ごあいさつ 山梨県立大学学長 伊 藤 洋 「『お互いは哀れだなあ』と言い出した。『こんな顔をして、こんなに弱っていては、い くら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見 ても、いずれも顔相応のところだが――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見た ことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほか に自慢するものは何もない』(中略)三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いも よらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。『しかしこれからは日本もだんだん 発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『滅びるね』と言っ た」 上記引用は本編にも出てくる夏目漱石作『三四郎』の一節です。ここに「かの男」とは、 後に主人公・三四郎と大いに関わり合うことになるが、あまりうだつの上がらない高等学 校教授広田先生のことです。浜松駅で歩廊(ホーム)を歩いている西洋婦人を見てその美 しさに刺激された広田先生は、ロシアとの戦争の「辛勝」に過剰な自信を獲得した「一等 国・日本国民」への痛烈な批判をこめて「国はだめだが、富士は最高」と言ったのでした。 広田先生はほかでもない作者漱石その人であり、この発言は彼の「ヨーロッパ(特に英国) から見た」日本認識でありました。 「あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない」と広田先生は断言 しましたが、しかしその根拠はついに説明されませんでした。富士山が「日本一の名物で ある」ということについて広田先生ともども多くの日本人は異議をさしはさまないと思い ます。それでいて、その根拠について尋ねられれば、広田先生のみならず多くの日本人に も論理的に説明できないのではないでしょうか。説明などする必要も感じないほど富士が 「日本一であること」は自明のことだと考えているからです。それというのも、古来、歌 に詠まれ、絵画に描かれ、仰ぎ見る信仰の対象として、日本人の間で繰り返しくりかえし 「富士の高嶺は、語りつぎ言いつぎ」してきたからにほかなりません。 しかるに、その富士山を UNESCO「世界」文化遺産に登録するということになりました。 まして、その名称も単に「富士山」ではなく「富士山と信仰・芸術の関連遺産群」とせよ というのですから、なぜ富士山は「日本一の名物」であるかを、「世界」に向かって論理的 に説明できなくてはなりません。ただ美しいだけではだめで、なぜ美しく見えるのか、富 士はどういう火山作用によってこんなに美しく出来上がり、どのような変遷を経て今日に 至ったのか、なぜ富士は信仰の対象になれるのか、信仰対象としての故事来歴とその変遷、 -1- 詩歌に詠い、文学に表現してきた詩人や文人の創作動機、富士山にまつわる普遍的な文化 的価値を「世界」に向かって説明しなくては「世界文化遺産」を語る資格は無いこととな りました。 山梨県立大学は、これを機に多くの富士の麓の皆さんに富士山の「世界に通用する価値 普遍性」について可能なかぎり「学術・文化的」に学んでいただく目的で、輿水達司特任 教授を中心にこの連続講座を企画致しました。幸いにして多くの皆さんの関心を呼び、大 層盛況裡に終えることができました。 本講座開設に当たり、ご支援を賜った東京大学名誉教授五味文彦先生、また講師陣の皆 さん、毎回出席されて質問や自説を発表するなど実に熱心に参加された聴講生の皆さんに 心から感謝申し上げます。 なお、最後に、本講座は山梨県からの支援によって行われたことを附記して深甚の謝意 を表します。 -2- 講演会のいきさつ 山梨県立大学特任教授 輿 水 達 司 山梨県立大学では、地域研究交流センターが主体となり、平成24年度の観光講座「富 士山世界遺産登録へ」を企画・実施し、その際の講演要旨を記録として、このたび報告書 に取りまとめることになりました。関係の皆様の協力により、報告書が無事完成に至るこ とができ、心から御礼申し上げます。この富士山世界遺産講演会を企画した立場から、富 士山の火山・自然科学と私との触れ合いの経緯を、以下に簡単に述べご挨拶とします。 標高3776メートル。活火山である富士山の活動が始まったのが今から約10万年前。 現在の富士山のように、均整のとれた円錐形を整えたのが約1万年前とされます。一般的 には、富士山のような成層火山の場合、その寿命からして、わずか10万年の経過では青 年期の若い山ということになります。最後の噴火は江戸時代の宝永4年(1707年)で、そ の後富士山には噴火の記録はありません。現在の富士山の火口からは噴気も見られず、火 山活動の兆候は認められません。しかし、山体の地下10km~20kmの深さでは低周 波地震と呼ばれる火山特有の地震が、その数は少ないものの今も発生しています。いずれ 噴火する火山であるのは確かです。2000年から2001年にかけて、低周波地震が急 激に増加しました。これを契機に富士山の火山観測が強化され、ハザードマップも作成さ れ、さらに、富士山の自然科学分野における理解も急ピッチで進んできています。 しかし、富士山の魅力は自然科学からの探求に限りません。むしろ、信仰や芸術分野を 含む富士山の人文科学方面からの奥深さは、際限がなさそうです。ただし、その辺につい て語る資格を、私は十分持ち合わせておりません。 ところで、今から20年程前に遡る1994年に、富士山の世界遺産登録の機運が高ま りました。しかし、それからしばらくして、結局国内推薦には至らなかったわけですが、 どうやら、大量のごみによる環境汚染が深刻な問題とされたのが、一因であったようです。 ちょうど、この時期に私は前職の山梨県環境科学研究所の開所と同時に、研究者の立場で 本格的に富士山と接することになりました。その後、特に富士山の火山活動・火山噴出物 の歴史科学的な理解を主体に、さらに山麓の富士五湖湖底堆積物に記録された環境変遷解 析や富士山地下水など、地球科学分野の研究に携わってきました。 その経緯の中で、上述の2000年頃の低周波地震騒動以降には、地元の行政担当者と 一体になり、火山防災の一般住民への周知・普及などの取り組みにも深く関与するように なりました。こうした体験から私は今までにない、新たな人間関係が構築できました。そ して、それから間もなくして、富士山が再び世界遺産登録を目指すという流れがでてきた 経緯の説明は不要でしょう。今度は、世界文化遺産登録へ向けての取り組みということで した。自然系科学分野の一介の研究者の私には、文化遺産登録作業では貢献と言えるよう -3- な大きな寄与は少ないものでありました。しかし、富士山の文化遺産登録の準備が進捗す る過程で、富士五湖の保存管理の計画を目的とする、行政関係者のほかに観光業界など多 彩なメンバーによる委員会が設けられ、これに委員長として私も参画することになりまし た。ここでもまた、純粋学問以外の方面にも及ぶ議論を交わしつつ、今までにない世界を 知ると同時に、新たな人間関係の構築ができました。 こんな風に、今から概ね20年程前から現在に亘って、私は富士山との関わりなしに自 分を語ることはできません。そして、平成24年度4月から私は、新天地として今度は山 梨県立大学にお世話になることになりました。富士山の世界文化遺産登録のゴールが間近 かなタイミングでもあり、山梨県立大学では地域研究交流センター委員会の協力の中で、 富士山世界遺産講演会を企画することができました。 実際に企画から講演会の実施に至る過程において、その調整等では多くの方々に助けら れました。特に今回の講演者の一人でもある、山梨県埋蔵文化財センターの新津健元所長 には大変お世話になりました。新津氏はじめ講演を快諾された皆様には、富士山の夫々の 専門分野における深い経験を礎にした豊富な知見を、分かり易く紹介してくださり御礼申 し上げます。さらに、この講演会には県民の多くの参加があって、盛大な盛り上がりにも なりました。企画者として以上の関係の皆様に心からお礼申し上げます。 -4- 目 次 ごあいさつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 講演会のいきさつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 1.富士山の世界遺産への道筋 富士山と世界文化遺産・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 富士山の文化遺産の特徴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13 2.富士山を取り巻く歴史・民俗 信仰の山・富士の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23 富士山の民俗・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33 3.富士山の誕生と富士五湖 富士山の誕生と変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35 富士五湖の誕生と変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41 富士北麓の溶岩洞穴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45 4.富士山の芸術と文学 富士山の絵画表現・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49 富士山と文学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53 彫刻に表現された富士山信仰・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59 5.富士山麓の地下水と富士五湖 富士山地下水と富士五湖の水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63 西湖に生息するクニマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67 富士五湖の漁業の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69 6.富士山周辺の環境・保全 富士北麓の水環境の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73 富士山の環境と観光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77 富士山と世界文化遺産 放送大学教授 五 味 文 彦 はじめに 一 世界文化遺産への道程 ① 自然遺産登録への取り組み 富士山の自然遺産としての貴重性は評価できるが、やや不足するものがある。自然遺 産は環境省が管轄し、文化遺産は文化庁が取り組む。その違いも関わていた。 ② 文化人・政治家の動き 富士山を学術とは別の視点から世界文化遺産として登録する動きが文化人や政治家を 中心に提起されてきたという経緯がある。 ③ 文化遺産公募 文化庁が世界文化遺産の各地での運動を踏まえて公募に踏み切る。富士山はこの時に 文化遺産として、山梨県・静岡県から申請があり、予備登録に至る道が開かれる。 ④ 調査と研究の体制 改めて富士山の普遍的価値を定めるための調査と研究が始まる。 『富士山 ⑤ ―山梨県富士山総合学術調査研究報告書―』二〇一二年三月の刊行 文化財指定の問題 世界遺産に登録するためには、国がきちんと保護・管理していることが前提。その ため保護の厚くない資産を保護する体制が求められる。富士山の国史跡の指定。管 理計画の策定 ⑥ 予備登録を経て推薦書が提出され、この八月にイコモスの調査が入り、来年五 月にイコモスの答申を経て、六月の世界遺産会議において、登録がきまるというス ケジュール 二 富士山のコンセプト ① 推薦書作成の問題 推薦書作成においてはコンセプトを定め、資産を決定する必要がある。広がりと絞 込みの両様の試みが行なわれる。 ② 他の機関との協議 文化庁だけでなく林野庁・国土交通省・環境省・防衛省など縦割り行政を突破して の横の連絡を密にすること、山梨県と静岡県との協議、県と市町村、観光協会との 協議がもたれてきた。 -7- ③ 芸術・文学の対象 富士山を描く美術と文学を基軸にした文化遺産の方向 ④ 信仰 信仰の山としての評価の必要性、信仰に関わる民俗の調査 三 富士山の歴史を考える ⅰ ① 畏敬の対象と制度 養老五年(七百二十一)に成った『常陸国風土記』。 神々の親が各地の子の元を廻っていた時のこと。富士山を訪ね一泊させてほしい、と頼 んだところ、富士の神は、「新嘗をしており、お断りします」とのつれない返事。怒った母 神がその足で筑波岳を訪れると、「新嘗ではありますが、どうぞお泊りください」とやさし い返事。これ以後、富士は雪で閉ざして山には登れないような措置がとられ、筑波では人々 が集まって、歌い舞い、飲み食べなどして今に絶えない、という。 ② 富士山の噴火 イ『続日本紀』天応元年(七八一)の富士山噴火。駿河国に被害 ロ 『日本紀略』延暦十九年(八〇〇)の富士噴火。一ヶ月続く。駿河国からの報告。 ハ 『同』延暦二十一年の噴火。駿河と相模からの報告。疫病対策。東海道が足柄道から 箱根道に変更される。 ③ 噴火と浅間大神 イ 『文徳天皇実録』 ロ 『日本三代実録』貞観六年(八六四)五月の噴火。駿河国からの報告があり、富士郡 仁寿三年(八五三)に名神として駿河浅間神社が従三位となる。 正三位浅間大神。 ハ 『同』七月 二 『同』十二月 甲斐国からの報告。甲斐国に浅間大神への奉幣解謝が命じられる。 甲斐八代郡の郡司伴真貞に浅間明神の託宣があって浅間神社が官社と して整えられる。 ⅱ 風景としての富士山 ①『万葉集』山辺赤人 田子の浦ゆ ② 同 うち出でてみれば 不尽の高峰は ③ 富士の高嶺に 雪はふりける 高橋虫麻呂 なまよみの甲斐の国 の本の 真白にぞ 鎮とも うち寄する駿河国と (中略)燃ゆる火を 座す神とも こちごちの 雪もち消ち 宝とも 国のみ中ゆ 出で立てる 降る雪を火をもち消ち(中略)日 生まれる山かも 都良香『富士山記』 富士山は駿河国に在り、峯削り成すが如く、直に聳て天に属す、その高さ測るべから ず、史籍記す所を歴覧するに未だこの山より高きはあらざる者なり。 (中略)貞観十七 -8- 年十一月五日、吏民旧により祭りを致す。日午に加へて天甚だ美晴、仰で山の峯を観 るに、白衣の美女二人有り。山の嶺上に双び舞ふ、嶺を去ること一尺余り、土人共に 見き。古老伝て云く、山を富士となづくは郡の名を取る也。山に神あり、浅間大神と 名づく。(中略)相伝ゆるに、昔、役居士、その頂に登らむと得るも(登り得ず)、そ の後攀じ登らば(中略)延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日して後、山となる。蓋し神 造也。 ④ 『日本霊異記』 役行者が伊豆に流罪になった後、富士山を飛行したという。 ⅲ 山岳信仰の対象 修験 ① 十一世紀成立の『新猿楽記』 次郎君は一生不犯の大験者で、何度も大峰や葛城に通い、「辺道」を踏んでいた。その赴いた 修験所は、熊野や金峰、越中立山・伊豆走湯・根本中堂・伯耆大山・富士御山・越前白山・高 野・粉河・箕面・葛川であったという。 ② 『梁塵秘抄』十一世紀から十二世紀にかけて成立 すぐれて高き山 大唐唐には五台山、霊鷲山 日本国には白山 天台山、音にのみ聞く 蓬莱 山こそ高き山(三四五番) 是より北には越の国 夏冬とん無き雪ぞ降る 駿河の国なる富士の高嶺にこそ夜昼とも無く煙立 て(四一五番) ③ 『本朝世紀』久安五年(一一四九)四月十六日条 近日、一院(鳥羽院)において、如法大般若経一部書写の事有り、卿士大夫、男女緇素多く営 むと云々。此の事、是れ則ち駿河国に一上人有り、富士上人と号す。その名、末代と称す。富士 山に攀登ること、已に数百度に及ぶ、山頂に仏閣を構へ、これを大日寺と号す、又越前国白山 に詣で、龍池の水を酌む、凡そ、その所行併しながら凡下に非ず。(中略)昔天喜年中、日泰上 人といふ者有りて、白山に登り、龍池の水を汲む。末代上人、若しは日泰の後身か。 久安五年(一一四九)四月に富士山に数百箇度も登ったという「末代」と称する富士上 人が上洛。これまでに「関東の民庶」に勧進して一切経論を書写してきたが、さらに鳥羽 院中に参って如法大般若経の書写を勧進し、それらを富士山に埋めたい、と訴える。院を 始めとして広く書写がなされ、それらは藤原清隆の東山七条の堂で供養された後に、富士 上人に下賜され、富士の山頂近くの大日堂に埋められるところとなったという。 ③ 同じ頃、三河守藤原顕長の銘がある渥美焼の壺が三箇所の経塚に埋納されている。静 岡県三島市の三ツ矢新田経塚、山梨県南部町の篠井山経塚、神奈川県綾瀬市の宮久保遺跡 である。立地は、篠井山経塚が富士山の西に位置し、富士山が一望できる地、三ツ矢新田 経塚が富士山の南、宮久保遺跡が富士山の東に位置する。富士信仰とのかかわりがある。 -9- ⅳ 政権との関わり 大日如来への信仰、国の統合のシンボル的意味 ① 平清盛 イ 『古事談』の説話によれば、清盛が安芸守の時、焼失した高野山の根本大塔の造営に 手伝いをして、材木を手にしていたところに僧が現れ、「日本の国の大日如来は伊勢大神 宮と安芸の厳島である」と語った後、伊勢大神宮は「幽玄」なので恐れ多い故、 「汝は国 司でもあるから早く厳島に奉仕するように」と述べて姿を消した。その後、清盛が厳島 社に赴いたところ、巫女が託宣して従一位の太政大臣にまで昇るであろう、伴にいる後 藤太能盛も安芸守になるであろう、と予言したという。 ロ 高野山の大塔が焼失したのは久安五年(一一四九)五月十二日、その造営を請け負っ たのは清盛の父忠盛で、久安五年七月九日の大塔の造営の事始には清盛が忠盛に代わっ て登山し代官として臨んでいる。仁平元年(一一五一)二月二日に清盛は安芸守になっ ており、高野大塔の上棟はその直後の三月十九日。したがって清盛は上棟の際に僧(弘 法大師)にあって告げられ、神拝のために安芸国に赴いた時に託宣を受けたか。 ハ 承安四年(一一七四)の後白河法皇の厳島御幸において、建春門院は三所ある神のう ちの大宮に大日経と理趣経を、中御前(中の宮)に天皇の装束と蒔絵の手箱を、また客 人宮に弓矢や剣、金銅製の馬などを寄せている(「厳島野坂文書」)。これらは大宮の本地 が大日如来、中御前の本地が十一面観音、客人宮の本地が毘沙門天であることに基づく ものであった。平氏は厳島神社に大日如来の信仰に基づいて政権の護持を、十一面観音 の信仰に基づいて一門の繁栄を祈り、また毘沙門天の信仰には武力の助けを求めていた。 二 治承三年(一一七九)に清盛は富士山遊覧を試みたが、駿河を知行国とする宗盛にと められる。 ② 源頼朝 『吾妻鏡』治承四年八月十八日条 挙兵にあたって、これまで行なってきた毎日の御勤行を伊豆山の法音尼に託したが、そ のうち『般若心経』を各一巻ずつ「八幡 権現 斗 礼殿 三島(第三第二) 若宮 熊野権現 熱田 若王子 八剣 住吉 大箱根 富士大菩薩 能善 祇園 駒形 天道 走湯 北 観音」に法楽として詠むことがあった。そこに富士大菩薩の神が見える。 ③ 源頼家 『吾妻鏡』建仁三年(一二〇三)六月四日条 命を受けた新田四郎忠常が富士の人穴を探索して鎌倉に帰参して報告。この洞穴は狭く て引き返すこともままならず、心ならずに進ので行った。暗くて心神を悩ますなか、主従 各に松明を取っていったが、その間中、水の流れに足が浸かり、蝙蝠が頭を遮って飛んで いた。数はいく千万に及ぶ。その先は大河になっていて、逆浪があふれ流れていたので、 わたれなくなった。そこに火の光が河向から見えたが、奇特にも郎従四人が忽ち亡くなっ た。しかし忠常は霊の訓えに沿って、恩賜の剣をその河に投入したので、命を長らえて帰 参することができた。古老が云うには、これは浅間大菩薩の御在所であって、昔からその 所を見ようとはしてこなかったとのことです。 - 10 - ④ 足利義満 厳島神社と富士の遊覧を実施 ⑤ 足利義教 イ 飛鳥井雅世『富士紀行』 尭孝法印『覧富士記』 七の道おさまり、八の島なみ静にして、よもの関守戸ざしをわすれ侍れば、旅のゆき きさはることもなく、万の民くろをゆづるこころざしをなむもととしければ、いづくに やどるとも心とけ、たのしびおほかる御代にぞ侍ける。ここに富士御覧の御有増すゑと をされ侍て、永享四のとし長月十よ日の程におぼしめし立れ侍り ロ 駿河府「今日しも白妙につもれるけしき、富士権現もきみの御光をまちおはしましけ ると見えて、あたしくぞおぼえはべる。山また山をかさねて、たなびきわたれる雲より 上にかがやき見えたる遠望たぐひなくこそ。 わが君の高き恵みにたとへてそ猶あふきみるふしのしは山 これにてあまたあそばれ侍りし御詠のうち 見すはいかで思ひ知るべき言の葉もおよばぬふしと予ねて聞しを ハ 「此山の由来たづねきこしめしけるに、そのかみ壬午年とかやに出現の由、守護注申 侍しに、ことしの干支相応、奇特におぼしめされて かかる身も神はひくかと白雪のふしのたかねを猶や仰がむ 敷島の道はしらねど富士のねの眺めにをよぶことのはぞなき ⑥ 戦国大名今川氏と武田氏 ⑦ 織田信長 天下統一への動きに富士信仰があったと考えられる 大村由己「総見院殿追善記」 「天竺支那扶桑三国無双の名山」である富士山を織田信長が天下掌握の証しとして仰ぐ ⅴ 庶民信仰 ①かぐや姫伝説 イ 『真名本曽我物語』 頼朝が富士の麓で巻狩を行うと聞いた曾我兄弟が語りあう場面 我らが処こそ多けれ、日本無双の明山と聞え、大唐の香炉山に比したる富士の山の麓 において、我らが屍を曝して後代に名を留めんこそ、同じ死にながらも今生の思ひ出、 冥土の訴へなれ。 ロ 富士山にまつわる姥捨て伝説とかぐや姫伝説 ② 千手観音 ハ 中にも富士浅間の大菩薩は本地千手観音にて在せば、六観音の中には地獄の道を官り 『真名本曽我物語』 給ふ仏なれば、我らまでも結縁の衆生なれば、などか一百三十六の地獄の苦患をば救 い給はざらん。これらを思ふに、昔のかぐや姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現 の初めなり。今の世までも男体女体の社にて御在すは則ちこれなり。 ③ 地蔵信仰 イ 乾元二年(一三〇三)に駿河益頭荘の沙弥光と比丘尼が奉納したと伝えられる銅像の - 11 - 地蔵菩薩像 ロ 『地蔵菩薩霊験記』 越中立山の修験は地蔵菩薩の信仰、熊野の那智宮の信仰は千手菩薩の信仰 ⑤ 吉田・河口の町の形成 ⅵ ① 江戸時代以降の歴史 江戸と富士 江戸のランドマーク コノハナサクヤヒメ 天女→かぐや姫→コノハナサクヤヒメへの変遷 国学と富士山 富士講 江戸の発展 富士山麓の開発 ② 日本の象徴と投影 国民国家と富士山 教育の問題 北村透谷『富士山遊びの記憶』(明治十七年) 同『蓬莱曲』 (明治二十四年)、『富嶽の詩神を思ふ』(明治二十六年) 志賀重昴『日本風景論』 (明治二十七年) 夏目漱石『三四郎』(明治四十一年) 太宰治『富嶽百景』(昭和一四年) ③ 開かれた富士山 観光・登山・環境・世界遺産 おわりに ① 日本の文化の歴史的流れをよく伝える、他にはない遺産 ② これからは思想史としての富士山を究明する必要性 - 12 - 富士山の文化遺産の特徴 山梨県教育委員会 学術文化財課 森 - 13 - 原 明 廣 - 14 - スライド1 - 15 - スライド2 - 16 - スライド3 - 17 - スライド4 - 18 - スライド5 - 19 - スライド6 - 20 - スライド7 - 21 - - 22 - 富士山をとりまく歴史・民俗 〜信仰の山:富士の歴史〜 健 (現山梨県富士山総合学術調査研究委員会調査員) 山梨県埋蔵文化財センター元所長 新 Ⅰ 津 『山梨県富士山総合学術調査研究委員会』の活動と成果 【設置の目的】 ・平成 18 年度、山梨・静岡両県にて世界文化遺産登録への事業が開始されました。 ・登録にあたっては、登録条件や基準を満たすことが求められているのです。 (例)顕著で普遍的な価値を持つ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品 あるいは文学的作品と直接または明白な関連があること(登録基準のⅵ) ・そこで、次のことを目的に調査研究が企画されました。 ①富士山の価値っていったい何だろう? ②登録後の活用や研究のためのデータ収集と一元的な管理 以上のことから、平成 20 年度に調査研究委員会が設置され、活動が始まったのです。 そして、平成 24 年 3 月に報告書『富士山』 (山梨県教育委員会)が刊行されました。 【調査の概要】~各分野での富士山の価値を見出すことができる基礎資料の収集・今後 の調査研究の指針 →自然環境・歴史考古民俗・有形文化財(絵画・彫刻)・文学の各分野にて調査が 進み、大きな成果があげられました。 *今回の講座は、この『富士山』~山梨県富士山総合学術調査研究報告書~から、歴 史分野の成果を中心に、紹介していくこととします。 Ⅱ 1 富士山の歴史と信仰 富士山のイメージ ・日本最高の山 ・火山 ・均整のとれた秀麗な山 ・可視域が広い山 ・雪に覆われた神様の山 ⇒日本の名山←年間30万人をこえる登山者が訪れます。 (1)「広い平野に独立して聳える均整のとれた高い山」という自然環境が背景 ○江戸・明治に訪れた多くの外国人の印象=高山と美しさ (例1)ウェストン「五月のフジヤマ」:神の造った一番美しい国の最も美しい山の 頂上から眺めたこの見事な風光の印象を、私は決して忘れない (例2)小泉八雲「富士山」:富士の麗容、これこそは日本の国の最もうるわしい絶 景、否、まさしく世界の絶景の一つだ - 23 - 新道峠/大石峠間の尾根からの富士と河口湖 清里・美し森からの遠望 『富士山』 ) (2)地質学的な見地(上杉 陽「地形地質からみた「富士山」の世界的な特異性について」 ①不老長寿の山~富士山の地下ではプレートが裂け続け、若いマグマが半永久的に 供給され続ける。 ② 大平原に誕生→均整のとれた山体 ③ 山体が鎧兜(弥生初期の噴出物~溶結火砕岩)で保護される奇跡的な火山 2 山麓と人の住まい (1)山麓の遺跡数(山中湖村・忍野村・富士吉田市・富士河口湖町・鳴沢村・身延町の 本栖湖畔・西桂町の遺跡台帳による遺跡) ・全部で238カ所(2011 年時点の数値です) ・旧石器時代2、縄文86(36 ㌫) 、弥生26(11 ㌫)、古墳20(8 ㌫)、奈良 平安61(26 ㌫)、中近世56(24 ㌫)、不明28 (2)各時代の遺跡と富士山の活動 【縄文時代】 ・河口湖周辺、富士吉田~西桂にかけての御坂山地沿い・桂川流域、道志山地沿いの大 明見・小明見そして忍野に集中する傾向があります(遺跡の上には熔岩や火山灰など が積もっている)。 ・熔岩下の遺跡例 ① 河口湖沿岸の船津浜遺跡~船津熔岩下から前期後半と中期中頃の土器が出土しま した。住居の炉も確認されたと伝えられています。 ② 勝山地区の里宮(御室浅間神社一帯)、入海遺跡でも熔岩下から土器が出土。 ③ 富士吉田市上暮地の新屋敷遺跡(クリの林の痕跡)、小明見の上中丸遺跡(住居跡 や土器等が見つかりました)~檜丸尾第一熔岩(古墳時代初頭に噴出)と複数の 火山灰層の下には縄文のムラが埋まっているのです。 - 24 - (上中丸遺跡では 3000 年間に少なくとも 16 層余の火山灰があり→計算上では 180 年間に1度の噴火割合~実際には活動期にはさらに頻繁に噴火) 富士吉田市池の元遺跡~住居内に大室ラピリと呼ばれる火山灰が堆積(3000~ 2900 年前)していました。 ④ 西桂町宮の前遺跡~中期後半の住居 を火山灰が厚く埋めていた。→ムラ が営まれている最中に大きな噴火が 起こったと思われます。 *以上の事例から富士山の噴火活動の休止 期中心に、また活動時にはその被害を避 けながらも、たくましく生き抜いていた 縄文人の様子がわかる。 発掘中の上中丸遺跡と幾重にも重なる火山灰層 (崖の上部は檜丸尾第一熔岩) 【弥生時代・古墳時代】 富士山麓は、西日本や東海地方からの新しい文化の導入路として重要な地域でした。 ① 河口湖内の鵜の島遺跡~弥生文化の山梨への流入拠点 ② 富士ケ嶺地区や本栖湖底(深さ7~14 ㍍の地点)・湖畔から土器出土 ③ 檜丸尾第一熔岩が流れ出た噴火~1700 年程前~北麓路の一時遮断→西麓の活発化 富士吉田市天矢場遺跡~檜丸尾第一熔岩下から土器出土 *甲斐国への新しい文化の導入経路としての、重要な地理的環境の地=北麓・西麓 【奈良・平安時代】 ①平安前半期には、特に噴火活動が活発化しました(古典の記録では、781 年~1083 年 までに9回の記事が確認できます) 。 ②平安時代は、標高の高い山麓が開発され、多くのムラができる時代→例えば墾田永代 私財法などの制度により、土地の私有化が進んだと言われています。 (例)八ヶ岳山麓では標高 700 ㍍以上の地が開発される→平安時代の集落が多く発見さ れています。 ・富士山麓においても同様に、多くのムラが形成されていたと思われます。 ③富士山の噴火に伴う溶岩流 檜丸尾第二熔岩(800 年頃)、鷹丸尾溶岩(800 年頃・要検討) 剣丸尾第一熔岩(937 年頃)、剣丸尾第二熔岩(1033 年頃)、 ④熔岩下の遺跡~富士吉田市上暮地前田遺跡(焼土や平安中期の土器が出土) 下吉田御姫坂遺跡や西丸尾遺跡(土器出土) ⑤青木ヶ原樹海の熔岩~貞観6~8年(864~866)の大噴火 - 25 - 七月十七日、甲斐国から富士山大噴火の報告があった。 熔 岩 が 八 代 郡 の 本栖 ・ 剗 の 両 湖 水 に及 ぶ と と も に 住 民 の 居 宅 を も 埋 め 、 大 き な 被 害を も た ら す と と も に 、 熔 岩はさらに河口湖方面にも向かったという。 〔日本三代実録〕巻九 十七日辛丑、 (中略)甲斐国言、駿河国富士大山、忽有 暴火 一、焼 二砕岡巒 一、草木焦殺、土鑠石流、埋 二八代 二 郡本栖并剗両水海 一。水熱如 レ湯、魚鼈皆死、百姓居宅、 与 レ海共埋、或有 レ宅無 レ人、其数難 レ記。両海以東、亦 有 二水海 一、名曰 二河口海 一。火焔赴向 二河口海 一、 (後略) 精進湖・青木ヶ原樹海・富士山 『日本三代実録』の記事~熔岩が百姓の居宅を押し流し、海とともに埋まる →青木ヶ原樹海の熔岩下に、平安前期のムラが埋まっている可能性は高いのです。 ⑥古代の官道と噴火 ・東海道━籠坂峠━山中・忍野━富士吉田━河口━御坂峠━藤ノ木━国府 {富士山噴火の影響を受ける} *山中湖の形成(鷹丸尾溶岩流出) *官道の寸断→迂回路 *松鶴鏡(平安末の和鏡)出土の問題(山中湖村北畠遺跡~鷹丸尾溶岩下) *標高の高い土地への開拓→新しい集落が生まれる *古代から続く主要路及び拠点の継続 *噴火活動の活発化にも衰退することなく、集落と主要路の維持管理継続 *噴火鎮静後の富士山信仰隆盛への基礎づくり 【中世の遺跡】 1 この時代の主要な遺跡→戦国時代の城館や砦が多く残されています。 *富士山麓は甲斐国と都や東海道諸国とを結ぶ重要なルートだったことが分かります ①中道往還沿い~本栖湖畔の渡辺氏館跡・本栖城山・樹海内石塁・女坂石造物など ②御坂路(古代の官道・鎌倉往還)~吉田城山・小倉山・信玄築石(石塁)・河口駅・ 御坂城など 2 富士信仰にかかわるさまざまな遺構 ○山麓から富士山頂上に至るまで、修験や富士講にかかわる多くの施設・遺構・遺物 が残されています。これらは古代から近・現代までのものまで含みますが、増加し てくるのは中世の時期であり、噴火が収まった後に活発化した修験を始めとした信 - 26 - 仰の遺跡なのです。 ①富士山体への鰐口奉納初見→長久 2 年(1041)『甲斐国志』 ②吉田口二合目御室浅間神社への奉納神像→文治 5 年(1189)、建久 3 年(1192) ③吉田鳥居の建立→文明 12 年(1480)、明応 9 年(1500)『勝山記』 これらに加え、御師集落としての河口や上吉田も出来上がっていたと思われる。 *主要路が走る国境地帯の様相を示す遺跡が多い *富士山本体への登拝活発化に伴う諸施設遺構・信仰遺物の出土 3 富士山への信仰、その展開 【古代】 (1)山岳信仰 ①縄文時代の配石と山 ・富士山型の山と配石の関係を問う意見があります。 (例)富士山麓~富士宮市千居遺跡、都留市牛石遺跡の環状列石 ・しかし配石遺構が造られるのは、富士山信仰というよりも縄文中期後半~後期の 時代性かと思います(日本各地にて配石遺構が盛んになる時期です~配石を構成 する施設が、山を含めた周囲の景観と関わっているという見解もあります)。 ②奈良時代以前~日光男体山のような、国家的な祈りが行なわれた場もあります。 葛城山・吉野金峰山(大峰)にて山岳修行が盛んになる→役行者(修験開祖) ③奈良・平安時代~さまざまな書き物に富士山が登場します。 イ)古来の山岳観と神仙思想 遥拝の対象としての富士→「火の山・雪の山」という意識 す い き ・『常陸国風土記』筑波郡条~「(福慈の神)が居める山は、生涯の極み、冬も夏 さ む し き ひ と も雪ふり霜おきて、冷寒さ重襲り、人民登らず・・」 ・『万葉集』 高橋虫麻呂・富士の山を詠む歌一首併せて短歌 なまよみの ぶ鳥も 甲斐の国(中略)富士の高嶺は 飛びも上がらず つ(中略)日本の かも 駿河なる 燃ゆる火を 大和の国の 富士の高嶺は 天雲も 雪もて消ち 鎮めとも い行きはばかり 降る雪を います神かも 見れど飽かぬかも 飛 火もて消ちつ 宝とも なれる山 (巻三・三一九) ・都良香『富士山記』 ひ る よ 又貞観十七年十一月五日に、吏民旧きに仍りて祭を致す。日午に加へて天甚だ美 く晴る。仰ぎて山の峯を観るに、白衣の美女二人有り。山の峯の上に双び舞ふ。 ひとさか くにひと 峰を去ること一尺余、土人共に見きと、古老伝へて云ふ。山を富士と名づくる は、郡の名に取れるなり。山に神有り。浅間大神と名づく。 - 27 - ・『日本三代実録』 貞観六年五月二十五日庚戌。駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。 (富士山はすでに 853 年名神従三位、859 年正三位の位階を得ている) ・富士山とは→高く美しい山・時折噴火・1 年中雪(時じ=時を知らない) →人の住むところではない=神仙境 ・富士山そのものが火の山→怒ると噴火する神様=アサマの神 人が登ることのできない『遠くから仰ぎ見る~遥拝する』山 ロ)山岳信仰と仏教の融合→山林仏教(仏教の修行観・浄土観と山岳) ・天台・真言伝来→山林修行重視・山中浄土思想・道教→山中に神仙 ・吉野金峰山~9 世紀中頃修験道の山として発達。 ・富士山→噴火鎮静化とともに修験の場となっていく。 ①長久 2 年(1041)銘の鰐口出土(『甲斐国志』)~5 合目、6 合目への奉納か ②久安 5 年(1149) 末代上人、富士山頂に大日寺建立(『本朝世紀』) 一切経の写経・埋経の記事が載っています。 ~11 世紀中頃以降、末代上人の富士登山と修行・宗教行為(役行者伝説の付加) 【中世】 (1)修験道が確立した時期です~12 世紀から 13 世紀 ①末代上人の活動(伊豆走湯山系の修験者)→村山浅間神社を核とした村山三坊の 成立→富士山を回峰行の場として活動しました。 ②埋経の継続 承久年間の経筒・経典(末代上人、承久銘)の出土~三島ヶ岳付近 ③吉田口登山道二合目の拠点化も進みました~富士御室浅間神社・行者堂 ・文治 5 年(1189)銘の日本武尊像、建久 3 年(1192)銘の女神像の勧進~走湯 山の覚実覚台坊が関わる(『甲斐国志』)。 ・行者堂→役行者像(延慶 2 年(1309)修理名)の存在(この像は甲府市円楽寺 にあります) ④二合目の重要性~次の諸点が考えられ ます~ ・富士山中での位置~標高 1730 ㍍ ・草山~木山~焼山の内の木山(聖地) ・地形~浅い谷(窪地)を背景にした平 地。古富士層が露出する安定した地盤 ・展望~里宮・河口湖・鵜の島を一直線 で見通す 二合目の現状(御室浅間神社拝殿) - 28 - ・水場あり ・風当り少ない ⑤吉田口登山道周辺の信仰施設 ・北口本宮富士浅間神社~承応 2 年(1223)北条義時再建(『社誌』 ) ・吉田鳥居~文明 12 年(1480)、明応 9 年(1500)立つ(『勝山記』) ・西念寺・月江寺・正福寺・如来寺・蓮華寺 ・円楽寺(甲府市右左口)~真言宗の修験道場~役行者像との関わり *富士山噴火の鎮静化→富士山が修験・修行・埋経の場として定着 伊豆走湯山系の修験者→村山浅間神社・村山三坊の成立→回峰行の場としての富士 (2)富士信仰の拡大~14 世紀から 16 世紀~ *奉納物や登拝者についての記事が多く見られます。 ①山中奉納物 ・乾元 3 年(1303) 銅造地蔵菩薩立像(山頂穂打場) 益頭荘「沙弥光実・ 同比丘尼」が「富士禅定」に際して奉納 ・文明 14 年(1482) ・文亀 3 年(1503) 懸仏八体内 懸仏 総州菅生庄木佐良津郷 釈迦ヶ岳 など ②登拝者の記載(道者) ・応長元年(1311) 虎関師練(鎌倉五山禅僧)、 「導引者」に引率され登拝(海 蔵和尚紀年録) ・明応 9 年(1500)6 月 富士山道者限りなし(勝山記) ・永正 15 年(1518)6 月 大嵐により道者 13 人死亡、内 2 人は熊に殺される ・天文 17 年(1548)6 月 道者数、過去 10 年で最多 ・天文 22 年(1553)6 月 道者来訪により貨幣流通盛ん 翌年は少なく、撰銭が頻繁に行われる ③御師について ・御師~富士参詣の道者に対して祈祷を行うとともに、宿舎の提供・登拝の仲 立ち・お札の配布等の役割を果たしました(近世御師の性格)。 ・中世では、宗教者・富士登拝の引導者的な性格とともに、在地領主と強く結 びつく政治的な力も加わっていた様相があります。 【資料】 ・14 世紀前半~虎関師練(鎌倉五山禅僧)、「導引者」に引率され登拝 ~応長元年(1311)~ ・15、16 世紀の例 - 29 - ①下総国領主結城政勝~領内において吉田御師小猿屋伊予への妨害行為を行わぬよ う命じる ②小猿屋が、郡内領主小山田信有から、翌年の富士道者 200 人の通行を許可される ひとやのすけ ③上九一色衆を率いるとともに天正年中は御師としても活動していた渡辺因獄佑は、 徳川の旗本となる際に檀家を河口御師三浦外記に譲渡したと伝わる。 ~以上『山梨県史』資料編中世1・通史編 2 中世~ 【15・16 世紀の富士登拝大衆化の背景】 1)富士山噴火の鎮静化 2)宗教専門家の修験の山から一般大衆の信仰の場へと展開~引導する者の存在 富士山体への諸仏や法具の奉納・施設の整備 3)登拝者(道者)の来訪→貨幣流通の活発化→地域経済への潤い ↓ 富士山麓・参詣道・道者居住地を管轄する領主の思惑=経済性・流通性 ↑ 御師の活動=富士山信仰の普及 4)武田氏の信仰 【近世】 (1)富士講のはじまり ・長谷川角行の修行と教え~一般大衆への教え→戦国の世での平和を祈りました。 戦国末~江戸初期に信仰を広めた富士行者。山麓の人穴で修業した後、江戸や関 東に信仰を広め、後に富士講の祖と呼ばれました。 (2)富士講の隆盛~享保年間の二人の宗教家の活動があります。 ・村上光清の教えと寄進~北口本宮の改築と奉納 ・食行身禄の普及活動と入定(吉田口七合五勺・烏帽子岩) ~加持祈祷は行わず、身を「禄」にして働くことの勧め→庶民への浸透 ・「江戸八百八講」、及び関八州地域での広がり ①信仰の広がり ②大消費地「江戸」を始めとした、江戸後期の経済力が背景 (3)御師の活動 ①川口御師~甲斐・信濃・上野を主とし、美濃・尾張まで含む檀那場も持つ。 ・江戸初期~河口十二坊、最大 128 軒の御師(文化 7 年)が活動しました。 ②吉田御師~江戸・相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野等を檀那場 ・元亀 3 年(1572)に現在地に移転したと伝えられます(『甲斐国志』など) ・当初三十六坊、文禄年間 63 軒、江戸時代貞享年間 82 軒 - 30 - (4)江戸時代の登山口 ・甲斐側~河口、吉田口 ・駿河側~大宮口、村山口、須山 口、須走口 *江戸からは甲州道中~谷村道経由 での通行が主であったことから、 吉田口が多く利用されました。 *江戸時代は富士講という形の信仰が浸 透し、富士登山が一般化しました。江戸 後期の経済発展と御師の活動がその背景 にあったのです。 登山道の位置(山梨県教育委員会 2011 史跡『富士山』 (仮称)調査報告書より) 【近現代】 (1)明治新政府の神仏分離政策→廃仏毀釈の波となって広がりました。 ・北口本宮の仁王像の破壊、「神仏混交之品々」除去、二合目行者堂消滅 しし のなかば ・宍野半による富士山内諸仏の除去、山頂峰々の仏名→神名に変更 (2)富士講の動向 ・衰えは見せない~幕末・明治には御師住宅の増築もあった→登拝者の増加 鉄道や道路の整備による山麓への利便性の高まり ・御師職~法制上は廃止、しかしその社会的役割は継続しました。 ・第二次世界大戦後の衰退 ①戦中・終戦直後~精神的・経済的ダメージ ②昭和 30 年代後半から 40 年代初め~価値観の変化 (3)登山の質の変化 ①女人禁制の撤廃→女性登山の幕開け ・野中夫妻の山頂観測(明治 28 年) ・女子教育の普及→女学校の集団登山(明治 30 年代後半) ②外国人の冬山登山・スキー ③一般の登山増加~登拝規制や禁忌の消滅・山開きの変更・交通網や宿泊施設の 改善→観光登山へと展開したのです。 (4)富士登山の特殊性 ・観光登山的な面は強いものの、やはり神聖への感覚は強い~他の山との違い - 31 - ・根底には古代以来の潜在性~富士山に対する精神的な崇め・自然に対する畏れ *富士山観の変貌~国家の関わり、富士山に関わる人の広がり、交通網や施設の整 備、戦争~登拝から登山へ・信仰と観光→信仰の形のうつろい 4 まとめ ①富士山は時代及び見る人の立場を映す鏡。 ・古代・中世・近世・近現代の富士山観を見ることができた。 ・都人・支配者・山麓の人々→それぞれの立場での富士山観もある。 ②自然・歴史・信仰・芸術という分野に共通する流れをとらえる必要性 ・火と雪の山→神聖化・畏れ~遥拝し崇める (例) 信仰では浅間大神、 和歌の世界では火と雪の世界=神仙境・男女の想い それぞれに結びつく 背景がある。 絵画では聖徳太子絵伝 ③特性 ・特有な自然環境を背景に、根底に古代以来の富士山に対する精神的な崇め ・自然に対する畏れの潜在性が息づく山→それが富士山なのです。 ④課題 ・災害史をも取込んだ今後の富士山とのかかわり→現代人と富士山の結びつき ・世界にとっての富士山とは? 参考資料 山梨県教育委員会 2012『富士山』~山梨県富士山総合学術調査研究報告書~ 上杉 陽「地形地質からみた「富士山」の世界的な特異性について」 新津 健「北麓の遺跡」 原 正人「古代~遥拝から修験へ」 西川広平「中世~修験の発達と登拝の拡大」 菊池邦彦「近世~北口を中心とした富士講の隆盛と御師」 宮澤富美恵「近現代~廃仏毀釈から観光登山まで」 清雲俊元「富士信仰と仏像」 堀内 亨「富士北面の登山道」 石田千尋「富士山と文学~上代から中世」 新津 健「外国人がみた富士」 - 32 - 富士山の民俗 河口湖および吉田の町と富士講 ―二つの御師集落をめぐって― 山梨県立博物館 堀 内 眞 ■二つの御師集落「川口町」と「吉田町」 江戸時代後期の『甲斐国志』編纂当時の登山道は、北に吉田口(富士吉田市) 、東の須走 口(静岡県小山町)、南口にあたる村山口(同県富士宮市)・大宮口(同上)の各々からの 四道であった。それ以前の古い登山道には、須山口(同県裾野市)と船津口(富士河口湖 町)があった。北面の山梨県側では、御師集落である河口(近世には「川口」と表記する) から船津を通過して山頂へ向かう登山道があったが、山崩れによってすでに近世期には廃 絶していたという。 室町時代には、先達に引率されて一般の人々も盛んに登山するようになる。そのような 登山者を道者(導者)という。夏山期には川口、吉田の御師宿坊には富士登拝する道者で 賑わった。川口御師の宿坊は道者坊とも呼ばれ、おもに西関東から中部高地に得意先(「檀 那所」という)を所持した。吉田御師は古くは東関東をおもな檀那所としていた。富士の 道者で賑わう町場、都市的な場であることから、江戸時代には、それぞれ川口町、吉田町 と通称された。 ■川口の御師 富士山を目指す人々を迎えたのが「御師」 (富士御師という)である。御師は下級神職で、 北面の甲斐側では、川口と吉田(上吉田)に集住し、登拝者に対して祈祷や不浄祓などの 宗教行為を行うとともに自らの住宅を宿坊(御師坊、道者坊ともいう)に提供した。 江戸時代の初期、川口には「十二坊」と呼ばれる草分け的な御師坊が存在した。それは 駒屋、玉屋、友屋、大黒屋、関屋坊、瓶子屋、猿屋、俵屋、糠屋、上の坊、梅屋、うつぼ (靫)屋の一二軒である(慶長十年〈1605〉、友屋勘解由文書)。前述した『国志』は、 「川口村」について次のように記す。「この村御師職の家多く、農家少なし」とし、御師を 中心とした村落であり、数多くの御師が存在したことがわかる。 この村は富士山麓から御坂峠を越えて現在の甲府盆地へと通ずる鎌倉往還に沿って南北 に細長く家並みを連ねており、御師が居住する範囲を、古くは「木戸内」(後には本町とい う)、それ以外の人々が居住するところを「木戸外」と呼び習わしていた。この中に川口の 御師が得意先とした、甲州国中の三郡(山梨・八代・巨摩郡の甲府盆地方面)、信州(長野 県)、中山道の沿線(岐阜県、愛知県方面)、北陸地方からの道者が参集した。上野(群馬 県)の利根・碓氷・片岡郡、武蔵(埼玉県、東京都、神奈川県の一部)の北西部も主要な 檀那所だった。御師三浦家が版行した万延元年(1860)の登山案内図が、山梨市大野 の名主家に残存するが、同図は中仙道高崎宿と信州松本からの道筋を案内している。 明治以後は、御師の村から農村へ、そして観光地へと大きく変換を遂げているものの、 - 33 - 今でも木戸内(本町)に、御師の系譜を引く家やその他の家々が存在する。 上町の古い御師の系譜に関屋坊(大関谷)があり、関所に関係する家の伝承を有し、同 系の家々が高橋イッケを構成する。 梅谷の屋号を持つ本庄家は、江戸時代の御師坊の遺構を現在に伝えている。細いタツミ チ(引込み路のこと)の奥に中門と主屋の建物を残す。この地に現存する御師住宅として は最古のものである。道者を招き入れる式台玄関と宿泊に供する上段・下段の間があるが、 ご神前を持たない。三浦家には重厚な表門が残存する。 中町の西側には、大黒屋の家々が隣接して居住する。大黒谷のモト、ワカレと意識され、 中村姓を名乗る。船津の大黒屋もこの系譜に属している。 川口の道者は、関係する御師坊に宿泊し、翌朝、寺川尻に設けられた船着き場(渡船場) から小舟で南岸に渡り、そこから胎内通で吉田口登山道へ、あるいは吉田を経由して登頂 していた。なお、明治初期までには、直接五合五勺の小御嶽へ向かう「風穴通」の山道(現 在の船津口登山道の前身)が開削され、同四十二年には船津口登山道に整備されている。 ■吉田の御師 北面のもう一つの御師集落である上吉田は吉田と略称される。前述の『甲斐国志』「上吉 田村」条は、 「富士浅間の御師職たるもの八十六戸、御師町をもって上吉田とし百姓町をも って下吉田とす」と記述する。当時、上吉田には、86戸の御師が存在した。古くは五町 ほど東に住んでいたが、元亀三年(一五七二) 、現在地に移転したと記される。 川口や吉田を拠点に、登拝者は麓の神社に参拝し、吉田口登山道を山頂目指して登拝し た。神社の参拝は作法に基づいて御師の指導で行われ、古くは要所で印を結び真言を唱え ていた。江戸や関東方面からの登山に立地条件のよい吉田は、多くの登拝者を引き寄せた。 その登拝を描いた絵画の一つが富士講月三鉄砲洲講の先達、永嶋庄次郎の描いた「富士山 真景之図」である。 ■富士講の隆盛と吉田 戦国時代末期に現れた長谷川角行は修験系富士行者の一人で、この世と人間の生みの親 はもとのちち・はは、すなわち富士山が根本神であるとし、江戸とその周辺の庶民の厳正 利益的な要求にこたえて近世富士講の基礎をつくった。その信仰は弟子の日旺・旺心・月 旺へと伝えられ、月心とその子村上光清の光清派と、月行から食行身禄へと受継がれる身 禄派の二派に分かれた。光清は北口本宮冨士浅間神社の修理をしたことにも示されるよう に、その財力によって身禄派を凌駕しており、吉田では「乞食身禄に大名光清」といった という。身禄は世直しの理想のため、享保十八年(一七三三)に富士山七合五勺の烏帽子 岩で入定し、それに従ったのが田辺十郎右衛門である。身禄は入定にあたって信徒の登山 本道を北口(吉田口)と定め、吉田の御師坊を山もとの拠点とした。身禄の死をきっかけ に組織的な信仰、富士講へと発展する。「江戸は広くて八百八町、八百八町に八百八講」と いわれるほど隆盛をきわめることになり、それに呼応して吉田の町も大きく発展した。 - 34 - 富士山の誕生と変遷 山梨県環境科学研究所所長 荒 牧 重 雄 富士山は日本でもっとも高い山であり,また火山としてもっとも大きな山体を持つ.日 本最大の火山であるということは,平均的な規模から最も離れていることを意味する.そ のような意味では,富士山は決して平均的な火山ではなく,きわめて特異な火山であると も言える.すなわち,短時間に膨大な量のマグマ,しかも成熟した島弧の火山としては例 外的な玄武岩質のマグマを噴出した,きわめて活動的な火山なのである. 今から300年前の宝永4年(1707年)の大噴火を境にして,富士山の火山活動は一時停止 したように見える.マグマの息吹が再び感じられたのは2000年に始まった低周波地震の群 発であった.この事件は日本全国に大きな衝撃を与え,火山災害を防ぐにはどのような施 策をとったらよいかが議論されるようになった. 最近の火山学的成果は,日本火山学会編集「富士火山」(A4版,490ページ,山梨県 環境科学研究所,2007年発行)という書籍にまとめられている.その結果,富士山は現在 日本で最もよく研究された火山の一つとなっているが,これまでの予想に反して,様々な 様式の噴火活動を繰り返しており,学術的にもきわめて興味深い研究対象であることが明 らかになってきた.現在も進行中の調査研究により,火山としての富士山の全貌が更に明 らかになってくることが期待される. 富士山は,フィリピン海プレート,ユーラシアプレート,北米プレートの会合部という 複雑な造構場に位置している.マグマの発生は,さらに東方から斜めにもぐりこんでいる 太平洋プレートの運動がその原動力であるから,富士山の成立には実に4つのプレートの相 互関係が係っているといえる.この地域では,富士火山の活動前に箱根火山,愛鷹火山, 小御岳火山等がいずれも玄武岩からデイサイト質の幅広い組成のマグマの多様な火山活動 を展開していた.このような火山の密集地域において,富士山は約10万年前から活動を開 始し,現在までに他の火山に類を見ないような大規模の玄武岩溶岩を噴出してきた.この 活動の特異性の原因については,いろいろな議論があるが,未だ統一した理解は得られて いない. 中新世に日本列島が折れ曲がって生じた“フォッサ・マグナ”大地溝帯の南部に向かっ て,現在,南方から“古伊豆-小笠原弧”が衝突しつつある.この島弧は太平洋プレート がフィリッピン海プレートに東方から沈み込むために生じた火山性の弧であるが,北西方 のユーラシア・プレートへの衝突は,12Ma 以上前から続いている.南部フォッサ・マグナ 地域は,島弧性海底火山噴出物に富む櫛形山,御坂,丹沢地塊が次々に衝突・付加されて, 南方へ向けて開く,大きく湾曲した山地を形成している.富士火山の直接の基盤はこれら - 35 - の山地と,それから直接由来したトラフ充填堆積物(富士川層群,西桂層群など)で形成 されていると考えられる. 富士山地域のフィリピン海プレートの上面は地表から約 10km の深さにあるが,富士火 山直下ではフィリピン海プレート内部(深さ 15-20km)に P,S 波ともに低速度になる空間が 伊豆半島へかけて広がっている.この空間はマグマが大量に存在していると考えられてい る. 北部伊豆半島の第四紀火山(天城,多賀,達磨など)の北~北西方には箱根,愛鷹両火 山があり,いずれも約 40 万年前から活動を開始している. 小岳火山は古富士火山の活動開始以前に形成された成層火山で,噴出中心は現在の富士 山の山頂より約2km北方にずれて,富士山型の山体を作ったと考えられる.溶岩の化学組 成は玄武岩質安山岩で,富士火山の溶岩よりも組成範囲はせまく,古・新富士火山のそれ とは明瞭に区別される.今から約10万年前に小御岳火山の活動は終わり,あまり時間間隙 をおかずに古富士火山の活動に移行したものと考えられる. 2001から2003年にかけて,富士山の北~北東斜面で行われたボーリング調査の結果,小 御岳火山の山体の下位に,より古い火山体が存在することが明らかになった.溶岩類の組 成は玄武岩・安山岩からデイサイト質まで広い範囲にわたり,角閃石斑晶を含むなど,小 御岳火山のマグマとも異なることが明瞭である.先小御岳火山の活動は,溶岩流を主体と し,活動の後期から末期には,大量の泥流を発生した.その後,休止期を経て,溶岩流を 主体とする小御岳火山,富士火山の活動へと推移したと考えられる. 富士火山全体のうち,最新の約 10%(推定 40km3)の山体を新富士火山と呼ぶ.残りの 90%(推定 360km3)を占める火山体は古富士火山と呼ばれるが,その大部分は新富士火山 の噴出物に覆われていて地表に露出していない.古富士火山は約 10 万年前に成長を開始し たが,新富士火山に何時移行したかについては異論がある. いずれにせよ,古富士火山 の山体部分の露頭が少ないので,火山体の構造についてはよくわかっていない.一方,裾 野に広く展開しているのは大量の土石流堆積物(火山麓扇状地堆積物)であり,東方に広 く分布する厚いスコリア層とともに,古富士火山は,そのマグマが玄武岩質にもかかわら ずきわめて爆発的な噴火を繰り返していたことが推定される.降下スコリア堆積物の累層 は東麓では厚さが 100m 以上にも達し,関東ローム層の母材となっている. 約 2 万年前,大規模な山体崩壊が発生し,岩屑なだれが南西麓に流下した.堆積物の規 模から見て,当時の古富士火山はかなりの高度に達した成層火山であったと推察される. 新富士火山の活動史は宮地(2007 他)によって次のような 5 期に分けられている(図 5-1). ステージ1(17000~8000 cal BP):山頂・山腹火口からの大量の溶岩噴出期 この時期には大量のマグマが噴出し,大型の溶岩流として裾野に展開した(旧期溶岩流 と呼ぶ).ボーリングなどで知られている全層厚は 50~200m であり,山頂を含む北西~南 東方向及び南西または南方向に伸びた割れ目火口から噴出したと考えられる.当時は古富 士火山の山体が大きく東方に張り出していたらしく,現在の東山麓には旧期溶岩流が見ら - 36 - れない.約 11000 年前に噴出した三島溶岩流は,パホイホイ型で多くのフローユニットか らなるが,全体の体積は 4km3 にものぼり,北麓の猿橋溶岩流とともに最も長い溶岩流のひ とつである. ステージ2(8000~5600cal BP):山頂火口からの小規模な間歇的噴火と土壌層の形成期 噴火活動が低調であった時期らしく,間歇的な火砕噴火で特徴づけられる.東麓には数 枚のテフラ層とともに,厚さ1m以上に達する黒土層が発達した. ステージ3(5600~3500cal BP):山頂火口,側火口からの爆発的噴火と溶岩噴出期 5600年くらい前になると,爆発的噴火や溶岩流出が活発になった.北西~南東斜面には 側火口が多く生まれ,降下スコリアや,火砕流も噴出した.また大量の溶岩流が山頂及び 山腹火口から流出し(中期溶岩と呼ばれる),新富士火山の山体を高めるのに寄与した. 山頂火口から噴出した溶岩の大部分が,古富士山体の大崩壊によって生じた西斜面の地 形的くぼみを埋めて現在の対称的な円錐形の山体を整えたと考えられる(大沢溶岩).こ の溶岩の一部は崩落して岩屑となり,西麓の大規模な火山麓扇状地の原型を形成した(上 井出扇状地). この時期には,また数多くの側火山が形成された. ステージ4(3500~2200cal BP):山頂火口からの爆発的噴火期 (1)大規模な降下テフラや火砕流の噴出(3500~3300 cal BP) 3500年前以降,再び爆発的な活動が顕著となり,大~中規模のスコリア降下堆積物が形 成された.また山頂から大量に噴出した高温のスコリアが山腹の急斜面に落下し,そのま ま滑り落ちて火砕流となる現象が発生した(大沢火砕流).プリニー式あるいはサブプリ ニー式のスコリア降下が数多く起こり,山頂から西方に広く分布するものもある(大沢ス コリア). (2) 御殿場岩屑なだれ(2900cal BP) 今から2900年前に富士火山の東斜面で大規模な崩壊が起きた.おそらく円弧状の滑落凹 地が生じたと思われるが,現在ではその後の噴出物に埋められて痕跡も残っていない(図5 -2,宮地,2007).岩屑なだれ堆積物は御殿場岩屑なだれ堆積物と命名され,体積は1.05km3, 53km2の面積を覆い,標高500から1000mの範囲に分布する.二次性の泥流堆積物がさらに下 流域に広がり,現在の御殿場市街地はこの2種の堆積物の範囲内にある.新富士火山の一 部と,それよりも多くの古富士火山の山体の崩壊に関与したと解釈される.崩壊は3つの ブロックが次々に崩れたようで,熱水変質作用を受けた古富士火山の山体が大きくえぐら れた.丁度約3000年前には,富士山西方の富士川断層が活動したことが分かっている ので,断層運動が山体の大崩壊を引き起こした可能性は十分に考えられる. (3)山頂火口からの火砕物噴火(2900~2200 cal BP) 山体崩壊後,山頂火口からは少なくとも17回の大~中規模のスコリア噴火があった.