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~白谷よもやま話 (特別編)~
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】
鈴木 周一 ✽新兵教育時代
昭和16年4月29日朝、家族や親戚の人との出征の膳に付く。終わって、神社にて御祈祷を受
け、小学校に行く。村人や小学生が大勢待って居た。山田の吉川清君と一緒に、歓呼の声に送られ
てバスに乗る。吉川君は乙種予科練で土浦に行くので豊橋で別れた。
名古屋に集合して、名宝劇場で壮行会をしてもらう。特別列車にて西に向かう。途中篝火を赤々
と焚いて朝の明るくなる迄続いた。
是から軍人となり国防の第一線に出る第一歩が始まる。
身体検査後各隊に分かれ、各々の教班長が来て教班毎に集る。教班長は(旧)二等兵曹吉川一郎
と言う人で、とても良い人でした。後に戦死されたそうで、惜しい人物を失いました。
5日から軍事教練が始まった。日毎に厳しさが増して行く。夜毎床に入ると故郷の事が思い出さ
れる。海兵団の横を呉線が通って居て、発車の気笛が鳴ると堪らなく家が恋しくなる。泣けてくる
事もある。陸戦、砲戦、水雷と又ボート、通舟と厳しい毎日がやってくる。
8月初め、宮島へボートで参拝に行く頃は教練も終わりに近くなる。8月15日、海軍三等水兵
に進級すると右腕には立錨のマークが付く。
8月18日朝食後、分隊長小坂清三郎特務大尉、分隊士田口梅三兵曹長、各教班長、多くの人に見
送られて海兵団を後にする。
✽軍艦扶桑
大きなダンベイ船に乗り目的地に向かう。目前に島より大きな軍艦が目に入る。
100人程新たに乗り組んだと思う。各分隊に引き取られた。私は、第六分隊主砲六番砲配置に
入る。
翌日より新三等兵教育が始まる。1ヶ月間の教育で艦橋始め主砲、副砲、高角砲と色々の倉庫等
を見学し、1ヶ月目に艦内早廻り競争で新三等兵教育は終わる。
私は主砲六番砲の火薬庫員となる。上の弾庫に居て火薬庫から上がって来る火薬を砲室へ送る場
所に居た。日増しに訓練も厳しさを増してくる。
10月中頃には、別府湾に於て航空機が戦艦を標的に魚雷発射訓練を毎日行う。発射訓練が終わ
ると、ボート部員は魚雷の回収に出発すると日没頃までが通例だ。後で判った事だが、別府湾とハ
ワイ湾の地形が良く似ていた。
11月3日、艦隊全部が呉軍港に集合して萬艦飾の一日で、其の夜から、1艦隊又1戦隊と出港
して行く。間もなく、臨戦体制に入る。危険物や私物及び内火艇までも陸揚げした。毎日、弾庫で
は信管を、火薬庫では傳火薬を付けて、常時弾丸が発砲出来る準備をした。弾火薬庫は艦底に有る
から、敵弾が当たれば注水せられて一番早く死ぬ所だと、古い下士官に言われた。
✽開
戦
12月初め頃より戦艦部隊は出港して東へ東へと向かった。
12月8日早朝開戦が発令されて、身の引き締まる思いがした。昼食頃にハワイ奇襲作戦に成功
した知らせが有り、戦艦部隊は、日本に向かって艦を移動した。
✽柱
島
柱島に帰ってからは、訓練とボートで大島へ見張員を送り迎えの毎日であった。
砲塔長兼分隊士で大橋文治特務少尉が、訓練が終わると私を私室に呼んで、机上射撃訓練の手伝
いをさせられた。後で、お前は学校へ行くのだから勉強をしろよと言われ、何冊かのテキスト本を
頂いた。
ボートの練習が終わると、分隊士の室で机上射撃の手伝いの後、勉強をさしていただいた。其の
甲斐有って、砲術学校へ行く事となる。古い一等水兵や二等水兵からは、お前の様な若造が学校に
行くから我々は行けないのだと苛められた。17年2月11日に、分隊長始め分隊士先任下士官坂
井安造一曹が分隊の人に見送られて退艦した。其の後、大橋分隊士も兵学校の教官として退艦され
た模様である。
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】2
✽砲術学校時代
扶桑から一等水兵が引率して6名が入校した。砲術学校は兵学校に次ぐ厳しい所で、日夜猛訓練
で有った。米田教員の名指導により無事に訓練は終わりに近づいた。各学校が、一つの軍用列車に
乗って呉に向かう。柱島にて、戦艦を動かして大砲射撃等各学校共それぞれが戦艦で訓練をして帰
り、学校も訓練は続いたが、可も無く不可も無しで、卒業前に米田教員に呼ばれて、お前は何処へ
行きたいかと尋ねられた。私は第一線の駆逐艦にお願い致しますと言うと、小型艦は体がきついか
ら、気をつける様に言われた。
仲良しの三人組であった福島県と秋田県と私は、貧乏人の子で話が合った。中部地方の貧乏と東
北地方の貧乏とは違った。二人の言うのには、長男しか嫁は取れない。次男三男が嫁を取れば口が
増えて米が無いから、又何人も生まれると、間引きをする。生まれた直ぐに死んでいる。母達は、
恐山にお参りに行くより子供に謝りに行くのだ。不作の年でも、田の借料は払わねばならぬ。不作
