生活科学研究誌・Vol. 6(2007) 《人間福祉分野》 子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性 ̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ 中井 孝章 大阪市立大学大学院生活科学研究科 Relevance between Children's Desire for Self-recognition and Expectation and Recognition from Parenrts : Child Research from a Standpoint of Post-humanism Takaaki NAKAI Graduate School of Human Life Science, Osaka City University Summary Generally, child growth development is through self-recognition via recognition by family, others (especially, opposite sex), and at school. Family recognition means that a child's existence is accepted unconditionally, and is the most unconditional compared with other forms of recognition. Therefore, family recognition is indispensable in a child’ s growth development. Family recognition can be the basis of social recognition at school or in society. However, family recognition has been considered to be the same as the recognition received from school or society. On the other hand, social recognition is equally valued as one received from family (parents), and the role of a school is being reversed with the role of parents. This article examines, through a questionnaire to pupils, how expectations of parents affect a child and how the child responds to these expectations to obtain recognition. The expectation of parents was analyzed and classified into three subcategories, namely, "sympathy for others", "being the top (meritocracy)", and "simple living". The main findings are as follows: (1) Parents expect "sympathy for others" for their child above all others, but not "simple living". (2) "Sympathy for others" is highly regarded by parents. (3) A child who feels the expectation of meritocracy, a system in which advancement is based on individual ability or achievement, tries to respond to it, but one who does not feel this expectation at all never does his (her) best. (4) A home where a lot of cultural capitals exist hardly require expectations of a child. Keywords:承認,プライド,イノセンス,親からの期待,文化資本 Recognition, Pride, Innocence, Expectation of parents, Capital of culture 1 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) 序 「人間は何のために生きるのか」から 「人間は何を求めて生きるのか」への 転回 くの異性にもてたい(性への欲望),良い会社に入って 人間は何のために生きているのか─この,古くて新 欲望は,名誉への欲望や名声への欲望に匹敵すると考え しい問いを宗教家や道徳家は元より,20世紀の前衛の人 られる(なかには,名誉や名声ではなく,心理学自助マ たち,すなわち実存主義と呼ばれる哲学者,新しくは「心 ニュアルや宗教書を売って,富やモノへの欲望を満たし の専門家」と称される心理学者は幾度も立て,自問自答 たいと思う,ビジネスライクな思索者もいるかも知れな 方式でその答えを捻出してきた。なかでも, 「心の専門家」 い)。 は,その自問自答の軌跡を心理学自助マニュアルとして 後述するように,こうしたさまざまな欲望は,最終的 一般大衆に向けて提示してきた。 には自己へと再帰していく。前述した例でいうと,他者 ところが,よくよく考えてみれば,その問いは生死の から認めてもらいたいということは,他者から承認され 意味を含めて人間の生き方(生)そのものに直結する究 る自己自身を自ら認めたいという自己承認(欲望)へと 極的なものであるがゆえに,その問いをより深く探究す 収斂するわけである。つまるところ,すべての欲望は, ればするほど,より一層わからなくなっていく類のもの 自己承認欲望へと回収されるのである。 であることがわかる。その屈折した心理を端的に表す言 あらためて述べると,「人間は何のために生きている 葉が意味の空白状態を指す「ニヒリズム」であろう。そ のか」という問いには有力もしくは究極の答えを見つけ して,ごく一部の「心の専門家」たちは,自らを“ニヒ ることは不可能である。しかしながら,「人間は何を求 リズムと闘うカウンセラー”と称して,ギリシャのソフィ めて生きるのか」という問いには有力な答えを見つける ストよろしく,人生に悩む多くの人たちに生きることの ことは充分可能である。それはすなわち,「∼が欲しい」 意味(“本来的な生き方”)を見出させるべく,彼らをセ とか「∼になりたい」といった欲望であり,さらに,他 ラピー文化へと誘導していった。 者からの承認欲望を通しての,自己承認欲望なのであ しかしながら,「人間は何のために生きているのか」 る。その意味では,一部の「心の専門家」のように, 「人 という問いやニヒリズムを担保とする答えの出し方は, 間は何のために生きているのか」という問いに固執した そもそも誤った前提もしくは世界観(形而上学)に依拠 り,心理学的な知見や道徳的・宗教的叡智に依拠しなが していると考えられる。そうした類の問いは,巷で話す らそれに対するもっともらしい答えを提示したりするこ 人生訓または哲学的トピックとしてはそれなりの意味が とは,自らの考え方や生き方を他者に認めてもらいたい あるとしても,それを究極的に問いつめることには到底 ということの裏返しであるかも知れない。 意味があるとは思えない。それ以前にそれは̶論理実 以上,本論文は,「人間は何のために生きているのか」 証主義の形而上学批判ほどシビアな論難ではないにして という解答不可能な問いからの呪縛を解いて,それを一 も̶,元来,答えのない不完全な問いもしくは無意味 定の答えを出し得る「人間は何を求めて生きるのか」と な問い,もっと言えば擬似問題に過ぎない。穿った見方 いう問いへと反転させながら,他者(親,学校,友だち をすると,“ニヒリズムと闘うカウンセラー”は,自ら 等々)から認めてもらいたいことをはじめ,さまざまな の顧客や読者を確保するために,答えが見出し得ないこ 欲望(欲望動機)をもつ子どもたちの成長発達のあり方 とを百も承知の上で,生きることの意味を説いていると を特に,親からの期待・承認との関係において解明して 言わざるを得ないのである。 いくことにしたい。本来,「人間は何を求めて生きるの それでは彼らが執拗に生きることの意味を問うのはど か」という問いそのものは,反ヒューマニズム的な側 うしてなのか。つまるところ,それは,彼らが自らの存 面を含むという意味で,「人間は何のために生きている 在および自らの思考を他者に認めてもらいたいからなの のか」と同水準にある,「どのような人間を形成するか」 である。つまり彼らは,「人間は何のために生きている という課題と抵触するが,本論文では意図的に前者のポ のか」という問いに対する自らの秀逸な考え方およびそ ストヒューマニズムの立場から子どもたちの成長発達の れに基づく生き方(ライフスタイル)を他者に認めても 理路を解明していくという戦略をとることにした。そし らいたいのである。ここでいう他者に認めてもらいたい て,こうした問い方の転回は,理想主義から現実主義へ ということとは,一種の欲望である。 のシフトを意味する。 出世したい(名誉への欲望),有名人になりたい(名声 への欲望),豪華な邸宅や宝石や車が欲しい(モノへの 欲望)といったさまざまなものがあるが1),この場合の 一般に,欲望には,お金が欲しい(富への欲望),多 2 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ Ⅰ.親からの期待・承認と子どもの成長 発達 感」を挙げた2)。「勤勉性」とは,自分の能力を築き上 1.子どもの承認欲求とプライド形成 ういう能力がないのではないかという疑惑を感じたり, げ,有意義な仕事(学業)を遂行しようという熱意であ る。それがうまく達成されないと,子どもは自分にはそ 能力を持てないことに罪の意識を持ったりして,「劣等 小さなときから子どもはさまざまな評価を求めて行 感」を抱くようになる。実際に,学業の高い(成績の良 動する。子どもは大人と同等に,否それ以上にさまざま い)子どもの自尊心は高いままであるが,成績の悪い子 な人たちから承認されることで,自己の存在証明をした どもは次第に自尊心や有能感を低下させてしまうことに がっている。というのも,子どもは「自分は確かに何々 なる。 をできる」,「自分の行動,自分の技能,自分の存在は確 いま述べたエリクソンの「勤勉性/劣等感」を具体的 かに認められている」,「親から,友人から,異性から, に言い直すと,次のようになる。すなわち,学童中後期 教師から,周囲の人々から,確かに自分は認められてい の子どもが抱く,承認欲求および自己証明動機を親(大 る」, 「現在の自分は確かに現実(何か)に繋がっている」 人)が適度に充足すると,その子どもは,その子なりの といった有効性感覚に基づく承認充足および自己証明の プライドに目覚め,自ら伸びていこうとする力や有効性 充足を糧に成長・発達していくからである。 感覚(有能感)を覚醒し,自覚し,進展していくことが 一般的に,子育てに不可欠なのは,以上述べた,子ど できるようになる。それはその子なりの能力や個性の確 もの承認欲求および証明動機を満たしながら,その子な 立につながる。これが親による適度の充足にともなう, りのプライド(自尊心)を持たせ,その子の自ら伸びて 子どもの勤勉性の確立の理路である。 いこうとする力(能力や個性)を引き出すことである。 それに対して,同じく学童中後期の子どもが抱く,承 ここで「自尊心」とは,自己概念の一側面で,自分を価 認欲求および自己証明動機を親(大人)が過度に充足し 値・品位・誇り(威厳)あるものとして認知・評価し, てしまうと,その子どもは,自惚れ,傲慢さ,鼻持ちな それを維持するとともに,さらに高めようとする心(向 らない性格になってしまう(幼児期の万能感のまま,成 上心)のことである。具体的には,自尊心とは,自分が 長してしまう)。反対に,それを親(大人)が過小に充 家族,異性,友人,教師等から認められ,必要とされる 足すると,その子どもは,「どうせ自分はできないんだ, 大切な人であると思われていて,これからもそうありた ダメなのだ」といういじけや無気力感と自信喪失(ある いと思う心を意味する。 いは,自信を持てないこと)に陥ってしまう。これらが あらかじめ言うと,21世紀に求められる子育て(教育) 親の不適度(過剰/過小)の充足にともなう,子どもが と は, 適 正・ 適 度 の ̶ 過 剰 で も 過 少 で も な い good 劣等感を抱くことの理路である。 