4 カラーネガフィルムの技術系統化調査 A Systematic Survey of Technologies Developed for Color Negative Films 久米 裕二 Yuji Kume ■ 要旨 人類には楽しい時間や、感動を受けた状況を思い出として残したいという根源的な欲求がある。しかし、昔は 文字に書き、絵に描いて残すしか方法がなかった。ところが、銀塩写真という技術が 200 年くらい前に発明さ れ、ヨーロッパを中心に発展してきた。そして、この銀塩写真術は、多くの人の努力や優れた発明等により新た な改良を加えることで、産業として徐々に根付き始めた。 日本にも 19 世紀半ばに銀塩写真の技術が欧米から伝わった。そして、日本人の真摯で緻密な国民性も加わり、 国産のフィルムを作ろうと欧米の技術を必死で真似し追いつこうと努力した。粘り強い苦労と努力を継続した結 果、1980 年代になると日本企業は独自の銀塩写真技術を創り始めるまでに至った。その後も、日本企業は世界 に誇る銀塩写真技術を次々と産み出し、世界の銀塩写真材料業界を牽引していった。 銀塩写真の発明の歴史については、他に幾つかの書籍が出版されているので、ここでは簡単にその歴史と技術 内容を紹介するにとどめ、主に 1980 年代から日本企業がカラーネガフィルム分野において世界最高レベルの技 術を確立していく状況について記述することとした。 銀塩写真感光材料には、カメラという暗箱一つがあれば、光を当てるだけで美しい風景が簡単に記録できるよ うに沢山の機能が組み込まれている。この銀塩写真感光材料に関して、資料や報告類を可能な限り集め、纏まっ た記録として報告を後世に残すという観点から、今回の系統化調査を実施した。主たる調査対象は、銀塩写真 フィルムの中でも最も感度が高く、かつ多くの機能が詰まったカラーネガフィルムとした。カラーネガフィルム としては、アマチュアが使用する一般用カラーネガフィルムの他に、営業写真館で使われる営業写真用カラーネ ガフィルムや映画撮影で使用される映画用カラーネガフィルムを併せて検討対象として調査を進めた。 カラーネガフィルムの発展の歴史は、一言で言うと、見た通りに写る美しい色再現の追及と、いつでもどこで も写真が撮れるように高感度化の追及であった。白黒フィルムからカラーフィルムが発明され、初期の貧弱な色 再現から何とか実物に近い色に近づけるため、カラードカプラーや DIR カプラー等の主要技術を筆頭に様々な 発明や工夫が行われた。また、被写人物がじっと動かないで我慢しなくても、何時でも何処でも速いスピード でシャッターがきれるようにフィルムの感度が上げられ、露光ラチチュード(露光量の許容度)が広げられた。 19 世紀初期に発明された世界最古の写真とされるヘリオグラフィーは ISO 感度が 0.00005 であったと言われて いるが、20 世紀末にはカラー写真で ISO 感度 800〜1600 を常用感度とするまでに至った。まさに、ヘリオグラ フィーに対して、カラー化を達成したうえに、更に 1000 万倍以上もの高感度化を成し遂げたということになる。 その発展の歴史の中で、日本企業は ISO100 から 400 → 800 → 1600 への高感度化、超高感度化に対して先頭を 切って開発を推進した。本報告では、このカラーネガフィルムシステムの開発の歴史を記載するだけでなく、商 品開発時の苦労やその中に導入されたハロゲン化銀や機能性カプラー等の重要発明の開発の経緯などについても 簡単に紹介する。 デジタルカメラという革新技術が銀塩写真に置き換わった今、再び銀塩写真が一般写真の主役に立ち返る可能 性は低いとは思うが、カラーネガフィルムの開発で生み出された発明や技術は違う形で将来に受け継いでいかれ るものと信じる。困難にぶち当たった時、研究者達はどのような苦労をして、何を考えて、どんな幸運をつかま えて大発明を成し遂げたのか。この報告書が、若い技術者達の今後の研究活動において、ブレークスルーのため の一助となれば幸いである。 ■ Abstract Human beings have a genuine desire to record the memories of their pleasant and impressive experiences, and could however realize it only by writing and drawing for a long time, until a technology designated as silver halide photography was invented in Europe about 200 years ago. Then, enormous efforts and resultant remarkable inventions made by many people have steadily improved this technology, and made it possible for it to take root in the industry. Silver halide photography was introduced to Japan from Europe in the mid-nineteenth century. Owing to their sincere and delicate character, Japanese people made extensive efforts to catch up with this technology, particularly that for domestic production of photographic films. As a result of their tenacious efforts and labors, Japanese companies became to develop their own unique silver halide photographic technologies in the 1980s. Subsequently, they became to be one of the leaders in producing silver halide photographic materials with worldʼ s highest-class performances. Since the history of silver halide photography was already dealt with in details in several reference books, it is only briefly described here. Instead, this paper mainly describes the technical progresses for the establishment of color negative films with worldʼs highest-level performance since the 1980s in Japan. Color negative films are provided with many functions that made it possible to take pictures of beautiful landscapes simply by shedding their light images on them in a camera. Although there are many technical data and reports on color negative films, they are dispersed too widely to be used effectively in future. Taking into account this situation, the present author has collected those data and reports as many as possible, and put them in order here to give a systematic survey on the technologies for color negative films. Color negative films have the highest sensitivity among silver halide photographic materials and are provided with many functions. They include color negative films for amateur consumers, those for business in photo studios, and those for movies. The history of technologies developed for color negative films is composed of the progresses in color reproduction and sensitivity for taking precise pictures at any time and place. The evolution of black-and-white films was followed by the invention of color films and subsequent progress in color reproduction owing to the development of remarkable technologies such as colored couplers and DIR (Development Inhibitor Releasing) couplers. The sensitivity and latitude of exposure for taking a picture were enhanced so remarkably that one can take a picture only by pressing the shutter of a camera with high shutter speed at any time and any place, even when a photographic subject is moving. In contrast to the oldest photography, heliography that was invented at the beginning of 19th century and had ISO sensitivity of as low as 0.00005, color negative films has become to have ISO sensitivity of 800-1600 at the end of the 20th century, thus achieving sensitivity increase by more than 10 million times for each of three primary colors. In the history of this development, Japanese companies especially promoted sensitivity from ISO100 to 400-1600 and have been taking the lead in realizing ultrahigh sensitivity. This paper is undertaken to describe, not only the progress of color negative films since the 1980s, but also details of hard works endured for the development of important technologies with silver halide grains and functional couplers in color negative films. Since color negative films are now overwhelmed in market by digital still cameras, they will not play a central role again in ordinary photography in future. However, technologies created during the development of color negative films are expected to be transmitted to new areas developing for future. When researchers encounter difficulties, it might be helpful for them to know what hardships their predecessors faced, how they thought, and what good fortunes they caught to overcome the hardships. The present author would be happy if this paper could be of some help for young researchers to make breakthroughs in their research activities in future. ■ Profile 久米 ■ Contents 裕二 Yuji Kume 国立科学博物館産業技術史資料情報センター主任調査員 昭和44年3月 昭和48年3月 昭和50年3月 昭和50年4月 昭和58年〜 平成10年〜 平成14年〜 平成17年〜 平成22年8月 平成23年4月 高知県私立土佐高校卒業 大阪大学基礎工学部合成化学科卒業(物理化学専攻) 大阪大学基礎工学部修士課程修了(物理化学専攻) 富士写真フイルム株式会社入社、足柄工場にて 製造技術開発に従事 足柄研究所に異動。カラーネガフィルム商品化 研究に従事 研究部長としてカラーネガフィルムの商品化 研究統括 カラーペーパー、レントゲン写真などの銀塩写 真商品開発 新規材料研究(インクジェット用素材、銀塩ホ ログラフィー材料など) 同社を定年退職 国立科学博物館産業技術史資料情報センター 主任調査員 1. 2. 3. 4. 5. 6. はじめに ………………………………………………… 277 銀塩写真の特徴と分類 ……………………………… 278 カラーネガフィルムの層構造と主要技術 ……… 283 銀塩写真の発明から近代カラーネガフィルム開発までの流れ … 286 欧米写真術の日本への伝搬 ………………………… 293 欧米写真技術のキャッチアップと銀塩写真フィルムの 国産化(第一次世界大戦から第二次世界大戦まで)… 296 7. 第二次世界大戦から 1960 年代までの日本の写真感光材料産業の発展 … 300 8. 1970 年代のカラーネガフィルムの開発 ……… 306 9. 1980 年代のカラーネガフィルムの開発 ……… 309 10. 1990 年代のカラーネガフィルムの開発 …… 323 11. 2000 年以降のカラーネガフィルムの開発 … 332 12. 銀塩写真における重要技術誕生の経緯、秘話 … 344 13. 日本が世界最高レベルの技術開発を成し遂げた理由の考察 … 355 14. あとがきと謝辞 ……………………………………… 358 カラーネガフィルムの系統化図 ……………………… 360 カラーネガフィルムの登録候補一覧 ………………… 361 カラーネガフィルムの開発歴史年表 ………………… 362 1 はじめに 銀塩写真は 200 年くらい前にヨーロッパで発明され 性や鮮鋭度の改良も重要課題であるが、これらは高感 た。一口に銀塩写真と言っても、白黒写真やカラー写 度化の必要要件としてとらえた。 )本報告ではこれら 真、ネガ / ポジ系から反転系、アマチュア用からプロ を写真関連以外の一般の人でも理解できるように、な フェッショナル用、また一般撮影用から X 線撮影用 るべく平易に記述することを心掛けた。 や印刷用まで、様々な種類の銀塩写真フィルムが存在 本報告の構成としては、第 2 章、第 3 章で銀塩写真 する。その中で本報告は特にカラーネガフィルムを調 の特徴及びカラーネガフィルムの層構造と主要技術に 査対象とすることにした。 ついて説明する。第 4 章では写真が発明されてから近 白黒写真でもカラー写真でも、歴史的にみて最初の 代カラーネガフィルムが開発されるまでの世界の流れ 発明は直接画像を観察できる反転フィルム(例:白黒 を簡単に説明し、第 5 章以降から日本における写真産 写真=ダゲレオタイプ、カラー写真=コダクローム) 業の勃興と発展の歴史を紹介する。欧米写真術が日 であった。また、ネガ / ポジ系ではポジへのプリント 本に伝搬し、国産化を成し遂げ、世界最高レベルの 時に画質(鮮鋭性等)の劣化が発生するため、反転 カラーネガフィルムを開発するに至るまでの苦闘の歴 フィルムの方が画質的にも有利であった。しかし、そ 史を第 5 章から第 11 章まで、年代ごとに区切って紹 れにも係わらず歴史的な事実として、一般写真でも映 介する。一方、第 12 章では銀塩写真の歴史の中でカ 画でも撮影には 90%以上ネガフィルムが使用されて ラーネガフィルムにとっての重要技術がどのようにし きたのである。その理由として、ネガ / ポジ系は①多 て誕生してきたのか、その経緯や秘話について紹介す 数の複製プリントを作れる②露光ラチチュード(許容 る。第 13 章では、銀塩写真カラーネガフィルム分野 度)が広い③プリントサイズが自由④オリジナル像が で、日本が世界最高レベルの技術開発を成し遂げるこ 保存できる等の優位性が挙げられる。 とが出来たその要因について考察する。 1935 年にコダック社は反転型カラー写真(スライ 本報告では、「写真とともに百年」(小西六写真工業 ドフィルム)のコダクロームを発明し発売したが、大 株式会社(編)、昭和 48 年 3 月 25 日発行)、 「富士フ 多数の顧客が欲しいのはプリントであることを痛いほ イルム 50 年のあゆみ」(富士写真フイルム株式会社 ど思い知らされた。そこで同社はコダクローム型の反 (編)、昭和 59 年 10 月 20 日発行) 、及び「総天然色へ 転ペーパーを開発して反転→反転プロセスでプリント の一世紀」 (石川英輔 著、青土社、1997 年 8 月 25 日 を顧客に提供する準備を始めた。しかし「処理プロセ 発行)を参考文献として随所に活用させて戴いた。ま スが極度に複雑で長く、得られるプリントの色がひ た、技術年代の確認として、 「カラー写真技術辞典」 どく劣悪で、開発担当者は悪夢をみているようであっ た。別の開発チームがカラーネガ / ペーパープロセス (二村隆夫 編、写真工業出版社、1993 年 1 月 16 日発 行)を参考にさせて戴いた。 の開発に成功してくれたので助かった」と、悪夢を見 写真関連各社の社名であるが、小西六兵衛商店から ていた一人で、後にカラードカップラーを発明し研究 コニカミノルタにいたるまで何度も変更され、富士写 所長を勤めた W.T. ハンソン Jr. が回顧している。カ 真フイルムが富士フイルムと社名変更されているが、 ラーネガフィルムは歴史的にみて、銀塩写真において 本報告では年代と共に必ずしも正確な社名の記述がな 圧倒的に主要な地位・王道を占めていたのである。 されてない部分もあり、小西六やコニカ、フジフイル カラーネガフィルムの発展の歴史は、一言で言うと ムと簡略化して記載した箇所もある。同様に、他の写 見た通りに写る美しい色再現の追及といつでもどこで 真関連会社もコダック、アグファ、ニコン、キャノン も写真が撮れるように高感度化の追及である。 (粒状 等、簡略名で記載していることもお許し願いたい。 カラーネガフィルムの技術系統化調査 277 2 銀塩写真の特徴と分類 2.1 このネガフィルムを白黒印画紙に露光し、同じ現像 銀塩写真の特徴と像形成の原理 操作を繰り返すことで印画紙上にポジ像が形成される ことになる。 銀塩写真とは、感光性のハロゲン化銀粒子を受光セ ンサーとして像情報を捉え、現像等の増幅工程によ り、像情報を目に見える形に変換するシステムであ る。 2.1.2 カラー写真の発色の原理 次にカラー写真の原理(図 2.2)について説明する。 カラー写真は、波長の短い紫外光から波長の長い赤外 光など、様々な波長の光がある中で、人間の眼に見え 2.1.1 る 400nm〜700nm 近くの青、緑、赤の可視光に感じ 白黒写真の原理 白黒写真は風景等を金属銀により白黒で再現する写 て、色の三原色を利用して、イエロー、マゼンタ、シ 真である。まず古くから利用されてきた白黒写真の原 アンの色素によりカラーの画像を再現する写真であ 理(図 2.1)について説明する。 る。 フ ィ ル ム 膜 で は ゼ ラ チ ン が 膜 形 成 物 質( バ イ ン フィルム膜ではゼラチンがバインダーとして用いら ダー)として用いられ、その中にハロゲン化銀が添加 れ、ハロゲン化銀に加えてカプラーが添加されてい されている。撮影時に被写体の陰影がフィルム上に投 る。カプラーとは現像液中の現像主薬とカップリング 影され、ハロゲン化銀が光を受ける。光を受けたハロ 反応することで色素を形成する有機化合物のことであ ゲン化銀は表面に微細な銀核を生成する(潜像と呼ば る。イエロー色、マゼンタ色、シアン色と、それぞれ れる) 。 異なる分子構造を持つカプラーが存在する。撮影時に このフィルムを現像液に浸漬するとゼラチンが水で 被写体の陰影がフィルム上に投影され、ハロゲン化銀 膨潤し、現像主薬が容易に膜中に侵入する。そして、 が光を受ける。光を受けたハロゲン化銀は表面に微細 微細な銀核を触媒として現像主薬がハロゲン化銀を還 な銀核を生成する(潜像と呼ばれる)。 元し銀になる(現像主薬は酸化される) 。一方、光の このフィルムをカラー現像液に浸漬すると、ゼラ 当たっていないハロゲン化銀は還元されずそのまま残 チンが水で膨潤し、現像主薬が容易に膜中に侵入す る。 る。そして、白黒現像と同様に現像主薬が、微細な銀 次に定着液に通して、現像されなかったハロゲン化 核を触媒としてハロゲン化銀を還元し銀になると同時 銀を溶解してフィルム膜内から除去する(定着工程)。 に、酸化還元反応により現像主薬が酸化される(図 2.2 その後、水洗して乾燥させると、輝度の逆転した白黒 ①) 。そして、この現像主薬の酸化物が泳動し、近隣 ネガフィルムが出来る。 に存在するカプラーとカップリング反応することで色 素を形成する(図 2.2 ②) 。一方、光の当たっていな いハロゲン化銀は現像されずそのまま残る。 次に現像された銀は黒色であり色再現には不要のた め、まず漂白液中で酸化されて元のハロゲン化銀に戻 される(漂白工程)。 さらに定着液に通すことで、露光された部位もされ ない部位も全てのハロゲン化銀を溶解してフィルム膜 から除去する(定着工程)。 その後、水洗して乾燥させると、輝度が反転し、か つ色相も反転した色素像(青色の反転色はイエロー、 緑色の反転色はマゼンタ、赤色の反転色はシアンとな る)を持つカラーネガフィルムが出来る。 これをカラー印画紙に露光し同現像操作を繰り返す 図 2.1 278 白黒銀塩写真の像形成原理 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August ことで印画紙上にカラーのポジ像を形成する。 ト(PEN)等も使用されている。各支持体の化学構 造式を図 2.4 に示す。 図 2.2 2.1.3 カラー銀塩写真の像形成原理 銀塩写真の構成 銀塩写真フィルムは通常、感光性ハロゲン化銀の微 結晶粒子をゼラチン中に分散し、種々の添加剤とカ 図 2.4 各支持体の化学構造式 ラー写真の場合は発色用のカプラーを加えて得られる 写真乳剤を支持体上に塗布して製造される(図 2.3)。 ハロゲン化銀を含む乳剤層は複数あるが、この図は単 純化のために一層のみを示した。 (2)ゼラチン フィルム膜中でバインダーとして用いられている素 材はゼラチンである。写真の歴史からみて、コロジオ ンからゼラチンに変わって 100 年以上が経過している が、他の合成バインダーには未だに置き換わっていな い。これはゼラチンが次のような優れた性質を持って いることによる 1)。 a.ハロゲン化銀の分散性に優れ、自在にハロゲン 図 2.3 銀塩カラー写真の乳剤層の構造 化銀の形や大きさの異なった結晶粒子を容易に 作ることができる。 b.ゼラチン中の核酸残基による増感、抑制等の写 ここで、カラーネガフィルムを構成する各組成につ いて簡単に説明する。 真性に有効な物質を含んでいる。 c.ゾル / ゲル変化の性質を持ち、支持体に写真乳 剤を塗布後すぐに冷却することで、均一な塗膜 (1)支持体 カラーネガフィルムの支持体は寸法安定性や耐水性 を安定に製造でき、そのままの状態でさらに乾 燥できるため、高生産性に繋がる。 に優れ、かつ剛性のあるものが必要である。ロール d.硬膜剤が容易に反応できる被反応基が多く存在 フィルムの支持体には、古くはセルロイドが用いられ し、層形成中あるいは後に層中で架橋反応を行 たが、不燃性の観点からセルローストリアセテート わせることができる。架橋後はゾル / ゲル変化 (TAC)が主に用いられるようになった。また、平面 がなくなるものの、現像過程で膨潤し、薬品の 性や強度確保のために、ペットボトルでお馴染みのポ 拡散を容易にする。しかも、水中でもかなりの リエチレンテレフタレート(PET)が使用され、近 強さが保たれ処理操作に耐えうる優れた物理的 年の APS フィルム用としてポリエチレンナフタレー 性質を持つ。 カラーネガフィルムの技術系統化調査 279 ゼラチンは動物の体内に最も多く存在する繊維状タ 収は禁制遷移に基づくため吸収係数は小さいが、禁制 ンパク質である水不溶性のコラーゲンを、酸あるいは 遷移のため逆反応(発生した光電子の失活)も起こり アルカリで前処理した後、熱加水分解して可溶化し抽 にくいという重要な性質を持つ。 出したものである(図 2.5 にコラーゲンとゼラチンの 図 2.6 で潜像形成過程(ガーニー・モットー理論 6)) 関係を示す) 。原料としては主に、牛骨や豚皮等を主 について簡単に示す。光が吸収されると価電子帯の電 原料としている。ゼラチンにはハロゲン化銀に対して 子が伝導帯に励起され、ハロゲン化銀結晶表面の感光 増感効果を持つ微少成分が存在するということが昔か 核にトラップされる(電子過程) 。ついで、ハロゲン ら知られていた。そして、増感効果のあるゼラチンに 化銀結晶中の格子間銀イオンが感光核に近づきトラッ は「からし」の匂いがあることに気付き、イオウ増感 プされた電子と中和することで銀原子となる(イオン 剤が見出された。現在では、微少成分が性能に影響を 過程) 。電子過程、イオン過程を繰り返し、銀原子 3 与えると製造ロット毎に写真性が変化する可能性を持 〜4 個以上の集合体となることで現像の際に触媒とし つため、性能に影響のある成分を分離し増感剤として て作用する現像核(潜像)となる。ハロゲン化銀結晶 別添加する一方、ゼラチン自体は脱塩処理等により、 表面の感光核は粒子内の格子欠陥であったり化学増感 写真性に対して不活性なタイプへと変化している。 工程で作られた硫化銀や硫化金であったりする。ハロ 近年、牛に牛海綿状脳症(BSE)が発生する問題が ゲン化銀の感度を向上するための化学増感として、イ 発生したが、ゼラチン製造会社である株式会社ニッ オウ増感、金増感、還元増感等様々な研究が行われ著 ピによると、BSE 発生のない国であるオーストラリ しい進歩を遂げた。ハロゲン化銀の研究だけで、膨大 ア、ニュージーランド、インドから輸入した牛骨を使 な報告があるが、本報告では省略する。 用し、さらに特定部位を除いた原料のみを使用する という対策を図っているうえに、製造工程そのものが BSE の異常プリオンを不活性化させる働きを持つこ ともあり、安全弁が幾重にも施されているということ である 4)。 図 2.6 図 2.5 コラーゲンとゼラチンとペプタイドの関係 4) 潜像の形成過程 5) (4)カラー発色現像 カラー写真における発色反応は図 2.7 で表される。 より詳しくは、発色現像主薬として用いられているパ (3)ハロゲン化銀 ハロゲン化銀粒子には塩化銀、臭化銀、ヨウ化銀、 ヨウ臭化銀など多種のハロゲン組成を持つ粒子が存在 ミキノンとなり、不均化により 2 電子酸化体のキノン し、大きさも百分の数μ〜数μまで様々なサイズがあ ジイミン(QDI)となる。2 当量カプラーの場合は、 る。ハロゲン化銀に光が当たると特定の波長の光が吸 この一個の QDI がカプラーとのカップリング反応に 収される。カラーネガフィルムでよく使われるヨウ臭 より色素を形成する。 化銀では、可視光のうち青光だけを吸収する。この吸 280 ラフェニレンジアミン(PPD)が 1 電子酸化されてセ 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 表 2.1 画像媒体 種類 銀塩写真の分類 1) 主な分類と用途 白黒ネガ 一般用ネガフィルム 感光材料 赤外撮影用ネガフィルム 白黒印画 紙 図 2.7 カラー写真における 2 当量カプラーの発色現像機 構 7) 白黒写真 ( 画 像 が X線感光 金属銀) 材料 カプラーの代表的な構造として、イエローカプラー を図 2.8 に、マゼンタカプラーを図 2.9 に、シアンカ プラーを図 2.10 に示す。各カプラーの活性メチレン 部(黒矢印で示す)が現像主薬の酸化体とカップリン カラー写 真(画像 が有機色 素) 図 2.8 イエローカプラー1) 図 2.9 マゼンタカプラー1) 医療用フィルム(直接撮影 用、間接撮影用) バ ッ ジ フ ィ ル ム( X 線 用、 γ線用) 工 業 用 フ ィ ル ム( 高 感 度、 標準、微粒子) 印刷製版 用感光材 料 リスフィルム グラビアフィルム ファクシミリフィルム スキャナーフィルム カラーネ ガ感光材 料 一般用カラーネガフィルム 営業写真用カラーネガフィ ルム 映画用カラーネガフィルム カラー印 画紙 ネガポジタイプ印画紙 リバーサルタイプ印画紙 映画用ポジフィルム カラーリ バーサル 感光材料 内型タイプフィルム 外型タイプフィルム その他の フィルム インスタントフィルム等 グし生成した色素の共役結合の共鳴状態の大きさに よってそれぞれの波長の色を示す。 一般用印画紙 階調の異なるタイプの印画 紙(1〜4 号等) X 線感光材料は、X 線が物体を透過する性質を利用 図 2.10 1) シアンカプラー(2種) して被写体内部の様子を撮影するフィルムであり、直 接撮影用と間接撮影用がある。また、医療用と工業用 に分けられ、さらに用途により分類される。医療用で 2.2 は人体の被爆線量を少なく抑えるためにフィルムが高 銀塩写真の分類 感度化され、さらに使い勝手の向上としてドライ化や 迅速処理化が進められている 7)。 銀塩写真を大きく分類すると、表 2.1 のように、ハ ロゲン化銀を還元した金属銀を画像として使用する白 印刷製版用感光材料には、上表のように各種の製版 用に合わせた感光材料が開発されている。 黒写真とハロゲン化銀をセンサーとして用い、画像を カラーネガ感光材料やカラー印画紙はカラー画像を 有機化合物(色素)で表現するカラー写真とに分けら 得るために、銀塩写真で最も広く用いられているシス れる。 テムである。今回の報告では、下線を引いた一般用カ 白黒ネガフィルムや白黒印画紙は最も古くから見出 ラーネガフィルム、営業写真用カラーネガフィルム、 されてきたシステムであり、高感度から低感度、報道 映画用カラーネガフィルムを中心として、以降で詳細 用からポートレート用まで、印画紙の階調や支持体種 に説明する。 類も併せて、多くの組み合わせ商品が市場導入されて いる。 カラーリバーサル感光材料は直接ポジ像が得られる カラー写真として、歴史上最初に開発された製品であ る。最初は現像液中にカプラーを有し現像時に乳剤層 中に発色色素として着色させる外式現像方式が発明さ カラーネガフィルムの技術系統化調査 281 れたが、現像処理が非常に複雑であり、カプラーが乳 引用文献 剤中に含まれる内式現像方式が発明されることで、近 1)「カラー写真感光材料用高機能ケミカルス」 、新井 年はほとんど内式現像方式になった。ネガ / ポジ方式 のようなプリント工程や色補正がなく直接画像が得ら れ、プリント時の色変化や情報劣化がないため、得ら 厚明 ら、シーエムシー出版、27、136(2002) 2)「写真の化学」、笹井明、㈱写真工業出版会、16 (昭和 62 年) れる画像が非常に鮮明で美しく、プロ写真家やアドア 3)「新写真システム用 A-PEN 支持体の開発」、品川 マ層に多く使用されるが、露光許容度が小さく撮影が 幸雄ら、富士フイルム研究報告、42、62(1997) 4)「ゼラチン・ペプタイドテクニカルノート」 、株式 難しい感材である。 その他のフィルムとして、ポラロイドの名前でよく 知られる、撮影と同時に画像が得られるインスタント フィルムを始め、多様なフィルムやシステムが存在す 会社ニッピ編 5)「写真感光材料の発展と今後の展望」 、大石恭史、 化学工学、49(9)、26(1985) 6) R. F. Gurney and N. F. Mott, Proc. Roy. Soc. る。 (London),Ser. A, 164(1938)151 7)「放射線写真学」、大松秀樹ら、㈱富士フイルムメ ディカル発行、274(平成 15 年 4 月 1 日) 282 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 3 カラーネガフィルムの層構造と主要技術 3.1 (露光時の光量の許容度)を持たせるために大サイズ カラーネガフィルムの層構造 から小サイズのハロゲン化銀粒子を添加している。こ の中で大サイズの粒子がフィルムの粒状性を特に悪化 一般アマチュア用カラーネガフィルムは、約 120μm させる。これについて、センシトメトリー曲線を使っ のトリアセチルセルロース(TAC)ベース上に、約 て説明する。センシトメトリー曲線とは横軸を露光す 20μm 程度の厚さで、ハロゲン化銀を含む乳剤層や る光量(logE)に取り、縦軸にカラーネガフィルム その他の層を含めて 10〜20 層が精密に重層塗布され が現像された後の色素の光学濃度(Optical Density) ている。各々の層はゼラチン膜で形成されており、塗 の値を取る。露光量が増加するに従って色素濃度が増 布された後、硬膜剤によりゼラチン同士を化学結合 加することで情報を記録する。よって、センシトメト (架橋反応)させることで、水に濡れても膨潤するが リー曲線は右上がりの直線となるように設計される。 溶解しない強靭な膜を形成する。一般的に、カラーネ ガフィルムには表 3.1 のように多くの層が塗設されて いる。 (1)1 層構成の粒状(図 3.1) 感光層が 1 層で構成されている場合をみてみると、 感度の高い大サイズ粒子も感度の低い小サイズ粒子も 表 3.1 一般的なカラーネガフィルムの層構造例 層名 層数 添加物 保護層 1層 マット剤、滑らせ剤、帯電 防止剤 紫外線吸収層 1層 紫外線吸収剤、超微粒子ハ ロゲン化銀 青色感光層 3層 ハロゲン化銀、分光増感剤、 発色カプラー イエローフィ ルター層 1層 緑色感光層 3層 ハロゲン化銀、分光増感剤、 発色カプラー 混色防止層 1層 混色防止剤 赤色感光層 3層 ハロゲン化銀、分光増感剤、 発色カプラー カブリ防止層 1層 カブリ防止剤 アンチハレー ション層 1層 黒色染料(コロイド銀、黒 色染料等) 同じ一つの乳剤層にミックスして添加されている。露 光量に合わせてハロゲン化銀が感光し現像液中で色素 に変換される。その場合の色素雲を図 3.1 の中段に示 す。大サイズのザラザラした粒状が露光量の少ない領 域から多い領域まで覆っていることが分かる。この大 サイズ粒子がフィルム全体の粒状を悪化させている。 粒状を加えたイメージのセンシトメトリー曲線を図 3.1 の下段に示す。 脱色性イエローフィルター (コロイド銀、固体染料等) 下塗り層 支持体 トリアセチルセルロースベース等 3.2 画質改良のための主要技術 図 3.1 1層構成の場合の粒状を拡大して表したイメージ図 1) これらの層に搭載されている主要技術について以下 に解説する。 (2)2 層構成の粒状(図 3.2) それに対して、感光層の層構成を 2 層に増やし、1 3.2.1 粒状消失技術 カラーネガフィルムは非常に広範囲のラチチュード 層目に大サイズ粒子を、2 層目に小サイズ粒子を配置 した場合を考える。露光量が少ない場合は 1 層構成と カラーネガフィルムの技術系統化調査 283 同じく大サイズ粒子のみが発色するが、露光量が増加 ルム中の緑色感光性層に予めイエローに着色したカプ するに従って 1 層目は発色粒子数が増え、ある露光量 ラー(カラードカプラー)を添加しておき(図 3.3 B) 、 を越えると 1 層目が一様に発色し大サイズの粒状が消 マゼンタ色素の発色量に応じて減色するように設計す 失してしまう。また濃度の増加もなくなる。この露光 ることで、緑光の入力に対し、マゼンタ色領域のみ増 領域において 2 層目のハロゲン化銀粒子が感光し、色 加することが可能となり色濁りを防止することが出来 素に変換されることで情報が記録される。しかし、そ る(図 3.3 C)3)。赤色感光層にも別色のカラードカプ の時の色素雲は小サイズ粒子のものであり、粒状はザ ラー(赤色)を添加しているため、カラーネガフィル ラツキの小さなものになる(図 3.2 中段) 。こうして、 ムはオレンジ色を呈している。(第 12.4 章にカラード 露光量が増加すると大サイズ粒子の粒状が消え、小サ カプラー発明の経緯を記載する) イズ粒子の粒状に改善させることが出来る設計を粒状 消失設計と呼ぶ。この設計がカラーネガフィルムの画 質改良に大きな進歩をもたらした 2)。 図 3.3 3.2.3 カラードカプラーによる色再現性向上機構 4) 現像抑制カプラーによる画質向上技術 人間の目には網膜上に視細胞が一面に並べられてい る。稈体という主に光の強度のみを感知する視細胞と 図 3.2 2層構成の場合の粒状を拡大して表したイメージ図 1) 錐体という色を感知する視細胞がある(網膜の焦点付 近は錐体が多く、周辺には稈体が多く配置されてい カラードカプラーによる色再現向上技術 る) 。網膜に入射した光は視細胞により電気信号に変 カラードカプラーによる色再現性向上機構につい 換され、神経線維層を通り脳に到達する。この間に周 て、図 3.3 で説明する。カラーネガフィルムが緑光で 囲の信号を抑制し、僅かな強弱や微妙な色の違いを明 露光されたとすると、その光の強さに応じたマゼンタ らかにする作用を人間は有する。 3.2.2 284 色の色素を形成し光情報を記録する。その時マゼンタ カラーネガフィルムでも同様な仕組みとして、現 色素は有機化合物であるため 500〜600nm の緑光吸収 像 抑 制 剤 放 出 カ プ ラ ー(Development Inhibitor の他に 400〜500nm のスペクトル域にも副吸収を持つ Releasing Coupler : DIR カプラー)が使用されてい (図 3.3 A) 。そのため、緑光のみを当てた場合でも、 る。DIR カプラーは感光層でカプラーが現像主薬の マゼンタ成分(500〜600nm 吸収)だけでなくイエ 酸化物と反応し色素を形成する際に、反応離脱基とし ロー成分(400〜500nm 吸収)の吸収量も増え、青色 て現像を抑制する物質を放出するカプラーをいう 5)。 成分が混ざり色が濁ることになる。カラーネガフィル 赤、緑、青の各感光層に添加しておくと、白い光に当 ムは光情報の輝度や色層が反転した形で記録され、カ たった場合に赤、緑、青の各層から抑制物質が放出さ ラー印画紙にプリントすることでカラー写真を完成さ れ現像が進み難くなる。しかし、緑光のみが当たった せる情報記録材料であり、カラーネガフィルム自体は 場合には赤と青は現像されず、赤と青からの抑制物質 観賞用のフィルムではない。そこで、カラーネガフィ が発生しないため現像が白色光の時よりよく進むこと 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August になり、白色光に対する緑光の濃度比が高くなること Jr. ら、US2, 449, 966,(EK)(1944)等 で緑光の彩度を向上させる。DIR カプラーは色再現 4)「カラー銀塩感光材料の技術改革史 第 2 部発色現 を強調する以外に自分の層の現像も抑制することでハ 像(その 3)1940、1950 年代における Kodak 社 ロゲン化銀粒子一個一個の色素雲を小さくする。こ による強力な技術構築」、大石恭史、日本写真学 のことにより粒状性改良にも寄与する。また、アン 会誌、71、349(2008) シャープマスクという効果によりエッジ効果も向上さ せる。コダックの Barr らがこの DIR カプラーを開発 6) 7) し 、カラーネガフィルムに最初に応用した 。 5)「カラー写真感光材料用高機能ケミカルス」、新井 厚明ら、シーエムシー出版、182(2002) 6)「 P h o t o g r a p h i c E l e m e n t s a n d U t i l i z i n g Mercaptan-Forming Couplers」、C. R. Barr ら、 引用文献 1)「改訂 写真工学の基礎 −銀塩写真編−」 、三宅洋 USP3, 227, 554,(EK)(1966)等 7)「Development-Inhibitor-Releasing(DIR) 一ら、㈳日本写真学会編、コロナ社、673(1998) Couplers in Color Photography」 、C. R. Barr, J. R. 2)「Colour Photographic Multi-Layer Material」, Thirtle, P. W. Vittum, Photogr. Sci. Eng., 13, 74, Erich Bockly ら、Brit. 923, 045,(Agfa)(1961) 214(1969) 3)「Integral Mask for Color Film」, W. T. Hanson, カラーネガフィルムの技術系統化調査 285 4 銀塩写真の発明から近代カラーネガフィルム開発までの流れ この章では、銀塩写真が発明されてから様々な改良 を通して近代のカラーネガフィルムが出来るまでの歴 可能とした(ヘリオグラフィー、陽画像) 。