が何年も続くと娘を売らねばならぬ。それより、郷を後に一家又一部落と大陸に渡れば食べれる事
を夢見て郷を出た。小生は一所縣命勉強して海軍に志願したと言った二人は、生死不明である。
ミッドウェー作戦の為に各学校共に卒業した私の行く先は、駆逐艦夕霧と決まった。
昭和17年5月15日でした。各校が一つの軍用列車に乗り、呉・佐世保・柱島艦隊・各基地隊
へと向かった。
✽駆逐艦夕霧
私の乗る艦は第三水雷戦隊第二十駆逐隊一番艦夕霧で、16日に柱島に着いたが、艦は夜戦訓練
の為出港中で、第三水雷戦隊旗艦巡洋艦川内に一泊する事となり、通路に毛布を敷いて寝る。24
時頃内火艇(※ナイカテイ)が迎えに来てくれる。大急ぎで仕度をして内火艇にて夕霧に乗艦する。同乗は
5名であった。夕霧の乗員になったのは真夜中であった。
艦の配置は三番砲左二番砲手で、砲員長は榎本二曹、射手は水野三曹、一番砲手は林原一水で私
が二番、三、四番は赤木三水、志野三水、この二人は先輩であったが、良い人物でした。後日、二
人共戦死された。
17日から猛訓練が始まった。既にミッドウェー作戦に出港し、訓練を続けながら戦艦部隊の前
方を二十駆逐隊が警戒に付いた。
夕霧は司令駆逐艦で、司令海軍大佐山田勇二氏、艦長は海軍少佐小川二三郎、航海長林予備大
尉、この人は商船大学卒で、日本郵船の船長として世界の海を航海したベテランの人で、砲術長は
犬飼海軍中尉。北海道を過ぎアリュウシャンに向かうと、日の出は早く日暮れは遅い。日に日に寒
くなる。南下して直ちに大嵐に巻き込まれ、大波の上に又大波が其の又上に波が有る。118メー
トルの駆逐艦が大波と大波に橋に掛かって艦がきしむ。主計兵が食事の支度も出来ない。缶詰ばか
り三日間、護衛して居た戦艦と言えども両方が大波に乗った時しか見えない。大時化で寝ても立っ
ても居られず、砲塔内の狭い所で腰掛けて休む。4日目に油送艦と待合わせの場所にて補給に取り
掛かるが波が大きくて引っ張るワイヤーが切れた。補給が終わる頃、戦艦もはっきり見えて来た。
前方を4隻の駆逐艦が横一列に並んでいた。1隻の艦より敵潜水艦発見の報告を受けて、4隻一
斉に爆雷を投下する。廻って見ると、大きな鯨が浮かんで来た。水測員が鯨と潜水艦と間違えた。
大風が終わると甲板はめちゃくちゃで、リノリュウムは跡形も無く剥ぎ取られて鉄板は真っ赤に錆
びて、艦の両側の手摺は跡形も無い。大砲のカバー、洗濯桶の格納庫は皆無である。
ミッドウェーの敗戦を知るや戦艦部隊は一散に内地に向かって走り出した。
6月17日、横須賀へ入港する。
二十駆逐隊は21日出港して柱島へと廻航し、6月30日奄美大島を基地にして対潜哨戒に入
る。
※内火艇(ナイカテイ)
日本海軍(海軍陸戦隊)の水陸両用戦車
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】3
✽奄美大島
奄美は海水浴で海は賑やかで、停泊中に十糎の双眼鏡で見れば、波打際が手に取る様に見える。
大きな岩の蔭で着物を着替える人が見える。休み時間になると、艦橋見張と中部見張所の双眼鏡は
満員になる。
島に上陸すれば川の様で、泥沼で大島絣の糸が漬けてある。其の中に沢山のアヒルが居た。
数日後に出港して沖縄を見て、台湾の高雄へ。
✽高
雄
高雄神社に参拝して町に出ると、食堂という食堂の網戸の目には全部蠅が頭を刺して居た。何も
食わずに、帰り道に同年兵3人で1円30銭でバナナを買って帰る。かなり重くて肩にこたえた。
17年7月21日、B作戦参加の為に高雄を出港。マラッカ海峡ではイルカが数十匹、数百匹と
付いて来る、楽しそうである。
✽タイ国メルギー
8月1日タイ国のメルギーに着く。
メルギー港は海か河が見分けが付かない所で水は濁って又浅い。艦が走ると泥水を巻き上げる。
町の方には金の塔が4基、2、30米程の高さで月夜には鈍く光って見えて、仏教国だなと思う。
8日、印度洋B作戦中止となり、メルギー出港しマカッサル伝いにダバオに入港する。
木製の大桟橋から上陸すると、前方の土手に沢山の真新しい白木の墓が立ててある。
敵前上陸の物凄さを見て、是が戦地かと身の引き締まる思いがした。三日間停泊して居ると、
「トラック島に集合せよ」との命令により、8月22日トラック島に入港する。
24日、トラック島を出港して「ガダルカナル」島上陸輸送作戦に向かう。途中、輸送船では無
理と夕霧、天霧、朝霧、白雲の4隻に陸軍一木支隊太田隊を乗艦させ「ガダルカナル」島敵前上陸
に向かう。
17年8月27日、夜20ノットで走る。明るくなると左前方にサボ島が見えて来る。敵前上陸
用意の命令が出た。
✽ガダルカナル
内火艇カッター降し方用意、大砲分隊配置に付け。白い砂浜で青い椰子の木が海面の上まで伸び
て素敵な島であった。左後方にサボ島が見える。
湾内に侵入した。其の時、椰子林をすれすれに敵の艦爆機が35機飛んで来た。湾内で走る事も