enough な ̶ 承認欲求と自己存在の証明を充足させ, とりわけ,日本の学校では,承認欲求および自己証 子ども自身にプライドを持たせることである(親がわが 明動機が「勤勉性」と「劣等感」の 2 つに分かれる傾向 子のプライドの火をつけたならば,特に何もしなくても がある。しかも,学年が上がるにつれて子ども間で両者 その子は自然に伸びていくと言える)。親(身近な大人) の格差が広がっていく。従って,“劣等感を持つ子ども” からの適正の承認がその子なりのプライド(自尊心)を の場合,実際には勉強ができないというよりも,自尊心 育てることは,子どもに生き方の美学を身につけさせる や有能感が著しく低下することで,肯定的な学習観が生 ことである。ここでいう「生き方の美学」とは,自分の まれないことが問題なのである。例えばそのことは, “勉 生活を美しくしたい(あるいは,美しくできないと恥ず 強しても,どうせダメ”という子どもの発言に象徴され かしい)という目的意識が持てることを意味する。美し る。 さ(美)への憧れと,プライドを持つこととは,深く関 それでは次に,子どものプライド育成に不可欠な承認 連している。 および自己証明に関して理論的に解説した上で,養育者 そして,こうした美学は,自分で決めたことは自分で 責任をもって行う̶「自己決定・責任」̶,という (親)が子育てにおいて「すべきこと/すべきでないこと」 について述べていきたい。 最近の子どもの主義・主張に受容されやすいと言える(こ 2.欲望と承認 の点は後で詳述する)。 ところで,E . H . エリクソンは,学童中後期( 8 歳 ∼12歳)の心理的・社会的危機として,「勤勉性対劣等 1)世俗的欲望と根源的欲望としての自己承認原則 3 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) 序で述べたことを繰り返すと,「人間は何のために生 最も耐えらないのは,自分という存在が無視され否定 きているのか」という問いに対して答えることは困難で されることである(すなわち自己存在への侮蔑や軽視)。 ある。「心の専門家」が自助マニュアルなどを通して生 それはいわゆる,無意味で無価値だと決めつけられるこ きることの意味を綴るにもかかわらず,それに対する答 とである。ときに人は侮辱や無視から他人を傷つけ,他 えはないと断言し得る。 人の命を奪うことさえある。恥辱を受けるくらいならば ところが,「人間は何を求めて生きているのか」とい と,自分の命を絶つことさえある。 う問いには有力な答えを見つけることは可能である。す 以上のことをまとめたものが,図 1 である。 なわちそれは,「∼が欲しい」「∼になりたい」というさ まざま欲望である。反復すると,お金が欲しい(富),多 くの異性にもてたい(性),良い会社に入って出世した い(名誉),有名人になりたい(名声),豪華な邸宅や宝 石や車が欲しい(モノ)等々,といった欲望である。 ところが,こうした世俗的欲望のもうひとつ底に,さ 図1 世俗的欲望と自己承認欲求 らに,人に認められたい(「承認」されたい)という根 源的欲求が存在している。すなわちそれは,自分という 2)「承認」とは何か 存在を他人(と自分自身)に証明したい,という根源的 「承認」とは,他人によって,最終的には自分自身によっ 欲求である。つまり,子どもも含めて人間は,世俗的な て,自分という存在が認められ,受け入れられることで 欲望の下層に承認という根源的欲求を持っているのであ る。 ある。承認を求める心理(本能)の裏には,必ず「証明」 欲求という無意識̶明確な意識の場合もあるが̶が ここで,欲望と欲求について言及すると,両者とも, 貼りついている。私たちは自分という存在を「証明」し 生理的または心理的な欠乏(不足)が生じた場合,その たがっている(自己証明欲求)。「どうだ,ぼくってすご 欠乏感を満たそうと強く望むという点では同じである。 いだろう」「どう,私ってすてきでしょう」と他人に証 ただ両者が根本的に異なるのは,欲望では欠乏感の充足 明したいし,自分自身にも証明したいのである。 度が他者との差異性において決まるのに対して,欲求で 私にとって,私という存在は世界のなかでたったひと は欠乏感の充足度が個人(生活体)の状況においてのみ つのかけがえのない存在である。私こそが世界であり, 決まる。その結果,欲望では他者が欲望することを自分 私が死ねば世界が消滅してしまうのである。この無意味 自身も欲望する(他者の欲望の欲望もしくは模倣)だけ と唯一の意味という二重性から,「私」であることの根 でなく,あわよくば他者よりも多くの欲望を充足したい 源的な不安が生じている。そしてこの根源的不安は,す (たとえば,他者よりもより多くの富や名声を得たい) べての承認には何の保証もないという不安と重なりあっ ということになる。それに対して,欲求では自分自身が ているがゆえに,自分の「力」を確証したいという欲望 欲することを自らが必要と思う分だけ満たしたい(たと (本能)となって噴出するのである。「ひとり」の自我は, えば,喉が渇いたら必要な水分を摂りたい)ということ 非常に脆い支点に支えられたやじろべえみたいに,いつ になる。 もゆらゆらと揺れている。この自我を自尊心ともナルシ ところで,「∼したい」「∼が欲しい」というすべての シズムとも自己愛ともいう。 世俗的欲望は,最終的に,自分という存在への「承認」 これに対して「認(認める)」とは,行為や態度にか を志向している。私たちの生はこの承認原則(証明原則) かわるものに限定されている。つまり,「承認」は,「認 のなかにあり,子どもであろうと大人であろうと,男で める」ことを包摂しながら,存在そのものに関わるもの あろうと女であろうと,この原則に基本的に例外はない。 を指す(「認める」⊂「承認」)。 それではなぜ,自分という存在を承認されたいの こうして,人間のほとんどすべての言動は,承認原則 か̶それは,「私」という存在の快感,すなわち存在 と証明原則の力学として読み解くことができる。 の安定と力をもたらすがゆえに,である。 あらゆる欲望は世俗的な快感原則に導かれる。しかし, その快感原則はさらに,「私」は「認められたい」とい うこの承認原則に導かれている。この承認原則こそが, Ⅱ.子どもから見た承認原則のタイプ ̶承認論の展開̶ 人間にとっての最後の欲望である。 4 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ 1.承認欲求のタイプ 同等の存在価値を持つ私のことである)。私たちは,この, 「自己」と「自分」の二重性を生きているが,反承認の 子どもたちが成長・発達していく上で,彼らは,表 1 3) に示したような,さまざまな承認欲求を持っている 。 場合は,そのうちの「自分」が突出していて「自己」は 退いている。ただ,反承認は,本論文,特にアンケート 調査研究とかかわりがないため,それに関する記述はこ 表1 承認欲求のタイプ の程度に留めたい。 ところで,これら 3 つのタイプの承認は,わが国にお ける自我の歴史的な変化に対応している。それを表した ものが図 2 である。図 2 は,前述したことを時代の変化 を踏まえながら構造化したものである。 表 1 に則して,承認欲求のタイプを順次説明していく ことにする。 まず,「 1 .古典的承認」とは,伝統社会および伝統 的な家族・性・社会における承認である。それは,人間 であることにおいて,変わることのない基層,その一般 図2 昔の自我と現在の自我 的条件となる。つまりそれは,人間にとって本質的であ ると同時に,共同体的・他者志向的な承認である。なお, 「 1 .古典的承認」の 3 つのタイプについては,後で詳 図 2 に示されるように,一昔前(1970年代)の子ども は,古典的承認を必要とすると同時に,それを得ること 述したい。 により成長発達してきた。それに対して,1970年代以降 次に, 「 2 .現在的承認」とは,古典的承認から派生した, の,当時“新人類”と呼ばれた世代の子どもは,個人主 金,性,自己における承認であるが,特に情報化社会に 義的傾向が強く,他者による承認あるいは他者からの承 顕著なタイプの承認である。また,ここでいう「現在的 認よりも自己肯定をより重視する。 承認」は,他者による承認を否定するのではないが, 「自 社会学者,千石保は,高度成長から低成長への移行期 己」肯定をより重視する立場,すなわち古典的承認より である1970年前後に日本人(特に,子どもや若者)の価 も,より個人主義的な志向の承認を重く見るものである。 値観が決定的に変化したことを指摘した4)。つまりその 次に「 3 .反承認」とは,現在的承認のなかから,も 価値観の転換とは,真面目,勤勉,他人への思いやり(奉 はや他人からの承認なんか必要ない,ただの快感的自己 仕・犠牲の精神)の揺らぎと,その反動としての自分主 満足(自我固着)だけで充分だという「自分」が突出し 義,例えば「自分に忠実に生きるべきだ」とか「自分ら てくるが,その全能的かつ虚無的「自分」のあり方であ しくありたい」という「自分大切」志向への移行である。 り,現在の高度情報化社会に特有のものである。前述し つまりそれは,社会的価値志向から個人的価値志向への た「 2 .現在的承認」の中から出てくるのが,他人の承 転回を意味する。 認をまったく不要とする反承認なのである。それは,現 いまの子どもたちにとって自己決定・責任と,規範を 在的承認の一部が突出した変種である。それは,「自分」 守ることとは,まったく別の問題(範疇)に属する。従っ 至上主義,すなわち自分はこうした「自分」が気に入っ て例えば,いまの子どもたちは,たとえ未成年であって ているのだということの表明でもある。この反承認を示 も飲酒や不純異性行為や夜遊びをしてもよいと考える傾 すものとして,最近の一連の少年事件(神戸児童連続殺 向が強くなっている。ただこれは,明らかに規範を破っ 傷事件,佐賀バスジャック事件など)が挙げられる。 ている。というのも,彼らにとってこれらの一連の行動 なお,反承認でいう「自分」とは,何の某という名 は自己決定・責任に基づくものだからである。 前をもった,世界のなかでただひとりの,この自分のこ しかし一方で,彼らがボランティアなどの社会貢献は とであり,単独者としての,この,かけがえのない私の したいから行い,あるいは一旦そう決めたら意地でも行 ことである(それに対して,「自己」とは,匿名的個人, う傾向がある。というのも,こうした行動もまた,彼ら 5 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) が自己決定・責任に基づくものだからである。それゆえ, 彼らが規範破りを平気ですると同時に,社会貢献を愚痴 も言わずに行うということは,彼らにとって矛盾したも のではなく,両立可能なものとして起こり得る。要する に,彼らにはポジティブな意味でもネガティブな意味で も,自己決定・責任という原則に従うという傾向がみら れる。夜遊びとボランティアがいとも簡単に両立してし まうところに,彼らの世代に特有の価値観があると言え る。 しかも,こうした価値観の転換は,現在的承認の始ま りを意味する。「自分大切」志向とは,あくまでも自己 肯定(個人主義)を意味する。以前は,「自分大切」の 図3 承認の意味・価値と強度 なかに「他人大切」をも含めていた。しかし,現在的承 認における「自分大切」は,他者の否認を前提としてい る。また,個人の自由は,期せずして,男女の平等のみ ならず,大人と子どもの平等をも(観念の上では)招来 図 3 に示したように,子どもは家族による承認のみか ら出発して,異性による承認および社会による承認̶ した。つまり,古典的承認から現在的承認への変容とは, 異性による承認と学校による承認とは重なることが少な くない̶を経ながら,そうした他者による承認によっ 自己肯定主義,R . N . べラーの言う「表現主義的個人主 て自己承認を成就していく。そして,子どもは家族,他 5) 義 」を意味する。「表現主義的個人主義」というのは, 者(異性),学校による承認を通して自己承認するので 内なる心理的な幸福の体験,すなわち無制限の自己実現 ある。こうして,子どもが家庭,異性,学校によるさま や自己表現の最大化を図る自我(「この私」)の特性のこ ざまな承認を通して自己承認していくことは,子どもの とである。この概念(特性)をことごとく市場の波に浸 成長発達(自我発達)の理想モデルであると言える(時 食された「高度消費=高度情報」社会(ポストモダン社 代区分で言うと,それは恐らく,1970年代に対応してい 会)に生きるいまの子どもたちに適用する場合,それは, る)。 行動特性としては大人と対等な「小さな大人(children しかしながら,いまの子どもたちの場合,こうした古 without childhood)」,人格特性としては「かけがえのな 典的承認がバランスよく成就されるのではなく,それと い,この私」または「むきだしの自我」というように, 析出されてくる。 