スウィンバーンと神話 -メアT) ・ゴードンをめぐって

蛮温Nar㌘univ.篭dueヲ・&mssnサ(as,V。l.26,N。.1,(盈&ォ。c.)1977
スウィンバーンと<ファム・ファタル>神話
-メアT) ・ゴードンをめぐって
上 村 盛 人
(英文学教室)
(昭和52年4月26日受理)
序
スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)の詩には、実に多くのくファム・ファタル〉
が登場する。被ばくファム・ファタル)連に取り浸かれていたと言ってもよい程である.実際、
彼はくファム・ファタル)のイメージをはっきりとヴィクトリア朝の英国に紹介し、それを定着
させた第一人者であり、彼のくファム・ファタル〉像が、その後の、特に仕紀末の、詩人や文学
者達に与えた影響は決して少なくはなかった。一方、メアリ・ゴードン(MaryGordon)は、彼
に失恋の苦汁を嘗めさせ、彼の心に大きな痛手を与えた女性であり、詩人のそれまでの情緒生活
において、彼女は大きな場所を占めていた。そして、そのメアリがくファム・ファタル〉のイメ
ージの中に認められると言われている。スウィンバーンの詩に頻出するくファム・ファタル〉と
はどのようなものか、また、彼はどうしてそのようにくファム・ファタル)のイメージに取り葱
:EJinK
かれていたのか、さらに、彼のくファム・ファタJL;)の神話創成にメアリ・ゴードンがどのよう
に関わっているのかを小論で考察してみたい。
1
くファム・ファタル)とは`femmefatale'というフランス語で、英語のequivalentは`fatal
woman である。あらゆる点で英国の最盛期であったヴィクトリア朝の強大なエネルギーを傾け
て作られた彪大な大辞典、 O. E. D. (Oxford English Dictionary)には、 `femmefatale'も
`fatal もエントリーされてはいない。その理由は、以下に見るように、これらの語の持
っている(当時の人々の見地からすれば)忌わしく、かつ反社会的な意味とそれに伴なう連想が、
他に類を見ない程の厳しい道徳基準を固持していたヴィクトリア朝の辞書編集者をして、これら
の語を無視せしめたからであった。最近、新版の出たC. O. D.s (Concise Oxford Dictionary,
1976)には、くファム・ファタル〉がはじめてエントリーされ、ごく簡潔に次のように定義され
ている。
femme fatale n. Dangerously attractive woman
くファム・ファタル〉とは、要するに、その美しさで男を誘惑し、破滅に至らしめる魔性の女の
謂である。 (日本語では、 「運命の女」、 「宿命の女」, 「死を招く女」、 「妖婦」等と訳されている
が、本稿では原語のままくファム・ファタル)を用いることにする。)
以上のように定義してしまえば、くファム・ファタル)は現実の世界でも、そして文学の世界
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においても見かけられるはずである。蛇の髪の毛を持っていて、自分を一目でも見た者をことご
とく石に変えたというメドゥサ(Medusa)、通りかかった旅人に一つの謎を掛けて解けなかった
者を殺したというスフィンクス(Sphinx)、夢の国からやって来て、アダム(Adam)の最初の
妻であったというリリス(Lilith)、怪力のサムソン(Samson)を誘惑したデリラ(Delilah)、
アントニー(MarkAntony)を破滅に陥れたクレオパトラ(Cleopatra),騎士タンホイザー
(Tannh五user)を歓楽の世界へと引き入れたホ-ゼルハーグのヴィーナス(Venus in Horselberg)、
若き騎士デ・ダリュ- (Des Grieux)の破滅の原因となったマノン・レスコ-(Manon Lescaut)、
ドン・ホセ(Don Jos占)を悪の道に誘ったカルメン(Carmen)、オックスフォード大学生を大量
に入水自殺させる原寓となった美貌の女手品師ズーレイカ・ドブソン(Max Beerbohm: ZuLeika
ナオ ミ
Dobson)、真面目な会社員であった河合譲治を虜にしてしまった奈緒美(谷崎潤一郎.・ 『痴人の
愛』)は、いずれも典型的なくファム・ファタル)達であるが、他にも例は殆んど枚挙に暇が無
い位あるはずである。マリオ・プラ-ツ(MarioPraz)は、神話や文学の世界にくファム・ファ
タル〉が常に存在していたことを次のように説明しているo
There have always existed Fatal Women both in mythology and in literature,
since mythology and literature are imaginative re且ections of the various
aspects of real life, and real life has always provided more or less
complete examples of arrogant and cruel female characters.'13
しかし、くファム・ファタル)のイメージは、ロマン派から世紀末にかけての文学作品に極め
て多く見られる顕著な特質なのであるoプラ-ツによれば、ロマン派におけるくファム・ファタ