こ のうち2200年前の湯船第2スコリアの噴出が山頂で起きた最後のマグマ噴火であった.火口 近傍に堆積した高温のテフラは強溶結し,一見溶岩流のように見える岩体を形成した.ま - 37 - た急傾斜の山体斜面では二次流動による火砕成(clastogenic)溶岩流を生じ,少なくとも 海抜3000mの地点までは流下した.このような高温の火砕物集合体の二次流動化は,新富士 火山の激しい山頂噴火の際には数多く起きていたと考えられる.また,この時期には火砕 流も複数発生し,北東斜面や東南東斜面を流下し,標高700mの地点にまで到達した. ステージ5(2200 cal BP~現在):側火山,側火口からの小・中規模噴火期 (1)9世紀以前(2000 cal BP~AD800) 2200年前の山頂噴火のあとは,現在まで全て山腹噴火である.北西~南東方向と北東斜 面に火口は集中し,噴火の記録が存在するようになった8世紀以降は,信頼できる噴火の事 例が少なくとも10回は存在する.2200年前から1200年前(9世紀)の間では,特に北東斜面 での噴火が顕著であり,複数の火口が開き,小規模でやや低温の火砕流の発生が見られる. 北西~北斜面では,1200年前頃,標高3400~2100mにわたりほぼ2列の割れ目火口群が生じ, 御庭・奥庭第1・2溶岩流が流下した.同じ時期に南~南東斜面にも割れ目火口群が形成さ れ,複数の溶岩流が流下した. (2) 9世紀以降(AD800~現代) 西暦800~802年の噴火では,北西及び北東斜面から多数のテフラが噴出した.西小富士 火口から流出した鷹丸尾溶岩流は,それまで道志河から忍野に流れていた桂川の支流を堰 き止め,山中湖を形成した.北麓へ流下し,富士吉田市の一部を覆う剣丸尾溶岩は,第1溶 岩流がAD937年,第2溶岩流がAD1033年に標高2000~3000mに達する割れ目火口群からそれぞ れ流出した. この時期に新富士火山の全歴史を通じて最大規模クラスの噴火が2回起きた.そのひとつ が西暦864~866年(貞観六~七年)の噴火で北西麓に生じた長さ5kmの割れ目から1.5km3の マグマが噴出し,せの海を埋めた.もうひとつの大噴火は,AD1707年(宝永四年),南東 腹の標高のかなり高いところから起きたプリニー式の噴火である. 1707年噴火を最後に富士山では明確な噴火は確認されていない.しかし,山頂火口周辺で はAD1900年の頃までは,地熱異常や噴気活動が顕著であった.その後,地熱活動は徐々に 沈静化し,1950年代までは確認されていた地熱の高い箇所も1980年台以降は完全に消失し て現在に至っている. 貞観噴火は新富士火山の新期活動では最大の規模の噴火であった.噴出したマグマの殆 んどが溶岩流として北西麓に広がり,爆発的な活動はきわめて小規模であった.噴火は「貞 観六年(864年)の6月中旬に始まり,その後,2ヶ月以上経過した段階で,溶岩流は すでに本栖湖と「せの海」に流入しており,多くの民家がその下敷きとなっていた.また, 同じ頃,別の溶岩流が河口湖方面にも流下しつつあった.この事実は,噴火開始後数ヶ月 間に現在の青木ヶ原溶岩を構成するほとんどの溶岩が流出したことを示している.翌年に なっても噴火は継続されていたが,その規模は小さなものであり,貞観八年(866年)の初 め頃には,噴火活動は完全に終結していたものと思われる」. はじめに大室山西方の下り山割れ目火口列からパホイホイ溶岩が流出し,本栖湖および - 38 - 「せの海」に流入して特徴ある枕状溶岩などを形成した.その後噴出率の上昇に伴いアア 溶岩を北方に流し,「せの海」西部の相当部分を埋め立てた.次に石塚火口よりパホイホ イ溶岩が流出し,北方に流れ「せの海」の西半分を埋めた.その後火口はさらに高度の高 い長尾山付近を通る割れ目に移動し,最初はパホイホイ溶岩次に大量のアア溶岩が流出し, 北に流れ,現在の西湖の一部を埋め立てた.最終期の活動は長尾山火砕丘の形成と氷穴火 口列からの大量のパホイホイ溶岩の流出で,その一部は大室山の南麓に浅い溶岩湖を作り, 一部は真西に流れ,大部分は北及び北東方に流れ広い面積を覆った. 貞観噴火以前には, 「せの海」という単一の湖が存在していたが,青木が原溶岩に埋め立てられて現在の精進 湖と西湖に分かれた事実は,ボーリングによって確かめられた. 宝永噴火は1707年12月16日(宝永四年十一月二十三日)に富士山南東斜面で発 生し,翌1708年1月1日までの16日間続いた. 「1707年10月28日,東海 地方はM8.7の宝永地震に襲われ,多数の犠牲者が出た.12月15日午後からは富士山 麓でも体に感じる群発地震が始まり,15日夜からはさらに広い範囲で地震が感じられる ようになった.12月16日の午前中には2度の大地震があり午前10~12時ころ,富 士山南東斜面から噴火が始まった.黒雲が火口上空に立ち上り,火口から約10km 以内の 地域には,最大で20~30cm の大きさの火砕物が噴煙から落下して四散し,その内部か ら高温のガスが噴き出して出火し,萱ぶき屋根の家屋などが燃えた.この時の噴出物は白 色の軽石で,軽石は午後4時頃まで噴出した.その後,噴火はいったん収まったものの夜 に入り再開し,火口からは火柱が上がり火山弾や黒色スコリアが噴出した.この間の一連 の噴火で火口から東北東に約10km 離れた現在の静岡県小山町須走では家屋の約半数が焼 失した.,発にともなう空振で江戸の町中でも戸や障子が強く振動した.噴煙は偏西風に より富士山上空から東方に流され横浜方面に達し,江戸は午後1時頃から噴煙におおわれ て暗黒になり,灰色の火山灰が降り出した.夜に入ると灰色の火山灰は黒色の砂へと変わ り,この砂は夜半には降り止んだ. 噴火活動は12月25日の午後3時頃に再び活発化 し,やや規模の大きな噴火が27日の夜半まで続き,江戸でも27日まで降灰した.その 後,噴火活動はしだいに終息にむかい,1708年1月1日未明(午前4時頃)の爆発音 を最後に一連の噴火は終了した. - 39 - - 40 - 富士五湖の誕生と変遷 山梨県立大学特任教授 輿 水 達 司 はじめに 富士山の活動があったからこそ、山麓に富士五湖が誕生した。すなわち、富士五湖は、 この富士山の活動の過程で誕生し、その後の新富士火山の溶岩流などによって堰き止め られたりし、各々の湖は富士山と同様に姿を変え、今から約千年前にほぼ現在の姿にな った。ところが、これら富士五湖が形成される以前には、セの湖(うみ) 、旧河口湖な どと呼称される湖が存在したとされるものの、その詳細な形成史等については未知の部 分が少なくない。 これらの未解決の問題の解明を志し、われわれは最近の十年余りの間に、富士五湖の 湖底あるいは湖畔から、地下数十~二百メートルのボーリングコアを採取した。この解 析を進める過程で、湖の成り立ちは勿論、湖周辺の環境の移り変わりの様子も見事に記 録されていることが理解できた。また過去の富士山の激しかった活動の情報も、具体的 にとらえられた。 富士山周辺のことだけではない。思わぬ情報も得られた。中国大陸から飛来する「黄 砂」が、富士五湖の湖底堆積物の中に、湖の誕生以来、現在まで堆積・記録されていた のだ。しかも、黄砂の飛来量を時代を追って調べてみたところ、最近百年間に記録され た量は、過去一万年間の中で最大であることもわかった。これは、中国大陸における人 為的な開発行為が、結果として砂漠化に拍車をかけたとみて、大きな矛盾はないだろう。 ともかく、富士山麓の静かな美しい湖の底には、東アジアの環境の情報まで記録されて いるのである。 このような研究上の成果の全てについて、ここで紹介するには時間の都合で無理があ る。そこで本講演では、かつて富士山の開発の流れの出始めた時期に、自然の保全策も 含む観点から、富士五湖も含む富士山の自然科学の全貌が、大正 14 年に山梨県嘱託理 学士石原初太郎によってまとめられた「富士山の自然界」をはじめとし、その後の先人 の調査・研究の成果を踏まえ、その上で私が主体的に関与した近年における富士五湖に 関する自然科学的研究から得た新知見を中心に触れてみたい。 富士五湖の成り立ち 石原初太郎の著作の中で、山中湖、河口湖、西瑚、精進湖、本栖湖が取りあげられ、 個別に水深や湖盆の形状など、現在と同レベルの正確な記載がなされている。この中で 忍野八海の湧水は、山中湖の湖水とは別の成因であるなど、最近の知見からみても先見 - 41 - 性の高い記述がなされている。しかしながら、個々の湖の形成過程や変遷については述 べられていない。これについては富士山が誕生以来わずか 10 万年程度しか経過してお らず、火山としては若い山であり、それゆえ古い時代に遡って活動を知ることが困難で あり、この事情がまた富士五湖の形成時期を知る上で困難にしている。 ところが最近において我々は、富士五湖の湖底堆積物につき音波探査や磁気探査によ って湖底の深部にわたる科学的な把握を行い、その上で、山中湖、河口湖および本栖湖 につき湖底堆積物(図1)を具体的にボーリングコア採取し、これらにつき年代等の検 討がなされてきた。この結果、富士五湖の形成の開始期は、富士山の活動ステージの中 で、現在よりも約1万年前までの新富士期よりも更に以前になる、古富士期(約1万年 前~10 万年前)に遡ることが明らかになってきた。 - 42 - 湖の成り立ちから現在への変遷 湖底ボーリングコアの検討の中で、山中湖の堆積物に含まれる化石に関する当時の環 境解析の検討によって、山中湖の約1万2千年頃から現在までにわたり、ここが湖ある いは湿地的であり、乾燥することのない環境が連続していることが明らかにされ、しか も湖の環境が大きく4ステージに識別された新知見は特筆される。この成果を誕生させ る過程では、山梨県衛生環境研究所の吉澤博士による珪藻化石の研究が大きく寄与して いる。 すなわち、先ず河川性・湿地性の環境が、次に湖の環境に変わり、その後再び河川性・ 湿地性の環境になり、その後今から 1000 年ほど前以降から現在の湖の環境に変遷して きていることが認められた。 これらの環境変遷が山中湖につき明らかにされることによって、山中湖の西に位置す る忍野地域にかつて存在した湖沼が、山中湖と一体の大きな湖を形成していたとする一 部の考えについても、新たに科学的な考察が可能となった。その結果、忍野地域にかつ て存在した湖沼は、歴史科学・地質学的にみて、山中湖とは連結する時期はなく、忍野 地域に独立の湖を形成していたことも理解できるようになってきた。 - 43 - 一方で、河口湖から西側の四湖のうち、西湖・精湖・本栖湖は地下で連結している点 については、湖水の流動性などの科学的知見からも、より合理的に認識されるようにな ってきた。西湖から西に連なるこれらの湖が富士山の活動で先ず二分され、その結果で きたセの湖がその後のいわゆる青木ヶ原溶岩の活動によって、現在の姿になった貞観年 間以降は、富士五湖は現在まで大きな変化がなく推移している。 湖の形成史以外の最近の話題:地球温暖化と西湖クニマス生息の地質学環境 富士五湖の湖底堆積物のコア試料には、湖の成り立ちのみならず、湖周辺の環境の移 り変わりの様子も見事に記録されている。過去の富士山の激しかった活動の情報も具体 的にとらえられた。 富士山周辺のことだけではない。思わぬ情報も得られた。中国大陸から飛来する「黄 砂」が、富士五湖の湖底堆積物の中に、湖誕生以来、現在まで堆積・記録されていたの である。しかも、黄砂の飛来量を時代を追って調べてみたところ、最近百年間に記録さ れた量は、過去一万年の中で最大であることもわかった。これは、中国大陸における人 為的な開発行為が、結果として砂漠化に拍車をかけたとみて、大きな矛盾はないだろう。 ともかく、富士山の静かで美しい湖の底には、東アジアの環境の情報までが記録されて いるのである。 このような富士五湖の中で西湖においては、従来そこに生息することが予想し難い 「クニマス」 (魚類)の存在などの新しい知見が加わりつつある状況を迎えている。 この話題については、本講演会の中で魚類の研究者によって、別途に話題提供がなされ ますが、このクニマスの生息できる環境については、湖の成り立ちと変遷史のなかで理 解ができる。 このことに関連し、ごく最近の2012年9月22日から数日間にわたり、国土地理 院による48年ぶりになる西湖湖底地形調査が実施された。この調査に演者は協力した ので、この湖底調査の今後の展開や調査の意義などについても簡単に紹介したい。 - 44 - 富士北麓の溶岩洞穴 富士河口湖町教育委員会生涯学習課 杉 本 悠 樹 龍宮洞穴(国指定天然記念物) 富士北麓の西湖畔の青木ヶ原に所在する洞穴で、標高 940m に位置する。長さ 60mの規模をもち、洞口付近一帯にほ ぼ南北の溶岩溝が発達しているのが特徴である。洞穴内の気 温は非常に低い。 古くは富士山道者巡拝の霊場として著名であった。今は西 湖の祭である龍宮祭(毎年 8 月 2 日開催)の神事が当洞穴で 行われている。大正頃までは雨乞の行事も行われたという。 西湖蝙蝠穴およびコウモリ(国指定天然記念物) 西湖畔の青木ヶ原にある溶岩洞穴。本穴は富士 北麓溶岩洞穴中最大の規模のものであり、洞穴内 部表面は入口付近を除き、比較的良好に溶岩鍾乳 石面が発達し、大広間の天井は蒲鉾形を呈する。標 高 900m。形状は不規則で、比較的大きな支洞をも ち、総延長 350m に及ぶ。洞底面はほぼ平坦で、とこ ろによって縄状溶岩も発達し、極めて完全な裂隙性 成因による溶岩洞穴である。他の洞穴とは異なり夏でもあまり寒冷を覚えず、冬でも温暖で結 氷をみないため、多数のコウモリ群が冬眠の場所としていたが、今は少なくなった。コウモリは アブラコウモリ・ウサギコウモリ・キクガシラコウモリ・コキクガシラコウモリがみられ、洞穴とともに 国指定の天然記念物に指定されている。近年ではモモジロコウモリの棲息も確認されている。 本栖風穴(国指定天然記念物) 本町の本栖字石塚に所在する溶岩洞穴で第 1・第 2 の風穴から構成さ れている。第1風穴のみが国指定の天然記念物に指定されており、総延 長 330m前後で、富士北麓溶岩洞穴中でも極めて長いものである。しかし、 洞壁の形状はほとんど原形をとどめず、洞底面には天井の落石岩塊が散 乱し危険な状態である。洞穴の中央部に深さ 20m に及ぶ 2 個の噴気孔状 の穴をもつ。溶岩中に含まれていた火山性ガスが洞穴直後洞内に下方か ら発散し、その量と圧力が高いため破裂孔をつくってガスとともに下部の 溶岩をも噴出させて形成された、学術上も貴重な存在である。 - 45 - 富岳風穴(国指定天然記念物) 本町の精進地区の青木ヶ原に所在する溶岩洞穴。国 道 139 号のすぐ南に位置する。標高は 1,000m を測り、延 長 120m と規模の大きい洞穴で、入口から 20m 付近から 東方にのびる延長 80m の支洞を有することが特徴となっ ている。洞壁の形状は、ほぼ前面にわたって溶岩鍾乳石 面が表れており、極めて完全な裂隙性成因の溶岩洞穴 である。洞内には縄状溶岩もみられる。 富士風穴(国指定天然記念物) 本町の精進地区の青木ヶ原内に所在し、青 木ヶ原丸尾(溶岩流)内の溶岩洞穴。標高 1,110m、長さ 230m 以上、洞底幅 5~10m。天 井も高く平均 5m で、ほとんど直立のまま出入り できる規模の大きい溶岩洞穴である。富士山 麓の洞穴の中で最も気温が低く、多量の氷を 蔵しており、盛夏でも融解し尽すことはほとん どない。ただ洞壁の一部は崩壊によって原形 が崩れた所もあり、亀裂が出ている所もある。特に入口から約 40m 前後の地点では、天井に数 条の亀裂があり、洞底には比較的新しい落石とみられる溶岩塊が多数存在する。 船津胎内樹型(国指定天然記念物) この胎内樹型は入口から北西に向かって開き、 入口で幅約 2.5 メートル、高さ 1.5 メートル、最 も広い所で、幅 2.8 メートル、高さ 1.2 メートル を測る。さらに進むと、洞は傾下し、細くなる全 長 18 メートルの横臥(横向)樹型である。最も広 い所は天井に溶岩鍾乳石(通称・乳房)があり、 洞側には溶岩が肋骨状に垂れ下がり、鉄分による 赤色により、内臓を取った胸腔に似ていることか ら、胎内の名称が付いた。洞が狭くなった位置の右側に東北向きで洞が2つ平行して存在 する。また、左側に進み狭い降り口(後産)を過ぎると、高さ、幅共に 0.9~1.5 メートル、 全長 17.6 メートルの横臥洞穴(通称・父の胎内)があり、先端部には天井及び底部を横切 る 2 つの小樹型もある。また後産を降りて左側(東南方向)に径 0.8~1.2 メートル、全長 22 メートルの横臥洞穴(通称・母の胎内)がある。 - 46 - 大杉地区溶岩樹型群(富士河口湖町指定天然記念物) 富士山の溶岩樹型は、大型で多数存在する状況 は世界的にみても他に例がない。また、数本の樹 木が重なり合って出来た複合溶岩樹型も世界で 富士山以外に例がない。富士河口湖町本栖の大杉 地区の樹型群は、標高 1,100m 前後の青木ヶ原溶 岩中に位置する。大杉地区の溶岩樹型は、倒木が 多かったこと、またその多くが腐朽していること が特徴で、青木ヶ原溶岩の噴出の前に台風等によ る風倒木が多かったと考えられる。そのため、複合樹型や横位の樹型が多数確認されてい る。樹種はブナやカエデと考えられる根部が広がった形状のもあり、現在の大室山の植生 に類似していた可能性も示唆される。 溶岩洞穴等を構成する地質 龍宮洞穴、西湖蝙蝠穴、本栖風穴、富岳風穴、富士風穴周辺(青木ヶ原溶岩) 龍宮洞穴、西湖蝙蝠穴、本栖風穴、富岳風穴、富士風穴は北西麓の側火山である長尾山 および石塚火口付近から貞観 6 年(864)から同 8 年(866)にかけて噴出した青木ヶ原溶 岩の流下により形成された。比較的標高の低い北西麓での噴火であり、溶岩流は面的な広 がりをもち傾斜の緩い山麓をゆっくりとした速度で流下したしたと考えられる。青木ヶ原 溶岩流の流下時に表面が冷却され凝固していくなか、溶岩流の内部の溶岩は流れ続けてチ ューブ状の空洞となり洞穴が形成された。また北西麓の森林を巻き込んだ際に樹木が鋳型 となって多数の溶岩樹型となった。鳴沢村の神座風穴附蒲鉾穴および眼鏡穴、鳴沢氷穴、 大室洞穴(以上国指定) 、軽水風穴(県指定)といった天然記念物の洞穴、国特別天然記念 物の鳴沢溶岩樹型も同一の青木ヶ原溶岩の中に分布する。 船津胎内樹型(剣丸尾溶岩) 船津胎内樹型は、平安時代の承平 7 年(937)に富士山頂から北にやや下った側面の 噴火により噴出した剣丸尾溶岩流が流下した際、山麓の樹木が巻き込まれて鋳型となり 形成された溶岩樹型である。この溶岩流は富士河口湖町船津と富士吉田市の境界線付近 の南北に長い範囲を通過し、北端は富士吉田市上暮地付近にまで達している。船津地区 では縄文時代中期に流下したと思われる船津溶岩流の上をこの剣丸尾溶岩などが流れ ている状況から、溶岩の層位を建物の階層に例え、船津口登山道の周囲の溶岩を三階と 呼称し、現在も小字名として残っている。富士吉田市松山地区では剣丸尾溶岩の露頭が 断崖を形成しているのが観察でき、約 10m の高低差を呈している。青木ヶ原溶岩とは対 照的に急斜面を高速で流下したものと推測される。 - 47 - 富士河口湖町の溶岩洞穴・樹型と富士山の溶岩流の分布 溶岩洞穴等の調査 平成 20 年(2008)~21 年(2009)にかけて、町内に所在する国指定天然記念物の6件の溶 岩洞穴等の保存管理計画の策定に伴い、詳細測量調査を実施した。