20 世紀日本の戦争史読む年表-2(枢軸体制結成へ~敗戦・戦後)H29.2.3 改訂 (第 2 次世界大戦勃発) 14 年(1939 年)9 月 1 日 ドイツが、領土である東プロシャに至るダンチヒを奪回するべく電撃的にポーランドに侵攻し、国際連 盟から脱退。→27 日、ワルシャワを占領し、ポーランドがドイツに降伏。 これを見たイギリス(5 月にポーランドの国土を保障する秘密協定を同国と結んでいた)は、直ちにド イツに対して宣戦布告を行った=第 2 次世界大戦勃発。ただし、英仏両国ともドイツに対して軍事行動 を起こす力はなく、国境沿いに部隊を展開しただけだった。 北海沿岸のダンチヒは、ドイツ人が過半の人口であったにもかかわらず、ヴェルサイユ条約においてポーランド 領とされていた。これは、ポーランドに北海への出口を与えるためであった。 9月4日 阿部内閣は「欧州戦争に不介入」 「専らシナ事変の解決に邁進する」との声明を発し、これにより日独 伊三国軍事同盟締結交渉が中断された。併せて外交政策の大転換を図ろうとした。 9月4日 三国軍事同盟を主唱してきた板垣前陸相が支那派遣軍総参謀長に格下げされ、大島浩ドイツ大使及び 白鳥敏夫駐伊大使は帰国した後、辞任した。 白鳥は、駐伊大使時代にリッベントロップ独外相から「日本がグズグズして三国同盟を進めなければ、ドイツは ソ連と手を結ぶぞ」と脅かされていた。 なお天皇は、白鳥の帰朝引見を拒まれた。理由は白鳥が三国同盟を推進してきたからで、終生、大島、白鳥とい う三国同盟推進者を嫌悪された。 9 月 17 日 ソ連もポーランドに侵攻。ポーランドは独ソにより西と東の両方から侵攻され、占領された。→23 日、 ソ独間でポーランド分割協定締結。 9 月 21 日 ルーズベルト大統領が、初めて議会に乗り込み、中立法に定められている武器輸出禁止条項の撤廃を 訴えた。→10 月 27 日に上院が武器輸出禁止の破棄を決議。 日本国内では、物資不足から生じるインフレ抑制のため、価格等統制令が施行された。 →12 月にはネオンやエスカレーターなどの電力使用が禁止となり、木炭の配給が始まる。こうした事 態の打開について阿部首相は政治的力量が乏しく、議会で内閣不信任案と辞職勧告が提出された。 11 月 30 日 ソ連がフィンランドにも侵攻、占領した。これによりソ連は国際連盟から「侵略国」として追放された。 12 月 2 日 アメリカは対日禁輸物資に、航空機生産に欠かせないアルミ、マグネシウム、モリブデンを追加した。 その 4 日後には、航空機用ガソリンのプラント、航空機用ガソリンの生産に役立つ考案、専門的情報を も追加した。 15 年(1940 年)1 月 欧州大戦不介入の立場をとっていた阿部内閣が、シナ事変解決が不調のため総辞職。阿部首相は政党 からの支持を得られず、出身母体の陸軍からも見放されたからであった。 190 1 月 16 日 大命を受け、米内光政内閣発足。昭和 12~14 年の海相時代にからだを張って日独伊三国軍事同盟締結 に反対した米内の後ろ盾は、内大臣の湯浅倉平であった。陸相には畑俊六が起用され、外相は、米英重視 の外交路線を引き継ぐため有田の続投となった。 米内は、シナにおける泥沼の戦争を収拾しようと英米との国交調整に努力を傾注したとされるが、組閣 にあたり病弱の海相吉田善吾を更迭して山本五十六連合艦隊司令長官を充てれば三国同盟への傾斜を阻 止できたかもしれないところ、吉田善吾に続投させた。 この頃、シナの占領地では資材不足から経済建設が完全に行き詰まっていた。また、戦局も泥沼化して いて、これをいかに収拾するかについて、平沼、阿部、米内のどの内閣も閣内が対立した。一方(板垣陸 相などの)軍部は枢軸側との提携強化を主張し、他方は英米との協力に道を求めようとし、自力による解 決に自信を喪失していた。 そのような状況の中で、右傾化した社会大衆党や東方会(中野正剛ら)など左右両翼の「革新系」が新 体制運動を叫び出した。さらに翌 2 月の衆院本会議で立憲民政党の斎藤隆夫が「反軍演説」を行って除 名されるということが起きて以降、政友会、民政党の 2 大政党を中心とする保守派は総崩れとなった。 1 月 26 日 日米通商航海条約が失効し、日本と米国とは無条約の状態に入った。 3月 アメリカが蒋介石政権に対して 2,000 万ドルの軍事援助を表明し、反日親支政策を鮮明にした。 3 月末 陸軍中央部が、本年(昭和 15 年)中に支那事変を解決できなかった場合は 16 年初頭から逐次在支兵 力の撤退を開始し、18 年頃までに上海の三角地帯と北支・蒙彊(チャハル省、綏遠省、山西省北部)の 一角に兵力を縮小配置することを決定。参謀本部はこの決意のもと、15 年中の解決に全力を尽くすこと とした。 4月1日 岩畔豪雄、秋草俊、福本亀治各中佐を中心として昭和 13 年に開校された「後方勤務要員養成所」が「陸 軍中野学校」と改名され、諜報活動に携わる人材の養成を任務としたが、遅きに失するものであった。初 代校長は北島貞美少将(15 年 8 月 1 日就任) 。 戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた 岩畔豪雄中佐が、昭和 12 年参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍 省が中心となって「後方勤務要員養成所」が創設された。 4月 ドイツがノルウェーに侵攻した。 5 月 10 日 ドイツがマジノ線を迂回してオランダ、ベルギーに攻め込み両国を占領した。その後、フランスに向か って進撃を開始した。ドイツ陸軍は防御の堅い西部戦線(フランス軍が 66 個師団を配置)を回避し、ア ルデンヌの森を機甲 3 師団により突破したためフランス軍は総崩れとなり、凄惨な大戦争となった。 →駐留イギリス派遣軍も持ちこたえられず、6 月 2 日、ダンケルクから撤退した。このとき、チャーチ 191 ルの指令により、イギリス派遣軍は全ての武器・弾薬を残して母国に引き上げたが、部隊を運ぶために船 という船は全て動員された。 6 月 14 日、ドイツ軍がパリに無血入城(7 月、仏ヴィシーに親独のペタン政府が成立)。この間、6 月 10 日、イタリアが参戦した。 その結果、ヨーロッパ大陸はドイツ軍、イタリア軍によって支配され、ただ一国、イギリスだけが独軍と戦うこ ととなった。 欧州戦線におけるドイツ軍の西方攻勢の成果を見て、参謀本部内に一転「バスに乗り遅れるな」の声が 高まり、 “欧州情勢を利用して蒋介石政権を屈服させ、さらに南進を開始しよう”との考えが浮上してき て、3 月末に決めたばかりの支那事変解決策は消えてしまった。 5 月 16 日 米ルーズベルト大統領が上下院合同会に出席し、陸海軍装備等の充実のため、11 億 82 百万ドルの支 出権限を大統領に与えるよう要請した。 6 月 6 日、米連邦議会が第3次ビンソン法案によってエセックス級空母(日本の「翔鶴」クラスの大型空母)24 隻を建造する権限を大統領に与えた。 6 月 22 日、米下院が国家防衛税法を可決。国税増収見積額は 10 億ドル弱。 6 月末、国家防衛法が議会を通過。ルーズベルト大統領が 7 月 2 日これに署名成立。この法案に反日活動を行っ てきたプライス委員会による策動で資源の輸出抑制条項が加わった。その目的は、主として日本向けの石油、鉄屑、 武器、機械、部品などの輸出停止を行うことにあった。 議会が海軍を大西洋と太平洋に二分配置するため 40 億ドルを支出する法案を可決。7 月 20 日、ルーズベルト大 統領がこの法案に署名成立。 7 月 25 日、アメリカ政府が石油、石油製品、鉄屑の輸出をライセンス制に切り替えた。 7月2日 春頃から準備が進められていた日ソ中立条約交渉が開始される。これは、ソ連の蒋介石政権援助を中 止させようとする陸軍の発想に基づいたものであった。 7 月 16 日 米内内閣がわずか半年で総辞職。 欧州大戦の状況を見て、向独一辺倒となった武藤章軍務局長を中心とする陸軍統制派の幕僚たちが、親米の米内 光政首相を辞任に追い込む運動を展開した。これには尾崎秀美、平貞蔵、蝋山政道、細川嘉六、堀真琴ら近衛元首 相を取り巻く「新体制」論者らも連携していた。尾崎らは日本が「世界最終戦」として第 2 次の世界戦争を戦うこ とを必然として議論を展開していた。米内の後ろ盾となっていた湯浅内大臣は、全体主義的な風潮の中で健康を害 し、6 月 1 日に辞任していた。 畑陸相は陸軍を抑えようとしたが、「(三国同盟を実現するため)強力な(近衛)内閣を組織」しようとした陸軍 に抗しきれず、 “陸軍の相違を受けて”米内首相に辞職を勧告。米内首相がこれを断り、逆に畑陸相に辞任を求める と、畑陸相が用意していた辞表を提出。陸軍は代わりの陸軍大臣を出さなかったため、米内内閣はわずか半年で総 辞職した(後任には近衛の盟友・木戸幸一が就任) 。 これは、欧州戦線におけるドイツ、イタリアの勢いを過大評価したことから生まれた動きであった。 ヨーロッパ戦線におけるドイツ優勢の情勢から、畑陸軍大臣はじめ陸軍内部の親独派は「ドイツ軍の英本土上陸 作戦は間もなく行われて成功するに違いない。大英帝国は崩壊するだろう」とみて、再び勢いづいていた。陸軍親 192 独派は暴力で反対派を倒す風潮があったし、朝日新聞をはじめ当時の報道言論は挙げてドイツの進撃を囃したて、 その絶対優勢を報道・論説していた。各政党もみな親英米外交から枢軸外交への転換を決議したり、要望を行った りした。 米内内閣倒閣には、参謀本部総長・閑院宮の意向も働いていた。独仏宣戦を視察してきた閑院宮はシナ事変の解 決にドイツを利用したい(畑俊六「巣鴨日記」より)と、ドイツとの同盟を澤田参謀次長に伝えていた。 社会大衆党の浅沼稲次郎代表さえ、6 月 22 日、中央執行委員会の決定した強硬な要請書を政府に突き付けた。そ の中には次の文言があった。 「世界及び東亜新秩序建設のため日独伊枢軸を強化すること。英米追随外交を清算し、日英、日米交渉を即時中 止すること。仏印経由の援蒋ルートを遮断し、実力を以て仏印当局の不誠意な敵性を放棄せしむるの保証を確保す ること」 この世界情勢の激動期にあって、陸軍内では次の方向が打ち出されるようになった。 (1) 支那事変については、泥沼状態から早く足を洗おうという方向に向けて、蒋介石政権を孤立させる、その ため、4つの援蒋ルートのうち、仏印ルート(月に 1 万トン)及びビルマルート(同 1 万5千トン)を遮 断するのが有効適切。→仏印ルートは、日本の申し入れにより仏印総督が自発的に閉鎖。ビルマルートの 遮断のため、所要の兵力を北部仏印に進駐させる。 (2)液体燃料に関して欧米依存経済を脱却して自給自足経済体制を確立するため、蘭印を日本の勢力圏に収め る。そのため、ドイツ軍の英本土上陸作戦等の好機を捕捉して、香港、マレー等を攻略し、英国勢力を東 亜から駆逐すると同時に蘭印を日本の勢力圏に収めることにより、南方問題の解決を図る。 陸海軍間では、戦争相手を英蘭に限定しうる(米英可分=陸軍)か、限定しえない(米英不可分=海軍)かの違い が出て重大な問題ではあったが、政府に対しては一致して「独伊との政治的結束強化」と「対ソ国交の飛躍的調整」 との外交施策を要請した。 なお、イギリスのチャーチル首相は、アメリカ大統領ルーズベルトに国家存続の望みを託して対独参戦を求めた。 ルーズベルト自身は対独参戦を決意していたが、国内では反戦気分が高いため、その決意を言明すれば、11 月に予 定されている大統領選挙で勝利する見込みがなかったため「皆さんの息子をヨーロッパの戦場に送ることはありま せん」との公約を掲げていた。そこでチャーチルは、アメリカと日本を闘わせることによって、アメリカが日本の 同盟国であるドイツとの戦端を開くよう、さまざまな策動を始めた。 ルーズベルトは、日本に「最初の一撃」を撃たせることによって、国内の反戦気分を覆し、日独両国相手の戦争 を始める道を探ることとなった。 7 月 22 日 第2次近衛内閣が成立。外相松岡洋右、陸相東條英機、海相は吉田善吾留任。陸軍内では阿南次官、武 藤軍務局長が留任した。 近衛は前月、新体制運動を提唱し、昭和研究会を母体にひろく国民が参加できる組織づくりを目指していた。同 運動は国政に張り出した軍部を抑えようと意図するものであった。7 月 17 日、木戸内大臣は後継首相推薦のために 重臣会議を開き、近衛を推薦することと決した。急ぎ参内した近衛に天皇は組閣を命じ、その際、 「内外時局重大に つき外務・大蔵両大臣の人選には特に慎重にすべき」と注意された。 新体制運動という雰囲気の中で、政党が次々解党していった。7 月 6 日の社会大衆党解散を初めとして、同月 16 日に立憲政友会久原派、26 日に国民同盟、30 日に政友会中島派、8 月 15 日に立憲民政党まで解党し、無政党状態 となってしまった。 →10 月 12 日の大政翼賛会へ。 193 近衛は支持基盤としてリベラルな知識人を足場にしようとしていたにもかかわらず、組閣にあたって 陸軍指導部と妥協し、政党人の入閣はなく、官僚中心の内閣をつくった。また、新たな情勢下で政府と陸 海軍統帥部との緊密な連携が必要と考えて途絶えていた大本営政府連絡会議を復活させた。しかし、統 帥部は政治が統帥に関与することを警戒して連絡会議を頻繁に開くことには消極的であった。 組閣前の 19 日に近衛は、陸相候補の東條英機(航空総監・統制派の首領) 、海相候補の吉田善吾、外相 候補の松岡洋右(元・満鉄総裁)を私邸に集め(荻窪会談) 、松岡洋右が用意した文書を読み上げた。そ の中の「世界施策」と銘打たれた一項には次のようにあった。 「速やかに東亜新秩序を建設するため日独伊枢軸の強化を図り、諸般の重要政策を遂行す。」 東條も吉田(この時は既に重度のノイローゼに陥っていた)も会談の目的を知らされておらず、 「雑談 のようなもの」と受け取ったと言われる。しかし、この荻窪会談によって日独伊三国同盟への方向が決し た。一方で、アメリカのビンソン案(大型空母の 24 隻建造計画)への対抗策は何ら発見できなかった。 この頃は、政府だけでなく国民も、ヒトラー・ドイツの完勝を既定の事実のように錯覚していたと言われる。新 聞各紙はこぞって内閣人事を歓迎した。しかし、後に要の松岡外相、東條陸相が近衛の目指した和平工作をぶち壊 していくこととなる。 外相に就任した松岡は、直ちに 4 人の大使を含む計 40 人の外交官を更迭し、帰朝命令を出した。三国 同盟への道筋をつけるため、自分の意に沿わない外交官を切ったものである。その代価として松岡は、貴 重な情報源を遮断することになってしまった。以後、松岡外相は三国同盟を推し進めていくことになる。 7 月 25 日 若杉要ニューヨーク総領事が松岡外相に対し報告書「米国内の反日援支運動」を提出し次のように訴 えた。これは、同年 3 月に蒋介石政権に対して 2 千万ドルの軍事援助を表明したアメリカに反発する世 論が高まる中で、政府が軽々にアメリカを敵に回す政策をとることを憂えたものであった。 「アメリカにおける反日援支運動は大統領や議会に対して強力なロビー活動を展開し、効果を上げて いる」が、 「この反日援支運動の大部分はアメリカ共産党、ひいてはコミンテルンが唆したものだ」(13 年 12 月 31 日の項参照) 「その目的は、アメリカ民衆を反日戦線に巻き込み、極東における日本の行動を牽制することによっ て、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成することだ」等々 つまり、ルーズベルト政権の反日政策に反発して反米政策をとることは、結果的にスターリンによる アジア共産化に加担することになるから注意すべきだと訴えた。 7 月 26 日 閣議で「基本国策要綱」を採択。そのなかで「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づき、 先ず皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」という大東亜共栄 圏構想が初めて示された。 この要綱は、内閣嘱託の尾崎秀美ら昭和研究会の影響を受けてつくられ、アジアから英米勢力の排除を目指すも のであった。すなわち近衛―松岡は、前日、若杉総領事から届いた訴えを完全に無視した。 尾崎や書記官長・風見章、秘書・牛場友彦らと情報交換のための「朝飯会」を主宰していたのは、近衛首相の長男 で秘書となっていた近衛文隆で、彼は尾崎の紹介でゾルゲ(後にソ連のスパイとして、尾崎とともに逮捕・処刑さ れた)とも親交があった。 「八紘一宇」とは日本書紀にある言葉で、 (天皇を敬い、天皇を中心とするのが日本の精神であり、それを世界に 194 広める)という概念であるが、日蓮主義者の田中智学が道徳論として国体論の中で使用した。後に軍部はこれをプ ロパガンダとして使用した。 以降、第 2 次近衛内閣は新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させた=ヒトラーやスターリン を模倣した独裁政党の結成を目指した。 新体制運動について、近衛は次のように言った。 新体制運動とは「全てを包括して公益優先の精神に帰一せしめんとする超政党の国民運動たるべきも のである」 。それは社会の平準化を目指していたが、政党間ではその具体化について考え方の違いがあり、 そういう点からすべての政党の解党を促していくこととなった。 翌月の 8 月 15 日に新体制運動が政府の手に移され、民政党の解散によって、日本に政党が存在しなく なり、議会制民主主義が死を迎えた。 7 月 27 日 大本営政府連絡会議において参謀本部の提議による「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を採択。そ れには大本営陸海軍部から提案のあった「独伊との政治的結束強化」と「対ソ国交の飛躍的調整」を受け、 「速やかに支那事変の解決を促進するとともに、好機を捕捉し対南方問題を解決す」とあり、阿部信行内 閣の進めてきた「中道外交」を一気に転換するものであった。その概要は次の通りで、オランダがアジア にもつ植民地を日本の勢力下におこうとする(南方武力行使をも可能とする)もので、独伊との政治的結 束を強化するとともに、ソ連との国交を飛躍的に調整し、国内の戦時態勢を強化し、戦備の充実を進める とした。 (1)速やかに支那事変の解決を促進するとともに好機を捕捉し対南方問題を解決する (2)支那事変の解決 第三国の援蒋行為を絶滅する等の手段により重慶政権の屈服を策す (3)対外施策 ①対独伊施策を重点とし、速やかに独伊との政治的結束を強化し、対ソ国交の飛躍的調整を図る ②米国に対しては、公正なる主張と毅然たる態度を持し、(中略)我より求めて摩擦を多からしむ るは之を避ける ③仏印に対しては、援蒋行為遮断の徹底を期するとともに我が軍の補給担任、軍隊通過及び飛行場 使用を容認せしめ、必要なる資源の獲得に努める ④蘭印に対しては、暫く外交的措置により重要資源確保に努める (4)対南方武力行使 ①支那事変処理概ね終了せる場合には、対南方問題を解決のため好機を捕捉し武力を行使する ②支那事変処理概ね終了未だ終わらざる場合には、第三国との開戦に至らざる限度において施策 するも、諸般の情勢が有利に進展すれば、対南方問題を解決のため武力を行使することあり ③武力行使に当たりては戦争対手を極力英国のみに局限するように努める。ただし、対米開戦は之 を避け得ざることあるべきを以て之が準備に遺憾なきを期す 第 3 項において、満洲では期待できない石油を南方(蘭印)に求めた。 また、第 4 項は、反日を強めるアメリカなどが蒋介石政権を助ける「援蒋ルート」を断って、支那事変 にケリをつけたいという理由から立てられ、この決定において「対米開戦は、避け得ざることあるべきを 以てその準備に遺憾なきを期す」と規定された。 195 しかし、根底において(日本が蘭印に出ていけば)アメリカが全力を挙げて反撃してくることを考慮し ていないという重大な欠陥があった。 海軍が実施した対米図上演習の結果、仮に蘭印の資源地帯を占領しても海上交通路が確保できないた め、吉田善吾海相は「蘭印攻略は無意味である」と指摘した。 以降、海軍は、アメリカが対日全面禁輸を行えば、日本はその存立上好むと好まざるとにかかわらず武 力を行使せざるを得ないとの決意の下、8 月 24 日、上奏裁可を経て本格的対米戦備に着手した。 →3次にわたり戦時編制の増強を発令して、次のとおり外戦部隊対米 7 割 5 分の戦備を完整させた。 第1次 同年 11 月 15 日第 6 艦隊(潜水船隊3)新設。 第2次 16 年 1 月 15 日第 11 航空艦隊(基地航空)等の新設 第3次 同年 4 月 10 日第 3 艦隊、第 1 航空艦隊(母艦航空)等の新設 7 月 29 日 上記「時局処理要綱」について天皇は「近衛首相は、支那事変処理の不成功による国民の不満を南方に 振り向けようと考えているらしい。海軍が支那事変処理の後に南進したいようだが、陸軍は好機あらば 支那事変そのままの態勢で南方に進出しようと考えているらしい」と憂慮の声を木戸内大臣に洩らされ た。 政府、陸軍、海軍、三者の足並みが揃っていないことを見抜き、まさに核心を突く批判であった。 天皇の憂慮を侍従武官長から聞いた沢田参謀次長は「日本の国力は支那事変に投入されて余力が乏し く、自力で南方解決などは考えていない。あくまで他人の褌で相撲をとるつもりである」との見解を述べ た。 8月1日 基本国策要綱に関して松岡外相が「現下の外交方針は日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立にある」 との談話を発表し、そこには仏印、蘭印が含まれると注釈した。この大東亜共栄圏という言葉は流行語と なった。 松岡は日本、ドイツ、イタリア、ソ連の四カ国による四国同盟が米英と対決することを想定していた可能性があ る。なお、 「大東亜共栄圏」という標語は尾崎秀美(ソ連の工作員)ら近衛首相のブレーンや陸軍統制派の将校たち が主張したものである。 また、同日松岡外相は、オットー独大使をお茶に招いて、日独枢軸強化に関する呼びかけを行った。 (この頃の欧米各国の動き) フランスから軍隊を撤収したイギリスに対し、ヒトラーは 7 月 19 日、国会の場でイギリスに対し和平を提案し た。しかし、同月 22 日、イギリスがこれを拒否。そのため、これまで日本との軍事同盟にむしろ冷淡であったドイ ツの姿勢に変化が起こり、8 月 13 日から対日交渉に積極姿勢をみせるようになった。 アメリカでは 7 月 17 日、ルーズベルト大統領が次期大統領候補の指名を受ける民主党大会で「我々は外国の戦争 に参加しない」と大見得を切る一方で「攻撃された場合を除き、我々の陸海空軍をアメリカ大陸以外の外国の土地 で戦うために送らない」と演説していた。これは“攻撃されたら、軍隊を外国に送る”ことを意味していた。 イギリスはドイツの進撃をくいとめるために、アメリカに対独参戦又は軍事的援助を求めていたが、ルーズベル トは中立法を盾に、イギリスがドイツの空爆によって国力を消耗するのを傍観していた。一方では、蒋介石政権に 莫大な援助をしていたにもかかわらずである。 イギリスに対する援助を行うにあたり、アメリカ=ルーズベルト大統領は様々な要求を突き付けた。 196 9 月 3 日、米英間で米英防衛協定が締結され、アメリカは中古駆逐艦 50 隻をイギリスに引き渡したが、それらは スクラップ同然の代物であった。 その代償としてアメリカはイギリスから多大の見返りを得た。すなわち、カリブ海に持つ7つのイギリス基地使 用を認めさせるとともにニューファウンドランドとバーミュダの基地の無償譲渡をも受けるほか、イギリスが世界 各地に持つ関税特権をアメリカに対して撤廃させ、イギリスが開発したソナー(潜水艦探知)技術を提供させた。 さらにイギリスが最後に保有する5千万ポンドの金塊まで供出させた。 ルーズベルトはイギリスを「殺さぬように、生かさぬように」扱ったのであった。チャーチルは「わがイギリス は乳牛のように最後の一滴まで搾り取られた」と嘆いたと言われる。 9 月 16 日、アメリカ議会で 21 歳から 35 歳までの男子を選別徴兵する法案が可決した。この法律では、沿岸警備 隊にアメリカ近隣各国の沿岸を防備するよう命じる権限を大統領に与えていた。 8月6日 陸、海、外、事務当局が「時局処理要綱」を踏まえて協議の結果、 「日独伊提携強化策」 (案)をつくる。 主として英国を対象とする日独の政治的経済的提携強化の範囲にとどまるもので、具体的内容には乏し かった。 8 月 30 日 松岡外相とアンリ駐日仏(ヴィシー政権)大使との間に、北部仏印(現ベトナム北部)に日本軍の進駐 などを認める「松岡・アンリ協定」が締結される。この協定により、ドイツに負けたフランスの足元を見 て日本政府は平和的に「南進」を果たすつもりであった。 ドイツ軍によるフランス侵攻後、仏印にあったフランス資本経営の産業が停滞したため、日本はドイツ軍の下で 成立したヴィシー政権に対し、仏印が「東亜の新秩序建設」に参加してはどうかと働きかけた。その結果、ヴィシ ー政権が日本のシナ事変完遂と東亜の新秩序建設のために必要な便宜を供与するという合意に達したものであっ た。 近衛内閣成立後の政府、陸軍、海軍の間には全く統一がとれていなかった。政府は日独伊三国同盟、日 華基本条約へ、また陸軍は内部でも統一されない主観論で北部仏印進駐=南進へと突き進んでいき、一 方海軍は対米戦備に熱中していた。 (日本人によるユダヤ人救出-2) 昭和 14 年(1939 年)8 月 ナチスによるユダヤ人迫害が一層激化するなか、ユダヤ人は亡命先を求めポーランドを脱出してリト アニアに集まり、各国大使館に亡命を受け入れるよう求めていた。7 月 18 日、リトアニアのカウナスの 日本領事館にも多くのユダヤ人が押し掛けた。領事代理の外交官杉原千畝は、計約 6 千名のユダヤ難民 に入国ビザを発行してナチス・ドイツからの亡命を助けた。 これらのことから、当時の日本人の親切はいまでもイスラエルから感謝されている。 昭和 14 年 8 月に着任した杉原は、欧州全域に独自の情報網を築き上げ、亡命ポーランド政権のユダヤ 人将校から質の高い機密情報を入手ていた。ユダヤ難民への入国ビザ「命のビザ」発行は、それに対する 見返りであった。杉原着任の 5 日前、8 月 23 日に日本の主敵であったソ連のスターリンは、ノモンハン で関東軍に痛打を浴びせたのを見届けて、ナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結していた。この独ソ不 197 可侵条約締結により、日本の統帥部は戦略の機軸を打ち砕かれ、その後、指導部は迷走を重ねることとな ったが、その中で杉原は、第一級の情報をつかみ取っていた。 「命のビザ」発行は、杉原が本国政府の了解を得てなされたものであり、その後ヒトラーが独ソ不可侵 条約を破り捨て、独ソ戦に突入することも精緻に予測し、本国に打電した。しかし、日本の統帥部は杉原 電を役立てようとはしなかった。 カウナス領事館閉鎖後に帰国した杉原は順調に昇進し、昭和 19 年には勲五等瑞宝章の栄に浴した。戦 後は外務事務の縮小から人員整理の折、昭和 22 年に退職した。一部に「訓令違反により解雇された」と 言われているが、それは誤りである。なお、杉原の任務はストックホルムの駐在武官小野寺信に引き継が れた。ヤルタ密約を本国に知らせた小野寺電も、参謀本部が自ら破り捨てられる運命に遭った(後述)。 (三国軍事同盟締結へ) 昭和 14 年(1939 年)9 月 4 日 松岡外相が、自らが招集した陸、海、外、蔵、四相会議に提案すべく、 「日独伊提携強化策」 (案。8 月 6 日につくられた)を独断で大幅に変更した案を陸、海軍の主要メンバー(松岡外相、大橋次官のほか東 條陸相、阿南次官、武藤軍務局長、沢田参謀次長、吉田海相、豊田次官、近藤軍令部次長らが出席)に示 して協議が行われる。 この席で松岡は、 「戦争を回避するため英米と手を結ぶには、英米の言うとおりに支那事変を処理し、 半世紀は頭を下げねばならない。それでは国民も納得しないから、英米との提携は考えられない。残され た道は独伊との提携以外にはない」旨発言したが、それは、支那事変処理と独伊との提携を短絡的に結び 付ける発想であるとともに、三国防共協定を対米軍事同盟に一変させるものであったため、吉田海相は 心労から入院・辞任した(翌 5 日、後任に及川古志郎大将が就任)。 9月6日 四相会議開催。松岡外相が「三国軍事同盟締結意外に難局打開の方策がない」旨、力説し、及川海相も 沈黙の後同意し、松岡外相の提案が承認された。海軍が、三国同盟が対米軍事同盟としての性格をもつこ と対し反対であることには変わりがなかった。 9月7日 独リッベントロップ外相の腹心スターマーがドイツ特使として来日。これは、松岡外相の呼びかけに 応えたものではあったが、ドイツの目的は、イギリスとの戦争を有利に運ぶため、アメリカの参戦を牽制 することにあり、そのために日本との同盟強化を必要としたものであった。 9 月 10 日 松岡外相はドイツ特使スターマーを自邸に招いて会談し、同盟私案を提示した。翌 11 日にドイツ側が 反対提案(軍事同盟条項の明確化)を行い、日本側が同意して基本条項が確定。 松岡が用意した同盟私案は、元駐独大使の大島が松岡に招かれた際に提示したものであった。 12 日の四相会議、14 日の大本営政府連絡会議、16 日の臨時閣議を経て、19 日の御前会議において日 独伊三国軍事同盟の要綱が最終決定された。終始、松岡が「 (独伊と結ぶか米英の側に立つか)日本とし てハッキリとした態度を決めるべき時だ」と主導した。新聞をはじめ世論の大部分が同盟の早期妥結を 熱狂的に支持していた。 この間、対米軍事同盟に反対の海軍は、12 日の四相会議において自動参戦の回避を主張し、原義道枢 198 密院議長も、アメリカの対日禁輸措置に懸念する発言を行ったが、松岡は強気を崩さなかった。 最終的には(妥協案として)条約第 4 条に「参戦の義務が発生すべき米国の攻撃がなされたかどうか の判定を協議する混合専門委員会を設置する」規定を設けることにより決着した。 海軍としては、三国軍事同盟を結べば、英米勢力圏内から石油・鉄材などの資材を調達できなくなるということ が分かっていた。しかし、欧州大戦へのアメリカ参戦の可能性が大ということなら、抑止力として軍事力が必要で あって、ドイツとの同盟はそれに役立つとの考えもあって、同盟締結賛成に傾いていった。あくまで反対すれば、 暗殺の憂き目に遭っていた、と後に前首相の米内は述懐した。 これによって、日本自体の存立が脅かされない限り、ドイツが攻撃されたとしても参戦に踏み切る可能 性が極めて少なくなった。駐独大使来栖三郎が全権大使として調印に赴くこととなった。 なお海軍は、陸軍と同額の予算を確保することを条件に締結を認めた。 昭和天皇は、三国軍事同盟には難色を示していた。前年、秩父宮が熱心に締結を勧めた時には喧嘩して突っぱね てしまったと、独白録に書かれている。 9 月 19 日 日独同盟の可否を論じる御前会議において、伏見宮軍令部長が賛成意見を述べたが、原枢密院議長は 「アメリカが日本への圧迫を強化し、蒋介石への援助を高めてシナ事変処理を一層困難にするのではな いか」と疑義を表明した。これは、天皇と元老・西園寺公望の危惧を体してのものであった。しかし、日 独同盟は承認された。 26 日の枢密院においては、海軍出身の枢密顧問官鈴木貫太郎が「日米戦をやるのであれば、今をおい てない」と発言した。心臓病が嵩じたため辞職した吉田善吾に代わって 9 月 15 日に及川古志郎が海軍大 臣に就任して以来、海軍は態度を変えていた。海軍としては内心三国同盟に反対であっても、ビンソン案 への対抗策として空母「翔鶴」 「瑞鶴」の就航による一時的優位に望みを託していたからで、このことを 鈴木貫太郎に吹き込んでいた。 この会議で三国同盟に反対したのは石井菊次郎(第一次大戦時の日米外交の立役者)だけで、 「歴史上 ドイツはもっとも悪しき同盟国である」、 「ヒトラーは条約など紙切れ一枚としか見ていない(例:独ソ不 可侵条約) 」と反対意見を述べた。(別宮暖朗「誰が太平洋戦争を始めたのか」筑摩書房より) 9 月 21 日 天皇が「この同盟を締結するということは、結局日米戦争を予想せねばならぬことになりはせぬか」と 内大臣に再び憂慮を洩らされた。 9 月 23 日 シナ南部の南寧を占領していた日本陸軍第 5 師団 2 万 5 千人が越境して仏印領ランソンなどを攻撃し た。ドンダン要塞など各地で、ヴィシー政権の決定を受け入れず日本軍の進駐に反対する一部のフラン ス軍との間で数日間、戦闘が発生して停戦までに数百人の死傷者が出たが、25 日ついに仏軍を降伏させ た。 26 日には日本からの印度支那派遣軍もトンキン湾からハイフォンに強硬上陸し、武力による進駐を行 った。これは、陸軍内強硬派の独走によるものであった。 日本側の北部仏印進駐の目的は、米英による蒋介石政権への物資補給ルート=援蒋ルートの閉鎖・監視であった が、援蒋物資阻止に関する外務省と仏政府との交渉を無視して行われた。 参謀本部作戦部長富永恭次、南支那方面軍副参謀佐藤賢了が第五師団を動かしてなされた北部仏印への進駐は、 199 ドイツに敗れたフランスの政治的無力につけこむものであると同時に、7 月末に示された天皇の憂慮を踏みにじる ものであった。 そのため、参謀本部内で「他人の褌で相撲を取る」 (沢田茂次長)との声があったほか、戦闘まで起こったことか ら現地責任者の中にも「信を中外に失うもの」との批判があった。→その不手際の責任を取る形で閑院宮参謀総長、 沢田次長、富永作戦第一部長が辞任し、参謀総長に杉山大将、次長に塚田中将、第一部長に田中新一少将が就任し た。このとき、第二課に併合されていた戦争指導班は参謀次長直属の大本営二〇班として独立した。 しかしながら、蒋介石政権への物資補給ルートのひとつである仏印ルートは、この北部仏印進駐によってほぼ途 絶え、シナ大陸における蒋介石軍と日本軍との戦闘は際立って下火になり、日本は当初の目的を達した。 日本との戦闘においてあっけなく負けたフランス軍を目のあたりにしたベトナム人は、フランス軍に対抗できる と確信し、戦後フランスが戻ってきたときに自信を持って抵抗し、独立を達成した。 なお、日本と仏印との経済連携については、1941 年 5 月、経済協定の仮調印がなされ、貿易決済に第三国通貨を 使わない、などの合意ができた。 9 月 27 日 ベルリンのヒトラー総統官邸で、日独伊三国軍事同盟締結(日本は来栖駐独大使が調印) 。その目的は 条約本文において「東西呼応する世界新秩序建設のための盟約」としているように、対米国交調整のため に毅然たる態度をとることが必要で、そのための戦略として三国同盟を結ぶということであった。 三国同盟にはもうひとつの目的があり、それはシナに駐留し、蒋介石軍を育成・支援してきたドイツ軍 の撤退であった。この同盟条約の締結により、ドイツはシナから駐留軍を引き揚げた。 なお、同盟締結反対への声に配慮して松岡外相は当日、駐日公使オットーと会って秘密の公文書を取り 交わして第 3 条末尾に「攻撃されたか否かは三国間の協議によって決する」と付け加えた。 当時のマスコミは「外交転換ここに完成」(東京朝日)などと捉え、多くの国民も歓迎した。 支那事変の解決を急ぐあまり、独・伊強しとの情勢判断から同盟締結に至ったものだが、1年前に日本に通告す ることなく独ソ不可侵条約を結んで日本を裏切ったドイツに対し、対ソ協議について何ら協議することなく日本は ドイツ、イタリアとの三国同盟を締結してしまった。そこには、対ソ戦を重視するのか、アメリカとの関係をどう していくのかについて一貫した戦略がなかった。 松岡外相は欧州大戦でのドイツの優勢を過信し、日本がドイツと強固な同盟を結べば、南進してもアメリカは口 を出せないだろう=アメリカに対して強く出れば退く、との誤った判断をしていた。 しかし、9 月時点では、ヨーロッパ戦線ではイギリスがただ一国、ドイツと戦い、その攻撃を何とか持ちこたえつ つアメリカのルーズベルト大統領に対独参戦を求めていた。 ドイツが占領した地域においてユダヤ人に対するホロコーストが始まっており、英米のドイツに対する感情は日 増しに悪くなっていた。 大西洋における制海権を維持していたイギリスは、9月末、ロンドン上空の空中戦でドイツに勝利し、イングラ ンド上陸・征服を目指すドイツの進軍は阻まれた(ロンドン空襲は 11 月まで継続された)。 このような情勢下で、日本はドイツと組むことを決定したが、それは短期的な戦況を長期的な世界情勢と見誤っ たものであり、戦略的に賢い選択ではなかった。 この三国軍事同盟によって日本はアメリカに対し強気の政策をとるようになったが、これによりアメリカを決定 的に敵に回すこととなり、以降、アメリカは意図的に日本を追い詰めていくようになった。しかも三国軍事同盟は、 実際上は軍事同盟として何ら機能しなかった。 200 内心対独参戦せざるを得ないと考えていたものの国内の反戦機運が高いため参戦に踏み切れず、一方で史上初の 大統領三選を果たそうと戦略を練っていたルーズベルト大統領は、この三国軍事同盟を見て「日本と戦争になれば 対独参戦を果たすことができる」とほくそ笑んだ。 なお日本が真珠湾攻撃を行ったとき、松岡外相が付け加えた一項にもかかわらず、それは日本が「攻撃されたと き」に該当しないにもかかわらず、ヒトラーは自動的にアメリカに宣戦布告した。 後年松岡は三国同盟締結を「一生の不覚」と悔やんだ。 9月 内務省訓令により「隣組」が組織された。それは、出征兵士の見送りや遺族・留守家族への救援活動の ほか、相互監視の役割も担っていた。このため、国民の生活は一層窮屈になった。 なお、東京・銀座などのダンスホールも翌 10 月末日を以て閉鎖されることとなった。 政府が大政翼賛会運動綱領を発表し、一億一心、職分奉公、臣道実践という大義を掲げる。 昭和 8 年に近衛文麿の私的諮問機関として結成された昭和研究会がその母体。綱領を持つ政党のような政治組織 ではなかった=綱領も宣言もなく、新体制運動を投げ出す形になった。加わらなかった代議士は 30 名ほどで、傘 下には大日本産業報国会、大日本婦人会、町内会、隣組まで含まれていた。大政翼賛会が政治運動の中核体という ような曖昧な地位に留まったため、軍部勢力に利用された面もある。 10 月 12 日 新体制運動の行きつく先として大政翼賛会が成立した。大政翼賛会は国政協力団体と化し、内務省の外 郭団体となり、同会地方支部長は地方長官兼任となった。 一方で国民は、新体制運動という公益優先の名の下での国家統制に不満で、「配給並びに消費の規正」を求めた。 他方で金融業界などは金融の規制に反発した。また、 「新体制は『赤』だ」というイデオロギー批判も生じて、次第 に新体制運動は行き詰っていった結果としての大政翼賛会成立であった。 陸軍はまたも近衛による運動を巧みに自分たちの体制強化に取り込んだという面があった。 10 月 23 日 省部首脳会議開催。 「大東亜建設の捷道たるとともに、実に支那事変解決の為に残されたる最大の手段」 は南方進出によって自立経済圏を確立することであるとの認識で一致した。 10 月末 英国駐在武官の辰巳栄一少将が、独空軍によるロンドンへの昼間の爆撃がなくなった(夜間の空襲は翌 年 6 月まで続いた)ことから、 「ドイツ空軍の制空権獲得の失敗とみるべきで、ドイツ軍による英本土攻 略は実現の公算極めて少なし」との見解を大本営宛て打電し、英米軽視によって国策を誤ってはならな いとのメッセージを発したが、ドイツ一辺倒の指導部は聞く耳を持たなかった。 外務省内においても、枢軸派と、これに同調する“灰色組”が大勢を占めており、対英米戦を憂慮する 声はかき消されていた。 11 月 10 日 政府主催で「紀元二千六百年式典」が開催される。その目的は、一つには国民の士気の鼓舞であり、第 二には戦時下の国民を少しでもねぎらおうとするものであった。 11 月中旬 山本五十六が海軍大将に昇進の上、帝国連合艦隊司令長官に就任。これは、アメリカの対日戦略に対処 201 する面と、同国との開戦に消極的な山本の身の安全を図る面との両面の措置であった。 11 月 26 日 政府が芳沢謙吉(貴族院議員・立憲政友会。元駐仏特命全権大使、外務事務官)を蘭印経済交渉特命全 権大使に任命した。 →芳沢大使はオランダ領インドネシアに派遣されて石油輸入確保のための交渉にあたったが、オラン ダ側はこれに応じず、交渉は決裂。これにより、石油の自立確保の道が途絶えた日本に対し、アメリカが 生殺与奪の権を握ることとなった。 11 月 27 日 駐米大使に野村吉三郎が就任。予て日米親善を願う野村は、三国同盟推進の中心人物である松岡外傷か らの打診に首を振り続けたが、とうとう受け入れたもの。→翌年 2 月 11 日に、冷ややかな空気のなかで ワシントンに着任した。 (援蒋ル~ト遮断のための南支作戦) 昭和 14 年 11 月 第二次欧州大戦勃発により、英仏が極東を省みる余裕がないのを見た軍中央は、支那事変解決を急ぐ ために、フランスの蒋介石援助を思いとどまらせることを目的に南寧作戦を発動した。 第 5 師団(師団長:今村均)の兵を動員する輸送船 20 隻が宇品港で高射砲 2~3 門を積み込んだのち、 15 日未明、暴風雨の中、欽州湾から上陸を開始し、翌日までに歩兵 4 連隊が上陸を終えた。 同師団は約 200 キロ先の南寧を目指して進軍し、10 日後には南寧に達して、ここを攻略した。途中で 携行した糧食が尽き、水だけを飲んで歩くという強行軍であった。 12 月 9 日 蒋介石軍が約 30 万の兵力(32 個師団)で反攻を開始。第 5 師団は苦戦を強いられ、飢えと戦いなが ら応戦し、自軍の応援も得て約 50 日間戦い抜き、翌年 2 月 3 日、ようやく敵軍を撃退した。同軍の損害 は戦死約 1,500 名、負傷者約 3 千名で、総員の 2 割に達した。 (英米による対日情報戦と制裁策) 日独伊三国軍事同盟締結(9 月 27 日) 、日本軍の北部仏印進駐(9 月 23~26 日)に反発して、アメリ カは日本に対してより強硬な政策をとるようになった。 昭和 15 年(1940 年)9 月 25 日~10 月初め アメリカ海軍の R.サフォード大佐率いる暗号解読班が日本の主要な暗号システム(外交暗号と海軍作 戦暗号《29 種からなる別々の作戦暗号》 )の一部を解読することに成功した。アメリカの暗号解読班は以 後、日本の外交暗号をパープル暗号と呼び、得られた情報を「マジック情報」と総称した。残りの海軍作 戦暗号「JN-25」 (主要暗号は 5 数字暗号)についても、10 月中頃には解読された。さらに米海軍は、暗 号解読時間を短縮するために特別の暗号解読機を開発した。 アメリカ政府が当時日本の外交暗号を解読し、 「マジック情報」と呼んでいたことを公式に認めたのは 1980 年の ことだった。さらに大統領府は、各種調査委員会に「国家の安全保障上の理由」から「JN-25」について審議する ことも、それに触れることさえも固く禁じていた。 日本海軍の作戦暗号については、イギリスの秘密情報機関(MI6)も 1939 年終わりごろには解読に成功していた。 202 同機関の J.ラヅブリッジャーと E.ネイヴの両名は 1991 年に刊行した「Betrayal at Pearl Harbor(邦題:真珠湾 の裏切り) 」の中で、日本海軍の暗号は、その原理と構造を理解すれば、いとも簡単だったと述べている。 9 月 30 日(日本時間) アメリカが日本への屑鉄の輸出を統制する法律を発布。これは、同年 6 月に成立した国防強化促進法 (シェパード法)を発動させたものであった。 この屑鉄輸出統制法は、以下のキャンペーンによって制定された。 宣教師の息子としてシナで生まれたハリー・プライスが 1937 年央からニューヨークに移住し、1 年かけて「日本 の侵略に加担しないためのアメリカ委員会」を立ち上げた。同委員会はシナとは無関係を装ったが、アメリカ国内 で中立主義を煽りつつ蒋介石政権を援助することを目的として、日本への戦略物資の輸出を停めさせようと活動し た。また、1935 年に制定された中立法(交戦国に対して武器輸出を禁止することを定めた)がシナの蒋介石政権に 対して発動されないよう運動し、他方日本が「拡張主義」であるとして非難することに重点を置いた。 日本には巨額の資金が必要な溶鉱炉を増やす国力がなかったため、鋼鉄の原料の多くをアメリカから輸入する屑 鉄(廃車となった自動車エンジンなど)に依存していた。したがって屑鉄が禁輸となると、日本にとっては生産計 画に支障を来し、大打撃となることが予想された。 このような経済封鎖について、パリ不戦条約の起草者の一人であるケロッグは、条約審議の過程において、 「戦争 行為である」と述べている。以降、アメリカは日本から直接武力行使の恐れがないにもかかわらず、経済封鎖を強 めていった。 日本の陸海軍では、以降「さらに石油を止められたら戦争しかない」との認識が強まった。 続いて 10 月 5 日に米国海軍長官ノックスは「日、独、伊の挑戦には応戦の用意あり」との声明を出し た。 10 月 8 日、堀内大使がハル国務長官を訪ね、 「日本への屑鉄輸出統制法は実質的な禁輸で、日本を対象 とする差別的措置・非友好的行為である」と激しく抗議したが、ハルは「シナにおいてアメリカ市民の財 産その他の権益を侵害し無視する日本が、 (同法を)差別的措置だとしてアメリカに不満を述べるなど驚 くべきことだ」と不快感を示した。 10 月 4 日 イギリスが蒋介石支援のビルマルートを再開した(日本の要求により 7 月 18 日から閉鎖していた) 。 日露戦争のときには日本の戦費調達に協力したユダヤ人勢力も、 「ユダヤ人のホロコーストを企図するヒトラーと 組んだ」として、日本を敵視するようになった。 このように日独伊三国軍事同盟締結によって、英米との勢力均衡が生まれると考えていた近衛首相と松岡外相の 思惑は完全に裏切られ、むしろ同同盟は英米との対決を抜きがたいものとしたうえ、支那事変処理方式に大きな転 換期をもたらすこととなった。 10 月 7 日 米海軍情報部極東課長 A・H・マッカラム少将が「戦争挑発行動 8 項目覚書」を作成し、上申した。こ の覚書は、ルーズベルト大統領が最も信頼する軍事顧問、W.S アンダーソン海軍大佐と D.W.ノックス海 軍大佐の承認を受けた後、同大統領に回付された。 同覚書は、チャーチル英首相から要請されていた対独参戦を果たすために、ドイツの同盟国となった日 203 本がアメリカに先制攻撃をするように追い込み、それによって反戦気運の高い世論を一気に変えるとい う段階的な国家戦略で、その内容は次のとおりであった。 A 太平洋英軍基地、特にシンガポールの使用についての英国との協定締結 B 蘭領東インド内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結 C シナの蒋介石政権に対する可能な、あらゆる援助の提供 D 遠距離航行能力を有する重巡洋艦 1 個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣するこ と E 潜水艦隊 2 隊の東洋派遣 F 現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること G 日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること H 英帝国が日本に対して押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁 止 (ロバート・D・スティネット「真珠湾の真実」文芸春秋社より) 10 月 12 日 ルーズベルト大統領が「独裁者たちの指示する道を進む意図は毛頭ない」と、同盟三国向けの強硬な演 説を行った。 11 月 5 日 米国大統領選挙で、戦時・有事を理由に史上初の三選を目指し、対独参戦を否定する公約を掲げたルー ズベルトが当選を果たす。 アメリカには厭戦気分が漲っていて対独参戦には反対であったため、表向き非戦を訴えたルーズベルトが勝利し たものであるが、ルーズベルト自身は三国同盟への対抗を秘めており、以降、公約に縛られながらも参戦を決行す るための方策を求め続けた。 その理由の一つに、1929 年以来の大不況・失業問題に有効な手立てを打てないでいたが、不況克服のため、ルー ズベルト、アメリカ産業界には欧州大戦の拡大を企図し、それによりアメリカ経済の復調を図ろうとする狙いがあ った。また、内心シナ市場への参入のため邪魔な日本を徹底的に叩こうと考えていた。日本の政治指導者は、その ことを正確に把握していなかった。 英(チャーチル)は米(ルーズベルト)に強い働きかけを行い、独ソ開戦を実現させるとともに、米の (ヨーロッパ戦線における)対独参戦、 (日シ戦争における)シナへの支援を求め続けた。 40 年 11 月 13 日 英国がシンガポールに東亜軍司令部を開設し、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパ ルス」を派遣した。マレー半島、ビルマ、香港をその指揮下に置くとともに、オーストラリア、ニュージ ーランドとも連携して軍備を拡張した。 これは 9 月にロンドンで開催された英米参謀会議の結論に基づくものであった。この会議でイギリス はアメリカにシンガポール防衛のため、アメリカ太平洋艦隊の主力艦数隻の派遣を要請したが、アメリ カはこれを拒否し、地中海への派遣による支援を約束した。 同年 11 月 30 日 アメリカが重慶国民党政府に 1 億ドルの追加支援(借款)を決めた。これは、訪米した宋子文 の要請を受け入れたもので、日本に対する敵意を露わにしたものであった。同時に戦略的には、日本・ド イツに対する二面作戦を回避する要素もあった。 なお、アメリカは重慶政府に対し 20 年 9 月 2 日=日本の降伏文書調印の日=までに 14 億 6945 万ド 204 ルの物資援助を行った。武器貸与は 8 億 7 千万ドルにのぼったと言われる。 同年 12 月 アメリカが太平洋艦隊の主力をハワイに集結した。また、対日輸出禁止品目の範囲を拡大した。 同年 12 月 14 日 アメリカ「外交問題評議会」に設けられた「戦争と平和研究」プロジェクトが5つの研究グル ープの代表と政府の代表者に呼びかけて、対日策を討論した。→41 年 1 月 15 日に文書を発表 同年 12 月 29 日 ルーズベルト大統領が国民に時事問題を話しかける「炉辺談話」の中で、 「アメリカは民主主義 の“兵器廠”とならなければならない」と宣言した。 この太平洋艦隊のハワイ集結は、理に合わない措置であった。本土を防衛するにはハワイは遠すぎる し、日本を牽制することも、威嚇すること出来ない。その上、物資の補給にカネがかかるし、島内の石油 備蓄基地を破壊されたら、艦隊は移動できなくなる。このため、リチャードソン太平洋艦隊司令長官は 反対の意を表明し、これにより、翌年 2 月解任された。 41 年 1 月 1 日 スチムソン国務長官がニューヨーク・タイムスに寄稿し「もし、アメリカが日本によるシナにお ける戦争をやめようとするならば、日本が戦争を行うに必要としている資材や資源の供給を停めること だ」と書いた。 1941 年(昭和 16 年)1 月 15 日 アメリカ「外交問題評議会」が「アメリカの極東政策」のタイトルで日本の東南アジア進出を阻止する ことがアメリカの国益に適うとして次の 3 点を提案し、 「それらはイギリスの権利を奪うことなく、或い はイギリスが対独戦に負ける場合でも大西洋で同国を無力にすることなく、日本を抑制できるであろう」 と結論づけていた。 1.日本軍をシナに釘付けにするため、蒋介石政権に可能な限りの援助とくに戦争資材を与える。 2.東南アジアの防衛は海軍と空軍を派遣することにより、またイギリスとオランダとの間で同地域の 防衛に関する協定を結ぶことによって強化すべきである。 3.日本への戦争資材の供給を削減することによって日本を弱めるべきである。それは、日本の戦争努 力を深刻なまでに妨害できるであろう。 外交問題評議会は、アメリカが国際連盟を主唱しながら加盟できなかった苦い経験を踏まえて、1921 年に財界、 学会、法曹界の有力者が立ち上げた団体で、ルーズベルト大統領誕生後、国務省トップも関与して政府に具体的な 提言を行うようになった。 これらアメリカの対抗策により、 「三国軍事同盟によってアメリカから妥協策を引き出す」という松岡 や陸軍側の目論みは完全に打ち砕かれたことが明らかになった。 3 月 11 日 アメリカが重慶国民党政府への全面的軍事援助を目的として「武器貸与法」を成立させた。 アメリカとしては、アジアにおいても日本とシナとの間の戦火の拡大を企図し、自国経済への波及を図 ろうとする狙いがあった。アメリカの軍需産業は戦争を望んでいたのである。 もし、シナ事変が一層大規模化し、日本が背後のアメリカを主敵として日米開戦となれば、三国同盟に よってドイツがアメリカに宣戦布告することになり、そうすれば、アメリカはドイツとの戦争を正々堂々 と行うことができ、不況も一挙に解決する――武器貸与法には、そのような遠望深慮があった。 ルーズベルトが欧州、アジアにおいて危機を拡大するよう進めた一連の施策については、共和党有力議 員ハミルトン・フィッシュの証言がある他、C.タンシルが『裏口から戦争へ』において同様に指摘した。 205 また、C.A.ビーアドといった歴史学会の大家もその説をとっている。 (対英米戦略構想) 15 年(1940 年)11 月上 中旬に予定された独ソ外相会談を控えて、リッベントロップ独外相が松岡外相に、三国同盟にソ連を加 えた「日独伊ソ四国協定」の腹案を提示。松岡外相は直ちに同意の回答。 当時ドイツ軍は東部戦線においてモスクワ近郊に迫っていたものの苦戦に陥っていた。12 月 12 日には、同軍は 東部戦線からの総退却を開始した。このことを日本政府は察知できていなかった。 11 月 26 日~28 日 山本連合艦隊司令長官の統裁により、軍令部、連合艦隊、海軍大学校の関係者を動員して図上演習が実 施される。内容は、蘭印攻略作戦から始まって対英米戦に発展する状況を実演研究するもの。 ・ 蘭印攻略作戦を実施すれば、対英米戦は不可避となるから、その覚悟と十分な戦備とを持たな い限り南方作戦に着手すべきではない。 ・ それでも開戦やむなし、ということであれば寧ろ対米戦を決意して比島攻略を先にするべき。 その所見を聞いた及川海相及び伏見軍令部長は全くの同感の意を表した。 井上成美海軍中将が、従来から伝統的作戦方針としてきた漸減邀撃作戦に基づき、西太平洋上の島々を 徹底して堅固な要塞にしてそこを拠点に配備された航空兵力を主軸として米軍を迎え撃つことを主張し たが、退けられた。 このときから、海軍は随時随処に米艦隊を求めて攻勢をとる作戦方針に転換した。 以降、海軍は「英米絶対不可分論」に思想統一され、戦略面でも局地的南方出兵作戦から、対英米蘭全 面戦争作戦に変質し、山本連合艦隊司令官は対米開戦の劈頭、真珠湾を攻撃する作戦を練り始めた。その 目的は、アメリカ太平洋艦隊を移動不能とすることにあった。 山本連合艦隊司令長官がハワイ・真珠湾攻撃の着想を得たのは、同年 4 月の海軍合同訓練の際であった(参謀長・ 福留繁「史観・真珠湾攻撃」) 。演習上では、ハワイへの空母集中使用と九七式艦攻による航空雷撃が成功したと認 定されたからできる。しかし、太平洋を東進し、随処に米艦隊を求めて攻勢をとるには、中部太平洋の島々の軍事 基地に燃料保管庫、修理工場、乾ドックや航空機用曾設備などの施設が必要であるが、それらは、全く整備されな かった。 山本長官はそれまでアメリカとの戦争はさけるべきだと主張してきた一人だった。しかし、戦争が避けがたい状 況になってきたなかで、対米戦争は軍艦よりも飛行機の戦いになると予想し、空母と戦闘機よりなる機動部隊によ って、積極的な作戦を展開すべきだと考え、真珠湾攻撃作戦を第 11 航空戦隊参謀長の大西瀧次郎少将に航空攻撃 計画の作戦立案を依頼した。 [漸減邀撃作戦について] 海軍が元々練り上げてきた漸減邀撃作戦は、国力に劣る日本がアメリカと互角に戦うには、守備範囲を限定し、 攻めてくる敵を迎え撃とうとするもので、海軍が長年伝統的に練り上げてきた作戦であった。防御が主眼であっ たから、この作戦に基づいて建造された艦船・航空機は基本的に列島の水際防御を目的とし、このため艦船は太平 洋の風浪に耐える航洋性は高いが、船・航空機ともに航続距離が短いことを特色とした。 206 原型は、第一次大戦で欧州に派遣され、U ボートの威力を目のあたりにした海軍の末次信正が描いた。国防圏を 周辺海域(本土と蘭領インドネシアを結ぶルート)に限定し、できるだけ敵を引きつけて迎え撃ち、潜水艦や水雷 艇の奇襲によって敵の主力艦を 1 隻、また 1 隻と脱落させてゆくという作戦。 本土から遠く離れた太平洋に戦域を広げないことはもちろんのこと米国本土への攻撃を考えず、近海で敵に大き な損害を与え、勝敗を五分五分に持ち込むことを旨としていた。 しかし、図上演習では、何度行っても米海軍有利で終了した。この結果からは、国としては戦争抑止力の向上や 国力向上の可能性を追求するべきであったにもかかわらず、海軍条約派は軍備について実戦か外交的屈服の二者 択一論でしか考えていなかった。 連合艦隊が真珠湾攻撃という長駆東進作戦を行う場合に必要となる機動部隊の編成は、従前から進めてきた全体 の計画を崩壊させるものであった。山本はすでに航空本部長在任時に長駆攻撃が可能な九六式陸攻、九七式艦攻、 零銭の開発を指示していた。 12 月 鹿児島県錦江湾において、真珠湾攻撃にむけ搭乗員の訓練や水平爆撃用の艦砲徹甲弾流用実験並びに 浅海用航空魚雷の研究が開始された。 16 年(1941 年)1 月 7 日 山本連合艦隊司令長官が及川海相に送った意見書のなかで「日米戦争において第一にするべきことは、 開戦劈頭、敵主力艦隊を猛撃撃破して、米艦隊及び米国民の士気を阻喪させることだ」として、攻撃を行 う航空艦隊司令長官に就任したいと希望した。ただし、ハワイ諸島を占領することは全く考えていなか った。 この主張は、その頃のアメリカの「ファイティング・スピリット」を見誤ったものであったうえ、従来の伝統的 な西太平洋迎撃戦略(漸減邀撃作戦)を放棄するものであった。作戦的にもハワイ、ミッドウェーとも、日本から 遠距離にある分、機動部隊同士の戦いになった場合、勝利を得るのは至難のことであった。 なお、この「真珠湾攻撃」情報は、早くも同月 27 日にはアメリカの情報網に察知され、ハル国務長官が当該情報 を知ることとなった。 その後、 「航空戦力さえ整備すれば対米戦争恐るるに足らず」と、機動部隊の編成及び真珠湾奇襲及び後のミッド ウェー作戦を主張し、軍令部の猛反対に対しては「ならば長官を辞める」と脅迫して、これらの作戦を強行した。 山本司令長官の独断専行は真珠湾攻撃にとどまらず、空軍の創設にも反対して、これを潰してしまった。理由は、 当時は陸軍が圧倒的に多くの航空機を保有していたので、空軍が創設されても陸軍の思うようにされてしまうとい う懸念にあった。 1月8日 陸軍省が陸軍大臣東條英機の名で「戦陣訓」を示達。 本訓(其の二)第八「名を惜しむ」において示された「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、 いよいよ奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の 一節は、日本軍に従前からあった降伏否定の考え方を一層強化するものとなった・・・[捕虜になるよりも 玉砕することを選ぶ]。 この戦陣訓は、南寧作戦の後、15 年 3 月に教育総監部本部長に任ぜられた今村均が、その作成を主宰して作ら得 た。策定の理由は、支那事変勃発以来、現地将兵に規律違反、風紀の乱れが目立つともに非違行為が以前とは比較 207 にならないくらい増大したからであった。そのため、軍上層部は何とか手を打たねばと真剣に考えるようになり、 担当の教育総監部、陸軍省軍務課が軍規、風紀粛清にとりかかったものであった。 本訓(其の二)第八の規定が作られた背景には日露戦争の際、投降兵が多かったことに由来する。 当時の兵は捕虜となったとき、どうするかについての教育を受けていなかったため、秘密事項でも喋ってしまっ た。そこで投降を少なくするためにつくられたが、 「捕まるくらいなら死ね」という働きをすることとなった。 しかしこの戦陣訓がつくられたことにより、日米開戦後は、もう戦う術もないないとなった時点において、投降 するよりも死を選んで多くの有為の軍人の命が失われた。 また、捕虜に対する扱いも従前と比べて著しく配慮を欠くこととなった。 今村は作成の過程で詩人・小説家の島崎藤村の意見を聞き、できるだけ取り入れようと努めた。できあがった戦 陣訓は 19 の項目からなり、3千字に近い長文となったうえ、文章も難解であった。今村は後に、 「陸軍各方面の意 見を、その良いと思われたものを取り入れすぎ戦場における完全な教訓書たらしめようとしたため、遂に重心を失 ってしまった」と反省している。 2 月 12 日 前年 11 月に駐米大使に就任した野村大使が、着任早々ハル国務長官を訪ねたが、僅か 4 分のそっけな い対応であった。14 日の信任式のあとの会見においてルーズベルト大統領は、日本への不信をあらわに したものの、旧知の間柄であった野村大使に対し「今後はいつでも喜んで会見に応じる」との態度にかわ ったため、以後、野村大使は日米協調のため精力的に動いた。 ハル国務長官も、3 月 8 日の会談において、「大統領との会見を望むなら、自分が仲介しよう」と約束 するほど好意的な態度を示した。→4 月末の松岡外相の行動により、一変(日米交渉の項へ) 3月 陸軍省は、海軍に「南方問題を解決のため好機を捕捉し武力を行使する」意思のないことを知って、戦 備課が「速やかに蘭印交渉を促進して、東亜自給圏の確立に邁進するとともに、無益の英米摩擦を避け、 最後まで米英ブロックの資源により国力を培養しつつ、あらゆる事態に即応しうる準備を整える」旨、軍 中央部首脳及び事務方に報告。 3 月 12 日~4 月 かねて「ユーラシア同盟」 (日独伊ソ四国同盟)を唱えてきた松岡外相が大本営から訓令を得て、その 締結のためにシベリア鉄道でモスクワに向かう。 24 日スターリンと会談後、松岡はベルリン~ローマを歴訪したのち、ベルリンに戻りヒトラーと会談、 ヒトラーを阿諛追従したという(ドイツ側議事録) 。 4 月 7 日、モスクワに戻ってモロトフ外相と会談した松岡は北樺太の買収を提案。モロトフは逆に北樺 太の石油利権回収を提案した。12 日、松岡が突然モロトフの要求を認めたことから日ソ中立条約締結に 至った。→翌 13 日に調印。 4月1日 高速の航空母艦 6 隻を主力とする第 1 航空艦隊が編成された。この艦隊は山本司令長官の構想にあっ た真珠湾を攻撃する作戦に向けてのものであった。 (アメリカの対独参戦構想推進) 208 16 年(1941 年)1 月 29 日 英国側の強い働きかけでワシントンにおいて米英参謀会談が開催された。この会議は以降断続的に 3 月 27 日まで続けられた。 これを受けてアメリカは統合基本戦争計画「レインボー5 号」を策定した。アメリカは、決定的な戦場 は大西洋と欧州地域である、とした。なお、同計画に基づく「海軍基本戦争計画」では、太平洋艦隊の行 動については「カロリン及びマーシャル諸島の占領と支配の確立、並びに前進基地をトラック諸島に設 定する準備を行う」としていた。 しかしその当時、アメリカ国民の 88%は対独参戦に反対していた。そこでアメリカは、何としてでも 対独参戦を果たすために、外交交渉や経済政策によって日本を追い込むことにより、アメリカに対する 「最初の一発」を打たせて日米戦争を始め、それを以てアメリカが日本と同盟関係にあるドイツに対し ても参戦するというシナリオを作り上げることとなったが、そのシナリオの基となったのは、前年(1940 年) 米英参謀会談開催時点で、前記戦争挑発行動 8 項目覚書(昭和 15 年 10 月 7 日)の内のいくつかは既に実行に 移されていた。E 項 潜水艦隊 24 隻のマニラ派遣、F 項 ハワイへの太平洋艦隊主力集結、G 項 日本が石油や 原料を要求しても拒否するよう、オランダを説得する、の各項である。1941 年 12 月の日米開戦まで、ほぼこの覚 書に書かれた通りのことが実行に移された。 (ロバート・D・スティネット「真珠湾の真実」文芸春秋社) 1 月末 英蘭両国の支配する東南アジア諸国が日本への天然資源の輸出を停止。これは、 「戦争挑発行動 8 項目 覚書」の G 項に基づくアメリカの要請によるものであった。 2月1日 ルーズベルト大統領が、連邦議会が決議した艦隊を太平洋と大西洋に分ける「両洋艦隊制」法案に署名 した。その際、1 月 5 日に決めた太平洋艦隊のハワイ移駐に対し、艦隊が危険にさらされるとして反対し た太平洋艦隊司令長官リチャードソンを解任した。代わりにキンメル大将が太平洋艦隊司令長官に任命 された。 「両洋艦隊制」により、アメリカ海軍は大西洋艦隊、太平洋艦隊及び小規模のアジア艦隊の3艦隊制となった。 キンメル司令長官には、アメリカが日本海軍の暗号解読に成功したことは全く知らされていなかった。 その理由は、太平洋艦隊戦艦部隊司令官アンダーソン少将(前海軍情報部長として日本海軍の暗号解読 に成功したことを知っていた)が大統領命令により、情報を管理する門番としてハワイに派遣され、キン メル太平洋艦隊司令長官を蚊帳の外に置いたからである。 2月3日 アメリカ連邦政府国務省の中に「特別研究部」 (SR と呼ばれた)が設置された。その組織目的は日本と 戦って屈服させた後に、日本をどのように処理するかを研究することであった。 3 月 11 日 アメリカ連邦議会が反枢軸国を対象とする武器貸与法を成立させ、ルーズベルト大統領はラジオで「独 裁者と共同歩調をとるべしとの宥和主義は終止符を打った」と演説した。 同法の上程にあたり、前大統領のフーバーや米歴史学会長の C.A.ビーアドらは反対したが、ルーズベルトはその 成立を強く支持した。このため、後に回想録においてフーバーは、マッカーサーとの会談時にルーズベルトを「日 米戦争の全ては、戦争をしたいという狂人の野望だった」と述べたと記した。対談相手のマッカーサーも「日本に 209 課した経済施際は、日本を自殺行為に追い込んだ。いかなる国でも、誇りを重んじる国であれば、耐えられること ではなかった」と同意を表明した。 同法成立以降、総額 501 億ドル(2007 年の価値に換算してほぼ 7000 億ドル)の物資が連合諸国に供給され、その うち 314 億ドルがイギリスへ、113 億ドルがソビエト連邦へ、32 億ドルがフランスへ、16 億ドルが中国へ提供され た。 一方で、ルーズベルト大統領は同月中に同法をシナに関しても適用することを決定し、ラフリン・カ リー大統領補佐官を蒋介石の国民政府に派遣して、さらなる対シ軍事援助の具体的な内容について協議 を行わせた。 同月中に蒋介石の代理としてアメリカに滞在していた宋子文が、アメリカ政府に対し以下の援助を要 請した。国民政府軍にはこれらを運用するに必要なパイロットも地上要員もいなかったにもかかわらず である。 1 700 機の戦闘機、300 機の爆撃機からなる計 1,000 機の供与 2 30 個師団に装備するための近代兵器供与 3 ビルマを経由するシナとの通信の改善とビルマ鉄道の建設 同月、ルーズベルト大統領は太平洋艦隊所属の戦艦 3 隻、空母 1 隻、巡洋艦 4 隻、駆逐艦 18 隻を大西 洋方面に向かわせた。これは、日本をして真珠湾攻撃が容易だと思わせるための“誘い込み戦術”であっ た(ロバート・A・シオボールト「真珠湾の審判」 )。 (日米交渉開始、ソ連を含めた 4 国同盟構想とその破綻) 15 年(1940 年)11 月 ルーズベルトが大統領選に初の三選を果たした直後、冷え込んだ日米関係を打開するという名目で、 アメリカの民間人、カトリック海外伝道協会会長ウォルシュ司教と同会事務総長ジェームス・ドラウト 神父が来日し、日米政府間交渉を行うという目的で働きかけを開始した。彼らの後ろにはウォーカー郵 政長官がいた。 2 人は、近衛首相の顧問団の一人である産業組合中央金庫理事井川忠雄(大蔵省出身・元駐米財務官) と陸軍大佐岩倉豪雄に近づいて日米政府間交渉打診の意を伝え、井川理事から西園寺公一に、そして西 園寺が近衛首相に伝えた。 近衛も日米関係を憂慮していたから、これに応じ、井川理事に交渉を進めさせた。井川は 2 月に渡米 し、ドラウト神父らと秘密裡に交渉を進めた。 2 人の神父はルーズベルト大統領からの密命を受けた工作員であり、その目的は、交渉をしていれば、日本との開 戦時期を望みどおりに設定できるというところにあり、もとより日米間の平和を目的とするものではなかった。 16.年(1941 年)1 月~ 松岡外相が駐ソ米大使スタインハートと接触して、ルーズベルト大統領の斡旋による支那事変解決の 工作を始めた。対米強硬派の松岡は、この工作がうまくいけば渡米してルーズベルト大統領と会談をし て国交を調整し、かつ一挙に支那事変を解決しようと考えていた。しかし、思うような反応はなかった。 3月8日 産業組合中央金庫井川理事のお膳立てにより、 「日米間の非戦の道を探るため」野村吉三郎駐米大使が 望んでハル国務長官との秘密非公式会談が行われる(14 日には野村大使はルーズベルト大統領とも会っ た) 。 210 野村元海軍大将は、ルーズベルト大統領が海軍次官時代に駐米海軍武官であったとして駐米大使に起用されたが、 殆ど英語が話せなかった上、政治的外交的センスがなく、相手の腹を読めないタイプであった。 3 月 17 日 井川理事がドラウト神父らと進めていた交渉に、武藤章の命により軍務局付となって米国に赴任した 岩畔豪雄陸軍省軍事課長が加わり、同案に「多少、色をつけて」 (岩畔本人が後に語った)、4 月初め関係 者間で「日米了解案」なるものができた。 しかし、後に岩畔が明らかにしたところによれば、当該案は完全なデッチ上げだったという。 「アメリカの正式提 案とでも言わなければ、政府は真面目に取り上げてくれないと思ったからだ」 なお、この案作成に関わったウォルシュ司教及びドラウト神父はアメリカ側の情報部員であり、背後にいる国務 省は、2 人の神父を操って日本に甘いエサを投げかけ、日本を翻弄する意図であった。野村には、これらを見抜く 目がなかった。 4 月 12 日 野村大使が井川理事よりもたらされた「日米了解案」なるものを官邸に報告した。 この案について合意が得られれば、速やかにホノルルで巨頭会談を設営し、太平洋における平和の到来 を内外に誇示しようとするものであったとされる。これは、渡欧中の松岡洋右外相抜きで運ばれたこと であった。 近衛首相は同案を歓迎したが、近く帰国する松岡外相がどのような反応をみせるか、心配だった。 「日米了解案」の枠組みは、日本が三国同盟を実質的に骨抜きにする代わりに、アメリカは日米合意の和平条件 を以て蒋介石政権に対し和平を勧告するというものであった。日本の主要閣僚にその訳文が渡ったのは 18 日であ った。 [日米合意の和平条件] (抜粋) 日米両国は、伝統的友好関係の回復を目的とする全般的協定を交渉し、かつこれを締結せんがため、ここに共同 の責任を受諾す。 第2項 日本の三国同盟参加は第三国の欧州戦争への介入防止であることを承認する。アメリカは防御を目的と する以外欧州戦争への不参加を原則とする。 第3項 日本政府は、次の点を保障する。 支那の独立、日支間の協定に基づく日本軍の支那からの撤退(ただし、協定により日本軍の駐兵も ありうる。 ) 、支那領土の非併合と非賠償、門戸開放方針の復活、支那への日本からの大量的又は集団的 移民の自制 米国は蒋介石政権に和平の勧告をする。その条件はつぎの点を米国が受容した場合とする。 蒋介石政権と汪兆銘政権との合流、満洲国の承認 4 月 13 日 モスクワで、日ソ中立不可侵条約が締結される。 3 月 12 日に欧州歴訪の旅に出た松岡は、まずモスクワに行き、ソ連のモロトフ外相を訪ねた。スター リンもその場に来たので、松岡は不可侵条約を提案した。 次の目的地ベルリンで松岡は 30 万の群衆による歓迎を受けた。同月 27~29 日、ヒトラーと会談した 時、ソ連を含めた四国同盟を提唱したが、ヒトラーは全く関心を示さなかった。むしろ、ソ連との開戦を 内々決意しており、リッベントロップ外相が松岡に「対ソ戦の意図」を漏らしていたにもかかわらず、松 211 岡はこれを真剣には受け止めず、かねての主張のとおり、ユーラシア同盟に向けて、ソ連と中立条約を締 結し、いずれは四国同盟へとの思いを捨てなかった。31 日にローマでムッソリーニから異例の歓待を受 けた後、松岡は 4 月 5 日、松岡は再びモスクワに向かった。 4 月 7 日、松岡はソ連モロトフ外相に対し再度、不可侵条約締結を提案した。モロトフ外相は、先決事 項として北樺太の利権放棄を日本に迫ったが、松岡は譲らず、 「北樺太問題の解決に努力する」という非 公式文書を手交するという妥協案を提示した。