料・書籍のなかで
青森調査でゼミ生と共に援農(2010 年)
聞き取り相手の苦労を分かち合う
写真篇
v
チェルノブイリを訪ねる(2011 年)
「石棺」を背景に沈痛な面持ち
原子力市民委員会座長として(2013 年)
市民による政策提言をめざして真剣勝負
vi
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
Photo by ISESEA-4 Staff.
若手を笑顔で激励する(2013 年 11 月)
東アジア国際シンポ(ISESEA-4,南京)にて
Photo by ISESEA-4 Staff.
Photo by Saburo Horikawa.
福島の現状について報告する(2013 年 11 月)
東アジア国際シンポ(ISESEA-4,南京)にて
Photo by Saburo Horikawa.
食卓でも熱心に議論する(2013 年 11 月)
東アジア国際シンポ(ISESEA-4,南京)にて
真剣なまなざしの中国人院生(2013 年 11 月)
東アジア国際シンポ(ISESEA-4,南京)にて
写真篇
vii
Photo by Saburo Horikawa.
Photo by Saburo Horikawa.
プレコンファレンスの準備会にて(2014 年 6 月)
法政大学市ケ谷キャンパスにて
濃密な報告をする先生(2014 年 7 月)
ISA プレコンファレンス(横浜)にて
Photo by Saburo Horikawa.
ダンラップ氏との再会を喜ぶ先生(2014 年 7 月)
ISA プレコンファレンス(横浜)にて
満足げな先生(2014 年 7 月)
プレコンファレンスの翌日,ISA
大会「法政大学ブース」にて
viii
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
目次
目 次
1.舩橋晴俊の生涯~履歴・経験・作品~.............................................................. 2
2.主要業績リスト(解説付き)............................................................................. 12
3.残されたメッセージ
3 - 1 ベートーベンについて(1998 エッセイ)............................................................ 24
3 - 2 社会学部舩橋ゼミ 20 年の活動~回顧と今後~(1999.2.1)................................. 25
3 - 3 舩橋ゼミ 20 周年記念スピーチ(1999.3.19)...................................................... 29
3 - 4 限りある生命の自覚(2003.2.4 近況文からの抜粋)............................................ 31
3 - 5 社会学的探求の回顧と展望(2008.9.7「還暦祝いのスピーチ」メモ).................... 32
3 - 6 2011 年 3 月卒業のゼミのみなさんへ(2011.3.24)............................................ 36
3 - 7 2013 年の研究活動について(2014.2.7)........................................................... 38
4.旅立ちの日に送る言葉
4 - 1 弔辞
田中 優子(法政大学総長). ......... 42
4 - 2 弔辞
鳥越 皓之(日本社会学会会長)..... 44
4 - 3 遺族代表の挨拶
舩橋 真俊.............................. 45
5.特別寄稿
5 - 1 はるちゃんといとこたちと「お化け屋敷」
庄野 進................................. 48
5 - 2 誠実であり、信頼され続けた舩橋君
渡邉 修司.............................. 49
5 - 3 大磯を守ってくれてありがとう
安部川 征彦........................... 50
5 - 4 舩橋晴俊君の急逝を悼む
折原 浩................................. 52
5 - 5 持続可能性を求めて―舩橋晴俊教授の業績を偲ぶ 宮本 憲一.............................. 54
6.学会における追悼文
<環境社会学会>
6 - 1 「学」が社会の中で何をするべきかを.
真摯に追求された姿を鏡として
鬼頭 秀一.............................. 58
6 - 2 意志の人
長谷川 公一........................... 60
6 - 3 舩橋晴俊さんを哀悼する
李 時載................................. 62
6 - 4 『原発ゼロ社会への道』をともに普請して
細川 弘明.............................. 63
<日本社会学会>
6 - 5 舩橋晴俊先生を偲ぶ
長谷川 公一........................... 64
<震災科研プロジェクト>
6 - 6 実践社会学者としての舩橋晴俊
矢澤 修次郎........................... 66
6 - 7 君は闘っているか
長谷川 公一........................... 68
6 - 8 舩橋先生が戦い、育てたもの
山下 祐介.............................. 73
6 - 9 2000 年代の舩橋晴俊先生
大門 信也.............................. 75
<社会学国際化科研プロジェクト>
6 -10 舩橋晴俊先生と世界社会学会議横浜大会
堀川 三郎.............................. 79
<世界社会学会議 RC24 >
6 -11 Sharing Condolences: Letters in Remembrance of Prof. Harutoshi Funabashi.
(Riley E. Dunlap, Raymond Murphy, Arthur P.J. Mol, Seejae Lee, Shu-Fen Kao)
.
Saburo Horikawa.................... 81
6 -12 In Memoriam: Harutoshi Funabashi
Tsunehide Chino.................... 84
7.原子力市民委員会の仲間から
7 - 1 舩橋晴俊さんの急逝を悼む
山口 幸夫.............................. 88
7 - 2 「公論形成」を活動の柱に
細川 弘明.............................. 89
7 - 3 舩橋さんへのお礼とお詫び
菅波 完................................. 90
7 - 4 公論形成に献身された舩橋さん
吉岡 斉................................. 91
7 - 5 チェルノブイリから福島へ.
「科学者としての実証スキルを磨き続けてください」 石井 秀樹.............................. 92
8.学術会議の仲間から
8 - 1 舩橋晴俊先生のネットワークと推進力
岩井 紀子.............................. 94
8 - 2 「核のゴミ」と人間・コミュニティ・民主主義
小澤 隆一.............................. 95
8 - 3 二人三脚で取り組んだ高レベル放射性廃棄物問題 今田 高俊.............................. 96
9.地域の社会運動の仲間から
9 - 1 徳は孤ならず、必ず隣あり
森田 愛作............................. 100
9 - 2 舩橋先生の思い出
武藤 類子............................. 101
9 - 3 舩橋晴俊先生とえこえね南相馬
高橋 荘平............................. 102
9 - 4 舩橋先生へ、ありがとうございました
市村 高志............................. 103
9 - 5 舩橋先生を偲んで
飛田 晋秀............................. 104
9 - 6 自然エネルギーは地域のもの
~舩橋晴俊さんの遺志を継いでいくために
大磯エネシフト理事一同........... 105
10.交流した研究者から
10- 1 舩橋くんを忘れない
高田 昭彦............................. 108
10- 2 見田ゼミの同門だけでなく、全共闘の同志だったとは 福岡 安則............................. 109
10- 3 先輩としての舩橋晴俊さん
江原 由美子.......................... 110
10- 4 東京大学院生・助手時代の舩橋晴俊先生
友枝 敏雄............................. 111
10- 5 生き方に根づいた社会学的想像力
佐藤 健二............................. 113
10- 6 舩橋晴俊先生の急逝を悼む
桝潟 俊子............................. 114
10- 7 森有正の「経験」概念に共鳴して
蘭 由岐子............................. 115
10- 8 舩橋晴俊先生の遺志
舘 かおる............................. 116
10- 9 いまだに続く呆然自失状態
寺田 良一............................. 118
11.職場の同僚から
11- 1 厳しさを通した優しさ
渡辺 秀樹............................. 122
11- 2 大学人としての背骨、生活者としての背骨
原田 悦子............................. 123
11- 3 労を惜しまない熟議の人.
—大学院議長としての舩橋先生を中心に
池田 寛二............................. 125
12.卒業生からの言葉
<市ヶ谷時代>
12- 1 舩橋先生から学んだこと
江村 喜明............................. 128
12- 2 先生の思い出
豊島 雅勇............................. 129
12- 3 与えられた 1 タラントン
織田 和家............................. 130
12- 4 厳しくやさしかった舩橋先生のまなざし
春日 純一............................. 131
12- 5 舩橋先生と研究室
飯野 智子............................. 133
12- 6 私にとっての舩橋ゼミと舩橋晴俊先生
早川 広美............................. 134
<多摩移転と新しい教育の時代>
12- 7 ブレることのない静かな情熱
藤守 義光............................. 135
12- 8 ななめの関係
堀田 恭子............................. 136
12- 9 舩橋先生の思い出
角 一典................................ 138
12-10 頭をガーンとなぐられた最初の講義から
石原 和................................ 140
12-11 先生の「声」について
野田 賢二............................. 141
12-12 40 歳にして
湯浅 陽一............................. 142
12-13 教え子の一人から見た教育者としての舩橋先生
朝井 志歩............................. 143
12-14 舩橋先生へ
前田 正芳............................. 144
<大学院政策科学専攻の時代>
12-15
舩橋晴俊先生を偲んで
寒田 亮................................ 145
12-16
社会学的想像力を麻痺させない
吉田 暁子............................. 146
12-17
忘れられた、忘れられない言葉
鈴木 隆之............................. 147
12-18
舩橋晴俊先生、ありがとうございました
髙城 尚太............................. 148
12-19
師の意味を知る
宇田 和子............................. 149
<社会変革のうねりの中で>
12-20
追悼の意をこめて
西島 香織............................. 150
12-21
短くも密度の濃い 4 年半を振りかえって
北風 亮................................ 151
12-22
舩橋晴俊先生の後ろ姿が語るもの
廣瀬 勝之............................. 153
12-23
舩橋晴俊先生のもとで「学問的ヒット」を目指す 羽深 貴子............................. 154
13.新聞記事
13- 1
読売新聞「顔」(2010.12.29).......................................................................... 156
13- 2
朝日新聞「ひと」(2013.10.4)........................................................................ 157
13- 3
東京新聞「脱原発へ新法制定を」(2014.4.13).................................................. 157
13- 4
朝日新聞「「公論」作り政策動かす」(2014.8.31)............................................. 158
13- 5
追想メモリアル:共同通信記者による追悼記事の配信........................................ 159
13- 6
北海道新聞「脱原発へ民主主義尊重訴え」(2014.10.25).................................... 160
13- 7
北海道新聞「異聞風聞」(2014.11.2)............................................................... 160
あとがき..................................................................................................................... 162
1. 舩橋晴俊の生涯〜履歴 ・ 経験 ・ 作品〜
通常のように履歴と業績を並べるにとどまらず、横軸で、いつ、どんな立場のとき、どんなことを実践し、
どんな「作品」を生み出したのかを概観できるように、さらに縦軸で、どのような人生段階を歩んできたのか、
アウトラインを描きだせるように、残された多様な資料からエッセンスと思われるもののみで構成しました。
兼任講師歴を含む詳細な履歴と完全詳細業績リストは、2016 年春に刊行予定の『社会志林』に掲載の予定です。
ここでは、後章で本人がAレベル以上と自己評価した重要な「作品」を中心にごく少数の重要な仕事のみを載せ
ています。 (© 舩橋惠子 , 2015)
年月
履歴事項
プロジェクト・経験・調査
● 生育
1948.7.17
神奈川県大磯町に生まれる
1961.3
大磯町立大磯小学校卒業 合唱団,アリの研究
1964.3
大磯町立大磯中学校卒業 吹奏楽部,ステレオ・アンプ自作
1967.3
神奈川県立平塚江南高校卒業
合唱部,生徒会,
『江陵』編集
● 模索の 10 年
1967.4
東京大学理科Ⅰ類入学
管弦楽団,折原ゼミ,反戦運動,大学闘争
1971.6
東京大学工学部宇宙航空学科卒業
真木悠介や森有正の著作との出会い,登山
1973.3
東京大学経済学部経済学科卒業 経済史関口ゼミ
1975.3
東京大学大学院社会学研究科修士課程修了 見田ゼミ,社会問題研究会,東京ゴミ戦争調査
1976.9
東京大学大学院社会学研究科博士課程退学
● 研究者・教育者として
1976.10
東京大学文学部助手 (~1979.3) 1978.5
第 19 回城戸賞受賞
文学部図書館改革
1979.4
法政大学社会学部専任講師 (~1981.3)
教育方法の模索
石堂常世「アランの理論」との出会い
1980 自宅に太陽熱冷暖房給湯システム導入
1981.4
法政大学社会学部助教授 (~1988.3)
1981 金山ゼミ六ヶ所村調査との出会い
1982 〜 名古屋新幹線公害調査
1983~4 東北新幹線調査
1984.4 多摩移転とカリキュラム改革
● 環境社会学の樹立に向かって
1986.8
パリ留学 ( 仏政府給費留学生 )(~1988.8)
1988.4
組織社会学研究所でM・クロジェに師事
フランス新幹線調査,エコロジストとの出会い
法政大学社会学部教授 (~2014.8)
1989 〜 大磯町昭和電工誘致反対運動 (~1990)
1990.5 環境社会学会設立の呼びかけ
1990 〜 むつ小川原開発と核燃料サイクル調査
1991.4
社会学部教授会主任 (~1993.3)
1991.7 〜 新潟水俣病調査 (~1994.3)
1992.10 環境社会学会設立
1993.4 調査実習の導入等カリキュラム改革
2
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
主要作品
● 生育
● 模索の 10 年
1974.12 修論「組織の存立構造論−共同性と集列性の視点から」
1976.11 「対抗的分業の理論」( 共著 )
● 研究者・教育者として
1977.8 「組織の存立構造論」
1980.12 「協働連関の両義性−経営システムと支配システム」
1982.3 「社会学理論の三水準」
1985 『新幹線公害−高速文明の社会問題』( 共著 )
1986.6 コンラッド,セレンニィ 『知識人と権力』( 共訳 )
● 環境社会学の樹立に向かって
1988.10 『高速文明の地域問題−東北新幹線の建設 ・ 紛争と社会的影響』( 共著 )
1989.3 「「社会的ジレンマ」としての環境問題」
1989.11 フリードベルグ『組織の戦略分析』( 共訳 )
1990.4&7 「フランスにおける新幹線公害対策」
1990.1 「社会制御の三水準−新幹線公害対策の日仏比較を事例として」
1. 舩橋晴俊の生涯
3
年月
履歴事項
プロジェクト・経験・調査
1993 自宅に太陽光発電システムを自作
1994 〜 整備新幹線調査
1995.6
環境社会学会事務局長 (~1997.6)
1995 環境基本計画・廃棄物問題調査
1996 〜 大磯町まちづくり環境問題研究会
( 〜 1998)
→自治大臣賞受賞
● 研究・教育・組織運営
1997.11
日本社会学会理事 (~2000.10)
データベース委員長 1997 社会学系大学院単位互換制度の創設
1999 〜 グリーン・コンシューマー調査 ( 〜 2002)
2000 自宅に本格的太陽光発電を導入
2001.4 大学院政策科学専攻の創設 2001.6
環境社会学会会長 (~2003.6)
2001 〜 飯島伸子文庫プロジェクト ( 〜 2005)
2002 〜 政策研究実習で青森調査 ( 〜 2012)
2003.11
日本社会学会理事 (~2006.10)
『社会学評論』編集委員長
2004.4
2003 六ヶ所村住民意識調査
2003 沼津・三島・清水住民運動調査
法政大学社会学部長 (~2006.3) 7コース8プログラム制の導入,FD などの改革
2006 世界社会学会議 ( 南アフリカ )
2007 〜 科研 A「公共圏の創成と規範理論の探究」
2007 東アジア環境社会学会議 ( 北京 )
2008 東アジア環境社会学国際シンポ -1( 東京 )
2008 〜 ISEP とコラボ「自然エネルギー研究」
2009.4
4
法政大学大学院委員会議長 (~2011.3)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
主要作品
1995.1 「新潟水俣病における集団検診の限界と認定審査の欠陥」( 共著 )
1995.9 「環境問題への社会学的視座−「社会的ジレンマ論」と「社会制御システム」
」
1996.11 「社会構想と社会制御」 ● 研究・教育・組織運営
1998.1 『巨大地域開発の構想と帰結−むつ小川原開発と核燃料サイクル施設』( 共編著 )
1998.12 『講座社会学第 12 巻 環境』( 共編著 ) 1999.2 『新潟水俣病問題−加害と被害の社会学』( 共編著 )
1999.12 『環境社会学入門』( 共編著 )
2000.6 「熊本水俣病の発生拡大過程における行政組織の無責任性のメカニズム」
2001.1 『講座環境社会学第1巻 環境社会学の視点』( 編著 )
2001.7 『講座環境社会学第2巻 加害・被害と解決過程』( 編著 ) 2001.11 『「政府の失敗」の社会学−整備新幹線建設と旧国鉄長期債務問題』( 共著 )
2003.3 『環境社会学』放送大学講義 ( 共編著 )
2004.8
“Intervention of the Environmental Control System in the Economic System and the Environmental
Cluster.”
2004.11 「環境制御システム論の基本視点」
2006.6 「「理論形成はいかにして可能か」を問う諸視点」
2006.7 『講座社会変動 第4巻 官僚制化とネットワーク社会』( 編著 )
1. 舩橋晴俊の生涯
5
年月
履歴事項
2009.10 法政大学サスティナビリティ研究教育
機構長 (~2013.3)
2009.11
日本社会学会理事 (~2012.10)
研究活動委員長
プロジェクト・経験・調査
2009 東アジア環境社会学国際シンポ -2( 台湾 )
2010 世界社会学会議 ( スウェーデン ) ● 脱原発社会への道
2011.10
日本学術会議連携会員 (~2014.8)
・高レベル放射性廃棄物の処分に関する
検討委員会幹事
→同フォローアップ検討委員会
暫定保管と社会的合意に関する分科会
委員長
・社会学委員会 ( 東日本大震災の被害構
造と日本社会の再建の道を探る分科会
委員長 )
・東日本大震災復興支援委員会・福島復興
支援分科会委員
2011.10 東アジア環境社会学国際シンポ -3( 韓国 )
2011.11 チェルノブイリ調査 ( ウクライナ )
2012.1 ドイツのエネルギーシフト調査
2012.9 〜 えこえね南相馬研究機構アドバイザー
2012.9 「高レベル放射性廃棄物の処分についての回
答」( 学術会議 )
2012.9 学術会議「科学と社会」分科会での報告 2013.4
原子力市民委員会 座長 (~2014.8)
2013.6 「原発災害からの回復と復興のために必要な
課題と取り組み態勢についての提言」( 学術会議社会学
委員会 )
2013.7 〜 第二期サス研を科研費で設立
6
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
主要作品
2010.6 『組織の存立構造論と両義性論−社会学理論の重層的探求』
2010.11 『環境総合年表−日本と世界』( 共編著 )
2011.3 『環境社会学』( 編著 )
2011 “The Duality of Social Systems and the Environmental Movement in Japan.”
● 脱原発社会への道
2011.8 ジョンソン『核廃棄物と熟議民主主義』( 共訳書 )
2012 “Why the Fukushima Nuclear Disaster is a Man-made Calamity.”
2012.3 『核燃料サイクル施設の社会学−青森県六ヶ所村』( 共著 )
2012.3 『規範理論の探求と公共圏の可能性』( 共編著 )
2012.7 『社会学をいかに学ぶか』
2012.9 『持続可能性の危機−地震・津波・原発災害に向き合って』( 共編著 )
2013.2 『「むつ小川原開発・核燃料サイクル施設」問題研究資料集』( 共著 )
2013.3 『東日本大震災と社会学−提起された<問い>をめぐって』( 共編著 )
2013.3 『公共圏と熟議民主主義』( 共編著 )
1. 舩橋晴俊の生涯
7
年月
履歴事項
プロジェクト・経験・調査
2013.9 福島調査
2013.11 東アジア環境社会学国際シンポ -4( 南京 )
2013.11 〜 大磯エネシフト理事(3 万人の町からエ
ネルギーシフトを目指す)
2014.2 ドイツのエネルギーシフト調査
2014.4 参議院外交防衛委員会 参考人意見陳述
2014.7 世界社会学会議プレコンフェランス
● 急逝
2014 8 15
逝去 ( クモ膜下出血 ) 享年 66 歳 2014 8 15
法政大学名誉教授,正五位 瑞宝中綬章
8
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
主要作品
2014.4 『原発ゼロ社会への道−市民がつくる脱原子力政策大綱』( 原子力市民委員会の共同作品 )
2014.7 『原子力総合年表−福島原発震災に至る道』( 共編著 )
2014.7 A General World Environmental Chronology. ( 共編著 )
● 急逝
未完の大著『社会制御過程の社会学』 その他多数
1. 舩橋晴俊の生涯
9
10
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
2. 主要業績リスト(解説付き)
主要業績リスト(解説付き)
舩橋 晴俊
[更新履歴 V1=1993.12.8 / V6=2007.4.12 / V7=2008.4.11 / V8=2008.10.22 / V9=2014.7.26]
< 1 >修士論文
「組織の存立構造論-共同性と集列性の視点から」1974 年 12 月
400 字 ×585 枚 東京大学大学院社会学研究科に提出
(真木悠介,1973「現代社会の存立構造」『思想』1973 年 5 月号、に触発されて渾身の力をこめて書
いた理論的論文。研究者としての第一歩を踏み出すことができた。本論文の執筆を通して、7 年間
のアイデンティティ・クライシスに終止符を打つ。)
< 2 >論文(共著者の記載なきものは、単著)
[ 1 ] 1976,11 月(舩橋惠子との共著)
「対抗的分業の理論」
『現代社会学』Vol.3,No.2,p.114-129.
AA
[ 2 ] 1977,8 月「組織の存立構造論」 『思想』1977 年 8 月号[第 638 号],p.37-63.
(修士論文の書き直し、V7. 第 19 回城戸賞受賞。本論文が評価されて法政大学に着任。
本論文は、社会学原理論に属する。これを基盤として[5]を執筆。)
[ 3 ] 1979,4 月「個人と集団」竹内郁郎他編『テキストブック社会学(8)社会心理』有斐閣,
p.34-50.
[ 4 ] 1980,2 月「定年退職をめぐる生活設計の諸類型」『月刊福祉』p.36-41.
AA
[ 5 ] 1980,12 月「協働連関の両義性-経営システムと支配システム」 現代社会問題研究会編
『現代社会の社会学』川島書店,p.209-231.
(はじめて、自分のオリジナリティのある理論枠組みを提出。一方で原理論としての[2]に基
礎づけられ、他方で、新幹線公害やごみ問題の実証研究にインスピレーションを得ている。
この理論枠組みの確立後、安心して、実証に打ち込めるようになった。この論文で確立した
理論枠組みは、以後、34 年間維持されている。)
12
[ 6 ] 1981,3 月「社会工学の領域仮説と限界問題」『社会労働研究』Vol.27,No.2,p.39-61.
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
[ 7 ] 1981,6 月「 社 会 工 学 の 限 界 性 と「 漸 次 的 社 会 技 術 」 の 理 念 」『 社 会 労 働 研 究 』Vol.27,
No.3・4,p.1-45.
(法政大学社会学部着任後、はじめて、社会学部紀要である『社会労働研究』にセットとなる[6]
[7]を執筆。1979 年の着任後 2 年間は、「社会工学」という講義を担当していたが、この二
論文をふまえて、「社会計画論」に講義タイトルを変更した。)
A [ 8 ] 1982,3 月「社会学理論の三水準」 『社会労働研究』Vol.28,No.3・4,p.139-177.
(
[2][5]をふまえて、社会学の方法論、あるいは、メタ理論の領域での考察。この論文は、
以後[50]に発展的に継承されている。)
[ 9 ] 1983,
「生活水準の変化」青井和夫編『中高年齢層の職業と生活』東京大学出版会
[10] 1984,3 月「国家機構における新幹線公害問題の放置のメカニズム」
『社会労働研究』Vol.30,
No.3・4,p.1-25.
[11] 1984,4 月「新幹線公害の社会学的考察-国鉄組織における放置のメカニズム」『公害研究』
Vol.13,No.4,p.21-30.
(
[10][11]はセットになっている。両者は、著作[1]の 5 章と 4 章を準備するものである。
[11]は、公害加害組織の内部メカニズムに踏み込んだ先駆的論文。名古屋新幹線公害訴訟、
控訴審の法廷で、被害者弁護団より弁論に引用された。)
[12] 1985,11 月「権力と情報-新幹線をめぐる地域紛争の事例から」『社会・経済システム』
No.3,p.39-43.
[13] 1986,3 月「新幹線公害の社会学的問題点」『環境研究』No.57,p.73-81.
[14] 1987,5 月「東北新幹線建設と住民運動-「支配システムと経営システム」の視角から」栗
原彬・庄司興吉編『社会運動と文化形成』東京大学出版会,p.123-156.
[15] 1987, décembre, “Ils sont fous, ces français”, dans Annales des Mines Gérer et Comprendre,
no.9, p.46-55.(France)
(フランス留学中に書いた初めてのフランス語論文。日本人がフランス社会に接して感じた違
和感と発見を記す。)
[16] 1988, juin “Une culture au service de la production? ; Quelques considérations sur la vie
sociale et économie au Japon”, dans Annales des Mines Gérer et Comprendre, no.11, p.70-80.
(France)
(日本の経済と社会の特徴を、文化に注目しながら記述した。)
A [17]
1989,3 月「「社会的ジレンマ」としての環境問題」 『社会労働研究』第 35 巻、第 3・4 号,p.23-50.
(社会的ジレンマ論の視点から環境問題を考察した最初の試行錯誤的論文。日本の環境社会学
の一つの有力な理論潮流の形成に寄与した。)
[18]
1989,11 月「新幹線公害対策としての緑地遊歩道-フランス大西洋新幹線の事例」
『社会労働研究』第 36 巻、第 2 号,p.1-61.
A [19] 1990,4 月 ・7 月「フランスにおける新幹線公害対策-緑地遊歩道とその実現過程(上・下)」
『公害研究』Vol.19,No.4,p.61-67/Vol.20,No.1,p.50-54.
(
[18][19]は、1986 年 ‒88 年の 2 年にわたるフランス留学中の現地調査に基づく。
以後、ここから、社会制御システム論という新しい地平に思考が展開していく。)
2. 主要業績リスト(解説付き)
13
[20] 1990,11 月「「 行政の失敗 」 と公共事業の改革の方向」
『都市問題』第 81 巻第 11 号,p.51-61.
A [21] 1990,12 月「社会制御の三水準-新幹線公害対策の日仏比較を事例として」
『社会学評論』第 41 巻第 3 号,p.73-87.
(日本社会学会機関誌『社会学評論』への初めての投稿論文。北九州市における山陽新幹線の
公害対策とフランスの公害対策、東海道新幹線の公害問題を統合的に比較しながら、社会制
御システム論を初めて本格的に展開。ただし、用語の定義は、以後、修正が必要となる。)
[22]
1991,4 月「環境問題をめぐる配分の歪み -社会的ジレンマ論の視角から」『組織科学』
Vol.24,No.3,p.40-49.
[23] 1992, “Social Mechanism of Environmental Destruction : social dilemmas and the separatedependent eco-system” in Helmer KRUPP (ed.), Energy politics and the problem of global
sustainability : Japan between short-term wealth and long-term welfare, Springer Verlag, p.265275.
[24]
1992, October “Environmental problems in postwar Japanese society” in International Journal
of Japanese Sociology, No.1,p.3-18.
(1992 年に英語の論文を相次いで初めて発表する機会を得た。[23]は、社会的ジレンマ論に
青森調査の知見を加えたもの。[24]は、日本社会学会の唯一の英文季刊誌の創刊号に執筆。
巻頭に掲載された。)
[25]
1992,3 月「経済成長と環境問題」
『改訂 社会福祉士養成講座 12 社会学』中央法規、p.220-236.
[26] 1992,10 月「生産供給型社会制御システムと「合理性の背理」」『社会・経済システム』第 11
号,p.62-65.
[27]
1993,6 月「環境問題と地域社会-社会的ジレンマ論の視点から」蓮見音彦・奥田道大編
『21 世紀日本のネオ・コミュニティ』東京大学出版会,p.205-228.
[28]
1993,12 月「交通公害対策と土地利用-新幹線緩衝緑地帯の日仏比較を事例として-」
『月刊 用地』Vol,26,No.315,p.34-45.
(
『月刊 用地』編集担当者が、単行本[1]をきわめて高く評価してくれて、原稿執筆を依頼
された。)
[29] 1993,12 月「社会制御としての環境政策」飯島伸子編『環境社会学』有斐閣,p.55-79.
(環境制御システム論の考えを初めて提起した論文。以後、単行本[4]7 章に発展する。)
A [30] 1995,1 月(渡辺伸一との共著)「新潟水俣病における集団検診の限界と認定審査の欠陥
-なぜ未認定患者が生み出されたか-」『環境と公害』第 24 巻 3 号,p.54-60.
(1991 年以来取り組んだ、新潟水俣病研究の最初の雑誌発表。)
[31]
1995,3 月「熊本水俣病の発生拡大過程と行政組織の意志決定(一)」『社会労働研究』第 41
巻第 4 号,p.109-140.
(第二の水俣病である新潟水俣病の研究は、なぜ、第一の水俣病である熊本水俣病の教訓にも
かかわらず、第二の水俣病が防げなかったのか、という問いを生む。また、1990 年代には、
熊本と新潟の水俣病訴訟で、水俣病の発生拡大についての行政責任が問われていた。行政の
加害責任の解明に取り組むために、歴史を詳細に跡づけようとした。[34][36][41]へと
続いていく。これら 4 点は、熊本水俣病関西訴訟の控訴審において大阪高裁に提出され、ま
た(その一部は)上告審において最高裁での被害者側弁護団の主張に引用されている。)
14
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
AA
[32] 1995,9 月「環境問題への社会学的視座-「社会的ジレンマ論」と「社会制御システム論」」
『環境社会学研究』Vol.1,p.5-20.
(社会的ジレンマと環境制御システム論とを統合した、環境社会学の基本理論の提示。環境社
会学会の機関誌『環境社会学研究』創刊号の巻頭特集論文。)
AA
[33]
1996,11 月「社会構想と社会制御」
『岩波講座現代社会学 第 26 巻 社会構想の社会学』
岩波書店,p.1-24.
(
「社会計画論」の講義をふまえて執筆。社会制御についての包括的とらえ方を提示。個人の経
験と社会構想の関係を検討し、また、「触発的変革力」の概念を提示している点でユニーク。
森有正の論考を基盤にしつつ、権威主義的社会構想を批判している。この論文が、北樹出版
の編集者の注目するところとなり、勧めにより『社会制御過程の社会学』の企画に発展していく。)
[34]
1996,11 月「熊本水俣病の発生拡大過程と行政組織の意志決定(二)」『社会労働研究』第 43
巻第 1・2 号,p.97-127.
[35]
1997,11 月「環境問題と情報-公共圏の豊富化をめぐって」『社会と情報』No.3,p.53-74.
[36]
1997,12 月「熊本水俣病の発生拡大過程と行政組織の意志決定(三)」『社会労働研究』
第 44 巻第 2 号,p.93-124.
[37] 1998,4 月「補助金制度の構造的欠陥-財政支出肥大化についての社会学的視点」『都市問題』
第 89 巻・第 4 号,p.43-54.
(財政制度の組織社会学的分析。ここで、提示された視点が、著作[9]につながっていく。)
[38] 1998,4 月「現代の市民的公共圏と行政組織-自存化傾向の諸弊害とその克服-」青井和夫・
高橋徹・庄司興吉編『現代市民社会とアイデンティティ- 21 世紀の市民社会と共同性:理論
と展望』梓出版社,p.134-159.
(行政組織の自存化傾向の生み出す諸弊害の体系的検討。)
[39] 1999,10 月「二つの水俣病における政治システムの閉塞と情況化」『情況』1999 年 10 月号,
p.65-76.
[40] 2000,6 月 石川建次との共著「容器包装と廃棄物問題についての企業の態度-「大磯町ご
み減量化・資源化推進調査研究会」アンケート調査に見る」『リサイクル文化』62 号(リサイ
クル文化社発行、星雲社発売)p.88-96.
(学部ゼミで行った、調査実習のアンケートを生かした雑誌論文。)
AA
[41] 2000,6 月「熊本水俣病の発生拡大過程における行政組織の無責任性のメカニズム」
相関社会
科学有志編『ヴェーバー・デュルケム・日本社会-社会科学の古典と現代』ハーベスト社,
p.129-211.
(恩師である折原浩先生の定年退任記念論文集に寄稿したもの。水俣病問題についての膨大な
原資料と証言を、戦略分析と支配システム論を駆使しながら解明し、ミクロ、メゾ、マクロ
の水準ごとに、なぜ、熊本水俣病の発生・拡大を行政組織は防げなかったのかを検討した。
水俣病問題に詳しいある人の評価によれば、「はじめて水俣病の行政責任を本格的に解明した
論文」と言われた。)
[42]
2000,10 月「分別保管庫の提案-廃棄物処分場に代えて-」『環境社会学研究』6 号,
有斐閣,p.119-124.
2. 主要業績リスト(解説付き)
15
[43] 2001,3 月「社会学は政策科学にどのように貢献しうるか」『社会志林』第 47 巻第 3 号,
p.18-38.
(本論文と[44]は、大学院政策科学専攻の設置に伴い、大学院の講義資料として役立つこと
を目指して執筆した。)
[44] 2002,10 月「環境問題をめぐる政策的課題とコミュニケーション」『都市問題』第 93 巻
第 10 号,p.3-14.
(行政組織と環境運動の関係のタイプについて、検討。)
[45] 2003,12 月「政策科学の諸領域と問題解決の総合性」岡本義行編『政策づくりの基本と実践』
法政大学出版局,p.3-17.
A [46] 2004,8 月,“Intervention of the Environmental Control System in the Economic System and
the Environmental Cluster”, in Széll, György and Ken’ichi Tominaga (eds.), The Environmental
Challenges for Japan and Germany: Intercultural and Interdisciplinary Perspectives, Peter Lang,
pp.137-159.
(日独社会科学会議の発表を基盤に執筆、環境制御システム論を英語で初めて本格的に展開した。)
A [47]
2004,11 月「環境制御システム論の基本視点」
『環境社会学研究』第 10 号,p.59-74.
(環境制御システム論の日本語による本格的提示、本論文に掲載された五つの図は、段階的に
洗練されたものであるが、作成に 12 年かかっている。)
[48]
2004,12 月「公共事業の欠陥とその改革の方向」『社会志林』第 51 巻第 2 号,p.67-86.
(
「経営システムと支配システム」論に立脚した、公共事業の批判的解明。)
[49] 2006,1 月「水俣病問題は保健医療社会学にどのような問いを提起しているのか-支配システ
ム論と科学技術社会学の視点から」『保健医療社会学論集』第 16 巻 2 号,p.16-27.
(保健医療社会学会での発表をもとに執筆。水俣病の科学研究の過程で、なぜ医学がゆがんで
いったのかを批判的に検討。)
A [50]
2006,6 月「「理論形成はいかにして可能か」を問う諸視点」
『社会学評論』第 57 巻 1 号,
p.4-23.[第 225 号]
(日本社会学会の機関誌『社会学評論』の特集「理論形成はいかにして可能か」について、序
論として書かれたもの。[8]の論点を継承しつつ、さらに、T字型の研究戦略を提唱している。)
[51] 2006,9 月「支配システムにおける問題解決過程-静岡県におけるコンビナート建設阻止を事
例として」『社会志林』第 53 巻第 2 号,p.63-89.
(日本地域開発の歴史の転換点となった沼津・三島・清水の住民運動の経験をリーダーたちへ
の取材をもとに記し、教訓を整理した。)
[52] 2006, 11 月” Minamata Disease and Environmental Governance”, International Journal of
Japanese Sociology, No.15,p.7-25.
(環境ガバナンスの条件とは何かを水俣病の事例から整理した。追加的加害や派生的加害の概
念も提示。[41]の論点の一部を英語で表現。)
[53] 2007,4 月「環境問題を問う」山﨑英則編『教育哲学へのいざない─教育の再構築と教育思想
の展開』,p.150-157.
[54] 2007,6 月「公共事業における欠陥とその改革の方向─社会計画論の視点より」田邊忠顕編
『公共事業における意思決定のプロセスと第三者機関の役割』名工社,p.45-64.
16
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
[55] 2008,9 月「子どもに伝えたい環境問題」小宮信夫編集代表『安全・安心の環境づくり 地域で守る・自分で守る(子育て支援シリーズ・第 4 巻)』ぎょうせい,p.292-302.
[56] 2009,4 月「公害問題へのまなざし」鳥越皓之・帯谷博明編『よくわかる環境社会学』
ミネルヴァ書房,p.142-145.
[57] 2010,3,20「環境控制系統対経済系統的干預与環保集群」『學海』2010,No.2,p.69-84.
[58] 2010,7「「経営システムと支配システムの両義性」からみた社会的合意形成」
『季刊 政策・経営研究』2010,Vol.3,p.72-88.
A+[59] 2011, “The Duality of Social Systems and the Environmental Movement in Japan”, Jeffey
Broadbent and Vicky Brockman(editors), East Asian Social Movements: Power, Protest and
Change in a Dynamic Region. New York: Springer Press. pp.37-61.
(
「経営システムと支配システム論」を英文で体系的に説明しつつ、この理論枠組みを使用した
三つの事例分析を記した。前半部分は[5]を要約したもの。)
[60] 2011.3.「社会制御システム論における規範理論の基本問題」
『社会志林』57(4),p.119-142.
(宮島喬先生の定年退任記念号,
『社会制御過程の社会学』第 8 章の予定原稿を多少修正したもの)
[61] 2011「災害型の環境破壊を防ぐ社会制御の探究」『環境社会学研究』Vol.17,p.191-195.
A [62] 2012, “Why the Fukushima Nuclear Disaster is a Man-made Calamity”, International Journal
of Japanese Sociology, No.21,p.65-75.
[原子力複合体の批判的解明]
[63] 2012.7 月「エネルギー戦略シフトと地域自然エネルギー基本条例」『月刊自治研』2012 年 7
月号,第 54 巻 634 号,p.29-37.
[64] 2012.8.1「環境制御システムの介入深化の含意と条件-循環と公共圏の視点から」
池田寛二・堀川三郎・長谷部俊治編『環境をめぐる公共圏のダイナミズム』第一章,p.15-35.
[65] 2013.2.1「高レベル放射性廃棄物という難問への応答-科学の自律性と公平性の確保」
『世界』no.839(2013 年 2 月号),p.33-41.
[66] 2013.2.15「高レベル放射性廃棄物問題にいかに対処するか-学術会議「回答」と公平の回復」
『社会運動』Vol.395,p.36-43.
[67] 2013.10.1「原子力政策は何を判断基準とすべきか-政策転換に必要なパラダイム変革とは」
『世界』no.848(2013 年 10 月号),p.117-125.
[68] 2013.12「震災問題対処のために必要な政策議題設定と日本社会における制御能力の欠陥」
『社会学評論』64(3),p.1-23.
[69] 2014.1「「生活環境の破壊」としての原発震災と地域再生のための「第三の道」」
『環境と公害』
43(3),p.62-67.
2. 主要業績リスト(解説付き)
17
< 3 >著作(Books)(すべて、Aマーク)
[B 1 ]1985,舩橋晴俊・長谷川公一・勝田晴美・畠中宗一『新幹線公害-高速文明の社会問題』有
斐閣
担当箇所:「新幹線公害問題とは何か(1 章)」p.1-60.(長谷川公一との共著)
「社会問題としての新幹線公害(2 章)」p.61-94.
A+ 「国鉄はなぜ問題を放置しているのか(4 章)」
p.117-143.
「政府 ・ 国会 ・ 裁判所はどう対応したか(5 章)」p.145-172.
「「公共性」と被害救済との対立をどう解決するか(8 章)」p.237-272.
(1982 年の学部ゼミ生との名古屋現地調査を基盤に書いた最初の共著単行本。本書には「環境
社会学」という言葉は一回も使用されていないが、今日では、我が国の環境社会学の源流を
形成する著作の一つと評価されている。受益圏・受苦圏など、さまざまな理論的視点を提示。)
[B 2 ]1988,舩橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・梶田孝道『高速文明の地域問題-東北新幹線の建設・
紛争と社会的影響』有斐閣
担当箇所:「大規模開発プロジェクトと地域問題(1 章)」p.1-42.(長谷川公一との共著)
「東北 ・ 上越新幹線の建設と地域紛争(2 章)」p.43-80.(長谷川公一 ・ 畠中宗一と
の共著)
「「未熟型」公共事業としての新幹線建設(3 章)」p.81-109.
「建設計画の決定 ・ 実施過程と住民運動(4 章)」p.113-154.
A+ 「構造的緊張の連鎖的転移-伊奈町のニューシャトルをめぐる利害調整過程(5 章)」
p.155-187.
(1983,84 年の学部ゼミ生との、埼玉県・東京都における東北新幹線建設問題の調査に立脚し
て書かれた単行本。[1]の続編にあたる。「構造的緊張の連鎖的転移」などの理論概念を提示。)
[B 3 ]
1998,1 月(長谷川公一、飯島伸子との共編著)『巨大地域開発の構想と帰結-むつ小川原開
発と核燃料サイクル施設』東京大学出版会
担当箇所:「序論」p.1-9/「むつ小川原開発の経過と概要(1 章)」p.11-41.
A+ 「開発の性格変容と意志決定過程の特質(4 章)」
p.93-119.
「開発過程と人口、経済、財政の変化(6 章)」p.147-173.
(青森県六ヶ所村を舞台にしたむつ小川原開発と核燃料サイクル施設建設問題を、1990 年代の
学部ゼミ調査実習を基盤に執筆。この巨大な問題についての初めての社会学的著作。4 章では、
誘致型開発、従属型開発、危険施設受け入れ型開発の概念を提示。以後、青森県の新聞から
継続的に取材されるような評価を得る。開発推進の青森県庁側にも、反対運動側にも評価さ
れた著作。)
[B 4 ]1998,12 月,舩橋晴俊・飯島伸子編『講座社会学 12 環境』東京大学出版会、
AA 担当箇所:「環境問題の未来と社会変動-社会の自己破壊性と自己組織性(7 章)」
p.191-224.
(戦後第三回目の東京大学出版会の『講座社会学』に初めて、「環境」を扱う独立の巻がもうけ
られた。7 章は、私の構想する環境社会学基礎理論の骨格論理を提示したもの。)
[B 5 ]1999,2 月,飯島伸子・舩橋晴俊編『新潟水俣病問題-加害と被害の社会学』東信堂
担当箇所:
「加害過程の特質-企業・行政の対応と加害の連鎖的・派生的加重(2 章)」p.41-73.
「未認定患者の長期放置と「最終解決」の問題点(8 章)」p.203-234.
(1965 年の新潟水俣病事件発生後、34 年にして、初めて刊行された環境社会学の研究書。
2006 年に増補再版を刊行。)
18
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
[B 6 ]1999,12 月,舩橋晴俊・古川彰『環境社会学入門-環境問題研究の理論と技法』文化書房博
文社
A+ 担当箇所:「環境社会学研究における調査と理論(1 章)」
p.17-54.
「公害問題研究の視点と方法-加害・被害・問題解決(3 章)」p.91-124.
(関西の環境社会学研究者としてリーダー格の古川氏と協力して作成した教科書。
1 章は、方法論として、はじめてT字型の研究戦略という主張を明確に提示した。)
[B 7 ]2001,1 月,飯島伸子・鳥越皓之・長谷川公一・舩橋晴俊編『講座環境社会学第 1 巻 環境社
会学の視点』有斐閣、
担当箇所:全 280 頁中、全体の編集。第 2 章「環境問題の社会学的研究 」(p.29-62)
[B 8 ]2001,7 月,舩橋晴俊編『講座環境社会学第 2 巻 加害・被害と解決過程』有斐閣。
担当箇所:全体の編集。第 1 章「環境問題解決過程の社会学的解明」
(
[7][8]は、1990 年代のほぼ 10 年間の我が国の環境社会学の到達点を総括する五巻の講座
のうちの二冊である。日本の環境社会学の概要を把握するには、この講座の 5 冊を読むのが
よい。)
[B 9 ]2001,11 月,舩橋晴俊・角一典・湯浅陽一・水澤弘光『「政府の失敗」の社会学-整備新幹
線建設と旧国鉄長期債務問題』ハーベスト社
担当箇所:「総論 「政府の失敗」と鉄道政策研究(1 章)」
「山形 ・ 秋田のミニ新幹線の建設経過と意義(8 章)」(湯浅陽一との共著)
AA 「鉄道政策と「政府の失敗」-政策決定過程の総合的分析(10 章)」
「政策決定改革の提案-フランス公益調査制度の教訓(11 章)」
(法政大学大学院の三人の院生の修士論文を基盤に刊行した研究書。社会学的視点で、公共投
資の肥大化過程、財政赤字の拡大過程を解明した。社会制御過程に登場する、主体、アリーナ、
事業システムの性質の相互連動に光を当て、また、それ自体としては「一理ある政策論理」が、
批判作用の貧弱な状況で、
「行政組織の自存化傾向の諸弊害」に変質していく過程を検討した。)
[B10]2003,3 月,舩橋晴俊・宮内泰介編『環境社会学』放送大学教育振興会
「環境社会学の課題と視点」(1 章,p.11-39)
「環境問題の諸段階」(2 章,p.40-65)
「新幹線公害問題」 (4 章,p.91-111)
「社会的ジレンマ論」(10 章,p.190-209)
「環境負荷の外部転嫁と社会的ジレンマの諸類型」(11 章,p.210-229)
「環境制御システム論」(12 章,p.230-249)
(放送大学の 「 環境社会学 」(2003-2006)の教科書。10 章にはえりも岬の植林事業の例を取
り入れている。)
[B11]2006,7 月,舩橋晴俊編『講座・社会変動 第 4 巻 官僚制化とネットワーク社会』ミネルヴァ書房
担当箇所:「組織領域における社会変動としての官僚制化とネットワーク化」(序章,p.1-26)
A+ 「行政組織の再編成と社会変動-環境制御システム形成を事例として」 (1章,p.29-63)
(メタ制御システムの作用の活発化による制度変革を、1960-70 年代を対象にして検討した。)
AA
[B12]2010,6 月,舩橋晴俊『組織の存立構造論と両義性論-社会学理論の重層的探究』
東信堂
(既発表論文の[2][8][33][10]をそのまま第 1,3,4,5 章として再採録。[5]を大幅に
加筆して 2 章として再採録。その他に、序章と「結び」を書き下ろした。)
[B13]2010,11 月,環境総合年表編集委員会編『環境総合年表-日本と世界』すいれん舎
(約 200 人の協力による、824 頁の本格的環境年表。9 人の編集委員会の一人として、序論、
あとがきを執筆。複数の年表を執筆。)
2. 主要業績リスト(解説付き)
19
[B14]2011,3 月 舩橋晴俊編『環境社会学』弘文堂
「現代の環境問題と環境社会学の課題」(1 章,p.4-20)
「公害問題の解決条件-水俣病事件の教訓」(2 章,p.23-40)
「環境問題の解決のための社会変革の方向」(14 章,p.235-253)
[B15]2012,3 月 舩橋晴俊・長谷川公一・飯島伸子『核燃料サイクル施設の社会学-青森県六ヶ所
村』有斐閣([B 3]を継承しつつ、大幅に書き下ろしを加えて再編。本書内で以下の章を執筆)
「むつ小川原開発と核燃料サイクル施設の歴史を解明する視点」(序章,p.1-18)
「巨大開発から核燃基地へ」(長谷川公一氏との共著、1 章,p.19-84)
「開発の性格変容と計画決定のあり方の問題点」(2 章,p.85-118)
「開発による人口・経済・財政への影響と六ヶ所村民の意識」(4 章,p.139-169)
「原子力エネルギーの難点の社会学的検討-主体・アリーナの布置連関の視点から」
(5 章,p.171-207)
[B16]2012,3 月 舩橋晴俊・壽福眞美編『規範理論の探究と公共圏の可能性』
法政大学出版局 (社会学部科研費プロジェクトの成果)
AA 「社会制御過程における道理性と合理性の探究」(1 章)
p.13-43.
