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目次
図版等一覧
序章
····················································································· 1
······························································································ 9
第Ⅰ章 物語の骨組みとなる構造
第 1 節 用語の定義
································································· 14
第 2 節 物語の類型
································································· 18
第Ⅱ章 構造を具体化するモチーフ
第 1 節 引越し
······································································· 27
第 2 節 過程
·········································································· 32
第 3 節 飛翔
·········································································· 36
第Ⅲ章 アニメーションの表現としての絵
第 1 節 人物の演技
································································· 41
第 2 節 背景と舞台
································································· 47
第Ⅳ章 作品全体の構成
第 1 節 3 つの要素の関係性
······················································ 53
第 2 節 並行して描かれる 2 つの物語
終章
注
········································· 59
···························································································· 62
······························································································· 66
参考文献
参考 DVD
······················································································ 76
···················································································· 80
図版等一覧
図1
図3
図2
図4
図5
1
図7
図8
図6
ドア
現実世界
図9
モンスター界
図 10
汽車
現実世界
現実世界
魔法界
図 11
図 12
2
トトロの世界
A
A’
A
B
α
図 13
図 14
図 15
図 16
図 17
図 18
3
B
β
図 19
図 20
図 21
図 22
図 23
図 24
4
図 25
図 26
図 27
図 28
図 29
5
図 30
図 31
図 32
図 33
図 34
図 35
図 36
図 37
6
図 38
図 39
図 40
図 41
※図 1~9、15~20、22、27~39 、41(『となりのトトロ』ブエナ・ビスタ・ホーム・エン
ターテインメント 2001)
図 23 (『シンデレラ スペシャル・エディション』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテ
インメント 2005)
図 21 (『魔女の宅急便』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント 2001)
図 24、25 (『巨人の星 Vol.1』ワーナー・ホーム・ビデオ 2001)
図 26 (『美少女戦士セーラームーン Vol.2』TOEI COMPANY,LTD.2009)
図 40 (宮崎駿『スタジオジブリ絵コンテ全集 3 となりのトトロ』徳間書店 2001.6)
7
パート
カット№
A
1~212
シーン
概要
一家が都会から田舎へ引っ越して 姉妹が田舎の生活に触れ、
くる。
引っ越し先の家でマック
マックロクロスケが家を去り、森 ロクロスケに出会う。
に移動する。
母のお見舞いに病院へ行く。
B
病気の母を見舞いに行き、
213~424
家に帰るとメイがトトロ
それをサツキが
メイがトトロに会い、サツキがそ に出会い、
C
425~664
れを母に手紙で報告する。
手紙で母に報告する。
サツキの小学校にメイが来る。
ぐずるメイがサツキの学
校へ来て、
その夜に姉妹が
トトロが家の庭にやって来て、ト トトロから木の実を貰い
トロと共に飛翔する。
植えると、
庭にトトロが現
れる。
カンタの祖母の畑で病院からの電 畑で野菜を取っていると
D
665~953
報を見て、父親に連絡する。
母の病院から電報が来る。
それをきっかけにメイが
トトロの助け
メイが母親にトウモロコシを届け 迷子になり、
ようとして、迷子になる。サツキ を借り、探し出す。
はトトロの協力で猫バスに乗り、
メイを見つける。
表1
(宮崎駿『スタジオジブリ絵コンテ全集 3 となりのトトロ』徳間書店 2001.6)
8
序章
近年、日本製のアニメーション映画は、世界各国で享受され、高い評価を得てきた。と
りわけ宮崎駿監督作品は、老若男女を問わず人気が高い。観客の共感を呼ぶのは、登場人
物の存在感や現実感を生み出す宮崎アニメの演出である。
かつて日本でアニメーション作品は、子ども向けの娯楽と考えられていた。第 1 次国産
アニメブームの到来と言われる 1960 年代 1 から、
アニメーション作品の多くがテレビアニ
メとして放送されたが、17 時から 20 時までの放送枠、あるいは休日の午前中の枠に放送
されるキッズ・ファミリー向けの作品しか存在しなかった。1980 年代からは、青年層によ
るアニメーション視聴の傾向が顕著になり、アニメファン向けの作品に対する需要が高ま
ることとなった。2 2000 年代以降に制作されているテレビアニメを見ると、年をまたいで
継続して放送されている作品のほとんどがキッズ・ファミリー向けの作品である。3 子ども
向けの作品は、
『ちびまる子ちゃん』4 など定番のアニメーション作品が継続して制作され
る傾向にある。一方、青年層向けのアニメーションは、むしろ短い期間で放送を終えるパ
ターンになっているが、支持されていないわけではない。アニメーションの受け手が広が
ったことで、アニメ市場の競争も激しくなり、多くの作品が次々に制作されるからだ。評
価の高い作品の多くはシリーズ化され、あるいは長編アニメーション化され映画館で公開
されたり、オリジナルビデオとして発売されたりしている。アニメーションは、次第に幅
広い年齢層に向けて制作されるようになり、現在では子ども向けの娯楽という認識はなく
なりつつある。
アニメーションが幅広い年齢層に受け入れられるようになったがために、
多くの作品は、
ターゲットとなる年齢や性別を設定した上で制作されている。
子ども向きの作品であれば、
話の内容も単純で理解しやすい内容であることが多い。青年層向けであれば複雑な人物関
係や主題を用いるなど、成熟した視聴者の観賞に適う物語を展開させる。視聴者を獲得す
るために、年齢層によって作品の内容や演出を変えることが求められるのである。
これに対し宮崎アニメは、特定の層に偏ることなく、幅広い年齢層の人々に支持されて
いる。宮崎はアニメーション映画の制作について、
「いま日本にいる子どもたちの現実を子
どもたちの願いもふくめて描き、子どもたちが本当に心から喜べるようなフィルムを作り
たい。
」5 と述べている。宮崎自身は「子ども」に向けてアニメーション映画を作る姿勢を
9
明確にする発言をしているのである。その一方で、宮崎駿作品の『紅の豚』6 は、東宝が初
日と 2 日目に都内で行った観客調査において、客層のおおよそ 64 パーセントが 20 歳以上
の成人であるという結果が出ている。7 実際の観客は子どもに限定されず、むしろ作品によ
っては青年以上の層が多い場合もある。宮崎の発言にかかわらず、実際の享受者は子ども
に限定されていないのである。
このように、幅広い年齢層から作品が支持される背景には、幻想的な世界を描きながら
も、観客が身近に感じられる日常性を取り入れた「本当らしさ」の演出がある。
宮崎が多くの人々に受け入れられる作品を制作したことは、アニメーション映画の魅力
を日本社会に認識させるきっかけとなった。2003 年に宮崎駿作品の『千と千尋の神隠し』
8 が、
創設間もないアカデミー賞長編アニメーション部門でグランプリを獲得したときには、
国内外を問わず、日本製のアニメーション映画に更なる注目が集まった。ピクサーを除く
アメリカ製アニメ、とりわけディズニーの作品が次から次へと興行的に失敗する一方 9 で、
アメリカにおける日本製のアニメーション作品の市場は拡大し続け、その規模は 50 億ド
ルを超えたと言われる。10
子どもを対象とするアメリカのアニメーション作品は、ミュージカルシーンやオーバー
アクションが欠かせない。ディズニー映画『ライオン・キング』11 では、人間と同じよう
に話し、振る舞うライオンやハイエナが登場し、そのキャラクターが自分の気持ちを音楽
にのせて歌う。だが、宮崎アニメはそのような演出から距離を置いて、ファンタジーであ
りながらも現実性が垣間見える世界を描く。人が気付いていないだけで、現実に異形のも
のが当たり前に存在するように描いたり、仕事や料理の表現を通して日常生活を思い浮か
べさせる描写を取り入れたりしている。作り物の世界であっても、日常的な行為を描き、
その細かな部分まで表現することによって、観客の身近な出来事のように感じさせる。登
場人物の動きや表情にデフォルメが使用される場合もあるが、人間の体の構造や重力を意
識した、自然な動きが心掛けられている。物語全体を通して、観客に、映画の世界が現実
と地続きにあるように認識させるのである。
このような「本当らしさ」を追及した宮崎アニメは、海外でも人々のアニメーション作
品に対する捉え方を変え、万人に受け入れられる作品として注目されたのだろう。
宮崎は、アニメーション映画制作の姿勢について次のように発言している。
アニメの世界は〝虚構〟の世界だが、その中心にあるのは〝リアリズム〟であらねばな
10
らないと私は思っている。ウソの世界であっても、いかにほんとうの世界とするかが大
切だろう。言葉をかえるなら、みる人に「そういう世界もあるな」と思ってもらえるウ
ソだ。12
ここでのリアリズムとは、
「本当らしさ」の表現である。観客に「そういう世界もある」
と思ってもらえるアニメーション映画作りを心掛けているというのである。
アニメーションは全てが人の手から生み出された作り物であるため、
そもそもそこに
「本
当」は存在しない。だが、演出によって「本当らしさ」を表現することは可能である。人
がアニメーション作品に「本当らしさ」を感じるきっかけは、作品の中に自分自身の経験
を見つけたときだろう。
アニメーション映画は、骨組みとなる構造、物語を具体化するモチーフ、アニメーショ
ンの表現としての絵の 3 つの要素から構成される。宮崎は、それぞれに「本当らしさ」の
演出を取り入れている。本論で取り上げる『となりのトトロ』13 では、
「行きて帰りし物語」
の構造を取り入れているが、従来の「行きて帰りし物語」とは異なり、現実世界と異世界
の区別が明確でない。異世界の生き物であるトトロが、人間のすぐ側、現実世界に当たり
前のように存在するような表現によって、観客は現実味を帯びたファンタジーとして認識
させられる。また、その構造が具体化される際には、トトロと姉妹の交流などで、心理的
必然性を描き、現実の人との付き合いを彷彿とさせる過程を表現している。ここには、ア
ニメーション映画の中の出来事が、自分の身近に感じられる「本当らしさ」がある。
また、絵の表現に関して宮崎は、自分の目で見たものしか描かないという制作の方針を
持っている。ロケーションハンティングを行い、土地や風景の様子を正確に描くと共に、
人の目を通した感動を風景に反映させる。例えば、同じ木であっても、見る人の心情よっ
て実際よりも大きく見えたり、あるいは荘厳な雰囲気に見えたりすることもある。人の心
情を反映させ、絵をデフォルメすることにより、むしろ既視感を抱かせる「本当らしさ」
を表現するのが宮崎の演出である。虚構の世界であるからこそできる、アニメーションな
らではの表現を活かし、
「本当らしさ」を観客に提供するのだ。そのような、観客の共感を
呼ぶ「本当らしさ」は、観客の生きる日常世界とアニメーションの世界を結び付け、人々
の興味関心を引き付ける要因となっている。
人がアニメーション映画に求めるものは、
アニメーションにしかできない表現であろう。
日常生活には起こり得ない出来事や、再現できない動きを表現できるアニメーションは、
11
人々を現実の世界から引き離し、高揚感や解放感を抱かせる。現に、多くのアニメーショ
ン作品の設定や物語の主題は現実離れしたものが多い。しかし、宮崎アニメではそのよう
な設定に加えて、必ず日常世界と共通する描写が含まれている。日常世界と切り離してア
ニメーション映画を鑑賞するのではなく、
「もしかすると自分の身にも起こるかもしれない」
という思いを抱いて鑑賞する方が、
観客の期待感は高まるだろう。
『となりのトトロ』
では、
注意深く観賞すれば、身近にトトロが存在するかもしれないと思うだろう。
「本当らしさ」
を意識した宮崎アニメは、老若男女を問わず支持を集めることになる。
宮崎アニメの研究は、物語の構造や主題に対する解釈を行うものが多い。例えば、大塚
英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿――構造しかない日本』14 や野村幸一郎『宮崎駿の
地平――広場の孤独・照葉樹林・アニミズム』15、村瀬学『宮崎駿の「深み」へ』16 などは、
宮崎アニメの構造や主題の分析を基にして、宮崎の感性や思考を論じている。その一方、
宮崎アニメの演出や作画技術を考察している論はそれほど多く見られない。
物語の骨組みとなる構造や設定がなければ、物語を膨らませていく要素を付加したとし
ても、全体が散漫で理解不能なものとなってしまうだろう。確かに構造は不可欠だが、構
造に付加されるモチーフや絵に魅力がなければ、観賞するに足る作品にはならない。宮崎
アニメにおいては、特に、構造、モチーフ、絵の要素が、緊密に結びつきながら作品の「本
当らしさ」を作り上げ、観客を惹き付ける。本論では、これら 3 つの要素の、宮崎アニメ
における特徴を分析しながら、それらが相互にどのように関連しているかを考察する。し
たがって、アニメーション映画を構造や主題だけに還元せず、具体的な表現の特徴に着目
しながら、論じていきたい。
アニメーションは、絵を少しずつ動かしながら、映画撮影用カメラを使用し、コマ撮り
によって絵を撮影して得られた映像を映写することで、動かない絵を動いているように見
せるというのが大まかな仕組みである。17 少しずつ形が異なった絵を連続的に映写するこ
とで、絵と絵の間にある時間が人間の視覚によって補完され、絵が動いているように見え
る。18 この動きをどのように表現するかというところに、描かれるものとしてのアニメー
ション映画の演出の課題がある。
また、アニメーション映画は、実写とは異なり、画面に写るもの全てが制作者の手によ
って描かれたものだ。実写では天候や風、撮影場所の環境によって、予期しないものが写
り込むことも多い。だが、アニメーション映画で意図しない表現は有り得ない。全ての絵
や、絵の動かし方に監督の意図が含まれている。これもまた、アニメーション映画の演出
12
である。このような描かれるものとしての演出の特徴を踏まえながら、次章より、構造、
モチーフ、絵の順序で、宮崎の演出の特徴を見ていくこととする。また、3 つの要素がど
のように組み合わされているか考察した上で、
『となりのトトロ』全体の構成も見ていく。
13
第Ⅰ章 物語の骨組みとなる構造
第1節 用語の定義
本論で言う「物語」とは、順序立てて語られる出来事の連続のことである。また、物語
を作る骨組みとなる最小限の機能を「構造」と呼び、構造と言う際は物語構造を指すもの
とする。例えば構造は、ジョセフ・キャンベルの「神話論」19 で述べられるような、
「出立
→通過儀礼→帰還」といった、決められた類型に基づいて物語る際の、1 つの物語を作り
上げている基本的な材料の組み合わせ方である。映像作品の制作過程で言うと、構造は、
シナリオを書いた段階ですでに出来上がっている。通例は、シナリオに新たに具体的な要
素を付け加えていく行為を「演出」と呼ぶ。
『となりのトトロ』には原作がなく、シナリオ
段階でも宮崎が制作に関わっている。そのために、本論では、構造上の工夫も「演出」と
呼ぶことにする。物語に関わる演出は、時間に沿って展開する物語の中の人物の行動や心
理に、どのような動機付けや根拠を付け加えるかということだ。
構造が具体的な物語として構成される際、いくつもの小さなミニマル・ストーリー20 が
連続して全体を作り上げる場合がある。ミニマル・ストーリーは、物語構造に密接に関係
ある小さな物語と、
「挿話」の 2 種類に分けられる。挿話は、エピソードとも呼ばれ、文
章や物語の途中に挟まれる、物語の本筋とは関係のない短い話である。映像作品で、ミニ
マル・ストーリーは、一定の連続する映像の単位「シークエンス」に置き換えられる。ア
ニメーションや映画では、このシークエンスの組み合わせにより、構造を具体化し、物語
を構成する。映像は言語表現と異なり、場面の移り変わりが目に見える形で明確に示され
る。映像と言語表現の特徴が異なるために、シークエンスという用語が使用されるのであ
る。
『となりのトトロ』で具体的に言うと、物語は、
「姉妹が引っ越してくる→引っ越し先の
家が古かった→お化け屋敷のように見える→実際に何かが潜んでいる→マックロクロスケ
を目撃する」といったような、時間の経過と共に進んでいく出来事である。この物語の構
造は、
「引っ越し」や「古い家」
、
「お化け屋敷」などの具体的な要素を省き、元の骨組みだ
けを残したものとなる。つまり、
「環境が変わる→異形のものに出会う」という構造が見ら
れる。
次に、映像表現としての構成を見てみよう。シークエンスは、
「シーン」の集まりからな
14
る。シーンとは、映画の中で場所や時間が変わるまでの一区切りの映像の連続を指し、さ
らに映像の最小単位である「カット」21 の集まりから構成される。
『となりのトトロ』冒頭
の引っ越しのシークエンスは、トラックに乗って引っ越し先へやってくるシーン、新居を
見て回って引っ越しの片付けをするシーン、風呂場のシーンの 3 つのシーンからなる。こ
のようなシーンは、さらに小さな単位であるカットに分けられる。カットとは、切れ目が
なく撮影されている映像を指す。 同じシーン内であっても、映像が切られて別のアングル
に変わればカットが変わったと見なす。実写の映像ではカメラが空間を自由に動き回れる
ために、比較的長いカットの撮影も可能となる。だが、アニメーション映画では平面を撮
影することから、被写体を回り込んで写し、曲がり角やカーブなど背景が大きく変化する
状況を 1 つのカットで撮影するのは難しい。そのために、アニメーション映画では実写よ
りも細かいカットの組合せが必要となる。22
ここでは、
物語冒頭の、
家族が田舎へ引っ越してくるシークエンスを細かく見てみよう。
このシークエンスでは、田舎へ引っ越してきた姉妹が新居のお化け屋敷のような佇まいに
心を踊らせる。実際に誰もいないはずの天井裏から団栗が落ちてきたり、風呂場へ続く戸
を開けると黒い影(マックロクロスケ)が一斉に奥の方へ逃げていったりと不思議な現象が
起こる。荷物の片付けも一段落し、風呂を沸かして親子で入っていると、トタンが剥がれ
そうな程の強い風が吹き荒れ、
「この家は古いからつぶれてしまうのではないか」と姉妹は
父親に不安を漏らす。すると、父親がいきなり大声で笑い声を上げ始め、
「みんな笑ってみ
な。おっかないのは逃げちゃうから。
」と言う。姉妹もそれに倣い笑い始めると、途端に楽
しい雰囲気になり、家の心配も忘れて騒ぎ始める。そうするとマックロクロスケが家を出
て森へ向かい始める。直後に親子が布団で寝ている様子が映し出され、画面は暗転し、次
のシークエンスへと変わる。ここでは、冒頭の引っ越しのシーンから親子が眠りにつくシ
ーンまでを 1 つのシークエンスとして考えているが、シークエンスの切れ方は明確に決め
られているわけではない。分析する場合には、恣意的な見方を含むことになる。
シークエンス中のシーンの並べ方には、監督の意図が反映されている。まず、風呂場の
シーンについて考えてみよう。風呂場のシーンの直後には、マックロクロスケが家から離
れ始めるシーンがある。マックロクロスケが家を離れる理由については、前のシーンです
でに観客に説明されている。引っ越してきた当日、メイがマックロクロスケを捕まえたと
煤で汚れた手を見せに来たとき、
引っ越しの手伝いに来ていた家主であるカンタの祖母が、
「それは誰もいない古い家にいるススワタリが出たのだ」と言い、
「いつのまにかいなくな
15
っちまうんだ。今頃、天井裏で引っ越しの相談でもぶってんのかな」と説明があった。こ
の台詞から、風呂で騒ぐシーンがなくともマックロクロスケは、人が家に住み始めるとい
なくなるものだということが観客に分かる。マックロクロスケが移動する理由を示すこと
だけが目的ならば、風呂場のシーンを描かない選択もありえる。例えば、引っ越しのシー
ンの後、家族が寝静まった夜などにマックロクロスケがひっそりと移動するシーンを描く
ことは可能だ。
このように考えると、風呂場のシーンは、物語の本筋には直接的に関係がないように思
える。だが、このシーンを描かなければならない演出上の必然性がある。風呂場のシーン
は、引っ越してきた後、その場所で家族の日常生活が始まったことを観客に伝える役割を