ル〉は、先ずルイス(Lewis)の『僧侶』 (TheMonk)の中に登場するマティルダ(Matilda)に
おいて最初に認められ、それ以後、シャトーブリアン(Chateaubriand)のグレーダ(Veil芭da)、
フローベール(Flaubert)のサラムボー(Salammbo)、メリメ(Mとrim色e)のカルメンへと発展
し、ゴーティエ(Gautier)を経て、スウィンバーンにおいて充分に完成されたものとなり、さら
にそれから、ウォルター・ペイクー(Walter Pater)、ワイルド(Wilde)、ダヌンツイオ(D'
Annunzio)へと続いていくのであるく2㌔
クレオパトラについて、ゴーティ工が描くところによれば、クレオパトラが「手の届かない」
(`unattainable')存在である故に、青年は彼女に引きつけられるのであり、彼女は常に「物憂
い」 (`ennui 雰囲気を漂わせており、さらに、彼女は「抗し難い魅力を持っ『霊的な女王』」
(`"reine siderale" of irresistible charm')なのであり、彼女の身体を知ることは、即ち死を意
味し、彼女は「かまきり」 (`praying mantisり のように、自分の愛する男を殺すのである。こ
れらはくファム・ファタル〉として登場する女性の典型的な特徴となるものである。一方、その
ようなくファム・ファタル〉に引きつけられる男は、大抵は若者で、消極的な態度の持ち主であ
り、彼女に対して身分も低く、肉体的にも劣っていることになっているC3J くファム・ファタル)、
及びそれに魅せられる男のこれらの特徴は、スウィンバーンにおけるくファム・ファタル)の惟
界を考察する際に、大いに参考となるであろう。
十九億紀においては、くファム・ファタル)のイメージは文学の世界だけに限られるものでは
なく、多くの絵画においても登場した。 「昼の理性的現実をたちこえて、ブルジョワ的秩序を破
壊する」ために、サンボリストたちによって、この世紀得意の表象としての「女と死」というテ
スウィンバーンとくファム・ファタル〉神話-メアリ・ゴードンをめぐって71
-マが執劫に追求されたと鋭く、ホ-フシュテッタ-(Hofstatter)は次のように述べている。
ロセッティが「ヴェヌス・ヴェルティコルディア」で描いているのは、愛の女神では
mm.
なくて、林檎や黄金の矢のような、その魔力の印を携えている大娼婦である。あるソ
ネットのなかでこの詩人はこの女神を破壊者として描いている。やや後には「娼薬」が
成立することになる。そう、唇に盃をふくみ、見えない騎士のために乾杯する、血の
接吻にぬれ、熱望にうむことを知らぬ層の、陶酔に誘い、魅惑し、破壊する、美しい
°°°°t°°°°°°°▼
淫蕩な女。
モローは伝統のなかからサロメのイマージュを取材して、これを女の倒鐙
的な力の象徴に仕立てている。この作品はオスカー・ワイルドに刺激をあたえてその
「サロメ」を書かせることになったが、-さらにこの文学作品が、ビアズレ-、ベ-マ
-、クノッ7、クリムトなどの芸術を実らせた。サロメは仕紀転回期の社会象徴とな
り、その化身がメッサリーナやユーディットやクレオパトラなどの姿のなかに、ある
いはまた単に、世紀転回期の時代に成立した憧れにみちた眼差しの、ロをなかば開き、
フ7ム°フ7タル
髪を長く披うたせた若い娘の肖像のなかにも見られるような、あのく宿命の女)の原
像となるのであるCO/
。V下点は筆者によるO)
くファム・ファタル)は、この時代の一つの芸術の分野だけに兄い出される珍奇で、瞬発的で、
浅薄なイメージではなく、それは、十九世紀、特に惟紀末全体を包み込んでいたあの特有の雰囲
気を見事に代弁するイコノグラフィーだったのであるo高階秀爾氏は、「この時代は本質的に女
性的な時代であり、それも、もの憂げな哀愁と謎めいた沈黙を湛え、華やかに輝く衣裳を身にま
°°°°°°°°°°°°°°
といながらどこか夢のように非現実的で、病的なまでに鋭い官能性と、天使のような清らかさの
°°▼°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°
あ
不思議な混清を示す『奇やしくも懐しい』女性像が支配的であった時代なのであるC53」と述べて
°▼°°°°°°
いる。(下点は筆者による。)そして、モロー(G.Moreau)の絵から刺激を受けてワイルドが書
いた戯曲『サロメ』は、その本の挿絵となったビアズレ-(Beardsley)の絵と共に仕期末芸術を
席捲し、さらにこの劇に感動した作曲家リヒャルト・シュトラウス(RichardStrauss)が楽劇
『サロメ』を作り上げたことは周知の通りである。以上、極めて大雑把であるが、くファム・ファ
タル〉が十九僅紀に登場してくる経緯とその軌跡を辿ったのであるが、次にスウィンバーンの詩
に見られるくファム・ファタル)について考察してみよう。
2
Coldeyelidsthathidelikeajewel
Hardeyesthatgrowsoftforanhour;
Theheavywhitelimbs,andthecruel
Redmouthlikeavenomous点ower;
Whenthesearegonebywiththeirglories,
Whatshallrestoftheethen,whatremain,
OmysticandsombreDolores,
OurLadyofPain?(ll.ト8.)