出来ず、10発程弾を撃った。突然の空襲で朝霧轟沈。白雲大破。夕霧二番煙突に直撃弾を受けて
大音響と共に飛び上った。
初めての事であるが、直撃を受けたのだと思った。
電気は消えて射撃用の通信線は止まる。大砲も動かず、電動を手動に切り換えて電気火管を撃発
火管に取り換えるが発砲出来ず、色々と調べて居る間に敵機は去った。
砲塔から出て見ると、二番砲塔から三重県の同年兵で出水三等水兵が、2米以上高い場所から大
腸を引きずりながら降りて来たが、水をくれと言って息絶えた。二番煙突は飛ぶ。25ミリ二連装
機銃2機と機銃台共無い。15人程の人影は無く、飛び散ってしまった。
近くの飛行場から第二波の爆撃が来るからと、発砲出来るように備えて居たが敵機は来なかっ
た。
✽天
霧
天霧は朝霧の乗員を助けてから白雲の曳航に掛る。夕霧は一、二番缶で8ノットの速さで湾を出
る。艦長は敵前上陸2時間前に爆撃を終わらすと言ったが、二十駆逐隊が爆撃を受けた後に敵飛行
場を爆撃した。それで次の空襲は無く、夜に入った。艦長は命令通りならば、犠牲者は出なかった
と憤慨して居た。艦橋では二十駆逐隊司令海軍大佐山田雄二外に士官が3名、艦橋右の方に居た人
は全員戦死された。機械室三、四番缶の爆発で多数の人が戦死。中には皮膚が熱湯を被って蛙の皮
を剥ぎ取った様な人が缶室から出て来て死んだ。甲板は頭手足がばらばらであった。死体は士官浴
室に詰めた。浴室は山と積まれた死体と血と油で息も出来なかった。近くの飛行場から第二波の爆
撃に備えて大砲も発砲できる様にしたが、敵機は来なかった。
天霧は朝霧の乗員を助けて白雲を曳航して湾を出る。夕霧は三、四番缶爆発で必死の作業で一、
二番缶で8ノットの速さで湾を出た。
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】4
夜になった。戦死者を一人ずつ爪頭髪を切り取って、名前の書いた封筒に入れる。士官は一人ず
つ軍艦旗に包んだ。下士官兵は数が多いので毛布に包んで錘を付けて海に沈めた。夜の12時から
国の鎮のラッパと共に海に50名を水葬にした。皆泣いて居た。
艦が爆撃された悔しさと今迄仲良くして居た人々を此処に沈めて行く悲しい気持ちで皆泣いた。
血の付いた手で顔を擦って昼間見たら、血で赤黒くなって居たと思う。其の海で三廻りして帰
り、「ショートランド」島に着いた。
故海軍少将山田雄二司令を火葬に小島へボートで渡り、薪も集めて荼毘にした。無人島で有る
が、何が出るか判らない。小銃に弾を込めて5時間位で箱に収めて艦へ帰った。
「トラック」島へ帰り、艦の修理をする。二番煙突に櫓を組んで「ブリキ」を張って色付をして
本物そっくりに仕上げる。修理中に春島の住民に踊りや果物の世話になった。
✽サイパン
内地へ帰る途中に「サイパン」島へ寄る。其の時私は、掌水雷長の伝令として艦の先端で見張っ
て居た。下に岩を見付けると掌水雷長に報告すると艦橋へ伝える。艦橋から海図では38米と成っ
て居るから測れと命令で航海科員が測鉛線で測ると、やはりあったので、安心して入港した。
上陸して「トロッコ機関車」に砂糖の木を積んで行くのを見て、砂糖工場を見学に行く。白砂糖
を貰って帰った。其の島も玉砕して果てた。
9月26日に出港した。大型商船を2隻護衛して横須賀に来る。商船の積荷は砂糖及び内地へ引
き揚げる人であった。
横須賀を出港して大島を左に見て沖に向かう。富士山を眺めて沖を通り、渥美半島の大山も見え
ると思っていたが、水の中で何も見えない。次に紀伊の山々が、次には潮の岬の青く光る木々と灯
台が見える。暫く行くと紀伊水道であり、次に鳴門海峡を通って香川県金毘羅宮の沖に至る。乗組
員から賽銭を集めて樽に入れて流す。航海の安全を祈る。小舟が沢山集まり、取り合って金毘羅宮
に持って行く。音戸の瀬戸を通り清盛塚を左に見て、呉軍港へ入港して修理に掛る。
10月中頃、休暇で家に帰り、秋祭りに間に合う。休暇も終わり、艦に帰って暫くすると、二等
水兵に進級する。職階級変更で上等水兵と呼名が変る。配置も射撃幹部の弾着時計係となる。
18年1月25日、再び出港して一路「ラバウル」に向かう。其れは「ガダルカナル」島撤収作
戦が待って居る。
2月1日夜「ガダルカナル」島のタイボーウ岬の山に狼煙が上がる。其れを頼りに進んで行く
と、陸軍の大型上陸用艇に乗った人の山が待って居た。艦も必死の撤収作戦で、軽巡洋艦1隻と駆
逐艦10隻で、最後の力を振り絞って艦迄辿り着いた人達は全く生きた屍の様である。艦に上った
人も動けず、濡れた姿で助かった嬉しさに皆泣いて居た。
乗艦者をラバウルに降ろし、艦の大掃除と消毒をする。午後は久し振りに休業して、次の作戦は
「レガタ」輸送作戦に備えて戦闘の支度でした。
さらばラバウルよ又来る迄はしばし別れの泪がにじむ。ラバウル港を出て行く艦船は二度と帰る