これまで不明だった位 置、展開範囲(地表への投影像)が正確に図化された。測量には、3Dレーザースキャナーが 導入され、洞穴の形状が型取りのように記録された。富岳風穴、富士風穴においては、恒常的 に氷が洞床を覆っているため、超音波を用いた地中レーダーにより氷の厚さ、洞床の形状の 計測を行った。 富士山麓から宇宙へ!? 平成 22 年 12 月 2・3 日、JAXA の宇宙科学研究所・相模原キャンパスで「月と火星の縦 孔・溶岩チューブ探査研究会」が開催され、平成 24 年 3 月 9・10 日には、富士河口湖町を 会場として第2回目の研究会が開かれた。月や火星にも溶岩チューブが存在する可能性が 指摘されており、それらの探査研究に向けて、富士山麓の溶岩洞窟がさまざまなヒントを 与えようとしている。 - 48 - 富士山の絵画表現 山梨県郷土研究会 高 橋 晶 子 はじめに 本稿は富士山の描かれ方の時代ごとの変遷を、既存の研究成果を元に簡便に紹介し、富 士山の絵画・デザインを見る際のヒントとしてまとめたものである。 富士山は日本では珍しいきれいな成層火山・単独峰として目立つ存在であり、古代より 現代にいたるまで、各時代の画家たちの絵心を揺さぶり続けてきた。有史以降 10 回以上噴 火してきた富士山であるがその山容自体は 7 千年ほど前から大きく変わってはいない。し かし絵画表現でのカタチは実景とは違い、その時代ごとに富士山に投影される人々の思い と連動して変化する。 古代には和歌の歌枕や物語のイメージから、観念的に高く急峻な山として描かれ、中世 には三峰型ともいえる単純化された山頂部の描き方が定形化し、現在の私たちの富士山の 描き方にも影響を及ぼしている。江戸時代には狩野派、写実画から浮世絵の富士など多様 な形式で画家に愛され、富士山の絵画の黄金期を迎える。しかし、近代には「日本の象徴」 として意義付けられ、風呂屋のペンキ絵などで庶民に親しまれる一方、戦時下での戦意高 揚にも活用されるなど、政治色が強くなっていく。現在ではその「日本的」 「伝統的」なイ メージを利用して、アンチテーゼや本歌取り的な扱いの作品も多く作られている。 以下、時代ごとに具体的な作例をあげて、富士山の描かれ方の特徴を述べていくことと する。 1、平安・鎌倉―想像上の急峻な富士山 富士山の絵画は日本各地の名所を描いた屏風などで平安時代 10 世紀には描かれていた とされるが、現存する作品は延久元年(1069)制作・東京国立博物館保管「聖徳太子絵伝」 (図1)がもっとも古い。これは、聖徳太子の伝説的な伝記「聖徳太子伝略」などを元に、 聖徳太子の生涯を描いた障壁画で、中には太子が 27 歳の時、従者とともに甲斐の黒駒とい う山梨名産の馬に騎乗し、富士山に駆け上がったという場面が描かれる。この場面には当 然、富士山が登場するのであるが、その形は普段われわれが見慣れた裾の広い鈍角の円錐 形でなく、雲間から急傾斜でそそり立つ山として描かれる。 このような急傾斜の富士山は 13 世紀制作・久保惣記念美術館蔵「伊勢物語絵巻」(図 2) や、元亨 3 年(1323)制作・四天王寺所蔵「聖徳太子絵伝」 、14 世紀制作・鶴林寺所蔵「聖 徳太子絵伝」 、室町時代制作・同寺所蔵「聖徳太子絵伝」など、細部の違いはあるが長期に わたって同様な傾向に描かれている。おそらく、既存の絵を規範として描き続けたためで あろう。 このような形は実際の富士山の形とは異なっている。しかし、富士山が絵画に描かれ始 めた平安時代、絵画制作の中心地であった京都周縁では、富士山を実見する者は少なかっ た。また、伊勢物語の「比叡の山を二十ほど重ねた高さ」などの記述や、和歌に詠まれる 噴煙を上げる近寄りがたい山のイメージが先行し、このような概念上の富士山が描かれて いたと考えられている。 - 49 - 2、鎌倉末・室町時代―なだらかな三峰型の富士山 さて、幕府が鎌倉に開かれると、次第に富士山は多くの人に実見されるようになってい ったと考えられる。その中で、富士山の絵画表現にも変化が現れる。 鎌倉時代、元亨元年(1323)制作・真光寺蔵「遊行上人縁起絵」は、第 2 巻には古風な そそり立つ富士山が描かれるが、第 8 巻ではなだらかな稜線をもち山頂を 3 つに分けた新 しい形の富士山が描かれる。この 2 つの巻では、制作時期が異なる可能性があり、第 8 巻 では新しい形の取り入れがあったものと思われる。この三峰型ともいえる形式はこの後、 非常に多く描かれるようになり、室町時代に入ると水墨画では伝雪舟作の永青文庫所蔵の 「富士清見寺図」 (図3) 、垂迹美術では狩野元信印の富士山本宮浅間大社所蔵「富士参詣 曼荼羅図」 (図4)など著名な作品にもみることができる。 また、この三峰型は江戸・近代・現代を通じても多くの富士山の絵画に表される。山梨 県内に残る江戸時代から近代の資料の中にも、富士山をデザイン化した富士講の旗(マネ キ)(図8)や、富士山信仰を広める為に社寺が発行した「富士山八葉九尊図」などの刷り 物(図5)にも見られる。 この三峰型の富士山は、 現代でも子どもの落書きなどにふと現れることがある。 しかし、 実際の富士山では、絵画のように山頂が 3 つのヒダのように大きな峰に分かれてみえる場 所はない。 研究者の間でもこの三峰型の由来には諸説ある。 美術史家の成瀬不二雄氏は、 漢字の 「山」 の成立に由来するという一般説を否定し、仏教思想の三観一心・三密同体を下敷きに、富 士山を祀る中心地である静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社から見た、やや三峰にみえ る風景に準拠する説を挙げている。富士山信仰の研究家・竹谷靱負氏は富士山を蓬莱山に 比定する思想から、古代の急傾斜の富士山の形も三峰型も両方とも、中国の神仙郷の考え 方が日本に影響を及ぼしたものという説を挙げる。 なお、中世から近世では、富士山の頂上は密教の胎蔵界曼荼羅の中心部分、中台八葉院に なぞらえる思想が知られている。その考えでは富士山頂は八葉(8 つの峰)に分かれると説 明されており、3 つに結びつける積極的な考えではない。このように三峰型の由来はまだ定 説はないが、実景ではなく概念的な思想に基づく可能性が高いものと推定されている。 3、江戸時代―多様な富士山・浮世絵の富士山 江戸時代は当時の主流画家狩野派を初め、富士山の絵画が数え切れないほど制作された富 士山の絵画の黄金期である。幕府が開かれた江戸からは、富士山がよく見え、川柳で「半 分は江戸のものなり富士の雪」 (安永 4 年(1775) 序一陽井素外 編『名所方角集』 )などの 歌もあるほど富士山人気があった。無論、江戸時代後半からの富士講の盛行は、この江戸 庶民の富士山好きが下地となっている。 狩野派の絵画では、 粉本主義もあり、 中世以降の三峰型の富士山が多く描かれているが、 江戸時代も半ばには、西洋画の遠近法をとりいれた司馬江漢などにより、写実表現を取り 入れた富士の絵も描かれる。代表作である文化元年(1804)制作・静岡県立美術館蔵「駿 州薩陀山富士遠望図」 (図6)では富士山向かって右の腹に、造詣的には美しくない宝永の 噴火口の跡も描き、写実主義を通している。 江戸時代で特筆すべきところでは天保 2 年(1831)に浮世絵で葛飾北斎が「富嶽三十六 景」 (図7)シリーズを刊行し、これが海外にも渡り、その卓越した絵画表現とともに日本 に富士山ありと知らしめた。北斎の富士山は、定型の三峰型ではないが、写実とも違い、 ある程度単純化された富士山の形を大波や橋、桶などから覗かせる取り合わせの妙で、浮 世絵の芸術的な価値を高めた。同時代の浮世絵師・初代歌川広重も多くの富士山の浮世絵 - 50 - を出しており、嘉永 5 年刊行の「不二三十六景」や、安政 5 年(1858)刊行の「冨士三十 六景」などが著名である。なお、歌川広重は、 「富士見百図」では実景を重んじて富士山を 描くことを宣言している。実際、2 度にわたる江戸から甲府までの旅行で、富士山をデッ サンし、作品にいかしている。 4、近代以降―国体の象徴から日本的なものの象徴へ 明治以降近代国家の成立に伴い、富士山の描かれ方はさらに多様化する。その一方、 「日 本の象徴」という新しい役割をになっていくことにもなる。 富士山は江戸時代からすでに、海外輸出用の陶磁器・漆工芸品に多く表されて、日本ら しさを表現するアイテムとなっていたが、やがて万国博覧会などで出展作品にも多く表現 されるようになる。 国内でも画題としては変わらず好まれ、日本画の大家・横山大観や富岡鉄斎が好んで描 き、西洋画を学んだ日本人洋画家も多く描いている。特に、横山大観は非常に多量の富士 山の絵を描いた。その代表作のひとつは大正時代に描かれた静岡県立近代美術館蔵「群青 富士」 (図9)で、金色の雲間から、頭をだした紺青の富士山をすっきりとした構図で斬新 に描いている。 そんな中、明治 27 年(1894)に国粋主義者の志賀重昂の著した『日本風景論』などで、 その形や存在を絶賛された富士山は、次第に「国体」の象徴として位置づけられていく。 国体とは日本神話に基づき、皇室は神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与 えられているという考えを元に、その天皇により統治された人民やふるさとのきまり・格式 といった意味である。日本で一番高く秀麗な富士山がその象徴にふさわしいとされた。こ の精神は明治 37 年からの国定教科書にもとりこまれ、富士山のイメージは「日本一の山」 として大衆化、通俗化していく。関東大震災後に広まった風呂屋の背景画もこの流れの影 響下にあると考えられている(図10) 。 特に第二次大戦中の富士山は国威発揚の記号となり、朝日、桜、日本刀などとセットに 広告や子ども用の雑誌付録などの日用品までに繰り返し表された。そのためか戦時下の富 士山の絵はどこか「うんくさい」印象をぬぐえない。この記号化された富士山のイメージ に消費者としては少し食傷ぎみになったか、昭和 15 年に刊行された太宰治の小説「富岳百 景」の前半部では著者の「富士山」に対する不信感がちりばめられている印象をうける。 御坂峠の茶屋から見た河口湖と富士山の取り合わせを、 「まるで風呂屋のペンキ絵」 「芝居 のかきわり」と評し、富士山の背負ったイメージに対する不快感を示している。 戦後、富士山は絵画の主題としては自由になり、伝統へのアンチテーゼや単純化したポップ デザインとして使用されるなど、さらに自由に多種多様な富士山が表現されるようになる。 現在も「富士山」を表現することは伝統的なものや日本的なものを示唆する手段となっ ている。それは、正月の年賀状の図柄としていまだに多く表され、いまだに中世以来の三 峰型に富士山を描く人がいる現象などに残っているように思われる。 主な参考文献 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ 富士吉田市歴史民俗博物館編・発行『富士山の絵札図録』 (1996 年) 鳥居和之ほか編『日本の心 富士の美展図録』 (NHK 名古屋放送局、1998 年) 竹谷靱負著『富士山の精神史―なぜ富士山を三峰に描くのかー』 (青山社、1998 年) 成瀬不二雄著『富士山の絵画史』 (中央公論美術出版、2005 年) 富士吉田市歴史民俗博物館編・発行『おめでたいかたちー富士の意匠―』 (2005 年) 山梨県立博物館編・発行『北斎と広重―ふたりの冨嶽三十六景図録』 (2007 年) 山梨県立美術館編・発行『富士山-近代に展開した日本の象徴』 (2008 年) 山梨県教育庁学術文化財課編『富士山―山梨県富士山総合学術調査研究報告書』 (山梨県教育委員会、 2010 年) - 51 - 図1 東京国立博物館保管 「聖徳太子絵伝」 (部分) 図 3 伝雪舟作「富士清見寺図」 (部分)永青文庫蔵 図 6 司馬江漢「駿州薩陀山富士遠望図」静岡県立美術館蔵 図 9 横山大観「群青富士」 (部分) 図 8 マネキ 富士吉田市歴史 民俗博物館蔵 静岡県立近代美術館蔵 図2 久保惣記念美術館 「伊勢物語絵巻」 (部分) 図 4 狩野元信印「富士参詣曼荼羅」 図 5 「富士山八葉九尊図」正福寺版 富士山本宮浅間大社蔵 図 7 葛飾北斎「富嶽三十六景」山梨県立博物館蔵 図 10 富士山のペンキ絵 - 52 - 富 士山と文学 室 山梨県立文学館 高 有 子 はじめに 古代 から 近代 まで 、文 学の さま ざまな ジャ ン ルに 富 士山 は登 場する 。古く は「 常陸 國 風土記 」に 始ま り、和 歌・ 物語 ・日 記・ 紀行・ 説話・ 漢詩 ・漢 文 、さ らに 近代 の小 説・ 随筆・ 紀行 ・詩 歌に到 るま で、 富士 山に は、日 本人が 抱き 育て てきた 様々 な思 いが 託さ れてき た。 本講 座は、 その 広範 な中 から 、一部 を概観 する もの である 。 類の な く 高い山 ・季節を問わず 雪の消えない山・ 神の山・仙女の舞う山… 1 富 士 山 に 関 す る 記 述 とし て 最 も 古 い も の の 一 つ に、「 常 陸 国 風 土 記 」 が あ る。 客 神 を 厚遇し た筑 波山 に対し 、 富 士山 は逆 に冷 遇した 山とし て登 場 し 、季節 を問 わず 雪が 積も る寒き 山で あり 、 厳し く人 を寄 せ付 けな い山 と して捉 えら れて いる。 古代 の富 士の イメー ジの 原点 とし ては 、資料 ①及び ②の 「万 葉集」 の山 部赤 人と 高橋 虫麻呂 の歌 が重 要とな る。 この 二首 にお いて、 富士山 は 神 々し い神の 山で あり 、太 陽や 月、雲 を隠 すほ どの比 類な き高 さを ほこ り、火 の山で ある と同 時に白 雪を 常に おく 山と して詠 まれ てい る。 こ れら の富 士の イメ ージは 、後代 の多 くの 和歌に 本歌 取り され 、物 語の記 述に 反映 され( 資料 ③「伊 勢物 語」な ど)、様々な バリ エー ション を生 んで いっ た。 散文 では 、9 世紀 の文 章博士 都良 香が 記し た「富 士山記 」 ( 資料 ④)があ る。ここに は 具体的 な富 士の 姿が記 され ると 同時 に、 「 白衣 の美女 」が 富士の 頂に 舞っ たと いう 土地の 古老の 話を 伝え 、 修験 の祖 とさ れる 役の 行者が 富士山 頂で 修行 を行っ たと いう 伝承 にも 触れて 、神 仙思 想との 結び つき を示 して いる。 ① 万葉集 巻3 山部 赤 人 の歌 山 部 宿 祢 赤人 の 不尽 山 を 望み し 歌一 首 あ めつち 天地の 分れし時ゆ かむ 神さびて 短 歌を 并 せ た り 高く貴き 駿河なる た か ね 富 士 の高嶺を さ 天の原 し らくも 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行 きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺 は 反歌 田 子 の 浦 ゆう ち 出で て み れば ま 白に ぞ ② 万葉集 巻3 不 尽 山 を 詠み し 歌一 首 なまよみの 富 士の 高 嶺 に 雪は 降 りけ る 甲斐の国 短歌 を 并せ た り うち寄する 駿河の国と - 53 - こちごちの 国のみ中ゆ 出 で立てる 富士の高嶺は 天雲も 雪もて消ち 降る雪を 燃ゆる火を らず くすしくも める海そ 国の は います神かも 富士川と 鎮めとも 飛ぶ鳥も 火もて消ちつつ 石花の海と 人の渡るも います神かも い行きはばかり その山の 宝とも 飛びも上らず 言ひも得ず 名付けてあるも 水のたぎちそ なれる山かも 名付けも知 その山の 日の本の 駿河なる 堤 大和の 富士の高嶺 見 れ ど飽 か ぬか も 反歌 富 士 の 嶺に 降 り置 き し 雪は 六 月の 十 五日 に消 ぬ れ ば その 夜 降り け り ③ 伊勢物語 第9段 在 原 業平 東 下り ~ 東海 道か ら 見 上 げる 富 士 富 士 の 山 を見 れ ば、 五 月 のつ ご もり に 、雪 いと 白 う 降 れり 。 時 知 ら ぬ山 は 富士 の 嶺 いつ と てか 鹿 の子 ま だ ら に雪 の 降る ら ん そ の 山 は 、ここ に た とへ ば 、比 叡の 山 を二 十ば か り 重 ねあ げ たら ん ほ どし て 、な り は 塩 尻 のや う にな ん あ りけ る 。 ④ 富士山記 都 良香 り みん ふる ひる 又 貞 観 十 七年 十 一月 五 日 に 、吏 民 旧 き に 仍 りて 祭 を致 す 。日午 に 加 へ て 天 甚だ 美 いただき なら く 晴 る 。仰 ぎ て山 の 峯を 観 る に、白衣 の 美 女二 人 有 り、山 の 巓 の 上 に双 び 舞 ふ 。 く にびと 巓 を 去 る こと 一 尺余 、 土 人 共 に 見 き と、 古 老伝 へて 云 ふ 。 2 富士の名の由来 ― 竹取物語の富士― 富士と いう 山の 名の由 来を 語る のが、「 竹 取物 語」( 九世紀 頃・ 資料 ⑤) である 。 月に帰るかぐや姫が遺した文と不老不死の薬を、天に最も近い山で燃やそうとして、 帝がそ の山 がい ずれに ある かと 問う と、駿 河の 国にあ る山 がそ れだと 応え る者 があ った。 帝の命 令を 受け 、多く の 兵 士た ちが 薬と 文を携 えてそ の 山 へ登 った。 それ ゆえ 、 こ の山 を「富 士の 山」 と名づ けた と言 い、 また その煙 が、今 も 頂 上か ら立ち 上る ので ある と結 んでい る。「 不死 」ま たは 「富 士(士 に富 む)」 が、山 の名 の由 来 であ ると いう 説明 であ る。 ここで もか ぐや 姫 には 、仙 女の イメ ージが 重ね られる 。古 代中 国の道 教の 反映 が見 て 取れる と言 われ ている 。 ⑤ 竹 取 物語 「 い づ れの 山 か、 天 に 近き 」 - 54 - と 、 問 は せ給 に 、あ る 人 、奏 す 、 「 駿 河 の 国に あ るな る 山 なん 、 この 都 も近 く、 天 も 近 く侍 る 」 と 奏 す 。 これ を 聞か せ 給 ひて 、 逢 う こ とも 涙 にう か ぶ 我身 に は死 な ぬく すり も 何 に かは せ む か の 奉 る 不死 の 薬に 、 又 、壺 具 して 、 御使 にた ま は す 。 ( 略) 御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やすべきよし、仰せ給。そのよし うけたまはりて、兵士どもあまた具して、山へ登りけるよりなん、その山を「富 士 の 山 」 とは 名 づけ け る 。 そ の 煙 、い ま だ雲 の な かへ た ち昇 る とぞ 、言 ひ つ た へた る 。 3 富士 の 煙 = 恋 の 炎 、人知れぬ 思い 和 歌 に 富 士 を 詠 む 時 、 平 安 以 来 の 歌 人 た ち が 、 そ こ に 何 を 託 そ う と し た か 。「 古 今 和 歌集」(延喜 5年 9 05 年)の 資料 ⑥の 歌で は、恋 の「 思ひ 」に「 火」を掛 詞とし 、そ の縁語 とし て「 燃ゆ」 とい う語 を引 き出 して、 人知れ ず燃 え立 つ恋情 を詠 って いる 。