は異なるレベルの承認,すなわち如何なる他者からの承 認も必要としない,(反承認を含む)現在的承認 ̶過 こうした立場から反承認の出現までほんの一歩の距 剰な自己満足による自己承認̶だけを求めることが少 離である。自分はいまや並ぶべき者のない唯一の自分と なくないと言える。 なった。自分に忠実に生きるべきだということは,ただ 正確に言うと,過剰な自己承認には, 3 つのタイプが 自分の欲望に忠実に生きることだということを意味し, 存在する。図 3 で言うと, 1 つ目は反承認( 0 地点)で のみならず,他者もまたこの自分の欲望を無条件に認 あり, 2 つ目は,自らのテンション(自己肯定感)をマ めるべきだとなった。その結果,1990年代になると,そ キシムに強めた自己承認(X地点)であり, 3 つ目は, の一部から他者からの承認を一切必要としない,「自分」 自らの価値をマキシムに高めた自己承認(Y地点)であ 至上主義が登場する。前述したように,そうした自我(反 る。 自我)のなかから少年事件が頻発するのである。 最近の少年事件は子ども自身による反承認を端的に示 している。例えば,神戸児童連続殺傷事件では,少年が 2.子どもから見た承認欲求の拡大と自己承 認の進展過程 脱社会的存在,すなわち“透明な存在”となって,他者 からの承認が不要であることが浮上した。正確には,犯 人の少年は,「バモイドオキ神」という個人神にさえ承 一般的に,子どもはその成長発達とともに,家庭から 認してもらえればと日記で綴り,他者からの承認から離 近隣・地域,そして学校,社会へと自らの活動範囲を同 脱したのである。 心円的に広げていくが,そのことに正比例して,自らの なお,ここで過剰な自己満足による自己承認は, 3 つ 承認欲求も拡大していく。 ある。 1 つ目は, 0 地点の「自己承認=反承認」の極限 6 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ 形態であるが,実際にはあり得ないものである。 2 つ目 は責任がない』という心的な場所を,根源的に内在させ は,Xであり,自らのテンション(肯定感覚)を最大限 てしまっているのである。9)」 強めたものである。 3 つ目は,Yであり,自らの価値を こうして,人間は生まれること(生誕)の根源的受動 性に基づくイノセンス̶無罪性・無実性・白紙性・潔 最大限強めたものである。 白性・無垢性・純粋性̶において,親から強制的に贈 与された様々な属性,そしてそういう属性を持って世界 3.古典的承認の3タイプ にかかわっていくことについて,「自分には責任がない (関係がない)」,もしくは「このままのかたちでは現実 3−1 家族的承認(家族による承認) を引き受けられない」のである。子どもは自分の属性, 例えば目が小さいこと,鼻が低いこと,足が短いこと, 1)子どもとイノセンス 肌が黒いことなどで悩み,その責任を両親に求めてしま 家族的承認のあり方を理解しやすくするために,芹沢 6) う。そして,その属性が原因で窮地(危機)に陥ったと 俊介のイノセンス論を引き合い出したい 。 き,子どもは必ず「どうして僕(私)を生んだんだよ」 芹沢は,「イノセンスの壊れる時」という論文の中で, というように発語し,無実の場所(アジール)に逃げ込 人間として成熟してゆくということに関して,「成熟と む。また,親子喧嘩の最中,親が子どもに向かって「お は,現実とか世界というものを等身大で受け入れること 前みたいな子を産んだ覚えはない」と言うと,子どもは ができるようになるということ,責任ある態度で,世界 を肯定できるようになってゆくプロセス全体を指してい 7) 「誰が生んでくれって頼んだよ」と食ってかかる。 これらはいずれも,すべての子ども(人間)が生得の る。 」と規定した上で, 「成熟してゆくということは, 『自 無実の心的場所(イノセンス)を持っていることを示し 分には責任がない』あるいは『このままのかたちでは現 ている。しかしながら,すべての子ども(人間)が自分 実を引き受けられない』というメッセージを『自分には の無罪性(イノセンス)を主張して,世界で起こること 責任がある』というメッセージに,自分の手で『書き換 が「僕(私)には関係がない,責任がない」と発語したら, 8) える』こと,転換してゆくことを意味している 」と結 世の中そのものが成り立たなくなるのではなかろうか。 論づけている。ここでまず確認すべきことは,芹沢の言 ところが,現実的にはそうしたことは起こらず,すべて う「成熟」とは,子どもから大人へと変容すること,あ の子ども(人間)は,生まれつき権利として持つ,全知 るいは飛躍的に成長・発達することを意味するという点 全能のイノセンスを自ら解除しているかに見える。これ である。そして,次に言えることは,「人間として成熟 はどうしたことなのか。 すること=子どもから大人への変容」とは,「自分には この点に関して,芹沢の考えを敷衍すると10),親子喧 責任がない」というメッセージを「自分には責任がある」 嘩をはじめ,親子の葛藤の最中に,子どもによって発語 というメッセージに自分自身で「書き換える」ことだと されるイノセンスの表出を,親がただひたすら肯定的に いう点である。 受けとめていくことによって,そのイノセンスが解体さ ここで,「自分には責任がない」とはどういう意味か れるとしている。この場合のイノセンスの表出とは,生 と言うと,それは,自分が生まれてきたことに対して, まれつきの属性に対する単なる不平・不満だけに留まら 自分は関与できない,従って自分は責任がないというこ ず,ときには親に対する様々な対抗暴力(家庭内暴力) とである。「要するに I was born,生まれるということ や問題行動(非行)となることもある。さらに,イノセ は,根源的に,世界に対して受け身,受動形なのである。 ンスの表出は,親に対するばかりでなく,教師に対する ……(しかも,)自分が選んで,この世界に,この命, 対抗暴力(校内暴力)や問題行動(登校拒否や非行)と この体,性,親を持って生まれてきたのではない。…… なることも少なくない。いずれにせよ,芹沢によると, 子どもによってイノセンスの表出がなされたとき ̶ にもかかわらず,私はこの体,性,親,名前などという 現実を『書き込まれて』この世界に人間として生まれて きたのである。……赤ちゃんの時点で,さまざまな書き たとえ,それが,いかなる対抗暴力や問題行動であろう と̶,親や教師は,子どもの行為(その存在も含めて) 込みをされて生まれてくるという現実,そういう換えが を肯定的に受けとめていくことが必要なのである。「イ たい事実に対し,生まれてきた当人には責任がないとい ノセンスの表出をおとなが肯定的に受け止めてあげるこ うこと,これがイノセンスという概念を考える時の基本 とこそ,子どもがイノセンスを壊してゆくための基盤な 的な理解である。つまり,人間は世界に対して『自分に のである。このイノセンス壊しが行われないと,幾つに 7 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) なっても,世界に対して,自分が存在することの責任を 換えると,大人(親や教師)による,子どものイノセン 引き受けることができず,したがって,成熟することも スの承認こそ,子どもを大人へと変容させていく重要な 11) できないのである。 」 媒介となるのである。端的に言うと,大人による,子ど こうして,子どもによるイノセンスの表出(対抗暴力 も存在の承認が,「自分には責任がない」または「現実 や問題行動も含む)と,大人による,その肯定的受けと を引き受けられない」子どもを,「自分には責任がある」 めといった一連の儀式を通じて,イノセンスが解体され, または「現実を引き受けることのできる」大人へと転換 子どもは「現実を引き受けていく」ことができるよう させていく重要な契機になるのである。そして,重要な になる。芹沢は,こうした結論を,血縁関係のない,養 ことは,こうしたイノセンスの承認を行う大人とは,現 父母の養子に対する「真実告知」の事例,すなわち養父 前する相対的な他者ではなくて,特別な他者(「第三者の 母が,養子に対して,親子関係にあることを肯定的に告 審級」14))であるということである。 知すべきことと,彼/彼女を無条件で選択したことを告 なお,芹沢は別の論稿のなかで15),思春期に集中して 知すべきということや,F. ドルトの感動的な臨床事例, 起こる,子ども自身によるイノセンスの表出としての問 すなわち養子になったとき,フレデリックという新しい 題行動,すなわち家庭内暴力,拒食症・過食症,校内暴力, 名前をつけられた,少年アルマンが,ドルト博士のオフ 暴走族,非行・性非行,登校拒否(不登校),少年犯罪等々 の声で元の名前を呼ばれることでかつての自分自身(イ を親(や教師)が無条件に肯定することが必要だと述べ ノセンスの場)を取り戻し,フレデリックを選び取るこ ている。大人(親)による,子どものイノセンスの「表 12) とができた(=イノセンスを解体できた)という実話 出−肯定」が,その「解体」に向かうことを指摘してい などを踏まえながら,導き出している。 る。すなわちそれは,イノセンスの「表出−肯定−解体」 ただ,常識的には,子どもがイノセンスを表出したと のプロセスとして示される。 き,親や教師はイノセンスの否定を行うべく,「お前に 以上のように,芹沢はイノセンスの表出(発露)が大 は責任がある,お前が悪い」と言って,子どもを叱り, 人(親)によって無条件に肯定されることを主張してい 責任を自覚させるのが普通である。これに対して,芹沢 るが,筆者は,それを肯定ではなくて,承認なのではな は,イノセンス壊しのためには,親や教師がイノセンス いかと捉えている。両者は類似した言葉であるが,両者 を表出する子どもをただひたすら肯定的に受けとめるこ の違いは,子どもの問題行動の場合には,「否定,批判, とが必要だとしている。私見によれば,子どものイノセ ンスの表出は,芹沢のように,ひたすら肯定すべきもの 問い返し」こそ,そのイノセンスの発露に対する承認と なるところにある。問題行動の場合̶例えば,非行や でも,常識的見解のように,否定して責任の自覚を促す 少年犯罪等の場合̶,無限の肯定が,かえってイノセ べきものでもないと思われる。むしろそれは,大人によっ ンスの発露を受け取ることにならない場合もあると言え て承認されるべきであると考えられる。 る。重要なのは,イノセンスが受けとめられること,す 一般に, 「承認(Anerkennung)」とは,G . W . F . ヘー なわち肯定ではなく承認なのである。 13) ゲルやJ . G . フィヒテが規定したように ,法的承認(権 利の保証)や道徳的承認(人格の尊重)のように,各人 2)根源的な承認あるいは意味の承認としての家族的 が他者の意志,権利,価値などを受け入れ(認め),尊 承認 重することを意味する。ただし,この場合の「承認」と 以上述べた芹沢の言明を踏まえながら,家族的承認と は,より広く,存在者の表現を,他者がトータルに受け は何かについて述べていきたい。 とめる(受け入れる)ということを意味する。たとえ, 「お前は生きていても,いいんだよ。」,「あなたは世界 その受け入れ方が結果として,肯定的になったり否定的 になったり,あるいは批判的になったりすることがあっ に一人しかいない,あなたが生まれてよかった。私はあ なたのことを誇りに思っている。」 ̶私たちは自分と ても,それは承認するという行為にとって副次的な問題 いう存在への,この根源的な承認を必要としている。こ に過ぎないと言える。繰り返すと,承認とは,他者の表 の根源的な承認が可能なのは,家族による承認をおいて 現(他者そのもの)をトータルに受け入れることなので ほかにはない。「根源的」とは,過剰でも過少でもない, ある。 ひとりの人間存在の静かな安定のことである。自分とい こうして,イノセンスは,子どもによって表出され, う存在が,確実にこの世の中に受け入れられているとい その表出されたものが大人によって承認されることに う心的安心であり,すべての承認のなかで最も基本的か よって解体されていくことになると考えられる。言い つ重要な証人である。 8 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ そして,家庭では,信頼のさらにその基礎となるもの 無条件の信,すなわち意味の承認が家族のあいだで身 を学ぶ。というよりも,からだで深く憶える。それは「親 体化されているなら,たとえ親子間に一時的な反発や離 密さ」という感情である。理由や条件なしに,自分がた 反があったとしても,いずれはまた信に回収されていく だここにいるという,ただそういう理由だけで世話をし ことが可能である。そのためのいかなるマニュアルもな てもらった経験がたいていの人にはある。それは,無条 い。 件の「存在の世話」イコール無条件の承認である。何の 承認は,個々の行為や考え方に対する否定の契機を 見返りの期待もなく,ただその存在が家族であるという 決して排除しない。