持つ。家にいる家族全員が一緒に風呂に入っている際に、強風によって外のバケツが地面
を転がる様子や、トタンが剥がれそうな様子に加えて、家の窓や戸までもがガタガタと音
を立てる様子が描かれ、親子が揃って家の様子を心配する気持ちが表現されていた。その
場面の中に、井戸水が出るポンプの側にバケツが重ねて置かれていたり(図 1)、台所の小窓
の前には調理用具が並べられていたり(図 2)、電気の点いた居間には新聞やカレンダーがあ
る(図 3)ことから、観客は、長い間人が住んでいなかった家に生活感が生まれていることに
気付く。このような家の中の様子を映したカットは、家の心配をする家族の様子に繋がっ
ているため、違和感なく挿入できる。これらのカットで表現されている生活感は、家の浴
槽に湯を張って入浴する人物の行動と相まって、そこで日常生活が行われているという印
象に繋がる。
さらに、風呂場のシーンは、この後の物語の展開を観客に感じ取らせる役目を持ってい
る。風呂場のシーンの直前には、風呂を沸かすためにサツキが庭に薪を取りに出るシーン
がある。勝手口から薪が積み上げられた場所へ足早に向かい、何本か手に取る間にも強い
風が吹き続けている。家に入ろうと体の向きを変えると突風がサツキの抱えた薪すらも巻
き上げ、その薪は森の方へ吸い込まれるように飛んでいってしまう(図 4)。薪の行方を見る
かのようにサツキは動きを止めて風で揺れる森の木々を見上げる(図 5)。
ここではまず、
突如強い風が吹き、
軽くはない薪が一瞬で吹き飛ばされる描写の挿入で、
観客に、
「危険なことが起こりそうだ」という予感を抱かせる。次に、サツキが黒く揺れる
森を立ち尽くしたまま見上げる様子を描くことで、森に何か不気味なものが存在するので
はないかと思わせる。新居に到着したばかりのシーンでは、庭で走り回るサツキが「メイ、
見てごらん。大きいね。
」と庭から見える森の木を指して見上げるシーンがあった(図 6)。
16
父親にも「お父さん、すごい木。
」と言い、父親にそれはクスノキだと教えてもらうと、再
度見上げながら「クスノキ」と呟く。ここでも森の大きさを観客に印象付け、姉妹が森に
関心を持っていることを伝えている。この前段階のシーンがあるために、サツキが薪を取
りに行く夜の森のシーンで観客は、
「この作品では森の存在が重要となるに違いない」とい
う印象を持つだろう。サツキが昼間と、夜に見上げた森に向かって飛んでいくマックロク
ロスケは(図 7)、森に何かが潜んでいるという伏線を張っている。
このように、シークエンスは、シーンやカットを繋げることにより、映画の世界観を表
したり、観客にこれから起こる出来事を感じ取らせたりする役割を持つ。さらに、これら
シークエンスが連続することで、事件の展開や、登場人物の心情の変化を表現し、全体と
しての物語が構成される。
これらシークエンスを組み立て、物語を作り上げる骨組みとなるのが「構造」である。
『となりのトトロ』を物語の類型
23
に分類するならば、
「行きて帰りし物語」の構造に
当てはまるだろう。
「行きて帰りし物語」は、登場人物が異世界へ行き、帰還するという骨
組みを持つ。しかし、宮崎は、このような定型の構造をそのままの形で作品に用いてはい
ない。現実の人間関係の表現を念頭に置き、観客の「本当らしさ」の認識に繋がる演出を
心掛けている。次節では、基本的な骨組みである構造に、どのような変更を加えているの
か考察する。
17
第2節 物語の類型
『となりのトトロ』には、様々な児童文学や、民話で用いられる題材と共通の要素が含
まれている。24 環境の変化をきっかけに事件が始まり、異形のものと出会う物語の構成は、
古典的な物語のパターンの 1 つだ。長い間読み継がれている物語との共通項が、観客に馴
染み易さを感じさせる。
観客は作品を見るときに、
その作品に対する予備知識が無くとも、
頭の中で物語を組み立てながら鑑賞できる。それは、自身の中にそれまでに受容してきた
物語構造が、無意識の内に蓄積されているからだ。そのために物語の行き着く先が分かっ
ていなくても、構造を参照しながら観賞するため、映画を見ることができるのである。構
造は、観賞の手助けになるという点においても、物語の骨組みをなしていると言える。
日本製のアニメーション映画は、序章でも触れたように、海外においても高い評価を得
ている。その中でも、宮崎アニメは特に人気を博している。大塚英志は、日本製のアニメ
ーション作品が海外に受け入れられる理由について、以下のように述べる。
ジャパニメーションも(中略)労せずして海外に伝わりうるのは「構造」の部分でしかな
い、ということにもなる。
「構造」以外のものが伝わらないわけではないが、それはとて
つもなく厄介なディスコミュニケーションを乗り越えていく必要がある。簡単に届いて
しまうのは「構造」だけだ。だから世界に届く表現など、たいてい構造に特化した表現
だ。25
日本製のアニメーションには、日本の文化や思考に基づく表現が含まれている。それら
を海外の受容者に理解してもらうためには、ディスコミュニケーションを乗り越えていく
必要がある。言語の壁は、吹き替えや字幕で越えられるが、作品の中に登場する日本独自
の文化はそうではない。例えば、学校で弁当箱の昼食を箸を使って食べるなど、日本人に
とっては当たり前でも海外の人には馴染みが薄い振る舞いも多々登場する。さらに、店の
看板に書かれた日本語や、和風の建築物などの日本的な場所がそのまま画面に現れる。文
化が異なれば、それらの光景に興味関心を感じても、親しみを抱くのは難しい。このよう
な日本独自の習慣は、しばしば日本製のアニメーション作品の中で描かれてきた。26 にも
かかわらず、ジャパニメーションが容易に世界に広がるのは、分かりやすい構造に依拠し
た作品が多いからだと、大塚英志は述べるのである。
18
このように、世界に届く表現は構造に特化した表現だと断言してしまえば、構造さえ
あればどのような物語でも海外に受け入れられることになる。確かに、構造が分かりや
すいギリシャ神話やアンデルセン童話、イソップ物語などは、世界中で翻訳され親しま
れている。多くの人が幼い頃にそれらの物語に触れてきただろう。
しかし、国内でも海外でも多くの人が魅了され、高い評価を得ている日本製のアニメー
ション映画は、少数である。実際には、日本のアニメーション作品は暴力や性描写に溢れ
ているといった批判がなされる場合もある。27
このような批判を踏まえれば、むしろ、人々はそのような描写を見て、作品の価値を決
めていることになる。現に、人がアニメーション映画を見て面白いと感じる箇所は構造そ
のものではなく、構造という骨組みに肉付けされたモチーフやキャラクターの個性、絵の
動き方などの演出部分である。
例えば、
『となりのトトロ』で、マックロクロスケという異形のものと初めて接触するシ
ーンがある。このシーンで観客に面白さを感じさせるのは、マックロクロスケに出会った
という事実ではなく、戸を開けると光が入った方向から一気に逃げていく動き(図 8)や、壁
の隙間に指を入れたら勢いよく飛び出してきたシチュエーション (図 9)だ。アニメーショ
ン映画では、異形のものに出会ったこと自体が面白さに直結するとは限らず、それがどの
ような動き方なのか、どのような出会い方なのか、という具体的な表現の良し悪しが、観
客を作品世界に惹き付ける成否に関わる。
『となりのトトロ』の物語では、
「行って帰る」という構造が用いられている。この構造
は「行きて帰りし物語」28 と呼ばれ、多くの絵本や児童文学、小説で用いられてきた。
「行
きて帰りし物語」とは、登場人物が 1 つの世界から、もう 1 つ別の世界へ行き、再び元の
世界へ帰ってくるような物語のことである。この構造はファンタジーで用いられることが
多く、1 つの世界は登場人物にとっての現実、もう 1 つの世界は別の空間にある異世界と
して描かれる。しかし、全ての「行きて帰りし物語」の中で、異世界へ行くストーリーが
語られるわけではない。2 つの世界の一方が、
「異世界」である必要はないのである。登場
人物にとって同じ空間内の場所であっても、行く行為と帰る行為が描かれていれば、それ
は「行きて帰りし物語」の構造である。
「行きて帰りし物語」は、物語の構造のみに見られる出来事なのかと言えば、決してそ
うではない。実際に我々も生活の中で「行って帰る」行動を頻繁に行っている。例えば、
朝起きて家から学校や職場へ行き夕方になると再び家に帰ってきたり、結婚して所帯を持
19
った者が正月や盆に実家へ帰ったりする。また、花いちもんめやかくれんぼう、いないい
ないばあなどの遊びも「行って帰る」行動だと言える。多くの観客にとって「行きて帰り
し物語」の構造は身近に感じられるものである。
さらに、構造は、
『となりのトトロ』の中で必ずしも単純な形で用いられているわけでは
ない。多くの「行きて帰りし物語」は、2 つの世界が完全に独立している。その例として、
『モンスターズインク』29 が挙げられる。この作品では、現実の世界とは別の世界に繋が
る道があり、その道を通り抜けることで、もう一つの全く別の空間にある世界に辿り着く
(図 10)。異世界と繋がるドアが 2 つの世界の境界線として描かれているのである。更に同
じ世界構造が『ハリー・ポッターと賢者の石』30 にも当てはまる。ハリーの暮らす現実世
界(人間界)と、魔法使いの世界とは容易に行き来が出来ず、一定の決められた方法、ホグ
ワーツ魔法学校行きの汽車などで繋がれているだけである(図 11)。これらの作品では、一
方の世界の住人が、もう一方の世界へ足を踏み入れることはタブーとして描かれている。
『モンスターズインク』では、人間の子どもを脅かしに行った際、子どもの持ち物に触れ
たモンスターは全身の毛を刈られて、防護服を着たモンスターによって消毒される。モン
スターの世界に、人間の子どものブーが紛れ込んでしまったときには、大事件となって新
聞やテレビニュースにも取り上げられ、モンスター界はパニックに陥った。 『ハリー・ポ
ッターと賢者の石』においても、魔法を目撃した人間は、魔法使いによって記憶を消され、
また、人間界で魔法を使用した魔法使いは魔法省によって罰せられる。
その一方で『となりのトトロ』は、2 つの世界が完全には独立しておらず、違う世界の
者同士が触れ合うことはタブーとされていない。登場人物が暮らす現実世界にトトロが直
接現れることから、
現実の世界と異世界の領域は重なるものとして描かれている (図 12)。
最初にメイがトトロに遭遇する場面は、メイが木のトンネルを通ってクスの木の根の間
に出来た穴を転がり落ちてトトロの元へ辿り着く。この部分だけを取り出せば、
『となりの
トトロ』も従来の「行きて帰りし物語」と同じ構造である。だが、その後のトトロと出会
う場面を見てみると、姉妹の元にトトロが現れている。バス停で姉妹と同じようにネコバ
スを待っていたり、姉妹の家の庭にやってきたり、家から見えるクスノキの上でオカリナ
を吹いていたりする。作品のタイトル『となりのトトロ』からも分かるように、トトロは
異形のものでありながらも、人間の隣に存在するように描かれているのだ。従来の物語の
類型に当てはめると、登場人物が 2 つの世界を経験する物語は「行きて帰りし物語」とな
る。しかし、姉妹とトトロの交流の描写に注目すると、
『となりのトトロ』は、
「行きて帰
20
りし物語」というよりもむしろ、
「互いの世界を行き来する物語」と言えるのではないだろ
うか。
「行きて帰りし物語」の構造を用いながら、2 つの世界を個々に存在させず、現実世界
に異世界が重なっているように描くことは、観客に現実とファンタジーの境目を曖昧に感
じさせる。例えば、都市伝説の口裂け女やツチノコなどは、現実の世界の中に異世界のも
のが現れるといった話だ。そのような話が世間で取り上げられ社会現象にまで発展する 31
のは、人が「もしかしたら起こりうる」と思うためであり、その認識がまた話を広く普及
させ、結果的に噂話があたかも現実のように受け止められている。32 具体的な目撃情報は、
噂話を日常と地続きであるかのように思わせる。現実世界と異世界が、人々の頭の中で一
体となるのである。我々が、海外などの異世界へ行く際には、飛行機など、日常では頻繁
に使わない移動手段が必要となる。
これに対して、
身近に異世界のものが現れる出来事は、
その話に信憑性があれば、特別な手段がいらないため、容易に起こりうると想像できる。
互いの世界を行き来する物語は、そのような点で従来の「行きて帰りし物語」よりも、観
客にとって身近な出来事として受け止められる。その特徴を利用して、観客に別世界を身
近に感じさせ、ありえそうな話と思わせる契機を作っている。
また、行って帰る(または行き来する)形式を取り入れる際には、並列的にエピソードを
繋げるだけではなく、重層的に積み重ねる必要がある。この点について、瀬田貞二は次の
ように述べる。
もし「行って帰る」という方式を貫くとしたら、一つ一つの出来事をただ単純に出した
りひっこめたりというのではいけない。それじゃ、お話が盛り上がってこない。そうじ
ゃなくて、一つ何かを付け加えることによって、お話がふとってゆくとか、進展してい
くとか、とにかく矢印的な進み方でつけ加えていかなきゃだめだと思います。(中略)納
得され、満足されるだけの強い力がそこに内在していなければ、お話は成り立たないん
だということが、一つ一つの作品を具体的に検証していくなかから、おのずと浮かび上
がってくるんじゃないかと思います。33
行って帰る出来事が個々に点々と並んでいただけでは、全体を貫く動きが欠如してしま
い、
観客の納得や満足を得られる内容にならないということである。
並列的な物語とは個々
の出来事が別々に置かれている物語で、重層的な物語とは、1 つのミニマル・ストーリー(シ
21
ークエンス)からある要素を引き継ぎ、次のミニマル・ストーリー(シークエンス)に繋げて
いく物語だ。
『となりのトトロ』では、それぞれの行って帰るシークエンスで、前から引き
継いだ要素を膨らませ、さらに次のシークエンスに繋げながら、出来事の因果関係や人物
の関わりを描いている。この点で、
『となりのトトロ』は重層的な物語だと言える。
重層的な物語を描く上で、宮崎は「心理的必然性」を多く取り入れている。心理的必然
性とは、登場人物の行動の理由として、観客が納得できるような動機を描くことである。
サツキの「迷子のメイのところへ連れて行ってほしい」というトトロへの頼み事は、それ
以前にトトロと心を通い合わせるシーンが無ければ唐突な行動に見えてしまうだろう。仲
良くなったプロセスがあるからこそ、
依頼をする行為が自然なものとして受け止められる。
詳しくは、第Ⅱ章第 2 節、第 3 節で述べるが、このような心理的な過程を積み重ねて「本
当らしさ」を表現するのが、宮崎の演出である。それとは反対に骨組みとなるのは、
「物語
構成上の必然性」である。ここでは、新しい環境に変わったときに異形のものが子どもの
前に現れるといったような必然性が挙げられる。
また、
『となりのトトロ』には、もう 1 つ、基本的な「行きて帰りし物語」と異なる点
がある。それは、行き来する世界の捉え方だ。
「行きて帰りし物語」では、世界の数は 3
つあるとされている。斎藤次郎は、次のように述べる。
A はつねに日常性の側にあり、そこから新しい領域である B 地点に向けて「行く」こと
になるわけだが、その場合、探求者は B に好奇心を刺激されていると同時に、A 地点に
対して不満を持っているはずである。B の魅力と A の斥力が同時に働いたとき、
「行く」
行為が生まれるのである。そして、B で新しい経験を得た探求者は日常性に「帰る」の
だが、そのとき A には行かず A'のほうにそれるのではないか。A'地点では、出発時の A
のような斥力は消えて、新しい親和的な関係が探求者と結ばれるのである。34
ここでの A とは現実世界であり、B は異世界、A'は異世界へ行った後に帰ってきた現実
世界 A の変化した姿である。世界 A'は、元々の世界 A とは、登場人物が一旦世界 B へ行
くことによって捉え方や取り巻く環境が異なってくるために、元の世界 A と空間的な場所
こそ変わらないが厳密には全くの同一世界とは言えない。登場人物にとって、世界 A が 2
つの顔を持つということだ。
この点を踏まえると、
「行きて帰りし物語」の構造に存在する世界の数は 3 つだと言え
22
る。
『ハリー・ポッターと賢者の石』や『かいじゅうたちのいるところ』35 といった、行っ
て帰る構造が用いられている物語は、現実世界と異世界と、異世界から帰ってきたときの
現実世界といったように、やはり 3 つの世界から成り立っている。
『ハリー・ポッターと
賢者の石』の主人公ハリーは、人間界では同居する親戚から邪魔物扱いされ自分に自信が
持てないでいた。しかし、ホグワーツ魔法学校へ入学し、魔法や魔法使いの存在を知り、
自分の両親も自分自身も魔法使いだったと分かる。魔法界でハリーは悪の魔法使いヴォル
デモートに匹敵する力を持つ少年だと一目置かれ、自身もヴォルデモートとの対決やクィ
ディッチの試合によって自信をつける。長期休暇の際に魔法界から人間界へ帰ってきたと
き、ハリーは成長し、人間界しか知らなかった以前よりも自信を持って振る舞うことがで
きるようになるのだ。ハリーは、世界 A から世界 B へ行き、世界 B の存在を知ることで、
世界 A ではなく世界 A'へ帰りついた。
行って帰るという行動は、広義の通過儀礼と言える。このような作品においても、やは
り登場人物に通過儀礼を行わせる目的で行って帰る行為が描かれる。そのために、3 つの
世界が存在すると考えられるのだろう。
このような A→B→A'の図式(図 13)を持つ「行きて帰りし物語」に対して、
『となりのト
トロ』はα→β(A
B)の図式(図 14)を持つ。αは田舎へ引っ越してくる前の都会、β
は田舎、A は姉妹にとっての現実世界、B はトトロの世界である。同じ「行きて帰りし物
語」の構造を持つが、従来の物語とは世界の捉え方が異なっている。
瀬田貞二は、行って帰るにも様々な方式があり、ただ体がこちら側からあちら側へ移動
して、こちら側へ帰ってくるだけでも「行きて帰りし物語」になると述べる。36 つまり、
行って帰る行動を描いたからと言って、その物語が全て A→B→A'の図式に当てはまると
は限らず、世界 A'が描かれない「行きて帰りし物語」も存在するということだ。現に、
『と
なりのトトロ』には A'の世界は描かれていない。姉妹がトトロの世界へ行ったことで、姉
妹の日常は変化したりしない。トトロの世界へ行き、再び現実世界へ帰ってきた後も、ト
トロの世界を知る前と同じ現実の世界が待っている。
斎藤次郎は、登場人物が 2 つの世界を行き来する場合「B に好奇心を刺激されていると
同時に、A 地点に対して不満を持っている」37 と述べる。確かに姉妹はトトロの世界に好
奇心を抱いている。メイは興奮気味にトトロに会ったことを姉と父親に話し、メイの話を
聞いたサツキもトトロに会ってみたいと願う。また、姉妹の日常には、母親の入院による
不在や、いつ病状が悪化するかという不安があり、父親も仕事で帰りが遅くなってしまう
23
ことがある。これらは、姉妹の現実世界に対する不満だと取れる。
だが、従来の「行きて帰りし物語」のように、現実世界から異世界へ行くことで姉妹が
成長して現実世界に変化をもたらしたり、異世界での出来事が現実世界での不満や、不安
を解決したりはしない。異世界へ行って帰ってきた後も、母親は入院したままで、父親は
仕事に出かけなければならない。むしろ、母親の病院から電報が届いて姉妹の不安を煽る
ような事件が起きる。これらの出来事に対する姉妹の対応は、トトロの世界を知った後も
全く変化が見られず、
トトロの世界へ行った経験を生かして解決しようとする描写もない。
姉妹は母親の病気という危機に直面するものの、姉妹が危機を乗り超えるプロセスは描か
れていない。危機は、母親の病状が回復することで、自ずと回避される。エンディングで
は、母親が無事に家に戻ってくる様子が描かれている。姉妹の望んでいた結末となり、姉
妹が再び母親に甘えている絵が流されながら映画は終わる。つまりここでは、通過儀礼が
不在なのだ。38 このことから、やはり『となりのトトロ』では、従来の行きて帰りし物語
の図式に当てはまらないことが分かる。
『となりのトトロ』に A'の世界は存在しないので
ある。
また、さらに注目したいのが、トトロとの交流の過程で、姉妹の行って帰る行動が必ず
見られるわけではない点だ。トトロの世界と姉妹の住む世界を行き帰りする描写が明確に
描かれている場面は、最初と最後の交流シーンのみである。
最初の交流シーンは、メイが偶然小トトロを見かけて追いかけていくうちに、木のトン
ネルを通りクスノキにできた穴に落ちてトトロの寝ている元へ辿り着くシーンだ。ここで
は、
「木のトンネル」という通路を通って「クスノキにできた穴」という入口から入ること
でトトロに遭遇している (図 15)。目を覚ました後にメイが、もう一度トトロの元へ行こ
うと同じ道を辿るが、先程のようにトトロのいる場所に繋がっていなかった。いつ出現す
るか分からない通路は、日常とは異なる場所に存在する特別な世界へと続く道である。そ
の道を通ってトトロの元へ辿り着き、気が付くと元の世界へ戻っていたという流れは、異
世界へ足を踏み入れて再び現実世界へ戻ってきたという、
「行きて帰りし物語」の構造に当
てはまる。
最後の交流の場合、サツキがトトロに迷子のメイを探して欲しいと頼みにいくシーンも
同じである。以前はトトロの場所へ辿り着けなかった通路が今回はトトロの元へ繋がって
おり、トンネルを抜けて穴に落ちると、落ちた場所は寝ているトトロの上だった(図 16)。
メイがトトロと会ったときと同じように、異世界へ続く通路を通る様子が描かれている。
24
トトロがネコバスを呼び、メイを見つけ、病院へ向かったシーンの後には、家の前で消え
るネコバスに手を振って別れるシーンがある。その直後に、カンタや家主に会う場面が描
かれている。ネコバスと別れた直後にメイを探していた人々と会う描写から、トトロたち
が住んでいる人間には見えない異世界の空間から、姉妹が現実世界に帰還したのだと分か
る。
このような二つのシーンにおいては「行きて帰りし物語」の構造が用いられていること
が明らかだが、他のトトロとの交流シーンは、トトロがバス停に現れたり(図 17)、庭に現
れたり(図 18)と、トトロが姉妹の隣人のように描かれている。境界線を踏み越えたり特別
な通路を経由したりせず現実世界に現れる表現を用いることで、トトロが異形のものであ
りながらも「実際に我々の住む世界にも存在するかもしれない」という世界観を観客に与