この陽画 (ポジ像)作成機構を図 4.2 に示す。 1) 史を簡単に説明する 。写真の最初の発明については ニエプスであるとか、銀塩写真としてはダゲールであ るとか、いやタルボットこそがネガ / ポジタイプを発 明し最初であるとかの議論があるが、ここでは、単に このような銀塩写真開発の歴史があることを技術や原 理と共に記載するにとどめる。 4.1 銀塩物質による感光性発見の生い立ち 銀塩(塩化銀)が日光で黒く変化するという感光性 を持つことは、ドイツ人のゲオルグ・ファブリシウス により 1556 年に見出されていた。その後、1725 年に ドイツの化学者 J. H. シュルツェが硝酸銀と白土の化 合物の混合液を塗った紙の上に、文字を書いた透明な 紙を乗せ太陽光にさらすと黒地に白い文字が現れるこ とを見つけ、1727 年にこれを発表した。この光の化 学作用を利用して物の形を忠実に描こうとする実験が ヨーロッパの学者や画家の間で始まり銀塩写真の発明 に繋がっていくことになる。 4.2 ジョセフ・ニセフォール・ニエプスに よるヘリオグラフィーの発明 1825 年にジョセフ・ニセフォール・ニエプス(図 図 4.2 ヘリオグラフィーの陽画作成機構 4.1)によって撮られた写真が現存する世界最古の写 真とされている。 しかし、露光時間が 8〜20 時間もかかったとされ、 建物や静物等の動かないものの光景(図 4.3 等)しか 写すことができず、あまり実用的なものではなかっ た。1829 年から、より進んだ写真技術開発のためダ ゲール(後述)と協力し、光で化学反応する銀化合物 を使う研究(銀塩写真の研究)を始めたが、1833 年 に脳卒中で急死した。 図 4.1 ニセフォール ・ ニエプス 2) 彼はカメラ・オブスクラ(ラテン語で「暗い部屋」 の意)に写される像を何とか固定したいと考えた。実 験で風景を捉えることには成功していたものの像はす ぐに消え去った。その後も実験を繰り返し、腐食防止 用に使うアスファルトの一種でパレスチナ産の「ユダ ヤの土瀝青」を使用することを思いつき、像の固定を 286 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 図 4.3 ニエプスによる写真「眺め」 、 1826 年 3) 4.3 ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールに よるダゲレオタイプ写真 のとなったために、ダゲレオタイプを国内では誰でも 使えるようになった。1939 年の公開講演時にはネガ / ポジ法の創始者であるタルボット(後述)もカロタイ ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(図 4.4)はニ プ銀塩写真を既に完成していたと言われている。しか エプスと研究を開始し 1831 年にはヨウ化銀の感光性 し、タゲレオタイプは圧倒的に高精細であり、またフ 等を発見した。ニエプスの没後も独力で研究を進め、 ランス政府が特許を買い取ったこともあって瞬く間に 1839 年 1 月にフランス科学アカデミーの公式報告書 ヨーロッパやアメリカに普及した。 でダゲレオタイプの写真の発明を告知した。ダゲレオ 機構を図 4.6 に示す。まず銀メッキした銅版にヨウ タイプの写真は銀メッキをした銅版を感光材料として 素蒸気をあて、表面に微細なヨウ化銀結晶を沈着させ 用い、直接ポジ像が焼き付けられ(陽画像) 、感光面 る。これをカメラに入れて撮影すると、光の当たった 側から鑑賞することで左右が反転した像になった。ま 所はまず微細な銀核が形成され(この時点では目に見 た、複製ができず撮影された写真はたった 1 枚しかな えない潜像) 、次いで水銀蒸気に曝すことで銀核が銀 いことになる。初期のダゲレオタイプは露光にまだ / 水銀アマルガムに変化して白くなり、一方、光の当 10〜20 分もかかり肖像写真には使えなかった。タン たらない所はその次の定着工程でヨウ化銀が洗い流さ ブル大通りという風景写真では、通りを歩く多くの人 れることで直接陽画像が形成されることになる。この 達はその風景から立ち去るのが早かったため写らず、 ダゲレオタイプ写真こそが銀塩写真の最初だとも言わ 靴磨きのために片足を台にのせて不動の姿勢をとって れる。 (ダゲレオタイプ写真の発明の経緯については いる人物のみが写った。 第 12.1 章を参照) 図 4.4 ルイ ・ ジャック ・ マンデ ・ ダゲール 2) その後、レンズと感光材料の改良が行われ 1〜2 分 程度の露光時間で済むようになった(図 4.5)。 図 4.5 ダゲレオタイプで撮った銀板写真 2) この技法が著名な天文学者でありフランス下院議員 でもあったフランソワ・アラゴーの関心をひき、彼は この技法をフランス政府に買い上げさせるように働き 図 4.6 ダゲレオタイプ写真の陽画作成機構 かけた。この提案が実現し、特許がフランス政府のも カラーネガフィルムの技術系統化調査 287 4.4 ウィリアム・ヘンリー・フォックス・ タルボットによるカロタイプ写真 た。この当時カロタイプは画像に紙のテクスチャーが 入り込み、タルボット自身が「レンブラント調」の効 果と称したように、ダゲレオタイプの迫真性に比べて 現代の写真は、まずネガ像を作りそれから明暗と左 細部のイメージが不鮮明であった。また、特徴である 右の反転を正常化したポジ像を際限なく複製出来る技 ネガからポジへの転写自体が当時では煩わしいものと 法として知られている。このネガ/ポジ法を最初に 見られていた。そのうえ、ダゲールが政府からの公的 発明したのがイギリスのタルボット(図 4.7)であり、 支援を受けたことに比較して、タルボットは一人で技 カロタイプ写真法(タルボタイプとも呼ばれる)であ 法の改善に取り組んだり、商業的な利益を得ようと試 る。 みたりしながら、独力で発明後の舵取りをしなければ ならなかった。1841 年に特許を取得したが以降の 10 年間特許の使用権に関して非妥協的な姿勢に終始した ため、この写真術の発展が妨げられてしまった。しか し、このネガ/ポジ方式は現代の銀塩写真の基礎をな し、その意味では現代の銀塩写真の第一号として捉 えることが出来る(図 4.8 にカロタイプ写真を示す)。 また、1844 年には世界で始めての写真入り書物「自 然の鉛筆」を出版し、写真入り出版物の先駆けとも なった(図 4.9)。 図 4.7 ウ ィ リ ア ム ・ ヘ ンリー・ フォックス ・ タルボット 2) 彼は化学ばかりでなく天文学、数学、光学の知識を 有し、大学教育を受け進歩的な考えを身につけてい た。1833 年のイタリアへの新婚旅行中に美しい風景 を見て、カメラ・オブスクラの映像を永続的に固定 したいという願いを持った。そして、次亜硫酸ソー ダ(ハイポ)によるハロゲン化銀の溶解定着を発見し たハーシェル等と親交を持ちつつ写真の研究を進める ことで独自の写真術を展開していった。1835 年の夏 図 4.8 カロタイプの紙ネガ写真 1940〜60 年頃 3) 頃には硝酸銀溶液に浸し乾燥させた紙をヨウ化カリウ ム溶液に再度浸して、ヨウ化銀を感光性物質として用 いた感光紙を開発した。それに露光し定着、乾燥した (ネガ像)後、再度感光性を与えた紙にネガ像を通し て密着露光することでポジ像を得る方法を開発した。 当初はハロゲン化銀の潜像を現像液処理することを知 らなかったが、1840 年秋に現像液による潜像の増幅 法を発見することで、快晴下でも 30 分程の露光時間 が 30 秒程に短縮され肖像の撮影も可能となった。 図 4.9 1844 年出版「自然の鉛筆」 より 3) タルボットは 1839 年 1 月のダゲールによるフラン ス科学アカデミーでのダゲレオタイプ写真の報告に心 を動かされ、直後の 1839 年 2 月に、1837 年以来実験 を中断していた自身の技法の公開をロンドンの英国学 288 4.5 フレデリック・スコット・アーチャー による湿式コロジオン写真 士院等で行った。しかし、ダゲレオタイプに比べて複 カロタイプは明瞭さ不足と像の薄れの問題があり肖 製や拡大縮小が可能であるという物理的・実用的な利 像写真家や出版業者にとって紙写真術の最も大きな課 点は明白であるものの、発明が公表された時点では 題であった。そこで鮮明度を上げるために支持体を紙 あからさまに二番手の地位として人々に受け取られ からガラスに置き換える努力が為された。ガラス支持 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 体はステレオ写真やスライド陽画にもふさわしい素材 であった。1847 年にフランスで銀塩の結合剤として アリュブメン(卵白)を用いる技法が発表された。し かし、露光時間がダゲレオタイプより長くなり、肖像 写真等に依然として使いづらい状況にあった。そのよ うななかで、イギリス人のアーチャーが 1851 年にコ ロジオンを結合剤として用いる方法を発表した。コロ ジオンとはニトロセルロースをエタノールとジエチル エーテールで溶解したものであり、湿式コロジオン写 真とはヨウ化コロジオン液をガラス板に塗布し硝酸銀 図 4.11 溶液に漬けたものである。湿った状態で用いると感度 が高く、露光時間が劇的に短縮されるため、湿板法ま たは湿式コロジオン法と呼ばれる。この発見により、 4.6 肖像写真や出版物に、ダゲレオタイプの鮮明さとカロ 湿板時代の写真撮影風景の仕組み(1854〜70 2) 年頃) リチャード・リーチ・マドックスによ るゼラチンを用いた乾板写真 タイプの複製等の利便性を兼ね備えた写真を提供する 1871 年にマドックスが臭化銀をゼラチン溶液に混 ことが出来るようになった。アーチャーは技術を広く ぜた感光乳剤を開発した(図 4.12)。この感光乳剤を 公開したため(特許取得しなかった) 、タルボットの ガラス板に塗布して乾燥させたゼラチン乾板は感度も 特許権問題からも解放され、多くの人に使用され広 高く、また撮影者自身が用意しなければならないコロ まっていった。印画紙にも鮮明性を得る為に用いられ ジオン湿板に比べて、工場で大量生産して予め沢山用 たが、像の薄れ、すなわち画像安定性の問題は残り、 意する事が出来た。これにより野外での撮影の機動性 退色しないカーボン印画紙等の検討もこの頃なされ も飛躍的に高まったほか、これまでは撮れなかった動 た。 く人々等も撮れるようになった。エドワード・マイブ 図 4.10 にはネガ写真のポジ鑑賞法を示す。写真の 右下部がネガ像である。これに黒い布を敷いたり黒い リッジによる走る馬や飛ぶ人間の動きを捉えた連続写 真等もこの乾板写真で撮影された。 ニスを裏から塗ることで、左上部のようにポジ像に見 える。これは現像銀が光を散乱し白く見える現象を利 用している。図 4.11 には当時の写真撮影風景を示す。 撮影者がその場でコロジオン湿板を作り、湿ったうち に撮影することが必要であった。 図 4.12 4.7 ガラス乾板と取枠と写真プリント 3) ジョージ・イーストマンによるロール フィルムの普及 銀行員から転身して写真乾板の製造を工業的に成功 させたアメリカのジョージ・イーストマンはロール フィルムとそのカメラを 1888 年に誕生させた。初め 図 4.10 「アンブロタイプ」(コロジオン湿板の黒バック 4) 写真) は紙のベースに写真乳剤を塗布乾燥させた長巻のフィ ルムを発案し販売したが、彼のビジネスはブレーク しなかった。そこで、もう一工夫し、100 枚分撮れる フィルムを詰めたカメラを販売し、撮影が終わった らカメラごと送ってもらい、現像とプリントをして 再び新しいフィルムを詰めたカメラ(図 4.13)と一緒 カラーネガフィルムの技術系統化調査 289 に送り返すというシステムを考え出した。 「あなたは 映画用フィルムの 2 駒分を使用するカメラを 1914 年 シャッターを押すだけ。後は私達がやります。 (You に試作した(ウル・ライカ)。1920 年に会社を引き継 press the button, we do the rest.) 」というスローガ いだエルンスト・ライツ 2 世がウル・ライカに着目 ンが支持され、コダックカメラを大々的に宣伝するこ し、改良を加え 1925 年にライカ A(ライツのカメラ とで大成功をおさめ、コダックの名が全世界に知れ の意、図 4.15)として生産、販売した。それまでは密 渡った。さらに、コダックの名声を不動にしたのは、 着プリントが主流であったが、ライカはフィルムが小 1912 年発売のベストポケット・コダック(図 4.14) さいため引き伸ばしを前提として引き伸ばし機もシス であり、画面サイズが 4cm × 6.5cm とそれまでより テムとして販売した。この引き伸ばし画質に耐えられ 小さく、ベスト(チョッキ)のポケットにも楽に入る るようにレンズも高性能のものが作り出された。ま ということで写真の需要をアマチュアまで広めた。 た、フィルムサイズが小さくなったため、広角気味に また支持体として、1889 年に紙ベースから透明セ 撮影しトリミングする従来方式から、画角に合わせた ルロイドベースのフィルムに改良された。ただ、セル 交換レンズが開発され、カメラが進化していくきっか ロイドベースは発火性が高く映画館での火災等が頻発 けともなった。 し、後に TAC ベースや PET ベースに代わっていく ことになる。 図 4.15 図 4.13 ザ・コダック(100 枚撮)1888 年(25 ド ル で 販 売、 10 ド ル で 3) プリントとフィルム詰替) ライツ社による 35mm カメラ 「ライカ A」 1925 年発売 3) 次に銀塩写真のカラー化についての流れを紹介する。 4.9 マクスウェルによる 3 原色に分解した 世界初のカラー映像(加色法) 人間の眼が色をどう感じ取るかについて 1802 年、 ヤングとヘルムホルツが 3 原色説を提案した。そし て、 ス コ ッ ト ラ ン ド 人 の 古 典 電 磁 気 学 を 確 立 し た ジェームズ・クラーク・マクスウェル(カラー写真原 理の発見者)は 1861 年に光の 3 原色である青、緑、 赤のフィルターを着けて撮影した 3 枚の写真を重ねる ことで史上初めてのカラー写真の映写に成功し 3 原色 図 4.14 ベ ス ト ポ ケ ッ ト ・ コ ダ ッ ク 3) カメラ(1915 年のもの) 4.8 ライツ社による 35mm カメラ「ライ カ」の誕生 1894 年に発明されたアメリカのエジソンの 35mm 4.10 デュ・オーロンによる減色法カラー 写真の発表 カラー写真技術の父と呼ばれるフランス人のルイ・ デュコ・デュ・オーロンは光の加色法に加えて、色素 を用いて紙やフィルムの上に減色法でカラー写真が作 映画用フィルムを写真用フィルムに転用して、小型カ れる論文を 1869 年にフランス写真協会に提出した。 メラを考案する動きが欧米で見られるようになった。 まさに現代のカラーフィルムの仕組みを示している。 ドイツのライツ社が試作を重ねて 1925 年に発売した その他にもデジカメで使用される三色モザイク・スク 「ライカ A」はその後の小型カメラ時代の幕開けと リーン分解法やカラーテレビ用カメラで使用するワン なった。技術者であるオスカー・バルナックが 35mm 290 説を立証した。 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August ショット・カメラ等も考案した 5)。 4.11 ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲ ルによる増感色素の発見 当時のハロゲン化銀には色を感じる感色性に乏しい という弱点があった。ハロゲン化銀の固有感度は紫外 ときに白黒乾板層は感光して微少な黒い点を形成す る。これを反転現像という操作で白黒を逆転し、透過 光で見れば、画像を記録するときに透過した部分はで んぷんのフィルターの色が見えることになり、カラー 画像ができる(図 4.17)。 線から青光までしかなく、カラー写真はおろか白黒写 真も限られた表現しか出来なかった。ドイツのフォー ゲルは 1873 年に、ハロゲン化銀乳剤の中に色素を添 加することにより、より長波長側の緑光や赤光まで光 を感じさせることが出来ることをドイツ化学会誌に 発表した 6)。この色素は感光色素や増感色素と呼ばれ る。その後も増感色素の研究は当時染色工業が盛んで あったドイツを中心に行われ、優れた増感作用を示す 増感色素が見いだされていった 7)。 (増感色素の発見 の経緯については第 12.2 章を参照) 4.12 ルミエール兄弟によるオートクロー ム法の考案 図 4.17 オートクローム乾板の製品元箱とスライド 3) 4.13 フランスのルミエール兄弟がオートクロム乾板の写 コダックによる 3 層塗布方式の外式 カラーフィルムの発売 8) 真方式を 1904 年に考案した。コダックが 1935 年に 3 アメリカの化学者レオポルド・ゴドウィスキーとレ 層塗布方式のカラーフィルムを発売するまで、一枚で オポルド・マンズが 20 年以上の研究の歳月を要した 撮れる唯一のカラー写真であった。 末に、コダック研究所職員と 3 層塗布方式で外式反転 オートクロームカラー乾板はじゃがいものでんぷん 現像を行うコダクロームを共同開発するに至った。映 に色を付けたものをフィルターとして利用している。 画フィルムとして 1935 年に、シートフィルムとして 1mm 四方に R、G、B(赤、緑、紫青)三原色のいず 1938 年に、ロールフィルムとして 1942 年に発売され れかの色がついた約 5,000 個のでんぷん粒がランダム た。それまでは、光を 3 色分解して撮影し、それぞれ に塗られている(図 4.16) 。 の分解単色フィルムを貼りあわせてカラー写真を作成 する方法が使われていたが、一つのフィルムで一回の 撮影でカラー写真が作成できることになり、このフィ ルムの発明によりカラー写真の作成が非常に簡略化さ れることになった。とはいえ、外式タイプの反転カ ラーフィルムであり、現像時に浸透調節式現像法とい う非常に複雑な現像処理を必要とし、コダック社で精 密にコントロールした現像のみでしかカラー写真が作 れなかった。 (外式カラーフィルム発明の経緯につい 図 4.16 フィルターに使われたジャガイモのデンプン 3) オートクロームカラー乾板は、まず、粘着性のある 樹脂をガラス板の上に塗り、その上に R、G、B(赤、 ては第 12.3 章を参照) 4.14 アグファによる内式カラーネガフィ ルムの発売 8) 緑、紫青)三原色のでんぷんを塗る。更にでんぷん粒 アグファの有機化学者 W. シュナイダーは耐拡散性 の隙間を埋めるため油煙(カーボン)を塗り、その上 基と親水性基を併せ持つ水可溶性カプラー、いわゆる に白黒の感光剤を塗った構造である。撮影はガラス アグファ型カプラーを 1936 年に完成した。このカプ 板側から光を当てて行う。でんぷん粒が微少なフィル ラーを用いることで、カプラーを各々赤、緑、青の感 ターとして働き、それぞれの色に応じた光のみを透過 光層に固定し、一回の現像でカラー写真が得られるモ させ、でんぷんフィルターの下の白黒乾板層を感光さ ノパック感材を作ることが出来るようになった。アグ せる。つまり、フィルターに対応した光が入って来た ファはまず開発負担と市場準備の軽いカラー反転フィ カラーネガフィルムの技術系統化調査 291 ルムの商品化を決定し、1936 年にアグファカラー ノ ロー発色現像液でイエロー色に発色させる、という、 イを発売した。コダックの外式コダカラー発売から 1 複雑でかつ現像時間や現像液の濃度を正確に管理しな 年後である。さらに、カラーネガ・ポジ方式の開発に いと出来ない、力づくのカラーフィルムの現像法で 取り組み、1939 年には映画用カラーネガ・ポジフィ あった。 ルムの生産が開始された。ドイツ映画会社のウファは その後、選択現像法という非常に合理的かつ現像工 1939 年から 2 年がかりでミュージカル風劇映画「ご 程の簡略化された現像法が開発された。選択現像法の 婦人方は外交上手」を完成させている。ここに初め 現像工程とは、まず撮影により感光した青、緑、赤の て、水溶性カプラーを内蔵し、処理を大幅に簡略化で ハロゲン化銀を第一現像液により白黒現像し(発色は きる、飛躍的な革新技術の入った多層カラーネガフィ させない) 、その後、フィルム中に残ったハロゲン化 ルムが完成することになった。 (内式カラーネガフィ 銀を赤、青、緑光の順に一色ずつ露光しては水溶性カ ルム発明の経緯については第 12.5 章を参照) プラーを添加した現像液で発色処理するという工程 4.15 コダックによるオイルプロテクト型 カラーフィルムの発売 アグファの内式カラー写真では水溶性カプラーを直 接感光乳剤に混ぜたが、コダックはカプラーを油状 を 3 回繰り返すことによりカラー写真を得る方法であ る。 引用文献 1)「A World History of Photography 写真の歴史」 、 の液体に溶解し、さらにこれをゼラチン液に混ぜて ナオミ・ローゼンブラム、美術出版社㈱、1998 乳化する新方式の内式カラーネガフィルムのコダカ 年 6 月 8 日発行、 「総天然色への一世紀」 、石川英 ラーフィルムを 1942 年に発売した。これにより、近 輔 著、青土社、1997 年 8 月 25 日発行 代カラーネガフィルムの基本骨格が確立されるに至っ 1) た 。 等 2)「写真とともに百年」 、小西六写真工業㈱編、1、 昭和 48 年 4 月 10 日発行 3) フジフォトミュージアム展示品図録「写真初期・ *外式反転カラーフィルムについて 外式カラーフィルムとは、内式と違ってフィルム内 にカプラーを含有せず、青、緑、赤に分光増感された ハロゲン化銀のみをゼラチン膜中に含有し、発色現像 液に水溶性カプラーを添加することで、現像時にシア ン、マゼンタ、イエローの各色を一色ずつ現像発色さ 富士フイルムプレゼンテック㈱編、2-01、2009 年 9 月第二版発行 4) フジフォトミュージアムにて展示物を撮影、2012 年2月 5)「総天然色への一世紀」 、石川英輔、青土社、39 (1997) せるフィルムをいう。 レオポルド・ゴドウィスキーとレオポルド・マンズ 6)「Ueber die Lichtempfindlichkeit des Brom- の開発した外式反転カラーフィルムの現像は浸透調節 silbers für die sogenannten chemisch 式現像法と呼ばれる非常に複雑な操作を要した。第一 unwirksamen Farben」, H. Vogel, Berichte der 現像で露光部を白黒現像した後、赤感光層をシアン発 Deutschen Chemischen Gesellschaft, 6, 1302 色させるために、まず青、緑、赤の感光層全てをシア ン発色現像液でシアン色に発色させる。次に、浸透 漂白工程で上部に位置する青、緑の感光層を正確に漂 (1873) 7)「化学の原典 4 光化学」、谷忠昭、日本化学会編、 学術出版センター、69(1986) 白し、シアン発色を無色化すると共に現像された銀も 8)「カラー銀塩感光材料の技術改革史 第 2 部発色現 ハロゲン化銀に戻す。さらに、マゼンタ発色現像液で 像(その 1 )発色現像の発明と多層カラー感材 青、緑の感光層をマゼンタ色に発色させた後、青感光 の出現」、大石恭史、日本写真学会誌、71、184 層を再度、漂白する。最後に、残った青感光層をイエ 292 乾板からフィルムへ小型カメラ時代が始まった」 、 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August (2008) 5 5.1 欧米写真術の日本への伝搬 日本人による写真術の輸入と写真館の 開設 真を習い、1862 年 6 月に横浜野毛に写真館を開設す る等の動きが出てきた。 1843 年に長崎に渡来したオランダの東インド会社 の船により、ダゲールの発明による写真術(ダゲレオ タイプ)が輸入されたが、引き取り手がなく積み荷の まま持ち帰られてしまった。この時島津藩御用商人・ 上野俊之丞常足(上野彦馬の父)が立ち会い、簡単な メモではあったがカメラをスケッチし寸法を書き留め ていた。 5 年後の 1848 年にダゲレオタイプ写真術が再輸入 され、上野俊之丞が引き取り、薩摩藩に献上された。 図 5.2 ついで二度目に輸入されたカメラも薩摩藩に送ら れ、初めは江戸藩邸で、後に鹿児島に移して写真術の 研究が進められた。そして 1857 年 9 月 17 日に家臣で 5.2 下岡蓮杖 2) 外国人による日本風景等の撮影 ある市来四郎により藩主島津斉彬公の銀板による肖像 写真撮影に成功した。これが日本人による最初の写真 一方、日本を撮影した最古のダゲレオタイプ写真と 撮影とされている(図 5.1)。この成功には、市来四郎 しては、ペリー艦隊に随行した写真家のエリファレッ らの撮影チームに加え、原書からの翻訳を業務とする ト・ブラウン・ジュニアによる 1854 年の撮影が最初 川本幸民、松木弘安らの貢献も大きかった。 であるとされている。またその年に、プーチャン提督 率いるロシア艦隊のディアナ号に乗り込んでいた海軍 大尉 アレクサンドル・フョードロビッチ・モジャイ スキーも日本各地を撮影し始めた。 その後も、1880〜90 年頃の幕末から明治初期にか けては、従軍写真家により日本各地が多数撮影されて いる。日本での見聞を写真に収めた形にした写真アル バムを「横浜写真」と呼び、外国人の帰国時のみやげ として販売した。蒔絵を表紙にした豪華な装丁の写真 帳(図 5.3)で日光等の風景や神社仏閣、働く人や女 性、幕末の風俗等多岐にわたっている(図 5.4)。写真 の多くは鶏卵紙写真プリントで、さらに絵師により彩 図 5.1 島津斉彬公家臣を写すの図 1) 色が薄く加えられていた。 写真研究は薩摩藩ばかりでなく各藩や各地の蘭学者 によって 1850 年頃から蘭書による研究として始まっ た。1853 年 に は 長 崎 に 着 任 し た フ ァ ン・ デ ル・ ブ ルックから直接に写真術を教えてもらった。その後任 のオランダの軍医ポンペ・ファン・メーデルフォルト の時代に入ると堀江鍬次郎、上野彦馬による自製器材 での湿板写真の習得が行われるようになり、上野彦馬 は 1862 年 11 月に長崎中島川畔に写真館を開設した。 また横浜では下岡蓮杖(図 5.2)が米領事館の通弁官 H. C. J. ヒュースケンと米写真家ウンシンから湿板写 図 5.3 「横浜写真」 アルバムの装丁 2) カラーネガフィルムの技術系統化調査 293 たり半狂乱の態であったが、1907 年 12 月のある日構 内から姿を消し結局フランスに帰国してしまった。 六桜社での乾板の開発は一旦頓挫したが、印画紙に ついては研究が続行され国産化を達成していく。 5.3.1 図 5.4 「横浜写真」 アルバムより 2) さくら白金タイプ紙の発売 1903 年に国産初の印画紙「さくら白金タイプ紙」 を発売した(図 5.5)。塩化白金酸カリウムとシュウ酸 5.3 日本における写真材料商店の勃興と自 前の工業化 第二鉄の混合水溶液を感光剤とし、これを白金原紙と 称する舶来の用紙に塗り、じゅうたんの上に広げる か、あるいは乾燥室に紐をはりわたしてこれにつるし 日本では、1871 年に浅沼商会が東京日本橋に写真 て乾燥させる。乾燥が終わると定められたサイズに裁 材料店を開業し、1873 年には小西六兵衛商店が東京 断しブリキ缶につめて出荷する。この紙にネガ原板を 麹町に開店し写真材料を扱い始めた。創業時は感光材 密着して日光で 1、2 分焼くと、黄色の地に淡緑色の として湿版を輸入していたが、次いで乾板に移行し かすかな画像が出る。これをシュウ酸カリウムとリン た。カメラは主に英国製を輸入していた。 酸カリウムの混合液に浸すと黒白鮮明な画像となり現 日本製の暗箱カメラは 1881 年の浅沼商会「暗函」 われる。これを稀塩酸で定着水洗して乾燥する。 「プ に始まる。1889 年には国産のアマチュア用カメラが ラチナム ブラック」の濃淡以外には何の不純物も 登場した。有田商会が手札版のボックス・カメラを市 含まず、色調が高雅で永久に色が変わらない。非常に 販した。次いで浅沼商会・小西六兵衛商店をはじめ数 高級な印画紙であったが、ただ、湿気に弱く一カ月も 社が市場に参入した。当時のカメラは木製蛇腹式の構 持たず乾燥剤の挿入も必要だし、全紙 1 枚に白金を約 造、レンズは 1 枚か 2 枚、シャッターはレンズキャッ 0.4g 使い価格が高い、等の弱点があった。 プの開閉、というもので、素朴で簡単なものであった。 小西六兵衛商店は後に小西六写真工業に改組し、撮 影機材と感光材料の本格的な生産販売に乗り出した。 カメラについては 1903 年に手提暗箱「チェリー」を 発売した。しかしながら構造・設計の殆どは海外製品 の模倣であり、レンズやシャッターの主用部品は輸入 品に頼っていた。ところが 1914 年に勃発した世界大 戦により、海外からの機材・部品・薬品の輸入が困難 になり、国産化が要望された。また、同時期には軍部 から光学兵器の国産化の要請もあって、自前の写真工 図 5.5 さくら白金タイプ紙の外箱図柄 1) 業(光学工業)を確立する気運が強まった。 294 一方、感光材料の開発についてみると、小西六店主 5.3.2 さくら POP(Printing-Out Paper)の発売 の杉浦六右衛門はフランス人技師のジョルジュ・ス 1904 年 12 月に鶏卵紙に替わる POP(焼きだし印 ゾールと米独で研究を積んだ生田益雄という二人の技 画紙)を発売した。ゼラチン液中に大量の硝酸銀をい 術者を雇い、1905 年に淀橋に写真乳剤研究所を創設 れ、これに少量の塩化銀と有機酸類を加えた写真乳剤 した。六右衛門は感光材料の製造は店とは別の事業体 をバライタ紙の光沢面に塗布した。大量製造のために として発足させたいとかねてから考えており、この工 ドイツのケービッヒ社にコーティング・マシーンを注 場を「六桜社」と命名した。研究を重ね乾板の試作ま 文し、幅 1m、毎分 5m の速度の塗布を行うことで六 で漕ぎつけて製造を開始したのだが思わぬ事故が続い 桜社は本格的な工場へと変革していった。その頃、国 た。黒い斑点が一帯に出て何枚か重ねておくと密着す 産品を和製と言っていたが、 和製安もの、舶来上等 る。原因の追及が 1 年以上も続いた。その頃、日本乾 という言葉が流布し販売に苦労した。しかし、1904 板㈱が設立され英人コマークほか 2 名の技師が乾板製 年の日露戦争のため舶来品の入手が困難な状況が起こ 造にあたり、商品がまがりなりにも市場導入されたこ り、この製品の性能も認められ始めたことから販売も とにスゾールはショックを覚えた。わめいたり、泣い 伸びていった。ところが、翌年 4 月頃から、ムラ故障 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August が発生した。気温が上がったことにより乾燥中にゼ ている。 ラチン膜中の乳剤が一部流動してしまうことが分かっ 一方、1919 年に設立された大日本セルロイドはフィ た。そこで、冷却装置を直ぐに発注すると共に、それ ルムの国産化を計画し、コダック社からの技術導入を までは 10 月から 3 月までしか POP を製造しないこ 交渉したが不調に終り自力での開発に切換えた。1928 と等を決めてこれを凌いだりした。 年にフィルム試験所を設け 1932 年には映画用ポジ・ 5.4 湿板写真から乾板写真、ロールフィル ム、カラーフィルムへの移行 英国などで工業生産された乾板(1871 年発明)が フィルムの開発に成功し 1936 年にはロール・フィル ムを発売した。1934 年に同社は写真部門を切り離し て富士写真フイルム㈱が誕生することになる。 コダック、デュポン、アグファの海外各社は 1934 市販されていたころ、日本ではまだ湿板写真が全盛時 年頃よりパトローネ入りの 35mm フィルムを売出し、 代であった。日本で最初に乾板を使用したのは上野彦 これが普及型の 35mm カメラの流行に拍車をかけた。 馬であった。1881 年の冬に、長崎停泊中のロシア艦 それ以前は各カメラに専用マガジンを備えており、長 隊士官から欧州製の乾板を譲り受け、試写したところ 尺の 35mm フィルムを切って自分でフィルムを装填 好結果をえた。彦馬の薦めにより感光材料卸商の浅沼 するというステップが必要だったが、その手数が省け 商会が 1883 年に英国から初めて乾板を輸入した。横 ることになった。 浜に着いた乾板を税関が無知のため開封してしまうよ 1935 年には遂にカラーフィルムが世の中に出現し うなミスもあったが、この頃から都市部を中心によう た。米国コダック社が先駆者であった。日本では 6 年 やく乾板が使われだした。 ほど遅れて小西六が、その後さらに 6 年遅れて富士写 日本では大正期はもちろん昭和に入っても乾板の 真フイルムがカラーフィルムを発売した。小西六(六 ウェイトが高かった。ロールフィルム、後には 35 ミ 桜社製)の製品は 35mm18 枚撮りで 10 円かかり、そ リフィルムを使うカメラも日本に輸入されてはきた の当時の大卒初任給が 70 円程度であったので、今日 が、これらはあくまでアマチュア用であり、感光材料 ならば 2〜3 万円位にも相当する高価なものであった。 消費の大半は依然として営業写真分野であり乾板で そしてここから、国産カラーネガフィルムの開発、改 あった。外国製乾板は品種が豊富でロールフィルムの 良の歴史が始まることとなる。 比ではなく、ネガ原版での修正作業を含め暗室作業が やりやすい面もあった。重い、かさばる、危険等のマ 引用文献 イナス面もあるが、それ以上に乾板は使い易かった。 1)「写真とともに百年」 、小西六写真工業㈱編、5、 国産乾板の製造は 1884 年で浅沼商会から「東京乾板」 が販売された。 日本のロールフィルムとしては、1928 年に菊フィ 昭和 48 年 4 月 10 日発行 2) フジフォトミュージアム展示品図録「写真初期・ 乾板からフィルムへ小型カメラ時代が始まった」 、 ルムが発売され、次いで 1929 年に小西六がさくら 富士フイルムプレゼンテック㈱編、5-01、2009 年 フィルムの国産化に成功した。価格はベスト判 8 枚撮 9 月第二版発行 りが 50 銭、ブローニー判 6 枚撮りが 55 銭と記録され カラーネガフィルムの技術系統化調査 295 6 欧米写真技術のキャッチアップと銀塩写真フィルムの国産化(第一次世界大戦から第二次世界大戦まで) 小西六の銀塩写真フィルム国産化への 歩み 6.1 6.1.1 合資会社の発足と大震災からの復興 第一次世界大戦を契機に急激な発展を遂げた日本経 しかし、1931 年夏、フィルムにかぶりが発生する というクレームが殺到した。井戸水を分析し室内の塵 対策も講じ乳剤も繰り返し水洗したが事故は収まら なかった。秋風が吹く頃には訳が分からぬまま嘘の ように自然に止んでしまう。1932 年は無事だったが、 済は、終戦とともに一転して不況の時期を迎える。世 1933 年には再び発生した。結局、原因は良好な原材 の中は恐慌状態に陥り不況が進行していった。ドイツ 料の継続的な入手難や設備の不具合などにあったが、 からのインフレによる安い価格のカメラが流れ込み六 一時は 12〜13 万本という 2 カ月以上の生産量に匹敵 桜社製のカメラは売れ行きが止まってしまった。そん する在庫がたまる等の苦労があった。この頃、フィル な中、新時代に対応しようと小西六兵衛商店は 1921 ムや印画紙は六桜社の感光材料部で製造されていて、 年合資会社に改組した。1923 年には関東大震災に襲 フィルム製造部門は準備、仕込、乾燥、包装に分かれ われ、商品も建物も多数失った。しかし、日本橋の小 ており、作業員の数は 50 名前後で月間生産量は約 1 西六本店は店員を半減し、江戸時代からの和服を洋服 万 1,000m2 であった。そして 1933 年からの六桜社の と靴に改め、店内の雰囲気も一転させて頑張った。ま 第二次整備計画によりフィルムベース幅が 55cm から た、輸入品のガスライト紙(感光度が低く密着焼き付 110cm に広げられ増産対応のために 3 交代制になっ けだけに用いられた塩化銀乳剤を塗った印画紙)が市 た。 中で使われていたが、大震災で東京中の輸入在庫がな 1933 年の事故を最後にさくらフィルムの品質は安 くなり、小西六本店はコダック社、イルフォード社、 定し生産も増加し、原料のゼラチンの輸入量も増えて インペリアル社などからガスライト紙を輸入して拡販 いった。そこで六桜社は 1934 年に設立された(合) に努めた。 野洲写真化学工業所(現野洲化学工業㈱)と共同研究 を始め、翌年夏には六桜社のゼラチン需要の一部をま 6.1.2 さくらフィルム製造の苦難 かなえるようにした。一方、乳剤の重要原料である硝 日本のロールフィルムとしては、1928 年に旭日写 酸銀については、早くから自給体制を整え、1928 年 真工業㈱が国産初の菊フィルムを発売した。一方、 には 640kg だった硝酸銀の年間生産量は 1937 年には 六桜社では長岡菊三郎が復帰し、感光乳剤の研究を 4,800kg にまで増加した。 1922 年から始めていた。当初は乾板研究を対象とし ていたが、小西六本店が既に各社の乾板を販売してい 6.1.3 株式会社への衣替えと日野分工場の創立 たため、やがてロールフィルムの研究へと移っていっ 1931 年の満州事変がきっかけとなり、翌年には満 た。そして、菊フィルムよりも高品質の六桜社製さく 州国の建国が宣言された。その翌年、日本は国際連盟 らフィルムを 1929 年に開発することに成功した。発 を脱退し 1937 年には日中戦争が勃発する。国内では 売当初のフィルム(127(ベスト判)/ 8 枚撮り 50 銭、 軍事用の注文が増える一方、1940 年には第 12 回オリ 120(ブローニー判) / 6 枚撮り 55 銭)は、ブリキ容 ンピック東京大会が開かれることになり、この和戦両 器に入れられ、六右衛門の書による「さくら」の文字 面に展開される需要にあたるために、1937 年に資金 が印刷された(図 6.1) 。 確保や運営面で有利な㈱小西六へと衣替えした。しか しその後、日中戦争に突入し、心ならずも軍需工場と しての道をたどることとなる。 その頃、満州や上海戦線でのさくらフィルムの使用 結果が良く、陸海軍当局は 1931 年頃から航空フィル ムの試作注文を出すようになり、小西六はわが国唯一 の軍用フィルム工場となった。当時、デュポン社の フィルムベースを輸入していたが、軍当局はベースか らフィルムまでの一貫生産を強く要望し、さくら航空 図 6.1 296 さくらフィルム、ブリキ缶入り(1929 年)1) 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August フィルムの育成に力を入れ始めた。この状況の中、六 桜社の敷地は次第に手狭になり、郊外に分工場の建設 ハロゲン化銀にも戻し、最後に最上層をイエロー発色 を決めた。八王子、日野、立川、橋本などの関東山麓 現像させる方法である。 一帯から茨城県、埼玉県まで調査対象を広げ、日野 これに対して、小西六はカラーネガフィルムの 3 つ 台の雑木林が工場用地に決定した。1935 年に登記し、 の感色性を利用し、カラー現像の大幅な時間短縮と工 日野分工場としてベース製造関係の建設工事が 1938 程削減を実現した。白黒現像後にまず上部から青色露 年に完了した。 光しイエロー発色現像する。次に背面から赤色露光し シアン発色現像を行う。その後、白光にて緑感光層に 6.1.4 さくら天然色フィルムの発売 潜像を作りマゼンタ発色現像を行うという酸化剤に 1935 年にコダック社が外式発色現像方式の多層カ よる漂白を使わない現像法を開発し、選択露光式現像 ラー反転フィルム コダクロームを発売したことを 法として発表、発売した。外式カラー現像と浸透調節 契機に、この方式の調査、研究が技師西村龍介のも 法による酸化処理が必要であったコダックの複雑な現 とで進められた。乳剤製造、多層塗布技術、感光色 像工程が簡略化された。 「このような単純な方法では 素、カプラー、現像剤などの総合的な研究の成果とし コダック社からクレームがあってもおかしくなさそう て、1940 年に小西六はさくら天然色フィルムを完成 だが、それがなかったというところをみると、それだ 1) した (図 6.2) 。コダックのコダクローム、アグファ け工業力の差が大きくて、当時我々は彼らの目にもと のカラーフィルム ノイについで、世界で 3 番目のカ まらぬ存在であったということかもしれない。…しか ラーフィルムの開発であった。日本でこそ最大手でも し、その後コダクロームを新型に改良したと称して、 世界の写真市場では地味な存在にすぎなかった小西六 現像法を浸透調節式から選択露光式に改めたと思われ というメーカーがいきなり 3 番目にカラーフィルムを る節が多分にある。偶然な一致である。 」との西村の 発表、発売することは驚くべきことであった。 述懐がある 3)。まさに、世界のコダックと競争して小 西六は独自の新しい技術を開発したのである。 さくら天然色フィルムは太平洋戦争中の 1944 年 12 月まで生産され、総生産量は約 7,500m2(35mm18 枚 撮り換算で約 20 万本)に達した。 6.1.5 小西六写真工業㈱の発足と満州映画協会 1943 年 4 月 1 日に㈱小西六は小西六写真工業㈱に 社名変更した。同時に六桜社を淀橋工場、六桜社日野 分工場を日野工場と改めた。また、小売業務が廃止さ 図 6.2 さくら天然色フィルム(1941 年) れ、ひたすら軍需生産に邁進することとなった。そし て、1944 年 1 月には軍需会社に第一次指定された。 研究はコダクロームを参考にすることから始まっ 1944 年秋、満州映画協会(略称満映、理事長甘粕 た。薄く切って顕微鏡で観察し基本構造を調べた後、 正彦)から、さくら天然色フィルムを使用して満州国 赤いバラを何回も撮ってみて、いかにすればきれいに の宣撫映画を作りたいという話がきた。検討の結果ス 色が出るか日野工場で仲間と寝泊りしながら試行錯誤 ライド作成とはなるが、1945 年 2 月にその指導のた 2) を繰り返した 。 めに 3 名の技術者が満州に渡った。しかし、8 月の太 また、コダックには浸透調節式現像法という特許が 平洋戦争の終結と共に中国共産党に接収され東北電影 あり、これを回避するためにかなりの苦心を払った。 公司(映画会社)となった。