こ の発想 は、 「 万葉 集」に歌わ れた 時し らぬ 雪を おく山 と並 んで 、富士 に託 され た主 要なイ メージ とな って いくが 、時代を 下る と 恋 情の 象 徴は、 「燃 える 火」から「煙 」へ と移っ て いく。 資料 ⑦の ように 、恋 の思 いだ けに 限らず 、遙か にも のを 思う心 を富 士の 煙に よそ おえた 西行 の歌 も現れ る。 ⑥ 古 今 和 歌集 人 し れ ぬ思 ひ をつ ね に する が なる 富 士の 山こ そ わ が 身な り けれ ( 巻 11) むな 富士の嶺のならぬおもひに燃えば燃え神だに消たぬ空しけぶりを 紀乳母 ( 巻 19) ⑦ 新 古 今和 歌 集 あ づま の 方へ 修 行 し侍 り ける に 、富 士の 山 を よ める 風 に な び く富 士 のけ ぶ り の空 に 消え て ゆく へも し ら ぬ わが 思 ひか な 西行 ( 巻 17) 4 近世 の 富 士 実景に基づく富士 ・雅の伝統との対比の富士 近世に 入ると 、街道 が整 備され 人の 往来 が格 段に活 発に なり 、ま た 、そ の階 層も 、貴 族や武 士ば かり でなく 商人 や農 民な ど庶 民へひ ろがっ てい く。 その 人 々が 実際 に遠 く近 くから 富士 山を 仰ぎ見 るよ うに なる 。 - 55 - 徳川幕 府が 開か れた江 戸の 街か らは 富士 の姿を 毎日望 むこ とが 出来る よう にな る。 さ らに、 富士 信仰 から発 した 「富 士講 」が 、広く 組織化 され 盛ん になる と、 これ まで とは 比べも のに なら ない多 くの 人々 が富 士の 麓に集 まり頂 上を 目指 すよう にな った 。文 学作 品の中 だけ で享 受され てき た富 士が 、現 実に見 て、登 る山 にな った。 数多 く著 され た紀行 文に も富 士に 関す る記述 が 多数 あら われ 、そこ には より 具体 的な 表現が 登場 する 。資料 ⑧「 峡中 紀行 」は 、儒学 者荻生 徂徠 が柳 沢吉保 の命 を受 け、 宝永 3年(1706 年)、甲斐 へ赴い た際 の 漢 文体 によ る紀行 。道 中、甲州街 道の 花崎 宿で 、にわ かに間 近に 迫り 現れた 芙蓉 峰( 富士 )へ の驚き と 、美 しさ への 驚嘆が 力強 く記 され る。 やや時 代が 下っ て、実 際に 富士 登山 を果 たした 国学者 賀茂 季鷹 の「富 士日 記」( 資料 ⑨) では、 具体 的な 登山の 苦労 と 、 目の 当た りにし た景観 が語 られ る。 そ の記 述に は、 具体 的・客 観的 な観 察が働 いて いる 。 もとよ りこ の時 代の文 芸に あら われ た富 士は、 紀行文 だけ では なく、 浮世 草子 ・滑 稽 本・読 本な どの 散文の ほか 、和 歌・ 漢詩 ・ 俳諧 ・狂歌 など 様々 なジャ ンル に多 彩に 現れ る。資 料⑩ は俳 諧から の例 であ る。 近世 初期の 俳諧が 、機 知を 競い、 もじ りや 見立 てな どの趣 向を 凝ら した言 語遊 戯と して 広ま った 点 、古典 的な 雅を 俗なも のと 取り 合わ せ、 その落 差に 興じ る手法 を用 いた 点か ら見 れば、 崇高な 美し い山 であっ た富 士は 、恰 好な 素材で あっ た。 江戸の 名物 とし て江 戸っ 子の自 慢であ り、 高さ ・美し さを 賞美 し、 目出 度さの 象徴 に位 置置づ ける 一方 で、 富士 は俗な 存在に も引 き落 とされ 、様 々な 表情 を見 せる。 ⑧ 峡 中 紀行 荻生 徂 徠 しょうじょう とう がい 更 に 半 里 、将 に 花崎 駅 に 近か ら んと す 。路側 の 民 家 の 墻 上 、白幢 蓋 の 如 き 者 を 見 がい ぜん る 。問 ふ「 是 れ何 ぞ 」と。「 芙蓉 峰 な り 」と。一 行 二 十 余人 皆 駭 然 た り 。嶽 形 端正 にして愛すべし。昨日道中見る所と大いに殊なり。朝暉と雪色と相映発す。光彩 浮 び て 流 れん と 欲す 。 ⑨ 富 士 日記 賀茂 季 鷹 大方一合ごとに憩ひて汗おしのごひつつ、黒き色したる茶をあやしき器して飲み て登るに、あとよりうしほの湧く如くに雲たちのぼりて、見るがうちに高嶺をさ し て 登 り けれ ば ま すら ほ のた け き 心は お こせ ど も雲 のあ し に は およ ば ざり け り ⑩ 俳 諧 の富 士 から 煙 に も すす け ず白 し 富 士の 雪 徳元 富 士 は ただ な べう つ ぶ けた 成 にし て 貞徳 音 た か き 大根 お ろし 富 士 おろ し 保友 武 蔵 野 の 雪こ ろ ばし か 富 士の 山 徳元 - 56 - 富 士 の 風 や扇 に のせ て 江 戸土 産 芭蕉 ふ じ ひ と つ埋 み のこ し て 若葉 か な 蕪村 近代 の 富 士 か ら 5 国 威 発揚 の 象徴 ・自 我 を投 影 する 対 照と して 19 世紀 末 、明治 維新 を迎 えた 日本が 西欧 の 思 想・文明 と出会 い 、急 速に都 市文 明を 発 達させ 、日 清・ 日露戦 争を 経て 第二 次世 界大戦 に突入 する とい う、か つて ない 大き な時 代のう ねり の中 で、文 学の 中の 富士 もま た、様 々な心 情・ イメ ージが 託さ れた 。 美の象 徴、 神聖 なる存 在と して の富 士のイ メー ジは受 け 継 がれ ながら 、厳 しい 自然 と しての 富士 にも 目が向 けら れた 。地 理・ 気象・ 動植物 など 自然 科学の 知識 をも って 富士 に向き 合っ た風 景論、 紀行 文 が 登場 する 。また 、日清 ・日 露戦 に勝利 した 日本 が、 国威 発揚、国粋 主義へ と傾 いて いく なかで 、富 士 は、その象 徴と して 国民に 浸透 して いっ た。 そんな 中で 注目 される のが 、夏目 漱石 が明 治 41 年、 「朝 日新聞 」に連 載し た「三 四郎 」 (資料 ⑪) の一 節 であ る。 熊本 から 上京 する青 年三四 郎が 、東 海道線 の汽 車で 乗り 合わ せた広 田先 生は 、富士 山に つい て 「 あれ が日本 一の名 物だ 。あ れより 外に 自慢 する もの は何も ない 。所 が其富 士山 は天 然自 然に 昔から あつた もの なん だから 仕方 がな い。 我々 が拵へ たも のぢ やない 」と 語る 。 広田は 、富 士山 自体は 崇高 な存 在と 認め な がら 、自ら の手 で作 り出し たも ので はな い 天然自 然の もの なのに 、 西 洋と 肩を 並べ たと 自 慢の種 にし てい る日本 人の 愚か さを 皮肉 たっぷ りに 批判 してい る。 こ の 痛烈 な文 明批評 は、や はり 青年 時代に 西洋 を知 った 永井 荷風の 「新 帰朝 者日記 」( 明治 42 年 )など にも 見られ る。 資料⑫ は、「 三四 郎」 から 50 年 を経 た昭和 14 年に、 太宰 治が 発表し た「 富嶽 百景」。 心身と もに 疲弊 してい た太 宰が 、再 生を 期して 山梨県 の御 坂峠 にある 天下 茶屋 に、 昭和 13 年初 秋 、数ヶ 月滞 在し た時 の 体 験を基 にし た小説 であ る。この 富士 の名 所で 、太 宰は 毎日否 応な く、 正面か ら富 士に 向き 合 う ことに なり、 当初 は「 風呂屋 のペ ンキ 画」 と評 して、人間の 手垢 にま みれ た俗 な存在 とし て嫌 悪して いた が、や がて、茶屋 の素 朴な 人々、 見合い 相手 の女 性の純 粋な 温か さに ふれ ていく 内に、 新た な目 で富士 の美 を見 出し てい く。 地元の 青年 との 会話の 中で は、「 のつ そり 黙つ て立っ てゐ た」 富士を 、「 よくや つて る なあ」と評し、バスの中から見た月見草が富士と立派に対峙している様に共感しては、 「なん と言 ふの か、金 剛力 草と でも 言ひ たいぐ らひ、 けな げに すつく と立 つて ゐた あの 月見草 は、 よか つた。 富士 には 、月 見草 がよく 似合ふ 」と 結ぶ 。 太宰 自身 の心 境の変 化が 、そ の目 に映 る富士 の姿を 変え てい った 様 子が 鮮や かに 描か れてい る。 近代 文学 にお ける〈 散文 〉の 中の 富士 は、古 典の伝 統を 受け 継ぎつ つ、 時代 の変 転を 反映し て、 近代 人の複 雑多 彩な 思想 ・心 情を 映 す鏡の 役割 を託 されて いる 。 ⑪ 三四郎 夏 目漱 石 「 ど う も西 洋 人は 美 く しい で すね 」 と云 つた 。 - 57 - 三 四 郎 は別 段 の答 も 出 ない の で只 は あと 受け て 笑 つ て居 た 。す る と 髭の 男 は、 「 御 互 は 憐 れ だ な あ 」 と 云 ひ 出 し た 。「 こ ん な 顔 を し て 、 こ ん な に 弱 つ て ゐ て は 、 いくら日露戦争に勝つて、一等国になつても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園 を見ても、いづれも顔相応の所だが、―あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を 見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよ り外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあつたものなん だから仕方がない。我々が拵へたものぢやない」と云つて又にやにや笑つてゐる。 三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄らなかつた。どうも日本人 ぢ や な い 様な 気 がす る 。 「 然 し 是 から は 日本 も だ んだ ん 発展 す るで せう 」と弁 護 し た。す る と、か の男 は 、 す ま し た もの で 、 「亡びるね」と云つた。―熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲られる。わる く す る と 国賊 取 扱に さ れ る。 ⑫ 富 嶽 百景 太宰 治 あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河 口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲つて湖を抱きかか へ る や う にし て ゐる 。私は 、ひ と め 見て 、狼狽 し 、顔を 赤 らめ た 。こ れ は、ま るで 、 風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は恥かしく て な ら な かつ た 。 (略 ) 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう。ぼんやりとひとこ と、 「 お や 、 月見 草。」 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎ てゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁も あ ざ や か に消 え ず残 つ た 。 三 七 七 八米 の 富士 の 山 と、立 派 に 相対 峙 し、み ぢん も ゆる が ず、な んと 言 ふの か 、 金剛力草とでも言ひたひくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よか つ た 。 富 士に は 、月 見 草 がよ く 似合 ふ 。 *本 稿は 、山 梨県 が平成 20 年 から 23 年 に かけ て行 った 富士 山総 合学 術調 査研 究 の 文学部会(石田千尋山梨英和大学教授、石川博駿台甲府高校附属小学校校長、井 上康明山梨県立文学館学芸課長及び筆者)が報告集にまとめた成果を参考にまと めま した 。 - 58 - 彫刻に表現された富士山信仰 山梨県立博物館 近 Ⅰ 藤 暁 子 富士山信仰の大まかな流れ 仏像や神像などの彫像が生み出される背景となる富士山信仰の大まかな流れを概観する と、①麓から山容を仰ぎ拝む遥拝の時代、②修行僧らが山中に入り修行をする修験の時代、 ③一般の登拝者までが山中に詣でる富士講の時代、に大別できるように思われる。 各時代の様相は、諸資料によって語られるところであるが、①については富士山が頻繁 に噴火する様子が『続日本紀』天応元年(781)や『日本紀略』延暦 19 年(800)の記述に 見られ、『日本三代実録』貞観 6 年(864)には、後に貞観の大噴火と呼ばれる噴火の様子 が記される。さらにこれらの諸資料を追えば、こうした事態を受けて、甲斐国八代郡浅間 社の官社への叙列や、駿河国浅間社への奉幣がなされていることがわかる。これにより、 浅間社の役割が噴火を鎮めることにあったと明確に理解することができるのである。②へ の移行は、頻発する噴火が終息に向かい、実際に宗教的修行者の入山が可能になったこと を示す。 『本朝世紀』久安5年(1149)には、末代上人が山頂に大日寺を建立し、如法経の 書写・奉納をしたことが記される。しかしそれ以前、都良香によって 9 世紀に著された『富 士山記』には、火口や山容のリアルな描写が見られることから、実際に登頂を果たした人 物が、末代以前にもいたであろうと推測される。この後、14 世紀初めには、頼尊による富 士行が創始され、登拝の門戸が一般にまで広まることとなり、③の富士講の時代へと向か う。そして、富士講の祖とされる角行や、その後にその隆盛を牽引する村上光清、食行身 禄らによって、富士登拝は一層の大衆化をみることとなるのである。 Ⅱ 富士山信仰に関わる彫刻 (1)古代の作例と、富士の祭神・浅間神、本地仏・大日如来 仏像や神像などの彫刻は、当然ながら信仰対象として制作されるため、こうした信仰の 流れと切り離して考えることはできない。 現在、富士山信仰に関わる尊像で確認されている最も早い時期のものとしては、平安時 代 11 世紀頃に遡る制作と想定される富士の祭神浅間神像と、その本地仏である大日如来像 の 2 例が挙げられる。浅間神像は江原浅間神社(南アルプス市)に伝わるもので、3 体の女 神像を円筒型に配し、その中央に如来形の頭部を湧出させるような形態であり、古代の神 仏習合の有り様について示唆するものとして、今後の詳細な考察が待たれる。一方大日如 来像は東円寺(忍野村)に伝わるもので、後世の修理の跡がみられることから当初の尊名 は確としない。しかしながら、近隣の忍草浅間神社との関わりが想定されることなど、同 様に古代の神仏習合の有り様を彷彿とさせるものである。 - 59 - 浅間神という名称の史料上の初見は『日本三代実録』貞観噴火の諸条(860 年代)であり、 のちに『吾妻鏡』建仁 3 年(1203)条では「浅間大菩薩」の名称が登場し、ここに本地垂 迹の影響を見ることができる。浅間神の本地を大日如来とする認識は、鎌倉時代末期に成 立した『地蔵菩薩霊験記』に「垂迹浅間大菩薩 法体は金剛毘廬遮那の応作(=大日如来)」 という記述にみられることから中世に遡るものであり、また、これに続く「男体に顕れ玉 ふべきに、女体に現じ玉へり。」という記述によって、大日如来を本地とする浅間神は、本 来男性の姿であるべきところ女性の姿であらわされていたことがわかる。浅間神を女神と するのは、14 世紀前半に書写された『富士縁起』に、宝珠を持ち白雲に乗る青衣の天女を 浅間大明神と記すのが見られる。しかしそれ以前、9 世紀成立の『富士山記』に、山上に白 衣の美女が二人舞い飛ぶ様子や、江戸時代成立の『甲斐国志』に建久 3 年(1192)銘の「女 体合掌の像」が御室浅間神社に安置されていたことが記され、富士の祭神と女神との関わ りは古くから認識されていたことが想像される。こうした状況からみれば、現存最古に類 する富士信仰に関わる彫像がこの 2 像であることは、興味深い。 (2)中世 中世に至ると、富士南麓の村山を拠点として神仏習合思想の影響を受けた修験道が盛ん となり、さらに頼尊による「富士行」の創始とともに、富士登拝は一般にまで広がる。こ の時期の造像はそれを反映するかのように、富士の祭神とその本地仏、登拝者による山中 奉納品などが多くみられる。 忍野村の忍草浅間神社に伝わる木造女神坐像・男神坐像は、残された墨書から正和 4 年 (1315)に静存によって制作されたものであることがわかり、近時国の重要文化財に指定 されたものである。前述の富士の祭神と女神との関わりの流れからすれば、本女神像を浅 間神と想定することに無理はなかろう。一方、 『甲斐国志』には、本三尊像の名称を「木花 開耶姫命、鷹飼、犬飼」と記す。木花開耶姫が富士の祭神として定着するには江戸時代を 待たなくてはならないこと、また、かぐや姫伝説中ではその養父母である翁を鷹飼明神、 嫗を犬飼明神としていることなどから、これらをかぐや姫とその養父母にあてる考えもあ るが、造形的特色や周辺環境など、本三尊像の解釈については、なお検討すべき問題は多 い。 浅間神の本地仏である大日如来のこの期の作例は、正嘉 3 年(1259)、文明 10 年(1478) 銘を有する村山浅間神社(静岡県富士宮市)の金剛界・胎蔵界両部のものをはじめとして、 山梨県側のものとしては室町から江戸時代にかけての制作と思われる鈴原大日堂(富士吉 田市)のものなどがある。これらはいずれも木彫像であるが、文安 2 年(1445)銘の宝持 院像(静岡県御殿場市)や、室町時代(16 世紀)作と思われる大頂寺像(静岡県富士宮市) は金属製で、山中に奉納するために堅牢であることが求められたことを想起させる。特に 大頂寺像は、銅と鉄を部位によって使い分けており他に例が無く、『甲斐国志』に記す大永 8 年銘を有する「鉄身銅首ノ大日座像」にあたる可能性も指摘されている。この期には大日 如来だけでなく他の尊像も奉安されているが、その最古のものとしては、乾元 2 年(1303) - 60 - 刻銘のある地蔵菩薩像(個人蔵)が挙げられる。 金属製の奉納品は仏像に留まらず、神仏習合思想を反映した懸仏もある。至徳元年(1384) 銘を有する小山町教育委員会所蔵の銅造大日如来二尊像懸仏は、面面に 2 体の大日如来像 を、裏面に浅間大菩薩の尊号を表しており、富士の祭神の本地垂迹の様子を体現したもの といえる。富士吉田市歴史民俗博物館所蔵の銅造不動明王懸仏と、富士山本宮浅間大社所 蔵の銅造虚空蔵菩薩懸仏は、銘文により文明 14 年(1482)という奉納年や願主・制作者な どが一致することによって本来一具のものと考えられる。これについては、富士山頂を曼 荼羅の中台八葉院にみたてた密教的世界観を反映した八葉の思想に対応して、当初は 8 面 が各峯に奉納されていた可能性も考えられている。 また、中世には富士修験の開祖とされる役行者像も制作された。その古いものとしては、 12 世紀に遡る制作とされる円楽寺(甲府市)のものが挙げられ、その風貌は他の役行者像 に見ることのできないすさまじいものである。かつては円楽寺が兼帯する 2 合目の行者堂 に安置されていたと伝える。 (3)近世以降 富士講の隆盛に伴い、信仰の多様化も図られたようで、この期の作例からは、それによ り多種多様な尊像が数多く制作された様子がうかがえる。 