A [B17]2012,7 月 舩橋晴俊『社会学をいかに学ぶか』 弘文堂
(二冊目の単著。ゼミと講義のエッセンスがここに集約されている。)
[B18]2012,9 月 長谷部俊治・舩橋晴俊編『持続可能性の危機-地震・津波・原発災害に向き合っ
て』お茶の水書房
(本書の第 2 章「持続可能性をめぐる制御不能性と制御可能性」p.33-61 を執筆。)
[B19]2013,田中重好・舩橋晴俊・正村俊之編『東日本大震災と社会学-提起された<問い>をめ
ぐって』ミネルヴァ書房
(本書の第 5 章「福島原発事故の制度的・政策的欠陥」を執筆。)
[B20]2013,2 月 舩橋晴俊・金山行孝・茅野恒秀『「むつ小川原開発・核燃料サイクル施設問題」
研究資料集』東信堂
(金山ゼミと舩橋研究室の合計 40 年間にわたる資料収集の結実。1500 頁)
[B21]2013,舩橋晴俊・壽福眞美編『公共圏と熟議民主主義-現代社会の問題解決』法政大学出版局
(本書の第 1 章「高レベル放射性廃棄物問題をめぐる政策転換-合意形成のための科学的検討
のあり方」p.11-40 を執筆。)
A [B22]2014,7 月 原子力総合年表編集委員会編『原子力総合年表-福島原発震災に至る道』
すいれん舎
(6 人の編集委員の一人として、本書をとりまとめ。合計 53 人の執筆者あり)
A [B23]2014.7, GWEC Working Editorial Committee, ed., A General World Environmental Chronology
20
(世界初めての包括的な環境総合年表)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
[その他関連図書]
*原子力市民委員会,2014,
『原発ゼロ社会への道-市民がつくる脱原子力政策大綱』原子力市民委員会
*原子力市民委員会,2014,
『これならできる原発ゼロ!-市民がつくった脱原子力政策大綱』宝島社
[翻訳]
[1]1986,
(宮原浩二郎、田中康博との共訳)G・コンラッド、I・セレニィ『知識人と権力-社会主
義におけるあらたな階級の台頭』新曜社
[2]1989,E.Friedberg,1972,
(=1989,Claude LEVI=ALVARES との共訳)『組織の戦略分析-不確実
性とゲームの社会学』新泉社
[3]2011,Jenevieve Fuji Johnson,2008,
(= 2011,7 舩橋晴俊・西谷内博美監訳)『核廃棄物と熟議民
主主義-倫理的政策分析の可能性』新泉社
2. 主要業績リスト(解説付き)
21
22
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
3. 残されたメッセージ
ベートーベンについて
(1998 ミニエッセイ)
舩橋 晴俊
私の傾倒している作曲家の一人にベートーベンがいる。特にその交響曲は何度聴いたことだ
ろう。私は音楽を専門的にやったわけでも何でもないが、小学校 6 年のころ、交響曲第 5 番
「運命」を聴いて強烈な印象を受けた。
高校 1 年の時に、交響曲第 6 番「田園」の素晴らしさに目覚めた。高校という新しい環境の
課す緊張の中で、心理的に疲労が重なっていた時に、その第 1 楽章は、心を洗うものであった。
そして、大学時代に、自分の心象風景に対応する曲として、もっとも共鳴したのが、第 9 交
響曲「合唱」の第 1 楽章であった。第 9 の第 4 楽章はあまりにも有名であるが、むしろそこに
いたる前提としての第 1 楽章が自分にはふさわしかった。第 7 番、第 8 番もその頃初めて聴い
た。
さらに、私は、40 代半ばにして、交響曲第 3 番「英雄(EROICA)」に心ひかれるように
なった。この曲がナポレオンに捧げられる形で作られようとしたが、彼の皇帝即位を知った
ベートーベンが献呈の辞を破棄したという話は有名であり、また興味深い。
だが、より感嘆するのは、この作曲家が、聴力の喪失という作曲家にとって致命的な打撃と
思われるもののあとに、その絶望を乗り越えることを通して、これを作曲したことである。し
かも、第 2 番から第 3 番「英雄」への飛躍は、この作曲家の生涯においてのみならず、音楽史
上の奇跡とも言われる。この曲の各楽章は、それまでの音楽史になかった新しい世界を切り開
いている。
「音楽それ自体の価値と、伝記的背景は別だ」と言う人もいるかもしれない。だが、この曲の
内容、その壮麗さと緊張感は、解消できないハンディキャップと闘い、それを克服しようとす
る努力と無縁であろうか。
人為によっては原理的に解決できない困難に直面した時に、その人の主体性の真価が問われ
る。「英雄」は、そのような状況に屈服しなかった一人の作曲家のモニュメントである。
24
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
社会学部舩橋ゼミ20 年の活動~回顧と今後
1999 年 2 月 1 日
舩橋 晴俊
毎年、3 月に開かれるゼミOB・OG懇親会の案内を出すにあたっては、そのつど 1 年間の
近況報告をお届けしてきましたが、今年の 3 月で、私のゼミも、開講 20 年となりましたので、
今回は、この 20 年間の研究とゼミの回顧をしてみようと思います。はじめは、3 月 20 日の懇
親会の時に、そのような話をしようと思っていましたが、遠隔地その他の理由で、当日、会えな
い人のほうがむしろ多数と思われますので、この案内とともに、ささやかな回想をお送りします。
法政大学における 20 年間をすべての側面にわたって回顧することは、限られたスペースで
は無理ですので、自分の研究とゼミとの関係という側面についてのみ記します。
<はじめの 10 年間>
1979 年 4 月、私は、法政大学社会学部に専任講師として着任し、「社会工学」と演習Ⅰ、演
習Ⅱ・Ⅲを担当しました。当時、市ヶ谷キャンパスでは、文系 5 学部の第Ⅰ部と第Ⅱ部の全授
業が行われており、典型的なマスプロ私大の過密状況で、木造の図書館の学生席はいつも満席
でした。はじめて、十数人の社会学部生を前に、社会工学の授業をした日のこと、そこで当ゼ
ミ第一期生となる江村君に会ったことは、今でもよく覚えています。
最初の 2 年間は、文字通りゼミも授業も試行錯誤を続けていましたが、1981 年度の演習Ⅰ
を境目に当ゼミのスタイルも、明確に確立されるようになりました。この年からは、本ゼミのほか
に、毎週 1 回サブゼミを行うこととし、まだ若くたいした役職もなかった私は、それに毎週出席
し、毎週のようにレポート課題を出していました。演習Ⅰがもっともハードだったのは、1982 年
度からの 3 年間です。1982 年度は、12 人のⅠゼミ生がサブゼミを含めて 1 年間誰も一回も欠
席しなかったという、当時の常識からすると奇跡的なゼミとなりました。また、同時に、演習
Ⅱでは足尾線廃止問題など、いくつかの社会問題についての初歩的な調査を行いました。同時
に、この年の夏には、金山ゼミの六ヶ所村調査にオブザーバーとして参加させてもらい、社会
学部生及びOB・OG約 40 人が整然と 1 週間にわたって難しい現地調査を実施するという壮
観ともいうべき調査合宿を体験しました。この体験の教示は非常に大きく、こうやれば、法政
大学社会学部生の可能性は開花するという模範を示してもらったと思うほどで、これなくして
は、以後の当ゼミの調査の歴史はなかったことでしょう。私は、社会学理論は東大の大学院で
学びましたが、集団的社会調査は法政の金山ゼミで学んだと、はっきり言うことができます。
1982 年度からは、担当講義の名称も「社会計画論」と変わり、また、1982 年度から 3 年連
続で、新幹線問題の調査を実施しました。1982 年度には、名古屋新幹線公害問題、1983 -
84 年度は 2 年続けて、東北新幹線建設問題の調査を実施しました。参加者は、当時まだ大学院
生クラスだった長谷川公一さんや、畠中宗一さん、勝田晴美さんと私の参加する「社会問題研
究会」と、各年度の当Ⅱゼミの約 10 名の 3 年生であり、非常に手応えのある充実した調査を
3. 残されたメッセージ
25
実現することができました。その成果が『新幹線公害-高速文明の社会問題』
(1985)と『高
速文明の地域問題-東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』(1988)(ともに、共著・有斐閣)
です。この調査の過程は、文字通り試行錯誤であり、失敗もたくさんあり、ゼミ生から見れば
過剰負担と感じるようなことも多々あったのではないかと思っています。しかし、それら多数
の欠点をすべて呑み込んでしまうほどの情熱と勢いがあったように思います。結果として、
『新幹
線公害』は、1980 年代の日本の環境社会学の代表的著作の一つという評価をいただいています。
この調査は、私の研究経歴の上での大きな転機であり、理論と調査のバランスが非常によく
なったと言えます。それ以前の私は、理論屋でした。1977 年の「組織の存立構造論」
、1980
年の「協働連関の両義性-経営システムと支配システム」という 2 論文がその成果です。し
かし、逆に言えば、1980 年の論文を書き上げたので、「もう理論書は当分読まない」という安
心した気分によって、社会問題の調査に打ち込むことができたのです。
1984 年より、社会学部Ⅰ部は多摩に移転し、4 年間一貫教育、1 年から 4 年までの演習開講
など新機軸を打ち出した全面的カリキュラム改革を実現、私は、その中心をなす委員会で働き
ました。この多摩移転とカリキュラム改革については、語るべきところは多々ありますが、本
題から離れますのでここでは省略します。この過程で、1985 年度には、多摩一期生が、私の
多摩での演習Ⅰに参加するようになり、平行して市ヶ谷では、二部自主ゼミを隔週でしたが、
熱心な二部生とともに行いました。しかし、これらは、1986 年度には中断することになりま
す。1986 年夏から丸 2 年間、私は、フランス政府の給費留学生として、パリの組織社会学研
究所に留学することになったからです。その準備として 4 年間、日仏学院の夜間授業でフラン
ス語を勉強していました。
フランス留学の動機は、(ゼミ生であれば多くの人が推察できることでしょうが)森有正氏の
著作による促しなのです。要するに、森氏の描くフランス社会を自分の目で見なくてはならな
い、というものだったのです。フランスの社会学者の誰かれについて学ぶということは副次的
な理由でした。フランス留学中に学んだことはいくつもありますが、戦略分析学派の方法、研
究者のエートス、フランス新幹線の公害対策、そしてフランスのエコロジストとの対話などは、
その中でも重要なものです。
フランス新幹線の公害対策の調査は、日本での研究の延長線上に実施したものですが、その
過程で、フランスのエコロジストたちにインタビューしたことがその後の研究の方向づけに大
きな影響を与えました。彼ら(彼女ら)の提起する環境問題への真摯な関心とその人格に心打
たれたのです。環境問題の研究を中心に据えて行こうという決意をもって、私は帰国しました。
『論語』に「40 にして惑わず」という言葉があります。まさに 40 才をすぎてから、私は自分
にとっての本当の問題を把握したのでした。そして、フランスから帰国した 1988 年度をもっ
て、ちょうど法政大学に来てからの 10 年がすぎたことになります。
<留学より帰国後の 10 年間>
この 10 年間は、環境社会学の探求の 10 年と言うことができます。帰国直後に、「社会的ジ
レンマとしての環境問題」(1989)という論文を、社会学部の紀要である『社会労働研究』に
発表し、さらに同じテーマで同年(1989 年)秋の日本社会学会大会で発表しました。これを
機会に、飯島伸子先生(当時、桃山学院大学)と鳥越皓之先生(関西学院大学)と協力して、
環境社会学研究会という全国規模の研究組織の設立を呼びかけることになり、その第一回の設
立大会を、多摩キャンパス社会学部棟で 1990 年 5 月に開催しました。
1989 年から多摩での演習Ⅰが再開されますが、再び、金山ゼミの夏の調査にオブザーバー
参加をさせてもらい、1990 年の演習Ⅱから、当ゼミも独自で、青森県における「むつ小川原
開発と核燃料サイクル問題」の調査に着手しました。この方針は、フランスにいた時から決め
ていたことでした。ただし、金山ゼミがもっぱら六ヶ所村中心に調査していることに対して、
当ゼミは、青森県全域を対象にし、また、東北大学の長谷川公一研究室と東京都立大学の飯島
26
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
伸子研究室と協力して取り組むことにしました。1991 年にも引き続き演習Ⅱでむつ小川原開
発調査を実施しました。
平行して、1991 年からは、飯島研究室と協力して、大学院生をつれて、新潟水俣病の調査
に着手しました。この機縁は地元の住民運動というまったくの偶然のきっかけでしたが、その
細かい経緯については、別の機会にゆずります。このようにして、1991 年は二つの大きなか
なり難しい調査を手がけるとともに、社会学部の教授会主任も担当することになり、再びカリ
キュラム改革の中心を担うという多忙な年になりました。1992 年もその延長上の教育研究活
動を展望していたのですが、まったくプライベートな事情で、予定のコースが大きく屈折する
ことになります。というのは、私の家族の中に難病の者が出ることにより、研究・教育活動の
全線にわたって、大幅な活動縮小をせざるをえない状況に陥ったのです。この年は、人生で最
悪の年でした。(その後、数年でこの困難はかなり軽減しましたが、現在も、この条件は私の生
活と研究のあり方を大きく規定しています)。主任の任期が終了したので 1993 年度は 1 年間、
国内留学をとりましたが、その過半の理由は家族の看護にありました。そのため、92 - 93 年
度と青森県調査は継続しましたが、この 2 年間のゼミⅡ生には、92 年に私自身の調査参加を断
念することなど、思わぬ波及効果でいろいろと苦労と不便をかけることになりました。
国内留学が終了して再び、1994 年度から演習Ⅰを再開し、1995 年度には、演習Ⅱでゴミ問
題調査と、整備新幹線問題(長野県)調査に取り組みました。後者は大学院生も参加したもの
です。1996、97 年度には演習Ⅱで、98 年度には演習Ⅱプラス社会調査実習で、地元大磯町を
メインフィールドにしたごみ問題調査を 3 年連続で実施しました。地元を選んだ理由の一つは、
上記のようないきさつで家族を離れた遠隔地での調査活動が困難になったことです。1996 年
度には大学院で九州新幹線の調査、97 年度には再び北陸新幹線(長野県など)の調査を行いま
した。学部の授業では、96 年度、97 年度には、社会計画論とは別に、環境社会学を担当する
ようになりました。
大磯町のごみ問題調査は、「大磯町まちづくり環境問題研究会」を構成する 4 つの住民参加
の研究会のうちの一つである「ごみ研究会」と当研究室が協力するという形で実施しました。
町民委員や町職員と一体となってゴミの成分分析やヒアリングをするという調査で、本研究室
にとっては初めてのことですが、全国的にもあまり見られない形の大学と自治体の協力関係を
実現しました。しかも「大磯町まちづくり環境問題研究会」は、本年 1 月に、「住民参加のま
ちづくり部門」で自治大臣表彰(全国で 10 市町村)を受けることになり、その意味でもいい
経験であったと思います。
フランス留学から帰ってからのほぼ 10 年間の研究成果は、この 2 年間に、次の 5 点の著作
として一挙に発表されつつあります。
①舩橋晴俊・長谷川公一・飯島伸子編著 、1998、『巨大地域開発の構想と帰結-
むつ小川原開発と核燃料サイクル施設』東京大学出版会、8500 円
②舩橋晴俊・飯島伸子編 、1998、『講座社会学 12 環境』東京大学出版会、2800 円。
③飯島伸子・舩橋晴俊編 、1999(2 月下旬)、『新潟水俣病-加害と被害の社会学』
東信堂、3990 円
④舩橋晴俊・古川彰編 、1999(近刊予定)、『環境社会学入門 -環境問題研究の理論と技法』
博文社、2500 円(予定)
⑤舩橋晴俊・角一典・湯浅陽一・水澤弘光 、1999(近刊予定)、(仮タイトル)『鉄道政策と意
志決定過程-国鉄債務と整備新幹線』ハーベスト社 、(価格未定)、
以上のうち、①は、1990 - 93 年にかけて、演習Ⅱで取り組んだ、むつ小川原開発問題につ
いての調査の成果です。③は、大学院ゼミで、1991 年- 95 年にかけて取り組んだ調査の成果
です。⑤は、1995 年以来、学部の演習Ⅱと大学院ゼミで取り組んできた調査をまとめたもの
3. 残されたメッセージ
27
です。いずれも、当ゼミの活動と密接につながっており、そのことを私は喜びとしています。
②④は、我が国において、この 10 年に急速に発展した環境社会学を、環境社会学会の中心
メンバーと共に、専門書として②、あるいは入門書として④、まとめたものです。
とくに、②は、第三次『社会学講座』(全 16 冊)という日本社会学会の中でも、たいへん重
い位置づけを与えられているシリーズの一つの第一回配本として、刊行されたもので、環境社
会学の研究者としては、たいへんよい機会に恵まれたと感じています。
(なお、20 世紀末の日本社会学の到達水準を知りたい方は、この全 16 冊を購読することを
おすすめします)
<これからの展望>
気がついてみると、この 20 年間の間に、新幹線公害問題、青森県むつ小川原開発問題、新
潟水俣病問題という、それぞれに重大な 3 つの社会問題・環境問題をゼミ生諸君とともに、継
続的に調査し、それぞれ研究書としてまとめることができました。しかも、いずれの問題につ
いても、我が国で唯一の本格的な社会科学的研究書です。新幹線公害についても、核燃料サイ
クルについても、新潟水俣病についても、信じがたいことですが、他に(社会学のみならず)
社会科学の著作が存在しないのです。
これらに続いて、ごみ問題は第四の大きなテーマになりつつあるところでしたが、ここで、
再び、私の研究計画と当ゼミの方向は大きく転換せざるを得ない事態となりました。というの
は、大磯町においては、昨年 11 月に登場した新町長の方針で「ゴミ研究会」などの住民参加
の政策研究会を中止することになりそうなのです。
ここで、私は、新しい段階に研究を進ませなくてはならないと感じています。それは、これ
までの実証的調査をふまえて、再び、社会学理論研究に本格的に回帰することです。そのこと
は同時に、これまで、他の研究者との共同研究を軸に調査という作業を進めてきましたが、そ
のスタイルを転換して、一人で理論形成へ進むということになるでしょう。ゴミ問題研究をど
のようにまとめるかは別として、当面、このような理論形成という文脈で予定しているのは次
の 3 つのものであり、それらはいずれも、これまでの共著という形ではなく、単著として構想
されています。
⑥『無責任の本質-水俣病と行政の病理』(新潟水俣病が起こったのはなぜか、
なぜ、熊本水俣病の拡大発生は防げなかったのか)出版社未定
⑦『社会制御過程の基礎理論-経営システムと支配システム』北樹社
⑧『社会的ジレンマとしての環境問題』出版社未定
「50 才にして天命を知る」という言葉が『論語』にありますが、これらの著作を通して、社
会問題の実証的研究を通して、その中から日本に固有のオリジナリティのある社会学理論を形
成するということを当面の課題にしてみようと考えています。実証重点から理論重点へ、共同
調査から単独の理論的思考へというのが、今後の 10 年なのかもしれません。しかし、いずれ
にせよ、法政大学社会学部が、これまでと同じく、私の活動の中心の場所であることに、変わ
りないでしょう。
卒業生の方々、とりわけ市ヶ谷時代に私の未熟な授業を聞いていただいた世代の方々には、
「今、多摩キャンパスでやっている講義を聞いてもらう機会があればなあ」などと、考えること
があります。今年度の社会計画論は、「他の内容すべてを忘れてしまってもよいから、この 7
文字は覚えておいてください」と言って、最後に 7 つの文字を示して終わりました。その 7 文
字とは、「理想+不可知論」* ということです。
* この言葉の説明は『社会学をいかに学ぶか』(2012)に書かれています。
28
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
[ 了 ] 舩橋ゼミ 20 周年記念スピーチ(メモ)
1999 年 3 月 19 日
舩橋 晴俊
<卒業生の皆さん>
* 1 月の卒論発表会の時に、理想+不可知論/自己探求+社会参加
ということを、申し上げました。これで、言いたいことは、つきているかもしれない。
*今年ほど、就職問題、進路問題で、4 年生がふりまわされている年はない。3 年生は、それ
以上。いわば、異常事態。これが当たり前だと思うと間違い。
大学が本来探すべき文化的価値がどこかへ行ってしまって、非常に功利的な観点でしか、も
のごとを見られなくなりかねない。大学は就職予備校ではない。
*自分の位置を把握するヒントとして、ゼミへのかかわりの歴史を話してみたい。
*卒業生の方には、それぞれの重荷を背負った自分の人生があるわけで、その際、50 歳の人間
が、自分の歩みをどう振り返るかということも、何かの参考になるかと思いますので、回顧
的な話をしてみたい。
* 20 年で、非常に節目ということを感じています。いつも全力投球してきた感じがするので
すが、やってきたことは異なっている。
(1)これをやってきて、本当によかったと思うことは二つある。
①自分の最先端の研究と、学部のゼミや大学院のゼミの調査活動を完全に重ねる形でやってき
た。このことは、5 冊の本として結実しつつある。こういうスタイルは実は、案外少ない。
1982 年の名古屋調査、83 - 84 年の埼玉調査。1990 年からの青森県調査、91 年からの新
潟水俣病調査、95 年からの整備新幹線調査。さらに、96 年からのごみ問題調査。これはま
だどうなるか、わからない。
②教育システムの改革に何回か取り組んできた。
1984 年の多摩移転とカリキュラム改革。
1993 年の新 5 コース制導入と社会調査実習の導入。
1997 年の大学院単位互換制度。
これをやってきて、本当によかった。これは、「戦う」という感覚。
大学という名前ばっかりで、大学になりきれていない状態を、いかに大学にふさわしいものに
するか。しんどい面もあるのですが、充実感があった。
(2)反省点は、いくつもある。
①調査というのは、コストも高いし、どうしても失敗を伴う。だいたい、どの学年の調査も完
全無欠ということはない。こちらの運営のしかたの失敗がいろいろある。
3. 残されたメッセージ
29
そういう苦い思いがあるからといって、やらなければ得られるものはない。
②それから、講義の内容。最初の頃は、非常に未熟だった。1979 年の社会工学の講義ノート
を見ていて、このころに比べれば、多少は進歩したと思っている。
(3)最初の 10 年、90 年代の 10 年、これからの 10 年。
① 1980 年代というのは、模索と学部改革と新幹線公害調査。
そして、2 年間のフランス留学でしめくくりとなる。
もっぱら、学部教育とゼミにひたすらうちこんでいた。
当時の調査は、一番ストレスが多かったかもしれない。
② 1990 年代の 10 年は環境社会学の 10 年。
環境社会学を日本で確立しようという努力の中心にいることができた。
同時に、地元の町づくりに取り組んだ、10 年ともいえる。
学会活動と地元に相当のエネルギーを割くようになった。
ゼミと学部以外の所にもエネルギーを注いだ。
③これからの 10 年。
今、非常に大きな節目だと感じている。
結局、この 10 年の研究は、去年と今年で 5 冊の本に、なります。
しかし、これに自分は、ぜんぜん、満足していない。この水準で、終わってはだめ。
大磯町のまちづくり研究会は廃止になる。
自治体と大学の研究室のうるわしい協力関係にピリオドを打たざるをえない。
この 3 年は、まさに恵まれた 3 年だった。
*これからは、単著、理論形成を軸にしていく。
実証に根ざした理論形成にチャレンジする。この 10 年が勝負どころ。
○ 最後に、しばしば、聞かれる質問。「よその大学に移ることはありませんか」。
この質問に対しては、笑ってごまかしていましたが、今日は、節目だから、答えましょう。
*少なくとも 4 回は、さそいがありましたが、皆、辞退させていただきました。
社会学部にいるということを選びとり続けて来た。
*その根底には、授業とゼミにおける充実感があるということが、一番大きい。
*結局、教員にとって、何が宝なのか、何が救いなのか。
精神的飢餓感を持っている学生、学問に本当に興味を持っている学生、自分の生き方を模索
している学生に出会うこと、これが、最大の救いなのです。こちらが伝えたいと思うことを、
本当に受け止めてくれる学生、そういう人たちに出会えるということ、これが、最大の特権
なのではないか。研究者としてはまた別。発見と創造があること。
*「自治大臣表彰」なんか、こういう出会いに比べれば遙かに軽いもの。
○ だいたい、今後 10 年でどういうことをしたいか。
果たして計画どおり行くかどうかわかりませんが、法政社会学部にどっかと腰を落ち着けて、
調査を通しての理論形成ということで、創造的な仕事をしたいと考えている。
30
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
限りある生命の自覚
「2002年の研究教育の近況」
(2003年2月4日)より抜粋
舩橋 晴俊
この一年半ほどの間に、親しい人々の訃報に何回も接することになりました。
[1]飯島伸子先生追悼関連事業
1990 年代の 10 年間において、当研究室がもっとも緊密に共同研究したのは、都立大学人
文学部飯島研究室でした。なかでも、1990-92 年の青森県調査が代表的な共同研究でした。
飯島先生は、日本の環境社会学のパイオニアと言うべき方であり、環境社会学会の初代の会
長を担当されましたが、2001 年 11 月 3 日に亡くなられました。飯島さんの足跡を記録する
ために、『環境問題とともに-飯島伸子先生追悼文集』(291 頁、頒価 2000 円)と、『飯島伸
子研究教育資料集』(501 頁、頒価 3000 円)とが、刊行されました。私は、堀川三郎氏(法
政大学社会学部)、平岡義和氏(奈良大学)、原田正純氏(熊本学園大学)などの方々ととも
に、これら二冊の編集刊行を担当しました。その内容は、本研究室のホームページに紹介し
ていますので、関心のある方はご覧ください。
[2]ゼミの関係では、1993 年 3 月卒業の島原君の訃報は、とても悲しい知らせでした。島原
君は、卒業後、出版社などに勤務し、その後、日本大学大学院にて、交通問題を研究し、修
士課程を修了していましたが、2002 年 3 月末に急逝されました。半年後に、島原君の遺著
『都市交通はこのままでいいのか』(発行=東京図書出版会)が刊行されました。島原君は、
学問好きで、卒業後もしばしば研究室に来訪し、また 3 月のゼミ研究発表会と懇親会には、
毎年のように出席してくれました。まだ非常に若いのに残念でなりません。
[3]また、年末になり、私の小学校時代の恩師である野川富子先生が 74 歳で亡くなられまし
た。『人生に必要なすべてのことは幼稚園の砂場で学んだ』という本がありますが、私にとっ
て、『人生に必要なたいていのことは、大磯小学校の教室で学んだ』と言えるように、私に大
きな影響を与えてくれた先生でした。
いずれの人との別れも残念でなりません。このような親しかった方々の訃報に接するたびに、
私たちが、こうして一日を生きていること自体が、ある意味で奇跡のようなことなのだという
思いを新たにしています。
3. 残されたメッセージ
31
社会学的探究の回顧と展望
2008.9.7 スピーチ資料
舩橋 晴俊
こういう機会を設けていただいたということは、予想もしていなかったし、期待もしていな
かったのですが、湯浅君から、先般、提案があった。素直に受け入れたい。院生の皆さんから、
こういう機会を設けて頂いたというのは、私にとって、ベストの形態である。
自分が 60 歳というのは、まったく実感がわかない。ちょうど 30 年前、自分が 30 歳頃の時、
福武直先生の定年退任の歓送会の事務局を担当した。その時の福武先生と同じ年になったとは、
とうてい感じられない。15 年ぐらい若いのではないかという感じがしている。
最良の聴衆を前にして、多少、回顧と展望をのべて、自分なりに一区切りとしたい。もしか
したら、そのようなことが院生あるいは元院生の方々にとっても、何かヒントになるのではな
いか、と思う。こういう機会はめったにないので、まったく何の遠慮もなく、勝手に話しをさ
せてください。
< introduction >
・一つの節目なのでこういうテーマを選んだ。
・それぞれの院生の方と、いろいろな時期に出会っているが、どういう時期だったのか。
流れの中で、どこにいたのかがわかると参考になるかもしれない。
・これからの課題と手順と方法を自分に対して明確にしておきたかった。
(1)出発点としての世代の基礎経験(1967---)
*折原浩氏を介して、Weber の世界を知り(宗教社会学)、
真木悠介氏を介して、Marx の真髄を知り(存立構造論)、
森有正氏から、方法を学んだ。(内面的促し、経験、言葉を介さない対象との接触)
(1’)大学院+助手時代(1973--1978)
* 1977「組織の存立構造論」+いくつかの事例研究(対抗的分業論)
→ 1980「協働連関の両義性-経営システムと支配システム」
納得の行く理論枠組みを求めていた。
*院生集団の好環境、実証研究の試行錯誤。
(2)法政大学社会学部の学部ゼミ(1979 年 4 月 --)
*1979 年 4 月の感想。 ゼミの空転。
*1981 年の金山ゼミ六ヶ所村調査へのオブザーバー参加。学生集団を率いる調査。
→ 1982 年の名古屋調査=学部ゼミの飛躍とスタイル確立。
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
*教育と研究をいかにして重ねるか。学部教育が研究の基盤になっている。
石堂常代 ,1971,「アランの理論」と内田義彦 ,1981,『作品としての社会科学』の示唆
*新幹線公害調査 1982 → 1985,『新幹線公害』
*東北新幹線調査 1983,84 → 1988,『高速文明の地域問題』
*1984 年 4 月の多摩移転とカリキュラム改革
*学部ゼミの経験が、大学院ゼミの基盤になっている。
(3)フランス留学(1986 年 8 月- 1988 年 8 月)
*フランスに行ったことの根本動機は森有正にある。
* Michel Crozier の組織社会学研究所を選んだのは、梶田孝道氏の助言がヒント。
*フランス社会学の方法(T 字型の研究戦略)
*戦略分析
*フランスの新幹線公害対策の調査 → ecologist との出会い
→環境社会学をメインテーマにするという決意(「四十にして惑わず」とはこれか)
(4)飯島先生との出会いと環境社会学(研究)会の設立
*1989 年秋の日本社会学会大会での「社会的ジレンマ」についての発表。
→司会の飯島伸子氏からの評価。
*1990 年 5 月。飯島氏・鳥越氏と協力しての環境社会学研究会の設立のよびかけ。新し い地平が開ける新鮮な経験。
*柱としての環境社会学会。
(5)1990 年代の「法政大学大学院社会学研究科」
*法政大学で、院生を育てるのは無理か、と思っていた時期もあった。しかし、・・・
*新潟水俣病調査(1991-)→ 1999『新潟水俣病問題-加害と被害の社会学』
*整備新幹線調査(1994-)→ 2001『「政府の失敗」の社会学』
*環境社会学会での活動→ 1998『講座社会学 12 環境』,
*学部ゼミの青森調査(1991-)→ 1998『巨大地域開発の構想と帰結』
*環境基本計画・廃棄物問題の調査(1995)
*大磯町まちづくり環境問題研究会(1996-98)への協力
*東京都でのグリーンコンシューマー運動調査(1999-2001)
(6)2001 年からの「政策科学研究科」と「社会学研究科」の併任。
*共編で、有斐閣より、2001『講座環境社会学(全五巻)』
*環境社会学分野での多数の院生との出会い。
*2003 年度六ヶ所村住民意識調査/飯島伸子文庫プロジェクト(2001--2005)
*2004-2005 年度社会学部長。学部カリキュラム改革で「環境政策コース」設置。
*飯島編『公害・労災・職業病年表』の索引付き再刊と、
科研費版『環境総合年表(1976-2005)1・2』
*2007 科研費プロジェクト「公共圏の創成と規範理論の探究」
* ISEP とのコラボレーション(2008)による自然エネルギー研究
(7)未完の主な企画
*2008『巨大開発と核燃』
*2009『環境総合年表-日本と世界』
*重点課題=二冊の研究書(兼、教科書)、目標=「具体的な現実ときちんとかみ合い、しかも
3. 残されたメッセージ
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射程の広い基礎理論書」「社会システムを把握するとともに、人間論的関心と響き合うもの」
(? 2009)『社会制御過程の社会学-経営システムと支配システム』
(仮称)『環境社会学の基礎:社会的ジレンマ論と環境制御システム論』
*翻訳 M.Crozier『官僚制の組織現象』
*
『むつ小川原開発と核燃料サイクル施設』資料集
*
『熊本水俣病問題』
*科研費プロジェクト「公共圏と規範理論」の結果のまとめ。
(8)今後の企画
*『社会制御過程の社会学』の英語単行本の出版は可能か(今後 5 年- 10 年で?)
(9)<共感する言葉>
① C.W.Mills
「このような事実ゆえに私は、「世界を救おうとすること」-その意味は、人間の自由と理性
の理想にそくして戦争を避け人間の事象を再組織することであるが-が間違っているとはまっ
たく思わないが、社会科学が「世界を救う」とは信じられないのである。私が持っている知識
は、むしろ悲観的な評価の材料となるものである。にもかかわらず、たとえこれがわれわれの
立つ地点であるとしても、なおこう問わなければならない。もし知性によって現代の危機を脱
出する途があるとすれば、それは社会科学者の責任ではないのか、と。」
(C.W.Mills,1959=1965『社会学的想像力』紀伊國屋書店 253 頁)
②森有正「日録」
「いろいろな話題を様々な角度から検討してみて、最後に到達するところは、いつも、現代と
いう時代の孕む、恐ろしい「空無」の感である。これには国境の差は全くない。凡ての言葉が
究極的には単なるおしゃべりと化する観のあるあの「空無」である。それを実存主義的に分析
解明してみてもどうなるものでもない。ギリシアの認識や原始キリスト教の信仰や、ルネサン
スの人間経験の新鮮さや宗教改革における個人の自覚、更にデカルトなどに見られる科学的世
界像への期待、更にその結果としての資本主義的開拓精神、社会主義にある新しい連帯的な人
類像への希望、そういうものが過去二千年の間に次々に現れたが、現代には新しいものは何も
なく、こういう過去のものを” 総復習しつつ” それに飽和しその裏に恐ろしい虚無の深淵が口
を開けている、そういう時代であるような「錯覚」(?)に襲われる。
私はあえて「錯覚」という。錯覚は何か根本的なものを忘れているところから来る。そして
その何かは私どもに一番近いところにあるのだ。その「何か」が何であるかは、本当は凡ての
人が知っているのだと思う。マス・コミュニケイションや大衆社会という呼び名がそれを覆い
かくしているだけで、本当の問題はやはりそこに厳存し、それは人類が過去に生み出した凡て
のものと深く関連している。だから現代は、過去の凡ての時代と同じように希望があるのだ。」
(272-273 頁)
(森有正「日録」、初出『日本読書新聞』1967 年 10 月 9 日- 30 日
再掲『森有正全集第 12 巻』(1979)筑摩書房:269-275)
③森有正「大陸の影の下で」
「[1971 年]七月ニクソンの訪中の見通しが報道された。朝鮮戦争からヴェトナム戦争まで、
一貫して追求された中国問題を中心とするアメリカの極東政策は一つの曲がりかどに到達した。
事柄はその当然の論理を辿りつつあり、また辿ったのである。それは形式論理ではもちろんな
いし、必然性の因果律的論理でもない。人間社会がもつ、人間的、実質的な論理、本当の意味
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
で容赦のない、恐るべき論理である。このところを十分に理解しなければならない。形式的、
あるいは因果律的な論理であるならば、その論理の構造を識ることによって、逆にそれを支配
することもできるであろう。しかしこの「人間」の論理は、
「経験」の論理であり、行動のたび
に、そのつど、その時の新しい現実によって、新しく規定されて発現して来る論理であって、
決して直線的に予測したり、支配したりすることの出来ないものである。ベルグソンがどこか
で言っているように、それは自由と一体になった論理であり、それを辿るのは、その中で賭け
る外はない論理である。その動機はただ一つで、「ある正しいこと」をその中に感じ識別するこ
とだけである。だからそれは、レジスタンスの論理と同質であり、真珠湾やナチスのソ連不意
打とはちょうど正反対の構造をもった論理なのである」
(森有正「大陸の影の下で」、初出『展望』1972 年 2 月号
再掲『森有正全集第 5 巻』(1979)筑摩書房 :137-138)
④教育について
・Quelle tâche plus passionnante que d’ enseigner des jeunes !
