No38 友の会通信 平成26年1月31

友の会通信
第 38 号
市立函館博物館友の会
℡ 0138-23-3095
2014. 1.31
企画展「新島襄と幕末の箱館」見学会に参加して
会員
村上雄司
しばらく降り続いた雨で、公園の緑も生き生きとして
いる。散歩のコースからしばらく外していた函館公園に
博物館友の会の企画展見学会「新島襄と幕末の箱館」
で訪れた。8月 30 日の午前である。
あれは平成 19 年の秋のこと。サンリフレで会員の柴谷
宏さんの「同志社創立者 新島襄の密航」~日本の近代
化を目指して~、の研究会を思い出す。柴谷さんはかな
りの年月、母校の同志社と新島について調べていたと言
企画展開催の看板
っていた。柴谷さんはお見えになるのかなあ。
この企画展は、展示室の半分を使って、6月 14 日~9月1日まで開催されていた。その間、展示解説
セミナーや作家の福本武久氏を招いての講演「新島襄・八重と函館」もあったということである。こ
の企画展は、新島襄の生涯とその業績、あわせて開港地・函館を紹介するという目的である。展示内
容は「安中藩士として育った頃・函館での福士成豊との出会い・脱国・帰国・同志社の創立・北海道旅
行・逝去とその後」の6つのコーナーに分けてあった。コンパクトであるが、ていねいに事績を紹介し、
企画展の目的を十分達成したものと思う。
参加者は20名程であった。事務室前のホールで
開会式が行われ、佐藤副会長さんのご挨拶があり、
解説は博物館の野村祐一主査と紹介があった。企
画展のパンフレットと新島襄の年表をいただき、コ
ナー順に野村主査の解説を受けた。
新島襄は、安中藩の江戸屋敷で生まれ育ったと
いわれても、安中藩がどのような藩か、わからなか
った。調べてみると、小藩ではあるが譜代の大名が
治める政治的に重要な藩であった。
佐藤副会長のご挨拶
安中藩の成り立ちとその後
彦根藩主で徳川四天王、井伊直政が逝去した後、家督を長男の直継が継ぎましたが、体が弱かった
ので大坂の役に参戦できず、弟の直孝が出陣して手柄を立てた。幕府は直孝に彦根藩を継がせ、直
継は名前を直勝と改名させ、元和元年安中藩三万石を立藩し、藩主にした。
その後安中藩は、水野家・堀田家・板倉家・内藤家が順次支配し、官園二(1749)年遠江の相良藩から
1
板倉勝清が二万石で移封された。勝清は老中に進み三万石の大名になった。その五代目の子孫の勝
明は学者藩士といわれ「西征紀行」「東還紀行」などを著作し、藩内の学問奨励に尽力した。襄は、そ
の勝明に祐筆として仕えた。
祖父が名づけた幼名、七五三太
新島襄は、天保十四(1843)年一月十四日、江戸神
田の安中藩邸で祐筆の長男として生まれた。上に姉
が四人おり、五番目の子供であった。生まれた時、祖父
(弁治)は思わず「しめた」と言った。それが名前にな
ったという説と、正月の注連飾りがあったので「七五
三太」と名付けたと、野村祐一主査はちょっと早口の
独特の口調で説明してくれた。
しっかり参考書を読んで博物館に行けば、そういう
エピソードも楽しめるでしょうがたいていの人はそう
はいかない。展示物の脇にある解説カードを読んで満
野村主査の解説
足する程度である。解説者がいると細かなエピソード
も教えられて本当に楽しい。最近は、大きな博物館や
展覧会では、いい機械を貸してくれます。機械の名前は忘れてしまったけれど、あれはいいですね。一
つひとつ美声の解説を聞きながら展示物を見ていると一日じっくりと過ごしてしまいます。
十歳頃に描いた(正確には、嘉永五年・九歳)茶釜の
絵が展示されていました。「かまわずに 人を茶にし
た 画かきかな」現代なら小学校三年生くらいでこの
ような絵を描き、賛を書き込む、やっぱり天才といわ
れる人たちはすごい才能を持っている。大河ドラマ
「八重の桜」では、江戸の佐久間象山塾で豚が逃げて
大騒ぎになる場面があった。その原因は、幼い襄が当
時珍しかった豚をスケッチし、うっかり逃がしてしまう。
その時の細密な豚の絵を後年、八重と襄が結婚する
時に山本覚馬が思い出すシーンがあった。企画展も大
河ドラマも結構細かく事跡を押さえているなあと展示
している軸を見て、にやりとしてしまいました。
襄、十歳の頃の作品
翌嘉永六年 十歳 藩命で安中藩学問所に入り、添え川康斎に漢籍を学ぶ。
安政三年 藩主板倉勝明の命で田島順輔に蘭学を学ぶ。この頃、聖書やロビンソンクルーソーを読
んだそうです。
安政四年 元服 敬幹(けいかん)を名乗る。祐筆補助役となる。
万延元(1860)年 十七歳 幕府軍官操練所入所。
文久二(1862)年 十九才眼病で退所。 甲賀源吾の塾で洋学を学ぶ。