くファム・ファタル)が登場するスウィンバーンの作品の中で、最も代表的でかつ有名だと忠
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tMMSii
われる「ドローレス」はこのような第一連で始まる。 「ほんの一時間だけ優しくなるきびしい目
を宝石のように隠している冷たい目蓋」、 「重々しく白い手足」、 「毒を持っ花のように残忍で赤い
ロ」、 「神秘的で陰欝な-ドロー-I/ヌ」。このような言葉を並べただけで、ドローレスがくファム・
ファタル)の特質を充分に持っていることは、一目瞭然であろうO しかし、この詩の副題は、 「七
つの悲しみを持っ聖母」 (`NOTRE-DAME DES SEPT DOULEURS')となっていて、,各奇
EXJ招a
数連の最終行に`Our Lady'(-`Notre Da品e')という言葉が用いられていること、また、 「お
願いだから、あなたの祭壇から応えて下さい」 (119行)、 「あなたの内奥にある神殿の闇の中で」
5S
(182行)、 「あなたのあふれるばかりの番の煙」 (191行)、というように書かれているのを見ると、
ドローレスは祭壇に肥られている聖母マリアのことなのか、という思いが、一瞬、この作品を初
めて読む人の頭を横切る。実際、 `Dolores'と小う名前は`Mater Dolorosa'(悲しみの母、即
ち、聖母マl)ア)を連想させるのであるO このように、キリスト教のイメージや連想を多く用い
ることによって、さぞや敬虞なマリア讃歌が歌われているのかと思いきや、ドローレスは、実は、
「海から生れた」 (`Thalassian') 〔223行〕ヴィーナスの化身なのであり、 「死と(豊穣をもたらす
庭の神)プリアブスとの間に生れた娘」 (`daughter of Death and Priapus') 〔423行〕であり、
「そこにすべての男達が住むことのできる庭」 (18行)セあり、 「消すことのできない(情欲の)炎
を持っ館」 (23行)というように描かれており、彼女は正に愛欲の象徴とも言うべき女神として
肥られているのである。フロイト(Sigmund Freud)的解釈を暗示するような蛇のイメージを用
いっつ、彼女のくファム・ファタル〉ぶりは次のようにも描かれている。
O lips full of lust and of laughter,
Curled snakes that are fed from my breast,
Bite hard, lest remembrance come after
And press with new lips where you pressed.
For my heart too springs up at the pressure,
Mine eyelids too moisten and burn ;
Ah, feed me and丘11 me with pleasure,
Ere pain come in turn. (ll. 25-32.)
鋭敏な直感力を持つエンプソン(William Empson)は、 「ドローレス」のエネルギーが、各奇
ES^Xi
数連のリフレインになっている`Our Lady ofPain'の最後の単語と親を踏むべき`Spain'と
いう語が一皮も表面には現われずに、常に裏に隠されているところから生じているのではないか
と、少しためらいながら述べているが(6)、メリメの『カルメン』以後、くファム・ファタル〉がス
ペインの女として定着していたこと(7)、及び、ドローレスという名前がスペインではごく普通に
女の子の名前として用いられていたのを考え合わせると、エソプソンのこの指摘は含蓄に富むも
のである。
当時、妖艶な演技でアメリカやヨ一口ッノヾ各地で有名を馳せていたサーカスの女曲馬師メンケ
ン(Adah Isaacs Menken)の洗礼名がドローレスであったところから、この詩の主人公はメソ
ケンに由来すると指摘する批評家もいるがC8)、そのような指摘のヒントになったのは、立ってい
るスウィンパー1/の左肩と左手にすがるようなポーズで椅子に坐っているメンケン-しかも立
っているスウィンバーンは坐っているメンケンと余り背の高さが変わらない/-という印象的
スウィンバーンとくファム・ファタル)神話-メアリ・ゴードンをめぐって 73
な構図の写真であったかも知れないC9)この写真は、当時のヴィクトリア朝の人々にはいかにも
くファム・ファタル)とそれに魅せられる男の完全な構図の如く映ったのかも知れないが、 「ドロ
ーレス」があくまでもくファム・ファタル〉についてのスウィンバーンの意識的なパロディーで
あるCIO2ことを思い合わせるならば、 「ドローレス」 (より正確に転記すれば「ドローリーズ」)と
いう名前とその意味と昔の効果のみが詩人に強く印象づけられていて、彼はそれをこの詩のタイ
トルに用いたにすぎなかったと見なすのが妥当な所であろうCl13
オックスフォードの学生達が列を組んで、 「ドローレス」の詩行を朗唱しながら町をねり歩い
たというエピソードは有名な語り草となっているC123 権力や権威に反損を感じることは若者達
によく見られるのであるが、この詩の中に彼らは、ヴィクトリア朝の抑圧的、禁欲的モラルに真向
うから対決する、反社会的、反キリスト教的、反道徳的要素を嘆ぎつけて、それに何らかの共感
を覚えていたのであろう。机の脚がむき出しのままでいるのは下品だとしてそれに覆いをかけ、
「文学作品のテーマも腰帯(girdle)から上の上半身だけに限られC133」、 「常に一夫「妻制という形
で完成される優しいロマンティックな愛だけが唯一の許される愛の形態であるClォ」 とされてい
たヴィクトリア朝の人々にとって、次の如き一節はど異質なものはまず見当らないであろう。
For the crown of our life as it closes
Is darkness, the fruit thereof dust ;
No thorns go as deep as a rose's,
And love is more cruel than lust.