事が無いと思い、停泊中の艦は皆帽子を振って見送った。
制海権、制空権の無い海を何日も走り、島から島へと渡って行く「千トン」未満の無防備の船は
二度と戻る事はない。船員は任務を全うする為に死出に旅立って行く。南方作戦には大輸送船団が
居た。艦隊とは別に、輸送監督官が居た。豊橋市出身の海軍大佐向坂清助氏が取り仕切って居た。
南方作戦中に小型商船の側を通る時は、死ぬな頑張れよと大声で勇気付けて通る。夕霧の小川二三
郎艦長は人にはとても優しい人でした。 何十隻もの船は一人も帰らぬ。又、潜水艦も駆逐艦も敵の
制海空権の中では、戦闘で沈没しても助かる事はない。島々の兵隊も死の縁に居る。皆特攻隊と同
じだ。ラバウル港を出港する艦船は二度と帰らぬ事が多い。作戦に出港する潜水艦は長旗、白地で
5米から6米くらいに、南無八幡大菩薩の旗を潜望鏡に結んで出港して行く姿は勇ましいが皆と別
れの印である。
4月28日より、「レガタ」輸送作戦が始まった。コロンパンガラ、イサベラ、ベララベラ、ム
ンダを合わせた大作戦で、第1回目はラバウルから食料弾薬と兵員を満載して陸軍の大型上陸用艇
3隻を引いて走る。艇の高さは3番砲塔より高くなる。(高さ6、7米)。
初めての為、上陸用艇のスクリューが、水圧の力で回転が速くなってネジが抜け落ちて走れな
い。陸上から舟が来て運んでくれた。二度目からスクリューにストッパーを付けて行った。
次回から、ショートランド島沖で待って居る商船から物品を受け取り、日暮と共に出港し、敵の
艦船や魚雷艇の待つ闇夜の海を突っ走る。24時迄には着いて艇を横付けして道板を掛けて物品を
滑らして降ろす。
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】5
沢山の品物を降ろして、最後に兵隊を整列させて後から押し込んだ。一人ひとりでは時間が無く
て、舟に降りた兵隊達は皆有難う、気を付けて帰って下さい。今自分達が死ぬかも知れぬ其の時の
言葉に皆は泣いた。死ぬな頑張れよと言って別れて来る。其の作戦は何回も続いた。昭和3年~6
年製の時代に世界に誇った特型駆逐艦の多くは此の海に沈んだ。
此の作戦は駆逐艦の東京急行と言った。此の作戦の艦の花形は、水兵長と上等水兵の様であっ
た。
✽ニュウギニヤ作戦
次の作戦はニュウギニヤ方面であった。
ムッソウ島の横から魚雷攻撃を受けて損傷をした。前方より4本の魚雷が来たが3本は外した。
1本が錨巻上機室に当たり艦が飛び上った。水柱が艦橋の上から落ちて来て一番砲塔前部が折れ
た。前部員が数人戦死。其の中の一人が鉄板に挟まれて上半身は艦外、下半身は艦内に残った。
後進で1日半でラバウルに着いて工作艦山彦丸に横付けし、死者を切り取って陸上で火葬した。
其の時の司令は日本海々戦の時の杉野兵曹長の長男、海軍大佐杉野修一氏、艦長は海軍少佐小川
二三郎。この人は水雷学校高水出で、操艦技術に優れた人でした。
山彦丸で前部を切り取って水漏れを防いでから、トラック島の浮きドックにて応急修理をして、
18年8月1日横須賀入港。5日出港、7日に呉に入港し修理が始まった。
10月初め、新艦長海軍少佐尾辻秀一艦長着任の挨拶は、鉄板が錆びてブロマイドが笑って居て
は戦争には勝てんと言う訓示であった。ドックの中で艦中足の踏み場も無い時でした。
新艦長着任間もなく家族と別れの休暇が出た。今度は特に故郷の見納めになると思って、村中を
見て廻った。父母に今度の出撃が最後になるから、親に別れをして来いと艦長の言葉である。三男
と四男が戦死していたが、両親は元気なので安心した。
3日間は夢のように過ぎて、出発直前に渡された千人針ではなく御守りは、本寺で白布に南無阿
弥陀仏と書いてお経を頂き、此を持って行けば、死ねば仏の導きにより迷わず天国へ導いてくれ
る。又、元気で居れば守ってくれるから安心して行きなと言ってくれた。
最後の別れが来たが、母はバス乗場まで来てくれた。
思えば沢山居た特型駆逐艦は、昭和の始め頃より世界に誇った駆逐艦隊も南方作戦で多くの艦が
没した。残り少ない艦で南方作戦を戦わねばならなくなった。
18年11月1日、水兵長に進級し、一番砲塔右一番砲手になった。砲員長櫻井一曹、右射手深見
二曹で、この人は碧海郡一色町の人で、同年兵に弾庫長の佐曽梅吉君が居た。作手村出身。月末に
頂いた俸給も毎日上陸で全部消えた。出港も近づき皆無一文となる。
班長の櫻井一曹が、15、6歳の若者の多くは女も知らずに死に行くのは偲びないと、先任下士
官、分隊士、分隊長にお願いして、1ヶ月の俸給を前借りして一番砲塔全員上陸して一夜を過ご
し、翌日に出港して死出の旅路へ向かった。
✽呉出撃
18年11月7日呉港出撃。19日ラバウル入港。
✽ブカ島輸送
ブカ島輸送作戦には、第三十二駆逐隊司令香川大佐を指揮官とする駆逐艦5隻で、三二駆逐隊大
波、巻波、輸送隊は第十一駆逐隊司令山城勝盛大佐で、天霧、夕霧、卯月が当った。もはやこの頃