その結果、ソ連が折れて、中立条約の締結ということで決 着した。まさに電撃的な条約締結であった。 ドイツは既に前年秋ごろからソ連とは手を切るという方針を固めており、現に 3 月には「独ソ戦は目前だ」とい う情報が世界の新聞に掲載されていた。そのような情勢の中であったが、松岡は三国同盟を発展拡大させ、ソ連を 枢軸国側に引き込んで、四国同盟をつくりあげ、国力に勝るアメリカに対抗しようとすることを意図していた。 これには南進論をとる陸軍が後押しをしていたが、 「天皇制打倒、日本における共産革命」を掲げるソ連と同じ歩 調で進めるか否か、根本的な大問題を軽視していた。 ソ連は、日ソ中立条約に初めは乗り気ではなかったが、ルーズベルトの対独参戦への決意が固いことを察知して いたスターリンは、対独戦に備えて東方を安泰にしておく意図から同条約締結に踏み切った。しかしながら松岡の 期待する 4 国同盟に乗ることはなかった。 一方で松岡はモスクワ滞在中にスタインハート駐ソ米大使と会って、 「日米交戦を避けるため、ルーズ ベルト大統領に蒋介石に戦争をやめるよう仲介の労をとってほしい。大統領にその考えがあれば、帰国 後、話を進めたい」と申し出、大統領に渡す案文の確認まで行っており、帰国途中にスタインハートから 「反響はいい」との連絡を受けていた。 (富永孝子「遺言なき自決 大連最後の日本人市長・別宮秀夫」 ㈱新評論 より) 4 月 14 日 野村大使がハル国務長官の私邸を訪ね、日米交渉が始まる。16 日にも会談が行われた。 4 月 16 日 野村大使がハル国務長官との間で『日米了解案』が成立した。ハルは、このとき交渉の基礎として「ハ ル四原則」 (あらゆる国家の領土保全と内政不干渉、通商上の機会均等、太平洋での現状維持)を示した 上で、これまでの非公式・個人レベルの交渉を正式な外交ルートに乗せることも可能と発言した。 (富永 孝子 前掲書) この「ハル四原則」について野村大使は、本国に伝えなかった。日本政府がこれを呑めば、事実上、日 本の敗北となるのは明白だったからである。→ハル四原則が日本政府に了知されないままになったため、 以降両国間には誤解が生じ、疑心暗鬼に陥ることとなった。 4 月 17 日 野村大使は、 「ハル国務長官は『日米了解案』の大半に異議がない」から、その筋で交渉を進めてよい との指示がほしい旨、請訓電を打電。 この日、大本営陸海軍部間で「対南方施策要綱」を採決。「好機を捕捉しての南方武力行使を行わず、 たとえ英本土崩壊の場合でも対蘭印外交措置を強化する」=「時局処理要綱」の形骸化。ただし、英米蘭 の対日禁輸又は軍事的圧迫が加重されれば、自存自衛のため武力を行使すべき意思を廟議決定の国策案 に明示しようとした。 しかしこの要綱は、翌日野村駐米大使が前日に打電した日米国交調整に関する「日米了解案」の請訓電が届いた 212 ため、政府及び陸海軍あげてこれに取り組む必要が生じ、廟議決定には至らなかった。 陸海軍部間での要綱採決に伴い、陸軍は再び支那事変処理と対ソ防衛強化に専念する姿勢に転換。一方 海軍は、戦備が完整した時点で当初目的の「好機を捕捉しての南方武力行使」を行わないことになったた め、全面的戦時編成に切り替えるか、或いは編成を縮小するかの選択を迫られることとなった。 アメリカは前年の 7 月 19 日、 「両洋艦隊法案」を成立させ、約 300 万トンの大海軍建設計画に邁進中で、時日の 経過とともに日米海軍軍備の懸隔が飛躍的に増大することは明らかであり、対米開戦の時期としては昭和 16 年を おいて他になかった。 海軍としては開戦の時期は年内がベストと考えていたが、長期にわたる作戦については絶対の自信も なかった。 近藤軍令部次長は「 (勝利は)非常に困難である」と、また永野修身軍令部総長は開戦前に「戦争第一、第二年は 確算あり、第三年以降は確算なし」と発言していた。 4 月 18 日 日本政府が野村駐米大使から『日米了解案』を受け取る。大本営政府連絡会議の場で政府首脳(近衛首 相、外務次官)及び陸軍は、これを米側提案と受け取り、飛びついた。なぜなら、満洲国承認だけでなく、 南京政府との間で調印された日華基本条約及び日華満共同宣言の原則をアメリカが承認していると観た からである。そして、その延長線上でアメリカが重慶政府に和平勧告を行うことを期待し、東條陸相は 「日中戦争を終らせるためには、この機を逃してはならない」と近衛首相に交渉開始を迫った。 しかし海軍の一部には懐疑的な意見があったため、大橋外務次官の主張が認められて松岡外相の帰国 を待って態度を決することとした。 4 月 22 日 松岡外相が独・ソ連から帰国。近衛首相と大橋外務次官とが空港に出迎えた。空港からの帰路の車中、 同乗の大橋外務次官から『日米了解案』を初めて知らされた松岡は、自分が知らない間に同案が作成され たことに不快感をしめし、 「アメリカの常とう手段に乗せられた」 「盟邦に不信を与える」と橋外務次官を 叱責した。 その夜、開催された大本営政府連絡会議に出席した松岡外相は、 『日米了解案』が自らの構想による日 米和解のための外交戦略とは全く異なったものであったため真偽に疑いを持ち、アメリカの「譲歩案」に は対日謀略の臭いがするとして拒否反応を示した。 その上で松岡は、独ソ開戦についてのリッベントロップ外相の発言にあった「ドイツがソ連を攻撃すれ ば 3 カ月程度でソ連は四分五裂するだろう。となれば日本がシンガポール攻略をやっても後顧の憂いは ない」との言葉を披露し、シンガポール攻略を主張した。 これには近衛首相や陸海軍首脳は何ら注意を払おうともしなかったので、松岡外相は「2 週間ほど考え させてほしい」旨発言したまま退席し、「持病が悪化」と称して私邸に引きこもった。後日、近衛首相、 東條陸相などが説得を試みたが、松岡外相は原案賛成の訓令を出そうとしなかった。 このため、外務省は野村駐米大使に「受諾」の訓令電報を打てなくなってしまった。 『日米了解案』の 真偽が不明のまま時間を空費することとなり、この日が日米関係にとって運命の別れ日となった。 この間、アメリカは野村大使経由で「独ソ戦勃発」が確実であると知らせてきた。 元来、アメリカとの戦争を恐れるとともに対米外交に自信のあった松岡外相は、3~4 月にかけてドイツ・ソ連(モ スクワでは日ソ中立条約を締結)を訪れた際、モスクワでスタインハート駐ソ米大使とも会って和解工作をしてい 213 た。しかしその間、日米交渉の打診を近衛首相に伝えた西園寺公一が随行していたにも関わらず、同交渉について 一切知らされていなかった(日米交渉からの「松岡はずし」と言われている) 。 一方で松岡にはスタインハート駐ソ米大使から、帰国後何の連絡も届いていなかった。それはハル国務長官が松 岡外相からルーズベルト大統領に届けるべき案文を握りつぶしていたからであった。 (富永孝子 前掲書) 『日米了解案』におけるアメリカの意図は、イギリスを背後から(シンガポール)攻撃するな、及び三国同盟を 実質骨抜きにせよ、ということにあった。 同月、シンガポールでは米英蘭3国による軍事参謀会議が開かれ、対日戦略を策定し、重慶国民党政府 (C)を含めた ABCD 包囲網が形成されていた。 5月3日 松岡外相が大本営政府連絡会議において『日米了解案』に関し陸海軍案よりもさらに強硬な修正案を 示した。30 項目以上の修正案の主要項目は次のとおり。 1 「ドイツが米国に積極的に攻撃された場合にのみ三国同盟を発動」→文中から「積極的に」を削除 2 「日本軍撤兵などを条件に、米国が蒋介石政権に和平勧告をする。 」→後に「勧告を受諾しない場合、米国は援蒋 行為を止める」を追加 3 「日本の南西太平洋における発展は武力に訴えることなく、平和的手段によってのみ行われる。 」→文中から「武 力に訴えることなく」を削除 他の閣僚からは一切相手にされなかったけれども、松岡は在アメリカの野村大使に、その内容を訓令と して送った。受け取った野村大使は、暗澹とした思いでハル国務長官を訪ね。これを伝えた。アメリカ側 は、松岡修正案を歯牙にもかけなかった。 7 日、日米関係の前途を懸念する野村大使は、松岡外相あての報告電に「今や国際情勢の緊迫、なかん ずく米国の態度は宣伝『プラス』 (虚勢やハッタリ)または腹の探り合いなどを許すの時機に非ず」と記 した。しかし、松岡は聞く耳を持たなかった。 この日、天皇は東久邇宮陸軍大将に「日米会談の交渉があり、これが成立すれば日本の前途は明るくなるに違い ないが、もし万一交渉が成立しないときは、日米関係はもっと危険な状態になり、あるいは日米戦争となるかもし れない」と憂いを洩らされた。 8 日には、松岡外相が近衛首相に対して「独伊に多少不義理をしても(アメリカの方が大事だと)日米 了解案を成立させようとしているらしいが、そんな弱腰でどうなるか」と陸海軍首脳部批判をぶつけた。 天皇にも「米国が欧州大戦に参戦すれば長期戦になるから、独ソ戦が起きるかもしれない。その場合我 が国は、日ソ中立条約を廃棄し、ドイツ側に立って対ソ攻撃をせざるを得ない」と強硬な考えを奏上し た。天皇は木戸内大臣に「外相を取りかえてはどうか」と洩らされた。 その後、松岡はついに近衛内閣打倒と自らの首相就任運動を開始した。 (4~6月のアメリカの動向) 日米交渉が進み始めた最中、アメリカではルーズべルト大統領が三選を果たし、4 月 4 日、「世界の民 主主義存立のため再び戦う用意がある」と言明した。 コミンテルンの秘密工作員であるハリー・ホプキンスが商務長官としてルーズべルト大統領に対し強 いし影響力を持ち、以降、同大統領はホプキンスの意のままに操られた。 同大統領は早速同月 13 日、ハワイの太平洋艦隊の一部を大西洋に異動させ、対独圧力を強めた。 以下、日本との関連事項を記す。 214 4 月 15 日 アメリカ政府は「蒋介石政権に爆撃機を供与して、これにアメリカの義勇兵を登場させてシナ本土から 日本を爆撃する計画(JB-355 計画)を具体化するよう」公式に命じた。これに伴い、アメリカ軍人に対 し、元陸軍航空隊員シェンノートがシナにおいて育成を始めた戦闘機部隊に志願するよう求める行政命 令を発した。 26 日 アメリカ政府が蒋介石政権に対し 4500 万ドル相当の援助を与えることを約束した。 同月 米国のフィリピン駐在高等弁務官、同国アジア艦隊司令官、英国東亜軍司令官及びオランダ外相がマニ ラで対日政策を議論するための会議を開催。1931 年以降西欧諸国は、高率関税、輸入制限法、割当制度、 付加税、貿易ブロック等により日本の国際通商権の自由を制限してきたが、この会議により日本に対す る経済的圧迫は一層の拍車をかけた。 この後、英国が6月にシンガポールで蒋介石政権代表との軍事会議を開催。西欧列強及び中華民国(重 慶政府)は対日軍事包囲策を推し進める。 イギリス人記者 H.ストークスによれば、この頃、既にアメリカはビルマ駐留のイギリス軍において、多数の戦闘 機や爆撃機の配備を完了していた。 5月6日 アメリカは武器貸与法の対象国に蒋介石の国民政府を加えた。 (5~6 月のシナ戦線=中原会戦) この頃、シナ線戦線おいて第 1 軍が山西省南部、河北省北部で百号作戦を発動した。本来は百団大戦報復のため 八路軍を攻撃すべきところ、先に正面の敵である国民政府軍を殲滅したのちに八路軍攻撃を行うことで、作戦が認 められた。山西省の山中に潜む国民政府軍を掃討し、南下して黄河まで追い詰めるという作戦であった。 第 1 軍を主力とする約 4 万の日本軍(指揮官は多田駿)と 18 万(26 個師)の国民政府軍(指揮官は衛立煌)と の戦端は 5 月 7 日に開かれ、6 月 15 日まで戦われた。中原会戦と呼ばれる。日本側の損害は戦死 673 名、負傷 2292 名で、国民政府軍側は遺棄死体 4 万 2 千、捕虜 3 万 5 千であった。 なお、中原会戦によってこの地域の安定勢力であった国民政府軍が一掃されると、それに代わってシナ共産党勢 力が次第に浸透し、日本軍の施策が適当でなかった為もあり治安は却って悪化することとなった。こうして、根拠 地を失った国民政府軍のあとへ、機をうかがっていた八路軍は直ちに勢力を浸透させて根拠地を確立させることが できた。これによって、華北における日本軍に対する遊撃戦は八路軍が独占的に行なった。 5 月 12 日 野村大使が日本政府の意を受け、松岡修正案を基とした第 1 次提案をもってこの日以降、連日のよう にハル国務長官と会談を重ねた(日米交渉の正式スタート) 。しかし、見るべき進展はなかった。 5 月 31 日 アメリカが日本側提案に対する回答としての提案を行った。しかし、野村大使は本国に取次ぎえない として、これを握りつぶした。→アメリカによる正式な提案は 6 月 21 日に。 6月5日 215 海軍中央部が「現情勢下において帝国海軍の取るべき態度」を採択。独ソ戦には意を払わず、対米戦争 を脳裏において南方に対する積極化を掲げていたが、それもタイ、仏印どまりであった。石油だけでな く、これらの地域からニッケル鉱石、生ゴム、錫が断たれた場合に武力を発動しなければならないことを 明記していた。 6月6日 大島浩駐独大使から、独ソ開戦が概ね確実との電報が入った。しかし、指導者の間では “英国のデマ” と受け止める者が多かった。 その夜、佐藤賢了軍務課長が省部関係課長を集め、南方への武力進出を強硬に主張した。 これに対し、半年がかりで海軍と調整し、 「南進は外交的施策による」ことで合意を取り付けた戦争指 導班は強く反発した。 陸軍首脳部、とくに軍務局長武藤章少将と軍務課長佐藤賢了大佐は、近衛首相のブレーンである尾崎秀美から「東 部シベリアで獲得できる政治・経済上の利益は何もない。南方にこそ日本の戦時経済になくてはならない緊急物資 がある」と南方への進出を焚きつけられていた。 コミンテルンのエージェントである尾崎は、ソ連がドイツと日本により挟み撃ちされることを何より恐れていた から、日本の矛先を南方に向けようと工作したのである。 すでに尾崎は「改造」昭和 14 年 3 月号巻頭論文において、東亜共同体組織の必要詩を説くとともに、南進政策の 必然性を論じていた。 以降、東條英機陸軍大臣をはじめとする軍首脳部のみならず大本営や閣僚はアメリカによる経済制裁によって生 じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由 に南方進出に傾いていった。 6月 9 日 陸海軍事務当局間で「南方施策促進に関する件」の合意をみる。内容は、 「仏印及びタイとの間に軍事 的結合を設定する。抵抗があれば武力を行使する。英米蘭が妨害して打開の道がない場合には英米に対 して武力を行使する」というものであった。 この合意案をもとに、以降陸海軍間の調整が開始された。 6 月 11 日 大本営政府連絡会議において、昨秋来進めてきた日・蘭印会談(決裂状態に達していた)への対応を協 議し、代表を引上げることを決定。 石油、生ゴム、錫及び錫鉱の対日供給量については、アメリカの圧力により、日本の要求を著しく下回る回答し か得られていなかった。 (例)石油:要求 380 万トンに対し回答 180 万トン 6 月 12 日 前日に引き続く大本営政府連絡会議において「南方施策促進に関する件」を討議した。このとき松岡外 相は「仏印及びタイとの間に軍事的結合を設定する。抵抗があれば武力を行使する。英米蘭が妨害して打 開の道がない場合には英米に対して武力を行使する」について真っ向から反対した。 協議の結果、松岡外相は「 (仏印及びタイとの間の軍事的結合については)2 段に区分して交渉する」 という了解事項をつけて同意したが、内心では平和進駐の建前を貫きたかったので、翌日以降もそれを 主張した。 松岡外相から、 「タイ及び南部仏印に軍事的進出を行った場合、対英米戦争になっても構わないのか?」と決意を 216 質されたため、陸海軍は同外相を説得するための方便として「対英米武力行使」という文言を挿入したものだが、 陸海軍とも対英米戦争の意思はなかった。その文言は、その後「対英米戦争を賭するも辞せず」と修正された。 しかし、翌月末に実行に移された南部仏印への軍事的進出の結果については、松岡外相の予言どおりに進行した。 6 月 14 日 米国の反応を軽視していた陸軍省では、武藤章軍務局長、真田攘一郎軍事課長、佐藤賢了軍務課長ら が、南進策を企図した「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を参謀本部に提示(ただし、北進が主で南進は 従) 。参謀本部も南進を主張し、海軍省の石川信吾軍務局第二課長も同調した。 6 月 21 日 松岡修正案に対してハル国務長官が回答を行った。 アメリカの見解は①南京汪政権の取り消し、②満洲の中華民国への復帰、③日本軍の無条件撤兵(治安 駐兵を認めない) 、④防共駐兵の否認、⑤シナにおける門戸開放、機会均等原則の無条件適用 をはじめ、従来以上に強硬な姿勢で三国同盟の無力化を求める内容だった。 アメリカは、独ソ戦の開始を予測して、この見解を示したに違いなかった。 また、ハル国務長官が発した口述のステートメントの中に、交渉の相手として松岡外相を忌避する旨の 意思表示があった。アメリカは、三国同盟を推進することにより対米調整を図ってきた松岡を快くは思 っていなかった。 アメリカの強硬姿勢にあって日本政府、大本営は対応に苦慮する中、以後、数十回の交渉を行ったが、 交渉は進展せず、11 月 26 日の「ハル・ノート」に至った。 6 月 22 日 ドイツ軍がソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。動員されたの兵力は約 300 万人と航空機約 2,700 機で、約 3,550 両の戦車がモスクワに向け進軍した(バルバロッサ作戦) 。 ヒトラーの狙いは、英国が頼みとする米ソのうち、ロシアを直接たたき、米国については日本に牽制し てもらうということであった。三国同盟締結時にヒトラーは、ソ連との橋渡しを約束しながら、腹の底で は真逆の陰謀を画策していたのである。 独ソ戦の勃発は、日本の政府首脳部にとっては晴天の霹靂であった(元法相・小川平吉の日記)。しか し、4 月末には駐ドイツ大使の大島浩から、独ソ戦開始は時間の問題であるとの連絡が来ていたのに、政 府・軍部ともに半信半疑であった。 松岡外相が企図していた日独伊ソ四国提携構想の崩壊であるとともに、ソ連を決定的に連合国側に追 いやることなった。 ヒトラーは 1940 年(昭和 15 年)7 月末には独ソ戦を決意しており、同年 12 月 18 日には対ソ戦争準備命令を発 していた。その目的は、全欧州を支配するための穀物及び資源の基地としてソ連欧州部を手中に収めることにあっ た。 ヒトラーの対ソ戦準備は、三国同盟実施のため設けられた委員会の日本側委員には全く知らされておらず、日本 政府及び大本営もこの不信行為を全く知り得ていなかった。情報収集能力が決定的に弱かったのである。 なお、ヒトラーが独ソ戦を決意した 2 か月後の昭和 15 年 9 月に来日したスターマー特使は、9 月 9 日松岡外相と の第 1 回会談において、 「独ソ関係は良好で、ソ連はドイツとの約束を満足に履行している」と述べ、 「日本は日独 伊三国軍事同盟を成立させた後、ソ連に接近するべき。ドイツは日ソ親善の仲介人となる」と約束していた。 ただし、スターリンは一方で、ドイツ対英仏戦争の最終段階でドイツへの侵攻を開始すべく準備しており、ドイ 217 ツは、その寸前に機先を制してソ連に攻め込んだという指摘もなされている(1990 年英国で発行のヴィクトル・ス ヴォロフ「砕氷船」を引用の西岡昌紀「スターリンのドイツ侵攻電撃作戦」WiLL2013 年 6 月号より) 。 他方で、日本にとっては、北方の脅威が減じたという側面もあったことから、松岡外相が急ぎ参内し、 独断で「これを機に日独伊三国軍事同盟に基づいてソ連を挟撃するべきこと、そのために大本営政府連 絡懇談会を開催すべきこと、南方進出は一時手控える必要があるがいずれ米英ソ三国と同時に戦わねば ならないこと」を奏上した。天皇は「それは(4 月にソ連と中立条約を結んでいるから)国際信義にもと るではないか」と強くたしなめた上で、近衛首相と協議するよう命じられた。 独ソ開戦により、米(ルーズベルト大統領)とソ(スターリン)は味方同士となり、これを機にルーズ ベルト大統領の命により米国は、第 2 次大戦終結までにソ連に対し、資金のみならず武器弾薬、工作機 械、薬品、医療機器など約 110 億ドル(現在のカネで総額 10 兆円)もの援助を行った。その法的根拠は 同年 3 月に成立した武器貸与法であった。 米国は独ソ開戦をもって、ドイツ軍が欧州大戦に敗れるだろうと確信した。 独ソ開戦の 4 日後、ルーズベルト大統領は側近のホプキンズに親書を持たせてスターリンの許へ派遣した。ソ連 への武器援助は、帰国したホプキンズの「スターリンはアメリカの援助がない限り、イギリスとソ連はドイツの物 量的な強さに立ち向かうことはできないと考えている」という報告に従ってなされたものであり、なかんずくルー ズベルトは、ホプキンズに武器貸与法の運用を監視させることにした。 ホプキンズは共産主義者で、ルーズベルト大統領に働きかけることにより、スターリンの命を救い、ソ連の軍事 的強大化を助けた。 (以上、古荘光一「誰が『南京大虐殺』を捏造したか」21 より) (独ソ戦後の日本の対応策) 近衛首相は手記に「 (ドイツは)ソ連を対象とする三国同盟の議を進めながら、突如その相手のソ連と 不可侵条約を結んだことは第 1 回の裏切りで、ソ連を味方にすべく約束し、その前提で三国同盟結んで おきながらソ連と開戦したのは第 2 回の裏切りというべき」書き残したように、三国同盟の前提が崩れ た以上、これを無効化してアメリカと交渉を進め、蒋介石政権に和平を勧告してもらうほかないと考え、 三国同盟破棄の文書を閣僚に示した。 木戸内大臣は賛成したが、松岡外相(ソ連を攻撃すべし=北進論)及び陸海相(南部仏印に進駐すべし =南進論)は反対で、開かれた大本営政府連絡懇談会において議論することとした。 松岡外相の発想は戦略的にも、南でアメリカと対決しながら西でシナと戦い、そのうえ北でソ連を攻めるという 3正面作戦など無謀極まりない発想であった。しかし、一方で日本の国家体制の転覆を企てているソ連を打ち破る には、このときしかなかったという観方もある。 陸軍中央部としては、6 月 14 日に「独ソ戦(が起こって、そ)の推移帝国の為極めて有利に進展せば、武力を行 使して北方問題を解決す」とする「情勢の推移に伴う国防国策大綱」を採択していたものの、49 個師団のうち 27 個師団をもって支那事変を遂行中のため兵力不足(ソ満国境に 12 個師団、朝鮮に 2 個師団の配備しかなく、対す るソ連は地上約 30 個師団、飛行機 2800 機、戦車 2700 両と日本に倍する絶対優勢な兵力を有していた)であり、 当面独ソ戦の推移を見守るしかなかった。 6 月 25 日~28 日 連日、大本営政府連絡会議を開催。 先ず、南部仏印進駐について松岡外相と陸海軍との間に「南方施策促進に関する件」の最終合意がな り、上奏裁可を得ることを決定。 218 そこでは「英米に対する武力行使」という文言は一切なかったが、仏印の航空基地と港湾施設の利用及 び駐兵希望に応じない場合は「武力を以て我が目的を貫徹す」としていた。 この南部仏印進駐は、海軍省軍務二課長石川信吾、軍令部作戦課長冨岡定俊らエリート軍務官僚による、蘭印の 石油を確保できればエネルギー問題には対処できるとの意見具申に基づくものであった。 しかし大本営も政府も、この時点で日本が南部仏印進駐をしたときのアメリカの反応として「対日資産凍結の後、 全面禁輸にでるかもしれない」ということを、ほとんど予期していなかった。 その理由は、①米国の対日全面禁輸は、即ち日米開戦につながるから、ルーズベルト大統領もそこまではやらず、 対日資産凍結後といえども石油の禁輸はしないだろうと予想していた。②南進策といっても南部仏印どまりで、英 領マレー又は蘭印に進出することまでは考えていない、の 2 点であった。 ただし、海軍中央部の一部には、アメリカの全面禁輸を予期し、それが契機となって日米戦争となるだろうと覚 悟していたものもいた。 しかしながら、この武力行使を背景にした南方施策促進の決定が日米開戦を早め、一方でソ連を救うこととなっ た。 この南部仏印進駐を実現させようと、内閣嘱託の尾崎秀実が近衛首相との朝飯会の場などで「北進は近視眼的な 誤った行動である…東部シベリアで獲得できる政治上、及び経済上の利益は何もない」 「もし、日本がシナ以外に進 出を考えるなら、南方こそ価値ある地域に違いありません。南方には不可欠な資源があり、その南方にこそ日本の 発展を妨害阻止しようとする真の敵がいる」 (同人の獄中手記より)と巧みな誘導論を展開した。その目的は、ソ連 に対する日独の挟撃を阻止するためであった。 6 月 30 日の大本営政府連絡会議において、松岡外相が突如「南部仏印進駐の延期」を提議し、及川海相が賛同し た。及川海相も南方に火がつくのを恐れていた。しかし、 「帝国国策要綱」案は原案通り決定された。 なお、後にチャーチルは「第二次大戦回顧録」の中で「日本の勝機はあのときしかなかった。こちらにとって、ド イツと日本でソ連を挟み撃ちにされるのが一番嫌なことだった」と書いた。 次いで、ドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵入して快進撃を続けていることに関し、ドイツと 相呼応してソ連に対して軍事的圧力を加える(北進策)かどうか、議論がなされた。 協議の結果、国策は南進策に決した。しかし、近衛首相とて本気で英米を敵に回そうと思っていたわけ ではなかった。 日米開戦を恐れていた松岡外相が主張する「独ソ戦に直ちに参戦し、まず北をやり、次いで南をやる。この間支 那事変を処理する」という案には他の全員が反対したため、陸海軍案に外交面での着想が加えられて採決に至った。 独ソ開戦時における陸海軍の政策をみると、陸軍は南北二正面「準備陣」構想をとっており、7 月には満洲に兵力 を集めた(関特演)かと思えば、10 月には南方作戦に変更するなど、方針が二転三転した。また、これらの決定は 外征軍責任者には相談なしに、上層部の一部の人間だけで決められた。 一方海軍は、 (南部仏印進駐を行っても)英米が日本に対して対抗策をとることはないと独善的に判断していて「戦 わずして勝つ、の上策であり、大なる考慮の必要はない」という甘い認識の下、南部仏印進駐について積極的で、 陸軍の北進論に対抗して「南進」の旗を高く掲げる必要があり、そのためにこそ南部仏印進駐をするものであって、 (勢い本意ではないが)対英米戦争も辞せずとの決意を明らかにせざるを得なかった。→陸軍の北進論によって南 方に対する各般の準備が疎かになることを恐れ、陸軍の北進を抑制ないし牽制しつつ予算、資材を確保することが 海軍の重要な政策のひとつとなった。 7月1日 219 アメリカ東海岸に就航していた 8 隻の日本商船が、無線により「直ちに東海岸から離れ、7 月 22 日ま でにパナマ運河を通過して太平洋に出よ」との命令を受けた。日米交渉がまとまらない場合の戦争準備 のためであった。 暗号解読により日本の意図を知ったルーズベルトが日本商船のパナマ運河通過を禁止したため、4 隻だけが通過 でき、他の商船はマゼラン海峡を通って本国に帰らざるを得なかった。 7月2日 御前会議において「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を採択。 独ソ戦への不介入の他、ソ満国境の兵力増強並びに仏印・タイなど南方への進出強化とそのための南部 仏印進駐の方針が決定された。 陸軍、松岡外相の主張する対ソ戦準備に加え、海軍主張の南方進出の二正面作戦を骨格として「仏印及 びタイに対する諸方策を完遂し、以って南方進出の態勢を強化す。帝国は本号目的達成のため対英米戦 を辞せず」との文言が付け加えられた。これは、6 月 14 日に示された国策要綱案より、一歩踏み出した ものであった。 しかし、これは海軍の意向によるもので、陸軍の北進を抑制ないし牽制しつつ予算、資材を確保するこ とが目的でであって、この時点で対英米戦争の決意をしたものではなかった。 後に「目的達成のため対英米戦を辞せず」というこの文言が独り歩きを始める。 この会議において、従来米英に対して慎重論を説いていた原枢密院議長が、独ソ開戦を千載一遇の機会 と捉えての対ソ主戦論を強調した。松岡外相も対ソ開戦を主張した。しかし、結論が出ることはなかっ た。 松岡外相が対ソ開戦を主張したとき、天皇は、おぞましいものを見るように見入られた。松岡外相は4月にソ連 と中立条約をまとめたばかりだったからである。 7月7日 2 日の帝国国策要綱に基づき、東條陸相と参謀本部が協議の上、ソ連との国境近くに関東軍及び本土の 30 個師団、74 万の兵力を動員した。これは満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を目的として秘密裏に行われ、 「関東軍特種演習」と称された。参謀本部においては、梅津関東軍司令官の立案に基づき、北進論者の作 戦部長・田中新一の主導により具体化された。 本土からは 14 個歩兵師団を弾薬、戦闘車両約 300 輌、軍馬約 400 頭、戦闘資料等とともに輸送、戦時 定員を充実させ、その結果、関東軍は 85 万以上の大兵力となった。 前月 22 日に開戦した独ソ戦を観た関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張し、ドイツ軍と協力して 東西からソ連軍を挟撃しようとの意図を持っていた。その演習として 16 日から 31 日の間牡丹江北演習場で『特別 演習』が行われた。 近衛首相は、ノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約 90 輌、航空機 約 50 機、兵員約 28 万名)では満州工業地帯の防衛が困難であると判断、関東軍首脳部の主張を支持し、在朝日本軍 や在台日本軍の動員令を発令した。 この大規模動員は、ソ連軍の満洲への侵攻意図を挫く効果を上げたといえ、ソ連は 20 年の降伏直前になって漸く 侵攻の軍を動かした。 日米戦開始後も関東軍は、ガダルカナル戦に 5 個師団を転用するまでその大兵力を維持し続けた。そ の結果、スターリンが満洲に攻め込むための兵を動かすことは、日本の敗戦直前までなかった。すなわち 220 ソ連軍の満洲侵攻を4年間未然に防ぐ効果を上げた。 この日、天皇が杉山元参謀総長に対し、 「北にもシナにも又仏印にも兵力を割き、八方手を出すことに なるが、シナ事変処理の信念はあるのか」と懸念をもらされた。天皇には急速に高まる開戦の足音が聞こ えていたからだったが、参謀総長は「英国の動きは威嚇に過ぎず、大きな支障なく進駐できると考えてい る」と危い楽観論を奉答した。 7 月 12 日 大本営政府連絡懇談会において、松岡外相が 6 月 21 日にハル国務長官の発したステートメントに対 して感情あらわに「ステートメントを拒否することと対米交渉はこれ以上継続できないこと」を提議し、 翌日は自邸に引きこもった。 同日、内閣総力戦研究所(16 年 1 月創立)が「日米もし戦わば」を想定した総力戦の机上演習を開始。 所長の飯村穣陸軍中将を統裁官に、松田千秋海軍大佐、堀場一雄陸軍中佐を補助官として、軍人、官僚、 民間人(日銀、製鉄会社などの社員)からなる研究生が①兵器増産の見通し、②食糧や燃料の自給度、③ 運送ルートと時間をはじめさまざまなデータを解析し、国家総力戦として日米戦争の行方を検討した。 その結果は「日米戦争は長期戦が必至であるが、日本が互角に戦えるのはせいぜい 2 年であり、その 後は漸次国力が消耗し、必敗である。また、それだけでなくソ連の参戦も避けられない」 「ゆえに戦争は 不可能」というものであった。この演習と分析は実に的確なものであったが、実際に活用されることはな かった。 (→8 月 27 日の項へ) [内閣総力戦研究所について] イギリス赴任時(昭和 6,7 年頃)に、同国やフランスのように「軍と政府の協議の協調が必要である」と考えた 辰巳栄一の提案と同様の意見が、昭和 14 年になって陸軍内でも叫ばれるようになり、星野直樹企画院総裁の尽力 によって、15 年 8 月 16 日の閣議決定で標記研究所が設置された。翌年 1 月 7 日の閣議において飯村穣陸軍中将が 初代所長に任命された。 第 1 期生は、軍人 5 人、官僚 25 人、民間人 6 人で聴講生に閑院宮春仁中佐も加わった。 (参考)-同様の報告 野村駐米大使が任命された際に、陸軍省軍務局軍務局軍事課長岩畔豪雄大佐に対し、同大佐が昭和 15 年 2 月から 8 月までの間、アメリカで調査した結果を陸軍大臣に提出するよう示唆した。その報告書中の日米の物的な戦力比 較によれば、 鋼鉄は1対 20、石炭は 1 対 20、石油は 1 対 500、電力は 1 対 6、アルミニュームは 1 対 6、工業労働者の数は 1 対 5、飛行機生産数は 1 対 5、自動車生産力は 1 対 45、船舶保有量は 1 対 2 であった。しかし、対米開戦論者の多 い陸軍の中では活用されることなく終わった。 石油については、昭和 15 年時点で、世界の原油産出量約 2 億 8 千万トンのうち、アメリカはその 4 分の 3 の1 億 8 千万トンを占めており、日本は、微々たるものでしかなかった。 ただ、当該岩畔レポートにおいても、食糧に関しては調査が十分ではなかった。 7 月 14 日 松岡外相による対米交渉中止の提議を巡る大本営政府連絡懇談会において、こ深刻な討議の末、第 2 次 提案を採択。しかるに松岡外相は、それを訓電する前に独断で、 「アメリカの第 1 次提案を拒否する」旨、 現地大使館に訓電を発電した。 日本側第 2 次提案は、翌 15 日に大橋外務次官が野村大使に訓電したが、同大使は内容への不満からこ 221 れを握りつぶした。 7 月 16 日 松岡外相の独断専行にさじを投げた近衛内閣が総辞職。これは、倒閣運動を始めた松岡外相を放置でき ないと決意した近衛首相が(天皇の意向を受けて)松岡に辞任を迫ったにも拘わらず、これを拒否したた め、やむなくその更迭を目的としてなされたものであった。 しかし、 「松岡ひとりを辞めさせるわけにはいかないか」との天皇のご意思から、近衛が外相のみを更 迭して再度組閣することとなった。 7 月 18 日 第 3 次近衛内閣成立。外相には豊田貞次郎海軍大将(前商工大臣)を起用した。海軍出身の野村大使 とのコンビで日米交渉を推進するための起用であったが、その意は野村大使にも米国務省にも汲みとら れることはなかった。 (南部仏印進駐とアメリカの制裁措置) 7 月 21~23 日 ハノイで行ったフランス(ヴィシー政権)の仏印総督との話し合いにより、日本とフランスは仏印共同 防衛協定を締結。フランスは日本軍の南部仏印進駐について合意した。 前年(1940 年)11 月、タイがフランスに奪われた領土の回復を求めて仏印との間に国境をめぐる戦争が起きた。 日本はその仲介の役を担い、両国に停戦を申し入れ、年明けの 1 月に停戦協定が締結され、その後、5 月、両国間 に平和条約が結ばれ、東京で調印がなされた。 この南部仏印進駐は 7 月 2 日の帝国国策要綱に基づくものであった。 7 月 21 日 アメリカ政府が日本政府の南方進出を抑制するため「 (日本軍の南部仏印進駐が行われれば)対日輸出 を禁止する。ただし、石油、綿花などは、数量を限定し、同量の絹の輸入によって支払う建前で輸出品の 許可証を発行する」ことを決定した。 アメリカは、暗号解読により日本の政策を把握できていて、この措置は 7 月 2 日の御前会議決定を受けての制裁 措置であった。これにはスターク海軍作戦部長は反対でその旨大統領に進言した。 アメリカ側の推定で、この時点における日本の石油備蓄量は 700 万トンであり、日本は第一線級の空母を 10 席 保有する一方、アメリカの空母は 7 隻だった。しかしルーズベルトは、日米開戦後の 2 年後の 1943 年には日本の 石油備蓄は底をつき、逆にアメリカの軍需生産が本格化するので反撃作戦に出ることができると計算していた。 7 月 23 日 ルーズベルト大統領が「日本爆撃計画」にサインし、 「OK。 (重慶駐在の)軍事使節団か、 (駐重慶アメ リカ大使館付駐在)武官のどちらに指揮させるのがよいか、検討せよ」と書き込んだ。この計画は、5 月 15 日に陸海軍に具体的な推進を命じた JB-355 計画に他ならなかった。 この計画は、コミンテルンのエージェントであったカリー補佐官が同年 4 月に立案、上申したもので、蒋介石政 権と連携してアメリカ義勇兵により日本本土をシナ軍機に偽装した 500 機の戦闘機や爆撃機で空爆しようとするも のであった。爆撃の実施予定時期は 11 月上旬であったが、使用する予定の爆撃機がヨーロッパ戦線に回されたた め、立ち消えとなった。 7 月 24 日 ルーズベルト大統領がホワイトハウスで義勇協力委員会委員たちへの演説の中で「アメリカが日本に 222 対して石油供給を停止したら、即戦争になることがわかっていた。石油を供給するという「手」は(戦争 準備の時間稼ぎのために)2 年間役にたった」旨発言。また、包括的な対日資産凍結令の策定を決定し、 その運営を国務、財務、司法の代表者からなる委員会に任せた。 この日、米外交問題評議会が「米大陸、イギリス本国、とその植民地・属領、蘭印、それにシナと日本を合わせた 大領域に新たな役割がある=戦争或いは防衛のため、また戦後の新しい世界秩序のため、経済的基盤を提供する」 、 そしてそれは可能であるとの提言を行った。 それは、アメリカが支配する世界の樹立を目指すべきだとの提言であった。 同日、米国政府が野村吉三郎駐米大使、若杉要公使に「仏印中立化案」を示したうえで「南部仏印に進 駐すれば、何らかの処置をとる」旨通告。アメリカは対日経済断交を数週間前から検討していたが、参謀 本部では楽観視していた。 「仏印中立化案」については、参謀本部作戦部長の田中新一は「仏印から撤兵すれば、南方作戦遂行に支障をき たす」 「好餌につられるな」と反発した。 7 月 25 日 日本が南部仏印進駐をアメリカ政府に通告。 7 月 28 日 日本軍(飯田祥二郎率いる第 25 軍)が戦略物資確保のため、サイゴンなど4カ所で南部仏印への進駐 を開始(翌日、進駐完了) 。海軍部隊も 31 日にカムラン湾に入港した。 この「南部仏印進駐」はフランス政府(ヴィシー政権)との合意(同月 23 日)の下、平和裏に行われ たもので、フランスに収奪されていたベトナム国民からは歓迎された。 同日、アメリカ政府は制裁措置として、日本との全面的な通商禁止を発令し、併せて国内の日本金融資 産の凍結を行った。アメリカ政府はまた、日本船舶のパナマ運河通過を禁止させた。これは、アメリカ政 府の国際法理解からすれば、日本の「進駐」は(小国を保護国化しようとする) 「武力行使」並びにシン ガポール攻撃への布石にほかならないからであった。 天然資源に乏しい日本にとっては死刑宣告に等しい経済封鎖措置であり、米国との関係は決定的に悪 化した。 翌日、アメリカと緊密な連携のもとに行動していたイギリスが同調し、日英通商航海条約の廃棄及び日 本金融資産の凍結に踏み切る。次いでオランダも日蘭民間石油協定を停止し、日本資産を凍結した。 これにより、日本の銀行などがアメリカの銀行に持っていた隠し口座が全て凍結されて貿易決済もままならなく なった。 この資産凍結は、国家による強盗行為ともいえる措置であり、前大統領のフーバーは回想録において次のように 批判した。 「ルーズベルトの最大の誤りは、 (独ソ開戦後、ソ連に大量の武器供与を行ったことにより)スターリンと隠然た る同盟関係となった1ヶ月後、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことだ。この経済制裁は弾こそ撃たないま でも、本質的には戦争行為だった。彼は腹心から再三、そんな徴発をすれば、遅かれ早かれ日本が戦争を引き起こ すことになるとの警告を受けていた。 」 しかし、それこそはルーズベルトが望んでいたことであった。 アメリカが厳しい姿勢を示したのは、シンガポールが日本の爆撃機の制圧下に入ることになったからと考えられ るが、一連のアメリカの強硬な対抗措置は日本の予測を超えるものであった。 223 7 月 30 日 米国による日本資産凍結を受け、天皇は永野軍令部総長を召し、戦争になった時の結果をお尋ねにな った。永野は「戦争となれば石油の貯蔵量は 1 年半で消費し尽くすので、この際はむしろ打って出るし かない」 「対米英蘭戦争の見通しについては、 (日露戦時の)日本海海戦のような大勝はもちろんのこと、 勝ちうるか否かも覚束ない」と答えた( 「木戸日記」より)。 お聴きになった天皇は驚かれ、及川海相を招致したところ、同海相は「対米英蘭戦争決意は永野軍令部 総長個人のもので、海軍全般としては未だそのようには考えていない」旨言上した。 しかし、実際は、21 日の大本営政府連絡会議において永野軍令部総長が「対米戦争の開始時期はいま しかない。来年になれば米国の戦備が整い、もはや全く勝ち目がなくなる。フィリピンを押さえれば何と かやれる」旨発言し、既に海軍も対米戦必至とみていた。 永野軍令部総長の答えに憂慮された天皇は、翌日木戸内大臣に「つまり捨て身の戦争をするとのことで誠に危険 だ」と漏らされたという(木戸幸一日記) 天皇は杉山参謀総長にも「南部仏印進駐により、やはり経済圧迫を受けることになったではないか」と 指摘すると、同総長は「当然予期したことで、驚くにはあたりません」と答えたから、天皇は、予期しな がら事前に奏上がなかったではないかと、指摘された。 同日夜、高知沖を豊後水道に向かっている2隻の米海軍巡洋艇がスクリュー音により日本海軍駆逐艦 に発見されたが、夜陰に紛れて姿を消した。これは、アメリカの「ポップアップ作戦」 (日本側に「最初 の一発」を打たせるためのかく乱戦術)の最初の行動であった。日本の海軍省は、8月2日文書でグルー 駐日大使に抗議した。 8月1日 アメリカが日本軍の南部仏印進駐に対する追加報復措置として、日本への航空機用ガソリンを始めと する石油製品、鉄鋼、金属類など戦略物資について全面的な輸出禁止を実施した。英蘭もこれに続いた が、これはまさしく経済断交であった。 1 週間前の在米日本資産の凍結と併せ、対日石油禁輸は日本経済に致命的な打撃を与えた。 東亜以外の諸地域との日本の輸出入貿易は完全に封鎖され、日本は石油及び生活物資の供給を断たれることとな った。 当時、日本は石油の 99%を輸入に頼っており、アメリカからが 80%、他は蘭領インドネシアからであった。石油 の輸入が断たれたため、国内での備蓄量は平時で 3 年弱、戦時で 1 年半と言われた。 こうして、日本の国家的行動に大きな制約を加えたルーズベルトの意図には、日本の北進を阻み、ソ連を助ける という面もあった。 同日の大本営政府連絡会議に鈴木企画院総裁が「戦争遂行に関する物資動員よりの要望」文書を提出 し、 「帝国はここに遅疑することなく最後の決心をすべき竿灯に立てり」と訴えた。 アメリカによる経済制裁をみて陸軍内では北進論が影を潜め、初旬に関東特殊演習を打ち切ることを 決定した。 陸海軍とも現実の日米戦争に直面して苦悩することとなった。 8月4日 病床にあった近衛首相が東條陸相、及川海相を招いて、何とかアメリカとの関係改善を図りたいと、ホ ノルルでルーズベルト大統領との頂上会談をしたいと決意について同意を求めた。 224 その際、陸海両軍を納得させる手前「アメリカに屈服するのではなく、つくすだけの努力をつくす」と していたが、真意は「ルーズベルト大統領がこの会談に応じれば、たとえ交渉条件に陸海軍部が異議(支 那からの撤兵)を唱えても、高い見地から直接天皇に電報を打って御裁可を乞い、調節するという非常手 段に訴えることを考えていた」と言われ(富田内閣書記官長)、テロによる死をも覚悟していた。 この直接会談による事態打開策の提案に、海軍は同日中に全面的賛意を示し、陸軍では武藤軍務局長が 「陸軍の反対でやめることになれば、政変がくる。陸軍が時局収拾の責任を取らねばならなくなる。この 過重の責任には耐えられない」と述べ、翌日に行った軍としての回答において「同意するも、会談に失敗 すれば対米戦争の陣頭に立て」との条件をつけた。 同日、近衛文麿首相は木戸内大臣に“日本を治めているのは首相の私ではなく陸海軍特に陸軍の軍務局長だ”と 嘆き、「このままずるずると戦争に入るということは為政者として申し訳ないことと考える」と記した書面を見せ た。 翌 6 日、近衛首相が天皇にルーズベルト大統領との頂上会談実現に向け決意のほどを上奏。天皇は深 く感動した様子を示されたが、特段の指示はなかった。 随員として陸軍は土肥原軍事参議官以下、海軍は吉田前海相以下の強力なメンバーが予定されていた。 8月7日 近衛首相が天皇から呼ばれ、 「対日石油禁輸問題の解決は、分秒を争うように思う。この際、大統領と の会談は緊急のこと、急いで進めるように」とのお言葉をもらう。同首相は、直ちに野村駐米大使あて 「首脳会談開催提案に対する米国政府の意向を打診せよ」との訓令を送った。また、グルー駐日大使にも 極秘裏に直接会って首脳会談への強い期待と決意を述べた。 8月8日 野村駐米大使がハル国務長官に面会し、頂上会談の申し入れを行った。しかし、ハル長官は「日本の政 策に変更がない限り、大統領に取り次ぐ自信がない」と冷ややかな態度を示した。 アメリカの駐日大使グルーも日米了解案に乗り気であり、豊田外相との会談結果を長文の電報でワシントンの国 務省送っていた。これもハル国務長官から黙殺された。 同日、空母「翔鶴」が竣工した。 「翔鶴」は昭和 12 年~17 年の 6 か年計画による第三次海軍軍備補充 計画(マル3計画)により建造された新型空母で、翌 9 月 25 日には空母「瑞鶴」が竣工し、12 月 16 日 には戦艦「大和」が、翌 17 年 8 月 25 日には戦艦「武蔵」が就役することとなる。 しかし、空母や戦艦を動かすために必要な石油については、備蓄量は戦時なら 1 年半と言われる中、 アメリカから禁輸措置を受け、蘭領インドネシアの石油を獲得するしか道はなかった。 8月9日 陸軍中央部が遂に、昭和 16 年内の北方武力解決(北進)を行わない方針を採択し、「南方に対し、11 月末を目標として対英米作戦準備を促進する」ことを決定。ただし、軍の主力は満州正面に配備されたま まであった。 北進の企図を中止と決めた理由は、① ドイツ軍の対ソ進撃速度が予想されたほどではないこと。② 日本軍の南部仏印進駐に対する報復としてアメリカから資産凍結、石油禁輸の痛打を浴びたこと、であ った。 →石油の備蓄が 2 年しかない海軍が、石油輸入途絶により戦力喪失状態になることを恐れて、それま での慎重論から早期開戦論に傾いた。そこで、7 月 2 日決定の帝国国策要綱見直しをすることとなり、つ 225 いては、その主役たるべき海軍からの原案提示を待つこととした。 陸軍内部では、元々三国軍事同盟に反対していた本間雅晴中将、辰巳栄一少将らが最後まで英米との戦 争回避を主張したが、強硬派に押し切られた。 その過程で、参謀本部の田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦班長らは次の強硬論を主張。彼ら は下克上や越権を繰り返していたが、上層部もこれを止めようとはしなかった。 ) 1 戦争準備、2 外交交渉、3 要求が通らぬ場合開戦 陸軍強硬派は、対米開戦を主張していたが、太平洋正面での島嶼争奪戦についての作戦=敵前上陸作戦、島嶼へ の輸送・補給作戦、それらを支援する航空作戦などの準備は全くなされていなかった。また、敵となるアメリカに ついても、全く研究がなされておらず、専ら独伊の勝利に期待するという他力本願的なものでしかなかった。 8 月 12 日 同月 9 日から、ニューファウンドランド沖に停泊中のプリンス・オブ・ウェールズ号艦上で行われて いたルーズベルトとチャーチルの会談がまとまって、 「アメリカの対独参戦」が合意に至り、共同宣言「大 西洋憲章」が発表された。 その内容は、両国の領土拡大意図の否定、領土変更における関係国の人民の意思の尊重(武力行使の 否定・自主的政権選択の保障) 、航海の自由の必要性、一般的安全保障のための仕組みの必要性などで あったが、戦後、米国連邦議会真珠湾委員会において、概略次の 2 点の密約があったことが明らかにさ れた。 ・日本の南進が続けば米英は共同して対抗する。 ・ソ連には引き続き情報を提供し、同国に同様の宣言をさせるか否かは今後の検討課題とする。 即ち、米英両国は後のヤルタ会談をすでに想定していた。 この会談は、アメリカの参戦がなければドイツに勝つ見込みのないチャーチルが、アメリカの対独参戦を促すた めに呼び掛けたものであった。チャーチルは早期にアメリカが対独参戦するよう懇願したが、ルーズベルトは煮え 切らない態度に終始した。一つの理由は、徴兵法の期間延長案が、数日前に僅か 1 票差で可決したほど厭戦気分が 濃厚なアメリカとしては、国民の世論を何とか変える必要があったからである。 対日策については、ルーズベルトは「極東のことは私に任せてもらいたい。私は、3 ヶ月間は日本人をあやす(baby) ことができる」と述べた。 会談終了後チャーチルはラジオで次のように演説した。 「南進濃厚な日本に対し、アメリカは寛容な態度で応じているが、日米戦が起きれば英国も直ちに参戦する」 チャーチルは、日本に対しては正式な外交ルートで警告すら行っていなかったにもかかわらず、世論を巧みに誘 導して日独伊を明確に共通の敵とした。また、米国民に参戦やむなしの雰囲気をまとわせることにも成功した。 このチャーチルの演説に対しては、日本国民の間に“英米共通の利益を維持しようとするもの”と反発が強まっ た。 なお 8 月末、イギリスとソ連が石油確保及びアメリカからソ連への軍需物資輸送ルート確保のため、示し合わせ てイランに侵攻した。驚愕したイラン国王は、ルーズベルト大統領にこれを中止させるよう嘆願した。しかし、日 226 本軍の南部仏印進駐に対して、8 月 1 日に厳しい姿勢をとったばかりのルーズベルトは、これを冷たく断った。イ ギリスとソ連のやったことが日本の南部仏印進駐以上のものであったにもかかわらず、である。 8 月 16 日 海軍が国策原案を提示。その趣旨は「10 月中旬を目途として戦争準備と外交を併進させ、外交による 自体打開の道がない場合は実力を発動す」というもの。海軍の主眼は国家として戦争準備を完整するこ とにあり、外交不成立の場合開戦するか否かは改めて廟議の決定に待つべきものとの考えであった。 これに対し、参謀本部は「開戦の決意を確定することが先決で、その確定をまって初めて戦争準備を行 うものだ」と異議を述べる。従来から北進論をとってきた陸軍としては対米英蘭戦争準備はまさにこれ からで、南方に対する動員、作戦軍の戦闘序列下令・集中・戦略展開、莫大な船腹の徴用などは国家の戦 争決意なくして実施することは不可能かつ不適当であり、天皇はお許しにならぬと考えていた。 このように、海軍軍令部は英米一体論を唱えて対英米同時開戦準備を主張したが、陸軍参謀本部は対英 作戦、対蘭印作戦の準備をするだけでも大変なこととの立場であり、陸海両軍間で折衝が続けられた。 8 月 17 日 野村大使がルーズベルト大統領と会見して、近衛首相が大統領とハワイにおいて首脳会談を行って、日 米間の諸問題を解決したいと望んでいる旨を伝えた。 ルーズベルト大統領は巨頭会談に原則的同意を示しながらも警告書を手渡し、「会談を提案する前に、 日本政府が膨張主義的活動を停止し、太平洋に関する平和的プログラムに関して、従来よりも一層明瞭 な声明を発表すべき」と発言した。 警告書の趣意: 南部仏印占領後、さらに隣国に武力侵攻を行えば、対抗措置をとる。 首脳会談の日程としては、 「10 月中ごろアラスカで」と期待を持たせた。 しかし、ルーズベルト大統領には日本との交渉に応じる意思は毛頭なく、単なる時間稼ぎであった。蒋介石も同 年 9 月 12 日の日記に次のように記していた。 「米日間に妥協の可能性は決してない。米日の談判は、絶対に実を結ばないと断言できる。せいぜい相互間でう わべを取り繕い、若干時間を引き延ばすだけである」 その 2 日後の 19 日、グルー大使が本国宛の電報で、三国同盟脱退やシナ撤兵について広範囲な約束を 期待できるとの見通しを示したうえで、失敗すれば「国家の運命を陸海軍の手に委ねる内閣改造が行わ れることはほぼ確実だ」として会談実施を進言した。 8 月 26 日 大本営政府連絡会議で、ルーズベルト大統領あてに、日本側の条件を示して首脳会談開催を申し入れ る近衛首相親書「近衛メッセージ」を採択する。 翌々日(28 日) 、野村大使から近衛首相の親書を渡されたルーズベルト大統領は「非常に立派なもの」 と称賛し、 「会見場所をアラスカにしたい。近衛首相との会談に強く期待する」と述べた。 しかし、期待を持った野村大使が、その夜ハル国務長官を訪ねて、会談の期日(提案は9月 21 日から 25 日を希望)や随行員の数を示したところ、ハル国務長官は両者が会見するための条件に関し、シナか らの撤兵問題及び三国同盟問題を蒸し返し、実現の見込みはまた遠のいた。すなわち、ルーズベルトの野 村大使への返事はジェスチュアに過ぎなかったのである。 8 月 27、28 日 首相官邸において、近衛首相をはじめとする閣僚、鈴木貞一企画院総裁、福留繁海軍軍令部作戦部長、 227 陸海軍幕僚が参集し、総力戦研究所による日米戦の机上演習結果(7 月 12 日の項参照)が「窪田角一仮 想内閣」の閣僚より発表された。 机上演習においては、生産力の差が重視された。当時、アメリカの生産力は、鉄の産出において日本の 13 倍で、 製鋼は 20 倍。石炭は 8 倍、石油にいたっては 300 倍もあった。このため日本は、輸入額ベースで石油の約 77%、 鉄鉱石を補う屑鉄では約 70%をアメリカに頼っていた。 兵器などを造る工作機械も、同様に 66%はアメリカからの輸入であったが、既に前年 1 月の日米通商航海条約廃 棄に伴い対日輸出が禁止となっていた。 GNP(国民総生産)は、アメリカは約 1 千億ドルで日本の約 10 倍以上であった。 そのような実態から、総合的国力は約 20 倍の格差があると推定された。したがって、机上演習の結果としては、 「対英米戦争は日本の敗北で終わる」という判定が下されたことが明らかになった。 これに対し、東條陸相は「机上の空論と言わないまでも」、 「実際の戦争には(日露戦争に勝ったように) 意外裡の要素があるから、机上演習の経緯を口外するな」と発言して退けてしまった。 8 月 30 日 陸海軍の協議において、新たな国策方針「帝国国策遂行要領」の草案に合意が成立した。 草案には「10 月下旬を目途とし、戦争準備を完整する」と明記されており、両軍とも日米戦必至との立 場であった。 この頃、 「近衛メッセージ」の概要がアメリカの新聞に漏れて掲載された。国内でも情報が漏れて、対 米強硬・親独派の右翼や少壮軍人、軽噪な言論人がこの報に激高した。新聞に反米記事が掲載されたり、 一部で近衛全権団暗殺計画が練られたりした。 9月1日 海軍支那方面艦隊司令長官・古賀峯一大将がシナに駐屯していた第 11 航空艦隊司令官に、自分の指揮 下を離れることを示唆する電報を打った。その日から 1 週間にわたり、大小部隊のその他の指揮官たち も内地への召喚命令についての無線交信を続け、シナから艦隊を引き揚げ始めた。主要な艦船と航空部 隊の大半は、9 月末には引き上げを終わっていた。 これと並行して、日本は世界中の海域から商船を本国へ呼び返した。 日本のこうした動きを無線傍受によりすべて把握したアメリカには、それらは戦争準備にほかならないと写った。 のみならず個々の海軍艦隊の所属から、アメリカは日本が真珠湾攻撃を行ってもハワイを占拠する意思のないこと も確認するまでに至っていた。 同日、野村駐米大使と会見したハル国務長官が、日本の新聞が侵略政策と反米運動を扇動しているとし て、 「日本政府が自国の世論を抑えることができなければ、日米政府間でどんな和解策を結んでも日本国 民の支持を得られないではないか」と非難した。 9月3日 大本営政府連絡会議で、 (新)帝国国策遂行要領を議決。ただし、及川海相の発言により、 「我要求を 貫徹し得ざる場合」は「我要求を貫徹し得る目途なき場合」に修正されたが、これは国策案の骨抜きに 通ずる重大修正といえた。 海軍の幹部はアメリカと戦えば負けることは分かっていたが、そのことは公式の場で言うことを避け た。そこで真意はともかく「戦争準備だけは完整しておこう」というものであった。 [帝国国策遂行要領要旨] 228 1 帝国は自存自衛の為、我要求を貫徹し得る目途なき場合には米英蘭戦争を辞さない決意で、10 月下旬をめどに陸海軍は作戦準備を完整する。 2 並行して米英に対し、外交手段を尽くして要求貫徹につとめる。 3 開戦時期を 12 月初旬とするが、対米交渉が 12 月 1 日午前零時までに成功せば、武力発動を中 止する。 同日、ワシントンにおいては、ルーズベルト大統領が野村駐米大使に対して以下のように述べ、前月 28 日に申し入れのあった首脳会談を実質的に拒否した。 「日本には日米協調の成功を妨げる勢力がある。ゆえに首脳会談を成功させるためには念のため重要 問題についての予備会談をさきに開催することを提案する。 」 9月5日 政府が「帝国国策遂行要領」を閣議決定した。 御前会議を控え、近衛首相が帝国国策遂行要領草案を天皇に内奏したところ、陛下は 「一に戦争を記し、二に外交交渉を掲げている。なんだか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じを 受ける」 と懸念され、陸海軍両統帥部長(杉山参謀総長及び永野軍令部総長)を招致された。 永野は「今であれば戦勝のチャンスはあるが、この機会を逸すればなくなる」という趣旨のことを繰り 返すばかりであった。 一方、日米交渉に期待をかけつつも、それがまとまらない場合は短期決戦しか頭になく「南方方面だけ は約5か月で終了するつもりであります」と言う杉山参謀総長に対し、天皇は「お前は支那事変勃発時の 陸軍大臣として『1か月で片付く』と言ったが、4年経った今でも片付かないではないか」と叱責された。 「シナは広いので」と弁解する杉山参謀総長に対し、天皇は「太平洋はもっと広いぞ。いかなる目算が あって5か月と申すのか」と鋭く言葉を継ぎ、対英米戦争に対する御不安と戦争準備と外交を併進させ ることへの不満を述べられた。その上で「なるべく平和的にやること、及び外交を先行させること」と指 摘された。杉山参謀総長ただ頭を垂れるばかりで何も答えることができず、永野ともども「戦争を好むわ けではない。避くべからざる場合に対処するためのみのものである」と“外交優位”だと弁解した。 9 月 6~7 日 御前会議が開催され、2 日目に帝国国策遂行要領が審議された。 永野軍令部長が「戦わずして招く亡国は心の底まで滅びる永久の亡国になります」、「戦争回避ができ なかった場合の作戦を述べたものである」と発言した。 このとき天皇の意を受けた原枢密院議長が「外交より戦争に重点がおかれているのでは?」と問われ た。陸海両統帥部長は発言せず、及川海相が「できる限り外交交渉を行う」と答えた。 鈴木貞一企画院総裁は、このままではジリ貧であるが、戦争経済は維持できる、と述べた。最後に原枢 密院議長は「びょうぎの決定が実行できないことのないよう、徹底的処置を講じるように」とのまとめの 言葉を述べた。 すると天皇は、重大事項にもかかわらず陸海両統帥部長より意思表示のなかったことを遺憾に思うと 述べられたうえで、懐から懐紙を取り出され、明治天皇の御製「四方の海 みなはらからと思ふ世に な ど波風の立ち騒ぐらむ」を朗誦のうえ、 「余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹 229 述せむと努めておるものである」と、暗に戦争反対のご意思を示された。 ただし、天皇は朗誦の際「波風」を「あだ波」と読み替えられた。これは日本への圧力に対する覚悟を示されたも のと推測される(加藤康男「昭和天皇7つの謎」月刊「WiLL 2014 年 1 月号」より) 。 このため、会議の場は静まり返って、出席者はみな恐懼した。その沈黙を破って永野軍令部総長が立ち 上がって「外交を主とする趣旨にかわりございません」と述べ、杉山参謀総長も「軍令部総長と全然同じ です」と続いた。 この会議において戦争準備に賛成したのは陸海両統帥部長と鈴木企画院総裁だけであったが、自存自 衛のため戦争準備の完整に努めるのと並行して帝国の要求貫徹のため英米との外交努力を行うが、10 月 半ばに及んでもアメリカとの外交交渉成立の見込が立たない場合は対英米蘭戦争を決意する、として事 実上、対米戦争が決定されてしまった。 御前会議から庁舎に戻った東條陸相は「聖慮は平和にあらせらるるゾ」と大声で皆に伝えた。また、軍 務局長の武藤章も部下を集めて「 (陛下は)外交で妥結せとの仰せだ。外交をやらにゃいかん」と言った。 にもかかわらず、ただちに動員・集中(陸軍 5 個師団、上陸用舟艇など)が開始された。 ただし武藤軍務局長(陸軍きっての対米平和論者)は、天皇の戦争回避のご意思を察し、その意に沿うべく、以 後、海軍の岡軍務局長と密かに提携して対米外交の推進に全力を尽くした。 この御前会議において近衛首相は存在感を示すことがなかった。終戦決定の際、死を決して「ご聖断」を仰いだ 鈴木貫太郎は後、自伝の中で「もし、あのとき総理(近衛)が死を決してご裁断を仰いだならば、太平洋戦争は起 こっていなかったかもしれない」と書いた。 帝国国策遂行要領付属の別紙として[対米交渉における最小限の要求事項と日本の約諾しうる限度]と が定められる。 要求事項:15 年 11 月 30 日に汪兆銘政権との間に締結した日華基本条約に基づく駐兵並びに艦船駐 留権の維持 約諾しうる限度:①支那を除きその近接地域へは仏印を基地とした武力進出は行わない。②公正な極 東平和が確立すればインドシナから撤兵する用意がある。③フィリピンの中立を保証する 用意がある。 同月 11 日、野村大使は「2 年以内に撤兵する」と妥協するよう上奏。しかし、大本営政府連絡会議は 13 日、日 支和平基礎条件を決定し、内蒙及び北支における防共駐兵、海南島・厦門その他における艦船・部隊の駐屯を要求 した。また、同月中旬、畑支那派遣軍総司令官が「アメリカと妥協し、支那事変解決に専念すべき」との見解を東 条陸相、杉山参謀総長に伝えるべく後宮淳総参謀長を東京に派遣したが、東条陸相は「第一線の司令官は後ろを向 くべからず」とにべもなかった。 (日米交渉のいきづまり) 9 月 6~7 日にかけての御前会議の内容は国家の最高機密であったが、東郷外相の意を受けた樺山愛輔伯爵・貴族 院議員によって密かにグルー大使にリークされていた。和平を切望する東郷外相は正式のルートでは交渉の成立は 難しいと観ていたからである。グルー大使は早速次のように本国に通報した。 「天皇は初めて直接的に政治形成にかかわり、アメリカとの合意を望んでいる。いまこそ日米交渉を平和裏にま とめる好機と考える」 しかし、ルーズベルト大統領もハル国務長官も、一笑に付してとりあわなかった。むしろいよいよ日本が窮して 開戦に打って出るだろうと、ほくそえんで戦争の準備を進めていた。 230 同月、FBI 初代長官・J.E.フーバーは、極東の情報部員から「日本が真珠湾かフィリピンのクラークフィールドを 攻撃する」という警告を受け、ルーズベルト大統領に伝えた。大統領はフーバーに対し「このことは私以外の誰に も(ハワイ防衛に当たる太平洋艦隊司令長官・キンメルやショート大将を含む)言うな」と口止めした。 (この項、堤堯「魔都・上海の街で考えたこと」16 WiLL H25.8 所収による) 9 月 20 日 大本営政府連絡会議において国策遂行要領付属の別紙に定められた枠内での対米交渉最終案としての 「日米了解案」が採択される。 三国同盟問題:米国が欧州戦に参入した場合の日本の三国同盟条約に対する「解釈及びこれに伴う 義務履行は専ら自主的に行う」とした。 (日本の三国同盟に対する態度については微妙な表現を用いた) 日支和平問題:①「日支和平基礎条件」を予め米側に提示して了解を求める。 ②日支間の経済協力は、「国際通商関係における無差別の原則及び隣接国間における 自然的特殊緊密関係存立の原則に基づき行われる」とした。 (従来より歩み寄りの 姿勢を示した) 9 月 25 日 決定された「日米了解案」を米国に申し入れる。近衛首相もグルー駐日大使を招き、ルーズベルト大統 領との首脳会談に全力を尽くす旨を述べる。 翌 26 日、グルー駐日大使は、ハル国務長官に「もし、アメリカがあくまで原則論に終始すれば、メン ツを失うことに異常な感受性を持つ日本人の反応は、おそらく重大なものになるだろう」と報告した。 なお、25 日の申し入れに先立つ 24 日、外務省はホノルルの領事館宛、真珠湾に停泊する米艦船の錨 泊、係留、入渠の位置を正確に報告するよう訓令した。これは爆撃地図を製作するためのものに他ならな かった。この訓電を解読したアメリカ陸軍は海軍のキンメル将軍に届けなかった。 10 月 2 日 ハル国務長官が野村大使を招致し、長文の口上書を示して首脳会談の拒否を通告。 [口上書において求めた条件] 1 日本が支那及び仏印から全面的に撤退する「意向を明確に宣言する」こと 2 支那との通商について日本は地理的近接特殊緊密関係を放棄し完全な無差別原則を受容する こと 3 三国同盟の適用についての一層譲歩すること [米政府が国家間の基礎と目している4原則]=「ハル4原則」 1 一切の国家の領土保全及び主権の尊重 2 他国の国内問題に対する不関与原則の支持 3 通商上の機会均等を含む均等原則の支持 4 平和的手段により現状が変更される場合を除き太平洋における現状の不撹乱 「対日戦争」に向けてルーズベルト大統領の腹は既に固まっており、国内に向けて、いかに戦争の名目を立てる かを考えるだけであった。アメリカが信奉する“欧米的国際社会秩序維持原理”を体現するルーズベルトにとって、 東アジアにおいて“日本盟主論的な発想による新秩序”を形成しようとする国家目標を持つ日本や、 “ヒトラー的原 231 理主義”のドイツは、根本から認めがたいものであった。 このハル国務長官の口上書にどう対処するか、日本国内では論議が沸騰した。もはやアメリカに何を提 案しても拒絶される状況であり、政府内からは「アメリカの罠にかかった」とする声が高まった。 支那及び仏印の駐兵について一歩も譲れない陸軍はもちろん、海軍も交渉妥結の目途はないとし、再び 開戦の方向に大きく傾き、両軍中央部は下駄を近衛首相に預けた。しかし、陸軍の中には、あくまで開戦 を主張するグループがあって密かに近衛暗殺部隊がつくられた。 10 月 4 日 政府・統帥部連絡会議を開き、アメリカの回答に対する対応策を協議。この席で永野修身海軍軍令部長 は「もはやディスカッションをなすべき時にあらず」との考えを述べた。 10 月 12 日 近衛首相はシナからの全面撤兵を決意し、近衛私邸に東條陸相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁 を集め協議した。御前会議で決定の帝国国策遂行要領に定めた「開戦決意の時期」が既に来ていたからで ある。 開戦主張の東條に対し、及川は「海軍として表面に出して、戦争を回避したいと言うことはできない。 戦争をするかしないかは政府が決めることだから、総理に一任する」として、近衛首相に判断を丸投げし た。 そこで近衛首相は「どちらかといえば外交でやると言わざるを得ない。戦争には自信がない。自信のあ る人にやってもらうほかない」と発言をしたところ、東條陸相が「戦争に自信がないとは何事か。それは 国策遂行要領を決定するときに論ずべき問題だ」と反駁する一幕もあった。 及川海相は、陸軍に予算・物資を奪われるのが嫌だという役所意識から、戦争を断固避けるという一言を言えな かった。 なお、海軍では軍令部総長であった伏見宮博恭王が日米開戦を推し進めていたうえ、人事権も握っていた。及川 海相、後の嶋田海相、永野軍令部総長はいずれも伏見宮による人事であった。 10 月 14 日 閣議において近衛首相が「駐兵問題に色をつければ日米交渉成立の見込がある」旨発言したのに対し、 東條陸相は「アメリカの主張にそのまま服したら支那事変の成果が壊滅する。満洲国も朝鮮統治も危う くなる。既に数十万の戦死者、これに倍する遺家族、数百億の国費を費やしたのだから、駐兵によって事 変の成果を結果づけることは当然だ。米国の圧迫に屈する必要はない」と猛反対した。 閣議の後、東條陸相は鈴木企画院総裁に「御前会議の決定を覆すなら、輔弼の責任を果たさなかった閣 僚も陸海両統帥部長も全員辞職し、再度案を練り直す以外にない」と言った。 この時点で日本陸軍 51 個師団のうち 27 個師団がシナに、13 個師団が満洲に配置されており、それらの撤兵がシ ナ、満洲、朝鮮半島で大きな混乱・騒擾の発生なしに行われ得たかについては、誰の目から見ても疑問の残るとこ ろであった。 10 月 15 日 近衛首相の顧問団の一人、尾崎秀美がソ連のスパイとして逮捕された(仲間であった R.ゾルゲの逮捕 は 18 日) 。ただし公表は半年後で、死刑の判決を受け、19 年 11 月 7 日にゾルゲとともに処刑された。 顧問団に加わっていた西園寺公一もゾルゲ事件に連座し逮捕された。西園寺は戦後、文化大革命を礼賛するジャ 232 ーナリストとして名を馳せつつ、数年間、コミンテルンのスパイであった尾崎秀美とともに対シ戦線拡大、さらに は対米開戦に向けて策動していた。なお、尾崎と親交のあった内閣書記官長風見章は戦後、社会党左派の領袖とな った。 尾崎と一緒に行動していた R.ゾルゲ(表向きは在東京ドイツ大使館オットー大使付情報部員)が 10 月 4 日に「日 本軍は北方へ向かわず、石油などの資源を求めて南方に向かう」との重大情報をモスクワに送っていた。この情報 を得たソ連は、冬季装備の精鋭部隊を直ちにモスクワへと向かわせた。ドイツ軍はクレムリン宮殿まであと 10 キ ロにまで迫っており、ソ連は降伏寸前であった。 そこにもたらされたゾルゲの情報によって、ソ連はシベリア東部の部隊を対独戦線に回すなど態勢を立て直し、 ドイツ軍の進撃を止めて降伏を免れただけでなく、12 月から始まる反転攻勢に出ることができた。 尾崎、ゾルゲ、西園寺らは政府や陸海両軍要人に食い込んで、コミンテルンからの指令を受け、日本が北進する (対ソ戦を行う)より東進してアメリカと戦争するよう(日本の敗戦後、共産革命を起こすのが目的) 、さまざまな 工作を行っていたのであった。ゾルゲと尾崎との親交は古く、満州事変が起きる約 1 年前の昭和 5 年 5 月、上海に おいて、ソ連のスパイ・ゾルゲが新聞記者の尾崎に近づき、集められるだけの情報を得ていた。 尾崎が獄中において(昭和 19 年 2~3 月頃)書いた「手記」によれば、彼の行動の目的は 1 コミンテルンの指示の実行及びソ連邦の防衛 2 日本及びアジアにおける帝国主義支配の打倒と社会主義革命 3 第 2 次世界大戦を惹起することによる全世界共産主義革命の完成 であった。尾崎自身、自らを「最も忠実にして実践的な共産主義」と手記に記しているが、自身そのことを徹底的 に隠し通し、ゾルゲ以外に誰も知らなかった。尾崎は既にシナ事変(昭和 12 年)の頃から次々に雑誌に、事変拡 大の論文を掲載し、国民の戦意高揚を煽っていた。シナ共産党が日シ和平によって打撃を受けるのを恐れていたか らである。当時のドイツ外務省は、ソ連が「あらゆる方法で紛争を駆り立てている」と警告していたが、日本の政 府・治安当局は国内で展開されていたソ連の工作活動にすら極めて認識が甘かった。 尾崎と特別な関係にあった陸軍は尾崎らの検挙に反対したが、近衛辞任後首相に就任した東條英機はこの事件に よって一挙に近衛を抹殺しようと考え、徹底的な捜査を命じた。しかし、近衛だけでなくその周辺の人物をこの事 件によって葬り去ることの影響がいかに大きいかを考え、検察当局は国防保安法の線のみに限定してその処理にあ たった。詳しくは三田村武夫「大東亜戦争とスターリンの謀略」 (自由社)参照。 ゾルゲが日本の警察に逮捕された理由としては次の指摘がある。アゼルバイジャンに生まれ、ドイツで育った彼 はブハーリン派だったためスターリン一から嫌われており、ドイツとの二重スパイの恐れを疑ったソ連軍参謀本部 が指導を誤ったとされる(元情報機関員コンドラシェフ退役中将) 。ゾルゲは開戦1か月前から、 「ドイツによるソ 連侵攻は95%の確率で6月後半に始まる」とオットー大使からの情報をソ連中枢に伝えていたが、スターリンは 完全に無視した。 戦後(フルシチョフ首相時代) 、ゾルゲは再評価され、国を救った英雄としてレーニン廟に隣接して彼の墓が造ら れた。 10 月 16 日 アメリカから再度回答があったが、交渉開始として提示された4条件はそのままであった。 近衛首相が鎌倉の自邸にこもったうえで首相職を辞任した。