3 名は、戦後の混乱期に この浸透調節式現像法とは、白黒現像後の発色現像を 映画用ポジフィルムの製造やニュース映画の製作に する際に、まず 3 つの感光層を全てシアン発色に現像 従事し、今日の中国映画産業の基礎作りに貢献した。 し、そのあと青感光層と緑感光層を酸化剤とハロゲン フー・チャン、クー・チュアン共著の「満州 で処理することにより消色し、かつ現像銀をハロゲ 画の諸相」には「日本の映画人が人民映画に参加した ン化銀に戻す。この時、厳密に時間と調節剤を規定す 日々と、彼らが新中国の映画事業に尽くした努力を、 ることで、上の 2 つの感光層のみを酸化させる。その 中国の映画人は永遠に忘れない」と記されている。3 後、上の 2 つの感光層をマゼンタ発色現像し、次いで 名が無事帰国したのは 1953 年であった。 国策映 最上層の青感光層のみを同じく酸化処理して消色し、 カラーネガフィルムの技術系統化調査 297 6.1.6 太平洋戦争の終結と軍需生産の終焉 1944 年 6 月のマリアナ沖海戦での敗北以降、米機 の日本本土空襲が本格化した。1945 年 5 月の大空襲 6.3 富士写真フイルム㈱の誕生と銀塩写真 フィルム国産化への挑戦 で小西六の淀橋工場、総合研究所等が被害を受け、九 第一次世界大戦後、1919 年に誕生した大日本セル 州出張所や大阪支店も全焼した。そして 1945 年 8 月 ロイド㈱の社長森田(図 6.4)はセルロイドの新しい 15 日に終戦を迎えた。8 月 25 日に軍需会社などの指 需要先として、写真フィルム、映画用フィルムの将来 定取り消しが告示され、進駐した連合軍が会社の存続 性に着目し、その国産化が社会的責務であるとして、 を許すかどうか誰にも分からない時を迎えた。 フィルムベースの研究から着手した。全くの未開発分 6.2 オリエンタル写真工業㈱によるカラー ネガフィルムの開発 4) 野であり、米国コダック社との提携を求めたが拒否さ れ、自力の開発を決意して 1928 年にフィルム試験所 を創設し、工業化のための製造研究に邁進した。幾多 オリエンタル写真工業㈱では戦前、カラー写真の研 の問題山積に悪戦苦闘しながらも、東洋乾板㈱と提携 究を綜合写真化学研究所で行っており、3 層式天然色 し、1930 年には写真乳剤研究をフィルム試験所に移 写真についてはほぼ研究が完成し、陸軍の要請により して本格的研究を進め、1932 年には映画用ポジフィ 2 層式の研究を始めていた。しかし、戦後公開された ルムの試作に成功した(図 6.5)。 アグファ社の技術をベースにネガカラーフィルムの研 究に着手した。そして、1951 年には同方式のカラー リバーサルフィルム(ASA 感度 12)の発表を行った。 1952 年に研究が認められ、通商産業大臣より 700 万円の研究交付金を受け、1953 年には戦争で破壊さ れた第一工場の天然色部門の復旧工事が完了した。そ して、同年 3 月にネガ・ポジ式カラーシステムの研 究が完成し、4 月にネガカラーフィルム オリカラー 図 6.4 森田茂吉 5) 図 6.5 三井本館における商品展示説 明会 5) (ASA 感度 12)及びカラーペーパー オリカラーペー パーを発売した。このオリカラーが国産初のカラーネ ガフィルムである。 1932 年には大量の良質の水と綺麗な空気が豊かな 工場適地を求めて、神奈川県西部の箱根外輪山麓に位 置する南足柄村(現南足柄市)に決定した。そして、 10 万 m2 の用地を確保し、1933 年にはフィルムベー ス工場、フィルム工場、乾板工場、印画紙工場を主と する一大工場群を完成した。 足柄工場の建設と並行して、大日本セルロイドは写 真フィルム国産化事業の困難さを訴求し、政府に助成 措置を申請し、商工省より 120 万円の交付を取り付け 図 6.3 4) オリカラーフィルム(1953 年) た。1934 年に写真フィルム事業を独立させ、資本金 300 万円の新会社 富士写真フイルム㈱を誕生させた。 その後、1959 年にはオリカラーニュータイプ(ASA ここに映画用フィルムなど写真フィルムをフィルム 感度 50)が発売された。さらに、1965 年に箱のデザ ベースから乾板、印画紙までの製造を行う総合写真感 インをブルー基調に一新したオリカラーN100(ASA 光材料メーカーがスタートした。 感度 100)が発売された。しかし、色再現性やカラー しかし、新会社発足直後、外国製品の値下げや映画 バランスに欠点が多く、生産技術上も 1 層ずつの塗布 界の国産フィルムボイコット声明により大打撃を受け と極めて非効率であり、ゴミ、スタチック等により収 る。1934 年にフジ陽画用フィルムが商工省係官の第 率も悪かった。そのため、1967 年に全面的に製造販 一回規格検査を受け出荷開始したが、不買運動や品質 売を中止することになった。 上の問題から販売が難航した。そこで、ドイツ人技師 のマウエルホフ博士を招聘して写真乳剤の改良に努め るが、創立以来 4 期連続の大幅赤字で存亡の危機に 立たされる。浅野社長は「自分は、この写真フィルム 298 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 工業を生涯の事業として、あくまでやり抜く決意であ るから、志を同じくする人は、自分と運命をともにさ れたい」と悲壮な決意を披歴した。その中で品質第一 主義を貫き、全社一丸となって改良に取り組んだ結 果、1936 年に新しいフィルムベースによる映画用ポ ジフィルムを完成する。さらに映画用ネガフィルム、 ロールフィルム、X −レイフィルムなど相次いで市場 に送り出すことで業績は一挙に好転し、1937 年には 累積赤字を一掃して初の配当を実施するとともに資本 金を 1,000 万円に増資した。 1937 年には日中戦争が勃発し、戦時体制に移行す 図 6.6 モザイクスクリーン方式 5) (1939 年) ると経済統制が実施され写真感光材料の輸入が大幅に 制限された。そのため、国内メーカーの市場が拡大し たが、戦争が長引くに従い写真需要は停滞する。 写真感光材料の原材料は、高品質のものが要求され 企業秘密に属する部分が多く自家製造するのが理想で あり、戦時体制移行のため海外調達も困難になってき たため、1938 年に原材料薬品製造用に小田原工場を 建設した。また、川上工場(ゼラチン工場)、今泉工 場(バライタ紙用原紙工場)を建設し、自給化を進め 図 6.7 バイパック乾板方式 5) (1941 年) た。1936 年ドイツ人エミール・ウィンキン技師を招 きバライタ紙の製造研究を進めた。しかし、日中戦争 の長期化に伴い、バライタ紙用原紙の生産は出来な くなり、今泉工場は地図用紙等の製造に当たるように なった。 写真化学の分野においては、世界の有力メーカーは 独自の研究所を設け研究開発に凌ぎを削っていた。そ こで 1939 年に足柄工場の北側の農地を買収し、ここ に研究所を設立し、写真乳剤、天然色写真、フィルム ベース、合成薬品の研究等に取り組んだ。天然色写 真の研究では、モザイクスクリーン方式(図 6.6)と、 図 6.8 多層発色現像方式の研究を進めた。そして、バイパッ 転染印画法 5) (1941 年) ク乾板(図 6.7)、転染式カラー印画法(図 6.8)など を試作し、来るべきカラー写真時代の基礎を築いた。 1941 年に太平洋戦争に突入すると、民需生産は低 下するが、軍需が激増し増産に追われた。このため、 1943 年には資本金を 2,500 万円に増資し、工場の拡張 引用文献 1)「写真とともに百年」、小西六写真工業㈱編、378、 昭和 48 年 4 月 10 日発行 2)「ひっそり咲かせたバラの赤」、西村竜介、日本経 工事に着手した。しかし、資材不足と度重なる空襲で 済新聞 1986 年 5 月 15 日 小田原工場等被災し、軍の要請で満州への移設を計画 3)「多層式天然色フィルム <主として発色現像に するものの、1945 年のソ連の参戦により計画中止を ついて>(Ⅰ)」、西村竜介、写真科学十月号 余儀なくされるなか、8 月 15 日に終戦を迎え、全工 集*天然色写真、23(1944 年) 場の操業を停止した。 特 4)「オリエンタル写真工業株式会社 70 年史」 、オリ エンタル㈱編、44、1989 年 9 月 22 日発行 5)「富士フイルム 50 年のあゆみ」 、富士写真フイル ム㈱編、3、昭和 59 年 10 月 20 日発行 カラーネガフィルムの技術系統化調査 299 7 7.1 第二次世界大戦から 1960 年代までの日本の写真感光材料産業の発展 追いつくかということが最も大きな課題であった。そ 第二次世界大戦後の復興 のためにまず、各種の海外技術情報の入手に努めてき たが、ドイツのアグファ社の技術が連合軍の占領調査 第 二 次 世 界 大 戦 の 終 結 を 迎 え、 フ ジ フ イ ル ム は 1945 年 9 月には全従業員を解雇せざるを得なくなっ たが、その後占領軍当局の映画用フィルム生産再開と いう指示を受け再び活動を開始することとなる。 報告 PB レポートとして公開され、国内各社の戦後の 研究の再出発に大きな影響を与えた。 7.2 写真需要の回復 敗戦直後の苦しい生活の中で、民衆は娯楽としてわ ずかに映画とラジオを求めていた。戦時中の映画に対 終戦によって再び平和が訪れはしたものの人びとは する軍部統制は撤廃され、GHQ は戦後の映画製作方 日々の生活に追われ写真どころではなかった。しか 針を打ち出して占領目的達成のための一つの有力手段 し、1946〜47 年頃になると徐々に営業写真館は戦災 として映画活用を考えた。10 月早々に GHQ は戦後の で焼失したスタジオの再建に乗り出し、写真材料店も 人心安定化方策の一環として映画用フィルム生産再開 次第に店舗を整備して営業活動を再開し始めた。た の仮許可書を出した。1945 年 10 月 1 日に事業再開の だ、戦後の原料費の著しい高騰などインフレの影響を 日を迎えた富士写真フイルム社長の春木は再出発にか 受け製造コストが大幅に高くなっていた。このため、 ける決意を述べ従業員への協力を求めた。 数次にわたって公定価格の改訂が行われ、ロールフィ 「占領下にあって、自由を失い、状勢判断の資料を ルムブローニー判(6cm × 6cm サイズで 12 枚撮)1 欠いているわれわれとしては、会社が今後どうなる 本の小売価格は終戦時 2 円 41 銭であったものが 1948 か、確たる見極めはつかない。しかし、あくまで写真 年 7 月末には 138 円となった。 工業を継続したいと念じ、規模を縮小して、操業を再 1949 年頃から一般用ロールフィルムの供給不足も 開することにした。…(中略) しかし、正式な許可 次第に緩和され、同年秋には、一般市場への供給量も を得ているのではないから、あるいは最悪の事態に 増加してきた。敗戦後の窮乏の中で食糧の確保に追わ 陥って、早く会社を去った人のほうが、今日再採用と れていた人びとの生活も、このころからようやく安定 なった人よりも、幸せだったという結果にならないと を取り戻しつつあり、人びとの間にも写真需要が起こ もかぎらない。しかし、原料から写真フィルムを製造 りかけてきた。そして、1950 年には公定価格制度は して、国内の需要をまかない、外国品を駆逐すること 廃止されるに至った。 は、当社創業の精神であり、使命である。前途まこと 同 1950 年 6 月、朝鮮動乱がぼっ発し情勢が大きく に困難で、かつ、不安もあるが、どうか、創業時代に 変わった。特需の増大によって、鉱工業生産は増加 傾けたあの情熱と努力を、再びこの事業に注いでいた し、日本経済は不況から抜け出し、戦後の混乱期によ だきたい。 」 うやく終止符を打つことができた。ちょうどそのこ 一方、小西六も、1945 年 10 月に本社として東京 ろ、朝鮮動乱の報道でわが国のカメラの優秀性が認め 営業所を設置し、大阪、名古屋、福岡等の営業所も られたこともあって、アマチュア写真熱も次第に広 活動を再開した。戦後激増した結核の撲滅のために、 がっていった。 GHQ の指示でレントゲンフィルムの増産要請が出さ その頃、小西六は生産設備の拡充を行い 1950 年代 れ、その生産を確保するために、一時はロールフィル の初めにはベースの製造を、並行生産していたダイア ムの製造禁止令まで出されたが、緩和を粘り強く陳情 セテート(DAC)ベースを中止してトリアセテート することで、禁止令は解除され、ロールフィルムも市 (TAC:三酢酸セルロース)ベース一本に切替えた。 場に出回るようになってきた。 終戦とともに、研究活動も一時中断したが、事業の 再開に伴って研究活動を再開した。スタートに当たっ ては、まず海外のトップメーカーの技術水準にいかに 300 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August また、新しい乳剤工場も建設し、感光材料の製造を拡 大していった。当時の小西六のフィルムの生産量は以 下のように増加している。 表 7.1 第二次世界大戦後の小西六のフィルム生産量 1) 年 フィルム(千 m2) ズシャッター付 35mm カメラを発売した。このカメ ラは小型軽量で携帯に便利であり、またこのカメラに 使用する 35mm 判フィルムは 1 本当たり撮影できる 1951 年 739 1952 年 883 1953 年 1007 6cm × 6cm 判のカメラの生産数量を上回った。これ 1954 年 1269 に伴い 35mm 判フィルムの使用量も増加し、フィル 1955 年 1724 ムの出荷量でも 1960 年には 35mm 判フィルムがロー 枚数が多いなどの長所が一般に認められ、35mm カメ ラの生産数量は 1956 年にロールフィルムを使用する ルフィルムをしのぐようになった。 7.3 35mm 判黒白フィルムの包装形式は、暗室装てん用 乾板からカットフィルムへの移行 とパトローネ入りの 2 種類があった。フィルムに遮光 紙をかぶせて缶に入れてある長巻の暗室装てん用フィ 乾板はガラス板に写真感光乳剤を塗布したもので、 ルムは、カメラにフィルムを装てんする場合、暗室で その性質上、破損事故の懸念や保管スペース・携帯性 缶の中のフィルムをパトローネかマガジンに詰め替え など、取り扱い上の問題があった。これをカットフィ る作業を必要とする。この暗室装てん用フィルムは、 ルムに切り換えると、ユーザーにとっては取り扱い上 パトローネ入りのフィルムと比較して販売価格が割安 の問題が解消され、また修整作業もしやすく現像も容 で、写真材料販売店では暗室装てん用フィルムをパト 易であり、製造メーカーにとっても均一な製品を大 ローネに詰め替えて販売するようになり、このことが 量に生産できるメリットがあった。戦後間もないころ 35mm 判フィルムの需要を増加させる一つの要因とも で、乾板用の良質なガラスの入手が困難であったこと なった。このため、35mm 判フィルムでは暗室装てん もあった。カットフィルムの商品化に際しては、特に 用フィルムのウェイトが圧倒的に高くなっていた。 湿度が高い場合の平面性の保持を配慮し、フィルム ところが、このパトローネに詰め替える作業は、作 ベースの厚みを厚くし、フィルムの写真乳剤側の反対 業中にフィルムに傷がついたり、思わぬ故障が発生し 側にカーリング防止層を塗布するなどの対策をとり、 たりして製品の品質に対する信頼度が失われる恐れも また、カットフィルムを装てんする専用シースを同時 あり、信用を守るうえからもゆるがせにできない問題 に発売してユーザーの便宜を図った。 であった。 営業写真用として、フジフイルムは 1946 年 10 月パ このような情勢を検討した結果、新聞社やプロ写 ンクロタイプ富士ポートレートカットフィルムを発 真家向けなど専門家用の 30.5m 巻きフィルムを除き、 売した。その後 1951 年 5 月に富士ポートレートパン 35mm 判フィルムをすべてパトローネ入りとすること クロマチック SS カットフィルム(感度 ASA100)を とした。標準販売価格は従来の暗室装てん用フィルム 発売し、1958 年にはフィルムベースを不燃性の TAC の価格に近い価格に設定し、実質的に大幅な値下げを ベースに切り換えた。翌 1959 年にはカットフィルム 断行しこの切り換えを円滑に進めた。 の名称をシートフィルムと改め、さらに翌 1960 年 5 月にはネオパン SSS シートフィルム(感度 ASA200) 7.5 フジフイルムの発展 を発売した。小西六も、1949 年 3 月にさくらカット フィルム・ポートレートパンクロを発売し、さらに 1959 年にはさくらカットフィルム コニパン SS を発 1950 年代の商品化研究 1950 年代における写真感光材料商品の開発面にお ける成果は高感度白黒フィルムの開発とカラーフィル 売した。 7.4 7.5.1 35mm 判フィルムの需要拡大とパト ローネ入り製品への切り換え ムの商品化であった。 高感度フィルムの開発については、PB レポートに ある金増感(金の化合物を用いて、写真乳剤の感度を 戦後、画面サイズが 6cm × 6cm 判のロールフィル 増加させる技術)の研究を進めて安定した増感方法を ムを使用するカメラを中心にカメラ需要が伸長しカ 確立し、1952 年 4 月にネオパン SS で実用化すること メラブームが訪れたが、1950 年代に入ると 35mm カ ができた。金増感法が発明されたのは 1936 年であり、 メラが徐々に増えはじめた。1950 年代半ばに至って、 アグファ社の R. コスロフスキーにより高感度微粒子 カメラメーカー各社は、相次いで廉価な普及型のレン 乳剤の製造に有効な増感法として発明された 2)。フジ カラーネガフィルムの技術系統化調査 301 フイルムの金増感の実用化は世界的にみると金増感の の裁断が必要である。ロールフィルムの場合には、こ 発見から 16 年遅れたことになる。 れを遮光紙とともにスプールに巻き込み、巻き込まれ 一方、カラーフィルムについては戦時中から研究を たフィルムを包装紙に包み、商品名を印刷した小箱に 続けていたが、戦後、外式カラーフィルムを完成し、 入れて封をする。これらの工程の大半は、暗室内の作 次いで内式カラーフィルムの開発に取り組んだ。内式 業であり加工工程と称する。 カラーフィルムにはカプラーが水溶性でそのまま乳剤 戦前から最も苦心したのが映画用フィルムの加工で に添加できる型(アグファ型ともいわれる)と、カプ あり、フィルムを裁断する裁断機やせん孔機の精度不 ラーを油に溶解しそのカプラー含有の油を細い油滴 良によって画面に揺れが出たり、裁断時に出てくるゴ として安定した型にして乳剤に添加する型、すなわち ミ故障が発生したりした。戦後フィルムベースの不燃 オイルプロテクト型(コダック型ともいわれる)とが 化時にもフィルムベースの組成変更に伴い裁断機やせ あった。オイルプロテクト型はカプラーと写真乳剤中 ん孔機の切れ味不良という問題に直面したが、新しい のハロゲン化銀粒子が直接に接触することがないの 合金材料を使用することによって解決した。 で、生フィルムのもちがよいといわれていた。 ロールフィルムの分野ではフィルムと遮光紙との接 しかし、当初からオイルプロテクト型の開発に取り 着故障に悩まされたが、これは夏期の高温多湿に起因 組むのは困難であり、それに対し水溶性カプラーを使 するものであった。戦後の高分子化学の進歩によって 用する方式は、PB レポートでその内容がほぼ明らか 防湿包装技術が格段に進歩したため、この技術進歩を にされていたので、まず水溶性カプラーを採用する 包装技術の改善に活用した。そのため 1950 年代に入 方針で研究を開始した。そして、この水溶性カプラー ると遮光紙の技術進歩が著しく、東南アジア方面のよ を使用して、1955 年に映画用内式カラーネガフィル うな高温多湿地帯に輸出しても遮光紙の防湿不良によ ムの最初の製品を商品化し、次いで 1958 年 10 月に一 る接着故障は全く発生せず信頼性を高めることができ 般用カラーネガフィルム・カラーペーパーを商品化し た。 た。 7.5.4 7.5.2 開発 生産技術研究の進展 PB レポートをはじめとして海外の技術資料から多 1958 年に発売したフジカラーネガフィルムは 20 枚 くの示唆を得ながら生産技術の研究にも取り組んだ。 撮 1 種類だけであったが、1960 年 4 月に新たに 12 枚 写真乳剤の塗布技術においては、新しい界面活性剤を 撮を発売した。しかし、その感度は ASA32 と黒白 用いて、フィルムベースに乳剤層と保護膜層を同時に フィルムの標準とされたネオパン SS(ASA100)に 重層塗布する技術を検討し、高速連続塗布の技術を確 比べてはるかに低く、感度の向上を求める声が強かっ 立した。これによって、高感度フィルムの写真乳剤層 た。そこでカラーネガフィルムの感度向上を目指し、 に保護膜を安定して塗設し、すり傷や静電気の発生に 1961 年 10 月に N50(ASA50)を発売した。 よる製造工程上の故障を減少させた。 塗布方式においても、従来のディップコート方式 (フィルムベースまたはバライタ紙を写真乳剤液に軽 2 年後の 1963 年 10 月には色補正を自動的に行う機 能をもつフジカラーN64 35mm 判フィルム(12 枚 撮および 20 枚撮)を発売し、12 月にはブローニー判 く浸して塗布する方法)に代わる新しい塗布方式とし フィルム(6cm × 6cm て、エアーナイフコート方式(塗布後、余分な乳剤に フィルムは、従来のカラーネガフィルム(図 7.1)と 空気を吹き付けてかき落としてしまう方式)の研究に 異なり、オレンジ色をしているマスク付きフィルム 取り組み、実用化に成功した。 6 枚撮)を発売した。この (図 7.2)であった。第一章で説明したようにカラード 写真乳剤の製造技術面では、フィルムの鮮鋭度向上 カプラーとは現像後カラーネガフィルムに含まれてい のために乳剤の高銀化(ハロゲン化銀量に対してゼラ るマゼンタ色素とシアン色素の色の濁りを補正する役 チン量を少なくすること)として、写真乳剤から水分 割を果たす。 をできるだけ取り除く脱水法の研究を進め、その技術 を実用化した。 7.5.3 加工技術の進歩 フィルムの生産には、広幅塗布後、必要なサイズへ 302 1960 年代の一般用カラーネガフィルムの 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August ラー感光材料に使用していたカプラーは水溶性のカプ ラーであった。オイルプロテクト型カプラーを使用し たカラーフィルムと水溶性カプラーを使用したカラー フィルムとは現像処理方式が異なり、またオイルプロ テクト型カプラーを使用したカラーフィルムは生フィ ルムの保存性や現像後の画像耐久性などが優れてい 図 7.1 従来のカラーネガ フ ィ ル ム( 現 像 3) 後) 図 7.2 マスク付きカラー ネガフィルム(現 像後)3) た。 このため、フジフイルムは 1966 年 4 月に発売のカ ラー反転フィルムニュータイプフジカラーR100 でオ イルプロテクト型カプラーを使用した。その後、1969 35mm 年 3 月にカラーぺーパー、1971 年 4 月にカラーネガ 判フィルムを全国一斉に発売し、12 月にはブローニー フィルム ニュータイプフジカラーN100 とオイルプロ 判フィルムも発売した。N64 で開発したカラードカ テクト型カプラーを使用した新製品を順次市場に導入 プラーを採用したうえに、感度もネオパン SS と同じ した。小西六もナウカラーという愛称をつけたオイル ASA100 でユーザーに使いやすく、また粒状性を細か プロテクト型のさくらカラーN-100 を 1971 年に発売 くして、人の肌・洋服の生地などを自然に描写できる したが、日本企業の開発はコダックが 1942 年に開発 ような改善が為された。 したカラーネガフィルム コダカラーから約 30 年遅れ ついで、1965 年 8 月にはフジカラーN100 このころになると、カラーフィルムを現像する現像 ての市場導入となった。しかし、このオイルプロテク 所(現像所のことを略して「ラボ」という)も順次増 ト型カプラーの使用によりワールドタイプとなり、世 加し全国的なカラーラボ網が整備され、どこでもカ 界各国への輸出の道が開かれることとなった。 ラーネガフィルムの現像とカラープリントの製作がで きる体制が整ってきた。そこで、ユーザーがカラー 7.5.6 営業写真用カラーネガフィルムの開発 フィルムを購入しやすくするために、カラーフィルム フジフイルムの営業写真市場への展開は 1963 年 6 の販売価格をフィルム価格と現像料とに分け、現像料 月フジカラーN50 シートフィルムを発売したことか は現像所ごとに定めて利用者が現像する際に支払うこ ら始まる。同年 12 月には一般用で N64 を発売したの ととした。現像料を分離した後の N100 の標準小売価 と同時にフジカラーN64 シートフィルムを発売した。 格は、35mm 判 12 枚撮 290 円、同 20 枚撮 420 円、ブ 婚礼写真でもカラー写真が撮られ始めてきたころであ ローニー判(6cm × 6cm 6 枚撮)330 円であった。 り、この分野の商品開発にも力を注ぎ、1965 年 12 月 前年に開催された東京オリンピックを機に、アマ には感度 ASA80 デーライトタイプのニュータイプフ チュア写真家の間にカラー写真への関心が高まり、 ジカラーネガティブフィルムを市場導入した。1966 1960 年代の半ばには 35mm 判一般用フィルムの全販 年 9 月にはタングステン光源適性をもつ感度 ASA32 売量に占めるカラーフィルムの割合は約 10%前後に のフジカラーネガティブフィルム / タイプ L(L は まで達し、1960 年代後半にはカラーフィルムの使用 Long Exposure、長時間露光の略)を商品化した。タ 比率が急速に増加していった。 イプ L は写真館にセットされた電球照明を被写体に 当てて撮影するタイプの感材で、目で見ながら撮影用 7.5.5 コダック社開発のオイルプロテクト型への の照明をコントロール出来るという特徴を持つ。但 移行 し、撮影の瞬間の光量が少ないために、数十分の一秒 当時、世界各国のカラーフィルム市場でコダック社 から数秒のシャッタースピードという比較的長時間の の製品が圧倒的に高いシェアを占め、各国の現像所で 露光時間が必要であり、被写体が動くと画像がブレる もコダック製品の現像処方で現像作業が行われている 等の欠点を有する。また、色温度の低いタングステン 実態があり、日本から世界市場へ参入するためには、 光源において忠実な色再現が出来るように、フィルム カラーフィルムもカラーぺーパーもコダック社製品と の青、緑、赤の感度バランスを調整する等の感材の性 同一現像処理ラインに乗る製品を開発することが不可 能変更も必要である。一方、従来のデーライトタイプ 欠の課題であった。 品もタイプ S(S は Short Exposure、短時間露光の略) コダック社のカラー感光材料にはオイルプロテクト と改称された。タイプ S はストロボ撮影用の感材と 型のカプラーが使用されていたが、日本製の内式カ いう意味であり、タングステン光源のような大げさな カラーネガフィルムの技術系統化調査 303 照明設備を必要としないものの、撮影者はストロボ発 一方、並行して PET ベースの研究も推進しており、 光時にどのように被写体に光が当たっているかを洞察 フィルムベースとしていずれを選択するかが重要な問 する経験と技術を必要とし、また感材設計においても 題となった。最も大きな観点はプラスチックとしての 数百分の一秒から数万分の一秒で露光するためのハロ 将来性の見通しであるが、大量生産によるコストダウ ゲン化銀の性能改良が必要であった。しかしこれら ンは需要規模の大きい繊維工業用素材となるかどうか の開発により、撮影条件に従ってタイプ S とタイプ L に依存していた。その点、ポリカーボネートは繊維用 を使い分けすることによって、カラーバランスの合っ 素材としては特に優れた特長をもたず、PET は風合 た高品質のカラー写真が得られるようになった。フィ い、強さなどの特徴から繊維素材として大きな需要が ルムベースも従来の TAC べースから PET べースに 見込まれ量産される機運があり PET が選択された。 改めカーリングの減少が図られた。 PET はイギリスの ICI 社が工業化に成功した熱可 塑性プラスチックで、1957 年 2 月に東洋レーヨン株 7.5.7 式会社(現東レ株式会社)、帝国人造絹糸株式会社(現 PET ベースの開発 戦後、石炭から石油への化学工業の原料転換に伴っ て、新しい繊維用化学素材が次々と生み出された。そ 帝人株式会社)の 2 社と ICI 社との間で技術提携契約 が結ばれ国産化の道が開かれた。 れらの中にはフィルムベースとして優れた特性をもつ PET べースを使用するフィルムの試作研究には当 ものも少なくなく、世界の写真感光材料メーカーの間 初デュポン社や ICI 社のベースを購入して開始した で新素材によるフィルムベースの開発が進められてい が、東洋レーヨンが PET 生産を開始したので同社の た。 ルミラー(PET フィルムの商品名)も購入して試作 フジフイルムでも、フィルムベースの不燃化を目指 を続けた。べースのせん孔やテープ接合などの加工 した TAC べースの開発に一応の目途がついた 1952 技術も完成し試作研究の見通しも立ち、東洋レーヨ 年ごろから、寸度安定性や強度など諸特性のより優れ ンからサブライセンスを受け PET べースを自社生産 たフィルムべースを開発すべく、次世代のフィルム する方針で 1961 年 3 月に契約を締結した。デュポン ベース素材の研究に着手した。そして、ポリ塩化ビ 社に続いて 1960 年にコダック社でもリスフィルムの ニール、ポリスチレン、ポリカーボネート、そしてポ PET べース品の出荷が開始され、また 1966 年秋デュ リエチレンテレフタレート(略して PET)と新素材 ポン社が X −レイフィルムのべースに PET を使用し の出現ごとにフィルムベース素材としての可否を検討 はじめコダック社もこれに追随するといったことから していった。 PET ベースの開発に拍車がかかった。 ポリ塩化ビニールはコスト的には最も割安だったが 連続製造技術に難点があり、品質的にも耐熱性が劣り 映画用カラーネガフィルムの開発 映画館数は 1950 年にはほぼ戦前の水準を回復し、 結局使用を見送った。 電気絶縁性に優れ初期の高分子工業の花形であった 304 7.5.8 その後も増加を続け 1958 年には 7,000 館を超えた。 ポリスチレンは、透明で二軸延伸(長さ方向と幅方向 この年には映画製作本数も 500 本を数え、年間映画観 とに高温で延伸すること)によって強い透明なフィル 客数も 11 億 2,700 万人とピークに達した。これは国 ムが得られるため、フィルムベースの検討対象となっ 民 1 人当たり毎月ほぼ 1 回の割合で映画を見ていた計 た。最大の特長は湿度によって寸度の変化がないこと 算になる。 で、製版用フィルムの無伸縮ベースとしては好適で 1956 年にはこの年がわが国で初めて輸入映画が上 あった。しかし、85℃以上で急に軟らかくなる性質が 映されてから 60 年目に当たることを記念して、12 月 あり、耐熱性の点で不十分であった。 1 日を「映画の日」と定めた。しかし、1958 年をピー ポリカーボネートは 1956 年バイエル社が合成に成 クとして映画観客数は下降に転じ、1960 年代に入る 功したプラスチック材料の一種であり、強度・透明 とその傾向が加速し、1963 年にはピーク時のほぼ半 性・耐衝撃性・耐熱性・電気絶縁性も十分であり、し 分にまで減少した(図 7.3 参照) 。これは経済の高度 かも現用のベースである TAC ベースと全く同じ装置 成長に伴って、レジャーの多様化とテレビの出現に起 で製膜できる点も極めて有利であった。そこで、その 因するといわれる。日本でテレビ本放送が開始された 合成法の研究を進めるとともに、反応溶液から直接ポ のは 1953 年であり、その後民間テレビ局の開局、テ リカーボネートベースとする合成・製膜一貫製造法の レビ受像機の量産化と価格低下などによってテレビは 開発に取り組んだ。 急速に普及した。 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 市場を席巻していた。 コダック社に対抗し得るフィルムの開発を最重点 課題として研究を進めた結果、フジフイルムは 1965 年 1 月に改良タイプ 8513 を商品化することができた。 このタイプは、感度を露光指数 50 にアップするとと もに、前々年に発売した一般用カラーネガフィルムに 採用したカラードカプラーを採用し、濁りのない忠実 な色再現が期待できるマスク付きフィルムとなった。 さらに同年 10 月、階調や色再現性を改良したタイプ 8514 を完成した。タイプ 8514 に至り、十分実用しう 図 7.3 日本映画の入場者数の推移 4) るものとの評価が得られ、大映作品「ザ・ガードマン 東京用心棒」に使用されたのを皮切りに、その後、多 くの作品に使用されるようになった。 このようなテレビの急速な普及に対抗し、映画会社 一方、世界市場へ参入するために求められる輸出適 では観客の減少を抑えるために、迫力ある映像の展開 性とは、他のアマチュア用カラーフィルムの場合と同 をねらって映写画面の拡大、すなわちワイドスクリー 様に、世界中どこでもフィルムの現像処理が可能なこ ン方式の採用や、カラー作品の増加を進めていった。 と、つまりコダック社の製品と同一現像処理ができる また、従来の量産主義から大作主義への転換、製作部 製品であることであった。 門の人員の削減など、各種の合理化施策も進められ、 映画用カラーフィルムの輸出適性を最初に実現した 多くの映画館が姿を消すなど映画産業は非常に厳しい のはカラーポジフィルムであり、1968 年 3 月、16mm 状態におかれるに至った。 カラーポジフィルム(タイプ 8829)を、同年 9 月に 35mm 劇映画分野のワイドスクリーン化は 1953 年 は 35mm カラーポジフィルム(タイプ 8819)を商品 わが国に初めてシネマスコープ方式の映画作品が輸入 化した。この商品化により映画用 35mm カラーポジ 公開されたことに始まる。スクリーンの縦横幅比を従 フィルムの輸出は急速に増加した。 来の 2 倍近くに拡大した大画面による迫力で観客の話 映画用 35mm カラーネガフィルムの輸出適性品(タ 題を呼んだ。それ以降ワイドスクリーン映画が輸入さ イプ 8515)は、翌 1969 年 11 月に完成した。このフィ れ、1957 年には邦画のワイドスクリーンによる製作 ルムの感度は露光指数 100 となり、セット撮影や夜間 も始まり、1960 年代に入ると映画館で上映される劇 撮影も容易になり、粒状性や色再現性も向上した。引 映画のほとんどがワイドスクリーン映画となった。そ き続いて、1972 年 2 月には、35mm カラーネガフィ のために、映画用フィルムには、より一層画質の向上 ルム改良品(タイプ 8516)を発売した。この改良品 が求められた。 によって映画用カラーネガフィルムは世界水準の品質 1951 年フジフイルムの「カルメン故郷に帰る」で を達成し、従来から使用されている劇映画の分野をは わが国劇映画のカラー作品製作がスタートしたもの じめ、新たに PR 映画や教育文化映画にも広く使用さ の、1950 年代半ばまでの劇映画製作はほとんど黒白 れるようになっていく。 作品で占められていた。その後、内式ネガ・ポジ方 式のカラーフィルムの登場によって、1950 代後半か 引用文献 らカラー作品の製作が増加しはじめ、1962 年からは 1)「写真とともに百年」、小西六写真工業㈱編、昭和 カラー作品の数が黒白作品を上回り始めた。国産の 48 年 4 月 10 日発行等 35mm 映画用カラーポジフィルムの販売量も次第に増 2)「 金 増 感 」 、R. Koslowsky and H. Mueller, Agfa 加し、1960 年代に入ると国内市場の大半を占めるに Film Plant, Wolfen, Germany. Reports September- 至った。 October(1936)等 しかし、カラーネガフィルム市場では、事情は異 なっていた。1958 年に発売したフジカラーネガフィ ルム タイプ 8512(露光指数 25)が映画製作会社に 使用され始めたころ、コダック社はニュータイプ品 3)「富士フイルム 50 年のあゆみ」 、富士写真フイル ム㈱編、108、昭和 59 年 10 月 20 日発行 4) 一般社団法人 日本映画製作者連盟ホームページ 日本映画産業統計 過去データー一覧表より (露光指数 50)を開発して 2 倍の高感度化により日本 カラーネガフィルムの技術系統化調査 305 8 1970 年代のカラーネガフィルムの開発 1970 年代は日本の感材メーカーがようやくコダッ 品の後追いを続けてきた日本メーカーにとって、海外 クのカラーネガフィルムの後ろ姿を捉えるまでに技術 の先進メーカーに先んじてそれを上回る製品をつくり 進歩を遂げた時代である。1971 年 1 月一般用カラー 出すことができたという意味で画期的な新製品であっ ロールフィルムの輸入が自由化され、同年 4 月からは た。その後、1977 年 3 月には小西六がサクラカラー 関税率も引き下げられ、これを機に輸入品の値下げが 400 を、同年 5 月にはコダックがコダカラー400 を相 実施されて日本国内の市場も海外市場と同様の国際競 次いで発売した。それまではカラーフィルムの感度 争時代に突入した。 を上げると旧タイプは廃止されたが、今回は ASA400 1972 年 3 月コダック社は 110 サイズポケットシス の新タイプに対して ASA100 のタイプも販売を続け、 テムを開発・発表した。このシステムはフィルムの画 カラーネガフィルムとして初めての感度面での多様化 面が 35mm 判サイズの 4 分の 1 という小さい面積で、 が始まった。 この小さな面積からカラープリントに拡大しても耐え られるようにシャープネスおよび粒状性を改良した新 8.1 フジフイルムの開発 しいカラーネガフィルム コダカラーⅡが開発された。 この感材には DIR カプラー(Development Inhibitor 306 8.1.1 フジカラーF- Ⅱ 400 の発売 Releasing カプラー)と呼ばれる、現像中に現像抑制 この新製品の企画に当たっては、まず写真需要の拡 剤を放出し、粒状性や鮮鋭性、色再現性を向上するカ 大という見地に立って、その感度の目標をどこに置く プラーが新たに添加された。また、コダカラーⅡは現 かということから検討を始めた。アマチュアの写真撮 像処理でも高温迅速処理を可能にし、従来約 1 時間近 影では屋外撮影が圧倒的に多いが、室内撮影もアマ くかかっていた現像処理時間は約半分に短縮された。 チュアの全撮影ショット数の約 4 分の 1 を占めてい これに対して、フジフイルムは IRG という独自の た。そして室内撮影の場合、手ぶれや露光不足が少な 技術を完成してフジカラーF- Ⅱを開発し、市場への からず見受けられていた。数々の市場調査データを基 出 荷 を 1974 年 11 月 よ り 開 始 し た。IRG 技 術 と は、 にして検討した結果、写真需要拡大のためには室内撮 Inhibitor-Releasing Grain(現像抑制物質放出型粒子) 影をより容易にすることが喫緊の課題であり、そのた の頭文字をとったもので、写真乳剤粒子に現像抑制剤 めには現在普及している大部分のカメラでストロボな をあらかじめ均一に吸着させておき、光の当たった粒 どの補助光なしに室内で撮影することができる高感度 子から現像中に抑制剤が放出され、それによって現像 のフィルムを開発する必要があると考えた。しかも屋 銀が粗大化するのを防ぐというものである。コダック 外撮影に使用しても、夏の海辺でも冬のスキー場でも の「カプラーからカップリング反応時に抑制剤を放出 露光がオーバーにならず適正露光が得られねばならな する」方式とは全く異なる方式からの開発であった。 い。つまり、屋内・屋外を問わず使用できる感度が求 一 方、 コ ニ カ は 1974 年 9 月 に サ ク ラ カ ラ ー Ⅱ められる。このような考え方に立って検討した結果、 N-100 を発売した。この感材にはコダックの DIR カ フィルムの感度目標を ASA400 に設定した。また、 プラー特許に関連しない DIR カプラーを新たに開発 ストロボを使用しないで室内撮影が可能になると、当 し導入した。コダックの DIR カプラー特許は作用原 然ながら蛍光灯やタングステン光などの光源下で撮影 理を概念的に保護しておらず化学構造を特定したに過 される可能性が高くなるので、これらの光源に対する ぎなかったので、コダック特許の「カップリング反応 適性も要求された。 によって色素と抑制剤を形成する」という請求範囲か フィルムの感光性の基礎になっているのは無数のハ ら外れた「色素を形成しない」無呈色 DIR カプラー ロゲン化銀微結晶である。この結晶粒子を大きくする を開発し、3 種の感光層に共通使用した。 ほど感度が高くなるが、ある程度以上にこのサイズを 次のエポックとしては ASA 感度 400 のカラーネガ 大きくしても到達できる感度には限界があった。検討 フィルムの開発である。1976 年 9 月に開かれた第 14 を進めていくことで新たに二つの技術を開発した。そ 回フォトキナにおいて、フジフイルムは世界初の高感 の一つは集中核型粒子、すなわち CLG(Concentrated 度カラーネガ(ASA400)フジカラーF- Ⅱ 400 を発表 Latent-image Grain)技術である。大サイズ粒子にな した。これまでは、海外の先進メーカーが開発した製 ると光照射で発生した電子が一か所に集まらず亜潜像 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August となって分散するため、折角大サイズ化してもそれ以 F- Ⅱプロフェッショナル タイプ S(感度 ASA100) 上感度が上がらなくなる。これに対して、粒子のヨー と 感 度 ア ッ プ し た タ イ プ L( 感 度 ASA80) を 発 売 ド組成や形状等をコントロールすることで、亜潜像 し、1980 年 4 月には、フジカラーF- Ⅱ 400 で開発し の分散という非効率を抑制したハロゲン化銀粒子を作 た CLG 技術を用いた新しい写真乳剤を使用し、フ り出し高感度化を実現した。もう一つは ICL(Image ジカラー100 プロフェッショナル Controlling Layer) という画像制御層 技 術 で あ る。 