Time turns the old days to derision,
Our loves into corpses or wives ;
And marriage and death and division
Make barren our lives. (ll. 153-160.)
エコー
既に指摘したように、スウィンバーンは聖書の言葉の響きや、キリスト教に関するイメージを
用いることによって、極端なまでに、反キリスト教的、反社会的内容を持つ「ドローレス」を書
いたが、このことは他の多くの詩についても言えることであり、彼の詩の性界にあっては、形骸
化してしまったキリスト教の神は既に死んでしまっているのであるく153 これは、ダーウィン
(Charles Darwin)の『種の起源』 (The Origin of Species)に代表され、ニーチェ(Friedrich
Wilhelm Nietzsche)をして、 `Gott ist tot!と叫ばしめ、フロイトの精神分析学を登場させた
のと同じZeitgeistの中に、スウィンバーンもどっぷりとつかっていたことの証左とならないで
あろうか。
以上、 「ドローレス」についてやや詳しく検討したのであるが、次に、他の詩に見られるくフ
ァム・ファタル〉について概観してみよう。スウィンバーンの出世作で、おそらく彼の作品中最
も広く読まれてきたと思われる『キャリドンのアタランク』 {Atalantain Calydon)では、ア
タランタのくファム・ファタル)ぶりが次の如く歌われている。
She the strange woman, she the且ower, the sword,
Red from spilt blood, a mortal丑ower to men,
Adorable, detestable-even she
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Saw with strange eyes and with strange lips rejoiced,
Seeing
these
mine
own
slain
of
mine
own,・ ・ ・ (ll.
1692-1696.)
スコットランドの女王、メアリ・ステユアート(Mary Stuart)についての三部作から成る詩
劇の曙矢となった『シャトラ-』 {Chastelard)では、メアリについてシャトラーは次のように
言う。
I know not: men must love you in life's spite;
For you will always kill them; man by man
Your lips will bite them dead ; yea, though you would,
You shall not spare one; all will die of you; (V. ii. 326-329.)
プラ-ツほ、 『シャトラ-』のメアリ・ステユアートは「僻にすぐれた」 (タorexcellence)くファ
ム・ファタル〉だと述べているC16)
EMIぢa
「フオスティーヌ」 (`Faustine')は41連から成る力作であるが、ここでは、今の時代の女性の
HKa!
顔の中に、古人が作ったコインや胸像を通じて我々も知っている古代ローマの実在の王妃、フオ
スティーヌの顔を認めるということ、つまり、 「転生」 (`transmigration')の息憩が述べられて
いるcm そして、勿論、フォスティーヌは男が流す血を見て喜こぶ典型的なくファム・ファタル)
なのである。
I know what queen at丘rst you were,
As though I had seen
Red gold and black imperious hair
Twice crown Faustine.
As if your fed sarcophagus
Spared flesh and skin,
You come back face to face with us,
The same Faustine.
She loved the games men played with death,
Where death must win ;
As though the slain man's blood and breath
Revived Faustine. (ll. 57-68.)
「ヴィーナス讃歌」(`Laus Veneris')では、中位の騎士タンホイザーを誘惑し、信仰の惟界から
官能的な歓楽の世界へと彼を引き入れたヴィーナスがくファム・ファタル)として描かれている。
Ah, not as they, but as the souls that were
Slain in the old time, having found her fair;
Who, sleeping with her lips upon their eyes,
スウィンバーンとくファム・ファタル)神話-メアリ・ゴードンをめぐって 75
Heard sudden serpents hiss across her hair.
Their blood runs round the roots of time like rain :
She casts them forth and gathers them again ;
With nerve and bone she weaves and multiplies
Exceeding pleasure out of extreme pain. (ll. 113-120.)