鈴木企画院総裁から東條の伝言を聴いた 同首相は、交渉再開の見通しもなく、軍部が外交交渉再延期を認めないとみて(日米交渉の失敗)決断し 233 たが、支那事変を拡大するばかりで、占領地に大きな傷跡を残したままの退陣であった。 この近衛退陣については、次のようなことが言われている。 すなわち、近衛首相は前日逮捕された尾崎を内閣嘱託として重用してきた。その上、長男・文隆は尾崎やゾルゲ と予てから親交があり、東條陸相からスパイ事件との関与に突きつけられて、やむなく辞任した可能性がある。 木戸幸一内大臣が後任について天皇に諮り、次の3条件を満たす者としては(対米強硬派とはいえ、日 米戦の不可能なことも痛感している)東條陸相をおいてほかなし、との結論に至った(なお、海軍は首相 を出すことを拒んだ) 。 ① 困難ではあるが 9 月6日の御前会議決定を白紙に戻すこと ② そのためにも陸海両軍、とくに陸軍を掌握し得るとともに、今までの経緯に精通していること ③ 難局を処理し得る能力と条件を備えていること 同日アメリカでは、午後に臨時閣議が開催された。日本の新内閣は一層反米色の強いものになるであろ うと予測した上で、ルーズベルト大統領は初めて自身の腹の内を出席者(ハル国務長官、スチムソン陸軍 長官、ノックス海軍長官、スターク海軍作戦部長及びハリー・ホプキンス元商務長官)に表明した。この 時のことをスチムソンは次のように日誌に記した。 「我々としては、巧妙な外交詐術を用いて日本の陸海軍を間違った方向に誘い込み、最初に不利な行動 (公然たる戦闘行為)を取らせるよう、必ずそう仕向けなければならない」 しかし、この段階になっても(3 日後の 19 日) 、スターク海軍作戦部長は真珠湾の太平洋艦隊司令長官に対し、 「日本軍が奇襲攻撃をかけてくる公算は極めて少ない」とあえて警戒を解くような私信を送っていた。 (三好誠「は められた真珠湾攻撃」 ) 10 月 17 日 重臣会議において、陸軍を抑えることができる東條陸相を首相に推薦することと決した。 参内した東條に天皇は組閣を命じ、続いて参内した及川海相との両名に陸海軍が協力して難局を打開 するよう指示された。 天皇の命を奉じた木戸内大臣が陸海両相を呼び止め、9月6日の御前会議の決定にとらわれることな く、内外の情勢をさらに深く検討し、慎重な考究を加えること(決定を白紙に戻して国策を再検討するこ と)を伝達した(白紙還元の御諚) 。以降東條首相は、天皇のご優諚に忠実に従い、同日決定の帝国国策 遂行要領に修正を加えようとした。 東條は、外務大臣として日米交渉再開のために非戦論のベテラン外交官東郷茂徳に就任を要請した。そ の際、東郷はシナからの撤兵に関して軍側に柔軟性があることを条件として受諾した。また、野村駐米大 使の補佐役としてベテラン外交官の来栖三郎を派遣した。 10 月 18 日 東條内閣発足。組閣にあたって東條首相は陸軍色の薄い内閣とした(下僚であった軍務局長・武藤章や 軍事課長・佐藤賢了を排斥した) 。 東郷外相は就任後、アメリカが受け入れ可能な案を策定するため、シナからの撤兵に関して軍の同意を 得ることに成功し、期限は 25 年というところまで同意を得、対米和解案(甲案)を作成した。それ以上 の期間短縮については交渉が始まってからに委ねるということであった。同時に、甲案不成立の場合の 234 暫定案として、南部仏印から日本軍を撤退して(7 月末以前の状態に戻す) 、アメリカに石油禁輸の停止 を求めるという腹案も用意した。 10 月 20 日 ウォールストリート・ジャーナル紙に、ルーズベルト大統領がリークした戦争計画「勝利の計画」が掲 載される。これは、9 月 25 日に完成されたもので、米国内で大きな反響を呼んだ。 (東條内閣における国策再検討) 10 月 23 日~ 連日、大本営政府連絡会議を開催し、国策の再検討を議論する。 東條首相は、対米戦の主役である海軍が真に自信を持てないなら、シナ大陸からの撤退など全面屈服に 近い条件で日米交渉をまとめるのもやむを得ないと判断して、海軍に対しその真意を打診した。しかし、 前任の及川海相も後任の嶋田海相も明言を避けた。それは、海軍部内にも陸軍の主戦派に呼応する強硬 分子が勢いをえつつあり、優柔不断の 2 人は「アメリカに屈服すれば内乱が起きる可能性がある」と怯 え、また、予算配分への影響をも恐れて「戦争するか否かは政治家・政府が決めることだ」と原則論を述 べるにとどまった。 陸海両軍の統帥部とくに参謀本部は、今さら国策を再検討するような時間の余裕はないと考え、東條首相のやり 方に不満であった。9 月 6 日時点での開戦予定時期は 11 月初頭であったが、政変による遅れで、次の理由から 12 月初頭を逃してはならないと考えていた。 ① 南方における米英蘭の戦備とくに航空戦力の増勢は目覚ましいものがあり、時日の経過に伴い、南方作戦の 遂行は困難になるばかりである。 ② 南北二正面作戦を避けるためには、満洲方面が冬の約 5 カ月間に南方要域攻略作戦を終了し、翌年春以降の ソ連の策動に備える必要がある。 ③ 12 月を過ぎるとマレー半島方面の季節風が強まって波浪のため、海軍の真珠湾攻撃と相呼応した南部タイ東 海岸への上陸作戦が至難となる。 この間、10 月初めと下旬とに駐英武官・辰巳栄一から、 「ドイツ軍による年内のモスクワ攻略は困難」 、 「イギリス の戦意は旺盛で欧州戦争の長期化は疑いない」 、 「日本の南部仏印進駐以来、英国の対日態度は頓に悪化し、ワシン トンにおける日米会談の推移を注視している」 、 「日本がドイツ側に立って参戦すれば、日本は極東において英米ソ を相手として戦争することになる」 、 「この際日本は支那事変の解決に邁進することが先決で、本大戦に巻きこまれ ることは極力避けるべき」など冷静な対応を求める電報が入っていた。 しかし、 「翌春にはドイツ軍がソ連を屈服させる公算が大」との返電(対辰巳)にみるように、参謀本部内では国 策の大方針が変わることはなかった。 スウェーデン公使館に派遣されていた小野寺信大佐も「ナチス・ドイツは英国には上陸できない、その尻馬に乗 っての対米開戦は絶対に避けるべき」との電報を数多く大本営に打っていた。しかし小野寺は皇道派に属する軍人 であったため、統制派が絶対多数を占める大本営においてはことごとく無視され、むしろ「大島駐独大使に教えを 乞え」という指令さえ受けた。 こうした現地からの情報がありながら陸海軍両統帥部は「持久戦になっても海上交通線の保護は可能」、「日本が 独ソ和平を斡旋すればイギリスは屈服するであろう」など天皇に対して開戦の方向に説得する強い攻勢をかけた。 235 29 日の会議において、物資調達計画を担当する企画院総裁の鈴木貞一は、企画院作成の南方資源見積 りを提示した。石油備蓄量と需給見通しについては 「備蓄は陸海軍など合わせて 690 万 kl、1 年分の需要は 520 万 kl とし、今後については、 (対米戦に踏 み切って)蘭印などの油田を占領することにより 18 年には 200 万 kl、19 年には 450 万 kl 確保可能」と いうものであった。 また、開戦となれば輸送用の船舶の損耗が避けられないが、企画院の試算においては損耗率 10%、船 舶沈没は年間 60 万~100 万トンと極めて楽観的に低くみていた。 実際の船舶沈没は、18 年、207 万トン、19 年は 410 万トンに達し、そのため、スマトラの油田で生産した石油が 日本に到達した比率は、17 年、45%、18 年には 27%と減少の一途をたどった。 この南方資源見積りは楽観的というより非現実的で、明確な裏付けは何らなく、日米開戦必至を前提に した希望的な数字合わせでしかなかった。結果として、南進論者を勢い付けることとなり、何とか対米戦 を避けるための日米交渉継続を条件として入閣した東郷外相も、こうした報告を見せつけられては、企 画院が示す計数を信じて対米戦勝利を疑わない軍部に対して、反駁することができなかったという。 この希望的な見積もりの提示により、政府・軍中枢は開戦の方向に大きく傾いた。 しかし、蘭印などの油田における埋蔵量は、あくまで希望的な推計値であり、実際に占領して初めて、約 3 倍に 水増しされており、しかも重質油のため硫黄分が多くて航空燃料には適していないことが判明した。したがって、 ねつ造された数字であり、企画院がこのような見積もりを作成したということは、院内に日本を米英と戦わせよう とする勢力が主導権を握っていたということに他ならない。 企画院では、中枢職員が昭和 14 年 11 月から 15 年初頭にかけて 4 人が、また、16 年 1 月から 4 月にかけて 17 人が治安維持法違反で逮捕された。企画院のなかにコミンテルンやシナ共産党、尾崎秀実・ゾルゲの手先となって、 日本を対米戦へと誘導する者が多数いたのである。 同じような勢力は満鉄にもいて、満鉄調査部から出先機関の満洲農業合作社に出向していた佐藤大四郎なる経済 専門家は、16 年夏、参謀本部から求められた報告書において「シベリアの農業・畜産は、過去 3 年間にわたって大 変な不作であり、日本がシベリアに攻め込んだとしても食料を調達できない」ことを示すデータを提出していたが、 実は同期間のシベリアは大豊作だった。 この報告は、日本陸軍に北進を諦めさせ、南進へと向かわせた決定的材料の一つであったという。佐藤は、同年 11 月「合作社事件」で逮捕され、取り調べの中で「日本が永年の北進政策を放棄し、南進に転じたことは誤りであ り、この時すでに日本はコミンテルンの謀略に敗れていたのだ」と供述した(工藤畔『諜報憲兵』 ) 。 佐藤はまた、 「この報告は全て尾崎秀美(10 月 18 日の項参照)の指令によるものだった」とも供述した。佐藤の 他にも満鉄調査部の中にはコミンテルンのスパイとして活動している者が多数いた。彼らは 17 年 9 月(第 1 次) と 18 年 7 月(第 2 次)に一斉検挙された。なお尾崎は度々満洲へ行っていたが、逮捕直前の 9 月には、満鉄調査 部員と連絡をとりあっていた(小林英夫・福井紳一『満鉄調査部事件の真相』 ) 。 30 日、東條首相は、日米交渉の条件として従来の「日米了解案」の線に沿ったうえでシナからの撤兵 期限を明記した甲案をまとめた。 そのうえで、翌 11 月 1 日に総合的結論を求めることとし、各員に予め 3 つの案を提示して腹案を固め ておくよう要請した。 第 1 案 戦争することなく臥薪嘗胆に甘んじる 第 2 案 すぐに開戦を決意し戦争により解決する 236 第 3 案 戦争決意の下に作戦準備と外交を併行させる 11 月 1 日 大本営政府連絡会議の討議は深更に及んだ。永野軍令部長は「今(対米戦を)やる方がやりやすい。戦 争開始後 3 年経てば、米艦隊の防備が強くなる。戦機は今だ。」と従来からのハワイ作戦の意思を変えな かった。 大本営政府連絡会議ができて以来、 「陸軍」 「海軍」 「外務」が三すくみになり、どこか一つが反対すれ ば議決は不可能となっていた。こうして会議は 9 月 6 日の御前会議の決定について、どうするか明確に はしないまま終始した。 東條首相の提示した 3 案については、第 1 案は、永野軍令部長が「戦わずして米国に屈服する外なく なる」と真っ先に拒絶した。第 2 案については支持する者がいなかった。 結局、第 3 案となったが、交渉の期限と交渉条件に関して激論が闘わされた。東条首相はできるだけ 期限を遅らせようと努めた。先ず交渉の期限は、統帥部の意向で 12 月 1 日午前零時と決定される。 交渉条件については、従来の「甲案」に加えて、甲案不成立の場合の暫定案として、詳細条件を省略し、 急激な関係悪化の原因となった南部仏印進駐(米国は対日石油禁輸で対抗)以前の状態に戻す「乙案」が 提案された。 第 3 案を基本とし、交渉条件は甲案及び乙案の二段構え、交渉期限を 12 月 1 日と 1 か月延ばしただけ で、新たな帝国国策遂行要領を策定することとした。 [甲案] 1 駐兵・撤兵問題 北支、蒙彊及び海南島には、日中和平成立後、所要期間駐屯し、それ以外の軍隊は、和平成立後、 治安確立とともに2年以内に撤兵する。 仏印からは、支那事変解決または公正な極東平和が確立後に直ちに撤兵する。 すなわち、支那との和平問題については、 「華中から全面撤兵する。また、一部地域には駐兵を続ける」と いう譲歩案であった。ただし、撤兵の時期は、 「支那との和平成立後=支那が降伏した後」 、一部地域におけ る駐兵は、 「永久に近い長期間」という含みであった。 交渉の中で「撤兵」に言及したのはこれが初めてであったが、 「所要期間」 、 「治安確立後」や「公正な極東 平和成立後」などあいまいな文言が多かった。 「所要期間」について野村大使は「25 年をめどとする」と答 えるよう指示されていた。 2 通商無差別問題 通商無差別原則のシナへの適用を認める アメリカが主張していた“門戸開放”と“機会均等”を受け入れ、日本側の従来の主張である「地理的近 接特殊緊密関係存立の原則」を放棄した。 3 三国軍事同盟条約の解釈と履行 日本自らが決定し、行動する。 (アメリカを敵視するような解釈や行動はとらない) [乙案] 1、日米両国政府は、仏印以外の東南アジアと南太平洋地域に武力進出しない。 2、両国政府は蘭領東インド(インドネシア)で、必要物資獲得が保障されるよう、相互に協力する。 237 3、両国政府は相互に通商関係を資産凍結以前に戻し、アメリカ政府は所要の石油の対日供給を約束 する。 4、アメリカ政府は日中和平についての努力に支障を与えるような行動にでない。 備考:1、この取り決めが成立したら、必要に応じて南部仏印の日本軍を北部に移駐させる用意があ ること。日中和平が成立するか太平洋地域に公正な平和が確立したら、仏印の日本軍の撤 退を約束してもよい。 2、必要に応じて甲案に含まれる通商無差別待遇についての規定と、三国軍事同盟条約の解釈 と履行についての規定を追加挿入する。 乙案には杉山参謀総長及び塚田参謀次長が猛然と反対したが、東郷外相は折れなかったため、9 月 6 日 決定をみた帝国国策遂行要領を一部修正し、 “自存自衛を全うし、大東亜の新秩序を建設する為この際米 英蘭戦争を決意する”との文言を入れることとした。 甲乙両案は、11 月 4 日、ワシントンの日本大使館に訓電され、東郷外相は野村大使に先ずは甲案を提 示せよと訓令した。アメリカ政府は、無線傍受により日本の動きすべてを承知しており、解読文は全文、 ルーズベルト大統領のもとに届けられていた。 11 月 5 日 再度の御前会議において「帝国国策遂行要領」 (対米交渉案を含む)の改定が決定される。この会議の 場においても東條首相は、 「日本が決意したと(アメリカが)認めれば、その時こそ外交的手段を打つべ き時だと思う。この方法だけが残っていると思う。これが本案だ」と述べた。→山本連合艦隊司令長官は、 真珠湾を攻撃して米太平洋艦隊を撃滅することを許され、陸軍では、翌 6 日に南方への戦闘序列を下命 した。 [帝国国策遂行要領] 1 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし、大東亜の新秩序を建設する為、この際米英蘭 戦争を決意し、左記措置をとる。 ① 武力発動の時期を 12 月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す。 ② 対米交渉は別紙要領によりこれを行う。 ③ 独伊との提携強化を図る。 ④ 武力発動の直前、タイとの間に軍事的緊密関係を樹立す。 2 対米交渉が 12 月 1 日午前零時までに成功せば、武力発動を中止する。 東條首相は、この要領に「この際米英蘭戦争を決意し」とあるけれども、国策説明書作成の時点で「戦争五分、外 交五分だ」と述べた=建前としては 9 月 6 日の政策と大同小異であった。 交渉継続か開戦か決めかねている東條首相に対し、 「何をぐずぐずしているのか」と非難の投書が殺到した。大衆 の声は東條首相を開戦へと後押しした。 事実上、対米開戦を決定したこの会議の模様は、密告者によりグルー大使に伝えられ、翌日、グルーは、 本国にそのことを報告した。 11 月 7 日 野村大使が、ハル国務長官との会談で(10 日にはルーズベルト大統領とも会談)甲案を提示したとこ ろ、アメリカ側は一顧だにしなかった。 238 11 月 12 日 面会を求めた野村大使に対し、ハル国務長官は甲案には何もふれずに、平和政策実行の誓約を求める など 2 通の文書を手交した。15 日にはさらに列国共同でシナの経済開発を行うなどとする、日本の政策 と相いれない新提案を持ち出したうえ、日独伊三国同盟の死文化を再三強調した。 11 月 15 日 大本営政府連絡会議で、 「対米英蘭戦争終結促進ニ関スル腹案」を決定。 この「腹案」は、二つの方針 ・極東の米英の根拠地を覆滅して自存自衛態勢を確立したうえで蒋介石政府の屈服を促進し、独・伊 と提携して英国を制圧し、孤立した米国が戦争継続の意思を喪失するよう勉める。 ・戦争相手の拡大を防止し、第三国の利導に勉める。 とそれを具体化するための7つの要領から成っていた。 スケールの大きなこの「腹案」は、統帥部が伝統的に練り上げてきた漸減邀撃作戦の一環であったが、 同作戦をひっくり返して太平洋東進を主張する連合艦隊司令長官山本五十六の反対にあって、葬り去ら れてしまった。 すなわち山本司令長官の主張する真珠湾奇襲作戦は、 「腹案」にいう「独・伊と提携して英国を制圧す る」に反するものであったが、同長官は「真珠湾奇襲作戦が認められなければ辞任する」として譲らず、 同作戦を強行した。 山本司令長官は、9 月 27 日の永野軍令部総長(南進論の立場であった)との会談では、 「日米戦は長期戦となる ことは明らかだ。結果として国民生活は窮乏を来たし、収集困難をきたすことは想像に難くない。成算小なる戦争 はなすべきに非ず」と語ったが、その後はお互いに相手を忌避していたため、一度も協議をしていなかった。 「腹案」は、天皇のご示唆により、東條首相が命じて陸軍軍務局石井大佐と海軍軍務局藤井中佐の協力により作 成されたものが大本営政府連絡会議で決定をみたものである。そこには、米国との決戦をさけつつ、通商破壊、宣 伝戦などにより、周りからアメリカを追い詰めていって終戦に持ち込むことが作戦の基本とされていた。 「独・伊と提携して英国を制圧」については次の戦略を示していた。 ・スエズ作戦をもって英国封鎖を試み、その食糧供給地である豪州、インドと英国との通商を遮断する ・インド、ビルマの英国からの離反を図り、インド洋の制海権を確保して中近東の英軍を孤立させること により同軍を屈服させる。 また、この戦略には次の効果が見込まれていた。 ・豪州、インドから英国への食糧・資源供給の遮断 ・米国から中近東の英軍への武器供給ルートの遮断 ・米国からイランを経由してのソ連への武器供給ルートを遮断することによる独ソ戦の終結 ・米国からの援蒋ルートの完全遮断 11 月 16~20 日 臨時議会が開催された。何とか対米開戦を避けたいという外交当局の思いとは裏腹に、議場は、開戦を 求める演説とヤジに終始した。また、官邸には「米英撃滅」を訴える連判状や血書が殺到し、その数は3 千を超え、国内世論は開戦一色となっていた。 239 11 月 17 日 野村大使を援けるため、15 日に急遽派遣された来栖三郎大使とともにルーズベルト大統領に会見し、 率直に日本の事情を説明し、交渉を妥結させたいと申し出た。しかし、ルーズベルト大統領は「友人のあ いだには最後の言葉はない。日米間に何らかの一般的な諒解をつくることによって、事態を救うことが できると思う」と子供をたしなめるように言ってはぐらかした。 来栖大使は駐独大使時代、日独伊三国軍事同盟に調印したことから、アメリカ国内では評判がよくなかったけれ ども、夫人アリスがアメリカ人であることもあって、以降懸命に和平に向け努力した。しかし、当事者のハル国務 長官は来栖のことを快く思っていなかった。 このとき、来栖大使とともに派遣された結城司郎次秘書官は、米国情報部の中で「Yuki」として日本側の情報源 として記録されている。結城は英国情報部員に日本側の情報を流し続けたが、戦後は省内の要職を歴任し、昭和 30 年から 32 年までスリランカ大使に任ぜられた。 同日づけで企画院が企画院研究会著として「国防国家の綱領」 (新紀元社)を公刊した。同書は企画院 審議室の実験を握るグループが陸軍内の政治軍人と結んで書かれたもので、内容は、表面的にはナチ的 全体主義を装いつつ、マルキシズムと社会主義計画経済の理念によって裏付けられていた。 その内容は「独ソ開戦は、第 2 次欧州戦争とシナ事変とを一つの世界戦争と化し、欧州と東亜における二大戦争 は世界新秩序建設戦にまで高めた。(中略)国民は団結してこの危局を乗り切らねばならぬ」という書き出しで、 12 からなる国防国家構想を述べるものであった。 11 月 18 日 米政府が開戦に傾いているとみた野村大使は決心し、乙案を提示する前にさらに妥協した暫定協定の 私案を提示したが、ハル国務長官は全く取り合わなかった。その上、野村大使は本国からも独断を批判さ れた。 11 月 20 日 野村、来栖両大使がハル国務長官を訪ね、交渉再開のために乙案を示し、了解を求めた。 しかし、ハル国務長官は、 「アメリカ政府は日シ和平についての努力に支障を与えるような行動にでな い」との条項に激怒して、全く歩み寄る姿勢を示さなかった。 アメリカ政府は、無線傍受による暗号解読によって既に日本の動きすべてを承知していたから、来栖大 使の来米も時間稼ぎだと受け取られた。 アメリカ側においては、11 月 3 日、グルー大使がハル国務長官に打電し「このまま経済制裁を続けるだけなら、 日本人は、全国民ハラキリの覚悟でのるかそるかの大事をしでかすかもしれない」と警告していたが、米国首脳は 7 日の閣議で「現在の政策をそのまま実行する。攻撃に出るなり、後退するなりの決断は日本次第である」と強硬 であった。 しかも、同月 11 日ルーズベルト大統領は「いまや米国は自由を守るためには戦いをあえて辞するものではない」 と言明した。ノックス海軍長官も同じく対日強硬論を述べた。 (日本側の訓令電報 暗号解読について) アメリカ暗号解読班(通称「マジック」 )は、甲案及び乙案の暗号解読の際、次の2点で意図的な誤訳をしていた ことが後の東京裁判法廷で明らかになった。特に第2の点は、ハル国務長官の日米交渉にかかる判断にも影響を与 えたと言われている。 240 両案の最後訓令電冒頭に付した文中、「本案は・・・修正せる最後的譲歩案」を「本案は・・・修正せる最後 通牒」と誤訳した。また、 「破滅の淵にある日米関係を調整するため日夜たゆまぬ努力をなしつつあり」を「さ て日米関係すでに破滅の淵に達し、わが国民はその関係調整の可能性について確信を失いつつある」と誤訳し た。 11 月 22~24 日 択捉島の単冠湾に航空母艦「赤城」を旗艦とする 31 隻の艦隊が終結した。無線傍受によりアメリカ側 は、潜水艦、駆逐艦以上の艦艇の無線機それぞれの細かい癖まで把握していた。 単冠湾に終結していたのは、第 1 航空艦隊(司令官:南雲忠一中将)所属の空母 6 隻(南雲中将直率の第 1 航空 戦隊「赤城」 「加賀」 、山口多聞少将率いる第 2 航空戦隊「飛龍」 「蒼龍」 、原忠一少将率いる第 5 航空戦隊「翔 鶴」 「瑞鶴」) 、第 3 戦隊(司令官:三川軍一中将)の戦艦 2 隻(「比叡」 「霧島」 ) 、第 8 戦隊(司令官:阿部弘毅少 将)の重巡洋艦 2 隻(「利根」 「筑摩」 ) 、警戒隊(司令官:大森仙太郎少将)所属の軽巡洋艦 1 隻「阿武隈」 、駆逐 艦 11 隻、哨戒隊(司令官:今和泉喜次郎大佐)所属の伊号潜水艦 3 隻、それに補給隊として油槽船 7 隻であっ た。 当時、アメリカは太平洋を囲むように無線傍受局 25 か所(英・蘭・加を含む)を設置し、うち 4 か所の傍受局 は日本の軍事暗号と外交暗号の解読局であり、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、ロンドンに亡命中のオラ ンダ政府は、これら情報網を利用していた。米軍の中では、フィリピン駐在のマッカーサー陸軍司令長官とハー ト海軍大将は無線傍受配備の中に加えられていたが、ハワイ方面のショート陸軍司令長官とキンメル太平洋艦隊 司令長官は、その配備から外されていた。 (ハル・ノート) 11 月 13 日 ルーズベルト大統領直属の情報調整局長官 W.ドノヴァンが次の内容のインテリジェンス報告書を大統 領に提出した。それは、駐米ドイツ参事官にしてヒトラーの外交顧問であるハンス・トムゼンからの極秘 報告書による情報であった。 ① 日本はアメリカによる石油禁輸措置によって「扼殺」されつつある。 ② 日本が対米戦争を開始すれば、ドイツは必ず参戦する。 この情報は、日本を対米戦争に追い込みたいルーズベルトに大きな影響を与えた。ルーズベルトは 11 月 22 日 ハル国務長官が日本に対するアメリカ側の対案(暫定協定案)について、ワシントン駐在の英豪蘭中各 代表を招集し、説明した。 この暫定協定案は、同月 17 日モーゲンソー財務長官がルーズベルト大統領に示した私案を成文化した ものであり、その骨子は、日本軍が南部仏印から撤退することを条件に米英蘭による対日禁輸の一部解 除するとう内容であった。 [アメリカの暫定協定案の概要] 1 日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を 25,000 人以下とする。 2 アメリカは資産凍結令を撤回し、輸出についても旧に復する(両国の通商関係は 7 月 25 日 以前の状態に戻す) 。 241 3 日本と蒋介石政権が和平交渉を行うなら、場所はフィリピンとする。 4 この協定は 3 ヶ月間有効とする。 しかし、これには重慶国民党政府の大使胡適が「対日経済封鎖が緩和されれば、国民党軍の抗戦体制が 完全に砕かれてしまう」と強く反対した。 24 日に再度開かれた説明の場においても、胡大使は「北部仏印に駐留予定の日本軍兵力が 2 万 5 千も あれば、昆明に進撃してビルマルートが危機にさらされる」として、その数字を 5 千に削減するよう求 めて譲らなかった。 胡大使の報告を聞いた蒋介石は、アメリカがシナを犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激 怒し、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官に親書を送って、「もし、アメリカが日本と宥和すれば、 中華民国が人命の喪失と荒廃に耐え 4 年以上にわたって続けてきた抗日が空しくなる」と訴えた。蒋介 石は日本との妥協の姿勢を一切見せず、あくまでも「夷を以て夷を制す」の手法を貫いたのである。 チャーチルもアメリカを戦争に引き入れたいと考えていたから「現状維持に関する代案提示を差し控 えたい」と反対した。 アメリカ国内においては、17 日、国務省に諮ることなく財務省長官モーゲンソーが「私案」の形でルーズベルト 大統領に対案が示された。これをたたき台にして、22 日国務省において「日米協定の基礎提案の概要」が作られた。 この「モーゲンソー私案」を書いたのは、部下の財務次官補ハリー・D・ホワイトで、5 月ごろに上司であるモー ゲンソー財務長官に提案したと言われている。 1933 年の国交樹立以降、ソ連秘密警察はアメリカ連邦政府や同国の大学に手先となる要員を多数送り込み、同政 府内の重要な地位につけるよう活動していた。この当時の段階では、これらの中の古強者が最高政策を操る地位に 到達していた。 (エドナ・ロニガン「アメリカを蝕むもの-モスクワの指令下に米国上層部に食い込むソ連秘密警察」 『カソリック・ダイジェスト』1948 年 2 月号所収) 1995 年から公開された旧ソ連の「ヴェノナ文書」によって、当時コミンテルンは工作員パヴロフを通じてハリー・ D・ホワイトや国務省高官アルジャー・ヒスらに接触していたことが判明した。終戦の 3 年後、財務省の次官に昇 進していたハリー・D・ホワイトは、共産主義者として告発され、非米活動委員会に召喚された後、逮捕される直 前に自殺した。 コミンテルンは、ソ連の生存及び世界共産主義革命実現のため、日本とアメリカとの開戦によって、ソ連の戦争 相手をドイツだけに限定するとともにアメリカから莫大な援助を引き出そうとしていた。 1941 年 11 月というこの時期、ドイツ軍によりモスクワ近郊まで押し込まれたソ連軍は、東部からの友軍が加わ って反転攻勢に出るまで、ひたすら耐える時期にあった。 「モーゲンソー私案」は、まさにこのような時期にルーズ ベルトあて提出されたのである。 11 月 24 日 ルーズベルト大統領とハル国務長官との協議がなされ、アメリカは前記暫定協定案を廃棄し、代わり に 10 項目よりなる「平和解決要綱」を日本に示すこととした。 暫定協定案廃棄の理由は、同案を日本側が容認する可能性が高く、それでは「日本に最初の一発」を打 たせることができないから、ということであり、蒋介石及びチャーチルの対日強硬姿勢に応えたもので もあった。ルーズベルトは、ヨーロッパを救うために何としてでもドイツと戦いたかったのである。 この平和解決要綱は、前日関係諸国に示した「暫定協定案」よりも強硬な諸条件によって構成されていた。 11 月 26 日 242 南雲中将が指揮する機動部隊が千島の単冠湾を出港し、北太平洋に出た。南雲中将指揮の機動部隊が 単冠湾を出港した目的は、交渉決裂の場合に備えてのもので、山本司令長官の発案であった。平和に向け てのアメリカとの交渉が成立した場合は、途中で引き返す計画であった。この出港は、米海軍作戦本部が 発した電報に明らかなように、日本軍の暗号を解読していたアメリカ側に完全に把握されていた。 その 1 時間後、米海軍作戦本部は、キンメル太平洋艦隊司令長官とサンフランシスコの第 12 海軍区に 次の電報を送った。 「太平洋を横断する船舶の航路は全て(オーストラリアとニュージーランドの間の)トレス海峡とする。 太平洋艦隊及びアジア艦隊の司令長官は必要に応じ護衛せよ。」 その目的は、日本の機動部隊がなんらの妨げもなく真珠湾を攻撃することができるようにすることにあった(米 海軍戦争計画部長リッチモンド・K・ターナー少将の説明による) 。 同時に米海軍作戦本部は、アジアの潜水艦部隊に、開戦と同時に無制限潜水作戦に入るよう、指令を発 した。 同日(ワシントン時間では 25 日) 、アメリカではルーズベルトはハル国務長官、マーシャル参謀長官、 スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、スターク海軍作戦部長と協議した(戦争に向けての)会議の場 で「我が国は次の月曜日(12 月 1 日)に攻撃される可能性がある。我々はこれにいかに対処すべきか。 問題は過大な危険をもたらされることなく、いかに日本に “最初の一発を打たせる”立場に追い込んで いくかだ」と述べた(スチムソン陸軍長官の日記より) 。 ルーズベルトたちは、日本の攻撃開始をいかに劇的なものにして、アメリカ国民の戦意をかきたてるかに腐心し ていた。そのためには、既に廃船になっていた戦艦「ユタ」に仮偽装を施して最も海側に停泊させ、日本軍の標的 にさせた。ユタには、当直員しか乗船していなかった。 ルーズベルトの戦争責任を追及する連邦議会の聴聞会(1946 年 4 月開催)において、スチムソン国務長官は次の ように証言した。 「我われはこの会議で、日本が何らかの突然の動きを起こし、その結果として一気に戦わねばならなくなった場 合に、この国(アメリカ)の立場を国民に、そして世界に、どのようにして最も明確に説明できるか、その基本的 な方針について討議した」 この答弁は、何のために日本を「挑発した」のか、その意図を告白するに等しいものであった。 なお同日、山本連合艦隊司令長官は第 1 航空艦隊に宛てて「機動部隊は 11 月 26 日単冠湾を離れ、12 月 3 日に北緯 40 度統計 170 度の地点に進出すべし(中略)。」 「ハワイ海域に進出し、開戦劈頭、在ハワ イの敵艦隊に致命的打撃を加えるものとする。 (以下略) 」と打電したが、これもアメリカ側に傍受されて いた。 南雲機動部隊の出港後、山本連合艦隊司令長官は翌 26 日各艦船、無線封止を守るよう命令を下したが、先ず南 雲司令長官が中部太平洋司令長官(井上成美中将)及び潜水艦隊司令長官(清水光美中将)に無線で長時間交信 したためアメリカ側無線傍受局 H で傍受され、機動部隊航行中の位置は完全に把握されていた。ただし、ハワイ の陸海軍司令長官2人には全く知らされていなかった。 243 これらの電報傍受記録はアメリカにおける検閲によって開示されていないままである。しかし、11 月 15 日から 12 月 6 日の間に、無線監視局が傍受した日本海軍の電報 129 件が米国立第二公文書館に残されている(報告書を 含む) 。日本海軍が自ら定めた無線封止を先ず最初に破って、攻撃目標が真珠湾であることを明らかにしたのは軍 令部総長の永野修身であった(東京発、台湾第 11 航空艦隊宛) 。129 の電報のうち最も数が多かったのは、南雲司 令長官が発した電報で、60 件を数えた。 なお、第 1 航空艦隊航行中の電報は、アメリカだけでなくイギリス、オランダの暗号解読員たちも傍受・解読に よって、その移動を確認していた。 (本項、ロバート・スティネット「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」文芸春秋社による) 11 月 26 日(アメリカ現地時間) ハル国務長官が夜分に野村、栗栖両大使を公邸に呼び「平和解決要綱」=「ハル・ノート」を手渡す。 これは、日本から提示された交渉開始の条件案(乙案)に対する回答であった。 [平和解決要綱] 1 日、米、英、蘭、シナ、ソ、タイ間の多辺的不可侵条約の締結 2 日、米、英、蘭、シナ、ソ、タイによる仏領インドシナの領土主権並びにそれらの国々に対す る特恵待遇の排除 3 シナ及び仏領インドシナから日本軍及び警察力の即時かつ無条件の撤収 4 中華民国=重慶国民党政府(蒋介石政権)の容認とそれ以外の全ての政権=南京国民政府(汪 兆銘政権)の否認 5 シナにおける治外法権の撤廃 6 互恵的日米通商条約の締結 7 資産凍結令の解除 8 円・ドル為替の安定 9 三国同盟条約の否認 10 日米両国政府は、他の諸国政府に本協定の定めた基本事項の遵守・適用のため、影響力を行使 する。 この「10 項目」については、アメリカの一刻も早い参戦を望むチャーチルや蒋介石の意を受けて、対日強硬派の ハル国務長官や、その補佐役・国務省顧問(極東担当)スタンレー・ホーンベックらの主張により暫定案に付加す る形で書かれたものであり、第 3 項にいう「シナ」については、24 日段階のホワイトの手になる国務省原案には 「(満洲を除く) 」と付記されていた。 しかし、野村大使に示された文書には(満洲を除く)という文言が欠落していた。また即時撤兵という条件も 示されていなかった。これらの変更は、ハル国務長官が独自に関わったものであった。 第 4 項についても、満洲国について触れられていなかった。ただし、満洲事変以来の日本の国際政治的・軍事的 行動を、ルーズベルトは全て“侵略行為”と捉えていたと推測される。 この内容は、4 月 16 日に野村大使に示された「ハル 4 原則」よりもはるかに強硬になっており、日本にとって受 け入れがたいものであった。第 1 に、シナからの無条件の撤兵及び重慶政権のみ容認することは、満洲帝国を否定 244 されることのみならず、4 年間の戦争で犠牲になった何万人もの軍人を裏切るものであった。第 2 に仏領インドシ ナからの撤兵は、大東亜共栄圏構想の放棄を意味し、東南アジア地域からの天然資源入手を断念することによって 国民の生存が危うくなるものであった。第 3 に三国同盟の破棄は、当時、唯一の味方であったドイツとイタリアを も敵に回すことであった。 即ち、開戦を避けるべく妥協案を示した日本に対して、アメリカは最後通牒で応じた、というのが史実であり、 ホワイトハウスにエージェントを送り込んだスターリンの狙いは予想以上の成果を上げたと言える。ルーズベルト が日本に対して、より強硬な 10 項目を示したことは、日本を対米戦争に向かわせることによりソ連を助けようと したという面があったことも否定できない。 ただし、同書の左上には「TENTATIVE and WITHOUT COMMITMENT」 (試案にして法的拘束力な し)との記載があり、翌日東郷外相から同ノートを見せられた吉田茂(14 年 3 月に外務省を退官してい た)は、 「これは交渉のベースを示すもので、決定的な通告ではない」が、その語調が極めて厳しいもの であったため「誤読を誘うような巧妙な威圧ではないか」と指摘した上で、東郷外相に「その内容の受け 入れに職を賭して軍部に働きかけるよう」求めた。 提示を受けた日本側においては、当時の日本政府も陸海軍も第 3 項にいう「シナ」には満洲が含まれると判断し、 極めて深刻に受け止めた。東郷外相は、野村大使から報告を受けて「目の前が真っ暗になった」と後に記している。 ハル・ノートの示す内容は、ずっと対米戦争に消極的だった海軍首脳にとっても、また、先に臥薪嘗胆案を支持 した東郷、賀屋両文官大臣にとっても、4 月中旬以来の交渉経過をまったく無視したもの=もはや相手は交渉をま とめる気がない=と考えられ、大いに落胆した。 東郷外相自身は「米国の非妥協的態度は予てから予期していたが、その内容の激しさには少なからず驚かされた。 これは、ただ日本に全面屈服を強要するものであり、結局長年にわたる日本の犠牲を全然無視し、極東における大 国たる地位を棄てよと言うのである。これを受け入れることは国家的自殺に等しい」との述懐を残している。 また東郷は、「日米対立の根本原因はシナにおける両国の権益の対立にあり、アメリカが『門戸開放と機会均等』 を旗印として、日本のシナにおける権益を一方的に放棄させるのは、同国による自己の権益確保のための恣意的な 要求にすぎない」と観ていた。 政府首脳のだれもが、交渉を重ねたとしてもアメリカには譲る気がないということを感じ取っていた。 (ハル・ノートへの評価)=同文書が公表されたのは、真珠湾攻撃から 10 日ほど後 ① アメリカの識者ロベルタ・ウールステッターは「」真珠湾攻撃―警告と決定」の中で、パトリック・ブキャナ ンは「不必要だった二つの大戦」の中で、さらにチャールズ・ビーアドは「ルーズベルトの責任」の中で「日 本に完全な隷従か、それとも戦争に訴えるか、二つに一つの選択を迫る最後通牒」であり「なぜこの時期に、 こんなものを日本につきつけたのか理解に苦しむ」とルーズベルトを批判した。 ② 開戦時、ルーズベルト大統領に対する支持演説をしていた下院議員ハミルトン・フィッシュも、その内容を 知るに及んで一転、次のように激烈なルーズベルト大統領批判を行った。 「議員の誰一人として、戦争になる ことがわかりきった最後通牒をわが政府が発していたとは知らなかった。ルーズベルトはハル・ノートを隠 し続けた。一方ですぐさま天皇へのメッセージ(12 月 6 日午後 9 時)については公開した。アリバイは見事 につくられていた」。「こんなものを突き付けられれば、誇りある国民なら立ち上がるはずだ」と、ルーズベ ルト支持演説を終生の恥とし、ルーズベルトを批判し続けた。 245 即ち、日本に戦争を決断させかねない最後通牒を突きつけた行為は、開戦権限は議会にあるとする合衆国 憲法に違反する、と怒ったのであった。なお、彼は 1976 年「FDR その裏側に潜むもの」を著し、次のよう に書いた。 「あの戦争は必要のない戦いだった。日本政府も国民も戦争を望んでいなかった。わがアメリカ国民も望 んでいなかった。FDR の『恥辱の日』演説は偽善と嘘にまみれていたことが明らかになった」「日本人はあ の戦争を勇敢に戦った。二度と両国に戦争があってはならない。互いの独立と主権を尊重し、未来に向かっ て歩んでいかねばならない」 ③ 終戦後の東京裁判において日本側弁護人ブレイクニーは、米国人歴史家A.ノックの著作から引用し「こん な最後通牒を出されたら、モナコやルクセンブルグでも武器をとって立つ」と言ったほどの高圧的なもので あった。 同日、米太平洋艦隊のキンメル司令長官は、スターク海軍作戦部長から突然、空母「エンタープライズ」 と「レキシントン」で陸軍の戦闘機をウェーキ島とミッドウェー島へ運ぶよう命じられた。ただし、キン メルは日本軍の動きを知らされておらず、開戦直前にもかかわらず全く「ツンボ桟敷」に置かれていた。 その命令により、28 日に「エンタープライズ」 (ハルゼー中将指揮。敵艦追撃のための海兵隊機 12 機 を搭載)が巡洋艦などの 11 隻の新鋭艦よって護られてウェーキ島へ向け出港した。さらに 12 月 5 日、 「レキシントン」 (戦闘機 18 機を搭載)が 8 隻の新鋭艦よって護られてミッドウェー島へ向け出港した。 真珠湾内に残されたのは、戦艦アリゾナなど 16 隻の老朽艦(うち1隻は廃船ユタ)だけで、ほとんど は艦齢 27 年に達する、第 1 次大戦当時の「遺物」であった。 キンメル太平洋艦隊司令長官に知らせなかった理由は、米軍の索敵行為のせいで日本艦隊が真珠湾攻撃を断念し、 その結果「日本に最初の一撃を打たせる」という戦略が水の泡になることを恐れたからであった。日本の連合艦隊 にとっては、千島から出発してハワイを叩き、全艦が無事に帰港するということは大変な冒険であった。 索敵行為をとれば真珠湾攻撃を防げたにも拘わらず、そうしなかったのは、ルーズベルト大統領は、日本の行為 を“だまし討ち”として自国民を怒らせ、参戦(特に対独)に駆り立てるとともに、世界史にアメリカの正当性を 残そうとしたからである。 (以上、ロバート・スティネット「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」より) キンメル司令長官は、日本軍によるハワイ攻撃を想定して幕僚に攻撃に備える計画を策定させ、海軍作戦部長ス タークに防衛力の強化を進言していた。また、11 月 24 日にはその計画に沿った模擬攻撃に備える予行演習まで実 施していた。しかし、同司令長官はルーズベルト大統領による「日本に最初の一撃を打たせる」戦略遂行メンバー からは完全に外されていた。 ハワイ防衛の責任者であったキンメル太平洋艦隊司令長官とショート陸軍司令官は 12 月 16 日、ルーズベルト大 統領によって「職務怠慢」のかどで罷免された。キンメルの後任として太平洋艦隊司令長官には W.パイ中将が任命 され、交替後に「マジック」 (11 月 7 日の項参照)をはじめとする情報がホノルルに送られるようになった。 なお 1942 年、ハワイ防衛に関し連邦最高裁判事 O.ロバーツを委員長とする真珠湾調査委員会が組織され、当時 のキンメル司令長官とショート陸軍司令官を職務怠慢とする報告書を提出した。しかし、その後陸海軍とも 2 人の 名誉回復をめぐる調査委員会を立ち上げ、海軍査問委員会は 44 年、キンメル司令長官には“何らの責任も認めら れない”とし、スターク作戦部長については“重大な情報を現地ハワイに送らなかった”として、その責任を追及 した。 これに対し、スタークは「私の良心には一点のやましさもない。なぜなら自分の一切の言動は上司の命令によっ 246 てコントロールされていたからだ」と言明した。 (以上、堤堯「魔都・上海の街で考えたこと」18 雑誌 WiLL 2013 年 10 月号より) 11 月 27 日 午後、東京にハル・ノートがもたらされた。その日のうちに政府大本営連絡会議が開催されたが、出席 者のだれもが“受諾不可能な条件”であることを認めざるを得なかった。 陸海軍としては、陸軍の先人たちが獲得した権益を失い、それを自らの時代に解体させてしまうことを恐れた。 なお会議の途中で海軍統帥部は、開戦意図を内外に秘匿するため東郷外相に対し「戦争に勝てるように外交交渉 を尽くすよう」求めた。 東郷外相は「開戦時期が分からなければ外交はできない。」「アメリカは東亜の現実を見ない。しかも自らは容易 に実行しない諸原則を日本に強要する。我が国の譲歩にもかかわらず、その主張を一歩も譲らない。したがってハ ル提案は受け入れられない。これを交渉継続しても、わが国の主張を通すことは不可能だ」と応酬した。 こうして、全員一致で開戦と決した。 同日、アメリカでは、ルーズベルト大統領は“戦時内閣” (大統領、国務長官、陸・海軍長官、陸軍参 謀総長、海軍作戦部長で構成)会議の場で各員に「まもなく日米間の主役は、君らになるだろう」と伝え た。ハル国務長官もスチムソン陸軍長官に「私はもう手を引いたから、問題は君とノックス(海軍長官) の手に移った。 」と述べた。 同日、マーシャル参謀総長名で陸軍 15、海軍4の指揮命令系統に以下の打電がなされた。それは戦争 警告でありながら、 “日本が明白な武力行使に訴えるまでは攻勢作戦を実施するな”というもので、太平 洋艦隊の手を縛るものであった。 「数日のうちに日本の攻撃が予想される。日本の兵員数・装備や機動部隊の編成からフィリピンかクラ 地峡もしくは多分ボルネオに対する水陸両用作戦が示唆される」 翌 28 日、電報の不備に気付いたスターク海軍作戦部長が、キンメル大将(最優先で)、及び各地の太 平洋沿岸海軍辺境地区の司令官たちに次の訂正電報を打った。 「戦闘行動を避けることができない。であれば、日本が最初に明白な行為をとることを希望する」 (ロバート・スティネット「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」より) 11 月 28 日 閣議が開催され、ハル・ノートの内容からすれば「アメリカの意図は満洲事変以来の大陸政策による一 切の成果を根底から剥奪することにある」とし、これを「最後通告」と受け止めてアメリカとの開戦を決 定した。 政府はハル・ノートを公表しなかった。後にその理由を訊かれた東條首相は「公表すれば、国民は受け 入れるだろう。そうすれば、シナ戦線で散った十万の英霊に申し訳ない」と答えた。 11 月 29 日 天皇のご希望により東條首相以下歴代首相経験者 8 名及び原嘉道(枢密院議長)を召集し、重臣会議 が開催された。このうち戦争に賛成したのは阿部信行と林銑十郎の陸軍組と広田弘毅の 3 名だけであっ た。 陸軍組の賛成理由は 11 月上旬より前線部隊の 20 万人が乗船を開始しており、中止させることが事実 247 上不可能だからであった。 反対した 6 名のうち海軍組の岡田啓介、米内光政については、ハワイ作戦を知らされていなかったか らと推測される。すでに予備役に退いており、情報が一切断たれていたからである。 僅か 3 名の賛成だけであったが対米開戦に向けて議案を次のとおり決め、12 月 1 日に御前会議を開い て天皇の聖断を仰ぐこととした。また、独伊と単独不講和協定を結ぶ交渉を開始することも決定した。 [対米英蘭開戦の件] 11 月 5 日決定の「帝国国策遂行要領」に基づく対米交渉はついに成立するに至らず、帝国は米 英蘭に対し開戦す。 直ちに統帥部で開戦の戦略を立てたが、日米開戦決定のことは米国駐在武官には報せなかった。 この頃、日米双方とも相手国の暗号を解読できるようになっていた。日本が暗号を解読していることを知ったア メリカは、日本がハル・ノートを「最後通告」と受けとめ、戦争への決意を固めるよう狙い、ハルはグルー宛てに 「アメリカ政府は暫定協定案を提示しないことにした」という意味の電報を打った。まさに、その通りになったの である。 また、イギリス政府も日本海軍の JN-25 暗号を解読していた情報部から 12 月 2 日までには“日本が 12 月 7 日 に真珠湾を攻撃するだろう」との情報を得ていた。 (ラスブリッジャー&ネイツ「真珠湾の裏切り」 ) 日本政府は、ハル・ノートの内容を国内に向けても、国際的にも発表しなかった。しかし、朝日新聞をはじめと してマスコミは、もっぱらドイツの破竹の進撃を書きたて、 「バスに乗り遅れるな」と日米開戦を煽っていた。 なお、日本の大使から、日米開戦に際しては三国同盟の関連条項に照らして、ともにアメリカに対して宣戦布告 するよう求められたイタリアのチアノ外相は、面会後の日記(開戦目前の同年 12 月 3 日づけ)に次のように書い た。 「この新事態は何を意味するか。アメリカ国民を直接いまの世界大戦に引き込むことのできなかったルーズベル トは、間接的な操作で、すなわち日本がアメリカを攻撃せざるを得ない事態に追い込むことによって、大戦参加に 成功した」 事態はまさに、コミンテルン及びルーズベルトの狙いどおりに進んだ。 同日、駐独大使大島浩が本国に「リッペントロップ外務大臣は、日本がアメリカと戦争に入ったとき は、ドイツは直ちに参戦すると確約した」と打電したのに対し、本国からベルリンの大島大使に「情勢は 最も危険な段階に達し、日本とアングロサクソン諸国との戦争は予想よりも早い時期に勃発するであろ うとドイツ側に伝えよ」と返電したのがアメリカ側に傍受され、解読された。 この情報は 12 月 1 日にルーズベルト大統領に報告された。これによってルーズベルトは日本と戦争に 入ればドイツとも戦えるということを最終確認した。 12 月 1 日 全閣僚出席の御前会議が開催され、対米英蘭開戦の議案が可決された。このときは、天皇は何も話され ずに裁可し、日米開戦が事実上決定した。 会議の終わりに原枢密院議長は次のような所見を述べた。 「米国の態度は蒋介石の言わんとするところを言い、理想論で、唯我独尊、頑迷固陋だ。これを忍ぶな らば、満州事変の結果を放棄するばかりでなく、日清、日露戦争後の成果をも捨て去ることになり、4 年 以上の支那事変を克服してきた国民に対し、さらにこの上相当の苦難に堪えしむることは忍びない。従 248 って先の御前会議の決定どおり開戦も止む無き次第と存じます」 日米開戦に反対という天皇のお気持ちを知っていた東條は、開戦前夜、寝室で皇居に向かって正座し、長い間号 泣した。 同日午後、陸軍では作戦実施命令、海軍では作戦任務命令が下令される。陸軍では、この日以降届いた 外国からの電報を 15 時間遅らせて政府に届けることとした。 翌 2 日に大本営政府連絡会議は陸海軍作戦部隊に対し、12 月 8 日を期しての進攻作戦開始または武力 発動の命令を下した。これを受けた山本連合艦隊司令長官は「ニイタカヤマノボレ 1208」の電報を連合 艦隊に送った。 山本連合艦隊司令長官が発した「ニイタカヤマノボレ 1208」の電報は 12 月 2 日午前 1 時 30 分にハワイ無線監 視局 H 局で傍受された。受信した通信兵は通信解析日誌に記入のうえ諜報網に流したが、次の段階で握りつぶされ た。ただし、その英訳版は、1979 年、カーター大統領により公開された。 山本司令長官が発した電報を受けて、第 4 艦隊司令長官井上成美が 12 月 4 日、指揮下の 10 部隊に宣戦布告が近 いことを知らせた無電もハワイ無線監視局 H 局で傍受されていた。 さらに、12 月 7 日、山本司令長官が天皇の勅語電を添えて軍の作戦意図を発表した電報は、ハワイ時間で 12 月 6 日 8 時 30 分までに7回傍受されていた。 しかし、これらの電報は通信解析日誌に残っているものの、いずれもキンメル司令長官には届けられなかった。 (ロバート・スティネット「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」より) 戦争に対する日米の違い 日本 政策決定が軍主導で、場当たり的。 米国 周到な準備で国民を結集した。開戦後も、この戦争を「民主主義の生存戦争」と呼んで、 国民に資金協力を求めた。 第 7 部 昭和-4(日米開戦と戦況の推移) (日米開戦) 12 月 4 日 大本営政府連絡会議において東郷外相が、アメリカに外交打切通告を行うことを提議し、陸海軍統帥 部は不満ながらもこれを認めた。通告を先方に渡す日時は、作戦計画における開戦予定のワシントン時 間 12 月 7 日午後 1 時 30 分の 30 分前と定められた。ただし、東郷外相は真珠湾攻撃について全く知ら されていなかった。 12 月 5 日 モスクワに迫っていたドイツ軍がソ連軍に大敗北を喫し、ヒトラーが攻撃中止を命じた。しかし、その 事実が日本の新聞に載ったのは真珠湾攻撃直後の 12 月 8 日朝刊であった。 アメリカでは、この日のシカゴ・デイリー・トリビューン紙朝刊(12 月 4 日号)の第 1 面トップに 「1,000 万人動員、500 万人派兵」という陸軍戦争計画が掲載された。これはルーズベルト大統領がマー シャル参謀総長に立案させていた対独参戦計画がすっぱ抜かれたものであった。 そのことをマーシャル参謀総長の懐刀として同計画立案に携わっていたウェデマイヤー将軍(当時は 陸軍参謀本部付中佐)が後に回想録「第二次大戦に勝者なし」 (講談社学術文庫)の中で事実として「第 249 2 次大戦は計画し、管理し、そして実施された」と明白に述べた。 この陸軍戦争計画においては、「新軍需生産は、アメリカ経済の 65%を戦争遂行に振り向けねばならない」とさ れており、途方もない計画であったが、真珠湾攻撃により始まった日米戦争、対独参戦=ヨーロッパ、アフリカ、 アジアにわたる全面戦争のため、概ねこれに近い形で実行された。 この記事については、日本軍による真珠湾攻撃を間近にして、ルーズベルト大統領の意向によって行われた“国 民の戦意を煽るための意図的なリーク”ではないかとの指摘がある。 なお、日本のシカゴ領事館では、書記官(領事はニューヨーク出張で不在)がシカゴ・デイリー・トリビューン紙 の記事を見ていながら、東京(外務省)へは打電しなかった。 12 月 6 日 大本営政府連絡会議において、外務省が対米通告文並びに発電及び通告の日時について報告をし、了 承される。 1 号電=予告電、2 号電=14 通に分かれた通告文、3 号電=覚書手交時刻の指令。 1 号電と 2 号電のうちの 13 項目は、直ちにワシントンの野村大使宛に打電された。14 項目目は、ハル 国務長官から回答をもらうための文書であり、後刻送付とされていた。 この日の夜(ワシントン時間) 、電文の書き出し部分を解読によって読んだルーズベルト大統領は、い よいよ事態の切迫を知り、突如側近に日本の天皇あて親書を送ることを表明し、同電は、午後 9 時(日本 時間で 7 日午前 11 時)ごろ、日本に向けて発信された。この後、マーシャル統合参謀総長はどこかに姿 を隠した。 12 月 7 日 ワシントン時間午前 4 時、日本外務省が発した対米通告電 2 号電第 14 項目が傍受され、直ちに解読さ れた。それには、ハル国務長官への回答手交時刻を「7 日午後 1 時」 (=ハワイ時間午前 8 時)と指定し ていた。そのため、事態急転の近いことをハワイに知らせようと部下がマーシャル統合参謀総長を探し 求めたが、所在が分からないため連絡に手間取ったばかりか、報告を受けたマーシャルはハワイのキン メル太平洋艦隊司令長官への警戒指令を急ぐことはなかった。 このため、キンメル大将にマーシャル統合参謀総長からの警戒指令が届いたのは日本軍による真珠湾 攻撃が始まった後のことであった。 (堤堯「ある編集者のオデッセイ 上海の街を歩きながら考えたこと」 WiLL 2013 年 12 月号より) 12 月 8 日 午前零時過ぎ、グルー大使がルーズベルト大統領から天皇にあてて「アメリカ国民は平和を願い…」で 始まる親電を東郷外相に届けた。東郷はこれを午前 3 時に皇居に届けた。しかし、交渉妥結に向けての 新しい提案は何一つなかった。 このルーズベルト大統領の親書について、後にスチムソン国務長官は「戦争回避の努力を見せるポーズとしての 価値しかなかった」と証言した。即ち「日本がだまし討ちをした」との証拠づくりのひとつにすぎなかったのであ る。 なお、グルー大使が親書を受け取ったのは、東京の中央電信局が受け取ってから 10 時間半も経った 7 日午後 10 時半であった。親電は中央電信局の中で差し止められていたのである。 250 南雲司令官が指揮する連合艦隊機動部隊の空母から飛び立った第 1 次攻撃隊 183 機が日本時間午前 3 時 30 分(ハワイ時間 12 月 7 日午前 8 時、ワシントン時間は同日午後1時 30 分)ハワイ真珠湾の米海 軍基地を攻撃した。 (参加した艦船については、11 月 22~24 日の項参照。この機動部隊に本土から出撃した第 1~第 3 潜 水部隊及び特別攻撃隊が加わった。 ) 午前 9 時前には第 2 次攻撃隊 167 機が飛来して戦果を拡大した。 2 次にわたる攻撃により戦艦アリゾナ(火薬が爆発)乗組員の 9 割近い約千人の将兵が戦死したのを含 め、米側の死者は約 2476 人、負傷者は 1200 人弱であった。 死者のうち民間人は僅か 68 人であったが、これは、日本軍が国際法を守って攻撃対象を軍事施設に限 り、一般住民を巻き込むことは一切しなったからであった。 米軍の損害は次の通りであった(旗艦ペンシルヴァニアは損傷なし) 。戦闘機など航空機も 311 機が破壊された。 沈没した戦艦:カリフォルニア、ネバダ、ウエストバージニア、アリゾナ、オクラホマなど 6 隻 (なお、予め標的艦に偽装されていた廃艦のユタは、この中に含まれていない) 同 駆逐艦:カッシン、ダウンズ、ショウ 他に軽巡 3 隻、機雷敷設艦オグラなど補助艦 4 隻 これはアメリカにとって未曾有の被害であり、国民は激昂した。効果は、ルーズベルトの期待以上のものとなっ た。ルーズベルトは 3 日前のシカゴ・デイリー・トリビューン紙のすっぱ抜き記事により窮地に立っていたが、日 本軍の“真珠湾奇襲”により救われた。 なお、アメリカ側の損害が大きかったとはいえ、予め外洋に避難していた 2 隻の空母と 19 隻の重巡洋艦は無傷で あったばかりでなく、陸上の貯油タンク、機械工場、修理工場や発電所、高圧電力供給網への攻撃はなかったため、 軍港としての機能や工業基盤は保持されたままであった。 したがって、日本軍としては「ハワイの太平洋艦隊を行動不能にして、パラオの南洋庁と内地の航路の安全を図 る」という目的を果たしたとは言えなかった。また、日本側も未帰還機が 10 数機あった。 攻撃直前、南雲司令官のもとに、敵空母不在という情報が入った。しかし、主任参謀・草鹿龍之介が「戦艦 3 隻 は空母 1 隻に相当する」との持論を展開し、攻撃決行と決した。南雲、草鹿には「大鑑巨砲主義」による迎撃作戦 が染みついていて、以後の戦いの勝敗を決する航空戦の重要性についての認識がなかった。 日本は開戦前に届くようハル国務長官に対し外交交渉の打切通告文を発し(打切りの時刻はワシント ン時間 12 月 7 日午後 1 時) 、宣戦布告。これにより、日本は米英蘭3国及びシナ・重慶国民党政府の 4 カ国と戦争状態に入った。 アメリカは、直ちに日本に対して宣戦布告を行い、3日後の 12 月 11 日、ドイツ、イタリアに対しても宣戦布告 を行った。 7 日(日曜日)朝(アメリカ現地時間)、外交交渉の打切(宣戦布告)の最終電=14 項目目を受け取っ たワシントンの駐米大使館(大使は、野村吉三郎、来栖三郎)では、1 台しか残っていない解読機を使っ て解読を行うも、米国への通告が1時間遅れ、攻撃開始後に通告することとなった。外務省は、組織防衛 のためこの通告遅れを庇ったため、日本の国家イメージに長らく打撃を与えることとなった。 (宣戦布告の遅れの問題) この通告遅滞は、アメリカにおいて「日本側官邸によって行われた失態の中で最も高価についたものの一つ」と 251 言われた。一般には、事務遅滞(タイプの未熟により清書が遅れた、あるいは週末で館員の出勤が遅かったなど) が、その原因と言われている。 しかし、国会図書館に保管されている公電原文によれば、当該電報は「14 項目が4通に分割打電」されていたが、 核心部分である「日米交渉の打ち切り」を明記した 14 項目目は、外務省から大使館への打電が意識的に遅らされ た(13 項目目が届いてから 14 時間後) 。 ために、これを待っていた駐米大使館員は午前 3 時、休憩のため帰宅して休憩をとるよう上司から指示されたと いう証言がある。これによれば、軍の決めた計画に従って秘密保持のため 14 項目目の打電を意識的に遅らせた外 務省の本省に責任があるとも言える。軍部は何よりも奇襲に固執していたからと推測される。 そのため、後に外務省では職務遅滞について館員に責任を問うことはなく、譴責等を行わなかった。当時の館員 のうち、井口貞夫参事官、奥村勝蔵1等書記官の2名は戦後の、外務事務次官にまで出世し(井口は 1951 年年初、 奥村は 52 年 10 月。なお、講和条約の会議は 51 年 9 月に始まった。 ) 、松平康東書記官は国連大使に任ぜられた。 なお、ルーズベルト大統領の親書が中央電信局において差し止めたのは陸軍参謀本部通信課の少佐戸村盛雄であ ったが、参謀本部(とくに瀬島隆三)からの支持のもとに行われた。 ハル・ノートに対する日本側の最終回答電(14 項目目)の発電を 14 時間遅らせたのは作戦課(課長・服部卓四 郎、班長・辻政信、班長補佐・瀬島隆三)の関与があったという状況証拠が認められている。 (アメリカの対応) 日本の宣戦布告通告の遅れはルーズベルト大統領によって最大限に利用され、米国民に日本への強い報復観念を 植え付けてしまった。それは「Remember Pearl Harbor!」 が世論になったことに象徴されている。真珠湾「奇襲」 は、アメリカ人からは騙し討ちと受け取られ、アメリカの世論を完全に敵に回し、米国民の志気をいやがうえにも 高めることとなった。 なお、暗号解読により真珠湾攻撃を察知していたアメリカは、2隻の空母を遠く離れた海域に避難させていたた め、無傷で残った。以後、対日戦においてアメリカは、大艦巨砲主義を棄て、空母中心の戦略をとるようになり、 かえって優位に立つようになった。 (アメリカによる日本の対米宣戦電報傍受) 日本の対米宣戦電報は、それまでの艦隊行動に関する電報同様、アメリカ陸海軍暗号解読班がこれを傍受し、解 読、翻訳していた。それは、野村大使に届く前のことであった。 日本の宣戦布告通告電のうち 13 項目目までは、ワシントン時間 12 月 6 日午後 3 時までに傍受され、翻訳のうえ 午後 9 時半にはルーズベルト大統領に届けられ、大統領はその全てを読んで「これは戦争を意味する」と言った。 最後の 14 項目目は午後 9 時半から翌 7 日午前 10 時までの間に解読と翻訳を済ませ、ホワイトハウスに届けられ た。ルーズベルト大統領はこれを読んでも何も発言しなかった。 しかし、野村、来栖両大使が最終回答を手渡したとき、ルーズベルト大統領は先刻知っていた回答文を読むふり をしながら「私の職歴で、これほど破廉恥な文書を見たことがない」と悪罵の限りを尽くし、両大使に身振りで部 屋から出ていくよう促した。 このようにアメリカ政府首脳は、暗号解読情報により、一切の電報を日本大使館より先に知っていたが、そのこ とを徹底的に隠した。 大統領の命の下、真珠湾の無線監視局長ロシュフォート少将は傍受した日本海軍の接近情報を太平洋艦隊司令長 官キンメル大将(すぐ近くに居た)に全く知らせなかった。ロシュフォートは後に「(真珠湾での損害は)米国を(戦 争介入に)統一するためにはきわめて安い代価であった」と述べた。 252 「真珠湾攻撃」10 日後の 12 月 16 日、ルーズベルト大統領はキンメル太平洋艦隊司令長官を解任し、大将から少 将に降等させた。 12 月 19 日、上院議員の中から、真珠湾が全く無防備だったことへの疑問の声が起こり、議会内に調査委員会設 置の要求が発せられたため、ルーズベルト大統領はこれを拒否して連邦最高裁判所のロバーツ判事を委員長とする 5 名の委員を指名して調査に当たらせた。 ルーズベルト大統領が 1942 年 1 月 24 日に受け取ったロバーツ調査委員会報告書には「日本の攻撃が成功した原 因はキンメル太平洋艦隊司令長官とショート陸軍司令官の判断ミスにあった」と結論付けられており、両名は職務 怠慢の罪に問われた。しかし、その調査においては徹底した調査が行われず、日本海軍の電報傍受についても公然 と議論されず、傍受電信員はだ一人証言台に立つこともなかったのである。 既に 12 月 11 日、日本の軍事及び外交暗号電報並びにそれらに関連した指令を海軍地下金庫に隠匿するよう、命 令が出されていたのである。 後に合衆国艦隊司令長官兼太平洋艦隊司令長官を務めた J.リチャードソンは、1973 年に発表した著書の中で「こ れほど不当で、不公平で、嘘で塗り固められた文書を政府が印刷したことはない。この委員会は名誉ある人物で構 成されているのに、極めて遺憾であり、恥ずかしく思う」と、委員会の結論に強く反対した。 (この項、ロバート・B・スティネット「真珠湾の真実」文芸春秋社) (「宣戦布告なしの奇襲」について) 1907 年ハーグ陸戦条約とともに締結された「開戦に関する条約」第 1 条の宣戦布告条項は、単に開戦儀礼につい て言っているものであり、現に 1916 年、アメリカがドミニカに対して起こした戦争においても、アメリカは宣戦 布告なしに奇襲をかけ占領した。また、第二次大戦でのドイツによるポーランド、ソ連、ベネルックス 3 国侵攻や、 ソ連によるポーランドやフィンランド侵攻も宣戦布告なしの奇襲であったが、いずれも全く問題にされなかった。 ルーズベルト大統領が国民向けの演説において、真珠湾攻撃を「恥辱」とか「破廉恥」などと叫び、激高してみせ たのは、モンロー主義によって厭戦気分にひたるアメリカ国民を扇動し、ヨーロッパ戦線にアメリカが参戦するこ とを決意させるためであった。 (日米戦争=「仕組まれた戦争」という告発) したがって、真珠湾奇襲に始まる日米戦争はルーズベルト大統領によって仕組まれた戦争であると告発する者も いる。同大統領の長女の夫であるカーティス・B・ドールは、 「操られたルーズベルト」という書物を出版し、その 中で真珠湾攻撃の前日、家族との朝食の席で同大統領が「私は決して宣戦布告はしない、私は戦争を造るのだ。明 日戦争が起こる」と述べたという。 また、第 31 代大統領のハ-バート・フーバーも、戦後 GHQ 司令官マッカーサーと会談した際、同司令官に「日 本との戦争は、対独参戦の口実を欲しがっていたルーズベルトという『狂気の男』の願望だった」と批判した。マ ッカーサーもルーズベルトは、41 年夏に日本側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、 「戦争回避の努 力をすべきだった」と批判していた(アメリカの歴史家ジョージ・ナッシュ「裏切られた自由」 ) 。 「戦争を造る」ことを知っていたのは、大統領、ハル国務長官、スチムソン、ノックスの陸海軍長官の 4 人だけ だった。真珠湾攻撃の半年前にスチムソン陸軍長官は、ハル国務長官に「私たちの戦争準備はすべて終わった。あ とは、あなたの出番ですね」と洩らした。アメリカにとって日米交渉は、日本に開戦の決断をさせるためのかけひ きの場でしかなかったのである 253 この後、海軍は東進してソロモン諸島にまで薄く兵力をばらまく作戦をとったが、戦史に明らかなように、アメ リカ軍の反攻に遭って悲惨な戦場を遺すだけの大失敗に終わった。 (真珠湾奇襲作戦の戦略的評価) 1 真珠湾奇襲作戦は、後のミッドウェー海戦とともに連合艦隊司令長官山本五十六が立案し、自らの地位(連 合艦隊総司令官)を賭して政府首脳部・統帥部に実行を迫り、東條内閣成立直後(10 月 19 日と言われる)に承認 をされたものであったが、統帥部が伝統的に練り上げてきた漸減邀撃作戦に反するものであった。 軍令部では、この真珠湾奇襲作戦に大反対であった。理由は、真珠湾にたどり着くまでに敵に発見される危険性 が高い、空母を割り当てる余裕がない、敵艦が真珠湾に在泊していないかもしれない、艦載機による航空攻撃では 軍艦を撃沈できない、などであった。この反対に対し、山本長官は「この作戦が認められないなら、辞職する」と 脅しをかけた。これを聞いた永野修身軍令部総長が「山本長官がそれほど言うのなら、総長として責任を持ってご 希望どおりに実行します」と、山本長官の作戦を認めた。これは 10 月 19 日のことであった。 同奇襲作戦は、緒戦でアメリカに大打撃を与えて戦意を砕き、早期に終戦に持ち込むのを狙いとしたが、実際に は湾内の米軍艦船に大きな打撃を与えたものの、これらは旧式の艦船で、空母はゼロであり、しかも陸上の海軍修 理工廠・ドック、燃料タンク群などを攻撃対象としなかったため、これらの重要施設は無傷のまま残った。したが って、米軍の作戦行動に支障となる大きな損害はなかった。その上、逆にアメリカ国民の抗戦意識を高めるという 結果をもたらした。 日本の機動部隊の中には、陸上施設の破壊が必要だと考えていた者もいた。山口多聞(第 2 航空戦隊司令官)で あった。第 2 波攻撃として、重油タンクなどの破壊を進言したが、南雲忠一機動部隊司令長官、草鹿参謀長によっ て斥けられて応答がなかったため、山口第 2 航空戦隊司令官はやむなく断念した。なお、山口多聞による「では、 差し違え覚悟でも、近くの空母を攻撃すべし」や源田実による「あくまで敵空母を探し求めてこれを仕留めるべき だ」との進言や「帰途ミッドウェーを空襲すべし」との戦略上の進言も全て南雲司令長官に斥けられ、敵に大打撃 を与える機会を逃した。南雲は指揮下の艦船の無事を心配するあまり、帰途の敵襲を過度に恐れ、 「緒戦の目的は十 分に達せられた」として聞き入れなかった。 米太平洋艦隊のニミッツ司令長官は戦後、「日本軍は燃料タンクに貯蔵されていた 450 万バーレルの重油を見逃 した。この燃料がなかったなら、艦隊は数カ月にわたって真珠湾から作戦を行うことができなかっただろう」と書 き残した。 2 資源獲得戦略として、むしろ蘭印の油田地帯を「保障占領」=油田地帯と輸出港を確保することのみに限定 した軍事行動=をすべきだったという指摘がある。当時の国際規範からすれば突飛な行動とはいえなかった。オラ ンダはドイツに占領されてロンドンに亡命政権を樹てていて、植民地経営もその防衛もできる状態ではなかった。 前例としては、前年の英軍によるアイスランド占領で(翌年には米軍も加わった) 、英米の軍事行動への協力を強 制するためのものであった。また 41 年に入って英軍が石油確保と親英政権樹立に向けイラクを占領し、8 月には英 ソ両軍がドイツに先手を打ってイランを占領した。 軍令部と参謀本部との作戦は、まず海軍による真珠湾奇襲攻撃と陸軍によるシンガポール(イギリスの アジア支配の拠点)攻略で、山下奉文中将率いる陸軍第 25 軍が 12 月 8 日午前 6 時 55 分、マレー半島 東岸コタバルに上陸した。 台湾を基地とする海軍航空隊も、この日の午後アメリカが支配するフィリピンの米軍基地を爆撃し、米 254 軍機を壊滅させた。 シナ大陸では、直ちに上海、天津の英仏租界を武力接収し、25 日には連合軍の需要拠点である香港を も攻略した。 この時点での日本軍の兵力は、陸軍約 200 万人、海軍の戦艦 106 万トンであった。 日米開戦の報を受けて、首相官邸には多くの国民から「よくやった」との電話が鳴りやまなかった。東 條首相は「大衆は自分の見方なり」と開戦決定に自信を深めた。 真珠湾が攻撃されたとの報を受けたルーズベルト大統領は、翌日日本への宣戦布告の承認を求めたこ とから開催された議会両院総会の壇上から次のようにアメリカ国民を煽った。 「わがアメリカはだまし討ちを受けた。今日、この日は屈辱の日だ」 これにより国民の 8 割を超えた避戦論は一挙に吹き飛ばされ、演説を終えたルーズベルトは、いかに も満足げにこみ上げる笑いを抑えながらどっかりと椅子に座っていた。ルーズベルトのこの表情は、記 録フィルムに残されている。議会は満場一致で日本への宣戦布告を承認した。 以降ルーズベルト大統領は、日本に対する敵愾心を煽ろうと反日宣伝を執拗に繰り返した。 同日中に、ルーズベルト大統領は駐米ソ連大使のリトヴィノフに対日参戦を要請した。これを受けてス ターリンはイーデン英外相に「将来対日戦に参加する」と仄めかした。 チャーチルも真珠湾奇襲攻撃の報を聞いて、アメリカの対日は勿論のこと対独戦への参加、その結果と して戦勝を確信した。 チャーチルは、この時のことを回想録に「イングランドは生き残るだろう。ヒトラー、ムソリーニの運命は決ま ったのだ。日本は粉々に打ち砕かれるだろう」と書いた。 飛行機による大西洋初横断で有名なリンドバーグは「兄弟げんかのような戦争に加わるな」と非戦論を唱え、国 民の支持を集めていたが、リンドバーグの論とて、相手が白人でなく有色人種であれば、否応なく参戦することに 同意していた。 この日、ヨーロッパ東部戦線では、3日前にソ連軍に大敗北を喫したドイツ軍が退却を始めた。 一方重慶では、日米開戦の報せを聞き、重慶国民党政府の役人たちが大勝利を博したかのように大喜 びし、蒋介石はソ連大使とアメリカ大使に、日独伊に宣戦布告を行う旨伝えるとともに、ソ連にも直ちに 対日参戦するよう要請した。 12 月 9 日 重慶国民党政府が正式に日独伊 3 か国に宣戦布告を行った。 12 月 10 日 真珠湾攻撃の 5 時間後から日本軍はグアム島を攻撃していたが、この日アメリカ軍が同島を放棄、退 却したため、日本軍が占領、名を「大宮島」と改めた。