あなたたちの恋愛は瀕死川上未映子

あなたたちの恋愛は瀕死
あなたたちの恋愛は瀕死
大人になってしまった今では、もう誰にも相談せずに、
いい匂い。いい見栄っぱり。いい瓶、いい体。それから
やる。
女は新宿の真んなかのもっと真んなか、製氷機の出口の
なりつつある「いい」ものを手入れしに、あるいはさらに
さやかな、それとも実はもう押さえきれないくらいの量に
鏡をのぞき込んでる女たちはみな自分たちのなかにあるさ
いいハンドバッグに、何もかものいい形。いい発缶]。いい
ささいな顔色を見ずに、所持金と時間と自分の気分の関係
ように人がぎくざくとあふれでくる化粧品売り場を滑るよ
目玉。いい毛髪にいい野心。化粧品売り場で検分したり、
うにいい気分で歩いてるときにそれを思い出して、それは
の口角はどれも同じように斜めうえにひっぱられて、よく
倍にしにここへやってきて、取り出しては見せあって、そ
のなかだけで必要なものを選びとり、好きな場所へ行くこ
どちらかというと小気味のよいふるまいであるはずなの
見るとそれは笑顔と呼ばれるものだった。女たちはみな、
とができてしまうこと。
に、女のまわりに浮かんでいる何かと何かが小さく衝突し
た加減によって、くじかれて、なぜかとんでもない不安の
笑ったりしているのだ。
固まった白いクリームのような形の椅子に腰をかけて、
なかに放り出されたような気持ちにもなって、立ちつくし
てしまうというようなことがある。しかしそれはいつも、
かなんとか言いながら。色々な新製品を見ているふりをす
販売員に向かって女もにっこりと笑顔を見せる。ん1、と
る。新しいのは次から次へ毎週のように登場するので、使
ほんの少しのことなのでそれがしゆっと渦を巻いて消えて
りひらいたりして息を整えたりして色々なものを逃がして
しまうまで、だいじようぶ、だいじようぶ。目をつむった
員の指についた指輪のことが気になる。それはぜんぶで十
クリームのうんぬんよりも、手袋のなかにしまわれた販売
本の指があるなかで左手の薬指にはっきりとはめられてあ
いきらないで用済みになっていくこれまでの化粧品の数を
るのだから十中八九、恋人からの贈り物であるはずで、邪
貴金属を
品もちゃんと腐るのかしら ?
魔にならない控えめなデザインと、このめずらしく化粧つ
油がまわって ?
照らす用のきらきらしいライトの光が頭上から一直線に注
思うと、女はほんの少しだけ頬の赤らむ思いだった。化粧
いでいるので、楕円形の鏡のなかの女の顔はどの鏡で見る
ひそひそとぐるになって、恋人のなかの何かとても気の利
しだけいやらしい感じがした。この飾り気のないふたつは
いたものをその恋人本人には絶対に気づかれないようなや
気のない販売員はとてもお似合いで、その組みあわせは少
っすぐな光が上からまあるい光を刺すこの具合がどうも数
り方で、毎晩のように少しずつ踊し取っているようなそん
よりもロマンティックな具合に見える。羊手】おいたカウン
字的だわ、と感心しながら、そのなかで浮かびあがる女の
ターのなかからも薄水色の光がまあるく膨らんでいて、ま
鼻は少しチャーミングであるようにも見える。ふんふん。
な気がしたので。
品なネックレスでもなんでもいいけれど、何もつけていな
繊細な下着でも綿の小さなタンクトップでも細い鎖の上
右を向いて、左を向いて、険に力を入れてまつげの反り方
ひっつめにして、薬指にほんとに小さなピンクの石のつ
い体の表面に何かひとつのしるしのようなものがあるのは
をチェックする。
いた指輪をはめた若い販売員が手をひらひらさせて、お客
たり、見つめたり、隠したりできる部品としての注意。そ
体温の延長上なんかで、目にとても注意をさせる。めくっ
れは恋人をとても興奮させて気持ちよくさせるだろうし、
素敵だし、そういうのはベッドのなかとか薄閣のなかとか
からくるくると蓋をなめらかに回してぽっかとあけて女に