この年の十二月、松山藩は購入した洋式帆船快風丸で江戸から瀬戸内海の玉島まで往復すること
に決める。両藩主の許可で襄も乗船する。この船旅の見聞が彼に大きな影響を与え、心境の変化をも
たらしたと説明された。そして後に脱国後その思いをベルリン号上で「不堪慨然偶然得一詩」の詩で
述べている。
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快風丸と板倉勝静
安中藩板倉家の宗家は、松山藩の板倉家である。松山
藩第七代藩主板倉勝静(かつきよ)は、ニューヨークで建
造された木造帆船「ゴーウルノルワラス号」(排水量 155
トン、長さ31m、幅6.8m)を購入し、「快風丸」と名付ける。
二年後、元治元(1864)年の春、襄が二十一歳で箱館に
来たのもこの快風丸に乗ってである。
ここでちょっと横道にそれる。
展示された快風丸の模型
板倉勝清という殿様がなかなかおもしろい。松平定信
の嫡男の松平定永の八男、簡単に言うと定信の孫である。松山藩六代目藩主板倉勝職の婿養子にな
った。当然七代目となり、幕府の中枢へと進むが、井伊直弼と対立し罷免されてしまう。しかし、井伊直
弼がああいうことになり、文久二年にめでたく老中になる。
戊辰戦争では、松山藩主の身分で奥羽越列藩同盟の参謀になる。そして五稜郭に来た。ところが藩
は、陽明学者の山田方谷という有能な家老が仕切っていた。新政府軍に松山藩が攻められる危急存
亡の時、家老はブロイセンの商船を使って、勝静を江戸に連れ戻し、新政府軍に降伏させ、勝弼を松山
藩新藩主にし、藩を存続させることに成功する。
勝静は安中藩に幽閉されてしまう。その後新政府に許され、上野東照宮の祀官で生涯を終わる。
「骨のある男らしい」感じと反面「どこか人の良さ」が見える。時代に翻弄された殿様らしい殿様だな
あ。何ぼ榎本武揚が洋式の国家を目指しても、土方歳三が戦果を挙げようとも、蝦夷共和国は遅かれ
早かれ破綻する運命を何となく感じさせる幕府側の人物の一人であると思った。
なぜ、振り出しが箱館なのか?
元治元(1864)年三月、21 歳の襄は武田斐三郎の諸術調所で学ぶために、松山藩主と安中藩主の
許可を得て快風丸で箱館に来た。しかし、武田斐三郎はすれ違いで江戸に行って会うことは出来なか
った。諸術調所塾頭の菅沼精一郎(長岡藩)が、日本文化を教えてくれる人を求めていたロシア領事
館付司祭、ニコライ・カサートキンの家に住み込む手配をしてくれた。
襄は日本語や古事記などの古典を教え、かわりにロシア士官から英語を習った。領事館で剣道を教
えていた坂本竜馬の従弟の神明社宮司、澤部琢磨(山本数馬)に逢い、意気投合。
五月二十四日、ニコライに脱国を相談したが、国禁を破ることの無謀さを諭される。断られた襄は、
六月に澤部が紹介してくれたアレクサンダーポーター商会(イギリス人経営)に勤める富士屋宇之吉
(後の福士成豊、造船業者続豊治の次男、気象観測の祖)の賛同を得る。
六月十四日(新暦七月十七日)夜、仲濱町六番地(現在の新島襄の碑の所)から厳しい監視を潜り抜
け、宇之吉の漕ぐ小舟で郊外に停泊中のアメリカ商船ベルリン号に行き、乗船。途中警吏に「誰何」さ
れるが宇之吉の機転で遁れたそうである。
七月一日、上海。ベルリン号の船長の斡旋でアメリカ商
船ワイルド・ローヴァー号に乗り換え七月二十日ボストン
着。船主ハーディーに引き取られる。
あの有名なパッチをはき、頭に手ぬぐいを巻いて、荷
物を背負った写真が展示され、それが明治三(1870)年
にアーモスト大学の友人の希望で、脱国時の扮装をして
見せたアメリカで写した写真とは知らなかった。現在そ
の扮装でみやげ物店西波止場の近くに峯山敏郎氏が作
成した襄の銅像が建っている。表題は「未来への始まり
新島襄の銅像
-海原2002」とある。
「未来への始まり-2002」
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野村主査に聞きたいなあと思ったけど聞けなかったことがある。その一つは、箱館に潜伏し聖書の
研究のため渡米したと多くの資料に書いてある。結果的にはそういう流れになっているが、箱館には
藩主の許可を得て快風丸でやってきて、築島近くの讃岐屋という船宿に投宿しているから、潜伏?と
いうのは違うような気がする。それに、ベルリン号も手ぶらで上海まで乗せてくれるはずはないと思
うけど、どうでしょう?かなりの餞別をどなたからか頂いて、結構な船旅を送ったとまではいかなくと
も、それなりに旅費を費やさないとうまくいかないと思うけど違うかな?