以後、昭和 19 年 8 月に奪還されるまで 2 年 7 か 月の間、日本が占領・統治した。 12 月 11 日 日米開戦を知ったヒトラーは 3 日間考えた上で、この日アメリカに対し宣戦布告を行った。これによ ってまさにルーズベルトの思うつぼとなり、アメリカは対独戦を開始、英軍を支援した。 すなわちルーズベルト政権は、日本に最初の一撃を撃たせることによって、欧州大戦に参戦し、英米を 255 助け、独・伊を撃破するという大戦略に成功したのである。 ヒトラーは第一次大戦時、陸軍伍長として従軍しており、アメリカの参戦によって勝敗が決したことを体験して いた。それなのに、なぜアメリカに対し宣戦布告を行ったかについては、歴史の謎とされている。 一方アメリカについては、ワシントン駐在の日本海軍武官・横山一郎は真珠湾攻撃に先立って本国に向け「アメ リカには両洋作戦の能力あり」と警告を発していた。アメリカの戦争に向けた軍備拡張を部下に偵察させた結果の 報告であったが、大本営からは無視された。 (その後の蒋介石政権及び米側の対応) 12 月 30 日、蒋介石がアメリカに 5 億ドル、イギリスに 1 億ポンドの借款を申し込む。 12 月 31 日、ルーズベルト大統領が蒋介石にシナ戦区連合軍最高司令官に就任するよう要請し、蒋介石も異議な く承諾。 17 年元旦、蒋介石が「軍民同胞に告げる書」を発表し「日本が太平洋戦争を発動したのは(中略)理性を失った 狂気の行動である」と書いて、抗日の志気を鼓舞した。 同年1月、ワシントンにおいて米英ソ中 4 カ国を中心に 26 カ国が「連合国宣言」を発し、日独伊の同盟国に敵対 することを宣言した。蒋介石が連合国シナ戦区最高司令官に任命され、スティルウェル将軍が同戦区参謀長として 派遣された。 これにより、重慶国民党政府は連合国の一員としての認識を内外ともに深めることとなるとともに、日中戦争に おける勝利を約束されたも同然となった。その延長上には、同政府は連合国安全保障理事会での常任理事国になる という大役も約束された。 17 年 2 月 2 日、アメリカ議会が重慶国民党政府への 5 億ドルの借款を承認した。イギリス政府も、5千万ポンド の借款の決定を顧維釣大使に通告した。 18 年には米英と重慶国民党政府との間の不平等条約が撤廃され、治外法権も放棄された。 12 月 11 日~21 日 11 日、ウェーク島攻略戦開始。 開戦と同時にウェーク島(米海兵隊 1 個大隊が配備されていた。配備された人員は守備隊 522 名、民 間人 1,236 名)攻略を目指して、海軍陸戦隊計約 970 名の他、多数の艦船を動員した日本軍は、米戦闘 機(F4F)8 機を破壊・使用不能にしたものの砲台からの射撃や残った F4F 4 機の逆襲に遭って駆逐艦疾 風、如月を撃沈されるなど手痛い損害を負って上陸を断念した(13 日、クェゼリン環礁に帰投)。 21 日、日本軍が、戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機数十機を動員してウェーク島への第 2 次攻撃を開 始したが、またもや F4F 4 機の逆襲に遭い、苦戦を強いられた。23 日、ようやく上陸を果たした陸戦隊 も、猛烈な反撃を受けて小隊全滅の損害も出した。 そんな中、舞鶴特陸一個中隊のうちの決死隊が米軍司令官カニンガム中佐を捕虜とするというの働き により戦局を打開し、残った兵士に降伏を勧めた結果、同日中に日本軍は同島を占領した。 しかし、日本軍の損害は大きく、戦死者は少なくとも 469 名に及んだ(アメリカ側発表では 820 名)。 これに対し、アメリカ側戦死者は 122 名(行方不明 2 名を含む)に過ぎなかった(日本軍の捕虜となった 者は約 1200 名) 。 日本は同島を大鳥島と改称し、陸海約 4000 名の守備隊を置いた。 256 12 月下 友好国タイに基地をおいた日本軍軽爆撃機が国民党軍駆逐のため飛行しているとき、昆明に基地をお いたアメリカ合衆国義勇軍(=フライングタイガーズ。シェンノートが率いた米軍現役パイロット 100 人による国民政府軍籍の空軍で、前年に設立された。)の戦闘機と遭遇し、3機が撃墜される。以後、日 本軍は偵察機の飛行にとどめた。 (戦時体制) 12 月 18 日 言論出版集会結社等臨時取締法が成立。集会・結社は政府の許可制としたことにより、軍部、政府、官 僚に都合の悪い演説会や結社を一切許可しないこととした。また、人心惑乱罪を設け、戦争反対や政府攻 撃をできないようにした。 翌 17 年 4 月の衆議院議員総選挙において、翼賛選挙と称する官製推薦選挙を行い、その結果「翼 賛政治会」と称する政党をつくり、上記法律によって翼賛政治会以外の全ての政党を解散させた。そ の結果、議会は東條内閣の御用機関となった。 18 年 2 月の国会において戦時刑事特別法を改正し、倒閣運動を行ったものを厳罰に処すこととし た。また、国政変乱罪を設けて軍部や政府への攻撃を罰することとした。この立法に反対し内閣打倒 運動を行った者は国会議員といえども逮捕された。東條の強敵であった中野正剛は憲兵隊に捕えら れた際、割腹自殺した。 なお中野正剛は、言論出版集会結社等臨時取締法成立直後から「このまま進めば、遂には日本が戦 争に負けて大混乱の中、共産革命が起きる」と恐れ、シンガポール陥落直後の 17 年 2 月 17 日、海 軍の長老・中村良三大将らと会合し、 「即時休戦・全面講和」の方策について協議した。イギリスの 有力筋とも意を通じたうえでの工作であった。 中野正剛は近衛前首相と東久邇宮元参謀本部長へ、中村良三は海軍首脳部へと手を打つ申し合わ せをしたが、海軍としても破竹の勢いを自認している陸軍に対して言い出すのは困難で、結局それら 即時講和への努力は東條首相の怒りの前に無に帰した。 (この項、三田村武夫「大東亜戦争とスターリンの謀略」自由社より) (マレー半島、シンガポール攻略戦-1) 海軍の真珠湾攻撃に対し、陸軍は開戦と同時に 3 つの大作戦を始めた。イギリス領のマレー半島とシ ンガポールの攻略、同じくイギリス領の香港攻略、そしてアメリカ領のフィリピン攻略である。これらの 地域を占領したのちには当面の目的である石油を確保し、すべてが順調に進めばビルマに兵を進める予 定であった。 これらを指揮するために寺内寿一大将を総司令官とする南方軍が組織され、その下に 4 つの軍が置か れた。以下の軍を総動員して広大な地域を一斉攻略する作戦を総称して「南方作戦」と呼んだ。 第 14 軍(本間雅晴中将)…フィリピン攻略 第 15 軍(飯田祥二郎中将)…ビルマ攻略 第 16 軍(今村均中将)…蘭印攻略 第 25 軍(山下奉文中将)…マレー半島とシンガポール攻略 他に香港攻略には、シナで作戦中の支那派遣軍第 23 軍第 38 師団及び重砲連隊が、 グアム攻略には第 55 師団歩兵第 144 連隊を主力とする南海支隊が編成された。 257 16 年(1941 年)12 月 8 日 午前 1 時半(真珠湾攻撃より約 1 時間 50 分早い時刻)、日本陸軍(山下奉文司令官隷下の第 25 軍第 23 旅団侂美支隊)がマレー半島北部コタバルへの敵前上陸に成功し、英国軍の一部インド軍が守る空軍 基地の空港を制圧。午前4時過ぎにはタイ領シンゴラに山下軍司令官ら第 25 軍司令部と第 5 師団主力 が、タイ領パタニにも第 5 師団の一部が上陸した。 上陸した部隊は約千キロのマレー半島を南下してイギリスの大軍港・シンガポールを攻略することを 目標とした。シンガポールには海上からの侵入に備えて大口径要塞砲が備えられていたが、そのほとん どは海上方向に固定されていたので、その背後から攻め入る作戦であった。 上陸した日本軍を孤立させるため、シンガポールに本拠をおく英海軍が同日夕刻、戦艦「プリンス・オ ブ・ウェールズ」と「レパルス」を出撃させ、マレー沖に向かわせた。ただし、空軍基地を失っていたた め航空機の援護がないままの出撃となった。 12 月 10 日 南部仏印ツドウムを飛び立った 85 機の日本海軍航空戦隊が 700km 離れたマレー沖で、英国極東艦隊 の上記旗艦 2 隻を迎え撃ち、両艦とも撃沈させた。両艦の乗組員は同行した駆逐艦に救助されていった が、日本機はこれを妨害しなかったため、量感が失った士官・兵は 30%以下に留まった。報告を聞いた 英国首相チャーチルは「生涯、かくも大きな痛手を受けたことはなかった」と嘆いた。 以後、日本軍はマレー半島一帯の制空権及び制海権を得て、シンガポール攻略に向け、マレー半島を南 下することとなった。 この海戦により、水上艦艇は航空機の敵ではないことが立証された。アメリカは、この海戦から多くを学び、日 本の機動部隊を模倣した「タスクフォース」を本格的に編成し、以降、年を追うごとに充実させていった。米軍は 真珠湾での日本軍から「有効で強力な打撃力」 (ニミッツ提督の言)を学び、さっそく採用した。 しかるに日本では、真珠湾攻撃やマレー沖海戦で機動部隊が目を見張るような戦果を挙げたにもかかわらず、機 動部隊は補助作戦に任ずべきもので、決戦主力は依然艦隊決戦を中心にすべきもの=「大艦巨砲主義」という考え からの戦略転換が遅れた。その理由は、元航空参謀の源田実によれば「 (航空機を重視する戦略に転換すれば)水兵 が職をうしなうため、そのことを水兵に言うのが憚られた」ということであった。 その結果、日本軍は 1 週間ほどで、半島北部の主要都市の占領を果たした。 同日の大本営政府連絡会議において、対米英戦争を支那事変も含めて「大東亜戦争」と呼称することを 決定。 日米開戦に伴いシナ大陸において特に治安の回復を図る地域として「蒙彊、北部山西省、河北省、山東 省の各要域、ならびに上海、南京、杭州間の地域」を指定した。作戦地域については揚子江の交通確保と 武漢三鎮及び九江を根拠地として敵抗戦力の破摧を目的とした地域とした。これらは、13 年 12 月に決 定した治安地域、作戦地域と比較すると大幅に縮小されたものであった。 しかるに、開戦直後の華々しい戦果を耳にした支那派遣軍の阿南惟機司令官が、自分たちも戦果を挙 げようと、独断で指定外の長沙に対する総攻撃を行った。これに対し、国民政府軍が反撃を加え、結果は 日本軍が死者 1591 名、負傷者 4412 名を出して大敗し、17 年 1 月中旬に原駐地に撤退した。 12 月 12 日 タイ領シンゴラに上陸していた第 25 軍第 5 師団先鋒隊が英領マレーに進出し、植民地インドの軍を中 心に対抗した英軍(シンガポールに置き、豪兵、インド兵を含め兵力は約 88,600)を撃破した。その後、 258 自転車部隊を編成し、英軍を追ってマレー半島西岸を南下した。 (香港攻略戦) 16 年(1941 年)12 月 8 日 午前 3 時過ぎ、香港への攻撃開始。香港はシンガポールと並ぶ援蒋ルートの拠点だったので、香港を 制圧すれば、蒋介石軍へも大きなダメージを与えることができると考えられていた。 12 月 9 日 第一砲兵隊が 1 発の砲を打つことなく九龍半島を制圧。 12 月 18 日 第 38 師団 1 万 5 千の兵が香港島への上陸を開始。迎え撃つ英軍は総数 1 万 2 千、大英帝国の面子に かけて 6 カ月は抗戦の予定だった。 12 月 25 日 英軍のヤング香港総督とモルトビー少将がが突然降伏を申し入れて来て、日本海軍が香港を占領。香 港攻略戦は、僅か 18 日で終了した。 英軍の降伏の理由は、日本軍にニコルソン山貯水池を押さえられて水不足が深刻になって、パニックと なった市民が続々と九龍半島に脱出を始め、英軍の士気が低下してこれ以上の抗戦は不可能と判断した からであった。 (米英の戦時体制) 16 年(1941 年)12 月 18 日 米連邦議会が第 1 次戦時大権法を成立させ、ルーズベルト大統領に戦争遂行上必要な大幅な権限を与 えた。同法において検閲違反者に対する罰則は、最高刑罰金 10 万ドルまたは禁錮 10 年、あるいはその 双方とされていた。 12 月 19 日 ルーズベルト大統領は、戦時大権法に基づき合衆国検閲局ならびに検閲政策委員会及び検閲運営委員 会の設置を定めた大統領令に署名した。これによれば検閲局長官は「郵便、電信、ラジオその他の検閲に 関して、全く随意に」職務をしうるものとされた。 同日、日本でも言論出版集会結社等臨時取締法が公布されたが、検閲違反者に対する罰則は最高刑懲 役 1 年に過ぎなかった。したがって、アメリカの方が峻厳な戦時立法を行っていた。 12 月 22 日 チャ-チル首相がワシントンに飛んでルーズベルト大統領と会い、対独反攻について協議した。アメ リカ軍の大動員、イギリス及び北アフリカへの派兵、船舶・航空機を中心とする大増産と補給などで一致 した。 日本については「シナにおける消耗戦争によって長い間伸びきっている。真珠湾攻撃のときにその力 の最大限度にあり、今後は航空機生産も月産 300~500 機の小さな国内生産による以外、消耗を補てんし ていく道はない」と、その末路を見通していた。 このとき両者は、新たな国際組織「The United Nations」 (当時の意味合いからすれば戦勝国連合。日 本の外務省はこれを「国際連合」と訳した。以下「国連」と記す。 )をつくることを決めた(発案は 12 月 9 日、ハル国務長官が行っていた=日本に”最後中朝を突きつけた人物が仲間を糾合するために書いた召 集状が規約の基となった) 。 259 17 年(1942 年)1 月 1 日 ルーズベルト大統領、チャ-チル首相、駐米ソ連大使リトヴィノフ、駐米シナ大使荘子文の 4 人がホ アイトハウスで国連協約の調印を行った。→4 月 25 日の発足時は 51 カ国であった。 2 月 19 日 ルーズベルト大統領が、太平洋岸3州の西半分とアリゾナ州南部に居住する一切の日系人の退去を命 ずる大統領令に署名した。これは太平洋沿岸諸州の上下両院議員が「太平洋沿岸に安全保障地帯を設け、 全ての適性人をこの地帯か即刻退去させる」ことを求めたからであった。 同令に基づき、この年の 11 月までに日系人約 11 万人の強制退去はすべて完了した。なお、当時米国 内に居住していた日系人は 12 万 6 千人であったから、その大半が 10 か所の強制収容所に収容されたこ とになる。 (フィリピン攻略戦-1) 16 年(1941 年)12 月 22 日 本間雅晴中将率いる第 14 軍がルソン島のリンガエン湾に上陸。24 日にはラモン湾に上陸した。 17 年(1942 年)1 月 2 日 第 14 軍は、大規模な戦闘を行うことなく、首都マニラを占領した。 米比軍最高司令官 D.マッカーサーはマニラのオープンシティ宣言を行ってマニラ湾入口のバターン半 島へ退却していた。米比軍は天然の要塞である同半島に 6 カ月の攻防に耐えられるだけの兵器や食糧を 輸送して強固な防御線を構築していた。しかも半島の先にはコレヒドール島という大要塞もあった。 その後、バターン半島やコレヒドール島の攻略は米比軍の頑強な抵抗に遭って多くの兵力を失い、困難 を極めた。 この苦戦は、日本にとって予定外のことであった。 そこで大本営は大急ぎで兵力を強化し、砲兵部隊を次々に送りこみ陸軍始まって以来の集中砲火を浴 びせた。 (マレー半島、シンガポール攻略戦-2) 17 年(1942 年)1 月 11 日 陸軍第 25 軍がクアラルンプルを占領。 同軍は、1,100 キロを作戦開始から 55 日という速さで踏破し、1 月 31 日にシンガポールの対岸ジョ ホールバールに到達。シンガポール攻撃のため終結した。 英軍のパーシバル将軍は全軍をシンガポールに終結させ、徹底抗戦の構えをみせた。 1 月 21 日 東條首相は、議会において「すでに香港を占領し、比島の大部分を確保し、またマレー半島の大半を制 圧し、さらに最近に至っては蘭印の要衝を占領」と戦果を誇った上で、将来フィリピンとビルマを独立さ せるとの決意を表明した。 2月6日 第 25 軍司令官山下奉文がシンガポール島攻略を下令。 2月8日 第 25 軍は水際要塞にすさまじい砲撃を浴びせるとともに、ジョホール水道を渡って第 5 師団と第 18 師団がシンガポール島北岸に上陸を開始した。 260 オーストラリア軍・インド部隊・抗日華僑義勇軍が加わった英軍との間で凄まじい戦闘が行われたが、 オーストラリア軍・インド部隊は厭戦気分が強く投降が相次ぎ、第 25 軍は橋頭堡を確保した。 インド部隊は、戦いに駆り出した支配者・英国への反発から厭戦気分が強かったと言われている。 2 月 15 日 第 25 軍がマレー半島からの上水道をストップするとともに、ブキテマ高地の水源地を抑え、南側の市 街地への進撃をめざしたため、シンガポール要塞の英軍(総司令官:パーシバル)が降伏=シンガポール 陥落。日本軍の砲弾が尽きる寸前であった。 英軍も市街地の給水設備が大損害を受け、食糧もほとんどなくなったというのが降伏の事情であった。 シンガポールを失った英東洋艦隊はその本拠地をセイロン島に移した。 両軍の死傷者は、日本軍が 1 万人弱、英軍側は 2 万 5 千人以上、捕虜は 13 万人以上に及んだ。 このとき、約 5 千人といわれる抗日華僑義勇軍が市民の中に潜入したため、日本軍は掃討作戦を展開 し、捉えた者(民間人も含まれていた)を殺害した。 これは「シンガポール虐殺」と呼ばれ、占領中の犠牲者は、6 千人とも 4 万人(華僑発表)ともいわれる。 シンガポールを奪われたことでイギリスの落日は決定的なものとなったが、その翌日、チャーチル首相はラジオ を通じて英国民に歴史的な演説を行った。 「われわれは、極東の防備には手が回らなかったが」 「国民よ安心せよ。世界最大最強の米国がわれわれとともに 戦うことになった。連合軍の総力は偉大である。領土と人口は世界の 3 分の 2 以上であり、資源、技術力といった 戦争を遂行するための戦力は、敵側に比べて圧倒的に優勢である。これでは負けるようにも負けられないではない か」と。 さらに、直ちに(17 日)戦時内閣を組織したチャーチル首相は国防相を新設し、自ら兼務した。これは、真珠湾 とマレー作戦以来日本軍が連戦連勝を続けていたのは、陸海軍が航空戦を不可分の要素として併用していたからで あると分析して、航空戦力がいかに勝負を決定付けたかを思い知らされたことから、チャーチルが陸海空 3 軍の連 携を強調し、軍の統合を強化するための措置であった。 これに対し、日本軍においては、陸軍と海軍との対立の溝が深くなっていくばかりで、イギリスのような柔軟な 対応ができなかった。しかも海軍においては、当初の空母機動部隊の威力を十分に活用することなく、大艦巨砲主 義から脱却できないまま、その後の戦備、作戦を進めた。 日本軍の南方作戦は事前に十分な検討と準備を重ねての勝利であった。 こうして東南アジア海域を制した日本海軍に対し、ヒトラーは、日本海軍が通商破壊作戦を強化するこ とを求めた。即ち英国の商船を潜水艦によって攻撃することであり、これには日本海軍内で違和感を持 つ将校がいた。 シンガポール攻略を機に「今こそ和平のチャンスです」と進言した腹心の武藤章軍務局長に対し、 “豪 州攻略も容易だ”と考えていた東條首相は却って怒り、武藤をフィリピンに飛ばしてしまった。戦況が有 利なときこそ和平の好機であるにもかかわらず、以降、慢心と油断から日本はどんどん深みにはまって いった。 (蘭印攻略) 蘭印(いまのインドネシア)は、石油を年 800 万トン産出し、鉄鉱石、ニッケル、錫、ゴム、など豊富 な資源に恵まれていた。日本軍の南方作戦の最終目標は、この蘭印を占領し、戦争継続に必要な戦略資源 を獲得することであった。そのため、日本軍はオランダ総督府が置かれているジャワ島ではなく、石油基 261 地が集中するボルネオ島とスマトラ島を先に攻略することにした。 17 年(1942 年)1 月 12 日 第 25 軍の別の部隊が 1 月 12 日にオランダ領インド(蘭印、後のインドネシア)に上陸した。 →戦闘の末、2 月半ばまでにボルネオ島の油田や製油所を占領した。しかし、多くはオランダ軍により破 壊された後であった。 そこで、スマトラ島バレンバン油田地帯に約 400 名の空挺部隊が落下傘で降下、敵戦車にひるまず前 進した。 2 月 20 日 第 25 軍がバレンバン主要製油所を占領。 3月1日 第 16 軍が蘭印の中心地であるジャワ島バンタン湾に上陸し、同島への攻撃を開始。→8 日にオランダ 軍が全面降伏。作戦が極めて短期間に進んだ理由は、住民の協力とオランダ軍の士気低下が、その大きな 要因であった。 住民たちは、日本軍をオランダ軍の圧政から解放してくれる救世主と思い、積極的に迎え入れてくれ た。交戦中に食糧を差し入れたり、 「製油所を破壊せよ」というオランダ軍の命令に背いたり、と日本軍 に協力を惜しまなかった。 3 月 12 日 第 16 軍 4 万人がバタビア(現ジャカルタ。オランダ東インド会社の本拠地)に無血上陸。 第 16 軍の今村司令官は、オランダの植民地支配が恫喝と暴力的であったことに鑑み、原住民、華僑ら に対し温情を基調とする開放的軍政を敷くべく努め、陸軍中央の強圧的な軍政(武藤章、冨永恭次が 5 月 に視察に来て、今村に強制)に一貫して抵抗した。 しかしながら日本の敗戦後、日本兵が数多く戦犯として処刑された。これは、ひとつにはオランダが植民地維持 を意図して見せしめを示したかったからであろうといわれる。また、オランダ人は古くからインドネシアに入植し、 本国との縁が切れてしまっており、そのため引き揚げ者として難儀したことも、その理由のひとつといわれる。 その後、4 万人の第 16 軍は、次々に兵力を引き抜かれ、5 月には 3 分の 1 ほどに減らされたが、その 動員先、作戦などについて、同軍に一切理由説明などはなかった。 (ビルマ攻略戦) ビルマ攻略戦の目的は、援蒋ルートの遮断であった。ラングーン(現ヤンゴン)に陸揚げされた援助物 資はトラックでシナ昆明に運び込まれていた=ビルマ公路。その量は日米開戦時で 1 か月に 1 万 5 千ト ンに達していた。 兵力に余裕のない陸軍は、鈴木敬司大佐を長とする「南機関」を作ってビルマで独立運動をしている若 い指導者に接触し、約 30 人(ネ・ウィンやアウン・サンら)を国外に脱出させ、海南島で軍事訓練を施 した。 大本営はマレー作戦が順調に進んだため、16 年 12 月 21 日、ビルマ進攻を決定した。 17 年(1942 年)1 月末 第 15 軍がタイ国境を越え、南部ビルマに入った。2 千メートル級の山岳密林地帯に応急の道路を建設 して進軍し、約 1 か月で南部ビルマの要地を占領した。 3月8日 262 ラングーンに突入した日本軍は市民の歓声に迎えられた。英印軍はすでに撤退しており、日本軍はビ ルマ独立義勇軍約 1 万 2 千人を伴っていたからである。 4月5日 南雲機動部隊が英東洋艦隊の本拠地コロンボを空襲し、英軍重巡洋艦 2 隻を撃沈。9 日にはトリンコマ リーを空襲し、英空母「ハーミス」を撃沈した。これにより、日本海軍はインド洋の制海権を得て、海路、 増援部隊や物資をビルマに運んだ。 5 月 18 日 第 15 軍が全ビルマの制圧を南方軍に報告した。これで、援蒋ビルマ・ルートは遮断されたはずだった が、英米はインドからヒマラヤを超えの飛行機で物資を昆明に空輸し始めた。 (南太平洋のその他の戦線) 16 年(1941 年)12 月 10 日 グアム島を占領。同月 23 日にウェーク島を、25 日には香港を占領して同地のイギリス軍を降伏させ た。 17 年(1942 年)1 月 海軍が米豪の連携を断つ目的でオーストラリア、ダーウィン周辺海域で作戦を展開し、空母艦載機が ダーウィンの軍港などを空爆。これにより、オーストラリアを完全に敵に回してしまった。 1 月 21 日 ダーウィン沖で機雷を敷設中の第 9 潜水隊の潜水艦「伊号 124」が米豪軍の艦砲射撃により沈没、艦員 80 人が戦死し、艦とともに海中に沈んだ。 1 月 23 日 日本海軍南雲機動部隊がオーストラリア軍の守るパプアニューギニア、ニューブリテン島北端のラバ ウルを空襲し、制圧。その後、海軍は陸軍に知らせることなく基地を作った。 天然の良港を有するラバウルは第一次大戦でドイツを破ったオーストラリアが統治していたところ、日本が攻略 して、4 つの飛行場を築き、南太平洋の日本軍を支える最大の拠点となった。 2 月 27 日 ジャワ島スラバヤ沖海戦。 バンタン湾から蘭印・ジャワ島に上陸を目指す第 16 軍輸送船団を護衛する日本艦隊(巡洋艦 1 隻、駆 逐艦 32 隻。これに大型巡洋艦 2 隻も続航)と米英蘭合同艦隊がスラバヤ沖で戦い、日本艦隊は敵艦隊を ほぼ壊滅させたが、46 時間もの長時間を要した。その要因として、日本側の砲術技術の拙さと指揮官の 消極性が指摘された。 同月、日本軍はオランダ軍が駐屯していなかったバリ島を占領。 3月7日 大本営連絡会議が開催され、 「今後執るべき戦争指導の大綱」が決定された。方針は、英国を屈服させ、 米国の繊維を喪失させるため引き続き既得の戦果を拡充して長期不敗の態勢を整えつつ、機を見て積極 的方策を講じるというものであったが、趣旨が不明瞭であった。それは、 陸軍は長期不敗の態勢を整備する 海軍は機を見て積極的攻勢をとる を併記するに過ぎなかったからである。 263 その後は、この大綱に基づいて、ポートモレスビー攻略作戦、珊瑚海海戦、フィジー・サモア・ニュカ レドニア作戦、ミッドウェー作戦、アリョーシャン作戦が次々と実施され、持久戦の地域的範囲から逸脱 した日本軍は次第に戦力を消耗していくこととなった。 3月7日 東部ニューギニアへは、日本軍の南海支隊の一部がサラモアに、海軍陸戦隊がラエに上陸した。これ は、連合国軍の拠点ポートモレスビー攻略を視野に入れてのものであった。 ビルマでも同月、日本軍(第 15 軍)がラングーンの英国軍を敗走させ、同地を占領した。 その後、日本軍はソロモン諸島ツラギ島(5 月 3 日)も制圧。このように、陸軍の精鋭 11 個師団、陸 海軍の航空機 1200 機を投入した南方作戦は、大本営の目論見より 1 ヶ月早いペースで進行した。 これら日本軍の緒戦の圧倒的勝利は、西欧列強によるアジアの植民地国(インド、インドネシアなど)に、宗主 国の支配を断ち切るための大きな希望を与えた。 4 月 5~9 日 海軍機動部隊が、インド洋セイロン沖で英海軍東洋艦隊と交戦、空母「ハーミズ」と大型巡洋艦 2 隻な どを撃沈した。また、セイロン島を基地とする英空軍部隊に大きな打撃を与えた。これにより、空母 3 隻 を擁して戦力を回復しつつあった英東洋艦隊は大打撃を受けた。 5月 日本軍がビルマ全土をほぼ占領し、 「援蒋ルート」を遮断した。 日本は軍政を敷いたが、その下で 18 年 8 月1日にビルマを独立させた。 ビルマは、英国による東南アジア植民地支配の要衝の地であった。一方、日本にとっても食糧確保の面及びイン ドを独立させる手がかりの地であるとともに、蒋介石を援助するための物資の運搬ルートを遮断する目的からいっ ても、重要な戦略拠点であった。 (フィリピン攻略戦-2) 17 年(1942 年)3 月 12 日 米軍を率いるマッカーサー将軍が 10 万の自軍兵を見捨て、 「アイ・シャル・リターン」の言葉を残し てコレヒドールを退去し、オーストラリアに逃れた。これを機に、第 14 軍はバターン半島への攻勢を一 層強めた。 マッカーサー司令官は 1 月以来の抗戦により本国では英雄となっていたものの、陥落直前に大統領が退去命令を 出したため脱出し、その後は「マッカーサー・ライン」と呼ばれた西南太平洋からの連合軍反抗を指揮した。 マッカーサーは、日本軍に敗れてオーストラリアに逃れたことを生涯の屈辱とした。3 月 17 日、ダーウィンで記 者会見を行ったマッカーサーは「アイ・シャル・リターン」と宣言した。 3 月 30 日 マッカーサーのフィリピン脱出を受け、米統合参謀本部が太平洋地域の責任分担を明確に区別した。 陸軍司令官のマッカーサーは南西太平洋地域軍司令官に、太平洋艦隊司令長官のニミッツは太平洋地域 軍司令官に任命された。 4月3日 日本軍が第 2 次バターン作戦を開始。 4月9日 バターン半島先端に追い詰められた米軍が最大の陣地マリベレス山に日の丸を掲げ、降伏。投降した 264 将兵は約 7 万人、市民を合わせると 10 万人にも及び、7 万以上の捕虜が下山してきた。 半島には捕虜収容施設がなく、食料も備蓄などなかったため、日本軍は思いがけない大量の捕虜の扱い に苦慮した。 とりあえず米比軍捕虜は半島付け根のサンフェルナンドまで 60~100 キロを徒歩行軍により護送し、 そこからマニラ郊外のオドンネル収容所へ列車で輸送することにした。 米比軍は長期間山にこもったままだったので、食料・物資不足に加え、マラリア患者が 80%を超え、 デング熱、赤痢にかかった者も多数いたという悲惨な状態にあり、それゆえに降伏するに至った。同様に 日本軍も 4 ヶ月に及ぶ密林の露営生活で食糧難、マラリア罹患により惨憺たる状態にあった。 この移送行進についてフィリピン国立歴史調査委員会は「行進させられた米国人捕虜は 9900、うちオ ドンネルまで到達できたのは 9300。比国人捕虜は 6 万 600 で、到達できたのは 40562 人」と推定して いる。行方不明者の大半は脱走者と見られている(牧野弘道氏。正論 H27 年 6 月号より) 。 このときの移送は戦後のマニラ軍事法廷において“バターン死の行進”として、司令官の本間雅晴中将がその責 任を問われる訴因となった(他に隷下将兵による戦時国際法違反行為の包括的責任及び収容所での捕虜の待遇) 。→ 21 年 2 月 11 日、銃殺刑の判決。弁護団が米国最高裁に再審請求を行ったが管轄外を理由に却下され、4 月 3 日に 処刑された。 この捕虜移送は、炎天下、食糧や水が乏しいままに捕虜を歩かせ、1 万人近い死者を出した事件であったが、マニ ラに移送しなければ、食糧不足のため捕虜全員が死ぬことになるため、本間司令官の部下がやむを得ずとった措置 であった。ただし、この行軍は、同司令官の耳にも届いていなかった。 また海岸沿いに 60km 近くを 4 日かけて歩いた行軍においては、日本軍には使用するトラックもない中、米軍捕 虜は手ぶらだったが、日本軍兵士は 20 数キロの完全装備を背負っていた。 5月2日 日本軍がコレヒドール要塞への攻撃を開始。同月7日、フィリピン全域の米比軍が降伏。 これにより日本軍は漸くフィリピン全土を制圧し、フィリピン戦線は一段落した。 7 月 20 日 バターン攻略戦において大きな損害を出したことから、本間中将が解任、本国に帰国となり、8 月には 予備役として待命となって軍の現職を解かれる。 この後、フィリピンに駐留した日本軍人は享楽的に過ごすだけで、その占領統治には生産、流通につい ての政策が全くなく、フィリッピン国民は高率のインフレに苦しみ、日本軍も米軍の反攻に遭ってから は物資不足で窮迫した。 こうして成功裏に第1段作戦が終了した。ビルマ、マレー、オランダ領インドネシア、フィリピン、ニ ューギニア(北半) 、ソロモン諸島の一部を含む広大な地域が日本軍の支配下に入った。 ・・・日本にとっ ての絶頂期。 これら緒戦の勝利に戦地の軍はもちろん、国内でも楽観ムードが醸成され、とくに連合艦隊は、開戦前 の昭和 15 年 11 月 15 日に大本営政府連絡会議で決定をみた「対米英蘭戦争終結促進ニ関スル腹案」を軽 視した。本来はここで南方要地と内地との防禦圏を固め、その上で「重慶攻略」により重慶政府を、 「イ ンド・セイロン進攻」により英国を、それぞれ戦いから脱落させるという「腹案」の戦略に戻るべきであ った。 265 17 年 1 月から始まった大本営における第 2 段作戦の検討会においては、海軍が “前進拠点奪取” 、 “豪 州攻略” 、 “ハワイ占領” 、“相手艦隊撃滅”といった米豪遮断戦略を主張し、珊瑚海からソロモン諸島に、 さらにはラバウルから3千キロ彼方のニューカレドニアやフィジー、サモアの島々にまで手を伸ばそう とした。陸軍は比較的慎重で “インド遠征”、 “重慶撃滅”を主張して、陸海両軍間でその後の戦略をど うするかは、なかなかまとまらなかった。 3 月 7 日に漸く妥協案がまとまり、 「今後取るべき戦争指導の大綱」として第 2 段作戦は MO 作戦(モ レスビー) 、MI 作戦(ミッドウェー) 、FS 作戦(フィジー、サモア)の順で実施することと決定された。 このとき、同月に開催された大本営政府連絡会議の場で参謀総長杉山元、軍令部総長永野修身は「米英な ど恐れるに足らず」と発言した。統帥部も浮かれてしまっていたのである。 MO 作戦について 珊瑚海を挟んでポートモレスビーの対岸はオーストラリアである。日本海軍は米軍とオーストラリア軍の連 携作戦を断とうとし、そのため直接オーストラリア本土攻撃を企図したが、兵力不足のためポートモレスビー 上陸の作戦を選んだ。 しかしながら、この第 2 段作戦は、前記「対米英蘭戦争終結促進ニ関スル腹案」の基本構想を大きく外 れるものであった。すなわち、ニューギニアやソロモン諸島への兵力展開は、従来の対米戦基本構想から 大きく外れるもので、過剰な拡大路線であった(後述) 。 徒な占領地の拡大は、その後の占領地防衛・補給を困難にするうえに、本土及び近接領土の防衛態勢を 手薄にすることにもなるが、特に海軍は南太平洋の多くの島々の占領をどうやって維持するかについて の戦略を全く持っていなかった。 また、それだけでなく、アメリカ国内においては、日本軍に対する反攻を速めることを求める論調が強 くなり、そのためアメリカの反撃を速めるということにもつながった。 このことは、日本における戦争指導において、陸海軍を統合する機能(統合参謀本部長)が欠けている ことを露呈していた。 ミッドウェー作戦については、前年 12 月の真珠湾攻撃の際、米軍の空母が無傷で逃れたことが判明し たことから、山本連合艦隊司令長官は「先制攻撃によって米艦隊を全滅させない限り、日本本土の安全は 保障されない」という揺るぎない信念を持って、作戦遂行を主張した。 これに対し軍令部はから米空母が出てくるか分からない。攻略してもウェーキ島にある最短の日本軍 基地からも 2400 キロ離れており、補給が続かない」と反対の声が起こった。 しかし、山本司令官は「作戦が容れられないなら、長官を辞す」と言って固執したため、軍令部の担当 部長であった福留繁が「長官がそこまでおっしゃるなら」と会議を打ち切り、結論を作戦遂行へと持って いき、永野軍令部長が「山本がそんなに自信があるなら…」とあっさり作戦を認可した。 福留部長は国運を賭けた大作戦を行うか否かの判断時に、 「お友達の論理」を持ち込んだが、敗北の責任を感じる ことなく、その後、連合艦隊参謀長として山本司令長官とツーカーの仲になった。 このとき、米軍を牽制するためのアリョーシャン攻略作戦と同時に実施されることが決まった。 (日本人によるユダヤ人救出-3) 266 昭和 17 年(1942 年) 当時の上海は、ビザがなくても入国ができる唯一の都市であった。そのため、ここにユダヤ人難民がド ッと押し寄せた。その数は 18 千人に達した。 ドイツから「ガス室を提供しよう」という申し出があったが、犬塚惟重海軍大佐がこれを拒んだ。ドイ ツはワルシャワで 10 万人を虐殺したことで恐れられていたマイジンガー大佐を送り込んで、犬塚大佐に ユダヤ人の引き渡しを強要した。しかし、犬塚大佐は断固これを拒否し、10 万人のユダヤ人の命を守り 通した。 (戦勝に浮かれる国内) 真珠湾攻撃の「勝利」 、南方作戦の成功から、日本中が戦勝気分に沸いていた。 17 年(1942 年)3 月 大本営政府連絡会議で参謀本部作成の「今後採るべき戦争指導の大綱」を正式決定。 これには「英を屈し、米の戦意を喪失せしむるため、引き続き領得の戦果を拡大して長期不敗の政戦略 態勢を整えつつ、機を見て積極的の方策を講ず」と記された。 裏には、情勢が有利に推移するのを待つべきと考える(=持久戦の態勢確立を目指す)陸軍と、アメリ カに反攻基地をつくらせないためオーストラリアの占領を主張する海軍との意見の対立があり、結局参 謀本部は軍令部側の主張を取り入れた妥協の産物であり、どっちつかずの折衷案となった。 東條首相が「これでは意味が通らない」と嘆いたほどで、このような折衷案の作文は日本の戦争指導の 典型であった。 陸海協議の結果、次期作戦としては、ソロモン諸島―ニューギニア―ニューカレドニア―フィジー―サ モア方面に進出してオーストラリアを孤立させるという米豪遮断作戦「FS 作戦」並びに海軍提案のミッ ドウェー作戦が FS 作戦の前提として認められた。陸軍は派兵を渋ったが、 「ならば海軍だけで占領する」 と開き直られて、しぶしぶ攻略部隊を編成した。 4 月 30 日 第 21 回衆議院選挙投票。任期満了日にあたるこの日の選挙に向け、2 月 23 日、翼賛政治体制協議会 が組織された。その推薦を受けた候補者が、非推薦の候補者に対する官憲の露骨な選挙妨害並びに挙国 一致運動のなかでのマスコミの論調や戦勝に沸く国民意識の昂揚を追い風として大量当選を果たし(被 推薦者:全議席の 81.8%にあたる 381 人、非推薦者:85 人)、翼賛政治体制が一層強化された。 東條首相は、これら翼賛選挙当選議員を権力基盤とした。 この頃、神田・共立講堂で開催された第二次戦捷祝賀会の場では、海軍報道部課長の平出英夫大佐が 「西にロンドンで入場式というときに、東ではニューヨークで観艦式、…これが最後の戦捷祝賀会だ」 と雄たけびを上げた。 (ミッドウェー海戦=戦況の転換) 米軍の反攻は、二手に分かれて進められた。ひとつは、マーシャル諸島→トラック諸島→マリアナ諸島 …と太平洋赤道の北側を西へと進んで北上を目指すニミッツ大将率いる中部太平洋艦隊であり、他は珊 瑚海を北上してソロモン諸島、東部ニューギニア→西部ニューギニア→東北へと島伝いに進んで、フィ リッピン奪回を目指すマッカーサー大将率いる米豪連合陸海軍である。 17 年(1942 年)3 月 10 日 267 アメリカ軍は、空母「ヨークタウン」 「レキシントン」を旗艦とする新編成の空母機動部隊を用い、東 部ニューギニア北岸に上陸・展開した日本軍を空襲した。この攻撃により日本軍は、輸送船 3 隻と駆逐艦 「弥生」が沈没し、輸送船 4 隻が損傷した。連合軍はこの地域での日本軍の進攻をやすやすと許すもので はなかった。 4 月 5 日、9 日 セイロン沖で戦われたインド洋海戦において、南雲機動部隊はイギリスの東洋艦隊の戦艦 2 隻と空母 「ハーミズ」を撃沈した他、商船 21 隻を撃沈した。日本側は 1 隻も沈まなかった。この海戦における日 本軍爆撃機による急降下爆撃の命中率は 90%に上った。 これにより、イギリスのインド東部沿岸の海上通商路は完全に遮断された。 4 月 18 日 米国は、国民の士気高揚のため、日本への空爆実施を計画。十分な訓練を積んだうえで空母ホーネット から陸軍 J.ドゥリットル中佐指揮の B25 爆撃機 16 機を飛ばし、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、 、 神戸、新潟の各都市を爆撃した。B25 爆撃機は帝都の上空を悠々と低空飛行して爆弾を投下し、家屋を 吹き飛ばすなどした。なお、米軍機はシナ本土に着陸した。 監視艇が同日午前 6 時 30 分に空母ホーネットを発見し、東部軍司令部に通報したが、同司令部は情報を確認しよ うとして手間取り、東京が攻撃を受けるまで空襲警報を発令せず、また防空戦闘機は全く要撃することができなか った。このため、天皇陛下もお側から言われて慌てて「お文庫」 (防空壕)に非難する有様であった。 この日本本土空爆の成功によりアメリカ国内は沸きに沸いた。日本側は 50 名の死者を出した。 また、アメリカは、翌 5 月には、日本占領後に向けて「日本改造計画」の策定に着手した。それには、 どんな憲法をつくるか、天皇の地位、皇室をどのようにするかということが主眼となっていた。 日本軍は、米軍によるシナ本土からの空襲を阻止するため、5~10 月にかけて浙贛作戦を展開した。 海軍においては、連合艦隊司令長官山本五十六が立案したミッドウェー島攻略作戦の正当性が立証さ れる形となった。 4 月末 日本軍がポートモレスビー及びソロモン諸島統治の中心地でオーストラリア軍の基地があるツラギ島 (ガダルカナル島北方の小さな島)攻略を目指す「MO 作戦」を発動。ポートモレスビーは、日本海軍が 早々に占領したラエ、サラモア、ラバウルへの爆撃を行うオーストラリア軍の基地となっていた。 総指揮は第 4 艦隊の井上成美中将が執り、空母機動部隊の第 1 航空艦隊から新鋭空母「翔鶴」 ・ 「瑞鶴」 を擁する第 5 航空戦隊(司令官・原忠一少将)が引き抜かれ、第 4 艦隊及び上陸部隊の南海支隊が東部 ニューギニア南海岸のポートモレスビー攻略に向かった。敵前上陸によりポートモレスビーのオースト ラリア軍を攻撃する作戦であった。 連合国軍もこれを阻止すべく空母機動部隊を投入した。 5月3日 ツラギ島攻略が実施され、ほとんど抵抗のないまま日本軍は同島を占領した。しかし、米太平洋艦隊は 暗号を解読し、珊瑚海南東海上で待機していた空母「ヨークタウン」 「レキシントン」を北上させ、4 日 朝にはツラギへの爆撃を繰り返した。 日本の MO 機動部隊もツラギに急行し、日米両艦隊隊は互いに索敵をしながら、決戦の場を求めた。 268 5 月 7~8 日 ポートモレスビーに上陸を目指す日本海軍と、これを阻止しようとする米豪連合陸海軍との間に珊瑚 海海戦が戦われた。この海戦は、飛行機による攻撃で勝敗を決するという初の空母機動部隊間の激突と なった。 7 日、日本の MO 機動部隊は、 「ヨークタウン」 「レキシントン」から発進した戦闘機、雷撃機、爆撃機 の工芸を受け、小型空母「祥鳳」が魚雷 7 発、爆弾 13 発を受けて大火災を起こし、撃沈した。 8 日、米空母部隊を発見した「翔鶴」 ・ 「瑞鶴」から 69 機が飛び立ち、魚雷と爆弾により、 「レキシント ン」 、駆逐艦「シムス」と給油艦「ネオショー」を撃沈させたが、雷撃により燃料漏れを起こした「ヨー クタウン」の追撃を怠り、真珠湾に逃げ込ませてしまった(日本側は撃沈と判断) 。 一方、MO 機動部隊は、 「瑞鶴」がスコールの中に身を隠して大破を免れたものの、 「翔鶴」は甲板が大 破したうえ、艦載機 180 機のうち 100 機以上を失い、搭乗員も 3 分の 1 が戦死した。 この状況を受け、井上総指揮官は MO 作戦の無期延期を決定した。 また、日本海軍が予定していたミッドウェー島に拠る米空母群の撃滅作戦に、空母翔鶴と瑞鶴の参加 を取り止めざるをえなくなった。それでも、第 5 航空戦隊米成樹空母 2 隻を撃沈したというので、連合 艦隊には“米海軍恐れるに足らず”という驕った雰囲気が強まっていった。 5 月 27 日 ミッドウェー作戦に出撃する4空母など南雲忠一中将率いる機動部隊が広島湾を出発。2 日後には、戦 艦「金剛」 、山本司令長官直率の戦艦「大和」など主力部隊が加わってミッドウェーに向かった。 艦隊の規模は、正規空母 4 隻、戦艦 18 隻をはじめ主要艦船 145 隻、艦載機 250 機以上であった。 (ミッドウェー、アリョーシャン両攻略作戦は、動員された艦船等の総数は、艦船 350 隻、航空機 1,000 機、参加将兵は 10 万人以上と、日本海軍史上最大の作戦であった。) このとき山本司令長官は愛人宛に「3 週間ばかり洋上に全軍を指揮します。 」との手紙を送り、機密を平 然と漏らしていた。まさに慢心と油断であった。 この出港に使われた暗号は全て米海軍に解読されており、米軍は珊瑚海海戦で傷ついた空母ヨークタ ウンを修理して待ち伏せしていた。 米軍は 42 年 1 月 24 日、ポートダーウィン沖で沈没した伊 124 潜水艦から暗号関係書類を引き揚げ、暗号解読班 が研究を行って日本の海軍使用の暗号を完全に解読できるようになっていた。 6月5日 ミッドウェー海戦が戦われ、日本海軍は甚大な損害を被った。 日本側の参加兵力は連合艦隊のほぼすべてともいえるもので、虎の子の空母「赤城」 「加賀」 「飛龍」 「蒼 龍」4 隻をすべて繰り出した上、南雲機動部隊司令長官の下、戦艦 11 隻、巡洋艦 21 隻以下大小艦船 200 隻以上、約 500 機の飛行機を動員して機動部隊を編成し、これに 6000 人の陸戦隊と陸軍が加わった。山 本司令長官も空母部隊の後方 300 カイリの新造艦「大和」に乗艦していた。 対する米側は空母 3 隻、戦艦 2 隻に航空機を中心とする戦力で、日米間の戦力比は 3 対1と物量的に は日本がはるかに優位であった。 機動部隊の南雲司令長官は、 「今度は大した獲物(空母)はないだろう」と愛人に書き送るほど楽観的で、山口多 聞第 2 航空戦隊司令官(空母「飛龍」に乗艦)が「訓練が十分ではない」として延期を求め、 「空母 4 隻では足りな い」として増強を求めても聞き入れなかった。 269 第 2 航空戦隊を率いる山口多聞司令官が、飛龍、蒼龍に急降下爆撃機 36 機を待機させつつ索敵を行っ て、敵空母軍が近くの海域にいる可能性が高くなったとき、 「直ちに攻撃隊を発進せしむの要ありと認む」 と南雲司令長官に警告したにもかかわらず、連合艦隊の機動部隊を率いる南雲司令長官は、出払ってい たゼロ戦の援護のないままの爆撃機が敵の餌食になることを恐れて、これを許可しなかった。かわりに 爆撃機が搭載していた敵艦攻撃用の魚雷を基地攻撃用の爆弾に積み替えるよう命じた。 その積み替えで甲板が爆弾やガソリンで溢れているとき(午前 10 時 24 分) 、米艦隊グラマン全機によ る強襲を受けて、南雲機動部隊は空母全4隻及び重巡洋艦・三隅ほか 1 隻、駆逐艦 3 隻、飛行機 275 機 並びに戦闘員 3 千余人(うちパイロット 1,000 人)を失ったほかに、戦艦 3 隻、重巡洋艦 3 隻、軽巡洋 艦 1 隻、駆逐艦数隻が損傷するという決定的な敗北を喫した。 積み替えをせずに索敵情報に基づいて 30 分早く爆撃機が飛びたてていれば、互角に戦えていたとの指 摘がなされている。この敗戦によって日本は北太平洋における制海権を失ったにもかかわらず、海軍は その事実を大本営に報告しなかった。 「赤城」 、 「加賀」 、 「蒼龍」の 3 艦が撃沈された後、 「飛龍」乗艦の山口多聞司令官は、自ら残存部隊に よる航空戦の指揮を執る旨宣言し、果敢に米艦隊(空母エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン) に立ち向かった。作戦参加機はわずかに雷撃機 10 機、戦闘機 6 機であったが、空母ヨークタウンを大破 させた。米軍の総攻撃を受けて「飛龍」も炎上したため、山口司令官は夕刻に総員退艦を命じ、自らは「多 くの部下を死なせた責任を取る」として、加来艦長とともに艦に残り戦死した。 南雲司令長官はじめ他の将官が沈みゆく艦を離れて命を永らえたなかで、山口司令官だけは潔く責任 をとった。 珊瑚海海戦で初めて機動部隊を実戦運用した米海軍は、さらに改良を加えてミッドウェー海戦の勝利に結実させ た。一方で日本側にそうした進取の作戦運用はなかった。ミッドウェー海戦の決定的敗北のあとでも、 「作戦をつつ けば穴だらけであるし、みな十分反省しているので、いまさら突っついて屍に鞭打つ必要はない」として、研究会 を行うことはなかった。 機動部隊を率いた南雲忠一第一航空艦隊長官は魚雷畑の出身で、航空戦のことは分からない軍人で、年功序列人 事により任命されていた。ミッドウェーでの失敗の後も、山本司令長官は「復仇の機会を与える」として翌 7 月 14 日、南雲を 空母機動部隊として再編成された第三艦隊の長官に任じた。しかし、同年 10 月 26 日の南太平洋海戦に おいて南雲指揮の第三艦隊は、米空母ホーネットを撃破した一方で、防空能力の高い米側の迎撃により多数の艦載 機を喪失し、多くの熟練パイロットも戦死するという大きな犠牲を払うことになった。海軍内の年次が後とはいえ、 山口多聞こそがミッドウェー海戦における機動部隊司令長官たるべきであったと惜しむ声が高い。 この海戦は大戦の分水嶺ともなる戦闘で、戦局の指導力となっていた機動部隊を失うことによって、中 部・西部太平洋の長期支配を目指した日本軍の進撃は事実上終わりを告げた。 海軍はすでに決まっていた FS 作戦(サモア・フジー作戦)を中止したが、急速に拡大した外郭占領地 は、防衛・補給態勢の不備なまま連合軍の反攻にさらされることになった。 こうしたばくち的な作戦を強行し、致命的な大敗戦を蒙った海軍の責任は大きい。 大本営は国民にはこれを徹底的に隠したが、日本軍は空母及びベテランのパイロットを失ったことが 270 致命的で、このときからひたすら敗北への道を辿り始めた。 海軍自体がこの敗戦を隠し、 「失った空母は1隻」と発表していた。陸軍の参謀は敗戦の事実を知っていたものの、 海軍に遠慮してその事実を隠した(庇いあい) 。 このため東條首相自身、大本営の発表を1ヶ月間信じていたという。国民は翌年になっても、この敗戦を知らさ れていなかった。 同時に発動されたアリョーシャン作戦では、連合艦隊の別働隊が作戦を成功させ、アッツ島、キスカ島 に上陸、占拠に成功した。 6月 ルーズベルト大統領が国家プロジェクトとして原子爆弾を開発しようと「マンハッタン計画」の着手を 決意した。9 月に責任者としてグローブス准将が就任。 7月1日 アメリカ統合参謀本部はミッドウェー海戦勝利の好機を逃さず、一挙に攻勢に転じることとし、南太平 洋での作戦開始を決定した。暗号名は「ウォッチタワー作戦」であった。 ⇒ガダルカナル戦、東部ニューギニア反攻作戦 7月 アメリカが「日本改造計画」策定のため、情報機関 OSS を設立(同機関は後に CIA となった)。その メンバーにはコミンテルンの司令を受けた者が数多く入っていた。 9 月 9 日及び 29 日 日本海軍の伊第 25 号潜水艦に搭載していた小型水上飛行機がオレゴン州の山林に焼夷弾各 2 発を投 下。山火事を起こして米国民に衝撃を与えるのが目的であった。 (ガダルカナル島と東部ニューギニアの戦闘) 海軍軍令部は、ミッドウェー海戦に敗れた後、アメリカ西海岸からオーストラリアへの海上輸送ルート を遮断し、オーストラリアを孤立させ、戦いから脱落させることにより休戦に持ち込む案を立てた(陸軍 も了承) 。これにより南太平洋への戦線拡大を図ることになった。 ミッドウェー海戦に敗れたとはいえ、日本海軍には大和をはじめとする 12 隻の戦艦が健在であり、空母も新鋭空 母「翔鶴」 、 「瑞鶴」はじめ 6 隻を擁していた。対するアメリカは太平洋においては戦艦ゼロ(全て修理中又は建造 中) 、空母は 4 隻で、軍令部では南太平洋での新作戦が可能であるとみていた。 当初は、ニューカレドニア→フィジー→サモア作戦を展開する方針であったが、ミッドウェー海戦で基 幹空母を失ったため、これを中止した。また海路ポートモレスビーを攻略する方針も撤回された(5 月)。 日本海軍は、既にラバウルに航空基地を建設していたが、ソロモン諸島には制空権が及ばなかった。そ こで拠点としての飛行場建設候補地を探し、ガダルカナル島に眼をつけて飛行場建設工事に着手した(7 月 16 日) 。同島は、ハワイからオーストラリアに向かうアメリカ軍のシーレーンを妨害する拠点」と考 えられたからである。しかし海軍は、こうしたことを陸軍に伝えていなかった。 一方アメリカからすれば、ガダルカナル島は「日本軍に占領されたラバウルを奪還するための後方基 地」として重要であった。 17 年(1942 年)5 月 3 日 日本海軍がガダルカナル島北 40km に位置するフロリダ島湾内の島ツラギを占拠し、オーストラリア 271 軍の水上基地を手に入れた。 5 月 18 日 日本軍が第 17 軍を編成した。これはソロモン諸島及び東部ニューギニアを担当する戦略兵団で、6 月 にはガダルカナル島ルンガ川沿いの地に、2600 人の軍属による設営隊を派遣して飛行場の建設を開始し た。 。 5 月 31 日 オーストラリア・シドニー港内に停泊していた米巡洋艦「シカゴ」に向けて、複雑な地形の港内に侵入 してきた潜水艦「伊 24」から発進した特殊潜航艇 3 隻が未明に魚雷を放った。魚雷は命中しなかったも のの岸壁にあたって爆発し、係留中の兵員輸送艦「クッタブル」を撃沈させ、豪州兵と英兵の計 21 人が 戦死した。 豪海軍は特殊潜航艇 2 隻を撃沈した後、松尾大尉ら 4 人の遺体を収容し、正式の海軍葬を以て弔った。 7月2日 日本の戦略を察知したアメリカ軍がウォッチタワー作戦と呼ばれる反攻作戦を発動。 7 月 18 日 第 17 軍が新たな作戦開始を発令。これは、ラバウルや東部ニューギニアのラエ、サラモアなどへの 空爆が激しくなったことから、その発進地であるポートモレスビーを陸路強襲・占領し、オーストラリ アに脅威を与えるというものであった。しかし、そのためには、低いところでも 2 千メートル級の山が 聳えるオーエンスタンレー山脈を越え、約 300 キロを進軍するしかなかった。 第 17 軍司令官百武晴吉中将は、作戦を開始する前に偵察作戦を行おうとしたが、大本営作戦班 長・辻政信中佐はそれを無視して即時実行を指令したので、第 17 軍南海支隊約 5 千名は全くの 準備不足のままブナに上陸後、進軍を始めた。 その行軍は、豪軍を相手の戦いだけでなく、スコールとその後の湿気、マラリアにも苦しめ られながらのもので、すぐに飢えにも直面した。 8月5日 日本海軍がガダルカナル島に建設していた飛行場がほぼ完成し、海軍基地航空部隊から戦闘機の一隊 の派遣を決める。 8月7日 米軍海兵隊1個師団 1 万 9 千人がガダルカナル島テナル川東岸及びツラギ島を急襲した。日本海軍の 守備隊は、軍属を除けば戦闘要員は僅か 400 人ほどであった。米軍はツラギの守備隊を殲滅して、1 万人 余りの海兵隊員がガダルカナル島に上陸、ルンガ川沿いに完成間近の飛行場を制圧し、その後の反攻の 基点とした。 米軍はソロモン諸島への進攻計画は 1943 年(昭和 18 年)であったが、ガダルカナルに日本軍の大規模基地を造 られてしまうと攻略が困難になるとして、急遽これを阻止する作戦に出た。 この攻撃の際、米軍は上陸部隊を空母3隻による機動部隊によって護衛していた。日本海軍は二式大型飛行船を 持ちながら策敵に失敗し、やすやすと上陸を許し、自らが造った飛行場を敵の根拠地とさせてしまった。 8 月 8~9 日 第 1 次ソロモン海戦。米軍のガダルカナル島上陸を受けて駆け付けた三川軍一中将率いる第八艦隊と 米豪海軍との間に行われた海戦でsる。 272 日本軍はラバウルの航空隊も参加した。同航空隊は、敵空母の艦載機を多数撃墜する戦火を挙げ(自軍 は九九艦載機 9 機、一式陸攻 23 機、零戦 8 機を失った) 、敵空母は、遠くの海域に退避した。 翌日、ガダルカナル島の沖に現れた米輸送船団及び護衛の巡洋艦部隊に、第八艦隊が夜襲を仕掛け、米 重巡3隻、豪重巡1隻を撃沈するなどほぼ一方的な勝利を挙げた。 しかし、作戦の第 1 目的が「敵輸送船団の撃滅」であったにもかかわらず、三川艦隊は自軍の損害を恐 れるあまり反転を急いだため、物資陸揚げ中ながら無防備になった敵・輸送船団を撃ち洩らした。 重巡「鳥海」の早川幹夫艦長が輸送船団撃滅を具申したにも関わらず、退避していた空母が戻ってきて戦闘とな って自軍に損害が出ることを恐れた三川司令長官は、その進言を聞き入れなかった。 このため、米軍は予期通りに戦略物資を揚陸させることに成功した。このことは、その後の戦いに大き く影響した。日本軍は上陸した米軍を本格的な反攻とはとらえず、威力偵察程度と判断していた。 もし、輸送船団が日本軍によって撃滅されていれば、ガダルカナル島にいた米海兵隊は、武器も食料も なく孤立していたに違いないからである。 海軍の出世査定では、軍艦を撃沈することによって決められていた。輸送船を沈めても勲章の対象、出世の査定 には繋がらなかった。したがって三川司令長官にとっては、敵巡洋艦を沈め、自軍艦隊が無事帰還すれば、それで 充分だったのであろう。 8 月 12 日 ガダルカナル島で米軍に奪われた飛行場を奪回するため、参謀本部(総長・杉山元)は第 17 軍一木支 隊に上陸作戦命令を出す。このとき、参謀本部内には撤退を進言する者もあったが、作戦課長・服部卓四 郎大佐はこれを拒否、作戦班長・辻政信中佐はその進言を一喝した。 米軍はここに 19,000 名の兵士を集め総反攻の起点と位置づけていたが、参謀本部は米兵力を約2千人 と過少に見て、900 人でも勝てると甘く見ていた。参謀本部は米軍の本格反攻は 18 年以降になるだろう と予想していたため、米軍のガダルカナル島上陸を“偵察上陸の程度”と即断し、少数の逐次投入をやっ て、その度に敗れるという戦略失敗を重ねた。 8 月 17 日 日本軍はガダルカナル島に 916 名が上陸するも、8 百余名の戦闘員が 21 日早朝の突撃で戦死し、ほぼ 全滅した。以降、逐次兵力を投入するも、巨大な兵力の前に敗退を重ねた。 ガダルカナル防衛戦においても、統帥機能が陸海軍バラバラで一本化していなかった。 以降、海戦においても地上戦においても、日本軍は一度もアメリカ軍に勝てなかった。その理由は、装備の遅れ もあるが指揮官の能力の差が大きかった。日本軍においては、能力よりも年功序列による人事が幅をきかせたから である。 8 月 24 日 第 2 次ソロモン海戦。第 17 軍の川口清建少将率いる川口第 35 旅団の支隊が駆逐艦と大型舟艇で上陸 を試みたが、舟艇の大半は荒波と空襲により沈められてしまった。 9月 ガダルカナル島奪還のため川口支隊が上陸し、ジャングル内を迂回して飛行場の手前までたどり 着き、13 日、総攻撃を仕掛けたが、集中砲火を浴びて失敗し、6,217 名参加兵のうち、633 名が 戦死した。 総攻撃失敗後 1 週間で食糧が尽き、海上補給もままならない状態となった。ここで、初めて 273 日本軍は第 2 師団約1万名の投入を決定した。 9 月 16 日 東部ニューギニアで、南海支隊は、オーウェンスタンレー山脈(最高峰は 4,073m)の標高 2,000 メー トル以上の峠を越え、 ポートモレスビーの灯を遠望できる直線距離 50 キロのイオリバイワまで達したが、 そこで食糧・弾薬の補給が 2 週間前から途絶えたままであった。 補給に見込みの立たない第 17 軍はついに南海支隊に撤退を命じ、将兵は飢餓とマラリアに苦しみ ながら元来た山道を引き返し、ブナを目指した。 しかし、そこにはマッカーサー率いる南西太平洋方面軍が空輸よって、南海支隊を待ちかまえていた。 →10 月、ブナで爆撃機による猛攻を受けた南海支隊は、ラエ、サラモア方面へと脱出。 10 月 11~12 日 最前線における米軍の強大さ、及び日本陸海軍がもはや無力化していることを認識していなかった参 謀本部は、全力を挙げてガダルカナル島を奪回すべくガダルカナル島に残る日本兵救援のための第 2 師 団約1万名を送り込もうとし、輸送船団と待ち受ける米軍との間にサボ島沖海戦が戦われた。 日本海軍得意の夜戦であったが、レーダーを装備した米艦隊による射撃に完敗した。五島司令官が戦死 し、重巡「古鷹」と駆逐艦「吹雪」が沈没した他、重巡「青葉」が大破した。以後、日本海軍は夜戦での 優位を完全に失った。 この時点で、米軍潜水艦にはすべてレーダーが装備されていたが、日本海軍の潜水艦がレーダーを装備したのは 19 年秋であり、しかも旧式のものに過ぎなかった。この差は大きく、米軍潜水艦は悪天候の中でも電子工学的に精 度の高い敵艦との距離測定をできたが、日本海軍潜水艦は、光学機器に依存するしかなかった。 日本海軍も装備の改善に努力を重ね、戦争末期までには長足の進歩を遂げたが、米軍の対潜戦技術に追いつくこ とはできなかった。 潜水艦運用の面でも、両軍には大きな違いがあった。米軍は主として輸送船団を攻撃するために潜水艦を活用し た。これに対し日本海軍は、17 年~18 年にインド洋で伊号潜水艦が 100 隻近い連合軍の船舶を撃沈ないし大損害 を与えたという歴史を有していたにもかかわらず、潜水艦に米商船を攻撃させたことは全くなく、専ら艦隊決戦の 際に攻撃的に使ったため、敵艦から探知され標的にされやすくて損耗も大きく、さしたる効果を挙げることはでき なかった。 10 月 13 日 ガダルカナル島戦の劣勢を挽回すべく、日本海軍が輸送作戦を強行した(第1次輸送作戦)。海軍はニ ューヨーク航路に就航していた船舶を含め最優秀船6隻を徴用し、動員したが、護衛艦をつけなかった。 そのため、丸裸の輸送船は米軍機の猛襲を受け、15 日までに全船舶が被弾、沈没し、経験豊かな多数の 航海士、要員が犠牲になった。 10 月 24~25 日 ガダルカナル島の飛行場奪回のため、上陸した第2師団とすでに上陸していた将兵の合わせて1万5 千名が総攻撃を行う。同師団は、飛行場南のアウステン山を迂回する作戦をとったが、雨のジャ ングルに足を取られて時間をロスし、兵も疲弊していたことから、圧倒的な敵兵力の前になすすべ もなく敗れた。 10 月 25~27 日 海上では南太平洋海戦が戦われた。 274 日本海軍は米空母「ホーネット」を炎上撃沈させ(27 日)、空母「エンタープライズ」に損傷を負わ せたが、南雲指揮官は連合艦隊からの攻撃命令にもかかわらず、追撃してとどめを刺すことはしなかっ た。 日本海軍は、米海軍の稼働可能な空母が一時的にゼロになるほどの損害を与えたにもかかわらず、戦局 の主導権を取り戻すチャンスを逃した。しかも自軍の損害も大きく(翔鶴と瑞鳳が初日に被弾した他、多 くの艦載機と熟練パイロットが戦死) 、南太平洋海域では、もはや日本海軍には攻勢に出るほどの力は残 っていなかった。 [戦力比較] 日本側:近藤信竹総指揮 空母 4 翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、隼鷹 :南雲忠一指揮 戦艦 8、重巡 8、軽巡 3、駆逐艦 28、潜水艦 12 アメリカ側:ハルゼー総指揮 空母 2 ホーネット、エンタープライズ :キンケード指揮 戦艦 1(サウスダコタ) 、重巡 3、防空軽巡 3、駆逐艦 13 空母ホーネットは、前年 4 月 18 日に米軍が初の東京空襲を行った時の基幹空母であったから、その撃沈を確認し た日本海軍の士気は大いに上がった。 もう一つの悲劇は、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」という一条が兵士たちの心を縛っていたこ とであった。もし、陸軍の小部隊が力戦敢闘の後、降伏することが許されていたら、当の部隊の兵士たち の命の多くが救われ、また、その他の陸海軍部隊もより自由な立場で米軍と戦うことができたであろう ことが指摘されている。 11 月 13~15 日 第 3 次ソロモン海戦で、連合艦隊は戦艦「比叡」 、 「霧島」を失うなど大損害を受け、ソロモン諸島海域 での制海権を失ってしまった。 「霧島」は、米軍艦船「ワシントン」を全く認識できない間にレーダーによる砲撃を受け大破撃沈した。 レーダー開発の彼我の差は歴然としていた。 これにより米軍はさらに約3千の兵員や武器、食料を補給した。 11 月 13 日 ガダルカナル島への増援計画により、第 2 次輸送作戦を強行。これには、当時の優秀船 11 隻が動員さ れ、第 38 師団(名古屋)の残存兵を乗員させるとともに、重火器類、糧秣を積載した。しかし、制海権 と制空権を奪われているうえ、迎撃するのは途中の基地から飛び立ったフロート付きの水上機ばかりだ ったため、米機動部隊の敵ではなく、輸送船の大半が途上で沈められ、兵員だけでなく補給さえ不可能と なった。 その結果、日本の戦力そのものが急激に低下するとともに、上陸に成功した日本軍の兵士は 1 週間も しないうちに飢え始め、また、病気に倒れて、悲惨な状況に陥った。……ガダルカナル島は「餓島」と化 した。 参謀本部はガダルカナル戦において、兵力の逐次投入という誤りを犯していたが、それにもまして決定 的だったのは、前線への物資輸送が極めて劣弱であったことである。陸海軍とも敵の抵抗を排除して、所 要の武器弾薬、食糧、医療品、人員、各種装備などを輸送する手段を持っておらず、そのような輸送に適 275 する高速船を造る技術も、飛行場や揚陸施設を急速につくる余裕もなかったのである=国力の不足。 17 年末時点で、1年間の輸送船沈没は 100 万トンに達した。これは、日本軍が輸送船に対する護送船団方式を採 用していなかったためである。そのため、輸送船損耗はさらに激しくなり、翌 18 年には 180 万トンに、19 年には 年間で 380 万トンにも達することとなった。 日本は大量の原材料や半加工物資を本国に輸送し、完成した軍需品を戦線に輸送してこそ戦争遂行能力が保てた のであるが、海上輸送力は損耗の一途をたどっていた。 こうした事態に海軍は 18 年末、ようやく中央統制下の輸送船団を組織する(護送船団方式)ようになった。護衛 艦の建造、改造を行い、対潜水艦用に機雷障壁を要所に構築するとともに、商船特にタンカーの生産を優先した。 このため、新建造船は、18 年に 110 数万総トン、19 年には 160 万総トンに達したが、それでも遅すぎる措置であ った。 11 月 16 日 ニューギニア作戦等を推進するため、ニューブリテン島の島北端ラバウルを本拠として第 8 方面軍を 設置(司令官:今村均中将。総兵力 25 万) 。作戦範囲は南北約 1 千キロ、東西約 2 千 5 百キロという広 大な地域であった。 11 月 23 日 参謀本部が第 8 方面軍及びその隷下の第 18 軍(司令官:安達二十三中将)にニューギニア作戦を発動。 ニューギニア東端のブナ、 ギルワ両地区で苦戦中の第 18 軍南海支隊を救うため、安達司令官が直接ブナ、 ギルワへ進駐して支隊の作戦を指揮したいと申し出るも、今村方面軍司令官が方面軍全体の態勢を整え る必要性から、これを制止した。→実行は 18 年 2 月に。 11 月 30 日 ルンガ沖夜戦。田中頼三少将が率いた駆逐艦8隻の艦隊は、米艦隊を認めて魚雷を発射し、米側に重巡 1隻沈没、3 隻大破の大損害を与えたが、米側から一斉射撃を受けたため避退したことから、田中少将は 後に指揮官としての責任を問われた。 12 月 17 日 大本営陸軍作戦課兵站係の高山係長が、眞田作戦課長(更迭された服部卓四郎の後任)に「海軍はすで に無力化している。航空撃滅戦に(勝算の)見込みはない。ガダルカナル(防衛)戦はもうやめるべき」 と進言した。 12 月 31 日 参謀本部が漸くガダルカナル(防衛)作戦中止を決める。同作戦への投入戦力は 3 万 1 千人余りであ ったが、うち戦死、戦病死者は約 1 万 9 千に上ったうえ、それまでに海軍は飛行機 1600 機以上、ベテラ ン・パイロット 550 以上を、また空母 1 隻、戦艦 2 隻を含む 21 隻を失っていた。 ガダルカナル島失陥により、ラバウルに進出していた航空部隊は、完全に孤立し、アメリカの航空部隊 と戦えなくなっていた。 18 年(1943 年)1 月 4 日 12 月 31 日の決定に基づき、今村方面軍司令官と山本連合艦隊司令長官に撤退命令が下される。今村司 令官は、ガダルカナル島に残された兵員の救出のため、矢野圭二少佐率いる約 1 千名の大隊援護の下に 駆逐艦により、ブーゲンビル島に輸送するという作戦をたてた。 矢野大隊は同月 14 日にガダルカナル島エスペランサに無事上陸した。 276 2月7日 2 月 1 日から始まった駆逐艦によるガダルカナル島からの撤退がこの日、完了。なお、しんがりを務め た矢野大隊は、その 3 分の 1 が戦死した。 翌々日の大本営発表では敗戦の事実を歪め、撤退を「転進」とするなど虚偽に満ちたものであった。 (ガダルカナル戦の損害) ブーゲンビル島に生還した兵士は 10,652 人であったが、敵兵火に斃れたもの約 5 千、マラリアや餓死 などによる死者(陸軍兵員)は約 1 万 5 千と、2 万名の戦病死者を出した。また、この戦闘のための補給 において 59 万トンの船舶を失い、折角手に入れた南方の石油その他の資源を運べない羽目になった。 けれども、作戦を立てた陸海両軍とも参謀の責任は一切問われることはなく、敗戦の原因・戦術上の誤 りなどが、その後の作戦に生かされることはなかった。 (ニューギニアにおける悲惨な戦い-1) 18 年(1943 年)1 月 2 日 東部ニューギニア北部海岸のブナの日本軍が玉砕。日本軍はポートモレスビー占領作戦に失敗の後、北 部海岸のブナにおいて 1,800 の兵力で 2 万を超す米軍と 4 ヶ月間、悲惨な戦いを続けた末の玉砕であっ た。 最後に残ったギルワ守備隊は玉砕の覚悟を決めたが、安達第 18 軍司令官は玉砕を戒め、クムシ河口へ と撤退させた。しかし、南海支隊の上陸以降の一連の地上戦闘により、投入された日本軍将兵 1 万 1,000 名のうち 7,600 名が戦死あるいは戦病死し、ブナ、ゴナ、ギルワにおける日本兵の捕虜はわずか 200 名 から 250 名余りという結果となった。 2 月末日 第 81 号作戦開始。第 18 軍第 51 師団主力 7 千名がニューギニアのラエに向かう。上陸目前の 3 月 2 日、敵の攻撃に遭い、僅か 20 分間で輸送船 7 隻全部と駆逐艦 4 隻が撃沈され、兵員の半数が海中に没し て死んだ。 そのため安達司令官はラバウルに引き返し、3 月 3 日に第 51 師団の師団長以下約 1,200 名がかろうじ てラエに上陸を果たした。 以降、ラエ、サラモア付近に展開した約 1 万の第 18 軍は、増援部隊の派遣、食糧、弾薬の補給は上級 部隊の必死の対策にも拘わらず絶望的で、制空海権がない中、優勢な火力、物量を誇る米軍と戦っては敗 退を重ねるばかりであった。 (敗戦への道) 17 年(1942 年)11 月 蒋介石の妻・宋美齢はその兄・宋子文(南京国民政府の財政部長などを歴任後、この時点では重慶政府 の外交部長)とともに F.ルーズベルト大統領から直々に招かれて渡米し、約半年間、反日のロビー活動 を、費用を惜しまずに行った。 翌 43 年2月には、ワシントン D.C.のアメリカ連邦議会において宝石をちりばめた中華民国空軍のバ ッジを着けたチャイナドレス姿で抗日戦へのさらなる協力を求める演説を行い、並み入る連邦議員のみ 277 ならず全米から称賛を浴びその支持を増やした。同年、蒋介石は反日思想の強い北京大学教授・胡適を 駐米大使に任命し、ロビー活動を一層強めた。 ルーズベルト大統領は宋兄妹らの懇願を受入れ、ラオス、カンボジア、ベトナム経由で盛んに戦略物資 を送り込み、蒋介石政権を支援した。 ルーズベルト大統領の母方の祖父はシナとのアヘン貿易で巨富をなした人物であったことから、同大統領は元々 シナ贔屓であった。 宋兄妹がアメリカ国内を巡回し、またロビー記者を雇って日本の非を訴え、支援を懇願した結果、アメ リカの世論も反日一色となった。 18 年(1943 年)1 月 3 日 重慶国民党政府外交部情報司長が「大公報」に「日本の陸軍を潰滅」し、 「日本の軍閥政権を打倒して こそ和平を確保しうる」 。 「中国は中国人の中国たるべし」との論文を発表。 1 月 14~23 日 英首相チャーチルと米国大統領ルーズベルトが北アフリカのカサブランカで首脳会談を行い、対独・ 日戦略を決めるとともに、枢軸国に対しては無条件降伏を求めることで合意した。 会談後、ルーズベルトは記者団に次のように語った。 「ドイツと日本の戦力を完全に除去しない限り、世界に平和が訪れることはないと確信する」 「ドイツ、イタリア、日本の戦力の除去というのは、この三国の無条件降伏を意味する。そしてそれは、 将来の世界平和を合理的に保障するものでもある。しかし、ドイツ、イタリア、日本の国民を破滅させる ということではない。これら三国が拠って立つ征服と多民族支配という哲学を打破するということであ る」 この“無条件降伏”ということは、 「敗者の言い分を全く聞かない」ことを意味したため、三国の指導者にとって は、 「徹底抗戦」しか道はないということになり、戦闘は激烈の度を加えることとなっていった。ルーズベルト大統 領が唐突に持ち出したこの言葉が、その後の戦況において、勝者となる側(連合国) 、敗者となる側(独、伊、日) 双方の指導者の思考を呪縛することとなった。 チャーチルは、ルーズベルトの発表には“日独に公然と「無条件降伏」を突きつければ、死にものぐるいで抵抗 され、膨大な犠牲と破壊を伴う戦争がますます長引くに違いないと」と内心激怒した。 ルーズベルトが「無条件降伏」を持ち出した背景には、原子爆弾開発の「マンハッタン計画」があったとされて いる。同計画は前年 8 月に着手され、12 月にはシカゴ大学において核分裂の連鎖反応に成功していて、ルーズベル トは開発に確信を持っていた。 「無条件降伏」はこの新兵器を使う大義名分になるだろうと・・・。 3月 中国派遣アメリカ航空部隊(初めはシェンノート少将指揮の義勇飛行隊)がアメリカ第 14 航空隊とし て再編成され、B24 新型爆撃機を配備。 4 月 17 日 日本軍が劣勢を挽回すべく、 「い」号作戦開始。 ガダルカナル島を奪取した米軍が同島の飛行場に大量の新型機を配備した。同島争奪戦で多くの艦艇・飛行機を失 った日本軍は、大規模な航空機動員による米軍撃滅を企図して「い」号作戦を立てた。 それは、ラバウルに再建途中の空母機動部隊の艦上機を進出させ、基地航空兵力と合わせて連合軍の海空戦力を叩 こうというものであった。