家族による意味の承認とは,子ども 理由だけで無条件に承認するということが,家族による の間違った行為や考えは否定しても,存在自体の意味は 承認のもつ最大の意味である。そういう「存在の世話」が, 無限に引き受けるということである。それゆえに,この 最後のぎりぎりのところで人への信頼を失わないでいさ 承認だけが絶対的なのである。つまりそれは,たとえあ せてくれる。それはまた,世界(現実)と人生への肯定 なたが間違っても,家族にとってあなたの存在の意味は 感情となっている。 まったく変わらない,という根本的な信・絆のことなの 子どもから見て,「私」という存在の意味を無条件に である。この根本的な信が,子どもが社会へ足を踏み出 承認するのが家族である。存在そのものが証明なのであ すときの最初の一歩を固める。 る。家族の無条件の承認は,自分を,存在する意味ある 家族による承認(信)は,社会で生きていくための堅 ものとして認める。これを仮に「意味の承認」と呼びた 実かつ最も安定的な一歩を用意すると思われる。だが, い。「意味の承認」は,社会から承認される(これを仮 それはついに一歩でしかない。しかし,その二歩以上を に「価値の承認」と呼びたい)ことよりも,より無条件 まったく保障しない。 的であり,より根源的である(ただ現在では,「意味の 価値は交換可能(相対的)である。自分という存在の 承認」が家庭の諸事情により,十全に満たすことが困難 価値を証明し,それへの承認を求めはじめるのは,家族 な状態にある場合も少なくない)。子どもが出世せず有 以外の関係性においてである。ひとりの異性(あるいは, 名にならず成功しなくても,つまりそうした社会的価値 多数の異性)との性的な関係や,社会的な関係において があろうとなかろうと,まったく損なわれないのが,家 である。 族による「意味」への承認である。平たく言うと,それ 言い換えると,さまざまな承認のなかで家族による承 は,「おまえはほかの人間と同じように,堂々と普通に 認だけがそれに応え得るほとんど唯一の承認である。す 生きていい。世界中がおまえを無視したり軽んじたりし べての家族に無条件の承認があると言っているのではな ても,おまえという存在は家族にとってはなにものにも い。無条件の承認があるのなら,それは基本的には家族 換えがたい唯一無二の存在である。おまえはつねに気に のなかにしかあり得ないと言いたいのである。 かけられている。これはおまえに価値があるからではな い。おまえという存在が家族にとって唯一絶対の意味だ 3−2 性的承認̶異性による承認̶ からである。」というように表現し得る。 自己承認(自己確信)が可能になるのは,何よりも家 子どもにとっては,ときとして,家族による承認や社 族による無条件の承認がその根本にあるからだ。そのま 会(学校)による承認よりも,一人の異性による承認の まの自分であってよいとは,存在の意味の承認のことで 方がより重要だとみなされること・ときがある。その根 あって,決して存在の価値の肯定ではない。家族は「私」 拠は,異性という存在が,家族や社会よりもはるかに遠 を無条件に承認する唯一の共同性なのである。 くて異質な他者であり,しかも「私」を,ただひとりの 意味の承認が身体化されるには,家族における普通の 性的な存在として承認してくれる唯一の他者だからであ 生活の時間的総体によってである。ごく普通の,ともに る。遠くて異質な存在からの承認と,性的な唯一者とし 食べ,寝て,起きて,言葉を交わし,笑い,怒り,遊び, ての承認であることによって,承認自体の意味(価値) 心配し,と言うような生活の中での交感の時間的総体で の稀少性が高まる。 ある。基本的に「まじめ」な関係による普通の生活の交 子どもにとって,恋愛とは,お互いに相手を性的な唯 感の蓄積が,無意識のうちに身体的快感や精神的安心感 一者として承認しあうことである。その子にとって一人 となって身体化されていく。親の方がいかに「ふつう」 の異性によって好かれている(愛されている)という確 の生活を「まじめ」に営んでいくのか,ということが重 信は,相手によって自分が性的な唯一者として承認され 要である。 たという確信である。それは,世界の多数の無名性のな 9 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) かから,この私だけが世界で一番の,かけがえのない交 従来,学校における評価は,中学校に典型されるよう 換不能な異性(唯一者)として選ばれたという確信であ に,選抜に重点が置かれてきたことから,指導要録の「所 る。 見」欄には,減点主義の立場から子どもの欠点(短所) その子にとってこの私を認めてくれる異性と「幸福」 が記述される傾向があったといえる。こうした欠点指摘 な関係にある限り,この私という存在から,たった一 型の評価活動は,子どもの劣等感を強め,自分はダメだ 粒の砂,いてもいなくてもいい人間,まったくの無意味 と思いこみ,無力感に落ち込んでしまい,自信をなくし (ちっぽけさ)という無名性が永遠に遠ざけられるので てしまう場合も少なくなかった。 ある。 ところが,「新しい学力観」では,子どもの一人ひと 恋愛の承認原理は,幻想である(吉本隆明ならば「対 りが基礎・基本をしっかりと身につけることを強く期 幻想」にあたる)。唯一者という幻想である。承認する 待し,「所見」欄には,子どもの可能性やよさ,あるい 唯一者という幻想であり,承認される唯一者という幻想 は特技等を積極的に記述することとなった(相対評価や である。そうであればこそ,そこに「性的」という関係 絶対評価を超えた「個人内評価」の観点)。これは,子 の最強の強度もまた存在する。 どもの個性を尊重する,長所伸長型の加点主義の立場 しかし,そうであるがゆえに,男女の恋愛(愛情)にとっ に立った評価活動への転換である。いまの学校は,子ど て,この唯一者とはあくまでも暫定的であり,しかも交 もの「良さ」を認める傾向にある。また,少々,教師の 換可能な唯一者に過ぎない。家族の承認原理ほどの絶対 主観が入っても,一人ひとりの子どもにもっと大胆に接 性や永続性がそこに保障されているわけではまったくな 近し,一人ひとりの個性を大切にすることが子どもの可 い。承認はあっさりと撤回され(ふられたり別れたり), 能性を伸ばす評価活動にとって重要であると言われてい 唯一者はまた,元の凡庸で無名の個々人に格下げされる。 る。これは,プライド教育そのものだと言える。 恋愛にある関係が,このひとでなければだめだとなっ てゆくとき,その人は自分にとっての意味そのものにな 4.子育てと家族的承認 る。それが,その人を自分の性的な唯一者として承認す るという意味である。この意味の関係の唯一性を信じ切 次に,以上述べた3つの承認のタイプおよびその三者 れない者は,複数の異性と幾つもの関係を結ぶことで, 関係を現在の子育てに応用することにしたい。 いわば量的な価値を取り付けようとする。 第 1 に,子どもからみて,古典的承認と呼ばれる3つ 価値的でありながら,意味的であり,無条件でありつ の承認はいずれも重要な承認であるが,子どものプライ つ条件的であり,唯一性の承認でありつつ,交換可能で ドに火をつけ,その子の自ら伸びていこうとする力(能 ある恋愛は,その性的な関係自体がそのような矛盾を本 力や個性)を引き出す上で最も重要なものは,家族によ 質的に孕んでいる。 る承認である。というのも,その承認が他のタイプの承 認とは異なり,子どもにとって自らがここにいるという 3−3 社会的承認 ̶学校・社会による承認̶ 理由だけで,無条件に受け入れられ,「存在の世話」を してもらえる根源的な承認(=意味の承認)だからであ る。存在の危機を迎える思春期の子どもにとってはより 前述したように,家庭でなされるのが意味の承認であ 一層重要な承認となる。 るのに対して,学校(組織)が求めるのは,価値である。 こうした家族による承認は,子どもの「自分には責任 学校で良い成績をとる(とりたい)ということは,他人(教 (関係) がない」 という 「根源的受動性=イノセンス」 を, 「自 師やクラスメート)から賞賛されたいという欲望であり, 分には責任(関係)がある」というメッセージに自ら書 自分の人格的威信や名誉または自己評価を他人から確証 き換えることで,親や自らの属性も含めて,すべての現 され是認されたいという欲望である。 実(世界)を受け入れ,肯定していく素地となり得る。 現実の勉強はその都度常に「承認欲望」に包まれてい 第 2 に,これに対して,性的承認と社会的承認は,子 る。勉強の喜びは,承認欲望の充足である。社会的承認 どもにとって無条件の家族的承認よりもはるかに重要 への欲求は,家族や性による承認以上に重要と見なされ だと思えること・時期がある。そのことは,親から見て ることになる。どんな家族思いでも,どんなにもてる男 辛くて寂しいものと感じられようが,子どもにとってそ の子や女の子であっても,勉強のできない子どもはダメ うした承認の有無が深刻な問題であることを認識し,見 守る ̶ ときには,人生の先輩として良き相談役とな なのである。 10 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ る̶ことが必要である。従って,わが子が親しくして まず家族的承認が土台にあって(図 3 参照),その上で いる(つき合っている)友だち,特に異性を親が頭ごな 学校・社会からの承認(社会的承認)が必要なのである。 しに拒絶したり,批判してはならないと言える。 ところが,前述したように,現在,家庭での家族的承 前述したように,性的承認は,子どもにとって異性が 認と学校での社会的承認のバランスが崩れつつある。正 この私を性的な唯一者として承認してくれる(相互に承 確には,家族的承認が本来,学校・社会から受ける交換 認し合う)一方で,交換可能な唯一者としてあっさりと 価値の承認に近づくその一方で,社会的承認が本来,家 撤回され得る危うさを孕んだものである。それは,意味 庭から受ける意味(価値)の承認に近づきつつある(た の承認と価値の承認の両義性を有する。社会的承認は, だ,それは程度の問題であって,両者の承認のあり方が 子どもに対して,他人が(学校の)成績や性格等の如何 変質したわけではない)。 によって評価する類の承認である。従って,子どもにとっ どういうことかと言うと,学校において子どもは, 「テ ては,学校での教師やクラスメート等による承認は,自 ストで良い点数をとる」,「クラスメートと仲良くする」 分の人格的威信や名誉をかけたものとなる(学校を卒業 など良い成績や集団生活に馴染むことを期待され,それ して社会に出たらよけいに,である)。 によって評価される。それに対して親からは,どのよう 第 3 に,家庭教育を基準にした場合,子育てにおいて な子どもでも認められ,特別な期待を持たれることはな これら 3 つのタイプの承認を混同してはならないと言え いはずであり,評価されることもない。つまり,子ども る。親は,家庭での承認が,意味の承認であって,価値 は学校で他者との比較によって評価され,より良い評価 の承認ではないと言う点を明確に区別し,取り違えては を得られることが期待される一方,親からは無条件に存 ならない。例えば,親はわが子と他の子どもとを比較し 在を認められている。親から無条件に存在を認められて て,どうして勉強できないのか,または勉強しないのか いるからこそ,子どもは学校からあらゆる期待を受け, というように,わが子を叱責・詰問してはならない。む 評価をされても,成長していくことができる。 しろ,親は例えば,この子は家の手伝いをしっかりとす しかし現在では,この学校と家庭(親)の役割が逆転 る,自分の身の回りのことをきちんとする等々,と言う しつつあるのではないかと考えられる。親があらゆるこ ように,家庭生活(の状況)を基準にしてわが子の良さ とを子どもに期待するようになり,そのために,学校は を評価することが必要である。 本来の家庭の役割を代わりに果たすかのように,子ども しかし,わが子が問題行動(家庭内暴力,非行,不登 の特性(特長)または個性を重視し,評価するようになっ 校など)を取った場合は,壁(障壁)として子どもの前 ている。それによって子どもは,本来家庭では無条件に に立ちはだかり,わが子の行為を否定・批判すること(総 認められるはずの自分の存在を認めてもらうために,自 じて,承認すること)が必要である(甘やかしたり,過 分が何を期待されているのかを敏感に察知し,その期待 剰に評価したりすることが承認ではない)。 に応えようと必死になっていると思われる。 第 4 に,前述したように,家庭ではわが子を肯定した 繰り返しになるが,子どもにとって親は,唯一無条件 上で,その良さを認めることで,わが子のプライドに火 に存在を認めてくれるはずの人であるから,学校から期 をつけることが不可欠である。現在,学校では,「新し 待されるよりも親から期待される方が子どもへの負担は い学力観」の下,教師が個々の子どもの良さを認め,伸 大きい。