富士信仰に関わる行者像は、中世に遡るものとして先述の円楽寺像が挙げられるが、こ の期には富士講中興の祖・食行身禄なども造形化された。その多くは行衣をまとう初老の 男性の独尊像だが、富士吉田市歴史民俗博物館所蔵のものは、弟子の北行・仙行像を備え た三尊形式であらわされる。さらに、甲斐の黒駒を駆って、歴史上初めて富士山に登った との伝説をもつ聖徳太子の像も、如来寺(富士吉田市)に伝来している。これは同寺が管 理する山内の小堂に安置されていたものという。 また、江戸時代には浅間神を木花開耶姫と同定する考えが広まる様子を反映し、その尊 名で伝わる女神像も残されている。冨士御室浅間神社(富士河口湖町)の像や、かつて御 師宅に伝わり現在は富士吉田市歴史民俗博物館所蔵となっている像がこの期の作として知 られるが、いずれも十二単に類する衣をまとう、華やかな女神の姿である。一方、元文 5 年(1740)銘をもつ浅間大菩薩像(個人蔵)は、女神像とともに智拳印を結ぶ大日如来像 をあらわしたものである。小像ながら精緻な仕上げが施されており、伝統的な神仏習合の 影響を垣間見るようで興味深い。 このほか、富士講の流行と相俟って、多様な信仰が展開した様子を反映してか、不動明王立像 (寛政 3 年〈1791〉銘・個人蔵) 、仙元弁財天坐像( 享和元年〈1716〉銘・個人蔵) 、大黒天像 (寛政 12 年〈1800〉銘・個人蔵)など、様々な尊像が山中や関連寺院に安置奉納されている。 廃仏毀釈の流れの中で、富士山信仰に関わる像も多くが失われたことが推察されるが、 現在残されている像を概観するだけでも、各時代の信仰の方向性を反映した造像がなされ ている様子をうかがうことができる。今後さらなる調査の進展により、富士山信仰の新た な一面が見いだされることを期待したい。 - 61 - - 62 - 富士山地下水と富士五湖の水 山梨県立大学特任教授 輿 水 達 司 はじめに 富士山麓のみならず、相模川水系、富士川水系を始めとする本州中央部の広範な地下水、 湧水、河川水、湖水中について、我々は集中的にバナジウムやリンなどの濃度分布を明ら かにし、これらを基に地域性を論じてきた(輿水ほか, 1998; 小林・輿水, 1999; Koshimizu and Tomura, 2000; 輿水・京谷, 2002; 小林・輿水, 2005 など)。その結果、本州中央部と りわけ南部フォッサマグナ地域(山梨県・静岡県周辺地域)におけるこれら水試料中の濃度特 性に、極端な地域性が浮かびあがってきた(図1など)。 この地域的な濃度特性は、基本的に富士火山は玄武岩質ゆえに、バナジウムやリンが、 花崗岩類や安山岩類に比べ、極端に高濃度に含まれる地球科学(岩石化学)特性に起因するも のである。しかも、これら水質濃度特性を厳密に検討する過程から、富士山麓の地下水や 富士五湖湖水の循環システムにつき、従来知られていない新たな知見や展開がでてきた。 本講演では、この辺の科学的背景や具体的な富士五湖の水環境等につき紹介したい。 図1:南部フォッサマグナの地下水等のバナジウム濃度 - 63 - 富士山地下水と富士五湖の水の起源 富士山には、山麓を中心に多くの湧水が認められ、また地下水も主に飲料目的に、多く の地点で採取されている。このうち、富士山北麓側の場合、忍野地域には、有名な湧水と して忍野八海が知られ、また、富士五湖の湖水についても、従来は一般的に富士山の地下 水が湧出したものと考えられてきた。ところが、この富士五湖の水の起源につき、湖水に 含まれるバナジウム濃度を基に富士山の地下水中に含まれるその濃度との比較を試みたと ころ、富士五湖の水の起源については単純に富士山の地下水には求められないことを我々 は指摘した(Koshimizu and Tomura, 2000; 輿水, 2005) 。 その後、バナジウム以外にもリン元素も含め、我々は富士五湖の水と富士山地下水との 互いの濃度の比較を基に水循環システムの解明目的に検討し(図2、3)、富士五湖の水の起 源については上記の報告と同様に、富士山地下水ではなく、地表部付近を流下する水が主 体をなす、という結論に至った(輿水ほか, 2009)。 図2:富士五湖湖水と富士山地下水中のバナジウム濃度 図3:富士五湖湖水と富士山地下水中のリン濃度 富士山の地下水が流動し、富士五湖の湖水としてでてくるのであれば、下図(図4)におけ る富士山側の地下水と富士五湖側の湖水のバナジウムやリンの濃度が互いに類似した値を 示すはずであるが、前述のとおり実際には大きな濃度差となっている。結局、水の起源や - 64 - 循環については、「富士山地下水」と「表層水」に大別されたシステムとして理解できる状 況になってきた。 しかし、富士五湖の湖水の形成について、この富士山地下水が湧水等の形で地下深部か ら冨士五湖に全く流入していないのか、という点については既にバナジウム濃度から検討 され、富士山地下水が深部からあるいは側面から富士五湖に一部流入している、と考えら れる。すなわち、我々は個々の湖水について、富士山地下水の湖水への流入割合を、互い のバナジウム濃度の比較から検討し、富士五湖の湖水への富士山地下水の流入は湖による 違いを考慮して、その割合は 10%以下に見積もられている(Koshimizu and Tomura,2000)。 以上に述べた、リンやバナジウムの富士山地下水と富士五湖湖水中の互いの濃度差から 推論した水循環システムに加え、実際の台風の襲来時における富士五湖の水位の変化等か らの検討を以下に簡略に示す。例えば、1991 年 9 月 27,28 日頃に日本列島を横断した台風 19 号は、富士五湖の湖水の極端な上昇をもたらし、この増水が富士五湖地域に大きな被害 を与えた。台風による大量の降雨がもたらされた直後1,2日間で河口湖や西湖などに極 端な水位上昇が認められ、湖周辺では床下浸水はもちろん、湖周辺のホテルの床上浸水な どが全国的なニュースとしても報道された。この急激な湖水位の上昇に対し、富士山の湧 水・地下水で形成されている忍野八海では、このような大量の降水直後においても極端な 水位上昇は認められなかったことから、富士五湖の水の形成の主体は、富士山地下水より もむしろ、表層付近からの流入という上述の考えが、支持される。 富士五湖周辺の表層水の物質運搬とクニマス生息環境 この項においては、富士山周辺の表層を流動する水の移動プロセスを把握した上で、さ らに物質運搬についても検討を加える。富士五湖からみると、相対的に南側からの表層水 - 65 - としては富士山側である。この富士山については、山頂部付近は長期間にわたり雪で覆わ れるため、雪も含めた富士山表層部の雪・水の流動について、富士山特有な“雪代” (ゆき しろ)現象が重要となる。この雪代現象については、その発生頻度は富士山の火山活動に らべ、遙かに高く、富士山麓地域においては、防災面からも雪代の研究は重要課題である。 一方で、富士五湖北側御坂山系側からの表層水の流入も、前項で述べたように例えば河 口湖・西湖付近については、台風等の大雨の際に実体験としても、富士五湖に流入するシ ステムが理解できる。大雨の場合に、単に湖水面の急激上昇のみではないケースもある。 1966 年(昭和41年9月)には、台風 26 号が当時の足和田村西湖地域を直撃した。御坂山地 側の表土が台風の大雨により崩れ運搬され、西湖には土石を主体とした大量の物質移動・ 堆積現象として現れた。多くの尊い人命が失われた。この時の調査から、土石流という用 語がそれ以前の山津波に代わって学術用語としても定着したようだ。西湖付近の土石流の 現象が、災害として激しかった念場地域以外にも、西湖の北岸には数か所にわたり、その 痕跡が認められている。西湖付近における土石流現象は、この時より更に過去に遡っても、 しばしば発生していることが分かるようになってきている(輿水ほか, 2009, 2010 など)。 実は、西湖付近における、御坂山地側からの土石等の湖水への物質運搬現象は、意外に も最近確認されたクニマスの生息環境を育んでいることの理解を促すようになってきた。 つまり、 クニマスが西湖の中で北側に、 しかも水深 30 メートル付近に生息している事実は、 西湖および周辺における地質・地下水の科学的知見と融合して考察すれば、御坂山地側か らの土石流の存在が、クニマス生息に重要な環境条件を与えているわけである。この点で は、 本年(2012 年)9 月に国土地理院によって 48 年振りに実施された湖底地形調査の成果は、 今後の総合的なクニマスの将来にわたる保全・管理へ果たす役割からも重要と思われる。 文献 小林 浩・輿水達司(1999)富士山及び甲府盆地周辺に位置する地下水及び湧水中のリン起源.地下水学会 誌,41, 177-191. 小林 浩・輿水達司(2005)地下水、湧水中のリンおよびバナジウム濃度を基に推定された河川水における 人為的影響によるリン濃度.地下水学会誌, 47, 97-115. 輿水達司(2005)富士山麓の地下水.日本の地質-増補版-,共立出版, 150-153. 輿水達司・京谷智裕(2002)バナジウム濃度を指標とした富士川及び相模川水系水中多元素の地球化学的挙 動.陸水学会誌, 63, 113-124. 輿水達司・酒井陽一・戸村健児・大下一政(1998)地球環境変化の健康への影響-地球科学より-.地球環 境, 2(2),215-220. Koshimizu, S. and Tomura, K.(2000) Geochemical behavior of trace vanadium in the spring, groundwater and lake water at the foot of Mt. Fuji, central Japan. In Groundwater Updates,by K. Sato and Y. Iwasa(ed.), springer, 171-176. 輿水達司・戸村健児・小林 浩・尾形正岐・内山 高・石原 諭(2009)富士山北麓の地下水循環と富士 五湖の水の起源.第 19 回環境地質学シンポジウム論文集, 153-158. - 66 - 西湖に生息するクニマス 山梨県水産技術センター所長 高 橋 一 孝 クニマスはサケの仲間で、外観はヒメマスに酷似する。また、秋田県田沢湖の固有種で あったが、1940(昭和 15)年頃には絶滅したものと考えられていた。絶滅前の 1930 年か ら 1935 年頃にかけて、長野、山梨、富山などに卵移植の記録があるが、いずれも定着し なかったものと考えられていた。しかし 2011 年、京都大学の中坊教授の発見報告により、 およそ 70 年ぶりに山梨県の西湖で生存が確認された。 西湖は富士五湖の一つで、標高約 900m、周囲約 10km、面積 2.1km2、最深部約 72m である。チッソやリンなどの栄養塩から判断すると貧栄養湖に属するが、近年透明度の低 下などにより中栄養湖に進行しているともいわれる。湖の歴史は浅く、平安時代(約 1,200 年前)の貞観の噴火以降、生息魚は新たに入り込んだものと考えられている。明治時代の 在来種はフナ、コイ、ウグイ、ナマズ、アブラハヤの 5 種という説もある。その後水産利 用のための移植放流は大正年間のアユ、ヒメマスに始まり、多くは昭和以降に行われてき た。現在の生息魚類はヒメマス、ワカサギ、コイ、オオクチバスなどの 15 種程度と考え られている。 漁場を管理している西湖漁協では、特にヒメマスに力をおいて増殖に努めており、年間 20~30 万尾の稚魚を主体に放流している。種卵は中禅寺湖、阿寒湖の天然卵に加え、当所 の養殖卵も導入し、所有するふ化施設でふ化させ、稚魚を放流してきた。遊漁(釣り)は ヒメマス・ワカサギ、ヘラブナ、オオクチバス、コイなどを主体にして行われ、ヒメマス の釣り人の数は最盛期 2 万人前後であったが、近年は 5 千人から 1 万人で推移している。 ヒメマスは漁協組合員も網漁でなく、釣りでのみ採捕している。釣り人・組合員併せて多 い年で 1~2 トンの漁獲があると推定されている。 西湖でクニマスが発見されて以来、魚類の専門家をはじめとし、一般県民の方や報道関 係者などからも注目を浴びるようになり、水産に関する県内唯一の専門機関である当所に 寄せられている期待としては、クニマスの保全と県内産業(養殖業)などへの活用の 2 つ がある。保全にあたっては、現在行われているヒメマス漁業との共存が必要であり、また クニマスの生活史解明など、保全に必要な情報を収集し関係者に提供することも必要であ る。活用にあたっては、クニマスを増やし地元や県内の産業に新たな材料、つまり地域資 源として提供することが必要であり、秋田県への里帰りへの協力も必要である。これらを 将来的な目標として、当所では平成 23 年度からクニマスの生態調査と増殖試験に取り組 むこととした。 23 年度の調査概況によると、9 月から翌年 3 月にかけて産卵場周辺で刺網調査を実施し、 - 67 - 採捕したクロマス(種判別する前の成熟魚の総称。ヒメマスも含む)について幽門垂、鰓 耙数の測定により簡易な種判別を行った。その他に魚群探知機による湖底の地形調査や湖 岸の目視調査を実施して産卵状況の把握に努めた。いずれ種判別が確定したあとで、産卵 実態の推定や効果的な禁漁のあり方の提言などを図りたいと考えている。 さらに、刺網調査で捕獲されたクロマスを用いて人工増殖試験を行った。現状ではクロ マスのうちいつどこで採れたものがクニマスか、また卵の管理方法や稚魚飼育にも不明な 点が多いので、これらの条件を整理するための予備試験として位置づけ取り組んでいる。 種判別の確定後、クニマスの子供を選抜し、増殖技術、養殖技術の確立など、本格的な試 験に取り組みたいと考えている。 産卵実態調査について、クロマスの月別、水深別の採捕状況を見ると、産卵前後のクロ マスは、10 月から 3 月にかけて、主に水深 30~40m の深い場所に出現し、湖岸では確認 されないことが分かった。目を引く特徴として、捕獲されるクロマスの大部分が雄であっ たことである。また、雌のおよそ4割は産卵後のものであった。湖岸調査でも産卵後に浮 き上がった魚(浮魚という)が昨年と同程度見つかっていることから、捕獲された雌、産 卵前の雌に対して、同数以上の自然産卵が行われたものと考えられた。今後の種判別の結 果を待って、クニマスとヒメマスの産卵実態について解析したいと考えている。産卵ピー ク時の 1 月に採捕した親魚(16 尾)の形質について、西湖のクニマスの報告(中坊ら 2011) に一致する 11 尾は、産卵期や産卵場所などの状況も併せるとクニマスといえる。残りの 5 尾については、幽門垂数がクニマスの範囲から外れているものの、産卵期などはクニマス の生態に矛盾しないため、クニマスの可能性があると考えられた。いずれクニマスかどう か確実に判別するため、今後のDNA鑑別手法の公表(論文発表)を待ち、検討したいと 考えている。 交配については、採卵可能な雌は全て使用したが、雄はクニマスらしい外見(黒点が少 ない)の個体を選んで使用した。人工受精は 1 対 1 の交配で行い、ふ化した稚魚(1 月採 卵魚の場合)は、現在全長 8cm、体重 3g に成長し、1,000 尾程度飼育している。早ければ 3 年で成熟し 2 世が誕生する予定である。現在、稚魚の成長や生残率、パーマークなど外 部形態を継続観察中である。 クニマスを巡る最近の動きとして、環境省では今秋までにレッドリストの見直し作業を進め ており、絶滅から野生絶滅に変更するのではないかと、最近マスコミ報道されたばかりである。 最後にクニマスの保全については、当所ではクニマス生息量の把握が先決と考え、24 年 度の最重要課題に取り上げ、現在調査を進めている。産卵場については現在までに 1 か所 明らかになっているが、その保全には湖底からの湧水量が重要との指摘がなされているた め、今後地下水の取水制限の検討も必要になってくるものと考えられる。また、公共下水 道も完備されてはいるものの、末端の接続が不十分との指摘があり、湖水の水質監視も重 要と考えられる。さらに、同時期に移植されたクニマスの子孫が隣の本栖湖にも生息して いる可能性があるため、今後魚の移動などにおいては注意が必要との指摘もなされている。 - 68 - 山梨県立大学 2012年観光講座「富士山 世界遺産登録へ」 (土) 富士五湖の漁業の歴史 富士五湖の漁業の歴史 山梨県立博物館 植 月 学 植月 学(山梨県立博物館) はじめに 現在の富士五湖は観光、レジャーの場として、賑わいを見せている。漁業の面ではブラック バスやヒメマス、ヘラブナ釣りなどの遊漁が人気で、地域振興とも切り離せない重要な位置を 占める。一方で、密放流による生態系の撹乱の問題も生じている。本講座では、富士五湖の 漁業と環境が歴史的にどのように形成されてきたかを、魚類相の変遷を中心に紹介したい。 漁具と漁法(昭和中頃まで) かつての富士五湖では多様な漁法がおこなわれていた。山中湖における例を挙げると、以 下のようなものである(寺田 、杉浦 、吉田 )。 ================================== ・投網 ヘラブナ、ウグイ ・筌(うけ)、竹籠 コイ、フナ ・銛(もり) コイ ・延縄/ナガシバリ ナマズ、ウナギ、ウグイ、コイ ・藪入坪打・ツボ 明治初期に盛行 ・地曳網 ウナギ、コイ、ワカサギ ・刺網 ワカサギ、コイ、フナ 明治末頃から?。大正期には存在していた。 昭和 年河口湖より導入 ================================== 以上のように、漁法の中には近代に入ってから導入されたことが明らかなものもあり、江戸 時代までの漁法はさほど多様性に富んでいなかった可能性がある。 歴史 明治に入るまで、漁法は比較的単調であったと推測された。これは魚類相においても同様で ある。考古、文献記録は以下のように貧弱であり、資料的な制約を考慮しても、漁業が自家 消費、副次的な生業の範囲を出ないものであったことが窺われる。 縄文時代 本栖湖底より縄文時代中期(約 年前)の土器片錘(漁網用のおもり)が採集されており、こ の頃から湖面での漁がおこなわれていたことが窺える。 古代 河口湖畔の滝沢遺跡において平安時代(~ 世紀)の集落跡が発掘された。住居跡内な どからは 点を超す土錘が発見されている。また、 軒の住居跡のカマドの焼土中から焼け - 69 - た魚骨が検出され、ウグイ亜科(ウグイ、アブラハヤなど)と同定された。本遺跡は現湖畔か ら ㎞程度の位置にあり、湖における網漁の存在を示すと推測される。 江戸時代 ================================== 『裏見寒話』 宝暦2年() 郡内の三湖 「郡内領に八ツの湖あり、是を富士八湖といふ、中にも吉田、河口、 山中の三湖を大なりとす、鮒鮠 鮒鮠(はや)の類多し、爰に丸木船と云あり、木材の中 鮒鮠 を彫り舟の形となし里人湖上を渡る、至て乗悪き舟也、多くは猟舟に用ゆ」 『甲斐の手振』 嘉永23年 「同じ頃(注:旧暦11月)、山中・河口の湖水よりして出る鮒 鮒、鰓赤く味ひあり」 ================================== 移植の時代(近代以降) 記録に残る古い移植は、寛政 年()の西湖への諏訪湖産ナマズ、コイ、山中浅間神 社の鯉奉納碑に見られる享和元年()の山中湖への武州(埼玉県)産コイの放流である。 記録に残らない放流もあったと推測されるが、以下の明治末~大正期の調査によれば、魚類 相の多様化はおもに大正~昭和初期の活発な移植によるものである。 ================================== ・『山梨県市郡村誌』明治 年() コイ、フナ、ウグイ、アブラハヤ、ナマズ、ウナギ ・『漁業資料』(県立博物館 若尾資料)明治末~大正初期 雑魚、アカハラ(ウグイ)、フナ、コイ、ドジョウ、ナマズ、ウナギ、マス ・雨宮育作「富士北麓にある湖水に産する魚類」『水産学会報』 大正 年() ナマズ、ドジョウ、ウグイ、アブラハヤ、オイカワ、コイ、フナ、ヤマメ、ヒメマス、イワナ、ウナギ ================================== 雨宮は上記報告の中で富士五湖の魚類相が比較的単調なのは、その成立が新しいことと 僻遠の地にあることによるとしている。しかし、種数は少ないながらも生息しているものは大き く生育しているとし、種数の少なさは単に移り来る機会を得なかったためと五湖の有望さ、潜 在力を指摘している。 雨宮のこのような思いは大正 年の山中・河口両湖へのワカサギ移植につながる。下記に 見るような大正~昭和初期の盛んな移植事業は山梨だけではなく、全国的な動向であった。 ================================== 富士五湖への各種の最初の移植 ( )内は原産地 ナマズ 寛政3年() 西湖へ コイ 寛政3年() 西湖へ 享和元年() 山中湖へ オイカワ 明治41年() (諏訪湖) (武州・現埼玉県) 河口湖へ - 70 - (諏訪湖) (諏訪湖のコイに混入) ヒメマス 大正5年() 西湖へ アユ 河口、西湖へ 大正5年() (十和田湖) (相模川) ワカサギ 大正 年() 山中、河口湖へ (霞ケ浦) ウナギ 大正9年()以降 山中、河口、精進湖へ (愛知県、霞ヶ浦) ヒガイ 河口湖へ 昭和元年() (霞ケ浦) ニジマス 昭和2年() 西湖、河口湖へ (不明) カワマス 昭和5年() 五湖へ ゲンゴロウブナ 昭和 年() 山中、河口湖へ (琵琶湖) クニマス 昭和10年() 西湖、本栖湖へ (田沢湖) (アメリカ) ================================== 富士五湖の在来魚類 富士五湖の魚類相は(湖により細かな差はあるものの)、大まかには以下のように変化したと 推測される。 ・江戸時代まで フナ、ウグイ、アブラハヤ(?) ・江戸時代に導入? コイ、ナマズ ・明治末期~昭和初期に導入 オイカワ、ヒメマス、アユ、ワカサギ、ウナギ(?)、ニジマス 上記の大正から昭和初期までに生息していた魚類を「在来魚」と位置付けることが提唱さ れている(高橋 )。 おわりに その後、 年代以降にオオクチバス、ブルーギルなど新たな外来種が導入され、現在 の各湖の魚類相が形作られてきた。西湖において保全のあり方が議論されているクニマスも、 見方を変えれば昭和初期に導入された「外来種」である。何を「在来」、「外来」ととらえ、ある いは「自然」、「非自然」ととらえるかは歴史上のどの時点に定点を置くかによっても変わってく る。上記のような歴史を踏まえた上で、科学的なデータをもとに、富士五湖の今後の環境保 全と利用のあり方に関する議論を深めることが求められる。 主な参考文献 小林健二 『滝沢遺跡(2次)』 山梨県埋蔵文化財センター 杉浦忠睦 「山中湖の放魚の変遷」 『山中湖村の史話と伝説』山中湖村教育委員会 高橋一孝 「富士五湖と四尾連湖の生息魚類の変遷」 『山梨県水産技術センター事業 報告』第 号 寺田重雄 『甲斐の魚』 山梨県水産研究会 正木季洋 『滝沢遺跡・疱橋遺跡・谷抜遺跡』 山梨県埋蔵文化財センター 吉田チエ子 『山中湖周辺の民俗』 岩田書院 - 71 - - 72 - 富士山麓の水環境の変遷 〜陸水学から見た富士五湖〜 山梨県衛生環境研究所 吉 澤 一 家 はじめに かつて湖沼を「小さな宇宙」と称した研究者がいる。湖沼はその形や水面の色がそれぞれ異なり、 あたかも天空の銀河のように個性的であるといえる。しかし宇宙(コスモス)という言葉には、調 和という意味もある。湖沼はその静かな躯体の中にさまざまな物質と生命を湛え、ひとつの調和し た世界を有しているという意味から、先の名言が生まれたことと思われる。 この調和のとれた世界である湖沼を様々な角度から観察し、神秘を明らかすることが陸水学の一 つの目的である。本講座では陸水学の視点で富士五湖を捉え、その特徴や貴重さを少しでもご紹介 することを目的としたい。 陸水学史上での富士五湖 1899 年、日本に陸水学の先鞭をつけた田中 阿歌麿博士が、初めて湖沼の観察を行ったのが 山中湖であった。つまり山中湖は日本の湖の学 問の発祥の地といえる。以来富士五湖は陸水学 の対象として、多くの研究者により調査が行わ れてきた。 もう一つ富士五湖には日本で初めての歴史 がある。湖では風が少しもない、凪いだ状態で も水面がわずかに上下する現象がみられる。こ の現象は「内部静振」と呼ばれ、鈴木静夫博士 によれば、日本で初めてこの現象が観察された 湖が河口湖とされている。 図 山中湖での調査の様子 陸水学雑誌より引用 富士五湖の形態 富士五湖の湖盆の諸元及び流域面積(集水面積)を次表に示した。五湖は形態もそれぞれ異なっ ているが、水深、容積等も幅があり、形態的にも変化に富んでいる。平均傾度は湖盆の傾斜を示す 指標であり、高い数値ほど傾斜がきつくすり鉢状を、低い場合は平らなフライパン状であることを 示す。大きなすり鉢状の本栖湖から、平坦ではあるが面積が広い山中湖とタイプの異なる湖沼から なっていることが分かる。日本には湖沼群と呼ばれる、複数の湖沼が比較的近傍に集まっている地 域がいくつか見られるが、このように形態が全く異なる湖沼からなるものは珍しく、富士五湖湖沼 群の特徴の一つといえる。 - 73 - 表 富士五湖の諸元 湖名 水面高度(m) 湖面積(㎢) 容積(百万㎥) 最大深度(m) 平均深度(m) 平均傾度 流域面積(㎢) 滞留時間(年) 本栖湖 900.0 4.70 319.1 121.6 67.9 98.4 34.5 10 西湖 900.0 2.12 80.9 71.7 38.5 88.1 33.0 2.3 河口湖 830.5 5.70 53.0 14.6 9.3 11.7 126.4 0.3 山中湖 980.5 6.78 63.9 13.3 9.4 9.7 65.5 0.5 精進湖 900.0 0.50 3.5 15.2 7.0 40.6 25.8 0.1 富士五湖の水質 形態と同様に、富士五湖の水質もまた個性的である。水質全般について言及する時間はないので、 ここでは視覚的にも理解しやすい、透明度と水色(すいしょく)を代表的な水質指標として示す。 1)透明度 透明度は直径 30 ㎝の白色円板を湖水中に垂下し、円盤が見えなくなるまでの深さ(m)で表わす。 透明度の数字が大きいほど懸濁物質が少ない湖水であると判断できる。次に山梨県による 1971 年か ら 2010 年までに、毎月 1 回測定された各湖心での透明度を示した。各グラフの中の太い線は 6 月ご との平均値を示し、毎月の測定値は点で示してある。最も透明度が高いのは本栖湖で、精進湖の値 は 3m程度と低い。またこの 40 年間で大きな変化の傾向は見られないが、本栖湖、河口湖、精進湖 でこの 15 年ほどはやや上向きの傾向がみられる。 西湖の透明度の経年変化(1971年~2010年) 20 21 16 透明度(m) 8 8 7 7 Aug-09 Aug-07 Aug-05 Aug-03 Aug-01 Aug-99 Aug-97 Aug-95 Aug-93 Aug-91 Aug-87 Aug-85 Aug-89 Jun-09 Jun-07 Jun-05 Jun-03 Jun-01 Jun-99 Jun-97 Jun-95 Jun-93 Jun-91 Jun-89 Jun-87 Jun-85 Jun-83 Jun-81 Jun-09 Jun-07 Jun-05 Jun-03 Jun-01 Jun-99 Jun-97 Jun-95 Jun-93 Jun-91 Jun-89 Jun-87 Jun-85 Jun-83 Jun-81 Jun-79 1 Jun-77 2 1 Jun-75 3 2 Jun-79 4 3 Jun-73 Aug-83 5 Jun-77 4 6 Jun-75 5 Jun-71 透明度(m) 9 6 Aug-81 山中湖の透明度の経年変化(1971年~2010年) 9 Jun-71 透明度(m) 河口湖の透明度の経年変化(1971年~2010年) Aug-79 Aug-71 Jun-09 Jun-07 Jun-05 Jun-03 Jun-01 Jun-99 Jun-97 Jun-95 Jun-93 Jun-91 Jun-89 Jun-87 Jun-85 Jun-83 Jun-81 Jun-79 Jun-77 0 Jun-75 1 Jun-73 4 Jun-71 6 Aug-77 8 Aug-75 11 12 Aug-73 16 Jun-73 透明度(m) 本栖湖の透明度の経年変化(1971年~2010年) 26 2)水色(すいしょく) 水色はいわゆる湖水の色を数値化することで、水質の情報を得る方法である。色の見本には青色 の 1 から茶褐色の 21 まで番号を付けられており、湖水の色と比較して近い色の番号を記録する。小 さな番号ほど湖が青色に近く、番号が大きくなると褐色に近いことが水色から判断できる。 次に 2010 年 4 月から 2011 年までの各湖の水色の変化をグラフに示した。湖により水色が大きく - 74 - 富士五湖の水色の経月変化 精進湖の透明度の経年変化(1971年~2010年) 7 本栖湖 18 河口湖 (2010年4月~2011年3月) 山中湖 精進湖 16 5 14 4 12 3 10 水 色 透明度(m) 6 西湖 2 8 6 1 2 Aug-09 Aug-07 Aug-05 Aug-03 Aug-01 Aug-99 Aug-97 Aug-95 Aug-93 Aug-91 Aug-89 Aug-87 Aug-85 Aug-83 Aug-81 Aug-79 Aug-77 Aug-75 Aug-73 4 Aug-71 0 0 4 5 6 7 8 9 月 10 11 12 1 2 3 異なることが判るとともに、本栖湖のようにあまり変化がなく、常に青色に近い湖と、西湖のよう に大きく色が変化する湖があることが見て取れる。 以上、透明度と水色という比較的簡便な方法で得られる水質の情報からも、富士五湖は個性的な 湖の集まりであると言えるであろう。 生物と水質の関わり このように水質に変化をもたらしている原因の一つに、湖の中の生物群の違いがあげられる。 下図に湖沼中の生物群をごく簡単に示した。生物群は大きく分けて、生産者、消費者、分解者の3 つのグループに分類される。 植物である植物プランクトンや水草は、太陽光と二酸化炭素、水に加えて肥料成分である窒素(N)、 りん(P)を利用して、無機物から有機物を生産する。動物プランクトンや魚などの消費者は、これ らの生産者とその有機物を食する。さらに生産者や消費者の排泄物や死体を栄養源としてこれらを 分解し、再び生産者が使える無機物を作りだしているのが底生動物や菌類などの分解者である。 図 C 湖沼中の生物群の概略 NP 1次消費者 1次生産者 2次消費者 3次消費者 分解者 - 75 - 仮に肥料成分である窒素やりんが豊富に流入すると、植物の成長が盛んになり、水温や日射量の条 件が整えば、大増殖することが考えられる。特に植物プランクトンが増殖すると、水中に光合成色 素を持った微小物が大量に浮遊することになり、水の透明性は失われ、着色していくことになる。 これが湖の透明度と水色が変化する一因である。富士五湖の各湖沼が透明度や水色が異なるのは、 湖の中の生物群集の違いによるものであり、その主因は流入する肥料成分(栄養塩とも呼ぶ)の量 にあると言えよう。 冒頭で湖沼は調和のとれた小宇宙という表現を引用したが、水中の生物群が調和を持って生活し ている場合は、急激な透明度や水色の変化は生じないはずである。しかしひとたび過剰な窒素やり ん等の流入により植物プランクトンの異常増殖が起こり、生物量のバランスが崩れると「アオコ」 や「赤潮」と呼ばれる現象となって現れるのである。 湖沼の健全な保全のために 以上のように、富士五湖湖沼群は個性豊かな湖の集まりという意味で、陸水学の研究対象として も非常に価値が高い存在である。私たちはこの宝物を後世にしっかり残していかなくてはならない。 そのためには、まず栄養塩である窒素やりんの流入量を抑制することが必要となる。富士五湖流 域でも下水道の整備が進み、雑排水が直接流入することが抑制されている。その成果は河川水では 顕著に現れてきているが、全国の湖沼と同様に富士五湖でも即効性をもって現れてきてはいない。 ひとつの原因は、既に湖底に蓄積された栄養物からの溶出による回帰があると考えられるが、流 域の山地、森林などからの自然由来の流入負荷も考えなければならない。その意味で、流域の森林 整備も積極的に行っていく必要があるだろう。特に降雨時の流入負荷量については充分に調査され ているとはいえず、今後の重要な研究課題となっている。 その一方で、積極的に水質改善を行う方法も試行されている。富士五湖は国立公園内にある湖沼 であり、名勝指定もされているため、湖沼の人工的な改変には大きな制限が課されている。そのた めより環境影響や負荷の少ない生態工学的な方法での水質浄化方法を検討してきた。そのひとつと して植物プランクトンの競争相手としての水草を積極的に利用する試みが、山梨県総合理工学研究 機構の研究として行われた。生物多様性の保護のため、その湖沼に生育している在来の水草を、そ の湖沼の泥を用いた基物で植栽するという方法である。この方法は水草の成長に伴う窒素、りん吸 収による栄養塩の減少と、繁茂した水草による底泥の巻上げ抑制効果を用いて透明度の向上が期待 される。 雑駁な内容でありますが、富士五湖の素晴らしさを別な角度からご紹介し、皆さまの今後の生活 やご活動に多少でもお役に立てればと考えております。 - 76 - 富士山の環境と観光 ―日本一の山の抱えてきた問題 ゴミ問題とトイレ問題を中心に― 富士吉田田口旅館組合 井 上 洋 一 富士山の環境問題の認識 ・高校 3 年(昭 36,1961)の終業式での校長の挨拶 「富士山は汚い」 ・外国人から「富士山はゴミの山」という手紙が来る ・富士山をきれいにする会(昭 37,1962)発足(山梨日日新聞主催) ゴミ問題 解決へ向けた取り組み ・登山道周辺のゴミ拾い (昭 53・1978 年より) ・ゴミをブルドーザーで下界へ運搬 ・ゴミ問題への地元関係者の関心の薄さ「ゴミなんてその辺に捨てろ」 →父親と喧嘩が絶えず ・登山者のマナーの悪さ→ゴミを拾うも限り無し ・登山者、山小屋、行政が一体となった対策が必要であった ・山小屋内のゴミ箱を撤去し、自分で持ってきたものはすべて持ち帰るように徹底 ・食事メニューの変更によるゴミ減量 ・登山者のマナーも向上し、ゴミを捨てる人が減少 ・様々な団体による清掃活動も活発に⇒登山道周辺でのゴミは非常に少なくなった まだ課題は終わらない ・登山者のマナーも向上し、ゴミを捨てる人が減少 様々な団体による清掃活動も活発に ⇒登山道周辺でのゴミは非常に少なくなった ・とはいえ、昔捨てられたゴミが、広い富士山の中にはまだまだある ・昔捨てられたゴミが、広い富士山の中にはまだまだある ・昔捨てられ埋もれたゴミ ・過去の尻拭いを続ける必要 - 77 - 野焼きと生ゴミ ・空き缶などのゴミが下界に下ろされるようになってからも、生ゴミは投棄され、 紙類は野焼きされていた ・紙類、生ゴミに関してもきちんと処理すべきだという考えに変わってきた ・ダイオキシンのほとんど発生しない焼却炉を平成 15 (2003)年に太子館に導入 ・他の山小屋もゴミを下ろす、燃焼式トイレで焼却処理等で対応 ・焼却することで可燃物は 10 分の 1 以下にまで減少 ・生ゴミ等の廃棄も行われなくなる ・燃料、電気等の費用負担は増える トイレ問題 ・昔から垂れ流し (浸透放流方式)が一般的だった ・全山で 30 万人以上の登山者の出す、し尿の量は膨大 太子館における取り組み ・各地の山小屋を歩いてトイレを研究 ・その結果簡易水洗を選択 ・一定時間ごとに水を流し、汚物を浄化槽に蓄え、バクテリアで分解 ・アンモニア臭は収まり、白い川も解消された ・バクテリア分解のトイレは、紙や異物が入ると故障してしまう ・心無い登山者が紙おむつやナプキン、パンツ、シャツ等を捨てて使用不能になった ことがある ・正しい利用がトイレの維持には必要不可欠 山小屋の組合としての取り組み ・行政と山小屋が一体となって、環境保全推進協議会を設立 ・行政の補助のもと、各山小屋でも垂れ流しのトイレを撤廃し、環境配慮型のトイレ を導入 ・2006 年に全山小屋へ導入が完了 ・江戸時代の書物、隔掻録(かくそうろく)には既に、富士山が、し尿であふれた汚 い山だ、という記述がある ・ゴミ・トイレの問題は富士山において 200 年以上にわたって存在し続けてきたもの ・近年になり、遂にそれらの問題が解決の方向へ進んでいる - 78 - 登山者を守る環境整備 救護所 ・高山病をはじめ傷病者への対応が難しい山の上での診療所 ・平成 13 年に開設され一夏で 300 人以上の診察を行っている 救急搬送車 ・けが人、急病人の搬送用にブルドーザーを待機させている ・富士山では風の関係でヘリコプターが飛べないことが多い 気象情報の利用(山岳予報士猪熊さんから提供) ・気象予報会社から富士山に特化した気象情報を取得 ・悪天時に、携帯メールで今後の気象情報を山小屋や登山中の案内人に配信 楽しく、よりよい富士登山のために 山小屋 2 泊登山の推進 ・遠方からの 1 泊ツアーでは、休息時間が少なく、リタイアが多い ・山小屋で 2 泊して、昼間登ろう! ・高山病の確率も低下 ・子供も登りやすい ・山小屋でも御来光は綺麗 各種イベント ・富士山の上からの「影富士」の写真コンテストからスタート(2005 年) ・登山をすることで親子や夫婦の絆を深めて欲しい ・山小屋の組合主催のイベント(2006 年から) ・影富士はまなしワイン(宿泊した人に五合目でワインをプレゼント) 文化や歴史の展示 ・山小屋の歴史、文化、所蔵品の紹介パネル ・信仰登山の歴史を周知 ・日英語表記(2009 年から) 富士山慰霊碑 ・富士山で初めての遭難者慰霊碑 ・鎮魂と安全登山の祈りを捧げる場(2006 年建立) まとめ ・ゴミ問題・トイレ問題に官民一体となって取り組んだ結果、前進できた ・様々な「安心・安全・楽しい」登山への取り組みの結果、できた ・時代の変化にあわせてあらゆる問題に関して、求められるレベルは高くなりつづけ ている ・そのような変化に対応していくことが必要 - 79 - 山梨県立大学 観光講座 2012 「富士山世界遺産講演会」 発行者 公立大学 山梨県立大学 地域研究交流センター 発行日 平成25年3月30日 執筆者 五味文彦 森原明廣 新津 健 堀内 真 荒牧重雄 輿水達司 杉本悠樹 高橋晶子 高室有子 近藤暁子 高橋一孝 植月 学 吉澤一家 井上洋一 (順不同) 連絡先 山梨県立大学 地域研究交流センター 〒400-0035 山梨県甲府市飯田五丁目11-1 Tel 055-224-5260 印刷所 株式会社 三 縁 Tel 055-267-6415
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