目標はガダルカナルや東部ニューギニアの連合軍基地で、山本連合艦隊司令長官以下、宇 278 垣纏参謀長らの幕僚がラバウルに進出して直接指揮にあたった。 合計 400 機以上の航空機を動員して同月 11,12,14 日に攻撃を行った。 作戦本部は連日「大戦果を上げた」と大本営海軍部を喜ばせたが、米軍側の記録では、損害はごくわず かで、勝利を喜んでいる日本軍の方が大きな損害を出していた。 4 月 18 日 「大戦果を上げた」将兵の労をねぎらうため、山本長官らは2機に分乗してラバウルを発ち、500 キロ 先のブーゲンビル島ブインを目指したが、ブイン目前で山本機は待ちかまえる米軍爆撃機に撃ち落とさ れ、山本長官は戦死した(=海軍甲事件) 。後任は古賀峯一大将。 13 日に山本長官の視察日程が打電されたとき、米軍はその暗号をキャッチし、解読・翻訳の上、ニミ ッツ→ノックス海軍長官→スティムソン陸軍長官→ルーズベルト大統領へと報告され、大統領の許可を 得て山本長官撃滅作戦が決定されていた。 日本軍は、以後もその暗号を使い続けた海軍の作戦はその後も米軍に筒抜けであった。暗号班は暗号が解読され たと認めると、暗号を作成した上司や同僚の落ち度になるので、タブーが働いて、それを認めることを避けた。 しかし、その事例は過去にもあった。2 月 1 日、今村第 8 方軍司令官がブーゲンビル島のガダルカナル生還者を 見舞うためラバウルから海軍爆撃機でブーゲンビル島に向かったとき、ブイン飛行場がはるかに見え始めた時に敵 機 30 機に襲われた。このときは雲の中に紛れ込んで何とか敵の攻撃をかわすことができた。 山本長官の乗った飛行機が襲われたのも同じ状況であった。終戦後、元海軍少将高木惣吉氏はその著書の中で「ラ バウルからブインに打電した山本長官の出発と、その到着予想時間の無線電信暗号がワシントンの米海軍機関によ り解読され、そこからガダルカナル島の米航空部隊に対し『山本長官の乗機襲撃』の電命が発信された結果」と書 いた。暗号はすでに 2 カ月以上前から解読されていた…。 (角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」新潮文庫よ り) 5月 学徒戦時動員体制を発表。 この年に入ってから、国民生活は次第に窮迫化していた。また相次ぐ戦闘における人的損害が大きく、兵員不足 も明瞭になっていた。そのため政府は徴兵猶予としていた学生を動員することとしたものであった。 これらから、国民の間には東條政権への怨嗟の声が高まって行った。→東條政権は言論弾圧を強めていく。 同月、北アフリカでドイツ軍が連合軍に投降。 5 月 12 日 アメリカ軍(陸軍部隊約 1 万 1 千人)がアッツ島を奪回すべく上陸した。 日本側は、前年 9 月に主力をキスカ島に移していたが、アッツ島を無人にすることもできないため、4 月 18 日、米川部隊 2650 名を守備隊として派遣し、山崎保代大佐が司令官として着任していた。 山崎司令官の下アッツ島守備隊は優勢な米軍を相手に壮絶な戦闘を続けた。 5 月 20 日 大本営がアリューシャン方面からの撤退を決定。 「アッツ島は放棄、守備隊は玉砕」というもので、武 器弾薬の補給を行わなかった。 5 月 30 日 アッツ島守備隊が激戦の末、圧倒的な敵兵力に抗すべくもなく全滅。最後は約 300 人がバンザイ突撃 で玉砕した。山崎司令官は最後まで、先頭に立って戦い戦死したと言われる。その遺書には、 「負傷者で 279 突撃夜襲に参加できないものは全て自決させるか、注射で殺し、生きて虜囚の辱めを受けざるよう、覚悟 せしめたり」の一文があった。 生存者は 28 名に過ぎなかった。これにより、アリューシャン列島の制海・制空権を米軍に握られ、キ スカ島守備隊約 6 千人が孤立した。 5 月 31 日 御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定される。これは、 「帝国を中核とする大東亜の諸国家 諸民族結集の政略態勢をさらに整備強化する」ことを目的とした ここで、フィリピンとビルマには独立を与えるが、マレー、スマトラ、ボルネオ、セレベス、ジャワは 「帝国の領土と決定し、重要国防資源の供給地としてこれが開発並びに民心把握に努む」ことが決まっ た。…共存共栄は絵に描いた餅となった。 また、同時にフィリピン独立後の同年 10 月下旬に「大東亜各国の指導者を東京に参集せしめ牢固たる 戦争完遂の決意と大東亜共栄圏の確立とを中外に宣明する会議」 (大東亜会議)を開催することを決めた。 6月9日 瀬戸内海柱島沖安芸灘で戦艦「陸奥」がナゾの大爆発を起こして、乗艦の 1,400 名の将兵ともども沈 没。生存者は 355 名に過ぎず、1,121 名が艦と運命を共にした。355 名の生存者には厳しい箝口令が敷か れ、彼らは近くに停泊中の「扶桑」 、 「長門」に移送されたのち、激戦地に送られた。 この爆沈は国家の最高機密とされ、事実が明るみにされたのは、GHQ 統治下の昭和 22 年 10 月のこと だった。昭和 45 年から深田サルベージ社の好意により引揚作業が行われたが、引揚げられたのはごく一 部で大半は海底に眠ったままである。 この頃アメリカは、ラバウル航空基地を最終目標とする「ウォッチタワー作戦」の見直しを始め、ラバ ウルは無力化するにとどめて中部太平洋から直接日本本土を狙うよう戦略を改めるべく、陸海軍が協議 を始めた。 米軍がソロモン諸島で本格的な反攻を開始し、レンドバ島に上陸した。 7 月 22 日 アメリカが対日進攻作戦を決定。陸海軍の協定が成立して、二方面から日本本土へ向けて攻撃を開始 することとなった。 1、日本海軍のラバウル航空基地は占領しないで無力化する。 2、ニミッツの中部太平洋軍は、ギルバート諸島、マーシャル諸島攻略を行う。 3、マッカーサーの南太平洋軍はラバウル周辺のビスマルク諸島を占領してラバウルを無力化させ、西 部ニューギニアの進行と呼応してフィリピン奪回の作戦を促進させる。 4、ニミッツ軍の中部太平洋進行作戦とマッカーサー軍のニューギニア西進のどちらを主攻撃とするか は、今後の問題とする。 この頃には米軍は新造のエセックス型空母を 10 数隻揃え、多数の戦艦を失った日本海軍を質量ともに 凌駕していた。 7 月 29 日~8 月 1 日 キスカ島撤収作戦(指揮官は木村昌福少将)が、15 隻の戦艦、1 隻の補給艦、潜水艦隊により霧の中 280 敢行され、守備隊 5,183 人全員が旗艦「阿武隈」に収容され、米軍に発見されずに無事帰還した。奇跡の 撤収作戦と呼ばれる。 日本の艦隊がキスカ島に上陸したと思い込んだ米軍は、翌 8 月 3 万 4400 人の兵力でキスカ島攻略のため上陸 し、同士討ちを演じて死者 25 人、負傷者 31 人を出した。日本軍兵士に降伏を呼び掛けるビラ 10 万枚を撒いたが、 「捕虜」は犬 3 匹という「戦果」であった。 夏 海軍の青年士官2人が、戦況の好転を目指すには体当たりによる特攻しかない、と人間魚雷を構想し た。これが海軍に採用されることとなり「天を回らし、戦況を逆転させる」という願いから「回天」と名 付けられた。 (ニューギニアにおける悲惨な戦い-2) 18 年(1943 年)6 月 米軍がニュージョージア島に上陸。その後、米軍はその北西のベララベラ島に上陸。 8月4日 ニュージョージア島を手中に収めた米軍がムンダの日本軍を攻撃。激戦の末ムンダ飛行場を占拠され た日本軍南東支隊はコロンバンガラ島に後退した。 その後、米軍部隊はムンダ、コロンバンガラ島の日本陸海軍部隊を撃破し、進撃の歩を早めた。そのよ うな敵情を見た連合艦隊古賀司令長官が、連合艦隊航空部隊主力と有力な艦船部隊をラバウルとその周 辺に集めて、アメリカ軍の進撃を阻止すべく「ろ」号作戦を計画。 しかし、米軍の攻撃には抗しがたく、大本営陸海軍部はついに中部ソロモン防衛を諦め、現地部隊にコ ロンバンガラ島からブーゲンビル島への撤退を指示。 9月 コロンバンガラ島を失った日本は、東部ニューギニアを絶対的国防圏から外した。 9 月 28 日、10 月 2 日 コロンバンガラ島の日本軍(約 1 万 2 千人)は完全に孤立してブーゲンビル島への撤退作戦実施。米 軍が厳重に警戒する中、夜間 9 か所から分かれて船団に乗船し、無事撤収完了。12,435 人の陸海将兵の 命が救われた。南東支隊の佐々木支隊長は米軍からも、その有能な防禦の指揮を称賛された。 こうして、ガダルカナル島を奪回し、ニューギニアに前進基地を築くという日本軍の目論見は完全に失敗し、船 舶、海軍航空機、パイロット等の壊滅滅的損失=決定的敗北を招いた。 東部ニューギニアのサラモア、ラエ地区に残された陸軍 51 師団 8,500 人が撤退を命じられ、9 月、北 西部のウエワクを目指してサラワケット山系縦断を開始。しかし、兵たちは標高 4 千メートル級の山が あることも知らなかった。携行した 10 日分の糧食は途中で尽き、兵たちは次々に倒れていき、約 1 か月 をかけて山を越えキアリに到着したときには約 1300 人が命を落としていた。 その間、連合軍は「飛び石作戦」をとり、まず、ニューブリテン島対岸の要衝フィンシュハーフェンに 上陸した。ここを守る第 18 軍第 20 師団も敗退を重ね、やがて撤退した。 マダンを目指す第 18 軍は、途中のグンビに上陸した連合軍に行く手を阻まれ、山中を迂回して行軍す るほかはなかった。このように、連合軍は日本軍が向かう先へとカエル飛びで進撃していった。 11 月 5 日~12 月 3 日 連合艦隊が「ろ」号作戦として6次にわたる「ブーゲンビル島沖航空戦」なる攻撃を行い、 (空母を含 281 む多数の敵艦隊に対して) 「大きな戦果を挙げた」と報告。第三艦隊司令部は、それをそのまま連合艦隊 司令部と大本営海軍部に報告し、大本営海軍部の報道関係者もそのことを大々的に報道した。しかし、そ の後、敵艦隊に対して見るべき損害を与えていなかったことが判明。=いわゆる「大本営発表」の本格的 な始まり。 米海軍は、最新鋭の艦載機 F6F を導入しており、また艦船の対空砲火を急速に増強していたためであった。 19 年(1944 年)1 月 東部ニューギニアの陸軍 51 師団残存将兵がフィニステル山系の中腹を横断し、マダンを目指した(ガ リ転進) 。途中、病気と飢えで自殺する者も多かった。 3 月 25 日 第 18 軍は今村中将の指揮を離れ、西部ニューギニア担当の阿南惟幾第 2 方面軍司令官の下に隷属替え となる。 4 月 19 日 安達司令官率いる第 18 軍が同島マダンに進出。この未開の地に第 18 軍は約 10 万の兵力を集め、密林 を切り開いてさらに北方のウエワクへと、苦難の連続で軍を進めた。 この間、参謀本部では再三ニューギニア放棄論が出ては消えるなか、現地では徒に兵を損耗していっ た。 4 月 22 日 米軍がニューギニア北岸ほぼ中央のホーランジアとアイタペに上陸、占領した。のち、米軍は飛び石作 戦をとり、ウエワクを放置して、ニューギニアの北側海岸沿いに北西へと要地を攻略していった。 5月 ウエワク付近に所在した第 18 軍の安達司令官は、140km 離れたアイタペが作戦地域であったため疲 れ切った僅かの兵を駆って、同地を奪還すべく攻撃する決意を固め、準備を始めた。しかし、“土人道” があるだけだったため自動車道を急増したが、完成前に豪雨に見舞われ跡形もなくなった。糧秣の集積 も目標の 1 割に満たなかった。 6 月 20 日 大本営は、ウエワクに集結している日本軍第 18 軍を第 2 方面軍指揮下から南方軍に直属させた。南方 軍は第 18 軍に対し、 「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。 ウエワクに集結したとはいえ、東部ニューギニアに投入された日本軍 16 万の兵力は 5 万 4 千人にまで 減っていた。現地人 1 万 5 千人も行動を共にしていたが、7 万近い軍民を養う食料はなく、全員餓死する のは火を見るよりも明らかだった。当時、同軍吉原参謀長は「駐まるも死、進むも死」と記録している。 7 月 10 日 第 18 軍司令官・安達中将が “餓して死ぬよりは戦って死ぬ”という兵士にとって名誉ある死を選ぶ とともに「口を減らす」いう判断から、敢えて不利と分かっていたアイタベ攻略作戦を実行した。 米軍が 60 機の飛行機と 20 隻の艦艇で海空を制する中、第 18 軍は原始戦ながら勇猛に戦うも、遂に 8 月 3 日力尽き、翌日から傷病兵を担ぎながらの退却に移った。 この戦いで第 18 軍兵士約 1 万人以上が戦死した。 退却した将兵は、ウエワクを中心に集結を図り、安達司令官の下、密林の中で食糧、薬草の研究や現地 人に支援を求めつつ現地自活の生活を続けた。 282 12 月中旬 米軍と後退したオーストラリア軍が、飛行機約 50 機、砲約 100 門をもって第 18 軍に攻撃をかけてき た。素手に近い日本軍の必死の防衛戦は終戦まで続いた。 安達司令官は全員玉砕を覚悟していたが、その寸前に終戦を迎えたのである。この間、第 18 軍は大半 が飢えや病気で死ぬという凄絶な年月を過ごし、何とか 1 万 3 千人が終戦時まで生き残った。 なお、東部ニューギニア戦線においては、上陸した兵士全体の 8 割にあたる 12 万 7600 人が亡くなっ た。同戦場は、巷間「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われたほどの過 酷な戦場であった (敗戦への道-2) 9 月 30 日 御前会議が開催され、 「今後採るべき戦争指導の大綱」を決定。戦局不利に鑑み、 「概ね 19 年中期を目 途とし、米英の進攻に対応すべき戦略態勢を確立しつつ、随時敵の反攻勢力を捕捉破摧す」として、絶対 国防圏を縮小した。 外枠を千島、小笠原、内南洋中西部(マリアナ、カロリン) 、西部ニューギニア、スンダ列島、ビルマ と指定し、米軍の反攻を阻止しようとした。 また、シナ大陸からのアメリカ航空部隊による空襲を警戒して、 「速やかに支那問題の解決を図る」と していた。 しかし、政府は「徹底抗戦」 「本土決戦」を唱える軍部に圧倒されていた。また、陸海軍省と統帥部との対立があ ったうえ、陸海軍の対立も深刻で、戦争指導体制はなきに等しかった。兵力も著しく消耗していたから、敗勢を食 い止めることはもはや不可能で、降伏の日まで悲惨な玉砕戦が続くことになる。 すなわち、ソロモン諸島、アドミラルティー諸島、北東ニューギニアに展開する軍隊は戦闘の継続を命じられた ものの、重要な拠点や作戦基地ははるかに後退した場所に設置された。 ルーズベルト大統領は、シナの基地からの日本爆撃を計画し(マッターホルン計画) 、11 月のカイロ会議の開催前 に英・中首脳に協力を要請した(カルカッタに基地、成都に 5 飛行場建設) 。→翌年 4 月、成都に飛行場が完工し、 最初の B29 がインドから着陸。半年後には 83 機の B29 が第 20 爆撃隊として配備された。 10 月 学徒戦時動員が実施に移され、明治神宮外苑で学徒出陣壮行会が開催される。以降、学生たちも戦場に 送られるようになった。 反東條の急先鋒だった中野正剛が逮捕され、自決に追い込まれた。翌年 2 月には、 「竹槍を持っては戦 えない」と書いた毎日新聞記者の新名丈夫は 37 歳にもかかわらず、二等兵で懲罰招集された。 11 月 1 日 アメリカ軍がソロモン諸島ブーゲンビル島中部西岸タロキナに飛行場を建設すべく上陸した。アメリ カ軍の目的は、フィリピンに進撃するため、ニューギニアとニューブリテン島に挟まれた海上交通の要 域ダンビール海峡を突破する必要があり、その作戦の一環としてブーゲンビル島飛行場を無力化するこ とにあった。 この頃にはアメリカ軍は新造の空母や戦艦、防空巡洋艦など多数を擁し、戦闘機もグラマンなどゼロ戦 を上回る新鋭機を投入しており、日米海軍戦力比は完全に逆転していた。 タロキナ奪還を図る日本軍は陸軍(第 17 軍第 6 師団中心)4 万人、海軍(第 8 連合陸戦隊と設営隊) 283 2 万人で、全く補給のないままの戦闘を強いられ、頑強な米軍兵力に阻まれて壊滅的な敗戦を喫し、次第 に島内に孤立していった。米軍は漸次増強され、最終的には 12 万 6 千人に達した。 米海軍が転進していった後は、オーストラリア軍が日本軍との戦闘を継続し、日本軍はジャングルに籠 って食糧、武器、弾薬のない中、絶望的な抵抗を続けたが、飢えと病気で次々と斃れていった。 終戦時までこうした状態が続き、日本軍の戦死者は 3 万人近くと言われる(その多くは餓死、病死) 。 一方で米軍の戦死者は 1 千 200 人に過ぎなかった。 11 月 5 日 第二艦隊主力の大型巡洋艦部隊がトラック島を発ってラバウル港外に到着直後に米軍機の猛攻を受け て大損害を蒙る。 11 月 21 日 ニミッツ軍が 10 日間の激しい爆撃と艦砲射撃の後にギルバート諸島のタラワ島とマキン島に上陸。タ ラワ島に堅固な要塞を築いていた守備隊(隊長:柴崎恵次少将)は頑強に抵抗したが、25 日、両島の守 備隊は全滅した。 12 月 14 日 米軍がダンビール海峡の制海権を確立するために、ニューブリテン島南岸のマーカス岬一帯に激しい 空襲を行ったのち、輸送船 5 隻、駆逐艦 6 隻を動員し、2~3 大隊が上陸してきた。 マーカス岬一帯にあった第 17 師団守備隊は 4 分の 1 もの死傷者を出して、潰走。救援に駆け付けた小 森大隊(実際は兵力は 2 個中隊程度)と合流して、以後、激しい戦闘が戦われた。 この頃、米軍はラバウルにも連日大規模な空襲をかけるだけでなく、ニューブリテン島ナタモ、ツルブ 地区からも上陸し、同島の西部一帯は米軍に抑えられてしまった。 日本側の損害は大きく、艦艇の戦力は僅かに駆逐艦 7 隻(うち 5 隻は輸送用)、潜水艦 9 隻のみとなっ た。一方、南太平洋の連合軍は駆逐艦以上の艦艇が 120 隻もあり、翌月上旬には同島中央部以西、以南、 さらに海峡を越えてニューギニア東部のマダンあたりまで、すなわちダンビール海峡の東西両岸は連合 軍が完全に制圧した。 (大東亜会議とカイロ宣言) 枢軸国側では、この年(1943 年)の 1 月、ドイツが東部戦線においてスターリングラード包囲戦に敗 れ、敗走を重ねていた。また、イタリアも 7 月に内部崩壊して首相のムッソリーニが解任されていた(→9 月に降伏) 。 日本も敗戦濃厚となるなかではあったが、西欧帝国主義諸国を追い払った東南アジアでビルマ、フィ リピンの独立を認め(ただし、日本軍は駐留を続けたまま)、大東亜戦争における日本の理念を占領地の 代表に徹底・確認すべく、大東亜会議を開催することなる(発案者は外務大臣重光葵)。 18 年(1943 年) 年初の帝国議会において、ビルマ、フィリピンの独立を認める。 8月1日 日本政府・軍の後押しによりビルマで独立準備委員会が建国議会の成立と独立を宣言、 「ビル マ国」が誕生。バー・モウが国家代表に推戴された。 10 月 14 日 284 フィリピン国民議会においてホセ・ラウレルが大統領に選ばれて就任し、独立を果たす。 11 月 5~6 日 大東亜会議が東京で開かれ、日本はアジアの盟主としての政策を続けるとの声明(正文は英語)を出し た。 この会議は重光葵の発案により「日本が大東亜戦争の目的と理想を表明し、参集した各国がそれを確認 すること」を目的として開催され、当時のアジアにおける全ての独立国6か国と自由インド仮政府の代 表が一堂に会して互恵平等と人種的差別の撤廃を高らかにうたった。 この会議は、有色人種の国々による世界初のサミットであるとともに、1941 年 8 月の米英両首脳によ る大西洋憲章と真っ向から対峙するものであった。 出席者 日本:東條英機内閣総理大臣(大東亜共同宣言中には「大日本帝国」ではなく「日本国」と 表記されている) 、中華民国(南京)国民政府:汪兆銘行政院長、満州帝国:張景恵国務総理大臣、フ ィリピン共和国:ホセ・ラウレル大統領、ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣。代理出席 タイ王国: ワンワイタヤーコーン(王族の一人。注を参照) 。 オブザーバー参加:インド: 自由インド仮政府首 班チャンドラ・ボース 注;タイは独立国であったため、被占領国であった他の国と同列に扱われることに不満の意を表明し、国王 又は総理大臣の出席を断った。 この会議の場で、日本はシナ南京政府代表の汪兆銘に、シナにある全権益を捨てることを表明した。 [大東亜会議において採択された 5 か条の綱領] 1 大東亜各国は共同して大東亜の安全を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設す 2 大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す 3 大東亜各国は相互に伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢し、大東亜の文化を昂揚す 4 大東亜各国は互恵の下緊密に提携しその経済の発展を図り大東亜の繁栄を増進す 5 大東亜各国は万邦との交誼を厚うし人種的差別を撤廃し、普(あまね)く文化を交流し、進んで資 源を開発し世界の進運に貢献す 人種差別の撤廃に意を砕いたことは、ドイツと大いに異なるところである。しかしながら、この時期での開催は、 世界にアピールするための会議としては遅すぎたと言わざるを得ないものであった。 しかし、H.S.ストークス(イギリス人、元 NY タイムス・ロンドンタイムス東京支局長)は加瀬英明との共著「な ぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか」において、大東亜会議を評価し、次のように書いている。 「日本は(侵略戦争を戦ったのではなく)いったん戦端が開かれると、アジア人のためのアジアを創造する強い 情熱によって駆られた。これこそ、日本人による大きな国際貢献だった」 「(大東亜会議が)人類に人種平等をもたらす出発点となった。まさに日本史における輝かしい一瞬だった」 続けて「今日、日本がアジア諸国から尊敬されなくなったのは、アメリカに追従して経済的利益だけを追求し、先 の大戦に敗れるまで抱いていた気高い精神を失ったからに違いない、歴史を失った国には品格がない」と断じてい る。 11 月 21 日~12 月 1 日 米(ルーズベルト大統領)英(チャーチル)シ首脳によるカイロ会議が開催された。 285 この会議は、2 週間前の大東亜会議をみた米英が、同会議に参加していなかった蒋介石をルーズベル ト大統領が招いて急遽開催された。 議題は、日本の無条件降伏、満洲・台湾・澎湖諸島のシナへの返還、朝鮮の独立と自由などであった。 これに臨んだ蒋介石は、英米にヒマラヤ越え空輸による援助の増大とビルマルート再開のためのビル マ反攻実施時期の明示を強く希望し、また、日本に対して賠償を求める気持ちはないという基本姿勢で 臨み、天皇制の存廃については日本人自身に委ねるべき、沖縄については領有権を主張しないと述べた。 12 月 1 日に発表された「カイロ宣言」 (ただし、議事録が残り、宣言案も存在したが、思惑の違いか ら3首脳の署名はなされなかった。これは蒋介石政権への台湾返還を明記することについて、チャーチ ルが反対だったためである)において、対日戦の継続を確認し、日本の無条件降伏を目指すとした。 続いて開催された米英ソ首脳によるテヘラン会議において、ソ連が対日参戦意向を示し、英国の主張に 沿った形でビルマ反攻は翌年秋との合意をみた。 (カイロ宣言) 「三大同盟国は・・・野蛮なる敵国に対し仮借なき弾圧を加うるの決意を表明せり」 「三大同盟国は日本国の侵略を制止し、かつこれを罰するため、今次の戦争をなしつつあるものなり」 「日本国の無条件降伏をもたらすに必要なる重大かつ長期の行動を続行すべし」 11 月 28 日~12 月 1 日 スターリンが初めて加わって、テヘランで米英ソによる連合国の対独・日戦終戦に向けての作戦を議 題とする会談が持たれた。 対独西部戦線の結成、ビルマ奪回作戦、フランス上陸作戦、地中海作戦における各国間の調整のほか、 ドイツ降伏後におけるソ連の対日参戦も話し合われた。 (米軍の攻勢の激化) 18 年(1943 年)10 月 12 日~ ラバウルの第 18 軍基地が連日、150 機~400 機の米戦闘機、爆撃機の大編隊攻撃にさらされるように なった。 11 月 19~20 日 アメリカの中部太平洋部隊(司令官は R.スプルーアンス)がギルバート諸島の日本軍基地に対して数 百機の艦載機で空襲し、さらに艦砲射撃を浴びせ、大打撃を与えた。米海軍航空部隊は新鋭機を投入し て、攻勢を強めてきていた。 11 月 21 日~23 日 スミス少将率いる第 2 海兵師団約 18,000 人(援護の人員を含めると約 3 万 5 千人)がギルバート諸島 のマキン島、タラワ島に上陸を開始した。マキン島の日本海守備隊 700 人は 22 日に全滅。タラワ島で は、約 48,800 人の守備隊のうち、軍属・労務者約 2,200 人を除いた海軍特別陸戦隊(2567 人。司令官: 柴崎少将)が抵抗を続けたが、援軍のないなか 23 日に玉砕した。生存し、捕虜となった者は僅かに 8 人 に過ぎなかった。米軍も 933 名の戦死者をだした。 タラワの守備陣地は、 「100 万の敵の攻撃の耐えるほど堅固だ」と軍参謀は豪語していたが、補給もない中、圧倒 的な敵の戦力の前には無力であった。ラバウルの日本艦隊は、アメリカの機動部隊が待ち構えているため援軍出動 をすることができなかった。このように、アメリカにギルバート諸島を奪われるに至ったことなど、太平洋での戦 286 闘が負け続けだということは、国内では一切知らされていなかった。 19 年(1944 年)1 月末 マーシャル諸島の主要航空基地が、米国機動部隊の奇襲により壊滅し、2 月 6 日にはクェゼリン環礁も 奪取された。 2 月 17~18 日 カロリン諸島のトラック島・夏島にある日本海軍連合艦隊根拠地に対し、米機動部隊が大攻勢をかけ た。日本軍は「米軍来襲の公算大」という情報が寄せられていたにもかかわらず、警戒を怠っていた。 スプルーアンス率いる機動部隊は、空母 9 隻、戦艦 6 隻、その他重・軽巡、駆逐艦など 53 隻という大部隊であっ た。 日本海軍の死傷者は1万 5 千人に上り、1万トンタンクが全て破壊され、陸上施設だけでなく飛行機 270 機と艦船 47 隻を失うという壊滅的な打撃を受けた。 同日夜、米機動部隊はラバウル湾内に侵入し、熾烈な艦砲射撃、焼夷弾による焼尽作戦を行った。これ により、入港したばかりの日本軍輸送船 4 隻も全部撃沈された。 以後、ラバウル周辺の海上輸送は全面的に途絶するとともに、ラバウルでの航空作戦は不可能となっ た。なお、この時期までに日本軍が失った航空機・搭乗員はそれぞれ7千を超えた。 2 月 20 日 連合艦隊司令長官は直ちに在ラバウル航空兵力のトラック諸島への転用を命じ、第 8 方面軍の司令部 もパラオに移した。このため、南東方面には1機の海軍航空機もなくなり、ラバウルはその戦略的威力を ほとんど喪失し、陸海軍部隊(今村均陸軍司令官以下約 10 万人)が孤立状態となったが、今村司令官は、 23 日、第 17 師団に向けてラバウルに全力を集結すべく転進命令を発した。 以降、敵中に取り残されたラバウル、トラック、ニューギニアなどの守備隊は、輸送船団の不足から転進すらま まならず、終戦まで病気と飢餓に悩まされた。 アメリカ軍は、日本軍の拠点的基地のあるラバウルを迂回して進撃することを決定し、2正面同時攻撃 作戦に着手した(ラバウル攻略中止は、すでに 8 月のケベック会談において、マッカーサーの提案によ り、決められていた。会談に臨んだマッカーサー、ハルゼー提督、クルーガー将軍及びオーストラリア軍 のブレーミー将軍はラバウルを包囲し、立てこもる日本軍将兵を飢え死にさせることにしたのである)。 ⇒・海軍を主力とする部隊:マーシャル諸島から西進する。 ・陸軍を主力とする部隊:ニューギニアの北岸を西北に向かう。 連合国軍の“日本軍将兵飢死作戦”に対抗して、今村司令官は地下に大要塞を築くこととし、洞窟を掘 り進めた。洞窟の総延長は約 450 キロにおよんだという。→連日の空襲に耐えながら、19 年末頃には、 人員(約 7 万人) 、兵器、車両、弾薬、糧食、被服など一切が地下に埋められるようになり、空襲による 被害はほとんどなくなった。 2 月 21 日 東條首相兼陸相兼軍需相が自己の権限を強化して難局を乗り切るため参謀本部総長をも兼務した。同 時に嶋田海相も軍令部総長を兼務した。 その目的は政務と統帥が分離した制度・組織ではもはや大規模な戦争を戦いえないことを是正するためであった が、陸軍草創期の内政的事情から続いてきた悪しき制度は、時代の経過とともに陸海軍それぞれの既得権として硬 287 直化し、時代の変化に適応する改革を阻んでいた。 問題は、東條という一人の人間が総理・陸相・参謀本部総長という過大な権力と任務を、適切に運用・処理でき るか、ということにあった。石原莞爾が東條を「東條上等兵」と揶揄したように、東條は軍事官僚としては有能で はあったが、国家の意思と力を統一し、総合して運営する指導者としての資質と能力には欠けていた。 (黒野耐「参謀本部と陸軍大学校」より) この人事については、陸軍では杉山参謀本部総長と山田乙三教育総監が、海軍では永野軍令部総長が日 本軍伝統の鉄則を破るものとして反対した。東條は天皇の内諾を得ているとして強行したが、このこと は、後に近衛文麿らの倒閣策動を招くこととなった。 同月、東條内閣は決戦非常措置要綱公布した。マスコミには「一億火の玉」のかけ声が躍るようになる なか、竹槍をもってアメリカ兵に似せた人形に体当たりする訓練が始まり、中学生も学業をやめて軍需 工場に動員されるようになる。 東條首相が「国土の一木一草まで戦う」 、とか「戦争は負けたと思ったときが負け」などの演説を行っ た。 3 月 30、31 日 連合艦隊が本拠を移したばかりのパラオ諸島基地に米豪連合軍が大空襲を行う。 3 月 31 日 古賀連合艦隊司令長官らが、米豪連合軍からの圧力をかわすためパラオ諸島からミンダナオ島のダバ オへ退避を図ったが、古賀司令長官の搭乗した一番機が行方不明となり、さらに福留繁連合艦隊参謀長 の搭乗した二番機がセブ島沖に不時着した。 これは、司令部に「 (大本営?から)米大輸送船団がパラオ島に接近中」という重大情報が入ったため、米軍の上 陸を恐れた司令部がダバオへの移動を図ろうとしたものである。しかし、退避の原因となった情報については、大 本営は発信していなかったし、パラオの司令部にも重心の記録はなく、幻の情報であった。この「退避」は、後に 「ダバオ水鳥事件」と言われた。 福留参謀長ら 9 名は泳いで島に辿り着いたところでゲリラの捕虜になり、3 月 8 日に作成されたばか りの新 Z 号作戦計画書(機密作戦命令第 73 号) 、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機 密を奪われた(海軍乙事件) 。 日本側のセブ島の守備隊長が武力を背景にゲリラに釈放を迫ったため、部下に対し日頃「生きて虜囚の辱めを受 けるな」と訓示していた立場の福留ら 9 名は釈放されたが自決することなく帰還した。しかし、奪われた新 Z 号作 戦計画書、暗号などはその後米軍に渡り、米軍の日系人暗号解読要員により解読された上、英文に翻訳されて、前 線に送られた。 新 Z 号作戦計画書を奪われたのみ拘わらず、海軍は、その後のマリアナ沖海戦(6 月) 、レイテ沖海戦(10 月)を、 その作戦計画のとおりに実行し、惨敗を喫した。アメリカ軍はその戦闘を「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄したと いう。 鹵獲された書類は、米軍によりその後も日本本土空襲などで活用された。暗号書類は戦後公開されたアメリカの 公文書の中から発見されている。 福留参謀長は事情聴取されたものの海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられる事も、予備役に退かされる 事もなかった。海軍は海軍大学首席卒業のエリートを組織ぐるみで庇ったのである。 福留は、その後も第二航空艦隊司令長官としてレイテ沖海戦に参陣するなど海軍内の要路に留まった。戦後は連 288 合軍に一時期収監されるものの無事復員し、一時、旧海軍軍人団体「水交会」理事長を務めたが、結局事件によっ て軍機を奪われた事を認めようとすることはなく、生涯己が責任を自覚する発言はなかった。 (シナ側の国際宣伝と大陸での日本の作戦) 重慶の国民党政府(中華民国)では、日本への宣戦布告(昭和 16 年 12 月 8 日)以来、国際宣伝を一 層強化し、とりわけ米国世論を味方につけるよう努めた。 そのため、蒋介石夫人の宋美齢(孫文夫人宋慶齢の妹で浙江財閥の一族)が 1942 年 11 月に旧知のル ーズベルト大統領夫人を頼り、大統領からの招待という形で渡米し、各地で講演を行って莫大な軍事援 助の獲得に成功したうえ、実兄の財政部長宋子文(ハーバード大卒でルーズベルトと旧知の間柄)の人脈 により 43 年 2 月、連邦議会における演説を実現し、世論を味方につけた。その結果、タイム誌、フォー チュン誌、ライフ誌はこぞって親チャイナ反日のキャンペーンを繰り広げた。 昭和 18 年のシナ戦線では 2 月下旬から 3 月中旬にかけて江北殲滅作戦が、3 月には江南要域占領作戦 が、5 月中旬から 6 月上旬にかけては江南作戦が行われた。これらは、米陸軍航空部隊の基地が東方へ移 動するのを阻止するという見地から実行され、一定の成果があった。 しかし、士気維持や兵站の面で問題が蓄積してきていた。日本軍が占領していたのは都市部だけであ り、食糧の多くを現地調達に依存していたため、これがシナの人々―とくに農民を失望させ、敵対関係も 嵩じてきていた。 そのため、日本政府は南京国民政府の繆斌(孝試院副院長)を通じての和平工作(昭和 16 年)をはじ め、駐華米大使スチュワートを通じての和平工作、支那派遣軍の今井参謀副長を通じての現地軍による 和平工作など、シナでは終戦間際まで和平に対する努力が続けられたが、蒋介石側は相手にしなかった。 19 年(1944 年)1 月 5 日 三笠宮崇仁親王(支那派遣軍参謀で「若杉参謀」と呼ばれていた。前年 1 月着任)が大本営への転任を 控えて、南京の支那派遣軍総司令部食堂で教育講話を行い、次のように軍の反省からシナ事変の現状批 判にまで言及した。 [蒋介石が抗日になった理由] 満洲の独立、日本の華北に対する野心、支那事変勃発以後日本軍の暴虐行為(良民の殺傷、強姦、 放火など) 、国民政府に対する援助の不足又は妨害 [共産党猖獗の原因] 共産軍の軍紀の厳正さ、日本軍の軍紀の弛緩・横暴(民間日本人にすら差別的、シナ農民などか らの有無を言わさぬ食料等徴発など) 共産軍は正規軍だけで 50 万近くに達し、華北・華中で人口の 5 割を勢力下におき、民兵も 200 万を擁してい た。このため、日本軍は共産軍(民兵を含む)に対して容赦ない攻撃を加えた。 [汪政権の実態] 南京政府は日本の侵略主義を隠蔽せんが為の小細工にすぎない、同政権の下級官吏・軍人は道 義に基づく抗戦意識が薄弱又は金儲けに奔走 1月 前年 12 月 1 日に発せられたカイロ宣言に米英とともに中華民国(蒋介石政権=日本軍はシナにおける 289 単なる地方政権としか見ていなかった)が加わって、日本に無条件降伏を求めたことに日本軍首脳部は 激怒し、同政権を徹底的に叩くべく、大がかりな作戦を検討し、一号作戦を立案した。 この作戦は、服部卓四郎が企画立案したもので、①華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保、②南方資源地帯 と日本本土を陸上交通路で結ぶ、③米空軍の B29 のシナ大陸配備を抑止するため、その基地になると予 想される飛行場の占領、④国民政府軍がアメリカからの援助を受けているのを断つこと及び継戦意思の 破砕を目的とした。 (ビルマの戦い、インパール作戦) 日本のビルマ方面軍(第 15 軍)が 17 年 2 月、ビルマに進攻した。その目的は、連合軍がインド、ア ッサム地方のレドからビルマ領に入ってミイトキーナ―バーモ―雲南経由で蒋介石軍に物資を補給する 援蒋ルートのひとつ「レド公路」を遮断するためであった。 進軍した第 15 軍は、3 月 8 日には首都ラングーンを占領、5 月中旬にはビルマの各所を占領し、ビル マ作戦は終了した。 17 年末から英軍が反攻を開始し、英軍は軍事拠点を置くインド東部マニプール州州都インパールから、 3 千メートル級のアラカン山脈を越えてビルマに進行してきた。補給は航空機からの空中投下に頼ってい た。この攻撃により、南東方面の情勢が悪化した。 18 年(1943 年)3 月 日本は第 15 軍だけでは手薄だとして、ビルマ方面軍(司令官・河辺正三中将)を新設し、兵力を増強 した。同方面軍第 15 軍司令官となった牟田口廉也中将は、ビルマの守りを安泰にし、インド独立運動を 活発化させることを目的として、インド・インパールからアッサムまでを攻略する作戦を熱心に主張し た。 18 年 9 月 陸軍参謀本部がアッサムまでは認めないものの、インパール攻略の準備を許可。 11 月 チャーチルとルーズベルトによる 1 月のカサブランカ会談における合意(連合軍の反攻は 11 月ごろか らとする)に基づき、連合軍の米支新編第 1 軍(米式装備の支那軍でアメリカのスティルウェル将軍が 率いた)が、フーコン谷への浸透から始まるビルマへの本格反攻を開始した。また、英印軍もカレワとア キャブとの 2 方向から反攻を開始した。 応戦するため第 18 師団(菊兵団。九州出身者で編成された精鋭部隊)がフーコン谷に入ったが、制空 権はなく、戦車、輸送力いずれの面でも英印軍より劣っており、物資の補給は全くなかったため、転進、 退却を強いられ、最後には兵団の 8 割が命を落とした。 →翌年 1 月末、ビルマ方面軍第 33 軍がモンユを撤退したことから、蒋介石が頼みとするビルマルート は 19 年 1 月 27 日に再開された。 同年末 第 15 軍司令官・牟田口中将が、山岳地の徒歩行軍によりインド領内インパールを占領しようとする「イ ンパール作戦」を正式申請。約 9 万の兵を動員して 19 年 3 月中の 20 日間で作戦終了の計画であった。 占領後の食糧は、航空機による物資輸送が見込めないため現地調達することとしていた。 牟田口司令官の作戦計画は、制空権がイギリス側にあるうえ、日本の航空兵力は英軍の 5~6 分の1し 290 かない状況の中で、インドゥーからイラワジ河、チンドウィン川を渡河し、3千メートル級の高地が続く アラカン山系パトカイ山脈の峻厳な山地における 200~300 キロにも及ぶ徒歩行軍を、補給を考えること なく立案されたものであった。 しかし、最初から食糧や弾薬の補給に問題があり、困難だという反対論が強かった。 参謀総長を兼ねていた東條陸相は、大東亜会議でチャンドラ・ボースがインパールでの共闘を熱心に申 し入れたこともあってこの作戦を受け入れ、正式に実行が決まった。 この作戦には、第 31 師団長・佐藤幸徳中将、第 15 師団長・山内正文中将、第 33 師団長柳田元三中将 らが反対した。牟田口司令官は反対する同軍参謀長・小畑信良少将を罷免し、南方軍においても、インパ ール作戦実施に強硬に反対していた総参謀副長稲田少将が更迭され、次第に反対を口にするものはいな くなった。 ビルマ方面軍司令官の河辺正三中将や南方軍司令官の寺内寿一元帥は「敗色濃くなる戦局を一気に打 開したい」という思惑も働き、 「牟田口がそこまで言うなら、やらせてみよう」と人情に流され、大本営 も作戦許可を与えてしまった。 その結果、翌 19 年 1 月 7 日、大本営が同作戦を認可した。 19 年(1944 年)3 月 3 個師団、総員約 8 万 5 千名が 3 方向からインパールに向かって出撃し、作戦が開始された。攻撃に あたったのは、第 15 軍 33、31、15 師団で、33 師団は南側から、31 師団はコヒマ占領の後、15 師団と ともに北側からと、英軍を挟み撃ちにする作戦であった。計画としては、3 週間を予定し、天長節にあた る 4 月 29 日までにインパールを占領するとしていた。 隊員は各自 2,3 週間分の米並びに弾薬など少なくとも 40kg を超える荷を担いで歩かされた。また現地 住民から徴収した数千頭の牛に米や弾薬を運ばせ、用が済んだら、その牛を食べようという算段であっ た。しかし、牛の大半は途中のチンドウィン河で溺れ死に、1 頭もアラカン山を越えることはできなかっ た。 4月6日 第 31 師団は、コヒマを陥とすも戦車を前面に立てた圧倒的な兵力の英軍による反撃に遭って南下を阻 まれ、15 軍もインパールとコヒマの間で孤立してしまった。部隊は次第に糧秣や家畜を失い、悪疫はび こる密林の中で長期の戦いを強いられ、だんだん疲弊していき、マラリアに冒されて倒れる者、餓死する 者が相次いだ。 補給については、200 トンの補給を受ける約束であったが、全く実行されなかったという。 この戦闘において、かつて日本軍が養成したビルマ防衛軍は、日本軍に反乱を起こし、連合国軍につい た。これは、養成期間中における厳しい日本式訓練への反感から起きたものであった。 この時期、後方基地からの輸送が途絶したために、ラバウル地域で陸海軍部隊が孤立していた。本土からみると ラバウルよりも遥かに遠いビルマで新たに大作戦を展開することは、実情を無視する無謀な作戦以外何物でもなか った。 5月 ビルマルート再開のため中華民国雲南遠征軍 10 万が怒江を渡河して反攻を開始し、次第に日本軍(第 56 師団)を圧倒していった。これは、ルーズベルト大統領の強い要請を受けた作戦であった。 雲南省拉孟で日本のビルマ方面軍の第 56 師団第 113 連隊野砲兵第 3 大隊(1260 名、大隊長金光少佐) 291 が中華民国駐印軍(約 3 万名)に包囲され、猛攻を受ける。 9 月 7 日に至って、同第 3 大隊が全滅し、同月 15 日には北方の騰越の守備隊(2025 名)も玉砕した。 5 月 17 日 日本軍が守るミイトキーナ飛行場に米支軍がグライダーで着陸し、攻撃を開始した。 丸山大佐率いる守備隊は中・英両軍に攻められ、1200 名の守備隊のうち脱出できたのは 800 名に過ぎ なかった。同守備隊を守るべき指揮官として派遣された水上少将は、参謀本部から「水上少将はミイトキ ーナを死守すべし」との命令を受けており、守備隊の脱出を見届けた同少将は拳銃で自決した。 こうした戦況のなか戦地の隊は総崩れとなり、兵は飢えに苦しむ状況を見て、5 月末、第 31 師団長の 佐藤幸徳中将による自身の死を賭しての抗命事件も起こったが、牟田口司令官は聞く耳を持たなかった。 →ミイトキーナは 8 月 3 日、中・英連合軍に占領された。 6月3日 インパール近くまで迫っていた第 31 師団の佐藤師団長は、補給が得られないため兵たちが食料不足 で戦闘意欲を失っていったのをみて、独断で指揮下部隊に退却を命令。 これに対し、第 15 軍牟田口司令官は病気の山内 15 師団長をはじめ3師団長を相次いで更迭し、攻撃 続行を命じた…作戦開始時の師団長が一人もいなくなるという異常事態に。 7月9日 河辺ビルマ方面軍司令官が、補給が困難なことから行き詰まりの果てインパール北部の第 15 軍に撤退 を命令して、作戦は失敗に終わった。 以降、撤退する各部隊はビルマを南東方向に縦断し、タイ北部チェンマイに達する敗走を続けたが、多 くは飢えと病気で倒れ、終戦の日まで惨憺たる状況が続いた。 公式発表では、インパール作戦における動員 8 万 6 千人のうち戦死者は 30,502 人で、その殆どは餓死 者であった。また、戦傷者は 41,978 人と発表されたが、戦傷者の多くが後に現地で死亡したため、7 万 5 千人弱すなわち投入兵力の 90%近くの将兵が戦死ないし後に死亡した。その半数以上は病死又は餓死 だったと言われている。無謀な作戦並びにこの間の戦況は、国民には全く知らされなかった。 牟田口司令官は、自らの身を前線から南に遠く離れたメイミョウ(ビルマの軽井沢に該当)の軍本部に 置きながら作戦実行命令を出したものであったうえ、作戦の大失敗を部下の師団長に押しつけた。しか も、作戦中止命令が出されるや、将兵の苦難をよそに一人先に退却した。 →牟田口は 8 月に参謀本部付けを命じられると、逃げるように東京へと帰って行ったが、軍上層部から、自らの 責任を問われることはなく、1 か月後には陸軍予備士官学校の校長となった。軍上層部は牟田口の責任を問えば、自 らにも責任が及ぶとの思惑からの処遇であった。 こうしてインパール作戦は大失敗に終わったが、後にイギリスの歴史家ホプスバウ教授は大著「過激な世紀」の 中で、インドの独立はガンジー、ネルーによる独立運動によってもたらされたものではなく、日本軍とインド国民 軍が協同してインドに侵攻したインパール作戦によってもたらされたと書いた。 12 月上 米支連合軍がバーモの日本軍守備隊(第 2 師団捜索第 2 連隊及び歩兵第 16 連隊第 2 大隊の 1.180 名) を完全包囲し、攻撃した=イラワジ会戦。同月 15 日 、第 2 連隊の原大隊長が残った兵 930 名を率いて、 応援に来た 18 師団歩兵 55 連隊山崎支隊 3,250 名の協力を得て濃霧の中、脱出に成功する。犠牲者は 30 名にすぎなかった。 292 20 年(1945 年)初頭 日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対して決起した。 3 月下旬 日本軍に協力的なビルマ国軍の指導者アウン・サンが「決起した反乱軍に対抗するため」と称してビル マ国軍をラングーンに終結させた。しかし、終結と同時に日本軍に対して攻撃を開始し、各地に残ったビ ルマ国軍も一斉にイギリス軍と呼応して抗日戦を開始した。 4 月 23 日 日本軍司令部が居留民らを置き去りにしたままラングーンを撤退。英印ビルマ軍は、5 月 3 日ラング ーンを占領。各地に残された日本軍は敗戦の日まで、孤立無援の苦しい戦いを強いられ、いくつもの部隊 が全滅した。 ビルマ戦線に投入された日本軍の総兵力は 30 万 3500 人で、戦没者は 18 万 5,149 人、生還できたの は 11 万 8,352 人に過ぎなかった。主力 3 個師団については、兵員の損耗率は 75%に達した。 (大陸打通作戦-1) シナ大陸に陸軍は、北京に北支那方面軍、漢口に第 11 軍、上海に第 13 軍、広東に第 23 軍と万里の長 城以南に約 85 万の兵力を展開していたが、蒋介石の国民党軍を屈服させることはできなかった。また、 シナ共産党軍も随所で高い抗戦意欲を以ってゲリラ戦を仕掛けて来ていた。 19 年 4 月 17 日~年末 支那派遣軍が占領地全体を戦場とする一号作戦=大陸打通作戦(参加人員 50 万、馬匹約 7 万、戦車 800 両、火砲 1,500 門、自動車約 12 千輌を動員)を敢行した。 この作戦は、前年 11 月に江西省遂川から発進した米軍の重爆撃機 B24 が台湾の新竹を空襲したこと に驚いた大本営が考えたものだった。 目的は、華北と華南を結ぶ長大な京漢鉄道の路線を確保し、シナ軍の機動力を殺ぐとともに米軍の長 距離爆撃機 B29 などの航空基地を占領することなどで、 参謀本部作戦課長・服部卓四郎の発案であった。 前半の京漢作戦においては、5 月 25 日に洛陽を占領した。しかし、6 月 15 日、四川省成都から発進 した米軍の B29 が八幡市の空襲に成功したため、それまでの戦果が無意味となった。 後半の湘桂作戦においては、華南で 30 万を超える第 11 軍が長沙(6 月 18 日)、桂林(10 月 11 日)など を占領、インドシナの日本軍に通ずる道を開いた。しかし 8 月 8 日に国民政府第十軍が降伏するまで 47 日にも及んだ衡陽攻略戦では、強固な抗戦に遭って甚大な損害を蒙るなど、約 2 万人の死傷者が出るな ど、本作戦のために支払われた犠牲は大きかった。 その後、11 月には米軍がサイパンから東京に空襲を始めたため、シナ大陸内の米軍基地破壊という意 義はなくなったが、作戦は中止されなかった。 長大な京漢鉄道の路線を確保したとはいうものの、米軍が好きなところを爆撃して鉄道を寸断したた め、大陸をとおして列車が走ったことは一度もなかった。 19 年(1944 年)11 月 10 日 日本の病院に入院中の汪兆銘が死亡。これを機に南京政権が弱体化。 →シナ戦線がこう着状態のまま推移しているため、日本は日シ間の和平を実現しようとした。その方 向は、重慶政権と南京政権との合体による新政府の樹立、満洲国の現状維持、それ以外はすべて譲歩する 腹積もりであった。 293 (シナ=インドシナ連絡作戦) 19 年(1940 年)6 月 15 日 深夜、成都を飛び立った第 20 航空軍の B29 が 68 機の編隊で八幡製鉄所を爆撃。民間人 216 人の死者 を出した。12 月 21 日までの間に、成都からの出動は 20 回に及んだ(日本内地に 9 回、満洲・台湾に 10 回、漢口に 1 回) 。漢口には 12 月 18 日焼夷弾による絨毯爆撃も行ったため、漢口は 3 日間にわたって燃 え続け、惨憺たる被害を受けた。 8月8日 陸軍省が対外政略指導要綱案を作成。前年 12 月発表カイロ宣言に対抗して、朝鮮人と台湾人に対して は「徹底的皇民化を図る」 。そのため「帝国臣民としての権利・義務を与える」が「独立運動に対しては 峻烈な弾圧を加える」としていた。 (インドネシア、マリアナ諸島、フィリピン戦線) 19 年(1944 年)5 月 3 日 日本海軍が豊田副武連合艦隊司令長官の就任を機に、米艦隊に決戦を挑むべく「あ」号作戦発令。 兵力:小沢治三郎中将率いる空母部隊(大型空母 3 隻、中型空母 2 隻、小型空母 4 隻)及び栗田健男中将率いる 戦艦部隊) (ボルネオ島北方タウィタウィ泊地) 角田覚治中将率いる基地航空部隊、潜水艦部隊(マリアナ諸島テニアン島) 。航空機は計 1,600 機。 小畑英吉中将率いる第 31 軍 3 個師団(陸軍機の配備はゼロ) ただし、この時期までにトラック島、サイパン島、メレヨン島、パラオなどの基地では、米陸軍の B-24 の編隊攻 撃や空母機の攻撃により、戦力の大半を失っていた。 この時、海軍は米軍機動部隊の進路について、その可能性をパラオ海域 50%、ビアク島(ニューギニ ア西北部。ここを抑えられると南方資源遅滞が空襲され、石油の確保が一層困難になるとの恐れがあっ た。 )40%、サイパン 10%とした。情報参謀中島中佐の予測するサイパン説は無視され、小沢機動部隊と 栗田戦艦部隊はビアク島に向かった。このためサイパン島は孤立した。 5 月 19 日 アメリカ軍(兵力 28 千)がインドネシア・モロタイ島に上陸し、直ちに大型飛行場を築く。狙いは、 ボルネア島への空爆であった。 日本軍は戦略上の重要性に気づき、近くのハルマヘラ島に駐留していた 38 千人の兵にモロタイ島への 攻撃をかけさせたが、失敗。ハルマヘラ島の駐留兵たちはモロタイ島の米軍から空爆を受け続け、軍中央 からは補給もなく、終戦まで絶望的な戦闘を続けた。 戦闘参加者 2494 人の内 1724 人が戦死。多くは、飢えやマラリアなどで倒れていった。 5 月 27 日 アイケルバーガー中将率いる米大 41 師団の大部隊がニューギニア西北の要衝ビアク島に上陸。 6 月 11 日 タウィタウィ泊地の主力部隊がビアク島奪還に向かったところ、米機動部隊がマリアナ諸島東の海上 に現れ、サイパン、グアム、テニアンなどの日本軍基地に猛爆を加えた。 6 月 11 日 米機動部隊がサイパン島に艦砲射撃を加え、上陸の構えをみせる。 294 6 月 15 日 アメリカ軍(海兵隊2個師団を主力とし、兵力 63 千)が本土爆撃の拠点となるサイパン島に上陸した。 ビアク島、サイパン島と南北 2 か所で日本の絶対国防圏が突破され始めた。 当時のサイパン島は国際連盟から日本への委任統治領で、日本からの入植者によって製糖事業が成功 したため、同島には沖縄や東北地方からの入植者が相次ぎ、台湾人、朝鮮からの人たちも含めると米軍来 襲直前には約 2 万 9 千人の日本人が居住していた。 米軍を迎え撃った日本陸軍の兵力は約 4 万 3 千。その一部は満洲帝国を守る関東軍から転用された。 日本軍の海軍守備隊は、小畑英良第 31 軍司令官(当時、パラオ諸島に視察に行っていた)の命令によ り上陸地点の戦闘でこれを阻止するという「水際作戦」をとったが、圧倒的な米軍の物量作戦により壊滅 的な打撃を受けて上陸を許し、内陸部に追い詰められた。 孤立した陸軍を助けるべく、 「あ」号作戦により南方に向かっていた海軍は全戦力を動員してサイパン に向かった。空母の数は、米軍の 15 隻に対して 9 隻しかなく、虎の子のタンカー7 隻も引き連れていた が、米側の優位は明らかだった。 そのため、米艦の攻撃範囲外の遠くから戦闘機を飛ばす(遠距離攻撃)という、いわゆる「アウトレン ジ戦法」をとることとしたが、作戦自体に無理があった。 第 3 艦隊 空母 9 隻、軽巡・駆逐艦 15 隻 第 2 艦隊 戦艦 3 隻(大和、武蔵、長門)、重巡 10 隻、軽巡・駆逐艦 15 隻など この日、北九州にシナ大陸の奥地にある基地から飛び立った米陸軍の新鋭大型爆撃機 B-29 が初来襲し た。同月 20 日までに 3 回来襲。その後、10 月 25 日と 11 月 20 日も来襲した後は、米軍は太平洋からの 空襲に切り替えた。 6 月 19~20 日 マリアナ沖海戦。 連合艦隊の空母を飛び立ち、長距離を飛んで戦場を目指した「ゼロ戦」、 「天山」、 「彗星」など攻撃隊は、 米軍のレーダーによって発見され、上空で待ち伏せした敵戦闘機に次々撃ち落とされた。 待ち伏せ機の壁を突破した日本攻撃隊も、近接信管を装着した対空砲によって迎撃され、敵空母に達す ることなく、ことごとく撃ち落とされた。 また米軍機の空襲を受けた連合艦隊の空母・戦艦はレーダー装備など防禦力において米軍に比して著 しく劣っていた。 小沢艦隊は二次攻撃にも失敗し、空母・戦艦3隻(旗艦大鳳と僚艦翔鶴及び空母飛鷹)と航空機 378 機 (参加航空機の 3/4)を失った。他に空母 4 隻も命中断を受け、大破した。一方、米軍は戦艦の損害はな く、航空機は空戦による損害 29 機にとどまった。 空母機動部隊同士による航空決戦において大敗した日本海軍の空母・航空兵力は完全に無力化した。 日本側に戦闘機の損害が大きかった理由は、小沢司令長官がアウトレンジ戦法(敵艦大砲の射程距離の外から飛 行機を飛ばして相手を攻撃する)を採用したこと、及び長大な航続力を持つ飛行機を乗りこなす優秀な搭乗員を欠 いており、敵艦を発見、攻撃する前に迎撃されてしまったことにあった。 連合艦隊は6次にわたって攻撃隊を発進させたが、損害のみ多くて挙げ得た成果は殆どなかった。目標を発見で きない攻撃隊が3つもあったからでもあった。 マリアナ沖海戦は航空戦であったにもかかわらず、連合艦隊は思想的には大鑑巨砲主義のやり方から抜け出てい 295 なかった。 これ以降、米軍は島を死守する陸軍に熾烈な攻撃を加え、日本軍は壊滅的な打撃を受けた。 また、海軍では以降、空母を主体とする作戦を立てられなくなったばかりでなく、有力な空母機動部隊 を再建することができなくなり、この時点で、大東亜戦争における敗戦が事実上決定した。 6 月 24 日 大本営がサイパン放棄を決定。 絶対的国防圏であるマリアナ諸島を失ったことから、さすがに事実を国民に伝えて一層の奮起を促そ うとの意見が起こり、これを東條首相に伝えたところ、同首相は、手に持っていたはさみを投げつけて 「不同意」とどなった。国家存亡の責任を負う首相も隠蔽体質に染まっていたのである。 陸軍首脳・その出身者は、制空権下でなければ陸軍大部隊も海軍大艦隊も思うように動けない(=近代 戦は空の戦い)ということの理解が足りなかった。 7月7日 マリアナ沖海戦における海軍の大敗により孤立したサイパン島の日本軍は、約 5 倍の圧倒的な火力を 駆使した米軍7万の攻撃の前に玉砕。 日本兵は最後にはバンザイを唱え、石を持ったり、短剣を棒に結わえたりして突撃したと言われる。 また、追い詰められた日本の民間人ら 1 万 2 千人がマッピ岬の断崖から身を投げるなど集団自決をし た。その結果、日本軍・民は 4 万 1 千人が死亡したが、その多くは名前さえ分かっていない。米軍の戦 死者も 3400 人以上と言われる。 マリアナ(サイパンとテニアン諸島)防衛の作戦計画を樹てた大本営第 2 作戦部作戦課長の服部卓四郎大佐は、 「(防衛には)自信がある」と豪語していたが、米軍は大量の艦艇によって攻撃対象の島を取り囲み、爆撃と艦砲射 撃とによって日本軍の戦闘能力を奪った。 サイパン島の第 31 軍参謀長・井桁少将は玉砕前日、参謀次長宛に決別の電報を打ったが、その中で「将来の作戦 に制空権なきところに勝利なし。航空機の増産活躍を望みてやまず」と記し、対米戦略の欠落部分を的確に指摘し ていた。日本陸軍にはなおも「軍の主兵は歩兵なり」という残滓があったからである。 サイパン島を失ったことにより、米軍による本土空襲(B29 の行動半径の中に入った)が現実のもの となった。米軍は、引き続いてグアム島に空と海の両方から攻撃をかけた。 7 月 18 日 東條首相は、内閣改造によりマリアナ沖海戦の敗戦及びサイパン島の日本軍玉砕という事態を乗り切 ろうとしたが、岸信介国務大臣兼軍需省事務次官による命を賭しての辞任要求に遭って遂に辞任した。 同月 22 日、小磯国昭内閣が成立(陸相に杉山元、海相に米内光政、外相に重光葵) 。小磯は受諾にあた り、総理が戦争指導について発言できるように措置することを求めた。陸海軍とも「善処する」と回答し たものの、大本営への列席には反対した。 そこで、小磯は勅裁をえて最高戦争指導会議を新設した。構成員は総理、外相、陸海相、陸海統帥部長 の 6 名としたが、会議に対する両統帥部の姿勢には何ら変わるところがなかった。 そのような政軍不一致のなか重臣を中心に密かに和平運動が動き始める。 小磯首相、重光外相は日中戦争の終結を模索した。9 月 5 日の「最高戦争指導会議は「対重慶政治工作実施に関 する件」では、「蒋介石の南京帰還、統一政府の樹立を承認、汪兆銘政府との同盟条約の廃棄・・・、満洲国の現状は 不変更」としていた。即ち、支那事変勃発以前の状態に戻すということであった。そのため汪兆銘政府を介して重 296 慶政府への工作を図ろうとした。しかし、その最中の 11 月 10 日に、3 月に来日して名古屋帝大病院で加療中の汪 兆銘が死去した。 なお、小磯首相は、昭和 6 年の「3 月事件」において軍務局長のポストで参画していたが、何ら責任をとることの ないまま退役し、予備役とされていた身の首相就任であった。したがって戦況にはうとく、就任して初めて戦況が 深刻であることを知った。 7 月 21 日 米軍が約 5 万 5 千の兵力でグアム島に上陸作戦を敢行。火砲、戦車数も大幅に増強されていた。日本 軍守備隊の兵力は約 18,500 であった。 サイパン、グアム戦闘の間、パラオ諸島に視察に行っていた小畑英良第 31 軍司令官は責任を取って自 決した。 8月3日 テニアン島で日本軍が玉砕。 8月4日 東京の学童疎開が始まった。これは、マリアナ沖海戦敗戦の後、東條内閣において閣議決定をみた学童 疎開促進要項の第 1 次適用であった。 8 月 10 日 グアム島の日本軍が全滅し、翌 11 日小畑・第 31 軍司令官が自決した。米軍側の損害は約 7 千にのぼ った。 小畑司令官の自決に先立ち、テニアンで第 1 航空艦隊司令長官角田覚治中将が戦死した。 グアムの占領を成し遂げたアメリカ軍は、本島の飛行場を直ちに整備し、サイパン島等とともに日本本 土への戦略爆撃の拠点とした。 こうしてマリアナ諸島を全て支配下に置いたアメリカにとって、次の攻略目標はパラオ諸島(ヤップ 島、ベリリュー島など) 、そしてフィリピンとなった。 当時の日本軍にとって、パラオ諸島はグアムやサイパンの後方支援基地として、また米軍にとってはフィリピン 奪還の拠点として注目され、米軍はニミッツ提督の命令の下でパラオ攻略作戦を計画し、翌月、実行に移した。 後に太平洋戦争終結後初の内閣総理大臣となる東久邇宮稔彦王は、この戦いの敗北で日本の敗戦を察 したという。 しかし、陸軍が「比島決戦」を主張したことなどから、戦争は、明るい展望のないままに続行されたが、 実情は“敗戦処理”的な性格のものでしかなかった。 9 月 10 日 フィリピン南部ミンダナオ島ダバオにあった第一航空艦隊司令部で「ダバオ誤報(水鳥)事件」が起き た。発端は、最南端のサランガニにあった海軍第 32 特別根拠地隊から「敵の上陸用舟艇見ゆ」との連絡 が入り、寺岡謹平司令長官は敵の上陸を信じ込んで大本営にも通報したため、大混乱となったものであ る。司令部はダバオ西方奥地に移動し、201 航空隊のゼロ戦をセブ島に終結させた。 しかし、その連絡が誤報だと分かった(見張り員が沖合に立つ三角波を敵の舟艇と見誤った)ため、第 一航空艦隊はセブ島に終結させたよるゼロ戦を元に戻そうとした。ところが 12 日早朝、セブ島に米機動 部隊の奇襲があり、未だセブ島に残っていたゼロ戦約 80 機が失われるという大損害を受けた。 この事件は海軍の危機管理能力の無さ、情報収集の杜撰さから起きたものであった。 297 司令長官の寺岡謹平中将は更迭され、後任として大西瀧次郎中将が赴任したときには、フィリピン防衛の主力と して期待されていた第一航空艦隊所属のゼロ戦は僅か 30 機しか残っていなかった。 9 月 15 日 アメリカ軍(総兵力 48,000 人)がパラオ諸島の制圧を企図し、12~14 日にかけてパラオ本島の南方 に位置するペリリュー島に空爆と艦砲射撃により約 10 万発、4 千トンもの砲弾を撃ち込んでジャングル を焼き払い、島を丸裸にしたうえで上陸した。 パラオは日本の委任統治領で、政府はここに南洋群島全体を統括する南洋庁本庁を置き、学校や病院、 気象台、郵便局などを設置した他、道路などインフラも整備した。最盛期の昭和 18 年には 2 万 7 千人余 りの日本人が住んでいた。 日本は重爆撃機など大型機の離発着が可能な長さ 1,200 メートルの滑走路 2 本をもつ飛行場のある同 島を守るべく 4 月末から約 10,500 人の日本陸軍守備隊(隊長は中川州男大佐)を送り込んだ。中川隊長 は、サイパンなどの「水際作戦」の失敗から学び、島内に「複郭陣地」を構築して、米軍上陸に備えた。 戦車数が日本軍の 10 倍、小銃は 8 倍、総兵力は 4 倍以上という米軍は、2~3 日で同島を攻略できる とみていたが、迎え撃つ日本陸軍守備隊は中川隊長の指揮の下、米軍による第 1 次上陸作戦の際には第 1 海兵師団第 1 海兵連隊の 54%を失せて一旦退却させ、第 2 次の第 7 海兵連隊に対しても兵力の 54%に 達する損害を与えて戦闘不能に陥らせるほどであった。 以後、日本軍守備隊は約 2 か月間頑強な抵抗を続けた。 米軍の攻撃の前、日本軍守備隊は昭和 19 年 3 月~8 月にかけて約 900 人の島民を全員パラオ本島など に逃がし、島民に戦闘による被害は出なかった。このことは今もって島民から感謝されている。 同日、フィリピン攻略の足掛かりとするため、米軍が東インドネシアのモロタイ島に上陸し、日本守備 隊を駆逐して、すぐに重要拠点を制圧して飛行場の建設を始めた。 10 月 12~15 日 台湾沖航空戦。 米軍は、日本の連合艦隊が再建される前に再度叩くため、空母機動部隊を台湾~ルソン島近海に機動部 隊を進出させた。これを日本軍の基地航空部隊が迎撃したが、戦力的には技術が未熟であった。 この航空戦の結果、日本は多数のパイロットを失った。 大本営は「空母 11、戦艦 2、巡洋艦 3、巡洋艦もしくは駆逐艦1撃沈」と発表したが、実は、米海軍は 殆ど無傷のままだった―空母 2、重巡 1、軽巡 2、駆逐艦 3 がどれも小破された程度だった。 日本軍には、戦果の「判定マニュアル」がなかったことが、こうした誤認につながったものだが、この発表は、レ イテ島決戦に重大な影響を与えた。 海軍の発表を信じて戦果を誤認し、米海軍が大打撃を受けたと即断していた陸軍は「レイテなら勝て る」と、レイテ防衛戦を天王山として位置付け、17 日にレイテ湾に入ったマッカーサー率いる米軍との 決戦を主張した。 10 月 18 日 米海軍機動部隊が中部フィリピンのレイテ湾に突入。 この日、軍令部長と参謀総長がフィリピン方面を決戦要域とする「捷 1 号作戦」を天皇に上奏した。米 軍の来攻を予想して、陸海軍の戦力を集中し、敵に大打撃を与えた上で講和に持ち込もうとする(一撃講 298 和)作戦であった。 海軍及び山下司令官は反対したが陸軍に押し切られ、大本営は捷1号作戦を発動した。こうして「主戦 場はルソン島」との当初の作戦が、大本営の指示でマニラから 600km 離れた「レイテ島決戦」に変更さ れた。→大本営は比島を守る第 14 方面軍司令官に山下奉文大将を、参謀長に武藤章を任命した。同方面 軍以外の部隊もあわせると、比島全体では、38 万の兵力となった。 (捷1号作戦) 機動部隊同士の決戦ができなくなった日本海軍が、艦隊単位で米軍の大輸送船団に“殴り込み攻撃”をかけると いうものであった。そのため、小沢機動部隊が囮となって米空母を引きつけ、その間に水上打撃部隊及び基地航空 隊が米水上打撃部隊を撃破したうえで輸送船団を捕捉、壊滅させるというもの。 この作戦に対し海軍は当初、① 勝って米輸送船団を壊滅させたとしても、残っている艦船の損害も大きいと予 想される、② 艦隊同士の正面からの決戦ではない、との理由から反対した。 第1遊撃隊(栗田健男中将指揮) 大和、武蔵、長門他 第2遊撃隊(西村祥司中将指揮) (旧式戦艦による殴り込み艦隊)山城、扶桑他 10 月 20 日 機動部隊に援護されたマッカーサー率いる米軍がタクロバンなど 2 か所からレイテ島に上陸を開始。 レイテ島守備に当たる陸軍第 16 師団が抵抗するも、水際死守作戦をとらなかったため、米軍は輸送船 約 40 隻を使って 6 万人の兵が短時間で上陸を果たし、タクロバンの飛行場などを占領した。 フィリピンを失うと本土と南方資源帯との連絡が完全に断たれるため、連合艦隊は残存した水上部隊 と基地航空部隊の全力を挙げて同地に出撃し、陸軍航空部隊も全戦線から集中投入された。 10 月 22~25 日 レイテ湾沖海戦。 日本海軍にとって、この作戦はレイテ湾に突入して、敵輸送船団(護衛官を含め計 730 隻余り)を撃 沈するとともに、海上からの物資輸送を阻み、もって上陸した約 6 万の米軍兵力を全滅させようとする ものであった。 作戦としては、第 3 艦隊が囮となって米機動部隊を引きつけている間に、戦艦中心の第 2 艦隊が南北 からレイテ湾に突入し、湾内の米軍輸送船団を全滅させ、米軍の上陸部隊を孤立させることにあった。し かし、日米海軍間最大の海戦の後、連合艦隊水上部隊が全滅し、米軍がレイテ島を完全占領した。 第 1 遊撃部隊本隊(主力の第 2 艦隊は戦艦大和、武蔵、長門、金剛、榛名などにより編成され、司令長官栗田健 男中将が指揮をとった)は、連合艦隊司令長官の命によりブルネイから出撃した。本隊、同支隊(戦艦山城、扶桑 を主力とした)とも、航空機の援護のないままの出撃であった。 [海戦の経過] 23 日、旗艦「愛宕」がパラワン島沖で敵魚雷攻撃により沈没。 24 日には、 「武蔵」がシブヤン沖で 300 機に及ぶ米軍機の集中攻撃を受けて撃沈。 同日、囮としてフィリピン北東方の海上で、陽動作戦を行っている第 3 艦隊(「瑞鶴」、 「瑞鳳」など空 母 4 隻など 17 隻からなり、小沢治三郎司令長官が率いた)に敵の主力空母、高速戦艦など 65 隻が誘い 出され、レイテ湾から離れて北上。 その隙に、戦艦大和を主力とする第 2 艦隊第 1 遊撃部隊本隊 15 隻がレイテ湾に迫った。 25 日、米軍輸送船団を護衛する米第 7 艦隊が、米機動部隊を指揮するハルゼーに救援を求めて至急電 299 が発せられるほど、米軍は窮地に陥った。 しかし、レイテ湾にあと 30 マイルと迫ったにもかかわらず、突入を命じられた戦艦大和座乗の栗田健 男司令長官は第 1 遊撃部隊各艦に反転命令を出し、90 マイル北方の敵を求めて北方に向かった。敵輸送 船団を目前にしながら、レイテ湾に突入することはなかったのである。戦艦大和はじめ第 1 遊撃部隊各 艦は、それまでの戦闘でかなりの損傷を受けていたけれども、不可解な行動であった。 このことは『謎の反転』と言われている。栗田司令長官が突入を断念したのは、湾内の敵状を知ることができな かったためだったと言われる。しかし、大和乗組員だった海軍少佐(副砲長)深井俊之助氏は、死地に赴くことを 恐れた作戦参謀が偽の電報をつくって栗田司令長官に反転を献策・主張し、栗田はこれを退ける決断ができなかっ たため、と推測している(「正論」平成 26 年 10 月号「戦艦大和、謎の U ターンを語る」より) 。 マッカーサー司令官もこの『謎の反転』を不可解視しており、回想録に「勝利は栗田提督の懐の中にあった」と 書いた。 このため、囮となった第 3 艦隊は戦闘機隊としての飛行機部隊を搭載していなかったため、全滅した。 また、南のミンダナオ海からスリガオ海峡を通り、栗田艦隊と合流してレイテ湾殴り込みに加わる予定 の西村祥治中将率いる旧式戦艦よりなる西村部隊は、同海峡で敵の水雷戦隊、駆逐艦隊、戦艦隊の待ち伏 せに遭い、果敢な砲戦を挑んだものの壊滅した。 栗田艦隊の反転によって一撃講和を目論んだ「捷 1 号作戦」は失敗に終わり、大和を除く主力艦の大 半を失って、艦隊としての決戦力を喪失した。 この海戦において失われた艦船は次の通り。 空母「瑞鶴」 (残存していた唯一の大型空母) 、戦艦「武蔵」 、 「山城」、 「扶桑」、 「愛宕」の他、多数の巡洋艦 及び駆逐艦 この海戦中に、神風特別攻撃隊(10 月 19 日に編成された)による特攻作戦が初めて行われた。これ は、250 キロ爆弾や 500 キロ爆弾を抱えた戦闘機により敵戦艦に体当たり攻撃をしかけるというもので、 レイテ決戦を側面から支える目的で採用された。ダバオ基地から飛び立った同隊の飛行機は 3500m の高 度から米軍機動部隊の空母セント・ローに体当たり攻撃を加えて撃沈させるなど、米軍を震撼させた。 [神風特別攻撃隊について] 神風特別攻撃隊を初めて実戦運用した大西瀧次郎(後に海軍中将)が第一航空艦隊司令長官としてマニラに着任 したとき、現地の保有機は僅か 100 機で、うち戦闘機は 30 機しかなかった。追い詰められた中で大西司令長官は 「負けない作戦」として、特攻作戦を決断し、軍中央の裁可を仰いだ。裁可は 5 人の高官によってなされたが、そ の一人は支那事変の際、陸軍 2 個師団の派兵を主張した米内光政である。 海軍において特攻作戦の準備が始められたのは 18 年春ないし夏であった。山本連合艦隊司令長官が戦死した直 後、同艦隊参謀から更迭されて軍令部第二部長に就任した黒島亀人が研究を開始し、軍令部の方針としては、19 年 春には決定されていた。 しかし、特攻作戦の構想自体は陸軍の方が早く、服部卓四郎作戦課長などが持っていた。現にペリリュー島防衛 線においては、日本軍兵士は棒の先端に爆薬を仕掛けた「棒地雷」を手にしてからだごと敵戦車のキャタピラに突 っ込むという肉弾戦を強いられていた。 その後、回天、桜花、震洋などの特攻専用兵器が開発され、19 年 8 月 25 日には陸海両軍の人事制度の中に「掌 特攻兵」という特修兵を加え、同時に各地の海軍航空隊では、生還を期しえない新兵器の搭乗員=特攻要員の募集 が始まった。 300 神風特別攻撃隊による攻撃目標は当初空母だけであったが、米軍は初日の被害が大きかったことから、翌日、空 母をレイテの近海から退避させた。そこで、大西司令長官が攻撃目標を主要艦船へと拡大した。 20 年 4 月の沖縄戦からは攻撃目標を「全ての艦船」と改め、沖縄戦だけで空母から上陸用舟艇まで 250 隻が主に 特攻機によって損害を受け、駆逐艦以下の 34 隻が沈没したとされている。しかし、その後は米軍側の対策がすす んだことや機体の不足などから、特攻はほとんど行われなくなった。 陸軍においても、海軍の例を見て、参謀総長が鉾田飛行学校に命じて特別攻撃隊編成させた。陸軍の場合、任命 された隊員に艦船についての知識を短時間模型と写真とで説明する教育を行ったが、成果報告の際、攻撃した艦船 の区別があいまいであった。空中から艦船の種類、大きさなどをほぼ正確に判別できるようになるまでには、かな り長年月のかつ実地の訓練が必要だったからである。 特攻機に乗組んだ兵員数は約 4,400 名、うち半数は学徒出陣の若者で、終戦の日までに 2367 機が出撃し、戦死者 は 2198 名と言われる。命中率は当初は 20%であったが、次第に米軍の防禦体制が整備され、10%程度になった。 後の人間魚雷「回天」や特攻艇「震洋」 、ロケット噴射の「桜花」なども加えると、特攻戦術による全戦死者は 6,418 人に上ると言われている(特攻隊戦没者慰霊顕彰会調べ) 。 米軍の損害は、撃沈 60 隻、損傷 400 隻と見積もられている。 