脱国の前、
澤部に
「武士の 思い立田の 山紅葉 にしききずして など帰るべき」
澤部の返歌 「忘るなよ なよわするなよ 忘るなよ 此の言の葉の にしきなりしを」
という歌を詠みあい、別杯を交わしている。これは、「にしきを着ないでは帰れない」と解釈するの
かなあ? 勉強不足です。誰か教えて下さい。
ベルリン号上では、不堰慨然偶然得一詩
函楯を辞してより
自従辞函楯 (箱館はよく見る、函楯とも書いていたんですね。)
空しく洋人に役される
空被役洋人
憂国また憂国
憂国還憂国
憤然として身を思はず 憤然不思身
この詩は快風丸で玉島に行った時に得たもので、ベルリン号上で書かれたとされている。
新島襄の脱国の心情を示す資料である。勿論、国の行く末を思い悩む資料がほかにもあるでしょう
が、この資料も国を思って脱国する青年らしい強い信念を感じる歌や詩と思います。
函館から新島の物語は始まったということに意味がある。脱国という死に値する事件を果たすこと
ができたのは、偶然とか思いつきでできるものではない。澤部や福士らに助けられたとはいえ、きっと
函館でなければならないわけがあったのだろう。例えば、その当時の日本財界で指折り数えられるく
らいの財力を持った資産家の援助がねらいだったとか、ほんとうはそんなことが聞きたかったなあ。
Joseph Hardy Neesima
ワイルド・ローヴァー号の船長ホイレス・S・ティラーに「Joe」ジョーと呼ばれていたのでその名を名
乗り、帰国してから「譲」、後に「襄」を名乗る。
船主A・ハーディー夫妻の援助を受け、フィリップス・アカデミーに入学。
慶応二(1866)年、アンドーヴァー神学校で洗礼を受ける。この宗派は、プロテスタントのうちでも会
衆派と呼ばれる宗派である。
明治三(1870)年、アーマスト大学卒業、在学中にウイリアム・S・クラークから化学の授業を受けたそ
うである。このことが縁で、後に「ボーイズ ビー アンビシァス」と言ったクラークの来日がある。不
思議なご縁ですね。
明治四年、初代駐米公使の森有礼の尽力で、日本政府の旅券と留学免許状を受け、正式な留学生
となる。それまでは、密出国者だったので日本人とのお付き合いは避けていたということです。
明治五年、岩倉使節団に木戸孝允の通訳として参加し、ヨーロッパ諸国を訪問。また文部理事官田
中不二麿に随行して、欧米教育制度を調査した。
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明治七年、アンドーヴァー神学校卒業。
明治八年、宣教師試験に合格「日本伝道通信員」になる。アメリカン・ボードからキリスト教主義の大
学設立のため五千ドルの寄付の約束を得る。
この年の十一月、横浜に帰着。安中に帰る。藩校・造士館と竜昌寺で基督教を講演する。三十人の求
道者が出て、後に日本基督教団安中教会の基礎を作る。
ピュリタン - 会衆派教会 ― アメリカン・ボード
函館山の麓に、海外に開かれた開港地の歴史を示すことで有名な、ハリストス教会やカトリック教会
などが建つ一角があるのは、ご存知のことと思います。
他にもバス通りに少し地味ですが、日本基督教団があります。それがプロテスタントの教会です。ギ
リシャ正教やカトリックは、テレビや写真で何かと話題になり、身近に感じます。それに比べるとバス通
りの教会ばかりではなくプロテスタントのことは聞く機会がありませんでした。アーマスト大学やアメ
リカンボードという言葉が出たので、少しおさらいをします。
Puritan(清教徒)は、イングランド国教会の改革を唱えたプロテスタント(カルヴァン派)のグループ
です。
16世紀イングランド国教会の中に、カルヴァンの影響を受けた改革派のピュリタンが勢力を持つよう
になります。ピュリタンは国教会から分離しないで改革しようとする「長老派」と「分離派」とその中間
派の「独立派」がありました。分離派は、会衆派教会、パブテスト教会、クエーカー、平等派、第五王国
派、真正水平派の人々で成り立っていました。その分離派の一部は国教会の迫害を逃れるため1620
年メイフラワー号でアメリカに移住しました。有名なビルグリム・ファーザーズの人々です。
Puritan は Purity(清潔、潔白)に由来し、厳格な人とか潔癖な人を指すこともあります。アメリカに
渡ったピュリタンの中の会衆派は、その考えでアメリカの政治、社会思想などに大きな影響を与えるよ
うになります。また、教育にも関心が深くハーバード大学、イェール大学、スミス大学、アーモスト大学
などを設立しました。
会衆派教会は、直接民主的な会衆制をとるためリベラルな傾向を持ち、人道主義的な思想や運動
と結びつきやすいものでした。早くから奴隷制度に反対し、南北戦争の後、南部に黒人のための大学
を設立しました。
日本には、明治維新の翌年1869年にD・C・グリーン宣教師が神戸に派遣されています。新島襄は18
75年に同志社を設立し、京都を中心に会衆派教会(当時は「公会」と呼んでいた。)を設立します。その
後、神戸を中心に活動していたグリーンを始めとするアメリカン・ボードの伝道師は各地に教会を設立
し、伝道協力組織として「日本基督教伝道会社」をつくりました。1886年には「日本組合基督教会」と
改称、1941年戦時下の政府の要請でプロテスタント諸教派が合同し「日本基督教団」となり、現在に至
っています。
アメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Mission)1810年、ピュウリタンに