様。これはちょっとあり得ませんよ、と言いながら大げさ
向かって中身を見せる。見るだけではその中身がどれくら
きたこの販売員のそのしたたかでいやらしい気質の色]濃い
ある一定の時間、自分の恋人を正しく興奮させることがで
な箱に入ったクリームを、これまた大げさに手袋をはめて
い柔らかいものなのか冷たいものなのか、正体のどんなさ
のだから、増幅して、漏れて、空気をにじませるみたいに
部分は、そんな風にして日に日にそれらをぱくぱくと食う
さいな部分のこともわからない。どこにでもある匂いだ
し、初めてかぐような匂いにも思えるし、すごくよさそう
してとても匂う。だからたったの一回、こんな馬鹿馬鹿し
だし、たいしたことないような。クリームのことは実はそ
もそもよくわからないんだし。しかし女はそのあり得ない
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未
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子
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あなたたちの恋愛は瀕死
いクリームの効用を介してしか会うことのないわたしにも
こんなことを想像させてしまうのだ、と女は考えた。
そうしたらその向こう、携帯電話のコマーシャル、大き
と、前からやってきた女と思いきり肩がぶつかった。不意
な看板に印刷された女優の顔の輪郭に目を奪われている
とかがんばり、しかしお尻はつかないまでも、思わずしゃ
に力をぶつけられた女は横向きに倒れそうになるのをなん
偵察するように様々なブランドの角を眺めながらつるつ
るとした百貨店を出て、時計を見て、待ちあわせの時間ま
ゆく女たちの足に目をやりながら独り言のように頭のなか
唇の隙聞から鋭く短い息を吐いた。まるで目に見えるよう
は謝るどころか脱みつけるような目をしてぽつぽつとした
手を払いながらぶつかってきた女の顔を見あげると、女
っすらとして皮もめくれた。
ートのぼこぼこした跡が白くついて、毛羽立ちみたいにう
がみこむような形になって、支えた手のひらにはコンクリ
でにあと四時間もあることを確認しても、女は今度はどこ
気分のどこを見まわしても不安めいたものがないので、
にも放り出されなかった。
そのことが女の足の速度を明るいものにさせた。最近はか
言葉を浮かべる。わたしは華者なハイヒールが好きで、
に一
ふくらはぎの真んなかまでもこもことしたブlツの生地が
な息だった。大きな目。短いスカートをはいて、素足で、
かとのしっかりした靴が流行っているけれど、と女は街を
それはわたしの足首から足の甲の形をとてもきれいに見せ
のびていて、張りのみなぎる、頬の白い、まだとても若い
るからで、まるで足のもともとからの一部みたいにしてわ
たしはこの素敵な形をした履き物を扱うことができる。靴
女だった。
くりと立ちあがり、若い女の顔をじっと見ることもできな
女は明嵯に目をそらし、何も言、
つことがないので、ゆっ
を買う予定はなくても、日についた靴屋に入って床すれす
をかけようとする前に礼儀正しさを演じながら体を回転さ
れにある足専用の長方形の鏡に足だけを映して、店員が声
でつまんでとった。ハイヒールのかかとにも一センチくら
かったので、手のひらについた黒いゴミみたいなのを爪先
いのひっかき傷がついていた。若い女はしばらく動こうと
それから、四時間あれば人は何ができるだろうかと考え
ながら、人がめいめいに歩く道路のうえには、冬のはじま
い女は女の上から下をざっと見おろして、口の形はいっさ
しないので、仕方なく最後にちらりと顔を見ると、その若
せて、とても感じよくひらりと店から出ることができる。
りの夕方の光がぱらぱらと落ちていて思わず目を細める自
こにいる誰も彼女を気に留めている様子もないのに、ふ