大西司令官は、特攻作戦に飛び立つ隊員には「国を救う者は諸氏のごとく純粋にして気力に満ちた若者である。」 と訓示し、必ず最後に「自分も後で行くから」と付け加えた。敗戦の翌日、大西中将は、約束どおり切腹して果て た。介錯も手当も拒んだため、15 時間も苦しんだ後に息絶えた。 なお、組織的に特攻作戦=制度として体当たり攻撃部隊を編成し、制式兵器として体当たり専用兵器を開発し、 命令によって隊員に体当たり攻撃を命じたのは、世界で初めてのことだった。 戦後、米国の航空司令が横須賀に駐屯する米軍搭乗員たちに特別攻撃隊をどう考えるか聞いたところ、10 人中 7 人が“国が滅びようとする瀬戸際に一身を投げ出して最後まで戦う”日本人の勇気に心から畏怖の念を抱いたと答 えたという。 こうして、17 年 6 月のミッドウェー海戦以降、日本海軍が本土や支援基地から遠く離れた海上で積極的に米海軍 と戦った艦隊決戦は全て日本が敗れた。ミッドウェーでは空母戦力に深刻な打撃を受け、ソロモン諸島ではパイロ ット、駆逐艦、潜水艦に回復不可能な損害を受け、フィリピン海戦では空母とその航空部隊が完全に崩壊し、レイ テ湾海戦では残存艦隊が壊滅した。 以降、戦場はルソン島に移ったが、年末までに同島以南のフィリピン諸島の殆どは米軍に占領された。 日本軍政下のフィリピンでは、ラウレルが 18 年(1943 年)10 月に親日政権を樹立したが、抗日武装勢力の 2集団がフィリピンの各島々でゲリラ戦を展開した。日本軍は米軍と戦う一方で、このゲリラ戦にも多大な消耗 を強いられていた。 この頃、大本営が究極的な国防圏構想を発表。これは、シナ沿岸部、台湾、琉球諸島から本土へとつな がるラインを国防圏とするものであった。 昭和 20 年(1945 年)1 月 3 日 山下奉文第 14 軍司令官が司令部をマニラからバギオに移した。これは戦況悪化を受け、マニラを戦火 の外に置くためであった。しかし、山下司令官が考えた「マニラ無防備都市宣言」の発出は海軍、第 4 航 空軍、大本営の反対に遭い実現しなかった。 1月9日 301 米第 6 軍が 4 個師団の兵力でルソン島リンガエン湾に上陸作戦を敢行した。 1 月 17 日 フィリピンの第 102 師団長・福栄真平中将、第 4 航空軍司令官(元陸軍次官) ・富永恭次中将らが大本 営の命令なしに台湾に逃亡(兵は置き去り) 。 南方軍最高司令官・寺内寿一元帥もマニラを捨てて安全なサイゴンに移った。その結果、フィリピンは 完全に米軍の手中に収められた。 この頃から陸軍は、 「本土決戦」の構想を練り、同年春から関東軍主力の引き揚げと国内の根こそぎの動員に着手した。海 軍の主張する「沖縄決戦」には消極的であった。 1 月末 米軍によるマニラ奪還作戦が始まる。マニラ周辺を守る第 14 方面軍の 2月3日 米軍が多方面からマニラに突入。両軍による激しい市街戦が約 1 か月続いた。 3月3日 マニラの日本軍が降伏。日本軍はこの市街戦だけで約 1 万 6 千人の戦死者を出した。米軍の損害も死 傷者 2 万 5 千人に及び、巻き添えとなった住民にも約 10 万人の死者が出た。 その後も戦闘は続き、山中に逃げ込んだ日本軍の残存兵はゲリラ戦で抵抗したが、バシー海峡(台湾- フィリピン間の海峡)の制海権を米軍に抑えられたために、増援の兵や物資を運ぶ輸送船が次々に沈め られて補給が途絶え、戦地に残された兵は飢えとマラリアに苛まれて絶望的な日々を過ごしつつ死んで いった。 バシー海峡をはじめとする南方海域で米軍の潜水艦などにより撃沈された日本の輸送船は約 200 隻、 亡くなった将兵は 25 万人と言われる(バシー海峡だけで 10 万人強と言われている)。 フィリッピン戦線では、8 月 15 日バギオで山下奉文大将が降伏文書に調印した日までに約 52 万人が 戦死した。 (参考)日米戦における喪失船腹量(日本商船隊戦時遭難史) 年 隻数(%) 総トン数 S16 9 ( 0.4) 48,574 S17 204 ( 8.5) 884,928 S18 426 (17.8) 1,668,086 1,009 (42.1) 3,694,026 S19 S20 合計 746 (31.2) 1,722,508 2,394 (100) 8,018,122 開戦時、日本の商船(百トン以上)の保有高は 610 万トン、造船能力は年間 45 万トンであった。陸・ 海両軍は面子をかけて商船の徴用を要求し、商船は戦時中に約 470 総トンを加えたものの、上表のよう に、軍用の補給において大量に船舶を失い、食料や石油の輸入など国民生活維持の上で必要な 300 万ト ンを数年で下回った。20 年 3 月時点で日本は戦争勃発時の所有船舶のほぼ 90%を失うに至り、敗戦時の 保有高は、僅か 211 万トンに過ぎなかった。 その理由は、徴用された商船の多くは老朽船で、護衛もなかったからであるが、さらに重要なことは、 302 多くの兵員が戦地に赴く途中で海没した。その数は陸海軍軍人・軍属合せて約 35 万 8 千人にのぼった。 これだけの海没者を出した軍隊はほかに例がないと言われる。 なお、船員の死亡も6万余人に上った。これは死亡率にすると 43%に当たり、軍人の損耗率(陸軍で 20%、海軍で 16%)に比べて著しく高かった。その理由は、艦隊決戦を作戦の中心としていた海軍が、 商船隊の護衛に力を注がなかったことにある。 (米軍による本土空爆開始と戦間の大震災) 戦局が悪化し、学徒出陣が始まっていた中で昭和 18 年 9 月 10 日、鳥取地震が起きた。犠牲者は 1,083 人に及ぶ大震災だったが、国民に詳しく知らされることはなかった。 昭和 19 年(1944 年)11 月 24 日 米軍の B29 戦略爆撃機 88 機がサイパン島を飛び立ち、東京武蔵野町の中島飛行機武蔵工場や名古屋 周辺工場を爆撃=本土爆撃の開始。その対象は飛行機工場などの軍需工場で、高度 1 万メートルの上空 からの投下であり、命中度は5%程度にすぎなかったけれども、死傷者は 550 人に達した。 11 月 25 日 パラオ諸島・ベリリュー島の日本軍守備隊が全滅し、27 日に降伏。同島は米軍が占領した。 日本軍守備隊は、組織的な抵抗は、後に米海軍のニミッツ提督も日本軍守備隊の勇戦を讃えた程であっ た。日本軍の戦死者は 10,695 名、負傷者は 446 名、捕虜となった者は 202 名であった。内地に生還した 者は 34 人に過ぎなかった。 米軍の損耗率はそれまでの戦闘で最も高く、戦死者は 1,684 名であったが、戦傷者は 7,160 名で、上 陸作戦としては最高の戦闘損害比率 40%に達し、この他に精神に異常を来した者が数千人を数えた。 (ニ ミッツ海軍大将「太平洋海戦史」 ) 12 月 7 日(日米開戦 3 周年目にあたる) 昭和東南海地震が起きた。世界各国の地震計にも記録さるほどの巨大地震で、尾鷲市には 2.7~9m の 津波も押し寄せ、中部地方が壊滅的な被害を受けた。半田市の軍需工場では、勤労動員の中学生の多くが 工場建物倒壊により犠牲となった。しかし、被害状況がアメリカに漏れることを恐れた軍部によって、情 報が統制され、大多数の国民は被害を知ることはなかった。被災地に救援物資も届かず、復旧も復興も困 難を極めた。 12 月 13 日 昭和東南海地震により大被害を受けた名古屋地方に米軍が B29 の大編隊で来襲、三菱重工業名古屋発 動機製作所などの軍需工場に爆弾の雨を降らせた。 当地方への空襲は翌年 7 月 26 日までに 63 回行われ、 軍需工場破壊し尽くされるとともに、死者 7,858 人、負傷者 10,378 人、被災家屋 135,416 戸と甚大な被 害を出して、地震と空襲により名古屋は壊滅的状態となった。 城郭の中で国宝第 1 号となっていた名古屋城天守閣もこの空襲で焼失した。 12 月 29 日 ルーズベルト大統領(約 50 日前の 11 月 7 日、史上初の大統領4選を果たしていた)、マーシャル参謀 総長らが作戦会議を開き、日本本土爆撃作戦を再検討。①民間人を直接対象とし、②夜間、③低空飛行で M69 油脂焼夷弾を投下することを決める。 この焼夷弾はバンドで 38 本束ねられており、投下の途中でバンドが外れて広い範囲にバラバラ落下し 303 てあたりを火の海にするものであった。 20 年(1945 年)1 月 12 日 石油や重要資源を満載した「ヒ八六船団」 (タンカー4 隻、貨物船 6 隻)と護衛艦(第百一戦隊=「香 椎」 、海防艦 5 隻)が帰国途中、インドシナ半島東岸でアメリカ主力機動部隊艦載機の反復攻撃を受け、 海防艦 3 隻を残し全滅。 その後、米機動部隊は南シナ海に侵入し、さらに「第一海防隊護衛補給船団」 「サタ〇五船団」 「ヒ八七 船団」等を攻撃し、わが国は艦艇 11、船舶 48 隻の大損害を受けた。以後、南方からの重要輸送路を決定 的に断たれて、わが国は石油などの資源が枯渇し、急速に国力を失うこととなった。 第 1 次大戦における苛烈な英独間の海上輸送戦の実例があったにもかかわらず、わが国は海上輸送戦についての 認識が薄く、敵潜水艦対策としての護衛艦艇、護衛航空機等の準備をほとんどしていなかった。18 年末から船舶の 被害は増大し、19 年 6 月には西太平洋のほとんどの海上輸送路を既に失っていた。ヒ八六船団全滅した直前で(昭 和 19 年末) 、既にわが国の商船は日米戦争開始前の 40%にまで縮減していた。 1 月 13 日 昭和東南海地震から 37 日後のこの日、三河湾を震源とする巨大地震が起き、倒壊した建物の下敷きと なって 1,000 人以上の命が失われた。西尾市に疎開していた名古屋市の学童も、分宿先の寺の本堂倒壊 により犠牲となった。両地震とも戦時中ということで、国民に知らされることはなかった。 その 2 日後の米軍の空襲では、伊勢神宮の外宮が爆撃された。 (終戦を模索する天皇) 昭和天皇は、グアム島の守備隊が全滅して(昭和 19 年 8 月 10 日)マリアナ諸島が米軍の支配すると ころとなり、パラオ、フィリピン、台湾が戦場となろうとしていた 19 年 9 月 26 日、木戸内大臣を召さ れて「武装解除又は戦争責任問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などの言葉を 述べられ、初めて終戦の意思を明確に示された。 昭和 20 年 1 月 6 日 フィリピンでの戦況悪化の報告を受けた天皇は木戸内大臣を招き、重臣からの意向を聴取することの 要否をご下問になった。 2 月から、天皇は終戦へのご意思を秘めつつ、あらためて首相経験者など 9 人(平沼騏一郎、広田弘 毅、若槻礼次郎、岡田啓介、東條英機、近衛文麿ら)にひとりずつ戦局の意見を求めた。 2月9日 天皇に拝謁し意見を求められた広田弘毅元首相は、中立条約を結んでいたソ連との関係維持の重要性 を説いた上で、ソ連は米英に加担して我が国に敵対的行動をとることはないであろう。また、いかなる手 段をとっても対ソ関係保持を最優先すべきである旨、甘い認識を示した。 2 月 14 日 3 年ぶりに天皇拝謁がかなった近衛文麿が「敗戦となっても国体は維持できるが、それよりも共産化が 心配である」旨の上奏文を読み上げ、自分が政権担当者であった時の不明を詫びた。 同上奏文の中で近衛は「最悪な事態は遺憾ながら最早必至であり」 「勝利の見込みなき戦争をこれ以上 継続することは、共産党の手に乗るものというべく、従って、国体護持の立場よりすれば、一日も速やか に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信す」と訴えた。 続けて「特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動にあり」、 「我が国内の情勢は、今や共産革命に向か 304 って急速度に進行しつつある」 「そもそも満州事変、シナ事変を起こし、これを拡大して遂に大東亜戦争 にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりし事、明瞭なり」と断言し「軍部の一部にはソ連と 手を握るべし」 「延安(シナ共産党)と提携すべしとの声もある」 「共産革命に進むべき好条件が日一日と 成長しつつあり、今後戦局ますます不利となれば、この形勢は急速に展開する」と憂慮していた。 近衛は、さらに続けて「少壮軍人の多数は、我が国体と共産主義は両立するものと信じる」 「軍部内革 新論の基調も又ここにある」と指摘し、 「この一味を一掃し、軍部の建直しを実行すること」が不可欠だ と進言した。近衛は、陸軍の中に共産主義に同調する者たちがいて、日本の革命化を計画しているとの情 報に接していたと推定されている。 とくに日米開戦当時軍務局長であった武藤章の周辺にそうした疑惑を持たれた将校が多数いた。 近衛の上奏は、国体を護持しての条件づき講和を前提にしていたが、ルーズベルト米大統領は無条件降伏に固執 していたから、近衛の前提にしても楽観論に過ぎた。なお、この上奏文の作成には敗戦後に外相となる吉田茂が加 わっていた。 天皇は大いに驚かれたが、この時点で近衛の上奏を採用すれば軍部の猛反発は必至で、却って戦争終 結が遠のきかねないことから、近衛の進言も実を結ぶことなく終わった。 2 月 19 日 拝謁した牧野伸顕元内大臣は「米国の反共思想には変化なし」として米英がソ連と共闘することはな いだろうとの誤った認識を示した。 2 月 26 日 拝謁した東條英機元首相は、それまでソ連が米英に組せず、対ソ外交が成功してきたとした上で、ソ連 参戦の見込みは「五分と思考する」と楽観的な見通しを表明した。 大多数の元重臣が親ソ的意見を述べたため、その影響を受けた天皇はソ連の仲介で戦争終結を構想す るようになった。しかし、元重臣たちの認識に反し、すでに 2 月開催のヤルタ会談において、ソ連は米英 の求めに応じて対日参戦を約束していた。 (米英ソシによる戦争終結・戦後処理の動き) 昭和 20 年(1945 年)2 月 4 ~11 日 クリミア半島ヤルタに米英ソ3首脳が集まり、ドイツ降伏後の戦後処理について協議した(ヤルタ会 談) 。この会議地にはスターリンの要求によりソ連国内のヤルタが選ばれた。独ソ戦におけるソ連兵の戦 死・行方不明者が約 800 万人にも達していたからであった。 ルーズベルト大統領とチャーチル首相がスターリン書記長に対し、ポーランド、ドイツなど東欧の占領 を認める他、ドイツ降伏後 90 日以内の対日参戦を求め、その見返りとして ① クリル(千島)列島の「引き渡し」 ② 満洲及び樺太の「返還」 (=日露戦争以前の状態に戻す) ③ 旅順におけるソ連の租借権回復 を約束するという秘密協定を締結した。 このクリル(千島)列島には、東端の占守島までもが含まれていた。ルーズベルトは日本の北方領土を気前よく 餌にしてソ連に参戦を求めたのである。 そうしたルーズベルトの行為について、後にアイゼンハワー大統領は当時の外交委員長 W.ジョージ民主党上院議 305 員との対談において次のように激しく非難した(1955 年 1 月 17 日) 。 「私は非常に大きな間違いをした、ある大統領の名前を上げることができる。ルーズベルト大統領は自分の信念 や行動しか認めない極めて自己中心的な人物であった。ヤルタ協定において、東欧をソ連に売り渡した」 なお、イギリスはソ連がインドへの通商ルートを抑え、地中海東部(トルコ、ギリシャ)の支配権を手中にする ことを懸念していた。マレー半島やインドの権益を失い、中東の石油発掘の権益を失うことは大英帝国の前途にと って絶望的なことであったから、ソ連の矛先を極東に向けるよう仕向けたのである。 日本の首脳はこの密約を知らないまま、その後、ソ連を仲介者として終戦交渉の道を探ることとなっ た。 ヤルタ会談の内容については、当時スウェーデン公使館付武官の小野寺信陸軍少将が、ポーランド人ブ ルジェスクィンスキーから“英国バッキンガム市のルーベンスホテル内にあったポーランド亡命政権か ら得た情報”として、独ソ開戦の日時や“ソ連の対日参戦はドイツが降伏してから2ないし3か月後だ” ということまで大本営参謀本部次長秦彦三郎中将宛に機密電で知らせていた。ポーランド政府はシベリ アにおける孤児救出や杉原千畝によるユダヤ系ポーランド人への「命のビザ」発給への恩返しのために、 日本に情報をもたらした。 このことについては大本営参謀本部ソ連課長であった林三郎も、回想録「関東軍と極東ソ連軍」の中で「参謀本 部は(当該情報を)会談の直後に入手した」と記している。 これを裏付ける秘密文書がロンドンの公文書館で確認された(平成 24 年 5 月 11 日づけ産経新聞) 。それによれ ば、ドイツの在ストックホルム公使館が 2 月 14 日に同じ情報を入手し、同国外務省が全在外公使館に発信した。そ れを英国政府暗号学校が傍受し、解読したものである。 クレーマー情報士官は、英国情報局秘密情報部が 1945 年 7 月 23 日に行った尋問の際に「 (上司だった)ドイツ親 衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長に小野寺情報を報告していた」と応えている。したがって英国情報局秘 密情報部は、ドイツが入手した情報も、その情報源はドイツ軍の K.H.クレーマー情報士官と常時連携していた小野 寺駐在武官であったと分析している。ただし、この文書にはソ連の参戦時期についての記載はない。 しかし、小野寺機密電情報が政府上層部にあがることはなかった。すなわち、同情報は大本営参謀本部及び外務 省の中枢によって握りつぶされた可能性が高い。その理由は、当時の参謀本部や軍部、中央官僚の中には梅津参謀 総長、瀬島龍三、松谷誠(戦争指導班長) 、種村佐孝(松谷の次の戦争指導班長)をはじめ内心、親ソないし共産主 義に傾倒する者が多く、ソ連を仲介者として終戦交渉を行おうとしており、その方針に支障をきたすのを恐れたか らであった。 松谷についてみれば、昭和 20 年 4 月鈴木貫太郎首相の秘書官となったとき、 「終戦後日本国家再建方策」という 論文を提出した。そのなかには「スターリンは人情の機微に即した左翼運動の正道に立っており、ソ連の民族政策 は寛容なものとなった。よってソ連はわが国体とは絶対に相容れないものだとは考えられない」と書かれていた。 種村戦争指導班長は、小野寺からの機密電を直接受信した秦彦三郎参謀本部次長の実務官であったが、昭和 20 年 4 月 29 日、 「対ソ外交交渉要綱」を起案し、 「あくまでも対米英戦を完遂するため」 「ソ連を味方に誘引すべし」 、 「日 支蘇三国善隣友好総合提携不可侵」条約を結んで「相互の親善を図る」と説いた。 なお、駐ドイツ大使の大島浩も独リッベントロップ外相から入手したソ連参戦情報を 3 月 22 日づけで、また 5 月 にはリスボンの在欧武官も同様の情報を外務省に打電したが、外務省もソ連頼みの終戦工作に拘ったため、8 月 9 日のソ連の駆け込み参戦を許すことになった。 (都市への絨毯爆撃、硫黄島陥落と本土決戦策) 306 昭和 20 年 1 月 20 日 参謀本部作戦部が機密裏に「本土決戦に関する作戦大綱」を決定。 同月 ルーズベルト大統領が、日本本土への無差別爆撃に反対するグアム島爆撃隊ハンセル司令官を解任し、 後任に予て無差別爆撃を主張していたカーティス・ルメイ少将を任命した。 ハンセル司令官は無差別爆撃に反対で、軍事基地や軍需工場への精密爆撃に留めるべきだと主張し、 数度にわたり実行に移したが、いずれも高射砲の反撃を恐れた高空からの投弾であったため気流の影響 も受けて失敗していた。 →3 月から、ルメイ少将指揮下にグアム島からの日本本土への無差別絨毯爆撃を始めた。初めは東京、 横浜、大阪、名古屋、神戸など6大都市への攻撃で日本は降伏するだろうと読んでいた。 2 月 13~15 日 イギリス軍を主体とする 1300 機の重爆撃機がドイツのドレスデンを空襲し、市民を無差別爆撃 し、市街の 85%が破壊され、約 2 万 5 千人が犠牲となった(ドレスデン市歴史調査委員会)。これ は、ドイツ軍によるコベントリー空爆の報復として行われた。 2 月 16 日 アメリカ軍が硫黄島に上陸。硫黄島はサイパン島と日本本土とのちょうど中間地点にあり、アメリカ軍 は日本本土への爆撃には格好の基地として目をつけた。 アメリカ軍は海兵隊 3 個師団、総兵力 11 万人を動員し、3~4 日で占領できると考えての上陸計画で、 艦砲射撃の後、19 日に上陸を開始した。 栗林忠道中将率いる 17,500 名の守備隊(他に海軍兵力 5,500 名)は水際作戦をとらずに擂鉢山に籠っ て頑強に抗戦し、米軍にも大きな損害を強いた。 3 月 10 日 東京で木造住宅が密集している下町の江東地区に、マリアナ諸島を飛び立った米軍の B29 爆撃機 334 機が午前0時過ぎから大空襲を行った。 この空襲は、まず長円状のラインのうえに焼夷弾(E46.木造住宅を効果的に焼きつくすために開発さ れたもの)を落として火の壁をつくり、住民の退路を断った上で1平方メートル当たり 3 発、総重量 2700 トンの焼夷弾を雨あられと市民の頭上に降り注ぐというむごいもので、住民は逃げ場がなく焼死してい くほかはなかった。 警視庁の調べでは、死者約 83,700 人、被災者は 100 万人、被災家屋約 26 万 8 千戸だったが、実際に は行方不明者が数万人の規模であることから、死者・行方不明者は 12 万人以上にのぼると言われる。わ ずか 1 回の大規模空襲で東京の東半分が焼け野原になった。 以降、米軍は日本の都市への無差別爆撃を繰り返したが、これは、ハーグ条約第 25 条(防守されてい ない都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をとっても、これを攻撃、砲撃することを禁ず)に違反する 行為であった。 前出のドレスデン空襲との違いは、ドレスデンは石造りの建造物が多いため爆弾による破壊を主目的 としたが、東京空襲の場合は、 「国民の厭戦気分を高めるため」という理由から新規に開発した焼夷弾を 用いての家屋焼き払い・住民大量焼殺にあったことである。 3 月 13 日 307 夜間から未明にかけて B29 爆撃機 274 機が大阪市街地を襲い、低空から約 7 万個の焼夷弾落とし市内 をあらかた焼きつくした。この無差別爆撃により市民3千人以上が亡くなり、13 万以上の家屋が焼失し た。 3 月 17 日 B29 爆撃機 309 機が神戸を襲った。8 月の終戦までの度重なる空襲により、神戸では 8800 人余りが死 亡した。以降、空襲は地方都市にも及んだ。 米軍が終戦までに出撃させた B29 はのべ約 3 万 3 千機、投下した爆弾は計約 14 万 7 千トンで、約 430 もの市区町村を爆撃し、焼夷弾を落として一般市民に大きな犠牲者を出した。被害の総数は死者・行方不 明 59 万人、負傷者 30 万人、損失家屋数は 23 万4千以上に及んだ。 5 月 25~26 日の東京空襲では、皇居正殿も飛び火により炎上し、灰燼に帰した。 3 月 26 日 硫黄島陥落。日本軍 23 千名は増援も補給もないなかで戦い、戦死 20,129、生存者は 2 千数百でしか なかった。栗林中将は生き残りの兵 400 人とともに最後の夜襲を敢行、壮絶な戦死を遂げた。 戦死者のうち 1 万 3 千人の遺骨はいまも硫黄島に残されたままである。米軍は占領後遺骨の散乱する平原上にコ ンクリートを流して滑走路を造って使用した。1968 年に返還された後も、海上自衛隊はその滑走路を使い続けてい る。 アメリカ軍の方は陸上戦闘において兵力 28 千人のうち 6800 人が死亡し、死傷者合計では約 2 万 5 千 人と、日本軍を上回り、戦略の見直しを迫られるようになった。 以降、米軍は護衛戦闘機をつけた B29 爆撃隊による本土爆撃及び高射砲で損傷を受けた爆撃機の不時 着が可能になり、本土爆撃が本格化した。また、長距離戦闘機 P-51 の基地とした。 3 月 27 日 米軍が関門海峡、広島湾を皮切りに、機雷の敷設を開始した。作戦名は「対日飢餓作戦」で、港湾を使 えないようにすることにより、食糧の輸送を断ち、人口の約 1 割(当時の人口からすれば7百万人)を餓 死させようとするもので、その数は、終戦までの 5 ヶ月間に約 13,400 個に及んだ。 これらの機雷は、日本海軍が自衛のために敷設した機雷とともに、戦後、元海軍の兵士たちからなる掃海員たち よって処理された。彼ら掃海部隊員は後に海上保安庁の所属となり、朝鮮戦争の際には航路啓開のため昭和 25 年 10 月、朝鮮半島東側の元山沖に派遣された。触雷によって死者 1 名が出たが、戦死扱いされることはなかった。 4 月 30 日 米軍は都市無差別爆撃を地方都市にも拡大し、戦爆連合約 200 機(B29 及び P51 の混成)が関東各地 を空襲・無差別爆撃をおこなった。 地方都市への無差別爆撃は日本が降伏する 8 月 15 日の前日まで続けられ、合わせて 40 万人が犠牲になった。 (大陸打通作戦-2) 20 年 1 月 京漢作戦でひとまず所期の目的を達成したものの、連合国側はさらに奥地の湖北省老河口(洛陽の南 約 300 キロ)や湖南省蕋江方面にも飛行場を建設し、これにより 19 年後半からは鉄道が爆撃されるとい う事態が生じていた。 このため、大本営は支那派遣軍に対して、老河口作戦と蕋江作戦を命じた。 この作戦については、 “すでに絶対国防圏が破られ、サイパン、硫黄島が米軍の手に落ちたいま、老河 308 口と蕋江を攻略したところで、本土空襲阻止に格別の効果が期待できない”という反対意見を押し切っ て採用された。 指揮官に任命された岡村寧次は、第 12 軍隷下の騎兵第 4 旅団(第 25、26 連隊 1,248 人)を主力に、 戦車第 3 師団を支援部隊として併進させた他、第 39 師団、第 110 師団、第 115 師団、第 117 師団の一 部も参加させた。主力の騎兵第 4 旅団は、騎砲兵、輜重兵を加え総勢 3,600 人、軍馬総数 3,700 頭とい う空前の大部隊となった。 同年 3 月 1 日 騎兵第 4 旅団が駐屯地帰徳を出発し、同月 10 日、集結地汝南に到着。約 300 キロを踏破して同月 26 日、老河口城の第一陣地馬屈山を夜襲して、これを占領。→多数の戦死者を出しながらも 4 月 8 日に老 河口城を占領し、米空軍の飛行場、燃料タンクを破壊して目的を達成した。 この戦いは、 「世界戦史、最後の騎兵戦」と称されている。 (同作戦の評価) 確保した京漢鉄道もゲリラを排除して運行するには長大すぎて、まともに機能しなかった。 米軍 B29 爆撃機による本土空襲を阻止するため大陸での基地使用を未然に防ぐという面においても、 米軍がマリアナ諸島を占領したために無意味となった。 また、華北では八路軍によるゲリラ戦術に苦しめられることとなった。 第 2 次総攻撃までで戦死 3860 名、戦傷 8327 名、戦病 7099 名。第 3 次総攻撃では、第 58 師団だけでも出動し た 14,000 名のうち約 7,000 名が戦死した。作戦全体では、日本軍の戦死・戦病死者約 10 万人で、シナ側は負傷 者を含めて 75 万人に達したと言われている。 国民政府第十軍がアメリカ軍の装備で近代化されていたのに比べ支那派遣軍の砲兵力はお話にならぬくらい貧弱 で砲弾も不足していた。 ただし、米軍はこの一連の戦闘において国民政府軍が軍隊の体をなしていない腐敗した組織であることがわかり、 ともに戦うことはできないとして、日本本土爆撃を目的とした戦略を太平洋の島々を逐次占領していくというもの に転換することとなった。 (同作戦の後日譚) 同作戦の先鋒隊としてタイ国への進駐を命じられた第 37 師団約 1 万人、馬匹約 1,500 頭は、バンコク 東北約 130 キロの古都コナンヨークで終戦を迎え、イギリス軍の捕虜となった。 20 年 10 月初め、英軍司令官が佐藤師団長に「日本馬は銃殺し、大陸馬は撲殺せよ」と命じてきた。 悲運の軍馬たちに向けて日本兵は般若心経を唱えつつ泣きながら引き金を引いたと言われている。 1,050 頭の大陸馬の処理は、十字鍬やハンマーで額の急所を砕いたが、馬も兵もさながらこの世の地獄だ ったと伝えられている。 (大陸打通作戦-2 については、雑誌 Hanada-2017 月 2 月号掲載、加藤康男「天皇の馬 最終回」に よる。 ) (沖縄戦) 大本営は、米軍の上陸は、沖縄ではなく台湾になると予想していた。そのため、それまで沖縄の守備隊 である第 32 軍から精強といたわれた 1 個師団を台湾に引きぬいた。 20 年(1945 年)1 月 誰もが辞退した沖縄県知事(官選)を引き受けた島田叡知事が着任。 309 3 月 23 日 米軍機動部隊の艦載機 1,000 機が沖縄と南大東島を空襲し、また戦艦 10 隻を含む艦艇 40 隻が沖縄本 島 30km の沖まで接近し、艦砲射撃を開始した。翌日は、砲撃の間、日本軍が敷設した 1 万 7 千の機雷 を爆破した。 3 月 25 日 沖縄全島の中学 3 年生以上の生徒 1,780 人が招集され、「鉄血勤皇隊」が編成された。 鉄血勤皇隊は直ちに沖縄防衛戦に動員され、半数が戦死した。記録上、鉄血勤皇隊は、「勤労奉仕隊」 となっており、戦死した生徒たちが、軍人の戦死者として扱われることはなかった。 なお台湾においては、その 5 日前の 20 日、中学 3 年生以上の生徒全員が陸軍 2 等兵として招集され、 台湾防衛の任に就いていた。彼らは無事に終戦を迎え、一等兵に進級、日本人生徒は本土に引き揚げるこ とができた。 3 月 26 日 アメリカ軍が沖縄の慶良間諸島・座間味島に上陸(翌日、渡嘉敷島に上陸)。スプルーアンス提督率い る米沖縄攻略軍は、西岸の嘉手納沖に空母 19 隻、戦艦 20 隻など艦船 1317 隻、艦載機 1724 機、人員 451,866 人という大艦隊を終結させた。陸上部隊は陸上 4 個師団、海兵 3 個師団で、計 182,821 人であ った。 迎え撃つ第 32 軍(軍司令官は牛島満中将。シナ戦線から派遣された 24 師団、62 師団などより成っ た。)は兵力 7 万 7 千、他に海軍部隊 1 万、17 歳~45 歳の沖縄住民らで編成された義勇軍 2 万(鉄血勤 皇隊 1685 人や白百合隊約 600 人を含む)の計 11 万 6 千人が沖縄防衛戦にあたった。しかし、その3分 の1は現地召集兵で十分な軍事訓練を受けておらず、装備もほとんど失われていた。 防衛戦の過程で、慶良間、渡嘉敷、座間味三島において住民の「集団自決」が発生した。この「集団自 決」について、 「日本軍の守備隊長が住民に自決を命令した」とする説がある(大江健三郎『沖縄ノート』 ) 。 しかし、軍の関与を証する証拠は何も見つかっていない。 沖縄が戦場になった場合の住民の処置については、牛島満司令官が事前に指揮下の全部隊に対して「南 西諸島警備要領」を示達しており、それには 4 月末までを目標に「非戦闘員は玉砕させず安全地帯に退 避させる」方針であった旨、書かれていた。原文は次のとおり(抜粋。現在残っているのは米軍が入手し たものの英訳文) 。 軍の作戦を円滑に進め、混乱を避け、被害を少なくするために島民を適当な場所、あるいは近隣の島々に疎開さ せる。 『老人、子供』とは、60 歳以上の者及び、国民学校 6 年生以下の者をいう。 『戦闘に参加できない者』とは、女性 の大半及び、直接戦闘参加を命じられなかった男子をいう。 この要領に沿って、その後も島田知事の指導のもと、県民の約4分の1にあたる 16 万人が沖縄本島北 部の国頭郡をはじめ九州や台湾などに疎開した。 座間味島で日本軍の伝令と雑役を担当していた宮平秀幸氏の証言によれば、守備隊長と村長や助役と の間で次のようなやりとりがあったという。 「村の年寄たちと子供を集めてありますから、自決するための爆弾をください」と懇願する助役に対して、隊長 310 は「あなた方を自決させるような弾薬などない。帰って、集まっている民間人を解散させろ」と応えた。 なお、住民の「集団自決」は、逃げ場のあった沖縄本島には殆どなく、逃げ場所がない慶良間三島で集 中的に発生した。 4月1日 アメリカ軍が沖縄本島に上陸開始。対する日本軍は沖縄と台湾とを一括して考えていて、沖縄戦を重要 視していなかった=本土防備の捨て石(参謀本部宮崎周一作戦部長、服部卓四郎作戦課長及び後任の天 野正一) 。従って、天皇の允裁を受けていた 84 師団の沖縄派遣を中止させ、しかも第 32 軍の一部・第9 師団(島民からは沖縄防衛の中核部隊と期待されていた。)を台湾に回した。 この日、大本営は「陸海軍全機特攻化」を決定。 4月5日 連合艦隊司令部が戦艦「大和」座乗の第 2 艦隊司令長官伊藤整一に沖縄への海上特攻命令を出した。 大和は呉基地が米軍の敷設した機雷によって入港できないため、徳山沖に停泊していた。沖縄への出撃の目的は、 沖縄陥落を 1 日でも遅らせるためということであった。 伊藤長官は、制空権、制海権を奪われた時点における出撃の無謀を説いて激しく反対した。 「大和」の 3 千余名の将兵はじめ、第 2 艦隊全 16 隻の 6 千余名の命がむざむざと失われることが目に見えているか らであった。第 32 軍も「大和」出撃に反対して中止要望の電報を打った。 困惑した連合艦隊司令部豊田副武大将が「一億玉砕の魁になってもらいたい」と参謀を通じて懇請したため、伊 藤長官は即座に了承したが、伊藤長官は、命令を伝えに来た草鹿龍之介参謀長から、作戦が失敗したときには作戦 中止の指揮権を予め譲り受けるとの言質を取った。そのうえで否を唱える艦長たちに「われわれは死に場所を与え られたのだ」と言ったという。艦長たちも納得するほかなかった。 伊藤長官は、即時に江田島の海軍兵学校を卒業してきた新人の少尉候補生 73 名に退艦を命じ、前途有 為の候補生を沖縄特攻の道連れにする愚を避け、かれらの命を救った。 伊藤長官は、16 年 9 月以来 3 年 4 か月間、海軍軍令部次長として作戦統帥の最高責任者としてその指揮をとって きたが、海軍敗戦の責任をとる形で自ら志願して、19 年 12 月、第 2 艦隊司令長官に転出していた。若いころ米国 駐在の経験を持っていた伊藤長官は、日米開戦に反対し、海軍屈指の知米派、合理主義者として識見や洞察力を持 っていた。 4月6日 海軍の特攻作戦「菊水 1 号作戦」と陸軍の特攻作戦「第 1 次航空総攻撃」 (台湾、九州基地航空部隊に よる特攻機を主体とする総攻撃)が発令された。 同日夕刻に発令された「天 1 号作戦」により、陸海軍は「第 1 次航空総攻撃」と菊水 1 号作戦」を発 動し、524 機の戦闘機(うち特攻機は約 300 機)が沖縄目指して飛び立った。 また同日、日本海軍最後の重油を積んだ戦艦「大和」が軽巡洋艦 1 隻、駆逐艦 8 隻を従え、呉港から 「海上特攻」に出撃した。連合艦隊は、既にすべての空母を失っていたため、戦闘機の護衛はなかった。 同日、アメリカでは合衆国極東陸軍司令部が廃止され、合衆国太平洋陸軍総司令部が設立された。これ は日本本土侵攻のための準備措置であり、総司令官にはマッカーサー元帥(前年 12 月に連邦議会が任 命) ・前極東陸軍司令官が任ぜられた。 4月7日 311 戦艦「大和」は鹿児島県坊津沖合で米軍の艦載機 386 機の爆撃を受け大破、沈没した。軽巡洋艦 1 隻、 駆逐艦 4 隻も沈没、戦死者は補助艦の乗組員も含めると 3700 余名にのぼった。 大和は米軍の偵察機によりたちまち知られるところとなり、鹿児島県坊津沖合で米軍の猛攻を受け、左舷への集 中的な魚雷攻撃によって船腹にいくつも穴を空けられ傾くとともに、船体が真二つに折れ、大爆発を起こして沈没 した。 乗組員は、大半が大和とともに海中に没したが、海に投げ出された者も、敵戦闘機に撃たれたり、爆発を起こし た船の破片によって命を落としたりし、生存者は 269 名でしかなかった。しかし、作戦中止について予め指揮権譲 与を受けていた伊藤長官は大和の沈没前に作戦中止を命じ、他の艦船乗り組みの将兵 27 百名余りが戦後に生き残 ることができた。 大和の出陣は、特攻的な色彩が強く悲壮なものであったが、戦後アメリカは以下の通り、日本人の命を賭して国 を護るという姿勢が後世に残ることを許さなかった。 東大在学中に学徒出陣となり、大和乗組員であった吉田満が戦後書いた「戦艦大和ノ最期」の結語として、吉田 は「サハレ徳之島西方二十㌋ノ洋上、 『大和』豪沈シテ巨体四裂ス 僅カニ二百数十名 至烈ノ闘魂、至高ノ練度 水深四百三十米乗員三千名ヲ数ヘ、還レルモノ 天下ニ恥ジザル最期ナリ」 (メリーランド大学プランゲ文庫に現存す る初校テクストより)と書いたが、GHQによる検閲制度の下、出版許可申請ゲラ中「至烈ノ闘魂、至高ノ練度 下ニ恥ジザル最期ナリ」の部分はGHQ検閲官の強く嫌うところとなり、 「 (前略)水深四百三十米 天 今ナオ埋没ス ル三千ノ骸 彼ヲ終焉ノ胸中果シテ如何」と書き直させられた(講談社文芸文庫版) 。 この日、米軍の沖縄上陸及び蒋介石政権との和平工作失敗の責任をとる形で小磯国昭内閣が総辞職し た。 同日、ソ連が日ソ中立条約延長の破棄を通告してきた。このため万策尽きた小磯内閣が総辞職。 条約上は、通告の日から 1 年間の有効期間が残されていたため、政府首脳部は、いずれソ連が参戦してくると予 想していたものの、1 年以内にソ連が条約の規定を無視して侵攻してくることはないだろうと、考えていた。 4 月 19 日 沖縄で米陸軍が全線において総攻撃を開始した。日本側は軍人だけでなく、沖縄県民による義勇兵も 視力を尽くして防戦した。14~17 歳の鉄血勤皇隊も戦闘に参加し、ひめゆり学徒隊や白梅学徒隊なども 砲弾の雨をかいくぐって、負傷兵の救護に尽くした。 4 月 20 日 米陸軍対敵情報部において「日本における民間検閲基本計画」が策定された。日本本土侵攻、占領を前 提としたものであった。 6 月 17 日 沖縄本島の南端で、補給もなく絶望的な抗戦を強いられた沖縄防衛軍が師団としての戦力がほぼ壊滅。 この戦闘により、軍の戦死者は約 6 万 5 千人、県民の犠牲者は約 10 万人であった。指揮命令系統の混乱 のために戦闘に巻き込まれた非戦闘員 1 万数千名を含めると、死者は 188,000 人に達した。一方で、米 軍も戦死 7613 人、戦傷 3 万 1807 人、戦闘神経症など 2 万 6211 人という大損害を被った。 第 2 次大戦中最大の激戦を繰り広げた沖縄戦における日本側の戦死者は甚大であったが、アメリカ軍 の被害も甚大であった。アメリカ軍の戦史は「ありったけの地獄を一つにまとめたような戦い」と記し た。 日本軍は神風特攻機を 2 千回、通常戦闘機を 5 千回出撃させ、米艦 346 隻に体当たりし、34 隻を沈め、43 隻に 312 甚大な被害を与えた。それらの攻撃により米軍は、海軍兵士 4,900 人が戦死し、6,200 人が負傷した。陸軍も戦死 及び行方不明 7,600 人、負傷 58,000 人にのぼった。他に航空機も 763 機が失われた。それは第 2 次世界大戦中の 戦闘の中で最も多い戦死傷者であり、アメリカ海軍史上最も凄惨な戦いだったのである。 この沖縄戦の経験からアメリカは、もし本土上陸戦となれば、100~200 万もの死傷者が出ることが確実だと予想 した。 戦闘終了後、県民保護のため献身的に尽くした島田知事は司令部のあった摩文仁に向かい、そのまま行 方不明となった。総司令官の牛島中将は総責任をとって割腹自決した。 また、県民の戦闘参加の死闘、その状況と窮状を具に記して称えた後「・・・沖縄県民カク戦エリ 県 民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した海軍沖縄根拠地隊司令官司令官の大田実少将も、 その 1 週間後に幕僚とともに自決した。 (終戦工作) 政府・軍あげての終戦工作は沖縄戦必敗形勢の中で始まったが、その約 1 年前の 19 年 5 月 25 日、当 時の重光外相は佐藤尚武駐ソ大使あて「帝国の対ソ対支方策に関する件」と題して電報を打ち、ソ連や蒋 介石政権との関係について意見を求めた。この中で重光は「ソ連を協力的地位に置くことは有意義と思 考せらる」と主張、日ソ中立条約を背景に蒋介石政権との戦争を有利な形で終結に導く手立ては考えら れないものかと尋ねた。これに対し佐藤大使は、6 月 3 日ソ連と米英との関係は強固なものであるから、 日ソが連携して国共合作を無害なものにすることは「到底期待しえざるところなり」とし、したがって蒋 政権との戦争の終結を探るとの意見には「明白に否定的結論に到達せざるをえず」と回答した。 (故武内龍次駐米大使が保管した公電より。H26.8.19 産経新聞記事) 20 年 3 月 16 日 蒋介石から委任を受けたと称する繆斌が和平の話し合いのため来日し、東久邇宮稔彦との会見を申し 出た。宮は繆斌による和平工作を信じて推進しようとした。 この和平工作は、朝日新聞社特派員・田村真作が「蒋介石にへの確実なルートを持っている」ふれこみ で当時南京政府考試院副院長の繆斌起用による工作を具申したことから始まったもので、緒方武虎国務 大臣、小磯首相を経て具体化した。 しかし、繆斌は過去に、汚職により蒋介石から忌避されていた者であり、南京政府の周仏海などから全く 信用されていない人間であった。このため外務省、陸軍が反対、さらには木戸内大臣も反対したため中止 された。 4月5日 小磯首相以下全閣僚が辞表を提出。米軍が沖縄に上陸した 4 日後のことであった。小磯には戦争遂行 の指導力も、戦争終結への実行力も全くなかった。 4月9日 鈴木貫太郎(海軍軍令部長を経て枢密院議長に就任していた。78 歳)内閣が成立。 首相就任を固辞していた鈴木であったが、終戦の任にあたるようにとの天皇の強い期待を受け組閣し た(外相東郷茂徳、陸相阿南惟幾、海相米内光政) 。現役将官の首相就任を目論む陸軍の意向を退けて重 臣らは天皇の信頼が篤い枢密院議長鈴木に期待した。陸軍は組閣にあたる鈴木に 3 条件を突きつけた。 1 あくまで戦争を完遂すること 313 2 陸海軍を一体化すること 3 本土決戦必勝のために陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること 陸軍にそっぽを向かれては終戦工作どころではないから、鈴木は 3 条件とも受諾せざるを得なかった。 首相補佐官には参謀本部戦争指導班長を経て杉山陸相の秘書をしていた松谷誠が起用された。松谷は、 前年からドイツ必敗の形成を見て、ソ連を仲介とする講和策を自説としていた。 外務大臣として入閣した東郷茂徳は、天皇の終戦のご意向を受け、ドイツ必敗の形勢のなか終戦交渉に 着手した。阿南陸相も、口では「徹底抗戦」を唱えて軍部の意向に沿う形を取りながらも、重要な局面で は、軍部が暴発しないように陰で鈴木首相を助けた。 ソ連との関係を有利に使おうとする陸軍中堅将校らの思惑を受け、東郷外相は国内の意思統一の場と して、総理、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部長からなる再考戦争指導会議構成員会議( 「六者協議」) を主導し、中立条約を結んでいるソ連に和平の仲介をとるよう働きかけた。 首相補佐官の松谷も、阿南陸相にソ連を仲介とする講和策を説いた。(4月 29 日の項参照) この策は小磯内閣時代からの引き継ぎ事項であったため、鈴木首相も阿南陸相も無下にはには退けら れなかったため、陸軍中堅将校らは、これを継戦の理由に使った。 ソ連が 4 月 7 日、日本との中立条約の不延長を通告してきたにもかかわらず、陸軍の主流である梅津参謀総長ら 統制派は(また、 「革新官僚」と呼ばれる中央官僚も)ソ連を和平の交渉役に使おうと考えていた。その理由は、共 産主義国家体制を戦後の政体と考えており、そのためにソ連と気脈を通じておこうとしていたからである。 これに対し、スウェーデン公使付武官の小野寺信は外務省に「帝国はモスクワを仲介として和平を求めるやの印 象を受けるが、帝国の将来のため、これは最も好ましからざることと考える。当方面に於いてあらゆる場合に応ず る路線を用意するから必要あらば中央もこれを利用するよう配慮ありたし」との警告を行った。 しかし、新任の東郷外相は事前に参謀本部新任次長河辺虎四郎中将から、ソ連を仲介とする工作を行うよう説得 されていたため、小野寺の警告を聞き入れずに以後も“ソ連仲介による和平”への期待に拘り続けた。 (ヤルタ密約における「ソ連参戦必至」を報じた小野寺信少将及び大島浩駐独大使の電報は、参謀本部及び外務 省でそれぞれ黙殺されていた。それは、希望的観測のために真実の情報を軽視した例といえる。20 年 2 月 4~11 日 ヤルタ会談の項参照) 4 月 12 日 ルーズベルト米国大統領が脳内出血で急死し、即日、副大統領のトルーマンが大統領に就任した。トル ーマンは、国務長官に対日強硬論者のバーンズを起用した。 1 週間前に就任したばかりの鈴木貫太郎首相は交戦中にもかかわらず「私は深い哀悼の意をアメリカ国 民の悲しみに送るものであります」と弔意を表す談話を発表した。 アメリカに亡命していた作家トーマス・マンはこの談話に感動し、BBC 放送で「東洋の国、日本にはなお、騎士 道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固としてある。ドイツ人は恥ずかしくないのか」という声明を発 した。 これに対し、ヒトラーは「運命が史上最大の戦争犯罪人ルーズベルトを地上から取り除いた」と狂喜し た。 4 月 29 日 参謀本部戦争指導班長種村佐孝大佐(※1)が「対ソ外交交渉要綱」を起案した。その中で種村は、 「あ くまで対米英戦争を完遂するため」 「帝国及び満支の犠牲において『ソ』を我が方に誘引」し、米英の「世 314 界侵略」の野望に対して、日ソ支三国が「善隣友好相互提携不侵略の原則の下に結合し、以て相互の繁栄 を図る」ため、ソ連との交渉役として外務大臣(又は特派使節)を派遣し、 「乾坤一擲の断」を下すべき と進言した。その際、ソ連とは①満洲国や外蒙共和国の割譲、南方占拠地域の権益の譲渡、②支那との交 渉相手は延安政権とし、同政権の希望する地域からの日本軍の撤退―を約束できるとしていた。 松谷誠大佐は、終戦後の「日本国家再建方策」を提出した。その考えの背景を説明する一文には、次のように書 かれていた。 「スターリンは独ソ戦後、…人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており…ソ連の民族政策は寛容 のものなり。…民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、 わが国体と赤とは絶対に相容れないものとは考えざらん」 「戦後、我が経済形態は不可避的に表面上社会主義的方向 を辿るべく、この点よりも対ソ接近可能ならん。米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組 織の方が将来、日本的政治への復帰の萌芽を残しうるならん」 この「日本国家再建方策」作成作業には企画院調査官の毛里英於菟ら革新官僚並びに「転向右翼」の平野義太郎 (※2)らが協力していた。 参謀本部にあって戦争指導第一線の役職者が、 “ソ連は各国の民族の自決と文化を尊重して共産化を進めるのであ り、日本が共産化しても(皇室をいただく)国体は安泰だ”という認識を持っていることがどれほど恐ろしい錯誤 であるかはいうまでもない。このように、当時陸軍内部や中央官庁に共産主義が相当深く浸透していたのである。 陸軍内部は、この年の 2 月 14 日に近衛元首相が天皇に上奏したとおりだったことがうかがわれる。 ※1 種村佐孝は、終戦時に「厳格にチェックされた共産主義の軍人」としてソ連の捕虜となり、ウランバートル にあった俘虜所で特殊工作員として訓練された。5 年後に帰国した後は日本共産党に入党した。 ※2 平野義太郎は元マルキストで右翼に転向したが、戦後は再び左翼運動を展開し、「現代中国学会」の初代幹 事長・会長を務めた。 (この項、正論 15 号所収、平間洋一著「『本土決戦』 『一億玉砕』を叫んだ敗戦革命論者たち」参照) 翌 30 日、ドイツでは、ドイツ国会がソ連軍により占拠され、ヒトラーは首相官邸で自殺した(その 2 日前。イタリアではムッソリーニが処刑) 。→5 月 2 日 ベルリン陥落。 ドイツ国内はソ連軍に蹂躙され、10 万人の婦女子が凌辱された。 同月 ひそかに終戦工作を進めていた元駐英大使の吉田茂が憲兵に捕まって投獄される(40 日あまりの後、 釈放) 。 この後も、重光葵元外相によるスウェーデン駐日大使ワイダー・バッゲを通じての「バッゲ工作」やスイス海軍 駐在武官藤村義郎による米国 OSS 幹部アレン・ダレスを通じての無条件降伏以外の収束策を探る交渉(※3)など も密かに進められたが、陸軍に阻まれた。参謀総長梅津美次郎をはじめとする陸軍は、終戦工作の仲介ならソ連以 外にない、という考えであった。 ※3 ダレスに接近する和平工作ルートは2つあった。いずれも終戦間際まで和平工作に尽力したが、実を結ばな かった。それを妨げたのは、 「無条件工作」の中身を巡る解釈と、陸軍主導のソ連仲介和平策であった。 (1)駐スイス駐在武官藤村義一―フリードリッヒ・ハック―ダレス (2)陸軍武漢岡本清福中将&スイス公使加瀬俊一(後の国連大使・加瀬俊一の 5 年先輩で、通称「大加瀬」 ) ―バーゼルの国際決済銀行理事北村孝次郎&同行為替部長吉村侃―同行経済顧問ベル・ヤコブソン―ダレ ス 315 (詳細は、竹内修司「幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ 1945 夏」文春新書) 5月8日 米国海軍情報部副長官エリス・ザカリアス大佐が短波放送で「アメリカは日本の無条件降伏まで攻撃 を止めないが、無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化ではない」 「主権は維持される」などのメッセー ジを発信した。これは天皇制存続を認める可能性があることを意味するものであったが、大本営はこれ を「謀略」と受け止め相手にしなかった。400 万もの兵力を誇る陸軍には和平に応じる雰囲気は微塵もな かったからであった。 ザカリアス大佐は滞日経験が長く、その間皇室行事に何度も招待されていたうえ、高松宮が訪米した折茂案内役 を務めた人物であった。 5 月 14 日 最高戦争指導者会議(メンバーは鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、及川軍令 部長)が開催され、陸海軍関係の 4 人がソ連への終戦仲介工作を主張し、東郷外相一人が反対した。誰ひ とり、ヤルタ会議の密約を知らされていない中での会議であり、鈴木首相がまとめ役に回って、会議はソ 連への仲介工作を決定した。 陸海軍関係の 4 人は、ソ連への工作によって、アメリカが終戦の条件を提示してくるのを期待してい た。鈴木首相も同じ思いであり、陸海軍の提案に反対すれば倒閣の恐れがあったとはいえ、スターリンに 対する認識が極めて甘かった。 日本による在モスクワ日本大使館を通じた和平への模索を感知した米軍(マニラの太平洋陸軍総司令部)は、 “ブラックリスト作戦”と呼ばれる日本完全占領のための新作戦の可能性を検討し始めた。 6 月 3、4、29 日 ソ連を通じての終戦工作を行うために起用された広田弘毅元首相がマリク駐日大使と会談。 広田は、天皇との特使として近衛元首相をモスクワに派遣し、スターリンとの直接会談を申しいれた が、ソ連は引き延ばし戦術をとって、回答を伸ばした。 スターリンは「敗色の濃くなった日本が頭を下げてきた」と直ちにアメリカに報告し、その間にもソ連 軍兵力を続々と満洲方面へ移動させていた。 鬼塚英昭「瀬島龍三と宅見勝『てんのうはん』の守り人」 (成甲書房)によれば、近衛が携えることにしていた降 伏の条件は「沖縄、小笠原、千島列島…これらすべての領土をソ連に引き渡すこと」及び「賠償として一部の労力 を提供することに同意する」というものであった。 一方で外務省は、スウェーデンやスイスを通じて日本の最低限の降伏条件をアメリカに報せた。これがポツダム 宣言の各条項につながった。 6 月7日 大阪市内北東部が米軍の爆撃機により無差別の大規模空襲を受けた。焼夷弾による火災から城北公園 付近に避難した人たちに対しても執拗な機銃掃射が浴びせられ、そこだけで千人以上が死亡した。 6月8日 大本営の御前会議で「今後とるべき戦争指導の基本大綱」 (前々日に最高戦争指導会議で審議されたも の)が確定。この会議には平沼枢密院議長、豊田貞次郎軍需相、石黒忠篤農相も出席した。 この時点においても、実行可能で具体的な施策は何もなく「あくまで戦争を完遂し…征戦目的の達成 を期す」と心意気が述べられただけにすぎない内容となっていた。 316 6 月 22 日 天皇が鈴木首相はじめ陸海軍両大臣、参謀・軍令両総長を召されて、戦争の終結について速やかに具体 的研究を遂げるよう求め、公式に和平への意図を明らかにされた。2 日前に沖縄で防衛軍が壊滅し、組織 的な戦闘が終結したとの知らせを受けた天皇が、これ以上の犠牲を避けるため、自ら和平への機会をつ くろうとされたのであった。 ところが敗色濃厚な中にもかかわらず、陸海軍統合問題(陸軍による海軍吸収。米内海相はじめ海軍が 猛烈に反対)が起こり、両軍の中枢部はこれに足を引っ張られて、終戦への道に進むことができず、時間 が空費された。 7 月 10 日 天皇から鈴木首相、東郷外相に「 (ソ連へ)特使を遅滞なく派遣せねばならないのではないか」とのお 言葉あり、その夜、最高戦争指導会議構成員会議(鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀 総長、豊田軍令部総長)開催された。 この場で近衛元首相を特使としてソ連に派遣することについて全員が了解した。これは米英ソ三国に よるポツダム会議の前にソ連による和平工作に期待した東郷外相の提案によるものであった。 戦争終結の条件を決めるとなれば議論百出して、和平の敷居が高くなるばかりだという事情もあった。早期戦争終結工 作の任にあたっていた東郷外相は、この時点でも、仲介役としてのソ連に期待しており、 (無条件降伏に近いものにならざ るを得ないにしても) 「いささかなりとも有条件にしたい」と考えていた。 7 月 12 日 天皇が重臣会議に出席の近衛元首相を召され、ソ連への特使となるよう伝えた。 鈴木首相は、近衛元首相に特使を受諾させるには天皇直々の特命しかないと考え、このような形をとった。 近衛元首相は、国体護持以外の条件を出さないことを決意し、天皇にもその旨を伝えて出発を待った。 政府は直ちに特使として近衛文麿公爵を派遣するという電報を、モスクワの佐藤尚武大使に伝達し、翌 日、マリク駐日ソ連大使へも伝えた。 佐藤尚武大使への電報には「米英が無条件降伏を固執する限り帝国は祖国の名誉と生存のため一切を挙げ戦いぬ くほかなく…人類の幸福のためなるべく速やかに平和の克服せられむことを希望せらる」との天皇の「聖旨」もあ り、モロトフ外相に極秘で伝えるよう指示していた。しかし、ソ連側はこの聖旨を握りつぶした。 7 月 15 日 ソ連側が「特使の目的が不明確」として回答を引き延ばしているため、佐藤駐ソ大使が電報第 1392 号 で「戦争終結の具体的提案の廟議決定を切望する」旨の意見具申を行った。現地では、戦争終結の条件を 示さなければ、和平が実現できるはずがないというのが実情であった。 この電報において佐藤大使は「 (本当に戦争終結を望むならば)無条件又はこれに近い講和をなすの他なきこと真 に已むを得ざる所なり」とも述べていた。なお、佐藤大使はこの時点に至っても、スターリンが対日参戦の意思を 固め、既にその準備を進めていることを掴んでいなかった。 翌 16 日、アメリカ、ネバダ州で初の原子爆弾の実験が成功した。 7 月 17 日 東郷外相が佐藤大使に対し、電報第 913 号を発し「敵(連合国側)にしてあくまで無条件降伏に固執 するにおいては、帝国は一丸となり徹底的に抗戦する決心」であると訓令した。 この日、 317 (ドイツ降伏と日本の孤独な戦い) ドイツでは 1945 年(昭和 20 年)4 月 30 日、ヒトラーが自殺しベルリンが陥落した。ドイツは無政府 状態となった→5 月 2 日、無条件降伏) 。 5 月 7 日 無政府状態となったドイツが無条件降伏。連合国軍とドイツ軍とがドイツ軍の全面降 伏予備議定書に調印を交わした。ソ連軍がベルリン市街に入り、約 1 か月間にわたり暴行、掠奪の 限りを尽くし、ソ連兵に強姦されたドイツ人女性は 10 万人にのぼった。 連合国側はヨーロッパ戦線の兵士の対日戦への投入が可能となった。ソ連は、直ちにヨーロッパで 用のなくなった軍隊をシベリア鉄道でどんどん極東に移動させた。ヤルタ協定の密約を実行するた めである。 この情報が入っても、日本陸軍には、極東のソ連軍は攻撃してこないだろうとの楽観論が支配していた。 5 月 8 日 トルーマン大統領が、ドイツの降伏を世界に向けて発表。このとき「日本の陸海軍が無 条件降伏によって武器を置くまで、我われは攻撃を止めない」との声明を発した。 5 月 15 日 日本政府は、ドイツとの間に締結されていた防共協定と日独伊三国同盟条約を含む一 切の取り決めの廃棄を行った。その結果、日本は世界を相手に戦うこととなり、物資の欠乏も明らか になった。天皇も「敗戦やむなし」とのお考えになられた。 20 年 5 月 25 日 米軍による 2 度目の大規模東京空襲。この空襲により市街地の 50.8%が消失し、皇居も類焼した。 6月8日 ドイツ降伏を受け、今後の政策を決めるための御前会議が開催されたが、 「戦争完遂、最後の一兵まで 徹底抗戦することを国策とする」旨の了解に終わる。 このように窮迫した事態に陥っても、陸軍内の一派は「徹底抗戦」を掲げ、和平工作を口にする者を闇から闇に 葬っていた。誰も表立って「和平」を言えない状況であった。 6 月 11 日 「国民抗戦の必携」 (戦闘要領)が新聞に掲載される。それは竹槍、鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口に 至るまで白兵戦に用いること、その使用方法まで書かれていたが、空襲を受けた焼け跡には、鉈や包丁の 柄にする一片の木片もなかった。 一方で、米軍による都市への無差別爆撃は連日のように続き、多くの一般市民が犠牲になっていった。 そのような戦況においても、陸軍内の少壮将校たちは、本土決戦を唱え、政府要人といえども「終戦」 を口にできない状況にあった。 (ポツダム会議、ポツダム宣言) アメリカにおいては、世論は圧倒的に日本の「無条件降伏」と天皇の処断を求める声が高まっており、 それを背景にしたバーンズ国務長官、ハル元国務長官やホーンベック極東部長らの政府側対日強硬派グ ループと、 「条件付き降伏」 (天皇の地位保全を認める)を主張するスチムソン陸軍長官、リーヒ元帥・大 統領最高軍事顧問、フォレスタル海軍長官らの軍側グループとが対立していた。 後者のグループは「無条件降伏に固執すれば、日本を絶望的にし、連合国側の犠牲をふやすだけだ」と危惧して いた。フォレスタル海軍長官は硫黄島戦を観戦して、散乱する両軍兵士の死体に衝撃を受けていた。 対して前者のグループは天皇などどうでもよく、とにかく日本を潰して蒋介石政権のシナを大国に育て、これと 強調することがアメリカの国益に適うというルーズベルトの考えを継承していた。しかし、この路線は、大戦後、 318 毛沢東の台頭によって、完全に破たんすることとなった。 バーンズはポツダム会議に臨むメンバーからスチムソンを外したが、スチムソンは遅れてベルリンに 入った後チャーチルに会って自分の考えを説明し、チャーチルを通じて自説をトルーマン大統領に吹き 込んだ。しかし、トルーマンは反日世論を背景にチャーチルの「条件付き降伏」論にとりあわなかった。 折しも、沖縄戦終結後にマッカーサー極東軍司令官が九州上陸作戦で予想される米軍死傷者数を算定 したところ、上陸後 30 日までに 5 万 800 人、60 日までにプラス 2 万 7 千人等々の数字が出、大統領に 報告した。 6 月 18 日 トルーマン大統領がホワイトハウスに陸海軍首脳を集めて戦略会議を開催。 これは、マッカーサーの報告に驚いたトルーマン大統領が、無条件降伏に拘ってこのまま戦争が長引けば、ソ連 を利するだけだと戦略を練り直すために開催した会議であった。 軍首脳の意見は無条件降伏のない限り日本本土への上陸作戦決行で一致するが、陸軍次官補マックロ イが「 (戦争の早期終結には)日本が国家として存続することを許し、また立憲君主制という条件付きで ミカドの地位を認めてやるべきだ」と発言し、トルーマンもこれに同意した。 以降、陸軍長官スチムソン、海軍長官フォレスタル、国務次官グルーが中心となり、日本への降伏勧告 案が検討された。→ポツダム会議へ。 7 月 16 日 ポツダム会議に臨むアメリカ代表団にワシントンから原爆実験成功の報が届いた。欣喜雀躍したトル ーマンは「無条件降伏を求める宣言を出しても日本が降伏しないならば原爆を使うことができる」と喜 んだが、スチムソン陸軍長官らは「条件を出さないまま、これほどの最終兵器を使えば、後にどのような 批判を受けることになるか計り知れない」と憂慮した。 米政府首脳でトルーマンの原爆投下意向に賛成したのはバーンズ国務長官だけで、スチムソンのほか フォレスタル海軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、グルー元駐日大使らは反対で、ニミッツ太平洋艦隊司 令長官やマッカーサー太平洋陸軍総司令官は原爆の存在さえ知らなかった。 →24 日、ポツダムでの会議終了後、トルーマンは何気ない素振りでスターリンに「我われは異常な爆 発力を持つ新兵器を持っている」と伝えた。スターリンは「それは結構です。日本に対して有効に使われ ることを希望します」とだけ言い、一言も質問をしなかった。しかし、この日が両国の核兵器開発競争の 出発点であった。 7 月 17 日 ベルリン郊外のポツダムにおいて、第 2 次大戦の戦後処理及び対日戦争終結を話し合うため米・トル ーマン大統領、英・チャーチル首相(途中からアトリー外相) 、ソ連・スターリンによる会談が始まった。 この日の会議の最後に、スターリンはトルーマンに対して「ヤルタで同意したように、我が国は 8 月 中旬、日本に宣戦を布告します」と言った。その晩、スターリンは自国の司令官たちに全速力で軍を極東 に移動するよう指令を発した。 この時点においては、トルーマン大統領はヤルタ密約の内容を知らなかった。前任のルーズベルトから何も聞かさ れていなかったからである。しかしスターリンはモロトフ外相を通じて、米英華の三国がソ連参戦を要請したとする 文書を出してほしいと持ちかけた。トルーマンは同意せざるを得なかった。 もちろん、蒋介石も知らされていなかった。そのため宋子文外相が 7 月にモスクワを訪れた時、スターリンからそ 319 の内容を聞いて、否応なく満洲の権益をソ連に譲渡する協定に調印させられていた。 翌 18 日、スターリンとトルーマンの間で「近衛派遣」への対応については、スターリンの考えに基づ き時間稼ぎをすることが合意された。チャーチルとトルーマンの間では、チャーチルが「無条件降伏」の 要求緩和をやんわりと示唆したが、トルーマンは無視した。トルーマンには、ソ連を通じて日本が戦争を 終わらせれば、極東におけるアメリカの立場が揺らぐため、日本を戦い続けさせる必要があったからで ある。 19 日、ソ連は日本に対し「近衛特使の使命が不明瞭であるから確たる回答をなすことは困難である」 との回答を発した。 スターリンはトルーマンに対し、 「無条件降伏」に拘らない旨を主張した。その意の裏には「いったん 占領してしまえば何とでも変えられる」との肚があった。 7 月 20 日 佐藤駐ソ大使が本国政府に電報第 1427 号で「7千万の民草枯れて上御一人御安泰なるを得べきや」 「国体養護以外の敵側条件を大抵の所まで容認せんとする」再度意見具申を行った。 これに対し東郷外相は佐藤大使を通じて「特使の目的は対米英和平あっせんの依頼と日ソ関係の強化 に関するもの」とソ連側に伝えさせた。 7 月 25 日 第1総軍が東京で幕僚副長会同を開催し、席上、第1総軍参謀長の須藤栄之助中将が敵軍を水際で撃 滅すべきことを強調したうえで、予め配布してあった以下の通達を読み上げた。 「決戦思想 攻勢に徹す。 (中略)死ヌマデ攻勢ヲトル。 (中略)敵ヲツブシテシマフマデ一兵残ルマ デ攻勢ヲトル」 しかし、九十九里浜の海岸陣地を守る「貼り付け師団」は、中年の招集兵からなり、師団によっては小 銃が 10 人に 1 丁しか渡っていなかった。第 36 軍が総軍に報告した「自隊作成兵器」の内には「槍 1500 本」という記載があった。 天皇はこのことを侍従武官から聞かれて、国民を救わねばならないとのご決断をなされた。→8 月 9 日 深更のご聖断へ。 ポツダムでは、この日、チャーチルが総選挙の結果を待つため本国に帰った。 アメリカでは、トルーマンの承認の下、米国戦略航空軍司令官に対して原爆投下の指令が発せられた。 期日は 8 月 3 日以降なるべく早く、目標は広島、小倉、新潟、長崎の内の一つであった。 7 月 26 日 米国、英国と中華民国(蒋介石政権)の 3 カ国首脳の共同声明として、ポツダム宣言が発せられる。 ソ連(スターリン)は「日本に対して甘すぎる」として意図的にこれに署名しなかった。しかし、後に これを追認したので、米英支ソ4か国宣言とも言われる。 その概要は以下のとおりであった(1~5 省略) 。 6. 日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。 ( 「軍国主義者」の追放) 7. 第 6 条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領 320 8. カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定す る諸小島に限られなければならない。 9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。 10. 日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。一切の戦争犯罪人の処 罰。民主主義的傾向の復活強化。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。 11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段のみを保有出来る。戦争と再軍備のた めのそれは認められない。 12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立。これが確認されたら占領は解 かれる。 13. 全日本軍の無条件降伏。以上の行動に於ける日本国政府の誠意について、同政府による保障が提供される こと。これ以外の選択肢は、迅速且つ完全なる壊滅のみ。 注:第 8 項について 「カイロ宣言」自体は署名されなかった(米軍の攻勢の激化の項中、昭和 18 年 11 月 21 日 ~12 月 1 日の記述参照) 。 第 8 条の原案にあった「天皇保持(国体護持) 」の文言は、バーンズの顔を立てたトルーマンにより削 除されていた。 ポツダム宣言を発した時点では、既にアメリカが連合国を代表していた。軍事的にはもちろんのこと、自由世界 においてアメリカが覇者となっていた。 44 年 7 月、アメリカは 44 カ国をワシントン郊外ブレトンウッズに招集して国際通貨基金 IMF と世界銀行を創 設させ、双方の本部をワシントンに置いて、ドル基軸体制を確立することにより世界の金融界を支配することに成 功した。 イギリスは経済学者のケインズを送って抵抗したが、なすすべなく敗れた。アメリカの代表は、財務長官のモー ゲンソーとその部下ハリー・ホワイトであり(いずれもユダヤ人) 、後者はハル・ノートの原案を書いた本人であっ た。 7 月 27 日 朝開かれた外務省の定例幹部会においては、戦争を終結させるためにはポツダム宣言を受諾する以外 にないこと、また国民に知らせるため、ノーコメントで全文公表すべきとの結論に達した。 東郷外相は直ちに参内して天皇に同宣言の内容を報告した。 一方で受諾の交渉については相変わらずソ連の仲介に頼ろうとした。しかし、日本侵攻の機会を窺うソ 連が相手にするはずがなかった。 日本政府がポツダム宣言の存在を論評なしに公表。翌日の読売新聞は「笑止、対日降伏條件」と、毎日 新聞は「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」 「白昼夢 錯覚を露呈」などと報 道した。 7月 28 日 鈴木貫太郎首相は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍将校からの突き上げを受けて、軍部を刺激しない対応をとろう 321 とした。そこで記者会見では「共同聲明はカイロ会談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるもの とは認めず、断固戰争完遂に邁進する」 (毎日新聞、1945 年(昭和 20 年)7 月 29 日)と述べた。同首相 は「ノーコメント」という言葉を使いたかったが、敵性用語を禁止している時勢の中、やむを得ず「重要 視しない」との発言を行った。 ところが翌日の朝日新聞では「政府は黙殺」と報道した。以来この「黙殺」という表現が独り歩きした。 「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視) 」と翻訳 され、またロイターと AP 通信では「Reject(拒否) 」と訳され報道された。こうして、日本はポツダム宣 言を拒否した、という「事実」が確定してしまった。 このため鈴木首相は、ポツダム宣言への対応について、同宣言を「拒否した」との責めを死ぬまで負っていたと 言われる。 しかしこの「黙殺」発言が米英ソに何らかの影響を与えたかについては、何の影響も与えなかった。アメリカは 日本政府の意思に関係なく原爆投下計画を推し進めたし、ソ連は日本侵攻の機を窺がっていた。その理由は、トル ーマンはソ連の対日参戦を止めたかったし、ソ連は日本陸軍の弱体化を待って、その領土を奪うつもりであったか らである(仲晃「黙殺」NHK ブックス) 。 この日、ポツダムでは、モロトフ外相がトルーマンを訪問し「ソ連としては対日参戦の準備が整ってい る。米英はじめ四か国がそれを要請すべきだ」と伝えた。トルーマンは「検討しておく」とだけ答えた。 8 月 1~2 日 水戸、八王子、長岡、富山を米軍が猛爆。この後、10 日に花巻を、14 日になっても光市、小田原市、 秋田市(土崎港)を爆撃し、多くの市民が犠牲になった。 8月2日 ポツダム会議終了。この間イギリスにおいては総選挙が行われ、チャーチルが率いる保守党はこの選 挙に敗れ、チャーチルは国民の忘恩を激しく罵って落胆の内に帰国した。代わって労働党のアトリー首 相が会議に参加していた。 随行したペビン外相は、アメリカ代表団の一人フォレスタルによる「日本に天皇制の廃止を含めて無 条件降伏を求める一部の主張」についての質問に次のように答えた。 「第一次大戦の後、ドイツに帝政を残しておく方がずっと良かった。そうしていたら、 (ヒトラーの台 頭を招くこともなく)今度の大戦もなかったかもしれない。 」 (原爆投下、ソ連参戦、終戦へ) 8月6日 広島に原子爆弾が投下される(35 万人の人口のうち死者は 14 万人)。原爆は 8 時 15 分に広島中心部 の高度 600 メートルの高さで爆発したが、これは「市民が最も多く戸外に出ている時間に、最も広く被 害を与える高さで爆発するよう」設定された結果であった。 政府は「広島に新型爆弾が投下された」とだけ発表した。報告を受けた天皇は「こうなった以上は、一 刻も早く戦争を辞めなければ…」と洩らされた。 1938 年(昭和 13 年) 、カイザー・ウィルヘルム研究所のオットー・ハーンがウランの核分裂実験に成功しし、そ の報せはすぐに世界中に広まった。 翌 39 年 9 月、第 2 次世界大戦の戦端が開かれた直後、アインシュタインら物理学者が「ドイツに後れを取っては ならない」と米国ルーズベルト大統領に原爆の開発を建言し、同大統領はスチムソン国務長官、グローブス陸軍准 322 将に原子爆弾の開発を命じ、原爆開発のためのマンハッタン計画がスタートした。その後、マンハッタン計画は、 42 年 8 月、実行に移された。ロスアラモス研究所の R.オッペンハイムを筆頭に 5 万人の科学者、技術者とウェス ティングハウスなどの大企業の協力によって、開発が進められた。 20 億ドルの費用をかけた計画実現のめどがついた 44 年秋、原爆投下部隊が発足し、投下訓練が開始された。 44 年 9 月、ルーズベルトとチャーチルとの第 2 回ケベック会談において、開発中の原爆を日本に投下することが 合意された。=ドイツは対象から外された。 45 年(昭和 20 年)7 月 16 日(ポツダム会議開催の前日) 、アメリカが核爆弾の爆発実験に成功した。 