「青年の教育ほど、情熱をかきたてられる課題が、ほかにあろうか」
(Francoise de Closets, 1986, Toujours plus!, GRASSET, p.38)
・「凡庸な教師はただしゃべる。少しましな教師は理解させようとする。
優れた教師は自らやってみせる。最高の教師は心に火をつける。 」
(ウイリアム=アーサー=ワード(英・教育哲学者))
⑤「制約条件を資源に転換する」(戦略分析の一つの応用的発想)
制約条件は、人生行路の諸段階で、形を変えても常に存在し続けるであろう。
理想的な条件がそろって、何かに取り組めるということは、稀有な例外。
⑥
「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、
したが
のり
こ
六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」
(『論語』第二為政篇四)
3. 残されたメッセージ
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2011 年 3 月卒業のゼミ生のみなさん
卒業の日、2011 年 3 月 24 日に
舩橋 晴俊
このような形で、このような気持ちで、皆の卒業の日を迎えることになろうとは、誰が予想
していたことでしょう。私の経験してきた 62 年の人生の中で、日本社会は、もっとも深刻な
困難と危機にぶつかっている時と言わなければなりません。こんな災害は、これまでありませ
んでした。地震被害の全貌は、まったく見えておらず、原発の破綻がどこまで拡大するのかも
未知数です。
生き延びることのできた人たちは、それぞれの人が、それぞれの現場で、生活・生命の防衛
と救援と復興のために、困難な状況の中で格闘しています。
社会科学も、この日本社会の歴史的経験を契機に、根本的な反省と自己革新を迫られています。
地震と津波の人智を超えた凶暴さと巨大さは、環境社会学の問題の建て方と視点の建て方の
根源の見直しを迫っています。
福島原発の事故は、被害の帰結の把握、および、このような人災を生み出した、日本社会の
科学技術の扱い方、政策決定のあり方、政府、電力業界、原子力産業、マスメディア、研究者
世界と学問のあり方に対する批判的な解明を要請しています。青森調査を続けながら、ずっと
危惧していたことが、青森県ではなく、まず福島県で発生してしまいました。私は非常に怒り
を感じています。
そして、この人災が、日本社会の欠陥に深く根差したものであることを感じざるを得ません。
森有正さんのエッセーの中に、このような日を予言しているような記述があります。
「この間、あるフランスの若い女性が尋ねて来た。・・・[中略]・・・生粋のパリ育ちのこの
女性は数年間を日本で過ごしたのである。私達はよも山の話をしていたが、やがて話は日本に
おける生活、ことに東京の生活のことになった。どういう話のきっかけだったか忘れたが、と
いうのはその時かの女が言った言葉に衝撃をうけて、何の話の中でそうなったのかよく記憶し
ていない。かの女は急に頭をあげて、殆ど一人言のように言った。『第三発目の原子爆弾はまた
日本の上へ落ちると思います。』とっさのことで私はすぐには何も答えなかったが、しばらくし
ても私はその言葉を否定することが出来なかった。それは、私自身第三発目が日本へ落ちるだ
ろうと信じていたからではない。ただ私は、このうら若い外人の女性が、何百、何千の外人が
日本で暮らしていて感じていて口に出さないでいることを、口に出してしまったのだ、という
ことが余りにもはっきり分かったからである。かの女は政治的関心はなく、読書も趣味も友人
も、ごく当たり前の娘さんである。まして人種的偏見なぞ皆無である。感じたままを衝動的に
口にしただけなのである。
36
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
胸を掻きむしりたくなるようなことがこの日本で起こり、そして進行しているのである。
かの女がそう言ったあと、私は放心したように、大学構内の木々が日の光を浴びて輝くのを
眺めていた。」 出典:森有正 ,1970,「木々は光を浴びて・・・」『展望』1970 年 11 月号に初出、
『森有正全集 第 5 巻』(1979, 筑摩)に再録、65 - 66 頁
仮に震災がなくても、日本社会が取り組まなければならない課題は山積していました。震災
は、課題と困難さを増幅しました。それぞれの人が、それぞれの「等身大の課題」に取り組ま
なければなりません。
私は、今までの歴代ゼミ生の努力の蓄積を生かし、今後のゼミ生の協力を得つつ、日本社会
が、原子力問題について、つっこんだ自己反省する手掛かりとなるような複数の資料集の作成
に、これから取り組んで行きたいと考えます。
第 1 に、(仮称)『青森県むつ小川原開発と核燃料サイクル施設問題資料集』
第 2 に、(仮称)『原子力問題総合年表・資料集』
このような社会状況の中でも、皆さん一人ひとりが、経済的な面のみならず、精神的な面に
おいても、自立した人生を歩み、それぞれ自分の道を切り開いていくことを強く願っています。
さまざまな困難にぶつかったとき、法政大学社会学部で学んだことが、なんらかのヒントと勇
気を提供するものであれば、また「知の財産庫」として、卒業後も舩橋研究室の成果を利用し
てくれれば、これほどうれしいことはありません。
3. 残されたメッセージ
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2013 年の研究活動について
2014. 2. 7
舩橋 晴俊
2013 年の一年間も、2011 年、2012 年と同様に、東日本大震災の投げかけた日本社会の変
革という問題に対して、社会学の視点から、何を解明し、何を提案しなければならないのかを
模索し続けた一年でした。
[1]調査の重点地域を青森県から福島県に移動
毎年、夏休みに、三年生とともに実施している実習を、2013 年度からは、福島県を中心に
実施することにしました。福島市、南相馬市、郡山市などを、4 月から 12 月の間に 7 回訪問
し、そのうち、4 回は研究室の学生と一緒でした。いろいろな人に、いろいろな話しを聞きま
した。震災の中で、紙一重で生き延びることができた人に何人も会いました。双葉町や浪江町
を訪れると、震災によって「人生のすべてを奪われた」人々がいることを痛感せざるを得ませ
ん。被災地で受けた衝撃を原動力として、別掲のように、いくつもの論考を発表しました。
[2]「サステイナビリティ研究所」の発足
法政大学における研究拠点として、2009 年 8 月に発足した「サステイナビリティ研究教育
機構」(略称、サス研)で私は機構長を担当していましたが、サス研は、2013 年 3 月末に、財
源難ゆえに、いったん閉鎖されました。しかし、新しく、「エネルギー戦略シフトによる被災地
の再生」をテーマに、私が代表者になって、研究助成金を文科省に申請したところ、採択され、
それを財政基盤として、新しく「サステイナビリティ研究所」を 2013 年 7 月から発足させる
ことができました。いわば、第二期サス研が設立できたわけで、第一期サス研で手がけた、以
下の研究プロジェクトを継承し、完成させる展望を得るに至りました。
[3]『原子力総合年表-福島原発震災に至る道』の刊行準備
原子力問題、原子力事故についての 73 点の年表を収録した総合年表の編集を続けています。
2014 年 5 月に、約 700 頁の年表をすいれん舎から公刊する予定です。1950 年代には、バラ
色に包まれていた「原子力平和利用」がどのようにして、変質し、暗転して、福島原発震災に
至る道を歩んでしまったのか。日本のすべての原発ごとの個別年表、世界の主要国ごとの国別
年表、福島事故、チェルノブイリ事故、スリーマイル島事故など重大事故ごとの年表を収録し
ています。東通原発、六ヶ所村核燃料サイクル施設、原子力船むつ、高レベル放射性廃棄物問
題、大間原発、むつ市中間貯蔵施設問題の 6 年表は、歴代の舩橋研究室の調査活動の直接的成
果として、作成しました。あらためて、歴代の実習参加者に感謝したいと思います。
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
[4]A World Environmental Chronolgy の刊行準備
産業化以後の時代を対象にして、世界各国別年表とテーマ別年表をあわせて、135 点の年表
を英文で作成中です。本年 6 月の刊行をめざしています。日本、韓国、中国、台湾の各研究者
と、協力して編集している、世界ではじめての包括的な年表です。
[5]「原子力市民委員会」にて、「脱原子力政策大綱」の作成
原発ゼロの社会をめざして、体系的な政策提言をすることをめざして、2013 年 4 月 15 日に
原子力市民委員会が、市民の視点に根ざした「市民シンクタンク」として、発足しました。理
工系の研究者、技術者、人文・社会科学系の研究者、市民運動リーダー、弁護士、など、約 60
名の人が、委員あるいは、アドバイザーとして参加しています。まったく予想もしていなかっ
たことですが、強く推挙する人があり、私が、座長の役割を担当することになりました。この
4 月 12 日を目標に、「脱原子力政策大綱」を作成し、公表する予定です。できるだけ多数の人
に読んでもらい、考えてもらいたいと思います。
[6]日本学術会議において、震災復興問題についての提言をまとめる
日本学術会議のいくつかの課題別委員会に参加して、政策提言をまとめる努力をしています。
そのうちの一つの「東日本大震災の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科会」では、座長
を担当し、2013 年に提言「原発災害からの回復と復興のために必要な課題と取り組み態勢に
ついての提言」をまとめました。さらに、「早期帰還」でも片道の「移住」でもなく、「長期待
避・将来帰還」という「第三の道」を提言していきたいと思っています。
[7]各地の市民活動との交流
震災復興や再生可能エネルギーの普及に取り込む、各地の市民団体の活動と連携する機会が、
大幅に増えました。杉並区、福島県南相馬市、神奈川県大磯町などの、さまざまな地域の団体
との交流機会も増えました。
数年前から、再生可能エネルギーの研究をグループで続けていますが、2013 年 4 月に、あ
らためて「再生可能エネルギー事業化支援研究会」という名称を掲げることにして、3 カ月に
二回ぐらいの割合で、主に市ヶ谷キャンパスで研究会を続けています。当研究室の卒業生も何
人か、参加しています。
[8]定年延長
2013 年の 7 月で 65 歳となったので、法政大学の規定によれば、2013 年度末に定年退任の
時期を迎えます。ただし、「定年延長」を希望して、それが認められましたので、70 歳になる
までは、法政大学社会学部で教壇に立ちたいと思っています。
定年退任の年齢であるにもかかわらず、非常に忙しくなり、講演会や新聞のインタビューな
ども飛躍的に増えた一年でした。この多忙さをコントロールして、「作品」と言えるものを生み
出すことが、今年の課題です。
(付記)
私事にわたりますが、2013 年 7 月 26 日、母が 92 歳で天寿を全うし、逝去しました。 数年
間の介護が続いていました。地域の人、介護サービスを担っていただいた方々には、本当にて
いねいによく世話をして頂きました。この経過で考えたこと、感じたことは、なかなか言葉に
表すことができません。多くの人にとってそうであるように、私にとって、とても良い母であ
りました。母は旧制の高等女学校の数学の教員をしていましたが、その心の根底には、仏教と
ともにキリスト教への関心があり、今にして思えば、そのような母の姿勢が、社会学へ強い関
心を抱いた私の感性をはぐくんでくれたのかもしれません。
3. 残されたメッセージ
39
40
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
4. 旅立ちの日に送る言葉
弔辞
法政大学総長 田中 優子
法政大学を代表いたしまして、また、先生のことを心より誇りに思う同僚として、ここにお
別れの言葉を述べさせていただきます。
舩橋先生、私は先生の突然の訃報に接し、今でも信じられない思いです。驚きと無念で、い
まだ動揺しております。
私は今、総長としてここにおりますが、ほんとうは舩橋先生こそ総長にふさわしいかただと
思い、昨年、他のかたからも、そして私自身からも、立候補をお願いしたことがありました。
しかし先生は「今自分がやるべきことは、座長として原子力市民委員会をまとめていくことだ」
とおっしゃり、ついにその決意がゆらぐことはありませんでした。
私はそのとき、舩橋先生は大学を超えて、日本のために、世界のために力を尽くし、貢献な
さる方だと気がつきました。
環境社会学者として、先生は学会を中心に存分に研究活動をなさっておられましたが、
3・11 以後の先生の活動は、さらにめざましいものがありました。ご自身のそれまでの研究と
社会活動を振り返り、強い危機意識と痛恨の想いを抱えられたのだと想像しております。
「脱原子力政策大綱」を法律として具体化させ、脱原発と被災者への支援を実現しなければな
らないと考えておられました。『原子力総合年表』の編集、日本学術会議での提言、そして参議
院外交防衛委員会での意見陳述など、社会に大きな影響を与えて来られました。その過程で先
生は、国の政策が民意を反映し現代社会の複雑さに対処できるようになる必要性と、そして、
一人ひとりが主体性を確立し勇気をもって行動することの大切さを、強調されて来られました。
今、日本の政治と人々の姿勢が抱えている問題を鋭く指摘なさり、乗り越える方法を模索し、
提言し続けて来られたのです。
先生が社会学部長のとき、私は副主任としてそばで働き、寝る間も惜しんで改革に取り組む
姿勢を間近に見ておりました。先生は理想を述べてその実現を人にまかせるかたではなく、ご
自身で実現の道のりを詳細に検討し、その方法を示し、同意を得ながら実現していくかたでし
た。私がゼミの運営に迷ったときには、惜しむことなく、ご自身の方法を丁寧に教えて下さい
ました。同僚すべてをそのように導き、力を与えて下さったかたでした。何事においても、高
い理想をお持ちでありながら、そこに向かう具体的な道のりを、ご自身で模索し続け、惜しみ
なくそれを与える方でした。
先生は、大学のためにも、力を尽くして下さいました。副所長としてサステイナビリティ研
究所の基礎を固めて下さり、その目的である「持続可能社会の構築」は、今や法政大学のミッ
ションの柱になっています。
そのミッションの実現のために、今、大学全体のエネルギー供給を転換する方法を模索して
おります。先生はそのことに賛同し、さっそく再生可能エネルギープロジェクトを立ち上げて
42
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
下さいました。
ご家族はもちろんのこと、同僚や研究者仲間にとっても、社会活動をともにした多くの人々
にとっても、法政大学にとっても、日本社会、そして世界にとっても、どうしても失いたくな
いかたでした。まことに、無念でなりません。
先生の志と、指し示して下さった道が、いま私どもの前にあります。険しい道のりですが、
理想と希望に満ちた目標を、先生は残して下さいました。
私どもは、その目標をめざして、先生を忘れずに努力を重ねたいと思います。
何度考えても悲しく、無念でなりませんが、ここでお送りするしかありません。さぞかしお
疲れになったことと思います。どうかゆっくりお休み下さい。
心より先生のご冥福をお祈りし、弔辞とさせていただきます。
2014 年 8 月 18 日
4. 旅立ちの日に送る言葉
43
弔辞
日本社会学会会長 鳥越 皓之
謹んで、舩橋晴俊先生のご霊前にささげます。
あまりにも突然の舩橋先生のご訃報に接し、筆舌に尽くし難い落胆を覚え、深い悲しみの念
におそわれております。
舩橋先生は、日本社会学会において、理事を 1997 年から繰り返し 3 期勤められました。そ
の間、社会学評論編集担当理事や研究活動担当理事など、日本社会学会の活動の根幹の部分の
役割を持ち前の強い責任感によってとても丁寧に勤められました。また、大会でのシンポジウ
ムなどにおいても、先導して活躍してくださいました。学会の発展のために多大の貢献をなさ
れたことに、心より感謝申し上げます。
舩橋先生には、2010 年ご刊行の、それまでの研究の集大成ともいえる『組織の存立構造論と両
義性』という大著があります。これは組織論研究において、今後も引用されつづける名著でありま
しょう。それにもまして、かつて学会で大きな評価を受けられたのは、日本社会が公害問題に揺れ
ている時代に、共同研究のリーダーとして 1985 年に出版された
『新幹線公害』の一冊でありました。
新幹線という高度技術が与えるマイナスの局面を技術分析も含めながら鋭く解析されていました。
当時私は、滋賀県琵琶湖の自然破壊の問題を研究していましたが、舩橋先生の新鮮な切り口
から大きな影響を受けました。その直後に、今は亡き飯島伸子先生と舩橋先生と私とで、環境
社会学という研究分野を日本でたちあげる話をいたしました。それまでおふたりの名前は存じ
上げていましたが、親しく話をしたのはそのときがはじめてです。
それからおよそ 30 年、環境社会学が日本で根付くために、舩橋先生も私も力を尽くしてま
いりました。飯島先生が 13 年前に比較的若くしてお亡くなりになり、その後、困ったときに
は、いつも舩橋先生にご相談を申しあげておりました。舩橋先生は日本の環境社会学が国際的
にもつべき方向性、またひろくは日本の社会学が本来なすべきことがらについて、きちんとし
た見識をもっておられ、まさに頼むに足る最良の相談相手でありました。
さらに、舩橋先生の卓越したところは、そのような見識を見識としてとどめず、それを実行
するために、シンポジウムを開いたり、共同研究を推進したり、学説史として位置づけをした
りと、つねに目に見える形として発表されていったことです。
舩橋先生はとてもまっすぐなご性格で、正しいと信じたことは明確に主張をしながらも、それをかたく
なに守るのではなく、素直に仲間の意見にも耳をかたむけ、それぞれの人の声を大切になさいました。
先生のお人柄はだれもが認めるところです。ここに集まった私たちは、そのお人柄をしのび、
残念という言葉を繰り返すほかはありません。いまはただ、舩橋先生のご冥福を心からお祈り
申し上げるとともに、ご家族の皆様のご平安を願うばかりです。
2014 年 8 月 18 日
44
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
遺族代表の挨拶
舩橋 真俊
出棺に先立ちまして、遺族を代表して晴俊の次男である私、真俊から、一言ご挨拶申し上げ
ます。本日はご多用中にも拘わらず、ご会葬を賜り、また、霊前には、過分なるご厚志を頂き、
田中先生と鳥越先生からは丁重なる弔辞を賜り、厚くお礼申し上げます。
私たち家族から見た晴俊は、ご存知の通り仕事一筋、足の踏み場のないほど本や資料であふ
れかえった書斎に籠りっきりで、早く帰ってきたためしもなく、たまに家族とレストランに出
かけても新聞を読みながら生返事という、いささか変わった父親でありました。しかし、決し
て家族をないがしろにしていた訳ではなく、病や介護など本当に困難な時、苦しい時にこそ、
如何なる努力もいとわず必ず傍に居続けるという、役割を超えた大きな存在によって家族を支
えてくれました。特に、母 • 惠子にとっては、生涯ただ一人にして絶対的な伴侶でありました。
晴俊はまた、自宅に本格的なソーラー発電システムを自作するほど科学技術に精通しており、
我々家族は、空が曇って電力の供給が滞ると、家中の電気を消して回る晴俊とのイタチごっこ
を数十年に渡って繰り広げて参りました。しかし、科学技術に精通していたからこそ、晴俊は
学生時代に早くもその功罪に気付き、環境社会学を志すことになったのだと思います。科学 •
技術をこよなく愛していたからこそ、それが人間を疎外することが許せなかった。
晴俊の築いた学問は、徹底的な合理性に裏打ちされていながらも、常に弱い者の立場に立っ
て考える、温かい血の通った人間の学問であったと思います。晴俊の提示した問題は、現代を
生きる誰もが避けて通れない本質的な問題を穿ったものでした。私自身、大学院に進学する際、
分野は異なれど晴俊以上に学術的 • 人格的に優れた教授を捜すのが難しいことに、驚かされま
した。
さて、父は私を含めて 3 人の息子を残しました。私が大学で修めた生物学によりますと、人
間という生き物は半分が父親の遺伝子、半分が母親の遺伝子から成り立っております。従って、
我々三兄弟を合わせますと、締めて舩橋晴俊 1.5 人分に相当する換算になります。その意味で、
今後とも、是非 1.5 倍のご支援を賜りますよう、重ねてお願い申し上げます。
また、生き物は、遺伝子だけではなく、心というものを持っております。この心は、血縁に
関係なく、志を共有した誰もが受け継ぐことが出来ます。晴俊にはこれからまとめあげるはず
であった未完の仕事が残されていますが、ここにいらっしゃる方たちによって、その志と仕事
は受け継がれて行くものと信じております。
今ご参列いただいた皆様を前にして、晴俊の心がこの晴れ渡る空のように家族を超えて受け
継がれて行くことを確信すると同時に、それぞれの祈りをもって見送りの言葉としたいと思い
ます。本日は誠にありがとうございました。
4. 旅立ちの日に送る言葉
45
46
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
5. 特別寄稿
はるちゃんといとこたちと「お化け屋敷」
庄野 進
小学校時代、はるちゃん(晴俊君)とぼく、そして大磯の近所に住んでいたいとこたちは、
休みの日毎に本当に良く遊んだ。舩橋さんちが 3 人、庄野さんちは上の 2 人は年が離れている
ので除外して 2 人、西海さんちが 3 人。これだけいると、たいていの昭和の遊びはいとこたち
だけでできる。縄跳び、かくれんぼ、だるまさんがころんだ、缶蹴りなどが定番。舩橋さんち
の庭でしょっちゅう遊んでいた。西海さんちでは、卓球大会をやった。はるちゃんとは 2 人で、
ビー玉、メンコで遊んだり、少し大きくなってからレゴで色々なものを作って遊んだ。
お正月には、コマ回しに凧揚げ。室内では、トランプで七並べ、ババ抜き、神経衰弱、すご
ろく、そして何といっても百人一首。みんな負けたくないから、意味も分からないまま、上の
句と下の句を必死に覚える。これだけは絶対という札をもっていたりする。確かはるちゃんの
定番札は右近の「忘らるる...」。はるちゃんは結構負けず嫌いだった。もちろん、小さい子も
一緒にとなると坊主捲りで混ぜてあげる。お正月は 15 日の「左義長」のどんど焼きで焼くお
団子も皆で捏ねて作った。白だけでなく、ピンクや緑の色もつけて、小判や様々な形に作って
小枝につけて、夜、海岸でつけられた火で焼いて食べる。
夏になると、もう毎日海に行って泳ぐ。午前中は紫外線が強いので、家で宿題などをし、昼
食後はお昼寝をし、それから出かける。おばさんたちの誰かが、交代で監督してくれて、体が
冷えすぎないよう、適宜休憩を取らせてくれた。大きな薬缶に麦茶が用意されていて、喉が渇
くとそれで水分を補給した。泳ぐだけでなく、砂遊びもいろいろやった。夏休みには、東京に
いるいとこたちも、海水浴にやってきた。そうなると、普段のメンバーに加わって、大騒ぎ。
こうした中で、伝説の「お化け屋敷」が企画された。小学 3 〜 4 年の時だったと思うけれど、
時期ははっきりしない。きっかけは、新聞紙にふのりを加えて捏ねて作る紙粘土。何故かぼく
がそれで作ったのが「しゃれこうべ」。はるちゃんと密談をこらした悪巧みは、お化け屋敷をや
ろうだった。蛍光塗料を塗って光らしたしゃれこうべをメインに、雨戸を閉め、蚊帳を吊るし
た部屋で、お化け役が、白い布を被って、驚かせるという趣向。小道具などは、「何をやるのか
ねえ」といいながら、おミヨおばあさんが協力してくれた。はるちゃんとぼくは、こうしてい
つも何かおもしろいことないかなと、探したり、相談したりしていた。ぼくは思いつきだけ
だったけど、その頃から、はるちゃんには企画力と実行力があったようだ。
同じ敷地で、兄弟のように育った、そのはるちゃんはもういない。定年になったら、また遊
べるかもしれないと思っていたのに。はるちゃんのいない世界は、ちょっとつまらない。
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(いとこ代表)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
誠実であり、信頼され続けた舩橋君
渡邉 修司
鬼籍に入った舩橋君。その衝撃は大きい。逝去した 2 日前に 1 号線の歩道で出会ったばかり
だったし、言葉を交わしたときはなにか顔色が悪かった覚えがあり、気になっていた。「元気
か」、ちょっと間があって、
「まぁまぁ」と返答するいつも通りの言葉の交換だった。早すぎる! 予定では私の方が先のはずだった。舩橋君の家系は長生きであるのに対し、私の方は最長で 71
歳。順番が逆である。もっと長く生きていて欲しかった。そう思うのは私だけではない。
彼は小学校のときから「秀才」の一言で知られていた。私は大磯小学校・大磯中学校 ・ 平塚
江南高校と同じ学校に通学したが、一回も彼の成績を上回ることはなかった。私はいつも 2 番。
平塚江南高校でも学業成績は飛び抜けていたし、同じ合唱部に属したが、彼は部長として統率
力のある人格、というより他人を尊重し誠実に対応する真摯な生き方が部員一同に感銘を与え
ていた。そういう部長の統率のもとで一致団結した結果、県の合唱コンクールで入賞したとき
は部員全員で感涙したものである。
大学は異なったが、家が近くだったので時々道ばたや電車で彼に会うことがあり、簡単な会
話を交わしていた。そんな関係に転機が訪れたのは、大磯港にヨットハーバーを建設するとい
う県の計画が発表され、それに反対することで一致した時である。私どもは自発的に集まった
組織規約をもたない 10 人程度の「なぎさを考える」という町民有志の集合体をつくり、本格
的な反対のための情宣活動と住民運動を展開した。このとき舩橋君と一緒に江ノ島の住民、片
瀬海岸の住民、逗子の環境運動家などにヒアリングを実施し、その成果を「なぎさを考える」
という題名のパンフレットに掲載し続けた。この活動のなかで舩橋君に感動したのはその手法
である。自分の足を使った徹底したフィールドワーク、そして住民のヒアリングを基礎に問題
点を明らかににする手法は、文字史料を読むことだけを重視していた私にとってとても新鮮に
映った。その後、大磯町の焼却場でのダイオキシン問題での環境調査やその解決策としての分
別収集対策、さらの昭和電工の研究所建設問題でも、新幹線公害や新潟水俣病問題に取り組ん
だ舩橋君の学問上の手法とネットワークの広さが遺憾なく発揮された。最近では反原発と関連
した太陽光発電の事業化に取り組んでいたが、志半ばで終わったのはさぞかし残念だったろう。
専門分野が異なるので彼の学者としての評価は私には出来ないが、こと個人的な性格に関し
ては、彼ほど誠実で真摯、そして他人に対する愛情にあふれた人間に出会ったことはない。有
志の集合体が解体したあとでも彼に対する信頼はなくならない。その意味で舩橋君は「永遠」
であり、かれを知る人間のなかで生き続けるだろう。
(小学校からの同級生)
5. 特別寄稿
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大磯を守ってくれてありがとう
安部川 征彦
「バカヤロウ 何度言ったら解ルンダ、この学者バカ!」 晴俊さんと私の交友は、家どうし
が代々の交際があり、なおかつ距離的にも住まいが近くにあったのですが、年齢が 6 歳ほど離
れ、勉学好きの彼と悪ガキの私とでは多少違和感があり、最初はそれほど親しい間柄というわ
けではありませんでした。
今から 30 年近く前になるかと思いますが、その頃大磯町に神奈川県主導のヨットハーバー
計画なるものが浮上し、晴俊さんと私は何度も検討、議論した後、断固阻止すべきということ
で一致し、住民運動へと進みました。最終的には町長選を闘うという、明治以来の偉い方々の
別荘が多々あったこの町が「オカミ」に逆らった初めての出来事でした。その運動の中核をな
したのが、晴俊さんと私であり、その住民運動を進めるにあたって、何十回、彼と議論したこ
とでしょう。冒頭の荒い言葉づかいは、もちろん漁師のセガレの私ですが、彼も下町言葉で言
い返し、お互い涙を流した激論になったこともあり、お父上の俊通氏がその中に加わったこと
も再三でした。
数ヶ月の検討議論の末、住民運動を起こそうということで、その広報誌を作るため、他に 5
名程の仲間を求め、結局 7 名の仲間と「なぎさを考える」という表題のビラを毎月発行しまし
た。町民の方々にヨットハーバー計画の実情を知ってもらおうと、毎週のように集まり議論し
たわけですが、晴俊さんと私は、この時点で結局この住民運動の決着は、町の首長の交代でし
かならないと腹を決めていました。その思惑のなかで、この人ならばと思い定めたのが石井宜
和氏でした。石井さんは当時、学習塾を経営しておりました。私ども 7 名は皆働き盛りの年代
であり、本来なら選挙どころではなかったのかも知れませんが、彼と二人で石井氏を口説きに
口説いてようやく説得し、町長選出馬の了解を得ました。このことを腹に含めたまま、およそ
1 年半の期間、町民の方々にヨットハーバー計画を知ってもらい、なおかつ何故私たちがこの
計画に反対なのかの理由を、広報誌を使い、全町民の方々に理解いただくべく運動を継続しま
した。やがて気運の高まりを見極め、石井氏の後援会を作り、初めて公然と時の町長に反旗を
翻しました。平成 2 年 11 月の町長選挙において大差で勝利し、石井町長の誕生を見、県も計
画を断念せざるをえない結果になりました。
以来 2 期 8 年、石井町長時代があったわけですが、その間、晴俊さんが政策立案を担い、私
がその政策を実行するにあたっての人間関係の調整をし、二人して町政を支えてきました。2
期 8 年を経てこれからという時に石井町政も終わったわけですが、選挙が終わった後、彼とい
ろいろ分析した時のことを今も鮮明に覚えています。それは二人が役割を分担したのは良いの
ですが、8 年という年数の間に、冒頭に述べたようなお互い喧嘩腰での議論が少なくなり、お
互いの言いたいことが解るようになったことです。子どもの頃とは違って、二人の信頼感は強
くなったのですが、それが喧々諤々の議論を遠ざける結果になり、もっとお互いに喧嘩をしな
50
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
いといけなかったねと、二人で苦笑いしたのをよく覚えています。
その後も個人的な交友はあったのですが、彼を尊敬する最大の点は、ある年齢までくると私
自身がそうであるように一般に進歩が止まってしまいますが、彼は日々進歩していったという
ことです。それこそ学者バカなどという面は、まったく消えていきました。
去年の 7 月に、私は住み慣れた故郷大磯を出て、千葉の田舎に移住しましたが、周囲の誰に
言うより先にその件を報告したのが、二人きりで話した最後になりました。家族で千葉まで遊
びに行くと言っていたのが、ご両親のお盆の相談をした、ちょうどそのお盆に、突然の訃報を
聞くとは、今もって信じられないと同時に、あまりに惜しい人、友を失ったことは、残念でた
まりません。
今はご冥福を祈念するのみ。大磯を守ってくれてありがとう。
5. 特別寄稿
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舩橋晴俊君の急逝を悼む
折原 浩
去る 8 月 16 日、法政大学の一友人から、舩橋晴俊君急逝のメールが届き、愕然として、一
瞬なんのことか分からなかった。というのも、舩橋君は、去る 7 月 27 日、利根川縁の拙宅を
訪ねてくれて、親しく歓談したばかりだったからである。
舩橋君は、教養課程の学生時代、理科生でありながら、筆者担当の文科系「ヴェーバー・ゼ
ミ」に出てくる「変わり種」のひとりだった。ということはしかし、「文科生と理科生との相互
交流をとおして総合的な視野と批判的スタンスの会得を促す」という教養課程の理念を、学生
の側から受け止めて体現しようとしていたといえる。ゼミの担当者は、「珍重」というよりも共
鳴して、同君を遇した。ただ、文科系の論客が侃々諤々とやり合うなかで、舩橋君はどちらか
といえば、寡黙で物静かな若者と映った。しかし、自分の意見がないのではなく、いざとなる
と落ち着いて発言し、きちんと論を組み立てる、頼もしい人柄であった。
そういう学生として、同君は「1968 ~ 69 年東大紛争」にも真摯にかかわり、それを契機に、当
初の航空学科志望から文転して、経済学部を卒業した後、社会学の院生となった。やがて、宇井純
『公害原論』の「紅一点」で「最近の社会学は『もの離れ』して久しい」と厳しかった飯島伸子さん
とともに、あるいは飯島さんにつづいて、環境社会学の分野を開拓し、新幹線公害、核燃料サイク
ル施設その他の実態調査で研究成果を挙げ、環境社会学会を立ち上げて、第二代の会長となった。
その間、法政大学の教員としては、同大学に腰を据えて、学生指導と学内改革に専念してい
たと聞く。ある他大学の先輩から招聘の話があったときにも、「かつて一度、当の大学の『解
体』を唱えた身として、おめおめと奉職はできない」、「そこでは、過剰な業績期待にさらされ
るため、『自然体』で生きられなくなる」との二理由を挙げて、はっきり断ったという。筆者
も、いかにも舩橋君らしい去就と感じ入った記憶がある。
法政大学でも、「総長に立候補してほしい」という同僚の要望に、「反公害と脱原発の市民運
動と連携して、社会学の研究を進め、学生指導にも全力投球したい、それが自分の優先的使命」
と答えて、はっきり断わったと聞く。他方、自由参加の市民も受け入れて持続可能な社会の実
現を目指す、法政大学の公開事業「サステイナビリティ研究教育機構」には、機構長ともなり、
さらに「原子力市民委員会」の座長も引き受け、脱原発と再生可能エネルギーの普及をめざす
市民運動のまとめ役として粉骨砕身していた。日本社会学会選出の学術会議会員、同委員会委
員としても、その方向で、数々の提言をまとめ、公表している。
まことに、舩橋晴俊君は、“academic careerism[学者の保身-出世第一主義]” の「流れに
抗して」、学問研究と市民運動との狭間に身を置き、双方の連携と統合を目指して、首尾一貫、
し か も 肩 肘 を 張 ら ず に 生 き 抜 い た、 類 稀 な 人 で あ っ た。 ち な み に、 こ の “academic
careerism” とは、全社会的な「官僚制化」につれて、「早期専門化」をともないながら、もは
や抗いがたいまでに優勢となってしまった時代潮流の、大学内への分流・分肢といえよう。
舩橋君のそうした姿は、稀少で頼もしく、筆者もときどき「サステイナビリティ研究教育機
52
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
構」の催しに出席して、勉強させてもらった。しかし、船橋君は、主催者として忙しく、その
つど挨拶を交わす程度で、ゆっくり話し込む機会はなかった。かれが中心となり、広く市民の
協力も結集して進めた『原子力総合年表』の企画にも、筆者は、モラル・サポートを表明する
のみで、実のある協力はまったくできなかった。
ところが、この 6 月末、舩橋君から突然、『原子力総合年表』ができあがって、「世界社会学
会議」も終わり、夏休みに入って、一息つくので、一度拙宅を訪ねたい、というメールが届いた。
筆者は、「貴君はあまりにも多忙で、疲れも溜まっていようから、どうかゆっくり休養してほしい。
『原子力総合年表』はこちらで版元に注文し、HP でも紹介するから」と、いったんは辞退したが、
「でも、一度ゆっくり話し合いたい」という再度のメールに、「それでは」と歓迎することにした。
じつは昨年末、長年ヴェーバー研究をともにしてきた 1936 年生まれの雀部幸隆氏が、急逝
され、そのほかにも 80 歳前後で鬼籍に入る人がふえ、新聞紙上に訃報を見かけることも多く
なった。となると、古風といえるくらい律義な舩橋君のことで、ひょっとすると、「一度、会っ
ておかなければ」と気遣ってくれているのかもしれない、と思わないでもなかった。
それが、逆になってしまった。いったいどういうことか。
7 月 27 日当日、舩橋君は、『年表』の概要を説明し、作成にあたっての苦心を披瀝し、反原
発市民運動全般の見通しも語ってくれた。かれは、居住地神奈川県大磯町近辺の住民運動にも
携わっていて、そこでも各地でも、太陽光発電の普及が、予想以上に早く進んでいる、とのこ
と。とすると、反原発運動は、再稼働を止め、すべての原発を廃炉に追い込む、否定的運動と
いう側面も、もちろん重要ではあるけれども、自然への負荷の少ない代替エネルギーの選択-
普及-改良を先行させて、原発依存の基盤を掘り崩していき、結果としておのずと全廃に追い
込み、その間、廃炉の工程を、雇用喪失その他、地域社会におよぼす随伴諸結果も考慮に入れ、
そのつど対策を講じながら「責任倫理」的に進めていく、そういう肯定的運動という側面のほ
うが、抵抗も少なく、合意もえやすく、いっそう順調に進むのではないか、という。かれが、締め
くくりとして、
「ぼくはじつは、長期的にはかなり楽観的です」と語ったのが、印象的であった。
舩橋君は他方、老生にも「現在の研究プラン如何?」と尋ねてくれた。筆者は、虚を衝かれ
て、正直まごついたが、同君の好意ある関心に応え、要旨つぎのように答えた。
[要旨とはいえ、かなり長文となってバランスを失したので、本ホーム・ページ中に別項目
「昨今の仕事プラン——戦後精神史の構想とヴェーバー研究の前提反省」を立て、内容はそちら
に移す。9 月 27 日]。
舩橋晴俊君は、学問内容上は、(筆者にとって「1962 ~ 63 年大管法闘争」以来の盟友では
あるが、「1968 ~ 69 年東大闘争」以降、マルクスの「物象化」論をサルトルの『方法の問題』
『弁証法的理性批判』を媒介として止揚した)見田宗介氏の門下生で、同氏の『現代社会の存立
構造』論を「組織論」に適用して展開した、出色の継承者というべき位置にある、といってよ
いであろう。舩橋君はなるほど、ヴェーバーの「支配社会学」も、大幅に採り入れてはいるが、
狭義の「ヴェーバー研究者」ではない。ところが、そのかれが、筆者の「昨今の仕事プラン」
に関心を示し、膝を乗り出して聴き入ってくれたのである。筆者としても、舩橋君の好意ある
関心に甘えたのか、信頼に応えたかったのか、胸底の思いが止めどなく躍り出てきて、つい長
話となってしまった。
舩橋晴俊君、貴兄の事績を「戦後精神史のひとこま」として復元し、一水脈として後続世代
の諸君につなげ伝える仕事を、筆者は、残されたわずかな期間ではあれ、心して実現したい、
と祈念している。
舩橋晴俊君、どうか安らかに、若い諸君と筆者の今後も、見守っていてほしい。
なお、『原子力総合年表』をめぐる舩橋君との交信を、この HP「恵贈著作 2014」欄の Nr.
38 に付記、掲載する。
2014 年 9 月 22 日[9 月 27 日、改訂]
折原 浩 http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/hunabashikuntsuito(kaitei).htm
5. 特別寄稿
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持続可能性を求めて
―舩橋晴俊教授の業績を偲ぶ
宮本 憲一
舩橋晴俊さんにはじめてお会いしたのは、1990 年環境社会学研究会に友人の故飯島伸子さ
んに呼ばれて講演した時ではないだろうか。すでにその前に彼は長谷川公一さんらとともに
『新幹線公害』(有斐閣、1985 年)を出版し、公共性論では私の市民的公共性論を引用してい
るように、80 年代から文書などによる交流があった。飯島さんと彼の環境社会学は被害構造論
とよばれるように地域社会で差別し潜在している公害の被害を掘り起し、被害者の生命・健康・
生活環境、さらに家族・コミュニティの被害まで歴史的・重層的にあきらかにするものであっ
た。嘉田由紀子さんはこの理論を環境葛藤論で、自分は環境共生論だというが、日本の公害の
被害の主体は人間である。公害裁判では「被害に始まり、被害に終わる」といわれたように、
飯島 = 舩橋理論の影響は大きく、継承者も多い。舩橋さんは『新潟水俣病』(飯島伸子共編、
東信堂、1999 年)において被害の構造だけでなく、加害の構造について書いている。これは
昭和電工の有機水銀放出という直接の加害行為だけでなく、前例である熊本水俣病を経験した
にもかかわらず、発生防止の措置を取らなかったこと、同じように行政や研究者さらに司法が
対策を取らなかったことなど歴史的に重層の加害構造があるとしている。私は経済学者なので、
公害は政治経済システムにその原因を見るが、個別の事件では彼の被害・加害構造論は有効で
あるとおもう。
研究教育に当たって、彼は現場の当事者からの調査に重点を置いており、新幹線では 5 年間
かけ、現地に 100 回、新潟水俣病では 6 年間、ゼミの学生を連れて調査している。公害研究の
方法はこの現場に行くことが基本であるが、彼の場合は新聞記者のように当事者から徹底して
取材しているので、論文では抽象的な社会学の概念を使っていても市民にも納得できる結論と
なり、同調者が多く、社会にも影響を与えたのであろう。
飯島伸子さん以来の「問題解明の方法としての年表の作成」は彼の手で大きな業績を上げた。
飯島さんは 1975 年までの労働災害・職業病・公害の年表を作成し、その後の作業も続けてい
た。彼はそれを受け継ぐだけでなく、それを世界に広げ、項目を増やし、さらに読者の便利な
ようにエピソード毎などに分類して『環境総合年表—日本と世界』(2010 年、すいれん舎)を
出した。彼はかねてから原子力開発の社会的影響について、調査をし、長谷川・飯島両氏とと
もに『巨大地域開発の構想と帰結—むつ小川原開発と核燃料サイクル施設』(1998 年、東京大
学出版会)を上梓している。福島原発の事故に直面し彼はこれまでの原子力施設の研究を総括
して、世界へ警鐘を鳴らすべきだと考え、『原子力総合年表』(2014 年、すいれん舎)を出版
した。この内容は日本の各原発基地の年表はもとより、世界の原発の年表となっている。しか
も両者とも英文判を作っている。これは次に述べる大学の援助もあるが、彼が組織した環境社
会学会の若手の協力をえた驚くべき業績である。おそらく彼は「年表学」の創始者となったの
ではないか。
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
2009 年 8 月、舩橋さんは友人の陣内秀信教授と連名で私に対して法政大学サステイナビリ
ティ研究教育機構を作るので、そのアドバイザリーボード会議の議長に就任してくれないかと
依頼が来た。かねてからサステナビリティの研究が社会科学の到達点であり、それは文理融合
の学際的な体制が必要だと思っていた。法政大学は全学を挙げて取り組むということであり、
しかも教育機構を持ち、ポス・ドク対策にするというのであった。舩橋さんはその機構長に
なった。お二人の頼みを喜んで引き受け、機構の研究成果を読み、多少の助言をし、この成果
に期待してきた。ところが 2011 年 3.11 の震災と原発事故は日本の日常を破壊した。機構もこ
の問題に正面から立ち向かうことになった。舩橋さんは長谷部俊治さんと共編『持続可能性の
危機』(2012 年、お茶の水書房)を出した。彼はその中で持続可能性と制御可能性が原発では
なぜ欠如したのかを問い、この失敗を克服するために「環境配慮の中枢的経営課題群としての
内部化」を提唱している。そして、それを生み出すためには「公共圏の豊富化」によって公論
を形成しなければならぬとした。
残念なことにこの機構を支えていた予算が支給されなくなり、2012 年で機構は解散となっ
た。理由はわからないが、このごろの国際化路線で大学間・研究者間を競争させる文部省行政
の短慮の表れではないか。先の『原子力総合年表』はこの機構の大きな成果である。しかし
「環境アーカイブス資料公開室」のような意欲的な施設は閉鎖に追い込まれた。陣内さんなど機
構の中核になっていた研究室は、学際的な研究は続けられているというものの納得のいかぬ解
散であった。
私も 85 歳と高齢になったので、最近、同年輩の原田正純、宇沢弘文、木原啓吉の 3 氏を続
けて失った。しかし 20 年若い舩橋晴俊さんが亡くなるとは思いもよらなかった。彼はここに
述べたことにとどまらず、多くの仕事をされたから、大往生に違いない。しかしまだ、これか
ら彼は環境社会学の体系をつくり、環境問題や持続可能な社会について、多くの著作や組織を
作り、社会的発言をできる期待の星であった。痛恨の思いは尽きない。この上は若い社会学者
に彼の志を継いでいただくことを期待したい。
2015 年 5 月 22 日
5. 特別寄稿
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
6. 学会における追悼文
「学」が社会の中で何をするべきかを
真摯に追求された姿を鏡として
鬼頭 秀一
舩橋さんが亡くなられ、非常に残念で悔しい思いがある一方、舩橋さんが残された仕事を私
たちが担わなければならないという思いもある。
もともと社会学者でもない私が環境社会学会の琵琶湖のセミナーに最初に参加して同宿した
のが舩橋さんであり(もう一人は若き宮内さん)
、居心地良くそのまま居着いてしまった。私自
身は外様的な気分でいたにもかかわらず、ことあるごとに、環境社会学会の学問のあり方を考
える重要な時に、舩橋さんとお話しし、非常に示唆溢れるアドバイスを受けていた。学会誌の
査読システムで懸案があったときも、最終的な落ち着く形は舩橋さんが示してくれた。舩橋さ
んが学問的に何か非常に強い使命感で動かれていることを感じることも多かった。飯島伸子さ
んの貴重な学問的な遺産を整理し形にしていく際にも、かつての「同志」への思いと同時に、
飯島さんとも共有していた環境社会学の社会に対して果たすべき役割の重さの認識があったよ
うに思われる。
3.11 の東日本大震災以後、舩橋さんと怒濤のような形で主導的な動きを組織していったが、
舩橋さんには何かに突き動かされているような面持ちがあった。社会学界全体を視野に、震災、
とくに原発災害の研究を統合し統括していく動きは、多くの社会学者の被災地に対する思いと
献身的な努力があったにせよ、舩橋さんが全体を統括することで可能になったことである。
その働きは、日本学術会議の社会学委員会の二つの提言に集約されていった。日本学術会議
では、原子力委員会から依頼された高レベル放射性廃棄物の処分に関する問題の審議に対応す
る検討委員会において、その原理的、社会的な困難性に対して毅然とした形で回答をするとい
う日本学術会議の中でも歴史的な転換を期する重要な場面で、舩橋さんは幹事として重要な役
割をされた。私自身もいくつかの委員会、分科会でご一緒してきたが、原子力発電の将来的な
あり方、3.11 以後の科学と社会のあり方等々、多くの委員会、分科会で大活躍をされた。
それまでの新幹線公害、水俣病など公害問題、核燃施設などの環境社会学的研究の成果の上
に、科学や技術が社会の中で、また国家の中でどのような役割をするべきか、独自の理論的な
構築を行うのみならず、日本学術会議を通した政策提言まで形にしていかれたのは、信じられ
ないほどの学問的な集中力と、工学系を含む反対勢力の研究者をも説得し、あるべき形に合意
形成してそれを提言という形にしていく強い精神力がなければ達成不可能であったろう。原子
力市民委員会の座長も、学問的蓄積と見識だけでなく、市民に対する信頼を十分に勝ち得なけ
れば難しい立場であり、舩橋さんしかその役割を務めることができないものであり、見事にそ
の提言を取りまとめられた。それらのすべての仕事は、「学」が社会の中で何をするべきかとい
うことを、学問的にも社会的にも真摯に追求されていったその結果できたことであった。
科学が社会の中でどうあるべきか、どう位置づけられるべきかに関しては、舩橋さんと私は
必ずしも意見を同じにせず、日本学術会議でもかなり激しく議論した覚えがある。しかし、そ
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
こには、舩橋さんの「学」に対する真摯な思いと、この問題に関してウェーバーに立ち返るべ
きと考え、また、自らをそのように律するような強い信念がそこにあり、大変感慨深いところ
がある。最後の数年の間、突き進んでいった舩橋さんの遺産は学問的にも「学」と社会との関
係においても貴重なものである。本来は舩橋さん自身が具体的な社会的実現まで進めるはずで
あったが、道半ばで帰らぬ人となってしまった以上、私たちがそれを引き継いでいかなければ
ならない。心からご冥福をお祈りしつつ、新たな道に進みたいと思う。
(環境社会学会会長)
出典:『環境社会学会ニューズレター』第 60 号(通算 65 号) 2014.11.10
6. 学会における追悼文
59
意志の人
長谷川 公一
舩橋晴俊先生が急逝されてちょうど 1 ヶ月になるが、先生を失ったことによる喪失感、空白
感、虚脱感はなお埋めがたい。むしろ深まるばかりだ。舩橋さんの姿を見失うまいと追いかけ、
何とか食らいつこうと 35km 付近まで必死の思いで走ってきたのに、突然雷雨によりレースは
中止ですと宣告され、雷鳴が遠ざかる中、ずぶ濡れのまま悄然とするマラソン・ランナーのよ
うな心境だ。
舩橋さんと出会ったのは 1976 年、東大の社会学研究室の助手になられたときからである。
私は学部の 4 年生だった。修士課程に入って、故梶田孝道先生らとつくっておられた社会問題
研究会への参加を呼びかけられ、1979 年から当時大宮以南で反対運動がさかんだった東北・
上越新幹線の建設問題の調査を開始した。騒音・振動被害と反対運動の先例だった名古屋市の
沿線も調査し、この 2 つのケーススタディをもとに『新幹線公害』(1985 年、有斐閣)、『高速
文明の地域問題』(1988 年、有斐閣)を刊行した。炎天下、舩橋さんと法政大の学生たちと、
名古屋や浦和などで合宿をしながら、聴き取りを重ね、舩橋さんが発意した受益圏・受苦圏な
どについて議論しあった日々が昨日のことのようだ。
1988 年からは青森県六ヶ所村をフィールドに、むつ小川原開発問題・核燃料サイクル施設
問題の研究を開始した。これは『巨大地域開発の構想と帰結』(1998 年、東京大学出版会)、
改訂増補版の『核燃料サイクル施設の社会学』(2012 年、有斐閣)となった。
80 年代後半時点まではともに「環境社会学」という言葉も知らず、社会問題・社会紛争・公
共政策・社会制御・住民運動の研究という意識だった。日本独自の環境社会学をつくっていく
んだ、その一翼を担うんだという意識が生まれたのは、1989 年に、故飯島伸子先生・鳥越皓
之先生と舩橋さんらが、環境社会学研究会を組織しようと語りあってからである。
6 歳年長の舩橋さんは、38 年前の出会いから急逝されるまで、終始「兄貴分」であり、胸を
貸して鍛えて下さった兄弟子であり、メンターであり、目標であり、生きたモデルであり、
困ったり判断に迷ったりしたときの相談相手だった。いつも励まして下さった。面と向かって
申し上げたことはないが、舩橋さんの「最初の弟子」であることを秘かに自認し、そのことを
誇りとしてきた。
舩橋さんとの、この 38 年間の知的な格闘、精神的な荒稽古がなければ、私の研究生活はず
いぶんひ弱で、か細く、貧しいものにとどまったに違いない。学部 4 年生の折に、28 歳頃の舩
橋さんと出会い、中範囲理論的な志向性をどう育むか、実証研究と理論的思考との統合をいか
にすべきか、学生や院生をどう育てるのか、日本の交通政策や原子力政策の転換をどう実現す
るのか、日本の社会学をどう国際化すべきか、日本の社会学や環境社会学の国際的な発信をい
かにはかるのか等々、これらの問題についてずっと議論し、いつも舩橋さんの先見性に教えら
れてきた。若い頃から、大きな問題に真正面から正攻法で向き合うのがお好きな方だった。
60
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
少壮の頃から舩橋さんがおそらくモットーとしておられたのは、「知的洞察力」「感受性」「意
志」である。水俣病問題の発生拡大過程(1956 〜 59 年)について、チッソや熊本県庁、通産
省らの幹部、池田勇人通産大臣(1959 年当時、元首相)などの関係者がこれらの資質を欠い
たことが、「責任意識の欠如」をもたらしたと指弾している(舩橋晴俊 , 2000,「熊本水俣病の
発生拡大過程における行政組織の無責任性のメカニズム」『ヴェーバー・デュルケム・日本社
会』ハーベスト社 , p.152)。とくに「意志」については、「ここで「意志」という場合、それ
は、普遍性のある価値や正しい原則を直感し、それを堅持する能力を含意している」(同上 ,
p.154)と舩橋さんらしい説明を加えている。
舩橋さんは終始強い「意志の人」であり、克己の人だった。「知的洞察力」と「感受性」と
「意志」をもって、普遍性のある価値と正しい原則の実現のために闘い続けた人だった。若き舩
橋さんとの幸運な邂逅とその長年の導き、ご教示に深謝申し上げながら、いまはただご冥福を
お祈りしたい。合掌。
相模湾秋空高くあるばかり
語り継ぎ書き継ぐわれら鰯雲
(2014 年 9 月 15 日)
出典:『環境社会学会ニューズレター』第 60 号(通算 65 号) 2014.11.10