若い女が勢いよく行ってしまい、女は独りになると、そ
があるけれど、女はその男の目のなかの黒目の少し濡れて
んと目を見て。よく、のぞき込むような目で、という表現
り、丁寧にもう一度、ありがとう、と答えた。今度はちゃ
ときに初めて女にはティッシュが見えたのでそれを受け取
い動かさずに鼻をすん、と鳴らして女の会再を笑ったよう
分をどこかもうちょっと上の方から眺めてる構図を作って
う、とわざわざ声に出して肺の中身をすっかり出してしま
輪っかになった部分を本当にのぞき込むような気持ちで見
みる。
うようなわざとらしいため息をついて、歩き直し、信号が
かわりに面倒くさそうにどうぞ、と男がさらに声をかけた
青になるのをじりじりと待っていたけれど、しかしさつき
つめたから、まるで目薬を無理矢理に注がれたみたいに男
に見えた。
までいい調子で物事を制していた心臓は体中の皮膚の裏を
はまたたくまに液体のような嫌悪感でいっぱいになった。
にティッシュを挟んだ指が目の前に飛び出してきて、その
信号を終えて、靴屋と紀伊園屋の角にさしかかったとき
変にうんざりした様子でそれには答えないで数歩進んで女
感じでありがとう、と湿った声を出した。男は気味悪く大
れをまたさっと受け取って、さっきよりもたっぷりとした
通行人に向けて次のティッシュをさし出したのに、女はそ
それから体をひるがえして、女ではなく次にやってくる
いやな音をたてて走り回るので、女はのんきな縞々を渡り
すぐ後で男の声が、どうぞ、と言った。どうぞ。女は一
終えるまでに何度か立ち止まらなければならなかった。
瞬、何をどうぞと言われたのかが理解できなくて、どう
こんな、きりのない、無目的な、たいした金にもならない
の立っている場所から離れていった。そして、欝陶しい、
くせに、からまれたりするリスクにびくびくしながらこん
ぞ。どうぞって、一体なんだったかしら。それから、思わ
る反射神経のとてもいい部分を込めたありがとうだったに
りきたりな、もっと僕には特別な、気が、男はありったけ
なこと、いつまで続ければいいのだろう、うさん臭い、あ
ず、ありがとう、と言ってしまった。それは女の持ってい
もかかわらず、男はティッシュを受け取らない女のぼんや
の呪誼の一
言葉を並べてみたいのだったけど、こういうとき
りした反応と、ありがとうなどというまるっこい響きがこ
の場所でもつ意味が理解できないので少しだけいらつき、
にもないので、追いかけてもからからと音がするばっかり
のこの気持ちをさらに高ぶらせる種類の言葉の用意がどこ
で、まるで役に立たない字面の残りかすにまで人生を笑わ
ティッシュを女の目の前にさし出しても女はぼんやりし
て、それを受け取ろうとはしなかったので、なんだこの
れてるようだつた。そうすれば自分の手に持っているかさ
取るのか取らないのか、何度もすばやく空気を切るように
女、と男はさらにいらっとした。どっちだよ、と言いたい
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あなたたちの恋愛は瀕死
って蹴散らしてから事務所へ行って、あの、いつまでも馬
ろに積んであるダンボール箱の中身を今すぐ思いきり蹴破
つまり人々は1i女の夢想することを、その夢想のなかで
も知れないそれだけのことで、男に限らず、女に限らず、
んて使わずに、肘と肘がぶつかったりするだけでいいのか
携帯電話を使って、パソコンを使って、あるいは道具な
ごすのだった。
鹿みたいな喋り方で汚らしい唾をぶつぶつと飛ばし、日雇
かきしたティッシュを地面に打ってばら撒き、電信柱の後
つ醜いぶよぶよとした年下のあの責任者を、そ
いを顎で使、
ものを、そんなもの始めからないのだといわんばっかりに
あってもこの女には決して飛ぶことのできない溝のような
ひょいひょいと大股で進んでいって、傷ついたりはかなげ
こらにある何か固いもので気の済むまで殴り続けるという