トルーマンが原爆投下の実施命令書を手交したのは、ポツダム宣言を発する 2 日前の 7 月 24 日であった。翌日、 陸軍参謀長代理トーマス・ハンディ大将から、大統領の承認を得た「8 月 3 日以降に広島、小倉、新潟、長崎のい ずれかの都市に原爆を投下せよ」との命令が下された。 トルーマンは、5 月時点で、元駐日大使で知日派のグルー国務次官から「日本は天皇の地位さえ約束されれば降伏 を受け入れるだろう」と聞いていた上、7 月 18 日、ポツダム会議においてスターリンとの協議の中で「日本がソ連 を通じて終戦へ向けて和平工作をしていること」も聞いていた。 ルーズベルトとは異なり、ソ連嫌いのトルーマン大統領は、ヤルタ合意の「ソ連参戦」前に日本を降伏させたか った上、原爆の恐るべき威力を見せ付けてソ連を威嚇しておきたかった。また同大統領は、原爆投下の準備が整う までは時間稼ぎとして、日本がポツダム宣言を受諾しないよう、同宣言草案にあった「国体護持」の言葉を削除し ていた。トルーマンはポツダム会議の結果出される条件を日本が受け入れるはずがないと読んでいたから、宣言前 に原爆投下を決め、チャーチルとの合意どおり、日本の銃後の市民を標的としてこれを用いた。 米国内には原爆投下に対する反対論もあった(欧州総司令官アイゼンハワーなど) 。これに対しトルーマンは「け だものに対しては、けだものを扱うやり方がある」と言ったという。 翌 7 日、トルーマンは短波放送による声明を発し「広島に投下した爆弾は原子爆弾であった」ことを明らかにし た。 市民を対象とした原爆投下や都市への無差別爆撃は、1907 年に結ばれたハーグ陸戦条約第 22 条「無制限の害敵 手段を行使してはならない」や第 25 条「防守されていない都市、集落、住宅、建物は、いかなる手段をもってして も、これを攻撃、砲撃することを禁ず」に違反するものであった。 なお、日本においても理化学研究所の仁科芳雄博士が陸軍航空技術研究所に開発を進言し、福島県石川町でウラ ンの濃縮実験を行ったが、所要の濃縮率が達せられないまま計画は放棄され、 「原子爆弾」の製造は不可能である、 との結論を出した。なお実験設備は 20 年 5 月 15 日の空襲によって破壊された。 陸海軍はトルーマン声明について、なおも「これは謀略宣伝かも知れない」とし、それが原子爆弾であることを 確認するまでは公表するなと政府に迫った。このため核物理学者仁科芳雄博士が急きょ広島に調査に出かけた。 「模擬原子爆弾」 原子爆弾投下への予行演習として、米軍は福島から山口、愛媛に及ぶ全国 18 都市に計 49 個の原子爆弾と同形状・ 重量の爆弾を投下した(多かったのは愛知で 8 個、福島で 6 個) 。この爆弾は「パンプキン爆弾」と呼ばれ、重さ 4.5 トンの強力な爆弾で、長崎型で1トン爆弾の約 5 倍の破壊力があった。それらによる被害は、全国で死者約 400 人以上、負傷者 1200 人に達した。 日本降伏後アメリカは、未使用のパンプキン爆弾を海洋に投棄し、長い間その事実は知られることがなかった。 8月8日 323 東郷外相が天皇に拝謁し、原子爆弾についての米側の発表及びそれに関連する事項を詳しく上奏の上 「これを転機として戦争終結を決定すべきである」と述べた。天皇は「そのとおりだ。速やかに戦争を終 結するように努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相に伝えよ」と言われた。 夕刻、広島に調査に出かけた仁科博士が帰京し、鈴木首相に対し、涙ながらに「紛れもなく原子爆弾で ある」と報告した。これを聞いた鈴木首相は迫水書記官長に「明朝閣議を開き、終戦の意思を表明するか もしれないから、その準備をするように」と命じた。 モスクワでは、ソ連仲介による和平に一縷の望みを託してモロトフ外相に会見した駐ソ大使佐藤尚武 に対し、モロトフ外相は宣戦布告文を手渡した。参戦の理由は、日本が 7 月 26 日の英米による要求「ポ ツダム宣言」を「拒否した」こととされていた。これは 4 月 7 日の日ソ中立条約不延長通告後とはいえ、 いまだ同条約有効期限内のことであった(昭和 21 年まで有効)。 8月9日 未明、157 万の兵力のソ連軍が 5 千台の戦車、5 千機の航空機を動員して 6 方面から満洲国境を突破し 関東軍への攻撃を開始した。同時に朝鮮、樺太の日本軍に対しても攻撃を開始した。 関東軍も大本営もソ連軍の攻撃を全く予知していなかったため、関東軍の精鋭部隊をフィリピン、ビル マ、内地へと移動させており、残された兵力は補充兵を含めて 8 個師団 60 万に過ぎなかった。その兵力 で約 120 万平方キロメートルの満洲を守り抜くことは全く不可能であったが、大隊以上の部隊は、損害 を受けつつも応戦した。 (関東軍の抗戦―1) ソ満国境を守る関東軍の主力要塞は黒竜江省虎林市郊外の虎頭要塞で、第 5 軍第 15 国境守備隊の兵力は常時の 8 千人から 1400 人に減らされていた。この要塞に約 10 倍の兵力のソ連軍が要塞を完全包囲し、午前 0 時、突如砲撃 を開始した。5 時間で山容を全く変えてしまうほどの猛攻であった。 隊長が出張中の守備隊が関東軍総司令部に連絡のうえ反撃を開始したのは午前 11 時で、その後抵抗を続けたが、 主陣地は 19 日までにほぼ戦力を喪失し、同日夜、避難してきた住民ともども爆薬を仕掛けて全員自爆した。 他の陣地の守備隊も 26 日まで抵抗を続けたが、生き残りの 30 人が最後の突撃を行い、玉砕した。 1400 人の守備隊のうち生存者は約 60 人。他に避難してきた在留邦人約 150 人が脱出を試みたが、29 日に意向に 遭遇したソ連軍から無差別砲撃を受け、大多数が死亡した。 (関東軍の抗戦―2) 東部守備隊の第 5 軍は、ソ連軍の進撃を牡丹江東側の陣地で迎え撃ち、15 日まで食い止めて同地の在留邦人 6 万 人が避難する時間を稼いだ。この戦闘において関東軍の輸送を担当する輜重部隊の歩兵 5 人は、防衛任務を遂行す るため敵戦車(T-34)30 両に対し 15 キロ爆弾を抱いて戦車に“肉弾攻撃”を敢行し、戦車 5 両を破壊させた。 (この項、産経新聞平成 27 年 4 月掲載の川瀬弘至「ふりさけみれば」12~17 による) しかしながら、兵力が格段に縮小した関東軍は大勢としてソ連兵力の前に敗走し、最後は満州に入植し ていた開拓農民らを置き去りにして撤退した。そのため、約 155 万人(日本政府推算)の在留邦人は容 赦なく襲撃されて、21 万人が殺害され、あるいは全財産を失った。 日本は終戦工作をソ連の仲介に期待したが、結局それはソ連を利しただけで、全てはソ連の思い通りに 進んだ。 ソ連は、自国が参戦する前に日本が降伏することにより発言力が低下することを恐れていたので、アメリカの原 爆投下の報を知って、ソ満国境に展開する極東ソ連軍に攻撃開始を命じたものである。ソ連に追従するモンゴル人 324 民共和国も8月 10 日、日本に宣戦布告した。 ソ連が対日参戦の意思を固めたのは 1943 年 1 月、スターリングラード決戦でドイツ軍に勝利した直後で、同年 10 月モスクワで開催された米英ソ外相会談の際ハル国務長官に「ドイツ壊滅後ただちに対日戦争に参加する」と表 明していた。ソ連には 1926 年から 41 年までの間に周辺 15 か国と不可侵、中立条約を結び、うち 13 か国との条 約を破り侵攻した、という歴史があった。 ソ連参戦の報は、同日未明 3 時過ぎ同盟通信の外信部長・長谷川才次から迫水書記官長に届いた。 午前 5 時、迫水書記官長から聞いたソ連参戦を鈴木首相は「来るべきものが来ましたね」と表情を引 き締めた。鈴木首相はとりあえず最高戦争指導会議の開催を決め、関係者を召集した。 その報は同日 9 時半過ぎ梅津参謀本部長より天皇にもたらされた。天皇はただちに木戸内大臣を呼ば れ、速やかな戦局収拾のために鈴木首相と懇談するよう指示された。 同日午前 10 時半、鈴木首相の提唱により最高戦争指導会議を開催した。首相の意図は「ポツダム宣言 受諾はやむを得ないと思うが、それぞれの意見を聞きたい」ということであった。 会議では冒頭から激しい議論となり、東郷外相及び米内海相が即時無条件受諾を主張した。対して阿南 陸相と梅津参謀総長、豊田軍令部総長は「国体護持」に加え、①占領軍の非上陸、②在外の軍は自発的撤 兵、③戦争犯罪人の処罰は日本側で行う、の 3 点を付け加えるよう主張し、譲らなかった。 この会議の最中午前 11 時 2 分に長崎にも原爆が投下される。当初目標とされた小倉が雲に覆われてい たため、大きな被害を効果的に与えるよう、晴天の長崎に変更されたものであった。 長崎に投下された原爆による死者は9万人で、広島と合わせると、計 21 万人が即死した。 →両都市への原爆投下について外務省は、敗戦を受け止めざるを得ないと考えつつも人道上の問題を 放置することなく、 「人類文化に対する新たなる罪悪である」と断じ、 「即時かかる非人道的兵器の使用を 放棄すべきこと」をアメリカに対し要求した(8 月 9 日、加瀬俊一スイス公使あて東郷外相発の対米抗議 を命じる訓令電) 。 最高戦争指導会議の途中、 「長崎にも原爆投下」の報がもたらされた。それでも結論の出ないなか、鈴 木首相は上記3条件を付して回答することとして午後 1 時一旦閉会し、直ちに木戸内大臣を訪問、会議 の結果を報告した。 「条件付き受諾」の決定を知った和平派は、これでは連合国側が日本の和平申し出を撥ね付けるのは必 至とみて巻き返しに出た。すなわち高松宮宣仁親王が木戸内大臣に電話で条件緩和の必要性を示唆し、 木戸は、同日夕、謁を賜り天皇に宣仁親王の懸念を言上した。 鈴木首相は同日午後 2 時半から臨時閣議を開催した。しかし閣議でも、米内海相は「英米に対しても う勝ち味はない。冷静・合理的に判断すべきだ。」 、阿南陸相は「死中に活を求める先方に出れば戦局を好 天させうる公算もあり、戦局はまだ五分五分。」と言い返し口論になった。 阿南陸相は、自分が受諾受入れを明言すれば、反乱が起きるに違いないと考え、敢えて徹底抗戦を主張 した。 結論が出ないため、太田文相が総辞職論を口にしたとき鈴木首相は 「総辞職は考えない。この内閣で決着をつける」 と毅然と言い、一同の注目を集めた阿南陸相は無言を貫いた。閣議はそのまま散会となった。 散会後、阿南陸相はクーデターを企図していた少壮将校たちを呼んで「政府が終戦するならば反乱を起 325 こすことには自分も賛成だ。その指揮は私がとるから、勝手に動くことはまかりならぬ」と申し渡した。 最も強硬に受け入れ反対を主張したのは陸軍省・参謀本部に所属する軍人たちで、彼らの意思を背景に阿南陸相 は次の 4 条件を示した。阿南は陸軍の暴発を抑えるため、表面的には抗戦継続を主張したが、終戦を成し遂げよう とする鈴木首相の意を汲んで、辞任による内閣総辞職を決して口にはしなかった。鈴木首相も阿南陸相も、内閣総 辞職となれば、だれも組閣できないことから政府が消滅し、日本は連合国に蹂躙されるままになることが分かって いたからであった。 1、国体の変革を許さない。2、武装解除を受け入れない。3、占領は小範囲、小兵力で。4、戦争責任者の処罰 を許さない。 同日午後 6 時半、2 回目の閣議を開催するが、ここでも意見がまとまらなかった。 陸軍はなおも避戦を受け入れずに内部で抗戦の檄を流した。陸海軍の少壮将校はなおも徹底抗戦を主 張しており、場合によっては軍による反乱の恐れもあるなかでの会議であり、鈴木貫太郎首相は軍も納 得するような終戦決定に持ち込む方策に苦慮し、散会を宣言してただちに参内し、天皇に状況を上奏し た。 夜になって鈴木首相は天皇をお迎えしての御前会議の形をとる異例の最高戦争指導会議を招集するこ ととし、平沼騏一郎枢密院議長を出席させるよう求めて勅許を得た。ソ連が北海道に侵攻してくるのを 恐れる鈴木首相は、一刻も早く終戦の決定をすべきと考えていた。 8 月 10 日 日付の変わった午前 0 時過ぎ、宮中の地下壕で天皇ご臨席の下、最高戦争指導会議が開催された。ポ ツダム宣言を受諾すべきか否かについての賛否は次のとおりで 受諾賛成派:東郷茂徳外相、平沼騏一郎枢密院議長、米内光政海相 受諾反対派:阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長 と、海軍大臣と軍令部長との見解が分かれた。 平沼騏一郎枢密院議長は、陸軍への阿ねりから「天皇の地位は国民の選択にはなじまない。万世一系、 神の存在だから」として譲らず、そのことを条件としての受諾賛成であった。 受諾反対派は、占領地域の限定、自主武装解除、日本自身による戦争犯罪人処罰の 3 条件をも要求す べきとした。 会議の途中、軍令部次長大西瀧次郎中将が入室し、阿南陸相を室外に呼び出して「海軍大臣は弱腰で駄 目ですから、あなた方はウンと継戦を主張してください」と頼み込んだという(保科海軍省軍務局長の陳 述による) 。 米内海相は、この越権行為を見逃せず、12 日、豊田軍令部総長と大西次長を叱りつけた。しかし、豊田軍令部総 長は梅津参謀総長とともに 14 日の御前会議においても「徹底抗戦」を説き回った。 午前 2 時、鈴木首相が「異例のことながら…」と、天皇陛下の裁断を仰いだ。 陛下は「東郷外相が言っているとおり、この際戦争を無条件にやめることに賛成である」と明確な意思 表示を示された(生涯2度目のご聖断) 。出席者全員が号泣する中、陛下は涙ながらに次のように言葉を 継がれた。 「本土決戦の準備ができたという話だが、実際は何もできていないということは、ほうぼうからの報告 で知っている。 」と陸軍の従来からの所論を批判し、さらに「このまま本土決戦となれば、必ず日本国民 のほとんどが死んでしまって、日本国を子孫に残すという私が先祖から受け継いできた任務を果たせな 326 くなる。また、世界人類を一層不幸に陥れることになる。だからどうしてもここで戦争をやめて一人でも 多くの日本国民を救って、その国民が奮発して国を興してくれること以外に道はないから、自分はここ で戦争をやめる決心をした。自分はどうなってもかまわない。どうかここで戦争をやめて一人でも多く の日本国民を救ってほしい。 」 、 「多くの人が死に、ケガもしている、その人達や家族のことを思うと自分 の胸はかきむしられるような気がする。 」と仰せられた(以上、迫水久常内閣書記官長の証言) 。 午前 4 時に閣議が開かれ、鈴木首相が平沼騏一郎の顔を立てて「天皇の国家統治の大権を変更するの 要求を包含しない」ことの了解のもとにポツダム宣言を受諾することとする旨の提案をし、そのとおり 決せられた。 午前 9 時、 「天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まないものとする了解のもと、 受諾の用意あり」 と、中立国スイスを通じてアメリカと重慶政権に、スウェーデンを通じてイギリスとソ連に「国体護持の みを条件とする受諾」電報が発せられた。 この日の重臣会議(首相経験者を召集)においては、近衛、平沼、岡田、広田が「無条件降伏もやむなし」 、との意 見で、東條、小磯は「聖断が下った以上やむを得ないが、この決定はよくない」と暗々裏に戦争継続論であった。 広島に投下された「新型爆弾」について、政府が米国政府に対し「無辜の市民を…爆風及び輻射熱によ って…無差別に大量に殺傷した」ことを糾弾する長文の電報を発した。この電報を米国国務省はスイス 公使館を経由して翌 11 日に受け取った。米国側は降伏調印の終わった後の 9 月 5 日に対応を協議した が、結局何ら回答はなされなかった。 (竹内修司「幻の終戦工作」文春文庫) 8 月 12 日 午前 0 時、サンフランシスコ放送のなかで、バーンズ国務長官による放送でアメリカの回答(以下「バ ーンズ回答」 )が発表された。そこでは「1、降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏 条項の実施のため、その必要と認める措置をとる占領軍最高司令官に subject to するものとす。2、天皇 は全軍隊に武装解除を命じる。3、速やかに捕虜を連合軍船舶に移送する。4、最終的な日本政府の形態 は、国民の自由な意思によって決定される。 」と述べられていた。 1のうち「subject to」について、迫水書記官長は外務次官・松本俊一と諮ってポツダム宣言を受け入 れやすいよう「 (政府の形態は占領軍最高司令官の)制限下におかれる」と訳した。 バーンズ回答の表現は、天皇存続に反対するイギリス、シナ(蒋介石政権)とソ連に配慮した表現であって、 8 月 2 日の項に記したペビン・イギリス外相の考えが基になっている。トルーマン自身はフォレスタル海軍長官 の意見を容れて、天皇存続をポツダム会議以前から決めていた。 なお、バーンズは草案にあった「連合軍最高司令官」を「占領軍最高司令官」に書き換えていた。これはソ連 の動きを意識してのものであった。米政府が派遣する最高司令官ひとりに権限を集中させるためであった。 早朝に開催された閣議において、阿南陸相は徹底抗戦派の意を受けて、1、にある「subject to=隷従 する」について承服できないと再照会を求めた。 4、の「最終的な日本政府の形態は、国民の自由な意思によって決定される」については、阿南惟幾陸 相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長が「この回答では国体の護持は困難だ、玉砕を覚悟で徹底 子応戦すべきだ。いま一度再照会せよ」と主張した。 平沼枢密院議長も「天皇の地位は国民の選択にはなじまない。万世一系、 神の存在だから」として煮 え切らない態度に終始した。 327 これらの意見に東郷外相が「連合国側の緊迫した内部事情を察するに、新たな回答を求めることは終戦 への機会を失うことになる」と反対し、即時受諾を受け入れるべきと主張した。 バーンズ回答をサンフランシスコ放送によりいち早くキャッチした統帥部抗戦派は1の「subject to」 を「隷従」と訳して、4とともに激高し、梅津参謀総長と豊田軍令部長が宮中に押し掛け、並立して上奏 に及んだ。 「この回答文は、我が国を属国化しようとするもので、断固峻拒すべきです」と。 午前 11 時、東郷外相が天皇に謁見し、バーンズ回答の趣旨及びこれに対する措置を奏上した。それを お聞きになっても、天皇の即時終戦のご決意はいささかも揺るがなかった。 続いて天皇は、在京の皇族を呼び集め、皇族会議を開催された。そのメンバーのなかには元韓国王族の 李王垠も含まれていた。 強硬論者の朝香宮が「講和には賛成だが、国体護持ができなければ戦争を継続するのか」と質問し、天 皇は「もちろんだ」と答えられた。天皇が秩父宮(病気療養中)、高松宮の意見を徴されることはなかっ た。最後に最長老の梨本宮守正王が皇族を代表して「私共一同、一致協力して、陛下をお助け申し上げま す」と発言し、ここに皇族は一枚岩となった。 アメリカのバーンズ回答電文(8 月 11 日付)が在スイス加瀬公使を通じてもたらされたのは午後 6 時 40 分のことであった。 8 月 13 日 午前 9 時から最高戦争指導会議が開催されたが、即時受諾を主張する東郷外相を鈴木首相と米内海相 が支持する一方、国体護持等について再照会を求める阿南陸相を梅津参謀総長と豊田軍令部総長が支持 して、議論は膠着となったまま、午後 3 時過ぎまで続いた。 同日、カブール(アグガニスタン)駐在の七田基玄総領事から緊急電が届いていた。その主旨は 「カブール駐在の米国公使がバーンズ国務長官から、 『スイスで公式の和平交渉が米国戦略情報局総責任 者の A.ダレスとスイス・バーゼルに本拠を置く国際決済銀行(BIS)顧問 B.ヤコブソン(同銀行に出向 していた北村孝治郎横浜正金銀行理事と吉村侃同銀行為替部長から依頼を受けて日米の和平工作に乗り 出していた)との間で進んでいる。日本が希望する天皇保持に関して、占領軍最高司令官の指令下におい て認められるだろう』と繰り返し聴かされた」 というものであった。 トルーマン大統領やバーンズ国務長官は、アメリカ国民の 3 割が「天皇の処刑」を望んでいることから、公には 天皇保持を明らかにできない状況に置かれていた。アメリカ政府を代表するダレスに対して、調停者としてのヤコ ブソンは「日本人を恥辱によって面子を失わせてはいけない。精神的にギリギリのところへ追い込んではいけない」 と説いた。 一方で日本側に向けては、南北戦争における北軍の例(後に南軍リー将軍の名誉を回復した)を引きながら「ア メリカのいう無条件降伏は『言い値』だ。天皇の温存を意図している。とにかくポツダム宣言を受諾してみよ。有 条件への道はそこから開ける。大事なのは天皇がリスクをとることだ」と懸命に説いた。 この七田緊急電が意味するものは「バーンズはスイスにおける和平交渉を『公式のもの』として認め、その重要 性に言及するとともに前日の回答に盛り込めなかった『天皇保持』のニュアンスを半ば『公式に』裏から保障する 念押し」であった。 なお、七田緊急電に先立って 10 日にはダブリン(アイルランド=局外中立国)駐在の別府領事からも緊急電が 届いていた。その内容は、アイルランド外務次官が鈴木首相の親友ともいうべき米国務長官代理 J.グルーから聞い 328 た話として「英米は天皇保持を認めるだろう」と告げるものであった。 七田緊急電(及び別府緊急電)から、鈴木首相は「天皇保持は何とか可能であろう」と読み、ポツダム 宣言を受諾するしかないと、決意した。 (堤堯「魔都上海の街で考えたこと」第 31 回 雑誌 WiLL 2015 年 2 月号) 連合国の正式回答(バーンズ回答)を受けて日本の最終的な対応を決めるため、鈴木首相は閣議を招集 し、午後 4 時から始まった。出席者の一人ひとりから意見を聴いたうえで、ソ連の侵攻によって北海道 が侵略される事態を招かぬため、鈴木首相は再度ご聖断を求める仰ぐ決意を述べた。 この日、陸軍省軍務課内政班長竹下正彦中佐(阿南陸相の義弟)ら中堅将校がクーデターを企て、竹下、 稲葉大佐、荒尾軍事課長ら中堅将校が阿南陸相を大臣室に訪ねてその計画を突きつけた。情に流されや すい阿南陸相だったが、これを懸命に抑えた。 同日夕刻、米軍機 B-29 が東京一帯にバーンズ回答の翻訳文のビラを投下した。 8 月 14 日 午前 7 時、阿南陸相が荒尾軍事課長とともに梅津参謀総長を訪ね、クーデター計画への賛同を求めた。 しかし、軍の規律を重んじる梅津は宮城内に兵を動かすことを非難し、全面的に反対した。これにより、 竹下らのクーデター計画は頓挫した。 早朝、米軍機によるビラ投下の情報が木戸内大臣、鈴木首相にもたらされ、二人とも降伏条件が国民に 知らされれば国内が大混乱となって抗戦派が暴発することを恐れた。鈴木首相は直ちに木戸内大臣を訪 ねて相談し、天皇の決心にすがることとした。 午前 8 時 30 分、木戸内大臣は天皇に謁を賜い、ビラ投下を報告したうえで、このままでは国内が混乱 する旨言上した。天皇は戦争終結への固い決意を示された。 木戸内大臣と並立の謁を賜わった鈴木首相は、天皇の意向による御前会議の開催を願い出、重ねてのご 聖断を奏請した。 会議に先立ち、陸海軍から天皇に向けて、元帥たちに会ってほしいとの申し入れがあったため、天皇は これに応じられ、午前 10 時過ぎから天皇は杉山、畑の元陸軍大将及び永野元海軍大将をお招きになり、 終戦のご決意を示されるとともに意見を下問された。 この会見について昭和天皇独白録には「私は永野、杉山、畑の三元帥を読んで意見を聴いた。三人とも色々な理 由をつけて戦争継続を主張した。私は、いまもし受諾しなければ、日本はいったん受諾を申し入れて、またこれを 否定することになり、国際信義を失うことになるではないかと、彼らを諭しているうちに会議開催の時刻が迫った ので、そのまま別れた」と記載されている。 午前 11 時、閣議と最高戦争指導者会議と合同での第 2 回御前会議が開催された。鈴木首相は、その後 の経過を説明するとともに、改めて無条件受諾に反対する者の意見を聴取の上、重ねてご聖断を下され たき旨を奏上した。 鈴木首相は、同宣言第 12 項と前出バーンズ回答によって、 「国体の護持は、ギリギリ大丈夫」と考えていた。 同首相は「究極の日本の政体を決するのは、結局はわが国民である。かかることで千載一遇の機会を逸し、血迷 って、国家を滅亡のどん底においやってしまえば、結局何も残らないことになる。この点をしっかり見極めるべき だと、各閣僚と話し合った」と、日記に記している。 梅津、阿南、豊田の 3 名が「国体護持」について再照会をすべきこと、聞き入れられない場合は徹底 抗戦すべきことを訴えた。 329 静寂の後、天皇は 「外相が述べているように、私には国体を護持する自信がある。先方の回答で満足してよいと思う。わ が身はどうなってもよい。一刻も早く戦争を終わらせ、無辜の国民を惨禍から救いたい。 今日まで戦場に在って陣没し、あるいは殉職して非命に倒れた者、また、そn遺族を思うとき悲嘆に耐 えない。また、戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては、私の深く心配するとこ ろである。 国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前に立つ。この際詔書を出す必要もあろうか ら、政府は早速その起案をしてもらいたい」 と、涙ながらに述べられ、その上で天皇は次のように言葉を足された。 「日本の再建は難しいことであり、時間も長くかかることであろうが、それには国民が皆一つの家の者 の心持になって努力すれば必ずできるであろう。自分も国民とともに努力する」 天皇はリスクをとられたのである。そのことは、ヤコブソンが和平交渉を依頼した北村や吉村に助言していたこ とであった。 こうして、正午ごろポツダム宣言の受諾と終戦が最終的に決まった。天皇と鈴木首相とが考えを共有し ての決断であり、これを表面上は陸軍の突出を抑えるために“徹底抗戦”を装った阿南陸相が蔭で支え た。 この会議で終戦の詔書内容と天皇ご自身がレコードに吹き込んで翌日正午、全国に放送することが決 まった。レコーディングは同日深夜に行われ、宮中の奥深く保存された。 会議の後、決起を主張する徹底抗戦派の将校たちと対峙した阿南陸相は「やるなら、この阿南を切って からやれっ」と大喝した。その夜、阿南は「一死以て大罪を謝し奉る」の遺書を残し、官邸で割腹自殺し た。 阿南陸相は「米内を切れ」との遺書を残したが、阿南はじめ国家よりも陸海軍を上位におく主戦派には、 “米内海 相の裏切り”がなかったら降伏論を潰せたに違いないという痛恨の思いがあったので、降伏反対の強硬論を通した ことを詫びるとともに、一部軍人によるクーデターの動きを封じるためだったとされる。戦争遂行が自己目的とな った陸海軍は、敗戦によって漸く消滅した。 なお、この日の朝日新聞(朝刊)はこの期に及んでも社説で「敵」は「一億の新年の凝り固まった火の玉を消すこ とはできない」と、檄を飛ばしていた。 この後鈴木首相は、天皇と意を通じて重臣会議、元老会議、枢密院会議など公式・非公式の全ての手順 を尽くして翌 15 日に、国民に敗戦を知らせることとした。 午後 11 時、政府は在スイス加瀬公使に対して「米、英、ソ、支四国に対する 8 月 14 日付帝国政府通 告」を発し、米国政府はこれをポツダム宣言及び 8 月 11 日付バーンズ回答の完全受諾と受け止めた。 この日に至る 8 月 11~14 日の間にもアメリカは日本の各地の都市に猛烈な空襲を行い、多くの民間人を殺戮 し、多大な損害を与えた。その責任については、subject to の一語によって、 「天皇保持」を明確にしな かったバーンズ国務長官が負わねばならない、との指摘がある(仲晃「黙殺」NHK ブックス) 。 8 月 15 日 午前 1 時、畑中健二少佐ら本土決戦を叫ぶ陸軍中堅幹部(陸軍省軍務課・畑中少佐、陸軍通信学校教 官・窪田少佐、航空士官学校区隊長・上原大尉ら)が、天皇の翻意によって玉音放送を中止させるため宮 330 城に迫り、これに呼応しない森赳近衛師団長を殺害し、これを止めようとした第 2 総軍参謀・白石中佐 をも斬殺した。さらに近衛歩兵第 2 連隊の一部が宮城内に展開し、第 1 連隊の一部は内幸町の放送会館 を占拠した。 しかし、近衛歩兵第 2 連隊の芳賀連隊長が鎮圧に動き始め、午前 5 時ごろには東部軍管区田中静壹司 令官が宮城内に車で乗り付け、クーデター計画に関与した石原貞吉少佐を憲兵隊に拘束させた。 放送会館に乗り込んだ畑中少佐は日本放送協会の柳沢報道部副部長に拳銃を突きつけ決起の趣旨を放 送させよと詰め寄ったが、柳沢副部長が動じなかったため、畑中少佐もクーデター計画の週末を悟り、午 前 7 時、同中佐は自らが射殺した森赳近衛師団長への遺書を芳賀連隊長に提出の上、午前 11 時ころ自決 した。こうしてクーデター計画は鎮圧された。 未明、鈴木首相を狙う決起将校の一味が首相官邸を襲い、焼き払った。午前 5 時ごろ、阿南陸相は自宅 で割腹自殺した。鈴木首相の終戦工作を傍らから支援し、見届けた上での自決であった。 正午に昭和天皇による戦争終結の詔書を読み上げる玉音放送が全国に流された。 同日、大西軍令部次長が自決した。この後、軍関係では杉山元元帥、本庄繁元侍従武官長、宇垣纏元連 合艦隊参謀長らが自決の道を選んだ。 内地・外地の日本軍は一斉に武装解除をしたが、ただひとり根本博駐蒙軍司令官は察哈爾(チャハル) 省張家口において、ソ連軍から現地人、邦人を守るとともに、邦人を及び駐在軍兵士の本国への帰還を果 たすため自軍兵士に「全軍は依然任務を遂行すべし」と訓示した。 当時の支那派遣軍の兵力 105 万はほとんど無傷のままであったが、総司令官岡村寧次は「血涙を呑んで戦闘を 停止し、武器引き渡しを行うよう」命じた。その中で、ひとり根本駐蒙軍司令官は徹底抗戦を貫き、激戦に耐えな がら 21 日に邦人 4 万人とともに北京に入った。 同日、シナでは蒋介石が終戦演説を行い、 「恨みに報いるに徳をもってせよ(大意) 」と日本兵の福音に 協力する旨を表明した。 これは、自軍が日本軍に連戦連敗であったため、徒に日本軍を刺激しないでおくという趣旨であったといわれて いる。 この 2 日後の 8 月 17 日、インドネシアでは、日本軍によって組織・育成されたインドネシア独立義勇 軍の一員スカルノとハッタが「インドネシア独立宣言」を発表した。その日付は皇紀 2605 年を意味する 「05 年 8 月 17 日」であった。彼らは、どうしても日本本土に連合軍が上陸する前に独立を宣言したか ったのである。 この後、戻ってきた元の宗主国オランダ軍と援軍のイギリス軍に対し、日本軍によって訓練を受けた祖国防衛義 勇軍 3 万 8 千人が中心となって立ち上がり、独立戦争を戦い抜き、80 万人もの犠牲を払って独立を勝ち取った。 このインドネシア独立戦争には、日本軍将兵1~2千人が日本に引き揚げずに身を投じ、相当数が戦死した。し かし、いまもインドネシア国民から深く感謝されている。 日本が大東亜戦争の敗戦によって約 310 万人もの死者をだし、被害総額は当時の貨幣価値で約 1340 億 円(国富の 41.5%にあたる)に上った。 8 月 16 日 加瀬公使を通じて 15 日付けの米国務長官のメッセージが東郷外相に届けられた。 331 1、米国は 14 日に日本政府がポツダム宣言と 11 日の回答を完全に受諾したものと認める。 2、次の行動をとれ。 (1) 日本軍隊の急速な停止を指令すること (2) 降伏を受諾するために打ち合わせる権限を持った使者を派遣すること (3) ダグラス・マッカーサー元帥が連合国司令官に任命された。正式降伏の日時、場所の詳細は同 司令官が通知するので、これを待つこと これに対し、東郷外相は連合国の本土上陸について無用の紛糾を避けるための条件をスイス政府の斡 旋で米英支ソ四か国に伝えるよう、加瀬公使に通達した。 8 月 17 日 鈴木内閣が総辞職。即日、皇族・陸軍大将の東久邇宮稔彦王が推挙されて組閣。ただちにラジオで繰り 返し皇軍の自制を呼びかけた。 外務大臣に重光葵、国務大臣には近衛文麿が就任し、国体護持と一億総懺悔を敗戦処理と戦後復興に向 けての二大方針とした。 同日、天皇の指示で浅香宮鳩彦王、竹田宮恒彦王、閑院宮春仁王がシナ、満洲、南方の各郡司令部へ飛 び、終戦の聖旨を伝達した。また天皇は自ら勅語を発し、皇軍の団結と有終の美を求めた。 9月2日 戦艦ミズーリ号艦上で、連合国軍に対する降伏文書に調印(日本代表は重光葵外相と梅津美治郎参謀 総長) 。調印の場所は浦賀沖で、ペリー艦隊の「サスケハナ」の投錨地点である、この時のためにマッカ ーサーは、ペリー艦隊が来航した際マストに掲げた艦旗の現物をアナポリスの海軍兵学校からわざわざ 取り寄せて掲げた。 署名国はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国、オーストラリア、ニュージーランドの 8 か 国であった。 以降、連合国軍=アメリカ軍は日本国内に基地を設け、駐留した。駐留費は疲弊しきった日本政府に課 せられ、その額はサンフランシスコ条約締結時までの合計で 50 億ドル(現在の為替レートに換算すれば 1 兆 8 千億円)に上った。なお、70 年後の今なお日本は駐留費の 70%を米国に支払い続けている。 (日本降伏後のソ連による樺太、千島占領) ソ連軍は満州国に攻め込んだのち、武装解除した関東軍兵士を捕虜としつつ占領地を拡大した。 満洲国の首都・新京をはじめ関東軍司令部、政府機関、さらには皇帝の新京からの撤退は、20 年 5 月 1 日から 5 日間開催された軍官連携による机上演習の結果に基づいてすでに定められており、大本営の方針でもあった(「な 号作戦」=持久戦作戦とされた) 。 満洲国の首都・新京は 8 月 11 日、ソ連空軍によって爆撃され、関東軍は、満洲国の首都防衛が困難と 見て、13 日、市民を置き去りにして、皇帝溥儀を擁しつつ通化に遷都した。これは、新京が戦火に遭っ て焦土とならないためでもあったが、 「後退」することを満洲国内の行政機関にも伝えないままの撤退で あった。 10 日に戒厳令が敷かれた後、無防備状態となった関東州(人口約 80 万人)においても、日本政府、関 東軍司令部、関東局(州庁統括機関)からの連絡が一切途絶え、ソ連軍により 8 月 22 日、占領された。 置き去りにされた在留邦人は、ソ連軍による殺戮、略奪、女性や子供の区別なく暴行、強姦など、蹂躙 332 されるままという悲惨な状態に置かれた。特に北辺の開拓民(約 27 万人)はソ連軍や匪賊に襲われて、 集団自決したものも含め約 8 万人が命を落とした。 8 月 13 日 日本人開拓民は敗戦の恐怖に無知であった。この日、ソ連軍侵攻を聞いて集まった三江省の読書村など 4開拓団では「村を守ろう」との声が高まり、退避列車が来ても誰も乗らなかった。そして残った人たち は 15 日にシナ人暴徒によって皆殺しに近い虐殺を受けることとなった。 吉林省扶余県の開拓団でも、同日、警察から退避命令が出たが、15 日にシナ人警察官から「出発停止」 のウソの指示が来た。まもなく 2000 人ものシナ人暴徒に襲われた同開拓団は竹やりなどで戦うものの、 ついに自決して 272 名が死んだという。 8 月 14 日(葛根廟事件) 満洲西北部の興安総省の首都興安がソ連軍機による無差別爆撃を受ける。このため約4千人の在留邦 人が 3 つの団に分かれて避難を始めた。このうち南東約 40km のラマ寺院・葛根廟に向かって移動中の 約 1,000 人(大多数は婦女子と老人。青壮年男子は関東軍による「根こそぎ動員」のため、ほとんどいな かった。)が十数両のソ連軍戦車部隊と遭遇した。 同戦車部隊は避難民に向けて一斉に銃弾を浴びせ、倒れた婦女子らを戦車でひき殺しした。さらに戦車 から降りたソ連軍兵士が生き残った避難民に自動小銃で掃射をし、徹底的な殺戮を行った。 かろうじて生き残った者は、世を儚んでお互いに刃物を握り、差し違え、あるいは子供を殺した。 この「葛根廟事件」の死者は約 1,000 人とされるが、ソ連軍による殺戮は約 600 人で、残りの 400 人 は集団自決による死者と推定されている。助かったのは僅か百数十人で、親を殺された 30 人余りは残留 孤児となった。 後の東京裁判において、被告弁護人はこれら凶暴な行為を訴えたが、 「本裁判は日本を裁くためのものであり、連 合国軍の行為とは無関係である」 (ウェッブ裁判長)として全く取り上げられなかった。 また戦後、ソ連は満洲に取り残された日本人軍属など約 60 万人をシベリアなどに送って強制労働に使役した。こ れにより、1 万人以上が極寒の地に命を落とした。 なお、首都興安の守備にあたっていたのは第 44 軍の 3 個師団であったが、関東軍は 8 月 10 日に満州国の首都新 京や奉天に後退させる命令を下していた。その作戦は長期持久戦に持ち込むというもので、邦人を残したまま秘密 裏に移動を行った。このため、興安は全くの無防備状態で、邦人の逃避行は悲惨を極めたのである。 関東軍の「持久戦作戦」により、こうした悲劇は満洲国内のあちこちで生じた。 そのような中で、興隆に居住していた邦人約 270 名(大半は老人、女性、子供)は、関東軍・満洲 881 部隊第 1 大隊隊長・下道大尉の判断により、同隊に守られて 8 月 31 日、北京に向かい、約 120km を 10 日間歩いて「奇跡 の脱出」に成功した。犠牲者は、途中、八路軍に行く手を阻まれて武装解除を要求され、これを撥ねつけたことか ら隊員 2 人が戦死しただけにとどまった。 これらを総合すると、満州では日本人居留民の死者は 17 万 4000 人、行方不明者は約 3 万人に上った (満州国史編纂刊行会編「満州国史」 )。 8 月 16 日 スターリンが米・トルーマン大統領に、ヤルタ会談に基づいて、千島列島全部以外にさらに北海道の北 部を加えることを要求したが、トルーマンは即座にこれを拒否した。 さらにスターリンは日本占領軍の司令官に複数の人間を任命することも要求したが、米・ハリマン大 333 使は「合衆国は 4 年も太平洋で戦って大きな犠牲を出している。ソ連はまだ2日に過ぎないではないか」 と突っぱねた。 6 月にモスクワでスターリンと重慶国民政府の宋子文外交部長が会談した際、スターリンがシナに対し、外蒙古 の独立と東支・南満鉄道の所有および旅順・大連港の共同管理、朝鮮についての四大国信託統治を要求したことを、 重慶国民政府経由のニュースでトルーマンは知っており、ソ連に対して強い警戒心を抱いていた。 8 月 18 日 午前 0 時過ぎ、ソ連軍が(日本がポツダム宣言を受諾したにもかかわらず)千島列島東端の占守島に 長射程砲による攻撃を開始した。 この報せの電文を見た第 5 方面軍司令官・樋口季一郎中将は、抗戦を禁じる大本営の指示に従うべき か悩んだ末、反撃命令を発した。 ソ連軍の上陸部隊は 54 隻の艦船、総兵員 8300 人余りで、1 日で同島を占領の後、北海道に軍を進め る作戦であったが、日本軍守備隊の頑強な抵抗により同軍は占守島に釘付けとなった。4 日間の壮絶な戦 闘の後、ソ連軍は 21 日同島を占領し、結果的に千島列島は全島ソ連軍に占領された。 日本軍守備隊の奮戦は北海道がソ連軍によって全道占領されることを防いだ。 この戦闘による死者は、日本側が 600~1,000 人、ソ連側が 1,500~4,000 人と言われる。イズヴェス チヤ紙は「満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は大きかった」と報じた。 また、南樺太に侵攻していたソ連軍は、同月 25 日に占領を完了した。 南樺太においては、一般市民をも対象にした無差別攻撃を繰り返すソ連軍に対して日本軍も果敢に応戦し、22 日 に停戦協定が結ばれた。しかし、日本人居留民にソ連兵が暴虐の限りを尽くした。ソ連兵が邦人女性に対して性的 な暴行を加えた事実は、枚挙に暇がない。 南樺太・真岡郵便局では9人の女子局員が、ソ連軍が入ってくる前に毒を仰いで自ら命を絶ったという悲劇は「氷 雪の門」として映画化されたが、ソ連の圧力で公開中止とされた。 また北海道に引き上げる人々を乗せた船 3 隻が撃沈され、約 1,700 人が犠牲になった。25 日のソ連軍の南樺太 占領までの間に市民約 10 万人が、無差別攻撃の犠牲になったと言われている。 (江崎道朗「ロシアに気を許しては いけない」正論平成 28 年 12 月号より) 8 月 19 日 満洲国皇帝溥儀が奉天で捕えられ、ハバロフスクの収容所に収容された。 9月5日 ソ連が北方四島の占領を完了した(択捉:8 月 28 日、国後及び色丹:9 月 1 日、歯舞群島:9 月 4 日)。 ソ連(現在はロシア)は現在に至るも占拠を続けたままで、自己の占領の正当化を図っている。 この後、スターリンは駐日ソ連軍司令官デレヴィヤンコ中将を通じてマッカーサー連合軍総司令官に 対して、北海道の半分を領有することを主張した。これに対しマッカーサーは断固拒否し、 「ソ連軍が侵 入すればソ連代表部全員を逮捕・監禁する」と答えた。 昭和 21 年(1946 年)2 月 3 日 満州における日本人居留民で帰国できない人たち約 12 万人弱は、通化に集結していた。度重なるシナ 人による暴虐に耐えかねた日本人居留民はついに蜂起し、乏しい武器で戦おうとした。しかし、逆にシナ 共産党軍と金日成の配下である朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)によって、約 3000 人もの日本人 が虐殺された。 334 首謀者とされた藤田実彦陸軍大佐は通化市の百貨店に 3 日間、見せしめとして「展示」された挙句、獄 死した。 (海外在留邦人の引き揚げ問題とシベリア抑留) 日本が降伏した時点で、東南アジア、シナ大陸、満洲、中・西部太平洋の島々には約 600 万人の日本 人が在留していた。うち、軍人・軍属が 350 万人余り、民間人が約 300 万人だった。そうした海外在留 邦人を帰還させるには船殻不足や内地は内地で食糧不足など、大きな問題が横たわっており、引き揚げ は難航した。 昭和 16 年 8 月 29 日 関東軍総司令部(責任者は山田乙三総司令官)がワシレフスキー極東ソ連軍総司令官あてに「日本軍捕 虜将兵を帰国の日まで旧満洲でソ連軍の使役に従事させる」よう申し出る。 また、当時の大本営は、旧満洲や朝鮮半島の民間日本人やソ連の捕虜となった軍人計約 180 万人につ いて、ソ連の指令下に移し、国籍離脱まで想定して、病人などを除き現地に“土着”させ、事実上“棄民 化”する方針を固めた(朝枝繁春大本営参謀名の報告書)。 これによりソ連軍は、武装解除された関東軍を中心とした在満日本軍将兵・満州国官吏、民間会社の幹 部職員らを自国内捕虜収容所に連行、抑留し、劣悪な環境のなかで第 2 シベリア鉄道建設(約 5 万人。 大部分は軍人)など重労働使役に服せしめた。その範囲はシベリアだけでなく東欧にも及んだ。 その数は、日本政府推定で 57 万人余り(ソ連側の資料では 61 万人ないし 65 万人)とみられ、うち死 者は 6 万余人とも 9 万余人に及ぶともいう(ソ連内務省捕虜・抑留者問題総局及び V.カルボフ「『シベリ ア抑留』スターリンの捕虜たち」 ) 。 抑留された日本人は 2 千か所の収容所にばらまかれ、重労働に従事させられた。ハバロフスク、コムソモリスク などで日本人が建設にあたった劇場、公会堂、学校などの建築物はその後の大地震にも耐え(例:ウズベキスタン 国立ナヴォイ劇場) 、いまもそのままの姿で使用されている。 ソ連は、日本だけでなくドイツ、ハンガリー、ルーマニア、オーストリアからも捕虜をシベリアに強制 連行し、過酷な労働に従事させた。とりわけドイツ人についてはその数 250 万人に及んだ。 9 月 25 日 中部太平洋メレヨン島から 1,600 人余りの復員兵を乗せた「高砂丸」が大分県別府港に入港し、復員が 始まった。 米軍船の貸与も受けて、翌 21 年の末までには、シナからの 150 万人を筆頭に、満洲、朝鮮半島、東南 アジアなどから、海外在留邦人の 8 割近い約 510 万人が帰国を果たした。 うち、釜山経由で帰国した人たちの例では、特に女性は度重なる暴行によって妊娠や性病罹患にあい、 強姦被害者は 70 名、性病患者数は 19 名となっており、約 1 割が性犯罪の被害を受けていた(釜山日本 人世話会調査 1945 年 12 月~翌年 3 月) 。→専門の治療施設が必要とされ、 「二日市保養所」が開設され た。 22 年 他の戦勝国からの批判を浴びたため、ソ連政府は日本人抑留者の帰国を認め、最初の帰還者が引き揚 げ港の指定を受けた舞鶴港に入港した。舞鶴港で故国の土を踏んだ帰還者の数は約 66 万人にのぼった。 その大半は 25 年末までに帰還を果たしたが、現地で有罪判決を受けるなどした 2 千人を超える「長期 抑留者」の帰国は遅れ、最後の抑留者が舞鶴港に帰還したのは、日ソ国交回復後の昭和 31 年 12 月のこ 335 とであった。 彼らは抑留中に共産主義洗脳教育を受け、日本帰国後、共産主義革命の起爆者となることを期待され た。24 年以降には舞鶴港に着いた帰還者が「インターナショナル」を歌い、 「革命」を唱えながら上陸し て、迎えに来た家族や友人を戸惑わせた。引き揚げ者が列車で東京、大阪に着くと、入党させようとする 共産党員と家族や友人らとによる奪い合いが起こるという騒ぎにもなった。 このため政府は 24 年 8 月、引き揚げ者を圧迫し、そそのかしたり煽ったりしてはならないという政令 を出すほどであった。 (GHQ による占領政策) 20 年(1945 年)8 月 8 日 マニラに本部を置く GHQ(連合国占領軍総司令部)のマッカーサー司令官(元帥)が情報頒布部を創 設し、その責任者に軍事秘書官のボナー・フェラーズ准将を充てた。 8 月 29 日 アメリカ統合参謀本部が GHQ マッカーサー司令官に「降伏後の日本における米国の初期対日方針」を 内示。 アメリカの国務・陸・海 3 省連絡会議によって定められた日本占領政策は、以後マッカーサー司令官 によって進められた。 この日本占領政策は、 「降伏後における米国初期の対日方針」というタイトルで、 「日本国が再び米国の 脅威となり、または世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にすること」を究極の目的とし ての「現存統治形式変革の方向に関する米国の希望」として、二度と米国に刃を向けぬよう、日本人の精 神を骨抜きにする意図があった。 8 月 30 日 マッカーサー元帥が厚木飛行場から入国。 マッカーサーは、その日のうちに「平和に対する罪」を犯したかどで、重大戦争犯罪人を逮捕するよう 命令を発した。 それまで国際法には「平和に対する罪」は、存在しなかった。戦勝国となった連合国がその時点で創りだしたも のだった。 9月2日 戦艦ミズーリ号艦上で、日本の降伏文書調印の後、マッカーサー元帥を司令官として連合国軍が日本に 進駐し、占領した。マッカーサーは、直ちにかつてフィリピンにおいて自軍を蹴散らした本間雅晴元第 14 軍司令官に戦争犯罪人として出頭を命じた(恨みを晴らすためであった) 。本間元司令官はマニラで裁 判を受け、翌年 2 月 11 日の紀元節の日に死刑の判決を受けた。本間の銃殺刑は、バターン総攻撃が行わ れた 4 月 3 日にあわせて執行された。 また、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、翌朝布告が予定されていた次の文書を日本政府に内 示した。 1 軍政(立法・行政・司法三権の GHQ への引き渡し)を敷き、公用語は英語とする 2 一切の命令違反は軍事裁判で死刑とする 3 米軍軍票を日本の法定通貨とする 336 外相重光葵は談判のため外務次官岡崎勝男を GHQ に遣わせて、特に軍政を敷くことと米軍軍票を使 用することに断固として反対し、その非を説かせた。 →1については、GHQ が日本政府に命令することとされた。 3については、元陸軍中将・鎌田銓一がマッカーサー直属の幹部に直談判し、当面延期とされた。そ の後も、重光と岡崎はなおも円の維持を図るべく GHQ 首脳部と対決した。その結果、引き続き円を通 貨として使うことが許され、通貨発行権を維持することができた。それによって日本は戦後の経済発展 政策を進めることができた。 9月3日 本国から送られてきた「降伏後における米国初期の対日方針」に関して、GHQ マッカーサー司令官は マーシャル参謀長宛手紙で、 「内示された指令は、いくつかの点において降伏文書とポツダム宣言に規定 されている諸原則を著しく逸脱しているものではないか」と訊ねた。 「対日方針」は、国務省、陸軍省、海軍省の3省合同で策定されたもので、二度と日本が立ち上がってアメリカ に刃向かわないようにする」ことを目標としていた。 対日戦勝利の後のアメリカ国内では、グルー国務次官以下の知日派外交官は、国務省内の親中国派外交官によっ て一斉に職を追われた。 「天皇の地位を保全したいという日本側の要求を認めさえすれば、米国は早期に対日戦を集 結できる」とかねがね主張していたグルーに対しては、 “日本側に騙された駐日大使というレッテルが貼られた。 以降、アメリカ政府は敗戦国・日本に対し、過酷な命令を出すようになった。 9月6日 トルーマン大統領は手紙で、 「我々と日本の関係は、契約的基礎に立っているものではなく、無条件降 伏を基礎とするものである」と答えて、開き直り、マッカーサーに日本側からのいかなる異論も受け付け ないよう、通達した。 これを受けマッカーサー司令官は、先ず日本外国特派員協会を設立させた。アメリカによる日本占領が いかに正しく、人道的であり、歴史の偉業であるかを世界に向けて発信させるためであった。以降、同司 令官はあたかも全能者のごとく振る舞って、国際的には背信行為である占領政策をとり続けた(ヘンリ ー・ストークス「英国人記者が見た連合軍戦勝史観の虚妄」祥伝社新書 p.72) 。 同月、GHQ が NHK ビルを接収して、その建物内に民間情報教育局本部を設置。局長には元 NBC 放 送の販売部長兼広報調査担当取締役だった K.R.ダイク大佐を充てた。 ダイクは就任後ただちに日本人洗脳工作に着手し、 「自由主義者の話」や「出獄者に聞く」 (ゲスト:日 本共産党創設メンバー徳田球一)などの日本人洗脳ラジオ番組を放送させた。 9 月 13 日 マッカーサー司令官の指令により、大本営が廃止された。 9 月 14 日 GHQ 民間検閲支隊(CCD)が同盟通信社による短波放送を禁止し、同社に業務停止を命じる。その理 由は、同社が進駐軍の人事をスクープしたこと及び米兵による暴行事件を放送したことであった。 9 月 15 日 朝日新聞が鳩山一郎による「原爆の使用は国際法違反であり、戦争犯罪であることを否むことはでき ぬであろう」旨の談話を、また翌々日には、アメリカ兵の日本における暴行事件について批判的な記事を 掲載した。これに対し GHQ マッカーサー司令官が激怒し、同紙を2日間の発行停止処分にした。 337 同月 19 日には、ニッポン・タイムズ(現ジャパン・タイムズ)が社説を事前検閲に提出しなかったと いう理由で 24 時間の発行禁止とされた。 9 月 19 日 GHQ は日本の報道機関に対し、 「連合国に対して事実に反し、またはその利益に反する批判をしては ならない」など 10 項目の「新聞紙規定」 (プレスコード)を押し付け、戦勝国批判の徹底的な封じ込め を図った。 同日、宮内省総務局長・加藤進が GHQ 経済科学局(ESS)から呼び出され、皇室の財産やこの年の収 支の明細を提出するよう求められた。GHQ は、皇室が大きな財閥のような存在で日本経済を支配してい るのではないか考え、 「日本の民主化のために」皇室を解体しようと決意していた。 これらの処置は、GHQ が策定したウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(邦訳「罪意識 扶植計画」 )実行の一環であった。 (ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム=WGIP の策定過程) アメリカの外交官ジョン・エマーソンが 1944 年 11 月に米軍事視察団戦時情報局要員としてシナの延安を訪問し た際、野坂参三(当時は岡野進と名乗っていた)元日本共産党議長が日本軍捕虜の思想改造を目的とした心理作戦 の活動と経験を報告。その内容は、日本兵に侵略者としての罪悪感を植え付ける内容で、軍国主義者と人民を区別 し、軍国主義者への批判と人民への同情を兵士に呼びかける「二分法」によるプロパガンダであった。 戦後エマーソンはマッカーサーの政治顧問付補佐官となり、上記事例に倣い日本人への洗脳心理作戦として WGIP を立案。これに基づき GHQ が実行した。 エマーソンはその旨を 57 年 3 月 12 日の上院国内治安小委員会で証言した。 (H27.6.9 産経新聞「歴史戦」より) 9 月 22 日 米政府が「降伏後における米国初期の対日方針」を公表した。その最後に「皇室の財産は占領目的の達 成に必要な如何なる措置よりも免除せられることはない」と書かれていた。 →GHQ は 10 月 17 日に宮内省に対し『皇室典範』や付属法令、皇室の組織図、昭和 20 年の皇室全予 算の提出を求め、一方で 14 宮家にも財産目録の提出を求めた。 また翌 18 日には皇室財産凍結令を発令し、皇室財産の移転並びに宮家に対しての御内帑金の下賜の禁 止を命じた。これによって、宮家の財政は立ちいかないこととなった。 9 月 27 日 天皇が初めてマッカーサー司令官を訪問(同元帥が解任されるまで 11 回ご訪問された)。会見は、天 皇とマッカーサー元帥の他通訳の奥村勝蔵だけが陪席し、その詳細は極秘にされたが、会談終了時に天 皇とマッカーサー元帥とが並ぶ写真が撮影された。GHQ はこの写真を各紙に配布した。 後に(1955 年 9 月 4 日の記者会見の際) 、マッカーサー元帥は、この第 1 回会見において天皇が次のように述べ たと披露した。 「マッカーサー将軍、私は、戦争中に決定されたすべての政治的、軍事的決定とわが国民がおかした行為につい て全責任を負う者として、貴下が代表する連合国の判断に私自身を委ねるために、ここに参りました。 責任はすべて私にある。文武百官は私の任命するところだから、彼らに責任はない。この身はどうなろうと構わ ない。私はあなたにお任せする。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」 注:天皇が「自分自身に『戦争責任』があると自認していた」かとなると、それは、ありえないことなので、実際 にこのとおりのご発言があったかという点については、定かではない。奥村勝蔵通訳が会見後に思い起こして記し 338 た記録にも記載がない。 マッカーサー司令官は、そのお言葉の披露のあと、 「すさまじい感動が私を襲った」と言葉を継いだが、天皇の威 厳と誠実さに打たれ、それを忘れられなかったことに誤りはないであろう。以降、マッカーサーは天皇訴追反対の 意思を強くした。 天皇とマッカーサー司令官とが並ぶ写真を各紙が掲載しようとしたところ、内相・山崎巌が天皇の尊 厳を傷つけるとして掲載誌を発禁処分にした。GHQ はこれに怒り、その掲載を強要した。 9 月 29 日 各紙が天皇とマッカーサー元帥とのツーショットの写真を掲載した。この写真は統治者の交代をまざ まざと内外に見せ付けるものであった。 GHQ が 9 月 27 日づけで、 新聞等への記事掲載制限の権限を GHQ 最高司令官に持たせることとした。 これによって、10 月から日本の報道機関は日本政府からは完全な自由を得る一方で、GHQ という外 国権力の管理下に置かれることとなり、 “日本の新聞は世界に類例を見ない一種国籍不明の媒体に変質さ せられた” (江藤淳「閉ざされた言語空間」 )。 10 月 1 日 GHQ が「東洋経済新報」を押収した。これは、同紙の社長・石橋湛山が 「米国は日本に平和思想を植え付ける使命を果たそうとしている。しかし、米国自身がその使命にふさ わしき行為者たることが肝要だ。 (中略)米国はかつて無謀な移民法の制定により、日本の平和主義者を 打倒し、軍国主義者の台頭を促した。今次の極東戦争は、ここにその遠因が存する。これは米人自身の認 める見解だ。切に同国朝野の反省を希望するところである」と書いたからであった。 10 月 4 日 GHQ が「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書) 」を指令し、①治安維持法と 治安警察法の撤廃、②政治犯などの即時釈放、③特別高等警察と内務省警保局の廃止、④内務大臣以下、 警保局長、警視総監、都道府県警察部長、特高課長など 4000 名の罷免を求めた。 これは露骨な軍政に他ならなかった。GHQ の指令を不服とした東久邇宮稔彦首相が、翌日天皇に全閣 僚の辞表を提出し、総辞職した。 10 月 8 日 GHQ 民間情報教育局(情報頒布部が改組されたもの。CIE)が全国 60 種の新聞に事前検閲を開始し た(昭和 23 年 7 月 25 日まで) 。これは前月 19 日のプレスコードに基づくものであり、事前検閲の対象 は直ちに雑誌など定期刊行物、映画、放送、出版物など一切の民間通信に拡大された。 以後マッカーサー司令官の責任の下に行われた民間通信への検閲は、1944 年 11 月 12 日づけで F.D.ル ーズベルト大統領の下で統合参謀本部が決裁した JCS873/3「合衆国の責任範囲内の諸地域における民 間通信検閲」を根拠として、合衆国軍最高司令官 F.D.ルーズベルトの命令により(発出先は太平洋・ア ジア地域の現地軍司令官)行われたものであった。 そのルーズベルト大統領は合衆国検閲局長官に自ら通信界の大物というべき AP 通信社専務取締役・編集局長のバ イロン・プライスを起用していた。プライスは過去の言論統制の歴史から学んで表面には立たず、情報宣伝活動の 実務は戦時情報局が担当した。その精神を GHQ 民間情報教育局が引き継いでいた。 したがって、検閲を行った米太平洋陸軍総司令部参謀第二部民間検閲支隊の上部機関は米国統合参謀 本部であった(連合国軍ではなかった) 。 339 しかし、この検閲は合衆国州施憲法修正第 1 条並びにポツダム宣言第 10 項(言論、宗教及び思想の自 由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし)の規定に抵触するものであったから、GHQ は占領期間 中、最後まで極秘のうちにこれを進めた。 事前検閲は後に事後検閲とされた。書籍については昭和 22 年 10 月 15 日、雑誌については同年 12 月 15 日から事後検閲に変わったが、これにより、執筆者は脱稿後の発行禁止を恐れて「自己検閲」を行う ようになり、それがあらゆるマスメディアに浸透して、日本の言語空間は一種“閉鎖された構造”を持つ ようになった。 GHQ 最高司令官指令第 33 号「日本に与える新聞遵則」 (抜粋) ・連合国進駐軍に関し破壊的に批評し、又は軍に対し不信又は憤激を招くような記事は一切掲載してはならな い。 ・連合国進駐軍の動向に関し、公式に発表解禁となるまでその事項を掲載し又は論議してはならない。 ・報道記事は事実に即し、筆者の意見は一切加えてはならない。 GHQ が行った検閲には多数の連合国人と日本人が従事し、その数は昭和 22 年 3 月時点で 6,168 人に 及んだ。このうち日本人の検閲従事者は 5,076 人で、彼らには日本政府の負担により日給 900~1200 円 が支払われた。 なお、翌 21 年 11 月末時点で民間検閲支隊が用いていた検閲指針においては、削除又は掲載発行禁止 の対象となるものとして、 (1) GHQ に対する批判 (2) 極東軍事裁判に対する批判 (3) GHQ が憲法を起草したこと GHQ (4) 検閲制度への言及 (5) アメリカ、ソ連、イギリス、中国をはじめ他の連合国諸国に対する批判 (6) 朝鮮人に対する批判 (7) 戦争擁護の宣伝 (8) 神国日本の宣伝 (9) 大東亜共栄圏、ナショナリズムの宣伝 など全部で 30 項目を掲げていた。それは、古来日本人の心に育まれてきた伝統的な価値体系の徹底的 な組み換え=日本古来の文化の破壊=を意図するものであった。 10 月 9 日 幣原喜重郎内閣成立。幣原は昭和初期に対英米協調外交をすすめ、オールド・リベラリストとして知ら れていた。外相には吉田茂が起用された。吉田は、駐米大使館に勤務した経歴を持ち、マッカ-サーの政 治顧問 G.アチソンと親交のある寺崎英成を外務省と GHQ との連絡係に起用した。 10 月 10 日 GHQ が政治犯の釈放司令を出した。これは、9 月 25 日に日本労働組合全国協議会(全協)のリーダ ー金斗鎔らが GHQ に出向いて政治犯と思想犯の即時釈放を求めたのに応えたものであった。この指令 では、共産党員であれば、傷害致死などの罪で獄中にあった者までも釈放した。 340 金斗鎔らの目的は日本共産党の再建にあり、府中刑務所を出所したのは徳田球一、志賀義雄、金天海ら であり、かれらは出迎えた金斗鎔らとともに「天皇制打倒」と第一声を発した。 →出獄した金天海指導の下、10 月 15~16 日に在日朝鮮人連盟(朝連)の結成大会が開かれた。20 日 は、日本共産党の機関紙「アカハタ」も復刊された。朝連は、その後、日本共産党と一体となって、革命 を目指して人民闘争を展開した。 10 月 11 日 GHQ マッカーサー司令官を組閣直後に訪問した幣原首相に対し「5大改革」の見解を示した。 1 婦人参政権 2 労働組合の育成 4 特高警察の廃止を含む検察・警察の改革 3 自由主義的教育の推進 5 経済機構の民主化(財閥解体を含む) ここには、憲法改正はもちろん、後の日本国憲法第 9 条に明文化された「戦争放棄」についての項目はなかった。 しかし、GHQ の狙いは憲法をつくりかえ、日本の伝統・秩序を一変させることにあった。 この指令をはじめとして日本の「民主化」政策を所管したのは民政局であったが、これらの占領政策は、マッカ ーサーの強い要望により 45 年 9 月、対敵諜報部分析課長に就任して絶大な権力を振るっていた元カナダ外交官の ハーバート・ノーマンから、大きな影響力を受けていた。 ノーマンが訪日後、最初に行ったことは府中刑務所に収監されていた徳田球一、志賀義雄ら 16 名の主要な共産党 員を釈放することであった(10 月) 。12 月にはハーバート大学で親交のあった都留重人(経済学者)と鈴木安蔵(憲 法学者)に自身の助言の下、憲法草案要綱をつくらせた。この草案を参考にして、後に GHQ の憲法草案が作成さ れた。 ハーバート・ノーマンはカナダ人宣教師を父として長野県で生まれた。39 年にカナダ外務省に入省後、40 年から 42 年に帰国するまでの間は東京の公使館に赴任していた。51 年には駐日カナダ代表部主席としてサンフランシス コ講和条約会議においてカナダ代表主席随員を務めた。 英国ケンブリッジ大学に留学していたノーマンについて、英情報局保安部は、彼がインド人学生を共産主義グル ープに勧誘する責任者を務めたことを断定できる証拠・証言を入手し、35 年マルクス主義者と断定していた。戦後 の 51 年にこのことをカナダ政府に通報した。その前年、自国においてソ連のスパイだと指摘されたがこれを否定、 その後も否定し続け、56 年には駐エジプト大使に就任した。しかし、翌 57 年、カイロで飛び降り自殺した。 10 月 15 日 マッカーサー司令官の指令により、陸軍参謀本部、海軍軍令部が廃止された。 10 月 22 日 GHQ が「日本教育制度に対する管理政策」を定める。 後の「神道指令」や「修身、日本歴史、地理の授業停止」は、この管理政策に基づいてなされた。 11 月 1 日 東洋経済新報が GHQ により押収された。社長石橋湛山の書いた記事の中に次の一節があったのが、そ の理由であった。 「米国は我が国の有形的武装解除を行うのみならず、また精神的武装解除を行うべしと称している。彼 らは日本に平和思想を植え付ける使命を果たそうというのである。それには、米軍乃至米国自体がその 使命に相応しき行為者たることが必要だ。米国はかつて無謀な移民法の制定により、日本の平和主義者 を打倒し、軍国主義者の台頭を促した。今次の極東戦争はここにその遠因の一が存する。切に同国朝野の 反省を希望するところである。 」 341 戦中も一貫して軍部を批判していた石橋湛山は、絶対的な権力を行使している GHQ に対しても、恐れずに批判の 矢を放った。 11 月 4 日 歌舞伎「菅原伝授手習鑑・寺子屋の段」を上演中、松王丸による「首実検の場」で警官によりストップ がかけられ、公演は中止された。これは、日本人の復讐心を煽るとして GHQ 民間情報局(CIE)の命令 によるものであった。 興行主の松竹が再開を CIE に働きかけるも拒否されたところへ、マッカーサーの副官をしていたフォ ービオン・バワーズが CIE 担当官にその良さを説明して、ようやく 1 年後に歌舞伎公演が復活された。 バワーズは戦前から来日していて歌舞伎通となっていて、軍人の地位を捨てて自ら歌舞伎検閲官となり、問題視 されていた演目の復活公演に尽力した。彼はいまでも「歌舞伎の恩人」と言われている。 11 月 15 日 内閣訓令第 7 号「当用漢字表の実施に関する件」及び第 8 号「現代かなづかいに関する件」発令。 この「国語改革」は漢字制限を行い表音的かなづかいを強制することにより、GHQ が日本語を少しでも素通しに 近いものに変形させ、日本語の周辺に漂っている神秘的な要素を一挙に洗い流してしまうことを意図していた。 11 月 30 日 GHQ のスミス准将が新聞各社の代表を集め、 「太平洋戦争史」を示して、日米開戦の日にあたる翌 12 月 8 日付で掲載を命じた。 この「太平洋戦争史」はダイク民間情報教育局長が勝者の立場で作成させ、共同通信に翻訳を命じたも ので、 「太平洋戦争」という呼称は、このとき初めて使われ、それまでの呼称「大東亜戦争」の使用の禁 止に繋がった。 「太平洋戦争史」の翻訳者は共同通信渉外係の中屋建弌で、彼は後に東大歴史学教授となり、歴史教科 書や多くの著書を通じて、GHQ による太平洋戦争史観を広めた。これによって「太平洋戦争」という用 語が定着することとなった。 12 月 8 日 GHQ の命によってこの日から 1 週間、国内主要新聞に「太平洋戦争史」が掲載された。内容は、日本 軍が満洲事変を皮切りにシナ大陸や東南アジアで非道なことをしたというものであった。 なお、朝日新聞は、その後も「太平洋戦争史 続編」を掲載した。 同月、GHQ は「民主化の一環」として教職員組合の結成について司令を出し、翌年 4 月からは、上記 「太平洋戦争史」を歴史教科書として学校で使わせた。 なお、日本教職員組合は、22 年 6 月に全国的に組織された。 12 月 9 日 「真相はこうだ」という NHK ラジオ番組で、GHQ が NHK の自主制作に見せかけて「太平洋戦争史」 の放送を開始した(1 回 30 分、週 5 回、10 週間) 。うち 1 回は学校放送用で、「全学年並びに教師の時 間」として木曜日午前 11 時から強制的に放送された。 この内容には聴取者から 1 日に 300 通もの抗議が寄せられたため、同放送は翌年 2 月 10 日に打ち切 られた。 しかし同放送終了後、虚実取り混ぜた「真相はこうだ・質問箱」や「真相箱」などと改称して昭和 23 年 8 月まで約 3 年間続けられた。朝日新聞は、その編集に加担させられていた。 342 「真相箱」の中で放送された「南京大虐殺事件」の内容は、東京裁判の判決文に示されたものとほぼ同 じであった。 さらに GHQ は、各大学、NHK、朝日新聞、岩波書店などから占領軍に協力的な「文化人」を選んで、 「日本の過去の戦争はすべて侵略戦争である」等、戦前の日本の行ったことは全て悪だったとする情報 を流させた。 12 月 15 日 GHQ が「神道指令」を発令した。 その第一の目的は、神社の国家管理制度を廃止=国家と神道とを分離することによって全ての神社を 民間の宗教団体として扱うことを強制するものであった。中でも、 『軍国的神社』とみなされた靖国神社 は特に危険視されることとなった。 また、官公吏が「公の資格」で神社に参拝することが禁じられた。 こうした命令は、日本人の勇猛果敢な精神の根底には「国家神道」がある、またその教義は世界平和に 敵意あるものだと考え、これを抹殺しようとするものであった。 その結果、天皇は国家最高の祭主の地位と祭祀大権を失い、皇室が行う祭事は皇室御一家の私事にとど まることとされた。 神道指令の第二の目的は教育から神道を除去することにあった。すなわち指令は「公文書において『大 東亜戦争』 『八紘一宇』なる用語の使用を禁止し、さらに日本語としてその意味の連想が国家神道、軍国 主義、過激な国家主義と切り離し得ざるものは、これを禁止する」とした。 これより学校では、大東亜戦争という用語の使用はもちろんのこと、日本神話や過去の戦争における東 郷元帥らの英雄をも教えられなくなった。 GHQ 民間情報局教育部長ダイク代将は、この日の記者会見で次のように述べた。 「神道に関するあらゆる教訓、神話、伝説、哲理は神道の一部として、これを官公立学校で教え込むことはでき ない。それで神話を基とした日本歴史の教科書は書きなおさなければならないことは当然である。 」 神道指令は、昭和 27 年 4 月の講和条約発効をもって、ようやくその効力を失った。 12 月 米英ソ三国外相会議において、日本の占領管理について協議するため 9 月に設置すことが決まってい た極東委員会の構成メンバーを 11 か国とすることが決められた。 12 月 21 日 敗戦による国土の疲弊に追い打ちをかけるように南海地震が起きた。東は房総半島から西は九州に至 る広い範囲の沿岸部が津波に襲われ、多数の人が逃げ遅れて犠牲になった。死者、行方不明は全国で 1,463 人に上った。 12 月下旬 食糧事情の悪化により「1 千万人餓死説」が流布される。凶作、巨大地震に加え、600 万にも上る復員・ 引き揚げ者による人口増で、米の欠配や遅配が日常茶飯事になっていたからであった。 12 月 31 日 GHQ が指令「修身、日本歴史、地理の授業停止に関する件」を出して学校の教科書の書き換えを発令 し、従来の修身、日本歴史、地理の授業を禁じた。 21 年(1946 年)1 月 1 日 343 「新日本建設に関する詔書」が発せられる。これは、天皇が GHQ に迫られて発したものであった。 内容は明治天皇の「五箇条のご誓文」を引用し、その思いを継いで「戦災からの復興を成し遂げよう と」することが第一の目的であったが、中段で「天皇をもって現人神とし」という価値観を「架空なる観 念」に基づくものではないと断じた。このことから、新聞は詔書を「人間宣言」と書き立て、俗にそう言 われるようになった。 天皇の処遇についてアメリカ軍・政府は 19 年暮れ頃から検討を迫られていた。元駐日大使のグルーが「占領後 の日本人の混乱やゲリラ活動を防止させて大勢の米兵の声明を救えるのは天皇である」としてその地位を保全する よう訴えていた。 20 年 4 月、 「ザ・タイムズ」の記者プーリーが報告書を提出し、 「天皇の持つ神格性を打破されれば日本人の戦 意も薄弱になるはずである」とした。この見解に沿って、国家神道を否定する神道指令が出され、この「新日本建 設に関する詔書」が発せられることとなった、という説がある。(加藤靖男「昭和天皇7つの謎」第 7 回「WiLL 2014 年 7 月号」より) 12 月にメンバー国が決まった極東委員会の開催日程を前に、天皇に対する厳しい態度を憂慮した幣原首相が、 ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン代表の感情を鎮静化するために作成したものと言われてい る。原文は英語で書かれた。 (堤堯「昭和の三傑」集英社文庫より) 1月4日 GHQ が「公職追放令」を発令。 「戦争犯罪」人、戦争協力者、大政翼賛会などの関係者が追放された。 翌年には、戦前、戦中の有力企業幹部も追放の対象となった。 追放された者は、衆議院議員の 8 割以上、財界、言論界の大半に及び、その数は 25 万人以上に達した。この結 果、日本の中枢を占めていた保守層が去り、その穴を戦前コミンテルンの工作員・協力者として検挙された者、帝 国大学の職を追われた者たちが埋めた。とくに大学など教育機関で顕著であった。典型的な例は、横田喜三郎東大 教授で、後に世界の国際法学者ではただ一人「東京裁判は国際法的に支持される」と述べた。 この追放令は、GHQ のケーディス次官とハーバート・ノーマンが中心となって実施された。 GHQ が「太平洋戦争史」を 1 冊の本にまとめて 10 万部印刷し、歴史教育に使うよう都道府県に配布 した。→「大東亜戦争」に代わり、 「太平洋戦争」という呼称が定着。GHQ は、日本人としての記憶の抹 消を図ったのである。 さらに GHQ は、15 世紀以降白人国家が有色人種の国々を侵略したことを記述した書物や戦前の朝鮮・ 満洲での生活を記録した書物及び日本人の価値観形成にかかわる書物など占領軍にとって都合の悪い書 物7千数百冊を没収し、本国に持ち帰った。 