6. 学会における追悼文
61
舩橋晴俊さんを哀悼する
李 時載
今年 8 月 16 日、国際会議の最中の香港で、舩橋晴俊さんの急逝の悲報に接し、その衝撃が
あまりに大きく私は暫く、茫然自失して何もすることができませんでした。葬儀にも参席でき
ず、本当に遺憾の限りでした。彼に最後に会ったのは 7 月の ISA 会議のときでした。彼が組織
したプレカンファレンスで、彼はこの数年間、心血を傾けて完成したばかりの英文版世界環境
年表と日本語版の原子力総合年表を世界に披露しました。私たち参加者は舩橋さんたちの業績
に拍手を送り、私はこの 2 冊は全人類に対するかけがえのない貢献であり、世界文化遺産とし
て指定されて当然だと述べました。会議が終わり、夕食を共にし、私たちは横浜の街に二次会
に繰り出し彼らの苦労を労い、またお祝いしました。その晩の彼の密かな満足と成就の喜びの
表情を忘れられません。
私は 1974 年 8 月、東京大学大学院社会学研究科に留学しました。彼は博士課程の院生で、
私は修士課程の学生でしたが、彼と一緒に社会運動理論を勉強し、Alain Touraine の本を一緒
に読んだり、彼と一緒に東京都の環境政策を調べ、インタビューに付いて行ったりしました。
かれこれ舩橋さんとは 40 年の友情に恵まれました。1990 年代の初めには、環境社会学の研究
を通して再び彼と出会いました。亡き飯島伸子先生と一緒に組織した国際会議に参加し、世界
社会学会の環境社会学分科会に一緒に出たりしました。2009 年から彼と一緒に東アジア環境
社会学ネットワークを組織し、アジアにおける環境社会学の交流の基盤を作りました。
舩橋さんの学問的成果についてはこれから後学の評価がなされると思いますが、ひとつだけ
言及したいと思います。彼は見田宗介先生の存立構造論に魅了され、これを組織論に適用して
一生研究を続けてきました。‘組織の存立構造と両義性論’ はこうした研究の成果です。彼は組
織の物象化現象に留まらず、それがもっている両義性を分析し組織に対する機械論的解釈を否
定しました。彼は新幹線、六ヶ所村、福島調査など膨大な経験的調査を蓄積しましたが、理論
的作業にもっと関心を持っていたと思います。彼は多くの新しい仕事を計画していたようです
が、今までの業績をもっても充実した本当に甲斐ある学問生活を送ってきたと思います。
2011 年 3 月福島原発事故直後、彼は慌しく私にメールで “Everything should be changed"
というメッセージを送ってきました。日本システムを含めすべてを変えなければならないと言って
いました。こうした変化のために彼はこの数年間科学者運動、市民運動に携わってきました。こう
した運動が本格的に広がる矢先に彼は人生を閉じてしまい、本当に悔やまれます。彼の学問的
遺産とともに彼の精神と行動を生かしていくことこそ残された者の課題ではないでしょうか。
舩橋さん、40 年間の友情に深く感謝し、時間の切迫も仕事のストレスもない世界で安らかに
休まれるよう祈ります。
(韓国聖公会大学招聘教授)
出典:『環境社会学会ニューズレター』第 60 号(通算 65 号) 2014.11.10
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
『原発ゼロ社会への道』をともに普請して
細川 弘明
舩橋さんに初めてお会いしたのは、ちょうど 20 年前、琵琶湖畔での環境社会学会セミナー
の折り。僕は初参加の新入会員だった。その頃、三省堂の広報誌に連載させてもらっていた
「かわずのエコロジー」という僕の駄文を舩橋さんがご存じだったので意外だった。反原発運動
に首を突っ込んでいた僕は、社会学者たちによる原発問題研究の包括性と理論性には一目置き
つつも、冷徹で俯瞰的な学者の書きぶりに違和感を覚えてもいた。すでに舩橋さんは飯島伸子
さんと並んでそういった学者たちの統領の如き存在だったから、知己を得たことは佳しとしつ
つ、あまり親しくはすまいと、今にして思えば実につまらぬ用心をしてしまった。
翌年、舩橋さんが学会の事務局長に就任された際、なぜか僕を運営委員(現在の「理事」に
相当)に加えて下さった。社会学以外の分野の者を積極的に運営に関わらせようとの意図が
あったようだ。正直なところ、舩橋事務局長の如才ない運営手腕に、僕は「講座制」的な空気
を感じてしまい(これも今にして思えば剰りに皮相な見方に過ぎたのだが)、やはり近づくまい
と勝手に思い定めてしまった。その後、ときたまの国際会議で〝傭兵的司会役〟を仰せつかる
以外、舩橋さんから要請される仕事はほとんど断ってきた。
2011 年「原発震災」を受け、僕が運営に関わっていた高木仁三郎市民科学基金(高木基金)
は諸々議論の末、そのリソースの過半を投じて「原子力市民委員会」を設立することになった。
市民運動と学術研究のあいだを取り持つ役柄を期待して、舩橋さんにその座長をお願いしたと
ころ、若干躊躇された後、舩橋さんは「これ断ったら敵前逃亡ですね」と、いささか物騒な決
意表明を真顔で述べて引き受けてくれた。2013 年 3 月のことである。以降、この市民委員会
への舩橋さんの精力傾注は並大抵でなかった。一癖も二癖もある運動家・弁護士・技術者・学
者・ジャーナリストら六十余名の侃々諤々を丹念に止揚し、各地での公聴会も次々展開し、当
初イメージされていた水準をはるかに超える報告書『原発ゼロ社会への道』を 1 年で纏めあげ
た。脱原発にかかわる課題を網羅するだけでなく、「公論形成」というコンセプトで太い筋を通
した特色ある報告書となりえたのは、舩橋座長のビジョンが梁山泊の面々を得心させたからに
他ならない。くっきりと描かれた道を、残された僕らは進むことになるだろう。
さほど懇意でなかった僕が舩橋さんの人生の最後の 18 ヶ月、連日幾通ものメールを交わし
て共に汗をかくことになるとは予期していなかったし、その日々が急に終わることになるとは
なお思いよらぬことだった。突如の訃報から葬儀の前後にかけて多くの方々から舩橋さんを悼
むツイートが発信された。それらを気づいた限り収集し「舩橋晴俊さん逝く」という題でまと
めてあるので御覧頂ければと思う(http://togetter.com/li/710012)
。
(京都精華大学・原子力市民委員会事務局長)
出典:『環境社会学会ニューズレター』第 60 号(通算 65 号) 2014.11.10
6. 学会における追悼文
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舩橋晴俊先生を偲ぶ
長谷川 公一
2014 年 8 月 15 日早朝、舩橋晴俊先生がくも膜下出血で急逝されたという訃報は大きな衝撃
を与えた。先生は全国を大車輪で飛び回っておられた。私も、8 月 13 日午後の会議でご一緒し
たばかりだったから、にわかには信じられなかった。
若い頃から卓越したリーダーシップを発揮してこられたが、日本社会学会理事としても、社
会学評論編集委員長(2003 〜 6 年)、研究活動委員会委員長(2009 〜 12 年)などの要職を務
められ、改革と活性化に尽力された。すぐれた理論家であるとともに、現場のリアリティを大
事にされたフィールドワーカーであり、オルガナイザーであり、良心的な教育者であり、常に
創造的な実践的改革者であった。これらが 1 つの人格の中で、多面体のように見事に統合され
ていたところに、舩橋先生の独特の人間的魅力があり、研究者としての圧倒的な存在感があっ
た。新幹線公害・建設問題の研究、むつ小川原開発・核燃料サイクル研究、環境社会学会の創
設、飯島伸子文庫の開設、東アジア環境社会学シンポジウムの隔年の開催、法政大学サステイ
ナビリティ研究機構の開設、『原子力総合年表』の公刊等々、舩橋先生が先頭に立って手がけら
れたプロジェクトは枚挙にいとまがない。66 年の生涯であり、道半ばではあったが、文字どお
り超人的に、幾人分ものお仕事と人生を体現された。
日本の社会学がその実力ほどには国際的に評価されていない、業績がそれほど世界に知られ
ていない、その状況を何とか打ち破らねばならないと、若い時からいつも口癖のようにおっ
しゃっていた。昨年 7 月の世界社会学会議横浜大会の成功のためにも、助言を惜しまれなかっ
た。英文の『世界環境年表』を世界社会学会議に合わせて刊行され、2 日間の環境社会学のプ
レコンフェランスを成功に導かれた。
倦むことなく常に先陣を走り続けてこられた先生にとって、もう一つの転機となったのが、
2011 年 3 月 11 日の東日本大震災と福島第一原発事故だった。被害救済と研究活動の組織化に
まさに心血を注がれた。社会学者としてどう向き合うのか、最も誠実に答え行動したお一人が
舩橋先生だった。
高木仁三郎市民科学基金が中心となって、政府側の原子力委員会に対抗すべく、2013 年 4
月に発足した「原子力市民委員会」の座長を務められた。個性派揃いの脱原発運動の猛者たち
を糾合し、『原発ゼロ社会への道——市民がつくる脱原子力政策大綱』という包括的な政策提案
を 1 年でまとめられた。
日本学術会議社会学委員会「東日本大震災の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科会」
委員長としても、「原発災害からの回復と復興のために必要な課題と取り組み態勢についての提
言」(2013 年 6 月)、「東日本大震災からの復興政策の改善についての提言」(2014 年 9 月)の
取りまとめに尽力された。
日本学術会議「高レベル放射性廃棄物の処分に関する検討委員会」および同フォローアップ
64
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
検討委員会でもリーダーシップを発揮された。とくに 2012 年 9 月に発表された原子力委員会
への批判的「回答」は、社会的にも大きな反響を得た。高レベル放射性廃棄物問題に関する
「公論形成」と抜本的な政策転換をめざした真摯な実践だった。
震災情報連絡会をはじめとした震災関連の社会学者の研究を「横につなぐ」活動も特筆すべ
きである。震災発生当時、日本社会学会の研究活動委員会委員長だったが、率先して、社会学
を中心とした大震災関連の研究をつなぐプラットホームづくりを呼びかけられ、研究の活性化
をリードし、関連の編著を企画・編集された。
1976 年、東大の社会学研究室の助手だった 28 歳の先生と、学部の 4 年生だったときに出
会って以来、この 38 年間親しく教え導いていただいた。
先生が掲げられた幾つものたいまつは、後進の導きとして、理論と実践、原理的思考と倫理
的政策分析を統合する生きたモデルとして、いつまでも燦然と輝き続けることだろう。
合掌。
(東北大学)
出典:『日本社会学会ニュース』No.214, 2015.4.10
6. 学会における追悼文
65
実践社会学者としての舩橋晴俊
矢澤 修次郎
私にとって舩橋さんは、当然そこにいるひとであった。何度思い返して見ても、舩橋さんと
どのようなきっかけで知り合ったのか思い出すことができない。歳は 6 歳離れているが、同じ
研究室の出身だから、多くの接点があったに違いない。東大社会学研究室で会ったのだろうか。
津田塾大学の時代に梶田孝道さんを通じてか。あるいはその後勤めた法政大学で同僚になった
のが最初だっただろうか。こんなことが頭の中を駆け巡るばかりである。
しかし、初めて実質的に学問の話をした時のことはよく覚えている。それは、彼が新幹線公
害、高速文明の地域問題を研究していた時期で、当時私も東北新幹線建設に関わる上尾市の住
民運動を調査していたところから、若干の意見交換と資料の相互交換を議論した時だった。な
ぜその時のことをよく覚えているかというと、それはその時私の舩橋像が固まったからであろ
う。その舩橋像とは、優れた社会科学者は、自らが拠って立つ組織的基盤を変革することに
よって初めて、実践的な社会科学を作り出すものである、というものだ。この像が作り出され
たのには、その当時私がアメリカのニューヨーク社会学者の研究をもしていたことが大きく関
係しているだろう。その後、私の舩橋像は変わることなく、彫琢されていった。
優れた研究者、理論家は多い。しかしオルガナイザーは少ない。研究者とオルガナイザーを
統一している人は、きわめて少ない。この点で私のモデルは、故馬場修一(東大助教授)氏で
あったが、舩橋さんがそれに加わった。新幹線、高速文明研究を見てほしい。見事に研究者を
組織し、ゼミの学生を組織しているではないか。しかも単に組織するだけではなくて、組織的
知性を作り出している。
ここでは舩橋さんの研究者としての軌跡を辿ることはしないでおこう。それは、後に続く若
い研究者の必要不可欠な仕事になるであろうし、そして私よりは適任の方々が大勢おられるか
らである。むしろ私はここでは舩橋さんのオルガナイザーとしての仕事に注目しておこう。事
実私は、オルガナイザーとしての舩橋さんに大いに注目し、魅せられて来たからである。
私は舩橋さんほど研究組織の管理・運営の仕事を真摯に行い成果を上げた研究者を知らない。
私は何度も舩橋さんと一緒に日本社会学会の理事をつとめた。彼はいつも学会活動の改善に大
きな成果を上げた。とりわけ『社会学評論』の改革、大会運営をはじめとした研究活動の改善
は、記憶にとどめられるべきものである。その延長線上で彼が中心になって行った東日本大震
災に関する社会学的研究の連携・組織化は、特筆に値する。
所属大学における研究組織の管理、運営の仕事に関しても同じことが言える。舩橋さんの告
別式で田中優子法政大学総長が触れられておられたように、彼こそ総長に適任だったのではな
いか。それほど彼は、所属大学に腰を下ろし、研究組織の改革と学部・大学院の教育にも多大
の力を割いた。彼のセミナーは、社会科学のセミナーの中では、おそらくトップクラスの質を
持っていたのではなかろうか。それは、自治体の環境問題の解決に貢献したと聞いている。
66
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
彼のオルガナイザーとしての活躍は、学術組織、大学に限られてはいなかった。彼は、環境
系市民団体においても重要な役割を果たしていた。彼は原子力市民委員会の座長として、脱原
発社会の建設のために尽力した。地元大磯でも市民団体において重要な役割を担っていた。要
するに人間と環境の関係を軸に考えた場合、人類は大きな思考と行為の展開を迫られているの
であり、彼のオルガナイザーとしての役割は、全面化していたと考えられる。
さて舩橋さんの社会学理論は、切れ味が鋭く、思考の論理、道筋が良くわかるものだった。
この印象を多くの社会学者が共有しているのではないか。梶田孝道さんと共に展開された受益
圏 – 受苦圏の議論、2 年間のフランス留学の後に書かれた「理論の三水準」論、舩橋組織社会
学の集大成ともいうべき主著『組織の存立構造論と両義性論』(東信堂)などどれを取ってみて
も、読後になんとも言えない清涼感のようなものを感じるのである。それは、彼の理論の論理
の正しさ、明晰さのもたらすものに違いあるまい。
彼の理論は、本当に考え抜かれ、我が物にされたものだったに相違あるまい。それは、彼が
如何に社会学するかを平易に、読者がその思考の翼を確実に獲得することができるように書き
記した『社会学をいかに学ぶか』(弘文堂)を上梓していることが証明している。これは単なる
入門書ではない。この中には、彼が社会学した方法が開示されているのである。
かえすがえす残念だったのは、彼が彼の研究の集大成期を迎えていた時に亡くなってしまっ
たことである。理論分野の主著が上梓され、実践社会学の面では 3・11 以降彼が真摯に取り組
んでいた東日本大震災からの地域社会の再建の問題が、政府への現実的な提言にまで具体化さ
れた(日本学術会議社会学委員会、東日本大震災の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科
会「原発災害からの回復と復興のために必要な課題と取り組み態勢についての提言」)。また飯
島環境社会学以来環境社会学が重視してきた環境・公害問題の記録活動も、『原子力総合年表』、
A General World Environmental Chronology(世界環境年表)
(すいれん社)を出版するとこ
ろまでこぎつけた。政策提言にしても年表にしても、舩橋さんなしにはあのような形での完成
はなかったであろう。
これまでの一連の研究が極限にまで推し進められるとともに、舩橋さんの研究が新たな地平
に入ろうとしていた時、舩橋さんは逝ってしまわれた。彼に最後に会ったのは、2014 年 7 月
中旬、国際社会学会の世界社会学会議においてだった。彼は、この会議の日本開催にも多大の
支援を惜しまなかった。この時も出版されたばかりの英文世界環境年表を展示・宣伝していた。
その時私は楽しい夢を見た。それは、彼をはじめとして日本の環境社会学者が世界のアカデ
ミック共同体の中で活躍する夢である。日本の社会学は、数理社会学、階層研究を除いて、ま
だまだ国際的なアカデミック共同体の通常のメンバーになりきれていない。その日常的な活動
が国際的な活動でもあるということにはなっていない。舩橋さんをはじめとした環境社会学が、
壁を破ってそうなってゆく実に楽しい夢であった。
通夜、告別式で、私は舩橋さんに、いろいろな意味でありがとうと告げるとともに、舩橋さ
んが切り開いた環境社会学の地平が、多くの同僚・後輩によって継承され、私の見た夢が正夢
になってゆくのを側面から支援することを誓った。舩橋さん、安らかにお眠りください。
出典:
『災後の社会学』No.3, 2015.3.31(科学研究費補助金(基盤研究 A)「東日本大震災と日本社会の
再建-地震,津波,原発震災の被害とその克服の道」2014 年度報告書)
6. 学会における追悼文
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「君は闘っているか」
長谷川 公一
公害 G メンとして、四日市で、東京都で、公害追及と加害企業の告発に大きな足跡を残した
田尻宗昭氏は若い人びとに口癖のように言っていたそうだ。「君は、闘っているかね」と 1)。口
にこそ出されなかったものの、舩橋晴俊先生の背中は、いつも「君は闘っているか」と問いか
けているようだった。先生は静かに、しかし決然と闘っておられた。
先生の闘いは、東日本大震災の発災、福島第一原発事故の発生にともなって、いよいよ苛烈
なものになった。次々と編著書が送られ、幾つものメーリングリストから様々の文書や連絡が
送られてくるにつれて、あまりの忙しさに命を削ることになりはしまいか、と秘かに危惧して
いた。そんな矢先、8 月 15 日午後、舩橋先生がこの朝くも膜下出血で亡くなられたというメイ
ルが飛び込んできた。
その 1 日半前、8 月 13 日午後 2 時から 4 時まで開かれた日本学術会議の高レベル放射性廃
棄物の処分に関するフォローアップ検討委員会でご一緒したばかりだった。9 月に「暫定保管
に関する技術的検討分科会」(以下技術分科会と表記する)と「暫定保管と社会的合意形成に関
する分科会」
(以下社会分科会と表記する)の報告を提出することになっており、その最終的な
詰めの委員会だった。この検討委員会の幹事として、また社会分科会の座長として、報告の取
りまとめにあたられた舩橋先生は、13 日は珍しく疲れた様子で、髪を掻きむしるような仕草を
何度かなさっていた。この検討委員会の中心的な論点である「暫定保管」は、国側の放射性廃
棄物ワーキンググループ 2)が打ち出してきた「回収可能な地層処分」とは異なるのだというこ
とを文字どおり力を込めて主張された。ごまかさないでくれ、一緒にしないでくれという有無
を言わせぬ厳しさがあった。終了後メディアに取りかこまれ説明を求められている舩橋先生を
残して帰宅した。これが永訣の場になるとは夢想だにしなかった。
学部 4 年の出会いの折から、舩橋先生が私にとってどんな存在だったのか、ということにつ
いては、「意志の人」と題して環境社会学会ニューズレターに寄稿した 3)。卒業生向けに加筆し
たエッセイもある 4)。個人的な思い出はこれらにゆずり、ここでは東日本大震災以降舩橋先生
がどんな風に格闘されたのかを、私の理解の範囲で記しておきたい。
東日本大震災および福島原発事故に関連して、舩橋先生がかかわっておられたのは、以下の
ようなプロジェクトである。
1 .法政大学サステイナビリティ研究機構 5)の機構長として(2009 年 8 月から 2013 年 3 月
末)およびそれを引き継いだ法政大学サステイナビリティ研究所 6)
(2013 年 7 月から)の
リーダー(副所長)として。「サステイナビリティ研究機構の閉鎖にあたって」には、その成
果が次のように記されている(2013 年 3 月 31 日付け)5)。
68
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
日本で初めての「環境アーカイブズ」の形成、32 回にわたる「サス研フォーラム」の連続
的開催、「サス研ブックス」翻訳書シリーズの四冊の企画刊行、二回にわたる国際シンポジウ
ムの開催(2011 年、2012 年)
、東日本大震災に対する復興支援のための震災タスクフォー
スの諸活動、その一環としての陸前高田市の議会文書の修復、これらの活動に立脚した三冊
の研究書の公刊、『原子力総合年表』の公刊準備、世界で初めての試みである英文の『世界環
境年表』(A World Environmental Chronology)の公刊準備、国連大学 ProSPER.Net の企
画であるサマースクールの運営担当(2011 年夏)、国際有機農業映画祭(2012 年)など、
きわめて多彩かつ積極的に各種の取り組みを行ってきた。
2 .2014 年 7 月開催の世界社会学会議横浜大会関連のお仕事がある。舩橋先生は 2003 〜 06
年、09 〜 12 年の日本社会学会理事として、世界社会学会議の日本招致を積極的に推進され、
世界社会学会議組織委員会評議員のお一人として、「オリンピックと同様 50 年に 1 回の大会
なんだから」と組織委員長の私をいつも鼓舞してくださった。このうち『原子力総合年表』
と英文の『世界環境年表』は、2014 年 7 月開催の世界社会学会議横浜大会目前に刊行され
た。『世界環境年表』の作成にはとりわけご苦労が多かった 7)。
日本の社会学がその実力ほどには国際的に評価されていない、英語で発表されたものが少
ないために、業績がそれほど世界に知られていない、その状況を何とか打ち破らねばならな
いというのは、舩橋先生が若い時から、いつも口癖のようにおっしゃっていたことだった。
法政大学サステイナビリティ研究所と環境社会学会、ISA(国際社会学会)の研究分科会
「環境と社会」(RC24)は共催で、7 月 12 日と 13 日にパシフィコ横浜で、Pre-Congress
Conference “Sustainability and Environmental Sociology” を開催した。日英の同時通訳
付きで、約 250 名の参加があり大成功だった。費用の大半を負担してくださったのは、法政
大学サステイナビリティ研究所である。世界社会学会議横浜大会には、計 55 の研究分科会
と 4 ワーキング・グループ、4 テーマティック・グループが参加したが、2 日間にわたる
Pre-Congress を開催したのは RC24 のみである。横浜大会の分科会別登録参加者数で、
RC24 は 264 名で第 4 位だった。舩橋先生の情熱と行動力とリーダーシップが可能にした
Pre-Congress の成功だった。
大会期間中も、法政大学社会学部とサステイナビリティ研究所が共同で出展されたブース
で、自ら Pre-Congress のプロシーディングなどの資料を展示され、説明にあたられていた。
3 .原子力市民委員会座長としてのお仕事。福島原発事故に研究者としてどう向き合うのか、
この真摯な問いに、最も誠実に答え行動したお一人が舩橋先生だった。
福島原発事故後、被災地対策・被災者支援をどうすべきか、日本の原子力政策の転換をい
かに図るのかが大きな課題となったが、高木仁三郎市民科学基金が中心となって、政府側の
原子力委員会に対抗する「原子力市民委員会」が 2013 年 4 月から発足することになり、舩
橋先生が座長に就任された 8)。この委員会は、「東電福島第一原発事故の被災地対策・被災者
支援をどうするか」「使用済核燃料、核廃棄物の管理・処分をどうするか」「原発ゼロ社会構
築への具体的な行程をどうするか」「脱原発を前提とした原子力規制をどうするか」の 4 つ
を課題として、原子力政策に批判的な被災者・市民・NGO・技術者・研究者・弁護士などを
網羅した委員会であり、原子力政策の抜本的な転換のための「公論形成」をめざした委員会
である。発足半年後の 2013 年 10 月には『原発ゼロ社会への道——新しい公論形成のための
中間報告』を、1 年後の 14 年 4 月には『原発ゼロ社会への道——市民がつくる脱原子力政
策大綱』を刊行された。個性派揃いの脱原発運動の猛者たちを糾合し、市民サイドから包括
的で対抗的な政策提案を、短期間でまとめられたのは特筆すべきことである。舩橋先生は、
この委員会の文字どおりの顔として、報告書の取りまとめをリードするとともに、全国各地
で開催された市民との意見交換会にも積極的に参加された。メディアにも頻繁に登場され、
6. 学会における追悼文
69
2014 年 4 月には、「原子力の平和利用における協定のための日本国政府とアラブ首長国連邦
政府との間の協定について」の参考人として、参院でも原発輸出に批判的な意見を述べてい
る 9)。
4 .日本学術会議社会学委員会東日本大震災の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科会座
長として、「原発災害からの回復と復興のために必要な課題と取り組み態勢についての提言」
(2013 年 6 月 27 日)「東日本大震災からの復興政策の改善についての提言」
(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-t200-1.pdf)
などの取りまとめに尽力された 10)。詳細は、本報告書所収の山下祐介氏の原稿を参照されたい。
5 .日本学術会議高レベル放射性廃棄物の処分に関する検討委員会(以下検討委員会と略記)
および同フォローアップ検討委員会(以下フォローアップ委員会と略記)でのお仕事である。
検討委員会は、原子力委員会からの審議依頼を受け、震災前の 2010 年 11 月に発足した。委
員長は今田高俊氏であり、舩橋先生は幹事だった。舩橋先生に誘われ、第 3 回の委員会から
私も委員として参加した。16 人の委員のうち、3 人が社会学者だった。
高レベル放射性廃棄物に関する政府の方針は地下 300m 以上の深さに埋設するというもの
だが、立候補する市町村がなく行き詰まっていた。どうすれば国民の納得を得られるのか、
情報提供をいかにすべきか、原子力委員会は日本学術会議に助言を求めた。舩橋先生の当初
からの企図は、「「なぜ、高レベル放射性廃棄物問題については、社会的合意形成が困難なの
か」という根本から、問題を論じたい」「「リスクコミュニケーション」手法の洗練というレ
ベルで論ずるべきではなく、エネルギー政策、原子力政策の見直しが必要というレベルで論
じたい」ということだった。原発政策に批判的な立場の人々は、処分場の建設によって原発
増設が野放図に拡大することを怖れていた。社会的な合意を形成するためには、放射性廃棄
物の総量管理、放射性廃棄物の上限を設定することが不可欠だというのが、舩橋先生のアイ
デアだった。
さまざまな立場の委員から構成されていたが、福島第一原発事故が結果的に後押しをする
ことにもなり、舩橋先生が当初から展望していたような構図での回答ができあがった。「本提
言は、原子力発電をめぐる大局的政策についての合意形成に十分取組まないまま高レベル放
射性廃棄物の最終処分地の選定という個別的課題について合意形成を求めるのは、手続き的
に逆転しており手順として適切でない、という判断に立脚している」。「従来の政策枠組みを
いったん白紙に戻すくらいの覚悟を持って、見直しをすることが必要である」(p.iii)。地震
が多発し、地層の安定性や地下水の影響などが不安視される日本で、いきなり地層処分する
のは無責任であり、当面は暫定保管するしかないという手厳しい回答が 2012 年 9 月に発表
され 11)、画期的な提言として、原子力政策に批判的な人々からも高い評価が得られ、社会的
にも大きな反響を得た。
2012 年の回答をふまえて、2013 年 5 月からフォローアップ委員会が設置され、社会的合
意形成のためにさらに具体的な検討がなされた。舩橋先生は技術分科会と社会分科会の橋渡
しに努力され、社会分科会の報告 12)の取りまとめにあたられた。報告がまもなく完成する矢
先の急逝だった。
この 2 つの委員会を通じて、舩橋先生は、中途半端に妥協することなく、考え方や立場を
異にする委員をも粘り強く論理的に説き聞かせるというスタイルで一貫されていた。舩橋先生
にとって、高レベル放射性廃棄物問題に関する「公論形成」の真摯な実践が両委員会だった。
6 .日本社会学会の震災情報連絡会をはじめとした震災関連の社会学者の研究を「横につなぐ」
活動がある。舩橋先生は、震災発生当時、日本社会学会の研究活動委員会委員長だったが、
率先して、社会学を中心とした大震災関連の研究を横につなぐプラットホームづくりを呼び
70
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
かけられた。田中重好・正村俊之氏とともに『東日本大震災と社会学——大震災を生み出し
た社会』(2013 年、ミネルヴァ書房)を刊行され、引き続き、田中氏との監修によるシリー
ズ「被災地から未来を考える」全 3 巻(有斐閣)を企画された。第 1 巻『原発震災と避難——
原子力政策の転換は可能か』の終章として「新しい社会へ——脱原子力と被災地再建」を執
筆される予定だった。
このタイトルが示すように、東日本大震災と福島原発事故を、日本社会の転換点とすべく
闘っておられた。その闘い半ばで急逝されたことほど、口惜しく残念なことはない。
このように整理してみると、東日本大震災と福島原発事故を契機に、先生が自ら引き受けら
れた課題の大きさと重さがあらためて確認できる。しかも決して孤軍奮闘されたのではない。
先生は卓越した組織者であり、これらの課題それぞれに最適のチームづくりに努められ取り組
まれた。他人任せにすることなく、それぞれの課題に率先して垂範された。
私たちに課せられた責務は、先生の遺志を引き継ぎ、闘い続けることである。先生の眼光を
思い浮かべながら、自戒を込めて、いつまでも倦むことなく銘記したい。
「君は闘っているか」。
合掌。
注
1 )宮本憲一「君は、闘っているか — 人権の護民官、田尻宗昭氏を悼む」『公害研究』第 20 巻 2 号,
1990: 1)。
2 )総合資源エネルギー調査会電力・ガス事業分科会原子力小委員会放射性廃棄物WG「放射性廃棄物
WG 中間とりまとめ」
(2014 年 5 月)(2015 年 2 月 20 日取得,http://www.meti.go.jp/committee/
sougouenergy/denryoku_gas/genshiryoku/houshasei_haikibutsu_wg/report_001.pdf)
3 )長谷川公一「意志の人」『環境社会学会ニューズレター』No.60(2014 年 11 月)(2015 年 2 月 20
日取得,http://www.jaes.jp/wp-content/uploads/2014/11/5a014edf311efb5f59aba476e52a4be5.
pdf)
4 )長谷川公一「雷鳴が遠ざかる」『ソキエタス』第 34 号(2015)
(2015 年 2 月 20 日取得 ,http://www.sal.tohoku.ac.jp/~hasegawa/soc15Funabashi.html)
5 )舩橋晴俊「法政大学サステイナビリティ研究教育機構閉鎖にあたって」(2015 年 2 月 20 日取得,
http://www.susken.hosei.ac.jp/)
6 )舩橋晴俊「サステイナビリティ研究の方針」(2015 年 2 月 20 日取得,http://www.sustenaken.
hosei.ac.jp/)
7 )舩橋晴俊「刊行にあたって」(2015 年 2 月 20 日取得,http://www.kyokuto-bk.co.jp/detailpdf/
1003702A.pdf)および堀川三郎「舩橋晴俊先生と世界社会学会議横浜大会」(伊藤公雄編,2015,『日
(2010 − 2014 年度「日
本の社会学の国際化加速に向けて—2014 年世界社会学会議横浜大会の経験』
本における社会学教育・研究の国際化の加速をめざす総合的研究」研究成果報告書(基盤研究 A・課題
番号 22243038),pp.106-7,京都大学)
8 )細川弘明「『原発ゼロ社会への道』をともに普請して」を参照(『環境社会学会ニューズレター』No.60
(2014 年 11 月)2015 年 2 月 20 日取得,http://www.jaes.jp/wp-content/uploads/2014/11/5a014e
df311efb5f59aba476e52a4be5.pdf)
9 )参議院会議録情報第 186 国会外交防衛委員会第 11 号(2014 年 4 月 25 日)(2015 年 2 月 20 日取
得,http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/186/0059/18604150059011a.html)
10)日本学術会議 社会学委員会東日本大震災の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科会「原発災害
からの回復と復興のために必要な課題と取り組み態勢についての提言」(2013 年 6 月 27 日)(2015 年
2 月 20 日取得,http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-t174-1.pdf)。同,2014,
「東日本
大震災からの復興政策の改善についての提言」(2014 年 9 月 25 日)
6. 学会における追悼文
71
(2015 年 2 月 20 日 http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-t200-1.pdf)
11)日本学術会議「回答 高レベル放射性廃棄物の処分について」(2012 年 9 月 11 日)(2015 年 2 月
20 日取得,http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-k159-1.pdf)
12)日本学術会議 高レベル放射性廃棄物の処分に関するフォローアップ検討委員会 暫定保管と社会的合
意形成に関する分科会「報告 高レベル放射性廃棄物問題への社会的対処の前進のために」(2014 年 9
月 19 日)(2015 年 2 月 20 日取得,http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-h140919-1.
pdf)
(東北大学)
出典:
『災後の社会学』No.3, 2015.3.31(科学研究費補助金(基盤研究 A)「東日本大震災と日本社会の
再建-地震,津波,原発震災の被害とその克服の道」2014 年度報告書)
72
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
舩橋先生が戦い、育てたもの
山下 祐介
あの日、8 月 15 日の昼の 12 時過ぎに、舩橋先生からのメールの着信を確認した。日本学術
会議社会学委員会に設置された震災再建分科会でとりまとめ中の提言「東日本大震災からの復
興政策の改善についての提言」について、幹事会への説明の日取りが決まったので、自分とと
もに出席をよろしくという内容のものだった。この提言は、本分科会では 2 度目のもので、第
1 提言は 2013 年 6 月に乃木坂の学術会議でメディア向けの発表もしていたから、この新しい
提言についても舩橋先生は「出来上がったら大きく発表しよう」とその公表にむけて大いに積
極的で、幹事会を通ればさらに記者レクを行う心づもりだった。
この提言は—第 1 提言もだが—最初に山下が下案を書いたあと、舩橋先生が付け加えつ
つ、問題のある箇所を順次改訂されており、とくに査読の過程の細かなやりとりには非常にご
苦労なされたようである。他方で、「自分は内容には手を抜かない」と、『社会学評論』の震災
特集などの原発避難関連の論文の内容を誇らしげに語っておられたのも印象的で、この提言も
同じやり方が踏襲されていた。
そんな中で少し心配に思ったのは、一度、乃木坂に呼ばれながら、先生に約束をすっぽかさ
れてしまった時である。先生が所属する別の学術会議の分科会の終了後に修正箇所の相談をす
るはずだったのに、時間になっても先生は現れず、これは大丈夫かなと思ったものだが、その
後、JR 横浜線の橋本駅であらためて落ち合ったときには、
「つい記者たちと議論して夢中になっ
てしまってねぇ」などと、屈託のないいつもの笑顔でお話しされていたのもまた先生らしい姿
だった。もっとも、お会いするのがそれが最後になるとは思わなかったけれど。
8 月 15 日はメールを確認したあと、昼食を取って、14 時頃だったと思う、佐藤彰彦先生か
ら連絡が入り、舩橋先生が亡くなられたという。でも数時間前に当人からメールを受け取った
ばかりである。「それは間違いでしょう」「そうですよね」などと、佐藤先生と電話で話し、訃
報を信じてはいなかった。あとで知ったのだが、亡くなられたのはその日の早朝。私にメール
が届いたのは亡くなった数時間後のようである。
なぜそんなにメールが遅れたのかはわからない。ただたしかなことは、先生は亡くなったあ
とも、仕事のこと、原発事故のこと、被害者のことを本当に気にかけておられたということだ。
だからだろう、私もちゃんとお別れをしたにもかかわらず、いまだに「やあ、次はね」といっ
てそこに現れるような気がしてならないのである。そして少なくとも、そんなふうにしてまた
お会いできたら、無事に提言を完成し、学術会議の幹事会でも高い評価をえたことを、分科会
副委員長の吉原直樹先生とともに語り合いたいと思う。
先生は 3・11 の震災後、まさに社会学界を背負って陣頭指揮をなさっておられた。さらには
市民活動の急先鋒として、原子力市民委員会の座長でもあった。まさにこの東京電力福島第一
原発事故に対し、研究者として一番前で戦っておられた。それも、富岡町の市村高志さんに
6. 学会における追悼文
73
「運動とはね」と何度も力説され、ご自身の市民活動の経験を語っておられたように、つねに弱
い立場にいる人と同じ目線で科学や政策を論じ、批判できる研究者だった。今のこの国にとっ
て、もっとも必要な科学研究のあり方を実践されていた方だったと思う。
日本社会学会では震災時、ちょうど研究活動委員長をなさっており——「これも運命かな」
と先生もおっしゃっていた——すでにプログラムの決まっていた中に、新たに震災特別セッ
ションを設けられ、社会学会として震災に取り組むことをまず最初に明確にされた。このセッ
ションはのちに先生の手で『東日本大震災と社会学』にまとめられている。
さらに被災地に関わる社会学研究者の連携を図るために震災情報連絡会を設けられ、そこか
ら 4 学会の情報交流会が広がって、これらの議論が科研総合Aの研究にも発展していくことに
なる。そして『社会学評論』255 号の特集を経て、この提言を発表したのちには、有斐閣から
新たな震災シリーズを編集・刊行される予定だった。しかもその横で、原子力市民委員会の一
連の仕事もなさっていたのである。
先生が亡くなられたのちも、先生の蒔かれた種が育っている。先生が提言の中でこだわって
おられた原発事故被害者の救済をめぐる住民票の二重登録の議論から社会学と行政学との関係
が広がることになり、先生が提案されて設立された避難自治体問題の研究会がいま、富岡町の
復興計画の見直しに深く関わっている。先生が先鞭をつけられた道は、着実に関係者に浸透し、
つながりを作り、これから、決して政府も無視できないような市民の力に育っていくに違いな
い。
とともに、先生が先導されていた道が、きわめて厳しく、いかに見通しのない過酷なもので
あったか、先生がいなくなってはじめて愚かな私にも分かってきた。先生は正攻法で、あまり
にも正攻法で戦いに挑まれた。先生を失って、この先私たちにどのようなやり方が残されてい
るのか、正直いって分からない。とはいえ先生が焚きつけた火は、おそらく原子力という領域
を超え、この国の根幹にも届くべきものだし、そうなるはずだという確信もある。そしてそう
なるよう、私たちもあらためて新たな戦略を練り、挑んでみる必要がありそうだ。
先生をお見送りした数日後、大磯の町をはじめて訪ねた。海の前の、小さいけれども歴史文
化の豊かな町。こうした町からこの国の中枢に通い、「間違いは間違いだ」「曲がったことは曲
がったことだ」と示し続けた先生の御遺志は必ず通ずることと思う。ともあれ先生、そろそろ
ゆっくりなさってください。そしてこの先は、しっかりと私たちを見守っていてください。
(首都大学東京)
出典:
『災後の社会学』No.3, 2015.3.31(科学研究費補助金(基盤研究 A)「東日本大震災と日本社会の
再建-地震,津波,原発震災の被害とその克服の道」2014 年度報告書)
74
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
2000 年代の舩橋晴俊先生
大門 信也
1.舩橋先生との出会い
私が舩橋晴俊先生からご指導を賜っていたのは、主に法政大学大学院社会学研究科政策科学
専攻(入学当時)の博士後期課程に在籍した 2002 年の 4 月から 2008 年 3 月までである。も
ちろんその後も、折にふれご指導を頂いていた。周知のとおり、3.11 以降の舩橋先生は、大学
や学会でのご活躍はもちろん、原子力市民委員会や日本学術会議といった様々な組織で精力的
に活躍された。これに対して、私がより近くで接していたのは、3.11 前の約 10 年間というこ
とになる。そこで私が見てきたのは、多忙を極めながらも研究、教育ともに大変充実し、それ
がいよいよひとつの完成の域に達しようという舩橋先生の姿であった。
先生との最初の出会いの場は、私が福島大学大学院地域政策研究科の修士課程に所属してい
た頃に参加した、気仙沼でのエクスカーション付の環境社会学会大会である。そこで、現地の
方のお話しを聴きながら短い鉛筆を使い大学ノートに熱心に書き込む姿、その後のミニシンポ
ジウムであの独特の用語群をちりばめた、しかし簡潔で非常にクリアに頭に入ってくるコメン
ト、そして学会恒例の「朝まで討論会」で朝 3 時まで若手、中堅研究者につきあって議論を楽
しむ姿、その全てが印象的であった。なお、その出会いの日とは、2001 年 11 月 3 日、飯島伸
子先生が急逝されたその日でもある。
2.たゆまぬ研究教育活動、規範理論への関心
私の大学院在籍中に、舩橋先生は、学部長や日本社会学会の研究活動委員長など、常に何か
しら学内学外の要職に就かれていた。しかし「研究と教育を重ねる」という先生のモットーは
ゆらぐ事なく、学部生と院生はつねに密度の濃い指導を受け、何より毎夏の学部生を組織して
行われる青森県六ケ所村での調査合宿は途切れることなく続けられていた。その成果は、震災
後、学部時代から合宿に参加し重要な役割を担ってきた茅野恒秀さんとともに編んだ『「むつ小
川原開発・核燃料サイクル施設問題」研究資料集』(舩橋ほか 2013)へと結実している。
他方で、私が舩橋先生の博士課程ゼミに参加するようになった時期は、舩橋先生が 1990 年
代に兄弟子たちと取り組んできた整備新幹線研究をつうじて、公共圏およびアリーナ論を世に
問われた直後であった(舩橋ほか 2001)。また当時、公共圏関連の文献と同時に読み進められ
ていたのは、J. ロールズ『正義論』の原著であった。ただしこの時期、すでにその講読作業は
佳境に入っており、私は(一般にあまり参照される事のない)第 3 部の一部分の担当であった
ことを覚えている。ロールズの魅力的な問題提起に刺激を受ける形で、舩橋先生および幾人か
の院生たちの関心は、「正義論」を嚆矢とする現代正義論関連の文献の読み込み、社会学におけ
る規範理論の探究へと進んでいった。例えばそれは、湯浅陽一さんのご著作(湯浅 2005)や、
その後、私も参加した論集(舩橋・壽福 2009)等へと結実していった。
6. 学会における追悼文
75
また私にとっては、この時期の科学社会学的な議論も忘れられない。2000 年代の中盤、舩
橋先生は、熊本水俣病事件を主たる事例としながら「科学(者)」を公共圏論の中に位置づける
作業をされている(舩橋 2006a, 2008)。これらの議論は、震災後の学術会議での実践的な議
論に反映されていくこととなった。
3.基礎理論の練り上げ
3-1 『社会制御過程の社会学』の執筆
様々な役職とたゆまぬ研究教育で多忙を極めるなか、執筆が続けられながらも未完に終わっ
てしまったのが、
『社会制御過程の社会学』である。この自著の構想は、私が大学院に所属する
前から、折にふれゼミの学生や院生に示されていたという。この執筆過程において浮上してき
た課題と考えられるが、2000 年代の後半に入っていくと、環境社会学でとくに知られている
環境制御システム論、社会的ジレンマ論、そしてアリーナ論といった中範囲の理論ではなく、
それらに共通の説明基盤を与える「基礎理論」に関する思索が舩橋先生のなかで増えていった
ように思われる。2010 年には、自著構想のうち、その理論編である『組織の存立構造と両義
性論』(舩橋 2010)が先行的に出版されているが、そのなかで「協働連関の両義性論」(第 2
章)が初出論文よりも大幅に加筆されているのは、こうした思索の成果である。
社会学評論の特集およびそこに寄せられた「「理論形成はいかにして可能か」を問う視点」
(舩橋 2006b)も、そのような知的営為のなかで、あらためて自らの理論観を示されたもので
ある。それは 1980 年代初頭に提起された「社会学理論の三水準」論(舩橋 1982)をその基本
線において継承するものであった。そしてこれらは、前述の舩橋(2010)にそのままの形で再
録されている。
3-2 社会学発展の長期的戦略としての「社会学理論の三水準」論
舩橋先生は、社会学発展の長期的戦略として、抽象性から具体性への水準の違いに応じて、
社会学理論を「原理論」、「基礎理論」、「中範囲の理論」に分節し、これらを重層的に探究する
ことを提案されていた。議論の概略は以下のとおりである。
原理論とは「社会学的探究の出発点を基礎づけようとし、社会把握の根本的な視座群を確立
しようとする」(舩橋 2010: 154)理論であり、哲学的思索とも強い接点を有する。基礎理論
とは、原理論から析出される諸論点を「より具体的な水準において捉えるような基本的な概念
枠組を体系的に展開する」(舩橋 2010: 155)理論であり、同時に、様々な中範囲の理論を相
互に関連づけ、それらの広い意味での「統合の基盤」(舩橋 2010: 177)を提供する。つまり
基礎理論は、原理論と中範囲の理論とを「架橋する水準に位置する」(舩橋 2010: 157)。最後
に、中範囲の理論は、「社会現象の極限された側面の示す法則性を経験的データに接続する形
で、記述し説明するような一連の命題群を構築する」(舩橋 2010: 159)理論である。これら 3
つは、それぞれの理論の持つ限界や可能性を相互に補い合う関係にある(舩橋 2010: 161-
168)。
この社会学理論の三水準論の特徴は、ただ社会学理論とは何かを整理しただけではなく、社
会学者たちが互いの位置や役割を確認し合いながら、社会学の発展にむけて協働していくため
の長期的な活動方針を提案している点にある。いかにも理想主義的でありかつ実務的でもあっ
た舩橋先生らしい議論といえる。また内容面で特徴的なのは、具体から抽象へと幅広く膨大な
社会学の理論空間に、基礎理論という中間的な領域を設定している点であろう。抽象的かつ基
底的な説明原理(例えば原理論)と、特定の社会現象に限定して適用される命題群(例えば中
範囲の理論)とを、無媒介に接続しようとすると、諸命題の強引な一般化か、あるいはそれを
避けようとするあまり諸理論の無関係な併存を帰結してしまう恐れがある。実際、現在の社会
学理論は後者の状況にあるといえよう。この問題に対して舩橋先生は、基礎理論群を仲立ちと
することで、多様な理論形成努力を活かしながら、ゆるやかな統合と発展への道を歩むことが、
76
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
社会学にとって有益な戦略だと主張されたのである。
実際に舩橋先生は、1970 年代後半に「組織の存立構造論」を原理論として確立し、1980 年
代から 1990 年代にかけて環境問題を対象領域とした中範囲の理論群を提起してきたが、基礎
理論としての「協働連関の両義性論」の検討作業は、まさにその中間にあって常に両者をゆる
やかに繋いでいた。この基礎理論としての「協働連関の両義性論」をめぐる舩橋先生の思索は、
2000 年末からグラウンデッドセオリーアプローチでいうところの「理論的飽和」を迎えつつ
あり、2010 年代に入ると、いよいよそのブラッシュアップを行うところまで来ていたのでは
ないかと考えられる。
4.研究をつうじた市民社会への貢献
以上、2000 年代の理論面での成果について言及してきたが、この間ももちろん舩橋先生は、
社会学がいかに社会問題の解決に実践的に役に立つかを考え、それをより高い次元で実現する
ために力を尽くされていた。私が在籍した法政大学大学院の政策科学専攻も、実践的な政策科
学としての社会学の発展を目指して、舩橋先生もその立ち上げと運営に尽力されていた。さら
に 2009 年から 3 年半の間、舩橋先生が機構長としてその運営に膨大な力を投入された「法政
大学サステイナビリティ研究教育機構」は、市民的実践と学問的営為をより意味のある形で連
動させるための拠点として位置づけられていた。
東日本大震災は、そのような舩橋先生を、より具体的でより広範な実践へと駆り立てること
になった。特筆すべきは、様々な組織で座長や取りまとめ役をこなしながらも、原発災害によ
る生活破壊の構造を社会調査にもとづいて明らかにし、その対策を提案するなど、一研究者と
しての成果を世に問い続けた点であろう(舩橋 2014a, 2014b, 2014c)。2014 年の春のこと、
ある研究会で再生可能エネルギー事業に取り組む市民組織のリーダーが初めて舩橋先生の研究
報告を聴き、全体が見通せない非常に錯綜した現状をここまで明晰に描き切ることができるの
かと、感激されていたことを思い出す。まさに「現実が透明になる」(舩橋 2010: 234)よう
な知を、舩橋先生は最後の最後まで生み出し続けたのである。
いつか、諸々の激務から解放され、またご自身の研究にも区切りをつけられ、ひと息つかれ
るような日が来たら、お好きであった音楽のお話しなどもゆっくりとさせて頂きたかった。実
はずいぶん前から、私は心密かに舩橋先生の原理論とも関連づけた音楽談義のテーマを練って
いたのである。生前のお仕事ぶりからすると、はたしてそのような日が来たかどうかわからな
い。しかし今は、そのような夢をみることすら叶わなくなってしまった。
先生のご冥福を心からお祈りいたします。
舩橋晴俊,1982,「社会学理論の三水準」『社会学労働研究』28(3,4): 139-177.(再録 :
2010,『組織の存立構造論と協働連関の両義性論——社会学理論の重層的探究』東信堂 :
149-191).
————,2006a,「水俣病問題は保健医療社会学にどのような問いを提起しているのか : 支配
システム論と科学技術社会学の視点から」『保健医療社会学論集』16(2): 16-27.
————,2006b,「「理論形成はいかにして可能か」を問う視点」
『社会学評論』57(1): 4-23.
(再録 : 2010,『組織の存立構造論と協働連関の両義性論——社会学理論の重層的探究』東信
堂 : 192-223).
————,2008,「科学と社会 公共圏と科学の自律性」『学術の動向』13(1),77-79.
————,2010,『組織の存立構造論と協働連関の両義性論——社会学理論の重層的探究』東
信堂 .
舩橋晴俊,2014a,「「生活環境の破壊」としての原発震災と地域再生のための「第三の道」」
『環境と公害』43(3): 62-67.
舩橋晴俊,2014b,「原発震災の被害構造と生活再建・地域再生のための「第三の道」」『東日本
6. 学会における追悼文
77
大震災の被災地再生をめぐる諸問題』法政大学サステイナビリティ研究所 : 1-19.
舩橋晴俊,2014c,「震災復興問題における取り組み態勢の問題点——理論概念の構築を目指して」
『東日本大震災の被災地再生をめぐる諸問題』法政大学サステイナビリティ研究所 : 21-35.
舩橋晴俊・茅野恒秀・金山行孝,2013,『「むつ小川原開発・核燃料サイクル施設問題」研究資
料集』東信堂 .
舩橋晴俊・角一典・湯浅陽一・水澤弘光,2001,『「政府の失敗」の社会学——整備新幹線建設
と旧国鉄長期債務問題』ハーベスト社 .
舩橋晴俊・壽福眞美編著,2012,『規範理論の探究と公共圏の可能性』法政大学出版局 .
湯浅陽一,2005,『政策公共圏と負担の社会学——ごみ処理、債務、新幹線建設を素材として』
新評論 .