そのため,親からの期待が多ければ多いほど, ばすべく,「知識・理解」のみならず「関心・意欲・態度」 子どもは期待される人物像と実際の自分との差を感じ, にも着目しながら,両者を相互的に関連づけて子どもの 自分自身の存在に不安を抱くのではないだろうか。 発達状況を評価している。家庭は,こうした価値・評価 また,期待されていると感じること自体が,自分は認 基準を学校に学びながら,わが子の発達状況や個性を捉 められていると感じることのできる子どももいるのかも え,子育てに生かしていくことが必要ではないかと考え しれない。そうすると,親から何も期待されていないと られる。 感じている子どもの中には,期待を持たれていないため 以上,子どもが成長発達していく上で,家庭(親)の に,存在が認められていないと感じる子どももいると考 役割と学校の役割が不可欠であることが解明された。と えられる。 りわけ,子どもたちにとって家庭(親)による承認は不 いずれにしても,親から無条件に認められているから 可欠であり,それなしでは彼らの十全な成長発達はあり こそ,子どもはその上で安心して学校からの自分への評 得ない(最悪の場合は,少年事件を起こすような,反承 価を受け入れることができ,成長することができる。子 認の子どもたちを生み出してしまう)。彼らにとっては どもの成長の根底を支えるのは,親の役割である。それ 11 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) が揺らいでいる上に,学校の姿勢も変化しているために, て良い会社に入社すれば安定した生活を送ることができ 子どもの成長に問題が生じることが多くなっているので るという高学歴神話が崩れ,不透明な社会になってきた はないかと考えられる。 ことにより,親が子どもに対して期待を抱くことができ 以上,述べたこと(仮説)を踏まえながら,次に, (子 なくなったことに関係があるかも知れない。 どもたちが承認を得るために)親から受ける期待とその 達成度(承認の程度)を理解するために,アンケート調 2.親の期待の内容と高さ 査を手がかりにしたい。 次に,親からの期待についてここでは15の項目を立て, Ⅲ.調査研究からみた親からの期待・承 認と子どもの反応 「とてもそう思う(期待している)」「そう思う(期待し 本調査は,2005年東京都の小学校で 4 ∼ 6 年生の児童, 程度で,子どもたちからみたときの親の期待の高さ(強 623名に対して実施した。なお,有効回答数は,580名で さ)を聞いている。 あった。以下,その結果を分析・考察していきたい。 グラフ 1 ではこのうち,「とても期待している」とし ている)」「あまりそう思わない(期待していない)」「ぜ んぜんそう思わない(期待していない)」という 4 つの た割合が全体で高かったものから順番に並べている。グ 1.親による期待の口出し ラフ 1 を見てまず気づくことは,「①人に迷惑をかけな い」80.2%,「②友達を大切にする」66.5%,「⑥みんな 一般的に,大半の親(または保護者,以下も同じ)は, に好かれる」49.1%, 「③困っている人を助ける」42.2% 子どもに「がんばれ」を口癖で連呼することで励まして というように,上位には生きていく上でのスタンスとし いるように思えるが,表 2 に示されるように,実際には, て他者との「共生」や「配慮」を期待する項目が挙がっ いまの親の過半数は,子どもへの期待を口に出して伝え てくる。これらの項目群を第1グループと呼びたい。 そして,これに「⑨よい成績をとる」43.5%,「⑩将 表2 親は期待を口に出すか×性別(%) 来,一流の大学や会社に入る」34.5%の 2 つを合わせ た6項目が,他を大きく引き離している。なお,「⑩将 来,一流の大学や会社に入る」は,34.5%と他の項目を 大きく引き離しているとはいえないが,女子が45.6%と 高く,「⑥みんなに好かれる」の49.1%に匹敵すること ることは少ないようである。 から,ここでは⑩を含めることにした。この2つの項目 僅差ではあるが,女子と比較して男子に対する割合が 群をここでは第二グループと呼びたい。 高いが,それでも「よく言う」「ときどき言う」を合わ これに対して,「④素直」23.3%,「⑧親のできなかっ せても22.0%程度である(女子は,15.8%である)。全体 た夢を実現する」19.8%,「⑭明るく,社交的」14.7%, でみると,「あまり言わない」「ぜんぜん言わない」の合 「⑫ふつうの大人になる」8.6%は,親の期待が高くなかっ 計が81.1%と非常に高いことからみて,いまの親は,子 た。実は,この 4 つは,第三グループであり,その次に どもへの期待を口に出して言わない傾向がある。特に, グラフとして示すことができないくらい,親の期待が低 その傾向は,女子に対して顕著であり,84.2%の親が期 いグループがある。そのグループに属するのは,「⑤優 待を口に出さない。 しい」,「⑦親の言う通りに動く」,「⑪政治や社会に関心 本調査を実施する前,筆者はいまの親は子どもへの期 をもつ」, 「⑬男らしい,女らしい」, 「⑮礼儀正しい」といっ 待を口に出す割合が高いと考えていただけに,本調査結 た項目群であり,それを第四グループと呼ぶことにする。 果は意外であった。その理由として,親が自らの仕事や それは,「とても期待している」という回答が 0 であり, 生活のことで子どものことを充分構うゆとりがなくなっ 全体で「期待している」が各々,次の表 3 のようになっ てきたことや,「高度消費化=高度情報化」社会の中で ている。 子どもは子どもなりの文化(ケータイやインターネット 表 3 は,「とても期待している」を示す,グラフ 1 の などの電子文化)を享受することで親とのかかわりが希 数値と区別するために,各項目に米印(※)を付けると 薄になったりすることで,世代間の文化の断絶が生じた ともに,カッコで表示することにした(以下,表 8 ,表 9 , りしてきたことなど考えられる。しかも,良い学校を出 表11,表12でも同じ表記とする)。繰り返すと,数値の 12 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ グラフ2 親からの期待(「とても期待している」) 表3 「とても期待している」が皆無の諸項目の結果 (「期待している」の割合:参考) 表4「親からの期待」の分類 また,第一グループ∼第四グループと質問項目を対応さ せると,表 4 のようになる。 高い順序に並び替えた,⑤⑪⑮⑬⑦はすべて,「とても 以上のように,親が子どもに対して期待を口に出さな 期待している」が 0 であるため,「期待している」の数 くなった訳であるが,そのことを踏まえながらも,期待 値を示している。その意味で,表 3 は参考に留めたい。 の内容を期待の高さと合わせてみたのが,前述したグラ 13 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) フ 1 なのである。 いう世俗的な関心をほとんど期待していないようであ 第四グループに属する項目は,「⑤優しい」「⑪政治や る。 社会に関心を持つ」「⑮礼儀正しい」「⑬男らしい,女ら 再度,グラフ 1 に戻って,男女別に見ると,親からの しい」,「⑦親の言う通りに動く」である。つまり,いま 期待には子どもの性差による差異がある。このうち,女 子との比較で男子に多いのは̶第一グループと第二グ の親は,「政治や社会に関心を持つ」という社会的関心 への期待̶もっと言えば,世俗的な関心への期待̶ ループのみを示すと̶,順番に「①人に迷惑をかけな や,「優しさ」「礼儀正しさ」「男らしさ,女らしさ」「親 い」88.1%:71.9%,「②友だちを大切にする」76.3%: の言う通りに動く」といった一連の(旧態依然とした) 54.4%, 「⑥みんなから好かれる」59.3%:38.6%, 「③困っ 特定の社会的規範に従うことを子どもには期待していな ている人を助ける」47.5%:36.8%である。反対に,女 いようである。 子に多いものは, 「⑨よい成績をとる」45.6%:41.4%, 「⑩ ところで,本調査項目を作成するにあたって,筆者 将来,一流の大学や社会に入る」45.6%:23.7%である。 は,あらかじめ約50名の親たちへのインタビュー調査を 第三グループでは,「⑧親のできなかった夢を実現する」 行い,その調査結果に基づいて「親の子どもに対する期 28.1%:11.9%が注目に値する。 待」を次の 3 つに分類した。すなわち,1 つ目は, 「共生」 一昔前,親は男子に良い学校や会社へ入ることへの期 「配慮」という言葉で表現される「他者を思いやること 待をかけていたが,現在は,その傾向がまったく逆転し への期待」,2 つ目は, 「競争」「上昇志向」「(自分自身の) て,女子にその期待が向けられている。「⑨よい成績を 課題達成」という言葉で表現される「上を目指すことへ とる」については男女差はほとんどみられないが,「⑩ の期待」,3 つ目は「人並み・世間並み」「一人前(大人)」 将来,一流の大学や社会に入る」45.6%:23.7%という という言葉で表現される「普通に生きていくことへの期 ように,女子の方が21.9%も親の期待が高くなっている。 待」である。 こうした結果になった理由としては,男女雇用機会均等 この分類に準じて,質問項目を分類すると,次の表 5 法などの法的整備をはじめ,日本が男女共同参画社会を 迎えて女性の社会進出が著しいことやそうした気運が高 表5 期待の内容の分類 まってきたことが挙げられる。 その一方で,男子は「他者を思いやること」への期待 志向が強くなっている。従来であれば,親は一方的に女 子に対してだけ「他者を思いやること」を求めていたの に対して,いまは男子にもそうした期待をより強く求め のようになる。 ている。その社会的背景には,男子の中に深刻な少年事 期待の内容を示す表 5 と,親の期待の高さをグルー 件を起こす者が多いことや,少子高齢化社会を迎えて介 プとして示す表 4 を照合すると,「他者を思いやること 護の分野(介護職)に男性が進出しつつあることなどが への期待」(①②③⑥)が親の期待としてきわめて高く, 挙げられよう。 それに続くものが「上を目指すことへの期待」(⑨⑩) であり,これら二者と比べて,「普通に生きていくこと 3.因子分析の結果 への期待」 (④⑤⑪⑫⑬⑭⑮)やそれ以外の「その他」 (⑦ ⑧)は,第三・第四グループに属することから親の期待 前述したように,親たちの期待することを15の質問項 がきわめて低いことがわかる。驚いたことに,親の期待 目に分けた上で,各々, 4 つの程度で子どもたちに回答 の高さと期待の内容とがほぼ符合している。従って,い してもらった。そして,その15の質問項目は,期待の内 まの親は子どもに対して「他者を思いやること」を何よ 容ごとに 3 つに分類した。ここでは,これらの質問項目 りも期待し,その次に従来のように,「上を目指すこと」 について因子分析を行い,そうした 3 つの分類が本当に を期待していることになる。それに対して,いまの親は, 適切なものであるかを実証していきたい。なお,因子分 「普通に生きていくこと」,すなわちごく普通の大人の能 析は次のような手順で実施した。 力や資質を身につけ,人並みに人生を送ることについて ①観測変数(質問項目,15項目)の相関係数行列を計 子どもにあまり期待をもっていない。少なくとも,いま 算する。②潜在変数(因子)の推定(抽出)を行う。③ の親は子どもからみて,「素直」とか「優しい」といっ 場合によっては,バリマックス回転を用いて因子軸の回 た抽象的な社会的規範や「政治や社会に関心をもつ」と 転を行う。あらかじめ言うと,本調査の場合,因子の推 14 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ 表6 各質問項目間の相関係数 定結果が顕著に出たため,それを参考に観測変数と因子 との関係を見出した。④以上の①∼③の手続きを経て得 られた因子の解釈を行う。 親からの期待の内容で分類した内の 1 つである, (「共生」 「配慮」という言葉で表現される)「他者を思いやること への期待」である。次に,第 2 因子を反映しているのは, 以上の手続きを踏まえて因子分析を行った結果,まず 「⑧親のできなかった夢を実現する」「⑨よい成績をと ①観測変数の相関係数行列は,表 6 のようになった。表 る」「⑩将来,一流の大学や会社に入る」であり,それ 6 に示されるように,質問項目 1 ∼15の各項目間で互い らに共通する因子は,親からの期待の内容で分類した内 に,比較的強い相関を示していることが明らかとなった。 の 1 つである,(「競争」「上昇志向」「自分自身の課題達 次に,観測変数の相関係数行列をもとに,因子の推定 成」という言葉で表現される) 「上を目指すことへの期待」 (因子の抽出)を行った。なお,観測変数のグループ化 を計算するにあたって,本研究では主因子法を用いた。 である。 しかも注目すべきことに,第 1 因子「他者を思いや ることへの期待」と,第 2 因子「上を目指すことへの期 表7 因子分析の結果 待」は,逆相関している。