える。そのような世界観に感化されて、自分の日常を振り返ったとき、子どもならば、現
実にトトロがいるかもしれないと思うだろう。
基本的な構造が変わっていくと、物語の表す世界観も同時に変化する。従来の「行きて
帰りし物語」では、登場人物の成長が主題とされ、異世界へ行くことそのものが一種の通
過儀礼として描かれる。行き帰りする世界の違いを端的に描き分ける方が、作品の主題を
明確に表すことができる。そのために、人間界と魔法界といったような、全く性質の異な
る 2 つの世界が用いられることが多いのだろう。そうすると、物語は自ずと現実離れした
ものになり、観客に生活世界から切り離された作品だと感じさせる。
『となりのトトロ』に
おいては、
「登場人物が異世界へ行って再び帰ってくる」という決まりきった構造に、
「両
方の世界の住人が互いの世界を行き来する」という変更を加えている。通過儀礼の表現に
焦点を当てず、別の世界に住む者同士の交流を中心に構成しているため、現実世界と異世
界の重なり合う面が、観客の印象に強く残る。現実世界と異世界との境界が曖昧になり、
自分も異形のものに出会えるかもしれないと感じる者もいるだろう。
『となりのトトロ』
の、
現実世界と異世界が重なる構造は、観客に、身近に感じられる「本当らしさ」を感じさせ
るのである。
観客に「本当らしさ」を感じさせる演出は、物語の構造のみでなく、構造に肉付けされ
るモチーフにも含まれる。ここでの「モチーフ」とは、構造に具体性を持たす、物語の中
での出来事や、人物の行為の描写である。モチーフにも「本当らしさ」の演出が加えられ
て、初めて、観客に「自分の身にも起こりうる」と感じさせる世界観を作り出せる。
『とな
りのトトロ』においても、例えば、サツキやメイの感情の表現や、トトロとの出会い方が
25
異なれば、
「本当らしさ」を感じられず、現実離れした作品だと受け止められるだろう。観
客が「本当らしい」と感じる根源には、自分自身の経験を作品の中に見つけることにある。
第Ⅱ章からは、
『となりのトトロ』で、どのようなモチーフにより「本当らしさ」が演出さ
れているのかを見ていくことにする。
26
第Ⅱ章 物語を具体化するモチーフ
第1節 モチーフ
物語の骨組みとなる構造は、もちろん重要な要素である。しかし、観客の印象に残るの
は、登場人物同士の心の関わりなどの、具体的な出来事だろう。ここでは、構造に具体性
を加える人物の行為や出来事を「モチーフ」と呼ぶことにする。第Ⅰ章第 2 節で述べた、
「行きて帰りし物語」の構造を肉付けするモチーフとして、
「引っ越し」を取り上げる。
『となりのトトロ』で冒頭に引っ越しのシーンが用いられる理由は、観客に、後に物語
の中で描かれる異世界へ行く姉妹の体験を予告するためである。
「行きて帰りし物語」の体
験を、
「引っ越し」のモチーフを用いて描き、誰もが経験しうる「本当らしさ」に繋げてい
る。引っ越しにおける異世界とは、都会から見た引っ越し先の田舎である。元々都会で生
活していた姉妹にとって、田舎は見知らぬ場所である。
「行きて帰りし物語」と似た構造を
持つが、物語の中で再び都会へ帰る描写はない。その点では、
「行きて帰りし物語」とは異
なる構造である。第Ⅰ章第 2 節で述べたように、α→βの都会から田舎の関係は、
「行き
て帰りし物語」における A→B の外側に存在し、人物や観客に意識される出来事である。
βの中での A→B を観客に予告するという関係性がある。
『となりのトトロ』における引っ越しは、ある世界から、別の世界へ行く行為であるた
め、
「行きて帰りし物語」の一端を担っている。姉妹がαからβへ行く際に、姉妹の日常そ
のものがβへ移動した。そして、βの中で 2 つの世界を行き来する物語が展開される。
田舎に引っ越した後の姉妹の行動は、基本的には「行きて帰りし物語」の構造に従って
いる。姉妹自身が日常世界とトトロが暮らす異世界を行き来したり、逆にトトロが姉妹の
元へやってきたり、いつの間にかどこかへ帰ったりしている。物語が進んでいくと、その
ような行き帰りが頻繁に行われるのだが、
『ハリー・ポッターと賢者の石』のように幻想的
な方法で行き来する描写が出てきたのでは、観客はやはり全くの作り話だと感じてしまう
だろう。そこで、まずは異世界へ向かう嬉しさや期待、不安を観客にとって受け入れやす
い形に置き換えるために、宮崎は引っ越しの描写を用いたのである。39 引っ越しは、新し
い環境への期待感を抱かせるものである。
『となりのトトロ』冒頭の引っ越しのシーンは、
期待感や楽しさを前面に出して描かれている。家具が積まれた荷台に乗った姉妹は、持っ
てきたキャラメルを食べ、助手席の窓に手を伸ばして父親にキャラメルを1粒手渡す。前
27
に見える、自転車に乗った郵便局員を警察官と勘違いし、家具の隙間に身をひそめる。横
を通り過ぎて郵便局員だったと分かると、顔を出して「おーい」と手を振り呼びかける。
そうすると向こうも同じように手を振って応えてくれる。新居に到着すると、家の中を探
検するように見て周ったり、周辺の自然豊かな環境に感動したりする。姉妹にとって引っ
越しは、小さな冒険なのだ。このシーンの描写自体も、姉妹のやり取りがテンポよく描か
れ、観客を惹きつける楽しさがある。この期待感や心躍る楽しさが、トトロとの出会いに
繋がる。環境が変わって、新しい世界へ足を踏み入れる描写が、トトロの世界へ行くこと
の予告となっているのだ。
また、子どもにとって引っ越しは、不安や期待を伴うものでもある。宮崎駿作品の『千
と千尋の神隠し』では、物語冒頭の引っ越しのシーンで、千尋の不満や不安が色濃く描か
れている。40 また、
『となりのトトロ』での引っ越しの理由は、母親の入院する病院の近く
で生活するためであった。冒頭の引っ越しのシーンでは、新しい環境に心を躍らせる様子
しか描写されていないが、その後の展開で不安を持っていたことが観客に明かされる。母
親の病状が変わったことを知らせる電報が来たときに、サツキの抱えていた不安が一度に
表に出てくる。母親の近くで生活を送ることに嬉しさを感じる一方で、常に母親の病気へ
の不安を感じていたのである。
また、
小学生の姉と幼稚園へ上がる前の年齢の妹であれば、
引っ越しに対する不安な気持ちを持つのは当然である。サツキは、引っ越しで学校も変わ
り、
新しいクラスメイトに馴染まなければならない。
メイは学校へは通っていないために、
新しい集団に飛び入る必要はないが、家族以外に遊び相手はいない。家主の家に預けられ
たときには不安でぐずり、サツキの学校までやって来てしまう。全く新しい環境下に置か
れた姉妹にとっては、異世界へ放り出されるのと同じ気持ちを味わうのだ。その一方で、
大人の場合は、必ずしも引っ越しが異世界へ行く程の不安を抱かせるとは限らない。
『とな
りのトトロ』では父親の職場は変わらず、姉妹と比較すると、引っ越し前の日常としっか
りと繋がっていると言える。
このようなことは、
我々の暮らす現実世界にも当てはまる。
大人にとっての引っ越しは、
近所付き合いこそあるものの、自分達の都合に合わせて土地を選び、家を選ぶのだから、
引っ越し先の環境などはある程度知っている。一方、子どもにとって引っ越しは、
『となり
のトトロ』の描写にうかがえるように、周りの環境が何も分からないまま新しい地に赴く
ことである。一切の友人と離れ、学校も変わり、そこで一から自分の力で人間関係を作っ
ていかなければならない。新しい友達はできるか、転校生だからという理由で馴染めずに
28
いじめられるのではないか、という不安要素も大きいだろう。それらを踏まえると、引っ
越しは、多くの子どもにとって現実世界で「異世界」へ行く経験だと言える。
引っ越しというモチーフは、多くの子どもや、かつて子どもだった大人にとって、異世
界へ向かう気持を「本当らしく」感じさせてくれるための表現である。引っ越しは、日常
の延長にある出来事だが、普段とは異なる生活環境へ赴くという点では、日常から外れた
出来事だとも言える。慣れ親しんだ街や学校から離れ、何も知らないまま新しい環境へ放
り込まれて生活していくことは、守ってくれる存在から離れることを観客に感じ取らせる
のだ。大人は、このような子どもの頃の気持ちを忘れているかもしれないが、かつては経
験したことがあるだろう。
引っ越しの描写は、
子どもの頃の高揚や不安を思い起こさせる。
子どもにとっては、自分の身近な体験と重ね合わせられる。引っ越しのモチーフで、異世
界へ行く気持ちを思い起こした観客は、トトロとの出会いも現実にあり得るように感じる
だろう。
また、映画に使用されるモチーフの 1 つとして、物語の世界観を視覚的に観客に伝える
ものを挙げたい。
『となりのトトロ』の引っ越しのシーンでは、周りが山に囲まれ、田圃や
畑が広がる風景が描かれる。道路もコンクリートで舗装されておらず、信号も横断歩道も
ない細い一本道を、姉妹を乗せたオート三輪が走っている。学生帽をかぶり下駄を履いた
白いランニング姿のカンタが、家畜の世話を手伝っている姿が見える。このような背景や
小道具、キャラクター設定は、作品のトーン 41 を視覚的に観客に伝える役割を担う。観客
は、山に囲まれた田圃や土道から、その場所は「田舎」だと認識し、少年の服装や車の形
状からは「現代から極端に遠く離れてはいない昔」が舞台なのだと理解するだろう。
次に、時間的な流れで、観客に物語の展開を気付かせるモチーフも存在する。物語では、
必然性が描かれる。必然性がなければ物語を組み立てる個々のエピソードを、連続性を持
って繋げられないからだ。例えば、
『となりのトトロ』では、団栗が挙げられる。団栗は、
自然に溢れた環境も示唆するかもしれないが、ここでは「トトロの存在」を示す小道具と
して使用されている。
『となりのトトロ』で「団栗」は、物語の冒頭から、異形のものの存在を知らせるモチ
ーフとして頻繁に登場する。姉妹が初めて新しい家に上がり込もうとしたとき、部屋の畳
の上に団栗が落ちているのに気が付く。サツキがそれを手に取ると、次は何もないはずの
天井から団栗が落ちてくる。2 階に上がる階段を見つけたとき、暗闇となった階段の上か
ら、1 つの団栗が落ちてくる。何もないはずの場所から、家に自然に落ちていることの無
29
い団栗が落ちてくる描写は、観客に、潜んでいるものの気配を感じさせる。
また、団栗が落ちてきた階段の上の部屋で、メイはマックロクロスケを目撃する。
次に、メイが小トトロと中トトロに遭遇する場面でも、やはり団栗が引き金となってい
る。庭で遊ぶメイは団栗を見つけ、その団栗を拾っていくうちに小トトロを発見する。追
いかけているうちに中トトロにも出会う。メイから逃げる中トトロの担いだ袋から、大漁
の団栗が溢れていく。追いかけているうちに、木の穴に落ちてしまってついにトトロと対
面する。団栗を追ったことをきっかけにして、トトロと出会うことになる。
さらに、雨の日にバス停で、姉妹はトトロに傘を貸した礼として、トトロから直接団栗
の包みをもらう。ここで団栗をもらったことをきっかけにして、姉妹とトトロとの距離は
一気に縮まることとなる。初めは異形のものの存在を予感させる道具として描かれていた
が、その道具が姉妹とトトロとの距離を近づける道具として描かれ、次には交流するきっ
かけとして描かれる。このように、1 つのモチーフの団栗が、3 つの役割を果たしながら、
両者の関係が深まる物語へと展開させる。
このような、連続して描かれるモチーフは、出来事の因果関係を表すと同時に、人と人
との繋がりも表している。我々の生活でも、しばしば 1 つの物が繋がりを持っていると実
感する出来事がある。例えば、友人にプレゼントを渡し、数日後にそれを身に着けていた
り使用したりしている様子を見ると、友人と自分との間に親密な関係があると再確認でき
る。
『となりのトトロ』では、
「傘」が繋がりを表す道具として描かれている。同級生のカ
ンタは、サツキが引っ越してきたその日に顔見知りになる。サツキの家をお化け屋敷とか
らかったり、顔を合わせば舌を出したりと、仲が良いというような描写はない。だが、サ
ツキとメイが雨の日に雨宿りをしていると、カンタが自分の傘を貸してくれる。その日の
午後に、サツキはメイを連れてカンタの家へ傘を返しに行き、カンタの母親に「メイもい
たから助かったの」と礼を言う。別の部屋からその様子を見ていたカンタは、サツキが自
分の家へ来たことを喜ぶ。この傘のシーンを境に、サツキとカンタの距離は縮まっていく
のである。その後に、サツキが雨の日のバス停で会ったトトロに傘を貸すシーンもある。
ここでも、傘が両者の距離を縮める役割を持つ。傘のモチーフも、引っ越しと同様に、異
世界との関わりを描く前に、現実世界で同じような行動を描いている。そうすることで、
観客に納得できる形でトトロとの交流を描けるのである。トトロとの傘のシーンは、第Ⅳ
章第 1 節で詳しく述べる。
1 つの物語の中に、場面と場面に繋がりを持たすモチーフを描くことで、作り物の世界
30
であっても、日常の世界のように感じられる。映画の中に日常との共通点を見つけること
で、自分の身近に感じられるような「本当らしい」世界の実感に繋がるだろう。
31
第2節 過程
宮崎が「本当らしさ」を表現するため、頻繁に使用する独自のモチーフとして、
「過程」
の表現がある。過程とは、例えば、
『紅の豚』ではポルコやマンマユート団が乗る飛行艇の
製造や修理の描写がある。
『魔女の宅急便』42 ではキキが自分の箒を手作りしたり、トンボ
がプロペラ付き自転車を制作したりする描写もある。
『となりのトトロ』で言うと、食事のシーンでは、人物が食べる描写はもちろん料理す
る描写が見られる。朝食を食べる場面では、食卓を囲むカットの前に、サツキが台所に立
ち、野菜を切ったり味噌汁を作ったりするカットが挿入される (図 19)。
「今日から学校に
お弁当を持って行かないといけない」
と言い、
弁当を包む場面も描かれている。
『中華一番!』
43
や『クッキングパパ』44 など、料理がテーマとなっている作品は例外であるが、多くの
アニメーション作品において食事のシーンはあまり見られない。ましてや料理をするシー
ンなどは省かれていることがほとんどだ。
このように、宮崎アニメでは、乗り物や食べ物がすっかりと完成した形で当たり前のよ
うに作中に登場することはなく、どのように作られたかという過程を作品の中で目にする
ことができる。
アニメーション映画の中に過程を描くことは、観客の生活に密接した「本当らしさ」の
認識に繋がる。なぜなら、現実の世界に存在するあらゆるものは、人間の手が加えられた
ものであるということを我々は知っているからだ。移動手段として日常生活とは切り離せ
ない車や電車も、人の手以外からは絶対に生み出されない。多くの工程が機械を使って進
められるが、その機械を作るのはもちろん人間である。
このような製作の過程を、我々は何らかの形で必ず目にしているはずだ。例えば子ども
たちは、小学校の校外学習での工場見学や、図書館の本、テレビでの特集などにより、製
作の過程に触れるだろう。料理で言えば、台所に立つ親の姿を子どもは必ず見ているだろ
う。また、レストランの厨房や学校での調理実習など、料理を作る姿を見たり実際に作っ
たりする経験は誰もが持っている。このような経験は、あらゆるものに人の手が加わる過
程が存在することを我々にしっかりと認識させている。もちろん、創造の過程が描かれな
くてもアニメーション映画を見ている側は違和感を抱かない。だが、過程を描く方が、観
客はアニメーション映画の世界に自分の経験を重ね合わせることができるため、より「本
当らしさ」を感じられるようになるのだ。
32
また、このような過程の表現は目に見えるものだけでなく、登場人物の行為の心理上の
理由付けにも見られる。
『魔女の宅急便』のキキは、他のアニメーションに登場するような
万能な魔法の力を持つわけではない。魔女の家系として生まれたために空を飛べるという
位置付けで、作品の中では飽くまで「特技」の1つとして扱われている。
一方、魔法少女が主人公の従来のアニメーションでは、困難を魔法そのもので解決し、
乗り越えるというストーリーが大半を占めていた。
『ひみつのアッコちゃん』45 や『魔女っ
子メグちゃん』46 では、万能な魔法の力で周囲の問題を解決していくことが物語の見せ場
となっている。それらとは対照的に『魔女の宅急便』では、自分自身に訪れた困難を決し
て魔法の力に頼って解決することはない。そもそも、アイデンティティの喪失という壁が
立ちはだかると共に、キキの魔法の力も封印されてしまう。そのため、キキには、魔法と
いう特別な力に頼らない精神的自立が求められるのだ。47 精神的自立をしなければならな
いキキの物語は、観る者側の問題として受け止められる。精神的自立という、誰もが経験
する問題を取り上げることで、観客は映画での出来事に自分を重ね合わせるのだ。少年少
女は、いずれは親元を離れて自分の力で生活していく必要がある。少女が単身で故郷を離
れ、都会で働きながら生活する物語は、そのまま自分自身の物語として受け止め、共感で
きるのだろう。
『魔女の宅急便』
では、
精神的自立に関わる成長の過程が描かれているのだ。
『となりのトトロ』に話を戻せば、サツキがまだ小学生にもかかわらず、妹の面倒をよ
く見て、料理などの家事も当たり前のようにこなす背景には、母親の入院がある。母親に
代わって家庭を支える役目を負う背景の描写は、観客に「本当らしい」と感じさせる。
物語の終盤で、メイが母親にトウモロコシを届けに行こうとする行動にも、それ以前の
シーンで根拠が示されている。まず、畑に野菜を取りに行ったメイは、自分の手でトウモ
ロコシをもぎ取る。太陽を沢山浴びているから、ここの野菜は身体にいいのだと言うカン
タの祖母に、サツキは母親の病気にもいいのかと問う。もちろんという返事に、母親の仮
退院の話題になる。メイは、
「メイがとったトウモコロシ、お母さんにあげるの」と、トウ
モロコシを大事そうに抱えている。そこへカンタが、郵便局員から預かった電報を届けに
来る。サツキが父親に電話をすると、母親の仮退院が延期になったと分かる。駄々をこね
るメイをサツキが叱り、喧嘩になってしまう。家へ帰っても、2 人が口をきくことはなく、
互いに別の部屋で寝そべっていた。カンタの祖母が家事を手伝いに来ると、サツキは堪え
ていた不安が溢れ、号泣してしまう。それを見たメイは、
「これはただ事ではない」と思い、
「お母さんの病院へ、自分が取ったトウモロコシを届けて、元気になってもらおう」と考
33
えたのだろう。トウモロコシを手に 1 人で病院へ向かって迷子になってしまう。メイがこ
の行動に至ったのも、畑の野菜は母親の身体にもいいという会話があったからだ。このよ
うな心の過程を描くのが、宮崎アニメの「本当らしさ」の演出である。
人の行動はすべてが明確な理由によってなされるものではないが、きっかけの存在なく
して行動に移すことはない。伸びをするのは同じ姿勢で疲れた時や目を覚まそうとするた
めであるし、溜息をつくのは嫌なことを思い出したり疲れているからつい出てしまったり
と、どのような行動にもきっかけがある。
このような過程の表現について、宮崎は次のように述べている。
機械を動かす人は一人でも、動かすまでに設計者や整備士など何人もの人がいるはず。
そういうところまで描いてこそ〝虚構〟の世界であっても〝本物〟であり、それを描か
ないような作品は、私はイヤだ。48
宮崎は、
アニメーション映画に登場するあらゆるものは、
現実に存在するものと同様に、
完成に至った理由や人の手が加えられる過程が描かれるべきだと考える。完成品が何の苦
労もなくそこに現れるような描写では、観客が納得する「本当らしさ」は得られないとい
うのである。あるものを登場させるならば、それらが形あるものに仕上がる過程までもを
描くことが、アニメーション映画という虚構の中で「本当らしさ」を作り出す宮崎の演出
なのだ。
食事や料理、人の心の動きの過程は、我々の日常に密接したモチーフである。過程の表
現を含んだ日常の描写は、通例、実写映画やアニメーション映画において、大きな事件が
起こる前日談か、その事件が解決した後日談として僅かな時間が割かれる程度のものにす
ぎない。しかし、宮崎アニメはそうではない。
『未来少年コナン』49 では最終回の 1 話を使
って、登場人物が日常を暮らす様子が描かれている。50『となりのトトロ』に関しても、
トトロやマックロクロスケに出会う場面以外は、姉妹の日常生活を描いており、特異な事
件は起きない。終盤のメイの迷子のミニマル・ストーリーは大きな事件であるとも言える
が、小さい子どもが迷子になって姉や大人が探す行動は、我々も経験しうるような出来事
である。
日常を描くことは、アニメーション映画に対する「現実離れした世界を描くもの」とい
う概念をぬぐい去り、アニメーション映画と現実との繋がりを感じさせ、
「本当らしさ」の
34
印象を抱かせる働きをする。
ただし、人がアニメーション映画を見たいと感じるのは、そこに現実からは離れた表現
が存在するからではないか。アニメーションは現実には起こらない出来事や、実写では再
現できない人物の動き、カメラワークなども表現できる。その自由な表現こそが、カメラ
に写る全てを人の手から創造できるアニメーションの魅力である。
ここで考えたいのは、人が求める非現実は、必ずしも現実世界と全くの異次元にあるも
のとは限らないということだ。むしろ、現実世界の中の非現実を描いた作品の方が、
「もし
かすると自分にも起こりうるかもしれない」と思わせ、高揚感や期待を抱かせるのではな
いだろうか。
『となりのトトロ』でも、日常の描写の中、トトロやマックロクロスケなど非
日常のものが出てくる。
『天空の城ラピュタ』51 でも、炭鉱で働くパズーの元に少女が空か
ら降ってくるというように、日常の中に非日常が描かれている。
日常に密接する過程を、ファンタジーの世界に取り入れることは、日常の中に非日常を
求める観客の欲求に応えている。非日常を描くからといって、日常を感じさせるモチーフ
を省く必要はない。むしろ、そのようなモチーフを描く方が、自分の日常に近いと感じさ
せる「本当らしさ」の感覚に繋がり、作品を観客の興味を惹きつけるものとするのである。
35
第3節 飛翔
「過程」と共に、宮崎アニメによく現れる特有のモチーフとして、
「飛翔」が挙げられる。
飛翔のモチーフは、
『となりのトトロ』以外の宮崎アニメにも頻繁に使用されており、物語
の山場を作ったり、観客を楽しませたりする働きをしている。
宮崎アニメにおける飛翔の表現に対する考察の多くが、
「自分 1 人でも生きていけるこ
とへの憧れを示す」とするフロイトの夢判断 52 を踏まえて、解放の表現だと位置付けられ
ることが多い。例えば、切通理作は次のように述べる。
[飛ぶ]夢とは性欲の象徴でもあるが、あらゆる圧迫から自由になり、自分一人で生きて