(関西大学社会学部)
出典:
『災後の社会学』No.3,2015.3.31(科学研究費補助金(基盤研究 A)「東日本大震災と日本社会の
再建-地震,津波,原発震災の被害とその克服の道」2014 年度報告書)
78
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
舩橋晴俊先生と世界社会学会議横浜大会
堀川 三郎
世界社会学会議の日本招致は、日本社会学会のみならず、故・舩橋晴俊先生にとっても同様
に「悲願」であったように思う。日本社会学会にとってなぜ悲願であったのかについては、他
の方々の回顧に明らかだろう。では、舩橋先生にとってはなぜだったのか。職場の同僚として、
素描しておきたいと思う。
日ごろから先生は、「理論研究と称するもので、実際に理論構築をしているものは極めて少な
い。理論家研究と理論構築とを混同しているからだ」と仰っておられた。高名な理論家の著作
を読み、解釈すること自体は理論構築ではなく、現実の問題を実地で調べ、そのデータを適切
に表現する言葉や説明枠組みを創り上げることこそ、理論構築なのだ、と。先生は実際にそれ
を実践されていた。名古屋新幹線公害や新潟水俣病、熊本水俣病、六ケ所村など、枚挙に暇が
ないほど、先生はフィールドワーカーとして精力的に歩き回り、そこから確かな理論言語を産
み出されていかれた。先生は有言実行の人であった。
だからこそ舩橋先生は、日本の社会学が置かれた状況を不甲斐ないと思っていらした。日本
の現実から産み出されてきた理論が、日本語という言語的障壁によって、世界に知られていな
いからだ。2008 年から定期的に開催している東アジアの四つの国と地域の環境社会学国際シ
ンポジウムでは、折りに触れて先生の思いをうかがう機会があったが、その時に先生が必ず言
及されていたのが、この障壁であった。2008 年の東京大会での懇親会席上で、2009 年の台湾
大会時の休憩時間に、2011 年の韓国大会のセッションの席上で、そして 2013 年の南京大会で
は深夜のホテルの一室で、先生が飽くことなく語っておられたのは、日本の環境社会学の先進
性と、それが世界に知られていないことの無念であったように思う。東アジアの原発政策を見
ると、日本のそれに倣っている点が非常に多い。日本の政策はだから、東アジア、ひいては世
界に対してとてつもなく大きな責任を負っているのだ、だからそれを精緻に分析し、世界が理
解できる言語で表現していかねばいけないのだ——先生はいつも冷静に、しかし情熱的に、こ
う語られていた。
以上の背景を理解すれば、舩橋先生がなされた最晩年のお仕事は、極めて整合的に理解でき
よう。
『環境総合年表』(すいれん舎、2010 年)と『原子力総合年表』(すいれん舎、2014 年)
を刊行しただけではなく、世界初の英語による環境総合年表となった A General World
Environmental Chronology(Suirensha, 2014)を刊行されたのは、まさに言語の壁を越えて
いこうとする先生の姿勢そのものである。本務校である法政大学に「サステイナビリティ研究
所」を創設されたり、貴重な調査資料を収める「環境アーカイブス」を設置されたのも、市民
社会側からの対抗的政策提言を可能とする知的基盤づくりが不可欠であるとの確信からだった
ろう。アーカイブスから年表が産み出され、その年表をもとに環境問題の構造と解決へのス
テップを議論し、それを英語で発信していくことが、当然に予定されていた。舩橋先生にとっ
6. 学会における追悼文
79
て世界社会学会議招致が悲願だったのは、大会がこうした先生の構想の一つの要であったから
のように思われる。先生は世界社会学会議本体の会議だけでは飽き足らず、そのプレイベント
として、Pre-Congress Conference “Sustainability and Environmental Sociology” も開催さ
れた。先生が主宰する法政大学サステイナビリティ研究所が中心的役割を果たしたが、先生は
いつも先頭を切って雑務もこなされた。資金難の中での取り組みには、鬼気迫るものがあった
が、大成功に終わった Pre-Congress Conference の一ヶ月後、先生があっという間に逝かれて
しまったことを思う時、あの時に先生のご負担を軽くするよう、もっと私自身が動けなかった
のかと、今も自問自答する。250 名もの聴衆が、みっちりと 2 日間も議論を尽くしたあの PreCongress Conference の大成功は、身を削るような先生のお働きがあったからこそのもので
あった。
あの時、先生は確かに世界を視野に、なすべきことは何かを見定め、それを成し遂げようと
されていた。崇高な目的のためには、我が身にむち打ってでも邁進し、怠けることは罪である
とでも言わんばかりの厳しさだった。ある時、先生が米国 Bose 社の最新式ノイズキャンセリ
ング・ヘッドフォーンをカバンにいれているところを拝見し、私は「先生、最新式ですね」と
コメントした。我ながらなんともくだらないコメントだが、先生は大まじめに答えて言われた。
「日本の研究成果を世界に伝えるため、語学をやらねばいけないので、電車内は語学練習時間と
決めているのです、東アジアの研究者達と実質的な研究交流をするために、今は中国語のテー
プも聴いているのです、ノイズキャンセリング機能があるので電車内でもよく聞こえます‥‥」。
先生特有の誠実なお答えを思い出す今、先生にとって、自らの理論を世界に届けることが悲願
であったと思わずにはいられない。それは決して個人的名声のためではなく、東アジアの原発
政策の転換をもたらすために、どうしても福島事故の現実を伝え、日本の環境社会学者の理論
を世界に届けるのだという固い意思からくるものであった。世界社会学会議横浜大会の最中に
コーヒーをご一緒した際、「自分の本を英訳して出版したいのだが、なかなか訳文をチェックす
る時間がとれない」と仰っておられた。ご自分よりも日本の社会学が為すべき課題を優先され
ていた先生の主著は未完のまま残されてしまった。日本の社会学が失ったものの大きさに、私
は今だに悄然と立ち尽くしている。
(法政大学)
出典:伊藤公雄編(2015)『日本の社会学の国際化加速に向けて:2014 年世界社会学会議横浜大会の経
験』(2010 − 2014 年度「日本における社会学教育・研究の国際化の加速をめざす総合的研究」研
究成果報告書〔基盤研究 A・課題番号 22243038〕,京都大学)pp.106-107.
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
Sharing Condolences:
Letters in Remembrance of Professor
Harutoshi Funabashi
Saburo Horikawa
Hosei University, Japan
After the passing of Professor Harutoshi Funabashi on Aug. 15, 2014, I received many
condolence letters from participants of the Pre-Congress last July 12-13 in Yokohama. I
would like to share some of these letters and the memories of him with you.
Prof. Riley E. Dunlap(Oklahoma State University, U.S.A.)
Like the others, I'm shocked and deeply saddened. Funabashi was a very good human
being, and had so much more to do, so this is a tragedy. I'm so happy he(and the rest of
you)managed to complete the Chronology that meant so much to him and the JAES.
I will always remember him for graciously serving as discussant for my presentation
during my first visit to Japan back in 1991, where his good nature was so apparent.
And we will all remember him for his role in organizing such a successful pre-congress
symposium last month.
Please pass our good wishes and deepest sympathy to his family. And to you and his
other colleagues, we wish you the best during this terrible time.
Riley
Prof. Raymond Murphy(University of Ottawa, Canada)
That's terrible, shocking news. He seemed so vigorous at the conference and worked
hard to make it a great conference. Its success was in large part due to his efforts(and
yours). I give you, all Japanese environmental sociologists, and his family my sincerest
condolences. We often seem to have ill fortune after our World Congresses. Four years
ago, our sustainability plenary speaker Steve Schneider, died on the plane going home
from Sweden.
My deepest sympathy to you because I know that you were particularly close to him.
Ray
Prof. Arthur P.J. Mol(Wageningen University, the Netherlands)
This is terrible, shocking and completely unexpected news! We were in the middle of
developing new plan for collaboration; he seems to be as active as ever during our
6. 学会における追悼文
81
conferences.
Harutoshi was a man full of energy and plans during the preconference and ISA
conference, but in fact for as long as I have known him. He just finished two major
works, was a key figure in the preconference organization, was heavily involved in civil
society organizations around the Fukushima disaster. He had major plans of further
internationalizing Japanese environmental sociology, of showing the world what
Japanese environmental sociology has to offer and why nuclear energy was a dead end
technology that has to be replaced for renewables, the sooner the better. He not just
studied that academically but also served among groups of victims of the Fukushima
disaster and civil society organizations collecting evidence and pressuring the
government to ban this technology.
Above all he was an extremely kind colleague, always open, helping and teaching
young scientists, stimulating exchanges of ideas and facilitating international
collaboration. He was among the first environmental sociologists to actively participate in
RC24 and always was present during our conference. He never was there for himself but
always there to further ideas, his colleagues and the discipline. An example for all of us.
This is a most tragic loss, one which we will find hard, but have, to live with. Words fall
short to express my feelings of extreme sadness. Please pass my sincere condolences to
Harutoshi's family, his direct colleagues in his department and the entire Japanese
environmental sociology community.
Kind regards,
Arthur
Prof. Seejae Lee(the Catholic University of Korea, Korea)
Yesterday, after I received the shocking sad news from Sab, I had to take some time to
think about Prof. Funabashi. Since we met at the Preconference of ISA last month, and
had a long drinking and talking time with him afterwards, I cannot believe his passing
away.
Since I went to Japan in Summer 1974 to study at the University of Tokyo, we have
been friends exactly for 40 years. We both were born in 1948, the same year. He and his
wife Dr. Keiko Funabashi were all my classmates at the graduate school.
We have exchanged greeting cards every year and met again in 1991 at Kobe as
environmental sociologists. He was energetic in academic research, and always pursued
a theoretical frames on the basis of the extensive empirical research. I learned a lot from
him on academic attitude, not limited to specific methods.
Last year October, we invited him to Korea to give us his academic results, methods, and
information from his research on the nuclear power plant area. He poured out all he had
in his brain and gave us ample resources. We Korean research team will not forget
encounter with him.
We have collaborated with him in making his World Environmental Chronology, and
finally it was published in English last month just before the ISA Congress. His extensive
collection of the Nuclear Power Plant resources was also published at the same time. I
praised both monumental works should be counted as world heritage asset, because both
volumes will contribute to our future generation immensely. Without Harutoshi's untiring
efforts, both works could not come into reality. I was relieved that this two monumental
82
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
works become his last great job, and lifework.
From 2008, we East Asian environmental sociologists from Japan, China, Taiwan and
Korea have held a conference in every two years. In forming the exchange network, Prof.
Funabashi was one of the most important leaders who strongly promoted exchange.
Through this network, environmental sociologists in Asia could know each other,
environmental studies and environmental problems of respective countries. We will not
forget the roles he played in the network. He showed really sincere academic attitudes
and achievement that would gave enormous impacts on the development of sociological
studies of environment in Asia and world.
For last two years, he involved himself in anti-nuke movement in Japan, and led the
movement. His engagement on this movement is really impressive, since he showed
again through and sincere stance in movement. His death is really a great loss for
Japanese society that has pursued the de-nuclearization of Japanese society.
Though we are very much sad on his early death, his life had been vividly full, his life
time was so intense that he left massive achievements to us. His quality of life is really
amazing.
I am now traveling, and may not be able to attend the funeral for him, but I strongly
hope a memorial event for Harutoshi san should be planned, where I can attend.
Yours sincerely,
Seejae Lee
Professor of Sociology Emeritus
The Catholic University of Korea
Prof. Shu-Fen Kao(Fo Guang University, Taiwan)
I am really sad and in shock to hear this news yesterday from Professor Funabashi's
son. Professor Funabashi was still in great energy in Yokohama last month. In fact, we
were looking forward to having his visit to Taiwan next week to share his research with
us in The Society Risk Analysis Asia Conference. It's our great loss! Professor Funabashi
is a wonderful colleague, excellent scholar and his kindness to junior colleagues has
greatly encouraged younger scholars. I will miss him a lot.
Professor Funabashi had had a good fight to make this world a better place. May he
rest in peace and his family members be comforted.
Shu-Fen
[ISA Research Committee 24 on Environment and Society, Newsletter No.46, June 2015]
6. 学会における追悼文
83
In Memoriam: Harutoshi Funabashi
Tsunehide Chino
Shinshu University, Japan
Harutoshi Funabashi, Professor and the leader of the Institute for Sustainability
Research at Hosei University, passed away during his sleeping at his home in early
morning on August 15, 2014, due to a sudden attack of subarachnoid hemorrhage, at the
age of 66. It was just one month after our two day pre-Congress in Yokohama.
Prof. Funabashi is a sociologist who has carried out research on various topics
concerning pollution and environmental issues since late 1970s. He is one of the
founders of the Japanese Association for Environmental Sociology, established in 1992
and which boasts one of the largest associations specified environmental sociology in the
world(roughly 600 members). He started his career as a sociologist with strong
orientation of being a theoretical inventor. Later, advancing to research in social
problems, touched off by the experience of meeting ecologists while studying in France
from 1986 to 1988, he began to concentrate on research in environmental issues from
the age of about 40.
He conducted research on a wide range of environmental issues including Minamata
mercury diseases in Kumamoto and Niigata areas, noise and vibration pollution of the
bullet train and waste disposal issues. Since 1988, he had been tackling with the issue of
the nuclear fuel cycle facilities in Rokkasho Village, Aomori Prefecture, and visited the
site area every year, with his students, the late Prof. Nobuko Iijima(the first president of
the Japanese Association for Environmental Sociology)and Prof. Koichi Hasegawa(the
current president of RC24). I was one of Prof. Funabashi’ s students and have been
joined his research in Rokkasho since 2002. We conducted interviews with a large
number of people including Assembly members and administrative officers of the Aomori
Prefecture as well as residents, local activists and journalists. We had critically analyzed
the failure of political processes led to this large amount of concentration of low to high
level radioactive wastes. We published several books and papers on this subject.
His paper, “Environmental problems in postwar Japanese society”(Funabashi, 1992)
appeared in the first issue of International Journal of Japanese Sociology, the official
English journal of Japan Sociological Society. You can also read his papers in English and
grasp his theoretical perspective, “Intervention of the Environmental Control System in
the Economic System and the Environmental Cluster”(Funabashi, 2004)and “The
Duality of Social Systems and the Environmental Movement in Japan”(Funabashi,
2011).
84
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
In 2009, Hosei University founded the Institute for Sustainability Research. Prof.
Funabashi led the institute as a director, organized many research projects including
utilizing of renewable energy resources, high-level radioactive waste issues, and
analyzing the energy policy decision making process. When the 3.11 Tsunami disaster
and the Fukushima nuclear accident occurred in 2011, immediately he took leadership
and organized several research groups in the Science Council of Japan and the Japan
Sociological Society. I knew that Prof. Funabashi had plans to visit China, Taiwan, and
Korea to strengthen the network of environmental sociologists in East Asia during his
sabbatical leave in 2011. However, he abandoned his visit abroad and devoted his time
and energy to serve a severe situation of Fukushima area and Japanese society after the
disaster.
He theoretically analyzed the social structure and the social process that caused the
Fukushima nuclear disaster in his paper “Why the Fukushima Nuclear Disaster is a Man-
made Calamity”(Funabashi, 2012). World’ s environmental sociologist should have
been deeply impressed his strong leadership in the publication of “A General World
Environmental Chronology”(GWEC Editorial Working Committee, 2014)
.
Prof. Funabashi was actively involved in civil society, making policy proposals for
building of a recycling-based society and making efforts in many communities to support
the startup of renewable energy projects run by local citizens. He served as chairperson
of the Citizens' Commission on Nuclear Energy, established in April 2013, organizing the
discussions which have included the participation of many citizens and specialists(I am
also one of the members)
. He was systematically organizing the meeting and pursuing
coming of a nuclear phase-out. The commission published it's policy principles under the
title of “Our Path to a Nuclear-Free Japan: Policy Outline for a Nuclear Phase-out.” He
had also been active for the local residents' movement in his home town, Oiso Town,
Kanagawa Prefecture and served as a director of the “Oiso Eneshift” established in 2013.
In the University of Tokyo, Prof. Funabashi's major was aeronautical engineering at the
Faculty of Engineering. However, faced with the student uprisings of the late 1960s, he
changed his mind to study sociology. He had a 5kW PV panel system on the roof of his
home. This system started in 1993 from a 250W panel system installed by himself!. He
bought parts and appliances in famous Akihabara, Tokyo. He had continued to improve
and upgrade it for seven years with local builder's support. This practice is very
symbolic of his strong will to push forward to the long-term goal with integrating both
theoretical and practical orientation.
On coming July 12 Sunday, we are going to hold Prof. Funabashi’ s memorial
gathering with the panel at Hosei University to honor for his scholarly works and social
activities with his colleagues, ex- and current students, friends and NGO activists. Under
the title of “Social Reform and Missions of Research”, the panel will be focusing on Prof.
Funabashi’ s research minds, will and activities for building a sustainable society.
And October 30 Friday, we will have another memorial night of him at the Fifth
International Symposium on Environmental Sociology in East Asia(ISESEA-5)in Sendai.
Riley Dunlap, Lee Seejae and other guests from abroad will make a speech on him.
He was wonderful family member, husband, father of three sons and great teacher and
mentor. His wife, Dr. Keiko Funabashi is a very active and well-known leading sociologist
of gender and family. Both were long year comrades from their days of high school
classmates. 6. 学会における追悼文
85
Works cited, published in English:
The Citizens’ Commission on Nuclear Energy. 2014. Our Path to a Nuclear-Free Japan:
Policy Outline for a Nuclear Phaseout.(http://www.ccnejapan.com)
Funabashi, Harutoshi. 1992. “Environmental Problems in Postwar Japanese Society.”
International Journal of Japanese Sociology. 1: 3-18.
Funabashi, Harutoshi. 2004. “Intervention of the Environmental Control System in the
Economic System and the Environmental Cluster,” in Szell, Gyorgy and Ken'ichi
Tominaga(eds.). The Environmental Challenges for Japan and Germany:
Intercultural and Interdisciplinary Perspectives, Peter Lang: 137-159.
Funabashi, Harutoshi. 2011. “The Duality of Social Systems and the Environmental
Movement in Japan,” in Broadbent, Jeffrey and Brockman, Vicky(eds.)East Asian
Social Movements: Power, Protest, and Change in a Dynamic Region. Springer: 37-
61.
Funabashi, Harutoshi. 2012. “Why the Fukushima Nuclear Disaster is a Man-made
Calamity.” International Journal of Japanese Sociology. 21: 65-75.
GWEC Editorial Working Committee eds. 2014. A General World Environmental
Chronology. Suirensha.
[ISA Research Committee 24 on Environment and Society, Newsletter No.46, June 2015]
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
7. 原子力市民委員会の仲間から
舩橋晴俊さんの急逝を悼む
山口 幸夫
8 月 15 日、舩橋晴俊さんがくも膜下出血で急逝された。知らせを聞いて、わたしは声を失っ
た。そんなはずがないとまで思った。まだ 66 歳の働き盛りである。
舩橋さんは、環境社会学者として、現職の法政大学教授として目を見張るお仕事の真っ最中
だった。社会学部の舩橋研究室は「エネルギー政策と地域社会」が研究室としてのテーマで、
2002 年いらい、青森県の核燃料サイクル施設の立地問題に精力的に取り組んできた。3 月半ば
に毎年ひらかれる公開の研究発表会では、作成した分厚い報告書をもとに、1 年間の調査研究
成果が発表された。学生たちの発表を聴いて、学部と大学院の学生たちをよくもここまで指導
されたものと、すっかり感心し、心底おどろいたものである。
原子力発電所がつくりだす高レベル放射性廃棄物をどうすべきか、難題中の難題である。原
子力委員会からこの問題の解決へむけた提言の依頼をうけて日本学術会議が検討委員会を組織
し、2 年の慎重な検討をへて回答書をつくり上げたのが 2012 年 9 月である。この検討委員会
で舩橋さんはもっとも中心的な役割を果たされた。閉じた専門家だけで論ずる従来のやり方を
改めて、「公論形成のためのアリーナをつくれ」と舩橋さんは力説された。日本の近代化の歴史
を振り返るとたいへん難しいご提案だとわたしには思われ、その旨を伝えると、でもそれをや
るしか展望はひらけません、と強い口調で言われたのである。
また舩橋さんは、座長として原子力市民委員会をひきいて、船出したばかりでもある。残さ
れた私たちは力をつくしてご遺志を実現しなければならないと思う。 出典:『原子力資料情報室通信』483 号 2014.9.1
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
「公論形成」を活動の柱に
細川 弘明
原子力市民委員会の発足時(2013 年 4 月)から座長の大役をつとめ、
『原発ゼロ社会への道』
(脱原子力政策大綱、2014 年版)の取りまとめに果敢なるリーダーシップを発揮された舩橋晴
俊さんが、8 月 15 日未明、くも膜下出血のため急逝された。前日までメールや電話で毎日連絡
をとりあっていたので、唐突な訃報に、まずは首を傾げ、ついで、高木仁三郎さんが幾度も死
亡虚報を流されたことを思い出し、その類の嫌がらせに違いないとの思いも心をよぎった。予
期せぬ知らせは、しかし無情にも事実であった。
原子力市民委員会を発足させるにあたり、高木基金では半年にわたり検討を重ね準備を進
めたが、座長をどなたにお願いするか、実は発足直前まで決まっていなかった。初代委員の顔
ぶれが固まっていく中で、市民運動と学術研究の仲を取りもつ調整力と人格を期待して、社会
学者の舩橋さんに白羽の矢というか、やや強引に引き受けていただいた経緯がある。その時点
では、「守備の要」としての役柄を期待したのであった。原子力市民委員会の陣容は、運動家・
弁護士・技術者・学者・ジャーナリストら六十余名、どなたも
(失礼ながら)一癖も二癖もある方
ばかり。ゆえに座長には、言葉の本来の意味での「安定保守」の才が必須と思われたのである。
しかし、私どもの「誤算」が幸いしたと言ってよいと思うが、舩橋さんには調整統括役とし
てのバランス感覚とともに、住民運動家としての熱い魂とセンスが備わっており、機を見ては
疾風の如く勝負に打って出る才も人並み外れていたのである。彼の情熱と勝負勘は、原子力市
民委員会の一年目の活動に大きく影響した。信頼される報告書を手堅くまとめるという当初の
イメージを大きく超えて、各地での「意見交換会」を次々展開する作戦を進め、そこでの多様
な声に臆せず向き合い、また、委員会内部での異論争論をむしろ奨励して、政策提言に盛り込
む議論の幅と深度をとても大きくしていった。その一連のプロセスをともにして私が舩橋さん
から強く学ばされたのは、民主主義を守るためには攻めの姿勢が欠かせないということであった。
とまれ、舩橋さん急逝というまさしく “想定外の事態” をうけ、原子力市民委員会では、事
務局、運営会議、委員会、そしてアドバイザーの皆さんも交えたメーリングリストなど様々なレ
ベルで意見交換し、舩橋さんが進めてこられた「公論形成」というコンセプトを軸に活動を発
展させていく方針を確認し、当面、来年 3 月(委員の当初の任期)までの体制として、座長代
理だった吉岡斉さんを新座長に、そして座長代理には委員の大島堅一さん、島薗進さん、満田
夏花さんのお三方をあてる強力な布陣で臨むことを決めた(9 月 22 日)。それぞれ異なる強み
と持ち味と人脈をもつ四天王の快刀乱麻の活躍に御期待いただきたい。加えて、アドバイザー・
パネルの増強も検討し、これまで以上にウィングを拡げて「脱原発」にむけた公論のうねりを
創り出していきたい。ご批判もふくめ原子力市民委員会へのご支援ぜひよろしくお願いします。
(高木基金理事、原子力市民委員会事務局長)
出典:高木基金だより No.36
7. 原子力市民委員会の仲間から
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舩橋さんへのお礼とお詫び
菅波 完
私と同僚の村上正子さんが、原子力市民委員会の事務局として市ヶ谷の法政大学を訪ね、舩橋
晴俊さんにはじめてお会いしたのは、2013 年 3 月 23 日でした。その時は、座長ではなく、委員
としての参加をお願いしました。舩橋さんは、私たちの考えを良く理解して下さり、早速、その場で
・原子力市民委員会では、「科学的政策」と「総合的政策」を混合しないようにする必要があ
る。「科学によって答えられる問題」と「総合的政策課題」の二段構えで取り組んではどうか、
・中立的な科学ではなく、倫理的価値を明示した上での「対抗政策科学」のモデルとするべき
ではないか、
などと、その後の活動を見通したような実践的なアドバイスをいただきました。
一方で、舩橋さんは、すでに多くの研究課題を抱えておられることと、ご家族の介護との両
立が必要であることから、原子力市民委員会への参加には「制約と限界がある」と言われました。
原子力市民委員会の全体的な準備状況から、4 月 15 日の委員会発足の直前に、高木基金事務
局長の高木久仁子さんと村上さん、菅波の 3 名で座長就任の相談をしました。舩橋さんは、
「力
量を越える」とも言われましたが、原子力市民委員会の主旨には大賛成とのことで、「2 年限り
の条件付き」で座長就任を内諾して下さいました。
最初にお会いした時のやりとりで、印象に残っていることがあります。舩橋さんから、原子
力市民委員会をどのような場にしていきたいのか、と尋ねられ、村上さんは、「若手の研究者の
方が、ベテランの研究者や専門家に対しても自由に発言し、議論できるような場にしたい」と
答えました。舩橋さんは、そういうことが本当に大切だと評価し、喜んで下さいました。
原子力市民委員会での舩橋さんの座長ぶりは、まさにそれを実践されたもので、舩橋さんの
書かれた原稿に、最も不躾な発言をさせていただき、それを許していただいたのが私自身でし
た。「脱原子力政策大綱」の終章「「原子力複合体」主導の政策決定システムの欠陥と民主的政
策の実現への道」は、舩橋さんが中心的に執筆された部分ですが、初稿の段階では、社会科学
の学術論文のような印象で、一般の方には敷居が高いように感じましたので、編集会議で(門
外漢であることをいいことに)
、思ったことを言わせていただきました。舩橋さんも、内心、気
を悪くされたのではないかと思いますが、きちんと意見を聞いて下さり、最終的には、とても
わかりやすく内容のある文章にまとめて下さいました。
この追悼文を書くにあたり、「終章」を読み直しましたが、脱原発社会の実現に向けての舩橋
さんの強い想いが凝縮されていると思います。その実現に向けて力を尽くしていくのが、舩橋
さんに無理を押して座長をお願いしてしまった者の責任だと考えています。
本来であれば、追悼文では舩橋先生と書くべきかと思いつつ、素人の不躾な言葉にも真摯に
対応して下さった舩橋さんへの心からの感謝をこめて、さん付けで書かせていただきました。
本当にありがとうございました。安らかにお休み下さい。
(高木仁三郎市民科学基金 事務局)
90
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
公論形成に献身された舩橋さん
吉岡 斉
2014 年 8 月 15 日朝、私はスイスの山岳観光地ヴェルビェのホテルに滞在していた。夜明け
前の闇の中で、携帯電話の呼出音に叩き起こされ、舩橋さんの突然の逝去を知らされた。スイ
スと日本の時差は 7 時間あり、東京は昼前のはずだった。ほとんど苦しまずに亡くなられたら
しいと聞き、ひとまず安堵したものの、原子力市民委員会での舩橋さんの思い出が次から次へ
と去来し、しばし暗い部屋の中で立ち尽くした。
舩橋さんとは、2013 年 4 月に原子力市民委員会発足に当たり、座長と座長代理の間柄とな
るまで、1 度しかお会いしたことがない。2012 年 8 月末に東大駒場で開かれた国際シンポジウ
ム「福島原発で何が起きたか-安全神話の崩壊」で、私が登壇した第 3 セッションのコーディ
ネーターを舩橋さんはつとめられ、私は「福島原発事故の『政策失敗病』としての諸側面」に
ついて話した。
もちろん舩橋さんの名声は、青森県の核燃料サイクル施設群に関する研究などを拝見し、よ
く存じ上げていた。しかし共同で仕事をする機会はそれまでなかった。脱原発を目指す社会運
動ネットワーク(ここでは仮に「脱原発サークル」と呼ぶ。そのメンバーは脱原発への共同実
践の積み重ねによる信頼関係によってインフォーマルに結び合っている)の辺境部分に、舩橋
さんが居られたために、出会いのチャンスが乏しかったのだろう。
原子力市民委員会は、政府や電力会社への抗議活動を旨とする運動団体ではなく、原子力利
用に関わる政策的諸問題について包括的に調査・研究を進め、その過程で原子力発電の賛否に
関する「中間層」をも幅広く巻き込んで対話を重ね、原発ゼロ社会を実現する方向へ世論を醸
成していく組織である。そうした組織理念については、細川弘明さん(事務局長)や私など、
委員会の設置準備を主導した人々の間で広く共有されるに至った。
それが舩橋さんの好きな「公論形成」の理念と、深いところで共鳴したようで、委員会発足
当初から、まるで旧知の間柄のように円滑に意思疎通ができた。原子力市民委員会の会議では
中高年のメンバーたちが本気で長時間にわたり、白熱した議論を交わすのが常であった。それ
をみて舩橋さんは「無駄な議論がひとつもない」と、会議が終わるたびに感動を込めて語って
おられた。そのように「公論形成」はまさに原子力市民委員会内部での日常の営みであったし、
今でもそうである。そこではメンバー間に上下関係はない。
舩橋さんは原子力技術にあまり詳しくはなく、原子力政策の主要争点についても、必ずしも
具体論に精通しておられたわけではない。それでも座長を引き受けてくれたのは、理不尽な原
子力政策を変革したいという情熱のたまものだったと思う。そして 60 名をこえる多士済々の
メンバーたちの専門的能力を存分に活用し、原子力政策の関係者のみならず、原子力政策に疑
問を抱く人々の誰もが一目を置くような組織へと、原子力市民委員会を育てていくことに献身
された。私はその情熱をしっかり引き継いでいきたい。
(九州大学)
7. 原子力市民委員会の仲間から
91
チェルノブイリから福島へ「科学者としての
実証スキルを磨き続けてください」
石井 秀樹
私は今、福島で農業や地域再生の仕事をしています。その扉の前に私を立たせて、そして後
押しをして下さったのが舩橋晴俊先生でした。先生との出会いは 2010 年 1 月です。私は造園
学が専門で、さいたま市で障がい者の農業による生活自立を目指す市民運動に従事しながら、
福祉やアメニティの実現と、都市近郊緑地の保全・活用を両立させる環境計画論の構築を進め
てきました。先生は、環境と福祉の問題を相互連動的に捉える研究を評価され、私をサス研研
究員にしてくれました。また福祉やアメニティと、生存基盤としての環境との関係を、学者の
目ではなく、むしろ一市民・生活者として共感的に聞いてくださったのがとても印象的でした。
それから一年後、原発事故が起きました。サス研では先生を核に被災地支援研究の検討が始
まりました。4 月 20 日に仁平典宏先生と 3 人で似田貝香門先生を訪ね、阪神淡路の経験や東
大での被災地支援研究のお話を伺いました。4 月末には、はやくも原子力総合年表の構想が出
来上がっていました。一方、私は食料の放射能汚染を低減する研究を模索し、8 月から二本松
市で実験をはじめました。10 月末には舩橋先生とチェルノブイリを訪問する機会が得られ、そ
こで清水修二先生や小山良太先生と出会い、私は福島で職を得ました。2012 年 4 月からは原