になると、同方面の制海、制空権は米軍の手中に有った。鈍速の輸送船団では成功は出来ない。
輸送は2回に分けて行う事になった。
其の事をラバウルよりブカ島守備隊に暗号電報を打った。ブカ島に残留する第十一航空艦隊所属
のパイロットや整備員を帰りの便で、輸送駆逐艦に収容する目的が有った。
第1回目は11月21日に行う事になった。午後1時半ラバウル出港。5隻の駆逐艦は約6時間
ほどでブカ島に到着。陸軍の兵員875名と軍需品30トンを陸揚げした。
帰りに海軍のパイロット417名と陸軍の傷病者218名を収容して、翌日22日の朝無事ラバ
ウルに帰投した。
何事も無く第1回の輸送に成功した為に、ラバウルの南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、引
き継ぐべき第2回目の輸送を下令した。
前回と同じ顔ぶれで陸軍兵員810名と軍需品32トンを積み込んだ。駆逐隊は11月24日午後
ラバウル出港、夜の8時50分ブカ島に到着して物資の楊陸が始まった。
其の後、前回と同数のパイロットと陸軍の傷病者を収容してラバウルに向かった。
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】6
帰りに敵と遭遇した。敵艦隊は無線を傍受解読して日本艦隊のブカ島作戦を知って、米海軍の
パーク司令官は艦隊を集めて待伏せしていた。輸送隊がブカ島を出港する前に、大波と巻波は魚雷
艇と戦闘した。出港後はラバウルに向かった。
護衛隊は斜め前方を、輸送隊は後方を天霧、夕霧、卯月と縦隊で走った。ブカ島を出港して疲れ
が出て、砲塔内で仮眠をとって居り30分位経ったと思った時、同年兵の西殿兵長が、鈴木、嫌な
夢を見た。下駄の歯が抜けた夢を見た。私も休暇で帰った時に戦死した兄の子供が歯が痛いと言っ
て居た。其の夢を見たのか歯に薬を付けたら、全部抜け落ちた夢を見た事を言うと、互いに気を付
けようと言っている時に、敵艦隊発砲で配置に付けの号令で戦闘用意は出来た。
✽開
戦
内地を出る前に二十二号電探を装備したが、敵は艦隊で有るから電波を出すと集中砲火を浴びる
事になるから目測で戦闘した。
先行する警戒隊の損傷を見て、輸送隊司令山城大佐は魚雷戦闘用意を命ずると同時に速力を最大
戦速に上げた。
山城司令は与えられた任務は敵艦との交戦では無く、ブカ島で収容したパイロット達を無事にラ
パウルまで送り届ける事で有る事は充分承知でした。
ラバウル第八艦隊司令部に戦況報告した後に、引き続き我北方へ退避中と報告した。
最後尾を走る卯月は旧式艦で有る為に、天霧や夕霧と行動を共にしたのでは徒に米艦の射撃目標
に成るを恐れて、直ちに西に変針すると単独行動に移った。
前方を走る、大波轟沈と巻波の損傷を見た。夕霧艦長尾辻秀一少佐は、天霧と卯月の時間を稼ぐ
為に一艦で立ち向かった。巻波、大波共轟沈全員戦死。艦長は伝声管で「今から敵艦隊に突撃す
る。お前達の命は貰う頼むぞ。」と言って、敵はレーダー射撃の手探りの下手くそで有る。米艦隊
の射撃時の閃光を目標に突撃する。今迄は近くに弾は落ちるが当たらん。十二、七糎砲6門で応戦
しながら、9本の魚雷を発射する。秒読みを始めて間もなく後部に弾が当たって死傷者が出る。
士官室を病室として治療中、士官室も弾片を受けて淡河透軍医大尉の左手首に弾片を受けて手首
が折れて使えず、其の手首を衛生兵曹長萩原さんに手首を切らせて止血し、片手で萩原さんと一緒
に治療して居たが、軍医長と萩原さんは艦と運命を共にした。
衛生兵曹長萩原治一氏は、愛知県幡豆郡西尾町の出身であった。
敵艦に火柱が立った。我が艦は取舵を取って目標から別れた時に、スピードが落ちた其の時に敵
のレーダーと合って後部に弾が当たった。ジグザグのコースを取って敵弾を躱した。艦長は敵の射
撃は下手だから敵の射撃の閃光を目標に再度突撃し、十二、七糎砲で応戦したが、第2弾、第3弾
と後部に当たった。
舵取機が破壊されて人力舵取機を動かした。望月二曹以下3名は、腰まで水に浸かりながら手押
ポンプを押して舵を取ったが、総員退去の命令で後部員は艦橋右カッターを下ろした。艦の傾斜が
少し直ったので、退去待ての命令が出たが、艦は後部より沈んで行く。前部員は左カッターに集
まった。佐曽と西殿に弾丸がまだ飛んで来るから待てと言ったが、ボートに集まった所へ弾丸が当
たって多数の人が空中に飛んだ。艦橋では多数の人が戦死した。
艦橋上の射撃指揮所から砲術長が降りて来て、頭から血を流している艦長に艦から降りて下さい
と言ったが、艦長は動かなかった。艦長を被って降りて来て、一番砲と艦橋との間で私と深見兵曹
の目の前で艦長は、多くの人の命を貰って我が生きて帰れるか、我に恥を晒すのか、我は艦と部下
と運命を共にする。先任(先任とは軍艦にては副長で駆逐艦は先任将校である。)お前指揮を取れ