のうえでどこまでもうまく質感を持たないのだから、男は
も満足しているように女には思えた。そういった性交の全
な感想を書いたり悲しんだり慰めあったりして||、とて
ことを想像して、しかし殴り続けるということが、男の手
気持ちの奥へ沈むことになった。
女は友人に、ーl女が一度でいいから味わってみたくて
般において。
しばらくそれについて考えてみればさらに暗くて安っぽい
女は少し離れたところからそんな男の後ろ姿をじっと見
ていた。わたしが気の利いた外人だったら、ヘlぃ、と明
うしても思えてしまう、ちゃんとした恋人もいる友人に
仕方がないその満足をほぼ日常的に体験しているようにど
||、さりげなく色々なことをきいてみたことがあったけ
んだけど、というようなことを夢想しながら。女はもう紀
れど、彼女が語るどの場面もなんだか言葉だけがちろちろ
るく声をかけてみてそこから何かが始まるような気もする
で来ていて、ここで待ちあわせをしているふりをして男を
伊園屋の前に本が山積みになって並んだワゴンのところま
とつながって目の前に並ぶだけで、自分をそこに置き換え
の境目が決してわからないので、それなりに苦しい夜を過
のか、それとも途方もなく馬鹿げたことになっているのか
うことを想像してはその想像が果たしてうまくいっている
に想像を重ねて、それがいったいどういうものなのかとい
で性交をしてみる、ということに関しては実は毎晩のよう
婚の噂話になり、その夫の株の失敗の話になり、カメラの
とがわからないし、いろいろを終えてそこから退場すると
りする場面にするりと登場することができるのかというこ
ていたふたりがそのあとすぐにお互いの乳首を祇めあった
て、例えばなぜ二十分前までは飼い猫の話でため息をつい
い。彼女の話す、行為と行為のつなぎ日が飛躍しすぎてい
たときにどうふるまってよいのかが女にはうまくわからな
ちらちらと見つづけていた。
きにどんな挨拶をしていいのかもわからない。これなら作
り、最後は虫歯の最新治療の話に落ち着いて、結局、女の
性能の話になり、マンションのうまい購入方法の話にな
女はまったく知らない男と出会って、そのままいい感じ
りもののべたべたした映画でもぽーと観ているほうがまし
ああいうことのできる、それが男でも女でもいいのだけ
伊園屋のワゴンの横で考える。
したあと、でも、と女は紀
ひとしきりを思い出して反相扮
ってないのだった。
知りたいことがはっきりと日のまえに現れることはいつだ
というようなもので、それでも気づかれないように熱心に
その詳細を頭のなかに書き込んでいくのだった。
一番素敵だったのは、と彼女はなんでもないような顔を
して一
言、
っ。
なんとなく、満員電車で前に立ってる男の子と何度も目
れど、出会いがしら的に性交ができてしまう人とそうでな
言われたら、う
があって、まあ好みか好みじゃないかつて一
ーん。まあまあ好み、って感じの男の子で、それからすぐ
だろう、とこれまで何十回も考えてそこからなんの発展も
い人の違いというのは、いったいどこにどんな風にあるん
しない幼稚な問いをこのときもまた女は飽きずに巡りはじ
にどっと空いたのね。電車が。それでわたしが座って、隣
つけれど、なので、つまり自分は、
めて、色々なことを思、
が空いたからどうぞって言って、男の子も座って、これか
ら仕事ですか、ってきかれて、帰る途中なのって言ったら
本当は、どっちなのだろう、というこれもまたお馴染みの
年齢とか基本的な性格とか、いわゆる素性全般を知らない
になるかつて、まず名前を知らないことよね。それから、
だいたい知らない相手、というのは、何を知らないこと
辿るのだった。
順路での堂々巡りを、しかし相当によわよわしい気持ちで
ご飯でもどうですかつてことになって、降りてご飯食べ
そんなことがあるの。と何度でも確かめたかったけれど
て、そのまま。
女は、そっか。というような相槌しか打てず、ご飯食べ