子力市民委員会に参加し、舩橋先生の下で仕事をさせて頂きました。
舩橋先生は理系で風変わりな私にいつも寛大でした。大磯のご自宅では、先生が独自に組み上
げた太陽光発電システムや、真俊さんによる自然農の実験圃場も見せてくださり、サイエンスを語
る先生は、その未来と夢を信じる若者のようでした。また原田正純先生、宇井純先生、金山行孝
先生のお話も聞きました。その時の眼光は鋭く、公害・環境問題における科学的実証データの重
要性を説かれ、私は「科学者としての実証スキルを磨き続けてください」という言葉を頂きました。
私は舩橋門下を名乗れませんが、社会学にはずっと憧れと尊敬を抱いています。公衆衛生学
の分野で、SOC(首尾一貫感覚)や主体的制御能力といった概念から健康を捉え直したのは健
康社会学者である A. アントノフスキーや園田恭一先生で、私は研究の枠組みを作る時に大き
な影響を受けました。東大の園田先生の研究室で最初に助手をされたのが飯島伸子先生だとお
聞きした時、環境社会学との縁を強く感じました。そして舩橋先生からは何度か「福祉といえ
ば石井君」と言われたことがあります。その言葉はとても “照れくさい” のですが、これ以上
ないほど嬉しい言葉であり、今はその重みを感じています。
今日の福島は放射能汚染という物理的な一次的被害に加えて、被害の実態把握を怠り、政策
が失敗を重ねることで、被害が放置・拡大・多様化してゆく「二次的人災」が起きています。
そして今の福島ほど生存基盤としての自然や環境のありがたさがわかる場所はありません。私
は今、農地の汚染実態の把握、稲のセシウム吸収メカニズムの解明などをしていますが、こう
した研究がやがては被災者の労働と生きがい、ひいては福祉やアメニティを取り戻し、「人間の
復興」に繋がるような研究をしてゆきたいです。それには何十年もの地道な取り組みが不可欠
でしょうが、これが舩橋先生に与えられた宿題だと考えております。
(福島大学)
92
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
8. 学術会議の仲間から
舩橋晴俊先生のネットワークと推進力
岩井 紀子
舩橋晴俊先生とお仕事を一緒にさせていただいた期間は 3 年に満たない。しかし、日本学術
会議社会学委員会「東日本大震災の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科会(震災再建分
科会)
」、日本社会学会研究活動委員として引き継いだ「震災問題情報連絡会」、データベース担
当として途中から参加させていただいた科研プロジェクト「東日本大震災と日本社会の再建」、
ISA 横浜大会での Pre-Congress Conference などを通して、研究者として鍛えてくださり、国
内外の研究者とのネットワークを格段に広げてくださった。
最初にメールをいただいたのは 2011 年 12 月で、震災再建分科会の立ち上げについてだった。
舩橋恵子先生とは、日本家族社会学会の研究活動委員会で 6 年間ご一緒していたが、晴俊先生
とはこの時が最初である。私は、阪神淡路大震災の時には、台湾の留学生の一言を受けて、学生
と大学と共に、2 つの小学校でのボランティア活動に関わり、被災社会心理学研究者・連(編)の
本にその経緯を記録しただけに終わった。東日本大震災では、研究者としても取り組もうと思い、
学術会議の連携会員の活動を開始するにあたり、震災関連の分科会に入ることを希望していた。
震災再建分科会は、舩橋委員長の下、避難者、自治体・政府の担当者、有識者に熱心にヒア
リングを続け、舩橋委員長と山下祐介委員を中心に作成された提言を練る会議を重ねた。提言
1 の作成まで 7 回、提言 2 の作成まで 10 回で、全体的に旅費が膨らんでいた学術会議の予算
をさらに逼迫させるという苦情まで出そうな状況であった。舩橋委員長の掲げる目的に向かっ
て、自然と「ついていかせていただきます」という雰囲気があった。日頃かなり無茶をする私
でも難しいなと思ったことも、何とかなると踏み出してしまう推進力をいただいたように思う。
社会学会で山下祐介研究活動委員を中心にまとめられていた社会学研究者による震災問題への
取り組み情報を継続し、データベース化して、ISA や社会学会の外に向かって日英で発信する目
標も、舩橋先生が示された。連携する方を紹介してくださり、実現に向けての具体策は任された。
2012 年 7 月に法政大学のボナソワード・タワーでのミーティングのあと、飯田橋駅から東
京駅に向かう時、環境社会学会の初代会長の飯島伸子先生のことを話された。飯島先生は研究
はもちろん、どんなに忙しくても、授業に全力投球されていたと伺った。舩橋先生もきっとす
べてに全力を尽くしておられるのだなと、その時思った。「実は、岩井さんは、ある件でこわい
人だと思って」おられたこと、社会学会には人材が豊かに現れてくることも語られた。
2014 年 7 月の ISA 大会中、大学や機関のブースはあまり人通りの多くない会場にあった。
舩橋先生は法政大学のブースにおられることが多く、堀川三郎先生のデザインのお話や長谷川
公一先生の ISA 開催の感慨を伺っていると、「岩井さん、岩井さん、研究の話をしよう」と呼
びかけられた。『原子力総合年表』と『A General World Environmental Chronology』を編纂
されて、Pre-Conference を開催できたので思い残すことはないとおっしゃられていた。しか
し、大会後も全力でお仕事をなさっていたと思う。「震災再建分科会」の 2 つ目の提言の最後
の仕上げもなさっていて、8 月 14 日には修正のメールが届いた。
舩橋先生はいつもダンディだった。旅立たれるとき、恵子先生のお見立ての素敵な背広にネ
クタイをなさった穏やかな姿は、そのまま海外の学会に向かわれるように見えた。
(大阪商業大学,日本学術会議連携会員)
94
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
「核のゴミ」と人間・コミュニティ・民主主義
小澤 隆一
私は、この間、日本学術会議の課題別委員会、「高レベル放射性廃棄物の処分に関するフォ
ローアップ検討委員会」で、同会議の連携会員として、上記廃棄物、いわゆる「核のゴミ」の
処分問題の解決方法、とりわけそれについての「社会的合意形成」に関する検討を行ってきた。
検討委員会は、2014 年 9 月に報告をまとめ、2015 年 4 月 27 日、「提言 高レベル放射性廃
棄物の処分に関する政策提言-国民的合意形成に向けた暫定保管」を公表した。
原発の新増設、稼働や再稼働の問題が「入口」であるとすれば、「核のゴミ」の処分問題は、
「出口」(バック・エンドともいう)であり、両者は、関連しあっている(とりわけ量的な問題
として)と同時に、後者は独自に考えなければならない側面を持つ。「脱原発」しても、既存の
「ゴミ」の処分問題はなお「残る」のであるから。しかも、このゴミは、いわば「無害化」する
まで、数万年とも数十万年とも言われている。果たして人類が存続しているかも定かでない超
長期の先まで、安全に処分する必要がある。こうした処分を、現行法の枠組みは、「最終処分」
という表現を用いて、その方法は日本国内のどこかに地中深く埋める(「地層処分」という)こ
とにしているが、周知のように処分地は、一向にかつ一つとして決まっていない。なお、私は、
この問題に「処分」という言葉はあまり適切でなく、可及的に将来まで人類に害を及ぼさない
ようにするという意味で、「管理」の問題なのだと思う。
これに困り果てた原子力委員会が 2010 年秋に学術会議に対処法を諮問して、これへの同会
議からの「回答」として作成されたのが、2012 年 9 月 19 日の「高レベル放射性廃棄物の処分
について」である(私はその作成にも参画した)。この「回答」は各方面に波紋を呼び、その内
容のさらなる「フォローアップを」ということで、報告書と提言の作成に至った。私のこの問
題についての最大の関心事は、「私たちは、このコミュニティの地下に処分地を定めた。そのこ
とについて、関係する地域住民として、さらには国民全体として、そのことの負担とその意味
を心して自覚し、末代まで語り継いでいく。そして決して忘れない」ということを、「マグナ・
カルタ」のように数万年先まで維持していくことができるかということである。それは、せね
ばならない。これは、将来世代も含めた遠大なる「民主主義の実験」である。ぜひ検討委員会
の報告書と提言に注目していただきたい。
検討委員会の報告書をまとめる最終盤の 8 月 15 日、その類まれなるリーダーであった舩橋
晴俊法政大学教授が急逝された。さぞ無念であったことだろう。しかし、その遺志を、残され
たものがしっかりと受け継いでいかなければならない。
以上は、日本民主法律家協会発行『法と民主主義』491 号(2014 年 8・9 月)に寄稿した文章を一部
改稿したものです。舩橋先生とご一緒した仕事の意義を法律家に知らせるために記したこの拙文をもって、
私のせめてもの追悼の言葉とさせていただきます。
(東京慈恵会医科大学,日本学術会議連携会員)
8. 学術会議の仲間から
95
二人三脚で取組んだ高レベル放射性廃棄物問題
今田 高俊
畏友であった舩橋晴俊さん。東京大学社会学科の同期生であり、ともに理系からの文転組で
あり、ほぼ同時期に二人で東京大学社会学科の助手を務めた。当時、彼の理論的専門は組織の
存立構造論、私のそれは自己組織性論。ということで、外見上は類似するところが多いが、そ
のアプローチ法はかなり違っていた。舩橋さんは新幹線公害、東京ごみ戦争、原発・核燃サイ
クルなど、対立と紛争に真正面から真剣に取り組み、私は社会階層や生活の質指標、社会計画
など、社会ニーズに対応する問題に取り組んでいた。ということで、研究活動のベクトルは方
向がかなり異なっていたが、互いに緊張感を保ちつつ、よきライバルでもあった。助手時代を
終えて、彼は法政大学へ私は東京工業大学へ赴任して以降、それぞれ独自の道を歩み、研究交
流する機会は途絶えていた。
その二人が 30 年後に、日本学術会議で運命の出会いをすることになった。2010 年の 9 月に
原子力委員会委員長から、「高レベル放射性廃棄物の処分の取組みにおける国民に対する説明や
情報提供のあり方についてのとりまとめ」という審議依頼が日本学術会議に対してあり、当時
リスク社会について研究を進めていた私が検討委員会の委員長を引き受けることになった。メ
ンバーは文系と理系の双方の会員・連携会員から構成されることになり、文系のメンバーのう
ち若干名については私に指名権が与えられた。
さて、どうするか。信頼できる人物が不可欠。ここは舩橋さんをおいて他にない。というこ
とで、彼には委員会の幹事になってもらい、力を発揮してもらうことになった。会員の枠外か
ら特任連携会員として長谷川公一さんにも参加していただき、審議依頼への「回答」に向けた
文系サイドの体制が固まった。
委員会での舩橋さんの活躍は期待通りで、彼が持っている原子力発電問題関係のネットワー
クをフル活用して、参考人のヒアリングや資料の収集を進めることができた。また、二人でひ
そかに確認した委員会の進め方は、エヴィデンスベースの議論に徹することであった。日本で
原発が最初に稼働して以来、既に 40 年ほど経過しており、高レベル放射性廃棄物(核のごみ)
はかなりの量がたまっている。この処分に際しては、原発賛成か反対かの二分法の意見で対立
していては埒があかない(回答がまとまらない)からである。
検討委員会が始まっておよそ半年後の 2011 年 3 月 11 日に起きた東日本大震災およびこれ
に伴って発生した福島第一原子力発電所事故の激甚さにより、委員会では大きな緊張感が走っ
た。これ以降である、舩橋さんの熱意が検討委員会の流れを方向づけたのは。「回答」案づくり
では、意見が対立する場面もしばしばあったが、彼の緻密な議論(やや難解なところもあった
が)と熱心な説得努力を支えつつ、何とかまとめることができた。要所要所で議論を整理し、
合意点を見出すのが委員長の仕事であったが、彼の存在がなければこれだけ社会的関心を集め
た提言をまとめることはできなかったと思っている。その意味で、原子力委員会への「回答」
96
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
(提言)は、彼との二人三脚の成果である。
舩橋さんの意志を引き継ぐ形で、日本学術会議としては異例といえる二度目の提言「高レベ
ル放射性廃棄物の処分に関する政策提言-国民的合意形成へ向けた暫定保管」をまとめ、本年
2015 年 4 月 28 日に公式発表することができた。一周忌を迎えるにあたり、この提言を献花と
して舩橋さんにささげたい。
(東京工業大学名誉教授・日本学術会議連携会員)
8. 学術会議の仲間から
97
98
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
9. 地域の社会運動の仲間から
徳は孤ならず、必ず隣あり
森田 愛作
私の書庫に「徳不孤」という論語の額がある。『新幹線公害—高速文明の社会問題』(1985
年発行)をいただき、住民運動の核心に触れた「住民運動の地域社会と隘路」の項で、運動の
現実から出てくる住民の苦しみから教訓をひきだしている内容に打たれ、感想を送ったさい舩
橋さんから戴いたものである。
ふり返れば、34 年前(1981 年)、名古屋の新幹線公害訴訟の被害現場を訪れた法政大学の舩
橋ゼミの学生と、現地の住民原告との聞きとり交流会が開かれたのが舩橋さんと私との最初の
出会いだった。当時、舩橋さんは 33 才で大学の助教授、私は原告団の副団長で 49 才、二人の
年令差は 16 年だった。
交流会の会場は新幹線高架脇の旅館だったから、新幹線公害の被害の実態につては口で説明
しなくても身体でわかってくれたので、私たちはもっぱら地域の名もない住民が長期間(この
時、住民運動と裁判で 11 年)にわたって、575 人の原告団をまとめていくことの苦しさを聞
いてもらった。いまから思えばこの舩橋ゼミの聞きとり調査は住民にたいするカウンセリング
効果と住民運動の困難な課題を理論として整理する端緒になった。
舩橋さんは学者にありがちな理論が先行する作風ではなく、住民の痛みを聞きとり、そこか
ら学ぼうとする姿勢に温かさと親近感をもった。冒頭の論語の額は住民運動の初期、国鉄とい
うマンモス機構に孤独な運動を始めた私への舩橋さんのエールだった。
1986 年、新幹線公害訴訟は最高裁の上告審で国鉄と和解で収拾。新幹線の被害を軽減させ
るための一応の決着をつけた。裁判は終わったが、その後、舩橋さんの人柄に魅せられて友人
としての付き合いが続いた。折にふれ自分の書いたエッセイを近況報告として送った。「あなた
の文章は色気があって面白い」と言われたことがある。
2013 年、舩橋宅を訪ねたとき、地元の大磯町で「大磯電力会議」の集会に参加させていた
だいた。「学者としてではなく、住民として参加できるのが嬉しい」と道すがら話してくれた。
「原子力市民委員会」の座長でありながらいかにも舩橋さんらしい。
人生、80 才を越えると人間はどんなに惜しまれても人は老い、亡くなっていくことを目にし
てきた。舩橋さんのライフワークは社会的合意の形成だった。研究にも学問にも実践的にも充
実し、その蓄積とキャリアが、原発という 21 世紀の最大のテーマに向けて力がととのい、社
会と私たちが舩橋さんの存在を最も必要としたとき舩橋さんは亡くなった。朝日新聞のコラム
「ひと」ではないが、あなたは原発推進派が無視できない提案を出せるひとだった。残念でなら
ない。舩橋晴俊さんの遺志をついでいこうという沢山の人たち。あなたは言った。徳は孤なら
ず、必ず隣ありと。
100
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
舩橋先生の思い出
武藤 類子
私が舩橋晴俊先生に初めてお会いしたのは、八王子の市民発電講座でした。お会いするなり、
福島の原発事故についての考えを次々にお話し下さいました。避難者の二重住民票制度につい
て、自然エネルギーによる市民発電所について、学生たちに何を見せたいかなど熱く語ってお
られました。優しいまなざしの中に何かひたむきな思いを感じました。
その後原子力市民委員会でご一緒するようになってからも、親しくお声をかけて下さいまし
た。私が関わる原発事故の刑事告訴についても詳しく情報を得ておられ、いろいろと尋ね下さ
り、とても嬉しかったです。パソコンを使わないので連絡などが滞るためにご迷惑をかけてい
た私の、あまり電化製品を使いたくないという思いを理解して下さり、「生活スタイルを変える
ことは無い」と事務局の方に言って下さったことはとてもありがたいことでした。
ある夏の夕方、上京し日比谷公園を歩いていると、重たそうなリュックサックを背負った先
生にばったりお会いしました。「やあ」と手を挙げてニコニコとご挨拶下さいましたが、汗をか
きながら少し疲れたご様子でした。多忙を極める中を何度も福島に足を運んで下さったことも
あり、お体が心配でした。
原子力市民委員会では、難しい調整役を誠実にこなしておられました。大変な重責だったの
ではないかと思います。会議の中では難しい社会科学用語が飛び交い、私にはあまりに難しく、
「もっと簡単な言葉で話して下さい。」とお願いしたことがありました。すると先生は笑いなが
ら、「自然科学用語はみんなが何とか覚えようとするのに、社会科学用語は難しいと言う、みん
なもう少し一般化するように努力をして下さいよ。」と、仰っていました。今考えると原発事故
後を生きる私たちのために、新しい社会のありようを提示し、それを分かって欲しいという切
なる思いがあったのではないかと思います。
2013 年の春には、私の住む三春町に学生たちを引率され、私にお話しをする機会を与えて
下さいました。皆さん、熱心に質問をされる学生たちでした。先生が亡くなられた翌年にも、
学生の皆さんがまた三春町を訪ねて下さり、福島の現状を調査されて行きました。先生が撒か
れた種がしっかりと育っています。
舩橋先生とのお付き合いは、とても短い間でした。原発事故が無かったら私たちはお会いす
ることは無かったかも知れません。最悪の事故であったけれど、舩橋先生という原発事故後の
社会変革を本気で願い、実践なさった素晴らしい人物と出会うことができたことは、闇の中で
手にした暖かな灯のようでした。感謝の気持ちでいっぱいです。
(福島原発告訴団/原子力市民委員会)
9. 地域の社会運動の仲間から
101
舩橋晴俊先生とえこえね南相馬
高橋 荘平
えこえね南相馬は、福島県南相馬市で、原発事故からの地域再生を再エネを活かしながら進
めている団体です。
舩橋先生とは、震災から一年後の 2012 年 6 月に科学技術振興機構が開催した「自然エネル
ギーは地域のもの」というイベントで知り合いになりました。地域の再エネ事業が地域外の大
企業の利益を得る場となるのでなく、地域にきちんと還元されるべきであるという先生の主張
が私たちの活動の狙いと同じだったので、ご協力をお願いしました。
先生は快く申し出を受け入れてくださり、主宰されていた法政大学の「再生可能エネルギー
事業化支援研究会」に参加させていただくとともに、地域に根付いた再エネ事業を推進するた
めの、全体的な考え方、資金調達の方法、また事業形態や運営する法人のあり方などを、2012
年 11 月から半年間、ご指導いただきました。このおかげで、2013 年 4 月、一般社団法人えこ
えね南相馬研究機構として法人化、活動を本格化させることができました。
2013 年夏には、法政大学の舩橋研究室の学生、院生を連れて南相馬を訪問し、市役所、市
民団体、一般市民の聞き取り調査を実施されました。企画の相談があった折に、「単に原発被災
地を調査研究するだけではなく、地元にとっても益となるようなフィードバックがあってしか
るべき」とお話したところ、これを受け止めていただき、結果を整理して 2013 年秋には南相
馬市で報告会を行っていただき、2014 年春には論文集を刊行されました。
その報告会の時に、「私もえこえねを見て地元で仲間と一緒に一般社団法人を設立しました」
と、何とも言えない笑顔で仰っていたことがとても印象的な思い出になっております。
大学生はもう大人とはいえ、福島県や南相馬市でフィールドワークを行う事は簡単ではな
かったとも思います。ただ、地元に住んで復興に関わっている人間からすると、現場を見に来
て自分で体験し、感じてくれること自体が大変うれしく思いました。
そのような活動を、現地を踏まえながら実現していく、芯を持ちながらもしなやかに多くの
意見に耳を傾ける、そのような姿が大変参考になりました。
知見の広い舩橋先生のことですから、今後もいろんなことを考えていたと思います、それを
実現できなかったことは悔いとして残ったかもしれませんが、舩橋先生がまいた種が各地で実
りを迎える、そんな姿を空の上から見ていただけるよう、私たちも着実な一歩を歩み続けて参
ります。 102
(えこえね南相馬研究機構 代表理事)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
舩橋先生へ、ありがとうございました
市村 高志
2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災により、私は原発事故の避難者となりました。現
地にいても、自分や家族がどの様な事態になっているのかさえ把握できず、その後避難をして
きた私には、今後の事や生活の事などいくら考えても解らないことだらけでした。そんな中、
山下祐介先生の紹介で舩橋先生とお会いする事になりました。
無知というのは怖いもので、当時の私は、訳も分からず先生に大変失礼な事を申してしまっ
たのではないかと、今でも反省しています。この問題に熱く真剣に取り組んでおられる姿を目
の当たりにし、私は思わず「先生、どうかこの問題を一緒に取り組んで欲しい」と伝えました。
先生は間髪入れずに「福島の事は私の最後のフィールドワークとして取り組みますから」とい
う言葉に、うれしさと心強さでいっぱいになりました。その後もそんな私に対してお忙しい中
時間を作って頂き、幾度となくこの原発事故の問題を話しました。
ある時、先生から「市村さん、私たち研究者に何を求めますか」と質問されました。これに
は大変驚きました。先生がこのような事を一被災者である私に問いかけてくれるなんて思いも
よらなかったのです。いつでも研究熱心で、小さな声にも耳を傾ける先生の姿勢に改めて私は
勇気を頂けましたし、先生も一緒に考えてくれていると感じられたのです。そして必ず解決の
道があるのだと思えたのです。
しかし、幾度となく議論をしていても原発事故の問題は理不尽な事が多く、状況の把握にす
ら時間がかかり、くじけそうになった時に先生が導き出してくれた「帰還でも移住でもない
『第 3 の道』が必要である」という言葉は、多くの避難当事者にとって心強く感じ、そして小
さいながらも希望の光になると思いました。
その折「先生、これからですね」と話して、お会いする約束をした矢先の訃報に、驚きと落
胆で私の心に大きな穴が開いてしまったようでした。先生がおられない事の心細さと悲しみに、
今でも私は事実を受け入れられないでいます。
先生の残してくれた原発事故の解決の糸口である「第 3 の道」の議論は今も沢山の志のある
方々と共に続けています。私はこの議論をするときに「先生なら、どう言われるのかな」と、
思いながら臨んでいます。
これまで共に取り組んで頂き、心より感謝申し上げます。
先生に吉報をお知らせするにはまだ時間がかかりそうです。私がそちらへ行くまでにはご報
告できるよう活動を続けて参ります。先生、しばらくの間お別れを申し上げます。
(特定非営利法人とみおか子ども未来ネットワーク 理事長)
9. 地域の社会運動の仲間から
103
舩橋先生を偲んで
飛田 晋秀
未だに先生が亡くなったことが実感できません。
先生との出会いは、私の知人の渡辺一夫氏から紹介していただきました。2011 年 3 月 11 日
東京電力福島第一原発事故の後、避難区域で撮影した写真を見ていただき、貴重な写真なので
先生の大学で写真展と講演をしてもらいたいという依頼を受けて、2012 年 6 月に講演会を開
催しました。その後、先生とは密に情報交換をしていました。
舩橋先生は何度も福島に来られて、県庁や被災されている人の現状など膝を交えて聴き、原
発事故の被害検証など、調査してくださいました。県外に避難している人たちには二重の住民
票を登録させることなど、様々な助言をしておりました。舩橋先生は、避難区域に入り、自分
の目で現実を見て下さいました。まだまだ先の見えない原発の問題が沢山ある中、熱意とお人
柄は多くの人達の心の支えとなりました。親しまれ集う中に大きな穴があき、残念で仕方があ
りません。
長くご指導いただき、有り難うございました。私たち残された者は、先生と共にした時を意
に刻み、一歩一歩進むことを誓います。先生が今まで原発問題に対してご尽力いただいたこと
に、感謝申し上げます。心からご冥福をお祈りいたします。
104
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
(写真家・福島在住)
自然エネルギーは地域のもの
~舩橋晴俊さんの遺志を継いでいくために
岡部 幸江(理事長)、石川 旺(副理事長)、伊勢田 徹、
小田 志保、九鬼 とも子、佐藤 勝栄、田中 洋子、野尻 善章、
山村 ゆみ子、渡辺 順子
8 月 15 日 — 日本の歴史に深く刻まれ、忘れることのできない、忘れてはならないこの日
に、当会の理事であり私たちが敬愛してやまなかった舩橋晴俊さんが旅立たれました。もっと
たくさんお話を伺いたかった。もっと教えていただきたかった。 残るのは後悔ばかりですが、
今はただご冥福をお祈りするのみです。
舩橋さんは法政大学社会学部教授、日本学術会議連携会員として重責を担い、環境社会学者
としてつねに現場に立ち、理想を語るだけでなく自ら行動される方でした。
また、地元大磯の郷土を愛し、自然や景観を守る活動にも積極的で、3・11 以降はエネル
ギーに関する学習会を続ける傍ら、当会の設立にも深くかかわり、理論、実践の両面で力強い
リーダーシップを発揮してくださいました。
2013 年 12 月、一般社団法人「大磯エネシフト」設立総会で乾杯の挨拶に立った折に「こ
の一歩は何物にも代えがたい喜びです」と満面の笑みで盃を高く掲げていらした姿が昨日のこ
とのように思い出されます。ご自身の地元で成功モデルを作って他の地域に広げていけば、日
本社会の質的変革の一歩になると考えておられ、熱の入った取り組みでメンバーを鼓舞・激励
してくださったことは忘れられません。
「先生」と呼ばれることが多かったと思いますが、エネシフトでは自分も地域住民の一人とし
て参加しているのだから「舩橋さん」と呼んでほしいと仰るなど優しく気取りのない高潔な人
柄で、皆から信頼され慕われていました。
2013 年 4 月に発足した原子力市民委員会の座長に就任し多忙になられた後も法政大学大学
院サステイナビリティ研究所で市民電力をめざす人たちが情報交換し学べる場をつくり、各地
の事業化支援にも熱心に取り組まれていました。日本が原子力に依存せず、持続可能な社会へ
舵を切るために欠くことのできない方と、舩橋さんを知る誰もがそう信じていたことは間違い
ありません。
「自然エネルギーは地域のもの」- 舩橋さんが講演の演題等によく用いられていたこの言葉
の理念は、これからの日本に欠かせないものと思っていただけに、本当に悲しく残念でなりま
せん。でもだからこそ、この理念を大切にした舩橋さんの遺志を継ぐために、いま私たちがで
きることに全力を尽くしたいと、あらためて感じています。
ともに過ごした日々に心からの感謝をこめて
2014 年 8 月
一般社団法人大磯エネシフト 理事一同
9. 地域の社会運動の仲間から
105
106
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
10. 交流した研究者から
舩橋くんを忘れない
高田 昭彦
これから大活躍という時に亡くなってしまい、とても残念です。舩橋くんが社会学研究室の
助手だった頃、立場上ネクタイを締めていたのですが、それがヨレヨレだったことを覚えてい
ます。当時は一緒に排ガス規制の問題に取り組んでいました。それから環境社会学の立ち上げ
の時も一緒でした。
社会学系大学院の単位互換制度創設でも一緒でした。あとは僕の大学院ゼミに舩橋ゼミの俊
英を送り込んでくれたこともありました。湯浅くん、水澤くん、大門くん、森久くんたちでし
たね。僕は舩橋くんとは全く逆で、ルーズだわ酒は飲むわで、彼らも舩橋ゼミとは別の意味で
楽しくやっていたのではないかと思います。
舩橋くんは、常に学問のため社会のためにストイックに取り組んでいたように思います。大
きな方向を見据えて私心なく研究に取り組んでいた、しかも相手を想う気持ちが溢れていた。
だからこそいつも先頭に立っていろいろな人を束ねることができたのだと思います。僕も舩橋
くんから声がかかった時は、とても断ることなどできませんでした。
これから社会的には市民として日本学術会議を足場に原発問題に取り組み、個人的には研究
者として書き溜めた原稿を世に問う、まさにその時に逝ってしまい、本当に残念です。舩橋晴
俊全集全 10 巻くらいは出たのではないかな。今年の始めに東京女子大学にいた僕の親友が亡
くなったのですが、彼の書き溜めた原稿は日の目を見ることなくパソコンの奥にしまわれたま
まです。彼は独り者だったのですが、舩橋くんには惠子さんもおられるし、優秀なお弟子さん
や有力な友人・知人がおられますので、舩橋くんの遺志はいろんなところに引継がれていくこ
とでしょう。僕も死ぬまで舩橋くんを忘れないと思います。
108
(成蹊大学)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
見田ゼミの同門だけでなく、全共闘の
同志だったとは
福岡 安則
いまになって、迂闊だったと思う。わたしは、舩橋晴俊君とは、見田宗介先生のゼミの同門
としてのみ付き合ってきてしまった。舩橋君は「環境問題」の社会学の第一人者となり、わた
しは「差別問題」を追いかけてきた。社会学者としての志において、仲間であり、同志である
と、ずっと思っていた。じつは、それ以前に、東大闘争における《全共闘》の仲間であり、同
志であったということに、なぜか、思い至らぬままきてしまった。わたしは 1947 年生まれ。
舩橋君は 1948 年生まれ。わたしは 1966 年、東大文Ⅲ入学。舩橋君は 1967 年、理Ⅰ入学。
67 年には、わたしは駒場で見田ゼミに出ていた。舩橋君は折原ゼミに出ていた。68 年に東大
闘争が起こり、それぞれ、「文学部社会学科スト実」、「SⅠⅡ闘争委員会」の一員として《全共
闘》に参与。わたしが駒場の折原浩先生や最首悟さんたちの「連続シンポ『闘争と学問』」に出
ていたころ、そこには舩橋君の姿はなかった。こうして、わたしが 2 年の留年のあと、72 年に
社会学の大学院に進学し、舩橋君が工学部を卒業、学士入学した経済学部も卒業して、73 年に
社会学の大学院に進学してきて、はじめて「見田ゼミ」で顔を合わせた。ニアミスのまま、遅
い出会いとなった。
それでも、わたしは舩橋君とは親友だったつもり。いくつかの場面を思い出す。あるときは、
舩橋君とふたり、大磯の海岸で、見田暎子さんに離婚の経緯をめぐって泣かれたことがあった。
1997 年に国立 5 大学院、私立 12 大学院でスタートした「大学院社会学分野の単位互換制度」
の構築では、ふたりで協力もし、ふたりで記者会見に臨みもした。数年前、八王子の「大学セ
ミナーハウス」で夏のゼミ合宿の日程が重なり、それぞれのゼミが終わったあと、合同で飲み
会をやったのが、心地よい記憶として残る。
しかし、悔いも残る。東北大学の博士後期課程の院生が「東大闘争論」で博論を書きたいと
いうので、わたしは彼女の調査に付き合ってきた。「東大社会学共闘会議」の仲間たちを手始め
に、「新左翼諸党派」
「民青」「有志連合」、立場が違った当時のひとたちを訪ね歩いた。しかし、
駒場で闘争を担ったひとの聞き取りが不十分というなかで、舩橋君の名前が浮上。昨年初夏に
聞き取りのお願いの電話をかけた。しかし、舩橋君は超多忙のさなかに身を置いていて、とて
も応じてくれる余裕はなかった。——そして、しばらくして、突然の訃報に接した。もっと早
い時期に、舩橋君の歩んできた道行きをじっくりと聞いて、記録に残しておけばよかったと、
痛恨した。
1968–69 年を《共にした仲間たち》も、そろそろ、あの世への旅立ちを始めている。ぼくた
ちが《青春を賭けて悔いのなかったあの時代》の体験、思いを、取り返しのつかなくならない
うちに、記録に留めておく必要を痛感している。合掌
(埼玉大学名誉教授) 10. 交流した研究者から
109
先輩としての舩橋晴俊さん
江原 由美子
私にとって、舩橋晴俊さんは、何よりもまず、大学院の見田ゼミの先輩だった。見田先生の
『現代社会の存立構造論』等の理論枠組みを引き継ぎながら、環境問題等の具体的な社会問題に
真摯に取り組む見田ゼミでの舩橋さんは、理論的立場も問題関心も今一つ定まらなかった院生
時代の私から見ると、自分が届かない境地に既に立たれているようで、とてもまぶしく感じた。
見田先生が仲人をなさった惠子さんとの茅ヶ崎での結婚式は、中でもとても印象深く、お二人
の誠実なお人柄が本当に良くにじみ出ていて、研究者夫妻の理想のあり方のように輝いていた。
けれども不思議なことに、舩橋晴俊さんからは、「立派」な先輩から後輩が受けがちな圧迫感を
感じたことは、私は、一度もなかった。私が後輩としての甘えから、意味もないややネクラの
悩みをぶつけても(なぜか晴俊さんには、そんな甘えを許容してくださるような雰囲気があっ
た)
、微笑みながら、的確なアドバイスをくださった。そのアドバイスは、澄んだ認識と誠実な
価値観に満ちており、なぜか本当に軽やかな心地にさせられるのだった。
大学院を離れると、大学も分野も違い、お会いする機会も減ったが、大学院時代の誠実さと
真摯さをそのまま持続した舩橋さんに出会う機会がいくつかあった。その一つは、社会学会理
事会でのことである。社会学評論の編集委員長になられた舩橋さんは、「面白い評論、読まれる
評論にする」という評論編集方針を出され、その思いを私たちに力強く語られた。その語り口
からは、舩橋さんの社会学に対する大学院時代とほとんど変わらない情熱が感じられ、学会等
での仕事にやや疲れを感じ「適当に流して」いた私は、自分の不徳を恥じる思いだった。もう
一つは、晴俊さんが最期まで全力で取り組まれていた学術会議の社会学委員会「東日本大震災
の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科会」である。東日本大震災の後、学術会議は非常
に多くの提言を政府や国民に発したけれども、社会学からの提言は今一つ足らないように感じ
られた。そんな状況を変えたいという思いから、私は舩橋さんが委員長をされた分科会の世話
人を引き受けた。舩橋さんは、本当に熱心に分科会活動に取り組まれ、あと少しで提言を完成
という直前、8 月 15 日に亡くなられてしまった。私は世話人でありながら舩橋さんの勢いにな
かなかついて行けず、ついお任せするという姿勢になってしまっていたので、知らせを聞いた
時には本当に驚いた。無理をなさっていたのではないか、ご無理をさせてしまったのではない
かと、悔やまれる。その後分科会の皆様のご努力によって、「東日本大震災からの復興政策の改
善についての 提言」が完成し、政府機関や学術会議のホームページに公表された。本当に良
かったと思う。結局、舩橋さんは最後まで、先輩として私に、社会学者のあるべき姿を、自然
にそして静かに示してくださったのだ。不甲斐ない後輩で、本当に申し訳ありませんでした。
ありがとうございました。
110
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
(首都大学東京)
東京大学院生・助手時代の舩橋晴俊先生
友枝 敏雄
舩橋晴俊先生が急逝されて、9 ヶ月以上経った。まだ呆然としていて、適切な言葉を見い出
せない。人間は言葉によって多くのことを表現する。しかし言葉によって表現できないことも
ある。言葉にした途端、「何か違う」という感覚に襲われる。思いの大きさを表現するには、言
葉はあまりにちっぽけである。こういう場合、人はなすすべもなく沈黙に徹すべきであろうか。
舩橋晴俊さん(私の東京大学文学部社会学研究室の先輩助手なので、舩橋さんと呼ばせて頂
く)の思い出を理路整然と語ることは、私には不可能である。そこでここでは、院生・助手時
代の舩橋さんの思い出を記したい。あくまで私的な思い出であることをおことわりしておく。
1975 年、私が東京大学大学院に入学して最初に面識ができたのは、島本惠子さん(のちの
舩橋惠子先生)であった。社会変動に関心を持っていた私にとって、社会変動および変革主体
について修士論文をまとめておられた島本さんは、学問上の身近なお手本だったので時折話を
お聞きしていた。舩橋晴俊さんはすでに博士課程の 1 年だったので、雲の上の存在であり、あ
まり話すこともなかった。
私にとって当時のもっとも鮮烈な印象は、1975 年に京都大学から東京大学へ赴任された
吉田民人先生(故人、東京大学名誉教授)の大学院ゼミで、舩橋さんと吉田先生とがシャープな
議論を展開していたことである。1975 年の吉田ゼミに出席していたのは、今から考えると錚々
たるメンバーであった。正確に記憶に残っているメンバーをあげるならば、博士課程の今田高俊
氏、橋爪大三郎氏、梶田孝道氏(故人)、舩橋晴俊氏が出席していたし、教育社会学からは中山
慶子氏、渡邊秀樹氏が出席していた。修士 2 年で出席していたのは間々田孝夫氏、島本恵子氏
であり、修士 1 年で出席していたのは、江原由美子氏と私であった。
吉田先生と今田氏、梶田氏、橋爪氏、舩橋氏との間で、機能主義の社会学理論をテーマとし
て、丁々発止とした議論が行われていた。現在のようにビデオ撮影が容易であるならば、収録
しておきたくなるような良質なゼミであった。能弁であった江原由美子氏にも圧倒されつつ、
私はゼミの末席にいた。
舩橋さんの議論のスマートさは、まず吉田理論のよい点を的確に指摘する、その上で批判し
ていくというところにあった。吉田先生の表情にも、その真剣勝負に真正面から応戦される様
子があらわれていた。私自身、クリティークとはかくあるものだということを教えられ、深い
感銘を受けたし、舩橋さんの解説によって吉田理論を適切に理解できるという恩恵に浴するこ
とができた。
舩橋さんはその後、助手になられたのであるが、何事に対しても丁寧かつ几帳面に仕事をさ
れる姿に驚いたものである。舩橋さんと今田さんが同時に転出された後に、助手になった私は、
舩橋さん、今田さんの丁寧な仕事ぶりが「助手の鏡」であったため、何事も手抜きの出来ない
状況へと追い込まれてしまった。同僚の助手だった渡邊秀樹さんと、「先輩助手(舩橋さんと今
10. 交流した研究者から
111
田さん)がここまでやっているから、我々もやらないとしかたないなあ」と苦笑しながら、助
手業務を黙々とこなしたものだった。
助手時代の舩橋さんの忘れられない思い出がある。当時の社会学研究室の主任教授は高橋徹
先生(故人、東京大学名誉教授)であり、高橋先生は、知る人ぞ知る「お酒好き」であった。
高橋先生は自分の気の向くままに、助手・院生とお酒を飲むことを楽しみにしておられた。と
ころが舩橋さんは、この高橋先生の酒の誘いをほとんどことわっておられたと聞いている。議
論の好きな舩橋さんだが、お酒はあまり好きではなかったらしく、他の先生ともお酒のつきあ
いはしておられなかったようだ。
そんな舩橋さんだが、高橋先生は「舩橋君はよくできる」とほめておられた。ドライな関係
でありながら、他者からきちんとした評価を得る舩橋さんは、さすがだと思った。
かくいう私も酒はあまり飲めないのだが、助手になってからは、高橋先生からのお誘いをこ
とわり切れず、渡邊さんと一緒に高橋先生のお酒のお伴をしたものだった。それだけにさらり
としたつきあいでありながら、礼を失しない舩橋さんのふるまいがうらやましく思えた。
私が法政大学(市ヶ谷キャンパス)で非常勤講師のお手伝いをしていたとき、非常勤講師控
え室で舩橋さんに何度かお会いした。あの柔和な表情で「お世話になります」とねぎらいの言
葉をかけてもらったことが、昨日のことのように思い出される。
その後、お互いに異なる大学で社会学研究に従事することになるのであるが、日本社会学会
理事会、日本学術会議で何度もご一緒することになった。院生・助手時代と変わらないままで、
尊大でないところが舩橋さんの最大の魅力であった。惠子さんとのご夫妻の姿もまた、私に
とってはよきモデルであった。
ご逝去されて 9 ヶ月以上経ったが、ありし日の舩橋さんのいくつかのシーンを記して、あら
ためて舩橋晴俊先生のご冥福をお祈りしたいと思う。
112
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
(大阪大学)
生き方に根づいた社会学的想像力
佐藤 健二
舩橋晴俊さんの訃音は、その日イギリスにいた湯浅夫妻から電話で聞いた。信じられない知
らせだったけれども、その後の法政大学の中筋直哉君からのメールでの通知や問いあわせなど
が重なって、打ち消せない現実であることを覚悟せざるをえなかった。
初めて会ったのは、たぶん舩橋さんが東京大学文学部の助手になりたての頃の社会学研究室
で、私は文学部に進学したばかりの学部生であった。ざっと 40 年近く前である。あまり良い
とはいえない姿勢ながら早足で歩き、これまた早口で丁寧に論理的に説明する、天然パーマの
せっかちな助手だった。当時、私は見田宗介先生の大学院の演習に潜り込ませてもらっていた。
合宿のときなどに晴俊さんが先生と、組織の存立構造論をめぐって真剣に話し込んでいるのを
見かけた。惠子さんとは「理論で結ばれている」と評判だった。
いくつかの特徴的な用語とともに、飾り気のない率直な文体と、穏やかながら情熱的であっ
た語り口を思い出す。「協働連関」は、舩橋さんにとって人間の社会を社会たらしめている中核
を指すカテゴリーだったのだろう。その「経営システム」としての本源的な水平性が、なぜ「支配
システム」の垂直性と相克とを生みだしてしまうのか。そうした転回と物象化のメカニズムをとらえ
ようとしたのが、1970 年代の見田先生を受け継いだ「存立構造論」だった。物神化された構造
と、疎外された主体の、双方の流動化と解放こそが舩橋さんの組織論の本願であり、埋もれた
「両義性」を複眼で掘り起こし「対抗的分業」といってよい協働連関を構想することの必要性を、
いつも熱心に語っていた。しかしながら、理念的・思想的なだけの構築を好まず、観察と分析に
開かれた「中範囲」の実践を目指す。その持続のなかで、公共性の構造を深く問う、独自の「受
益圏/受苦圏」の理論が生まれた。そう振り返ってみると、この行程は社会学の論考に込められ
た思いという以上に、その生き方にまで根づいた社会学的想像力であるかのように思えてくる。
ありうべき「協働連関」の理想は、教育でも活かされていた。じっさい舩橋さんは博愛無私の
教育者だった。課題を自分だけで追究し勝手にまとめていくよりも、他の人びととの協働を大切に
して、学ぼうとする者たちの成長を重視していた。教師による支配が生まれてしまう垂直性を嫌い、
自分のことばとしての専門語を持てと教え、解を急ぐより前に課題を明確にしなさいといつもアド
バイスした。自製の卒業論文作成マニュアルを作って学生に示し、分厚いリーディングスを編集し
て配っていたのをしばしば見かけて、私も真似しようかと思ったが長続きしなかった。ときどきの
プレゼンテーションには情報を盛り込み過ぎて、複雑になりすぎた図式などが混じっていたが、
切り捨てて簡略化してしまうことができない論点へのこだわりがあって、それも舩橋さんらしいな
と微笑ましかった。あれをひと目で理解するには、舩橋さんと同じ馬力の CPU を必要とする。
訃報に接しただれもが、3.11 以降の政策的課題と真摯に向き合っての働き過ぎを思ったが、
舩橋さんはそうした心配は意に介さず、解かねばならぬ問題だけを気にしていたのだろう。「晴
俊はまだ自分が死んだって気づいていないかもしれないわね」と惠子さんがつぶやいたという
話を聞いたが、じつは私も間違いなくそう思っている。合掌。
(東京大学)
10. 交流した研究者から
113
舩橋晴俊先生の急逝を悼む
桝潟 俊子
茨城県石岡市にある南面する丘の小さな畑にいたときでした。携帯が鳴り、8 月 15 日の早
朝、舩橋先生が急逝されたという訃報が入りました。私の法政大学大学院での担当科目(環境
共存事例研究)の受講生からの知らせでした。その日(8 月 16 日)は、前学期末の採点や学内
行事等がやっと一段落したので、3.11 以降 2 年余り、放射線被曝の心配を「言い訳」に草だら
けにしていた畑に、草抑えできればと作付けた大豆の草取りをしていました。急いでパソコン
を立ち上げたところ、環境社会学会のメルマガでも訃報が流れていました。あまりにも突然の
ことに驚き、にわかに現実のこととして受け止められませんでした。
というのは、その 1 ヶ月ほど前(7 月 12 日)に横浜で開催された世界社会学会議のプレ・
コンファレンスで、舩橋先生が「原子力複合体による支配システム」について深い憤りを内に
秘め熱く前のめりで語っておられた姿が目に焼き付いていたからです。そして、「舩橋さんに何
が起きたの?」「どうしてこんなことになってしまったの?」、「こころざし半ばでどうして?」
等等の思いが頭のなかで渦巻きました。
私は舩橋先生とは環境社会学会創設の頃に出会い、主として環境社会学会において同世代の
環境社会学を志す研究者としてご指導いただきながら、運営委員や編集委員、監事などの活動
に携わってきました。また、舩橋先生の足元にもおよびませんが、私は、震災・原発事故の被
災地において第一次産業を基盤とする内発的復興とコミュニティの再生に関わり何ができるか、
現地の人びとに寄り添い考えてきました。
そうしたことを思い起こしているうちに、先生急逝の衝撃は、だんだん、深い悲しみ、口惜
しさ、無念さに変わっていきました。それは、卓越したリーダーシップと組織力を発揮し、大
学での本務や教育はもとより、研究やフィールドワーク、学会や学術会議、市民運動の場で、
舩橋先生は先頭にたって数々のお仕事やプロジェクトを手がけられてこられていたからです。
とくに、3.11 の東日本大震災と福島第一原発事故以降、舩橋先生の「研究者であり、実践的改
革者であり、市民運動家」としての超人的なお仕事ぶりがもつ存在感があまりにも大きく、そ
の喪失感は図り知れません。
また、舩橋先生は理論研究から出発されたすぐれた理論家ですが、現場のリアリティを大切
にするフィールドワーカーでもあります。そして、本当にオリジナリティや説得力ある理論のため
には、「実証研究」に裏付けられている必要があることを、「T 字型の理論形成」あるいは「T 字
型の研究戦略」として提唱しておられます。舩橋先生は、このことに、「ぼくは 45 歳くらいのとき
に気づきました」と、どのような場面だったか忘れましたが、根っからのフィールドワーカーの私
に正直に話してくださいました。誠実で真摯な研究に取り組む姿勢にうたれた覚えがあります。
きっと、こうした良心的な誠実さ、真摯さが、舩橋先生の研究者、あるいは教育者、オルガナ
イザー、実践的改革者、市民運動家としての人間的魅力となっていたように思います。
道半ばにして倒れられた舩橋先生のご遺志をしっかり心に刻み歩んでいきますから、どうか
安らかにお眠りください。 合掌
(前淑徳大学教授)
114
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
森有正の「経験」概念に共鳴して
蘭 由岐子
私が舩橋晴俊先生と出会ったのは、2005 年 5 月に熊本学園大学で開催された日本保健医療
社会学会大会においてであった。その大会では熊本にゆかりのある水俣病とハンセン病に関す
る各シンポジウムが用意され、舩橋先生は前者の、私は後者のシンポジストであった。私は自分
の調査経験をベースにハンセン病問題について報告をしたが、終盤フロアから強烈な批判がよせ
られ、悄然とした状態でシンポジウムを終えた。そのとき、あたたかな声をかけてくださったのが
舩橋先生だった。先生は、病者へのライフヒストリーの聞き取り過程で私がぶつかった種々の問
題は、新潟水俣病問題の被害者調査において自分たちがぶつかった問題と本質的に同様であり、
答がなかなか出ないそれらの問題について真剣に検討し、多くの論点を提示したと私の報告を評
価して下さった(私からすれば、受苦者を対象にした調査をやってこられた先生だからこそ、拙い
報告から多くの論点を汲み取っていただけたのだと思っている)。さらに、その直後にお送りした
拙著(『「病いの経験」を聞き取る—ハンセン病者のライフヒストリー』)の「あとがき」に「森有
正」の名前があるのにお気づきになり、私は、以後、さらなるご厚誼をたまわることとなった。
哲学者の森有正は、先生に大きな精神的影響を与えた先達のひとりであった。先生は、森の
論考が、日本社会論という点でも、人生の道の探究の点でも、また、学問的方法論という点で
も非常に示唆に富んでいるにもかかわらず、これまで社会科学者によって取りあげられてこな
かったことを不思議に思うほどである、とおっしゃっていた。そこに、私が「経験」と「体験」
4 4
を区別する森の議論を参照して、‘ハンセン病者の illness experience は『病体験』ではなく『病
4 4
いの経験』でなければならない’ 旨のことを書いていたのをご覧になったのである。私は、大学
受験問題の例文で読んだ森の議論に惹かれていくつかのエッセイを読んでいた程度で、先生の森
に対する理解とは比べるべくもないのだが、それでも、ハンセン病者研究を進めるにつれて、病
者のハンセン病罹患という現実は、主体がすでに存在していてそれに吸収される「体験」ではな
く、「一人の個人を定義する」
、まさに森のいう「経験」以外のなにものでもないという確信をもつ
にいたったのである。同様に、ハンセン病者に関する研究過程はまさに私自身の人生をかたちづく
る「経験」でもあると確信していた。このような私の解釈を理解し、ご自身の新幹線公害や水俣
病の研究過程に重ねて強く首肯してくださったのが舩橋先生であった。「あとがき」のこの部分に
ついて言及してくれるひとは先生をおいてほかにいなかった。文字通り ‘有り難い’ ことであった。
近年、先生は、森の思想を通して、とりわけ原発事故を招いた日本社会のあり方を問うておら
れたように思う。きっと「内的促し」にもとづいて懸命に原発問題に取り組んでおられたにちが
いない。そのような先生のお姿を御著書や共通の知り合いの話から拝察するだけで、じっくりと直
接お話しする機会を持てなかったのは非常に残念なことであった。何度思い返しても、先生の死
は早すぎたし、哀しい。しかし、もはや、そうばかりは言っておられない。今こそ、私たちは、先
生の遺志を継ぐためにも先生の死を自らの経験として生きていかなければならないのだと思う。
(追手門学院大学)
10. 交流した研究者から
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舩橋晴俊先生の遺志
舘 かおる
舩橋晴俊先生に初めてお会いしたのは、お茶の水女子大学ジェンダー研究センター(IGS)
の研究会の講師をお願いした、2012 年の 7 月 23 日であった。思いもかけない突然の別れまで、
わずか 2 年余であった。しかしながら、先生を通じて真摯な方々との出会いの機会を与えて頂
き、「サステイナビリティ」という概念に対する舩橋先生の見識を教えて頂いた。昨年の 8 月
15 日以来、無念な思いは拭いきれないが、感謝の思いは今でも溢れてくる。
私は、2008 年頃からユネスコ本部職員の菅野琴氏と連携し、大学院の授業「国際社会ジェ
ンダー論」と連動させ、IGS の研究プロジェクトとして国連機関の活動をリサーチし、国際的
な視点からのジェンダー研究を模索していた。そして 2011 年 3 月の東日本大震災、福島原子
力発電所の原子力災害に直面してからは、日本のみならず、地球規模での危機対応にジェン
ダー視点導入の必要性を痛感し、2011 年には「危機における国連機関の役割と戦略的ジェン
ダーの視点」
、翌 2012 年には「『原発』と『サステイナビリティ・サイエンス』—ジェンダー
視点からの課題を考える」と題するシンポジウムを開催した。特に 2012 年 5 月には、日本政
府の対応の遅さを危惧し、国末憲人・朝日新聞 GLOBE 副編集長(当時)に「国際原子力機関
IAEA の役割」を報告して頂き、「チェルノブイリ被害調査・救援女性ネットワーク」代表の綿
貫礼子氏と共に環境汚染、反原発運動を担ってきた吉田由布子同事務局長に「放射能汚染が未
来世代に及ぼすもの」という観点、そして元ユネスコ・ユニセフ職員でエル・システマジャパ
ン代表の菊川穫氏から「原発事故後の福島の子どもたちのメンタルケア」等の報告をして頂い
た。そして「サステイナビリティとジェンダー」の視点を組み込んだ研究プロジェクト「災害、
復興とジェンダー公平な国際共生社会の構築」を進めることとし、この根源的な問題を「サス
テイナビリティ」の概念から研究している研究者として、舩橋晴俊先生に研究会での講義をお
願いした次第である。
舩橋晴俊先生の講義は、「運動と研究と日々の実践活動を踏まえた上での理論化」を行ってい
る方のみが可能な、実に充実した講義であった。配布されたレジュメの内容を理解するのに必
死になり、未熟な質問にも丁寧に答えてくださった。そしてレジュメにびっしり書き込まれた、
少々盛りだくさんの難解な図や関係図に対して、参加者の多くは、理解するのに時間がかかっ
た。特に「環境制御システム」に関わる論文の図表に関しては、独創的な見解のためもあり、
少々複雑すぎて「このように整理して頂いた方が理解しやすい」と提言した程であった。議論
しながら書き込みをし、大切に取っておいたそのメモが、今すぐ見つからず、あの時の議論の
内容を説明できないのが甚だ残念であるが、舩橋先生の細部を詳細にして理解を深める姿勢に