と言って動かなかった。私と深見兵曹は、前甲板に腰を下ろして死を覚悟して居た。艦長が動かな
いので、砲術長が飛び込むぞと言ったから、前甲板の先端まで這って行った。
私の次に深見兵曹が、最後に砲術長が飛び込んだ。必死で浮き上がって見ると、後部より沈んで
艦橋が少し見えて居たが、直ぐに沈んで行った。油が燃える火の海を必死で潜り抜けた。戦闘開始
より1時間半で艦は沈んだ。
我々は大声で呼び合いながら、人を集合させた。艦に積んで有った応急用の材木が浮いたのを集
めて、鉢巻で練り合わせて筏を組み、中に傷ついた人を集めて元気な者は端に付いた。顔は油で焼
けて目は痛くて開けない。喉はひりひりとして唾も呑めない。海水が傷にしみる。夜が明けると敵
機が来て、銃撃を開始した。弾が水に刺さる音が大きくて、頭を沈めるが潜れない。下を見れば
3、4米の「フカ」が群を作って下を廻って居る。「ギャー」と一言、声と共に澄みきった海中を
何処までも引っ張って行くのが見える。次々と引っ張られて行くのは戦闘より気持ちが悪い。
口は渇いて火の付く程、泳ぐ程の水は有るが、飲む水は一滴も無い。死を待つばかり。敵の偵察
機が銃撃すれば水に頭は入る。又何処かへ廻って来ては、又銃撃する。何人か死んだ。
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】7
艦に積んで居た「カボチャ」が4、5個浮いて居たのを皆で持って居た。日が高く顔がヒリヒリ
する。死ぬ前に其の「カボチャ」を食べてからと言って「一口」ずつ廻して3回程口にした。其の
時噛んで喉を通る時の気持ちは一生忘れられない。
段々と疲れが出て眠くなる。重油で真黒になって誰だか見分けが付かない。眠ると誰でも叩き起
こした。眠れば死ぬからだ。敵機は相変わらず来る。
日が落ちると、寒くなる。服を脱いだ者は海水に体温を取られて死んで行く。何時になっても助
けは来ない。明日になれば皆死んで行くなと話す「力」も無くなる。
其の時潜水艦から大声で呼びながら近寄って来たが敵の艦かも知れない。捕虜になるなら死んだ
方が良い。艦が旋回して艦橋横の日の丸が夜目にも良く見えた。皆で大声を出し必死に叫ぶ。
イ号潜水艦が近寄って来た。「力」が無く、自力で昇れず、一人ずつ引っ張り上げてもらう。
潜水艦はニュウギ二アの帰りに無電を受けて、其の沈没地点を捜して居た。
後部発射管室に座らせられ数人の見張りの兵が付いて、寝ると死ぬからと叩いて廻って。沈没し
て20数時間後である。救出されて2時間くらいしてお茶を1杯くれた。又2時間程して今度はお
粥をもらって寝た。
潜水艦の兵隊に起こされた時は既にラバウルに入港して居た。厚くお礼を言って上陸する。この
潜水艦も終戦を待たずに沈んで全員戦死と聞かされた。
日本の駆逐艦は開戦時111隻有った。戦時中就役64隻。全保有数175隻で喪失134隻。
轟沈25隻全員戦死。45隻もほぼ全員戦死。約半数の艦も壮烈な戦死を遂げた。
同年兵の平松時太郎君は、鳳来町川合の人で、水雷科に居たが、艦と運命を共にした。又、同年
兵の佐曽梅吉君が潜水艦内で死んだ。死者を「ラパウル」にて火葬にして作手村の父佐曽作松さん
へ病院船で送って第八海軍病院へ見舞に行くと先任下士官が居た。艦の最上の方位盤射手の其の話
を聞くと、敵艦隊の全部の真赤な火の玉が自分に刺さる様な気がした。又後部で人力舵取機を押し
て居たが腰まで水が来て「力」が入らず、舵取機室から出て見ると、後部は沈みかけて居た。後部
に居た陸軍の兵隊達が海軍の足手まといになるから一足先にと「天皇陛下万歳 !」と叫んで皆海に
飛び込んだ。と言った牛島上曹、望月二曹も死んだ。
我々は時間稼ぎで、天霧、卯月を逃す事に成功した。米海軍パーク司令官は、夕霧との交戦に手
間取った為に、天霧と卯月を取り逃がした事は米軍の報告書に出て居る。
ブカ島沖夜戦で、駆逐艦大波轟沈全員戦死。巻波轟沈で5日間ボートでセントジョウジ岬に着い
て、土民に救助された6名。又夕霧も三分の二戦死傷者を出して、この戦の犠牲者は多かった。開
戦時の二十駆逐隊も天霧1隻となったが、19年4月に天霧も沈んだ。
✽ラバウル第八十一警備隊
上陸して5日目に第二補充部長の斉藤大佐が来られて、普通科の兵長及び二等兵曹で10名残っ
てくれ。砲術、電信、信号で、ラバウル近海で艦船に欠員が出た時の乗組員にと言われて残った
が、其の後水上艦船の入港は無かった。
1週間して、トラックが迎えに来た。行く先は第八十一警備隊西第二機銃砲台、隊長は軍艦扶桑
の時の班長でした。この隊は第十一防空隊の一部でニュウブリテン島の西の端から命からがら帰り
着いた隊で隊員僅か数人で食糧も無く、甘藷が主食だ。
25粍の三連装機銃2基13粍1基で隊を作り、隊長坂井安蔵兵曹長先任下士官佐藤上曹山本一
曹今村一曹と同年兵の井上兵長と私。
昭和の始めの古い兵隊の召集兵5人、17年志と第一期特年兵と18年志と補充兵で45名。毎