よって設立された外国伝道団体です。ピュウリタンは、プリマスに入植した当時からインディアンと平和
交渉を結び、伝道で平和共存をしていました。そういうことから1810年マサチューセッツ会衆派牧師
会がインディアン伝道だけでなく、インド伝道を志すアンドーヴァー神学生の決意を支援するために設
立したものです。
プロテスタントの伝道は、幕末の1859年にアメリカ聖公会のリギンズとウィリアムズや長老教会のヘ
ボンが長崎と横浜で行っています。禁教の時代で、公に布教活動はできなかったと思いますがどうい
うように伝道活動をしていたのでしょう。
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アメリカン・ボードは、1816年セイロン島に、1820年サンドイッチ島、1830年中国に宣教師を派遣して
います。日本には、1869年グリーン宣教師夫妻が初めて派遣されています。その後、ギュリック夫妻、
ディビス夫妻、ベリー夫妻、ゴードン夫妻、女性宣教師のタルタット、ダットレー、グル―ディーたちが187
0年代に来ています。彼らが1874年ラットランドの集会で五千ドルの募金を得て帰国した新島を助ける
こととなります。
ハンサム・ウーマン八重と共に
明治八(1875)年、襄32歳、京都で史学開業願いの許可を得、同志社英学校を開学。「八重の桜」で
は、伝統ある京都の町衆は「耶蘇の学校」を作ることに猛反対。京都府知事槙村正直や顧問
の山本覚馬の支持でやっと開学することができました。それが縁で山本八重と結婚しまし
た。
会津で八重は、川崎尚之助に嫁いでいた。維新後、川崎尚之助は会津藩士と共に三万石といわれ
ながら、実質八千石の斗南藩に移り、藩史の苦しい生活を助ける。一方八重は、死亡したと思われてい
た覚馬が京都で府知事の顧問をしていることを知り、一族で覚馬と暮すことになる。
明治九年、新島襄は八重と結婚する。結婚してから同志社女学校を担当する。男勝りの性格で周り
の人たちと確執を生むが、襄はやさしく見守り、アメリカの友人への手紙で八重のことを「見
た目は、けして美しくありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分で
す。」と知らせている。クリスチャンらしいお互いを尊重する考えですねえ。
同志社を基にして、二人は人材の開発に尽します。まだ、国の基盤がしっかりしていない時代(徴兵
制・憲法発布が関わる問題)で大変苦労をします。しかし、多くの人材を確実に育てました。例えば、英
学校で洗礼を授けた熊本バンドの志方之善は残念ながら夢は破れましたが神丘に理想郷(インマニ
エル)の建設を目指して入植しています。そして、今も日本で最初の女医、荻野吟子の建てた墓に眠っ
ています。道南にも同志社の人脈の流れというのか、布教の広がりがあるのですねえ。
新島八重は後年、会津で暮した日々のことを語っていますが、川崎尚之助の話は一切していない
ということです。そこで私は、いらないおせっかいをします。
川崎尚之助、天保七(1836)年、出石藩の藩医の子として生まれる。
大木忠益塾(江戸)で山本覚馬と出会う。覚馬が1856年藩校日新館に蘭学所を開設したとき洋式
銃などの講師として迎えられる。1865年八重と結婚。禁門の変で洋式銃の価値が認められ、会津藩で
も採用するようになるが扱えるのが覚馬と尚之助だけだったので藩に尚之助を登用させるために結
婚させたという話もあるそうだ。結婚して三年目、戊辰戦争がはじまり尚之助は会津藩士として出
陣。
降伏後は斗南藩に属し、商取引に従事する。箱館で斗南藩を自称する米座省三の仲介で、斗南藩が
栽培中の大豆を担保に広東米を購入する取引をする。省三に騙され、大金を持ち逃げされる。東京で
裁判にかけられる。尚之助は裁判で負ければ莫大な負債を負うので戸籍に八重の名前を書かない配
慮をしたといわれている。そして明治八年、東京医学校病院で慢性肺炎のため死亡し、裁判は終了と
なる。したがって、いつ離婚したか不明である。
ちなみに出石(いずし)藩とは、但馬国(兵庫県北部)五万八千石の大名であった。六代藩主が嗣子
のないまま亡くなったので、仙石久利が七代藩主になる。幼少のため祖父の五代藩主仙石久道(実父)
が後見する。ところが、幕府の老中首座松平康任まで巻き込んだお家騒動「仙石騒動」をひきおここ
す。それで所領は三万石になってしまう。文久二(1862)年、第二次仙石騒動で久利は藩論を尊皇派で
統一する。戊辰戦争のとき、いち早く新政府に恭順した。いろいろエピソードのあるおもしろい藩だっ
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たようです。
明治十二(1879)年、同志社英学校第1回卒業式、卒業生十五名。明治十五年には女学校の第一回卒
業式、卒業生五名。
明治二十(1887)年、四十四歳、七月、八重と共に来函。脱国の場所を訪れる。その後、福士成豊のい
る札幌に二ヶ月程、海外渡航でいためた心臓疾患の療養のため滞在。九月、札
幌を出発し、函館に四日ほど滞在する。
NHK「八重の桜」では、札幌の生活をどのように描くのか興味があった。しかし、残念なことに福士
成豊の出てくるような脚本ではなかった。
明治二十三(1890)年、四十七歳、徳富蘇峰らに十カ条の遺言を残し、ご逝去。
最後の言葉「狼狽するなかれ、グットバイ、また会わん」
伝道の火、函館にどうともったか?