とてもききたいのだけど、彼女が一番素敵だったとか言い
て、そのまま。の、その後ろの段取りや気持ちの詳しくを
ながらそれを全く特別に扱っていないことになぜかどうし
れているといってもいいような関係でする性交っていうの
ということで、じゃあその逆の、例えば愛しているし愛さ
と、必ずしもそうでもないし、肝心なのは、その性交のど
は、その全部をちゃんと満たしているのだろうかという
ょうもなくつまづいてしまって、その一番素敵の意味をき
うな具合だったので、女は、まあ、大変よね、とかなんと
こうにも、彼女のほうではこのこと自体がどうでもいいよ
か言ってみるだけで、その話はなんとなく共通の友人の結
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あなたたちの恋愛は瀕死
こに主体性があるのか、なのよね、と女はぶつぶつと口に
てすごく同意しちゃったもの。性交の相手をころころ変え
くさくと仕事をこなしているのを知らないまに数えていた
が起きたらすぐに別れて、で、さみしいからってまた次に
怖いんじゃなくて単に面倒くさがってんのよ。だから問題
が、できないんじゃなくて、避けてんのよねo傷つくのが
ことに気がついた。女がここで立っているあいだに男は百
行くでしょ、で、面倒くさいから問題が起きたらまたぱっ
る人間はね、相手と最低限のレベルでも向かい合うこと
近いティッシュを手渡すことに成功し、それにしても手に
まともな本も読めなくなるわよ。だってなんにつけたって
と別れてそのくり返し。最大の事なかれ主義よ。そりゃあ
して、しかし自分の発したその言葉の何も言っていなさに
ティッシュを持っていなかったらなんだかへんな踊りをし
気がつくこともなく、さっきからずっと眺めていた男がさ
てるみたいに見えるわね、と思いながら、女はこの男のど
女はそのときも、そっか。と一
言つてなんとなくその話題
じで猿みたいなもんよ。
をやり過ごして、それでいて少しだけ居心地の悪さのよう
関係性において努力するってことを知らないんだもの。ま
ものを着て、黒いズボンに黒い靴を履いていた。ふんふ
で。男は濃い灰色のパlカlの上にモッズコlトのような
ん。なんの特徴もない髪形に、横からちらちらのぞく鼻が
ールする一連の態度のせいだった。で、そんな彼女のまと
なものを感じていて、それは彼女の自らを誇らしげにアピ
こかいいところを探そうとしてみた。ここからわかる範聞
少しだけ高いように見えた。それから女はその背中に向か
ってみたいのよ。なぜならばそれが本当はどんなことなの
もすぎる話をききながら、でも、わたしは知らない男とや
さして興味のない本欄を追いながら、女にはもうひとり
どういうものなのかを知ってみたいような気がするから。
か、わたしにはわからないから。知らないっていうことが
が冷えてきたので本屋のなかへ入っていった。
って、へlぃ、と頭のなかで小さく声をかけながら、足首
友人がいて、それを思い出し、彼女は決まった相手としか
ね、ものすごく、なんでいうのかしら、人間的にとんでも
適当な相手と適当な性交をし続けるやつっていうのは
わたしは、あなたから見て、なんでいうのかな、llムロ
格
とも、それから決まっていない相手と性交することもない
本当はどうなのかもわからないし。それに、決まった相手
て試してみたいような気持ちになって、苦しいから。猿が
できることは本当にできることなのかを、自分の体を使っ
性交をしない女だった。
わたし、何かで読んだわよ。と彼女宮自信たっぷりな顔
なく未熟なのよ。何かで読んでそのときわたしそうよ、つ
なことを考えてはいたけれど、こんな週末を過ごすのが三
度もなかった。女はそれについて最初のころ、確かに色々
をして言う。
言ってみるこ
と笑顔で一
年目を過ぎる頃にはもうあんまりそれについては考えない
してるのかしら ? 人間として?