ASA100)とタイプ L(感度 ASA80)をそれぞれ開発 カラーネガフィルムは赤、緑、青に感ずる三つの層か した。 タイプ S(感度 らなるが、これらの層はそれぞれ高感度と低感度の 2 層から作られていた。ICL 技術はこの高感度層と低感 8.1.3 映画用カラーネガフィルムの開発 度層の間に ICL という新しい乳剤層を加えることに 1968 年開発のカラーポジフィルムタイプ 8819 や よって高感度層の大きなハロゲン化銀粒子の色素像が 1972 年開発のカラーネガフィルムタイプ 8516 など、 低感度層に滲み出すのを防ぎ粒状性を良化させるとと オイルプロテクトカプラーを導入した輸出適性品の完 もにシャープな画像を得られるようにする技術であ 成により映画用フィルムの輸出が拡大していった。特 る。 に、映画用カラーポジフィルムは輸出も順調に伸長 このため F- Ⅱ 400 の写真乳剤層は中間層や保護層 し、米国でも大量に使用されるようになった。しか などを加えると合計 14 層で形成されたが、塗布技術 し、カラーネガフィルムについては現場での長年の の改良と新鋭カラー工場の設備化によってこの多層塗 使い慣れなどもあってなかなか採用されなかったが、 布を可能とした。 20 世紀フォックス社の人気テレビ映画「ペリー・メ イスン」に使用されてから使用作品数も徐々に増加 していった。1977 年 6 月にはフジカラーネガティブ フィルム A を開発したが、このフィルムも新開発カ プラーや IRG 技術、CLG 技術をもとにした新しい写 真乳剤を採用し、露光指数 100 の感度で微粒子かつ 優れたシャープネスで画質が一層向上し、特に 16mm 映画の分野で威力を発揮した。また、現像処理面でも 図 8.1 フジカラーF-Ⅱ400 1) (35mm 判とブローニーと 110 フィルム) 8.1.2 営業写真用カラーネガフィルムの開発 1960 年代から婚礼写真にカラー写真が使われ始め 40℃を超える高温迅速処理に適応する特性をもたせる ことが可能となり、現像所の迅速処理化に対応出来る ようになった。 8.1.4 研究体制の進歩 1970 年代に入って、研究テーマごとに異なった専 た。1972 年をピークとするブライダルブームは営業 門分野の研究者によるプロジェクトチームを編成し、 写真におけるカラー写真化に大きな影響を与え、婚礼 研究の効率的遂行が図られた。タスクフォースシステ 写真だけでなく、その他の需要にもカラー写真化が促 ムによる組織運営が研究の効率を高めるうえで効果を 進された。七五三や成人式などの記念写真をはじめ、 あげた。また、研究所内に評価部門を新設したが、こ ポートレートや家族写真、学校写真、観光地での記念 のことも研究者に商品設計に対する考え方の変化を促 写真にまで及び、1970 年代後半にはこの分野でもカ すきっかけを与えた。一方、研究用の測定設備も進展 ラー写真が黒白写真を上回った。 し、試作したハロゲン化銀の結晶に対するマイクロ波 こうした情勢の中、1972 年 3 月にフジフイルムは 吸収や誘電損失からハロゲン化銀中の電子電導度を測 オイルプロテクトカプラーを採用したフジカラーN 定することが可能になり、その結果からハロゲン化銀 プロフェッショナルタイプ S(短時間露光用、感度 結晶の性質とそれが写真乳剤にどう影響するかを理解 ASA100)とタイプ L(長時間露光用、感度 ASA50) していこうとしていった。分析担当部門でも、単に素 を開発した。 材の構造式を追求するだけでなく、なぜそこにそのよ 次 い で 1976 年 1 月、 一 般 用 で 開 発 し た IRG( 現 うな構造をもつ化合物が使われているのかという技術 像抑制物質放出型粒子)技術を基礎にして粒状性や 思想を推定するような分析を行うようになってきた。 シャープネスを向上させた微粒子タイプのフジカラー フーリエ変換− NMR やレーザーラマンスペクトル測 カラーネガフィルムの技術系統化調査 307 定装置といった物質の形体や分子構造を推定すること (フィルム極小部の写真特性を測定評価する技術)の が可能な各種の機器が急速に進歩し、それを研究にタ 精度向上、あるいは多年にわたる色再現基礎研究(色 イムリーに採り入れていった。 をどういう数字で表示すれば正確に表すことができる フジカラーF- Ⅱの商品化ではコダック社やコニカ かという研究)の成果から、レーザーを用いた精巧な に対して遅れをとった。これが研究のマネジメント カラーシミュレーターの開発に成功した。このカラー の進め方を反省するきっかけとなり、2 年後に世界に シミュレーターを活用することによって、実験を行わ 先駆けてフジカラーF- Ⅱ 400 を開発する大きな原動 なくても一連の商品群の開発に際して重要な指針を与 力となった。フジカラーF- Ⅱ 400 は、単に世界初の えることができるようになった。解析技術者や画像分 ASA400 の高感度カラーネガフィルムとして世界の大 析技術者も商品化プロジェクトに活発に参画するよう きな話題になっただけでなく、その中に独自の技術が になり、総合チーム力として商品化に寄与するように 盛り込まれた点でも大きな成果であった。また、世界 なった。 をリードするものをわれわれにも開発できるのだとい 引用文献 う自信を技術者に与えた。 これらの新製品を開発する際、威力となったものの 一つとして画質評価法の進歩がある。すなわち、コン ピューターの進歩普及によるミクロセンシトメトリー 308 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 1)「富士フイルム 50 年のあゆみ」 、富士写真フイル ム㈱編、221、昭和 59 年 10 月 20 日発行 9 1980 年代のカラーネガフィルムの開発 1980 年代は日本各社が独自技術を開発し始め、技 術的にも世界最高レベルに達し、カラーネガフィルム という商品としても世界のユーザーから信頼を持って 認知され出した時代である。この頃になると、写真は 日常生活のあらゆる場面に登場するようになり、ユー ザーのショット数(写真撮影コマ数)も年々増加して きた。カメラの世帯普及率も 1977 年には 80%を超え た。またカラー写真の比率は 1979 年には 85%に 1983 年には 88%に達した。このように年々拡大してきた 図 9.1 1) フジカラーHR100 と HR400(35mm 判) アマチュア写真市場も 1980 年代に入って日本経済の 伸びが低下する中で需要の拡大に鈍化の兆しが現われ 二重構造粒子というのは、約 1 ミクロンの写真乳剤 てきた。出生率や婚姻件数の低下や旅行件数の伸び悩 粒子を内殻と外殻の二重構造とした写真乳剤である。 みなど写真需要にとっては厳しいデータが予測され、 光を粒子全体で吸収して高感度を確保するとともに、 アマチュア写真市場は大きな曲がり角にさしかかりこ 外殻は光によって発生する電子を確実にとらえ、内殻 れまでの成長期から成熟期に入っていくだろうと見ら は粒子の現像をコントロールして画像の粗れを防ぐと れるようになった。このような市場変化の中で、写真 いうように、外殻と内殼の役割分担を明確にし、感度 需要拡大のために多数の新商品開発を進めた。 と粒状性を両立する技術である。 9.1 また L- カプラー(ラテックスカプラーの略)とは フジフイルムの感光材料開発 従来カプラーを高沸点オイルに分散しオイルドロプ レット化するのに対して、カプラーをラテックス化 9.1.1 フジカラーHR フィルムの開発 することで分散オイルを減らす技術である 2)。こうし フジフイルムは 1958 年に内式カプラー方式でカ て写真乳剤層中に高密度にカプラーを組み入れること ラーネガ市場に進出して以来その品質向上に努め、そ で、乳剤層の薄層化を可能にし、光の散乱を減少させ の結果カラーネガフィルムは国内市場で高いシェアを てシャープな画像を形成する技術である。 占め経営を支える最大の商品に成長した。1981 年に 一方、スーパーDIR カプラーは新タイプの現像抑 はロサンゼルスオリンピックの公式記録フィルムとし 制剤放出型(DIR)カプラーであり、従来の DIR カ て採用されるまでになった。このタイミングをとら プラーに比べ現像抑制作用の到達距離を格段に長くす え、新世代のカラーネガ フジカラーHR100、400 を開 ることに成功した。このカプラーの使用により、画像 発し、1983 年 2 月から国内外に一斉発売した。この 制御効果を低周波領域にも発現し、色彩度やシャープ フジカラーHR には二重構造粒子と L- カプラーそし ネスを大幅に向上させることが可能となった。 てスーパーDIR カプラーという新しい技術が盛り込 フ ジ カ ラ ーHR は 感 度 ISO100(ISO 感 度 表 示 は、 まれ、粒状性、鮮鋭性、色彩度を飛躍的に向上させた。 国際規格として、わが国では 1981 年 5 月から順次、 この技術の導入によりカラーネガフィルム市場におい 従来の ASA 感度に代えて表示された)の HR100 と て初めて世界のトップレベルとして肩を並べることが 感度 ISO400 の HR400 の 2 種類を発売し、次いで同 できるようになった。 年 11 月、感度 ISO200 のフジカラーHR200 を追加発 売した。 9.1.2 スーパーDIR カプラーの発明 3) 画質向上に関するカラーネガフィルムの主要な研究 は、光センサーとしてのハロゲン化銀乳剤及び色素像 形成に関与する機能性化合物の二つの項目に大別され る。DIR(Development Inhibitor Releasing) カ プ ラーはその中の機能性化合物に属するものである。こ カラーネガフィルムの技術系統化調査 309 の DIR カプラーは、前述したように 1972 年のコダカ ゲン化銀のそれ以降の現像を抑制し始めるため、図 ラーⅡで初めて導入され、画質を飛躍的に向上させ 9.4 のように境界領域にエッジを持つ点線のような色 た。 像プロファイルが出現することになる。 DIR カ プ ラ ー の 色 再 現 性 改 良 機 構 に 関 し て は 第 このように、周りを抑制することによる境界領域を 3.2.3 章で簡単に説明したが、ここでは鮮鋭性が改良 強調する作用は人間の眼でも起こり、マッハ効果、等 4) される機構を説明する 。DIR カプラーは図 9.2 のス としてよく知られている。枕草子の「春は、あけぼの。 キームのようにカラー現像主薬がカップリングすると やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちた 同時に現像抑制剤を放出する。 る雲のほそくたなびきたる」の「山ぎは」が少し明る この現像抑制剤が以下のような働きでエッジ効果を 生み出す。図 9.3 において右半分に矩形の光が照射さ この DIR カプラーによるエッジ形成の効果を詳し れたとする。光が当たった領域のハロゲン化銀が現 く解析する目的で、エッジの幅と見た目のシャープさ 像され始める。すると、この領域で均一に DIR カプ との関係についての実験が精力的に為された。その結 ラーとカラー現像主薬の酸化体がカップリングするこ 果を解析していくうちに、シャープにエッジを強調す とで色像を形成し始めると同時に現像抑制剤が放出さ るためには拡散性が小さい方が好ましいと従来は直感 れる。この現像抑制剤は拡散性を有し、膜中で高濃度 的に考えられていたが、エッジの幅があまり狭いと人 側から低濃度側への現像抑制剤の流れが起こり、現像 間の眼の解像限界を越え、プリントを見たとき鮮鋭な 抑制剤濃度は点線のような濃度プロファイルとなる。 印象を与えにくいため適度な幅が必要ではないかとい この濃度プロファイルで、今度は現像抑制剤がハロ う考えが浮かんだ。そして詳細な実験の結果、従来よ 図 9.2 図 9.3 310 く見えるのもこの現象による。 DIR カプラーの抑制剤放出機構 3) 現像時の抑制剤の拡散挙動 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 図 9.4 拡散した抑制剤によるエッジ効果の発現機構 りも逆に拡散性を大きくすることで画像のシャープさ ルは現像抑制剤の拡散性が高いことが示唆される。 がより強調されることが分かってきた。 一方、現像抑制剤が上下方向に拡散すると、他の感 色性層を抑制し色彩度を向上する重層効果が増大する ことが知られている。しかし、重層効果は単に DIR カプラーを増量するだけでは達成されない。何故な ら、抑制剤は他層を抑制するだけでなく、自層も抑制 してしまうからである。そして、抑制を補おうと多量 のハロゲン化銀を使うと、乳剤層が厚くなり、光の散 乱を増加し鮮鋭性を損なってしまう。 そこで、どういうタイプの抑制剤が重層効果発現に 好ましいのか、2 種の典型的な現像抑制剤について拡 散性を調べた。図 9.5 に示すように、他層への現像抑 制剤の拡散性を調べる実験を行った。上層には感度を 持たないハロゲン化銀を配置し、現像抑制剤の吸着物 図 9.6 2 種の抑制剤の拡散性比較テスト 3) 質として使用する。下層には増感したハロゲン化銀と カプラーを配置した。露光後、ある一定濃度の現像抑 そこで、拡散性を表す尺度として 制剤を有する処理液にフィルムを浸漬し、その後、現 Df ={(D0 − D0.7)/D0}× 10 像して発色度を測ることで、現像抑制剤がどれだけ上 D0:現像抑制剤無添加 層のハロゲン化銀を通過し下層に到達出来るのかを調 D0.7:上層のハロゲン化銀量(A)= 0.7g/m2 べるテストである。 次に上層にハロゲン化銀を含まない(A = 0)試料 をとり を用いて、現像抑制能を表す尺度として In ={(D0 − D)/ D0}× 100 をとる。 置換基 X、Y を変更した種々の現像抑制剤につい て、In に対する Df をプロットし、結果を図 9.7 に示 した。 図 9.5 抑制剤の拡散度測定のためのモデル実験 3) その結果を図 9.6 に示す。上の曲線(△印)は現像 抑制剤がメルカプトテトラゾールの場合であり、上層 のハロゲン化銀量(A)を 0.7g/m2 以上増加すると、 D/D0 が 1 に近くなり、下層をほとんど抑制出来なく 図 9.7 二種の抑制剤の拡散度と抑制度比較 3) なるのに対して、下の曲線(○印)の 5 ブロモベンゾ トリアゾールの場合はハロゲン化銀量(A)を 6g/m2 図 9.7 より、置換基により抑制度を様々に変化させ 近くまで増加しても、D/D0 が 0.5 に近く、上層のハ ても、○印のベンゾトリアゾール類が従来から使用の ロゲン化銀層を通過して下層の乳剤を充分抑制出来て △印のメルカプトテトラゾール類よりも他層への拡散 いることが分かる。即ち、5 ブロモベンゾトリアゾー 性が本質的に高いことが分かり、この化合物を現像抑 カラーネガフィルムの技術系統化調査 311 制基の基本骨格として採用した 5)。 こうして開発されたスーパーDIR カプラーを用い ところが、現像抑制剤の拡散性を大きくすると、一 たフィルムのエッジ効果と色彩度について、図 9.10 部が現像液中に溶出・蓄積し、大量にフィルムを処理 及び図 9.11 に示す。図 9.10 の左側(スーパーDIR カ すると、全体の現像が抑制される問題が発生した(図 プラー)は右側(従来型 DIR カプラー)に対してエッ 9.8)。実用的には致命的な問題であり、拡散性の向上 ジ効果がよく効いていることが分かる。また、図 9.11 とは原理的に相反する。 では、点線のスーパーDIR カプラーを入れた 160S の 方が一点鎖線の従来型 DIR カプラーを入れた 100S よ り色再現領域が拡大していることも分かる。 図 9.8 大量処理後の写真性の変化 3) 図 9.10 新旧 DIR カプラーによるエッジ効果比較 3) 図 9.11 新旧 DIR カプラーによる色再現領域比較 3) 上記の問題を一挙に解決したのが、加水分解型 DIR カプラーであり、現像液に流出した現像抑制剤を現像 液中で失活させるという新たな概念のもとに分子設計 された。その反応機構を図 9.9 に示す 5)。現像処理時 に、加水分解型 DIR カプラーから離脱した現像抑制 剤(上段)は、フィルム膜中で抑制作用を発揮するが 一部は現像液に流出する。現像液に流出した抑制剤は 現像後ゆるやかな速度でエステル結合の部分が加水分 解されカルボン酸となる(下段) 。カルボン酸になる と現像抑制作用は非常に小さい。 ただ加水分解反応が速すぎると現像時間中にも加水 分解が始まり目的とするエッジ効果や重層効果が減少 し、加水分解反応が遅すぎると処理液汚染の問題が生 じる。そこでエステルの置換基 R の最適選択を行った。 図 9.9 312 国立科学博物館技術の系統化調査報告 加水分解型抑制剤の作用機構 2) Vol.17 2012.August スーパーDIR カプラーとは、現像抑制剤の基本骨 9.1.4 A- カプラー(Image Amplifier Releasing Coupler)の発明 7) 格にベンゾトリアゾールを用い、置換基にエステル基 を導入して水溶性を増加することで拡散性を増すと共 カラー現像は、潜像を形成したハロゲン化銀のみを に、現像液中では流出した抑制剤をゆるやかに加水分 選択的に還元し色像へと変換する増幅プロセスであ 解し抑制能の無い物質に失活させる DIR カプラーの り、その増幅率は 109 程度にもなる。カラーネガフィ ことである。 ルムの感度はこの色像変換効率によっても支配される こ の ス ー パ ーDIR カ プ ラ ー は カ ラ ー ネ ガ フ ィ ル ため、高感度化を実現するためには、ハロゲン化銀粒 ム HR100、400 に導入され、抜群の鮮鋭性と色再現 子の光感度を高める課題と共に、この色像変換効率の 性を実現した。そして、この素材は HG シリーズや 向上も重要な課題である。 REALA 等にも引き続き使用されていくことになる。 (第 12.7 章にスーパーDIR カプラー発明の経緯につい て記載する) 色像変換効率を向上させるために、色像形成反応中 の副反応を抑制する色素変換効率向上の試みやカラー 現像主薬酸化体(QDI:キノンジイミン)の失活を抑 えるための色素形成速度増加の試み、等がなされてき 9.1.3 フジカラーHR1600 の開発 た。しかし、更に検討を進めることで、色像変換効率 「ロウソク 1 本の光でカラー写真がバッチリ」と報 に影響する重要な因子が新たに見出されてきた。それ 道された、その時点で世界最高感度を持つカラーフィ は、生成した QDI が周辺のハロゲン化銀の潜像を酸 ルム フジカラーHR1600 が 1984 年に発売された。こ 化漂白したり、高感度化のためのハロゲン化銀粒子サ のフジカラーHR1600 はその前年の 1983 年に発売し イズやヨードイオン含量の増大に伴って極端に現像速 たフジカラーHR シリーズを生み出した技術に、さら 度が低下し QDI の発生そのものが減少する、という に発展させた新しい技術を加えて完成した。 問題である。 その一つは新型二重構造粒子(Advanced Double このような、カラー現像過程の非効率を補償するこ Structure Grains)の開発である。この技術の開発に とを目的とした機能性カプラーとして A- カプラーが よって、光の吸収効率を向上させる技術と高感度化に 開発された。図 9.12 に示すように、A- カプラーは露 必要な電子トラップと正孔処理機能をハロゲン銀粒子 光部に生成した QDI とのカップリング反応に続いて、 内部に正確に組み込ませることができるようになり、 現像を著しく促進する Amplifier を放出して QDI に 従来の感度限界を越えることができた(発明の経緯に よる潜像の酸化漂白を相殺する機能を発現する。 ついては第 12.8 章を参照)。また精密に粒子サイズ をコントロールした微粒子ハロゲン化銀を用いた光反 射層を導入し感光層を通過した光を再活用することで 高感度化を図った。 もう一つの新技術は、A- カプラー(Image Amplifier Releasing Coupler)の開発である。この A- カプラー の開発によって、カラー現像時におけるハロゲン化銀 の感光核の失活を抑制し、感光した写真乳剤粒子を効 率よく色素像に変換させることを可能にした。 図 9.12 A- カプラーの Amplifier 放出機構 7) A- カプラーの酸化漂白防止についての作用模式図 この製品の誕生によって、その場にあるわずかな光 を図 9.13 に示す。左側の普通のカラーフィルムの場 だけでその場の雰囲気を生かした自然な写真が撮れる 合、感光したハロゲン化銀が QDI のために酸化され ようになったし、スポーツなどの動きの速い被写体を 色素像の数が減少するのに対して、右側の A- カプ 高速シャッターで瞬間的にとらえる写真、あるいは被 ラーを用いたフィルムは酸化が防止され感光したハロ 写界深度(被写体の前後のピントの合う範囲)の深い ゲン化銀が色素像にきちんと変換されていることが分 写真が撮れるなど、写真の撮影範囲を大きく広げるこ かる。 とができるようになった。 カラーネガフィルムの技術系統化調査 313 9.1.5 コンパクトカメラの高機能化とフジカラー スーパーHG400 の開発 8) 35mm コンパクトカメラは 1960 年代から自動露出、 ストロボ内蔵、自動焦点、日付写し込み、自動装填・ 巻上げ・巻戻し、ズーム化と多機能化が大きく進展し ていくが、この進展と共にフィルムへの高感度化要求 も増していった。例えば、カメラを高ズーム化して、 かつ小型化を保つためにはレンズの絞りを狭くせざる を得ず撮影時の光量不足が加速していった。当時は 感度 ISO100 のカラーネガフィルムが 8 割近く用いら れていたが ISO100 カラーネガの一般ユーザーのプリ ント 2,000 枚を無作為に抽出し調査した結果、失敗率 が 20%にも達し、そのうち約 12%がピント不良、約 7%がブレであった。そこで ISO100 と ISO400 のフィ ルムを用いて同一被写体の 250 ショットの撮影結果 を比較したところ、ISO100 フィルムでは失敗率が約 図 9.13 A-カプラーの Amplifier による酸化漂白防止機構 7) 16%に対して ISO400 フィルムでは 8%を下回る結果 となった。これは、感度の上昇によりレンズを絞り込 Amplifier の拡散性のコントロールについては、単 むことで被写界深度を広げピンボケを抑制し、シャッ に長鎖アルキル基の導入などだけでは不十分であり、 タースピードを速くすることで手ブレや被写体の動き ヘテロ環メルカプト誘導体やアゾール類等のハロゲン によるブレを低減したことによると考えられる。 化銀粒子への強力な吸着基の導入が必須であった。こ しかし一方では、ISO400 のフィルムは粒状性、鮮 れにより、Amplifier が放出された近傍のハロゲン化 鋭性及び色再現の点で満足されていなかった。そこ 銀のみに増幅作用を発現させることが始めて可能と でシグマクリスタル技術や新規 DIRR カプラー等の技 なった(図 9.14 参照) 。 術を開発し、それらを搭載することで ISO400 カラー フィルムの常用化画質を達成した。 シグマクリスタル粒子は、もともとヨウ化銀含有率 の高いコアとヨウ化銀含有率の低いシェルからなる二 重構造を有する。この内部構造をさらに強化し、入射 光より生じた電子を効率的に表面潜像形成に導くと共 に正孔との再結合を抑制する。また、現像過程では内 部高ヨード層が現像を自己抑制し色素雲の広がり過ぎ を防止する。さらに、乳剤粒子表面を改質し、増感色 素の吸着を増強すると共に、感光核を集中化して潜像 分散を防ぎ、捕獲した光の利用効率を高めた。光吸収 と潜像形成効率の飛躍的向上により、感度を維持し 図 9.14 A-カプラーAmplifier の拡散性のコントロール 7) たままでハロゲン化銀粒子の体積を約 1/3 まで低減し た。また、発色用素材の改良により膜厚を低減し、光 A- カプラーは QDI とのカップリング反応で Amplifier 散乱を減らすことで鮮鋭性も向上させた。旧タイプと を放出するが、通常のレドックス母核に Amplifier を 新タイプについて、フィルム断面の電子顕微鏡写真を 結合することで、酸化とそれに続く求核付加脱離反応 図 9.15 に示すが、HG400(右図)は旧 400(左図)に で Amplifier を放出する化合物となることから、イン 対してハロゲン化銀の微粒子化と膜厚の低下が如実に スタントカラーフィルム等、他方面への展開もなされ 表れている。 た。 314 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 図 9.15 旧 400 と新 400 のフィルム断面写真比較 8) DIRR カ プ ラ ー と は 現 像 抑 制 剤 リ リ ー サ ー 放 出 9.1.6 映画用カラーネガフィルムの開発 (Development Inhibitor Releaser Releasing) カ プ フジカラーネガティブフィルム A は、1977 年発売 ラーの略である。従来の DIR カプラーが一段階の反 以来、内外の映画製作に広く採用されてきたが、映画 応で現像抑制剤が放出されるのに対して、DIRR カプ 用カラーネガフィルムも一般写真用フィルムと同様に ラーはまず一段階の反応でプレカーサーが放出され拡 高感度フィルムを求める声が一層強まってきた。1958 散した後、抑制したい層で現像主薬の酸化体と反応し 年に日本で初めて劇映画にカラーネガフィルムが使 て初めて現像抑制剤を放出する。この機構により離れ 用されたときは露光指数 25 の低い感度であったが、 た層への層間効果を効率よく効かすことが可能となっ 1980 年 9 月に世界に先駆けて高感度フジカラーネガ た。図 9.16 に赤感光層で放出されたプレカーサーが ティブフィルム A250(露光指数 250)を発売した。 青感光層で抑制剤として作用する機構を示す。また 高拡大率を必要とする映画用フィルムの高感度品の開 スーパーDIR カプラーと同様に現像抑制剤が現像タ 発には多くの困難を伴ったが、新型カプラーをはじめ ンクのなかで失活するように設計されており低補充タ とする新素材や新技術を導入して高感度化を実現し イプの現像処理においても現像液を疲労させることが た。また、粒状性・シャープネスも十分実用可能な性 少ない。 能を有した。A250 は世界中どこでも現像できるワー ルドタイプであり、またさらに感度を優先する場合は 増感現像により超高感度フィルムとしても使用できる などの特長をもった。 高感度フィルムの活用によって、その場の明るさを そのまま利用して撮影することが可能になり、周りの 人などに気付かれずドキュメンタリータッチでリアル な映像が得られる。また、セット撮影でもレンズの絞 り込みによるシャープな画像描写が可能で、動きの激 しいアクション撮影も容易になるなど、映像表現の拡 大に繋がる大きな効果があった。 図 9.16 新規 DIRR カプラーの抑制剤放出機構 9) 1982 年 3 月にはビバリーヒルトンホテルにおいて、 1981 年度米国アカデミー賞の科学技術部門の授与式 これらの技術により高画質化を達成することで、 が行われ、フジカラーネガティブフィルム A250 はア ISO400 感度カラーネガフィルムの常用化に拍車がか カデミー科学技術賞としてオスカー像が授与されてい かると共に、「写ルンです Hi」にも使用されることで る。さらに、1982 年 9 月には米国テレビ芸術科学ア レンズ付きフィルムの普及が促進されていくことに カデミーからエミー賞(技術賞)を受賞している。 なった。 1983 年 4 月には、無公害の過硫酸塩漂白処理適性 をもたせたフジカラーネガティブフィルム A(タイ プ 8511)と高感度ネガ AX(タイプ 8512)を発売し カラーネガフィルムの技術系統化調査 315 た。高感度ネガ AX は感度を露光指数 320 にアップ させ、撮影領域と映像表現の拡大に威力を発揮した。 9.1.7 世界初の第 4 の感色層を導入したフジカ ラーREALA の開発 10) 1980 年代後半になると、カラーネガフィルムの画 質も向上し、感度 100 フィルムの粒状性や鮮鋭性、ま た色の彩度もかなりの人が満足するレベルに近づいて きた。一方、色彩度の向上と相対して、色変わりとい う問題が新たに浮上してきた。これは、紫色の服地が 赤っぽく変化したり、花の色が実物と異なったり、蛍 光灯下の風景が緑っぽくなったりする現象である。ネ 図 9.18 錐体物質の差吸収スペクトル(霊長類)11) ガ / ポジ法では、カラーネガフィルムからカラー印画 紙へプリントする時に色のバランスを調節すること ところで、図 9.18 のように人間の眼の 3 つのスペ で、着目する被写体の色の調節は可能である。しか クトルは何故、波長の重なりが大きいのであろうか。 し、その被写体に人物が写っているとその人物の顔も 例えば、赤、緑、青の感度の重なりが全くないブロッ 同時に補正され、不満足な肌色に変化してしまうとい ク型感度を持つフィルムを仮定する(図 9.19)。次に、 う問題が生じる。一方、カラーネガフィルムの彩度を そのフィルムに 450nm から 650nm までの単色光を露 落とせば、プリント時の被写体の色変わりは目立ちに 光し、現像して得られたプリント色の主波長を縦軸 くくなるが鮮やかな風景全体が色褪せてしまう。そこ に、露光した単色光の波長を横軸にとったグラフを でプリントの彩度は保ったまま色の忠実性も向上した 図 9.20 に示す。理想的には、各波長で露光した単色 カラーネガフィルムを開発しようという検討が開始さ 光と同じ色再現を示すためには傾き 1 の直線をもつ必 れた。 要がある。しかし、ブロック型感度の場合、例えば 人間の眼には図 9.17 に示すように、網膜上に色彩 500nm から 600nm の範囲でみると緑感光層しか感度 を感じ取る錐体という視細胞が並び、赤、緑、紫の 3 を持たないため、この波長範囲では同一色相の緑の色 つの視細胞からなることが知られている。また、図 再現しか示さなくなる。即ち、少しずつ違った緑色の 9.18 には 3 つの視細胞の差吸収スペクトルについて示 単色光に対して、一色の緑色でしか再現されないこと した。 になる。このことから分かるように、3 つの視細胞の 感度の重なりがあることによって始めて、微妙な色の 違いを認識出来るのである。 図 9.19 図 9.17 316 人間の眼の網膜上の視細胞配列 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 仮定したブロック型感度カラーネガフィルム 10) を補償するための色彩度増幅を現実的には達成出来な い。また、カラーネガフィルムは層設計上、上から青、 緑、赤の感光層として重層に塗布されているため、分 光感度を重ねることが原理的に難しい。例えば図 9.22 に示すように、緑の感度を長波側に伸ばすと、長波化 した領域の入射光は緑感光層で吸収され、赤感光層で は感度が逆に低下するという、分光感度の重なりが意 図したように増加しない現象が起こる。 図 9.20 ブロック型感度フィルムの色忠実性 10) 一方、人間の視細胞が光信号を受けてから脳に信号 を伝達するまでの間に様々な信号処理を行っているこ とも知られている。その一つが側抑制と呼ばれる機構 であり、モデル図を図 9.21 に示す。 緑光がこの 3 つの視細胞に降り注いできたとする と、分光感度に重なりのある赤、緑、紫の 3 つの視細 胞が光を感知するが、信号伝達過程においてこの視細 胞から隣の視細胞に抑制物質を光信号量に比例して出 図 9.22 緑感光層長波化に伴う赤感光層の波長変化 す。緑の光信号量が多く抑制物質も多く出すため、隣 の赤や紫の視細胞からの信号量をより抑えることで、 ところで、白色用紙上の左側の部分に様々な波長の 緑色が強調されて脳に伝わることになる。このよう 単色光を当て、右側の部分にある決まった波長の青、 に、人間の眼は分光感度の重なりで微妙な色の違いを 緑、赤の光をミックスして当てることで、どのような 捉え、一方で信号伝達過程において側抑制という作用 光量の組み合わせにすれば左側の入射光と同じ色が右 を用いて色彩度の強調を行っている。 側で再現出来るかという人間の眼の等色関数を求める 実験が為されている 12)。ところが、青を 435.8nm、緑 を 546.1nm、赤を 700nm という波長の単色光を用い て実験を行ったところ、どうしても同じ色が再現出来 ない波長域があることが分かった。光には、同じ色相 に見える色同士に別の同じ色を同量加えても、両者は 同じ色に見えるという加法定理がある。そこで、左側 にどうしても 3 色の光で再現出来ない 500nm 付近の 単色光を当て、さらに赤光を加え、右側を青光と緑光 を組み合わせた光で調節すると、左右が見た目で同じ 色を再現出来るようになるという結果が得られた。式 で表すと 単色光(実験光)+赤光=青光+緑光 となる。ここで、赤光を右辺に移項すると 単色光(実験光)=青光+緑光−赤光 図 9.21 側抑制による色彩度の強調 11) となる。 色像にブロック色素を用いたと仮定して、上記の ような実験から得られた人間の眼の等色関数を図 9.23 それでは、色忠実性を向上させるためにカラーネガ に示す。負の値は上述の式から得られた結果である。 フィルムにおいても、3 つの赤、青、緑の分光感度を 単純に重ねればいいということになるが、これを行う と現実には色彩度の極端な低下を伴う。そして、これ カラーネガフィルムの技術系統化調査 317 図 9.23 ブロック色素を用いた場合の人間の眼の等色関 数 10) 図 9.25 従来フィルム(HR100)の色忠実性 10) そこで、カラーネガフィルムでもこの等色関数に近 い、色忠実性に優れた分光感度を再現しようという試 みを行った。カラーネガフィルムには DIR カプラー という他層の現像を抑制出来る化合物が用いられてい る。しかし、緑感光層からそのまま単純に赤感光層に 抑制をかけると、抑制をかけたい負の領域の 480nm か ら 550nm ば か り で な く、550nm か ら 600nm の 長 波側にも赤感光層への強い抑制がかかってしまい、上 記のような等色関数に近い分光感度が得られない。 色々な実験を繰り返したが、結局有効な手段は得られ 図 9.26 第 4 の感色層を導入したフィルムの色忠実性 10) なかった。これは元々光の情報を記録する際に、短波 側の緑と長波側の緑をうまく分離して捉えずに抑制を この技術を世界で初めて搭載したカラーネガフィル かけていることが原因である。そこで、図 9.24 に示 ムとして、1989 年にフジカラーREALA フィルムを す CL 層という新たな第 4 の感色層を導入し、この層 発売した。例えば、いけばな展におけるクレマチスの から赤感光層へ抑制を強くかけることで、人間の眼に 花の色や、ファッションショーの服の微妙な色の違い よくマッチした、忠実な色再現性を確立することが出 が見事に再現され、特に色再現に厳しいアドアマ層か 来るようになった。 ら絶賛され使用された。この技術は、負の分光感度を 持つということで、始めはなかなか多くの人に理解さ れなかったが、色の忠実性を何とか改良したいという 研究者の執念と、地道に色再現性の基礎研究を追求し てきた色再現理論の応用と、コンピューターを用い た論理展開とシミュレーションの活用により、見事に 開花した日本発の革新技術として、徐々にその性能の 高さが浸透し、世界の写真材料分野で大きく賞賛され た。 図 9.24 第4の感色層の分光感度波長 10) 9.1.8 レンズ付きフィルム「写ルンです」の開発 13) 「写ルンです」は、カメラではなくレンズの付いた 318 色再現の改良効果を下図に示す。図 9.25 はこれま カラーネガフィルムとして 1986 年にフジフイルムか でのカラーネガフィルムであり、階段状の色再現性不 ら発売された。しかし、この構想は過去に何度かプロ 良部分が残るが、図 9.26 の第 4 の感色層を導入した ジェクトとして検討され、お蔵入りになっていた。以 新しいカラーネガフィルムでは従来フィルムに比べて 前に検討が為された時は、プリントの画質をある程 各波長に対して顕著な色忠実度の改良効果が分かる。 度維持するために、専用のカメラボックスと新しい 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August サイズのカラーフィルムを使うことを前提として検 これで本当に 写るかナ といった疑問が出た。これ 討されたため、専用フィルムを作ると加工する費用が に対する担当者の どうしてもアップするし、またカラーフィルムの現像 ままネーミングに採用し、遊び心を入れるという視点 所でも新しい処理ラインを作る必要が生じ、いくらカ から、 写るんです の るん をルンルン気分の ル メラの回収率を上げる等の手段を考えても、とても手 ン 写るんですヨ という回答をその に変えて「写ルンです」とネーミングした。 頃な値段での写真撮影システムを作るというコンセプ 発表、発売するや、国内、海外のメディアに大きく トに対する壁を打ち破ることが出来なかった。ところ 取り上げられ、その発想と使い捨て時代という世相に が、1972 年にコダックが市場導入したポケットカメ もマッチし、当初計画の年間 100 万本を大きく上回 ラシステム、110 サイズフィルムの伸びに陰りがみえ り、翌年までに 300 万本販売されるというヒット商品 てきたことから、この拡販策を検討する一環としてレ となった。 ンズ付フィルムの構想が再度浮かび上がった。それま 発売と同時にアンケート用紙を添付し、いち早く では、写真の画質を考慮し、あまり小画面化すること ユーザーの不満点をフィードバックしたところ、一番 は念頭になかったが、110 フィルム(35mm フィルム 大きな不満点は暗い曇天の日や日中でも室内などで の 1/4 の画面サイズ)を使うことを前提として検討し は、あまり写りが良くないという内容であった。そこ たため、新サイズのフィルムを開発する手間も、現像 で、1986 年の 6 月に発売を開始したが、8 月には次の 所での新しいラインの追加も必要なくなり、それまで 改良に着手を始めた。 の検討での問題点を一挙に越えることが出来た。さら 既にインフラの整っているフィルムの使用を前提と に、110 フィルムは元々カートリッジ自体が遮光され し、35mm サイズのカラーネガフィルムを次世代に採 ているため、カメラボックスからの光漏れを容易に 用することとした。またフィルム感度を 100 から 400 防止することが出来た。一方、カラーネガフィルムは に向上することで、暗い場所での写りが改良される 1983 年発売の HR フィルムで大幅な高画質化が達成 と共に、35mm サイズにサイズアップすることでプリ され、感度 100 を持つ HR100 を用いれば、110 フィ ント画質も改良されることが分かった。また、フジフ ルムの画質も一般ユーザーに許容されるレベルである イルム製のコンパクトカメラで逆装填法という、一旦 ことが分かっていた。さらに、スーパーHR100 とい パトローネからフィルムを全て巻きだしておいて、撮 う新たな商品の開発が進んでおり、さらに品質のレベ 影が済むとパトローネに巻き戻していく方式の実績が ルアップが図れるという見通しもあった。 あったため、レンズ付フィルムに逆装填してフィルム 問題は如何に安価にこのカメラ部分を作ることが出 を入れ、撮り終わったらそのままパトローネを現像所 来るかにかかっていた。その頃、レンズは単玉レンズ に出すだけで良いという、カメラ店でも非常に簡単に でもガラスが使用され、それを磨いてさらに表面に紫 処理できるシステムが構築できた。また、このシステ 外線防止コート層をつけることが必要であった。とこ ムを採用したレンズ付フィルムを基本特許として権利 ろが、プラスチックレンズを用いると、元々の素材が 化することで、世界中に強い特許群を形成出来た。こ 紫外線をカットするし、素材コストも非常に安価にな うして、撮影領域の拡大とプリント画質の改良を実現 る。ただ、表面をレンズとして使用するだけの滑らか した「写ルンです Hi」を翌年の 1987 年には発売する に仕上げる技術がなかったため、その技術を持つメー に至った。 カーを求めて全国を探し回った。そして、単玉のレン レンズ付フィルムは、更にストロボ装着などの高 ズの形状は自社で設計し、表面加工の出来る会社でそ 機能化へと進化していくが、その後も販売数が増加 のレンズを成形することで一気にコストダウンを図っ し 35mm ロールフィルムの 15%以上のシェアーを占 た。ファインダーもレンズを使用しない素抜けのタイ めた。年間数千万台以上もの販売数というメリットを プにしたが、却って明るく見易いファインダーと好評 活かして、ストロボユニットのコストダウンも可能と であった。レンズを F11 とすることで、1m から∞ま した。その後、望遠や防水機能のついたレンズ付フィ で被写界深度が得られるように設計し、シャッタース ルムなどの多様化も加わり、写真産業の確固たる分 ピードも手振れ防止の観点から 1/100 秒固定とし、単 野として発展していくことになった。また、カラーネ 純な蹴飛ばしシャッターに徹した。 ガフィルムへの独自の高感度化要請も高まり、レンズ 軽くて小さなカメラボックスができ、ユーザーは 付フィルム専用の ISO800、1600 カラーネガフィルム フィルムを巻き上げて、被写体に向けてシャッターボ という超高感度感材の開発へと波及していくことにも タンを押すだけで良い。この試作品を見せたところ、 なった。 カラーネガフィルムの技術系統化調査 319 「写ルンです」はピーク時にはロールカラーフィル ムの販売数量の 20%近くまで増加し(図 9.27 参照)、 9.2 小西六(コニカ)の感光材料開発 販売金額もロールカラーフィルムの売り上げに迫る程 に成長したが、この開発に特に革新的な新規技術が コダックが 1982 年にディスクシステムを発表し、 あった訳ではない。しかし、これには、将来への鋭い 性能を向上した VR フィルムシリーズを市場導入して 洞察力や時代感覚等の下記に述べる成功要因があっ 以降、小西六も新製品の市場導入が相次いだ。1983 た。 年から 1985 年にかけては、ハロゲン化銀にキュー ①単純化:110 フィルムの振興策から検討がスタート ビ ッ ク ク リ ス タ ル 技 術 を 用 い た サ ク ラ カ ラ ーDisc することで、画面サイズが固定された。これが画面 フ ィ ル ム と SR シ リ ー ズ(SR100、200、400、1600) サイズ選択に対する迷いや不要な可能性の検討を排 の市場導入が行われた。