具体的には,第 1 因子でみる と,「⑧親のできなかった夢を実現する」「⑨よい成績を とる」 「⑩将来,一流の大学や会社に入る」の項目が各々, -0.953,-0.974,-0.974となっている。従って,「他者を 思いやることへの期待」と「上を目指すことへの期待」 は,正反対の因子であることがわかる。ただ,因子分析 の結果,仮説として挙げていた第 3 因子に相当するもの, すなわち(「人並み・世間並み」「一人前(大人)」とい う言葉で表現される)「普通に生きていくことへの期待」 が見出されなかった。他の統計解析との関連でいうと, 恐らく,その期待内容に該当する,④,⑤,⑪,⑫,⑬, ⑭,⑮やそれ以外の「その他」(⑦,⑧)は,回答数自 体がほとんどないため,因子として析出されなかったの ではないかと推測できる(後述するデータでも,親から その結果は,表 7 の通りである。 の期待の内,「とてもそう思う」が皆無であるため,や 表 7 の第 1 因子と第 2 因子の列に各々,下線で記した むを得ず,「そう思う=期待している」の数値を代替し 因子パターンが,かなり高い値を示している。第 1 因子 たぐらいである)。 を反映しているのは,「①人に迷惑をかけない」「②友だ 以上,因子分析(最尤法)によって,主要な 2 因子と ちを大切にする」「③困っている人を助ける」「⑥みんな して「他者を思いやることへの期待」と「上を目指すこ に好かれる」の 4 項目であり,それらに共通する因子は, とへの期待」が析出された。従って,検証的因子分析に 15 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) よって,筆者の仮説は,実証されたものと判断できる。 ている。また,成績の「中」を基準にみた場合も,成績 4.親からの期待と子ども(生徒)の成績 の「中の上」のデータと比べて,項目毎に前後するにし ても,ほぼ同じ傾向が見られる。成績の「中」と「中の 次に,前述した親からの期待を生徒の成績との関連 上」を合算すると,①,②,③,④,⑥,⑧,⑨,⑩,⑫, で捉えることにした。成績についての分類は,プライバ ⑭は,⑧の60.8%以外はすべて,70∼90%のあいだにあ シーや人権に配慮して実際のものではなく,生徒自身の り,高い割合となっている(⑭が88.2%と最も高い)。 自己評価に基づくものを採用した。各々の割合は,欠損 さらに,「中の下」(「下」は 0 )を基準にみると,「⑫ 値を除くと,次のようになる。「上」10.3%,「中の上」 ふつうの大人になる」10.0%以外にはどの項目もきわめ 18.1%, 「中」20.3%, 「中の下」1.3%, 「下」0%である。 て低い。特に, (元々, 「とても期待している」が 0 %だっ 表 8 に沿って,成績の「上」を基準にみていくと,生 た⑤,⑦,⑪,⑬,⑮はさておき)「⑧親のできなかっ 徒たちの中の限られた層ではあるが,自分の成績を「上」 た夢を実現する」,「⑨よい成績をとる」,「⑩将来,一流 としたものでは,親から「⑧親のできなかった夢を実 の大学や会社に入る」, 「⑭明るく,社交的」はいずれも, 現する」ことへの強い期待を感じているものが39.1% 0 %であった。⑭はともかく,たとえ成績の低い生徒に と群を抜き 1 位を占めている。次に,「⑨よい成績をと 対しても親たちは「上を目指すことへの期待」は抱いて る」と「⑩将来,一流の大学や会社に入る」がともに, いるようである。当初,仮説では自分の成績を「中の下」 27.5%と,他と比べて多い。「⑧親のできなかった夢を や「下」とする生徒たちの場合,彼らが最も強く期待さ 実現する」,「⑨よい成績をとる」,「⑩将来,一流の大学 れていると感じているのが「①人に迷惑をかけない」 「② や会社に入る」はいずれも,現実的で実利的な期待であ 友だちを大切にする」「③困っている人を助ける」「⑥ るが,自分の成績が「上」とした生徒は親からそうした みんなに好かれる」といった「他者を思いやることへの 期待をかけられていると感じているようである。期待の 期待」であると考えていたが,実際は必ずしもそうでは タイプのうち,「上を目指すことへの期待」は,どちら かというと̶ごく一部の層(階層)の生徒であるにせ なかった。ただ,成績の「中の下」や「下」がほとんど よ ̶,成績の上位者が強く受け取っているといえる。 成績の「中」が「下」に相当することを考えられる。そ いない(正確には,そう判断しない)場合,実質的には うした場合,①,②,③,⑥の諸項目(順に,40.9%, 表8 親からの期待(とてもそう思う)×成績(%) 42.2%,40.8%,40.3%)と「⑫ふつうの大人になる」 で50.0%というように,すべて40%を超えていることは, 成績のあまりよくない生徒は,親が最も強く期待されて いると感じているのが,「他者を思いやることへの期待」 であると考えられる。 このように,全般的にみれば,親からは成績の如何を 問わず,他者への配慮を求める「思いやる期待」が高い ものの,同時に,生徒の成績の上位者と下位者のあいだ では期待される内容に相当の違いがあることがわかる。 繰り返し強調すると,成績の上位者の一部の中に親から 現実的で実利的な期待(よい成績,よい大学や会社に入 ること,親のできなかった夢を実現すること)をかけら れていると感じている者がいることは注目すべきであろ う。その生徒およびその親は,恐らく文化資本を多くも それ以外はすべて,20%以下にすぎない。 つ文化的な家庭環境に暮らす階層の人たちである可能性 これに対して,成績の「中の上」を基準にみていくと, が高い。 「⑭明るく,社交的に」47.0%を筆頭に,「①人に迷惑を かけない」39.8%, 「④素直」,37.0%, 「②友だちを大切 5.親からの期待と子どもの対応 にする」36.8%, 「③困っている人を助ける」36.7%, 「⑨ よい成績をとる」35.0%,「⑩将来,一流の大学や会社 次に,子どもが親から期待されていると感じているこ に入る」35.0%, 「⑥みんなに好かれる」35.1%の順となっ とに対して,その子ども自身,どのくらいそうした親か 16 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ らの期待に応えているかについてみていくことにする。 親からの期待=「そう思う」×子どもの評価=「あまり ここでは,期待を介して親と子どもとの意識の共通点(同 そう思わない」が40ケース,親からの期待=「あまりそ 一性)とずれ(差異性)が分析の焦点となる。 結果だけを述べると̶クロス集計は省略̶,親か う思わない」×子どもの評価=「あまりそう思わない」 らの期待と子どもの自己評価がほぼ完全にマッチしてい どもの評価=「ぜんぜんそう思わない」が19ケース,親 るものは, 「⑦親の言う通りに動く」である。具体的には, からの期待=「あまりそう思わない」×子どもの評価= 親からの期待(「あまり+ぜんぜん期待していない」)と 「ぜんぜんそう思わない」が14ケースという具合に,親 子どもの自己評価(「あまり+ぜんぜん期待に応えてい と子どものあいだでずれが見られるその一方で,部分的 るとは思わない」)が見事に符合している。 には両者が符合しているところもある( 1 つは,親から 次に,親からの期待と子どもの自己評価が部分的に の期待=「あまりそう思わない」×子どもの評価=「あ マッチしているといえるのが,「⑧親のできなかった夢 まりそう思わない」の26ケース,もう 1 つは,親からの を実現する」「⑨よい成績をとる」「⑩将来,一流の大学 期待=「あまりそう思わない」×子どもの評価=「ぜん や会社に入る」である。これは「上を目指すことへの期 ぜんそう思わない」の14ケースである)。こうした傾向 待」であり,そうしたことを親から期待されていると感 が強かったのは, 「普通に生きていくことへの期待」や「そ じている子どもは子どもなりに応えようとし,親から期 の他」に属する社会的規範に関する期待である。 待されていないと感じている子どもは(期待通りに)まっ 以上のことから,親からの期待と子どもの自己評価が たく応えていない。「上を目指すことへの期待」は,目 プラスの面で符合しているのは,「上を目指すことへの 標が明確であるため,親の期待の度合いや意向が子ども 期待」であり,マイナスの面で符合しているのは,「他 にそのまま伝わるものと思われる。当然といえば当然の 者を思いやることへの期待」であることがわかる。この 帰結であるが,データを照合すると,そのことがよくわ 2 タイプの期待について,親と子どものあいだのずれは かる。 顕著である。それに対して,「普通に生きていくことへ その一方で,親からの期待と子どもの自己評価がまっ の期待」や「その他」は,親と子どものあいだで分散傾 たくマッチしていない項目がある。それは,「①人に迷 向が強い。それに関して要は,ケースバイケースなので 惑をかけない」「②友だちを大切にする」「③困っている あり,親子関係はさまざまであると言うしかない。 が26ケース,さらに,親からの期待=「そう思う」×子 人を助ける」「④素直」「⑥みんなに好かれる」である。 このうち,「④素直」を除くと,それ以外はすべて「他 者を思いやることへの期待」であることがわかる。親た 6.親の期待と家庭環境 ̶文化資本の格差̶ ちは,子どもに対して他者への思いやりを期待している にもかかわらず,子ども自身はその期待にほとんど応え 以上のように,子どもの性差と成績毎に親からの期待 ていないと感じているのである。ここに,親と子どもと には独自の特徴があることをみてきたが,ここでは次に, のあいだに顕著なずれを見出すことができる。というよ 各々の家庭の条件(家庭環境)によって親からの期待が りも,「他者を思いやることへの期待」は,親たちがど 異なるものなのかを捉えていくことにする。 れほど大切なことであると見なし,そのことを子どもた 特に,近年,「ハビトゥス16)」という概念で語られる ちに期待しても,彼らが実際にその期待に応えようとし ように,子どもたちが生まれ育った環境で身につけたこ ても難しいことなのかも知れない。その意味で,前述し とが,その後の学校生活での見えない障壁となり,子ど た「上を目指すことへの期待」は,よい成績を目指せば もたちの行動や意識を規定しているとも言われる。こう よいのであるから,子どもたちからみて具体的であり, した家庭の文化的基盤(文化資本)を背景とした「育ち」, 実現可能なものだといえる。 つまり「ハビトゥス」が,子どもたちに向けられる観た それ以外の項目,すなわち「⑤優しい」「⑪政治や社 ちの期待に関連しているのであろうか。 会に関心を持つ」 「⑫ふつうの大人になる」 「⑬男らしい, 従って,ここでは,「家にある本の量」を家庭の文化 女らしい」「⑭明るく,社交的」「⑮礼儀正しい」につい 的背景の指標とし,親からの期待との関連をみること ては,親からの期待と子どもの自己評価が分散傾向にあ にした。これを指標としたのは,すでにいくつかの調査 る。例えば,最も分散傾向の強かった「⑭明るく,社交的」 研究で同様に用いられてきたことに加え,本調査研究で を例に見ると,親からの期待=「とてもそう思う」×子 得られたデータとしても各家庭での本の量が適度に分散 どもの評価=「あまりそう思わない」が13ケース,同じく, し,比較検討が可能だと思われたからである。それを示 17 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) 表9 [2]親からの期待(とてもそう思う)×〔5〕本の数(%) したものが,表 9 である。 これに対して, 「⑤優しい」「⑦親の言うとおりに動く」 ちなみに全体の割合でみると ̶平均でみると ̶, 「⑪政治や社会に関心を持つ」 「⑬男らしい,女らしい」 「⑮ 50冊以内が73.2%,100冊くらいが23.4%,200冊くらい 礼儀正しい」という項目については「本の量」にほとん が4.1%,300冊以上が3.1% である。これでみると,比較 ど関連は見られなかった。それらはすべて,米印を付け 的差のある期待は,「⑫ふつうの大人になる」で,50冊 たように,「とても期待している」という回答は皆無で 以内の家庭のみで,それ以上の冊数の家庭にはまったく あるため,表 9 の該当する数値にカッコを付けた上で示 見られない。また,「⑧親のできなかった夢を実現する」 すことにした。 「⑨よい成績をとる」「⑩将来,一流の大学や会社に入る」 このように,「ハビトゥス」という観点からみると, では,50冊以内の本のある家庭に最も多く見られるが, 親からの期待の内容と行動には,その家庭の文化的環境 100冊くらいの家庭の20%にも見られる。さらに,それ がある程度関連していることがうかがわれる。 らは300冊以上の本のある家庭でも,順に,4.3%,2.5%, ここでは,それを「本の量」を中心にみたが,特に 2.5%(300冊以上に,200冊くらいを加算すると,各々, 300冊以上の蔵書がある家庭で顕著な特徴がみられた。 