このヴィーナスは、キーツ(John Keats)の「つれなき手弱女」 (`La Belle Dame sans Merci')
では、はっきりと姿を現わしてはいなかったのであるが、スウィンバーンのこの詩においては、
彼女はそのくファム・ファタル〉的要素と共に、十分に長々と描かれている。その他、 『ロザモ
ツド』 (Rosamond)、 「生のバラード」 (`A BalladofLife')、 「死のバラード」 (`A Ballad of
Death')、 「フラゴレッタ」 (`Fragoletta')、 「ヘスペリア」 (`Hesperia')、 「マy- ステユアー
トへの告別」 (`Adieux el Marie Stuart')などの詩作品においてもくファム・ファタル)のイメ
ージは見られる。
3
「時の勝利」、 (`The Triumph of Time')、 「いとま乞い」 (`A Leave-Taking')、 「モウセン
ゴケ」 (`The Sundew'などの一連のすぐれた作品は、失恋の体験がその製作動機となってい
る作品で、このスウィンバーンの失恋体験はその後の彼の精神生活、及び詩の世界に大きな影響
を与えたということで、ゴッス(Edmund Gosse)以来、多くの批評家がこの失恋問題を大きく
取り扱ってきた。最初の本格的な伝記を書いたゴッスは、このエピソードを劇的に描いて、スウ
ィンバーンが、 「突然愛の告白をし、しかも、彼女には途方もない激しい調子だったので、悪意
からと言うよりは、おそらく混乱したあまり、彼女は彼の目の前で吹き出してしまった。彼はひ
どく意気消沈し、 ・-・極めてみじめな気持ちの中で、 『時の勝利』を書き上げた」と述べたC18)
しかもゴッスは、スウィンバーンから直接開いたというこの話を、四十年以上も後になってから
だったので記憶違いからであろうか,失恋の相手をジェイン・フォークナ- (JaneFaulkner)と
いう全然関係のない女性にしてしまったO その後の批評家はすべてゴッスの説に従ってきたので
あるが、やっと1959年になって、メイフィールド(John S. May丘eld)の説に示唆を受けたラン
グ(CecilY.Lang)が、 「失恋」の相手がメアリ・ゴードンであることをはっきりと指摘したC193
ではメアリ・ゴードンとはいかなる女性であったのだろうか? 彼女はスウィンバーンのいと
こ-しかもかなり血の繋がりの濃いいとこ-であった。即ち、メアリとスウィンパーンの母
親同士はアッシュバーナム伯爵(Earl of Ashburnham)の娘達、つまり実の姉妹であり、しか
も彼らの父親同士も互いにいとこで,その上、彼らの母親と父親は共に互いに血族関係にあると
いう当時の英国の貴族階級の間ではよく見られた複雑な同族結婚によって成立していた家庭環境
の中で、二人は育ったのである。ワイト島(TheIsle ofWight)では、スウインバーン家とゴ
ードン家は互いに頻繁な往き来があったので、当然、アルジァノンとメアリは幼い時からの親-し
い遊び友達であった。後年、詩人についての伝記を書くことになるメアリは、他に詩や、小説
や、アイスランド紀行に関する書物も発表しており、文学的才能の豊かな女性であった。さらに、
上流貴族の娘として音楽的素養もあった彼女と文学的想像力の横溢する若き詩人との問には、二
人だけの想像的な豊かな他界が存在していたと考えても不思議ではあるまい。そして、彼女は、
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彼と同じように、乗馬と水泳が得意であり、およそ彼のすることは何でもするという、詩人の
「弟」のような存在であったC20J そのメアリが、 1863-4年のある時に、ディズニイ・レイス陸
軍大佐(Colonel Disney Leith)と結婚することになるだろうと、スウィンバーンに言ったので
ある。 (メアリは1865年に結婚してレイス夫人となった。)
スウィンバーンがメアリに求婚して、そして拒絶されたのだと考える批評家もいるがC215、筆者
はそうは考えないO と言うのは、まず第-に、前述のように、メアリは彼にとって「弟」のよう
な存在だったのであり、たとえ好意は感じていたとしても、結婚を申し込む対象としては、おそ
らく彼は考えていなかっただろうと思われるからである。第二に、 (この理由の方がより説得的
だと思われるが、)近親結婚の結果とも言うべき奇妙な体質と奇癖(身長が五フィートで、赤い
豊かな髪の毛をした頭だけが異様に大きいこと、てんかん性の発作が時々起ること、歩く時の奇
妙な踊るような足つき、けいれん的に動く手足、並はずれてかん高い声、等々)を負わされてい
た彼が、血の繋がりの極めて濃いメアリに求婚するとはおよそ考えられないからである。しかし、
メアリの結婚宣言は彼には大きなショックであったのは事実であろう。それは幼い時から二人で
共有してきた僅界の崩壊を意味するからだ。それは彼から見れば、一種の裏切り行為として映っ
たかも知れない。 「時の勝利」が書き上げられた過程にはおそらくこのような背景があっただろ
うと思われる。そして、このメアリ・ゴードンの中にドローレスの原型が認められると言われて
いるC225
4
スウィンバーンのメアリに対する秘められた好意-メアリの突然の結婚宣言一二人だけの楽園
的世界に破局をもたらす彼女の裏切り行為-くファム・ファタル〉になるメアリ。このように図
式的に見れば、スウィンバーンの詩におけるくファム・ファタル)の出壱削まうまく説明がつくよ