また、1987 年には社名が小 除した。また、カラーネガフィルムの性能も向上 西六からコニカに変更され、1987 年から 1989 年に し、110 サイズでもユーザーが受け入れられる画質 かけては、コニカカラーGX100、400、3200、GX Ⅱ レベルになっていた。 100、GX200 プロフェッショナルと GX シリーズの市 ②時代先取:一回だけの使い切り商品が使い捨ての時 場導入が推進された。さらに、感度で分類しても一般 代にマッチし、ユーザーに好意的に受け入れられ ユーザーにはフィルムの使い方が分かりにくいとい た。そして、その使い易さはやがて世界中に広まっ う声から、1988 年には GX100M「ママ撮って」、1989 ていった。 年には GX400「ズームしま専科」という、ユーザー ③簡単性:最初に徹底的に写す機能一本に絞ることで への使い方を訴求した用途提案型名称のカラーネガ 簡単化を追求した。撮影者は勿論、カメラ店も分解 フィルムが発売された。そして、これらの中にはハロ してパトローネを取り出すだけでよく、現像所も今 ゲン化銀粒子形成技術、高速高発色カプラー、タイミ までのラインに通すだけでよかった。 ング DIR カプラー等の様々な新規技術が盛り込まれ ④発 展 性: 感 度 100 か ら 400 へ、110 サ イ ズ か ら ていった。特徴的な商品を以下に解説する。 35mm サイズに移行することで、すぐに改良タイプ による撮影領域拡大と画質の向上を可能とした。さ 9.2.1 GX100 の開発(1987 年)15) らに、巻き取り方法の問題も逆装填法という実績が カラーネガ・ポジシステムの発展過程に於いて、カ 既にあり、無用の心配や不毛な議論を不要とした。 ラーフィルムが有する高情報容量を携帯の簡便さ等に ⑤実行力:プラスチックレンズの導入等、良かれと 還元する試みがイーストマンコダック社によって行 思ったことは直ぐに実行に移し、取り入れていっ われ、1982 年にディスクシステムとして商品化され た。そのため、非常に迅速な開発・改良を実現し、 た。これはカメラの小型化、簡便性からみれば画期 この文化が多様な商品開発に波及していった。 的な商品であったが、画面サイズが 35mm の 1/10 に なった為プリント品質の劣化、特に鮮鋭性の劣化が大 きく、ユーザーの要求する画質レベルが年々向上して いる中で市場から受け入れられなかった。このような 状況下、世界最高の鮮鋭性を有するカラー感材として GX100 を開発した。この高鮮鋭性を達成するために 以下の 3 種の技術を導入した。 ①タイミング DIR 化合物 1972 年にイーストマンコダック社が DIR カプラー を実用化し粒状性・鮮鋭性(エッジ効果)が大幅に改 良された。これはカプラーの活性点に現像抑制剤が直 接置換された化合物であるが、高画質化への要求が高 図 9.27 レンズ付フィルムの国内出荷本数推移 14) まる中、非常に大きなエッジ効果を発現するタイミン グ DIR カプラーがコダック社より提案された。これ は分子内求核置換反応により現像抑制剤を遠距離にて 放出するものであるが、コニカは図 9.28 に示すよう に分子内電子移動反応により同等以上の効果を発揮す 320 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 図 9.28 コダック型(上段)とコニカ型(下段)のタイミング DIR カプラー抑制剤放出機構の違い 16) るタイミング DIR 化合物を開発した。 部の境界領域に浅いエレクトロントラップが多数存在 ②感光層薄膜化に適したカプラー することが判明した。光で発生した電子と正孔が再結 感材の鮮鋭性は上層の膜厚が厚くなるほど劣化する 合すると減感してしまうため、再結合過程を減らす ことは良く知られており、薄膜化を目的にカプラーと ことが高感度化に繋がるとして、この結果に基づいた その溶剤の容量に着目しカプラーの開発を行った。カ 新たな仮説を立てて最適な乳剤設計を試みた。この結 プラーの役割は定められた条件下で必要な濃度を持つ 果、単純なコアシェル構造ではなく中間に適当な沃化 色素を生成することであるが、体積(カプラーと溶剤) 銀含有層を設けることにより、増感色素吸着による光 と発色濃度の関係を調べ、最小の体積で最大濃度を示 伝導シグナルの減少が少なく、それに対応して写真 す新規の黄色カプラーを見出した。このカプラーの選 感度の上昇が見られ、この乳剤を Multitr Structure 択により、約 20%の薄膜化が達成できた。 Crystal(MSC)と名付けた。この MSC は 0.3〜2μm ③光散乱を減少させたハロゲン化銀粒子 の微結晶の中にハロゲン組成の異なる層が 3 層以上存 ハロゲン化銀は屈折率がバインダーであるゼラチン 在しており、結晶成長過程は数 nm 程度の精度で制御 と大きく異なるため、光を散乱する性質があり、鮮鋭 が必要であり、ハロゲン化銀の晶析反応の精密な制御 性に悪影響を及ぼす。特に可視光領域では 0.3〜0.6μm が不可欠であった。また、高度の単分散性が MSC に の粒子が最も大きな散乱を示す。従来の ISO100 のカ は必須となったが、生産技術を含めて新規のハロゲン ラーネガフィルムはこの範囲の粒子径が使用されてい 化銀生成技術を開発し大量生産を可能とした。このよ たが、後述する MSC 粒子を用いることによりこの範 うにして得られた MSC は従来のハロゲン化銀と異な 囲の粒子径を避けて設計が可能となった。 り粒径が 1μm 以上となっても感度上昇が鈍化するこ となく、また、小粒径においても同粒径で約 1.5 倍感 9.2.2 15) GX3200 の開発(1987 年) 度が高い事が分かった。この結果、MSC により世界 ISO1000 以上の高感度カラーネガフィルムには光吸 最高感度を有する GX3200 を開発する事ができた。な 収過程・潜像形成過程・現像過程の各プロセスに対し お、この感材は副次的に低照度不軌が改善され、低照 機能するようなハロゲン化銀結晶技術、層構成技術、 度露光を行う天体写真において、より効果を発揮する 素材技術の新規技術が導入された。コニカはハロゲン ものとなった。 化銀を更に改良する事により世界最高感度を有する ISO3200 を達成する事ができた。 ①多重構造 AgX 結晶(Multi Structure Crystal) 9.2.3 GX200 プロフェッショナルの開発(1988 年)17) コニカが採用したコア部高沃化銀コアシェル乳剤を 感度が ISO100 と 400 の間にある感材というのでは マイクロ波光伝導シグナルにて光電子の寿命ならびに なく、 「ポートレート等の人物撮影を用途とする」と 数を正確に解析した所、コア部またはコア部とシェル いう明確な感材コンセプトのもと、色鮮やかでメリハ カラーネガフィルムの技術系統化調査 321 リの効いた質感描写力が優れると同時に、階調描写力 4)「Development-Inhibitor-Releasing(DIR) の豊かなカラー感材を開発する事を目標とした。この Couplers in Color Photograpy」、C. R. Barr, J. R. ため階調描写力を高めると同時に ISO100 同等の画質 Thirtle, P. W. Vittum, Photogr. Sci. Eng., 13, 74, を維持するという相反する技術課題を達成するために 214(1969) 画像設計シミュレーションを駆使し、技術検討内容を 5)「Pursuing Better Color Reproduction Quality(Ⅱ) 明らかにした。具体的には以下の技術を精力的に検討 (Molecular Design of the Novel DIR Coupler) 」 、 し、初期の目的を達成した。 坂上恵、安達慶一、市嶋靖司、小林英俊、日本写 ①多重構造 AgX 結晶(Multi Structure Crystal) 真学会年次大会、A-23(昭和 60 年) 前述の通り多重構造を持つハロゲン化銀結晶を形成 する技術であり、光により結晶内部に発生した光電子 を感光核に効率よく捕捉できるため高い感度を有する。 6)「カラー写真画像の形成方法」、横田幸夫、青野俊 明、広瀬武司、特公昭 59. 43736(昭和 59 年) 7)「カラー写真感光材料用高機能ケミカルス」、新井 厚明 ら、シーエムシー出版、175(2002) ②高速高発色性カプラー GX100 と同様に最小の体積で最大濃度を示す黄色 8)「常用カラーネガフィルムスーパーHG400 その設 カプラーを使用することで、青感性層の膜厚を低減 計思想と技術」、芝原嘉彦、井駒秀人、池上真平、 し、鮮鋭性を向上した。 フジフイルム研究報告、36、1(1991) ③インターイメージコントロール技術(IIE) 9)「ハロゲン化銀写真材料調製技術の最近の進歩」、 IIE に関する主な感材構成因子、例えば高反応性タ 宮坂信章、日本写真学会誌、54、156(1991) イミング DIR 化合物の反応性、現像抑制基の抑制性、 10)「フジカラーリアラの色再現」、佐々木登、高橋公 拡散性、AgX の現像性・被現像抑制性、発色カプラー の反応性、ゼラチン塗膜の諸物性等を一つ一つコント ロールし、且つ相互の因子を精密に制御して、最適の 治、井駒秀人、日本写真学会誌、52、41(1989) 11)「感覚の生理学」生命科学シリーズ、高木雅行、 裳華房(1989) 12)「色再現光学の基礎 層間効果を達成した。 ④高反応性タイミング DIR 化合物 高反応性カプラー母核を有し、タイミング反応基に 2.色の表示方法」 、大田登、 コロナ社、8(1997) 13)「フジカラー写ルンです、写ルンです Hi」 、持田 より現像抑制させたい層までの拡散時間をもって現像 光義、大村紘、武井尚司、フジフイルム研究報告、 抑制剤を放出する。また、この抑制剤は AgX の現像 33、15(1988) 速度、被抑制性に応じて選択することが可能である。 14)「高感度・高画質を訴求した導入促進」、フォト マーケット 7 月号、26、6(2005) 15)「コニカに於けるカラー感材・処理の開発動向」、 引用文献 1)「富士フイルム 50 年のあゆみ」 、富士写真フイル ム㈱編、341、昭和 59 年 10 月 20 日発行 2)「アニオン離脱ピラゾロンカプラー」、古舘信生、 フジフイルム研究報告、34、1(1989) 3)「DIR カプラーの最近の進歩」 、市嶋靖司、フジフ イルム研究報告、35、27(1990) 322 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 小板橋光夫、Konica Tec. Rep., 1, 5(1988) 16)「カラー銀塩感光材料の技術革新史 第 2 部 発色 現 像( そ の 5) 」、 大 石 恭 史、 日 本 写 真 学 会 誌、 72、95(2009) 17)「GX200 プロフェッショナルの開発」、榛葉悟、 山田良隆、Konica Tec. Rep., 2, 132(1989) 10 1990 年代のカラーネガフィルムの開発 銀塩カメラの量的主体であるコンパクトカメラは ら QV-10 が 49,800 円という価格で発売されてから、 1960 年代に自動露出(AE)機構を付け、1970 年代に DSC は一般ユーザーにも手に届く価格となった。そ はストロボ内蔵、自動焦点機構を内蔵し、1980 年代 の後も、画素数が増え、画質もアップするという技術 にはズーム機能付与と進化が進み、1990 年代には小 開発が続き、周知のごとく 2000 年代にはカメラ販売 型ながらデート、自動装填、巻上げ、巻戻し機構等、 量からカラープリントの数量まで完全に銀塩写真か 電子制御による多機能化されたコンパクトカメラとな らデジタル写真に移行することになる。そのため、図 り進化が続いた。非常に使い勝手が向上したものの 10.1 からも分かるように、1990 年代は歴史的に見て ズーム化のためレンズが暗くなるし高倍率ズームのた 銀塩カラーフィルムが最も出荷され、一般用の銀塩写 め撮影時の手振れが激しくなる等の負荷が増加し、カ 真産業として成熟し繁栄した時期ということになる。 ラーネガフィルムにはより一層の高感度化が求めら れた。また、レンズ付フィルムもそのずば抜けた簡便 10.1 フジフイルムの感光材料開発 性、携帯性から、望遠や広角、パノラマ等の様々な用 途に拡大し、これらに対する高感度化や撮影領域の拡 大という新たな品質要求が発生してきた。 そういった状況の中、1990 年代は 1980 年代に開発 フ ジ フ イ ル ム は 1992 年 に ス ー パ ーG シ リ ー ズ、 1994 年にスーパーG ACE シリーズを開発した。ま た、1996 年にはアドバンスト フォト システム(APS) した日本で生まれた独自技術をさらに発展させ、高感 をコダック他 3 社と共同発表し、APS 専用フィルム 度化、色再現性改良や露光領域拡大を目的とした新し ネクシアを市場導入した。1998 年には感度 400 にも いカラーネガフィルムを生み出すことで、日本メー 第 4 の感色層を導入した SUPER シリーズを、1999 カーによるカメラ開発やミニラボ開発、プリンター開 年には改良した SUPERIA シリーズを開発した。さ 発と歩調を合わせながら二人三脚で、世界をリードし らに、1996 年にはデジタルミニラボシステムとして ていった。 フロンティアを開発し、デジタル処理との融合により しかし、1981 年のソニーによるマビカ発表以降、 プリント画質の向上を図った。一方、営業写真分野で カメラにもデジタル化の波がひたひたと押し寄せた。 は 1994 年にフジカラー160NS シリーズを商品化し、 1987 年にフジフイルムが東芝と共同してメモリー 色再現性、特に肌色再現を大幅に向上した。映画用 カードにデジタル信号として記録する世界初のデジタ 分野では 1994〜1995 年にかけて超高感度タイプを中 ル・スチル・カメラ(DSC)試作機 DS-1P が発表さ 心に映画用カラーネガフィルムを相次いで導入し、市 れ、翌年には市販された。この頃は周辺機器込で 160 場の活性化を牽引した。特徴的な商品を以下に解説す 万円とまだまだ高価であったが、1995 年にカシオか る。 図 10.1 一般用ロールフィルムの国内出荷量推移 1) カラーネガフィルムの技術系統化調査 323 10.1.1 写ルンですスーパー800 の開発(1993 年)2) 10.2 に示すように形と大きさの良く揃った薄型六角平 前述のように「写ルンです」は発売以来 3 年で約 板粒子で、光粒子により発生した光電子を粒子の周辺 25 倍の急成長を遂げ、1992 年の統計によれば日本で 部に一時的に蓄積し、最終的に六角形の一点に極めて 約 6000 万本、ショット数にすると年間約 15 億ショッ 効率よく潜像形成できるように内部構造を設計したも トが撮影された計算になる。 のである。平板度をアップして表面吸着出来る増感色 レンズ付フィルムのコンセプトは発売の当初から ユーザーによく理解され、露光不足や画質が不十分で 素の量を増やすことでより高感度化し、この複合効果 で画質の劣化を抑えつつ ISO 感度 800 を達成した。 も受容されてきたが、ここまで消費量が増えてきたこ とで、撮影の成功率を向上させることはメーカーの社 会的責任と考えた。定期的な仕上がり調査から、露光 不足や画質不満足のコマが 2 割弱存在し、感度を 2 倍 に高めることでこれを半減させられることが見込まれ た。そこで、「写ルンです」には既に感度 ISO400 の カラーネガフィルムが使われていたので、レンズ付 フィルム専用に感度 ISO800 の開発をスタートした。 図 10.2 高感度化のためにはハロゲン化銀のサイズを大きく SUFG(スーパーユニフォームファイングレイ ン)の粒子構造 2) しなければならないが、大きくするとセンサーとして のハロゲン化銀粒子の個数が減少し、粒状が悪化す 一方、素材としても、1983 年開発の L- カプラーに る。これを補うために、塗布銀量を増加すると、自然 加えて、少量のオイルまたはオイルなしでも優れた発 3) 放射線による画質の劣化が起こる 。光に対する感度 色性を示すフジフイルム独自のカプラーを開発し 6)、 と放射線に対する感度は比例する。さらに放射線の影 薄層化による鮮鋭性の向上を行った。 響は単に放射線を吸収したハロゲン化銀が感光するの こうして写ルンですスーパー800 を 1993 年 4 月に みならず、その粒子から発生した 2 次電子線により周 発売したが、プロカメラマンがこのフィルムの性能に 囲のハロゲン化銀粒子も同時に感光するので、非常に 着目し、レンズ付きフィルムの外装を解体しこのフィ 大きいブツブツとした粗大粒状が発生し画質を著しく ルムをカメラに装填して使用し始めた。1993 年 6 月 4) 損なう 。そのため、塗布銀量を増加させないで済む の皇太子殿下と小和田雅子様のロイヤルウェディン 微粒子高感度化の技術開発が進められた。 グ、同年のウィンブルドン全英テニス大会等でこうし この一連のハロゲン化銀形成の改良技術がシグマク た使い方がなされ、このフィルムの性能の高さが実証 リスタル技術と総称される。シグマクリスタル技術は された。そこで、1994 年 9 月にはスーパーG ACE800 ハロゲン化銀の内部に意図的に物性の異なる複数の構 という名称で 35mm のカラーネガフィルム単体とし 造を形成し、感光時あるいは現像時に特別の効果をも て発売されるに至った。 たらすように粒子を設計し、さらにこれを精密にコン トロールして製造する技術を総称したものである。 10.1.2 7) (1994 年) その始めは 1983 年発売の HR シリーズに導入した 二重構造粒子 5) であり、光吸収により発生した電子 フ ジ フ イ ル ム は、1962 年 フ ジ カ ラ ーN50 シ ー ト と正孔を外殻と内殻で分離し有効に潜像を形成すると フィルムを発売して以来、営業写真分野の市場ニーズ 共に、現像時にも粒状の悪化を防ぐように設計され に合わせて様々なカラーネガフィルムを市場に導入し た画期的な粒子である。その後、1984 年には新型二 てきた。 重構造粒子が開発され、1989 年に粒子表面を改質し、 324 営業写真用 160NS シリーズの開発 営業写真用カラーネガフィルムにとって最も大切な 増感色素の吸着増強、感光核の集中と光電子の利用効 品質は肌色再現である。より厳密に言うと、グレイバ 率向上により、体積を従来粒子の 1/3 まで低減させた ランスがとれ、全体の色調が整った中で肌色が好まし シグマクリスタル粒子へと進化した。 い色に再現されるうえに、肌の明部から暗部にかけて ISO800 の開発には、1992 年に開発したスーパー のつながりが滑らかであることである。1984 年に発 G400 に採用された SFG(スーパーファイングレイ 売されたフジカラーNSP はスーパーDIR カプラーの ン)技術を更に進化させ SUFG(スーパーユニフォー 採用により重層効果を増加し、彩度(色の鮮やかさ) ムファイングレイン)技術を開発した。この技術は図 を上げ、広い色再現領域を実現できた。しかし、逆に 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 彩度の高さが肌の一部に不適切な発色を生じ、肌のつ に低明度側を低彩度に調節することで肌色の繋がりが ながりを悪化させる傾向があった。 非常に滑らかで柔らかく見え(左側) 、また逆にする そこで、まず営業写真分野ではプリント時に厳密 な色調の調節が可能で第 4 の感色層技術を最大限に活 (高明度側を低彩度)と肌の繋がりがギスギスして顔 が硬く見える(右側)ことが分かった(図 10.3) 。 用出来ることから、この技術を導入し忠実色再現性を 以前、インターネガというフィルムの開発を担当し 大きく向上させた。また、シグマクリスタル技術や最 たが、このフィルムの階調は高明度側がより硬調にな 新の素材技術を導入して粒状性や鮮鋭性の改良を行っ る逆反りカーブであった。リバーサルフィルムからイ た。さらに、新規のカプラーや DIR カプラーを用いて ンターネガフィルムを作成してジャイアントプリン 8) 世界最高レベルの画像保存性を達成した 。しかし、 ト 10)を焼き付ける場合の中間フィルムであるが、イ 肌の一部の不適切な発色は依然として残っていた。 ンターネガフィルム作成時の露光量を変化させること 色々なテストを繰り返しているうちに、肌色が非常 で、最終的に硬調のプリントも軟調のプリントも自在 に滑らかで美しくなったプリントを発見した。それは に作ることが出来るという階調可変のフィルムであっ シミュレーション画像であり、プリント再現曲線を任 た。この機能に関して、露光量に応じて階調変化させ 意に変更した中の一つであった。どの部分の変更の寄 るのではなく、露光量に応じて彩度を変化させるとい 与が大きいのか、どういう技術的タームに置き換えら う発想に置き換えた。高露光側ほど高彩度にする設計 れるのか、を徹底的に追及した。色は明度、彩度、色 である。人間の眼には桿体という白黒の光を感じる視 相により一義的に定義できる。検討の結果、明度と彩 細胞と錐体という色を感じる視細胞と 2 種類があり、 度の関係に迫ることが出来た。一方、文献からも、オ 桿体は感度が高く暗い場所で働き、錐体は感度が低く リジナルの絵からバラバラの色相の方向に変化させた 明るい場所で働く。即ち、暗い場所は白黒に、明るい プリントと一定の方向に変化させたプリントをみると 場所はカラーにという見え方は人間の視細胞の機能と 変化量は同じでも全体の絵の見え方が異なること等の もマッチしていると考えられた。 9) 知見を得ることができた 。即ち、周囲の色同士の配 この考えに沿って感材を開発することで品位の高い 置の仕方で見え方が変化するということである。そこ 肌色色調が再現された。ただ、露光量をかなり控えて である一つの顔についてどうすれば滑らかな肌色再現 撮影するとプリントが墨絵に似た色彩度の低いプリン が得られるかの解析を繰り返した結果、明度、色相は トとなる。おそるおそる営業写真館に意見を伺いに 一定だが、彩度の軸において高明度側を高彩度に、低 いくと、あるシチュエーションではまさにこんな写 明度側を低彩度に調節することで滑らかで美しい肌色 真が撮りたかったのだよ、と絶賛され自信を深めた。 が再現出来ることを発見した。不思議なことに明度 営業写真館はカラーネガフィルムを様々に使いこな (即ち全体階調)は全く同じでも、高明度側を高彩度 し、フィルム設計者も気が付かないような性能を引き (A) (B) 図 10.3 明度 / 彩度軸の変更による肌色つながりの比較 7) カラーネガフィルムの技術系統化調査 325 出す。1994 年 2 月にフジカラープロフェッショナル 10.1.3 アドバンスト・フォト・システムの開発 11) 160NS、NL、NC として発売を開始した。実力の乏し アドバンスト・フォト・システム(ADVANCED PHOTO い写真館には少し使い難い面もあったが、多くの写真 SYSTEM、以下 APS システムと記す)はこれまでの 館には好意的に受け入れられ、新製品の切替えにつき 写真の世界において最大のフォーマットの変革であっ もののクレームなどはほとんどなかった。 た。このシステムはフジフイルム、イーストマンコ NS というタイプはストロボ光源用で、NL はタン ダック、キャノン、ミノルタ、ニコンの 5 社が共同で、 グステン光源用である。NC というのは建築写真用カ 現在のシステムより良い写真をより簡便な方法で撮影 ラーネガフィルムであり、これについて少し説明を加 できるようにという意図で開発し 1996 年に発表、発 える。素晴らしいギャラリーやホールを広告用に撮 売されたものである。 影したり、新築建造物の内装写真を印刷用に撮影する 場合等に、外光(太陽光)と室内光(蛍光灯)で色味 が変化してしまう(蛍光灯がグリーン味に写る)問 題があった。そこで、従来はカメラマンが、太陽光の みの照明で撮影した後、カメラを固定したまま、窓の シャッターを閉じたり、夜中まで待ったりした後、マ ゼンタのフィルターで色補正をして蛍光灯下で二重撮 影をするという大変な苦労をしていた。さらに、二重 露光の露光量を間違えたり、カメラが振動で少しでも 移動したりすると再度撮り直しが必要であった。しか し、このフィルムを用いれば、フィルターワークを全 く必要とせず、一回で撮影出来た。図 10.4 の左図は 従来のフィルムで撮影され、蛍光灯がグリーン味とな このシステムの特徴は以下の内容である。 ①カートリッジ及びフィルムフォーマットが小型化し カメラが一層コンパクトになる。 ②ベロのないカートリッジでフィルム装填がより簡 単、確実になる。 ③一本のフィルム中で 3 種のプリントタイプ(C、H、 P タイプ)が自由に選べる。 ④プリント両面への印字やプリント品質の向上が可能 となる。 ⑤全コマを一枚にプリントするインデックスプリント で撮影絵柄が一覧できる。 ⑥現像済ネガをカートリッジ入りで返却。情報入出力 機能でデジタル機器とも併用できる。 るが、新フィルムの右図では蛍光灯も窓から降り注ぐ 太陽光と同様に白色に写ることが分かる。ただ、営業 (1)新カートリッジとプリントシステムの開発 写真用では人物撮影のために階調を柔らかくしてある フィルムは図 10.5 に示すように、オールプラスチッ ので、新たに建築写真用に硬調なフィルムを NC とし クのカートリッジに装填され、カメラや他のメカニズ て商品化した。 ムでフィルムを所定の位置に引き出す。 ① 35mm フィルムシステムより小型で携帯に便利な 小型カメラの開発が可能となる。 ②装填はワンタッチ方式で装填ミスの心配がなく、二 (NSP) 図 10.4 326 国立科学博物館技術の系統化調査報告 (NC) 新旧フィルムによる蛍光灯適性比較 7) Vol.17 2012.August 重露光防止機能も付与されている。 された撮影年月日、ユーザー指定のタイトル等の情報 ③撮影途中でカートリッジを交換できる。 が印字される。 ④カートリッジにフィルムの使用状態(未使用、撮影 途中等)を示すマークがある。 一方、インデックスプリントは、各コマを小さな画 像として纏めてプリントしたものであり、各コマのフ ⑤カートリッジが現像済フィルムの保管・携帯容器と なる。 レーム番号と指定のプリントタイプも同時に表記され ている。インデックスプリントは液晶方式でカラー ペーパーに焼き付け、同時プリントと連続してプリン トできる(図 10.7)。 図 10.5 APS フィルムカートリッジ 11) 図 10.7 インデックスプリント例 11) 画面サイズは 35mm のハーフサイズに近く 15、25、 40 枚撮りを揃える。支持体はポリエチレンナフタ レート(PEN)を使用する 12)。この支持体は現行の トリアセチルセルロース(TAC)よりも薄く、高い (2)フィルム開発 カラーネガフィルムの各種サイズフォーマットに 強度を有する。また、平面性が高くネガを平坦に保 対する画質許容率を調べると図 10.8 に示すように、 ち、きつく巻きこんでも癖がつきにくい特長を有する。 APS システムはハーフサイズに相当するため現在の さらに、フィルムには透明な磁気層がコーティング 感材を流用しても十分許容されると判断される。 されている。その磁気層に露光時のカメラデーターや ユーザーの入力データーを記録することができる。ま た製造段階で、ユーザーの識別や機器の自動読み取り が可能な ID 番号が割り付けられている。 APS システムでは、撮影時カメラがフィルム上に図 10.6 のように光学的、磁気的に情報を記録し、以降のシ ステムでその情報を活用することができる。また、現像 工程でも情報が記録される。情報内容には年月日、時 分、プリントタイプ、選択タイトル、同時プリント枚数 指定、カートリッジ装填方向、被写体輝度、ストロボ発 光有無、人工光可能性フラグ、撮影倍率等がある。 図 10.8 各種ネガフォーマットサイズに対する 画質許容度(スーパーG100)11) APS シ ス テ ム に は、PQI(Basic Print Quality Improvement 機能)というカメラで記録された撮影 情報、露光データーをプリント機器が自動的に読み取 り、プリント時に最善のプリント条件を決定し品質向 上を図る機能が付与されている。APS システムの総 図 10.6 フィルム中の光学及び磁気トラック 11) 合画質(トータル Q)は トータル Q =カメラ Q ×フィルム Q ×プリンターQ プリント工程では、3 種類のタイプ(C、H、P タ ×ペーパーQ ×その他(PQI など) イプ)をコマ毎に選択してプリントできる。プリント で表される。フィルム Q については感度、階調、色 の裏面には、コマ番号、ID ナンバーやカメラで記録 再現性は画面サイズとは独立だが、画面サイズが約 カラーネガフィルムの技術系統化調査 327 1/2 となっているため、35mm フィルムに対して粒状 のフジカラーネガフィルム SUPER400 を発売した。 性、鮮鋭性は 1/ √2 倍低下することになる。 フジフイルムはこれまで、1989 年のフジカラーフィ ルム リアラで第 4 の感色層技術を導入し、色再現に そこで、 ①ハロゲン化銀の SUFG 技術(前述) おける鮮やかさと忠実性を同時に進歩させた。一方、 ②新開発の離脱基が一定時間後に 2 回の自己反応を起 同年フジカラースーパーHG400 を開発し感度 ISO400 こし、周辺に拡散してから現像抑制作用を発揮する の常用化を推進した。しかし、ISO400 の常用化が進 新規タイミング DIR カプラー むと、より室内撮影が増え蛍光灯のグリーン味が目立 ③新 DIR カプラーとカラードカプラーの複合乳剤技 術を活用したアドバンスト・リアルトーン技術 ④各種活性ガスに対する不活性化剤や安定化剤等によ つようになり、近年のガーデニングブームから花の色 変わりが気になるようになってきた。 そのため ISO400 への第 4 の感色層技術の導入を目 指した。ただ、第 4 層を設置すると特に緑感性層への る膜安定化技術 を 駆 使 す る こ と に よ り、 ネ ク シ ア F(ISO100)、A 感度負荷が生じ、低感化を補うためのハロゲン化銀サ (ISO200) 、H(ISO400)のカラーネガフィルムを開 イズアップは粒状等の画質劣化を伴うことになる。従 来、カラーネガフィルムの感光層は上から順に短波側 発し、同年(1996 年)発売した。 カメラの新機構等についての説明は省略するが、カ の乳剤層が配置され、青感層→緑感層→赤感層の順に メラ、フィルム、プリンター、現像機、写真店等で総 なっている。リアラにおいても、青感層→第 4 層→緑 合的に APS システムの準備を整え、1996 年に発売を 感層→赤感層の順に配置されていた。しかし、本来、 開始してから 2000 年くらいまで順調に販売が増加し 第 4 の感色層は赤感層に抑制をかける層であり、赤感 た。しかし、デジタルカメラの台頭による簡便さや 層に近い方が有利である。 撮影時の情報量の多さ、即時性等では比較にならず、 そこで、第 4 層を緑感層の下に配置させたところ、 2000 年以降販売量が減少していくことになる。大胆 緑感層(高感層、中感層、低感層)の低感層と接する なフォーマットの変更と情報記録のプリントシステム こととなり、第 4 層と緑感層を分ける混色防止層をな への活用を図ったこのシステムは、もう少し早く世に くしても、緑感層からの現像影響を受けにくいことが 出ていれば主流になる潜在能力を秘めていたが、デジ 分かった。また、第 4 層が緑感層の下に配置されるこ タルカメラという革新技術の躍進の前に、日本企業が とから、緑感層にとって緑光の感度ロスがなくなり、 変革に大きな役割を担ったシステムではあったが、残 さらに、赤感層に近いため第 4 層の本来の目的である 念ながら大きな日の目を見ることなく次第にシュリン 赤感層への抑制量が増加することも分かった。一方、 クしていくことになる。 第 4 層に到達する光量は緑感層の通過時に一部吸収さ れ、第 4 層の感度という観点からは不利である。これ 10.1.4 フジカラーSUPER400 の開発 13) 1998 年に、第 4 の感色性層を導入した感度 ISO400 についてはハロゲン化銀の SUFG 技術等により解消 した。(ニューフォースレイヤー技術 14)) (a)Super400 (b)Current type 図 10.9 第 4 の感色層技術による色忠実性改良例 13) 328 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 図 10.9 に衣服の色変わりの一例を紹介する。人間 ネガフィルムが使用される環境が変化し撮影領域が拡 の眼では同じ紫色に見える衣服が、従来のフィルムで 大した。しかしながら、このような環境変化に対し高 は右図 b のように紫色の上着に対して内側に着た紫 感度カラーネガフィルムはどうあるべきかと云う観点 色のニットのセーターが赤味に再現されているのが分 より多数のプリントの解析を行った結果、蛍光灯下で かる。しかし、第 4 の感色層技術を導入することによ のストロボ光撮影での緑味の強い不自然なプリント、 り左図 a のように内側のセーターも外側の上着も共に 露光不足でのザラツキ(粒状性) 、極端な過度あるい 紫色に再現されるようになることが分かる。 は極少ない露光量での撮影による色バランスの崩れた フジカラー SUPER400 に使用した技術は以下の プリントが多いことが明らかとなった。このため蛍光 通りである 灯等の人工光源下においても人間が見ているままの自 ①ニューフォースレイヤー技術(前述) 然な色再現ができると同時に粒状性等の画質が一段と ②ハロゲン化銀の SUFG 技術(前述) 向上し高感度フィルムでありながら常用フィルムとし ③ 2 段タイミング DIR カプラー技術 て使用できる品位を目的に以下の特性を付与すること 放出された離脱基(T1-T2-DI)が図 10.10 の(2) (3) の 2 ステップの反応を通じて DI を放出する。この反 応速度を制御することにより、よりエッジ効果を強調 することが可能となった。 とした。 ⑴異種光源適性 蛍光灯とストロボ光またはデイライトとのミックス 光源下での自然な色再現 ⑵ ISO100 フィルムに匹敵する高い画質 特に露光量不足でも良好な粒状性 ⑶極めて広い露光ラチテュード 露光量大過剰でも良好なカラーバランス 図 10.10 2 段タイミング DIR カプラーの抑制剤放出機構 13) ④ YF 固体分散染料技術 ネクシア H400 には APS の小フォーマットによる これらの特性を付与するために以下の技術を検討し 目的を達成した。 ① SSF(Simulated Spectral Foundation)技術 画質劣化抑制のためにイエローフィルター(YF)用 色再現のシミュレーション技術を駆使し、良好な 固体分散染料を導入している。通常イエローフィル 色をプリント上に再現するために、カラーネガフィ ターにはコロイド銀が使用されるが、コロイド銀のブ ルムの分光感度分布と異感光層間の重層効果(Inter ロードな吸収が緑感層の感度を損なうため、吸収スペ Image Effect)を適切にコントロール。これにより異 クトル端の切れが良い固体分散染料を用いて感度低下 種光源適性が大幅に改善された 。 を防止し画質改良に繋げた。 ② C-MSC(Clean Multi-Structure Crystal)技術 粒子サイズが良く揃った、極めてクリーンなハロゲ 35mm フィルムの SUPER400 に加えて、APS フィ ン化銀結晶(図 10.11 に示す)を形成する技術であり、 ルムのネクシア H400 を 1998 年に発売することで、感 光により結晶内部に発生した光電子を感光核に効率よ 度 400 常用化と APS システムの普及促進に貢献した。 く捕捉できるため高い感度を有する。従って従来より 10.2 も小粒径の結晶で同等以上の感度が得られ、極めて粒 コニカの感光材料開発 状性の良い画像が形成された。 1990 年代、コニカは 1990〜91 年にスーパーDD シ リーズ、インプレッサ 50 プロ、1997 年にセピアフィ ルム、1999 年にはセンチュリアシリーズ等を開発し、 カラー銀塩写真産業の発展に対し大きな一翼を担っ た。特徴的な商品を以下に解説する。 10.2.1 コ ニ カ カ ラ ー ス ー パ ーDD400 の 開 発 15) (1990 年) カメラの機能向上、特にストロボ内蔵に伴いカラー 図 10.11 C-MSC 粒子写真 15) カラーネガフィルムの技術系統化調査 329 ③層構成技術 粒子は△印の従来粒子に対して、どの粒子サイズにお 人間の眼に特に敏感な緑感光層と赤感光層を各々高 いても高い感度を有することが分かる。また光散乱の 感度、中感度、低感度の三層で形成する事により(図 大きな 0.3〜0.5μm の粒径のハロゲン化銀の回避が可 10.12) 、高〜低の各露光領域での画質を自在に設計で 能となり、鮮鋭性向上にも寄与した。 き、粒状性の向上とともに露光ラチチュードが拡大さ れた。 図 10.12 10.2.2 DD400 の層構成 15) 図 10.13 コニカカラー インプレッサ 50 プロフェッ C-MSC 粒子の高感度化 16) 16) ショナルの開発(1991 年) プロ写真家及びハイアマチュアを対象として、あく までも画質に拘り非常に優れた粒状性、鮮鋭性および 色再現性を有し、被写体の画像情報を最高レベルで記 録できる感度 ISO50 のカラーネガフィルムを提供す ②遠作用 DIR カプラー技術 現像抑制作用のコントロールにより現像効果 (Edge 効果)を増大させ鮮鋭性を向上した。 ③ Simulated Spectral Foundation Technology(SSF ることを目的に開発した。特に色再現については自然 技術) 界の様々な色、各種色票、和服や洋服等の中から一千 ス ー パ ーDD400 と 同 様 に、 分 光 感 度 と 層 間 効 果 色を越える実在色について、カラー写真での再現のさ (IIE と略す)の最適な組合せをコンピューターシミュ れ方とその色の反射スペクトルを測定し、両者の関係 レーションで設計する技術と、分光感度と IIE を設計 を綿密に検討した結果、特定の領域の色において再現 通りコントロールする技術により色再現性を大幅に向 性、描写力が劣っている事が明らかとなった。よって 上した。特に従来のカラーネガフィルムに比べ青、赤 開発目標を以下に定めた。 感性層の分光感度の短波化と青、緑、赤感性層相互の ⑴鮮鋭性、粒状性 6 方向の IIE のバランスを光に応じて変化させるのが 常 用 フ ィ ル ム の 4 × 5 サ イ ズ フ ィ ル ム(10cm × 12.5cm) か ら の プ リ ン ト と 同 等 画 質 を 120 サ イ ズ (6cm × 7cm)でつくる事ができる画質 好ましいことが明確となった。 以上の技術開発を行うことにより、粒状性・鮮鋭性 が初期目標に達すると同時に、オリジナルの色に非常 に近い忠実な色再現性を有するカラーネガフィルムを ⑵色再現性 見たままの色を再現する。特に(a)紫、青緑の色 提供することができた。 相変化のない再現、(b)赤から赤紫の色相弁別性の 向上、 (c)赤の陰影描写力の向上 10.2.3 コニカカラー センチュリア 800(1999 年)17) これらの目標を達成させるために ① C-MSC(Clean Multi-Structure Crystal)技術 330 コニカのカラーフィルムの開発コンセプトである 「誰でも、どこでも、いつでも簡単に写真を楽しめる」 スーパーDD400 と同様に極めてクリーンなハロゲ を更に発展させ、 「色再現性を代表とした高画質化・ ン化銀結晶を形成する技術であり、光により結晶内部 どの様な状況下でもきれいなプリントができる安定 に発生した光電子を感光核に効率よく捕捉できるため 性・地球環境保護を率先して目指す企業としての責任 高い感度を有する。小粒径で高い感度を有し、良好な 垂範」をシリーズコンセプトとして 21 世紀に向けた 粒状性を達成した。図 10.13 に示すように、○印の新 コニカカラー センチュリア 100、200、400、800 を開 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 発した。特にセンチュリア 800 は高感度フィルムのメ リットを活かしつつ、常用感材として使用され得る特 性を付与すべく開発を行った。よって、設計主眼を以 下においた。 佐々木 登、富士フイルム研究報告、39、1(1994) 3) Y.Nozawa, H. Ikoma, SPSEʼs 40 th Annual Coference, Rochester, New York, USA(1987) 4)「超高感度フィルムに対する自然放射線の影響」、 ⑴広いラチチュードによる安定した色バランス 写真工業、野沢 靖ら、写真工業出版社、44(11) 、 ⑵ミックス光源下(自然光、ストロボ光、蛍光灯光) 92(1986) でも自然な色再現性 ⑶原色から中間色(赤紫、青紫、青緑等)までより忠 実な色再現 5)「超高感度・高画質カラーネガフィルムの開発」、 高田俊二、平野積、電気化学、56、705(1988) 6)「5. アミド -1- ナフトール型シアンカプラーの開 発」、小林英俊、御林慶司、日本写真学会誌、57、 これらを実現するために以下の 4 種類の新規技術を 導入した。 ① CENTURIA Crystal Technology AgX 結晶の微細構造を精緻に設計・制御した受光 面積が大きく、且つ均質性の高い粒子に高度な光セン サー機能を組込むことにより、従来比で体積が約 1/2 でありながら高感度を実現した。 ② CENTURIA Coupler Technology 316(1994) 7)「フジカラープロフェッショナルカラーネガフィ ルム 160NS、NL、NC の開発」、久米裕二、荒河 純、小林英俊、井駒秀人、富士フイルム研究報告、 40、22(1995) 8)「ハロゲン化銀カラー写真感光材料」、川岸俊雄、 富田俊一、内田稔、特登 2668810 号(1997) 9)「Color Theory and Color Imaging Systems 分子設計によりカプラーのバラストおよび活性点置 : Past, Present and Future」, J. J. McCann, 換基成分を最適化し、CENTURIA Crystal との現像 JOURNAL of Imaging and Technology, 42, 70 速度バランスを最適化する事により高感度で且つ高画 質な性能を実現した。 ③ CENTURIA DIR Coupler Technology 反応速度、現像抑制能、現像抑制剤の拡散距離の最 適化により鮮鋭性と同時に中間色再現性を大幅に改良 した。 ④ Refined Spectral Sensitivity Technology 新規増感色素とその使用技術の最適化により、分光 感度分布を適正化し、ミックス光源適性と中間色再現 性を同時に実現した。 これらの技術により、プロ、ハイアマチュアのみな らず、これまで高感度フィルムに馴染みの少ないアマ チュアにも使いやすいカラーネガフィルムを提供する 事ができた。 (1998)等 10)「New フ ジ G カ ラ ー フ ィ ル ム PROLASER FC/ FT の開発」、松本淳、久米裕二、富士フイルム 研究報告、49、32(2004) 11)「アドバンスト・フォト・システムの開発」 、池上 真平 ら、富士フイルム研究報告、41、1(1996) 12)「新写真システム用 A-PEN 支持体の開発」、品川 幸雄 ら、富士フイルム研究報告、42、59(1997) 13) 「フジカラーSuper400/NexiaH400 の開発」 、須賀 陽一、富士フイルム研究報告、44、7(1999) 14)Y. Kume et al, IS&Tʼs 1999 PICS Coference, 189 (1999) 15)「コニカカラーSuperDD400 の開発」 、嶋崎博ら、 Konica Tec. Rep. 4, 28(1991) 16)「コニカカラーIMPRESA50Professional の開発」 、 引用文献 1)「高感度・高画質を訴求した導入促進」、フォト マーケット 7 月号、26、6(2005)など 嶋崎博ら、Konica Tec. Rep. 5, 20(1992) 17)「使い易さを追求した高感度フィルムの開発」 、川 島保彦ら、Konica Tec. Rep. 12, 143(1999) 2)「 フ ジカラー写ルンですスーパー800 の 開 発 」 、 カラーネガフィルムの技術系統化調査 331 11 2000 年以降のカラーネガフィルムの開発 2000 年以降も銀塩カラーネガフィルムの開発は進 (2)優れた粒状性と長続きする高感度・高画質;自然 み、各社の超高感度感材開発競争による、一般アマ 放射線によるカブリ濃度の上昇とカブリ粒状劣化 チュアの撮影領域拡大と失敗写真の解消が図られた。 しかし一方、いよいよデジタルカメラが急速に進展 (図 11.1 に示す)の改善 (3)優れた異種光源適性;世界最高レベルの実効感度 し、画素数アップや感度向上に加え、取得した撮影情 報から、光源(太陽光、タングステン光、蛍光灯等) に適した異種光源適性の付与 (4)環境を配慮した地球に優しい製品設計 を識別したり、画面上で顔を認識したり、コンピュー ターの情報処理を駆使した開発が進むことから、カメ ラ販売量からカラープリント量までデジタルカメラ がほとんど主流を占めるに到った。銀塩カメラやカ ラーネガフィルムも更なる改良を進めたが、時代の潮 流には抗えず、コニカミノルタは 2006 年にアマチュ アフィルム・カメラ事業を終了する。2000 年代はカ ラーネガフィルムとデジタルカメラの主客交代の時期 となった。 11.1 コニカの感光材料開発とアマ用事業 の終焉 2000 年 に コ ニ カ カ ラ ー New Centuria シ リ ー ズ (35mm800/400、APS800) を 開 発 し、2002 年 に は コ ニ カ カ ラ ー Centuria Super シ リ ー ズ(100、200、 図 11.1 自然放射線による粒状悪化影響 1) これらの設計思想実現のため、以下の技術を導入し た。 ①マルチコートクリスタル(MCC)技術;主平面と 400、800、1600、プロフェッショナル)を開発し、市 側面のハロゲン組成コントロールにより、双方の粒 場展開した。しかし、コニカはデジタルカメラの急速 子のメリットだけを兼ね備えたハロゲン化銀粒子を な台頭により、1903 年に国産初の印画紙、1941 年に 開発し、感度と粒状性の両立が可能となった。 国産初のカラー反転フィルムを発売するなど、日本の ②ウルトラコンシスタントクリスタル(UCC)技術; 写真産業を一世紀以上にわたり支えてきたアマチュア 粒径及び形状の単分散性に加え、ハロゲン化銀粒子 フィルム・カメラ事業から 2006 年に撤退した。特徴 のハロゲン構造、及び格子欠陥まで粒子間で均一に のある商品について以下に解説する。 制御した粒子(図 11.2 に示す)により、現像の均 一化により粒状性が大幅に改良された(図 11.3 参 11.1.1 コニカカラー の開発 ニューセンチュリア 800 1) 照) 。また、このハロゲン化銀粒子は自然放射線の 影響も少なく、自然放射線による保存性劣化が大幅 2000 年になると各社とも新しい ISO800 フィルムを に改善された。 市場投入し、銀塩フィルムの超高感度時代の幕開けの 様相を呈した。その中でコニカはこれまでの独自技術 を更に深化させ、高感度を意識することなく何時でも 簡単に写真を楽しめるように設計した New Centuria 800 ズームスーパーを 2000 年に開発した。このフィ ルムはコニカカラーの伝統である た肌の質感 美しい肌色と優れ に加え、ISO800 フィルム常用化の重要 なスペックとして以下の点を重視した設計を行った。 (1)世界最高レベルの実効感度;低露光域の許容度 アップに設計の焦点を絞り、世界最高レベルの実 効感度の実現 332 国立科学博物館技術の系統化調査報告 図 11.2 Vol.17 2012.August UCC 技術による粒状性の改良 1) される総合画質値を加味した満足度からなる 3 次元の 写真撮影空間である。 これを実現するためには単に高感度だけではなく、 画質、使いやすさの全ての面において大幅な性能向上 が必要であり、特に微粒子高感度化技術と自然放射線 耐性向上技術がポイントとなった。以下に概要を示 す。 ①ス ー パ ー マ ル チ コ ー ト ク リ ス タ ル 技 術(Super 図 11.3 総合画質の改良効果 1) MCC);New Centuria 800 に 搭 載 さ れ た MCC 技 術を更に進化させた単分散高アスペクト比六角平板 ③イグジスティングライトスペクトラム(ELS)技 乳剤であり(図 11.5) 、MCC に対して光吸収効率は 術;様々な光源スペクトルに基づき分光感度をコン 約 2 倍、体積は約 2/3 となり、感度と画質を両立し トロールすることにより、色相再現性とストロボ適 た。 性、タングステン適性が備わった異種光源適性の両 立が可能となった。 ④環境問題のない可塑剤;誘電率、logP、溶解度パラ メーターを指針として環境問題のない脂肪酸エステ ル系可塑剤を見出し、環境適性が大幅に改善され た。また、高発色性ゆえ、大幅な薄膜化が可能と なった(図 11.4 参照) 。 図 11.5 スーパーマルチコートクリスタル技術 2) ②自然放射線耐性向上技術;Super MCC 技術による 図 11.4 ニューセンチュリア 800 の膜厚薄層効果 1) 現像時の発色色素の生成量抑制により自然放射線に よるカブリ時の巨大色素雲の抑制と同時に、ウルト これらにより常用フィルムとして日常様々な用途に ラコンシスタントクリスタル技術によるγ線感光性 対応するだけではなく、高感度フィルムのユーザーメ 低減により、カブリを約 1/2 に低減し、感度と自然 リットをより魅力的に享受できる常用高感度フィルム 放射線耐性を両立した。 ③フォトセンシティビティーエンハンサー技術;イエ として提供できた。 ローフィルター層のコロイド銀を新規の 2 種の固定 11.1.2 コ ニ カ カ ラ ー セ ン チ ュ リ ア ス ー パ ー 1600 の開発 2) 2000 年 に 発 表 し た ニ ュ ー セ ン チ ュ リ ア 800 に 続 き、2 年後、更なる高感度化を推し進めたセンチュリ 性イエロー染料(図 11.6)に置き換えることにより、 保存安定性、溶解物理現像に伴うカブリ解消、緑感 層の感度向上と同時に、青光成分のシャープなフィ ルター特性(図 11.7)で色分離が向上した。 アスーパー1600 は、「誰でも、どこでも、いつでも簡 単に写真を楽しめる」と言う開発コンセプトを更に 発展させた。また写真撮影領域の拡大から Shooting Performance Space の拡大へと発展させ、常用化を 現実のものとした超高感度フィルムである。 この Shooting Performance Space は従来の写真撮 影領域に実技面での使いやすさのファクター、ならび に粒状性、鮮鋭性及び色再現性のファクターから算出 図 11.6 2 種のイエロー染料の立体構造式 2) カラーネガフィルムの技術系統化調査 333 なり、1999 年には 35mm フォーマットで 400 比率が 50%を超えるようになった 4)。一方、コンパクトカ メラの小型軽量化とズームレンズの高倍率化が進み、 1990/91 年頃の 2 倍ズームカメラから 1998/99 年には 3 倍ズームカメラへと主力製品が移行し、ズーム側の レンズの絞り値が 8 から 11 を超えるまでになった。 また、撮影シーンの調査からもズーム撮影、屋内撮影、 夜間撮影が 50%以上を占めており、これらの動きか ら、フィルムにはさらなる高感度化の要求が増大して 図 11.7 緑感層の分光感度比較 2) いった。 そこで、以下の観点からの技術開発を行い、常用 これに加えてロバストネスエンハンサー、イグジ フィルムとして、より高感度のズームマスター800 を スティングライトスペクトル技術を導入する事によ 2000 年に開発した。 り、常用フィルム並みの画質と使いやすい特性を兼ね ①忠実色再現性の向上 備え、世界のスポーツイベントやフラッシュを使用し ない雰囲気重視のシーン、高倍率ズームカメラでの使 第 4 の感色層技術を導入。 ②アンダー側ラチチュード(低露光域の許容度 ; 特に 用など、初心者からハイアマチュア、プロの写真家の 色彩度)の向上 方まで安心して使用できる新常用フィルムを提供でき SUFG 技術から単分散高アスペクト比化と浅い電子 トラップの導入 5)による FINE Σ乳剤(図 11.8)技術 た。 11.2 フジフイルムの感材開発と銀塩技術 の新分野への展開 を開発。この粒子を用いて、図 11.9 に示すように低 露光域側の色彩度を向上した。 2000 年にスペリアズームマスター800 とスペリア 1600 のスペリアシリーズ、2001 年に「写ルンですエ クセレント」を完成し、2003 年にはスペリアビーナ スシリーズを発売した。2004 年にはノンフラッシュ による新しい写真システム「ナチュラルフォトシス テム」を提案し、フジカラーNATURA を市場導入し た。また、営業写真分野では 2005 年にフジカラープ ロ 160NS シリーズを開発した。さらに、撮影のデジ タル化が遅い映画用分野では、2001 年に第 4 の感色 層技術を搭載した昼光用フジカラーネガフィルム リ アラ 500D を開発し、2005 年にはエテルナシリーズを 図 11.8 従来乳剤と FINE Σ乳剤の電子顕微鏡写真比較 3) 市場導入した。さらに、2007 年には CG(コンピュー ターグラフィックス)との相性を考慮したデジタルレ コーダー出力専用フィルム エテルナ− RDI を開発す るなど、近年まで新製品の開発を継続し、市場の活性 化を図った。デジタルカメラによる影響は甚大なるも のの、銀塩カラーネガフィルムの市場提供を続け、 「写 ルンです」の開発を含め、銀塩写真文化の灯を守り続 けた。また銀塩写真技術の新分野への展開に関しても 簡単に記述する。 11.2.1 フジカラーズームマスター800 の開発 3) 1989 年のスーパーHG400 の発売が、常用フィルム 感度の ISO100 から 400 へのターニングポイントと 334 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 図 11.9 新 800 のアンダー側彩度向上効果 3) 影での白オバケ−プリント(強いフラッシュ光で顔な ③シャープネスの向上 新規 DIR カプラーによりイメージシャープネスを どの主要被写体だけが真白く写り込むこと)を防止す る(図 11.11)。 さらに増大。 このズームマスター800 の開発から、カラーネガ フィルムは ISO 感度 800 以上の超高感度感材開発競 争が始まることになった。 11.2.2 超高画質 写ルンですエクセレントの開発 6) 2001 年 12 月に発売した写ルンですエクセレントは 超 高 感 度 カ ラ ー ネ ガ フ ィ ル ム SUPERIA1600 と AE (自動露出補正)機構及び自動調光フラッシュを組み 合わせ、低露光域側の撮影領域拡大と高露光域側の小 図 11.10 エクセレントのレンズ構造 6) 絞り化によるシャープネス向上を達成した。 SUPERIA1600 は 2000 年 12 月に発売された ISO 感 度 1600 の超高感度カラーネガフィルムであり、第 4 の感色層技術、FINE- Σ乳剤技術、新規 DIR カプラー 技術等を駆使し、感度と画質、さらに色再現性(色忠 実性)の改良を図り、一般アマチュアでも汎用的に使 用できるフィルムとして仕上げられた。 写ルンですエクセレントは、撮影レンズに非球面 の 2 枚玉を用い、AE 回路により、低露光側では F8、 LV 値 11 以上の高露光側ではビトウィンタイプの絞 り を 挿 入 し F18 と 切 替 え る 方 式 に な っ て い る( 図 図 11.11 撮影距離に対するフラッシュ光量調節 6) 11.10) 。高露光域では従来の写ルンですのレンズ絞り 値を F11 から F18 に絞り込むことで、画面中心から システム感度アップと自動調光フラッシュの効果を 周辺までのシャープネスが改善し、周辺光量のアップ 図 11.12 に示す。フラッシュ光量が調節され、システ 及び色収差の減少も加えて、従来の写ルンですにない ム感度アップによる背景描写力と併せて人物 / 背景間 最高画質を達成した。また、低露光域では、絞り F8 の露光量バランスが改善されていることが分かる。 と調光フラッシュの採用により、背景も取り込んだ臨 超高感度フィルム SUPERIA1600 とこれらの高機 場感のあるプリントが得られるように工夫した。調光 能部品をコンパクトに、かつ低価格で開発し写ルンで フラッシュは受光センサーによりフラッシュ光の反射 すエクセレントに装着することによって、安価なカメ 量を検出しフラッシュ光量を調節することで、近接撮 ラに負けない写りと携帯性を両立した。 図 11.12 自動調光フラッシュとシステム感度アップの効果 6) カラーネガフィルムの技術系統化調査 335 ナチュラルフォトシステムの開発 7) ラ 1600 を装填した場合には ISO400 と認識させるこ 2004 年 10 月 に、 新 開 発 カ メ ラ NATURA S と カ とで、+ 2EV の露光を補正させることとした。一方、 ラーネガフィルム NATURA 1600 を組み合わせて、 その他の市販のフィルムを使用した場合には通常の露 ノンフラッシュの自然な雰囲気の写真撮影が可能であ 光補正で一般の汎用カメラとして使用できる。 るナチュラフォトシステム(NP システム)を発表、 ③システム感度 11.2.3 発売した。デジタルカメラの普及率が 50%を超え、 ノンフラッシュを標榜するからには、あらゆる明 写真産業は機能とコストが優先される市場になりつつ るさでユーザーの期待に応える描写が出来なければ あったが、銀塩写真の高感度と高ラチチュード(広い ならないが、数多くの実写テストにより、LV(Light 露光許容域)の特徴を最大限に活かした情緒価値の高 Value)3.5 をシステム感度の目標値に設定すること い商品の提供を試みた。 とした。こうすると、街灯の近くの人物やキャンドル * デジタルカメラの常用 ISO 感度は 100〜200( 2002 に照らされた人物等が描写可能である。一方、シャッ 年時点)に対して、カラーネガフィルムの常用 ISO ター速度は 1/45 秒で手振れ発生率が 5%以下となる 感度は 1600 と高く、撮影のダイナミックレンジも、 結果から、この速度制限を設けることとした。フィル CCD は+ 1EV(EV とは Exposure Value の略。2 の ムに ISO1600 を用いた場合、LV3.5 のシステム感度を べき乗で、1 違うと露光量が 2 倍、2 違うと 4 倍、3 達成するためには F2.0 という極めて明るいレンズが 違うと 8 倍の差となる)即ち 2 倍程度であるが、カ 必要である。そこで、非球面レンズ 2 枚を含む 6 群 7 ラーネガフィルムは+ 8EV、即ち適正露光から 256 枚で構成された F1.9 のレンズを開発した。 倍までの光量変化に対しても画像情報の記録が可能で 8) NP モードの露光制御を図 11.13 に示すが、屋内、 ある 。これはカラーネガフィルムにおいては、どん 夜間撮影領域では+ 2EV の露光制御を行い、1/45 秒 な露光条件の場合でも撮影の失敗がなくほとんど映像 のシャッター速度規制をかける。一方、日中屋外は の記録が可能であることを意味する。 低色温度光源の出現確立がないため、露出補正を+ ところで、通常ユーザーがどのような場所で撮影し 1.5EV に下げる設定とした。 ているのかについて露光量(LV 値)の頻度分布を調 査した結果、室内や夜間の撮影が 40%以上もの比率 に及んでいることが分かった。これまで、高感度フィ ルムを用いてフラッシュ撮影時の背景描写の向上を 行ってきたが、今回はこれまでの延長線とは異なる、 ノンフラッシュ撮影に取り組んだ。しかし、これには いくつもの越えなければならない課題があった。 ①適切な露出 実写による解析で、中央部重点平均測光に対して人 物の露出は概ね 2EV 程度アンダーとなった。これは 図 11.13 水平面照度や壁面照度に比べて部屋中央部の鉛直面照 ナチュラ S の露出制御 7) 度がどうしても暗くなることに起因する。 NP システムと通常撮影の比較を図 11.14 に示す。フ ②色温度 近年の照明設計では「落ち着き」や「安らぎ感」を ラッシュ発光により、近くの被写体のみが白く浮き上 与える、色温度の低い暖色系の照明が増えている。タ がる、いわゆる白オバケが解消され、自然なプリント ングステン電球や電球色の蛍光灯を用いるケースが増 仕上がりになることが分かる。また、ノンフラッシュ えてきた。しかし、カラーネガフィルムは 5000K の のメリットはまわりに気兼ねなく撮影可能であり、フ デーライト光源を前提に設計されている。また、カメ ラッシュ発光によりその場の雰囲気を壊すこともな ラの測光は緑色を中心とした分光感度になっている。 い。美術館等、フラッシュが禁止されている場所でも このため、色温度の低い電球等の光源下では特に青感 撮影可能であり、眩しさもなく、赤目も発生しない。 性層の感度が不足してしまうことが分かった。 これらのことから、室内等のノンフラッシュ撮影で 336 フジフイルムは、2004 年に銀塩写真のメリットを 活かした NP システムを新たに市場導入することで、 は+ 2EV 程度のオーバー側への露光補正が必要であ あくまで情緒価値の高い写真の楽しさを提供し続けて ることが分かった。そこで、専用のフィルム ナチュ いった。 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 図 11.14 NP システムによるプリント例比較 7) 11.2.4 映 画 用 カ ラ ー ネ ガ フ ィ ル ム ETERNA シ リーズの開発 9) E. I. 500 のカラーネガフィルムの発売というように、 世界に先駆けて高感度感材の市場導入を果たした。そ フジフイルムの映画用カラーネガフィルム開発の れ以降も性能改良を続けた。一例として、同じ E. I. 歴史は、1947 年に 3 色方式外式反転フィルムの試作 500 の感度を持つカラーネガフィルムである AX500 を完成させて以来、1955 年に映画用内式(アグファ (1989 年)、F-500(1991 年)、New Super F-500(1998 型水溶性カプラー使用)カラーネガフィルムを開発 年)について比較してみると図 11.15 の電子顕微鏡断 し、1969 年に映画用内式(コダック型オイルブロテ 面写真から分かるようにハロゲン化銀の粒子体積が クトカプラー使用)カラーネガフィルムを開発してき AX500 から New Super F-500 で 1/3 以下にまで減少 た。その後も、高感度化、画質改良及び目的別多様化 し、その結果として図 11.16 のように粒状性が大きく 品種の開発に務め、1980 年に E. I. 250、1984 年には 改善されていることが分かる 10)。 図 11.15 映画用カラーネガフィルムの断面写真の推移 10) (電子顕微鏡) 図 11.16 緑感光層の粒状性改良の推移 10) カラーネガフィルムの技術系統化調査 337 これらの改良は、一般用カラーネガフィルム分野で 開発した、ハロゲン化銀の革新技術(シグマクリスタ にじみ等が問題となり、また階調や色再現性の様々な 変化が色補正を困難にする等の課題が発生した。 ル技術)であり、新規の有機素材技術(新規 DIR カ プラー等)の映画用カラーネガフィルムヘの展開によ るものであった。 そして、これらの改良の集大成として、2004 年には 11) E. I. 500 ETERNA500(タングステンタイプ) 、2005 年に軟調 E. I. 400 ETERNA400(タングステンタイプ) 、 E. I. 250、250D の ETERNA250、250D(D: デイライト タイプ)という高感度かつ高画質の映画用撮影カラー ネガフィルム ETERNA シリーズを市場導入した 12)。 米国の「American Cinematographer」誌上で紹介 されている映画撮影に使用されたカラーガフィルムの 感度別比率をみると、中、高感度フィルムの使用が増 え、2003 年になると高感度(E. I. 500)と中庸感度(E. I. 250)のフィルムで全体の 80%を占めるようになっ ている。これは、暗いシーンの撮影だけでなく、撮影 用ライティング機材の簡素化によるコストダウンや機 動性向上のため、等に由来する。また、映画一作品に 使用されるカラーネガフィルムの数も二種類以上にな 図 11.17 映画フィルム作成のワークフロー9) ることが多くなってきた。これまで高感度フィルムは 感度が優先され画質がやや疎かにされていたが、感度 ところで、一般用カラーネガフィルムがデーライト が異なるフィルムがシームレスに繋がる場合の画質の タイプ、すなわち、光源の色温度が高い昼光色(約 差異(インターカット適性)が小さいことも映画作品 5500°K)用の設計に対して、映画用カラーネガフィ の質向上のうえで重要になってきた。そこで、画質の ルムの多くは色温度の低いタングステン用(約 3200° 高い低感度(E. I. 125)フィルムに対して、E. I. 250、 K)に設計されている。図 11.18 に色温度の違いによ 500 フィルムをシリーズで改良し、性能の揃ったライ るエネルギー分布の波長依存性を示す。 ンナップで市場に提供するための検討を開始した。 図 11.17 に映画撮影から上映までの流れについて簡 単に示す。通常、フィルム使用の場合は撮影済ネガ フィルムから 2 度のインターミディエイトフィルムヘ の焼き付けによる複製ネガフィルムを作り、これから 上映用ポジフィルムに焼き付ける。一方、デジタル化 も進展しオールデジタル化については、2000 年に開 発された SONY 製 HD24p ビデオカメラを用いジョー ジ・ルーカスが「Star Wars Episode 2」を撮影から 図 11.18 デーライト光とタングステン光の相対的な波長 のエネルギー分布比較 10) 上映までデジタルでできることを業界に示したが、上 338 映プロジェクターの導入、メンテナンスコストや海賊 この図から分かるように、光源がタングステン光の 版防止、アーカイバルの信頼性などの観点からオール 場合、青色光のエネルギーが赤色光に対して相対的に デジタル化への普及は鈍かった。ただ、編集工程では 低く、青感性層の感度を高く設計する必要がある。大 高解像度で情報を取り扱えるデジタル映像技術の進 まかに、各感色性層の一般用フィルムとの感度の対応 歩から、銀塩フィルムの画像にコンピューターグラ 関係を示すと、下記のようになる。 フィック(CG)を合成編集し、現実には有り得ない 映画用 E. I. 500 フィルム 一般用カラーネガフィルム 映像を創り出しフィルムにアナログ変換して上映され 青 ISO1600 る作品が増加した。このデジタル変換プロセスにおい 緑 ISO800 て、撮影フィルムの粒状性や編集時の画像エッジ部の 赤 ISO400 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August これから分かるように、特に映画用カラーネガフィ 上記の技術を搭載することにより、粒状性を例にと ルムの開発には青感性層の高感度化と画質劣化抑制 ると、図 11.21 から分かるように実線の ETERNA500 が 重 要 と な る。 ま た、 映 画 は 1 秒 間 に 24 コ マ( 約 は長破線の従来 E. I. 500 フィルムから大幅に粒状性 50cm)のスピードで撮影され、カメラノイズ或いは を改良し、不満の少ない E. I. 250 フィルムに近い世 カメラ内の走行時の榛みや傷などの外的圧力に対する 界最高水準の粒状性を実現できた。 適性も要求される。 こ れ ら の 課 題 を 踏 ま え、ETERUNA シ リ ー ズ の フィルムには下記の技術が盛り込まれた。 ①スーパ一・ナノ・ストラクチャー・シグマ・グレイ ン技術 ②スーパー・エフィシェント・DIR カプラー技術 ③スーパー・エフィシェント・カプラー技術 スーパ−・ナノ・ストラクチャー・シグマ・グレイ ン技術について、簡単に説明を加える。まず光吸収率 を向上させるために、粒子の平板度をあげて増感色素 図 11.21 ETERNA500 の粒状性改良効果 9) による受光断面積を増加させた。また、潜像形成効率 を向上させることも重要であり、光電子と色素正孔の さらに色再現性や鮮鋭性の改良と併せて、暗保存堅 再結合による固有減感防止のために、光電子を一時捕 牢性に優れた新規カプラーの採用によりアーカイブ性 獲できる電子蓄積部として、平板粒子のフリンジ部に も向上し、デジタル時代にも充分に威力を発揮する 刃状転位構造を内蔵させてきたが(図 11.19)、平板粒 ETERNA シリーズのカラーネガフィルム群を市場に 子の厚みが薄くなるにつれて転位構造が不均一となっ 提供することができた。 た。そこで平板粒子基盤と格子定数のミスマッチが大 きいハロゲン化銀エピタキシーをホスト粒子側面に局 在させる成長法を開発し、この課題を克服した。図 11.2.5 映画用デジタルレコーダー出力専用フィル ム ETERNA-RDI の開発 13) 11.20 は電子顕微鏡によるハロゲン化銀の透過写真で 2005 年の ETERNA シリーズの開発に続き、2007 あるが、新開発粒子はフリンジ部に集中して、高密度 年には映画製作におけるトータル画質向上のソリュー で均一な刃状転位が内蔵されていることが分かる。 ションとして、フィルムレコーディング画質を飛躍的 に向上させる、業界初のデジタルレコーダー出力専用 フィルム ETERNA-RDI を市場導入した。 近年、映画製作におけるデジタル編集比率は着実に 増加し、現在では 80%を超えるに至っている。 こうしたトレンドと共に、映画製作のワークフロー も変化をとげてきた。図 11.22 のように、ネガフィル ムをスキャニングした高画質の画像に、さまざまなデ ジタル画像を合成し、デジタルマスターが作られる。 フィルムレコーダーを用いて、これを出力フィルムに 図 11.19 潜像形成の模式図 9) 記録し、さらに複製フィルムを作成した後、ポジフィ ルムにプリントし上映される。 図 11.20 新旧粒子の刃状転位比較 9) カラーネガフィルムの技術系統化調査 339 スーパー・ナノ・キュービック・グレイン技術に ついて簡単に説明する。インターメディエイトフィ ルムは高い鮮鋭性と優れた粒状性を必要とし、0.1〜 0.2μm の微粒子ハロゲン化銀を使用している。これ までのアナログ方式である撮影ネガフィルムから面露 光をする場合は露光時間が 1/1000 秒オーダーであっ たが、走査型レーザー露光方式の場合では露光時間が 数十ナノ秒(ナノ秒とは 10 − 9 秒)となり、露光時間 がこれまでの 106 分の 1 に短縮される。このため、高 照度相反則不軌 14)(相反則不軌とは露光時間×露光照 度のトータル露光量が同じでも、感度が変わる現象を 図 11.22 近 年 の 映 画 フ ィ ル ム 作 成 に お け る ワ ー ク フ ロー13) いう)が発生していた。これに対して、イリジウム錯 フィルムレコーディング工程は、デジタル / アナロ 浅い電子トラップを形成することで、超短時間露光に グ変換を行い、トータル画質を左右する重要な工程で より発生した光電子を一時捕捉し、潜像として有効に ある。さまざまな技術革新がなされたが、1998 年に 活用させられるようにした。また、増感色素の会合性 独 ARRI 社がレーザー走査記録方式の ARRILASER や親疎水性の詳細な検討から、従来知られていなかっ を開発し、飛躍的な高精細、高コントラスト化による た特定の増感色素の組み合わせによって、フィルムレ 高画質化を達成した。しかし、レコーディング用フィ コーダーの各レーザー光の波長にあった分光感度スペ ルムは従来のアナログ編集用インターメディエイト クトルを生み出すことで、レコーダーとのマッチング フィルムが使用されていたため、デジタルマスターの を図った。この変更により、オーバー露光による色濁 情報量がフィルムに充分に伝達されていなかった。 りも抑制できた。 そこで、ハイライト部の画像にじみと混色による色 体をハロゲン化銀粒子内部の適切な位置にドープし、 これらの改良により、実質的に感度を 10 倍近く高 再現の劣化、及び長尺レコーディング時のトップ / ラ められ、これを原資に小粒子化と銀量削減を果たし、 スト駒間の色ずれに的を絞り、性能改良研究を開始し スーパー・エフィシェント・ライト・コントロール技 た。画像にじみとは、劇場スクリーンは横幅 25m を 術も併用することで、にじみ低減に対する相乗効果を 超えるものも多く、拡大率は実に 1200 倍を超えるた 生んだ。 め、インターメディエイトフィルム作成時の微細な 映画分野においても、フジフイルムは 2000 年以降 フィルム内の光散乱が上映時ににじみとして写る現象 も銀塩写真の文化の灯を守りながら、デジタル技術と をいう。混色による色再現劣化とは、レーザーの光量 の融合を図り、高画質で使い勝手の良いシステムとし をあげてインターメディエイトフィルムに露光した場 ての製品の開発を継続していった。 合、露光のレーザー光はあくまで単色であるが、フィ ルム中ではレーザー光と異なる感色性層が僅かな感度 銀塩写真技術の新分野への展開 15) を持つことで発色し色純度を落とすことである。ま 銀塩写真の技術は、現在では産業用機能性材料のみ た、トップ / ラスト駒間の色ずれとは、レーザーによ ならずヘルスケア商品(化粧品・サプリメント)等へ るフィルムへのレコーディングが 1 コマ数秒かかり、 も新たな展開を続けている。フジフイルムは、写真 2000ft 長 1 ロールのレコーディングに 15 時間以上要 フィルムへの研究開発を通じて獲得した「画像技術」 、 するため、その後すぐに現像すると露光後時間の経っ 「機能性材料技術」などを他分野にも応用することで たトップと露光直後のラストの駒間で、潜像保存性の さまざまな事業への進出を果たしてきた(図 11.23 参 差により各感色性層間のわずかな色バランスの変化が 照)。その結果、2010 年現在、一般撮影用カラーフィ 起こる現象をいう。 ルムの売り上げはフジフイルム連結売上高の約 2%を これらの課題に対して、①スーパー・ナノ・キュー ビック・グレイン技術や②スーパー・エフィシェン ト・ライト・コントロール技術を新たに開発すること により、前記課題を克服し ETERNA-RDI フィルムを 市場導入することができた。 340 11.2.6 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 占めるにとどまり、売上高の大半は写真フィルム以外 のビジネスによって生み出されている。 図 11.23 フジフイルムの製品開発の歴史一覧 15) 現在の事業は表 11.1 のように 5 事業から構成され 形」、「多層精密塗布・パターニング」、「薄膜形成・加 ているが、多くの事業は銀塩写真技術から派生したコ 工」、「機能性ポリマー合成」の 8 要素技術に分類され ア技術が中核に在ることが分かる。 る。これらの要素技術の組合せが新たな製品や事業を 生み出す根幹となっている(図 11.24 参照)。具体的 表 11.1 フジフイルムの事業分野 15) な製品の例を以下に述べる。 (1)液晶用フィルムの製品例 ワイドビューフィルム(WV)は、カラーフィルム で使用する TAC フィルムを支持体として、その上に 独自のディスコティック液晶でコーティングされた フィルムである。液晶ディスプレイの視野角拡大の効 果が得られるフィルムで、フジフイルムが世界に先駆 け開発した。液晶の構成図を図 11.25 右に示す。通常 は液晶セルを通過した光は指向性を持ち、正面しか明 るくないが、WV フィルムを装着することで、指向性 写真材料技術の中核は、大きくは「分散」、「粒子形 を解消し広い角度に均一な光を届ける。このため、ど 成」、「機能性分子合成」、 「酸化還元処理」 、「精密成 の方向から見ても明るい液晶画面が見られることにな 図 11.24 写真材料技術をコアとした技術発展 15) カラーネガフィルムの技術系統化調査 341 図 11.25 液晶の構成図とワイドビューフィルムの効果 15) る。図 11.25 左画面の左側に WV フィルムが装着され テクノロジー技術が多くの製品に活かされている。 ており、上下左右どこから見ても、果物が同じ明るさ で再現されていることが分かる。TAC フィルムの製 造も銀塩に由来する独自の、数多くの生産技術によっ (3)医療診断システムへの応用例 例えば、写真の現像プロセスで用いる銀塩の増幅技 術を応用することで、一般的な診断薬と比較して約 て支えられている。 100 倍の高感度でインフルエンザウイルスを検出でき (2)機能性化粧品・サプリメントの製品例 銀塩写真技術から生まれた機能性化粧品アスタリフ トに使われている技術を概説する。 る「超高感度イムノクロマト法インフルエンザ診断シ ステム」を開発した。(2011 年) 「超高感度イムノクロマト法インフルエンザ診断シ ステム」は、試薬中の金コロイド標識の周りで銀を増 ①コラーゲン技術 写真フィルムの主原料であるゼラチンは、肌の主成 幅させて標識のサイズを拡大することで、試薬上に検 分と同じコラーゲンから抽出したものである。写真研 体と試薬の抗原抗体反応によってできる判定ラインを 究の歴史はゼラチンやコラーゲン研究の歴史でもあっ よりはっきりと示すことができる。さらに、生化学自 た。その研究成果が化粧品やサプリメントなどに応用 動分析装置やデジタルカメラなどで培った画像認識技 され、未来への可能性を広げている。 術を応用した読み取り機能搭載のデンシトメトリー分 ②写真の色あせ防止技術 析装置「富士ドライケム IMMUNO AG1」での測定 以前撮った写真がいつのまにか色あせているという 結果を自動判定することで判定誤差を格段に低減させ 写真の色あせの原因は、活性酸素による酸化現象であ た。これにより、発症初期などのウイルスが少ない状 る。フジフイルムは写真プリントや生フィルムの劣化 態における診断精度を大幅に向上させた。 を守るために、製品または成分の酸化を制御する技術 以上、写真材料を土台とした基盤技術から派生する の開発に力を注いできた。人間の体内でも重要な化合 新たな製品や事業の可能性は未だ尽きない。あらため 物である水溶性のビタミン C や油溶性のビタミン E て、新たな製品開発や上市を通じて確立された銀塩写 等がカラーネガフィルムにも添加され酸化劣化を防い 真技術の高度さと精緻さを少しでも認識していただけ できた。その技術がアンチエイジング技術として機能 ると光栄である。 性化粧品やサプリメントの開発に活かされている。 引用文献 ③ナノテクノロジー スキンケアに重要なことは必要な成分を働きはその ままに肌の必要な場所(角層まで)へしっかりと届け 発」、大谷博史 ら、Konica Tec. Rep., 14, 9(2001) ることである。実はこれは写真フィルムの持つ機能と 2)「常用超高感度カラーネガフィルムの開発」、岩崎 よく似ている。さまざまな働きをもつ成分を、働きは 利彦、高田宏、大谷博史、Konica Tec. Rep., 16, そのままに超微粒子化し非常に薄いフィルムの中の必 5(2000) 要な層へ安定して配置することで優れた写真フィルム は作られる。この微細化し必要な場所で働かせるナノ 342 1)「次世代カラーネガフィルム New Centuria の開 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 3)「フジカラー ズームマスター800 の開発」、須賀 陽一、久米裕二ら、富士フイルム研究報告、46、 10)「高感度映画用カラーネガフィルム New Super F 9(2001) 4)「高画質の訴求と APS で普及を促進」 、フォト マーケット 8 月号、21(268) 、11(2000) 5) 大脇知徳ら、日本写真学会秋季大会予稿集、29 イルム研究報告、45、1(2000) 11)「Fujicolor Negative Film 500」、富士写真フイル ム㈱、映画テレビ技術、630、75(2005) (1995) 6)「超高画質 写ルンですエクセレントの開発」 、野 口修由、久米裕二ら、富士フイルム研究報告、 47、7(2002) 7)「NATURAL PHOTO SYSTEM の 開 発 」、 内 田 充洋ら、富士フイルム研究報告、50、4(2005) 8) Mittsuhiro シリーズの開発」 、西村亮治、槙野克美、富士フ Uchida et al., ICIS ʼ02, TOKYO, 120 (2002) 9)「映画用カラーネガフィルム ETERNA シリーズ の開発」 、白井英行ら、富士フイルム研究報告、 12)「Fujicolor Negative Film 400/250/250D」 、富士 写真フイルム㈱、映画テレビ技術、641、51(2006) 13)「映画用デジタルレコーダー出力専用フィルム ETERNA-RDI の開発」、富士フイルム研究報告、 53、1(2008) 14)「写真感光材料の特性値のバラツキ」、林淳、材料 科学、17、25(1980) 15)フジフイルムホームページ、フジフイルム・ア ニュアル・レポート 2011 など 51、12(2006) カラーネガフィルムの技術系統化調査 343 12 12.1 銀塩写真における重要技術誕生の経緯、秘話 ダゲールによるダゲレオタイプの 発明 鎌田 彌壽治著の「写真知識」から以下の文章を引 1) り、未だかつてないほど人心を沸かした。この日は ちょうど月曜日にあたり夏の好天に恵まれ、開会は 午後 3 時というのに正午前からあらゆる学者、好事 家、美術家等々が会場に押しよせ文字どおり立錐の余 用する 。 『1827 年 8 月、フランス・パリのソルボーン大学で 地もなく開会を待った。アラゴーが発表を行いダゲー フランスの大科学者アンドレ・ヂュマスという人が科 ルの作品である銀板写真 3 枚を大衆に見せたところ、 学に関する大講演をやったことがある。講演が終わっ 群衆は感きわまって涙を流し、フランスの大歴史家パ た時、講堂を圧する大聴衆の中から、いかにも疲れ ウル・ヂュラローヘは「こんな大発明が現れてきた以 切ったような一婦人が、ヂュマス先生のそばに近づ 上、もはや従来の通常の絵画は跡を絶つであろう」と き、おそるおそる先生にたずねた。 呻いた。 「先生まことに失礼ですが、私にとりましては非常 ダゲレオタイプ写真についていうと、銀メッキを施 に大切なことを、この機会に先生におたずねしたいの した銅板の上にヨードの蒸気をあてて作るのだが、そ であります。お許しを願います。じつは私はダゲール のヨウ化銀粒子は非常に微小なサイズと推測され、感 と申す画家の妻であります。私の主人は数年前から、 度は低く 30 分くらいの露光を要した。そこで、写真 彼が以前から風景画を描くために使い慣れたカメラ 技術者は被写人物に「身体や顔の位置さえ狂わさなけ の、焦点上に映じた自然物の映像を、化学薬品か何か れば露光中でもいくどか 1〜2 分間ぐらい眼を閉じて で、瞬間的に固定捕捉せんと思いたち、その後は夜も いてもよい」という忠告を与えたという珍談もある。 ほとんど眠らず、夢中になって一所懸命であります。 有名なパリの「タンブル街風景」の写真では、ほとん あまりに熱心なので、私はもはや、彼は精神に異常を どの通行人は感度が低く写らなかったが、靴磨きのた 呈したものと心配でたまりません。先生そんなこと めに片足を上げて静止していた紳士のみが撮影され世 が、はたして実際にできるものでしょうか、いや私は 界最古の銀塩写真での被写人物となった。ダゲレオタ もはや主人は発狂したものと思います。それで世界の イプ写真は低感度ではあるが、ヨウ化銀が超微粒子で 大科学者ヂュマス先生に、これに関しご意見をお聞か あるが故に、風景写真等において非常に精密な描写が せ願いたいのであります─。 」 撮影され、人々は虫メガネで写真を覗いてその忠実さ ヂュマス先生少時、瞑目沈思ののち、「それはすこ に驚愕したそうである。拡大すると、肉眼では見えな ぶるむつかしい質問でありますが、私は現在の人間の いくらい遠方にある文字までもが判読できるほどの圧 知識では、まずまず不可能と存じます。ただし、それ 倒的な画像の精緻さであると評された。大体において が未来永劫に不可能であるかどうかを、今ここで断定 昔の写真は、感度は低いもののハロゲン化銀のサイズ するわけにまいりかねます。