順に,4.3%,5.0%,5.0%)という具合に,きわめて少 ただし,「ハビトゥス」,すなわち「育ち」の文化的背景 数ではあるが,稀に見られる。それ以外の期待の項目で が子どもや親の意識や行動を一律にかつ無意識に規定し は,300冊以上の本をもつ家庭は皆無であった。そのこ ていると考えるのも危険である。同じ文化的背景を背負 とは,恐らく,親の学歴と関係するものと推測できる。 いながらも,各々,独自の期待や行動があることも留意 つまり, 「親のできなかった夢」,すなわちこの場合は「一 すべきであろう。 流の大学や会社に入る」ことを指すと考えた場合,これ ところで,こうした「本の量」の違いは,子どもへの ら 3 つはいずれも,家庭での「本の量」が「文化的背景」 行動にも現れるものなのであろうか。そのことを示した として「上を目指す(志向する)」親の期待に反映して ものが,表10である。表10では,それを「親が期待を口 いるのではなかろうか。「本の量」が300冊以上の家庭で に出すか」ということとの関連で,特に50冊以内と100 は,特に,「一流の大学や会社に入る」などの「上を目 冊以上の家庭のあいだで比較することにした。 指す期待」について親から強い期待を受けていると感じ 表10に示されるように,多少であるが,期待をよく ている子どもの占める割合が多くなっている。また,こ 口に出すのは,「本の量」が50冊以内の家庭に多くみら うした傾向は,「本の量」が200冊くらいの家庭に限っ れる。「よく言う」「ときどき言う」合わせて,50冊以 てではあるが,「①人に迷惑をかけない」「②友だちを大 内が18.3%であるのに対して,100冊以上は7.6%に留ま 切にする」「③困っている人を助ける」「⑥みんなに好か る。一方,「ぜんぜん」口に出さない家庭は,50冊以内 れる」という「共生的な期待」に関係する項目でも,各々, が3.7%であるのに対して,100冊以上は69.6%ときわめ 順に,4.3%,3.9%,6.1%,5.3%というようになっている。 て高い。この点からすると,現在は,文化資本の多い家 18 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ た。それを示したのが,表11である。 表10 [1]親は期待を口に出すか×[5]本の数 その結果を表11でみると,生活の満足度の低い親では, ⑤,⑦,⑪,⑬,⑮の諸項目を除外して,軒並み高かった。 仮説では,⑨や⑩の「上を目指すことへの期待」,すな わち上昇志向(生活の向上に向けての出世・競争)が高 いのではないかと考えられたが,実際には,そうした期 庭は,子どもへの期待をほとんど言わないのと比べて, 待よりも,全般的に期待が高かった。現在では,生活の 文化資本が相対的に少ない家庭は,子どもへの期待の表 満足度の低い親たちは,上昇志向への期待をそれほど子 し方を明確にしていることがわかる。推測するに,文化 どもに寄せている訳ではないようである。勿論,そうし 資本が多く,文化的環境が整っている家庭の場合,子ど た期待も決して低い訳ではないが(父,ともに50%,母, もに期待を明確に表さずに,子どもの自主性に任せてい ともに70%),「⑫ふつうの大人になる」で父親,70%, るのではないかと思われる。子どもも親から期待を明言 母親,80%ときわめて高い。しかも,全般的に父親と比 されずとも,暗黙裡に理解していると言うべきであろう べて母親の方がどの項目についても10∼20%程度(⑧は か。あるいは,本が家庭に沢山あるなど,文化的環境を 21.7%で最大),高くなっている。生活に不満がある場合, はじめ,学習環境を子どもに提供し,子どもの学習意欲 父親よりも母親の方が子どもへの期待を多く抱くようで をアフォードしているのであろうか。 ある。 7.親からの期待と親の生活の満足との関連 これに対して,生活の満足度の高い親の場合̶それ が低い親と同様,⑤,⑦,⑪,⑬,⑮以外̶,全般的 に子どもへの期待が少ない。ただその中で⑨と⑩の「上 次に,親からの期待を親の生活の満足度との関連でみ を目指すことへの期待」に関する項目について,生活へ ることにしたい。生活への満足度が子どもへの期待にど の満足度の如何に関係なく,父親の場合はまったく同じ, のくらい反映するものなのであろうか。 50%となっている。父親に限って生活の満足度とは関係 まず,子どもたちに自分の親の生活に対する満足度を なく,ほぼ半数の父親は,よい成績をとることやよい大 尋ねてみたが,そのことが独自に持つ意味はないため, 学や会社に入ることを子どもに期待している。逆に,そ これについては省略し,ここではその中で父親,母親各々 れについて生活の満足が高い母親は,いずれも30%と, で「とても満足」と「やや満足」,また「やや不満」と「と それが低い母親と比べて期待が多くない。 ても不満」を合わせたものと,親からの期待の関連をみ それ以外の項目をみると,生活に満足している父親, 表11 「親からの期待」×「親の生活の満足度」 19 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) 母親とも,どの項目についても同程度の期待を持ってい いう項目は,実数が極端に低いので除いて考えると,前 る。ただ,父親の場合のみ,「⑧親のできなかった夢を 者の「競争を肯定するもの」は, 「⑫ふつうの大人になる」, 実現する」ことを子どもに期待している。それに対して, 「⑧親のできなかった夢を実現する」, 「⑭明るく,社交的」 母親は34.8%とそれほど高くない(それ以外の項目と比 といった 3 つの項目を親が強く期待している場合に,生 べると,相対的には高い)。しかも,生活に不満を持つ 徒たちの間に肯定的な競争観をみることができる。 親たちの場合と同様,生活に満足している親たちの場合 これに対して「①人に迷惑をかけない」,「②友だちを も,父親と母親のあいだで顕著な差異がみられる。つま 大切にする」, 「⑨よい成績をとる」といった期待では, 「ど り,全般的に母親と比べて父親の方がどの項目について ちらともいえない」がやや多いものの,全体としては後 も10∼20%程度(⑧は21.7%で最大),高くなっている。 者の「競争を肯定,否定,どちらともいえないと 3 分す 生活に満足している場合,母親よりも父親の方が子ども るもの」に分かれる。このうち「⑨よい成績をとる」で への期待を多く抱くようである。これは,生活に不満の みると,「競争がとても + やや好き」34.8%,「どちらと ある親の場合とは正反対となっている。 もいえない」35.7%, 「競争がとても+やや嫌い」29.1% で, 以上のことから,生活に不満を持っている親の場合, 親からの成績に対する強い期待が,必ずしも生徒の競争 特に母親が子どもに対して期待を多くかける傾向がある 肯定観には結びついてはいないことがわかる。 のに対して,生活に満足している親の場合,特に父親が 次に,親たちからの期待をぜんぜん感じていないとい 子どもに対して期待を多くかける傾向があることがわか う場合でみると,競争に対する肯定観を示す割合がほと る。また,父親に限って言うと,生活に満足しているか, んどの項目で減少し,反対に否定的な意識が増加してい していないかの如何にかかわらず,子どもに対して「上 る。そのことからみる限り,親たちの期待は子どもたち を目指すことへの期待」を持っている。それに対して, の競争意識を支える役割を果たしていることがうかがわ 母親は生活に不満を感じている場合,子どもに対して上 れる。先ほどみた「⑫ふつうの大人になる」についても, 昇志向への期待をかけることが多い。従って,生活状況 これに対する親からの期待がない場合には,競争に対す との関連で父親と母親とのあいだに明確な差異があるこ る肯定意識の割合は37.8% から29.9% へと大きく減少し, とが明らかとなったといえる。 「競争がとても+やや嫌い」36.9%の占める割合が増し ている。 8.親の期待と競争意識 また,「⑨よい成績をとる」が,「競争がとても + やや 好き」32.6%,「競争がとても+やや嫌い」39.6% という 以上のように,子どもに向けられる親からの期待には, ように,競争への肯定意識と否定意識の分化をみること 子どもたちの学業や成績といった属性や特徴によって, もできる。 その内容が異なるだけでなく,家庭の文化的背景や親た このように,親からの期待が低い場合には競争に対す ちの生活によってもそれが異なることがわかった。そこ る子どもたちの否定的な意識が浮き上がってくるが,こ で最後に,こうした親たちの期待が子どもたち自身の競 の状態は子どもたちにとってどのような意味をもつのだ 争意識(競争観)とどのように結びつくのかについて, ろうか。ただ,過度の競争意識は必ずしも好ましいとは みておくことにしたい。 言えないし,それをたきつける親の姿勢にも一考の余地 表12は,これまでみてきた「親から期待される項目」 があるだろう。こうした中で,親には何が求められるの を「あなたは人と競争するのが好きですか」という質問 だろうか。 の結果との関連でみたものである。ただし,これまでと この点について考えさせられるのは,表12における親 違うのは,親からの期待について「とても期待している」 からの期待が「わからない」とする場合の結果である。 という強い期待だけでなく,「ぜんぜん期待していない」 表中の不等号は,「どちらともいえない」に対して,「競 「わからない」という回答についても比較している点で 争がとても+やや好き」「競争がとても+やや嫌い」が ある。 5 %以上の差を持つもので,親の期待が「わからない」 まず,親たちから強い期待を感じている場合について とした子どもたちでは,競争観について「どちらともい みると,競争に対する意識にやや多様性がある。大きく えない」とするものが際だっている。本調査のデータで 分けると, 「競争を肯定するもの」と, 「競争を肯定,否定, はこうした子どもたちが期待の項目毎に約10∼20%の範 どちらともいえないと 3 分するもの」との 2 つに分ける 囲で存在している。これを元にみる限り,親の期待が伝 ことができる。このうち,「⑬男らしい,女らしい」と わらない状態では,こうした子どもたちのかなりの部分 20 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ 表12 「親からの期待」×「競争意識」 21 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) が競争観について「わからない」,すなわち「判断停止」 ゆることを子どもに期待するようになり,そのために, の状態に置かれているということである。 学校は本来の家庭の役割を代わりに果たすかのように, これに対して,やはり親の果たす役割は大きいものだ 子どもの特性(特長)または個性を重視して評価するよ と言えるであろう。以上みてきたように,親からの期待 うになっている。それによって子どもは,本来,家庭で は,子どもの競争観に結びつくものであったからである。 は無条件に認められるはずの自分の存在を認めてもらう ただし,また多くの親が抱く「成績」に対する期待が, ために,自分が何を期待されているのかを敏感に察知し, 子どもたちにとっては必ずしも肯定的な競争観に結びつ その期待に応えようと必死になっていると思われる。 くものではなかった。その点から言えば,親たちは子ど 繰り返しになるが,子どもにとって親は,唯一,無条 もたちの目線と向かい合うことの中で,あらためて子ど 件に存在を認めてくれる人であるから,学校から期待さ もたちへの期待を語り直すことが求められているように れるよりも親から期待される方が子どもへの負担は大き 思われる。その際,本調査研究を通して各データでさま い。そのため,親からの期待が多ければ多いほど,子ど ざまな形でみてきたように,競争観には多様な見方があ もは期待される人物像と実際の自分との差を感じ,自分 ることは,子どもに向かい合う者として留意しておくべ 自身の存在に不安を抱くのではないだろうか。また,期 きであろう。 待されていると感じること自体が,自分は認められてい ると感じることのできる子どももいるのかもしれない。 Ⅳ.本論文のまとめ そうすると,親から何も期待されていないと感じている 以上述べてきたように,子どもは,家族,他者(異性), 認められていないと感じる子どももいるのではないかと 学校による承認を通して自己承認を行いながら成長発達 考えられる。 していく。とりわけ,家族は子どもの存在の意味を無条 いずれにしても,親から無条件に認められているから 件に承認するのであった(「意味の承認」)。意味の承認は, こそ,子どもはその上で安心して学校からの自分への評 社会から承認される(「価値の承認」)ことよりも,より 価を受け入れることができ,成長することができる。子 無条件的であり,より根源的である。子どもにとって家 どもの成長の根底を支えるのは,親の役割である。