日空襲が有った。朝8時セントジョウジ岬より200機ラバウルに向かう連絡が入ると暫くして、
中央高地の電探から南方40粁西に向かうと言えば西飛行場へ行く。直進すると言えば東飛行場へ
行く。200機以上なら本隊は外れても空襲はある。日毎に空襲は激しくなる。戦死者や負傷者が
出る。空襲は午前中に終わる。
朝食を取る時に、これが食べ納めかと言うと皆黙ってしまう。食事が終わると無言で陣地に行
き、敵機の来るのを待ったが陣地では皆明るかった。空襲が終わって昼食になると、今日一日生き
延びたと喜んだ。果物、野豚、実は土民の物。大コウモリを獲りに行く。又将棋囲碁で楽しむ者。
其の時八十一警本部よ佐藤上曹の呼び出しが有る。この人は元砲術学校の教員で、本部の教員に
と呼んでいた。其の後へ海部郡佐織町の人で、山岸磯一上曹が来た。1週間目の大空襲で空は敵機
で埋まる程で、前方の敵と交戦中後方より突っ込んで来た機の爆弾が的中した。がんと音と共に左
肩を焼けた鉄板でど殴られた様で気絶した。時は何時間経ったか分からない。
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】8
真暗な世界で誰かの声がすると思うと少しずつ明るくなったが、目は見えない。鉢巻で目を拭う
と、死者負傷者の山で、私は左手がしびれて、脇腹が血と肉とで真赤になった。弾庫から出て来た
人に腕の付根を鉢巻で縛ってもらい、陣地を見ると山岸上曹は首から上は無い。又頭が割れる者、
眼玉がぶら下がって居る者、喉に穴が空いて喉で呼吸をして居る者、口が耳まで裂ける者、腕や足
とで血の海で、生き地獄である。
戦闘が終わり、二番銃から来た人が、鈴木さん、腕ではなく肩だと言われて聞いた途端に腕が動
かなくなる。陣地は土で埋まって居た。山岸兵曹の肉は100米離れた兵舎の壁に張り付いて居
た。陣地の者全員が死傷者で、生きて居る者全員をトラックに乗せて診療所へ行き、皆手当をし
た。私の弾片を取り除く為に前より一人兵隊がしっかり抱き締めて、後で内林軍医がピンセットで
広げて、ペンチで挟んで膝を肩に当て、ミリミリと音を立てて引き抜いた。手当をして全員ラバウ
ル第八海軍病院へ急いだ。
連日の大空襲で病院は満員。廊下に毛布を敷いて寝かされた。皆痛くて唸って居た。
次の朝の巡回診察が始まった。外科課長の診察で私の前に立たれた課長さんが、「お前も負傷し
たのか。お前は俺を知って居るか。」と尋ねられたが、私は知らなかった。俺は中山の清田と言う
が、軍医少佐は知らなかった。カルテを見て、愛知県渥美郡福江町折立を見て同じ町と分かった。
「俺が居るからお前は死なせないから安心しろ。明日べッドを探してやる。」退院した人のベッド
を頂いた。
課長さんと知り合って、各軍医は特別に世話をして頂いた。又特別の手術を受けて45日目に軽
快退院で隊に帰り、たいり診療所に通院する事になった。所長の所に本院の清田先生からの手紙で
私の事を良く知って居た。
所長の内林軍医は九州の出身で良く面倒を見て下さった。御蔭で傷口は治った。又戦闘に出た。
清田先生の御蔭である。
戦闘部所に就いた時は機銃長山本一曹、射手が私で、旋回手は井上兵長、三人の一番銃手は第一
期特年兵で、二番以下は18年の兵隊も居た。
特別年少兵は高小卒で、一番年の若くて海軍に入れる海兵団と術課学校とで1年間で中等教育を
受けた優秀な兵隊が8名居たが、戦闘の時は勇敢に戦った。誰が傷つき、誰が死ぬか分からない。
西第二機銃砲台は西飛行場に一番近くに有った。飛行場西に大きな「ゴム林」が続いた。中央に
「エンジン」調整場がゴム林の中に有った。其所から西へ500米程の所に砲台が有った。
海軍の飛行機が沢山居た時は、整備兵は夜中から整備をして滑走路に並べて待機して居た。空襲
警報で飛び立つが中には飛べず滑走路が混雑するが、整備兵は飛ばす迄頑張って戦死する人が多
い。陣地の北方1千米くらいの所に航空隊の埋葬場所が有った。一日にトラック2、3台埋葬に行
く事も有った。飛んで行く人も整備をする人も皆同じ気持ちで戦ったと思う。
一日の戦闘も昼頃には終わって敵機が居なくなると昼食で今日も一日生き延びた。食糧の無い隊
だから、畑仕事は主として、芋と陸稲で、作業中に出た芋虫の蛹、蛙、蜴、蛇、鼠と手当たり次
第、主食は芋とカボチャのダシになる。カボチャは椰子林一面どこまでも続いて居た。果物を取り
に行った連中が、谷一つ越えた下に陸軍航空隊の食糧を見付けて来た。海軍伝統のギンバイ精神が
湧いて来てこの食糧は陸軍航空隊の物だが、本隊はニュウギニアに行き、二度と帰る事の無い隊の
物で申し訳無いと思いつつ。
特攻隊3、4名で行く山の上で手旗信号で番兵の位置を知らす。良い時に防空壕へ入れの信号を
送る。物品を沢山持って入口の透間から見て居て、番兵が遠くへ行くのを見て帰れの信号を送る。
沢山の品物を皆負って来る。又生き延びる事が出来る。これが本隊の命の綱である。