と飲んだことを覚えている。舌にのりあげた苦い粉、その
は、毎日、丁寧に化粧をすること。新製品が出たらそれを
ようになっていた。女の頭のなかにいつも完壁にあるの
とを想像して、やめて、冷たくなった紅茶の残りをがぶり
細工のくだらなさも。
ときのカップの柄とスプーンについた小さな金色の帽子の
入れの行き届いた光のなかの一点の曇りもない大きな鏡の
なかで自分の顔を映せば、色々な感情は奥へ奥へとひきの
買うこと。百貨店の大きくひらかれた一階の、高級な、手
ばされて女自身にもつかみどころのないものに変化して、
女は自分の体がどれくらいの価値のあるものなのかもわ
うのは好きだ。趣味はないのと同じだから、日曜日には決
それをまんべんなく見つめて、そこからしか見えないもの
からないし、でもわからないままでもそれをくるむ服を買
て過ごす。何もない一日でも、誰にも会わない一日でも、
まって新宿まで出ていって朝から晩まで化粧品や洋服を見
を、隅々まで管理しつづけること。
それに比べて本屋というのは、どうしてこんなに人の気
朝起きて女はすぐに化粧をする。念入りに。うっかりして
持ちを滅入らせるものなのか女は理解ができなかった。す
手順をひとつでも飛ばすようなことがあると最初から全部
やり直す。多い時には何度やってもうまく肌が作れなくて
も何ひとつ手に取るものがない。へんな匂いがするし、ど
こまでも平坦で、まるみはないし、人々はなぜだか無理矢
べての階の、すべての棚を、どれだけ見つめて歩いてみて
くなるからではなくて、目のほうに問題が出て、どれだけ
いるように見える。ひとりとして楽しそうな顔をした人が
理にこんなところに集まって、無理矢理に本を手にとって
出かけるまでに三度も顔を洗ったことがある。寝不足がな
丁寧にアイラインをひいても皮膚のきめを飛び出して見え
によりも避けるべきもので、眠っていないと肌の調子が悪
るし、醜い恐竜の爪のような顔に見えるので、女は鏡のな
ろに検分している。蛍光灯の安っぽい光のしたでみんなが
一律に、高速で年老いてゆくように見えて、女はぶるりと
いないし、みんな苦しいような顔をして一冊一冊を重たそ
身を震わせた。こんなところからは早く出なきゃね。出口
かのそれが少しだけおそろしかった。
度に着飾って街に出ても、満員電車に乗っても、友人のよ
を目指してかつかつと歩く途中に天井の隅っこのところど
そんなふうに女は毎週のように丁寧に化粧をしてある程
をかけられたことは一度としてなかった。生まれてから一
うな出来事に出会うこともなく、どんな種類の男からも声
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まい、どうにもたくさんいる人々のなかであの男の輪郭だ
思えたので、それが見えてしまう女は急に心細くなってし
けがこの夜の、ほんの少しの特別であるようなそんな気が
ころに鏡がついであって、そのなかのひとつに偶然に映っ
もないわ。これは。さらに大きく目をあけて、いったいこ
た自分の顔を見て女は大きく目をあけた。これは。とんで
男は疲れきっていた。ティッシュは配っても配ってもき
してしまう。
知らないときに、そのときはチラシだったがそれを箱ごと
りがないもののひとつで、この種類のバイトを始めた何も
よ。こんなところにいては。息ができない。はゃくちゃん
んな風に見える女とどこの誰が性交したいなんて思うの
ればこの週末は取り返しのつかないものになってしまう。
燃やしてそれがばれて大変な目に遭わされたことをときど
とした光のなかで、わたしはわたしの持ち物を発揮しなけ
ここはすごく、とても、間違った場所だわ。女は心臓がま
はなぜこんな仕事をしているのだろう。簡単だからか。人
き思い出す。あのときのことは、思い出す。それでいて僕
と話をしないで済むからか。能力がないからか。誰にでも
たいやな感じに動き回るのを感じて、自分で選んでやって