それ 族による承認は不可欠であり,それなしでは子ども自身 が揺らいでいる上に,学校の姿勢も変化しているために, の十全な成長発達はあり得ない。子どもにとってはまず 子どもの成長に問題が生じることが多くなっているので 家族的承認が土台にあり,その上で学校・社会からの承 ある。 認(社会的承認)が必要なのである。 以上の問題意識を踏まえながら,本論文では,子ども ところが,現在,家庭での家族的承認と学校での社会 が承認を得るために親から受ける期待について小学生へ 的承認のバランスが崩れつつある。正確には,家族的承 のアンケート調査研究を通して分析・解明した。その際 認が本来,学校・社会から受ける交換価値の承認に近づ の主な仮説は,次の通りである。すなわち,子どもの成 くその一方で,社会的承認が本来,家庭から受ける意味 長において,親は子どもを無条件に承認し,その上で学 (価値)の承認に近づきつつある。例えば,学校におい 校(社会)による承認が必要となる。そのため,親が子 て子どもは,「テストで良い点数をとる」,「クラスメー どもに対してもつ期待は,無条件のものであり,子ども トと仲良くする」など良い成績や集団生活に馴染むこと の評価とは必ずしも結びつかない。それに対して,学校 を期待され,それによって評価される。それに対して親 (社会)は,子どもに対して,集団生活(社会)に馴染 子どもの中には,期待を持たれていないために,存在が からは,どのような子どもでも認められ,特別な期待を むことや,上を目指すことを期待する。ところが,現在, 寄せられるとともに,学校のように,成績で評価される 親と学校の役割が逆転しつつあるのではないか。そのた こともない。つまり,子どもは学校で他者との比較によっ め,親は過度に子どもに対して期待を持ち,口出しして て評価され,より良い評価を得られることが期待される いると考えられる。 一方,親からは無条件に存在を認められている。親から また,本調査項目を作成するにあたって,筆者はあら 無条件に存在を認められているからこそ,子どもは学校 かじめ「親の子どもに対する期待」を次の 3 つに分けた。 からあらゆる期待を受け,評価をされても,成長してい すなわち, 1 つ目は,「共生」「配慮」という言葉で表現 くことができる。 される「他者を思いやることへの期待」, 2 つ目は,「競 ところが現在では,こうした学校と家庭(親)の役割 争」「上昇志向」「(自分自身の)課題達成」という言葉 が逆転しつつあるのではないかと考えられる。親があら で表現される「上を目指すことへの期待」,3 つ目は「人 22 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ 並み・世間並み」「一人前(大人)」という言葉で表現さ 言うように,わが子を叱責・詰問してはならない。むし れる「普通に生きていくことへの期待」である。この 3 ろ,親は例えば,この子は家の手伝いをしっかりとする, つの中で,親は子どもに対して「他者を思いやることへ 自分の身の回りのことをきちんとする等々,と言うよう の期待」,「上を目指すことへの期待」を強くもち,「普 に,家庭生活の状況を基準にしてわが子の良さを評価す 通に生きていくことへの期待」はあまり抱いていないと ることが必要である。しかし,わが子が問題行動を取っ 考えられる。 た場合は,壁(障壁)として子どもの前に立ちはだかり, 以上の仮説に基づいて調査結果を統計解析した結果, 子どもの行為を否定・批判すること(総じて,承認する 次のことが明らかになった。 こと)が必要である(甘やかしたり,過剰に評価したり することが承認ではない)。 ①いまの親は,子どもに対して,「他者を思いやること」 そして,家庭ではわが子を肯定した上で,その良さ を何よりも期待し,その次に従来のように,「上を目 を認めることで,わが子のプライドに火をつけることが 指すこと」を期待しており, 「普通に生きていくこと」, 不可欠である。現在,学校では,「新しい学力観」の下, すなわちごく普通の大人の能力や資質を身につけ,人 教師が個々の子どもの良さを認め,伸ばすべく,「知識・ 並みに人生を送ることについて,あまり期待をもって 理解」のみならず,「関心・意欲・態度」にも着目しな がら̶両者を相互に関連づけながら̶,子どもの発 いない。 ②親からは成績の如何を問わず,他者への配慮を求める 達状況を評価している。家庭は,こうした価値・評価基 「思いやる期待」が高く,成績が上位者である者ほど, 準を学校に学びながら,わが子の発達状況や個性を捉え, 上を目指すことへの期待を感じている者が多くなる。 子育てに生かしていくことが必要ではないかと考えられ ③「上を目指すことへの期待」を親から期待されている る。 と感じている子どもは,子どもなりに応えようとし, ただ残された課題として,次の点を挙げることができ 親から期待されていないと感じている子どもは(期待 る。本論文では,子どもの自己肯定感や自尊感情が家庭・ 通りに)まったく応えていない。 異性・社会(学校)から,各々異なる承認を付与される ④子どもに対して他者への思いやりを期待しているにも ことにより,自己自身を認める理路,すなわち自己承認 かかわらず,子ども自身はその期待にほとんど応えて 欲望を満たす理路を主題としてきたが,そのことが社会 いないと感じている。 状況や生活環境の変化などにより家庭や学校がその役割 ⑤文化資本の多い家庭は,子どもへの期待をほとんど言 を果たし得なくなっている。本文の中でも触れたように, わないのと比べて,文化資本が相対的に少ない家庭は, 児童虐待やアダルト・チルドレンの増加に象徴されるよ 子どもへの期待の表し方を明確にしている。 うに,さまざまな事由で家庭が変容することにより,根 ⑥生活に不満を持っている親の場合,特に母親が子ども 源的な家族的承認,すなわち意味の承認が子どもたちに に対して期待を多くかける傾向があるのに対して,生 付与されなくなっている。従って,そうした現状を踏ま 活に満足している親の場合,特に父親が子どもに対し えた上で家庭が何をしなければならないのか,また,何 て期待を多くかける傾向がある。 をすることができるのかについて考察していくことが不 可欠になる。しかも,こうした家庭の役割や機能は,学 本来ならば,親は子どもを無条件に承認し,その上で, 校や地域のそれらとも連動することから,巨視的な立場 学校・社会が「他者を思いやること」や, 「上を目指すこと」 から子どもの自己承認問題を考えていかなければならな を期待し,承認するはずである。しかし,いまの親は子 い。本論文では,以上述べた点を欠いていることを深く どもに対して「他者を思いやること」を何よりも期待し, 反省しつつ,新たな調査研究を計画する中で本論文を進 次に「上を目指すこと」を期待しているが,「普通に生 展させていきたい。 きていくこと』,すなわちごく普通の大人の能力や資質 を身につけ,人並みに人生を送ることについて,子ども 注釈 にあまり期待をもっていないことがわかった。 1 )勢古浩爾『私を認めよ!』(洋泉社,2000年)参照。 親は,家庭での承認が,意味の承認であって,価値の 2 )E . H . エリクソン,小此木啓吾訳『自我同一性』 (誠 承認ではないと言う点を明確に区別し,取り違えてはな らない。例えば,親はわが子と他の子どもとを比較して, どうして勉強ができないのか,または勉強しないのかと 信書房,1973年)参照。 3 )承認論については,勢古浩爾『私を認めよ!』 (洋泉社, ̶ 2000年)および『自分様と馬の骨 なぜ認めら 23 ( ) 生活科学研究誌・Vol. 6(2007) れたいか? ̶』(三五 館,2002年)および『な 子 供 の 心 の 発 達 と 病 理 ̶』 言 叢 社,1994年, ぜ,だれも私を認めないのか』(講談社,2005年), pp.62-65。 太田肇『認められたい!』(日本経済評論社,2005 13)承認については,G . W . F . ヘーゲルやJ . G . フィ 年),宮台真司・藤井誠二『学校的日常を生きぬけ』 (教 ヒテの承認論を敷衍した,A . ホネット,山本啓, 育史料出版会,1998年),宮台真司『まぼろしの郊外』 他訳『承認をめぐる闘争』 (法政大学出版局,2003年) (朝日新聞社,2000年)などを参照した。 を参照した。 4 )千石保『新エゴイズムの若者たち』PHP研究所, 14)大澤真幸『身体の比較社会学Ⅰ』 (勁草書房,1990年) 2001年参照。 および『身体の比較社会学Ⅱ』(勁草書房,1992年) 5 )R . N . ベラー,島薗進・中村圭志訳『心の習慣̶ を参照した。なお,中井孝章『学校教育のメタフィ ア メ リ カ 個 人 主 義 の ゆ く え ̶』 み す ず 書 房, ジックス』(日本教育研究センター,2006年)も参 1991年,55頁。 照されたい。 6 )芹沢俊介『現代〈子ども〉暴力論』増補版,春秋社, 15)芹沢俊介『現代〈子ども〉暴力論』増補版,春秋社, 1997年参照。 1997年参照。 7 )同前,p.1。 16)P . ブルデュー,石井洋二郎訳『ディスタンクシオ 8 )同前,pp.1-2。 ンⅠ・Ⅱ』藤原書店,1990年参照。それ以外にも, 9 )同前,pp.2-3。 10)同前,pp.5-6。 ブルデューのディスタンクシオンを日本社会に応用 した,石井洋二郎『差異と欲望̶ブルデュー『ディ 11)同前,p.14。 スタンクシオン』を読む̶』(藤原書店,1993年) 12)F. ド ル ト, 榎 本 譲 訳『 無 意 識 的 身 体 像 ① ② ̶ 参照。 子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性 ̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ 中井 孝章 要旨:一般に、子どもは、家族、他者(異性)、学校による承認を通して自己承認を行いながら成長発達していく。 とりわけ、家族的承認は、子どもの存在の意味を無条件に受け入れるという意味で、それ以外の承認と比べて、よ り無条件的であり、より根源的であるがゆえに、それなしに子ども自身の十全な成長発達はあり得ない。その意味 で家族的承認は、学校・社会からの承認(社会的承認)の土台となる。 ところが、現在、家族的承認が本来、学校・社会から受ける交換価値の承認に近づくその一方で、社会的承認が 本来、家庭から受ける意味(価値)の承認に近づくといったねじれ現象が起こっている。つまり、現在、親と学校 の役割が逆転しつつあり、そのため、親は過度に子どもに対して期待を持ち、口出ししていると考えられる。そし て本論文では、子どもが承認を得るために親から受ける期待について小学生へのアンケート調査研究を通して分析・ 解明したが、その主な知見は次の通りである。なお、主要な調査項目である「親の子どもに対する期待」は、「他者 を思いやることへの期待」、「上を目指すことへの期待」、「普通に生きていくことへの期待」に分類した。 ①いまの親は、子どもに対して、「他者を思いやること」を何よりも期待し、その次に従来のように、「上を目指 すこと」を期待しており、「普通に生きていくこと」、すなわちごく普通の大人の能力や資質を身につけ、人並みに 人生を送ることについて、あまり期待をもっていない。②親からは成績の如何を問わず、他者への配慮を求める「思 いやる期待」が高く、成績が上位者である者ほど、上を目指すことへの期待を感じている者が多くなる。③「上を 目指すことへの期待」を親から期待されていると感じている子どもは、子どもなりに応えようとし、親から期待さ れていないと感じている子どもは(期待通りに)まったく応えていない。④子どもに対して他者への思いやりを期 待しているにもかかわらず、子ども自身はその期待にほとんど応えていないと感じている。⑤文化資本の多い家庭は、 子どもへの期待をほとんど言わないのと比べて、文化資本が相対的に少ない家庭は、子どもへの期待の表し方を明 24 ( ) 中井:子どもの自己承認欲求と親からの期待と承認の関連性̶ポストヒューマニズムの立場からの子ども研究̶ 確にしている。⑥生活に不満を持っている親の場合、特に母親が子どもに対して期待を多くかける傾向があるのに 対して、生活に満足している親の場合、特に父親が子どもに対して期待を多くかける傾向がある。 以上のことから、子どもは、本来、家庭では無条件に認められるはずの自分の存在を認めてもらうために、自分 が何を期待されているのかを敏感に察知し、その期待に応えようと必死になっていることがわかる。 本来ならば、親は子どもを無条件に承認し、その上で、学校・社会が「他者を思いやること」や、 「上を目指すこと」 を期待し、承認するはずである。しかし、いまの親は子どもに対して「他者を思いやること」を何よりも期待し、次に「上 を目指すこと」を期待している反面、「普通に生きていくこと」、すなわちごく普通の大人の能力や資質を身につけ、 人並みに人生を送ることについて、子どもにあまり期待をもっていないことがわかった。 25 ( )
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