ボロディン「歌劇 イーゴリ公」より「だったん人の踊り」 解説

ボロディン「歌劇 イーゴリ公」より「だったん人の踊り」 解説
Александр Порфирьевич Бородин (Alexander Porfiryevich Borodin), Половецкие пляски
(Polovtsian Dances) from Князь Игорь (Prince Igor)
SWHE Trumpet
植村
哲
さて、今回はいきなり重大な事実を発表します・・・。
「だったん人の踊り」はだったん人の踊りではない。
へっ?何をアホな、と思うでしょう。だって「だったん人の踊り」ってどこ見ても書いて
いるじゃない。でも、よーく皆さんの譜面の標題(英語)をご覧ください。Polovtsian(ポ
ロヴツィアン)って書いてあるでしょ。これ、だったん人のことじゃないんですよ!
え~っ、看板に偽りあり!? おかしいじゃないの、金返せ!(?)
まあ、Хорошо, хорошо(「ハラショー、ハラショー」、ロシア語で「OK、OK」てなくらいの意味。そ
ういえば似た響きの愛称の方々がいらっしゃいましたね)、固いこと言わずに、とにかく今回の定期
演奏会のメイン曲が入っている「歌劇イーゴリ公」の世界をちょっと覗いてみましょ~!!
1. 「イーゴリ公」の歴史背景
さて、
「だったん人の踊り」は、
「歌劇 イーゴリ公」の一場面だって触れました。で、そ
のイーゴリ公って聞きなれない人は一体誰なんでしょうか?
時は 12 世紀後半のロシア。日本史で言ったら、平清盛全盛期の平安
時代末期から鎌倉時代初期(かの有名な「いい国作ろう鎌倉幕府」が
1192 年)。つい最近実質的な内戦の地で有名になったウクライナの地
ですが、10 世紀からスラブ系のルス(Rus)族がキエフを都とするキエフ
公国(ルーリック朝(Rurik))を形成していましたが、12 世紀中頃からは
諸公国の自立化が進み、キエフ大公の力は名目的なものになっていま
した。この時期の諸公の一人が、イーゴリ・スヴィヤトスラビッチ
(Игорь
Святославич,
Igor
Svyatoslavich)(1151~1201 or 1202)という人です(舌を噛み
そう・・・)。
当時、この地の貴族層は名目上キエフ大公から領土を
安堵してもらっており、イーゴリ公もその生涯を通じて
この一帯の都市の領主を移り歩いている感じです。
彼の戦いの主な相手は、当時右の図のように中央アジ
ア西部からブルガリアにかけて勢力を保っていたトルコ系の遊牧民族iであるクマン人=ロ
シア語ではポロヴェツ人(Половцы, Polovtsy)だったわけですが、どうも史実を追うと、結局
はルス族の諸公間の勢力争いの方が生々しかった様子。事実、イーゴリ公も一時期はポロヴ
ェツ人と手を結び、自分の息子を彼らのリーダーの一人、コンチャック=ハン(Khan Konchak)
1
の娘と結婚させ、しばらく彼らの側に身を置かせていますし(日本でも戦国時代によくあっ
た政略結婚)、他の諸侯が強硬なポロヴェツ人追討を唱える場面でしばしば異議を挟んだり、
進軍に参加しなかったりなんてこともあったようです。
ポロヴェツ人は遊牧民ですから、定住する領土を持っていませんでした。遊牧や交易を主
な生業として、移動式のテントで家畜の食糧がある地域を渡り歩く生活ですが、食糧難や人
口増加などの理由で勢力範囲を自在に変え、定住する多民族を攻撃して略奪物(人も含む!)