2 月 19 日 戦禍で傷ついた国民を励ますため、天皇の行幸が始まった。この日は神奈川県の工場や戦災者宿舎、大 空襲から再建した商店街などを回られた。地方でお泊りになるときは列車内や知事公舎、県庁などでな かには学校の教室ということもあった。板の間にゴザと布団を敷き、黒いカーテンをかけてお休みにな られた。 →行幸は約 8 年半をかけて全国を回られた。行く先々で天皇は国民から大歓迎を受け、 「天皇陛下万歳」 の声が上がった。沖縄だけは希望されていたものの施政権が返還されていなかったことや、ご病気もあ って果たせなかった。 3月 344 来日していたアメリカ教育使節団が政府に対し、 「漢字は習得に時間がかかる。国民は無謀な軍部に反 対できるほどの教育水準に達していなかった」としてその使用を廃止し、ローマ字を一般使用するよう 勧告。 →23 年 8 月、教育研修所が 2 万人余りを対象に日本語の読み書きテストを実施したところ、過半数が 90 点満点中 80 点以上で、日本人は漢字の習得に苦労はしていないことが実証されたため、GHQ はよう やくローマ字の一般使用を断念した。これにより日本の伝統文化は守られた。 4 月~ GHQ 民間情報教育局の指導により、日本国民のキリスト教化を図るため、大量の聖書が持ち込まれ始 めた。国民教育から神道を除去することを目的とした神道指令発令からわずか数か月後のことであり、 その数量は、約 1 年間で旧約聖書 5 万 1819 冊、新約聖書 43 万 2021 冊に及んだ。 5 月 19 日 共産党など左翼政党が食料不安を煽り、皇居前広場で飯米獲得人民大会「食料メーデー」を開催、政府 や天皇を攻撃した。これには 20 万人を超える人が集まった。 5 月 20 日 マッカーサー司令官が「暴民デモを許さず」の声明を発表し、公職追放された鳩山に代わり組閣を目指 す吉田茂外相に「自分が司令官である限り日本国民は一人も餓死させないから、安心して組閣にあたっ てほしい」旨告げる。→同月 22 日第 1 次吉田内閣発足。 以降、70 万トンの食糧が緊急輸入され、一方で GHQ が草案の新憲法法案審議が国会で進んだ(次項 参照) 。 (占領軍の圧力による憲法はじめ法制の全面的改定) 20 年 10 月4日 近衛元首相が個人的にマッカーサー司令官を訪ねた。意図は天皇の訴追を回避するためであった。近衛 は、日本を戦争に駆り立てたのは左翼分子であり、敗戦は彼らからして思う壺であったことを力説した。 マッカーサーは、近衛の話に興味を示し「自由主義分子を糾合して憲法改正に関する提案を天下に公表 するなら、議会もこれに就いてくるであろう」と述べた。 →その後、近衛はマッカーサーの期待に応えようと、改憲に向けて走り出し、木戸内大臣の同意も得 た。天皇も近衛に直々、 「仮に改憲の必要があるなら、その範囲に調査」をするよう、命じられた。 10 月 11 日 幣原喜重郎(既に 80 歳を超え、政界を退いてから十数年のブランクがあった)を担ぎ出して新内閣が 成立。これは、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止などを求める GHQ の指令(10 月 4 日)に抗議して 総辞職した東久邇宮内閣を継ぐ組閣であった。 同日、組閣後直ちに訪問した幣原首相に対しマッカーサーが「5大改革」の見解を示すとともに、新憲 法の制定をも命じた。アメリカの狙いは日本を「無害な3等国」にすることにあった。 10 月 13 日 幣原喜重郎首相が、マッカーサーの意向を受けて憲法改正に向けての憲法調査委員会を発足させる(委 員長:松本丞治国務大臣) 。委員は東京帝大教授の宮沢俊義ら7人。顧問には憲法学大家の美濃部達吉を 迎えた。→松本委員長は憲法改正には消極的であったが、GHQ から急かされたため検討をすすめ、翌年 1月7日、改正私案を作成し、天皇に上奏した。 345 この間、10 月 23 日、改憲に向け走っていた近衛元首相の談話が新聞に掲載された。 「天皇の大権縮小」 (毎日) 、 「天皇退位の条項の挿入もありうる」 (読売)などの見出しが躍り、宮中は衝撃を受けた。以降、 近衛批判の声が猛然と起こり、近衛は改憲の動きを断念した。GHQ も 11 月 2 日に覚書を発し、近衛の 作業を否定した。→12 月 7 日、GHQ が木戸、近衛ら 9 名に対し、戦犯として逮捕状が発せられた。その 後、収監の前日(12 月 16 日)に近衛は青酸カリで服毒自殺した。 21 年(1946 年)1 月 11 日 米政府の国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)がマッカーサーに、憲法改正についての基本方針を 伝えた。その内容は、①天皇を廃止しない場合でも、軍事に関する権能は失われる。②天皇は内閣の助言 に基づいてのみ行動しなければならない-というものであった。 延び延びになったいた戦勝 11 か国で構成される極東委員会の開催が迫っており、そこでは天皇の戦争責任が問 われる可能性があったため、天皇護時に理解のあるマッカーサーは、明治憲法の改正を急いだと言われている。 1 月 24 日 幣原首相が、マッカーサーを訪問し、余人を交えない会談であった。 その際に、幣原首相から秘かに「憲法改正においては①象徴天皇、②交戦権の否定・戦力不保持を盛り 込む」ことをマッカーサーに提案して同意を得、それが翌月初めの「マッカーサー三原則」の根幹となっ たとする説がある。 幣原の狙いは、①かけがえのない存在として天皇を残す。②日本が平和な国として連合軍諸国から名止 められるとともに、冷戦のさなか、戦争が起きた時に米軍が日本人を戦場に駆り出そうとしてもできな いようにしておく。これにより一日も早い戦後復興を図る、ということにあった。 幣原はマッカーサーに提案したことを一切口に出さず、憲法草案は連合国から示されたことにして、国 内の混乱を乗り切ろうとした。 (堤堯「昭和の三傑」集英社文庫、同「魔都上海の街で考えたこと」第 160 回・月刊 WiLL 平成 27 年 5 月号掲載より) 1 月 30 日 松本丞治国務大臣の下で進められてきた新憲法草案が閣議で配布された。 その内容は、①天皇が統治権を総覧する大原則は変えない。②議会の議決事項を拡充して従来の大権事 項は縮小する。③国務大臣は議会に責任を持つ。④臣民の自由・権利の保護を強化する-というものであ った。 2月1日 毎日新聞が上記新憲法草案をすっぱ抜いた。マッカーサーは、日本側の新憲法草案に対し大きな不満 を持った。 2月3日 マッカーサーが「三原則」(マッカーサー・ノート)を示したうえで GHQ 民生局長ホイットニー准将 に新たな憲法の草案作成を命じる。翌日、ホイットニーが民生局職員に草案作成について訓示した。 草案作成には、チャールズ・ケーディス民生局次長を実務責任者として 25 名のスタッフが当たり、7 日間で草案を作り上げた。 マッカーサーは、合国 11 カ国からなる対日理事会の動向を気にしながら、アメリカの思い通りになる 日本をつくるための新憲法制定を急いだ。 起草委員会メンバー25 名のうち、憲法の専門家はゼロ、弁護士資格を持つ者は 4 人、日本の伝統と政治体制 346 について知識のある者は 3 人に過ぎなかった。 マッカーサー・ノートは、憲法改正の 3 点の基本原則を必須要件としていた。 1 天皇を国家元首とし、皇位の世襲を認める。 2 交戦権の否認及び戦力の不保持 3 封建制度の廃止。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族 の地位は、今後いかなる国民または公民としての権利をも伴うものではない。 2の交戦権の否認については、パリ不戦条約及びアメリカの植民地であったフィリピン憲法(1935 年制定)にそ の原型がある。同憲法第 2 条第 3 節に「フィリピンは、国策の具としての戦争を放棄し…」との条文があり、マッ カーサーは比総督であった父の補佐官としてフィリピンに勤務したことがあったから、この植民地憲法を思い出し て提示したものである。 3にみられるように、米国は日本を当時もなお「封建制度が残っている」と思い込んでいた。この 3 点目の原則 によって、占領政策の一環として次のことがなされた。 21 年 5 月 皇族の財政的特権の全面的剥奪。 22 年 2 月 皇族への過酷な財産税と戦時補償特別税の徴収 その結果として同年 10 月、14 の宮家のうち秩父宮、高松宮、三笠宮の直宮家を除く 11 宮家が皇族を離脱、臣籍 に降下された。これは、財政的基盤を奪われて皇族の存立が不可能になったためという“恐慌的事態”に迫られて のことであった。 民生局の局長・次長を占めていたホイットニーとケーディスは、本国にあっては「ニューディーラー」と呼ばれ た社会主義者であった。ニューディール政策は連邦裁判所において「社会主義的だ」として違憲判決により阻まれ たため、ニューディール政策を支持していた者たちはアメリカ国内では行き場をなくしていた。そこで戦後かれら 2 人は日本に来て、本国ではできない徹底的な「改革」を行いつつあった。 2月8日 憲法調査委員会(担当:松本蒸治憲法担当大臣)が新憲法の草案を GHQ に提出。しかし、それはマッ カーサーにより「旧明治憲法の字句を変えた程度のもの」と判断され、GHQ 内では、草案の作成が継続 された。 2 月 10 日 GHQ による英文版「日本国憲法」草案ができあがる。マッカーサーは同草案を承認した。 2 月 13 日 ホイットニー准将ら4人が外相官邸に吉田外相、松本国務大臣を訪れ、GHQ 作成による英文の「日本 国憲法」草案を示し、 「マッカーサー司令官が天皇を戦犯にしようとする諸外国の圧力から守ろうとして いる」 「この憲法草案が受け入れられれば、司令官は“天皇は安泰になる”と考えている」と、草案受け 入れが天皇護持の唯一の道だと日本側を揺さぶった。 2 月 19 日 GHQ 作成の草案を日本語訳された「日本国憲法」草案大意が閣議において示される。閣議では、ほと んどの閣僚は同草案を初めて目にして憤慨したが、受け入れるほかはなかった。 22 日の閣議では、幣原首相が「前日会見したマッカーサー司令官は、ソ連とオーストラリアが極度に 日本の復讐を恐れており、その状況の中で天皇の地位安泰を図りたい、と言った」と説明し、GHQ 案へ 347 の理解を求めた。→GHQ に受け入れを通知。終戦連絡中央事務局長白洲次郎、法制局第一部長佐藤達夫 らが加わって、直ちに条文づくりにとりかかった。 占領地において、憲法だけでなく、後述の教育基本法をはじめとする幾多の法律を押しつけ、旧制中・ 高校を廃止するなど教育制度を変えたことは、1907 年に改定され、アメリカも日本も調印したハーグ条 約第 43 条(占領者は現地の制度や法律を変えてはならない)に違反するものであった。 この直後から GHQ が日本政府と皇室典範の改正について協議を開始。GHQ は皇室典範を憲法の下位 に置き、 「国民主権の原則を貫く」ため「国会が制定する」ことを強要した。 2 月 21 日 幣原首相が、マッカーサーを再度訪問し、3 時間余りの協議を行った。先の 3 原則確認のためであっ た。 その足で幣原首相は吉田外相と楢橋書記官長を伴って参内し、天皇に報告した。天皇は「象徴でいいで はないか」と述べられた。 2 月 22 日 幣原首相が閣議で、前日に会ったマッカーサーとの会談の内容を伝え、 「戦争放棄により、ソ連、オー ストラリア両国の厳しい矛先をかわすことができ、これにより、天皇の安泰を図ることができる」旨説明 した。その際、天皇も“同意”されたことを披露した。 後に楢橋書記官長は「あの憲法が当時の国際的要求をかろうじて食い止めた。彼ら(GHQ)も、これによって日 本も救われたし、GHQ(マッカーサー)も救われた」と話した。 (毎日記者・住本利男「占領秘録」 ) 3月2日 GHQ から松本国務大臣に憲法改正草案を至急届けるよう指示があり、翌々日の 4 日、松本はつくりか けの草案を GHQ に届けた。→「日本国憲法改正要綱」づくりは 3 月 5 日夕刻に作業を終えた。 3月6日 政府が GHQ 作成の草案訳文を日本政府独自の「日本国憲法改正要綱」として公表。ワシントンで極東 委員会が開催される前日であった。 戦勝 11 か国で構成される極東委員会は、前年 11 月に開催される予定であったが、種々の事情から延び延びになっ ていたが、2 月 26 日の予備会談において「3 月 7 日に日本の新憲法について議論する」ことを決めていた。 なお、鈴木貫太郎枢密院議長(元首相)には、その内容を伝えてあった。 マッカーサーは、第 9 条(不戦、戦力不保持、交戦権放棄)を最も重要な条項としたうえで、 「日本は、 本来その主権に固有の諸権利を放棄し、その将来における安全と存続自体を、世界の平和愛好諸国民の 誠意と公正に委ねたのである」と断言した。 しかし、マッカーサーは朝鮮戦争が勃発した翌年の昭和 26 年 1 月 1 日の年頭メッセージにおいて「(日本国民が 自らに課した第 9 条の)制約にかかわらず、国際社会の無法状態が、平和を脅かし、人々の生命に支配を及ぼそう とするならば…あまりにも当然な自己保存の法則に道を譲らねばならぬことは言うまでもない。…そのような力を 撃退するために力を結集することこそが諸君の責務となる。万一の場合日本の安全は太平洋地域の他のすべての自 由諸国の深い関心事となるであろう」と述べ、アメリカの対日政策の矛盾を露呈した。 なお、マッカーサーは後に公刊した回想録において、第 9 条の戦争放棄条項を発案したのは、首相の幣原喜重郎 だったと書いている。 3月7日 348 ワシントンで極東委員会が開催され、そこで示された「日本国憲法改正要綱」は、 「日本と天皇ヒロヒ ト断罪」のとげとげしい雰囲気をかなり和らげた。 4月4日 勅令 101 号「団体等規正令」が公布される。これはポツダム宣言に則って GHQ のめざす軍国主義一 掃・民主化を図るための法令であった。 4 月 10 日 衆議院銀選挙実施。大日本帝国憲法下における最後の総選挙となった。第一党となったのは鳩山一郎 が率いる自由党で、鳩山は社会党、共産党と組んで幣原内閣倒閣を画策した。これに芦田均が呼応して幣 原内閣倒閣の動きを強める。 4 月 22 日 新憲法草案について枢密院での審議が始まる。さまざまな疑義=特に国体変革、第 9 条問題=に対し、 枢密院議長の鈴木は草案を擁護した。 5 月 22 日 新憲法の成立を図ろうとする幣原内閣が総辞職に追い込まれて辞職。新憲法草案について枢密院での 説明を終えた日であった。幣原は、進歩党を率いて吉田茂が総裁を務める自由党との連立を画策した。 後継内閣組閣をもくろむ自由党総裁の鳩山一郎は、GHQ から突如、過去に統帥権干犯問題を引き起こ したことを咎められて公職追放となり、同党総裁を引き継いだ吉田茂が組閣し、第1次吉田内閣が発足。 幣原前首相は国務大臣(憲法担当)に就任した。 大日本帝国議会において 6 月に新憲法案が審議に付され、ただちに審議を開始した。 7 月からは、並行して新「皇室典範」の立案が行われた。 第 9 条については、激しい議論が闘わされた。6月の衆議院委員会では、共産党野坂議員が「自衛のた めの戦争は悪とはいえない。 『侵略戦争の放棄』とする方が適切ではないか」と質問したのに対し、吉田 首相は「近年の戦争は多く国家防衛権の名において行われた。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘 発する」と応えたように、アメリカ側の意向に従わざるを得ない首相は苦しい答弁を続けた。 第 9 条について、この頃から幣原は「決して総司令部から押し付けられたものでなく、私の不動の信 念だ」と述べるようになった。 芦田均議員の提案により、第 2 項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を付け加えた(芦田 修正) 。 その他の条文については、GHQ との攻防を重ねるなかで土地国有制の規定削除、一院制を二院制とす るなどごく一部の改定をしただけでほぼ原案どおりに 8 月 24 日衆議院が可決した。賛成 421 票、反対 8 票(うち 6 票が共産党)の圧倒的多数であった。 憲法第 27 条 1 項の国民に「勤労の義務」を課した条項は、第 90 回帝国議会において日本社会党が追加提案した もの。これは、旧ソ連憲法第 12 条の「ソ同盟においては、労働は『働かざる者は食うべからず』の原則によって労 働能力あるすべての市民の義務であり、名誉である」 (不労所得を否定するのが本来の趣旨)を意識して、民間研究 者らによる「憲法研究会」が 20 年 12 月 26 日に発表した「憲法草案要綱」に「国民は労働の義務を有す」と規定 された案文の影響を受けた規定であった。 GHQ 民政局のベアテ・シロタがこれに理解を示し、 「勤労の義務」規定が追加された。 他の諸国においては、国民の三大義務は、教育を受けさせる義務、納税義務及び国防義務が一般的である。国防 349 義務は、連合諸国により排除された。 次いで貴族院が僅かの修正で可決し(10 月 6 日) 、翌 7 日衆議院が貴族院回付案を可決することによ り、大日本帝国議会における「日本国憲法」の審議が終了した。 11 月 3 日 日本国憲法が公布された。 11 月 15 日 「当用漢字表の実施に関する件」 、 「現代かなづかいの実施に関する件」が内閣告示された。これは、日 本人への英語強制を断念した GHQ が次善の策として“国語改革”として実施したものである。狙いは、 日本語を少しでも素通しに近いものに変形させ、日本語の周辺に漂っている神秘的な要素を一挙に洗い 流してしまうことにあった。この“国語改革”によって、戦前の日本の言語文化は、それ以降の言語文化 と制度的に切り離されてしまうこととなった。 12 月 新「皇室典範」が第 91 帝国議会に提出され、簡単な審議のうえ原案どおり可決され、翌年新憲法施行 にあわせ法律として施行された。 22 年(1947 年)1 月 1 日 天皇が「年頭、国運振興の詔書」 (正式名称は「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ五箇条ノ御誓文ノ御趣 旨ニ則リ官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」 (法令全書版)を発せられる。天皇はその冒頭に、 五箇条の御誓文を自ら発案して挿入され、明治時代から日本には民主主義があったことを示すとともに、 古来の高い精神を忘れずにこの国の未来を築いていくよう、苦難のさなかにある国民に訴えられた。 この宣言の後段に書かれていた「天皇を以って現人神となし、かつ日本国民を以って他の民族に優越せ る民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものに非ず」の一文は、海 外で大きな反響を巻き起こし、 「天皇の地位が神から人間へと歴史的変容を遂げたと報じられた。 この一文は GHQ による〝天皇の神格性を天皇に自ら否定させる“という意図のもと、その主導により作成された。 日本弱体化を図る GHQ や日本の左派勢力は、詔書中のこの部分のみをとらえて、これを天皇の意図を 歪めた形で宣伝し、やがて「天皇の人間宣言」との造語が定着していった。 3 月 31 日 GHQ の指令により、新憲法制定と関連して教育基本法が制定された。これは、事実上、教育勅語に代 わるものであった(正式には 23 年 6 月 19 日廃止)。 同日付で学校教育法も制定され、旧制の中学校、高校が廃止された。 これは、ハーグ条約 43 条「占領者は現地の制度や法令を変えてはならない」に反した行為であった。GHQ が教 育制度を変えた目的は、日本のエリートを壊滅させることにあった。 4月 急軍部批判、「GHQ 救世軍」の風潮の中、戦後初の総選挙が行われ、戦前の立憲政友会の流れを汲む 日本自由党が 140 議席、立憲民政党系の日本進歩党が 94 議席を獲得した。左派の日本社会党は 92 議席、 日本共産党は 5 議席にとどまった。 5月3日 日本国憲法が施行される。 GHQ が日本に対し、こうした一連の旧法の廃止・新法の制定を強いたことは、 「占領者は現地の制度 350 や法令を変えてはならない」というハーグ条約第 43 条に違反した行為であった。 同日付で、改正「皇室典範」及び皇室経済法が施行された。皇位継承については、明治皇室典範と同じ く、 「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定しているが、新皇室典範は皇室の家 法ではなく、国会審議の対象となる一般の法律とされた。 これにより、皇族は財産上の特権が剥奪され、収入が途絶することとなり、また保有財産の9割に対し て財産税が科せられることとなった上、国は各皇族が品位を保たれるに十分な国費を支出することも困 難となった。 10 月 秩父、高松、三笠の 3 直宮家を除く、伏見、山階、久邇、賀陽、朝香、東久邇、北白川、竹田。閑院、 東伏見、梨本の 11 宮家が、皇族としての経済基盤を失ったことから皇籍を離脱した。 これは、GHQ が万世一系を保つのがいつの日か困難になるよう仕組んだものである。天皇は 11 宮家に対し「諸般の事 情により、秩父、高松、三笠の 3 宮家を除き、他の皇族は全員臣籍降下する事情に立ち至った。まことに遺憾であるが、 了承してもらいたい」とのお言葉を伝えられた。 (日本の「戦争犯罪者」を裁く裁判) 20 年 6 月 26 日 ヤルタ協定に基づき、戦争犯罪者を裁くための国際軍事裁判所開設のための協議が米英仏ソ 4 か国の法 曹者により開始されたが、8 月 8 日まで 16 回もの会議を重ねたものの、意見がまとまらなかった。 8 月 29 日 天皇は、木戸内大臣に「自らの退位により、戦争責任者の連合国への引き渡しを取りやめることができ ないか」とご下問になった。 戦犯裁判必至の情勢の中で天皇は、戦争を止められず、敗戦に至ったことに天皇としての「不徳」をお 感じになっていたからである。 9月 8 月 30 日のマッカーサーによる「戦争犯罪者」逮捕の意を受け、顧問のハーバート・ノーマンが「対 敵情報部分析課長」として戦犯リストの作成に当たった。ノーマンは彼が「いままで出会った中で最も進 んだ共産主義者」と認める都留重人(木戸内大臣の姪の夫であった)を起用した。 都留の最初の助言は獄中にいる共産党幹部の釈放であった。これにより徳田球一、志賀義雄、宮本顕治 らが出獄を許された。シナの延安で「岡野進」と名乗っていた野坂参三も自由の身となり、日比谷野外音 楽堂で凱旋将軍のように歓迎された。 9 月 11 日 GHQ が「戦犯容疑者」として 39 人に逮捕令状を発令(第 1 次逮捕)。以降翌年 4 月までの間に 100 人余りの政治家、軍人らが「戦犯容疑者」とされた。 このリストの中には近衛文麿の名はなかった。近衛は 10 月 4 日にマッカーサー司令官から呼び出さ れて「あなたが憲法改正を提案すれば議会もついてくる」と憲法改正案作成の中心人物となるよう、告げ られた。しかし、米国内で近衛を「戦犯」とすべきという声が高まり、マッカーサーは 10 月 11 日組閣 の幣原喜重郎に憲法改正案作成を期待することになった。 9 月 12 日 開戦時の参謀総長、杉山元が拳銃で第 1 総軍の司令官室で自決。 351 9 月 27 日 天皇がマッカーサー司令官を訪問(記述)。国体護持を条件に降伏をしたにもかかわらず、戦犯指定が 広範囲に及ぶだけでなく皇室にまで拡大しそうだったので、これを打開するためであった。 11 月 5 日及び 8 日 ハーバート・ノーマンが GHQ から「戦犯容疑者」の調査を委託されて、近衛文麿と木戸幸一を A 級 戦犯とする意見書をまとめた。木戸については、親交のあった都留重人が縁戚であったことから控えめ な書き方をし、 「戦犯」指名されないと目されていた近衛については、筆法鋭く追及した。 12 月 7 日 近衛文麿元首相、木戸内大臣ら 7 人に対し、GHQ が戦犯として出頭命令を発した。近衛は出頭期限の 同月 16 日未明、青酸カリで服毒自殺した。 12 月 7 日 マニラ軍事法廷において、マッカーサー司令官の部下によって構成された裁判官が山下奉文元陸軍大 将に死刑を宣告。掲げられた罪状は、第 14 軍司令官であった同大将(19 年 9 月赴任)が 20 年 2 月に戦 われたマニラ市街戦においてなされたといわれる「市民虐殺」の責任者だったというものだった。しか し、 「市民虐殺」の事実も立証されないままであった。山下奉文元大将の死刑は 21 年 2 月に執行された。 21 年 1 月 19 日 連合国軍最高司令官マッカーサーが署名した特別宣言書において、極東国際軍事裁判所設置が発令さ れた。この軍事法廷は(戦争開始前から)国際法上認められていたものではなかった。 その第 1 条には次のように書かれていた。 「第 1 条 平和に対する罪又は平和に対する罪を含む犯罪につき訴追せられたる個人又は団体員又は その双方の資格における人々の審理のため、極東国際軍事裁判所を設置す」 これにより、一般には極東国際軍事裁判所が日本の政治指導者たちを訴追する口実が「平和に対する 罪」であるということを知った。 平和に対する罪を振りかざせば、敗戦国の指導者たちを復讐的に断罪するために、戦争を遂行したこと自体を犯 罪と決めつけることが可能になると論理であった。 1 月 22 日 極東国際軍事裁判開廷に向けてロンドンの連合国戦争犯罪委員会が、天皇訴追に最も熱心だったオー ストラリアの代表から提出された 62 人の戦犯リストをマッカーサーに送付した。 戦犯リストの筆頭には裕仁天皇の名前があり、リストは直ちにマッカーサー司令官に届けられた。 マッカーサーは本国から天皇を残すよう訓令されていたが、アメリカ国内の世論も 7 割が何らかの「裕 仁天皇処罰」 (うち死刑を望む声が 33%)を求めており、天皇処遇について頭を痛めていた。そのマッカ ーサーのもとには、国民からの助命嘆願を求める手紙が殺到していた。 1 月 25 日 マッカーサーが「天皇に犯罪行為の明白な証拠はなかったので免責すべし」という電報を陸軍参謀総 長あてに送った。 前年 9 月 27 日に天皇の訪問を受けたマッカーサーは、以降数次の会談によって天皇の態度に深い感銘を受けて 天皇を戦犯として訴追しない意向を固めていた。 2 月 15 日 352 マッカーサーが極東国際軍事裁判を審理する判事 11 人を発表した。判事は、すべて戦勝国から派遣さ れた。うちソ連派遣のザリヤノフ判事とフランス派遣のベルナール判事は法廷で使用された日本語を全 く解しなかった。また、国際法専門家は 2 人だけであった。 ドイツにおけるニュールンベルグ裁判においては、ドイツの法曹関係者も裁く側に参加していたが、東京裁判で は日本の法曹関係者の参加は許されず、この点がニューンベルグ裁判との違いであり、 「勝者の裁き」でしかなかっ た。 2月 マニラ軍事法廷において、17 年 4 月の「バターン死の行進」の責任者として本間雅晴元陸軍中将に対 し、銃殺刑の判決を下した。 4月3日 極東委員会(FFC)加盟の 11 カ国が FFC の非公開了解事項として、天皇不起訴に合意。 4 月 29 日(昭和天皇の誕生日) マッカーサーの制定した条例により設置された極東国際軍事裁判法廷(東京裁判)が日本の戦争犯罪 を裁くため、政治的指導者、軍中枢の者ら 28 人を起訴した。 (A 級戦犯等呼び方について) 開廷 5 カ月前の昭和 20 年(1945 年)12 月 14 日、GHQ 法務部長カーペンター大佐が発表した談話が「星条旗 紙太平洋版」に掲載され、そのときの呼び方が定着した。同部長が発表した 3 階級の区分は次のとおりであった。 A 級=政治的指導者 B 級=軍指揮官で犯罪責任を問われる者 C 級=指揮官以下の犯罪実行者 ドイツのニュールンベルク裁判(1945 年 11 月 20 日開廷)では、戦争犯罪として次の 3 区分が規定されていた。 a 項=平和に対する罪 b 項=通例の戦争犯罪 c 項=人道に対する罪 両裁判とも、訴因には立法上の問題が多く、戦争犯罪区分にも法的な根拠はない。 ニュールンベルク裁判における「平和に対する罪」は、ドイツ降伏後に戦犯を裁くため 8 月 8 日に米英仏ソが「欧 州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」 (ロンドン協定・戦犯協定)を締結したな かで考え出されたものであり(事後法) 、過去に遡って罪を適用しようとしたものである。 昭和 19 年 3 月ロンドンで開催された連合国戦争犯罪委員会にチェコスロバキア法律顧問エチェルは「人種主義 に基づいて、他国の国民を隷属化し、抹殺し、その文明を破壊しているドイツの行為は犯罪的な戦争だ」と告発し た。しかし、その意見は支持されなかった。そのため 9 月開催の連合国戦争犯罪委員会の多数意見は「侵略戦争を 準備し遂行するために行われた人々の行為は、公布されている法律では戦争犯罪ではない」であった(少数意見は シナ重慶政府とオーストラリアのみ) 。 ところが、20 年 5 月にドイツが敗北したとき、強制収容所の実態が明らかになってドイツの戦争遂行と「人種主 義に基づく住民虐殺が表裏一体のものであったことが判明し、連合国側に衝撃を与えた。そこで同年 6 月末から 8 月 8 日まで開催されたロンドン会議(米、英、仏、ソ 4 カ国が参加)において、アメリカの主張を入れる形で「侵 略戦争は戦争犯罪であり、平和に対する罪を構成する」という国際軍事法廷の方針が確立された。 353 したがって、両裁判における区分の意味合いは全く違ったものである。カーペンター法務部長が敢えて階級的呼 称を発表したのは、日本にはドイツのようなホロコースト=人道に対する罪が皆無であることを知り、「階級」と 「罪状」を意図的に混乱させるため、とくに C 級=c 項として日本に残虐行為があったと印象づけるためであった。 なお、東京裁判法廷の判決においては、c 項該当とされた者は一人もいなかった。 (被告の選定について) 文官で起訴された者の中に、広田元首相と重光元ソ連大使があった。連合国側は当初近衛元首相を起訴するつも りであったが、前年 12 月 6 日に出頭命令を受けた近衛が同月 16 日、服毒自殺をしたため、その代わりとして広田 元首相が A 級戦犯として起訴された。広田はこれに従容として従い、一切抗弁をしなかった。 重光元ソ連大使については、4 月 13 日になって漸く東京に到着したソ連代表検事が強硬に主張して A 級戦犯に 加えられた。これは、張鼓峰事件勃発時、ソ連大使として停戦交渉にあたった重光への意趣返しと言われている。 5月3日 極東国際軍事裁判(以下、簡略に「東京裁判」とも記載する)法廷が開廷され、J.キーナンを首席検察 官とする検察側は 10 項目の訴因を上げた。 これに対し、清瀬一郎弁護団副団長は審理4日目の 5 月 13 日、冒頭陳述のはじめに、「“戦争犯罪人” というのはポツダム条項において初めて規定されたもので、それ以前にはそのような概念はなかった。 したがって、当裁判所には同条項を根拠として裁判をなす権限はない」として、法の不遡及原則を訴える とともに、次の 2 点を強調して検事の求刑を批判した。 1 被告を含む日本国家が 17 年にわたって国際法的な犯罪を実行した(共同謀議)という検察官の主 張を否定する。 2 主権ある国家が主権の作用としてなした行為に関して、ある者が個人的に責任を負うということ は、国際法の原理としては成立していない. 日本の戦争遂行には「人種主義」などは存在せず、国際法の下で戦ったこと、民族絶滅政策などの陰りは全くな かったことは明白であった。 翌 14 日、 米陸軍少佐として日本に進駐し、被告側弁護人を務めることとなったブレイクニー弁護士は、 日本側弁護人として、法廷に対し裁判の審理に入ることなくこれを門前払いするよう迫って、次のよう な弁論を行った。 「戦争に関して国際法があることは戦争が合法であるということだ。したがって戦争での殺人は罪 にならず、それは合法的な人殺しなのだ。真珠湾攻撃におけるキッド提督の死を殺人というならば、 私たちは原爆投下を計画した参謀総長の名前を知っている。そのことについて責任のある国の元首を 知っている。 こういう人たちには、殺人罪を犯しているという意識があっただろうか。そうではあるまい。そう いう行動がそもそも殺人罪を構成しないからである。」 この部分は英語速記録に記録されてはいたが、日本語速記録には「翻訳なし」として記録されていなかった。 日本語への同時通訳が中止させられたからであった。日本人には昭和 57 年の映画「東京裁判」に使われた音声 によって初めて聴取された。 以降、翌年 1 月 24 日まで 8 カ月にわたって延々と訴追理由が述べられたが、訴追理由を述べる際に検 察側証人が偽証罪に問われることはなかったから、検察側からは確たる証拠もなしに種々の主張がなさ 354 れた。 『南京大虐殺事件』なども同裁判において初めて出てきた。 開戦時の首相だった東條英樹は口述書において「この戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反 せぬ戦争なり」 「しかし、敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である」と書いた。 なお、この間の審理において、ソ連検事側の証人として開戦時、参謀本部作戦課班長代理の瀬島隆三が 日本を告発した。ソ連は検事側の証人として 3 人の日本軍人を選んだが、うち一人は自殺し、もう一人 は悶死、瀬島だけが証言台に立ち、祖国を告発した。 弁護団側は、ウェッブ裁判長によって陳述文の読み上げを禁止されたり、提出した証拠の大半が却下さ れるなどした。 この裁判や法定のあり方に批判的な弁護人も、正当な弁護活動から除外された。例えば、広田弘毅の弁 護人スミスは、ウェッブ裁判長の偏った訴訟指揮を「不当なる干渉」と述べたために、また、大島浩駐独 大使の弁護人カニンガムは、シアトルで開催された全米弁護士大会に出席した折に「東京裁判は連合国 による報復と宣伝に過ぎない」と発言したために、それぞれウェッブ裁判長から除籍された。 同裁判長は、日本への憎悪を隠そうともせず、訴訟指揮権を盾にやりたい放題であった。したがって弁 護側は反論の術もないというなかで裁判が進められた。 昭和 22 年 5 月 1~2 日 山形県酒田市で証言者として病気療養中の元関東軍作戦主任参謀・石原莞爾を尋問するための臨時法 廷が開催された。目的は、 「日本が満洲事変前後から共同謀議を重ね、他国を侵略し『平和に対する罪』 を犯した」ことを立証するためであった。東條英機と犬猿の仲であった石原は意図的に起訴対象から外 されていた。 石原は冒頭から「満洲事変はすべて自分が中心となって行った」旨の証言をし、自分を戦犯として連行 しないのは腑に落ちない」と主張した。また、当時の満洲情勢について「一触即発、あたかも噴火山にあ るままに放置されていた」と証言し、 “満洲を武力で侵犯した”としたい、とする米国人ダニカン検事の 尋問を論破した。 12 月 19 日 東條元首相が口供書「東條口供書」を法廷に提出。同月 26 日、東條元首相が証言台に立ち、口供書が 3 日間にわたり読み上げられた(英訳文) 。以後、キーナン検事による反対尋問が続いた。 「東條口供書」において、東條元首相は、次の 2 点を強調した。 1.法律的には、この戦争は自衛戦であり、現時承認されている国際法には違反しない戦争であった。し たがって、わが国が国際犯罪として勝者より訴追され、また敗戦国の適法なる官吏が個人的に国際法 上の犯人として糾弾されるなど考えたこともない。 2.敗戦の責任については、当時の総理大臣であった私の責任である。 なお、弁護側尋問の際、次のように述べた。 「もし米国が真に太平洋の平和を欲し、譲歩を持って臨み、 (和平最終案として日本が示した)乙案の条 件を受け入れておれば、真珠湾攻撃に始まった開戦はなかったであろう。 」 昭和 23 年(1948 年)1 月 6 日 キーナン検事による尋問において、被告人東條元首相は天皇の戦争責任に関して次のように答弁した。 355 「御意思と反したかも知れませんが、とにかく私や統帥部の進言によって、しぶしぶ(開戦に)御同意 になったのが事実でしょう。平和愛好の御精神で、最後の一瞬まで陛下はご希望を持っておられました」 この証言により、天皇の免罪は確定的となった。 1月7日 ウェッブ裁判長指揮による尋問が終了。 4 月 15 日 弁護側最終弁論が行われ、当日と翌 16 日に検察側が反駁して審理が終わった。 最終弁論においてローガン弁護人は、日本のとった行為は自衛戦争であるとして、次のように述べた。 「パリ不戦条約の共同草案者の一人であるケロッグ国務長官(当時)が記者の質問に答える形で 『 (アメリカが昭和 16 年夏にとった)経済封鎖は、パリ不戦条約に照らして断然戦争行為である』 と発言したことが議事録に残されている」 そのパリ不戦条約において決められた戦争放棄条項は、自衛のための戦争を除いており、また戦争に関して個 人が責任を負うべきとする何らの規定もなかった。 11 月 12~16 日 東京裁判法廷が判決文読み上げ。東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、武藤章、松井石根、 広田弘毅の 7 人を絞首刑に、16 人を終身刑に、2 人を有期禁錮刑に処した。 「A 級戦犯」として起訴され た 28 人の中に海軍出身者は 3 人いたが、絞首刑の判決を受けた者は誰もいなかった。 懲役 20 年の刑に処された元外相東郷茂徳は、獄中で病死したが、 「いざ児らよ 戦うなかれ戦わば 勝つべきも のぞ夢な忘れそ」との遺言歌を残した。東郷は本名、朴茂徳、外相に登用されて国のために専心尽くした人であっ た。 11 人の判事のうちインドから選ばれ、国際法学位を有していたパール判事は、判決文より長文の意見 書を提出し、被告全員を無罪とすべきと主張した。オランダから選ばれたもうひとりの国際法専門家ロ ーリング判事は、判決の 4 か月前に、ニュールンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようと する多数派の判事たちを批判する内容の手紙を友人に送っていた。 ローリング判事は、重光・東郷両外相経験者や広田元首相ら4人は無罪だと主張した。理由は「平和を 探求するために入閣し、その避けがたい結果として開戦の決定に従ったのなら、その人は攻撃的意図を もった者として糾弾されることはできない。もし外交官が戦時内閣に入ればそれは戦犯の連累であると の原則が打ち立てられれば、今後起こりうる戦争の際に、戦争終結のために働く外交官はいなくなるだ ろう」というものだった。 また法廷おける被告の態度についてローリング判事は「被告らは自身の運命には拘泥せず、国家、天 皇、日本の名誉を守ることに主眼を置いていた」と観じ、ニュールンベルグ裁判における被告との違いを 指摘した。 東京裁判に並行して、連合国戦争犯罪委員会、同委員会極東太平洋小委員会、イギリス軍を主体とする 連合軍東南アジア司令部、ソ連、オランダなどが、国内、中国(重慶、南京など)、インドネシアその他 アジア各地で「B 級戦犯=戦時国際法に違反した通常の戦争犯罪を犯した軍指揮官」又は「C 級戦犯=戦 争犯罪を犯した指揮官以下の者」として 1 万人を超える者(日本国籍者。なかには台湾や韓国出身者も いた)を逮捕し、十分な審理も尽くさずに判決を下した。B、C 級戦犯として死刑に処された者は1千名 356 を超えた。 23 年(1948 年)12 月 23 日(明仁皇太子=平成天皇の誕生日) 東京裁判において死刑の判決を受けた東條英機ほか 7 人の死刑を執行。なお、A 級戦犯として起訴さ れた南京攻撃軍の総司令官であった松井石根大将は、シナにおける「虐殺」の責任を負わされ、B 級戦犯 として死刑に処された。 日本の指導層は満洲事変勃発の 1931 年から対米戦争を起こした 1941 年まで“侵略戦争を企てた”罪で裁かれた が、この 11 年間に内閣は 12 回も交替していた。対してアメリカでは、ルーズベルトが 1933 年以来、9 年間も大 統領の座にあった(1945 年春に死去するまでを数えると 12 年) 。 なお南京の軍事法廷においては、既に南京攻撃軍の師団長の一人であった谷寿夫中将が同じく B 級戦 犯として死刑に処されていた。 この年(1948 年) 、アメリカで歴史学の権威チャールズ・ビーアド博士が公式資料に基づいて「ルーズ ベルト大統領と日米戦争」を発表し、 “日米戦は、好戦的な大統領の周到な準備で日本を挑発し、仕掛け た謀略、つまり米の一方的な侵略戦争であった”と同大統領を痛烈に批判した。 これを読んだ若き詩人コーエンは、わざわざ来日して巣鴨処刑場跡の記念碑の前で次の詩を書き残し て日本の指導者に詫びた。 「ああ、アメリカよ、汝は法を曲げ、正義を踏みにじった。ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカ ーン、今黄泉にて汝の非道に涙す」 同じ年、ヘレン・ミアーズが「Mirror for Americas: JAPAN」を出版した。1946 年 2 月 GHQ 労働局 諮問委員会委員 11 人の一人として来日し、日本の一連の労働法策定に携わるとともに、GHQ の内部情 報に直接触れた彼女は、帰国後に同書を著した。 ミアーズによれば「日本が目指した『大東亜共栄圏』は、すでに欧米植民地主義による『共栄圏』にな っていたのであり、大東亜戦争は日本がアジアを代表して植民地宗主国連合に対する『革命戦争』だった のである。したがって、日本に対して行っていた米国の姿というものは、日本という鏡に映った欧米列強 自身の姿にほかならない」ということである。 同書の日本語版はマッカーサーにより出版禁止とされ、ようやく昭和 28 年に「アメリカの反省」 (原 百代訳)という題で日の目を見た。日本敗戦の 50 年後、ミアーズの著書の日本語版は「アメリカの鏡・ 日本」 (伊藤延司訳)として再出版され、以降版を重ねている。 この東京裁判をはじめ、日本人に対する戦争裁判は、米、英、蘭、豪、仏、中(後、中華人民共和国) 、 比の 7 か国及びソ連によって行われた。ソ連による戦争裁判は明らかになっていない。その他の国につ いては、次のとおりである(角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」新潮文庫より) 訴追された総人員 有罪の内訳 5,487 人 死刑 937 人 →有罪 4,370 人 終身刑 335 人 有期刑 3,098 人 有罪の中には、元日本軍積にあった者、軍属、傭人、軍夫などであった朝鮮人、台湾人 326 人も 含まれる。その中で、刑死、獄死した数は、朝鮮国籍 23 人、台湾国籍 29 人。 戦争裁判が行われた場所は、50 か所以上で、最初に法廷が開かれたのは比国における山下奉之将軍に 対するものであった。 (マッカーサーによる日本国民キリスト教徒化諸施策) 357 22 年 4 月(1947 年)末 マッカーサー最高司令官がキリスト教プロパガンダ推進のため、本国ネブラスカ州で「少年の町」とい う自立厚生施設を作った社会事業家のフラナガン神父を招へいした。表向きは 13 万人を超える戦災孤児 救済のためであったが、フラナガン神父の企画により民間情報局は 6 月、NHK 幹部を呼び出し、神父の 企画をドラマ化するよう命じた。 同神父が 5 月 27 日に共立講堂で行った講演を機に「聖心女子大」の建設後援会が立ち上げられた。後 援会名誉総裁にはマッカーサーが就任した。後、23 年には国際基督教大学の設立準備会が発足したが、 その設立資金募集委員にもマッカーサーの名があった。 また同神父は 6 月末の帰国前に「共同募金」の提案をし、これは同年秋から始まった。 7月5日 フラナガン神父の企画、菊田一夫脚本によるドラマ「鐘のなる丘」のラジオ放送が始まる。ドラマ放送 は 790 回に及び、大人気となって聴取率は 90%に達したこともあった。「鐘のなる丘」に通底していた のはキリスト教による「慈愛と救済」であった。 23 年 6 月 7 日 マッカーサー最高司令官によりローマ法王ピオ 12 世の特使として招へいされたスペルマン枢機卿が 来日した。スペルマン枢機卿は翌々日、天皇に拝謁した。 皇室もキリスト教の影響を深く受け、高松宮は外国記者団の前で、キリスト教こそ道徳の荒廃から日 本を救い、新生日本の礎になると語ったほどであった(東京新聞 23 年 1 月 10 日) 。 (戦後賠償) 敗戦の日本を鞭打つように各国が戦争で被害を受けたと日本に賠償金支払いを求めた。 その中には、永世中立国のスイスや三国同盟の仲間であったイタリアもあった(イタリアは途中で連 合国側に組した) 。 フィリピンは強硬で時の大統領キリノは、日本に高額の賠償金を支払わせるため、モンテンルパに囚 われていた B、C 級戦犯を 14 人の絞首刑を執行した。 カンボジアのシアヌーク国王は「フランス人の支配を終わらせてくれた。むしろ感謝している」と賠償 金請求権を放棄した。中華民国主席・蒋介石も請求権を放棄した。 (天皇の戦争責任論) 23 年(1948 年)5 月 最高裁長官三浦忠彦が週刊朝日誌上の対談で「陛下はなにゆえに自らを責める詔勅をお出しにならな かったか」との発言を行った。極東軍事裁判の判決約半年後のことであった。 この発言から、ロンドン発ロイター電が「降伏の記念日たる 8 月 15 日に天皇の退位が行われるであろ う」と配信し、内外で天皇退位論に火が付いた。 6月9日 東大総長南原繁が中華民国中央通信社のインタヴューにおいて「私は天皇が退位すべきと思う」との 発言を行い、これを国内各紙が転載し、 「教養の高い日本人は(中略)一致して天皇の退位に賛成してい る」と書いた。これに芦田首相までもが日記に「私には(天皇退位に関して)決心ができている」と浮足 立った。 358 8月 読売新聞が天皇の制度について世論調査を行った。退位問題について「在位された方がよい」が 68.5% に上り、 「皇太子に譲られた方がよい」18.4%、 「退位されて天皇制を配した方がよい」は 4.0%に過ぎな かった。同年 11 月に朝日新聞が掲載した指導者層対象の調査では、ほぼ半数が退位に賛成との結果であ った。 9月 GHQ が UP 通信を通じ、次の見解を明らかにした。 1 天皇は依然最大の尊敬を受け、近い将来天皇が退位されるようなことは全然考えられていない。 2 天皇退位のうわさは共産党や超国家主義者の宣伝によるものである。 3 現在の天皇が今後長く統治を続けることが日本国民及び連合国の最大の利益に合致する。 この発表により、天皇退位論は沈静化し、翌年 5 月からは天皇の地方巡幸も再開された。 (本稿は、 「ふりさけみれば」引用の時事新報等にによる) (中華人民共和国の成立と朝鮮戦争) 国内では、復活した日本共産党及びこれと共闘する朝連(在日本朝鮮人連盟)による騒擾事件が多発し ていた(48 年においては、うち 83%は朝連によるもの) 。アメリカ本国においては、日本をこのまま放 置すればソ連により東欧の諸国が共産化された欧州と同様に日本も共産主義に侵食される恐れがあると の懸念が高まっていた。 敗戦により日本の影響力が失われたシナ大陸では、1945 年 8 月シナ共産党軍とソビエト軍とが、先ず 日本が放棄した満洲を抑えようと旧満洲国内に進駐し、11 月 2 日にはシナ共産党軍が国民政府軍に対す る大攻勢に出て内戦が再開された。 国共両軍による内戦が本格化したのは、ソ連軍が新京から引き揚げた 1946 年 4 月であった。 毛沢東は 1940 年、共産党への支持層を拡大するため「新民主主義論」を発表した。そこでは、巧みに孫文の「三 民主義」をとりいれた共産主義革命理論を展開し、共産党による一党独裁を否定した。 21 年(1946 年)2 月 3 日 かつての満洲国通化市でシナ共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊によるシナ人及び日本人への虐殺事 件が起きる。前月 21 日には、共産党軍の手により、旧満洲国通化市の幹部(日本人及びシナ人)が市中 引き回しの上、公開処刑されていた。 国民党軍の要請に呼応した日本人が共産党軍に対して蜂起したところ、共産党軍と朝鮮人民義勇軍に より鎮圧され、拘束された日本人約3千人が5日後に拷問、凌辱、暴行の上、虐殺された。 23 年(1948 年)2 月末 アメリカ国務省の G.F.ケナンが、日本の共産化防止策を携えて来日。国務省に非協力的であったマッ カーサーと幾度もの打ち合わせをして政策・施策の転換で一致した。しかし、マッカーサーは日本の再軍 備については「アジアのスイスを目指す」との考えから譲らなかった。朝鮮半島におけるソ連、北朝鮮の 攻勢を見抜けていなかったからである。 24 年(1949 年)9 月 8 日 法務府特別審査局が相次ぐ騒擾事件に対処するため、朝連のほか、在日本朝鮮民主同盟、在日本大韓民 359 国居留民団宮城県本部、大韓民国建国青年同盟塩釜本部に対し、団体等規正令を適用し、それぞれに解散 命令を発した。 元々軍国主義の一掃と民主化のためにつくられた団体等規正令が「暴力主義的及び民主主義的」とみられた左翼 団体(主に共産党)を標的に援用された。国内に多発した騒擾事件が不穏な朝鮮半島情勢に連動するものであった からである。 同月 北京で第 1 回シナ人民政治協商会議開催し、翌月の 10 月 1 日、シナ共産党主席・毛沢東が天安門の壇 上で中華人民共和国(以下「中国」と記載)の建国を宣言した。その際、東トルキスタン共和国も中国の 版図に入れられて新疆ウイグル自治区とされた。 共産党は満洲を抑えることにより経済基盤を確立し、次第に国民政府軍を圧倒して遂に蒋介石政権を 打倒した。 その後、1958 年に制定された中華人民共和国憲法では、共産党の指導性が謳われており、毛沢東が「新 民主主義論」において主張した「シナ共産党による一党独裁の否定」、 「労働者・農民・勤労知識人の革命 的諸党派による連合独裁」の精神は、反古にされた。 毛沢東は「清の版図は漢族のもの」という主張を引き継ぎたいがために、孫文が 1912 年 1 月 1 日に中華民国建 国時に行った演説の言葉を国旗にも取り入れた。すなわち「五星紅旗」であり、それは宗主国支那を示す大きな星 に、4つの植民地国家―満洲、モンゴル、新疆、チベットの小さな星が隷属する姿を示している。 なお、蒋介石が率いていた南京国民政府は中国建国後の 11 月に一時成都に遷都した後、12 月に台北に遷都した。 これにより、シナ大陸への経済進出を目指したアメリカの目論見が完全に挫折した。なお、1949 年 1 月に総統を辞 職していた蒋介石は、1950 年 1 月、台湾において中華民国大総統に復職した。 中国の建国直後、同国共産党の軍隊である人民解放軍がウイグルに侵攻して占領し、支配下に入れた。 同軍は、翌 1950 年(昭和 25 年)にはチベットにも侵攻し、支配下に入れた。翌年、中国政府はチベ ット政府代表を北京に呼び、チベット政府との間に「17 カ条協定」の締結を強いた。協定締結後、人民 解放軍はチベットの首都ラサに侵攻し、ダライ・ラマ 14 世に同協定を承認させた。 なお、1959 年のチベット動乱の際、チベット政府は国外に脱出し、インド北部で臨時政府(亡命政権) を樹立して今日に至っている。 24 年末 駐日ソ連代表部が日本共産党首脳に対し、武装蜂起司令「コミンフォルム司令第 172 号」を手渡した。 そこには日本で武力による日本の共産化計画が詳しく指示され、一斉武装蜂起の予定日を翌年 8 月 15 日 から 9 月 15 日の間としていた。 25 年(1950 年)1 月 米国のアチソン国務長官が、アリョーシャン列島~日本列島~沖縄~フィリピンに至る「不後退防衛 線」への侵略に対しては断固として対応する旨の声明を発表。この「防衛線」には朝鮮半島及び台湾は含 まれていなかった。そのため朝鮮戦争を誘発した、との指摘がある。朝鮮戦争は、同声明の 5 か月後に起 きた。 2 月 14 日 中国とソ連との間に中ソ友好同盟相互援助条約が締結された。毛沢東は、この条約について「日本及び 360 これと結託する国家による侵略を防止するため」と称していた。 この同盟の裏には、朝鮮戦争への準備が隠されていた。 (安部南牛「日本も戦場だった朝鮮戦争」正論 H27 年 6 月号より) 5月1日 皇居前広場で日本共産党指導による騒乱事件「人民決起大会」が起きる。暴徒は警備にあたった米兵を 大会後、お堀に投げ込んだ。 このため、GHQ が日本共産党と「アカハタ」の幹部を追放し、 「アカハタ」を永久発行停止処分にした (日本の独立後の 27 年 4 月、 「GHQ の処分は無効になった」として復刊) 。 6 月 25 日 早暁、北朝鮮軍が 10 万の兵力で 38 度線を越えて韓国領内に侵入し、朝鮮戦争が勃発(~53 年)。最 初の 3 日間で訓練のできていない韓国軍は総崩れとなった。 ここに至ってようやくアメリカは、真の脅威は国際共産主義で「日本さえ潰せば…」が間違いであった ことに気付いた。 アメリカにとって開戦の報は 24 日土曜日に届いたが、翌日、日曜日にもかかわらず直ちに国連の安全 保障委員会の開催を求め、国連軍の組織を提案した。国連の安全保障委員会にはソ連が欠席し(すなわち 国連軍の組織を承認。当時、ソ連は中国共産党により台湾に追われた蒋介石の国民政府が国連に代表を 送っていることに抗議、全ての会議をボイコットしていた。) 、英軍、豪を中核とした英連邦軍、ベルギー 軍による連合軍結成が承認された。 トルーマン大統領は、国連軍総司令官に GHQ 最高司令官マッカーサーを任命した。 しかし、韓国は同月 28 日にはソウルを占領され、同国政府は水原に遷都を強いられた。連合軍は朝鮮 半島に上陸、展開したものの 7 月には釜山近傍まで押し込まれるほどの苦戦を強いられた。このため日 本駐留の米軍は朝鮮半島に移動した。 7月8日 GHQ マッカーサーが吉田首相に書簡を送り、日本列島に生じた警備上の空白を埋めるために再軍備を 要請した。吉田首相はこれに応じて警察予備隊(定員 75,000 人)が創設することとし、海上保安庁も 8,000 人の定員増を図った。27 年 4 月には海上警備隊も創設された。 9 月 10 日 マッカーサー司令官の主導により、国連軍が仁川上陸作戦を敢行し、劣勢を挽回。国連軍は、その後、 北上を続け、10 月には北朝鮮軍を中国との国境の鴨緑江にまで追い詰めた。 同月 日本と連合国との平和条約締結に向けての動きがこの頃から始まった。 その際、外務省が「平和条約想定大綱」に関して作成した文書には「1.日本がドイツ及びイタリアと 同盟して侵略戦争を始め、その責任を分担していること。2.日本が無条件降伏し、降伏文書に署名したこ と」という記載があった。 外務省は、京都大学田岡良一教授(国際法学及び外交史)の精緻な研究に基づき、昭和 21 年 3 月 17 日付の外務 省総務課文書において「ポツダム宣言受諾による日本の降伏は、無条件降伏とはいえない」と記載して以来その見 解を踏襲していたが、突然基本見解を 180 度変更した。その理由は不明。推測としては、平和条約締結を最優先し て発言力の高い国々からの圧力に応じたものであろう。 361 10 月 朝鮮戦争勃発により、共産勢力が世界共産革命化を目指していることを思い知らされたマッカーサー が、ウェーキ島でトルーマン大統領と会見した際、 「東京裁判は誤りだった」と告白した。 10 月 19 日 平城を制圧した後、中朝国境まで迫った国連軍に対し、毛沢東が朝鮮戦争に参戦する決定を下し、中国 人民解放軍部隊を義勇兵「名称は中国人民志願軍」 (司令官:報徳懐)として組織した。その数は何万人 にも達した。 11 月 11 日 中国がアメリカへの宣戦布告を公然と表明し、攻勢を強めた。4 日後の 14 日にはスターリンもソ連軍 の秘密裏参戦を命令した。 その後、砲火を浴びても自軍の屍を乗り越えて前進してきた中国人民志願軍の勢いに、国連軍は後退を 余儀なくされ、ソウルは北朝鮮・中国人民志願軍により再占領され、戦況は一進一退を繰り返した。 国連は中国に対し「侵略者」の烙印を押した。そのため、中国は日本の独立を認めるサンフランシスコ 条約には参加できなかった。 戦線が膠着したため、マッカーサーは中国軍に対する核兵器の使用を主張したが、本国政府から退けら れた。 (マッカーサー証言) 26 年(1951 年)4 月 11 日 トルーマン大統領がマッカーサーGHQ 司令長官を解任した。これは、マッカーサーが自らの命令を無 視して北上を続けたため中国の参戦を招いたこと及び中国軍に対し核攻撃を主張したことがその理由で あったと言われる。同月 19 日、上下院合同会議でマッカーサーは退任演説をし「老兵は死なず。ただ、 消えゆくのみ」の言葉で締めくくった。しかし、マッカーサーの内心は解任したトルーマン大統領に猛烈 な対抗心を燃やし、共和党から大統領選挙に打って出るつもりであった。 5月3日 アメリカ上院軍事外交合同委員会の聴聞会に招致され、大統領選出馬には有利と判断したマッカーサ ーはこれを快諾し、トルーマン政権に打撃を与えるつもりで、次のとおり、大東亜戦争は侵略戦争などで はない旨の発言を行った。 「日本は四つの狭い島々に8千万人に近い膨大な人口を抱えていた。…日本の労働力は質的にも量 的にも優秀である。・・・日本の労働者は、労働の尊厳というものを発見していた。これほど巨大な労 働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味する。… しかし、日本には綿がない、羊毛がない、石油がない、錫がない、ゴムがない、絹産業以外には固有 の産物はほとんど何もない。その全てがアジアの海域に存在していた。 「もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、1千万から1千2百万の失業者が発生するであろう ことを彼らは恐れていた。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分は安全保障の 必要に迫られてのことだった」 また、次のようにも言葉を続けた。 「過去 100 年間に太平洋地域で我々が犯した最大の政治的過ちとは、共産主義勢力をシナで増大 するのを許してしまったことである、というのが私の個人的な意見である…。これは根本的な問題 362 であり、次の 100 年間に代償を払わなければならないだろう」 しかしこの証言は、内容がその通りであれば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争をしたことになり、アメリ カの対日戦争の前提を根底から覆すことになり、ひいては極東裁判まで正当性を失ってしまうこととなるばかりでな く、5 年 8 か月にわたって日本を占領統治し、 「民主化」と「非軍事化」とを成し遂げたというマッカーサーの業績さ え否定しかねないものであった。このため、この発言は共和党の期待を裏切り、マッカーサー人気は急速にしぼんで いった。 同月 アメリカ統合参謀本部が「ソ連軍に、日本本土侵攻が切迫しているとみられる行動がある」旨の情勢分 析を行う。 マッカーサーの後任であるリッジウェイ GHQ 司令長官が日本政府に対し、警察予備隊の陸上兵力を 翌年に 8 個師団 16 万人に、やがては 10 個師団 32 万 51 千人に増強するよう迫った。吉田首相はこれに 断固抵抗し、交渉の結果、アメリカは要求兵力を 18 万人に抑えることとし、さらに同首相とリッジウェ イとの間で「とりあえず 11 万人、翌年に 13 万人とする」ことで折り合いがつく。 同年(1951 年)9 月 8 日 連合国 49 カ国との間にサンフランシスコ講和条約締結。49 カ国の中で、この条約には中華人民共和 国が参加していない(朝鮮戦争の項参照)ことを理由として反対し、参加しなかったのはソ連、ポーラン ド、チェコスロバキアの共産圏3国だけであった。 同時に日米安全保障条約が締結された。条約締結は、日本からの申し入れによるもので、日本は双務的 な条約を希望したが、アメリカは、防衛力のない日本とはそのような条約は結べないとして、日本がアメ リカの国際軍事体制の中に入るという形の条約となった。 前文 日本に独自の防衛力が充分にいないことを構築されていないことを認識し、また国連憲章が各国に自 衛権を認めていることを認識し、その上で防衛用の暫定措置として、日本はアメリカ軍が日本国内に駐 留することを希望している。また、アメリカ合衆国は日本が独自の防衛力を向上させることを期待して いる。平和条約の効力発行と同時にこの条約も効力を発効することを希望する。 第一条(アメリカ軍駐留権) 日本は国内へのアメリカ軍駐留の権利を与える。駐留アメリカ軍は、極東アジアの安全に寄与するほ か、直接の武力侵攻や外国からの教唆などによる日本国内の内乱などに対しても援助を与えることがで きる。 第二条(第三国軍隊への協力の禁止) アメリカ合衆国の同意を得ない、第三国軍隊の駐留・配備・基地提供・通過などの禁止。 第三条(細目決定) 細目決定は両国間の行政協定による。 第四条(条約の失効) 国連の措置または代替されうる別の安全保障措置の効力を生じたと両国政府が認識した場合に失効す る。 363 第五条(批准) 批准後に効力が発効する。 (日本の主権回復。交戦国との国交正常化) 27 年(1952 年)4 月 28 日 サンフランシスコ講和条約発効、日本国が主権を回復。 日本がこの条約に調印することにより、アメリカが日本に軍事プレゼンスを続けることが確定した。ま た、GHQによる検閲は廃止されたが、国内にはその後も日本人自身による「自己検閲」が残った。 [北方領土について] 講和条約締結国に対して日本は、南樺太と千島列島の領有を放棄することを約したが、ソ連に帰属 することが決したわけでもない。したがって、ロシアとの間では、まだ帰属が未確定である。 江戸時代から樺太において日露間に紛争が絶えなかったことから、明治 8 年に帝政ロシアとの間で「千島・樺太 交換条約」が締結され、千島列島のすべて日本領、樺太全島がロシア領と定められた。その後、日露戦争終結後の ポーツマス条約において、南樺太(北緯 50 度以南)は終戦まで日本領となっていた。 8月5日 台湾の中華民国政府との間で結ばれた日華平和条約が発効。前年のサンフランシスコ講和会議に招請 されなかった台湾は、この年の 4 月 26 日に日本との間で同条約に署名した。 このとき、蒋介石は「暴をもって暴に報いず」として対日賠償を放棄した。しかし、その後、日本に多 額の「経済協力」を行わせた。 28 年(1953 年)12 月 24 日 奄美群島の返還協定が締結され、奄美大島本島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島などが日本に復 帰。約 22 万 5 千人の島民が鹿児島県民となった。 こも返還は、同年 8 月 8 日にダレス国務長官が吉田首相との会談直後の発表に基づくもので、アメリ カの意図は日本に浸透する共産主義勢力に対抗して親米的雰囲気を作り出そうとすることにあった。奄 美群島は沖縄に比べて戦略的価値が低いことも、その理由のひとつであった。 31 年(1956 年)5 月 政府が「国防の基本方針」を決定し、陸海空三自衛隊の整備に着手した。 10 月 19 日 日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言が調印された(発効は同年 12 月 12 日)。これによ り両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。 12 月 18 日 日本が国連に加盟を認められる。全権代表の重光葵(1945 年 9 月 4 日、ミズーリ号船上で、降伏文書 に調印した。後には東京裁判で有罪の判決を受けた。)が「これからは日本が世界の懸け橋になる。 」と演 説した。帰国後、重光は程なく倒れて亡くなった。国連に集っていた各国代表は、その報に接して重光に 黙とうを捧げた。 35 年(1960 年) 第 1 次日米安全保障条約改定交渉。国内で大反対運動・デモが起こり、デモ隊の国会突入という事態ま で起こった。 364 日本はアメリカとの同盟を維持するか、ソ中陣営に入るかの岐路に立った。 岸首相は日米安保改定を貫き、5 月 19 日に衆議院で強行採決を行い、6 月 18 日深更自然成立となっ た。批准の後、国民を巻き込んだ政治混乱の責任をとって、岸首相は退陣を表明、7 月 15 日に総辞職し た。その直前、岸首相は暴漢に襲われて瀕死の重傷を負った。 この改訂により、条約は 10 年間の時限条約とされ(その後は自動延長。ただし、一方は 1 年前に廃止 の通告ができる) 、日本は条約の一部に双務性を実現して、今日に至っている。 40 年(1965 年)6 月 22 日 「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」が締結され、日韓国交正常化が成った。 交渉において韓国(李承晩大統領)は「個人への補償は韓国政府が行うので日本は韓国政府へ一括し て支払って欲しい」とし、現金合計 21 億ドルと各種現物返還を請求した。しかし日本はこれを拒否し、 その後、請求額に関しては韓国が妥協して、日本は前述の記載通り独立祝賀金と途上国支援として無償 3 億ドル(1ドル=360 円) 、有償 2 億ドル、民間借款 3 億ドルの供与及び融資を行った。一方で日本は、 併合期間中に朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄した。 なお交渉過程で、日本が朝鮮を統治している時代に朝鮮半島に残した 53 億ドル分の資産は、朝鮮半島 を占領した米ソによってすでに接収されていることが判明しており、日本はこれらの請求は行っていな い。 日本は、国交正常化後も韓国に対し、多額の政府開発援助 (ODA)を行っている。 47 年(1972 年)5 月 25 日 沖縄がアメリカから返還された。これは、2 年前の佐藤首相とニクソン大統領との話し合いに基づくも のであった。国際的には極めて例の少ない「武力行使によらない」領土返還であった。 同年 9 月 29 日 北京で田中首相(同年 7 月 7 日就任)と中国・周恩来首相との間で「日本国政府と中華人民共和国政 府の共同声明」 (日中共同声明)が調印された=日中国交正常化。 この「国交正常化」は、朝鮮戦争において国連から侵略者とされた中国がサンフランシスコ条 約に参加を認められなかったことから、約 20 年なされなかった日中間の戦後処理を実行するも ので、平和友好条約の締結をめざすものであった。 同年 2 月のニクソン米大統領の訪中による米中接近に刺激されて、田中首相が「バスに乗り遅 れるな」と交渉を急いだため、中国側の注文通りに進められた。その際、前年にわかに中国が領有権を主 張しだした尖閣諸島について、わが国は周首相の提案に応じて一切の論議を避ける配慮をした。 その「共同宣言」には次の条項がある。 日本国政府は、中華人民共和国政府(共産党政権)が中国の唯一の合法政府であることを承認 する。 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄 する 同時に北京で公表された大平外相の談話によって、わが国は中華民国(台湾)との間の日華平和条約を 一方的に破棄し、同国との国交を断つこととなった。一方で日本政府は直ちに台湾に、大使館に代わる 「交流協会」を設け、事実上の大使を交換して関係を保っている 365 以後、わが国は中国に対して多額の政府開発援助(ODA)資金、超低金利の円借款、様々な経済協力 を行った。 なお、アメリカが中国との間に国交を樹立したのは、7 年後のことであった。 53 年(1978 年)8 月 12 日 永年の交渉がまとまり、北京で日中平和友好条約が締結された。 これを機に鄧小平が来日して皇居に招かれた鄧小平は、天皇に「過去は過去のものとして、前向き に今後、両国の平和関係を建設したいと思います。 」と述べた。 これは、 『過去』には触れないという事前の打ち合わせに反する発言であった。 天皇は「両国の長い歴史の間には一時、不幸な出来事もありましたが、それはお話しのように過去のも のとして終わって、これからは長く平和な関係で両国の親善を進めてほしいと思います。 」と両国民の複 雑な感情に配慮し、禍根を残さない発言をされた。 (靖国問題) 41 年(1966 年) 厚生省が A 級戦犯の祭神明票を靖国神社に送付した。当時の宮司筑波藤麿は「慎重に対処して」保留 扱いとした。 53 年(1978 年) 宮司となった松平永芳(昭和天皇の平和意思を支えた松平慶民の長男)が、10 月に A 級戦犯 14 人の 靖国神社への合祀に踏み切った。しかも、その中には日独伊三国同盟を強引に進めた元外相・松岡洋右と 元駐伊大使・白鳥敏夫が含まれており、しかもその二人は戦死ではなく病死であった。 この合祀に関して、昭和天皇は不快感を示されたと言われている(平成 18 年 7 月 20 日、宮内庁長官 富田朝彦の残したメモによる。 この件から、天皇は靖国参拝を事実上、果たせなくなった。 (中国による「反日」攻勢激化) 57 年(1982 年)8 月 26 日 宮沢内閣官房長官が「今後の歴史教科書検定は近隣諸国の感情に配慮する」という談話を発表した。こ れに基づき、教科用図書検定基準に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解 と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」という条項(=近隣諸国条項)が加えられた。 同年 6 月 26 日に、文部省(現在の文部科学省)による 1981 年度(昭和 56 年度)の教科用図書 検定について、「高等学校用の日本史教科書に、中国・華北への『侵略』という表記を『進出』 という表記に文部省の検定で書き直させられた」という日本テレビ記者の取材をもとにした記者 クラブ加盟各社の誤報が発端となり、中華人民共和国・大韓民国などの国が抗議して外交問題と なった。 ただし発端となった実教出版教科書の表記は元々「侵略」ではなく、報道自体が誤っていた。 以降、中国政府が「南京大虐殺」なるものを声高に叫びだし、各地に「虐殺紀念館」を作るなどし始 めた。中国だけでなく韓国、北朝鮮も何かにつけて日本に対し「歴史認識」を問うという事態が生じ、 それが現在も続いている。 366 (付表)日本人戦没者数 海外における軍人・軍属の地域別戦没日本人数(国内の民間人を含めると総戦没者数は約 310 万名) 地域 人数 地域 20,100 東部ニューギニア、ビスマルク、ソロモン諸島 硫黄島 人数 246,300 沖縄 186,500 韓国 18,900 中部太平洋 247,000 北朝鮮 34,600 フィリピン 518,000 旧満洲 245,400 ベトナム、ラオス、カンボジア 12,400 中国本土 タイ、マライ、シンガポール 21,000 台湾 ビルマ、インド 41,900 167,000 樺太、千島、アリューシャン ボルネオ 18,000 ロシア本土 インドネシア 25,400 モンゴル 西イリアン 53,000 出典 465,700 24,400 52,700 1,700 合計 2,400,000 : 厚生省昭和 51 年の調査 注:歴史学者藤原彰氏の分析によれば、240 万人のうち、約 60%は飢えや病気による戦病死と試算され ている。とくにフィリピン、ビルマ、ソロモン諸島、東部ニューギニア、ビスマルク諸島では 75~90% に及ぶと推定されている。 参考1 米国軍民の第 2 次大戦における戦死者は 40 万人と言われている。 2 シナ側の日中戦争における犠牲者数については、国民政府発表の『対日戦争勝利の戦果』では戦 死者 1,319,958 人、戦傷者 1,761,335 人、行方不明者 1,300,126 人としていた。昭和 21 年の東京 裁判法廷において同政府何応欽軍政部長は軍人の死傷者数 321 万、うち死者 189 万と報告した。 なお、昭和 30 年代から、中国共産党政府は「対日戦争の犠牲者は1千万人以上」と犠牲者数を 水増しし、1985 年の抗日勝利 40 周年記念会においては、 「犠牲者数は 2100 万人以上」と公式に 発表した。 因みにアメリカの「軍事史百科事典」では、第 2 次大戦中の中国人の被害について「軍人の死者 50 万、傷者 170 万」 「民間人の死者 100 万」としている。 注1:国土・国名については、できるだけ、その当時の通称を用いています。 367
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