明治三十四(1901)年、曙町に日本組合教会函館教会が設立された。たまたま手元にあった「明治参
六年函館実地明細図」(函館八幡宮復刻版)で所在地を調べてみる。「キリスト」と書かれている場所
が現在の五島軒の向いと南部陣屋のすぐ下の二ヶ所にある。五島軒の方は「寿町」なので違うようだ。
南部陣屋の下は「曙町」だ。現在一般住宅になっている。ちなみにカトリックやハリストスを見るとどち
らも現在地に「天守教「正教会」と書かれて「キリスト」とひとまとめにされていない。その当時、市民
に認められていた宗派と、そうでない宗派の違いがあったのだろうか?
函館大火後、昭和十二年千歳町に「新島先生脱国記念会堂」として曙町から新築移転。
このとき同志社教会牧師、堀貞一から襄の遺髪が寄贈された。饗展示され、十センチほどの長さで
小指ほどの束でした。箱館から脱国し、上海に到着した時に断髪したという髪でした。じっくり見ました
が、気のせいか若さ溢れるつやつやした髪のようでした。
昭和十七年、日本基督教団千歳教会と改称。終戦直前、強制疎開で教会堂が取り壊される。
戦後松陰町に、日本基督教団函館千歳教会として再建された。同志社ゆかりの品は、千歳幼稚園に
ある演台に同志社学校の校章が付いているということでした。
「新島襄海外渡航の碑」
昭和二十七(1952)年、ペリー来航百周年にあたり、碑建立のため同志社から詩文の刻まれた大理
石が寄贈された。
昭和二十九(1954)年、函館開港百年祭にあたり、「新島襄海
外渡航の碑」が仲浜町(元大町十一番地)の脱国した岸壁に建
てられた。函館市長宗籐大陸と同志社総長大塚節治が参列し、
関係者百人ほどが集まり、盛大な除幕式が挙行されたそうで
す。
石碑の台座には、田畑忍学長が記した大理石がはめられて
いる。宮城県産の井内石の石碑の表面には「男子決志馳千里」
の詩が刻まれているのは皆さんご存知でしょう。裏面には大塚
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石碑の台座
総長が記した新島襄の業績が刻まれています。
企画展・見学記、まとめてはみたものの
博物館からいただいた「新島襄の足跡(函館)をたどる会」発行のリーフレットに新島襄は、「キリスト
主義教育をもって教育の基本」とし、「キリスト教の信仰と精神に感化を受けた、一国の良心ともいう
べき青年の育成」を念願した。函館千歳教会はその新島の精神を受け継ぎ、脱国の地・函館にあって、
宣教第二世紀を迎えている。と結んでいる。
大正六(1917)年から、十九年間教会を牧会(教え導くこと)とした片山幽吉牧師は、在任中三度会
堂を失ったが、そのたびに「函館に組合教会がなければならない。函館組合教会は、新島襄脱国記念
教会である。」と訴えて再建を果たして来たそうである。そしてその遺志は昭和二七(1952)年函館千
歳教会の白河鄭二郎牧師らによる海外渡航碑建立に引き継がれたのである。
石碑には、慶応元(1865)年三月に香港で詠んだ漢詩で、明治十六(1883)年正月に清書したものが
刻まれている。
男子志を決して 千里を馳す
自ら辛苦を嘗めて 豈家を思わんや
却って笑う春風 雨を吹くの夜
枕頭尚夢む 故園の花
除幕式は、昭和二十九(1854)年八月二十一日午
前十一時より開催された。ちなみに、建立の費用は、
函館市と同志社が十万円づつ分担したということ
である。
新島襄海外渡航の碑
NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映され、会津はもとより、関わりのある全国各地がイベントを開催し
たと聞いている。それぞれが活況を呈し、観光地は大盛況であったそうな。
こうやって、ドラマという形ではあるが、歴史が掘り起こされ、現在に至る人々の思いが伝われば
「まあよし」と言えるのかなあ。ただ、フィクションと事実を判断するための知識を確かなものにするの
は、博物館で展示されている資料であり、図書館の著作物である。そして、このような企画展を見たり、
著作を読んだり、講演を聴くたびに私は、知らないことがあまりにも多いことに気付き、幾つになって
も勉強だと思うばかりである。
企画展「新島襄と幕末の箱館」の見学会を開催した市立函館博物館友の会の役員の方々の労と市
立函館博物館の職員の皆様のご協力に対しまして、感謝いたします。
【参考資料】
市立函館博物館、企画展「新島襄と幕末の箱館」パンフレット、新島襄略年表。
日本基督教団函館千歳教会内・新島襄の足跡(函館)をたどる会、「新島襄の足跡(函館)」。