いけることへの憧れを示す……ともフロイトの夢判断は言っている。
『天空の城ラピュタ』
前半に描かれた飛行石による飛翔は、主人公たちが追いつめられた落下の瞬間にまさに
起きた。53
『となりのトトロ』で描かれている飛翔シーンは 2 つある。庭で独楽に乗ったトトロと
共に姉妹が飛ぶシーンと、サツキがネコバスに乗ってメイを探すシーンである。これら 2
つのシーンの前には、確かに姉妹の不安な心情が描かれている場面もある。その点では、
不安からの解放という役割で、飛翔を意味づけることもできるかもしれない。しかし、そ
れら不安の場面は、飛翔シーンの直前にあるわけではなく、直接に結び付けられてはいな
い。むしろ、姉妹の不安は飛翔シーンより以前にすでに解消されているのだ。
まず、トトロの独楽での飛翔の前には、サツキが学校へ行き父親が仕事へ行くため、メ
イがカンタの祖母に預けられる場面がある。メイは始めこそ大人しく遊んでいたが、昼過
ぎになると「お姉ちゃんのところへ行く」ときかなくなり、祖母と一緒にサツキの学校へ
来る。サツキが教室からメイたちの姿を見つけて校庭へ駆け付けると、メイは涙を流して
地面を睨んだままサツキに抱きつく。この場面から、家族がおらず不安になったメイの気
持ちが明確に見てとれる。ただし、その後は、サツキに会い、同じ教室で隣に座り一緒に
授業を受けることで、メイの不安な気持ちはすっかりと払拭されている。
続いて、
その放課後に雨が降り、
傘を持って父親をバス停まで迎えに行くシーンがある。
しかし、父親が乗っていると思ったバスにその姿はなく、雨の中、姉妹 2 人きりで長い時
間父親を待つことになる。ここでも、雨足が強まる暗い中でいつ帰ってくるか分からない
36
父親を待つという、姉妹にとっての不安が描かれている。だが、父親はきちんと帰ってく
る。そして、帰り道に父親の腕にぶら下がりながら家に向かうことで、それまでの不安な
気持ちが安堵の気持ちに変わる。2 つの不安は飛翔シーンに至る前に、その場で解消して
いるのだ。
ネコバスで迷子のメイを探しに行くシーンも同じである。妹が迷子になってしまい、池
から妹の履いていたものとよく似たサンダルが見つかり、サツキの不安は煽られる。日も
暮れてきているのにメイは一向に見つからない。追い詰められたサツキは藁にもすがる思
いでトトロの元へ行き、トトロがネコバスを呼び寄せてサツキをメイのいる場所へ辿り着
かせる。妹がいないという不安を、ネコバスに乗って風のように村を駆け抜ける描写によ
って、解放させているとも取れる。しかし、実際にメイを見つけるまでは、サツキの心に
はメイの無事を心配する気持ちがあったはずだ。ネコバスでの飛翔がサツキの不安の解放
の表現とはなっていない。不安のシーンの後にスピード感を伴う飛翔を用いることは、確
かに姉妹の心にあった不安な気持ちを払拭させて、見ている側にも解放感を感じさせる効
果があるだろう。だが、飛翔シーンと姉妹の不安の解消のシーンは、必ずしも一致しない
のである。飛翔のモチーフが登場しただけでは、フロイトの言うような解放の表現には直
結しない。宮崎自身の考えや、飛翔シーンの前後のシーンとの繋がりを見た上で、モチー
フの意味を捉える必要がある。
宮崎は作品の中で飛翔を描くことに関して、
「自分でもよくわからないが、心理学の領域
だろう。それによると人は他人の経験は絶対にできないので、自分のできないことを夢の
中で実現するという。飛行機を描いたり、飛行機から主人公を見る視点もそれと同じで、
もっと他のことができたらいいのにという僕の願望なのではないか。
」54 と述べている。こ
の発言での「心理学」とは、フロイトの夢判断の飛翔のモチーフに答を求めているのでは
なく、
「なぜ自分がアニメーションの中で頻繁に飛翔を描くのか」という問いかけの意味合
いで用いている。
その答として宮崎は、
飛翔は自分の願望ではないかと発言しているのだ。
この発言から飛翔は、登場人物の解放の表現のためのモチーフというよりも、宮崎自身の
憧れを具象化したものとしてアニメーションの中に用いられていることが分かる。
宮崎は、航空機に関わる仕事をしている一家に生まれ、幼い頃から空を飛ぶことが身近
に感じられていた。
『紅の豚』の作中に、子どもの頃の絵を元にした飛行挺を描いている点
55、愛読書として多くの飛行士の話を挙げている点 56 からも分かるように、飛翔の描写に
は宮崎の個人的な思いが含まれている。
37
また、解放感の表現は、飛翔以外にも多く存在する。例えば、
『百万円と苦虫女』57 では
旅が用いられており、
『リトル・ダンサー』58 ではダンス、
『奇跡のシンフォニー』59 や『リ
リイ・シュシュのすべて』60 などでは音楽が用いられている。
『となりのトトロ』でも森を
散策するシーンや歌を歌ったり踊ったりするシーンを入れてもよかったはずだ。それらの
表現を選ばなかった理由は、宮崎自身の願望が作品に投影されているからだろう。
また、物語の展開を踏まえれば、
『となりのトトロ』における飛翔シーンの描写は、不安
の解放よりも、トトロと姉妹の距離感を示すものである。庭での飛翔シーンより以前のト
トロと姉妹の接触の仕方は、初めは一方的である。逃げる小トトロをメイが追いかけ、穴
に落ちてトトロの家に入ったとき、メイの方はトトロに関心があるが、トトロは、初めは
メイがいることに驚くが、やがて気にせず昼寝を続ける。次にトトロに出会うのはバス停
のシーンである。サツキがトトロに傘を渡して、使い方を教え、一緒にバスを待つ。その
礼としてトトロは、去り際に木の実の包みを姉妹に渡す。ここではメイが単独でトトロに
会ったシーンとは異なり、意志の疎通する様子が描かれている。傘を貸して、礼を渡すと
いうやり取りがなされているのだ。
そして次に、庭での飛翔シーンがある。ここでは、それまでの 2 回のトトロとの接触と
は違い、一緒に取り組む描写がされている。夜中に庭で芽を出そうと花壇の周りを行進す
るトトロに気付いた姉妹は、部屋を飛び出してトトロに倣った動きをする。そうすると土
から木の芽が顔を出し、瞬く間に成長して巨大なクスノキのようになる。トトロと共に木
を成長させる行動には、トトロと姉妹に初めて一緒に取り組む姿勢が見られる。次にトト
ロは独楽を取り出し、勢いをつけて回す。飛び跳ねて独楽の上に乗ると、小トトロと中ト
トロが腹に跳びつく。それを見たメイは、一目散に 2 匹に倣ってトトロの腹に跳びつくの
である。サツキが自分もメイのように跳びつこうか迷っていると、トトロはサツキの方に
向きを変え、サツキが自分に跳びつくのを待っているのである。サツキが自分の腹に掴ま
ったことを確認してから、トトロはようやく空に向かって上昇を始め、大空を自由に飛び
回るのだ。トトロに誘われ、サツキも参加するという共感が成立しているのである。この
ように、
両者の距離が縮まったことを表現するために、
この飛翔シーンは用いられている。
次のネコバスでの飛翔シーンは、実際にトトロがサツキに着いてネコバスに乗り、一緒
にメイの元へ行くのではない。その為に、ここでは庭での飛翔シーンのように共に取り組
むのではなく、サツキのためにしてあげるという一方的な行動と取れるかもしれない。だ
が、ネコバスをサツキの問題を解決するために呼ぶ行為は、その前の、一緒に行動をして
38
心を通い合わせる飛翔シーンがなければ描けない。
バス停のシーンのような、人と物をやり取りする行為は、我々の日常生活において、そ
れ程互いの距離が縮まっていなくとも頻繁に見られる。例えば、引っ越しの挨拶として隣
近所に住む人に粗品を渡したり、顔見知り程度の人であっても、雨が降り傘を持っておら
ず困っているようであれば、予備の折り畳み傘を貸したり、自分の傘に入れてあげたりも
する。しかし、初対面や、まだ関係が浅い人に、自分の友人をわざわざ呼び出してまでは
問題を解決してあげようという気にはならないだろう。信頼関係や友情がしっかりと築け
ているのであれば、それが可能となる。トトロがネコバスを呼び出してサツキに協力した
のも、それまでに姉妹との関係が深いものとなっていたからだろう。また、それまでトト
ロと別れるときは姉妹が知らない間に眠ってしまい、いつの間にかトトロがいなくなる描
写がなされていたが、ここでは異なる。ネコバスに乗るサツキにトトロが手を振っている
描写がある。これは、トトロがサツキを自分の身近な存在だと認識している表れである。
ネコバスがサツキを乗せてメイの元へ案内してくれたのも、サツキがトトロに認められた
人物だからだろう。トトロの助けを借りてネコバスと一緒に町を駆け抜けたり飛翔したり
する描写は、サツキとトトロの関係が深いからだと捉えられる。以上のような点からも分
かるように、宮崎は、
『となりのトトロ』の物語の中では、飛翔シーンをトトロと姉妹の距
離の表現のために描いた。
また、宮崎の描く飛翔は、必ず道具を用いると共に重力の働く様子が描かれている。何
の抵抗もなく、無条件に空を突き抜けるところまで高く飛翔させるような表現は用いられ
ていない。
『となりのトトロ』では独楽(図 20)、
『魔女の宅急便』では箒やデッキブラシ、
プロペラ付きの自転車が、飛翔の道具として描かれている(図 21)。
『となりのトトロ』で
は、トトロは架空の生き物であるため、魔法のような力を持たせ、道具がなくても自由に
空を飛べるような設定を作ってもよかったはずである。それにもかかわらず、なぜ独楽に
乗って飛翔させたのかというと、人が実際に飛翔するのには道具が欠かせないからだ。ま
た、トトロの独楽は、トトロが取り出した時点では飛翔する様子はないが、回すと途端に
宙に浮くようになる。我々が飛翔の道具として思い浮かべるものは、プロペラなどといっ
た回転を伴うものだろう。そのために、独楽に回転を加えることで、より飛翔の道具とし
てのイメージが生まれるのである。
第Ⅱ章では『となりのトトロ』において、構造に肉付けされるモチーフによって生み出
される「本当らしさ」を見てきた。
「引越し」や「過程」のように、要素そのものが「本当
39
らしさ」の表現になっているものと、
「飛翔」のようにファンタジーでありながらも現実世
界のイメージを取り入れて「本当らしさ」を感じさせるものがある。これらの要素を観客
にとって「本当らしく」描くには、事物の内容だけではなく、絵そのものの描き方や動か
し方にも「本当らしさ」の追及が不可欠となる。なぜならば、アニメーション映画は目で
見て楽しむものであるからだ。いくら構造や、個々のモチーフに「本当らしさ」が含まれ
ていても、それらが目に見える形でスクリーン上に表現されていなければ、観客の「本当
らしさ」の認識には繋がらない。
宮崎は、アニメーション映画制作の上で、絵に演技をさせることを重視している。例え
ば、
『崖の上のポニョ』61 の制作現場では、ポニョが波に乗って地上にやってくる際の波の
描き方や、ポニョが宗助に抱きついたときのスカートの膨らみ方などにもこだわり、アニ
メーターに何度も絵の描き直しを求めている。62
次章では、
『となりのトトロ』
の中で、
どのような絵の描き方や動かし方をしているのか、
具体的に見ていくことにする。
40
第Ⅲ章 アニメーション表現としての絵
第1節 人物の演技
アニメーション映画では、
モチーフをどうやってアニメーション特有の絵として表現し、
動かしていくかという点が重要となる。この絵の表現においても、多くの宮崎の独創性が
反映されている。
登場人物の感情の表現に注目すると、従来のアニメーション作品では、静止画やデフォ
ルメされた表現が頻繁に使用されている。かつて、アニメーション映画では、絵を動かす
ことよりも、1 枚の絵で仕草や表情を表現する技術が欲求されていた。1663 年にテレビア
ニメの放送が始まり、アニメーション制作の主流たる場を映画から奪うと、週単位という
あまりにも短い制作期間で作品を仕上げなければならなくなった。そのためには、必然的
に作画枚数を減らさなければならない。作品を安く早く仕上げるためには、手抜きをする
ことが避けられなかった。そうして作られたアニメーション作品は間引きアニメと呼ばれ
る。この間引きアニメには 2 つの特徴がある。1 つは、台詞を言う顔の絵は 1 枚で、細か
な動きは加えずに口だけをパクパクと動かすというものだ。台詞が長いときは、瞬きや、
眉を上げ下げさせる動きを入れることもある。2 つ目には、同じ動きの原画を繰り返し使
用する手法がある。63
例えば、人の歩く動作は、本来は移動するにつれて位置が変わるのだから、大きさや向
き、影などが絶え間なく変化する。だが、間引きアニメは、この動作の絵をロボットのよ
うな同じ動きの繰り返しに単純化してしまうのである。後は背景をその動きに合わせて移
動させると、それだけで歩くアニメーションが完成する。
多いときには週 40 本のテレビアニメが放送されていたために、人手も不足していた。
このような制作の事情から、なるべく少ない絵の枚数で仕草や表情を表現する技術が必要
とされたのである。映画のフィルムは、1 秒 24 コマで構成されているが、人間の目はその
半分のコマ数でも動きを滑らかに認識するために、同じ絵が 2 コマずつ撮影されている。
しかしながら、多くのアニメーションでは作画に費やす時間や経費を削減するために、3
コマずつ 8 枚の絵によって、さらにはそれ以下のセル画枚数で構成するようになった。そ
のため、登場人物の体の動きは乏しく、印刷された絵と大差がない。その事情は現代でも
変わらず、多くの作品で静止画やデフォルメが使用されている。
41
例えば、テレビアニメ『みなみけ』64 を挙げてみる。
『みなみけ』では、三人姉妹やその
友人が、
三人姉妹の家のリビングでこたつを囲んで話をするシーンが頻繁に描かれている。
物話の中で大きな事件が起こるわけではなく、登場人物の日常で起こった小さな出来事が
語られる。このような物語のモチーフにはリアリティがあるが、絵の動きに関しては、現
実を彷彿とさせるような表現は見られない。会話中の人物の動きを見てみると、人物の顔
や体そのものの動きは全く描写されていない。2 種類の口の形を交互に写し出し、話をし
ている口の動きが表現されている。口を動かすだけでも、台詞を重ねると絵が言葉を発し
ているように見える。口の 1 ヶ所だけを動かせばいいので、人物の体や顔を描いたセル画
には手を加える必要がない。その結果、少ない枚数のセル画でアニメーションを完成させ
ることが可能となる。
そのようなアニメーション作品の制作が多く見られる中で、
『となりのトトロ』では作成
に多くのセル画が用いられた。86 分 20 秒 14 コマの上映時間で、作画枚数が 48,743 枚で
あるから、1 秒間あたり約 9.5 枚のセル画で構成されていることになる。65
このように、作画枚数の密度が上がることによって、登場人物の細かな動きの表現も可
能となる。その結果、より実写に近い「本当らしい」映像が生み出せるのだ。
登場人物が会話をする場面も、上記で挙げた従来のアニメーション作品の表現とは異な
る。口の形だけでなく、目や眉、髪の毛にも細かな変化が表現され、人物の感情を表情か
ら読み取ることができる。泣き顔のシーンでも、ただ目からこぼれ落ちる涙を描くだけで
はなく、顔の筋肉の動きや、しわも描写されている(図 22)。我々が泣くときは、自然と目
が細くなり頬の筋肉が上にあがり、口元が歪んでしわも作られる。1 つの表情や仕草を描
くのにも、
「本当らしい」絵を表現するためには、多くの複雑な変化や動きが必要なのだ。
作画枚数を増やすことで人物の動きを細かく再現する作品として、ディズニー映画が挙
げられる。ディズニーは、自然らしい生き物の動きを描くために、ロトスコープという方
法を用いた。ロトスコープとは、まず人間や動物の動きを実写撮影し、次にそのフィルム
を 1 コマずつの写真に分けて 1 秒の動きを分解する。そして、分解したものを基本にして
1 秒間 24 枚の絵を描く方法である。ディズニー映画はこのような手法が使用されていたた
め、絵の動きは非常に滑らかである。1 秒間の動きの構成に 24 枚の絵を使うことと、絵に
生気を与えるために自然で事実に近い動きを再現し、人や生物の情感を表現すること。こ
の 2 つの仕事は、アニメーション映画に不可欠な要素でありながら、実際はその単純な基
本が守られず、逆に破られていることが、日本のアニメーション作品制作の問題点と指摘
42
する意見もある。66
確かに、動きの細かいアニメーション映画を生み出すには、上記のようなディズニー映
画の手法が有効だと言える。しかし、宮崎はアニメーション映画制作において、ディズニ
ー映画のような手法は使用していない。その理由は 2 つある。
1 つ目の理由は、宮崎は、アニメーションの本質は「絵」を動かして表現することにあ
ると考えているからだ。実写の映像の線をなぞるようにして完成させた絵は、本来のアニ
メーションで求められるはずの「絵」ではない。
「絵」とは、アニメーターが自らの手で何
もない状態から筆で描き上げたもので、アニメーション映画は、その「絵」にあたかも生
命が宿っているかのような動きを与える作品であるべきだというのだ。少なくとも宮崎自
身は、そのように考えているようだ。宮崎はアニメーション映画の制作について、
「僕らは
筆と鉛筆にしがみついていこうって思ってます」67 と発言している。現に、宮崎が属する
スタジオジブリでは、アニメーション映画の制作は、その多くが手作業で進められ、背景
も 1 枚 1 枚が筆で描かれている。
『もののけ姫』68 では、宮崎駿監督作品で初めてデジタル
技術が導入されたものの、CG やデジタル合成、デジタルペイントが使用されたのは作品
全体の 9 分の 1 にあたる 15 分間のみであった。69 デジタル技術を取り入れはするが、手
作業で進める部分を多く残す点に、デジタル技術に頼りきらないアニメーション映画制作
の姿勢がうかがえる。
また、人間の演技は単なる線の動きではなく、動くことによって逐一変化する光や影、
セル画では表現できないような体の質感や連続性によって成り立っている。実際にディズ
ニー映画の『シンデレラ』70 や『ピーター・パン』71 の登場人物の動きを見てみると、体
がくねくねとしていて、自ら動いたり他の物を動かしたりする力が感じられない。シンデ
レラが階段を駆け降りる際の絵の動きを見てみると、人物の体重が全く感じられず、段差
を降りているにもかかわらず坂を滑っているように見える。宮崎も、このような制作方法
に関して、
「ライブアクションによる「より本当らしい」動きの追求は、それ自体が両刃の
刃であることを、ディズニーの「シンデレラ」は証明している。
」72 と述べる。人物の動き
を実写の線をなぞってアニメーションの絵に置き換えることは、細かい動きを再現できる
一方で、
「本当らしい」質感や力の表現は困難である。アニメーション映画には、実写映画
とは異なる、
「アニメーションの表現に適した本当らしさ」が必要なのだろう。
宮崎がディズニー映画に見られる手法を用いない 2 つ目の理由は、アニメーション映画
で表現しようとする世界観の違いにある。ディズニー映画は作品全体がミュージカル調で
43
構成されており、人物の体の動きも舞台での演技のように描かれている。流れるような滑
らかな身振り手振りや、感情を大袈裟に表すような動きは、ディズニー映画の表現する世
界観と調和がとれている。しかし、宮崎が目指すアニメーション映画は、観客にとって「本
当らしさ」がある作品だ。演劇で演じられるような人の動きは、日常生活の中では見られ
ない。ディズニー映画の人物に見られる指先まで流れるような滑らかな手の動きや、重力
がないような軽やかな足取りは、無意識にはできないだろう。我々の動きには、静止して
いる時間も必ず存在している。そのために、人の無意識下でなされている自然な動きを表
現するには、ディズニー映画のような、ロトスコープを用いたフルアニメーション 73 の手
法は適さないのだ。
本来、アニメーションの技法に制限はない。
『シンデレラ』においても、シンデレラが自
分の世界に浸っている様子を、床掃除をしている際に生じた洗剤の泡の中に彼女の姿を映
し、無数に飛ばすことで表している(図 23)。このように、背景の変化や台詞を駆使すれば、
人物の心情を安易に表現できるが、宮崎はそのようなアニメーション作品の過剰表現に異
を唱えている。
アニメ=過剰表現という図式が定着し、社会が市民権を与えるに至って、アニメは行き
詰まった。講談が現在の観客のニーズに答えられないのと同じように、アニメの送り手
たちは柔軟性と世界の多様性への謙虚さを失って、観客の支持を自ら失うに至った。そ
れにもかかわらず、現場の人間の多くが自分たちを毒しているアニメ観に気が付いてい
ない。相変わらず、過剰な表現主義が、アニメの魅力と思い込んでいるのである。74
上記の宮崎の発言から、非現実性を追求し過剰表現が定着したアニメーション界の流れ
は、本来のアニメーションの魅力が失われ、それによって万人には受け入れられ難い作品
が生み出される結果に繋がっているという考えがうかがえる。
ここでの過剰表現とは、例えば、普段の大きな目が唖然としたときに突然点になってし
まったり、笑っても口許だけが歪み、顔が崩れなかったりするような人物描写である。こ
のような表現の方法は、その頃のアニメーション作品や漫画の中で流行し、視聴者や読者
が過剰な思い入れで作品に共鳴していたため、圧倒的に支持された。75 その作品の例とし
て、宮崎は『巨人の星』76 を挙げている。
『巨人の星』は、登場人物が流す滝のような涙の
描写や、瞳の中に炎が燃えている描写が特徴的である (図 24)。
44
このような過剰表現は、人物の描写に限らず、背景や画面全体の描写にも見られる。
『巨
人の星』であれば画面の下半分を占めるような大きさの夕陽が人物と重なるように描かれ
る (図 25)。
『巨人の星』に限らず、過剰表現は現在のアニメーションでも多く見られる。
例えば、
『美少女戦士セーラームーン』77 では、人物の背景に放射状の線が入れられ、対立
する者同士の目から光が出て、それらがぶつかり合う描写が見られる (図 26)。
これらの過剰表現は、
登場人物の感情が観客に端的に分かりやすく伝わる。
だが宮崎は、
先での発言からも明らかなように、アニメーション作品の過剰表現は人々の支持を失うと
述べる。そこで宮崎は従来のアニメーション作品のような表現を用いずに、絵に演技をさ
せて感情を観客に伝える演出を試みた。
ここで、サツキが木のトンネルの中で眠っているメイを見つけるシーンを取り上げて、
感情の表現を見てみたい。小説『となりのトトロ』78 を比較対象として、映画の表現の特
徴を検討してみる。いなくなったメイをサツキが見つけるシーンは、小説で次のように書
かれている。
むこうの、ちょっとひらけた場所に、スカートが見える。見つけた、いた!