見えて、どこに立ってよいのか見当もつかず、胸に立ちの
きたこの新宿がなにかよくわからない大きなものの角度に
いのか。渡したティッシュをえらそうに叩き落とすこいつ
らだって、僕がおまえらの客になることだってあるんじゃ
できるからか。しかし世のなかの仕事はみんな茶番じゃな
なんとか自動ドアを出れば外はも、
ュ具つ暗になってい
しいごっこじゃないのか。こんな基本的なことを誰もわか
ないのか。こんなもの、金を動かすための単なる馬鹿馬鹿
ぼってくる煙のようなおそろしさを止めることができなく
て、少し先の信号のわきにはまださっきの男がいて、ティ
なっていた。
ッシュを配っているのが見えた。夜が近づいて、その夜の
いかなければならない、と男は空腹と七時間以上も立ちっ
ぱなしのためにしびれがひどくなった足の威信見にいらいら
っていないからこんなにも僕はこのように不愉快に生きて
を超えて怒りを感じながら、それでもあと一時間、それか
入り口からも人はどんどんあふれでくるようだつた。信号
あたりから女の体もどことなく濡れはじめているような気
ら下手をすれば何年も、この動作をくり返さなければなら
機の色が濡れたように光っていて、それを見ていると目の
はその逆の感じのする大勢の人間たちがそんなに大きくな
持ちになった。そして顔があるようでないような、あるい
女は自動ドアのわきのところで、蛍光灯の光を逃れた自
ないことにじゅくじゆくと熱された涙の出る思いだった。
に何もかもが吹き飛ぶような映像が見えて、気がつけば女
いあの男の体を目がけて、まったく関係のないことを口々
分の顔がどんなふうに見えるかを確かめるためにコンパク
したにふり落としたところに女の顔があったというか、男
を殴り倒していた。握った手に思いきり力を入れて肩から
にうたいながら、とがりながら、前進してくるかのように
二、三度手の甲ではたいてからそっと頬のうえや鼻筋にの
トをひらいて丁寧にのぞき込み、平たいパフに粉をつけて
れだけを取り出してみれば悪いものでは決してなく、それ
た。ただ、右手に味わったことのない感触が広がって、そ
は男が生まれてはじめて人に対してふるった暴力だった。
は自分が何を殴ったのかその瞬間には区別がつかなかっ
かかったときに、夕方、まだ暗くなる前にぶつかって倒さ
男はとても興奮して、倒れた女をそのうえからさらに殴り
感もでて、と小さな丸い鏡のなかの自分の顔に心底満足し
れたあの若い女の顔がくっきりと頭に浮かんでしまって、
せていった。これは魔法のお粉だわ。一色になって、透明
あの肌の張り、あの頬のやわらかな、ふくらみ。まるい小
い声を出して何度も同じ場所で跳ねるなどして呼吸を整え
続けたいという衝動を抑えるのに必死で、わけのわからな
ようとする様子は人々の目にとても気味悪いものに映っ
り、女はそのままコンパクトを思わず叩きつけたい衝動に
駆られたけれど持ち直し、なんとかハンドバッグのなかに
た。女の方こそいったい自分の身に何が起きたのか理解す
さな鏡のなかに映った顔の日のまわりは黒く、垂れさが
しまうことができた。
りして、そわそわしたそぶりを見せる者もいたけれど、多
て、男の顔と女の横たわった体をきょろきょろと見比べた
たく動かなかった。行ききする人々のなかには立ち止まっ
ごく伸ばして歩いて近づいていった。できる限り、軽い感
くの人はそれを避けるまでもなくそんなものは最初からど
るまもなく倒れて、いやというほど側頭部を打って、まっ
じで。それから肩を叩いて、へ l ぃ、と声をかけてみた。
こにも見えないのだというように完壁にふるまうのだし、
女は大きく息を吐いて気を取り直して、小さな咳払いを
わたし
人々はそういうことにかけてはいつだって天才的にうまく
ひとつして男が立って作業しているところへ背筋をものす
のこと。あなたまだ仕事してるの。でもね、誓っていうけ
笑顔で。ほら。さっきも会ったわね。覚えてる ?