ですから、あなたのご主 が微小なため非常に高精細な画質の写真が多い。 人が発狂した、というのは、またここで断定するわけ ダゲールという人物は、舞台背景画家・パノラマ画 家・ジオラマ作家としても活動していたらしく、発明 にはまいりませぬ─。 」 この話は写真術の発明家ダゲールが 1851 年に死 よりも創作活動に力を入れていたマルチな才能を持つ んだとき、当のヂュマス大先生自身が、Illustrated 活動家だったとよく評されている。しかし現実には、 London News, 26, July. 1851. 紙上に発表したもので 10 年以上も銀塩写真の発明に没頭した粘り強い研究 ある。 』 者であった。多分、彼は写真のネガ像を得る等の成果 上記のような苦労が実を結び、フランス人画家のダ 344 士院で公表した。その時の光景は、実に壮観緊張であ は既に得ていたのではないかと言われているが、あく ゲールは、夫人がヂュマス先生に以上の質問をしてか までポジ像でないと写真でないとして研究を続けた。 ら 13 年後の 1839 年 1 月 7 日に、天文台長であり学士 そしてある時、ダゲールが失敗した露光銀板を後で磨 院会員、参議院であるアラゴーという人物を通じて いて再使用するために薬品棚に入れておいたところ、 フランス議会にダゲールの写真術を報告し、彼の発明 翌日、露光した部分に白いポジ像が現れていた。驚い を天下に公表することになった。その後、ダゲレオタ て、何故白いポジ像が出現したのかその原因を調べる イプ撮影法の詳細について同年 8 月 19 日にパリの学 ために、薬品棚にある薬品を一つ一つ調べていったと 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August ころ、なんと壊れた水銀温度計からこぼれ出た数個の ら提供を受けた色素コラリンを、臭化物を含むコロジ 水銀粒とハロゲン化銀表面の銀核で白いアマルガムを オン液に添加して塗布し、硝酸銀で感光化して得た赤 作り出しポジ像が描かれていることを発見した。そし 色に染まった湿板をスペクトル露光したところ、青と て、水銀蒸気に当てて現像する方法を見出し、さらに 黄の両波長域にはっきりと認められる感度を得た。彼 濃厚食塩水に浸すことによりヨウ化銀を洗い流し(後 はまた同湿板を用いて、青と黄色の二色より成るパ にはハイポ溶液が使用される) 、光を当てても変化し ターンを写真撮影することによっても黄色域に感度を ないポジタイプの固定写真像を作成するに至った。長 持つことを実証した。 年に亘る研究の末、偶然の水銀温度計の破損によりタ ゲレオタイプ写真が発明されることになった。 12.2 フォーゲルによるハロゲン化銀分光 増感技術の誕生 2)、3) 1873 年 の ド イ ツ 化 学 会 誌 Berichte に 発 表 さ れ た フォーゲルの感色性拡大の新知見 4) は写真界の注目 を集めた。しかしその後、当時実力派の研究者から、 結果を確認できない、フォーゲルの実験方法に疑念あ りとの報告が相次いだ。さらには、フォーゲル氏自身 ドイツの光化学者ヘルマン W. フォーゲルは 1834 が色盲ではないのかと揶揄されるまでに至った。これ 年にベルリンの近くの Dobrilugk という小さな村に に対し、フォーゲルは断固とした短い論文で応え、ま 商人の子として生まれた。彼の父は家業を継いで商人 た、色素を作用させる方法にも工夫を凝らしていっ となるように強要したが、フォーゲル自身は何かもっ た。例えば、臭化物のコロジオン溶液に添加する時に と価値のあることをしたいと願い自然科学への興味を は無効なシアニン色素も、出来上がった湿板の上に色 持ち続けた。彼が写真に強い興味を抱くようになった 素溶液を上塗りした時には色増感剤として有効である のは、彼がベルリン大学の鉱物博物館の助手時代であ こと等を見出した。さらに、フランスの物理学者エ り、岩石の断面の拡大写真を撮ることが必要になって ドモンド・ ベクレルが葉緑素による赤光への増感を からである。彼は 1863 年に 1874 年に報告し、色増感を確認し拡張する動きも現 光の中での塩化銀、臭 化銀、およびヨウ化銀の挙動および写真の理論につい て と題した博士論文を提出した。 彼は色増感などの写真科学の研究を進めると共に、 れ始め、漸く広く認知されるに至った。 色増感に対して向けられた否定と不信は、取りも直 さずこの発明の意外性、革新性を表している。そし 日食観測のための海外遠征に加わったりしていた。そ て、この発明も下記に述べるいくつかの偶然と幸運に して、天体観測に対するハロゲン化銀の適性を調べる 助けられて成し遂げられたのであった。 べく、太陽光をプリズムで分光したスペクトルに各 ①彼は若いころ、船のボーイとなって航海しようとし 種の感光材料を露光しては感色性を測定していた。当 たが、急病のため船出することができなかった。し 初、彼は感光材料の調整方法によっては感光域が青か かし、六か月後にその船の乗務員は全員黄熱病で死 らさらに長波側に僅かながら拡張することがある現象 亡した。 に期待を寄せ、これを注意深く調べていた。1873 年 ②発見時の色素コラリンの増感効果は小さく、不安定 早春に、ある一種の臭化銀コロジオン乾板が緑光に対 でもあり非常に捉えにくいもので、狭い条件範囲で して他では見られない高い感度を示していることに しか効果が現れなかった。特に色素の添加量は微量 気付いた。それは英国の Stuart Wortley 社の商品で でしか効かず、それ以上の色素添加は全体感度を下 あった。当のメーカーや他のユーザーも気付かない げるだけであった。彼はかすかな異常現象を鋭い観 ほどの僅かな感色性の差異であったがフォーゲルはこ 察力で捉え、的を射た実験と考察の積み重ねで現象 れを見逃さなかった。そこで彼が同社主にこの乾板の の本質を把握し重要性を明確に認識した。 素性を問い合わせたところ、コロジオン乳剤層上に硝 ③色素によるハロゲン化銀の感色性拡大は当時の人の 酸ウラニル、ガム、没食子酸塩とある種の黄色色素 意表をついた発想だった。 「光を吸収する物体だけ を含む液が上塗りされているとの報告を得た。一方、 が光による化学的変化を受ける」という Grotthus- フォーゲルが Wortley 乾板を水エタノールで洗うと、 Draper の法則が確立され、普遍的に成り立つと信 もはや緑感度は認められなかった。黄色色素は像のハ じられていた。そこへ、単に染料を乳剤に加えるだ レーション防止に使われていたが、これ以外の成分は けで感色性が拡大できるとのフォーゲル発明の報に 当時コロジオン乾板に広く使用されていたから、彼は 接して、多くの科学者は驚き疑い、有り得ないと断 色素に注目した。 じた。 フォーゲルは同僚の有機化学者リーバーマン教授か ④用いた乳剤がコロジオン臭化銀であった点も幸運で カラーネガフィルムの技術系統化調査 345 あった。発明時の乳剤がもしゼラチン媒体であった 写すべきである」と、発明の重点をフィルムの作成に なら、ずっと小さな増感作用しか示さず効果を見逃 移す、即ち、物理学から化学への転向を図った。1921 した可能性も有り得る。 年 10 月には B、G、R の白黒ネガ銀像に補色を着色 フォーゲルが色素コラリンを用いて初めて観察した する特許出願をした。色分離は悪く、実用的価値はな 分光増感の性能はかなり低いものであった。コラリン かったが、写真乳剤や現像処理等の技術要素の理解を による分光増感の量子効率は小さく臭化銀への吸着も 深め、実験操作にも習熟した。減色法プリントで当時 5) 弱いことが分かっている 。しかし、現在ではシアニ 主流である色素転染法(Y、M、C の 3 枚のポジプリ ン色素やメロシアニン色素から量子効率が 1 に近い ントを各々作り密着してカラープリントを作成する方 数々の優れた増感色素が見出されている。また、効率 法)に彼らは目もくれず、乳剤層中に色像を形成する が低い色素の場合でも第二の化合物を添加することに 方法に集中したことは注目に値する。将来への優れ より効率が高くなり、しばしば 1 に近い値となること た洞察力をもっていたということであろう。1921 年 6) があり、強色増感と呼ばれる技術として発展した 。 7) そしてジェリー とシーベ 8) が、ほとんど同時にシア ニン色素を用いて J 会合体と呼ばれる特異な凝集体を り、その中で制限浸透法による色の分離発色法も示さ れている。 形成する技術を見出してから、分光増感技術は現在の 1922 年にウッド教授から紹介を受けたコダック研 銀塩写真にとって欠くことのできない根幹技術となっ 究所長ミースは彼らから研究について説明され、最近 て成長していった。 の進歩と熱意に感銘を受けて資材等の提供を約束す 12.3 多層カラー感材コダクロームの開発 の歴史 9) る。ミースは「時代を変えるような大きな革新は部外 者の飛躍的発想から生まれる」との信念を持ち、辛抱 強く支援を続けることになる。さらに、マンズが両親 コダックは 1900 年初頭に、これからのコダックの の欧州演奏旅行に同行した時に産業振興に熱心な企業 発展を駆動するのは一般消費者市場であるとし、次の から彼らは資金援助も受けた。しかし、特許出願から 発展に重要な技術の一つはカラー写真であると考え みて 1926 年頃まではっきりした成果は見当たらない。 た。コダックはルミエールのオートクロム方式や減色 打開のきっかけは、1927 年にザ・ヒストリー・オ 法 2 色プリント方式、レンチキュラー加色法反転方式 ブ・スリーカラーフォトグラフィー(E. J. ウォール 等の検討を 1930 年頃まで重ねたが、事業的に成功す 著 1925 年)を読み、その中の R. フィッシャーによる るものはなかった。そして、1930 年にマンズとゴド 発色現像の解説から知識を得た時に訪れた。ただ、2 フスキーをコダック研究所に迎え、多層カラー感材の つの乳剤層に異なる色のカプラーを入れてカラー現像 本格的研究を進めることになる。 してもアルカリ性の現像液中で 2 種の色素が溶解移 レオポルド・マンズとレオポルド・ゴドフスキーJr 動するため色分離が出来ない。そこで、彼らは 1 層に は共に 16 歳の時の 1916 年にニューヨークの高校で出 R、G、B の乳剤を並べる mixed grains の研究を始め、 会った。共に音楽家の父を持ち音楽家志望であった カラー現像によってフルカラーを得る内容で 1927 年 が、写真への趣味も共有していた。ある日、映画館で 11 月に特許出願した。色飽和度は低いが一応フルカ カラー映画を見た時、4 色のカラー像を別々の映写機 ラーが得られた。 からスクリーン上で合成する加色方式であったため、 一方、コダックでは 1929 年にブルッカーが合成し 像の重なりが不十分で輪郭から色が滲んでいた。これ た凝集型色素が吸着力も高く、乳剤層中を事実上移動 を見て、自分たちでこれを改良しようと考えた。理科 しないという知見が得られたが、コダックのカラー写 室を借り、企てを周囲に語ることで、劇場を貸してく 真化の試みは事業的に期待されたような普及を見ず、 れる興業主や光学専門家のウッド大学教授等、応援の 転染方式という新たなテクニカラーシステムの市場導 輪ができていった。高校を卒業して其々違う大学に進 入も迫っていた。 学したが、連絡を取り合いながら、カラー写真の検討 先述したようにミースは 1930 年にマンズとゴドフ も進め、1920 年には特許出願を行った。それは映写 スキーをコダック研究所に迎え、本格的な研究をス 機のレンズ移動機構の特許であった。劇場の映写機に タートさせた。1932 年には制限浸透技術を層差別に その光学系を取り付け映写したが、カラー画像は芳し 用いるカラー写真の特許を出願した。しかし、1929 くなく映写技師には調整しにくいと評された。 年から大不況が始まり、1932〜3 年頃は研究所を巡る そこで彼らは「完成した一本のカラープリントを映 346 1 月には開発の基本方針を示す重要特許を出願してお 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 経営環境が厳しくなっていった。また、1933 年 5 月 には研究の最大理解者であり創業者である G. イース 改良は、第一には不要吸収の少ない色素を与えるカプ トマンが急死(自殺)した。そこで、ミースは市場導 ラーの開発であったが、現有のカプラーを用いての少 入が可能な 2 色フィルムの早急な商品化を図ると共 しでも良い色彩を得ようという試みも為されていた。 に、制限浸透技術の権利化や改良カプラーの特許化を コダック社の R. M. エバンスと W.T. ハンソン Jr は 行った。 1937〜1941 年までの間に実用化を多数試みたが、そ 1933 年までに彼らが築き上げた技術に基づいて、 れに伴う現像工程の一層の複雑化のため実施までには コダックの研究者、技術者と昼夜を問わず働き、3 色 至らなかった。1943 年には色像の階調を硬くして色 フィルムの実現に目途をたてた。マンズとゴドフス 彩感を強調するコントラスト・マスキング法 12)がコ キーは品質向上の意欲に際限がなかったが、ミースが ダカラーフィルムに導入されたが若干の色再現改良に この段階で商品化を決断した。そして、1935 年 4 月 留まっていた。 15 日にアマチュア向けの 16mm 幅 3 色反転カラーシ ところが 1943 年 2 月にハンソンは就寝中、新しい ネフィルム「コダクローム」を発売した。これは史上 色再現法の発想を得る。それは、 「カプラー自身が着 初の 3 色重層モノパック感材であり、市場展開されて 色しており、カラー現像時にその色を消しながら本来 いたアマチュア用シネカメラにそのまま入れて撮影す の発色ができれば不要吸収は補償することができる。 」 る事が出来た。 というものであった。翌朝、その原理を半ページの覚 このコダクロームフィルムは市場で歓迎され、一夜 にして成功であることが明らかになった。この外式カ 書に記し、同社の有機化学者であるヴィタムにこのよ うに働く化合物はないかと尋ねた。 ラーネガフィルムの現像は前記に説明したように複雑 この時、ワイスバーガー研究室にロシアから逃れて な工程であり、コダックの現像所に運び集中処理され きた I. L. オストミスレンスキー教授が客員研究員と たが、これまでのような R、G、B 分解露光して 3 枚 して滞在していた。彼の研究テーマはアゾピラゾロン の分解フィルムを作る等の必要がなく、今までの白黒 色素であり、彼から黄色色素の提供を受けたワイス 写真の撮影、映写機材が使えることで、従来の方式 バーガーは、 「反応位置が既にアゾ基で占められたピ に対する大きな進歩となった 10)。この成功の要因は、 ラゾロンは発色しないはずだが、もしものことがある マンズとゴドフスキーの楽観的な行動力とコダック社 かもしれない」と発色テストをヴィタムに依頼した。 の総合的な技術力が相俟って可能とした強行突破で ヴィタムがカラー現像した結果、驚いたことに黄色い あった。彼らがカラー映画の改良を志してから約 20 色素がピラゾロンとの反応によりマゼンタ色に発色し 年目の完成であり、理想を求め目標に対しブレない執 た。当時としては常識を覆すような発見ではあった 念を強く感じる。また、音楽家でありながら、物理学、 が、ただその時はこの化合物の当面の使い道もなく、 化学への転身を図った天才的能力に敬服する。一方、 収納棚に収められていた。 大企業であるコダックがこの二人にカラー写真の一方 ハンソンからの質問を受け、ハンソンとヴィタムは 式を託したことにも(勿論、他の方式の検討は行って 直ちにそのアゾピラゾロン色素をハンソン案のカラー いたが) 、驚きを覚える。ミースのいう「時代を変え ドカプラーとして評価したところ、青色領域の不要吸 るような大きな革新は部外者の飛躍的発想から生まれ 収を補償できることを実証できた。夢の中の課題発想 る」との信念が強かったのか、今、繙けば当然と思 が、偶然にもテストした化合物との出会いによって える多層カラー感材の発想が当時はあまりに飛躍的で 一気に具体化することになった。そして、ワイスバー あったのか。いずれにしても、長く辛抱強い開発の歴 ガーも加わり実用化へのチーム活動が開始された。 史により、今日の近代的なカラー写真の第一歩が誕生 酸化体によって置換され、イエローカラードカプラー した。 12.4 そして、カプラー反応位のアゾ基がカラー現像薬の カラードカプラーによる色再現改良 方式の誕生 11) からマゼンタの色素を形成することがヴィタムらに よって確かめられた。イエローカラードマゼンタカプ ラーとレッドカラードシアンカプラーの一般式を図 1940 年代初頭に市場に出回っていた発色方式のカ 12.1 に示す。イエローカラードマゼンタカプラーの母 ラー写真の色彩はかなり貧弱であった。当時使用して 核は 1 - アリル - 5 - ピラゾロンであり、反応位にアゾ いたカプラーは必要とする波長以外の不要吸収を相当 基がついていて黄色を呈するが、パラフェニレンジア に持っており、これがもたらす色劣化をネガとポジか ミンのカラー現像薬とカップリングすることで、アゾ ら二重に受けるため再現色の純度は低かった。この 基を離脱しマゼンタ発色する(図 12.1 の上図) 。レッ カラーネガフィルムの技術系統化調査 347 ドカラードシアンカプラーは母核がナフトールであ り、反応位にアゾ基がつき赤色を呈するが、カラー現 像薬とカップリングすることで、アゾ基を離脱しシア ン発色する(図 12.1 の下図) 。 12.5 アグファによる内式(カプラー内蔵 型)カラーネガフィルムの発明 1930 年代半ば、ドイツのヒットラー内閣からの国 威発動要請と、カラー写真分野の他社の動き(テクニ カラー社の転染法導入、コダックのモノパックカラー 感材の開発等)を背景として、アグファ社は研究所 長の J. エガートにカラー写真開発の促進をあらため て要請した。この頃、同社の有機化学者 W. シュナイ ダーは白黒用現像薬の改良に携わっていたが、現像に より現像銀の生成に加えて色素が副生成することに関 心を持った。また、以前には白黒感材のハレーション 防止として脱色可能な色素をフィルム内の 1 層に固 定する技術を実用化していた。1912 年にドイツ人の R. フィッシャーによって、赤、緑、青の各感光層の 中にハロゲン化銀と各発色剤(カプラー)を入れてお 図 12.1 各種カラードカプラーの構造式例 き、現像で発色させるという多層カラー写真の原理が 考案されていた。そこで、シュナイダーはこの色素分 カラードカプラーを採用した最初の製品は、1947 子の特定基をカプラー分子に組み入れれば、カプラー 年発売のプロ用エクタカラーシートフィルムで、同 を乳剤層に固定できるだろうと直感的に考えた。そし 年ハンソンらがマスキング技術の原理を発表してい て、彼はカラー写真の実務は全くなかったが、このカ る 13) 。ついで、1948 年に一般用コダカラーフィルム、 材を作れば、1 回の現像で各層を発色しカラー写真を (ECN)が上市された。特に映画用フィルムのインパ 作れると主張した。彼は上司の G. ヴィルマンズと 2 クトは大きく、それまでは色素転染方式のテクニカ 人で新カプラーの開発を始めた。 ラーとアグファ型内式カラーが主に市場で用いられて これに対して、研究所長のエガートは猛烈に反発し いたが、後から参入した ECN フィルムが急速に使用 た。理由は、発色現像を重層で構成するのは絶望的に されることとなり、コダック社は映画という大きな事 困難であるという考えと、業務範囲外であるというこ 業分野を獲得することが出来ることになった。 とであった。しかし、上層部はシュナイダーの提案は カラードカプラーの発明は、色再現の改良に苦しん でいた一人の優秀なる物理化学研究者の就寝中の啓示 348 プラーをそれぞれの感光層に内蔵させたモノパック感 1950 年には映画用イーストマンカラーネガフィルム 筋が通っていると直感し、1935 年 4 月 9 日に研究を 進めるべきであるとの裁定を下した。 とそれを実証する優れた有機化学者との共同作業によ 5 月にはシュナイダーを長とするチームが編成され るものであり、更には戦争で逃れてきた客員研究員か 研究が進められたが、ハレーション防止染料の固定化 らの素材提供を常識にとらわれずに愚直にテストしよ 基ではカプラーの固定化は不十分であった。しかし、 うとした等の偶然の幸運にも助けられている。困難な シュナイダー構想に強く惹かれた研究者らが自発的に 課題に苦しみながら別アプローチからの解決アイデア 協力を申し出て集まり、組織を超えて研究が進めら を思いついた柔軟な思考と、周囲の技術にアンテナを れた。1935 年の 5 〜 6 月には長鎖アルキル基をカプ 張り常識にとらわれずに実験した行動力が融合した結 ラーに付加するという基幹的な技術が発想された。6 果の素晴らしい発明であると考える。 月末には K. クメタートが長鎖脂肪族基を持つ 5- ピラ 日 本では、フジフイルムが 1963 年 に、 小 西 六 が ゾロンカプラーを合成した。これはアルカリ性現像液 1967 年に、特許期限の切れたカラードカプラー型マ で処理しても層間を移動しないことが確かめられ、発 スキングを自社感材に組み入れたが、時期的な技術 色基を 5- ピラゾロンに固定して、さらに検討が進め 格差は大きな開きがあった。その頃のコダック社の技 られた。しかし、このカプラーを使用すると、大粒子 術、特許及び基礎研究発表については、日本の研究者 の発色不良、乳剤感度低下、現像後のフィルムの濁 達は敬意を持って学び、可能なものを最大限に吸収、 り、隣接層との密着性悪化等の問題が起こった。これ 利用しようとしていた。 に対して、シュナイダーは過去の経験から、可溶化基 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August の付加で解決できると直感的に見通し、その路線を突 1950 年代初期にスタウファー、ハンソン、キャロ き進んだ。そして、耐拡散基と親水性基を併せ持つア ルらが乳剤の混合を検討したが、最大の問題は増感色 グファ型カプラーを何と着想から僅か 8 か月で完成 素の乳剤粒子間移動であった。非常に移動しにくい色 した。その時点では改良できた機構は分からなかった 素を選択しても時間と共に色素が移動してしまう。そ が、1940 年代になって、このアグファ型カプラーは こで、回避のために塗布ヘッド入口に混合機を設け、 巨大なアニオン性ミセルを形成し、ゼラチン中にコロ 3 乳剤の混合直後に塗布乾燥して色素の移動を防ごう イド的に位置を保っていることが確認され、シュナイ とした。何とか増感色素の移動は食い止めたものの、 ダーの直感が正しいことが証明された。 今度は混合しきれずに残った乳剤の微少な塊が塗布面 シュナイダーはカラーネガ・ポジ系の開発を主張し たものの、アグファ社は開発負担と市場準備が軽いカ ラー反転フィルムの商品化を決定し、1936 年 10 月に アグファ反転カラーフィルム に毛状の細かい筋として発生するのを完全に除去でき なかった。 こ の mixed grain プ ロ ジ ェ ク ト に 参 加 し て い た ノイを発表し、11 月 T. A. ラッセルは、研究所での試験乳剤塗布工程で研 に発売した。その後もカラーネガ・ポジ系の開発に取 究者を支援するグループにいたが、テスト量の急増に り組み、1939 年に映画用としてカラーネガ・ポジフィ 応えるために小型塗布機の改良や増設に取り組んでい ルムの予備的な生産を開始することになった。この内 た。彼は「このように混じり難い乳剤を面接合させ、 式カラーフィルムの誕生により、外式カラーフィルム そのままフィルムベースに落とすことはできないか」 に対して現像工程が圧倒的に簡略化され、近代カラー と逆転の発想をし、1951 年にドラム上のフィルムに ネガ・ポジシステムが完成された。カラーネガフィル 別個の 2 個のホッパーから 2 つの乳剤を重ねて塗る装 ムの歴史上、偉大な発明であり、コダックも方式は独 置を考案し特許を取得した 14)(図 12.2)。1954 年 4 月 自のオイルプロテクト型カプラーではあるが、直ぐに には、設計図を書き、上司に承認を得て社内の作成所 追随することになる。 でこの装置を作成した。この時上司は内心気乗りしな この発明は、ドイツ全体の圧倒的な化学技術力の高 かったものの、たった 150 ドルなのでそのままサイン さやフィッシャーの原理提案を技術基盤として、シュ した。ところが試験したところ、2 組のモデル塗布液 ナイダーの偉才と、上司たちの先見の明(この発想は で 2 層が明確に塗り分けられていた。すぐさま上司の ものになるという洞察力)により、正攻法で課題に立 指示で、映画用ポジフィルム 4 層を 2 回塗布した試料 ち向かい、超短期間に成し遂げられた。さらに、時代 を断面観察し写真性試験をしたところ乳剤の混合がな 背景として 1930 年代初めに長鎖脂肪族基をつけた染 いことが分かった。担当役員のミースに報告し、すぐ 料による強染着性皮革用染料についての情報があっ に mixed grain プロジェクトは中止され、本方式の検 たことも付け加える。この発明は、カラーネガフィル 討を行うこととなった。 ムの歴史の中で高い化学技術力を存分に駆使して正面 から課題を解決した、優れた偉業として位置づけられ る。 12.6 同時多層塗布技術の発明 9) 1950 年代、多層のカラー感材は乳剤層を 1 層づつ 塗布・乾燥することを繰り返して製造していた。コ ダック社のマスキング付きカラーフィルムは一般写真 分野と映画用分野で市場拡大し、生産量が増加した。 その結果として、①多回数塗布で経費が嵩む② 3 乳剤 層がバラバラに塗布量変動するためカラーバランスが 図 12.2 ラッセルによる二層同時塗布断面図 14) 崩れる③希釈液を塗布するため乾燥負荷が大きい、等 の問題がコダック社で顕在化した。その克服のため ラッセルの発明は多くの人を驚かせ、また直ちには に、まず取り組んだのは感色性の異なる乳剤を 1 層に 信じられなかった。多層塗布では乾燥に大きな負荷が する mixed grain 技術であり、カプラー内蔵感材では かかり非現実的との反論も出たが、ビード塗布が塗布 mixed packet 技術であった。 液の濃厚化を可能とし、高速塗布により各層を薄くで カラーネガフィルムの技術系統化調査 349 きる利点に繋がることも明らかとなった。ラッセルは マン・コダックが巨人であり、なんとかその技術に追 ビギンら専門技術者の協力を得て、液間の界面張力バ いつけるように日本のメーカーは頑張っていた。富士 ランスが良ければ層流界面は安定に維持できること、 写真フイルムは 1976 年に世界に先駆けて、ISO 感度 界面は液流変化の大きいビード内でも保存され、対岸 400 のカラーネガフィルム「フジカラーF Ⅱ 400」を のフィルムに移すことが出来ること等を確認した。さ 開発し、技術力としても世界のレベルに近づいている らに、生産技術専門家のガスらとの協議により、ス 状況にあり、新 400 開発を通して自分たちでも世界一 ライド型供給方式と結合したマルチスライド機構を を目指せるのだという感触や自信が醸成されつつある 15) 考案し、1955 年に特許出願することも出来た (図 時期でもあった。高画質のフィルムを作るには、主と 12.3) 。これにより多層同時塗布を可能とし、カラー して粒状性、鮮鋭性、色再現性を改良することが必要 フィルム製造は精度も高く、大きな生産効率向上に繋 であり、現行フィルムに既に添加している DIR カプ がることとなった。 ラーの小改良でも画質を改善できるのではないかとい うことで坂上に与えられたテーマであり、何か出てく るかもしれないからやらせておこうといった感じで あった。 DIR カプラーは現像時に抑制剤を放出して、近隣 のハロゲン化銀の現像を抑制することで様々な効果を 出現させる物質である。過去の実験では抑制剤の拡散 性を大きくすると吸着力が落ち抑制度が極端に低下 し、添加量が 5〜10 倍以上も必要となるため、抑制剤 の拡散性を上げるということは現像を抑制するという DIR カプラーの本質から外れていると考える人がほ 図 12.3 4 層同時塗布ホッパーの断面図 15) とんどであった。また、抑制効果をハロゲン化銀の近 傍で効かせるためにはあまり抑制剤が泳動してはいけ この発明は、当該技術の開発を専門としないラッセ ルによる乳剤が混合し難い現象からの逆転の発想と早 そこで、合成部門には抑制剤の拡散性を従来タイプ 期の実証が、その技術の専門家と結びついて価値の高 よりさらに落とした現像抑制効果の大きい DIR カプ い発明に短期間で成長した例である。特許は多数の国 ラー(分子量が大きいアルキル置換基等を付加)を合 に出願され、日本でも 1958 年 10 月に「多層塗布方 成してもらいながら検討を進めたが、現像抑制効果 法」(特公昭 33.8977)として公告された。世界の感材 は大きいもののエッジ効果(画像の輪郭を強調する メーカーは 1975 年までの有効期間中ロイヤリティー 効果)はなかなか上がらない。また、従来のものとど を払って実施ライセンスを受けた。この技術は、その う比較したら良いかという評価方法も手探りであっ 後の多層化によるカラーフィルムの性能アップを容易 た。現像抑制させるカプラーなので、反応のカップリ にし、銀塩写真の技術向上に大いに貢献することと ング速度も異なれば、現像の結果得られる性能を表す なった。 特性曲線も添加量によって様々に変わり、正しい評価 12.7 スーパー DIR カプラー(高拡散性、 加水分解型)の発明 16) 入社 4 年目のフジフイルムの研究員、坂上(さかの 350 ないという常識も漠然とながら存在していた。 をするのに難儀をしていた。同じ抑制剤でもカップリ ング速度が変わるとエッジ効果も変わるのではないか とか、色々な意見が錯綜し、外部からは評価方法がま ずいのではないかという批判も大きかった。そこで、 うえ)は DIR カプラーの改良についての研究テーマ 評価の標準となるモデル系を考案した。そして、離脱 を与えられた。その当時(1970 年後半)は、カラー 基の拡散性の影響を評価するために拡散性を落とした ネガフィルムに使用する新しい素材の特許公開数も減 抑制剤を組み込んだカップリング速度の異なる種々の り始め、もはやあまり新しい化合物は開発されない DIR カプラーを評価した。拡散性の大きい抑制剤を だろうという気運が写真材料業界に流れていた。そ 用いると添加量が従来の 5〜10 倍も必要になり、色濁 こで、研究所長の上田は選抜した研究者を集め、我々 りが生じるため使えるはずがないと言われていたが方 の手で世界を驚かすような高画質のカラーネガフィル 向性を明確にするために評価に組み込み、X 線で露光 ムを作ろうと皆を鼓舞した。写真の世界ではイースト し現像したエッジ効果のデーターを眺めては加工する 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August という毎日を繰り返していた。 ある時に、これは方向性が違うのではないかとピン とくるものがあった。そして、エッジ効果の発現する の下に抑制剤の置換基の種類やアルキル鎖長を変更す ることで候補物質を絞り込み、スーパーDIR カプラー が完成した。 メカニズムを改めて問い直した。即ち、現像と同時に フィルム中にスーパーDIR カプラーを増量して添 抑制剤が放出され、拡散しながら現像中のハロゲン化 加することで、大きくエッジ効果を向上させることが 銀に吸着し現像抑制する。画像のエッジの部分では抑 できたし、また、遠くまで抑制剤が拡散することで、 制剤の濃度勾配が大きく拡散しやすいため抑制剤が効 他感光層への抑制効果が強まり色彩度を大きく上げる きにくくなる、ということを改めて考え直した。する ことが出来た。さらに、現像抑制効果によりハロゲン と、漠然と頭に描いていたエッジ効果の発現のメカニ 化銀一個一個の色素形成量を抑え、粒状性改良にも繋 ズムと抑制剤の拡散性との関係が見えた。ジグゾーパ げられた。そして、二重構造粒子技術(後述)、L カ ズルのようにぴったり合致した。そうか!と眼からウ プラー技術と併せて、1983 年 2 月にフジフイルムは ロコがぽろっと落ちた。そこで、昔実験した人から拡 HR シリーズと呼ばれるカラーネガフィルムを発売し 散性が高く抑制度が弱くて使えないと聞いていた化合 た。この HR シリーズの中で、特に感度 100 を持つ 物を試してみると、添加量を増やして抑制度をきちん HR100 は総合画質としてその時点でカラーネガフィ と合わせて比較したところ非常に大きなエッジ効果が ルムとして世界最高レベルの品質を示し、コダックの 現れることを発見した。合成部門からは今まで言って 製品品質を追い越し、名実共にフジフイルムを世界 いることと違うとイヤミを言われたものの、小幅塗布 トップレベルの写真フィルムメーカーへと導くことが サンプルでカラーネガの試験品を作り実技撮影を行っ できた。 て、大きく鮮鋭性の向上したプリントを見せると、ど んどん良いサンプルを合成してくれるようになり、ハ ロゲン化銀開発のグループもそれに適した乳剤を作っ てくれるようになった。 この素材を用いて、カラーネガフィルムの改良を進 めていったが、ある時、ランニングテスト(同じ現像 液で大量に新フィルムの現像を行う疲労耐性テスト) をすると、その後の現像で感度が下がるという現象に この発明の成功は、 ①その時点での常識を疑ってエッジ効果とは何かとい う原理を問い直したこと ② DIR カプラーの複雑で分かり難い実験結果に対し て新しいモデル系を考案し評価方法の工夫をした こと ③拡散性アップに伴う現像液汚染という問題を加水分 解という別の機構から根本解決したこと ぶち当たった。これは放出された現像抑制剤が拡散し で あ り、 こ の ス ー パ ーDIR カ プ ラ ー は そ れ 以 降 の てフィルム中から現像液中に泳ぎ出し、現像液に蓄 DIR カプラーの機能性向上のための重要な設計指針 積した結果であることが分かった。抑制剤の拡散性を となった。 落とせば、現像液汚染は減るがエッジの改良効果も減 る。エッジの改良効果を保ちつつ、現像液汚染を防止 できる方法がないかという第 2 の山にぶつかった。彼 は頭を抱えた。しかし、チーム内で議論しあう中で、 12.8 ハロゲン化銀 新型二重構造粒子(明 確な層状構造双晶粒子)の発明 17) 12.7 で述べたスーパーDIR カプラーの開発と同じ 蓄積した抑制剤を現像液中で無害化出来るのではない く、フジフイルムで世界一の画質を持つカラーネガ かというアイデアが合成を担当していた小林、市嶋よ フィルムを作ろうと、高田は乳剤の改良研究に取り組 り出された。これまでの検討の中で、カルボン酸(− んでいた。高田のテーマは青感光層の乳剤の改良で COOH)基のついた本タイプの抑制剤はハロゲン化銀 あった。赤色感光層や緑色感光層のハロゲン化銀は増 への吸着性が極めて低く、抑制効果がなくなることを 感色素により光を吸収して感光するが、ハロゲン化 知っていたのだ。そこで、現像抑制剤をエステル型 銀は元々、それ自体が青光に感度を持っている。そし の化合物に変更し、現像液中(pH〜10 の高アルカリ て、その粒子のハロゲン組成を変えることで、光吸収 液)でカルボン酸型に加水分解することを考えた。あ 係数が変わることが知られていた。カラーネガフィル まり早く加水分解するとフィルム現像時の抑制効果 ムに使用される乳剤は感度の観点からヨウ臭化銀乳剤 が減り、遅いと現像液汚染による減感効果が残るた が用いられているが、ヨード比率を上げることで青光 め、フィルムの処理量と現像液の補充量との関係を計 の吸収量もアップすることが分かっていた。しかし、 算し、現像液中での半減期が 4 分程度であれば現像液 従来の添加量から大幅にヨード比率を上げるとハロゲ 汚染が無視できることを実験でも確かめた。この指針 ン化銀の現像速度が極端に低下し、全く使いものにな カラーネガフィルムの技術系統化調査 351 らなくなる。感度を向上させるために様々な方法を試 速すると共に、粒状の荒れ防止のために、ある程度現 みたものの、この光吸収と現像性の背反現象をクリア 像が進むと内部高ヨード層で現像が停止するという自 できる有効な方法は見いだせなかった。 動現像停止機構が作用することも分かった。この発明 ある時、高田は杉本及び斎藤が開発した臨界成長法 による単分散乳剤形成法 18) を知り、これがブレーク に先行する坂東らの正常晶二重構造粒子も併せて、こ れらの技術はフジカラーHR100 やフジカラーHR1600 スルーの糸口になるのではという予感に身震いした。 から HG シリーズへと広く展開され、総合画質が世界 臨界成長法とはハロゲン化銀の核を成長させるギリギ 最高レベルのカラーネガフィルムを生み出す一つの大 リの高濃度で粒子成長させる方法であり、オストワル きな原動力となった。 ド熟成(小粒子を溶解して大粒子にくっつけ、ハロゲ この発明はハロゲン化銀の高ヨード化による光吸収 ン組成を再配列させながら成長させる熟成)という 量アップで高感化を目指したが、現像性との取り合い 溶解工程を極端に減らした方法であるため、粒子内の が起こり、両立を図った二重構造粒子が、思いがけず ヨード組成の再配列、均一平衡化を防止してくれると 光電子と正孔の再結合による減感を抑制していること 考えた。これを用いて、粒子内部をそれ以上固溶しな を発見し、その後のハロゲン化銀の高感度化の考え方 い限界の高ヨード層とし、粒子表面を低ヨード層とす の礎を築いた。光吸収だけでは説明できない現象の不 ることで、光吸収を粒子内部の高ヨード層で増加し、 明部分を曖昧にせず、粘り強くその原因を解析するこ 現像遅れは粒子表面の低ヨード層で回避するという考 とで、ハロゲン化銀の感光機構に対する重要な考え方 え方である。 を明確にしたのである。この発明に対して、平成 9 年 しかし、実際に粒子形成を行おうとすると、僅かに 銀イオンの過飽和度が上がると新たな微粒子核が発生 して多分散化が起こり、銀イオンの過飽和度が下がる 度には科学技術庁長官発明賞も授与されている 19)。 12.9 とヨードの粒子表面への浸み出しが増加し現像を抑制 352 第 4 の感色層による色再現性改良技 術の発明 20) してしまうということが起こった。しかし、何度も何 フジフイルムの佐々木は、1989 年に色彩度と色忠 度も丁寧に粒子形成中のタンク内の銀電位を変化しな 実度を世界で初めて高いレベルで併せ持つフジカラー がらコントロールすることや、硝酸銀溶液とハロゲン REALA を開発し市場導入した。 溶液の混合方法を改良して銀電位分布のバラツキを減 佐々木は入社して、まずカラーペーパーの商品化研 らす検討を加えることにより、ついに内部が固溶限界 究に携わった後、カラーネガフィルムの商品化研究 に近い高ヨード層で表面が低ヨード層のハロゲン化銀 室に異動した。そこで、カラーネガフィルムの商品 粒子を作り出すことができた。 化研究を進め、1983 年のフジカラーHR100 商品開発 この粒子に化学増感を施し性能をチェックしたとこ おいては、このフィルムの色再現に関して全体の指 ろ、感度が大きく向上した。これは光吸収量を増加で 揮をふるうまでに至った。前述したように、フジカ きたためであるだろうと、さらに分析を進めていった ラーHR100 はその発表時点で世界最高レベルの粒状 ところ、どうも光吸収では説明できない更なる高感度 性、鮮鋭性、色彩度を達成し、カラーネガフィルムの 分の寄与が存在することが分かってきた。そこで、さ 総合性能を飛躍的に向上させた。しかし、佐々木はこ らに粒子内の光電子や正孔の動きを調べていったとこ れに満足していなかった。何故なら、鮮やかな色は誰 ろ、驚くべきことに高ヨード層が正孔を引き寄せ、低 もが見てすぐに分かる程、彩度が向上していたが、淡 ヨード層が電子をトラップすることで、電子と正孔の い色や中間色が忠実に再現されにくい欠点を有してい 再結合による減感を効果的に防止していることが明ら た。赤や緑や青は彩度が上がり、夏の青空やコバルト かとなった。さらに、高ヨード層と低ヨード層の界面 ブルーの海は鮮やかに撮れた。しかし、淡いうぐいす 付近に格子欠陥による浅い電子トラップを形成し、光 色からは青味が取れ黄色っぽく再現されたり、紫色の 電子を一時捕獲することで高感度化をより促進する機 花が赤く写ってしまったりした。彼は、赤や青の原色 構も形成していることが分かった。制御せずに粒子形 とうぐいす色などの中間色が共に綺麗に忠実に再現さ 成しても決して得られない、明確な内部高ヨード層 / れるように、分光感度を変え DIR カプラーによる重 表面低ヨード層を持つ新型二重構造粒子乳剤を開発す 層効果を変え徹底的に実験を試みたが、結局、色彩度 ることで、卓越した高感度化を達成した。さらに、前 を上げると中間色の忠実性が破綻し、忠実性を重視す 述のスーパーDIR カプラーの増量使用により現像が ると色彩度が落ち、これらを両立する答えが得られな 抑制される状態においても表面低ヨード化で現像を加 かった。 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August そこで、彼は人間の眼の仕組みについてもう一度掘 は眼で見るように撮れなかったので、緑の感度に大き り下げて勉強した。そして、負の分光感度をカラーネ く影響して緑っぽく写ったに過ぎない。色再現の研究 ガフィルムに採用できないかという考えに辿り着い 室でも、ヴィゼツキーチャート(様々な波長の光を組 た。社内には色再現に関して学術的に検討している研 み合わせているが、人間の眼には白色に見えるチャー 究室もあった。負の分光感度はその研究者達と議論す ト)の光をプリズムで分光合成し、その光で撮影する るなかで、出てきた課題でもあったが、ただ彼らは、 と新フィルムが明らかに白色に近く写り、人間の眼の 人間の眼は 3 色の分光感度で構成されているため 3 色 分光感度に近いカラーネガフィルムであることを立証 の分光感度層で原理的に全ての色は再現されるはずだ した。 と主張した。確かに原理としては正しかったが、人間 彼はこの技術を用いた新しいカラーネガフィルムを の眼とカラーネガフィルムには本質的に様々な違いを 商品化すべきであると提案し、研究トップの大石はフ 持つ。人間の眼では平面上に赤、緑、青に感じる錐体 ジカラーREALA の開発計画を即断した。HR100 で 細胞が配列しており、お互いの分光感度も大きな重な 粒状性、鮮鋭性、色彩度を高いレベルで達成し、その りを持っている。