は、感じ入るものがあった。講義の中で、サステイナビリティの 基本的意味と含意は、「社会
と自然環境システムの間の循環において、自然環境システムの『浄化能力の範囲』で廃棄物を
排出し、『再生能力』の範囲内で資源を使用すること、すなわち、再生可能な資源、再生可能な
116
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
エネルギーを社会の存立の基盤に位置付ける必要がある」という視点に立つことを提示された。
原発批判の論拠としての「核廃棄物」への示唆は、環境社会学者ならではの視点として説得力
のあるものと思えた。7 月以降は、ジュヌヴィエーヴ・フジ・ジョンソン著 舩橋晴俊・西谷内
博美共訳『核廃棄物と熟議民主主義—倫理的政策分析の可能性』(2008=2011、新泉社)の読
書会や『放射性廃棄物 —終わらない悪夢』(エリック・ゲレ監督、DVD)などの視聴会を研究
者や学生たちと共に行った。今日の福島の状況に対し、舩橋先生の「サステイナビリティ」と
いう概念への揺るぎない探求は、地球の環境を根源的に考察した説得力のある論理の展開を諮
るものと私には思えた。
そして 2013 年から私が国連大学福島国際広報プログラムハイレベル諮問委員会委員を務め
ることになり、福島でミランダ・シュラーズ ベルリン自由大学教授と一緒に議論する機会にも
恵まれたが、原発事故後のドイツと日本の対応の違いに忸怩たるものがあった。私もまがりな
りにも発信する機会を持つことを考え、3・11 からの示唆を「サステイナビリティ」論として
構築していく舩橋先生のアプローチに魅かれ、ちょうど 2014 年秋には、ユネスコ世界会議が
日本で開催されることにちなみ、国連大学とお茶の水女子大学共催の国際シンポジウム「サス
テイナビリティとジェンダー」を企画した。その企画プログラム案を作成し、舩橋先生にお見
せしたところ、良い企画と述べて、報告者となることを引き受けて下さった。11 月 1 日に開催
されるそのプログラムは、午前は、これまでのユネスコの行動目標の検証と今後さらにジェン
ダー視点を導入することの意義、午後は、其々の局面からサステイナビリティをジェンダーの
視点から検討することを企画した。プログラムは、趣旨説明を舘が行い、パネリスト報告とし
て、萩原なつ子(立教大学教授)「エコロジカル・フェミニズムの超克」、高雄綾子(フェリス
女学院大学専任講師)「〈不安〉から〈ヴィジョン〉へードイツ市民運動と福島との接点」、宮地
尚子(一橋大学大学院教授)「震災におけるトラウマとジェンダー」、岡部幸江(一般社団法人
大磯エネシフト理事長)「地域からのエネルギーシフトー 3 万人のまちからできること」、そし
て最後に舩橋先生の「原発震災の被害構造と生活再建・地域再生のための『第三の道』」の予定
でいた。しかし、8 月 15 日に舩橋先生の訃報をうけ、驚愕して大磯での葬儀に伺った。以前か
ら舩橋先生とつながりがあった、萩原なつ子さんと大磯エネシフトの岡部幸江さんに相談し、
大磯町議員の渡辺順子さんに、大磯町の「自然エネルギー条例」策定への道程を報告して頂い
た。大磯の再生可能エネルギーの展開は、大磯町議会の積極的な動きとのコラボレーションで
可能となったからである。シンポジウムのコメンテーターであった田中由美子 JICA 国際協力
専門員と北村友人東京大学大学院教育学研究科准教授と菅野琴氏が、シンポの成果をユネスコ
世界大会へ繋げてくださった。
なお、私が原発をめぐる東電や政府の動きにがっかりしていた頃、舩橋先生が自らの研究の
歩みについて語ってくださった。「多くの人が無理だと思っていた水俣病も新幹線公害訴訟も、
『公害』との判決が下った。信じて闘っていけば、いずれ社会は変わってくる。」と静かに述べ
られたことが、記憶に刻まれている。舩橋先生の研究史は、水俣病から始まり、新幹線公害、
核廃棄物問題、再生エネルギーへの転換と展開して来たことを鑑みると、社会改革に関わる研
究者として、そして大学の教師として、夫として、父親として、本当に真摯に生きられたと思
う。短い時間ではあったが、お会いして直接話し合えた幸運に感謝し、非力ながら、例え僅か
でも、舩橋晴俊先生の遺志を繋いで行こうと思う。
(お茶の水女子大学名誉教授・同大ジェンダー研究所客員研究員)
10. 交流した研究者から
117
いまだに続く呆然自失状態
寺田 良一
追悼文を書くのがこれほど困難なことであると感じるのは初めてである。
追悼文は、亡くなった方を偲んで書くものであるが、舩橋先生の情熱に負けじとついてきた
この 25 年ほどの運動エネルギーは、まだ私の中で慣性力を保ったままで、今でもまだ、「寺田
さん、日本の戦後の環境史の部分、お願いします。」というきびきびとした電話が舩橋先生から
かかってくるのを、私は無意識に待ち続けている。いまだに、呆然自失状態から脱していない。
だからこの駄文は、経過報告のようになってしまうに違いない。
まるで池田屋に参集した幕末の志士のごとく、1990 年の 10 月に 30 名あまりの環境社会学
者(まだ「環境社会学」の語は認知されていなかったから、正確にいえば環境問題を研究して
いる社会学者)が法政大学の多摩キャンパスに集まって研究会を立ち上げたのが、「環境社会学
会」の原点である。むろん、舩橋先生は、その扇の要にあった。
その翌年、欧州を中心とした社会学の国際組織、IIS(国際社会学協会)の大会が神戸で開催
される折に、アメリカの環境社会学の創始者、R. ダンラップ氏が来日されるので、氏を囲んで
日米の環境社会学の紹介をしようということになった。日本側の報告者は舩橋先生、私はコメ
ン タ ー で あ っ た。 先 生 は フ ラ ン ス 留 学 か ら 戻 っ て し ば ら く の こ ろ で、 報 告 の 練 習 中、
environment の発音が、どうしても「アンヴィローヌマン」になってしまう。そのたびに、僭
越ながら私が、「先生、エンヴァイロンメントです」と修正を入れていた。
このセッションの我々の目的は、ダンラップ氏との意見交換やアメリカの情報収集にあった
わけだが、舩橋氏の新幹線公害研究やジレンマ論の報告を聞いたダンラップ氏は、後に「救わ
れた。」と述懐していた。アメリカでは、レーガン政権時代を経て環境社会学が停滞し、ご自身
も学の将来をやや悲観していたので、東アジアに来て、日本や韓国での環境社会学の発展ぶり
を見て、再出発の元気をもらったとのことである。
翌 1992 年、いよいよ「環境社会学会」は正式発足し、初代会長の飯島伸子氏は、アジアの
環境問題に関する国際シンポジウムの開催を提案した。現在でも国際会議の開催は骨が折れる
仕事だが、インターネットもなかった 1990 年代初頭に民主化も不十分なアジア諸国から人を
招いてそれをするのは、なお一層困難であった。渉外は、平岡義和氏、池田寛二氏、私と、ま
だ院生であった堀川三郎氏らが手分けして担当したが、最も困難を極めた財政を一手に引き受
けて下さったのが舩橋先生であった。
飯島先生が急逝された 2001 年の暮れ、ご遺族から提供のお申し出をいただき、飯島先生が
残された厖大な調査資料や年表資料等の整理と、それを保管する「飯島伸子文庫」(富士常葉大
学所蔵)づくりの作業が始まった。以来、舩橋先生がなくなる 1 か月ほど前の英語版の『世界
総合環境年表』(GWEC)の刊行(2014 年 7 月)まで、飯島先生の未完の遺作である環境年表
の編集作業が継続し、私もずっとご一緒させていただくこととなった。
118
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
何しろ飯島先生のご自宅マンションの DK と寝室を除いたすべての部屋に何重もの書架に
ぎっしり詰まった蔵書と調査資料を前にして、私自身は整理の仕方が考えられず、途方に暮れ
るばかりであったが、舩橋先生は、最終的な図書館所蔵の「文庫」としての検索便宜なども考
慮し、自著、蔵書、調査資料に大別し、調査資料は、本人の記録、一次資料、二次資料という
分類と、調査対象やテーマを数十に分け、ナンバリングし、エクセルの一覧表に入力しという
ように、まことにシステマティックに整理を進めていかれた。この手際の良さには、度肝を抜
かれた。
私は、いつも行き当たりばったりで資料をあちこちに突っ込んでおくから、いつもあれはど
こだこれはどこだと探し物ばかりしている。舩橋先生は、そんなことはついぞないのだろうと
聞いてみると、舩橋恵子先生経由の情報では、お宅でも結構探し物をしているとのことで、お
二人の微笑ましいやり取りが目に見えるようであった。それは要するに、私とはけた違いの情
報量があるということだと思う。
2000 年代に入り、1993 年の「アジア・シンポ」の 2 回目を、学会設立 10 周年行事として
開催しようという話が出ていたが、飯島先生の急逝で頓挫してしまった。韓国の李時載先生と
お話しする中で、中国でも 2006 年に環境社会学会が設立されたとの情報をいただき、日中韓
プラス台湾の 4 か国 / 地域で「東アジア・シンポ」ができないかと考え、舩橋先生に相談した
ところ、即座に賛同していただけた。千の味方を得た気がした。2007 年に、その準備を兼ね
た北京の国際会議に舩橋先生、長谷川公一先生らとともに参加し、2008 年に第 1 回「東アジ
ア・環境社会学シンポジウム」を、法政大学の多摩キャンパスで開催することになった。詳細
は別の機会に譲るが、93 年以上に、舩橋先生以下、法政のスタッフや院生のお世話になり、今
年秋に仙台で開催される第 5 回大会で 2 巡目に入る。
先生は、飯島環境年表の継続版作成においても、東アジア 4 か国 / 地域を核としたグローバ
ル年表への発展を構想されていた。2006 年に「飯島文庫」が完成すると、息もつかずに作業
に入り、特に先生は、機会あるごとに世界各国の執筆者を物色していた。2006 年に南アフリ
カのダーバンで開催された世界社会学会議、2007 年の先述の北京の会議では、年表情報が特
に少ない途上国の研究者を見つけては、執筆していただけないか声をかけていた。こうした先
生の地道な努力が功を奏し、2010 年の『環境総合年表―日本と世界―』(日本語)では 73 か
国、2014 年の英語版では 125 か国のデータを掲載することができた。
こうして文章にしてしまうといかにも順調にいったようにも聞こえるが、2010 年から開始
して、2014 年の世界社会学会横浜大会に間に合わせるべく、何十人もの執筆者や編集スタッ
フを束ね、叱咤激励、督促などしながら、何とか開催の数日前に上梓にこぎ着けた舩橋先生の
指導力と粘りには、脱帽するしかない。しかもその最後の段階では、主要な参加国の間で国名
の表記をめぐる不一致が表面化し、先生ご自身が調停の矢面に立つ事態となった。そのころは、
お父上を看取られる時期とも重なり、その心労はいかばかりであったかと拝察する。
私自身も、そのころ母を看取り、学内で気を使う仕事を抱えていたので、副編集長でありな
がら、先生のサポートが十分できたとはいえず、今でも大変心苦しく思っている。さらに、舩
橋先生ご自身は、2013 年 4 月から「原子力市民委員会」の座長という重職に就かれた。そし
て 2014 年 4 月には、その政策提言である『原発ゼロ社会への道―市民がつくる脱原発政策大
綱―』をまとめられた。
それを要約する余裕はないが、原発事故がもたらしたものが、物理的な放射能汚染に増して、
地域生活、職、食、家族生活などの「人間の尊厳」の破壊であり、その「人間の復興」こそが
復興の根幹にあるべきだとする、帰還を急がせる国の姿勢に対する批判的提言である。環境問
題における、加害論、被害論、解決論の中では、これまで「受益圏と受苦圏」、「ジレンマ論」
などクリアなシステム的図式化によって加害・被害メカニズムを解明してきた舩橋先生であっ
たが、今回はとりわけ被害者に寄り添った解決論の展望がなされている印象を受けた。
舩橋理論は、「ジレンマ論」や「環境制御システム論」など、システム的図式で表される場合
10. 交流した研究者から
119
が多かった。社会学になじみのない方には説明がなく恐縮だが、今回は多分に「構築主義的」
な分析であるように思われた。お話をする機会は多くても、事務的な話が多くなり、そのうち
一段落したら、舩橋先生が構築主義的方法論をどのように評価しているのか伺ってみようと
思っていた。その機会は、突然になくなってしまった。
「原発事故があっても、日本社会の構造は何一つ変わっていない。今回報告するのはその一点
に絞りますよ」。横浜会議の報告前に放たれた一言には、『政策大綱』を執筆した悲壮感が漂っ
ていた。しかし、英語版の年表が注目を集め、部会が盛会のうちに終わった日の打ち上げでは、
いつもはお酒は控えめな印象がある舩橋先生が、韓国の李先生や中国の陳先生たちと、何度も
杯を重ねていた。
「いや、ほんとによかったです」と、あれほど上機嫌な先生は見たことがない
ほどであった。
それから 1 か月とたたないうちに、悲しいお別れをすることになるとは、その場にいただれ
もが想像だにしなかった。原発問題を考えると、まだまだやりたいことを残して逝ってしまわ
れたとも思う。が、あの打ち上げの時の満面の笑顔を思い出すとき、大きな仕事を仕上げ、後
進に歩むべき道をしっかり示したという達成感を、あの時感じておられたとも確信する。私に
は、とてもまねのできる生き方ではない。が、後に続くわれわれをいつまでも明るく照らして
くれる、燦然と輝くロールモデルである。
さぞや今頃は、あちらで飯島先生と次の年表計画について話に花を咲かせておられるのでは
と思う。でもすみません。私がお手伝いするのは、もう少し先にさせてください。
120
(明治大学)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
11. 職場の同僚から
厳しさを通した優しさ
渡辺 秀樹
舩橋晴俊さんの突然の訃報が届いた夏が、ふたたび巡って来ようとしています。
舩橋さんとは同じ団塊の世代として、大学院生の時は、京都から来たばかりの吉田民人先生のゼ
ミにともに参加し、そして、東京大学文学部社会学研究室の同僚助手として、ともに過ごしました。
助手着任は、舩橋さんが先輩でした。同じく先輩の今田高俊さんと 3 人体制でした。舩橋さ
んと今田さんは注目すべき若手研究者で、翌年(1979)にはそれぞれ法政大学と東京工業大学
に(さっさと)就職して行かれました。お二人が抜けた後は、新任の友枝敏雄さんと助手 2 人体
制になりましたので、社会学研究室に助手が 3 人いたのは私が着任した年(1978)のみでした。
当時の東大の社会学研究室は、大学院生や学部生が中心となって運営される組織でした。たと
えば、研究室として購入する図書文献は、大学院生によって構成される選定委員会に委ねられてい
ました。英書・仏書・独書等、別々のグループで議論して購入希望図書をリストアップし、予算内
であれば、そのまま注文に出していました。当時、社会学研究室の教授・助教授の図書費があっ
たのかわかりませんが、少なくとも助手を経由して注文し支出するというものはありませんでした。
助手の仕事は種々雑多なものがありますが、そのために労を惜しまず徹底した緻密さで論理
を積み上げて会議に臨んで説明し、必要な場合には交渉し実施に移していくのが、舩橋さんの
やりかたでした。吉田ゼミでの報告もそうでしたが、研究室にとっての課題や問題が持ち上
がった場合には、論点整理された箇条書きのメモが渡されることがよくありました。私は<理
詰めの舩橋さん>というのは、吉田ゼミに参加した院生の時代も助手の時代も同様でした。自
らの研究を精力的に進めながら、助手の仕事に手を抜くなどということはまったくなかったのです。
私が当時見た舩橋さんの性格はいろいろに表現できます。まず、馴れ合いという言葉から
もっとも遠いのが彼でした。斜に構えず常に正面から取り組むのです。何事にも静かに粘り強
く取り組むのです。沈着冷静で動揺を示さないということでしょうか。問題を先送りせず、問
題にフタをせず、問題を論理的に実証的に明らかにしてその解決をはかる。そこに至る過程は
厳しいけれど、その先にしか道は無いということが常に伝わってきました。ときに見せる笑顔
が、ひときわ魅力的だったのは、厳しさを踏まえていたからこそと思います。
2011 年の 3.11 の後、福島の事故に関する学術会議への提言など舩橋さんの緊張感のある発
言が突出することになりました。とくに 3 月後半頃は、国内メデイアがまったく頼りなく、た
またま、見つけたルモンドの抜粋記事情報の URL をメールで送ることくらいしか協力できま
せんでした。それでも彼は「貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました。この無
責任な構造を社会学的に解明することが、今後、数年に取り組むべき課題の一つになると考え
ています。(2011/3/30)」と返信してくれました。その後の彼の全精力の傾注は、関わりのあ
る多くの人々が語ってくれるはずです。
舩橋さんと同時代をともに過ごせたことに感慨を抱いています。感謝。合掌。
122
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
大学人としての背骨、生活者としての背骨
原田 悦子
法政大学社会学部での 20 年間、舩橋晴俊先生にはいろいろな機会に、本当にたくさんのこ
とを教えていただきました。中でも、舩橋学部長の下で教務主任を務めさせていただいた 2 年
間は、他に替え難い密度の濃い日々であり、実に多くのことを学びました。
とりわけ今でもくっきりと私の生活・生き方に影響を与えていることは、自分自身が考えぬ
いて、正しいと信じることは、決してあきらめずに感情的にならず、相手の人に 「 自分の考え、
思い 」 を説き続けることが大切、ということでした。相手に伝わっていないのだから、伝えれ
ばいい、という、ある意味でシンプルな考え方ですが、舩橋先生のその実践には、決して薄味
のシンプルさ (!) はなく、柔軟にして圧倒的な迫力をもった精緻な活動でした(そう、説明のた
めには必ずレジュメが作られ、バージョンが 0.1 単位で上がっていきました! )。実際、舩橋
先生の「説得」にあうと、多くの相手の方は納得し(あるいは根負けし !?)、賛成に変わって
いったのですが、しかし、同時に舩橋先生ご自身の意見の詳細やその表現形もどんどん変わっ
ていきました。それは先生が、真摯に相手の話を聞き、その意見の寄って立つ立場を尊重しつ
つ、しかし「本来のあるべき姿」についての信念は変えずに、共に問題解決に向かおうとされ
てらっしゃるからだ、ということが文字通り体得できました。
そうした態度は、大学運営や学会運営の、いわゆるお仕事についてばかりでなく、研究につ
いてもまったく同じだったのだろうな、と思います。そして私自身は、教務主任が終わった後
にふと気づけば、研究面でもお仕事面でも壁にぶつかったときに、「ちょっとだけ、舩橋先生の
まねをして」問題解決に取り組めないか考えてみよう、とするようになっていました。(なかな
か舩橋先生のレベルには到達できていませんが)。
実際にお仕事でご一緒させていただく、あるいはその後に自分で「真似っこ」をしてみて気
づくことは、こうした「舩橋先生の方法」は、単にエネルギーが豊かではあることだけでなく、
「そこに、しゃきっと背骨が真っ直ぐ伸びていること」が必要だ、ということでした。人は、そ
こに真っ直ぐな背骨があるときにはちゃんと話を聴いてくれる、それを学んだのだと言い換え
ても良いかもしれません。大学人は、常に「しゃきっと背骨が伸びていること」が必要であり、
それが素適なことなんだ、自分の中にある舩橋先生への尽きぬ尊敬の気持ちの一番の底には、
その思いがあると思っております。
舩橋先生のもう一つの魅力は、その「しゃきっと伸びた背骨」が、大学人あるいは研究者と
してだけではなく、「家庭人として」あるいは「生活人として」も同じようにあったということ
です。実は私は、直接には一度もお話をさせていただいたことがないにもかかわらず、晴俊先
生のパートナーでいらっしゃる舩橋惠子先生に対して、長年、一方的に「親しみ」を感じさせ
ていただいておりました。なぜならば、本当によく晴俊先生からお話を伺っていたからです。
「うちの奥さんが」という主語で語られるときの舩橋先生の誇らしげなご様子が今でも目に浮か
11. 職場の同僚から
123
びます。実際、ある年の春の夕方、惠子先生のご異動が決まられた時か、受賞されたときか、
法政多摩校舎の階段のところですれ違った晴俊先生が、本当に嬉しそうにそのニュースを話し
てくださり、「だから原田さんもがんばりなさい!」とおっしゃってくださったことを今も生き
生きと思い出します。惠子先生に敬意を持ってらっしゃるご様子、女性であることによるハン
ディを乗り越えてどれだけ頑張ってらっしゃるのかを称賛しつつ、そこで上げられている研究
成果そのものを誰よりも理解し、評価されているご様子、そうしたお話を伺うことが、何より
も「だから君も研究を頑張りなさい」というメッセージでした。
近年よく使われるけれどもどうもあまり好きでない言葉に「心が折れる」という表現があり
ます。言葉のニュアンスはわかるものの、それをことばとして表すことによって、それ以上の
自分の中のがんばりを放棄するような風潮が、私は好きになれません。背骨は折れないし、折
らない。できるだけ真っ直ぐに背骨をしゃきっと立てて、前を向いていくことが、大学人とし
ても、研究者としても、そして家庭人・生活者としても大事、それを大切にしていきなさい、
舩橋先生は今も私にそれを伝えてくださっていると思います。
舩橋先生、本当にありがとうございました。
そして、惠子先生、これからも先生のご活躍を拝見しながら、晴俊先生の「だから君も頑張
りなさい」を思い出すと思います。どうかよろしくお願いいたします。
124
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
(筑波大学)
労を惜しまない熟議の人
—大学院議長としての舩橋先生を中心に
池田 寛二
私が舩橋晴俊先生と親しくおつきあいいただけるようになったのは、1993 年に東京都立大
学(現在の首都大学東京)で開催された「アジア社会と環境問題」国際シンポジウムの準備期
間を通してであった。このシンポジウムは、その前年に設立されたばかりの環境社会学会が初
めて主催する国際会議で、初代会長の飯島伸子先生を中心に、何から何まで手探りで準備が進
められた。私は、インドネシアから現地の共同研究者アリ・スフィヤンディ氏(パジャジャラ
ン国立大学講師(当時))をゲストとしてお迎えし、私自身も報告を担当するとともに、準備段
階から実行委員にも加えていただいた。この時舩橋先生は、実行委員のお一人としてもっぱら
準備と実施の実働部門を指揮しておられた。つまり、環境社会学会の指導的なメンバーとして
ではなく、完全に裏方に徹して動いておられたのである。私の中では、舩橋先生は環境社会学
のファウンダーのお一人としてはもとより、日本の社会学界の第一線で活躍する指導的な研究
者としてのイメージが確立されていた。その舩橋先生が、学生アルバイト諸氏に周到なマニュ
アルを示して懇切丁寧に説明されているのを目の当たりにして、私のイメージは大きく塗りか
えられることになった。そして、その後も様々なプロジェクトを企画し実現される舩橋先生の
お姿を垣間見るたびに、時に裏方に徹して何ごとにも労を惜しまないところにこそ、舩橋先生
の本質があることに気付かされた。それから、日本社会学会や環境社会学会、飯島文庫プロ
ジェクト、科研費による公共圏プロジェクト、『環境総合年表』(日本語版と英語版)、そして急
逝される直前の国際会議に至るまで、私は折に触れて舩橋先生から様々な役割を与えていただ
きながら充分にご期待に応えることができぬまま、ただただ労を惜しまぬ舩橋先生のお姿を傍
から見ているばかりで月日が過ぎ、残酷にも突然お別れしなければならなくなってしまった。
舩橋先生から私が賜った最大のご恩は、2004 年度に先生が中心になって私を法政大学社会
学部にお招きくださったことにある。その年から舩橋先生は社会学部長として学内でも要職を
担われるようになっていたが、そこでも、労を惜しまない姿勢は完全に一貫しておられた。研
究者として学会や様々な研究プロジェクトの要職を担い、学部長等として大学運営でも重要な
役職を担い、社会運動にも率先してコミットされ、教育者としても多くの有為な人材を育成し
てこられた舩橋先生のことは、それぞれの方面からこの冊子も含めてこれからも末長く記憶と
記録が紡ぎ出されてゆくことと思う。ここでは紙幅が限られているため、法政大学大学院委員
会議長としての舩橋先生のことのみ記させていただきたい。
2009 年度から法政大学大学院委員会の議長をお務めくださるようお願いしたのはほかなら
ぬ私であった。当時私は政策科学研究科長の任に当たっていたが、その頃の法政大学大学院は
全体として志願者が減少し低迷しつつあった。その最大の要因が、他の競合する私立大学の大
学院が軒並み授業料値下げを断行していたにもかかわらず、法政だけは従来のままだったこと
にあった。すでに舩橋先生に議長をお願いした時点で、法政も値下げするという基本方針だけ
11. 職場の同僚から
125
は理事会から示されていたが、実際に値下げを実施したのは舩橋議長の任期中(2010 年度)
であり、理事会からは、値下げを断行するからには、それに見合う抜本的な大学院改革を実行
してほしいという難題が突きつけられていた。舩橋先生は、学費値下げの具体的な方針を固め
る過程で理事会と粘り強く交渉されたばかりか、大学院委員会内部に改革のための「タスク
フォース」を設置し、改革の土台を築かれた。そこから、「博士論文出版助成金」、博士後期課
程院生に対する二種類の給付型「研究助成金」、「海外における研究活動補助制度」、「諸外国語
による論文校閲補助制度」と、次から次へと大学院生の研究条件の改善と活性化に寄与する新
たな補助制度を提案し創設されたのである。この時は、日本社会学会の研究活動委員長とも任
期が一部重なっており、いかに学内外でお忙しかったかがわかるが、それでも舩橋先生は労を
惜しまず大学院改革に取り組まれた。私は最初の 1 年間大学院委員会でご一緒しただけだが、
その時、舩橋先生は単に労を惜しまないばかりでなく、自らの責任と信念を持って施策を立案
し、実に粘り強い熟議を尽くして結論を導き出してゆく人であることにあらためて感服させら
れたものである。今日、法政大学の大学院が当時の危機を脱し、院生の研究条件が格段に改善
されたのは、まさに舩橋議長時代の賜物なのである。しかも、舩橋先生は当時からもっと根本
的な大学院のガバナンスのあり方にも改革の思いを馳せておられた。大学院担当の副学長とい
う構想も舩橋先生が議長当時に示唆されたものだが、それは 2015 年度から実現している。
労を惜しまず熟議を尽くして結果を導く—この舩橋先生の生き方は、先生の学問と人生のす
べての局面で一貫して示されたものだと思う。私はその過程で恩恵を享受するばかりで、何も
報いることはできなかった。ただ、これからは、ほんの少しでも舩橋先生の生き方に倣って自
分の人生を全うしたいと思うのみである。
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
(法政大学社会学部)
12. 卒業生からの言葉
舩橋先生から学んだこと
江村 喜明
始めての講義
舩橋先生の法政大学での最初の講義は、たしか 1979 年 4 月のことだったと思います。授業
は一時限目で、当時の法政大学ではあまり学生が集まらない時間帯でした。たくさんのプリン
トを抱えて教室に向かわれる先生と廊下で一緒になったことを覚えています。私は先生の教師
として真摯な姿勢が今でも印象に残っています。大学入学 6 年目でやっと 4 年になった私でし
たが、そのおかげで舩橋先生から学ぶことができたのでした。
舩橋ゼミ
一年間ゼミで何を学んだかといえば、それは学び方、考え方の方法論とでもいうことかと思
います。具体的には、KJ法やブレーンストーミングなどの手法を学んだことが印象にありま
す。また、最近読んでいるイリイチを最初に読んだのも舩橋ゼミでした。
卒業後の繋がり
毎年ゼミ生の卒論発表会などで、繋がりの場がありました。
舩橋先生も、一時期有機農業(の真似事)をしていた私から野菜を購入して下さったり、一
度御代田の畑に訪ねて来て下さったこともありました。また、2005 年まで 10 数年続けた、障
がいのある人たちを対象にした夏の農作業キャンプにも、舩橋ゼミの学生さんに参加しても
らっていました。
最後にいただいた言葉
これは私なりの理解になりますが、先生は現実の社会課題に向き合うことの中に、社会学と
いう学問の存在理由を置かれていたのかと思います。それは自分が小さなNPO法人で、事業
という形で社会課題解決の一つの形を作ろうとしていることから思うことです。
最後に深く印象に残っているのは、脱原発運動に関して話された中での〈勝てないけど、負
けない。〉という言葉です。それは、小さくても強い根付きをもった実体を作っていくことが必
要だというように自分なりに考えています。
現在、〈暮しと学びの場〉として、長野県御代田町に〈塩野みんなの家〉を始めました。少人
数の合宿等での利用が可能です。舩橋先生にご縁のある方々に利用していただけたら幸いです。
128
特定非営利活動法人お仕事チーム 代表運営委員
1980 年 3 月卒業
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
先生の思い出
豊島 雅勇
先生との出会いは、先生の教師生活最初の一年からです。先生が法政大学助教授に赴任の際
のゼミ一期生として、私ははじめてお会いしました。
当時先生は社会工学、社会計画論をベースにした受益圏、受苦圏(故梶田孝道先生)等、社
会工学の考え方をベースにした社会計画論、組織論、運動論が岩波書店の「思想」等に掲載さ
れ、新進の社会学者のイメージでした。当時の法政大学社会学部には矢澤修次郎先生も在籍し
ており、先進的なイメージが強い学部でした。先生はゼミ生の啓発にも熱心で、当時ゼミ生を
引率し、東京大学の吉田民人先生のゼミ討論などにも特別に参加させていただいたのも良い思
い出の一つです。
私はその当時学生に人気のあったマックス・ホルクハイマー、ヘルベルト・マルクーゼなど
のフランクフルト学派などの著作に心酔しており、先生の研究室を訪ねて、やや雑談ながらこ
の学派の考え方、社会計画論の話をゼミの雑用に紛れてする機会があり、こんな学生によく付
き合ってくださいました。理性的な暫時的社会理解と弁証法的な一括理解を行う社会理解には、
相容れないものがあるなど、当時のラルフ・ダーレンドルフとユルゲン・ハーバーマスとの議
論を聞きかじった話に付き合っていただきました。いま思い出すと冷や汗ものですが、私の学
生時代の懐かしい思い出です。
1984 年の卒業からの長いサラリーマン生活の果て、日本の産業のアジア企業との競争力低
下のなか 2013 年の春に私の職業人生も変わり、現在は地元の介護施設職員として再就職をし
ております。その際に先生にメールで連絡をとりました。先生も私がゼミ一期生ということあ
り、覚えていてくださり、励ましていただきました。
春の恒例の研究発表会に長いブランクのあとに参加し先生の近況に接しました。やや顔色が
すぐれないことが気になりました。福島の原発事故をめぐる原子力市民委員会の座長というお
立場でした。
2015 年の現在は社会も大きく変わりました。1980 年台のバブル経済がはじけ、“喪われた
20 年” の中で “社会喪失の時代(ロべール・カステリ)” 等、労働者の立場の不安定性から “中
間層消滅(駒村康平)” 又、現在話題のトマ・ピケティの “21 世紀の資本” 等で社会格差拡大
の中で資本税の導入の必要性等、社会保障、社会計画による社会の変革の必要性が叫ばれる現
状があります。そのような最近の社会情勢の中で、先生が得意とする社会工学、社会計画を駆
使した舩橋先生の教えを思い出す中、その訃報に接しとても残念に思い、その喪失感を感じる
のは私だけではないはずです。
こころより先生のご冥福をお祈りする次第です。
(1980 年卒業 ゼミ一期生)
12. 卒業生からの言葉
129
与えられた 1 タラントン
織田 和家
修士課程の受験に当たって舩橋先生に推薦状をお願いしに行ったのは、91 年のことだった。
私の直前の相談と学問分野に関する無知に対して叱責を受けてしまったが、それでも先生は素
晴らしい推薦状を書いてくださった。結局この年は入試で全滅したものの、翌年、早稲田の商
学研究科に入ることができた。研究者としての自分のスタートだった。
それから 20 年がたつ。いまだにうだつが上がらない私は、まだ博士号も取ることができず、
それでもまだ研究することはあきらめてはいない。もはや意地でもヤケクソでもいい。夢は、
人がそれを見捨てない限り、決して消えることはないのだ。というか社会学をやる以上、自分
の研究は必ず社会の役に立つ。曲がりなりにもそれに従事した以上、最後までやりとげるのが
研究者の存在意義というものだろう。そして何より、自分の研究は自分にしかできないのだ。
新約聖書のマタイによる福音書 25 章にこんな話がある。ある金持ちが旅に出る時、3 人の僕
を呼んで、自分の財産を預けた。その際それぞれの力に応じて、1 人には 5 タラントン、1 人
には 2 タラントン、もう 1 人には 1 タラントン預けて旅に出たのである。5 タラントンと 2 タ
ラントン預けられた僕はそれで商売をして、主人から預かったタラントンを倍にした。けれど
も 1 タラントン預けられた僕は、穴を掘って主人の金を隠しておいた。商売に失敗して主人の
金を失うのが怖かったのだろう。そして主人が帰って来た時、5 タラントンと 2 タラントンの
僕は「忠実な良い僕だ。よくやった」と褒められたが、1 タラントンの僕に対しては主人は激
怒し、外にたたき出してしまったというのだ。
研究に関して悩む時、いつも私はこの話を思う。私は研究者としては、まだまだ力不足だ。
しかし、そんな私でも、少なくとも 1 タラントンは与えられている。この 1 タラントンを穴を
掘って埋めてしまうか、それとも失敗覚悟で生かそうとするか。もちろん後者しかない。そし
てその 1 タラントンを与えてくださったのが、学部で基本を叩き込んでくれた舩橋先生に他な
らないのである。
だとすれば、私たちはそれに応えるべきだろう。天職のことをドイツ語で Beruf、英語で
calling という。「私があなたに与えた才能(1 タレント)を、世の中のために使いませんか」
と神が呼びかけてくれているのだ。研究者が自分の天職かどうかはわからないし、先生は神様
でもない。が、少なくとも先生は 1 タラントン与えてくださったのだ。これを私がどう生かす
か、先生は今もあの時と変わらず見守り、叱責してくれているに違いない。
「私が君に与えた研究能力を、社会のために使わないか」と。
130
(専修大学社会科学研究所研究員・横須賀学院高等学校講師)(1984 年 3 月卒)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
厳しくやさしかった舩橋先生のまなざし
春日 純一
暑い夏の日、平成 26 年 8 月、朝、友人の電話で起こされた私は、熊本県で先生の訃報を聞
き、茫然としました。ここ 3 年間以上も会えていないことを後悔しながら、半分疑りながら全
国紙も含め 3 つの新聞を破きそうな勢いで開きましたが、確かに熊本の地方紙にも間違いなく
掲載されていました。それを見ながらゼミの友人にすぐ連絡しました。
この原稿依頼があり、この春、私は思い出をたどりながら大学へと足を運び、その帰りに神
宮球場に足を運びました。久しぶりに校歌を歌い、毎年 3 月に行われていた卒業生の研究発表
とゼミの卒業生の懇親会の場で最後に歌った校歌を思い出していました。
昭和 55 年 4 月、法政大学に入学し、私はすぐ父親をなくしました。大学生活を続けること
ができたものの、高校時代の両親の離婚問題もあり非常に冷めた意欲のない人間になっていた
自分には、何か自分がここにいることの意味が必要になっていました。
2 年生になった時、そんな受身的な自分はゼミに参加しようといくつかのゼミに参加しまし
た。一番厳しいという噂の舩橋ゼミにも足を運びました。数人の友人は、自分の興味ある内容
でなかったためほかのゼミに行きましたが、私はどうしても惹かれるものがあり、引き続きレ
ポートを出しながら 2 回、3 回と参加していました。参加者は毎回 10 人以上減っていきまし
た。意欲や知識不足で落とされたらしょうがないと思いながら。参加希望者が 12 名に減った
ところで、参加の登録をするよう伝えられました。この人数でないと指導ができないというこ
とでした。この間に先生が非常に熱い情熱を持った人間であることに非常に強烈に惹かれまし
た。厳しくも時折にのぞかせるやさしい目に引き付けられていました。
週 2 回のゼミは非常に刺激的でした。また、3 年生のときには調査に行くことがわかりまし
た。名古屋新幹線公害問題で夏に 1 週間近く。基本的に受身であった私は知識を得ることが中
心となり、ほかの優秀なゼミ生のように疑問をぶつけあい議論することには積極的ではありま
せんでした。ただ、ここには参加していたい。その中で先生の活動を側面から協力していきた
いと考えていました。調査の写真記録をとること、参考になる測定調査に進んで参加しました。
長期休みのバイト代でカメラ、三脚を購入しました。事前の騒音測定では神奈川で 2 か所、埼
玉県で 1 か所の測定を行いました。測定器の使い方の習得が一番の目的です。調査で行ったヒ
アリングのテープ起こしは、なるべく話に忠実に正確に起こすよう心がけました。研究する先
生に間違って伝わらないように。
ゼミの調査報告書の一部ではありましたが、何日かかけ印刷を手伝いました。完成した報告
書の厚さは、私の中では充実した日々の積み重ねの重さとなり思い出に残っています。また、
その後、先生たちの研究の成果が形になり出版された本は、ゼミに参加した私の大学時代の記
念品になりました。先生に直接依頼された本のための写真撮影はうれしくて興奮した日帰りの
名古屋行きでした。こんな小さなことしかできなかった私でしたが、貴重な大学時代 1 番の思
12. 卒業生からの言葉
131
い出を先生からいただくことができました。採用していただいた 3 枚の写真は、記憶の中では
撮影した日の天気までいまだに記憶に残っています。
卒業後は、地元に帰ることに決めていた私は、地方公務員になりました。ゼミの学習を活か
す場所が限られているからと言い訳していますが、先生の指導を生かしているとはいえない私
です。ただ、冷めていた私でしたが、偶然のことから始めた子どもたちのスポーツの分野で、
先生のような?熱い指導と先端の指導方法を取り込んで県トップ選手を育てています。その選
手がわが法政大学で活躍してほしいと願っています。また、写真では、市町村の広報紙コン
クールで全国 1 位となりました。こんなことでしか活かしていない。直接的に何も生かしてい
ないことを、先生の退官のときは謝らなくてはいけないとずっと思っていました。ほかの多く
の優秀なゼミ生の活躍もありますので、どうか許してほしいと思っています。
先生はくだものが好きだと言っていましたので、ここ何年か秋には毎年フルーツを送ってい
ました。直接的に何も応援できない私は、何らかの形で先生の応援団でありたいと思っていま
した。そんな機会を持ててうれしく思っていました。きっと、まだ完成してない研究を続けて
いる先生に、まだ送っていきたいと思っています。
先生が亡くなって 1 か月後、ゼミの友人と毎年山に登っている私は、泊まりながら先生の思
い出話しをずっとして、酔っぱらってしまいました。先生は、お酒は飲みませんでしたが、献
杯し二人でいつも以上に飲んでしまいました。懇親会に行くたびに年々やさしくなるまなざし
を思い出しました。肩を組んで歌った校歌や真剣な議論をする厳しい若い日と変わらない目。
今ではやさしい目としか記憶に残っていません。これからも家族や多くの友人、同じ研究者、
ゼミ生たちをその目で見守っていてください。
132
(公務員、長野県在住、1984 年 3 月卒業)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
舩橋先生と研究室
飯野 智子
私が生前の舩橋晴俊先生に最後にお会いしたのが去年の 7 月 22 日で、春学期の最後の授業
の日であった。そして夏休みが明けた 9 月 16 日、先生がもう二度と帰ることのない研究室に
私は一人で入った。何もかもが 7 月のままで、ただその人だけがいない研究室の鍵を開けた時
の気持ちを私はうまく言い表せない。それから秋学期の間、火曜日の授業が終わると、先生の
お手伝いをしていた時間に研究室の整理をする事となった。
考えてみると、1983 年にゼミに入って以来、大学に行って先生にお会いしない事などほと
んどなかった。特に研究補助をするようになったこの 20 年ほどは、毎週火曜には必ず研究室
に伺っていた。なかなか整理できませんねなどと言いながらも、先生の研究室はとても居心地
のよい場所であった。
研究室というものは、学者の頭の中を反映していると思う。先生の過去の業績も、進行中で
あった仕事も、将来の計画もそこにはあった。また、学生への思いやりや厳しさを表す様々な
書類もあった。環境社会学という言葉もなかった頃の若い舩橋先生と行った大宮市周辺の調査
資料などが出てくると、片付けの手も止まりがちであった。何しろ捨てない方であったので、
先生が価値があると判断したものが全て残っていた。それだけに、それまでは必要であったは
ずのものを仕分けし、廃棄するという作業はつらかった。同時に、何か奇妙な、「先生は今教授
会です。私は研究室の整理です」というような感覚があった。先生がドアを開けて入ってい
らっしゃり、「ああ、大変ですね、ご苦労様です」などとおっしゃるのではというような思いが
いつまでもなくならなかった。
先生は学問にも人にも誠実で真摯に向き合われたことは誰もがご存知であろう。例えば私が
授業を終えて研究室に戻り、学生の学習態度や何かを嘆いたとしよう。そのような時、先生は
例え何をなさっていても、必ず手を止めこちらを見て「どうしましたか」と言って下さった。
大切なお仕事の邪魔をしてしまったと、私はすぐに恐縮するのだが、先生はつまらない愚痴も
微笑みながら聞いて下さった。学生には大変寛大な方で、私は言うなればいつまでも先生の
「学生」の様なものであったので、大目に見て下さっていたのだとは思うが、今目の前にいる人
と真剣に向き合うという態度は、舩橋先生の大いなる魅力の一つであったと思う。あのように
人に対して思いやりのある寛大な人を私は他に知らない。学問の専門は違ってしまったけれど、
舩橋晴俊先生の学生で本当に幸福であった。
(法政大学非常勤講師 1986 年 3 月卒)
12. 卒業生からの言葉
133
私にとっての舩橋ゼミと舩橋晴俊先生
早川 広美
私は大学時代にしっかり勉強をしたのだと、胸を張って言ってきた(出来はともかくとして)。
それは、舩橋ゼミで 3 年間鍛えられたからだ。そのことだけを切り札か何かのように、そう
言ってきた。
舩橋ゼミは当時の社会学部で最も厳しいゼミとの評判だったが、基礎から社会学を学べそう
なことと、社会調査を実地で学べるということで選んだゼミだった。私は「学問」に飢えてい
たのかもしれない。当時、ゼミは必修でもなかった。
評判に違わず、ではあった。が、ウェーバーやミルズなどの古典を読み、仲間と共に議論し、
舩橋先生からの様々な角度からの解説を聞き(その素晴らしさに当時は気づいていなかった)、
さらには論文の書き方などのノウハウも教えられ、ようやく私は大学の勉強というものに大き
な充実感を覚えることができたのだった。
舩橋先生はその頃 30 代前半くらいで、その後の OB 会でお会いするたびに丸くなられてい
たが、当時は怖さ(畏れ?)の方が勝っていたかもしれない。それでも新幹線公害の調査で現
場に行った時や、合宿の時、雑談の時などには「少年のような笑顔」の先生もいらしたし、何
よりも学生一人一人を尊重し、丁寧に向き合ってくださった。議論での私の拙い発言にもきち
んとコメントを返され、どんな分野の卒論でも、的確な理論とアドバイスを繰り出されていた。
社会経験を経た今、また舩橋ゼミで先生の教えを受けることができたなら…と想像すると、
いくばくかの興奮を覚えるのである。それはもう叶わないことなのだが。
私にとって、舩橋ゼミで学んだ 3 年間は、人生での自信であり、支えである。
私は OB 会にもできるだけ参加してきた。それは舩橋晴俊先生にお会いして、その学問と社
会変革と教育への真摯な活力あふれる取り組みを直にお聞きし、お話をすることで、清々しい
気持ちになり、日々の惰性に流されがちな自分を年に 1 度シャキッとさせたいがためだった。
2、3 年前の OB 会の時にお聞きした「理想+不可知論」「尊重性と超越性」の考えは、「そう
か!」と思えるような、とても大きな指針で、学問の世界のみならず、ビジネスの場や人との
付き合いの場でも重要だと思えた。
私にとって、舩橋晴俊先生は間違いなく恩師であり、人生の灯台でもあると思う。これから
もきっと私の心の中で生き続けてくださるだろう。
134
(あおぞら自然共育舎 代表/ 1986 年 3 月卒業)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
ブレることのない静かな情熱
藤守 義光
私達多摩 1 期生は、歴代の船橋ゼミの中で、いわば孤児のような存在だ。学部改革で飯田橋
から切り離されていたため、ゼミの先輩との接触が全くといっていいほどない。さらに 2 年で
1 ゼミが終了すると、舩橋先生がフランスに留学されることになり、卒業するまでゼミの後輩
がいないという有り様だ。だから、ゼミの卒業生の集まりに出席しても、なんとも居心地が悪
いのだ。でも私達は不幸だったとは思わない。むしろ我々は、歴代のゼミの中でむしろ一番い
い思いをした世代ではなかったかと感じている。
たしかに、キャンパスどころか、工事現場のまっただ中に放り込まれた時、誰もが騙されたと
思ったに違いない。しかしながら授業が始まって、教室で我々を待っていたのは、先生方のあふれ
るべき情熱と気迫だった。おそらく 1 年生を教えるなどというのは初めての先生方が、新入生を
相手に手加減することなく授業をされた。教務主任として、学部改革に腐心されていた舩橋先生は
その急先鋒というところだ。「社会科学の方法」という授業では教科書の代わりに大量のプリント
を配布し、宿題としてそれを事前に読んでくることを要求し、挙句の果てに 250 人という大教室
の授業で、学生を指名して答えさせるということまでやってのけた。
「ハイ、そこの赤い着物の人、
どう思いますか?」という舩橋節は、未だに多摩 1 期生の間で伝説として語り継がれている。
2 年でゼミが始まると、先生はますます熱くなった。通常 4 限のみのゼミは、初日から 4,5 限
を通してやると宣言され、更に学生のみで他の日に 2 コマ分の 3 時間を行うことが求められた。
先生のいる時のゼミは、気合が入って当然 5 限で終了することなどなく、しばしば巡回の守衛さ
んに追い出されるまで続いた。東京とは思えないほど真っ暗になる多摩校舎のバス停で、疲れて
話す気力もなくぼう然とバスを待っていた時のことを懐かしく思い出す。ゼミ合宿にいっても然り。
朝から晩まで勉強し、ようやく夕食になったとおもいきや、その後また 2 時間ほど勉強する。そし
て、ようやくそれから宴会が始まるという具合だった。2 年のゼミはいわば「ヴェーバー漬け」で、
前期は厚東洋輔の「ヴェーバー社会理論の研究」を、後期は真木悠介の「現代社会の存立構造」
を手始めに 5,6 冊を読むという、今の大学では考えられないゼミだった。しかも授業だけでなく、
当時手がけていた新幹線公害の調査にも、積極的に我々を取り込んで下さり、調査の大切さ、社
会の中で生きている人の息遣いを感じることの大切さを、教えてくださった。先生は熱いといって
も、声高に語る人では決してない。目の前にある事柄(ザッへ)に、いかに忠実にかつ誠実に
向き合っていくのか、そのことだけにまさに自らの魂をかけておられたのだ。今になってそれがよ
く分かる。それは学問に対してだけでなく、大学の業務も、関わっておられた環境問題に関して
も、そしておそらくご家族に対しても同じであったであろうと思う。決してブレることのない
その静な情熱は、4 年間私達を揺さぶり続けた。そして今もなお、私達を確かに導き続けている。
(1988 年卒業、公益財団法人 Wesley Foundation 勤務、昭和女子大学非常勤講師)
12. 卒業生からの言葉
135
ななめの関係
堀田 恭子
1984 年 4 月、多摩 1 期生として法政大学社会学部に入学した私は、工事用トラックが走り、
社会学部棟くらいしかないキャンパスで、舩橋先生の「社会科学の方法」を受講した。配布さ
れた資料集は手書きの表紙だった。「アランの理論」から「中範囲の社会学理論」まで抜粋が印
刷され、最後に例題集(手書き)と討論用レポート作成のためのヒント(手書き)までついて
いた。先生の授業は、最初にいくつかの問いを提示し、次にそれぞれの解答を細かく講義して
いくというスタイルであった。毎回の授業を積み上げて半年が終わるという達成感のある授業
でもあった。当時の授業ノートは手書きだが清書された形でいまだに私の本棚にある。
舩橋先生との関係は、思い返せば常に「ななめの関係」だった。私は学部のゼミ生でもなく、
大学院の指導生でもなかった。ただ授業の面白さに魅力を感じ、1 年の終わりに舩橋ゼミを受
験した。舩橋ゼミは非常にハードなゼミだと聞いていたので、第 1 希望ではなく第 2 希望とし
た。合格はしたものの、サークル活動中心の大学生活を送り始めていた私は第 1 希望の田中義
久先生のゼミに所属した。
4 年後の 1988 年、私は大学院に進学した。当時舩橋先生は大学院を担当されておらず、斜
めの関係というよりも関わりそのものがなかった。1990 年に博士課程に進んだ時、指導教員
である田中義久先生が研究休暇をとり、私は舩橋先生の預かり院生となった。ななめの関係、
4 年ぶりの復活であった。
翌 1991 年には舩橋先生は社会調査ゼミを開講し、前年から準備されていた新潟水俣病の社
会学的調査が本格的に始まった。都立大学飯島伸子先生の研究室との共同調査でもあった。
1992 年の夏、未認定患者への量的調査に修士 1 年生が 1 名参加した。かなり厳しいスケジュー
ルでハードな日々が続いた。修士の学生は舩橋先生の指導生で、彼女は私に「自分から先生に
つらいと言えない。先輩は博士課程だし、舩橋先生とは直接指導する・されるの関係にないか
ら、このつらさを舩橋先生に伝えてほしい」と言ってきた。そして私たち二人は先生の研究室
に向かった。私は「先生のこれまでのやり方だと、院生が非常につらく、倒れてしまいます」
と訴えた。私自身、ここで先生の怒りをかい出入り禁止になるかもしれないという覚悟はもっ
ていた。先生はしばらく私の訴えを聞いて、「わかりました。これから院生に負荷を与えないよ
う気をつけます」とおっしゃった。
私が舩橋先生と調査をともにしたのは、この新潟水俣病調査のみだった。そしてこの調査は
私が初めて体験した本格的な調査であった。舩橋先生はよく「この調査はコース料理みたいな
ものです。前菜から始まって、デザートまでついている、実に多くのことが学べる調査です」
とおっしゃっていた。調査票作成、分析、報告書作成、論文作成等々、当時は飯島先生を中心
に多くのダメだしをされつつも私は充実した時間を過ごした。
数回にわたる調査時、ご一緒した行き帰りの新幹線で、資料整理の方法や調査後の後片付け
136
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
の方法、そして博士論文の内容に関して、私はよく舩橋先生に質問をした。ただ常に車内でも
パソコンを取り出し仕事をしておられたので、なかなかタイミングをうかがうのに苦心したこ
とを覚えている。飯島先生も独特のパワフルさをお持ちだったが、両先生とも私にとってはな
なめの関係だったからこそ、私もなんとかやってこられ、そして新潟水俣病での博士論文執筆
が可能となったと思っている。
両先生のもとから、単独で調査ができるようになった私は 1995 年、2 ヶ月ほど新潟に泊ま
り込み、未認定患者の継続調査と認定患者への量的調査を行った。結果的に 50 名の認定患者
への調査票調査を実施できたが、その際、新潟から先生のご自宅のある大磯に電話報告をした
時に必ず聞かれるのが「今何人、(調査票を)とれましたか?」であった。舩橋先生のたんたん
としたお声がかなりのプレッシャーとなり、思わず「先生、もう数字のことは聞かないでくだ
さい。しんどいです」と言った事があった。そのときは自分がつぶれそうで、言いたい事を
言ってしまったが、舩橋先生は私の態度をとがめもせず、
「わかりました。今後は言いません」
とおっしゃった。
斜めの関係に甘え、自分の無力さを棚にあげて、先生に言いたい事をいいながらも、私に
とって舩橋先生は困ったときの駆け込み寺だった。博士論文構想、就職相談、転職相談、人生
相談等々、お忙しいにもかかわらず、そのたびごとに手紙や電話、そしてメールをいただいた。
先生とは 2000 年以降、私が長野県の研究所から長崎大学に転職をし、さらに 1 年後に出産
したこともあり、お会いすることがほとんどなくなった。時々、他の方々を経由して、私のこ
とを「調査を実施して学位もとり、研究職に就職できた例」として先生がよく口にしているこ
とを聞いた。久しぶりにお会いした時に「先生、恥ずかしいから、あまりな過大評価はやめて
ください」と言ったことがあった。先生は笑って何もこたえてくれなかった。
その過大評価に対して、私の方から何が返せたのかというと心もとない。先生の学部長就任
のお祝いに、長崎の波佐見焼きのマグカップをおくったことがあった。お好きなココアを飲み
ながら、ゆっくりとした時間が少しでも過ごせるようにとの思いをこめて贈った。ご葬儀の日、
惠子先生からそのマグカップを日常的にお使いいただいていたことをお聞きすることができ、