うに見える。しかし、実はそれほど単純ではなかったと筆者は考える。以下に見るように、くフ
ァム・ファタル〉の出現は、詩人の単なる個人的事件に端を発しているのではなく、それは、詩
人としてのスウィンバーンの芸術観に深く関わるもっと大きな要素に関係があると思われるから
である。
「ドローレス」をはじめ、くファム・ファタル〉を描いた詩が顕著に多く収録されている詩集は、
『詩とバラード、第一集』 (Poems and Ballads, First Series) 〔1866年〕であった.この詩集の
出版時に浴せられた轟々たる非難に答えることを目的として発表した『詩と批評についての覚え
書き』 (Notes on Poems and Reviews)の中で、スウィンバーンは次のように言っている。
With regard to any opinion implied or expressed throughout my book,
I desire that one thing should be remembered ; the book is dramatic,
many-faced, multifarious ; and no utterance of enjoyment or despair,
belief or unbelief, can properly be assumed as the assertion of
its author's personal feeling or faith/233
詩集中のそれぞれの詩が、 「作者の個人的な感情や信念の主張ではなくて、劇的で、多面的で、
多様な要素を含んでいるものである」という姿勢は、この詩集だけに限られたものではなく、ス
スウィンバーンとくファム・ファタル〉神話-メアリ・ゴードンをめぐって 77
ウィンバーンの全ての詩についてもあてはまるものであるo詩集中の個々の詩に対する作者のこ
のような取り組み方は、特にプラウニング(Robert Browning)が見事に展開させた、所謂、 「劇
的独白」 (`dramatic monologue')を多く取り入れたやり方であった。十九健紀後半から世紀末
1>・*・-"蝣
にかけて、 「魂の状態」をめぐる連作から成り立つ詩集は少なくはなかった。ボードレ-ル(Charles Baudelaire)の『悪の華』 (Les Fleurs du Mat)や、 D. G.ロセッティ(Dante Gabriel
Rossetti)の『生の家』 {The House of Life)などはその代表的なものである. 『詩とバラード』
を始めスウィンバーンのその他の詩集も、登場人物が一人で、いろいろな場面のさまざまな状況
を演ずる「一人芝居」 (`monodrama')であるということもできるだろうo個々の詩作品が作者
の政治的、及び宗教的信条や伝記的事実などから独立した存在であるという考え方は、スウィン
バーンがくファム・ファタル〉と共にゴーティ工から受け継ぎ、発展させた「芸術のための芸術」
(`Vartpour I'art')の考え方とも密接に関わってくるのであるが、今ここで彼の「芸術のため
の芸術」について詳しく論ずる余裕はないので、そのことを指摘するだけにとどめておこう。
ところで、くファム・ファタル)についてのスウィンバーンの興味は、かなり以前からあった
と考えるべきであり、彼がイートン(Eton)の生徒であった頃に熱心に読んだエリザベス朝の劇
作家達の描く罪に汚れたルネサンスの世界の中に、ラファエル前派(Pre-Raphaelites)が描いた
血なまぐさい中世の中に、ゴーティエやボードレールの作品の中に、ギリシア悲劇の復讐の女神
の中に、旧約聖書の中に、そして、サド(Marquis de Sade)の残虐で虚無的な快楽主義の中に、
それは培われてきたはずであり、彼は、くファム・ファタル)をも含めて、成就しない不運な愛
というものに特に関心を抱いていたのであるC20 そして、既に第1章で考察したような、くファ
ム・ファタル〉的なものを求める時代の文学的風潮をスウィンバーンは充分に察知していたにち
がいないのである。ただ彼は、自分の詩にくファム・ファタル)を登場させるきっかけを待って
いただけであったと言えば言いすぎであろうか。
インヌビレ-i/*ン
古今東西の書物がスウィンバーンの霊 感の源であったことは確かであり、彼の所謂、「芸術
vXtJ
のための芸術」を体現している詩から成り立つ世界は、それ自体、過去の書物、文学と彼の精神
が一体となって作り上げた一つの神話体系を成すものであるが、くファム・ファタル〉 もその中
IUSd
の一つの神話であったと言えるo前節で述べたように、メアリが結婚の宣言をする前に、既にス
ウィンバーンの想像力の中ではくファム・ファタル〉神話は準備されていたのであり、それが実
際に事かれるには、ただきっかけを待つのみであった。マクガン(Jerome J. McGann)の言葉
・eノFラ▼
を借りれば、 『詩とバラード』という一人芝居の主人公になるには、彼はどうしても「メアリ・
ゴードンを失わねばならなかったC25)」のである。メアリの結婚宣言によって、スウィンバーンは
「失恋」したことになり、彼は直ちに「時の勝利」やその一連の詩群の主人公になり、一方、メア
リはドローレスへと変貌してゆくのである.「ドローレス」が実在の女性を描写したものと言うよ
りは、くファム・ファタル)についてのスウィンバーンの意識的なパロディであることは既に第
2章で述べたが、彼はそのようなくファム・ファタル〉像を描くことによって、常に社会慣習や