メイは、倒れている。
サツキの心臓は、急にギクンギクンと大きく鳴り、ひびが入ったときのように、ぞっ
として痛んだ。
メイ!死んだ?大けがだったら?
倒れているメイのそばに走っていく、二秒ほどのあいだに、サツキはかみさまかみさ
まと、頭の中で叫んだ。79
ここでは、
「ギクンギクン」や「ぞっとして」というオノマトペによって、
「メイが倒れ
ているのは、メイの体に何かあったからではないか」と心配し恐れるサツキの心情が表現
されている。
その後、メイは倒れているのではなくただ眠っているだけなのだと気付いたサツキは、
安心すると共に、心配をさせたメイを叱る。小説では、サツキの台詞や地の文を用いて「ホ
ッとした。つぎに、カッと、どうにもならないぐらい腹が立った。
」80 と、直接的にサツキ
の心情を言い表している。一方映画は、サツキがメイを揺する手を一瞬止めて表情を緩め
る様子や、すぐに厳しい表情をして直前よりも力を強めて激しくメイを揺さぶる様子(図
45
27)から、サツキの心配と苛立つ感情を観客に伝えている。小説は文章で語られるため、読
者に容易に状況を伝えることができる。しかし、アニメーションでは、全てを絵にして観
客に見せる必要がある。言葉で語られている部分を、実際に人物の動きに置き換えて表現
しなければならない。
「読者」は、文字を目で追って、登場人物の心情を直接言葉で理解し
ながら物語を読み進めていく。それとは対照的に「観客」は、目の前で起こる出来事に一
緒になってついて行くのだ。
ゆえに、宮崎は、人物に演技をさせることを重視している。
「メイに何があったのかと心
配だ」という言葉を一言入れれば、簡潔に感情を伝えることができる。しかし、アニメー
ション映画に「本当らしさ」を持たせる意図と、漫画的な手法や過剰表現に頼らず絵を動
かして表現するというアニメーションの本質を貫く姿勢があるために、宮崎は、従来のア
ニメーション作品のような表現を用いない。確かに、我々は実際に自分自身の心理状態を
言葉にして説明することはないし、感情によって周りの景色まで変わってしまうことは、
現実には有り得ない。
過剰表現や静止画を用いずに、飽くまで実写の映画のようにキャラクターに演技をさせ
ることは、観客にアニメーション映画という垣根を越えて、現実と繋がりを持っていると
感じさせる「本当らしさ」を抱かせることに繋がるのだろう。
さらに、物語の中に入り込んでいるように感じさせ、それが自分の経験や記憶に繋がる
「本当らしさ」の表現として、カメラの動きや人物の演技も大きな役割を果たす。まずカ
メラのアングルであるが、
『となりのトトロ』ではカメラ位置が下にあることが多い。家の
2 階から見下ろすシーンなどは別だが、平行にカメラを構えるシーンではローアングルが
目立つ。
メイがサツキに続いて屋根裏へ駆け出すシーンやカンタの祖母にぶつかるシーン、
森を映すシーンなどが、子どもの低い視線で撮られている。特にメイのレイアウトに関し
ては、低位置から見上げる大人やヤギの大きさ、草むらの中や縁の下の奥まで見せるなど
の配慮が徹底されている。81 登場人物と同じ視点で作品を鑑賞するよう仕向ける演出は、
観客が作品の世界観に入り込む感情移入を手助けする。観客が登場人物に自分自身を投影
させて観賞することは、作品の世界をより「本当らしさ」を帯びたものとして受け取るこ
とを可能にさせるに違いない。
46
第2節 背景と舞台
宮崎アニメにおける「本当らしさ」とは、観客の体験や記憶を思い起こさせる表現であ
る。アニメーションは生命の無い物体や絵に、あたかも生命が宿っているかのような動き
を与えたものであり、そこにはもちろん「本当」は存在しない。架空の作り物をいかに「本
当らしく」見せるかということが、宮崎のアニメーション映画の魅力に繋がる。
「本当らしさ」のあるアニメーション映画を作る際には、ただ現実世界を写実的に再現
すればよいという訳ではない。なぜなら、我々が普段ありのままの世界を見ているとは限
らないからだ。現実世界は刻々と変わりながら、一定の状態で止まっていることがない。
そしてそれを見る人の感受性も同じように変化するものだ。その時々の気分によって、1
つの景色が魅力的に見えたり荒んだように見えたりもする。そのために、一瞬をとらえた
ものを描き出しても、そこに「本当らしさ」は生まれてこないだろう。
では、人は一体何をもって作り物のアニメーション映画を「本当らしい」と感じるのだ
ろうか。それは、アニメーション映画の中に自分の体験や記憶を見つけたときである。観
客にそれらを見出してもらうには、やはり、
「観客の体験や記憶を思い起こさせる表現」が
必要となる。かつて自身が体感した出来事を改めて客観的に目にし、追体験することで、
観客はそこに「本当らしさ」を発見するに違いない。宮崎のアニメーション映画での表現
は、人の記憶の再現が顕著である。実際に、
『となりのトトロ』では、個人史や体験談を各
シーンに重ね、
「懐かしい」と感想をもらした中高年層の感想も目立った。82 絵本作家の中
川李枝子は「映画で見たことが、まるで自分の体験みたいになるとは、なんてすばらしい
のでしょう」
「私にはとても作りばなしには思えない」と述べている。83 こういった所感の
背景には、客観的な現実世界を忠実になぞるのではなく、人の記憶を通した世界の描写が
存在する。
しかし、人々の持つ記憶や体験はそれぞれ個々のもので決して共有されているわけでな
い。誰にでも同じような写実は存在しない。そうであるにもかかわらず、なぜ『となりの
トトロ』は多くの人が一様に懐かしい感情を抱くのだろうか。ここでは、バラバラの体験
を皆が納得するような普遍的な形にする必要がある。本来の体験はそれぞれが違う形をし
ており、全く同じ体験は存在しない。だが、記憶は必ずしもそうではない。記憶は時間が
経つにつれて形を変え、だんだんと共通の形態を持つようになる。
47
まず、宮崎は、アニメーション映画制作の際に架空の風景は描かず、ロケーションハン
ティングを行い実際に自分の目で見た風景を描くことで知られている。84 そのために、作
品の中に存在する建物や風景はモデルとなったものがあり、全てが実際にこの世界に存在
するものばかりである。
こういった宮崎の姿勢は、
単に精密な舞台を描き出すだけでなく、
見る側に既視感や現実感を抱かせることに繋がっていく。
『となりのトトロ』で舞台となっている「松郷」は、東京都所沢市に実在する地名で、
その付近には「七国山」も存在する。
「稲荷」という地名は全国各地に見られる 85 もので、
普遍性を意識した地名を用いたのだと考えられる。
「稲荷前」のバス停がある道路は、戦中
にあった所沢飛行場用のケヤキに覆われた廃道が原案になっており、カンタの家は聖蹟桜
ヶ丘周辺に実在した農家がモデルになっている。制作当初には宮崎と共に、背景画美術を
担当する佐藤好春、男鹿和男らが聖蹟桜ヶ丘周辺をロケハンで訪れている。作品の冒頭で
出てくる小川の風景は、
宮崎が子どもの頃に遊んだ神田川流域の風景が参考にされている。
家の近辺の様子は、宮崎が過去に働いた聖蹟桜ヶ丘にあるアニメーションスタジオや、子
供の頃に見た神田川の流域、秋田県の農村、群馬県の親戚の家を元に描かれている。86
このように、宮崎は、実際に存在し、訪れたことのある場所を作品の舞台として取り上
げている。特定の 1 つの場所を舞台に選ぶのではなく、様々な場所のイメージを合わせて
作ることで、観客にとって特定の風光明媚な場所ではなく、どこか自分の近くにある風景
と捉えさせる。
従来のアニメーション作品の舞台は、その多くが実際に存在するものではなく、どこか
にありそうな建物をイメージした典型的な街並みである。
近年のアニメーション作品には、
ロケハンを行って細かく舞台設定をしているものもあるが、多くは、ロケハンを行ってい
ない。概念化された舞台設定は、アニメーション作品として見て楽しめるものである。決
して観客に違和感を与えるものではない。だが、宮崎アニメでの「本当らしさ」の演出か
ら捉えると、それらは図式化された風景である。宮崎の舞台や生活様式を正確に描く試み
は、観客に既視感を抱かせる「本当らしさ」に繋がる。デフォルメされた風景を記憶で補
って、自分の記憶に繋げていくのではなく、
「そのままどこかにありそうな風景」として観
客に認識されるのだ。
もちろん、図式化された風景でも観客に懐かしいと感じさせることはできる。田圃や古
い家を描き、少年に麦わら帽子や下駄を身に付けさせたりすれば、観客は「昔はこんな風
景があったな」と考えるだろう。だが、その懐かしさは自分自身の経験を直接重ねて得ら
48
れたものではない。我々がデフォルメして描かれたリンゴの絵を見て、それがリンゴだと
いうことを理解して本物を想像し「食べたい」と思うことと同じである。初めて見た絵で
も、そこから元になった本物をイメージできる。
だが、宮崎がアニメーション映画で求める「本当らしさ」は、観客の記憶に直接繋がっ
たり、
「いかにもありそうだ」と感じさせることである。そこでは、観客に既視感を抱かせ
る描写が重要となる。リンゴのイラストを見たときに「これはリンゴだ」とは思うが、
「こ
のリンゴを見たことがある」とは感じないだろう。観客の既視感に繋がるような絵をアニ
メーション映画で表現するには、やはり、自分の経験を重ねられる写実が必要となる。そ
のために、宮崎はアニメーション映画を製作する際にはロケハンを行うのである。
ただし、ロケハンを行う宮崎の意図は、単に現実世界をなぞった写実的な風景や設定を
生み出すことではない。その時々によって、風景の見え方は変わってくるものである。写
真のように切り取られた世界を忠実に模写することは、必ずしも観客に「本当らしさ」を
感じさせるとは限らないのである。宮崎アニメの中に描かれる風景は、アニメーション映
画の中に用いる際は、写実的ではあると同時に、そこに人の目を通した見え方の変容の表
現を心掛けている。建物の外観や配置はロケハンで得た情報をそのまま使い、それらの風
景が登場人物のその時々の心情や周りの様子によって変化する見方を加えるところに、宮
崎の演出の特徴がある。観客は登場人物に自分を投影して作品を鑑賞するため、
「こういう
気持ちだったら、こう見えるだろう」という思いを持つ。その観客の想像する絵を描くこ
とが、既視感を生み出すのである。写実的な描写に、観客の思い描く記憶、イメージを重
ねて描くことが「本当らしさ」に繋がる。
『となりのトトロ』では木々や植物を正確に描くことによる風土や季節感の表現が追及
され、誰もが懐かしく感じる日本の風景を描写するという課題があった。画面上に映って
いる樹木や草花はどれも、想像で「こんな花が咲いているだろう」と描写されたものでは
なく、スズメノテッポウ、ハエトリソウ、オオバコ、アレチノギクといったように、1 つ
1 つの種類まで忠実に描かれている。87「ありそうな風景」ではなく「実際にこの世界に存
在する風景」を描くことで、人々の既視感を喚起させ、
「本当らしさ」を感じさせることが
できるのだ。植物の種類をただ正確に描くだけではなく、常に変化しながら存在する様子
を描くことが必要とされた。植物に当たる日光の、時の移り変わりによる光の強弱や色合
いなども細かに描写することで、同じ植物でも静止状態にあるのではないということが表
現できる。
49
従来のアニメーション作品では、空や川は青色や水色、草木は緑色といったように固定
されているものが多い。そこに時間経過のよる細かな変化も描くことで、観客にアニメー
ション作品の中に「本当らしさ」を見出させようとするのだ。
宮崎は、
『となりのトトロ』の作中に登場する大きなクスノキの描写について、
「深森の
大クスノキでも、あんだけ大きなクスノキはないですけど、実は見た気持の中ではあんだ
け大きいんですよ。〝でっかいなあ、なんて立派なんだろう〟っていうふうに小さいとき
見上げて思った木ってだれでもあるでしょう。それを描くと、あれだけでっかくなってし
まう――だから、本人としては、嘘をついてる気は全然ないんですよ。気持の中では本当
に大きいんです。
」88 と述べている。
このような、記憶の再現は舞台や背景の描写だけでなく、登場人物の仕草や演技にも見
られる。姉の言動を真似する妹、眠気に耐えてむずがる様子、母の体調の悪さから抱く不
安な気持ち、家族との喧嘩、迷子になったときの心細さなど、誰もが経験したことのある
場面を物語の中に散りばめることで、そのとき自身が抱いた感情が思い起こされてその作
品を「本当らしい」と思うのだろう。物語冒頭の、新居の中を姉妹が走り回るシーンでは、
宮崎自身、
「ああいう経験ってのは、みんな一度や二度はやったことがあるでしょ。
」89 と
述べている。
『となりのトトロ』では、風景だけでなく日本の当時の生活様式も正確に描いている。
例えば日本家屋に洋間を増築した一軒家の形(図 28)や、
タイル張りの二層式の浴槽(図 29)、
木造の校舎(図 30)など、建物の外観や中の様子の描写にも細かく気が配られている。この
ような、時代の背景を考慮した表現は『となりのトトロ』だけではなく、
『アルプスの少女
ハイジ』90 や『母をたずねて三千里』91 にも見られる。これらのアニメーション作品は、
その国の建築様式や自然環境、さらには生活様式までも調べられて作品世界が築かれてい
る。
また、宮崎アニメには、作中に登場する道具にも細かな「本当らしさ」の描写がある。
家具や日常品など道具の表現においても、
「本当らしさ」を追求しているのだ。
『となりの
トトロ』では、それらを描く際に、美化せずに、汚れや年期が入っている姿形を描いてい
る。例えば、引っ越し先の家は木の柱の根が腐っていて揺らすとパラパラと木片が落ちて
きたり、壁の塗装も黄ばんでいたり剥げていたりする(図 31)。この描写は、
「家が古くお
化け屋敷のように見える」という設定から必要とされた。また、家の周りにある小道具も、
いかにも何年も手入れされずに放っておかれたような趣である。庭先の植木鉢は倒されて
50
中の土がこぼれ、無造作に重ねて放置されている(図 32)。枯れた観葉植物の葉が地面に落
ちている(図 33)。戸の立て付けが悪く開けるのに苦労し、客間には綿埃のような塊がいく
つも床に落ちており、瓶が転がっている(図 34)。放置された葉や、綿埃から、長年人も住
まずに手入れがされてこなかった家だと観客にも分かる。
第Ⅰ章第 1 節でも触れたが、新居での生活が落ち着いてきたころの居間にはカレンダー
が壁に掛けられ、雑誌や新聞が床に置かれている(図 35)。父親の書斎には付箋が貼られた
本が乱雑に積み重ねられている描写もあり (図 36)、1 つ 1 つの物に生活感が見られる。単
に「古いお化け屋敷のような家」を描くだけならば、色調を暗い配色にしたり、蜘蛛の巣
を一面に張り付けたりする。誇張した表現の方が観客にも確実に伝わり、制作に手間や時
間を費やすデメリットも避けられる。しかし、宮崎はその手間をデメリットだとは見なさ
ない。このような日常性の描写こそが、
「本当らしさ」を追求する演出方法だからだ。アニ
メーションで創造された世界でありながらも、そこにある時間は我々の生活する時間と同
じように感じられる。アニメーション映画の中での時間を、ただの切り取られた時間と認
識するのではなく、我々の住む世界と繋がりのある時間と感じられるように演出すること
で、
「本当らしさ」を生み出すことが可能になる。
また、第Ⅱ章第 1 節でも触れたが、観客に作品の時代設定と物語全体のトーンを早い時
点で伝えるために道具が描かれることもある。
『となりのトトロ』では引っ越しの手段とし
て、オート三輪を用いている(図 37)。オート三輪は、1950 年代まで日本の主力トラック
として使用されていた。
『となりのトトロ』の時代設定は、テレビが普及していなかった「昭
和 30 年代」92 とされ、まさに、オート三輪が貨物運搬のために多く使用されていた時代で
ある。
『となりのトトロ』が上映されたのは 1988 年であるため、オート三輪はすでに過去
の乗り物として認識されていただろう。オート三輪が田圃に囲まれた狭い道をガタガタと
走っていく様子は、観客が「この物語は現代を舞台にした物語ではない」と理解できる。
時代設定を伝えるモチーフが、適した絵の表現によって視覚化されているのである。
さらに、オート三輪の荷台に家財道具を乗せていることから、引っ越しをしていると分
かるが、現代はもちろん軽トラック 1 台で引っ越しをすることはあまりない。ほとんどの
引っ越しが引っ越し業者に委託され、荷物の運搬はもちろん、新居に到着した後の家具の
配置なども引っ越し業者が行うことが多い。引っ越しが現在のスタイルになったのは、昭
和 50 年頃からである。それ以前は、軽トラックで、ビニールシート 1 枚かぶせて家財道
具を運ぶのが、引っ越しでよく見られた光景だった。
『となりのトトロ』の引っ越しは、ま
51
さにこの光景を描いている。冒頭で時代設定が明確に分かる描写をすることで、観客が作
品の世界観を掴むきっかけを与えているのだ。
「昭和の田舎」という物語の舞台設定を観客
に伝える多くのモチーフが、
統一感を持って絵の表現に置き換えられている。
このように、
物語全体のトーンを統一して表現することで、実際に存在するような「本当らしさ」を生
み出せるのだ。
『となりのトトロ』は現代の風景ではないのに、なぜ観客は「本当らしさ」を感じるこ
とができるのか。それは、人が実際に経験をしていなくとも、それまでに見聞きしてきた
知識があるからだ。風景を目の当たりにしたことはなくても、テレビや本や映画などで、
「かつての日本の風景」を知る機会はあったはずだ。もちろん、かつて子どもだった時代
に、実際に経験した観客もいるだろう。それらの記憶を呼び覚ますのが、
「本当らしい」絵
なのである。また、絵そのものだけではなく、作品の中での人物の行動にも、自分の経験
と重なる「本当らしさ」を感じさせる描写があった。姉の後ろをついて回る妹の姿などを
見ると、自分たちの生活の中の体験が記憶の中から呼び起こされる。これら観客の体験や
記憶を直接的に呼び覚ます行動の表現や、
「そのままどこかにありそうだ」と思わせる風景
の描写は、現実を見出すような「本当らしさ」の感覚を観客に与えるのである。
52
第Ⅳ章 作品全体の構成
第 1 節 3 つの要素の関係性
第Ⅰ章から第Ⅲ章までは、アニメーション映画を構成する、物語の骨組みとなる構造、
物語を具体化するモチーフ、アニメーションの表現としての絵の、個別の要素に注目した
上で「本当らしさ」の演出について考察してきた。それらを踏まえた上で、本章では飛翔
シーンを取り上げ、物語を構成する要素を総合的に見ていくこととする。
物語全体の構造と同様に、飛翔シーンにおいても、2 つの世界を行き来する構造が含ま
れている。ここでは、トトロが姉妹の現実世界に現れる描写と、姉妹がトトロの世界へ行
く描写が見られる。
まず、サツキが夜中にふと目を覚ますとトトロが庭にいることに気付く。メイを起こし
て、姉妹揃ってトトロの元へ駆け寄る。トトロが木の芽を埋めた囲いの周りを行進し、力
を込めて手を上に掲げると、次々と木の芽が顔を出す。木の芽は瞬く間にそれぞれが大木
となり、更にそれらがまとまって一本の巨大な木へと姿を変える。すると、トトロは独楽
を取り出して飛翔の準備に入る。小トトロと中トトロがトトロの腹に跳び付くと、姉妹も
それに倣う。全員が自分の腹に掴まったことを確認したトトロは、ゆっくりと木の周りを
旋回しながら空に向かって上昇し始める。庭で木の芽を出すシーンはトトロが姉妹の現実
世界にやって来たと取れるが、次の飛翔シーンでは反対に姉妹がトトロの世界へ行くと言
える。なぜなら、空は姉妹にとって未知の場所であるからだ。
ここでは、
「木」が重要な役割を担っている。木は、物語冒頭から観客の印象に残るよう、
何度も重要なキーワードのようにストーリーの中に組み込まれている。引っ越してきたば
かりの家を走り回る内に、サツキは裏山の大きなクスノキに関心を示す。父親もそのクス
ノキを気に入って引っ越し先を決めたのだと言う。マックロクロスケもクスノキに向かっ
て飛んでいく描写がある。メイが小トトロと中トトロを追いかけて転がり落ちたのはクス
ノキの幹の間であったし、その中に出来た大きな空洞にはトトロの寝床がある。メイがト
トロに会った話を父親にすると、父親は「森の主に会ったのだ」とメイに説明し、クスノ
キの元へ行って「メイがお世話になりました、これからもよろしくお願いいたします」と
挨拶をする。これらの場面からも分かるように、
『となりのトトロ』で木は神聖な存在であ
53
り、神が宿っているように描かれている。そのような描写を繰り返すことで、観客に、作
品の中で「木は特別な位置付けにある」と感じ取らせている。
クスノキを経由して空への旅が始まるのは、姉妹がトトロの世界へ足を踏み入れるのだ
ということを、観客に無意識の内に認識させるためだろう。従来の「行きて帰りし物語」
のように、姉妹の現実世界とトトロの世界との境界線としてクスノキが用いられているの
だ。我々の現実世界にも当たり前に存在する物に境界線の役割を持たせることで、現実世
界と異世界のエリアが重なっている描写が可能となる。同じ空間内に姉妹やトトロにとっ
ての現実世界と異世界があるという描写は、我々が気付いていないだけで異世界は自分の
「となり」にも存在するのだと観客に認識させるだろう。
また、飛翔のシークエンスは、3 つのシーンに分けられる。庭のシーンと空のシーン、
そして木のシーンである。庭のシーンは、前述にもあるように家の庭にやってきて木の芽
を出そうとしているトトロに気付いた姉妹が、トトロの元に駆け寄り、真似をする場面で
ある。空のシーンはトトロの腹に掴まり共に飛翔する場面で、木のシーンは木の上でオカ
リナを吹く場面だ。それぞれのシーンは、それより以前に登場したシークエンスやモチー
フと繋がりが見られる。
まず、庭と空のシーンは、バス停のシーンから「団栗」と「傘」のモチーフが引き継が
れている。トトロが庭へやってくるきっかけは、姉妹に団栗の包みを渡したことで作られ
る。姉妹が団栗を埋めて囲いをした場所を、トトロがぐるぐると歩き回っている様子に気
付いた姉妹は、一目散にトトロの元へ駆け寄る。汗の粒が出るほど力を込めて手を上に掲
げると、それまでは芽の出る様子がなかった土から、芽や木の苗が生えてくる。トトロは、
自分があげた団栗の芽を出すという目的で、姉妹の庭にやって来た。そのために、姉妹が
バス停でトトロに貰った木の実を庭に植えなければ、トトロが庭へ来ることはなかったと
分かる。トトロを庭に登場させるには、トトロが姉妹に団栗の包みを渡す必要があったの