を自らの富にするというのが典型的な彼らの活動パターンでした。そんな相手ですから、キ
エフ公国の南部に拠点を置いていたイーゴリ公も、彼らを殲滅するとか、二度と足を踏み入
れないようにするのはそもそも無理があります(何せ居場所が決まっていないんですから)。
虚々実々の駆け引き、と表現する方が正確なのかもしれませんね。
さて、「勇猛王」とあだ名されたイーゴリ公の武勇を今に語り継いでいるのは、中世スラ
ブ世界の叙事詩の傑作とされる「イーゴリ軍記」(Слово о полку Игореве)です。冒頭では彼の
戦いぶりを次のように讃えています。
この物語を始めよう、同胞よ
そして、強者の魂に満ち溢れ、
旧きヴラディミールの御代からこのイーゴリの世に
その猛き兵を率い、
勇者の志を高め、
ポロヴェツの地へ攻め入る、
高貴の心を鼓舞し、
ロシアの地を守るために。
彼の一生の中でポロヴェツ人との戦いには一度しか敗北をしなかっ
たと記されていますが、まさにその敗北から帰還までの最もドラマチ
ックな物語が軍記の主題で、ボロディンの歌劇のモチーフになったの
です。歴史上の事実としては、1185 年 4 月、イーゴリ公は傷つきポロ
ヴェツのコンチャックの陣中に囚われの身となりましたが、病気も癒
え、鷹狩をさせてもらえるほど自由を保障されていたようです(コン
チャックとの姻戚関係が功を奏している?)。そして、自らの領地に帰
還すべく、オヴルールというキリスト教に帰依したポロヴェツ人の助
けを借りて、夜陰に紛れて脱走を図ります。
落日の光が消える。
川の彼方で、オヴルールが指笛を吹く、
イーゴリは臥す。
馬を一頭捕まえて。
イーゴリは機をうかがう。
彼は公に機を告げる。
イーゴリの想いは草原を馳せる、
イーゴリ公はもう囚われ人ではない。
大河ドンから、
大地が轟き、
小河ドネッツまで。
草原に風渡り、
ポロヴェツの陣が慌てふためく。
言い伝えでは、獣の格好をして逃げるイーゴリ一行、そして迫る追撃のポロヴェツ、しか
しキツツキが木を叩きドネッツ川への道を教え、鳥が朝を告げ出立を促す・・・とまあこん
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な次第で天の御加護もあり、無事妻の待つ領地へ戻ります。歴史的にはイーゴリ公はその後
勢力拡大と政略結婚を進め、地帯有数の実力者の地位を築いたようです。
さて、ここで最初の謎解きの答えを。実はキエフ公国の地は、「蒼き狼」チンギス=ハン
が勢力を一気に拡大させたモンゴルの襲撃を受け、13 世紀半ばには息子バトゥの建てたキ
プチャク=ハン国(1243~1502)に貢納し、250 年にわたってその支配下に入ることになりま
した。これがロシアで俗に言う「タタールの軛(くびき:もともとは車を引く牛馬の首にあてる横木
です。ここでは奴隷のように搾取されている様にたとえて言います)」なのですが、このモンゴル系の
勢力を意味する「タタール(Tatar)」、これが実は日本語で「韃靼(だったん)人」なんです。
ということで、つまり、イーゴリ公の時代には韃靼人はウクライナの地にはまだ攻め入って
来ていないということになります!
まあ、日本人に「クマン」とか「ポロヴェツ」なんて言ってもさっぱりピンと来ないから、
誰かが最初に「えい!」と使っちゃったんじゃないかな、と想像されますが・・・。
2. 「歌劇 イーゴリ公」
「歌劇 イーゴリ公」は、ボロディンが 1869 年から長きにわたり作っていたオペラ作品
ですが、彼の死後、リムスキー=コルサコフとグラズノフが 1890 年に完成させ、サンクト・
ペテルブルクで初演されました。序章及び4幕からなり、先ほどご紹介した「イーゴリ軍記」
をもとにしています。
(1) 主な登場人物ii
●セヴェルスキー公イーゴリ(baritone)
○イーゴリの二番目の妻 ヤロスラヴナ(soprano)
●イーゴリの息子(一番目の妻との間)ヴラディミール・イゴレヴィッチ(tenor)
●ヤロスラヴナの兄 ガリツキー公ヴラディミール・ヤロスラヴィッチ(bass)
●ポロヴェツのハーン コンチャック(bass)
○コンチャックの娘 コンチャコヴナ(contralto)
●改宗したポロヴェツ人 オヴルール(tenor)
(2) ストーリー
【序章】
ポロヴェツがロシア人の街々を襲撃していたころ、プティヴルのイーゴリ公はコンチャッ
ク・ハーン追討に向かうか否かを迷っていた。妻ヤロスラヴナの兄ガリツキー公は、脱走兵
たちを唆してイーゴリに追討に向かわせる。折しも日食が起き不吉な予兆が走る。
【第1幕】
ガリツキー公は脱走兵たちを使いイーゴリの留守に権力を握ろうとする。ヤロスラヴナた
ちはイーゴリの不在を嘆き、そこにイーゴリ敗北の報が入る。イーゴリとヴラディミールは
囚われ、ポロヴェツの軍がプティヴルの街に迫る。
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【第2幕】(この部分が「だったん人の踊り」の場面を含んでいます!)
