「アイザック・ニュートン」 谷川俊太郎氏 続きの話の一可能性 エリザベスは

「アイザック・ニュートン」
続きの話の一可能性
谷川俊太郎氏
エリザベスは、集めたリンゴでアップルパイを作り、ニュートンを招く。ニュートンは少し
は失礼なことをしたと思っているので、渋々招きを受ける。
エリザベス リンゴは落ちるだけじゃないわ。こんなに美味しいパイにも変わることもでき
るのよ。さあ召し上がれ。
ニュートン リンゴが刻まれ、その半分の重量の砂糖をまぶされ、熱を加えられること
で形態と味が変化するのは素晴らしいことだ。
エリザベス でしょう。
ニュートン そしてそれを成し遂げた君の偉業にも感謝しよう、エリザベス。
エリザベス ありがとう。
ニュートン それになかなか美味だ。
エリザベス でしょう。
ニュートン しかし人間の所業なんて宇宙の真理の前では取るに足らない。ほら見てごらん。
このアップルパイですら自然の法則に逆らうことはできないのだ。(テーブル
からパイを落とす)
エリザベス (怒るよりあきれる)りんごも猿もアップルパイもあなたには一緒なのね。
ニュートン それだけじゃない。君もだよ。
エリザベス (不愉快な咳払いをひとつ。しかしニュートンは気付かない。)
ニュートン (陶酔気味に)我々人間もだよ。地球には物を引っ張る力がある。地球上の
生きとし生けるもの、そして生命を持たないものさえもが、そうあらゆるもの
が平等にその影響を受けつつ存在している。何てすばらしいことなんだろう。
エリザベス そうね。じゃあ聞くけど、星はなぜ落ちないの。なぜ太陽は落ちてこないの。
ニュートン (ぎょっとする)なぜだろう。それは考えつかなかった。
エリザベス 私は知っているわ。星は恋人に振り向いてもらえない孤独な魂をその煌めきで
慰めてくれる。太陽は、悲しみを忘れさせ、全てのものを光と生きるエネルギ
ーで満たしてくれる。そのためにルシフェルのように落とすことなく、神様が
天空に留めているんだわ。
ニュートン 悪魔とか神様、君はそんなものを信じるのか?
(突然、ドアがパタンと閉まる)
エリザベス 座敷わらしかしら。
ニュートン 極東のチャイルドモンスターか?馬鹿バカしい。風に決まっているだろう。
エリザベス でも窓はしまっているし、誰も動いてもいない。
ニュートン 原因はあるはずなんだ。
エリザベス ええ、座敷わらしが、あなたにちっとも思われない私を不憫に思って、無神経
なあなたにいたずらしたのよ。(コップをカタンとソーサーに置く)
(ドアが開く)
ニュートン 君、もしかして怒っている?怒っているよね、怒っているだろう。
エリザベス 別に。
ニュートン その言葉が証拠だ。女のヒステリーというのは、大気を振動させ、物を動かす
力があるのかもしれない。よし試してみよう。エリザベス、悪いけど、もう1
度怒ってみてくれないか。(エリザベスあきれて何も言えない)
エリザベス サンタクロースって知っている?
ニュートン クリスマスの夜、プレゼントを持って不法侵入するメタボじじいのことだろう。
大体、あの体型で煙突を通ってやってくるという非現実的なストーリー性には
笑ってしまうね。
エリザベス 子供の頃、サンタクロースの存在を信じてた?
ニュートン 餓鬼の頃はもしかして。でも物心ついた頃には、親がこっそりプレゼントを
用意してるってわかってたさ。
エリザベス 世の中にまだサンタクロースを信じている子供がいると思う?
ニュートン
それはいるだろう。
エリザベス
そんな子供たちに、プレゼントの原因を「はい実は親です」ってあなた言
える?
ニュートン
そんなことする必要性がないだろう。
エリザベス
ええ、必要性がないのよ。だってその子たちはサンタクロースを信じている
んだもの。そして「プレゼントの希望のお手紙、ちゃんと届いているかな」
「うちには煙突ないけど大丈夫かな」なんてことを含めて、1人1人が、そ
れぞれのサンタクロースの物語を紡いでいるの。その壮大なファンタジーの
総体を考えると、私は胸が熱くなる。それこそが私にとっての真理だと思え
るわ。
ニュートン
それじゃあ人類は神話の時代から何も変わらないじゃないか。
エリザベス
変わらなきゃいけないの?人間なんて食べて排泄して、子供産んで育てて、
子孫を残して死ぬ。ただそれだけの繰り返しじゃない。
ニュートン
子供を産んで育てるだけなんて女の視点そのものだ。産むことしかできない
性だからそんなことを言う。
エリザベス
では男は何をしたいの。
ニュートン
男は子孫を残せない。しかし産めない性にだって、何か残したい願望がある。
エリザベス
それは何。
ニュートン
そうか分かってきたぞ。大いなる原動力が。なぜ人間は偉大なる発見や発明
にたゆまない情熱を注いできたか。なぜ女性から傑出した人物が輩出されな
いのか。芸術も哲学も科学も社会も、そう繁殖以外のあらゆることが、出産
できないことのコンプレックスを克服するための男の壮大で熱い戦いの痕跡
だったのだ。(席を立ち、握手を求めながら)
エリザベス、お招きありがとう。今日はこれで失礼するよ。僕は、今とても
わくわくしているんだ。
エリザベス
(独り言)男は少年に戻る。
ニュートン
僕にも何か残せることをきっと君に証明してみせるよ。
エリザベス
(独り言)女は老婆になる。
ニュートン
ごきげんよう。エリザベス。
エリザベス
(落ちたアップルパイを拾いながら)地球は、あなたと私を引っ張るのに、
なぜあなたとわたしをつなぎとめるものはないのだろう。