新島襄・パスト(純粋な情熱)の会、パンフレット。
フリー百科事典「Wikipedia」、新島襄、安中藩、会衆派教会、ピューリタン、アメリカン・ボード、川崎尚
之助、千石久利。
Doshisha.ed.jp、良心碑・学校法人同志社。
Netabare1.blog、山本八重が川崎尚之助と結婚した理由、離婚した理由。
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企画展
「新島襄と幕末の函館」のクイズ
今回の企画展で、
「新島襄」に関するクイズを行っていました。博物館では、企画展を見なが
らクイズを解くようになっていましたが、これを参考に三択で作り直してみました。皆さんで
楽しんでみて下さい。
Q1.新島襄は、上州安中藩士の息子でしたが、5番目にやっと生まれた男子でした。さて、
この「跡とり息子」の幼名は何といったでしょうか?
①寅太(とらた)
②のび太(のびた) ③七五三太(しめた)
Q2.文久2年、襄に備中高松藩の帆船に乗るチャンスが訪れました。襄はこの航海で視野が
広がったと述懐しています。その後、再び同じ船が箱館に向かうとの情報を得たため、
江戸から箱館まで乗せてもらいました。さて、この船の名前は何というでしょうか
①大雨丸
②快風丸
③快晴丸
Q3.函館に来た襄は、ロシア領事館付司祭のニコライの家に住み込むことになりました。ニ
コライに日本の文化や日本語を教えるためでした。そのための教科書は、次のうち、ど
れを使用したでしょうか。(もう一つの教科書は『大伴金通忠孝図絵』でした。)
①古事記
②日本書紀
③源氏物語
Q4.襄は函館で、諸術調所・塾頭の長岡藩士・菅沼精一郎を知り、その紹介で福士卯之吉を
知ることとなります。福士は襄の脱国の希望を知り、その願いを助けてくれた人です。
さて、福士が勤めていたイギリス商会の名前は何といったでしょうか。
①ハリー・ポッター商会
②大英帝国百貨商会
③ポーター商会
Q5.アメリカにわたる前に襄は、
「武士(もののふ)の、思ひ立田の山紅葉、にしききずして、
など帰るべき」という和歌を作りました。後年、この和歌を掛軸にしたときその号名を
「約瑟」と書きました。襄の名前の一つですが、何と読むでしょうか。
①やくしち
②ジョセフ
③ヨウヒツ
Q6.明治7(1874)年、襄は帰国に際してラットランドのグレース教会で演説し、日本にキ
リスト教主義学校の設立を訴えて、寄付金の申し入れを受けました。一体総額でいくら
受け入れたのでしょうか。
①5千ドル
②100万ドル
③500ドル
Q7.明治20年8月、札幌滞在中の襄は、札幌でアメリカ人が創立した女学校(現北星学園)
の開講式に出席して演説しています。この学校の名前は、当時何といったでしょうか。
①メリーさんの女学校
②アン・シャーリー女学校
③スミスの女学校
Q8.新島八重の和歌の色紙が展示されていました。
「明日の夜は、いずこの誰か、ながむらん、
なれし御城に、残る月影」この和歌は会津城落城の前日に、三の丸の白壁にカンザシで
書いたものだそうです。この「企画展」には後年、色紙に改めて書いたものが展示され
ていました。それは八重が何歳の時に書いた色紙だったのでしょうか。
①56歳
②86歳
③96歳
(どうでしたか?…、うまく出来たでしょうか。答えは、最終頁にあります。確認してみて下さい。
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博物館施設等見学の旅
「博物館明治村と伊勢神宮を訪ねる旅」
木 村
裕 俊
(プロローグ)
11 月 12 日(火)から3日間、いよいよ「博物館明治村と伊勢神宮を巡る旅」に行ってきます。天
気は上々、集合時間の8時 00 分には少し早かったのですが、7時 30 分には函館空港ロビーに到着し
ていました。今回の旅の参加者は 23 名で、例年に比べると倍増に近い人数となりました。こうなると
通常のツアーと変わりなく、旅行会社(JTB)のお世話にならないと旅行中の統率がとれなくなる
のだろうと思いました。
集合時間に遅れることなく全員が集まり、早々に搭乗手続きを済ませて飛行機に乗り込みました。
参加者の顔はもう、修学旅行気分のようです。エァ・ドゥ 44 便の函館発8時 55 分で発ち、羽田空港
には 10 時 25 分に到着しました。ほぼ時間通りの進行です。ここまではよかったのですが、この先が
大変でした。長い空港内をゾロゾロとJTBの旗のもとについて歩くのですが、人は多いし広いしで