である。
では、なぜ姉妹はトトロから団栗の包みを受けとることが出来たのか。それは、サツキ
がバス停で雨に濡れるトトロを気遣い、父親の傘を貸したからである。雨が降る中、バス
停で父親の帰りを待っているとトトロがサツキの横に立っていることに気が付く。トトロ
は頭の上に蓮のような葉を乗せて傘の代わりにしているものの、体を覆いきれず、全身が
雨で濡れていた。それを見たサツキは、持っていた父親の傘をトトロに差し出した。トト
ロはサツキに使い方を教わると、人間と同じように傘をさし、雨をしのぐ。さらに木の葉
54
から水滴が傘に落ちる度に驚き、その音が気に入ったのか、遂には自分自身が跳んで着地
した際の振動を利用して大量の雨粒を落として歓喜する。トトロが待っていたネコバスが
バス停にやってくると、団栗の包みを姉妹に渡し、父親の傘を手にしたままネコバスに乗
り込み去ってしまう(図 38)。トトロは傘を貰う代わりに、トトロにとって価値のある団栗
を姉妹に渡したのだろう。トトロが喜ぶような贈り物をしなければ、トトロが団栗の包み
を姉妹に差し出すことはなかったはずだ。
次に姉妹がトトロに会うのは、トトロに貰った団栗を庭に植えて何日間か経った後であ
る。トトロが姉妹の家の庭に現れたときに、トトロはバス停で貸して貰った傘を手にして
いる(図 39)。ここでの傘は、2 つの役割を持つ。
1 つ目は姉妹とトトロの距離が縮まっていることを観客に感じ取らせる役割である。バ
ス停での傘を日が経っているにもかかわらず持ち歩いている描写は、トトロが姉妹からの
「贈り物」を気に入ることで両者の距離が近くなったと観客に感じ取らせる。2 つ目の役
割は、空を飛ぶ道具である。傘は、風を受け止めるような形をしているので、
『メリー・ポ
ピンズ』93 のように空を飛ぶ道具としても描かれる。姉妹の庭に現れたトトロは、傘を手
にしながら空を飛ぶため、
傘が飛翔するための道具として描かれているともとれる。
もし、
この飛翔シーンで急に傘を登場させたならば、違和感がある。トトロは森に住み、姉妹の
現実世界に現れはするものの、人間の道具を使用している場面は描かれていないからだ。
サツキから傘を手渡されるまで、人工的な道具を手にする機会はなかった。バス停でのシ
ーンがあって初めて、
トトロが傘を持っている設定が作れるのだ。
このように、1 つの「傘」
という小道具が、姉妹とトトロとの繋がりを表す道具と、飛翔シーンに繋がる道具という
2 つの役割を果たしている。
さらに、飛翔は観客を視覚的に楽しませる表現に富んでいる。ここでは、落下の表現に
ついて注目しよう。登場するキャラクターが飛翔し、地上から離れ下を見渡すような景色
は、一種の冒険だとも言え、観客に期待感や気持ちの高ぶりを抱かせる。宮崎の描く飛翔
は、悠々と空中を移動するかと思いきや、必ず地上近くに落ちてくる落下の表現が含まれ
る。落下の描写は、目の前に広がった風景を俯瞰するだけの飛翔とは異なり、地上の景色
が距離を縮めて一気に迫ってくるという視覚的な迫力を伴う。
このような落下の表現では、
宮崎アニメ特有の縦の構図 94 が最大限に生かされている。絵コンテでは縦に長く背景がと
られ、地上から空へ向かってカメラを動かすように指示が書かれている(図 40)。95 絵コン
テを映像に直すと図 41 のようになり、下から上を見上げるような、縦方向に広い奥行き
55
のある空間が表現されている。宮崎がこのような縦の構図を取り入れる理由は、重力の表
現に適しているからだ。
飛翔という言葉から思い浮かべるイメージは、例えばファンタジーや憧憬、夢など、多
くが現実とは相反するものである。そのような飛翔のイメージに、落下や重力の描写を加
えることで、飛翔に対する宮崎の「本当らしさ」が表現されている。人が重力を実感する
体験として、例えば手から物を落としたとき、高い場所から飛び降りたときなどが挙げら
れる。これらは、いずれも物体が地面に向かって一直線に下降する。こういった体験は、
人に重力の存在を感じさせ、
空中にとどまることは困難だという認識に繋がる。
飛翔には、
このような困難さが付随するために、現実離れしたイメージが持たれがちなのだろう。
では、宮崎はそこにどうやって観客を納得させる「本当らしさ」を取り入れるのか。こ
こでは、あえて飛翔を阻む要素を描くことで、
「本当らしさ」を表現している。飛行機に乗
った際に墜落しないかと心配になったり、飛行船や気球を見たとき、落ちてこないかと不
安に感じたりすることは誰もが経験しうる。その不安定さを描くことで、人々の抱く、優
雅なだけではない危うさを含んだ飛翔のイメージに近づくのだ。
従来のアニメーションでの飛翔の描写は、その多くが単に永久に水平的な運動として描
かれる。こういった描写は、画面の広がりを縦に作るよりも、横に広い空間を表現したほ
うが、観客に飛んでいるイメージを伝えやすい。しかしその飛翔は、観客を惹き付けはす
るが、イメージは憧憬にとどまる。宮崎は、憧憬の飛翔を、より人々にとって現実性を帯
びたものにするために、また、視覚的な迫力も表現するために、縦の構図を用いて落下の
表現を描くのだろう。飛行士に関しての、
「彼らは、大空を征服するというより、飛べば飛
ぶほど大自然の圧力的な力を感じて、畏敬の念を強くもっていたんじゃないか。なにしろ
機体はボロで、落っこちるのは当たり前でしたから。そのギリギリのところで空中に浮い
ていることに高揚感があったと思う。
」96 という宮崎の発言からも、宮崎の飛翔に対する落
下の危険性を含んだ捉え方が明らかとなっている。
ここまで、飛翔シーンを映像の分析を通して見てきたが、1 つのシーンはそのシーンの
みで完結しているのではなく、他のシーンとの繋がりによって物語が構成される。団栗や
傘のモチーフが飛翔シーンへ繋がるのは、前に述べた通りである。ここからは、全体の構
成との関係を見てみる。
『となりのトトロ』の絵コンテは、A パートから D パートの 4 つに分割されている。物
語の構成はしばしば起承転結に則して語られる。しかし、
『となりのトトロ』の物語の筋に
56
照らし合わせて 4 つのパートを見ると、それらが起承転結の形を取っているわけではない
と分かる。物語全体を通して考えるならば、
「起」は姉妹が都会から田舎へ引っ越してきた
こと、
「承」はトトロなどの生き物に出会うこと、
「転」は母親の病院からの電報がきっか
けとなりメイが迷子になること、
「結」はトトロの協力でネコバスに乗ってメイを見つけ出
すこととなるはずだ。しかし、絵コンテの分け方はそうとはなっていない。それぞれの区
切りがトトロやマックロクロスケ、ネコバスとの接触の直後となっている(表 1)。それを踏
まえると、分けられた 4 つのパートが起承転結で繋がっているのではなく、それぞれのパ
ートごとに 1 つの物語が物語られていると見るべきである。実際に、A から D パートのそ
れぞれのパートの区切りで物語を終わらせてしまっても、違和感はない。
例えば、A パートのみで物語が完結しても、都会から越してきた姉妹が田舎の生活に触
れ、そこで異形のものと出会うというストーリーが出来上がる。B パートで切っても、森
の主と思われる生き物に出会ったが、気づくと森の中で眠っていた、というようにきりが
良い。また、飛翔シーンは絵コンテで言うと C パートの中に入っている。日々の生活のし
がらみからの解放をトトロとの飛翔で表現することは、物語全体を通して最も観客を高揚
させるシーンで、クライマックスとしてもおかしくない。しかし、飛翔のシーンは物語の
中盤で用いられている。多くの物語では、このような盛り上がりのあるシーンは終盤に配
される。
『ヒックとドラゴン』97 の一致団結した戦闘や、
『フラガール』98 や『花とアリス』
99
でのダンスシーンは、いずれも最後に描かれている。そのシーンが作品の最大の見せ場
であるし、観客を惹き付ける要素が含まれるからだ。
しかしながら、宮崎アニメでは一概にそうとは断言できない。
『となりのトトロ』では飛
翔シーンは中盤にあり、
『崖の上のポニョ』も、ポニョが波に乗って宗助に会いに来るシー
ンは、クライマックスのような迫力を持つが、物語の途中の出来事である。
『ハウルの動く
城』100 でも、街が爆撃されるシーンのほうが勢いも視覚的な迫力も、最後の締めくくりで
ある、丘で城が動かなくなってしまうシーンよりも勝っている。もちろん、迫力があり観
客を盛り上げるシーンで締めくくられている作品もある。
『魔女の宅急便』がそうだ。しか
し、この作品でもクライマックスの飛行船のシーンの他に、トンボの作ったプロペラ付き
の自転車で一瞬飛翔するシーンなど、物語の締めくくりになってもおかしくはないシーン
が中盤に用意されている。
以上のようなことを踏まえると、従来の物語が右肩上がりの盛り上がりで完結するのに
対して、宮崎アニメは物語に起伏があり、必ずしも視覚的、感情的に盛り上がるシーンが
57
作品の締めくくりに使用されるわけではない。現に、人の生活や人生を考えてみると、そ
れらは決して綺麗にまとまっておらず、起承転結のように順序よく並び立てられてはいな
い。日常は、細かい出来事の積み重ねで構成されており、もちろん、起承転結のどこかの
部分が欠けていることも多々ある。起承転結の大きなかたまりとして構成されることの多
い物語の形態を用いずに、いくつかのシークエンスを積み重ねて 1 つの作品に仕上げるこ
とで、人々の体験している日常に近いリズムを生み出しているのだろう。
飛翔のシークエンスが終わり、次のシークエンスの始めで姉妹は目を覚ます。夜の出来
事が夢だったのかと思い庭に目をやると、大木はなかったものの、木の実を埋めた場所に
小さな芽が顔を出していた。
「夢だけど、夢じゃなかった」という台詞を繰り返し、花壇の
周りを昨夜のように行進する。現実世界での出来事と異世界での出来事を関係付ける物語
は、ファンタジーでありながらも、自分の日常にも起こりうると思わせる「本当らしさ」
を生み出すのである。
58
第 2 節 並行して描かれる 2 つの物語
『となりのトトロ』では 2 つの物語が描かれている。1 つは「トトロと姉妹の交流」の
話、そしてもう 1 つは「家族」の話である。トトロとの交流をメインに描く中にも、家族
の話がそれに寄り添う形で存在している。トトロの話は、姉妹にとっては非日常の出来事
だ。マックロクロスケの気配を感じて「家にお化けが住んでいるかもしれない」と不気味
に感じたり、トトロとの出会いに「夢だけど夢じゃなかった」と歓喜したりする。こうい
った描写から明らかなように、トトロとの交流は、普段の生活には訪れない特別な出来事
である。一方で、家族との生活は、姉妹にとって日常だ。母親が病気で入院していること
や、休日にお見舞いへ行くこと、父親が仕事へ行き、サツキも学校へ行き、メイを世話す
る家族がいない日には大家の家へ預けられること。このような出来事は、観客にとっては
非日常と感じられるかもしれない。だが、姉妹にとっては毎日の生活に当たり前に存在し
ている日常である。
このように、
『となりのトトロ』では、日常と非日常という対照的な物語が同時に描かれ
ている。姉妹の日常の中の 1 つの出来事として、トトロとの出会いという非日常があるの
だ。日常に密接した非日常を描くことで、観客は「本当らしさ」を感じるだろう。
トトロの話は、飛翔シーンがクライマックスとなっている。第Ⅲ章第 1 節で詳しく述べ
たが、飛翔シーンは視覚的に迫力があり、観客の気持ちを昂らせる効果がある。さらに、
トトロとの偶然の出会いに始まり、次第に交流を深めて心の距離が縮まっていく展開の中
で、飛翔シーンはトトロと姉妹が初めて意思疎通をする様子を描いている。初めは姉妹が
一方的にトトロに興味を持ち、会いたいと切望していたが、飛翔シーンにおいてようやく
トトロに姉妹の存在が認められたのだ。飛翔シーン以降は、トトロと姉妹の交流はあるも
のの、サツキがメイを探してほしいと頼みに行く場面のみである。ここでは、トトロがネ
コバスを呼び、ネコバスがサツキをメイの元へ連れて行ってくれる。トトロの協力がなけ
ればメイを探し出すことはできなかったが、サツキの問題を直接的に解決したのはネコバ
スである。ここでトトロもサツキと共にネコバスに乗り込めば、クライマックスと呼べる
大きな出来事だと言えたかもしれない。しかし、トトロはネコバスに乗ったサツキに手を
振るだけだ。このような点からも、やはり『となりのトトロ』のクライマックスは飛翔シ
ーンだと言える。
59
しかし、この物語は、飛翔というクライマックスが終わってもまだ続きがある。作品の
山場を描いてしまったら、その後の話は要らないのかといえば、決してそうではない。な
ぜなら、
『となりのトトロ』で語られているもう 1 つの「家族」の話は終息していないか
らだ。家族の話は、トトロとの交流の話と並行して語られている。姉妹が田舎へ引っ越し
てきた理由も、
母親の入院する病院から近く、
母親の退院後の生活も考えてのことだろう。
引っ越し先の新居は、元は結核患者を抱える家族の別荘だったという設定もある。101 自然
に囲まれた静かな環境は、療養にも適している。母親への手紙の内容や、見舞いへ行った
ときの会話などでも、
トトロの話題が多く出ている。
バス停で偶然トトロに出会ったのも、
傘を持たずに仕事へ行った父親を、雨の中バス停まで迎えに行ったからだ。
家族の話で中心に語られているのは、
「母親の入院」である。家族揃って見舞いに行く場
面や、母親の退院を待ち望むメイの台詞からも分かる。しかし、冒頭から母親が入院して
いる設定は頻繁に語られているが、進展は見られず、ただずっと入院している状態が続く
だけだ。この「母親の入院」の話に大きな動きが見られるのは、飛翔シーン以降である。
飛翔のシークエンスが終わると、まず郵便局員が家に電報を届けに来る。その日父親は仕
事、姉妹はカンタの祖母の畑へ野菜を取りに行っていたため留守であった。姉妹は畑で取
った胡瓜を食べながら、母親の話をしている。
「お天道様いっぱいあびてっから身体にもい
いんだ。ばあちゃんの畑の物食べりゃ、すぐ元気になっちゃうよ」と言う祖母に、
「今度の
土曜日に、お母さん帰ってくるの」
「メイのお布団で一緒に寝るんだよ」と仮退院が決まっ
たことを嬉しそうに報告する。そこへ電報を預かったカンタが走ってくる。祖母に、急ぎ
だと困るから開けてごらんと言われ、中を見ると母親が入院している病院からであった。
母親に何かあったのだと理解したサツキは、父親の職場へ電話をかけるために、カンタに
連れられ本家へ行く。ここで初めて、家族の話に動きが見られるのだ。
その後、父親からの折り返しの電話で、母親の体調が悪く仮退院が延期になったと聞か
される。
「嫌だ」と駄々をこねるメイにサツキは苛立ち、
「じゃあお母さん死んじゃっても
いいのね」
「メイのばか、もう知らない」と喧嘩になってしまう。家へ帰り、祖母に言葉を
かけられると、サツキはそれまで堪えてきた感情が溢れだし「お母さん死んじゃったらど
うしよう」と、声をあげて泣き出してしまう。それを家の中から見ていたメイは、
「畑で取
ったトウモロコシをお母さんに届けて、元気になってもらおう」と思ったのか、1 本のト
ウモロコシを大事に抱えて 1 人で母親の病院へ向かって家を出てしまう。病院へ向かう途
60
中で迷子になってしまったメイをどうしても見つけることができず、ここになってサツキ
はトトロの力を借りようと、メイがトトロに会ったという木のトンネルへ向かうのだ。
2 つの話を 1 つの作品の中で語るには、接点を描かなければ作品に統一性がなくなり、
入り乱れた話となってしまう。そのような作品は、観ている側にとっても乱雑な印象を残
してしまう。互いの話に繋がりを持たせるために、メイを見つけるときにトトロの力を借
りるという展開を用いたのである。家族の話は、ネコバスがメイの元へサツキを連れてい
った後、母親の病院まで姉妹を乗せて、母親にトウモロコシを届け、姉妹を家に送り届け
た場面で締めくくられる。それと同時に、映画も終わる。メイが母親の病院へ行く途中に
迷子になったが、結果的に目標を達成できるという展開が、家族の話におけるクライマッ
クスだろう。その後、母親が無事に家へ帰ってきたことは、エンディング曲の絵の中で観
客に伝えられる。飛翔シーンでトトロとの交流の話がクライマックスを迎え、その後の物
語で話の中心を家族へ持っていき、こちらも同様に終息を迎えさせる。2 つの話をしっか
りと観客に納得できる形で終わらせることで、統一感のある作品に仕上がっているのだ。
姉妹の日常と非日常を同時進行で描くことは、観客の現実とも重ねやすく、
「トトロは自
分たちの日常にも存在するかもしれない」という認識に繋がる。非日常の出来事を描きな
がらも日常に基づいている物語には、
まるで現実の出来事であるかのように感じさせる
「本
当らしさ」がある。
実際に我々の日常においても、いくつもの物語が重なっている。家族との日常や友人と
の日常などが、小さな接点を持ちながら存在しているのである。そのために、2 つの話が
平行して描かれている『となりのトトロ』に対して、自分の日常を見出すような「本当ら
しさ」を感じるのだろう。
61
終章
本論文では、宮崎がどのような独創性を持って映画を作り上げているのか「本当らしさ
の表現」に観点を置き、
『となりのトトロ』を中心に論じた。宮崎は、アニメーション映画
の制作においてリアリティの表現を重視している。宮崎の考えるリアリティとは、
「本当ら
しさ」の表現である。虚構のアニメーション映画をいかに観客に「本当らしい」と感じさ
せるかが宮崎の演出であるとし、骨組みとなる構造、物語を具体化するモチーフ、アニメ
ーションの表現としての絵の 3 点について考察した。宮崎アニメは、これら3つの要素全
てにおいて観客に
「本当らしさ」
を感じさせる工夫が凝らされていることを明らかにした。
アニメーション映画を構成する 1 つ 1 つの要素に、
「本当らしさ」の統一感を持たせるこ
とで、観客に、ファンタジーでありながらも「いかにもありそうだ」と思わせることが可
能となる。
まず、第Ⅰ章では、
『となりのトトロ』の構造に着目した。
『となりのトトロ』では、
「行
きて帰りし物語」
の構造が用いられているが、
従来の同類の物語とは異なる点が3 つある。
まず 1 つ目の相違点は、行く世界と帰る世界がそれぞれ独立していない点だ。多くの「行
きて帰りし物語」においては、現実の世界とは別の世界に繋がる道が描かれており、境界
線の役目を果たしている。その一方で、
『となりのトトロ』では2つの世界が完全には独立
しておらず、
姉妹の現実世界とトトロの世界が重なっているように描かれている。
これは、
登場人物が暮らす家の庭や木の上、バス停にトトロが直接現れることから分かる。行き来
する世界を個々に存在させない「行きて帰りし物語」を描くことは、観客に現実とファン
タジーの境目を曖昧に感じさせる効果がある。
次に、2 つ目の相違点として、1 つ 1 つの行って帰る行動に「心理的必然性」を取り入
れている点がある。多くの物語の場合、そこに信頼関係がなくとも異形のものに頼みごと
をするのは可能だ。しかし、
『となりのトトロ』では、終盤にサツキが「迷子のメイを探し
てほしい」
とトトロに頼むまでに、
両者の間の心理的な距離が縮まる描写がなされている。
我々の暮らす現実世界においても、人に頼み事をする際には、信頼関係を構築しておく必
要がある。トトロとの付き合い方も、我々の人付き合いと同様に描かれているのだ。心理
的必然性を踏まえて物語を描くことは、観客の日常に近い世界観を作り出す。それが、現
実と繋がりを持つと感じさせる「本当らしさ」に繋がるのである。
62
そして、3 つ目の相違点は、行き来する世界の捉え方だ。多くの「行きて帰りし物語」
は、A→B→A’の方式を持っている。A は現実世界、B は異世界、A’は異世界へ行った後に
帰ってきた現実世界である。世界 A’は、登場人物が一旦 B へ行くことによって成長し、周
りの環境の捉え方も変化するために、A から姿を変えた A’となる。行って帰るという行動
は、広義の通過儀礼であると定義できるため、登場人物にとって 3 つの世界が存在するの
である。このような A→B→A’の図式を持つ物語に対して、
『となりのトトロ』はα→β
(A
B)の図式を持つ。ここでは、世界 A’は描かれていない。従来の「行きて帰りし物語」
のように、現実世界から異世界へ行くことが姉妹の通過儀礼とはなっていないからだ。世
界 B の存在を知ったからといって、姉妹の現実世界での生活は状況が変化せず、姉妹が状
況を変えようと行動する描写も見られない。
また、
この物語では全てのトトロとの交流に、
行って帰る行動が描かれているわけではない。トトロの世界と姉妹の世界を行き来する描
写が明確に描かれている場面は、最初と最後の交流のシーンのみである。境界線を踏み越
え、特別な通路を経由して異世界へ行く表現を描きつつも、実際に姉妹の住む場所にトト
ロもまた住んでいるという表現を用いている。このような設定に加えて、トトロと姉妹の
交流を中心に物語を描くことで、トトロが「現実にも存在するかもしれない」という思い
を観客に抱かせるだろう。
第Ⅱ章では、物語に具体性を持たせるモチーフについて考察した。まず、第Ⅰ章でも述
べた「世界α」を用いた意図について考えた。世界αは、姉妹が田舎に引っ越してくる前
の都会である。引越しのシーンが物語の冒頭で描かれており、ここから、姉妹が元に住ん
でいた世界から新しい世界に越してきたのだと分かる。宮崎がここで世界αから世界βへ
移動する設定を用いた大きな理由として、
「引っ越し」は異世界へ向かう気持ちを我々が現
実世界で体験できる出来事だという点が挙げられる。子どもにとって引っ越しは、周りの
環境が何もわからないまま新しい地に赴くために、不安や期待が伴う。ここから、引っ越
しは多くの子どもや、かつて子どもだった大人にとって、異世界へ行く気持ちをありあり
と感じさせてくれる体験だと分かる。トトロの住む異世界との交流の予告として、現実世
界に存在し観客が経験しうる引っ越しという出来事を描くことで、作品の中心となる異世
界への行き帰りが受け入れられやすくなるはずだ。
また、宮崎アニメでは 2 つのモチーフが頻繁に登場する。1 つは、物が出来上がる「過
程」である。現実世界に存在するあらゆるものは、人間の手が加えられていると我々は知
っている。また、物が出来上がる過程だけでなく、トトロと姉妹の心の距離が縮まる過程
63
も描かれている。アニメーションの中に過程を描くことは、観客に、
「虚構の世界でありな
がらも、現実世界と繋がっている」と感じさせるだろう。
次に、