どティッシュって大事なものよ。ものすごlく役に立つん
やってのけるのだった。
つかの化粧品が散らばって、財布の頭が出ていた。そこか
き、なかからはひとつひとつ薄紙に丁寧に包装されたいく
女のハンドバッグの口が地面に落ちたときに大きくひら
だから。それでこのあとなんにもないんだったら、わたし
男は不意に肩を叩かれて、振り向いたときに灰色に浮か
とご飯でも食べない。
びあがるぞっとするような女の顔があったので、その瞬間
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?
満ちる部屋
ためられた粉も鏡も粉々になって割れてしまって、それは
ら少し離れたところまでコンパクトは飛ばされて、ねりか
さらに遠くに飛ばされた鏡のかけらはきらめくまもなく通
遠くから見るとひからぴた小動物の骨のようにも見えた。
行人の靴のしたでばしばしという乾いた音をたてた。女は
悲鳴をあげるまも与えられずに気を失い、女の全体重でも
で、コンクリートとぴったり合わさっているがためにこの
って打ちつけられたその頬には、ゆっくりと血がにじん
文撃界
(
2008年3月号)
夜にあるはずのどんなささやかな光も届かなかった。
のだ。真っ暗な向こう側、名指すことの出来ない、けれど
谷崎由依
薄い皮袋だ。どこまでが内部でどこからが外側なのか判
もつねに想定されている向こう側から、目覚めたばかりの
満ちる部屋
らないほど、それは薄く、けれども破れることもなく、揺
ための部屋に入っていくようにして、入ろうとする。彼は
人は自分の身体のなかに、仕事をするための、人生を送る
入らない。それは異質なものに思われるから。そこへ踏み
扉を聞け、敷居の上に立っている。けれどもまだ部屋へは
身体は揺れ動いている。まるで波のように、というには
れ動く身体を包んでいる。
不規則で、むしろ視線を持ち上げて、海の上を、鈍色の空
入っていくとしたら、砂時計のなかを歩くような気分にな
より僅かに明るい灰色をしたあの鴎たちの、絶えず中心を
ずらしていくような、定まらない、欺くような動きに似て
中心は移動する。部屋の中心も移動してゆく。風とか水と
るだろう。部屋の中央では流砂が生まれている。その渦の
げると、それは舷最がするくらい遠く、不穏な空を幾つも
か、流動する性質のものが場を支配している。天井を見上
ぐれてゆく。ひとつに見えた鴎たちの群れが、見る聞にか
たちを変え幾つにも分裂してゆくように、身体はばらばら
いるかもしれない。そのようにして、身体はそれぞれには
と崩れてゆく。わたしはただそれを見ている。薄い皮袋
く。流れていくものを、恐怖しているわけではない。ただ
正然と、彼は見ている。わたしは見ている、彼は、わたし
の雲が、海底を通る生き物のように列を成して流れてい
は、風景から閉め出されている。頬杖をつくと、他人の手
の、この内部と呼ばれている側がわたしの身体らしい。わ
描いて揺れるのを、わたしはただ眺めている。目覚めたば
たしのものでありわたしであるという物体を、それが輸を
かりの人のように、わたしは身体のなかに入つてはいない
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