男性のエゴイズムの犠牲になってきた優しくて、弱々しい女性の位置を逆転させたのであるC263
くファム・ファタル〉に特徴的な、 「残忍さを伴なう美」のアナロジーを、彼は、普段は静かで
美しいが、時として猛々しく荒れ狂う状態にもなりうる海の中に認めた。彼の詩の中では、海は
重要な役割を与えられており、それは、常に変化し続けるが、それでいて絶えることなく存続し
てゆく我々が住むこの世界をつき動かしている不変の法則のアナロジーでもあるO 従って、 「ド
ローレス」や、 「フォスティーヌ」等の詩の中で、スウィンバーンはくファム・ファタル〉とい
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う恐ろしき女達だけを描いているのではなくて、ユング(Carl Gustav Jung)的な意味におけるヾ
「偉大なる優しき母C273」としての海、そしてその海が象徴している、人間の力ではどうしようも
ない運命の法則にも呼びかけているのであるC28>
スウィンバーンには、詩を作り出す職人とでも呼ぶべき特徴的な一面があった。詩を作る職人
として、彼はまず、詩型に取り漁かれていたわけで、このことはソネット[sonnet)形式や、ロ
ンド(roundel)形式に対する彼の執着ぶりを見ても容易に理解できるだろうし、また、他の詩
人があまり取り組まなかった極めて複雑な構造を持つセスティーナ(sestina)や、ダブル・セス
ティーナ(double sestina)等の詩型を含めて、テニスン(Alfred Tennyson)やブラウニング
の約二倍に相当する420種類もの詩型を用いたことC295によっても分るだろうO さらに、彼は、さ
まざまな詩的状況を作り出すために、多くのテーマに関心を持っていたのであり、 『詩とバラ「
ド』の後、イタリア独立というテーマをライトモチーフにして『日の出前の歌』 (Songs before
Sunrise)を書き上げ、ダントン(Theodore Watts-Dunton)と共に、ハトニイ(Putney)に聾
居してからは、幼児の神々しさをテーマにして、少し度が過ぎていると思われるような詩を多ぐ
書いているのはその顕著な例となろう。そのような彼が、くファム・ファタル)や「失恋」をテ
ーマにした詩に関心を持っていたとしても不思議ではないであろう。メアリの結婚宣言は彼にそ
のような詩を書かせるきっかけを与えたと考えられる。そして、彼が何をテーマにしても、出来
上る詩は、詩としての出来映えには優劣の差があるとしても、実質的な内容においては、同工異
曲、つまり、 「芸術のための芸術」を休場し、この世界をつき動かす「絶えず変化を続ける不変
の法則」を指摘する、詩についての詩、つまり、メタ・ポエムとなるのである。エリオット(T.
S. Eliot)が、 「スウィンバーンについては、 『アタランク』全部と、そして『ライ病患者』 (`The
Leper')、 『ヴィーナス讃歌』、 『時の勝利』を含む選集を一冊読むだけで充分だ」と述べたC305のは、
このような彼の詩の特質を見抜いていたからだと言えよう。詩型やテーマに対して執劫なまでに
こだわったスウィンバーンは、 「詩人」 (`poet')の語源が、ギリシア語の「作る」を意味する
「ポイエイン」 (花ottiv)から派生し、 「作る人」という意味の「ポエテ-ス」 {no-ifcな)であった
という意味において、詩を作るということに極めて意識的な詩人であったと言えよう。
° °
結 び
「詩を作る職人」であったスウィンバーンにとっては、くファム・ファタル〉神話も、自分の技
術と才能をいかに発揮しうるかが問題となる一つのテーマであった。既にくり返し述べたよう
一'Jボォ.-fス
に、メアリに対する「失恋」は、このくファム・ファタル)の神話創成のきっかけを「職人詩人」
スウィンバーンに与えたのであった。彼はゴーティエから受け継ぎ、初めて英国に紹介した「葺
術のための芸術」の思想を体現している神話の一つとしてくファム・ファタル)`神話を作り上げ,
それをはっきりと英国に定着させたのである。そして世紀末芸術が、これをさらに精度の高い芸
術理論へと発展させるため呼は、ペイクーとワイルドの出現を待つだけであ?たのである。
注
(1) Mario Praz : The Romantic Agony, tr. Angus Davidson (London : Oxford University Press, 1970),
p.199.
(2) Praz : op. at., pp. 201-210.
スウィンバーンとくファム・ファタル〉神話-メアリ・ゴードンをめぐって 79
(8) Ibid., p. 215.
(4) Hans H. Hofstatter : Symbolismus und die Kunst der Jahrkundertwende (1965),種村季弘訳、 『象
徴主義と惟紀末芸術』 (美術出版社、 1970年)、 256-257頁。
(5)高階秀爾『世紀末芸術』 (紀伊国屋、 1963年)、 152貢。
(6) William Empson : Seven Types of Ambiguity (Harmondsworth, Middlesex : Penguin Books, 1973),
p.83.
(7) Praz: op. at., p. 207.
(8) Samuel C. Chew : Swinburne (London : John Murray, 1931), p. 80.