又、大空襲があり、戦闘中爆弾が狙って居た眼鏡の中に吸い込まれるように大きくなって来た爆
弾。山本兵曹は透かさず伏せろと大声で言った。其の時陣地が揺れた。爆弾が陣地の下に刺さっ
た。爆発すれば全員戦死となるが爆発しない。陣地を飛び出して弾庫へ飛び込んだが爆発しない。
時計式爆弾で有れば何時か分からない。空襲が有れば配置に付かねばならぬ。
1週間程が過ぎたが爆発しない。不発弾であろうと言う事になった。其の内雨期が来て、2ヶ月
程の間は太陽は殆ど見えない。空襲の無い日ばかりで衣服はかびて退屈の時も有る。山本兵曹は器
用な人で、ラワンの木で臼を彫ったり、米を搗く道具を作って、陸稲も少しずつ貯えも出来てき
た。臼が出来て餅をつくと、子供のように喜んだ。鍛冶屋は北九州出身の補充兵で北村政宗は代々
野鍛冶で色々刃物も造った。刀を造ったがバナナの木を切ると鞘に入れなくなる。米軍の自動車の
スプリングで何本も造らせた。
ラバウルに多数の日本機が来たが、数日後にはトラック島へ行った。翌日は大空襲を受けた。数
日後、ラバウルから行った飛行機と艦船部隊はトラック島にて全滅したと聞いた。
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】9
其の頃になると米軍の上陸が有るから、陣地構築と部隊と部隊の間を溝で繋ぐ事になった。深さ
1米20糎、巾1米の溝の道を造った。
20年1月4日の部隊の編成が有った。配属は一○五空基地隊付で、司令官は海軍少将斎藤榮昇
氏で、私達は司令部付で、後日私等数名は陸軍戦車隊、工兵隊、歩兵と、特殊特別訓練を6ヶ月間
受けて、本隊に戻った。そして皆の教育に当たった。敵が上陸すれば坂井少尉は本部の指揮小隊長
になる。本隊は飛行科、整備科、主計科で兵科は少ない。
敵上陸部隊はラバウル、トラック、ニュウギニヤも過ぎて、比島へ西に向い、又沖縄もやられ
た。次はラバウルと噂が飛び出した頃、廣島に新型爆弾を投下したと聞く。
8月15日朝早く、准士官以上、本部に集合せよの通信が有った。坂井中尉も出て行った。
13時頃に小隊長は青白い顔で帰って来た。震えながら戦争は負けた。どうなるか分からんと
言って私室に入り、2日も出なかった。本国へ帰れるかどうか、又、米国の奴隷になるかもしれな
い。色々と噂は飛んだが、先任下士官の山本兵曹が大東亜戦前に上海陸戦隊に居て、米国人との付
き合いが有った人で、米国人は紳士で其の様な国では無いと皆を慰めてくれた。
少しして皆集団に集められた。私等は南崎第三集団に行き、集団から米軍の作業に駆り出され
た。小隊長から、お前は内火艇の経験が有るから、漁労班を作れ。船は陸軍の上陸用艇を借りた。
艇の指揮は兵曹長、艇長は私で機管長も同年兵と兵隊2名で、漁業関係は清水焼津の漁師で、釣り
道具は皆作ってくれた。昼間は地引網で魚を捕って、大きなのは釣りの餌にした。延縄漁に出ると
2米から3米で丸々と太った「フカ」が釣れた。これが戦友を食ったかと思うと、叩く竿にも力が
入る。其のフカの肉は集団の食糧になる。
半年もすると内地へ帰れる話が出る様になった。3月1日集団へ帰れと命令が出た。
3月7日ラバウルを出発して内地に向かった。14日大竹海兵団に着いた。初めて見る海兵団は
大きかった。15日予備役となって、17日家に向かった。18日家に着いて、両親に挨拶して仏
壇に参り、氏神様に帰国の報告と御礼を申し上げて終わる。
昭和 21年 3 月 18 日
夕霧
艦首を破壊された夕霧。
昭和18年5月16日、カビエン北東
約200キロのムッソー島沖で米潜水
艦の雷撃が命中、艦首が切断屈曲した。
写真はラバウルで応急修理をうける前。
矢印は自分。
【 第27回 戦歴五年の体験記録
】 10
あとがき
この小編は大東亜戦争に従軍した5ヶ年間の偽りない真実の記録である。
戦後、色々の戦記ものが出されているが、何れも正確な真実であるか否か判りがたい。
そこで真の偽り無い自分の体験を書く事を思い立ち、これを後世に伝え、是を知らせて貰いたい。
他人の言う事は信用し難い。
真実を書いておけば、年月が経って孫子に至るまで読んでもらえるであろうと、そんな気持ちから
書いてみた。
職業は石屋であって物書きではない。
何回も思い返しては書き、書き続けて見ては、又、思い返す。
そうした事を数回繰り返して書いた、私には貴重な記録です。
郷土の先輩で、元海軍主計中尉 河合松男氏に御覧頂いて、「大変良く書けた。これはあなたの貴
重な宝物だ。」とお褒め頂いた事を書き添えておく。
私としては最初の、そして最後の書きものかと思う。
この小編を読む機会のある方は、これが誠の戦争記録と思っていただきたい。
この小編を書き終わって少し気が楽になって良くなった。
私の戦友の方々の御霊に供したいのです。
平成 13 年 9 月 1 日
海軍一等兵曹
鈴
木
周
一