しかし、カラーネガフィルムは赤、 後は高感度商品の開発に商品化が向かっていたが、見 緑、青の感光層が重層に配置され、上層を通ってきた た通りに写るという色忠実性の商品化方向が存在する 光はその層で吸収されるため下層では光量が減り分光 ことを証明し、カラーネガフィルムの多様化を先導し 感度を上層と下層で大きく重ねることは構造上困難と た。当初は感度 100 の一般用ネガだけであったが、営 なる。そこで、この分光感度の重なりが小さく重層効 業写真用や映画用のカラーネガフィルムにも展開し、 果が小さい銀塩写真システムで色彩度と色忠実性を両 一般用ネガでも感度 100 から 400、800、1600 と第 4 立させるために効果的な方法が、まさに負の分光感度 の感色層技術を発展させていくことになる。 の活用であると彼は考えたのである。 日本発の第 4 の感色層技術は、第 4 層や第 5 層など 彼は一人、新たな分光増感剤を合成部門で作っても をつければそれは忠実になるよという傍観者や色再現 らい、DIR カプラーやカラードカプラーを使って闇 の理論研究者からの批判はあったが、現実に新たなカ 研で第 4 の感色層を搭載したカラーネガフィルムを試 ラーネガフィルムを作り出し、色彩度と色忠実性の双 作した。この層を青感光層と緑感光層の間に配置し、 方を飛躍的に向上させた。これを上回る色再現の技術 フィルムを試作して検討を重ねていくうちに、カラー は銀塩写真系においては未だ開発されていない。ま ドカプラーは不要であることや DIR カプラーに加え た、この方法はデジタルカメラ等にも一部で応用され てマゼンタカプラーで発色させるほうが良い等の知見 ている。3 つの感光層系での実験を徹底的にやりつく を得て、漸くプロトタイプを作成した。これを暗室で し、第 4 の感色層の付与が必要だと執念を持って作り 裁断しパーフォレーション溝を加えパトローネに巻き 上げたのだが、様々なネガティブストローク(例え善 込んで撮影できるカラーネガフィルムを作り、これを 意であっても)に打ち勝って、負の分光感度理論が有 カメラに入れて街に出た。妻にマクベスチャートとい 効であることを真から理解し、論理的に正しいことを う色のついた板を持たせ花屋の前で色々な花と一緒 行えば最後には必ず勝つことを信じて研究を続けたこ に撮影した。それを実験室に持ち帰り、現像、プリン とが成功の鍵となった。 トを繰り返した。これを何度も繰り返すうちに、明ら かに植物の緑の葉っぱのイエローグリーンやシアング 尚、この発明は平成 14 年度に優れた発明として全 国発明表彰を受けている 21)。 リーンが忠実に分離され、かつ鮮やかに再現されるよ うになった。紫色の花も赤くならず、あくまで紫色に 引用文献 再現された。 1)「写真知識」、鎌田 彌壽治、印刷学会出版部発行、 これを評価部門に持ちこみ実技テストを依頼したと ころ、評価研究室がザワザワ騒ぎ始めた。蛍光灯のつ いた景色を撮影したところ、通常蛍光灯が緑っぽく再 1、 (昭和 42 年 11 月) 2)「化学の原典 4 光化学」 、谷忠昭、日本化学会編、 学術出版センター、69(1986) 現されるのだが、ほとんど緑に再現されない、という 3)「カラー銀塩感光材料の技術革新史 第 1 部 分光 のだ。すごいフィルムだという大きな動揺が起こり始 増感(上)1920 年代まで」 、大石恭史、日本写真 めた。しかし、これは彼にとっては当たり前であっ 学会誌、70、295(2007) た。眼でみたように撮れるようにフィルムを作成した 4)「Ueber die Lichtempfindlichkeit des Brom- から、蛍光灯の光も白色に写る。これまでのフィルム silbers für die sogenannten chemisch カラーネガフィルムの技術系統化調査 353 unwirksamen Farben」、H. Vogel, Berichte der 12)「Improvements in Methods of Producing Colour Deutschen Chemischen Gesellschaft, 6, 1302 Photographs Employing Colour Correction and Colour Photographic Materials therefor」, R. E. (1873) Crowther, Br. 541, 298(EK)(1941) 5)「 T h e F i r s t H u n d r e d Y e a r s o f S p e c t r a l Sensitization」, W. West, Photogr. Sci. Eng., 18, 13)「カラードカプラーによるマスキングの原理」 、W. T. Hanson, Jr., P. W. Vittum, PSAJ., 13, 94(1947) 35(1974) 6)「 R e v i e w of the Mechanisms of 14)「二層同時塗布特許」、Br. 726, 783, T. A. Russell, D. C. Bellis(EK)(1951. 3. 6/1956) Supersensitization」、P. B. Gilman, Jr., Photogr. Sci. Eng., 18, 418(1974)等 15)「スライド型多層同時塗布特許」 、US2, 761, 419, J. A. Mercier, W. A. Torpey, T. A. Russell(EK) 7) E. E. Jelley, Nature, 138, 1009(1936), 139, 631 (1955. 2. 23/1956) (1937)等 8) G . S c h e i b e , L . K a n d l e r , H . E c k e r , Naturwissenshaften, 25, 75(1937)等 17)私信、高田俊二氏より 2011 年 12 月聞き取り調査 9)「カラー銀塩感光材料の技術改革史 第 2 部発色 18)「Growth Mechanism and Size Distribution of 現像(その 1)発色現像の発明と多層カラー感材 AgBr Tabular Grains」、T. Sugimoto, Photogr. の出現」、大石恭史、日本写真学会誌、71、184 Sci. Eng., 28, 137(1984) 19 「明確な層状構造を有する写真感光性ハロゲン化 (2008) 10) 「特集 銀微結晶の発明(特許第 1818914 号) 」 、高田俊二、 映像…デジタル化時代に向けて 第 2 章 3 項」、光技術情報誌ライトエッジ、No.19(2000 石丸信吾、大島直人、平成 9 年度全国発明表彰科 年 7 月) 学技術庁長官賞 11) 「カラー銀塩感光材料の技術改革史 第 2 部発色現 像(その 3)1940、1950 年代における Kodak 社 354 16)私信、坂上恵氏より 2011 年 12 月聞き取り調査 20 私信、佐々木登氏より 2011 年 12 月聞き取り調査 21 「第 4 の感色性を有するカラーネガフィルムの開 による強力な技術構築」、大石恭史、日本写真学 発(特許第 1,859,346 号)」、佐々木登、高橋公司、 会誌、71、349(2008) 平成 14 年度全国発明表彰、朝日新聞発明賞 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 13 日本が世界最高レベルの技術開発を成し遂げた理由の考察 西洋の写真術が 19 世紀半ばに日本に伝わって以来、 おいても高純度でバラツキの少ない原材料を確保でき 日本人の手で銀塩写真を作ろうと努力を重ねてきた。 た。そして、その安定性に支えられ品質の一定した写 そして、1980 年代には世界最高レベルの技術を独創 真フィルムを製造することが出来た。他方では、写真 し、その後も銀塩の写真業界をリードし続けた。この に影響する不純物を分析し必要な成分は添加剤として 日本が欧米の技術を追い続け、追い越し、世界を牽引 新たに添加するという解析技術の進歩も安定製造の一 することが出来るようになった理由は一体何だったの 翼を担った。それはまた、銀塩フィルムの感光メカニ であろうか。それには、時代背景を通した産業発展の ズム研究にも役立ち、新たな発明や発見に繋がった。 時期や日本の勤勉な国民性、等多くの要素が絡んでい フジフイルムでは自社製の硝酸銀を使用している ると思われる。それらについて、筆者が思い当たる項 が、たまたま中国製の 99.99%の純度を持つ硝酸銀に 目を幾つか列挙してみる(日本だけに当てはまる訳で 切替えるテストを行ったところ、それでも感度が約十 はない項目もあるが敢えて記述する)。網羅性などは 分の一に低下してしまう現象が起こった。それだけ、 ないが、これから成長するであろう分野の開発の進め 銀塩写真分野ではごく僅かな不純物が性能に影響を与 方に少しでも参考になれば幸いである。 えた。 (1)日本の写真工業全体で世界の写真産業を牽引 戦前は欧米の写真関連産業が世界の流れを牽引して いた。例えば、カラー感材開発はコダックやアグファ (3)基礎研究から製造化までの広範囲な研究遂行[分 業(海外)vs. オーバーラップ(日本) ] 海外の研究者は自分の研究領域に深く狭く傾注し、 が最高の技術を持って感材を開発し、カメラ、レンズ リサーチャー=研究、エンジニア=製造という分業制 はライカやツァイスがトップ企業であり、現像機やプ の意識が強かった。しかし、日本の研究者は広い視点 リンターもコダックやアグファ等が商品の多くを提供 で研究から製造化に至るまでの範囲に関与し、基礎研 していた。しかし、日本の企業はこれに何とか風穴を 究と製造技術をオーバーラップさせながら開発を推進 あけようと努力した。特に銀塩カメラや現像機の開発 した。そして、少量研究スケールでの試作品性能を必 等には細かい精度と信頼性の高い技術が必要であり、 ずしも大量の製造過程で発揮出来ないという問題点を また使い勝手等の応用技術開発の余地もかなり存在し 解析していくことによって製造技術の改良に繋げた た。これらの課題は、日本人の特性にも良くマッチ り、研究段階から製造適性を付与する設計を行うこと し、世界をリードする技術を次々と開発していった。 でコスト競争力を持つ商品に仕上げることが出来た。 そして、近年では銀塩カメラではニコン、ペンタック ス、キャノン、オリンパス、ミノルタ等といった日本 (4)小異を捨て大同につく潔さと自社への高い忠誠心 製品がその性能の良さと使い勝手の良さで欧米製品を 日本では、チームとしての自分の役割を良く認識 駆逐していった。また、現像機も、大ラボでの大型現 し、自分の専門でないテーマでも必要とあらば自ら率 像処理に対して、小回りがきき、短時間処理が可能な 先して担当し研究した。また、早く新製品を世の中に ミニラボ機器の開発を日本企業であるノーリツやコニ 送り出すために、実験やデーター出しを定時間までに カ、フジフイルムが牽引し、新しい需要に応えた。こ 行い、そのデーターの吟味と打合せ、次の処方作成は のような写真市場で、カラーネガフィルムの開発も新 深夜までかけて行うということで、研究のサイクル しいカメラやミニラボのニーズを間近に聞きながら、 を短縮して頑張った。世界に後れを取っているので何 それに即応した新しいフィルムとして、二人三脚で開 としても追いつこうという気持ちを当たり前のように 発を進めた。カラーネガフィルムの発展において、日 皆が強く持っていた。残業制限等、ややこしい規制も 本の写真工業会全体が世界を牽引したという一面が存 当時は少なく、どうすればより高い性能が得られる 在すると思われる。 か、トラブルの原因をどうすれば解決出来るか、だけ にひたすら没頭して打ち込めた。個人の権利主張より (2)日本企業全体の実力向上 もチームの利益を優先するという意識も強かった。ま さらにもっと大きな視点でいえば、日本企業全体の た、時として強いリーダーシップを持つ人物が現れ 技術レベルが上がり、例えば写真用の原材料の調達に て、製品の技術力を大きく引き上げることが出来る時 カラーネガフィルムの技術系統化調査 355 代でもあった。今のインターネットの時代とは違い、 (6)強い実行力と現場主義 商品開発が個人の力量に依存することも多く、リー 考えたことは兎に角直ぐにやってみようとする行動 ダーの強い意志がワンランクアップした製品の開発に 力に溢れていた。自分が知っていることはこの世の森 繋がった。 羅万象の中の僅かであり、実験をして事実に対して忠 実に向き合う必要性を強く感じていた。謙虚に事実に (5)創業時からの度々の危機を乗り越えたトップの 向き合って研究を進めることで小さな気付きを見出 した。そのためには、まずやってみることが大切であ 強い信念 フジフイルムの歴史を振り返ってみると、創業当時 り、議論と並行して実験を精力的に行った。思いつい から数多くの危機が発生したが、トップが強い信念を たら、夕方からでも実験室に行き一人で実験を繰り返 掲げ従業員がそれに呼応して努力し、多数の苦難を乗 した。また、実験室に赴き実験補助者と一緒に話をす り越えてきたことがうかがえる。 ることでどういう環境で行われた実験結果であるかも 創業時(1935 年)の淺野社長が、創業以来 4 期連 分かり、センシトカーブからのデーターだけで判断す 続の赤字に至った時の言葉。 「資本金の 40%に及ぶ巨 るのではなく、塗布フィルムや現像後のサンプルを 額の助成金交付を約束されて、写真フィルム工業を確 じっくり覗き込むこと等で実験時のトラブルを見抜い 立して外国品を駆逐することを自分に課せられた使命 たり、現場での新たな問題を見つけたりした。現場に と観じ、会社経営に当たってきたが、毎期赤字を続 足を運び、作業者と話をすることで様々な発見や新た けて、会社は憂慮すべき状態にある。前途有為の諸 な現象の理解を得た。 君を、今後どうなるかわからない会社に縛っておくこ とは忍びがたい。他のよい会社へ転ずる道があるなら (7)高い目標設定と遂行力 ば、なんら遠慮することなく、当社を去られたい。い あるべき姿、理想像を目標として設定し、それを まならば退職手当も若干出せる。ただ自分は、この写 やり抜くために皆が粛々と研究を重ねた。その中で、 真フィルム工業を生涯の事業として、あくまでやり抜 スーパーDIR カプラーや二重構造粒子などのような く決意であるから、志を同じくする人は、会社に残っ 重要発明も産まれたし、製造故障に対する現実的な改 て、自分と運命をともにされたい。 」 良策等も次々と産み出された。兎に角、目標を値切ら また、終戦直後(1945 年)の春木社長が全従業員 ずに作り上げるのだという気概にあふれ、その努力の 一斉解雇後の不安の中の再操業において発した言葉。 中から様々なアイデアが実行に移された。仲間同士で 「占領下にあって、自由を失い、状勢判断の資料を 議論しあい、失敗したら何故、何故、何故という追及 欠いているわれわれとしては、会社が今後どうなる により作用機構を自ら提案しながら、高い目標に対し か、確たる見極めはつかない。しかし、あくまで写真 て妥協することなく解決していった。納期との兼ね合 工業を継続したいと念じ、規模を縮小して、操業を再 いで途中下車することはあっても、高い目標は必ず胸 開することにした。先日の商工省との懇談会では、写 の中に刻まれていた。 真感光材料の製造は、楽観はもとより許されないが、 悲観のみを要しないということであったから、細々と は続けられると思う。しかし、正式な許可を得ている 1970 年代の頃から、専門技術者(有機化学、無機 のではないから、あるいは最悪の事態に陥って、早く 化学、シミュレーション等)を入れたプロジェクト 会社を去った人のほうが、今日再採用となった人より チームによる開発が始まり、これにより革新的な発明 も、幸せだったという結果にならないともかぎらな をもたらした。それまでの半職人的な商品開発から抜 い。しかし、原料から写真フィルムを製造して、国内 け出し、技術専門集団による研究開発に大きく変化し の需要をまかない、外国品を駆逐することは、当社創 た。現在、プロジェクトチーム化してやるのは手法と 業の精神であり、使命である。前途まことに困難で、 して当たり前であるが、その当時はそんなやり方が良 かつ、不安もあるが、どうか、創業時代に傾けたあの く分からず、苦労しながらチームを作り上げたし、開 情熱と努力を、再びこの事業に注いでいただきたい。」 発トップも進んでそれを牽引するなど、全員で手探り 勿論、小西六でも同様の苦難をトップの強い信念に しながら進めた。その当時の新しいやり方にいつも果 より、会社一丸となって乗り越えたことは言うまでも ない。 356 (8)研究体制変革へのチャレンジ 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 敢にチャレンジしていった。 (9)大目標が明確 風景や人物を簡単に記録出来る方法は、その当時、 標として開発に邁進した。この銀塩写真システムの究 極目標を完成することに脇目も振らずに没頭出来たこ 現実的な手段として銀塩写真方式しかなかった。そし とが技術発展の大きな一因でもあった。大目標に対し て、コダックが掲げた「あなたはボタンを押すだけ。 て不安を持たず、一心不乱に突き進んでいける環境が 後は我々が全部やります。 (You press the button, we 無形の大きな心の支えとなっていた。 do the rest.) 」という言葉を銀塩写真の一つの究極目 カラーネガフィルムの技術系統化調査 357 14 358 あとがきと謝辞 筆者自身、本報告を纏めるまで銀塩写真の発展の歴 徹底的な文献の調査活動と、兎に角アイデアを出して 史について知らないことも沢山あったが、纏めていく やってみようという膨大な実行力を通して、技術を少 うちに先人達の苦労と生まれてきた様々な発明におけ しずつ築き上げていった。この努力が結実する過程に る成功への道筋を感じながら本報告を調査し終えた。 ついて、調査を進めながら少し理解できたような気が 最初にも述べたように本報告では銀塩写真の発明から する。小西六の「さくら天然色フィルム」開発におけ 近代カラーネガフィルムの開発の歴史の流れをなるべ る選択露光式現像法は、後のコダックの現像法とほぼ く分かり易く書き綴ろうとした。ハロゲン化銀の研究 同じ考え方であるが、カラー写真の原理に基づいて小 だけでも、あるいは使用される機能性カプラーの研究 西六独自で考え抜いて編み出したものである。また、 だけでも、本報告以上のページを割いて纏められるだ フジフイルムが 1983 年発売のフジカラーHR-100 で独 けの膨大な研究成果があるが、ここではカラーネガ 創的な発明を駆使して、その当時で世界最高レベルの フィルムの商品化を中心にページを割いた。 総合画質を持つカラーネガフィルムの商品化を達成し 銀塩写真が発明されてから今日まで、カラーネガ た。これは 1976 年のフジカラーF Ⅱ 400 によって世 フィルムの開発といえば高感度化と色再現性の向上 界で初めて感度 400 のカラーネガフィルムを開発した に力が注がれてきたと言ってよい。19 世紀初期に ことが自信に繋がり、自分たちでも世界一のフィルム ニエプスが発明したヘリオグラフィーは ISO 感度が が作れるのだという風土を醸成したことで、生き生き 0.00005 であったが、19 世紀後半のゼラチン乾板発明 と新規な技術の発明発掘に邁進した結果である。その の頃には ISO 感度が 1〜10 位にまで高められた。そ 後、日本企業は世界と肩を並べて次々と新技術を搭載 の後、カラー写真が発明されてからも高感度化が進め した商品を世に送り出していった。 られ、20 世紀末には ISO1600 を常用感度とするまで 第 12 章には筆者が調べた限りの銀塩写真における に至った。まさに、ヘリオグラフィーに対して、カ 重要技術誕生の経緯や秘話を纏めた章として記述した ラー化を達成したうえに、更に約 1,000 万倍以上もの が、大発明は一朝一夕に生まれたものではないことが 高感度化を成し遂げたということになる。その発展 分かる。向かうべきテーマを明確にして、長い期間の の過程で、日本企業は ISO100 から 400 → 800 → 1600 打ち破れない苦難の期間を経て、仲間からの情報で への高感度化、超高感度化に対して先頭を切って開発 あったり、何気ない結果からのセレンディピティーで を進めた。勿論、高感度化に伴う粒状性、鮮鋭性の荒 あったり、しつこく粘った結果こぼれ出てきた成果で れを改良しながらである。一方、カラー写真は欧米で あったり、偶然の実験結果との遭遇であったり、して 発明され、色再現の重要技術であるカラードカプラー 産まれたものであった。 や DIR カプラーの技術も欧米で生み出された。しか 銀塩写真が再び一般ポートレート等の主役に立ち返 し、その後、日本企業は高拡散性のスーパーDIR カ る可能性は低いと思うが、カラーネガフィルムの開発 プラーを発明し色彩度を飛躍的に向上した。さらに、 で生み出された発明や技術は違う形で将来に受け継い 独創的な日本発の第 4 の感色層技術を開発することで でいかれるものと信じる。日本人は幾度の苦難を乗り 色彩度と色忠実性を両立させ日本の色再現技術を世界 越えて成長している粘り強い民族である。カラーネ に冠たる技術に高めた。 ガフィルムの分野でも、筆者が会社に入社した 40 年 遅れていた日本がどうやって技術のトップに上り詰 位前は、日本人に世界最高レベルの技術が作れるなど めたのか。19 世紀半ばに写真術が日本に伝来して以 ととても思われていなかったし、さらにその前の時代 来、初めて日本で写真撮影を成功させた時もただ撮影 は、いつ会社が潰れるか分からないという瀬戸際を歩 法を真似るだけでなく、原書からの翻訳を行う班と共 んでいた。振り返ってみると、いつの時代も苦しい時 同して勉強しながらチームの力で撮影を成し遂げた。 代だと感じて頑張ってきた結果が、近年になって世界 また、小西六がカラー写真「さくら天然色フィルム」 のトップまで上り詰める原動力になっている。本報告 を世界で三番目に国産化する過程においても、欧米の を読んで、昔は良かったという回顧録ではなく、どん 文献や資料を丹念に調べ上げて、実験結果との整合性 な苦しい時代にも、どんな困難なテーマにも将来への を見極めながら進めることで開発を成し遂げた。日本 発展の芽が潜んでいるとして、前向きに歩んでいくた 人の何とかして追いつこうという地道な努力に加え、 めの一つの道標になることを希望して筆をおきたい。 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 最後に、この報告書をとおして述べた筆者の独断的 な意見については、様々な見解の一つとしてお許しい ただきたい。また、カラーネガフィルムの歴史には、 ム)、米国イメージング科学技術学会名誉会員 谷 忠 昭様(元富士フイルム)に感謝致します。 さらに、本報告の執筆のために面談や資料提供など 現像処理の進歩(簡易化、迅速化)やカラーペーパー でご協力戴いた、九州大学最先端有機光エレクトロニ の進歩等も密接に絡んでいる。しかし、本報告で述べ クス研究センター教授 坂上 恵様、富士ゼロックス㈱ るには紙面も限られており、中途半端になるとして割 佐々木 登様、富士フイルム㈱御林 慶司様、坂田 敏彦 愛した。是非、今後のテーマとして、銀塩写真の他分 様、柴山 繁様、佐土原 哲也様、山本 佳之様、一般財 野の報告と共に抽出されることを期待する。 団法人工業所有権協力センター 大村 紘様、ニッピ㈱ 百瀬 好樹様、鈴木 哲様やその他の多くの方々にお礼 本報告の執筆を進言し、かつ様々な情報提供をして を申し上げます。 戴いた富士フイルム㈱の山田 隆様、高田 俊二様(兼 そして、原稿の見直しなどの多大な協力と有益な助 日本写真学会会長)に感謝します。また、多くの資 言さらに活力を与えてくれた薬剤師であり、かつ妻で 料や情報の提供を戴いたコニカミノルタの仲川 敏様、 ある久米敦子にも感謝の念を添えたい。 元日本写真学会会長 大石 恭史様(元富士フイル カラーネガフィルムの技術系統化調査 359 カラーネガフィルムの系統化図 360 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August コニカ株式会社 コニカミノルタビジネスエキスパー ト株式会社 東京都日野市さくら町 1 番地 コニカカラー IMPRESA 50 プロ フェッショナル 9 10 保存 富士写真フイルム株式会社 富士フイルム株式会社 神奈川工場 イメージング材料生産部 神奈川県 南足柄市中沼 210 フジカラー SUPERG ACE800(「写ルン 保存 ですスーパー800」 に使用) 小西六写真工業株式会社 コニカミノルタビジネスエキスパー ト株式会社 東京都日野市さくら町 1 番地 保存 コニカカラー GX3200 プロフェッ ショナル 8 富士写真フイルム株式会社 富士フイルム株式会社 神奈川工場 イメージング材料生産部 神奈川県 南足柄市中沼 210 保存 フジカラー HR1600 7 富士写真フイルム株式会社 保存 6 富士フイルム株式会社 神奈川工場 イメージング材料生産部 神奈川県 南足柄市中沼 210 フジカラー SUPER HG400 富士写真フイルム株式会社 保存 5 富士フイルム株式会社 神奈川工場 イメージング材料生産部 神奈川県 南足柄市中沼 210 フジカラー HR100 富士写真フイルム株式会社 富士フイルム株式会社 神奈川工場 イメージング材料生産部 神奈川県 南足柄市中沼 210 保存 フジカラー REALA 4 世界初の ISO 感度 3200 を持つカラーネガフィルム。 「MSC 技術」を開発。低照度不軌に優れ、特に天体写真で効果を発 揮した。 世界初の ISO 感度 1600 を持つカラーネガフィルムを開発し た。 「新型二重構造粒子技術」、 「A −カプラー技術」により従 来の感度の壁を克服した。 ISO 感度 400 のカラーネガフィルムで一般ユーザーが許容出 来る画質レベルを達成し、感度 400 フィルムの常用化を導い た。 「シグマクリスタル技術」、「DIRR カプラー技術」の新規 技術を開発。 日本で初めて ISO 感度 100 で世界最高レベルの画質(粒状性、 鮮鋭性、色彩度)を達成したカラーネガフィルムである。 「二 重構造粒子技術」 、「スーパーDIR カプラー技術」 、「L −カプ ラー技術」の新規技術を開発。 色彩度と色忠実性を両立させるために、世の中に全くコンセ プトのない「第四の感色層技術」を日本企業として独自に開 発し、商品化した。 世界初の感度 400 を持つカラーネガフィルム。これまで日本 企業は欧米の商品の追随をしていたが、初めて「世界初」と いう新製品を開発した。その後の日本企業の進展のきっかけ となる記念碑的商品である。 日本で初めてのカラー写真を、世界で 3 番目に独力で開発し た。 レンズ付きフィルムという、日本初の簡便に写真が撮れる新 しい写真文化を産み出した。 選定理由 1991 年 画質に拘り、非常に優れた粒状性、鮮鋭性および色再現性を 有する感度 50 の超高画質カラーネガフィルムである。 1993 年 ( 「 写 ル ン で す レンズ付きフィルム(LF)の撮影領域をより拡大するために、 スーパー800」) LF に特化して開発された世界初の ISO 感度 800 を有するカ 1994 年 ラーネガフィルム。感度と露光ラチチュード拡大のために、 (「 S U P E R G 「SUFG 技術」を開発。 ACE800」) 1987 年 1984 年 1989 年 1983 年 1989 年 1976 年 富士写真フイルム株式会社 富士フイルム株式会社フジフイルム スクエア写真歴史博物館 東京都港 区 保存 1948 年 中家佐三(小西六寫眞工業株 (昭和 23 年 9 月 式会社天然色フィルム係) 10 日) 1941 年 1986 年 製作年 コニカミノルタホールディングス株 式会社 東京都日野市さくら町 1 番 地 株式会社小西六(工場六桜社 で製造) コニカミノルタビジネスエキスパー ト株式会社 東京都日野市さくら町 1 番地 3 保存 さくら天然色フィ ルム 富士写真フイルム株式会社 富士フイルム株式会社フジフイルム スクエア写真歴史博物館 制作者 フジカラー F-II400 保存 レンズ付きフィル ム「写ルンです」 所在地 保存 資料 形態 名称 カラーネガフィルムの登録候補一覧 研 究 報 告 書「さく ら天然色フィルムの 製造方法に就いて」 2 1 番号 カラーネガフィルムの技術系統化調査 361 362 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August 1972 1971 1967 1969 1966 1965 1964 1963 1961 1960 1958 1957 1948 1949 1951 1953 1955 1947 1942 1941 1939 1936 1935 1904 1919 1921 1925 1929 1931 1934 1903 1888 1873 1851 1861 1862 1871 1839 1825 コダックのマン、ゴドウィスキーによる外式反転カラーフィルムの 発売 アグファ社が内式(水溶性カプラー)反転カラーフィルム ノイの 発売 アグファ社が映画用内式(水溶性カプラー)カラーネガ・ポジフィ ルムを完成 ライツによるライカ A(35mm)カメラの発売 内式(アグファ)方式「さくらフィルム ASA16 発売 コニカラーネガティブ」 DIR カプラーを用いたコダカラーⅡ、110 システム発売 中国カラー感光材料の生産開始 コダックがインスタマチックシステムを発表、発売 オリエンタルが国産初の内式カラーネガ発売 コダックが内式オイルプロテクト型、コダカラーカラーネガ・ロー ルフィルム発売 「さくら天然色フィルム」による、16mm 観光映画「夢」を制作し コダックがカラードカプラーを用いたエクタカラーシートフィルム 公表(国産初の天然色映画) 発売 国産初の外式反転カラーフィルム「さくら天然色フィルム」再発売 コダックが TAC ベースによる映画フィルムの不燃化に成功 国産初の外式反転カラーフィルム「さくら天然色フィルム」発売 (国内初、世界でも 3 番目) 六桜社製ロールフィルム「さくらフヰルム」を発売 世界の主な出来事 ニエプス ヘリオグラフィーによる世界最古の写真撮影 ダゲールのダゲレオタイプ写真、タルボットのカロタイプ写真の発 表 アーチャーの湿式コロジオン写真 マクスウェルの分解写真合成(加色法)による三原色説の公開立証 デュコ・デュ・オーロンが減色法カラーを発表 マドックスのゼラチン乾板写真 杉浦六三郎、東京麹町の小西屋六兵衛店で写真および石版材料の取 フォーゲルによるが増感色素の発見 り扱い開始。 (後のコニカ株式会社の創業) イーストマンがコダック社と命名、カメラとロールフィルム一体販 売 国産初のブランド付カメラ『チェリー手提用暗函』発売。国産初の 印画紙「さくら白金タイプ紙」発売 「さくら POP(Printing-Out Paper 焼き出し印画紙)発売 ルミエール兄弟によるオートクロム法の展示 オリエンタル写真工業創立 コニカ(小西六) 映画用内式(アグファ型)35mm フジカラーネガティブフィルム(タイプ 8512)発売 フジカラー ネガフィルムによる最初の長編劇映画作品「楢山節考」 (松竹作品)を公開、一般用内式(アグファ 型)フジカラーネガ発売(35mm 判、ロール ASA32)、すべての写真フィルムを不燃性ベースに 転換完了 35mm 判カラーネガフィルムに 12 枚撮を発売 映画用 16mm フジカラーポジティブフィルム(タイプ 8827)発売、35mm 判フィルムの日中装て ん化を実施、フジカラーN50(35mm 判、ロール)発売 フジカラーN50 シートフィルム 発売 、カラードカプラーを用いたフジカラーN64(35mm 判、 シート、ロール)発売 「さくらカラーネガティブ 100」 (世界初の ASA100)発売 映画用カラーネガ(タイプ 8513、8514)発売、フジカラーN100(35mm 判)発売、カラーフィル ムの販売価格から現像料を分離 ニュータイプフジカラーネガティブフィルム(シート)発売 フジカラーネガフィルムタイプ L(ASA32) 、タイプ S(ASA80)(ロール、シート)発売、ニュー タイプフジカラーR100(35mm 判)発売(オイルプロテクト型カプラー使用の最初の製品) 「さくらカラーN100」 (カラードカプラー導入)発売 映画用 35mm フジカラーネガ(8515)発売 映画用 16mm フジカラーネガ(8516)発売、ニュータイプフジカラーN100(35mm 判)オイルプ さくらカラーN-100(愛称ナウカラー)オイルプロテクト型発売 ロテクト型発売 フジカラーN プロフェッショナルタイプ S、タイプ L 発売 映画用内式(アグファ型)カラーネガ(タイプ 8511)発売 フジカラー8mm フィルム(ダブル 8 用外型反転カラー)発売 3 色方式一般用ブローニー判外式反転カラーフィルム(ASA10)発売 3 色方式一般用 35mm 判外式反転カラーフィルム(ASA10)発売 国産初の劇映画、総天然色「カルメン故郷に帰る」公開 3 色方式外式反転カラーフィルム試作完成 バイパック乾板による天然色写真を出品 ロールフィルム発売 東洋乾板㈱による東洋トロピカル乾板 発売 ロールフィルムを試作(大日本フヰルムと命名) 富士写真フイルム㈱創立、東洋乾板㈱を合併 大日本セルロイド株式会社創立 東洋乾板株式会社創立 東洋乾板㈱による ST 乾板 発売 フジフイルム カラーネガフィルムの開発歴史年表 カラーネガフィルムの技術系統化調査 363 2008 2009 2007 2006 2005 2004 2003 2002 2001 2000 1999 1998 1997 1996 1995 1994 1990 1991 1992 1993 1989 1988 1987 1985 1986 1984 1983 1981 1982 1980 1977 1976 1975 1974 サクラカラーⅡ(無呈色 DIR カプラー)発売 世界初の連動ストロボ内蔵 35mm カメラ「コニカ C35EF(ピッカ リコニカ) 」発売 フジカラー映画用カラーネガ ETERNA Vivid 500 発売 フジカラーF-II プロフェッショナル タイプ S、L(ロール、シート)発売 世界初の感度 400 を持 つフジカラーF-II400(35mm 判)発売 映画用 35mm フジカラーネガ A(タイプ 8517)発売、フジカラーF-II400 ポケット 発売 世界初の自動焦点カメラ「コニカ C35AF(ジャスピンコニカ) 」発 コダカラー400 発売 売。サクラカラー400 発売 映画用 35mm・16mm フジカラーネガ A250(8518、8528)発売(世界初の EI250)、フジカラー 100 プロフェッショナル タイプ S フジカラー80 プロフェッショナル タイプ L 発売 フジインスタントカラーフィルム FI-10 発売 ソニーが電子スチルカメラ マビカ発表 ディスクシステム発表、HR ディスクフィルム発売 映画用フジカラーネガ A(8511、8521)、高感度タイプ AX(8512、8522)発売、フジカラー サクラカラーHR ディスク(ISO200)サクラカラーSR200、100 サ コダック VR シリーズ(100、200、400、1000、ディスク)発売 HR100、200、400(35mm 判)発売(スーパーDIR、 ポリマーカプラー、二重構造粒子) クラカラーSR プロフェッショナル発売 映画用フジカラー高感度ネガ AX(露光指数 500)発表(世界初の EI500) 、フジカラーHR1600 サクラカラーSR400、SR ディスク、サクラナイスプリントシステム (35mm 判)発売、フジカラー160 プロフェッショナル S、L(ロール、シート)発売 NPS − 1(無水洗処理)発売 サクラカラーSR1600 発売 フジカラー「SUPER HR」シリーズ 発売、フジカラー「写ルンです」発売 サクラカラーSR-V100 発売 コダカラーVR-G シリーズ発売 写ルンです Hi 、FLASH 発売 サクラからコニカへブランド名を変更、コニカカラーGX(100、 コダックがレンズ付きフィルム発売、フジフイルム、東芝共同開発 200、400、3200、プロフェッショナル)、レンズ付きフィルム「よ デジタルスチルカメラ試作機(DS-1P)発表(160 万円) く撮れぞうくん」発売 映画用カラーネガ F シリーズ 発売、フジカラーインターネガフィルム発売 「ママ撮って GX-100M」 「ズームしま専科 GX-400」発売 コダカラーゴールドシリーズ発売 フジカラーSUPER HG シリーズ(HG400 で常用化推進) 、色忠実性を向上したフジカラーリアラ コニカカラーGX Ⅱ 100 発売 発売、写ルンです 望遠、接近 発売 写ルンです パノラミック Hi 発売、フジクローム「ベルビア」発売 コニカカラーSUPERDD(100、200、400、プロフェッショナル)発売 映画用カラーネガ F500 発売、写ルンです 防水、パノラミックフラッシュ 発売 コニカカラーIMPRESA50 プロフェッショナル発売 フジカラースーパーG シリーズ 発売、写ルンです エコノショット、迫力ビジョン 発売 コニカカラーXG400、撮りっきりコニカ MiNi 発売 写ルンです スーパー800 、パノラマ切替 発売 映画用カラーネガフィルム F(64D、125、250、250D)発売、フジカラー160NS、160NL 発売、フ コダック ロイヤルゴールド シリーズ発売 ジカラースーパーG ACE400、800 発売、写ルンです スーパー800 望遠、ACE FLASH15 発売 カシオからデジタルカメラ QV-10 が 49,800 円で発売 映画用カラーネガ スーパーF シリーズ FCI、F-500 発売、フジカラースーパーG ACE100 発売、 コニカカラーLV100、200 発売 スーパー写ルンです 発売、米国イーストマン・コダック社が「日本の一般写真市場は閉鎖的」で あるとして米国通商代表部に提訴→ 1998 年にコダックが全面敗訴 フジカラーリアラ ACE、スーパー V100 発売、APS システム発表、フジカラーネクシアシリー コ ニ カ カ ラ ーJX100、400、 コ ニ カ カ ラ ー プ ロ フ ェ ッ シ ョ ナ ル APS システム発表、コダックが APS 用アドバンティックスシリー ズ 発売、写ルンです Golf、スーパースリム、Black & White 等 発売、デジタルラボシステム「フ 160PS、コニカカラーLV400 プロフェッショナル、APS 用 JX フィ ズフィルム発売 ロンティア」発売 ルム発売 フジカラーnexia セピア、写ルンです スーパースリム セピア APS 発売、New 写ルンです エー コニカモノクローム セピア調 400、コニカカラーJX200M ママ撮っ コダカラーゴールドフィルム(100、200、400、MAX800)発売 ス 800 発売 て 肌 色、 コ ニ カ JX200M 素 肌 美 人、 コ ニ カ プ ロ フ ェ ッ シ ョ ナ ル 160PL 発売 映画用カラーネガ F-64D、125 、新 500 発売、第四の感色層を搭載したフジカラーnexia H400、 撮りっきりコニカ超 Mini800 フラッシュ(CENTURIA800 使用) A200、SUPER400、100 発売、写ルンです スーパースリム 切替等 発売、新インスタント写真シ 発売 ステム instax mini 10「チェキ」発売 映画用カラーネガフィルム F-250/250D ニュータイプ 発売、フジカラーPRO400(PN400)発売、 コ ニ カ カ ラ ー CENTURIA100、200、400、800、 コ ニ カ カラーネガフィルム SUPERIA シリーズ 発売、デジタルミニラボ「フロンティア 350」発売 CENTURIAAPS200、400 発売 映画用カラーネガフィルム NEO F-400 発売、フジカラーSUPERIA ズームマスター800、1600、 コニカカラーNewCENTURIA800 ズームスーパーAPS800 ズーム nexia ズームマスター800 発売、写ルンです デート Flash25 等 発売 スーパー発売 映画用カラーネガフィルム REALA500D 発売、フジカラーnexia400、nexia200、PRO800 発売、 コニカカラーNewCENTURIA400 発売 写ルンです New 望遠 27 等 発売 フジカラーNew PRO 400 発売、デジタルミニラボ「フロンティア 340E」発売 コ ニ カ カ ラ ーCENTURIA SUPER シ リ ー ズ 100、200、400、800、 1600 発売 フジカラーSUPERIA Venus シリーズ発売、写ルンです Night & Day 等 発売、「写ルンです」 コニカカラーCENTURIA ポートレート 400(135)、プロ 400(120) 1986 年誕生から出荷数 10 億本突破 発売 ノ ン フ ラ ッ シ ュ に よ る 新 し い 写 真 ナ チ ュ ラ ル フ ォ ト(NP) シ ス テ ム、35mm カ ラ ー ネ ガ NATURA 1600 発売、フジカラープロフェッショナルカラーネガ PRO160NS、NH 発売、写ルン です 800 プレミアム等発売 フジカラー映画用カラーネガ ETERNA 500、400、250/250D 発売、フジカラーPRO160NC 発売、 コダック プロ用ポートラ エンハンストカラーネガ発売 写ルンです Room & Day Super Flash 27 等発売 写ルンです 1600Hi・Speed Flash 27/39 発売 銀塩アマチュアフィルム事業から撤退 フジカラー映画用カラーネガ ETERNA Vivid 160、映画用のデジタルインターメディエイト用レ コダック映画用カラーネガ ビジョン 3 発売 コーディングフィルム ETERNA-RDI、カラー用デュープフィルム ETERNA-CI 発売 フジカラーF-II(35mm 判)発売(IRG 技術) フジカラーF-II ポケットフィルム 発売 国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第 17 集 平成24(2012) 年8月20日 ■編集 独立行政法人 国立科学博物館 産業技術史資料情報センター (担当:コーディネイト・エディット 永田 宇征、エディット 大倉 敏彦) ■発行 独立行政法人 〒 110-8718 国立科学博物館 東京都台東区上野公園 7-20 TEL:03-3822-0111 ■印刷 新高速印刷株式会社
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