それぞれに荷物が多く歩くスピードも違い、長いながい隊列になってしまうのです。ここではぐれた
らこれで旅は終わってしまいますから、皆必死で、まるでカルガモファミリーの隊列のように歩いて
いました。
羽田空港からは京浜急行鉄道で品川まで出て、そこから東海道新幹線のぞみ 227 号に乗り込みまし
た。乗る時もまた大変、23 人が同じ乗車口から乗ろう
としたため、短い停車時間内に乗れなくなりそうだっ
たのです。大急ぎで隣の乗車口に回り込んでなんとか
間に合いました。
車内で昼食を取り、名古屋に着いたのは 13 時 41 分。
新幹線から降りるのもまた大変です。でも、今度は学
習しましたから、二手に分れてスムーズに降りること
が出来ました。人数が多いということは、何につけ大
変なことなのだとつくづく感じた次第です。名古屋駅
では、バスガイドさんが迎えてくれました。今日から
3日間、旅のお供をしてくれるガイドさんです。まず
初日は、名古屋市内の「名古屋城」と「徳川美術館」
品川駅コンコースにて
を見る予定です。
【第1日目】
1.名古屋城
名古屋城は大きな城でした。名古屋城の正門から入り、各自自由見学のスタイルで見ることとしま
した。ここでは主に「天守」と「本丸御殿」を見ましたので、その報告を致します。その前に、名古
屋城の成り立ちを簡単にご説明しておきます。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、豊臣方への備えとして名古屋城を作りました。築城に当たっ
ては、諸大名に分担させて行わせるいわゆる「天下普請」としました。石垣などの土木工事は加藤清
正や福島正則ら西国大名 20 家に、櫓(やぐら)の作事など建築工事は小堀遠州などに命じました。尾
張藩初代藩主は家康の九男・義直が入り、名古屋城は御三家筆頭、尾張徳川家の居城となったのです。
時代は巡り、昭和5年に国宝に指定されましたが、同 20 年の空襲により焼失してしまいました。昭和
34 年に再建された天守が、現在のものになるわけです。
名古屋城の本丸御殿は天守とともに建てられ(厳密には少し時間を置きますが)、藩主の居住・政庁
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として使われていました。昭和5年には天守と同様に
国宝に指定されましたが、同 20 年の空襲でこれも同様
に焼失してしまいました。本丸御殿の復元工事は遅く、
平成 21 年から行われ玄関と表書院の第 1 期工事は今年
の5月に出来あがり、公開が始まったばかりでした。
すべての工事が完成するのは、平成 30 年になるそうで
す。
名古屋城はいま、あちこちで修理工事が行なわれて
いました。どこから見ても工事用の足場と覆いシート
が見えます。広い城内を案内通りに進むと、まず「本
丸御殿」が見えて来ました。新築の玄関屋根は、薄い
名古屋城本丸御殿
板を重ねて葺いたという「こけら葺き」だといいます。
破風は黒漆塗りに飾り金具をあしらい、とてもきれいな印象でした。御殿の中に入ると、新築のヒノ
キの香りが漂っていました。各部屋には、当時のものをそのまま復元模写したといわれる障壁画がそ
れぞれ飾ってあります。最初に迫力のある「虎」の絵で見る者を圧倒し、次には美しい「桜と雉」の
絵で目を楽しませます。表書院は、本丸御殿で一番広く格式のある部屋です。特に藩主の坐る「上段
の間」は床を一段高くし、白木が目立つ柱や長押(なげし)があり、壁や襖には金箔地に緑鮮やかな
松を描き、四百年前の空間を見ごとの再現したものでした。
次に名古屋城の中心をなす「天守」に向かいました。
天守は再建されたものですが、すでに 50 年以上を過ぎ
て堂々とした風格がありました。7 階建てで、城には
珍しくエレベーターも付いていました。そのエレベー
ターで一気に7階まで上り、1回ずつ降りながら各陳
列物を見て廻りました。最上階は展望室となって、名
古屋市内を一望できました。さすがに名古屋は大都会
ですから、天守からの眺めも高層ビルばかりでした。
ですがよく見ると、以外に緑の森が多いことにも気が
付きました。
名古屋城天守
展示コーナーには「金シャチ」の模型があり、楽し
そうに記念写真を取っている家族がいました。金シャ
チは何と、1頭に 45 ㎏もの金量があるのだそうです。金額にすると、どのくらいになるのでしょう。
また、当時の石垣を運ぶ体験コーナーでは、小学生らが束になって挑戦していました。