ポロヴェツの陣では、若いヴラディミールとコンチ
ャコヴナが恋に落ちる。コンチャックは娘に結婚を許
すが、イーゴリに対し、和平と引き換えに自由の身に
すると迫る。イーゴリは毅然として拒み、いつかここ
を脱し軍を集めてコンチャックと戦うと断言する。コ
ンチャックは自分が信じていた通りのイーゴリの誉
れ高さを確認し、むしろ喜ぶ。
【第3幕】
プティヴルの危機を知り、ポロヴェツのオヴルールの手を借りてイーゴリは脱走する。ヴ
ラディミールはコンチャコヴナの下に残り、コンチャックは二人を結婚させる。
【第4幕】
イーゴリはプティヴルに戻り、妻と街の人々から救世主として迎えられる。
まあ、史実や「イーゴリ軍記」の記述と時間軸が入れ替えられている部分もありますが(特
にヴラディミールとコンチャコヴナの恋・婚姻のタイミング)、あらすじ自体は概ね忠実で、
そこに誇り高きライバルとしてのイーゴリとコンチャック、賢妻ヤロスラヴナ、義兄の陰謀、
立場を超えた若い二人の愛と、まあ何とも大河ドラマ張りの組立になっているのがお分かり
いただけたかと・・・。
(そういえば私、はるか昔の記憶を辿ると、「歌劇 イーゴリ公」を一気通貫でオペラで観
たはずなのですが、印象に残っているのはなぜか最も有名な第2幕よりも、最後にイーゴリ
が戻ってきた第4幕のめちゃくちゃロシア張りの音楽なのですが・・・。)
3. 「だったん人の踊り」
第2幕の部分で登場するのが、楽曲的には第 8 番「ポロ
ヴェツ人の娘の踊り」(["Пляска половецких девушек"]: Presto, 6/8,
ヘ長調)と第 17 番である
「合唱付きポロヴェツ人の踊り」(No.
17, "Polovtsian Dance with Chorus" ["Половецкая пляска с хором"])、す
なわち「だったん人の踊り」となります。コンチャックが
囚われの身のイーゴリの気を紛らすために催した踊りの
場面に相当し、躍動感あふれる男達の踊りと望郷の念を
切々と伝える娘達の踊りが広い中央アジアからロシアにかけての風景を物語る珠玉の一品
です。歌劇の場面をネット上から探してきて添付してみましたけど、基本的には軽装ですね。
この格好で、中央アジア風の時に勇壮で時に優美なダンスが音楽とともに繰り広げられます。
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遊牧の民の雰囲気が全開ですね!
第 17 番の全体の構成は次のようになっています(主旋律もつけました!)。
a.
序奏 [a] Introduction: Andantino, 4/4, A Major
b.
c.
d.
e.
娘達の踊り[b] Gliding Dance of the Maidens [Пляска девушек плавная]: Andantino, 4/4, A Major
男達の踊り [c + a] Wild Dance of the Men [Пляска мужчин дикая]: Allegro vivo, 4/4, F Major
全員の踊り [d] General Dance [Общая пляска]: Allegro, 3/4, D Major
少年達の踊り [e] Dance of the Boys [Пляска мальчиков] and 2nd Dance of the Men [Пляска мужчин]:
Presto, 6/8, D Minor
f.
娘達と少年達の踊り [b’ + e’] Gliding Dance of the Maidens (reprise, soon combined with the faster dancing
of the boys): Moderato alla breve, 2/2, A Major
g.