悲しい涙が少しうれし涙になった。そのほか 2008 年には、ささやかではあるが、還暦のお祝
いの会を湯浅陽一さんらとともに開いた。
2010 年、田中義久先生の退官パーティの際、二人でかたわらのイスに並んで座り、舩橋先
生に「先生の退官パーティ、喜んで開きたいです」と伝えたところ、「僕は還暦のお祝いのよう
な、あのような会がいいですね」とはにかみながらおっしゃった時のお顔を忘れられない。
そのお顔を思い出しながら、まずは退官記念論文集だと意気込み 2014 年春に企画を練った。
湯浅さんと二人で舩橋先生にご相談したところ、6 月の環境社会学会、福島セミナーでのお昼
休みに「自分の理論を使い、各自が書いてもらえたら」という話をいただいた。それが私が先
生とお会いした最後であった。
ななめの関係と私のみが思い込み、その関係に甘えていたが、実は舩橋先生は、それを承知
の上で常にまっすぐに誠実に対してくれたのだと、今にして思う。そして 30 年前の 4 月、舩
橋先生との出会いとほそぼそと続いた関係が、飯島先生をはじめ多くの豊かな出会いを私にも
たらし、今の私をつくっている。突然の駆け込み寺の喪失に、いまだにその事実を受け入れら
れないでいるが、今、再び新潟水俣病問題に向き合わざるをえない中で、先生に心の中で多く
を問いかけつつ、その答えを心の中で聞き続けている。
(立正大学)
12. 卒業生からの言葉
137
舩橋先生の思い出
角 一典
私はもともと政治学の出身で、大学院の修士課程から法政の社会学専攻に入学したので、そ
れまで舩橋先生の存在はおろか、社会学がなんたるやも、環境社会学の存在も知らなかった。
当時、舩橋先生が土曜日に開講していた社会計画論?(なにしろ 20 年以上前の話なので、正
確な科目名が思い出せない)を受講したことが、舩橋先生との出会いである。受講の初日、講
義の時間が 2 時間半であることと、フリードベルクの『組織の戦略分析』を 2 週間で読み切る
ことを宣言され、早々に先制パンチを浴びたような気になったのを思い出す。それから 1 年、
堀田恭子さん・高橋真由美さん・佐藤晴美さん・九鬼悦子さん、女性ばかりのゼミで揉まれる
こととなるが、学生の発言機会がきわめて多く、また、執筆中の草稿がテキストになることも
しばしばで、今までに経験したことのないゼミ運営に、当初は戸惑ったが、「対抗的分業の理
論」、「組織の存立構造論」、「協働連関の両義性」など、舩橋先生が構築する理論の根幹となる
ような論文をはじめ、毎回の文献の量に苦しみながらも次第に学問の面白さというか、深さと
いうか、そうしたものを感じながらのめり込んでいる自分がいたような気がする。
詳しい事情は、今となってはわからないが、その年に長野で新幹線建設の反対運動を展開し
ていた「軽井沢・新幹線を考える会」からのアプローチがあったものと思われる、年が変わっ
て、翌年度の学部ゼミで長野において新幹線に関わる調査を行うので、関心のある院生は参加
してもよいということが伝えられた。当時の自分は、修士論文のネタすら見出すことができな
い、先行きの見えない日々を過ごしていた。ある意味、舩橋先生の申し出は「渡りに船」とも
いえるようなものだった。調査のことなど何も知らずに長野の調査に飛び込んでいった。今考
えると冷や汗物である。
思い返すと、私にとって調査のデビュー戦であった長野調査は惨憺たるものであったと言わ
ざるを得ない。佐久市役所での聞き取りでは、舩橋先生と職員の間で 2 時間に及ぶ聞き取りが
行われたが、これはもともと私が質問を任されていたにもかかわらず、駅周辺整備に関わって
必要な都市計画の知識がゼロである私の様子を見かねて舩橋先生が介入したことによる。また、
最終日の軽井沢町役場では、舩橋先生と別行動となって行った初めての聞き取りだったが、相
手の高圧的な態度に臆して、こちらもメタメタな調査になった(話は逸れるが、その時の宿舎
は学生の身内の別荘で、宿舎に戻ると毎日舩橋先生が自宅に電話をかけていたのも思い出す。
また、早めに調査が終了した日に野菜スープを作ってくれたのも懐かしい記憶である。典型的
な仕事人間と思っていたので、意外な一面を見せられて、これもまた強烈なインパクトとなっ
た)。
そんな状況であったにもかかわらず、新幹線調査にしがみついたのには、もはや自分にはこ
の道しか残されていないという覚悟だったように思う。自分の能力が理論や学説で食っていけ
るレベルにはないことを自覚せざるを得なかったからである。また、しがみつけたもうひとつ
138
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
の理由は、金銭面での不安がなかったことにもよる。舩橋先生は常日頃、学問的に戦う姿勢の
重要性(具体的には学会報告と投稿を積極的にすること)と調査の重要性を私たちに語ってく
れた。そして、積極的に調査に出ようとする学生に対しては、お金の面も含めて手厚くサポー
トしてくれた。これがなかったらおそらく私はどこかで挫折していたことと思う。学生を育て
ようという思いが人一倍強かったのも舩橋先生である。しかし、自分は残念ながら不肖の弟子
であった。あちらこちらの学会で愚にもつかない論文を書き散らし、報告をくりかえすことし
かできなかった。
調査に行ったはよいが、結局修士論文の展望がはっきりしないまま、新幹線調査で書き進め、
とりあえずは仕上がったものの、内容はこれまたメタメタ。内容が内容だけに、舩橋先生が副
査に入られたが、後に風の噂で聞いたところによると、慣例として主査の意向で成績が決まる
ところ、舩橋先生は B 判定にすることを譲らなかったという。これはご本人の口から聞けたこ
とだが、「この程度で A を与えれば、角君は学問をなめる」と言われた。優しさだけではなく、
厳しさもあった。博士課程の 1 年目、論文投稿に失敗し、しばらく査読論文の投稿はおろか、
論文そのものすら書けなくなるような状況の中で、新幹線調査だけが心の支えだった(後日談
だが、私はその年の博士課程の試験に奇跡的に合格し、修士論文で B 判定をもらった最初の博
士課程の院生となった。そしておそらく、その後もそんな奴はいないことと思う)。
博士課程の 2 年目の時、ある大学で採用候補者を探しているのだが、私がその条件に適合し
ているので、とりあえず送ってみるかと舩橋先生から話があり、何もしないよりはという安易
な考えで履歴やそれまでに書いたものなどを舩橋先生にお預けし、その後そんなことがあった
のもすっかり忘れていた。ある日、自宅に舩橋先生から連絡があり、その時私は不在だったの
だが、北大の助手の就職が決まったとの伝言が残されていた。はじめはなんの話か分からな
かったのだが、先のことを思い出して、状況を理解することができた。いらい、北海道での生
活が 17 年目になる。
今の私が、曲がりなりにも大学教員でいられるのは、ほとんど舩橋先生のおかげといっても
よい。これまでの研究者生活は、残念ながら舩橋先生に評価していただけるようなものではな
かった。ご存命のうちに認めていただけるような仕事をしてみたかったが、今はそれも叶わな
い。舩橋先生の期待にどれだけ応えられたのか、今となってはお伺いすることもできない。今
後は、ただただ、舩橋先生の弟子という肩書?に恥じない仕事ができるよう、精進努力するの
みである。
(北海道教育大学)
12. 卒業生からの言葉
139
頭をガーンとなぐられた最初の講義から
石原 和
じつは、まだあまりピンときていないのです。先生が、もう、この世にいらっしゃらないと
いうこと。むしろ、その存在の大きさが増したかのように、心の中に先生を感じている自分が
います。
先生がフランスから帰国され、多摩校舎で講義をはじめられたのは、私たちが 2 年になった
春でした。まだ 40 代でノーネクタイの白いシャツ姿、眼光鋭い「フランス帰りの先生」の講
義は、びっしりと席がうまっていました。いちばん最初の授業で衝撃を受けました。えっ、世
界をこんな風に見ることができるんだ。今までかけたことがないメガネをかけたような驚き。
うれしかった。心が自由になったような、足取りが軽くなった感覚を今でも覚えています。こ
の講義をいつまでも聴いていたい。と、迷わず舩橋ゼミを選んだのでした。
先輩がいないのでゼミ生は 2 年生 5 人だけ。心細さもありながら、真剣な熱をおびて発せら
れる先生の一言一言を、とにかく吸収しようと、目と耳をいっぱいに開いていたような気がし
ます。先生の指導は学生の自主性を尊重し、あたたかい厳しさがありました。「人は望むだけ聡
明になれる」なんて、頬杖をつきながら、さらりと言われた瞬間など、ハッキリとよみがえり
ます。
最後に先生の姿をお見かけしたのは 2013 年 11 月。国会内で開かれた福島第 1 原発事故の
汚染水問題シンポジムの取材でした。技術者や科学者、産業界、漁業関係者など会場は満杯で
熱気にあふれ、各分野の専門家が並ぶなか、先生は原子力市民委員会の座長として発言されま
した。終わってあいさつをすると「よく来たね」と、いつもの少し高い声と笑顔で、座長とし
ての名刺を差し出されたのでした。あのとき入手した「原発ゼロ社会への道」は、いつも仕事
場にあります。福島で暮らす人々に取材をするたび、たびたび頁を開きます。時間がたつなか、
何が変わって何が変わらないのか。読むたびに先生が語りかけてくれているようで、心がしん
としてしまう。でも、悲しい「しん」ではないのです。一番ほんとうのことを求める精神の動
きが大切、心して望みなさい、と。まるで先生がどこかから見守ってくれているかのような。
先生のことを考えていて、あるときこんな言葉が浮かびました。「世界に対する愛情がハンパ
ではない」
。世界を愛すること。いまを生きる人々をとりまくすべてをあきらめない。現実の複
雑さ、豊かさに向き合うこと。そんな生き方を、全身で示してもらったのではないか。社会で
起きている問題は正解がないことの方が多く、福島原発事故以降、私たちは負けられない綱引
きをしているような気がしてしかたありません。困難であればあるほど、希望につながるもの
をどうしても見つけたい。そのために必要なことは何か、つねに問い続けなければ。そんな思
いをつよくする日々です。
140
(新婦人しんぶん編集部)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
先生の「声」について
(思い出と、感謝を込めて)
野田 賢二
舩橋先生は、よく通る、とても「いい声」をしていました。その声は、講義での真摯な姿勢
と相まって、独特の格調高い雰囲気を醸し出していました。私が先生と直接お話しして声を聴
いたのは、二十年前に出席した同窓会が最後になってしまいました。
数年前、ある書店で『組織の存立構造論と両義性論』という、先生の著書を見つけました。
店内の多数の本の中から、背表紙の「舩橋晴俊」という著者名が目に飛び込んできたのです。
その時(大げさに言うと)先生の「人格」に出くわしたような気がしました。例えば「角を曲
がると、ちょうどそこに先生が立っていらした」ような。不意の「再会」に驚きつつも、懐か
しさがこみ上げて来て、とてもうれしかったです。
その著書の中には「社会問題に対して、社会学がどのように貢献できるのか、社会学が果た
すべき役割があるはずだ」という主旨の文章がありました。使命感を持って研究に取り組んで
いらっしゃる様子が行間から伝わってきて、在学中に受けた先生の講義が思い出されました。
冷静で、それでいて情熱的な、あの語り口(そして、あの声!)は、とても深く印象に残って
います。研究者としても、ゼミの指導教官としても、高い評価を受ける舩橋先生ですが、「教壇
に立つ教師」としても素晴らしい先生だったと思います。
先日、二十年振りに、舩橋ゼミの研究発表会に出席させていただきました。「最近の学生さん
は、しっかりしてるなぁ」と思うと同時に、先生はご自身の研究だけでなく教育者としても一
生懸命だったのだなと思いました。学生時代の私は「先生の研究を手伝っている」という意識
だったのですが、先生は研究を通して学生を教育して下さっていた、そのことに今更ながら思
い当りました。感謝の気持ちを伝えられなかったことが残念です。
研究発表会に続いて開かれた卒業祝賀会で、先生の奥様、舩橋恵子先生から、晴俊先生から
卒業生へ贈られた「卒業記念名曲集」というCD音源をいただきました。子供たちの合唱曲が
たくさん入っていて意外に思いましたが、舩橋先生は小学生の頃、合唱団に参加されていたと
のこと。なるほど、だから「いい声」をしてらしたのか…。
「名曲集」を聞くと、学生への愛情
と応援する気持ちを感じます。もう一度お会いしたかったです。
(自営業,1993 年 3 月卒業)
12. 卒業生からの言葉
141
40 歳にして
湯浅 陽一
舩橋晴俊先生に教えていただいたことは、数限りない。その中には、ご本人が教えるという
意図無く発言されたものでも、深く心に残っている言葉も含まれる。特に、「研究者としての歩
み」に関する言葉は、先生のご力量と我が身の非才さの差を承知しつつも、ついつい重ね合わ
せてしまい、自身の立ち位置を知る指針とさせていただいている。
大学院でのゼミの折、先生は、「40 歳にして、環境問題の研究者として生きて行く道が定
まった」という趣旨のことを何度が仰っていた。舩橋先生は、1986 年の夏から 2 年間、フラ
ンスの組織社会学研究所に留学されていた。1948 年の生まれでいらしたので、38 歳から 40
歳までの 2 年間をフランスで過ごされたことになる。フランス留学中、先生は M. クロジエら
による戦略分析を学ばれると同時に、TGV の公害対策などの調査活動を行っていらした。その
中で、かの地のエコロジストと出会い、環境問題の重要性に気づいたことで、環境問題を、生
涯における主要な研究テーマとする意思を固められたということをお話しされていた。
先生は、それまでにも新幹線公害や東京ごみ戦争に関する御研究を展開されており、公害・
環境問題に取り組まれていたが、社会学者としての出発点は、社会学理論の研究にあった。も
とより、社会学理論に関する独自性の高い研究はその後も展開されていくが、環境社会学者と
しての研究活動を展開していく本格的な意思を固められたのは、この頃であったと理解してい
る。
私は 30 代で学位を取得し、大学で職を得た。20 代より思い描いていた一つの地点には達し
た。とはいえ当然のことながら、これで終わりではない。私立大学の業務量に忙殺されつつも、
それに慣れてくると、その先の研究者や教育者としてのあり方を考えるようになった。自分の
研究者や教育者としての特徴や個性はどんなものなのか、それは社会や学問にどのような貢献
をなすものなのか。自分は、どのような道を進むべきなのか。
そんなことを考えていた矢先に、38 歳で東日本大震災・福島第一原発事故に遭った。それま
でエネルギー問題は、必ずしも優先順位の高い研究テーマではなかった。しかし、先生のもと
で環境社会学を学び、福島事故以降の時代を生きて行く者として、この問題に取り組むことは
避けられない。
そして 42 歳のときに、先生が亡くなられた。先生が手がけられていた取り組みの範囲は広
大で、かつ、深い。私の力量ではそれらの一部を継承することのお手伝いしかできないが、や
はり、正面から取り組むべき課題である。
こうしてみると、先生のおっしゃっていたように、40 歳前後において、今後の道筋が、固
まってきている。これからも、何度も、教えていただいたことを思い出すだろう。それらを
しっかりと生かしていきたいと思う。
142
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
(関東学院大学)
教え子の一人から見た教育者としての
舩橋先生
朝井 志歩
私が舩橋先生から初めて教えを受けたのは、1995 年度の「社会学理論」の授業であった。
当時、ウェーバー、デュルケム、マートンなどの理論を授業で教わり、さらに私は時々、法政
大学多摩校舎への通学中に、JR 相模線内で同じく通勤途中の舩橋先生にばったりとお会いした
ため、大学へ到着するまでの 1 時間ほど、舩橋先生と一対一で社会学理論について語り合うと
いう貴重な経験をした。あの濃厚な時間は、人生で忘れがたい思い出である。その際に、舩橋
先生は何度も、「理論を読みなさい」とおっしゃっていた。環境問題についての調査研究を熱心
になさっていた舩橋先生は、一般的には実証派だと思われているのかもしれないが、実は理論
をとても重視していた社会学者であると、私は思っている。それは、
「T 字型の研究戦略」での、
調査を通しての理論形成という方法の提唱にも表れているといえるのではないか。
舩橋先生の「理論を読みなさい」という言葉を素直に受け止めた私は、社会学理論の文献を
むさぼるように読んだことで社会学の面白さに目覚め、大学院に進学して舩橋先生の指導を受
け、今では社会学者となった。20 年近く舩橋先生から教えを受けていた教え子の一人として、
教育者としての舩橋先生について語ろうと思う。舩橋先生は、「このテーマを研究したい」とい
う、学生の心の底から湧き上がる情熱を否定せず、むしろ深刻な社会問題であり調査が困難で
あることが予測されるテーマであっても、「ぜひやりなさい」と受け止めて励ましていく方だっ
た。私が大学院博士後期課程 2 年の時、「厚木基地の騒音問題」について研究したいと述べ、
「先行研究が全然ないテーマなので、大変そうなんですけど」と言った際に、舩橋先生は「僕の
前に道はない。僕の後ろに道は出来る」という高村光太郎の詩を引用し、背中を押してくれた。
やりたい研究を否定されなかったことで、迷いなく自分の研究に突き進むことができ、調査や
研究で悩んだり行き詰ったりした際には、舩橋先生に相談すれば必ず的確な指導が受けられた。
どんなにお忙しくても、相談したいことがあれば舩橋先生には必ず真剣に向き合ってもらえる
という信頼があったからこそ、熱意を込めて自分の研究に没頭できた。これまで私にとって、
「私が書いた論文の一番目の読者は私自身で、二番目の読者は舩橋先生」であった。執筆した論
文について舩橋先生からコメントをもらったり、取りかかっている調査について相談したり、
興味を持っている研究テーマについて語ったりすることが、とても有意義で、楽しい時間だっ
た。これは私だけではなく、舩橋先生から指導を受けた学生・院生に共通する経験なのではな
いかと思う。
恩というのは、受けた相手には直接には返せないものなのだと、舩橋先生が亡くなった今、
切に思う。舩橋先生から受けた様々なご恩は、今後の研究と教育で学生を指導し、学問の発展
に寄与し、社会への責務を果たすことでお返ししよう。舩橋先生の教え子として恥ずかしくな
い生き方をしようと努めることでしか、私はこの喪失の痛みを乗り越えられない。
(愛媛大学法文学部准教授)
12. 卒業生からの言葉
143
舩橋先生へ
前田 正芳
昨年 8 月 22 日、先生の訃報を知りました。信じられず、涙がとまりません。
いつも目の前にある事実に真っ先に向き合い、自らの足と手と頭で、真摯に世界に向き合い
続ける先生。年度末に届くゼミと先生の研究活動報告、いつも楽しみにしていました。毎年大
いに勇気をもらいました。社会における自らの役割を果たすことに、骨身を削ることに、何の
惜しみもなく、むしろ多忙であればあるほど、嬉々としていた先生。思考している時、議論し
ている時の眼差しは一点の曇りもない鋭さで、でも教育者として学生を見る目は慈愛にあふれ、
今でも先生の姿を思い浮かべると現れるのは、その優しい笑顔ばかりで、それはゼミ生の幸福
な特権でもあったなあと、先生の偉大さを前にして感謝と涙があふれます。
結局、卒業してからは会ってお話することはありませんでした。唯一、年賀状での数行のや
りとりが宝物でした。いま考えていること、悩んでいること、私の一行か二行の近況報告に、
先生から返していただく言葉は、直接的な言葉ではないのに、こちらの心が見透かされていて、
いつも愛情を深く感じ励まされました。ひとりの教え子であっても、同時代に生きるひとりの
社会人として、同じ人間として、言葉をかけていただいているのを感じました。どこまでも誠
実な先生。そのお礼もできないままになってしまいました。
2011 年。これまでとは明らかに社会が変わっていく、そんな時代に会社の行き先を経営理
念として言葉にする必要性をひしひしと感じ、しかし明確にできず悩んでいた時、先生から教
えていただいた与謝野晶子さんの歌 「劫初より つくりいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ
打つ」がふと思い出されました。ゼミの時間、その時の先生の表情や言葉もありありと思い出
され、その時の自分の感動も蘇り、目の前が開けました。やはり私に与えられた役割の中で日
本の復興に貢献しなければいけない。そう思えたことも先生のおかげです。いくら感謝しても
足りません。
振り返れば、人生の節目節目に、先生に学んだことと先生の生きる姿が、私の前に現れ、励
まされ、力を得て進んで来られました。先生。やはりもう一度、お礼が言いたかったです。
ゼミの調査の時、先生から奥様が作って下さったおにぎりをいただきました。「うちの連れ合
いが」、と言って渡してくださった時の先生の笑顔。忘れられません。 もう一度お会いして先生の笑顔を見たかった。
社会問題に真っ向から立ち向かって行く背中と、弱い立場の人たちの声をどこまでも聞こう
とする真剣な眼差しと、そして人への世界への愛情にあふれた笑顔と。本当に残念です。
先生。来生もまた先生に学びたいです。今生のお礼は、その時に言わせて下さい。
144
(1999 年 3 月卒業 株式会社フレスコ 代表取締役)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
舩橋晴俊先生を偲んで
寒田 亮
私が舩橋先生に初めてお会いしたのは、大学 1 年生の前期に「社会計画論」の講義を受けた
ときでした。私が受講した 1997 年度は、諫早湾が閉め切られて干拓事業がスタートしたり、
フランスの高速増殖炉「スーパーフェニックス」の閉鎖が政策決定されたりと、国内外でさま
ざま出来事があった一年でしたが、そういった時事の話題を適宜授業に取り入れながら講義を
進めるお姿に、社会に密着した研究者の理想像を見、衝撃と感動を覚えたのを今でも思い出し
ます。
授業内においては、当初はそのスコープの広範さと分析視点の緻密さ鋭さ、鉄人のような研
究への情熱から、気軽にはお声かけできない印象が強かったのですが、少人数での「社会調査
実習」や大学院での指導の中で、気さくな一面も拝見でき、印象に残っています。特に印象的
だったのは、「寒田(そうだ)くんと相談してください」と駄洒落をおっしゃってにっこり笑わ
れたお姿と、(これは人づてに聞いた話ですが、)授業後のファミレスで、「思考の節約」のため
にメニューの上から順に食べるものを決めていらっしゃるという逸話です。後者の話は、研究
と実践に全精力を注がれていた舩橋先生のお人柄をよく表すエピソードだとつくづく感じます。
近年は、原子力市民委員会でご活躍されている様子を FoE Japan に勤める友人から聞き、
(あまりにも不肖でお恥ずかしいですが、)弟子の端くれであることを大変誇らしく思っており
ました。あまりの急な訃報に、9 ヶ月以上経った今でも私自身はまだ気持ちの整理がつかない
状態ですが、お忙しかった毎日から少し開放され、ゆっくりお休みいただけていることを祈念
しております。また、先生に安心してお休みいただけるよう、微力ながら持続可能な社会の実
現に貢献できるような人材を目指して一層精進して参りたいと思っています。
この場をお借りしてお礼申し上げさせてください。舩橋先生、大変お世話になりました。本
当にありがとうございました。
(2001 年卒・大学院政策科学専攻修士課程 2003 年卒 ヤフー株式会社 リサーチアナリシス部勤務)
12. 卒業生からの言葉
145
社会学的想像力を麻痺させない
吉田 暁子(新姓 遠藤)
東京からの引越しが決まって数年ぶりに同期の友人と会い「先生の退官の年にはみんなで懇
親会に参加しようね」と話していた数日後に先生の訃報を聞きました。まさかこんなに早く、
しかも先生のお葬式で再会するなんて思ってもみませんでした。
私達の世代(98 年入ゼミ)にとって舩橋ゼミとは社会学部の中でも厳しいゼミとして有名で
したが、説明会で初めてお話を聞いた時、静かで穏やかな語り口でありながら並々ならぬ情熱
を感じました。また、昔ながらの大学教授といいますか、知の巨人の雰囲気を醸し出しており、
実際に学び始めるともちろん雰囲気だけではなく、その片鱗に触れて成長することができました。
先輩達からよく「鬼」の舩橋という話を聞いていましたが、私達の世代から「仏」に変わり
はじめたようで、先生がピリピリしたり厳しく叱責する姿をゼミではみたことがありません。
今思うとそれは調査地が深刻なコンフリクトのある場所から、生産者と消費者が協力しあうグ
リーンコンシューマー運動になったことと関係があるのかもしれません。
舩橋ゼミと言えば「理論」と「調査」であり、特に調査実習は目玉の一つでしたが、その両
方を下支えしていたのが発想法や KJ 法、読書や思いついたことの記録方法、ヒアリングのメ
モの取り方などの実務的な基礎力です。本を読むだけ、現場に行くだけのやりっぱなしではな
く、そこから言語化し、概念化していく手法を学ぶことができました。その基礎力は社会に出
てからも役に立つもので、大学院を辞めてまったく別の業界に就職して約 2,000 本のレポート
を書きましたが、データとヒアリングから問題を炙り出すことができました。
先生の高潔な人格と緻密な論理、社会変革に向けた行動力に惹かれる人は多いと思います。
私が大学院にいた頃、先生は規範理論を研究していました。対立が深刻で合意に至るのが困難
な社会問題を研究していたからこそ、多様な利害を持つ人々によって展開される各々の「べき
論」、価値観の対立をどのような基準で整理し統合することが可能 / 不可能なのかということを
突き詰めていたのだと思います。
実際に社会を変えようとすることは極めて難しく、根気がいりしんどいものです。私は院を
辞めて考え続けなければいけないことから解放され(労働という別のものに囚われますが)、消
費に勤しむことは楽しく人生を豊かにしてくれるものでもありましたが、東日本大震災によっ
てむきだしになったものに目を瞑ってはいられません。では、どうすればよいのでしょうか。
先生のようにはできなくても、「さしあたり一人」でもいいから考えて、時が来れば目の前ので
きることから行動すればよいのだと思います。変わらないように見えるどうにもならない現実
に対して無関心でいることほど社会学的想像力を麻痺させるものはありません。日常の些細なこと
でもいいから考えること、そして行動することこそが先生の心根を引き継ぐことなんだと思います。
最後になりましたが、先生のご冥福を深くお祈り申し上げます。
146
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
(無職 2001 年 3 月卒)
忘れられた、忘れられない言葉
鈴木 隆之
人が、他人の考え方なり、人生なりに影響を与えるというのは、滅多にあることではないよ
うに思います。少なくとも私については、新たなものを外から吸収するよりも、自分が決めた
一定の事柄を継続することを優先させる性向があるため、より一層、そういえるように思います。
それにもかかわらず、先生が真剣に、講義をし、学生に問いかけ、質疑に応答していた、姿、
声、まなざしが今も鮮明に私の脳裏に焼き付き、とりわけ何かをあきらめそうになったときに
思い出されるのは、先生がご自身の人生に対して、真摯に、真剣に向き合う姿を私たちに示し
続けていたからではないかと思います。言い訳を探し求め、妥協を図る私は、脳裏に浮かぶ先
生から、君はそれでいいのか、と、たびたび問われてきました。
おこがましくて、言葉にはできませんでしたが、私にとっての舩橋先生は、人として、男と
して目指すべき目標であり、いつか乗り越えなければならない存在でした。
私が学生だった頃、懇親会の席で、先生は私におっしゃいました。
「君は熱意もあるし、ガッツもある。しかし、器用さに欠ける。」
卒業してから数年がたったとき、私が先生にそのことを尋ねたら、先生は左右に軽く首を振
りながら、「僕は覚えてないなぁ」と、笑っておっしゃっていました。ですが、私がくだんの言
葉を言われた際、周りの喧噪で先生の言葉が聞き取れず、「今、何が欠けると、おっしゃいまし
たか?」『き・よ・う・さ。』「あぁ、器用さ。」とそんなやりとりをしたことも、周りの情景と
共に私の脳裏には焼き付いているのだから、私の思い込みではないように思います。
私は、先生から言われたその言葉を、すべては、最終的には一定の結果に結実させ、それに
よって証明すべきものだ、そう理解して、私の胸に刻み込んでいます。
今はまだ、私の中の先生の言葉や姿が、私には必要です。ですが、一つ一つ、事を成し遂げ、
いつか、先生の力は私にはもう必要ありません、と、言えるようにまでなります。それが、私
の先生への、恩の返し方です。
ご指導、ご鞭撻、どうもありがとうございました。
(教育サービス業、2001 年 3 月卒業)
12. 卒業生からの言葉
147
舩橋晴俊先生、ありがとうございました
髙城 尚太
今から 12 年前の 2003 年 9 月、青森県上北郡六ヶ所村。あの夜の充実感に満ちた舩橋先生
のお顔。決して忘れることはできません。
この場をお借りして、先生との思い出について書き記したいと思います。
舩橋ゼミに “ 知系ゼミ生” と “筋肉系ゼミ生” がいるとすれば、私は間違いなく後者です。他の
メンバーも(ある程度)異論はないと思いますが、私たちの代は “筋肉系ゼミ生” 豊作の年でした。
2003 年 9 月、舩橋先生と筋肉系の私たちは青森県六ヶ所村で核燃料サイクル施設に関わる
住民意識調査(アンケート調査)を行いました。まずは「ああでもないこうでもない」と質問
票の内容を考える日々。続いてパイロット調査で六ヶ所村選挙人名簿から等間隔に 502 人をサ
ンプリング。その後東京に戻り質問票を封筒に詰め発送。9 月の本調査では総勢 26 人の大調査
団が 7 班に分かれ一軒一軒のお宅を訪問し質問票を回収していきました。
先生は当初から「なんとか 60% は集めたい。6 割あれば結果に説得力が出る」というような
話をしきりにされていました。地図を見ながら「さあ次はどのお宅に行こう?」
、「さっき不在
だったあの家はそろそろ帰っている頃だろうか?」、
「もし開封してくれていなかったらその場
で記入をお願いして翌日再訪しよう!」など、各班のゼミ生たちが “筋肉系ゼミ生” 持ち前の
筋力をフル稼働させ、フットワークと根性で大切な “住民意識” をひとつひとつお預かりして
いきました。期間は 3 泊 4 日。「60%」—私の脳裏には常に舩橋先生の拘りの数字がありまし
たが、“筋肉系ゼミ生” として「“知力” では無理でも “筋力” では最大限に役に立てる!」と
いう確信がありました。先生はじめゼミ生たちの汗に応えるように、回収された質問票は一日
一日着実に積み上がっていました。
結果として、全 7 班で 311 もの “住民意識” をお預かりし、回収率は 62%。舩橋先生の思
いが一つの形になったことを一同喜びました。大学生活で最も熱を注いだ夏でした。
あの夜の充実感に満ちた舩橋先生のお顔、先生を囲んでお酒を酌み交わした六ヶ所村の夜は
最も心に残る舩橋先生との思い出のシーン、大学生活のハイライトです。
大学卒業後は製薬メーカーの営業職(MR)に就き今に至ります。この仕事で大切なのは、
「顧客が抱える課題にたどり着くこと」。つまり、「相手の話をしっかり聞くこと」。困っている
医師や患者さんのために何かお役に立てることはないか、「真剣に考え動き続けること」。舩橋
先生や舩橋ゼミが大学教育という範疇を超えて世の中に問い続けてきた行動や価値が現在の自
分自身の仕事のスタンスに少なからず影響を与えていることに気付きます。
卒業から早 10 年が経ちますが、舩橋先生からは今でも色褪せることのない大切な経験をた
くさんいただきました。舩橋先生、大切な出会いを本当にありがとうございました。
148
(一般社団法人日本血液製剤機構 2005 年 3 月卒業)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
師の意味を知る
宇田 和子
「わたしは教えるものではなく、学ぶものであった。わたしは教えることを欲せず、学ぶこ
とを欲した。先生になろうと思ったのは、できるだけ長いあいだ学ぶものであり得るため
であった。<中略>わたしはがまんづよくなく、落ちつきがなかった。将来の教育者では
なかった。先生や教育者は、落ちつきがあって、がまんづよくなければならない。じぶん
のことではなく、生徒のことを考えなければならない。がまんづよさと安易さととりちが
えてはならない。安易さから教師になったものはいくらでもいる。生まれつきの、ほんと
の、教えることを天職としている先生は、英雄や聖者と同じくらい珍しい。」
(Kästner, Erich, 1957, Als ich ein kleiner Junge war, Hamburg: Cecilie Dressler Verlag.
=1962, 高橋健二訳,『わたしが子どもだったころ
(ケストナー少年文学全集 7)』岩波書店, 92)
舩橋晴俊先生には、私が法政大学社会学部に入学してから同大学大学院の博士課程を修了す
るまで、一貫して指導教授としてご指導いただいた。
私にとって舩橋先生は、学生を磨くべき原石と考える教育者であり、構築した理論の深化を
止めない研究者であり、組織におけるカリスマ的船頭であった。手品師や大岡越前のようだと
思ったこともある。
しかし、これらのなによりも、私にとっては「先生」だった。その存在は英雄や聖者のよう
に珍しかった。
私はもはや、先生の生前と現在とでは、同じように本を読み、同じように音楽を聞くことが
できない。
それでも「止まらない研究者」の教え子として、立ち止まらずに為すべきことは、舩橋先生
がそうなさっていたように、より熱心に研究し、より温かく教育することのみである。
(福岡工業大学社会環境学部)
12. 卒業生からの言葉
149
追悼の意をこめて
西島 香織
大学卒業後に銀行員として働いていた私が舩橋先生を訪ねたのは、東日本大震災後の春。
あの時勉強した原発の危険性がまさに現実のものとなって、それまでずっと溜めていた気持
ちがあふれ出して、思わず連絡をしたのでした。それから 4 年。今は NGO 職員となり、修行
の日々を送っています。
思えば私が法政大学を選んだのも、先生のお名前と学問に惹かれたからでした。とある講義
で核燃料サイクル問題に興味をいだいた私は、レベルの高さにたじろぎつつも舩橋研究室に入
りました。それから、私の人生は紆余曲折を経ながらも確実に、向かうべき場所に向かってい
ます。私は、先生と出会ったことをきっかけに、「問題に選ばれた」のだと思います。
六ヶ所村—現場ではもう議論さえ起こっていない出来事について、未熟な学生であった私は、
しっかりした問の設定もできぬまま。今思えば、学生が知識も十分にないままヒアリングをす
る。それはリスクも伴う事だったと思いますが、その経験が今の私の原点となっています。
信念を曲げない事。協力してくれる人(敵対する人こそ)大切にする事。相手を信じる事、
期待する事。自分もそうなれるかわかりませんが、先生の教えていただいたことを胸に留めて
いきます。
一番印象に残っているのは、先生が「社会学とは人間の学問だ」という事を教えて下さり、
実践されていたことです。先生の最後の授業の方でロールズの正義論がありましたね。それを
用いて経済的合理性や権力によって虐げられる人がいてはならない、と言い切っていた。今後、
放射性廃棄物の問題については、社会的合意形成のできない状態から、何を大切な価値として
合意していくかが問われます。
一方で一つだけ、私は先生に謝らねばならない事があります。震災後、研究拠点を青森県六
ケ所村から福島県に移されました。その際に私は、正直に申し上げると「六ケ所村の問題は終
わっていないのに、福島に研究興味がうつったのかな?」と思ってしまいました。
でも、そうではなかった。原子力市民委員会の座長に選ばれた後のご活躍。そして日本学術
会議の報告書。今、先生にしかできない事をなさっていたのですね。
これから沢山、先生と企画をご一緒したかった。団体として六ケ所村とも新たな関係性がで
きつつあり、そこで若者たちと一緒に議論をしたかった。それが私の小さな一つの夢でした。
ただ、やはり突然すぎて、どうしたらいいのかわからなくなることがあります。私の生きて
いく道の先には、必ず先生がいたのですから。今でも様々な場面で思い悩むとき、「先生だった
ら何て言うだろう」と、考えます。先生が教えてくださったことを次は自分の言葉できっと伝
え、これから新しい仲間とともに答えを導き出していきます。
150
(2010 年 3 月卒 国際青年環境 NGO A SEED JAPAN 理事・事務局長)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
短くも密度の濃い 4 年半を振りかえって
北風 亮
昨年 8 月 15 日のことは今でも忘れられない。その日のちょうどお昼頃、同じ舩橋研究室の
院生から「先生が亡くなられたとの一報が入ったがにわかに信じがたい。大磯在住の方々に至
急確認してほしい」との電話が入った。以前から先生にご推薦いただき、ご実家のある神奈川
県大磯町での市民電力立ち上げや条例制定の取り組みに関わらせていただいていたことからそ
のような連絡がきたのだが、話を聞いた私自身も到底信じられない思いであった。いてもたっ
てもいられず、会社を早退し、連絡をくれた院生と大磯に向かったが、そこで待っていたあま
りにも厳しい現実に愕然とさせられた。つい一週間ほど前にも元気にお話されていたのに、つ
い先日にもメールでやりとりさせていただいていたのに。あまりに突然のことでしばらくの間
(数ヶ月だろうか)、頭の整理がつかない状態が続くと同時に、先生との思い出がたびたびフ
ラッシュバックしていた。その度に、入学してから 4 年半ほどの短い間ではあったが、非常に
密度の濃い経験をさせてもらったのだとあらためて感じた。
思えば、8 年間勤務した金融機関を退職してから約 1 年後の 2010 年 4 月、かねてから次の
キャリアとして考えていた大学院進学を果たし、大学時代に不完全燃焼であったエネルギーと
環境に関わる研究、殊に再生可能エネルギー普及政策を中心とした研究ができると期待に胸を
膨らませていた入学当初。その一方で、大学を卒業してから約 9 年間の学問的ブランクやあら
たな学問領域に踏み出すことから、社会的にも学問的にも貢献できずに修士を終えるのではな
いかという自身への猜疑心、さらには、未知の大学院生活、そして師事を仰ぐと決めた舩橋先
生とうまくやっていけるのかという不安感が私の中で渦巻いていた。しかし、今考えればそう
した疑問や不安はまったくの徒労であった。本来なら先生の門戸をたたく以前に備えておくべ
き社会学の基礎が欠落していた私に対しても、丁寧かつ明快な論理で教えてくれた。現状把握、
知見の収集に必要となる社会調査のイロハも一から教えていただいた。同席させていただいた
ヒアリング、同行させていただいた調査、その一つ一つが私にとってかけがえのない、きわめ
て貴重な、経験的財産である。
また、先生の人的ネットワークの豊富さにはいつも驚かされた。どのようにしてあれほどの
人脈を築いていくのか。対人折衝を生業にしていた私にとって、「信頼関係」をいかに構築する
かが重要であることは重々承知していたが、先生のそばで様々なことを経験していくうちに、
洗練された論理展開、人間としての度量の大きさ、そしてなにより人一倍の情熱が、人々を惹
きつけているのだと感じるようになった。講演会など、行く先々で大小様々なつながりを構築
し、それらを幾重にも重ね合わせて強固なネットワークに昇華していく。来る者は拒まず、去
るものは追わず、様々なプレイヤー、ステークホルダーを包摂しつつも、一つの目標に向けて、
一丸となって前進させられる。先生はきっと、社会とは、組織とは、人間の心とは、こうして
動かしていくのだと、教えてくれていたのだろう。今ではそう考えるようになった。
12. 卒業生からの言葉
151
学問へのあくなき探究心、現実社会への絶え間ないアプローチ、学生・院生への厳しくも温
かいまなざし、そして弱者に寄り添い、現場を重んじ、明確な論理やビジョンを掲げ、社会の
不条理に立ち向かっていくその姿に、教え子として、一社会人として尊敬の念を抱かずにはい
られない。もう教えを請うことが出来ないことが無念でならない。
ご冥福を心よりお祈りするとともに、先生が目指されていた日本のエネルギー政策の転換を
実現すべく、より一層研鑽を積んでいくことをお誓い申し上げたい。
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(法政大学大学院公共政策研究科博士課程)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
舩橋晴俊先生の後ろ姿が語るもの
廣瀬 勝之
時間が経つのは早いもので、昨年 8 月 15 日に舩橋晴俊先生が逝去されてから、10 か月も
経ってしまいました。私と先生との出会いは 2009 年 4 月の演習を受講したときでした。その
ときから逝去されるまでの 6 年 4 か月を学部生、大学院生として先生のもとで研究を進めてき
ました。また、私は大学院生を続けながら、2013 年 8 月より先生が座長を務められていた原
子力市民委員会の事務局スタッフとして微力ながら活動しています。今現在の私という存在は、
舩橋先生という存在なしに語ることはできません。
舩橋先生に関して最も印象に残っていることはどんなことなのかを考えてみると、いつも思
い出すのは舩橋先生の後ろ姿です。2010 年、2012 年に青森県六ヶ所村へ核燃料サイクル施設
に関する諸問題について、2013 年は福島県へ原発被災地の現状と課題について調査に同行し
ました。また、2014 年は大学院の兄弟子たちとともに再生可能エネルギー先進国であるドイ
ツへの調査にも同行させていただきました。
これらの調査を通して先生の後ろ姿は、社会問題の解決に少しでも役に立ちたいという思い
を語っていたように思います。社会調査では、住民、行政職員、運動家らのところを訪ねて、
彼らとの対話を続けることで、問題を解決するためのヒントを見つけようとされていたのだと
思います。先生がそのような姿勢であり続けたのは、森有正の言葉を借りれば、「内的促し」に
純粋に従っていたからなのではないでしょうか。森によれば、「内的促しというのは何かと言う
と、このままじっとしてはいけない、なにかしなければいけないということ」1 と述べています。
3.11 以後の先生のさまざまな著作物を読むと、内的促しから、福島県の復興をどうすればよい
のか、今後の日本のエネルギー政策をどうすればよいか、日本の行く末を常に考えておられた
のだと思います。私も先生の後ろ姿からにじみ出ていた思いに学びつつ、今後の人生に生かし
ていきたいと思います。
最後になりますが、心から先生のご冥福をお祈りいたします。今まで本当にありがとうござ
いました。
(法政大学大学院公共政策研究科 公共政策学専攻修士課程)
1 森有正,1976,「経験について」『思索と経験をめぐって』講談社,209.
12. 卒業生からの言葉
153
舩橋晴俊先生のもとで『学問的ヒット』
を目指す
羽深 貴子(旧姓 山下)
舩橋先生に初めてお会いしたのは、「社会政策科学入門」という講義の時だった。あの時の衝
撃は今でも忘れられない。これは社会政策科学科 1 年生の必修科目であり、大学入学早々に受
けた授業の一つだった。先生の専門科目の講義とはやや異なり、授業内容の他に、「大学で学問
的ヒットを打つ(学問的充実感を得る)方法」についての話が盛り込まれており、新入生へ向
けた舩橋先生のメッセージが込められているものだった。具体的な「研究」の仕方が示され、
大学でやりたかったのはこういうことだと、学びに対する不安がすっと晴れた気がした。それ
と同時に、先生の言葉の鮮明さと強さ、講義の道筋のわかりやすさ、お話の奥深さに、とにか
く圧倒された。講義内容にはもちろん難しい点もあったが、大教室の必修科目であるのに、私
語は一切ない授業時間だった。私にとってあの「入門」の講義は、まさに目から鱗が落ちるよ
うな、驚きと感銘で涙がこぼれるような経験だった。入学直後に先生のあの講義を受ける事が
できたのは大変幸運だったと思うし、もし受けていなかったら、大学生活はまったく別なもの
になっていたかもしれないと思う。その後、学部 2 年時にゼミの門を叩き、修士課程までご指
導いただいた。
現地調査実習にも参加し、大学生活において大変貴重な学びの場となった。先生は常に学生
と一緒に現場を歩き、フィールドでの振る舞いを、実践を通して教えてくださった。2010 年
の青森調査では、農家への訪問で援農をしたことがある。六ヶ所村の夏空のもと、広い畑で先
生は誰より率先して農作業をされた。そのお姿に、調査への士気がより奮い立たされた。
また、先生はお忙しい中でも、懇親会や合宿など、学生との授業以外の時間も、とても大切
にされていたと思う。3 学年合同懇親会(飲み会)となると、40 人ほどの大人数になるのだが、
先生は必ず各テーブルを回ってくださり、全員の学生と話をしようとされていた。「この半年の
ゼミはどうでしたか。頑張ってやっていけそう?」「課題は多すぎますか、ちょうど良いです
か」「現地調査に行くのに不安はありますか」など、ゼミ生の気持ちや状況を細かく聞いて回
り、アドバイスしてくださった。「ゼミをやっていて、教員が楽しいと感じているときは、たい
てい学生さんも楽しいものなのですよ」と笑顔でお話しされる先生の言葉に、とても嬉しい気
持ちになったのを覚えている。
舩橋先生の講義やゼミは、いつも学生への厳しくもあたたかい情熱にあふれていた。進路の
ご相談をしたとき先生がおっしゃった、「自分の内的促しに忠実に」「自分にとっての切実な問
いを大切に」という言葉はその後の指針になっている。先生には今後もさらにご活躍いただき
たかったし、ご指導いただきたかった。先生から学んだたくさんのことを、これから様々な場
面で自分の仕事として結実させていかなければと強く思っている。
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(2010 年 3 月 社会学部卒業,2012 年 3 月 大学院政策科学専攻修士課程修了)
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
あとがき
あとがき
舩橋晴俊は、2014 年 8 月 15 日の早朝に、睡眠中のクモ膜下出血のために急逝しました。この信
じがたい、あまりにも突然の旅立ちから、1 年を迎えようとしています。
当初、関係者は、現実に空いてしまった穴を埋めることに追われました。調査実習を含む大学授
業の代講、学生・院生の指導態勢、いくつもの研究・出版プロジェクトの継承、びっしり詰まった
講演や会議のキャンセルや代行、原子力市民委員会や法政大学サスティナビリティ研究所の体制立
て直しなど。それぞれに奔走してくださった方々に、心からお礼を申し上げます。きっと晴俊も「長
生きするつもりだったのに、こんなことになるとは思いもよらなかった。痛み入ります。皆さん、
ありがとう」と天国でつぶやいているに違いありません。
続いて、私たちは心に空いた穴を埋める必要がありました。これからどうやって遺志を受けとめ
ながら生きていくのか、それぞれの場で喪失感のなかから模索されてきたと思います。有志実行委
員会による「偲ぶ会」は、そんな私たちのこれからを語り合い、前を向いて力強く歩んでいくため
のひとつの企画です。今後も、残された調査研究資料のアーカイブ化や未完の大著の刊行など、さ
まざまな試みが続いていくことでしょう。
個人的なことになりますが、晴俊と私は 1965 年に出会い、青年期の模索の 10 年を通じて精神的
共鳴点を多く持つようになりました。しかし、一緒に暮らすようになってからは、大きな安らぎと
支えを基盤にしながら、それぞれ別のフィールドで独立した社会学を確立していきました。そして
これからの人生第 3 期では、二人の研究世界(環境、福祉、家族、ジェンダー)を統合する新しい
地平をめざして、2014 年 2 月の私の最終講義の日に、一緒に一般社団法人比較社会構想研究所を設
立したところでした。いま想定外の出来事をこえて何ができるか模索中ですが、まず晴俊の生涯を
見つめ直し、その仕事を辿り、魂の対話を続けながら、当初めざした道を切り開いていくほかはあ
りません。そのため、「偲ぶ会」の実行委員会に申し出て、記念冊子の責任編集をやらせていただき
ました。
この記念冊子は、これから出るだろう舩橋晴俊に関する様々な資料のうちのひとつです。法政大
学社会学部学会誌『社会志林』では追悼特集号を組む予定とのことで、詳細な履歴と業績リストは
そちらに掲載させていただきます。法政大学の同僚の先生方は、『社会志林』の方に執筆なさる予定
です。この冊子と補完的なものと考えていただければ幸いです。私たちの呼びかけに応じて、短期
間に沢山の方が追悼文を寄せてくださいました。本来なら執筆を依頼すべき方で連絡しきれなかっ
た方もおられると思います。どうかご容赦くださいますようお願いいたします。
第 1 章では、舩橋晴俊の生涯を概観します。通常は履歴と業績が並べられるだけですが、いつ、
どんな社会的立場のときに、どんなプロジェクトや調査、あるいは「経験」(森有正)を深めて、ど
んな「作品」
(内田義彦)を生み出したのかを横軸に、さらに時系列をたどると自ずと見えてくる人
162
舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
生展開の段階を縦軸に、本当に重要な項目だけに厳選した一覧表を作成しました。
第 2 章では、本人が公表を前提に作成していた自己評価付き主要業績リストの最新版(2014.7.26)
を掲載しました。沢山の論文を書いておりますが、本人が自信を持って読んでもらいたいと考えた
「作品」にA,A +,AAなどの記号と解説がついています。
第 3 章では、残された文章のうち公表を意識して書かれたものから、7 点を拾いました。舩橋晴俊
は、毎年、ゼミの卒業生に「回顧と展望」を語っており、足跡をたどる貴重な証言となっています。
第 4 章では、旅立ちの日に頂戴した弔辞と遺族代表の挨拶を収録しました。
第 5 章では、晴俊が信頼し親しくさせていただいた方々に特にお願いをして、晴俊の幼少から研
究者としての最盛期にいたるまでの思い出を語っていただきました。幼い頃のいとこ同士の遊び、
合唱団、地元での運動、ウェーバー社会学との出会い、公害研究との出会いなどが読み取れる貴重
な証言であると思います。
第 6 章は、国内外の学会関係で既に公表された追悼文を再録させていただきました。
第 7 章は、人生の最後に全力をかけて取り組んだ原子力市民委員会の仲間の方々からの追悼文です。
第 8 章は、同様に力を尽くした学術会議での提言活動を共にした方々からの追悼文です。
第 9 章は、新幹線公害から福島原発災害、地元での再生可能エネルギー運動まで、共に地域で活
動してこられた方々からの追悼文を集めました。
第 10 章は、大学院から近年に至るまで交流の深かった研究者の方々から寄せていただいた追悼文
を集めました。
第 11 章は、東大助手時代、法政大社会学部長時代、同大大学院議長時代の同僚から見た舩橋晴俊
像を語っています。
第 12 章は、舩橋晴俊が大切に育ててきた学生・院生との関わりを、卒業生の目から語っていただ
きました。内発的に書きたい卒業生に向かって場を開きましたところ、多数の方が原稿を寄せてく
ださいました。時代順に並べましたので、教育者としての発展の跡が読み取れると思います。情熱
は変わらないけれども「鬼」から「仏」へと成熟してきたと言えるかもしれません。なお、門下生
のうち大門信也氏と茅野恒秀氏の追悼文は、本章には含まれていませんが、第 6 章の学会関係のと
ころに掲載しています。
第 13 章は、舩橋晴俊に関する新聞記事のうち、重要なものを再録しました。
これらの資料が、舩橋晴俊の人と社会的活動の生きた記録として、皆様の参考になることを祈念
してやみません。
堀川三郎氏は、「美しい冊子」を作りたいという私の切なる願いを受けとめてくださり、表紙や生
涯一覧のデザイン、写真の取り扱い、編集全体への貴重なアドバイスをいただきました。茅野恒秀
氏・湯浅陽一氏は主として卒業生からの追悼文を集め 、 堀田恭子氏・朝井志步氏・宇田和子氏は校
正を手伝ってくださいました。その他に実行委員の方々には、関係するところで様々なご協力をい
ただきました。ここにお名前を記して、心からお礼を申し上げます。
「舩橋晴俊先生を偲ぶ会」実行委員会
委員長 池田寛二
委 員 岡部幸江、鬼頭秀一、島薗進、田中充、茅野恒秀、寺田良一、長谷川公一、
舩橋惠子、細川弘明、堀川三郎、山下祐介、湯浅陽一、吉岡斉(五十音順)
最後に、私たちの声が天国の晴俊さんに届きますよう、心を込めて祈りたいと思います。
2015 年 6 月 3 日
一般社団法人 比較社会構想研究所
代表理事 舩橋 惠子
あとがき
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舩橋晴俊——研究・教育・社会変革に懸けた一筋の道
■
責任編集:舩橋惠子
■
発行日:2015 年7月 12 日
(舩橋晴俊先生を偲ぶ会)
■
発行:一般社団法人比較社会構想研究所
〒 255-0003 神奈川県中郡大磯町大磯 2191-6
Tel/Fax 0463-61-3895
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編集協力 ・ デザイン:堀川三郎(法政大学)
印刷・製本:株式会社相模プリント
(非売品)
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Printed in Japan
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