「飛翔」のモチーフが挙げられる。宮崎アニメにおける飛翔の表現は、多くがフロ
イトの夢判断を通して分析されるが、
『となりのトトロ』での飛翔は、トトロと姉妹の距離
感を示したものである。不安の解消のために飛翔させているという意見もあるが、作中に
描かれる姉妹の不安はトトロとの飛翔の前にすでに解消されている。トトロと共に飛翔す
るシーンを境に、
姉妹とトトロとの関わり方がそれ以前よりも親しく描かれているために、
飛翔によって両者の距離間が縮まったと考える方が適当である。
また、飛翔を描くことは視覚的に観客を楽しませることに繋がる。ここでは、飛翔の運
動の中に落下を描くことで、観客に高揚感や「本当らしさ」を感じさせている。従来のア
ニメーション作品での飛翔の描写は、多くが水平的な運動として描かれる。しかし、この
ような飛翔は、
「憧憬の的である現実離れした飛翔」であり、確かに観客を惹き付けはする
が、そこから得るイメージは憧憬にとどまる。宮崎は、憧憬の飛翔を、より人々にとって
現実性を帯びたものにするために、あえて落下を描き、重力の存在を表現するのだろう。
第Ⅲ章では、宮崎アニメの絵について考察した。まず、登場人物の感情の表現に注目す
ると、従来のアニメーション作品では静止画やデフォルメが頻繁に使用されている。これ
らの表現は、観客に登場人物の感情を端的に分かりやすく伝え、制作費や制作時間を短縮
できるメリットがある。しかし、宮崎は、アニメーション映画で過剰表現を使用せずに、
感情などは絵に演技をさせで観客に伝えようと試みる。過剰表現や静止画を用いず、飽く
まで実写の映画のように絵に演技をさせる表現は、アニメーションの垣根を越えて、観客
に現実の世界での出来事を思い起こさせる「本当らしさ」に繋がる。
観客が作り物であるアニメーション映画を見て「本当らしい」と感じるのは、絵に、観
客の体験や記憶を見出すからであろう。背景や舞台の描写では、観客に既視感を抱かせる
「本当らしさ」の表現が求められる。そこで宮崎は、アニメーション映画制作の際に架空
の風景は描かず、ロケハンを行い、実際に自分の目で見た風景を描いている。宮崎にとっ
てのロケハンは決して単に写実的な風景をなぞった設定を生み出す目的ではない。実際に
ある景色を描くことが見る側に現実感を抱かせると考えるからだろう。観客は、アニメー
ションの中に描かれた風景であるにもかかわらず、
「そのままどこかにありそうだ」と感じ
るはずだ。
64
また宮崎は、写実的な世界を描きながらも、そこに人の目を通した見え方の再現を心掛
けている。建物の外観や配置はロケハンで得た情報をそのまま使用し、そういったものが
登場人物のその時の心情などでどう変化して見えるかを考えた上で描かれている。
最後に、第Ⅳ章では、骨組みとなる構造、物語を具体化するモチーフ、アニメーション
の表現としての絵の、それぞれの「本当らしさ」の演出を踏まえた上で飛翔のシーンに注
目し、物語を構成する要素を総合的に考察した。そうすると、1 つのモチーフにおいても、
それが登場する理由や必然性が、物語全体を通して描かれているのだと分かった。アニメ
ーション映画を構成する全ての要素は、関連性を持って描かれているのである。
また、
『となりのトトロ』では、
「トトロとの交流の話」と「家族の話」の、2 つの物語
が並行して描かれている。トトロとの交流をメインに描く中にも、家族の話が寄り添う形
で存在しているのだ。日常の中に非日常の出来事を描くことは、観客に、映画の中の出来
事が現実であるかのように感じさせる「本当らしさ」に繋がる。また、飛翔シーンでトト
ロとの交流の話がクライマックスを迎えると同時に、物語の中心は、家族の話に移る。2
つの話に接点を持たせ、さらに双方を観客に納得できる形で終わらせることで、統一性の
ある作品に仕上がる。
以上のようなことから、宮崎の「本当らしさ」とは、観客が、映画の中の出来事に共感
し、納得するような演出であると分かった。
宮崎アニメが国内外を問わずに人気を博す理由は、アニメーション映画を構成する 3 つ
の要素に、それぞれの「本当らしさ」の演出が統一性を持って表現されているからである。
アニメーションにしか出来ないファンタジーの表現を散りばめながらも、そこに我々の日
常生活を彷彿とさせるような描写を織り交ぜて、現実世界との結びつきを感じさせる宮崎
アニメは、多くの人々に、現実を見出す「本当らしさ」を抱かせることに繋がる。それが
結果的に、
宮崎アニメが、
老若男女の垣根を越えて受け入れられる要因となったのだろう。
65
注
1
草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』(徳間書店 2003.7)p.82
2
増田弘道『もっとわかるアニメビジネス』(NTT 出版 2011.8)p.85
3
増田弘道『もっとわかるアニメビジネス』(NTT 出版 2011.8)p.87
4
さくらももこ『ちびまる子ちゃん』(『りぼん』集英社 1986-1996)をテレビアニメ化し
た作品(日本アニメーション 1990.1-1992.9、1995.1-放送中)。小学生のももこ(まる子)
の学校や家での出来事を描いた物語である。
5
「いい映画を作れる現場を維持していきたい、それだけなんです」(『アニメージュ 5 月
号』徳間書店 1991.5)→宮崎駿『出発点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.123
1988 年公開(配給=東宝)の宮崎駿監督作品。世界大恐慌時のイタリア・アドリア海を舞
6
台にした、飛行艇を乗り回す空中海賊と、賞金稼ぎで生きる豚の飛行艇乗りの物語であ
る。(叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社 2006.3 p.152)
7
斉藤守彦『宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由』(朝日新聞出版
2008.7)p.63
8 2001 年公開(配給=東宝)の宮崎駿監督作品。10 歳の少女、千尋がトンネルの向こうにあ
る不思議な世界に迷い込む物語である。(叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社 2006.3
p.152)
9
ディズニー映画において 1994 年に制作された『ライオン・キング』以降、アメリカでヒ
ットの目安とされる興行収入 1 億ドルのラインに届いた作品は、14 作品中わずか 5 作品
であった。(パトリック・アマシス『オタク・イン・USA 愛と誤解の Anime 輸入史』太
田出版 2006.9 p.25)
10
パトリック・アマシス『オタク・イン・USA 愛と誤解の Anime 輸入史』(太田出版
2006.9)p.25
11 1994 年公開(配給=ブエナ・ビスタ)のロジャー・アレーズ監督作品。動物界の王である
ライオンのムサファは、息子シンバを跡取りにするために王の心構えを教える。 (『ライ
オン・キング』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 2003)
12 「失われた世界への郷愁」(『月刊絵本別冊アニメーション』すばる書房
駿『出発点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.47
66
1979.3)→宮崎
13 1988 年公開(配給=東宝)の宮崎駿監督作品。都会から田舎へ引っ越してきた姉妹と、森
の主と呼ばれるトトロとの交流を描いた物語である。(叶精二『宮崎駿全書』フィルム
アート社 2006.3 p.110)
14
宮崎駿などの物語をジョセフ・キャンベルの単一神話論を通して読み解き、物語には構
造だけしか存在しないと述べる。大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿――構造し
かない日本』(角川書店 2009.7)
15
宮崎アニメには、文明批判的性格が目に見える形で付与されているとし、アニミズムの
視点から作品に込められたメッセージを考察している。宮崎が創作活動を通じて、現代
の社会にどのようなメッセージを送ろうとしているのかが述べられている。野村幸一郎
『宮崎駿の地平――広場の孤独・照葉樹林・アニミズム』(白地社 2010.4)
16
有機体的なサイクルに着目し、宮崎駿監督作品を読み解き、宮崎駿の感性と思考につい
て考察している。村瀬学『宮崎駿の「深み」へ』(平凡社 2004.10)
17
『となりのトトロ』は、セルという合成樹脂の薄い板に絵の具で絵を描き、撮影するセ
ルアニメーションである。セルアニメーション以外にも、紙に絵を描くペーパーアニメ
ーション、粘土の形状を少しずつ変えて撮影する、粘土(クレイ)アニメーションなども
ある。(津堅信之『アニメーション学入門』平凡社 2005.9 p.90-95)
18
津堅信之『アニメーション学入門』(平凡社 2005.9)p.18
19
The Hero with a Thousand Faces(『千の顔を持つ英雄』)や、Myths(『神話―人類の
夢と真実』)、Mythic Image(『神話のイメージ』)などの著書がある。ユング流の心理
学に依って、神話解釈をしている。例えば、エデンの園の蛇については、インドのヨー
ガやギリシャのヘルメスの杖などを紹介しながら、蛇の持つ死と再生、輪廻、超越とい
ったイメージが共通していることを示す。(ジョセフ・キャンベル『神話のイメージ』
大修館書店 1991.7 p.iii)
20
「メアリーは貧乏だったが、宝くじに当たって金持ちになった。
」という物語は、
「メア
リーは貧乏だった」
、
「メアリーは宝くじに当たった」
、
「メアリーは金持ちになった」と
いう小さな物語の複合で構成される。この小さな物語の単位を、ミニマル・ストーリー
と呼ぶ。プロップの用語では「機能」と称される。(ジェラルド・プリンス『物語論辞
典』松柏社 1991.5 p.29)
21
被写体をフレーミングで撮影した映像の連続。どの部分をフレーミングするかによって、
情報の内容が異なってくる。従来は、
「ショット」としていたが、現在では「カット」(フ
67
ィルムを切る)という動詞が名詞として使用されるようになった。(横田正夫『アニメー
ションの辞典』朝倉書店 2012.7 p.373)スタジオジブリ絵コンテ全集『となりのトトロ』
において、
「カット」の方が用語として使用されているため、本論文でも「カット」を
用いる。
22
例えば、人物の正面の顔を映してから、人物の後ろ姿と共に視線の先にある物を映した
いとする。実写の場合は、人物の周りにレールを引くなどしてカメラを回り込ませる動
きが可能である。しかしアニメーションの場合は、被写体が平面であるため、カメラの
動きによって映す角度を変えることができない。絵を描き変えて、いくつかのカットを
組み合わせて表現する必要がある。
23
類似した物語を、ストーリーやプロット、モチーフに基づいて類型化したもの。
24
例えば、同類の作品として、パトリシア・ライトソン『星に叫ぶ岩ナルガン』(評論社
1982.4)や柏葉幸子『天井うらのふしぎな友だち』(講談社 2006.5)などが挙げられる。
また、善行を行えば困難なときに自然界の神が助けてくれる発想は、民話『笠地蔵』に
連なる。トトロの場合は「傘」を貸すことで、結果的にトトロの助けによって迷子のメ
イを見つけ出すことができた。(叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社 2006.3
p.116-117)
25
大塚英志
『物語論で読む村上春樹と宮崎駿――構造しかない日本』
(角川書店2009.7)p.13
26
草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』(徳間書店 2003.7)p. 235
27
アメリカにおいて日本製アニメーション作品は「性と暴力以外の何ものでもない」とい
う認識があった。例えば、
『美少女戦士セーラームーン』(東映動 1992.3-1997.2)が変身
後にミニスカートを着用して敵と戦う描写には、
「セーラー戦士」を色情的にしたいと
いう年長の男性の欲望があるとされた。日本版では同性愛的主題を含んでいたが、米国
版では全面的に削除されている。この作品は日本では人気が高く、カナダやアメリカで
も一部に熱狂的ファンはいたものの、視聴率は低く、アニメ放送の翌年に降板となった。
また、
『鉄腕アトム(米題:アストロ・ボーイ)』(虫プロダクション 1963.1-1966.12)は子
ども向けの番組でありながらも、アトムが敵のロボットを破壊したり、博士がアトムを
サーカス団に売ったりと人身売買を思わせる描写があることから問題となった。(草薙
聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店 2003.7 p.223)
28
「行きて帰りし物語」(or There and Back Again)という言葉は、トールキン著(瀬田貞
二訳)『ホビットの冒険』(岩波書店 2002.12)の副タイトルに出てくる。
68
29 2001 年公開(配給=ブエナ・ビスタ)のピート・ドクター監督作品。子どもの悲鳴をエネ
ルギーに変換し、モンスターの世界に供給する物語である。人間の子どもは危険だと認
識される中、1 人の子どもがモンスター界に入ってきてしまう。その際の、モンスター
と子どもの絆を描いている。(『モンスターズインク』ブエナビスタ・ホーム・エンタ
ーテイメント 2007)
30 2001 年公開(配給=ワーナー・ブラザーズ)のクリス・コロンバス監督作品。両親を亡く
し、孤独な日々を送っていたハリーに、ある日魔法学校の入学案内が届く。人間界と魔
法界の双方を行き来し、額の傷に秘められた謎を明かしてゆく。闇の魔法使いヴォルデ
モートとの因縁を描いた物語である。J.k.ローリング原作の同名小説の映画化シリーズ。
(『ハリー・ポッターと賢者の石』ワーナー・ホーム・ビデオ 2010)
31 1934 年、ロック・ネス湖にネッシーが現れ、その姿を 100 人が目撃したと報じられた。
(1934 年 1 月 31 日 朝日新聞 朝刊)さらに、1973 年にはツチノコの存在が広まり社会
現象となっている。現に、和歌山県で 23 人もの人々がツチノコを探し求めたというニ
ュースが新聞で取り上げられた。(1973 年 6 月 18 日 朝日新聞 朝刊)
32
都市伝説や噂は、誰の身にも起こりうる出来事として人々の間で語られる。人が噂を信
じる大きな理由は、それが聞き手の感情や考え方、経験などに合致するからである。も
っともらしい噂は、より人々の心に共鳴し、
「本当に起こりうる」と認識させる。(ニコ
ラス・ディフォンツォ『うわさとデマ 口コミの科学』講談社 2011.6 p.185-186)
33
瀬田貞二『幼い子の文学』(中央公論社 1980.1)p.31
34
斎藤次郎『行きて帰りし物語』(日本エディタースクール出版部 2006.8)p.16
35 2009 年公開(配給=ワーナー・ブラザーズ)のスパイク・ジョーンズ監督作品。モーリス・
センダック著『かいじゅうたちのいるところ』(冨山房 1975.12)を映画化した作品。少
年マックスが母親と喧嘩をし、家を飛び出して辿り着いた先は怪獣の住む島であった。
その島での少年と怪獣の友情を描いた物語である。(『かいじゅうたちのいるところ』
ワーナー・ホーム・ビデオ 2010)
36
瀬田は、
「行きて帰りし物語」の 1 つの例として『幼い子の文学』(前出)の中で、絵本『た
ろうのバケツ』(福音館書店 1960.6)を挙げている。たろうが幼稚園で空き缶に色を塗っ
たり絵を描いたりして素敵なバケツを作り、それを動物に順々に見せて歩くという話で
ある。次の日に動物たちは、たろうのバケツを一日ずつ借りていく。鶏はそれをハンド
バッグにしたり、家鴨は行水に使ったり、犬は帽子にしたりと様々な用途にバケツを使
69
用した後たろうに返す。このような、単純な「行き帰り」も、
「行きて帰りし物語」だ
と伸べる。
37
斎藤次郎『行きて帰りし物語』(日本エディタースクール出版部 2006.8)p.16
38
島田裕巳『映画は父を殺すためにある――通過儀礼という見方』(筑摩書房 2012.5)p.96
39
岸正尚『宮崎駿、異界への好奇心』(青柿堂 2006.12)p.26
40
引っ越し先の新居へ向かう車の中、千尋は別れ際に友人に貰った花束を握りしめながら
不機嫌に後部座席に寝そべっている。千尋の表情と態度、また両親とのやり取りから、
千尋が引っ越さなければいけないことに不満を抱いていると分かる。
41
ここで言うトーンとは、物語全体の世界観を統一して伝える視覚的表現のことである。
42 1989 年公開(配給=東映)の宮崎駿監督作品。同名の児童文学を映画化した作品で、少女
の自立がテーマに設定されている。13 歳の魔女キキは古い習わしに従って独り立ちを
しなければならず、相棒の黒猫ジジと故郷を離れ、海辺の町コリコで生活を始めるとい
う物語である。(叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社 2006.3 p.133)
43
小川悦司『中華一番!』(『週刊少年マガジン』講談社 1995-1999)をテレビアニメ化し
た作品(日本アニメーション 1997.4-1998.9)。中国を舞台に、少年マオシンが中国の料
理界の頂点を目指す物語。
44
うえやまとち『クッキングパパ』(『モーニング』講談社 1985-連載中)をテレビアニメ
化した作品(サンシャインコーポレーション 1992.4-1995.5)。家庭や職場、学校などの
日常生活の中で登場人物が料理を作る物語。料理での勝負などの描写はなく、日常の出
来事に登場人物の作る料理が花をそえるストーリーとなっている。
45
赤塚不二夫『ひみつのアッコちゃん』(『りぼん』集英社 1962-1965、1968-1969)をテ
レビアニメ化した作品(東映動画 1969.1-1970.10)。魔法のコンパクトを手にした主人公
が、様々な姿に変身し、問題を解決していく。1960 年代からたびたびアニメ化されて
いる。
46 1974 年 4 月から 1975 年 9 月にかけて、放送された魔法少女物のアニメーション作品。
東映アニメーション制作。魔女の世界を舞台とした物語で、魔界の女王候補を争う駆け
引きが描かれている。
47
キキは、はじめのうちは生まれ持った才能として、無意識的に空を飛ぶことができてい
た。しかし、日常の中で自問自答を繰り返すうちに、急に空を飛べなくなってしまう。
70
空を飛ぶというキキの個性がなくなったときに、
「何のために空を飛ぶのか」という自
分自身への問いかけが始まる。
48
「失われた世界への郷愁」(『月刊絵本別冊アニメーション』すばる書房 1979.3)→宮崎
駿『出発点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.47
49 1978年4月から10月かけて放送された、
宮崎駿監督によるテレビアニメーション作品。
日本アニメーション制作。
50
切通利作『増補決定版 宮崎駿の〈世界〉
』(筑摩書房 2008.10)p.296
51 1985 年公開(配給=東映)の宮崎駿監督作品。19 世紀頃のヨーロッパを舞台に、少年パズ
ーが父親の意志を継ぐべく天空に浮かぶ城のラピュタを目指す物語である。(『天空の
城ラピュタ』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント 2002)
52 1900 年に発表された、ジークムント・フロイトによる夢に関する精神分析学の著作であ
る。
53
切通利作『増補決定版 宮崎駿の〈世界〉
』(筑摩書房 2008.10)p.317
54
「宮崎駿 講演記録」1982 年 早稲田大学構内講演『アニメージュ増刊 映画 風の谷の
ナウシカ GUIDE BOOK』徳間書店(1984.3)
55
切通利作『増補決定版 宮崎駿の〈世界〉
』(筑摩書房 2008.10)p.72
56
「飛行機乗りとしてのダール」(『ミステリマガジン』早川書房 1991.4)→宮崎駿『出発
点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.286
57 2008 年公開(配給=日活)のタナダユキ監督作品。主人公鈴子が友人とのトラブルで前科
持ちになってしまい、実家を離れて日本各地を百万円貯まる毎に転々としながら生活し
ていく姿を描いた物語である。(『百万円と苦虫女』ポニーキャニオン 2009)
58 2000 年公開(配給=BBC フィルムズ)のスティーブン・ダルドリー監督作品。イギリス北
部の炭坑町を舞台に、1 人の少年がバレエに夢中になり、性差を越えてバレエダンサー
を目指す過程を描いた物語である。(『リトル・ダンサー』アミューズ・ビデオ 2001)
59 2007 年公開(配給=ワーナー・ブラザーズ)のカーステン・シェリダン監督作品。ニュー
ヨーク近郊の孤児院で暮らす主人公エヴァンが孤児院を抜け出し、辿り着いたマンハッ
タンで様々な出会いを経て音楽の才能を開花させる物語である。(『奇跡のシンフォニ
ー』ポニーキャニオン 2008)
60 2001 年公開(配給=ロックウェル・アイズ)の岩井俊二監督作品。主人公蓮見雄一は同級
生の星野にいじめを受け、鬱憤した毎日を過ごしている。唯一の救いはリリイ・シュシ
71
ュというアーティストの歌を聴くことだという物語である。(『リリイ・シュシュのす
べて』ビクターエンタテインメント 2002)
61 2008 年公開(配給=東宝)の宮崎駿監督作品。人面魚のポニョが人間の男の子宗助に恋を
して、魔法の力を使い人間になろうとする物語である。(『崖の上のポニョ』ウォルト
ディズニースタジオホームエンターテイメント 2009)
62
NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」において、
『崖の上のポニョ』の制作過程に
ついてドキュメンタリーとして放送された。(『ポニョはこうして生まれた。~宮崎駿の
思考過程~』スタジオジブリ 2009)
63 25 分前後のアニメーション作品であれば 15000 枚~20000 枚の動画が必要だったが、3
コマ撮りや繰り返しなどの手法が用いられた間引きアニメの動画数は 1500 枚~2000