少年達の踊りと男達の踊り [e’’] Dance of the Boys and 2nd Dance of the Men (reprise): Presto, 6/8, D
Minor
h.
全員の踊り [c’ + a’’] General Dance: Allegro con spirito, 4/4, A Major
ボロディンの曲は、一種独特な和音や節回し(しかも決し
て複雑なものではない)が印象深いところですが、このエキ
ゾチックで魅力的なメロディーラインは、後世様々なジャン
ルの音楽家がモチーフとしているところです。最も有名なと
ころでは、[b]の旋律を 1953 年にイギリスのミュージカルで
5
ポップスにフィーチャーした「ストレンジャー・イン・パラダイス」(Stranger in Paradise)が
挙げられます。
4. 化学者作曲家(!) ボロディン
さて、19 世紀ロシア音楽の「五人組」iiiというと、バラキレフが指導的
立場で、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、キュイという面々が
ロシアの民族的要素を盛り込んだ音楽を創造していった音楽家集団です
が 、 残 る 一 人 が こ の 歌 劇 の 作 曲 家 ボ ロ デ ィ ン (Александр Порфирьевич
Бородин (Alexander Porfiryevich Borodin))(1833~1887)
。ここまですでに驚
愕の事実が満載だった(?)と思いますが、まあついでということで、彼
についても「ちょっとびっくり」をご紹介しましょうか。
ボロディンはロシア帝国の首都サンクト・ペテルブルクに、グルジア貴族の御落胤(!)
として生まれ、その家来の子として恵まれた教育環境に育ちます。1850 年には医学アカデ
ミーに入り、外科医から化学の研究者の道を歩む一方、当時としては先進的な女性のための
医学コースの設立にも尽力します。幼少からピアノに親しみ、1862 年頃から作曲のレッス
ンを受けはじめ、奥さんもピアニストでしたが、彼自身にとって音楽は副業で、あくまで化
学・物理学者が本業ということだったようです。
彼の研究成果は、ベンゼン塩化物内のフッ素による塩素の求核置換とか、アルデヒドの自
己縮合とか・・・とにかく誰か化学系に詳しい人に説明してほしいものです、ハイ。
まあこんな感じで、基本は化学者でしたから、作曲活動のペースは比較的遅いところです。
室内楽やピアノ曲などは結構作っているのですが、大曲となると、1869 年に交響曲第一番
初演、1877 年に第二番、1880 年には有名な交響詩「中央アジアのステップで」を作曲、そ
の 2 年後にようやく交響曲第三番を作り始めたものの、未完で終わっています。我らが「歌
劇 イーゴリ公」もやはり最後まで到達できませんでした。どうもボロディンは体が強いほ
うではなく、コレラに罹って苦労し、何度か軽い心臓発作に見舞われることがあったようで、
1887 年に突然の死を迎えてしまいました。未完の曲は、彼と親交のあったリムスキー=コ
ルサコフやグラズノフが完成させた格好となっています。
遥か地平線の彼方を見渡すとき、草原にわたる風のような歌声、大地の唸りと雄々しい演
舞の躍動感、哀愁と妖艶さを併せ持った甘美な調べ・・・。スラヴと中央アジアのテイスト
が織り交ぜられているこの「だったん人の踊り」、小さくまとまらずに大きな演奏を心掛け
たいですね! ではまた、Спасибо, до свидания!(スパシーバ、ダスヴィダーニヤ)
中国の歴史に詳しい方、古くは漢の時代から匈奴が、宋から唐の時代には突厥なんていう国(民族)が
中央アジアで勢力を持ちますが、これみんなトルコ系です。彼らは様々な形で中東やインド北部まで浸
透し、イスラム教化したりして、現在我々がトルコと認識している地域に来た一派が 14 世紀以降強大な
オスマン帝国を形成するようになります。
ii ロシア人系の名前、と~っても分かりにくいんですが、一つヒントを。苗字の方では、自分の父方の
i
6
名前を女性形に変えたり、
「~の息子」をつけたりするので、逆に親戚関係を追跡するのには便利だった
りします。
iii 直訳は「強力な集まり」(Могучая кучка)。もっともかなりタイプの違う人達で、本当に連携が強力
だったとは言いがたい・・・。
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