(9) Philip Henderson : Swinburne, the Portrait of a Poet (London : Routledge & Kegan Paul, 1974),
Illustration 7 (Facing page 150),参府o
Ian Fletcher : Swinburne (Burnt Mill, Harlow, Essex : Longman Group Ltd, "Writers & their Work",
1973), pp. 29-30.
帥 Henderson : op. cit., p. 133.
Chew: op. at., p. 72.
0母 Fletcher: op. cit., p. 3.
0の Graham Hough : The Last Romantics (London : Gerald Duckworth & Co. Ltd., rept., 1961), p. 171.
06)例えば、 `Hymn to Proserpine', `Before a Cruci丘Ⅹ', `The Last Oracle', `Hymn of Man '等を参照。
0⑳ Praz: op. cit., p. 230.
tyt) A. C. Swinburne : H Notes on Poems and Reviews " included in Swinburne Replies, ed. C. K. Hyder
(New York : Syracuse University Press, 1966), pp. 25-26.
09 Edmund Gosse: The Life of Algernon Charles Swinburne included in The Complete Works of
Algernon Charles Swinburne, ed. Edmund Gosse and T. J. Wise (20 vols., London : Heinemann,
1925-1927), vol. 19, p. 78.
0時 Cecil Y. Lang : " Swinburne's Lost Love." PMLA, LXXIV (1959), 123-130.
㈱ Fletcher: op. cit., p. 18.尚、スウィンバーンとメアリとの関係については、 Jean Overton Fuller: Swinburne, A Critical Biogr,`ゆhy (London : Chatto and Windus, 1968)において詳しく述べられている。
etI 例えば、 John A. Cassidy : Algernon Charles Swinburne (New York : Twayne Publishers, Inc., 1964),
p.77.
固 Fuller: op. cit., p. 114,及びHenderson: op. cit., p. 91.
Swinburne : HNotes on Poems and Reviews", p. 18.
糾 Praz : op. cit., p. 228,及びJerome J. McGann: Swinburne : An Experiment in Criticism (Chicago :
The University of Chicago Press, 1972), p. 216.
困 McGann: op. cit., p. 219.
㈱ 自己本位な男性への隷属的な立場からの女性の独立という問題を、もっと穏かな形で扱った小説として、メ
レディス(George Meredith)の『エゴイスト』 {The Egoist)が挙げられる。
餌'The Triumph of Time'1. 257.
㈱ John D. Rosenberg:バIntroduction" to his edited Swinburne : Selected Poetry and Prose (New
York: The Modern Library, 1968), p. xv.尚、スウィンバーンの詩における海の意味については、拙稿、
" Swinburne's View of the World Seen through his Sea Imagery " (Osaka Literary Review, 1974),
No. 13, pp. 61-71,を参照。また、彼の世界観については、拙稿、 「Swinburne の他界観とその詩学につ
いて」 (『待兼山論叢』第8号、文学編、 1975年)、 27-41頁を参照O
鰯 Clyde K. Hyder: "Algernon Charles Swinburne" included in The Victorian Poets : A Guide to
Research, ed. F. E. Faverty (Cambridge, Mass : 1968). p. 155.
脚 T. S. Eliot : "Swinburne as Poet" included in T九e Sacred Wood (London : Methuen, 1960), p. 144.
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Swinburne
and
his
Mary Gordon's
Femme Fatale
Role
in the
Myth
:
Mythopoesis
Morito Uemura
Department of English Literature, Nara University of Education,
(Received
April
Nara, Japan
26, 1977)
In Swinburne's
poetry
we find many remarkable
femme fatale characters : Dolores,
Faustine,
Venus, Mary Stuart,
and Atalanta
are all typical
femmes fatales,
to give a few
examples.
He was almost possessed with the femme fatale
the first to introduce
to the Victorian
England the "fatal
image, and in fact, he became
woman" imagery, which was
indeed the representative
iconography
in the fin de siecle European art.
Mary Gordon was Swinburne's closely related
cousin and was also his bosom friend
who had shared the romantic make-believe
world of their
own since their childhood.
Mary's sudden announcement to marry a soldier was a shock to the poet, to whom perhaps it meant destruction
of their cherished
private
world.
Swinburne had been interested
in the femme fatale theme since his boyhood,
and in
his imagination
the
chance to be actually
him such a chance,
in which he was to
Swinburne was
"fatal
woman" image had already
taken shape, waiting
only for a
written down as a poem. Mary's engagement announcement gave
and now he could set out to become a chief actor in his ' monodrama',
be tormented by cruel femmes fatales.
a poet who was extremely conscious of his poetic art as a 'maker'
of
poetry.
Almost all his poetry
poetry.
To achieve his aim to
surprisingly
many poetic forms
themes and his 'lost love'
to
femme fatale
poems.
can possibly
be said 'meta-poetry',
that is, poetry about
embody 'I'art pour Vart' in his poems, he made use of
and themes. And his femme fatale myth was one of such
Mary Gordon gave a good chance to start him writing