枚前後であった。(津堅信之『日本アニメーションの力 85 年の歴史を貫く 2 つの軸』
NTT 出版株式会社 2004.3 p.140-142)
64
桜場コハル『みなみけ』(『週刊ヤングマガジン』講談社 2004-連載中)をテレビアニメ
化した作品(童夢 2007.10-2007.12)。南家の三姉妹の日常を描いた物語である。
65
叶精二『宮崎駿全書』(株式会社フィルムアート社 2006.3)p.110
66
櫛田磐『アニメ文化と子ども~ディズニーの真価がわかるあなたに~』(日本図書刊行会
2001.11)p.19
67
『BRUTUS No.690 ブルータスのスタジオジブリ特集』(マガジンハウス 2010.7)p.86
68
1997 公開(配給=東宝)の宮崎駿監督作品。森を守る「もののけ」と、たたら場で暮らす
人間の争い絵を描いた物語である。(『もののけ姫』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンタ
ーテインメント 2001)
69
切通理作『増補決定版 宮崎駿の〈世界〉
』(筑摩書房 2008.10)p.106-107
70 1950 年公開(配給=RKO Radio Pictures)のウィルフレッド・ジャクソン監督作品。シャ
ルル・ペロー『シンデレラ』(西村書房 1989.5)が原作となっている。継母の元で暮らす
シンデレラが、魔法によって着飾り、舞踏会へ行って王子と結ばれる物語である。ミュ
ージカル調の作品に仕立てられており、馬や犬、猫などの動物はディズニーによるオリ
ジナルのキャラクターである。(『シンデレラ スペシャル・エディション』ブエナ・ビ
スタ・ホーム・エンターテインメント 2005)
71
1953 年公開(配給= RKO Radio Pictures)ウィルフレッド・ジャクソン監督作品。1953
年 2 月に公開された。3 姉弟がピーター・パンとティンカーベルの魔法によって、空を
72
飛んでネバーランドへ向かう物語である。ジェームス・マシューバリー『大人になりた
くないピーター・パン』(大阪教育図書 2007.1)が原作となっている。(『ピーター・パ
ン』ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント 2010)
72「日本のアニメーションについて」
『講座
(
日本映画 7 日本映画の現在』
岩波書店 1988.1)
→宮崎駿『出発点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.109
73
フルアニメーションは、1 コマ、2 コマ撮りを基本とするアニメーションで、細かな動
きの再現に適している。反対に、テレビ作品のように様々な技法を駆使してセル画枚数
を減らしたアニメーションを、リミテッドアニメーションと言う。(神村幸子『アニメ
ーションの基礎知識大百科』グラフィック社 2009.9 p.185,202)
74
「日本のアニメーションについて」(『講座 日本映画 7 日本映画の現在』岩波書店
1988.1)→宮崎駿『出発点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.109
75
「日本のアニメーションについて」(『講座 日本映画 7 日本映画の現在』岩波書店
1988.1)→宮崎駿『出発点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.108
76
作:梶原一騎、画:川崎のぼるによる漫画『巨人の星』(『週刊少年マガジン』講談社
1966-1971)をテレビアニメ化した作品(東京ムービー 1968.3-1971.9)。主人公星飛雄馬
は幼いころから、かつて野球選手であった父親の一徹に野球の英才教育を受ける物語で
ある。(『巨人の星 Vol.1』ワーナー・ホーム・ビデオ 2001)
77
武内直子原作の漫画『美少女戦士セーラームーン』(『なかよし』講談社 1992-1997)を
テレビアニメ化した作品(東映動画 1992.3-1997.2)。中学 2 年生の月野うさぎが、ある
日、言葉を話す不思議な黒猫ルナと出会う。その出会いをきっかけに、
「セーラームー
ン」として、仲間と共に街の平和を守っていくという物語である。(『美少女戦士セー
ラームーン Vol.2』TOEI COMPANY,LTD.2009)
78
宮崎アニメ『となりのトトロ』のノベライズ小説(久保つぎこ『小説 となりのトトロ』
徳間書店 1988.4)。映画のストーリーを基本としているが、引っ越し前の都会での親戚
とのやり取りなど、細かなミニマル・ストーリーが付け足されている。
79
『小説 となりのトトロ』(徳間書店 1988.4)p.103
80
『小説 となりのトトロ』(徳間書店 1988.4)p.104
81
叶精二『宮崎駿全書』(株式会社フィルムアート社 2006.3)p.118
82
叶精二『宮崎駿全書』(株式会社フィルムアート社 2006.3)p.129
83
中川李枝子 解説『徳間アニメ絵本 4 となりのトトロ』(徳間書店 1988.6)
73
84
切通利作『増補決定版 宮崎駿の〈世界〉
』(筑摩書房 2008.10)p.266
85
秋田県南秋田郡五城目町や宮城県栗原市、茨城県つくば市に「稲荷前」の地名がある。
また、横浜市青葉区には稲荷前古墳群がある。稲荷神を祀った「稲荷神社」
「稲荷社」
は、全国各地にみられる。
86
叶精二『宮崎駿全書』(株式会社フィルムアート社 2006.3)p.115
87
切通利作『増補決定版 宮崎駿の〈世界〉
』(筑摩書房 2008.10)p.46
88
「トトロは懐かしさから作った作品じゃないんです」(『ロマンアルバム となりのトト
ロ』徳間書店 1988.6)→宮崎駿『出発点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.486
89
「トトロは懐かしさから作った作品じゃないんです」(『ロマンアルバム となりのトト
ロ』徳間書店 1988.6)→宮崎駿『出発点 1979~1996』(徳間書店 1996.7)p.486
90 1974 年から「カルピスこども劇場」の枠のシリーズとして放送された。少女ハイジが白
銀の山アルムの山小屋に預けられ、自然に囲まれて生活する様が描かれている。日常芝
居を追求し、見ている子どもたちにとっての「もうひとつの日常」を作り上げたこの作
品は、日本のみならず世界各国でも好評を得ることとなった。(切通理作『増補決定版 宮
崎駿の〈世界〉
』筑摩書房 2008.10 p.261)
91 1976 年から「カルピスこども劇場」の枠のシリーズとして放送された。アルゼンチンへ
出稼ぎに行ったまま音信不通となった母親を尋ねて一人旅に出る少年マルコが、何度も
居所を変える母とその雇い主を追いかけ、旅する姿を描いた作品。 (切通理作『増補決
定版 宮崎駿の〈世界〉
』筑摩書房 2008.10 p.261)
92
叶精二『宮崎駿全書』(株式会社フィルムアート社 2006.3)p.111
93
1965 年公開(配給=ブエナ・ビスタ)のロバート・スティーブンソン監督作品。いたずら
好きの姉弟の元へ、ベビーシッターとして空からメリーがやってくるという物語である。
(『メリー・ポピンズ スペシャル・エディション』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンター
テイメント 2005)
94
切通利作『増補決定版 宮崎駿の〈世界〉
』(筑摩書房 2008.10)p.317
95
宮崎駿『スタジオジブリ絵コンテ全集 3 となりのトトロ』(徳間書店 2001.6)
96
「サン=テグジュペリの飛んだ空」(『波』新潮社 1998.11)→宮崎駿『折り返し点
1997~2008』(岩波書店 2008.7)p.218
97
2010 年公開(配給=パラマウント)のクリスサンタース監督作品。バイキングの主人公少
年ヒックはある日、傷を負ったドラゴンと出会う。2 人は友情を育み、やがてバイキン
74
グ一族の未来をも変える奇跡を起こすという物語である。(白方啓文『CINEMA
Handbook 2012』カルチュア・コンビニエンス・クラブ 2011.12 p.96)
98 2006 年公開(配給=シネカノン)の李相日監督作品。
昭和 40 年の福島県いわき市の常磐炭
鉱を舞台にした、ハワイアンセンターの誕生から成功までを描いた実話の物語である。
(『フラガール』ハピネット・ピクチャーズ 2007)
99
2004 年公開(配給=東宝)の岩井俊二監督作品。中学生の頃から親友である新井花と有栖
川徹子の入学した、手塚高校の花の憧れの先輩を巡る奇妙な関係を描いた物語。(『花
とアリス』アミューズソフトエンタテインメント 2004)
100
2004 年公開(配給=東宝)の宮崎駿監督作品。魔法使いで世間から嫌われているハウルと、
彼の優しさに気付いたソフィーが、大切な人を守るために困難を乗り越えようとする物
語である。(叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社 2006.3 p.274)
101
叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社 2006.3 p.115
75
参考文献
・ 青井汎『宮崎アニメの暗号』新潮社(2004.8)
・ 石原千秋『読むための理論――文学・思想・批評』世織書房(1991.6)
・ 石原陽一郎『映画批評のリテラシー ――必読本の読み方/批評の書き方(Cine Lesson)』
フィルムアート社(2001.9)
・ 内田樹『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』文藝春秋(2011.4)
・ ウラジーミル・プロップ『昔話の形態学』書肆風の薔薇(1987.8)
・ 大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出出版(2002.10)
・ 大塚英志『ストーリー・メーカー 創作のための物語論』アスキー・メディアワーク
ス(2008.10)
・ 大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿――構造しかない日本』角川書店(2009.7)
・ 大塚康夫『作画汗まみれ 増補改訂版』徳間書店(2001.5)
・ 大塚康夫『リトル・ニモの野望』徳間書店(2004.7)
・ 柏葉幸子『新装版 天井うらのふしぎな友だち』講談社 (2006.5)
・ 加藤幹郎『アニメーションの映画学』臨川書店(2009.3)
・ 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社(2006.3)
・ 神村幸子『アニメーションの基礎知識大百科』グラフィック社(2009.9)
・ 川田修『ロマンアルバム『月刊アニメージュ』の特集記事で見るスタジオジブリの軌
跡 1984-2011』徳間書店(2011.4)
・ 岸正尚『宮崎駿、異界への好奇心』青柿堂(2006.12)
・ 切通理作『増補決定版 宮崎駿の<世界>』筑摩書房(2008.10)
・ 草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店(2003.7)
・ 櫛田磐『アニメ文化と子ども~ディズニーの真価がわかるあなたに~』日本図書刊行
会(2001.11)
・ 久保つぎこ『小説 となりのトトロ』徳間書店(1988.4)
・ 久美薫『宮崎駿の仕事 1979~2004』鳥影社(2004.11)
・ 久美薫『宮崎駿の時代』鳥影社(2008.9)
・ 黒澤明『何が映画か――「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店(1993.8)
・ 米村みゆき『ジブリの森へ――高畑勲・宮崎駿を読む』森話社(2003.12)
76
・ 西條勉『千と千尋の神話学』新典社(2009.6)
・ 斎藤次郎『行きて帰りし物語』日本エディタースクール出版部(2006.8)
・ 斉藤環『
「運動」の理論 あるいは表象コンテクスト試論』[ユリイカ 8 月臨時増刊号
第 29 巻第 11 号 総特集 宮崎駿の世界]青土社(1997.8)
・ 斉藤守彦『宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由』朝日新聞出版
(2008.7)
・ 佐分利敏晴『千尋の愛が生まれる作画――千尋の身体と動きの観察を通して』[ユリ
イカ 8 月臨時増刊号第 33 巻第 10 号 総特集=宮崎駿『千と千尋の神隠し』の世界 フ
ァンタジーの力]青土社(2001.8)
・ 島田裕巳『映画は父を殺すためにある――通過儀礼という見方』筑摩書房(2012.5)
・ ジェラルド・プリンス『物語論辞典』松伯社(1991.5)
・ ジャン=ミシェル・アダン『物語論――プロップからエーコまで』白水社(2004.4)
・ ジョセフ・キャンベル『神話のイメージ』大修館書店(1991.7)
・ 白方啓文『CINEMA Handbook 2012』カルチュア・コンビニエンス・クラブ(2011.12)
・ 鈴木敏夫『仕事道楽――スタジオジブリの現場』岩波書店(2008.7)
・ 鈴木敏夫『ジブリの哲学――変わるものと変わらないもの』岩波書店(2011.8)
・ スタジオジブリ責任編集『スタジオジブリ作品関連資料集Ⅰ』徳間書店(1996.6)
・ スタジオジブリ責任編集『スタジオジブリ作品関連資料集Ⅱ』徳間書店(1996.8)
・ スタジオジブリ責任編集『スタジオジブリ作品関連資料集Ⅲ』徳間書店(1996.10)
・ スタジオジブリ責任編集『スタジオジブリ作品関連資料集Ⅳ』徳間書店(1996.12)
・ スタジオジブリ責任編集『スタジオジブリ作品関連資料集Ⅴ』徳間書店(1997.2)
・ 瀬田貞二『幼い子の文学』中央公論社(1980.1)
・ 高橋光輝『アニメ学』NTT 出版(2011.4)
・ 高畑勲『映画を作りながら考えたこと』徳間書店(1991.8)
・ ダニエル・アリホン『映画の文法――実作品にみる撮影と編集の技法』紀伊国屋書店
(1980.1)
・ 津堅信之『日本アニメーションの力 85 年の歴史を貫く 2 つの軸』NTT 出版(2004.3)
・ 津堅信之『アニメーション学入門』平凡社(2005.9)
・ トーマス・ラマール(大崎晴美 訳)『アニメは越境する』岩波書店(2010.7)
・ 富野由悠季『映像の原則改訂版 ビギナーからプロまでのコンテ主義』キネマ旬報社
77
(2011.9)
・ ニコラス・ディフォンツォ『うわさとデマ 口コミの科学』講談社(2011.6)
・ 野田高梧『シナリオ構造論』宝文館出版(1952.8)
・ 野村幸一郎『宮崎駿の地平――広場の孤独・針葉樹林・アニミズム』白地社(2010.4)
・ パトリシア・ライトソン『星に叫ぶ岩ナルガン』評論社 (1982.4)
・ パトリック・アマシス『オタク・イン・USA 愛と誤解の Anime 輸入史』太田出版
(2006.9)
・ ハワード・スーバー(森マサフミ 訳)『パワーオブフィルム 名画の法則』キネマ旬報
社(2010.9)
・ 双葉十三郎『映画の発見』藤森書店(1977.9)
・ フランク・トーマス『ディズニーアニメーション 生命を吹き込む魔法―The Illusion
of Life―』徳間書店(2002.4)
・ フロイト『フロイト著作集 第二巻』人文書院(1968.12)
・ ベラ・バラージュ(佐々木基一 訳)『映画の理論』學藝書林(1992.3)
・ 堀田善衛『時代の風音』朝日新聞社(1997.2)
・ 前田愛『都市空間の中の文学』筑摩書房(1992.8)
・ 正木晃『
「千と千尋」のスピリチュアルな世界』春秋社(2009.7)
・ 増田弘道『もっとわかるアニメビジネス』NTT 出版(2011.8)
・ 宮崎駿『出発点 1979~1996』徳間書店(1996.7)
・ 宮崎駿『宮崎駿の雑想ノート』大日本絵画(1997.8)
・ 宮崎駿『スタジオジブリ絵コンテ全集 3 となりのトトロ』徳間書店(2001.6)
・ 宮崎駿『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』ロッキング・オン(2002.7)
・ 宮崎駿『泥まみれの虎 宮崎駿の妄想ノート』大日本絵画(2002.8)
・ 宮崎駿『飛行艇時代』大日本絵画(2004.11)
・ 宮崎駿『折り返し点 1997~2008』岩波書店(2008.7)
・ 宮崎駿『トトロの住む家 増補改訂版』岩波書店(2011.1)
・ 宮崎駿『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』岩波書店(2011.10)
・ 村瀬学『宮崎駿の「深み」へ』平凡社(2004.10)
・ 村山桂子『たろうのばけつ』福音館書店(1960.6)
・ モーリス・センダック『かいじゅうたちのいるところ』冨山房 (1975.12)
78
・ 八住利雄『シナリオ・演出・演技――映像芸術の原点』ダヴィッド社(1982.7)
・ 山口康男『日本のアニメ全史 世界を制した日本アニメの軌跡』テン・ブックス
(2009.6)
・ 山村浩二『カラー版 アニメーションの世界へようこそ』岩波書店(2006.6)
・ 養老孟司『虫眼とアニ眼』徳間書店(2002.7)
・ 横田正夫『アニメーションの辞典』朝倉書店(2012.7)
・ 吉村公三郎『映像の演出』岩波書店(1979.9)
・ リリアン H・スミス『児童文学論』岩波書店(1964.4)
・ ルイス・ジネアッティ(堤和子 訳)『映像技法のリテラシーⅠ 映像の法則』フィルム
アート社(2003.11)
・ ルイス・ジネアッティ(堤和子 訳)『映像技法のリテラシーⅡ 物語とクリティック』
フィルムアート社(2004.7)
・ ロラン・バルト『物語の構造分析』みすず書房(1979.11)
・ 脇明子『魔法ファンタジーの世界』岩波書店(2006.5)
・ J.R.R トールキン『妖精物語について――ファンタジーの世界』評論社(2003.12)
・ 『映画 風の谷のナウシカ GUIDE BOOK』徳間書店(1984.3)
・ 『徳間アニメ絵本 4 となりのトトロ』徳間書店(1988.6)
・ 『黒澤明 宮崎駿 北野武――日本の三人の演出家』ロッキング・オン(1993.9)
・ 『
「アニメージュ」の誌面を飾った宮崎駿 漫画映画の系譜 デビュー作から「千と千
尋の神隠し」まで 1963-2001』徳間書店(2001.6)
・ 『BRUTUS No.690 ブルータスのスタジオジブリ特集』マガジンハウス(2010.7)
79
参考 DVD
・ 『アルプスの少女ハイジ(1)』バンダイ・ビジュアル(1999)
・ 『となりのトトロ』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント(2001)
・ 『魔女の宅急便』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント(2001)
・ 『もののけ姫』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント(2001)
・ 『巨人の星 Vol.1』ワーナー・ホーム・ビデオ(2001)
・ 『天空の城ラピュタ』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント(2002)
・ 『紅の豚』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント(2002)
・ 『リリイ・シュシュのすべて』ビクターエンタテインメント(2002)
・ 『千と千尋の神隠し』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント(2002)
・ 『花とアリス』アミューズソフトエンタテインメント(2004)
・ 『シンデレラ スペシャル・エディション』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイ
ンメント(2005)
・ 『リトル・ダンサー』アミューズソフトエンタテインメント(2005)
・ 『ハウルの動く城』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント(2005)
・ 『メリー・ポピンズ スペシャル・エディション』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンタ
ーテインメント(2005)
・ 『モンスターズインク』ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメント(2007)
・ 『フラガール スタンダード・エディション』ハピネット・ピクチャーズ(2007)
・ 『奇跡のシンフォニー』ポニーキャニオン(2008)
・ 『みなみけ 1』キングレコード(2008)
・ 『崖の上のポニョ』ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント(2009)
・ 『ポニョはこうして生まれた。~宮崎駿の思考過程~』スタジオジブリ(2009)
・ 『美少女戦士セーラームーン Vol.2』TOEI COMPANY,LTD.(2009)
・ 『百万円と苦虫女』ポニーキャニオン(2009)
・ 『未来少年コナン 7』バンダイ・ビジュアル(2010)
・ 『ピーター・パン』ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント(2010)
・ 『ハリー・ポッターと賢者の石』ワーナー・ホーム・ビデオ(2010)
・ 『かいじゅうたちのいるところ』ワーナー・ホーム・ビデオ(2010)
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・ 『ライオン・キング スペシャル・エディション』ウォルト・ディズニー・ジャパン
(2011)
・ 『ヒックとドラゴン スペシャル・エディション』パラマウントホームエンタテイン
メントジャパン(2011)
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