天守を出ての帰り道、石垣に何やら刻印のようなものがあるのに気が付きました。名古屋城は天下
普請だったので、築造を担当した大名が自分の造ったところを表すために付けた印だといいます。何
十 」の薩摩藩しか分りませんで
種類かありましたが「○
した。
城内の広い通りには、季節柄「菊花の展覧会」が行
なわれていました。とてもきれいに咲いていて、名古
屋城によく似合っていました。
2.徳川美術館
名古屋城を出て、次は徳川美術館に向かいました。
同じ市内ですので、すぐに着くことが出来ました。徳
川美術館は、緑に囲まれた公園と一体となってゆった
りとした雰囲気の中に建っていました。最初に講堂に
徳川美術館
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通され、ボランティアガイドの方から徳川美術館の概
要や特色、見方などの説明を受けました。おおよその
ことは次のとおりです。
徳川美術館では、家康の遺品や尾張藩の代々藩主の
遺愛品を収めています。収蔵品は1万点以上ともいわ
れ、これらはいわゆる「大名道具」といわれるものだ
そうです。
『源氏物語絵巻』をはじめ、国宝9件、重要
文化財 59 件など、種類の多さと品の高さ、保存状態の
良さを誇っているといいます。
展示室は、それぞれテーマを持った6室に分かれた
講堂にて概要説明
常設展示室と、企画展示室がありました。まず、常設
展示室の大きなテーマは「大名の生活と文化」として
いました。
その中で第1展示室では「武家のシンボル」として武具や刀剣を展示して、武家の儀式・習慣など
を表現していました。
第2展示室では「大名の数奇」として茶の湯に関係した展示をしています。名古屋城二ノ丸御殿に
あった「猿面茶室」をここに復元移築しています。江戸時代には茶の湯は「御数寄屋の接待」として
公式行事だったそうです。
第3展示室では、書院造りを表現した「室礼」をテーマにしていました。名古屋城の二ノ丸御殿の
一部が復元されており、床の間・違い棚などには武家の故実に従って各種の道具を飾ってありました。
第4展示室は「武家の式楽」として、能舞台が復元されていました。能は武家の式楽として公式接
待や慶事の際に演じられていたそうです。
第5展示室は「大名の雅び」でした。大名の夫人たちが私空間の生活の場である「奥」で使用した
身の回りの道具や、教養を深めるための
「奥道具」などを展示していました。
第6展示室では「王朝の華」として、
国宝の『源氏物語絵巻』が展示されてい
ます。この絵巻は日本美術を代表する最
も有名なものです。原本の展示は年間の
短い期間に限られているため、私たちが
見たのは、精巧な複製でした。それでも、
その雰囲気は十分に出ておりました。
最後に企画展示室です。私たちが行っ
た時の展示テーマは「夢幻能・うつつと
異界のはざま」でした。能舞台の中で表
現される英雄たちの霊や怨霊の舞から、
人間の内面を掘り下げ能の舞台演出の
徳川美術館前での記念撮影
特質を表したものです。
【第2日目】
第2日目は盛りだくさんです。名古屋から 20 ㎞ほど北の犬山市に向かいました。そこで「博物館・
明治村」、「国宝・犬山城」、「城とまちのミュージアム」、「からくり展示館」を見学し、宿泊は翌日の
伊勢神宮参拝の行程を考えて、今度は犬山市から 90km ほど南の三重県津市に宿泊所をとりました。以
下、2日目の見学内容を報告します。
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3.博物館・明治村
朝早めに名古屋のホテルを出発し、小1時間程
で犬山市にある野外博物館の「博物館・明治村」
に着きました。野外ですから天気を心配したので
すが、上々の晴天でした。ここはその名のとおり、
明治時代の歴史的建造物を全国から収集して公
開しています。案内はボランティアガイドさんに
お願いしました。園内は大変広く、全体を5丁目
に区切っていました。
朝着いた正門のあたりが1丁目です。まずここ
で広い園内の概要を説明して頂いて、それから明
治村村営のバスで4丁目まで行き、主要な建物を
博物館明治村、帝国ホテルメインロビー
見学しながら1丁目まで戻って来ました。
主な建物は「鉄道寮新橋工場」
「日本赤十字中央病院」
「京都七条巡査派出所」
「札幌電話交換所」
「第
四高等学校(金沢)」「三重県庁舎」「西郷従道邸」「森鴎外・夏目漱石邸」などがありました。中でも
京都巡査派出所では、威厳ある髭のお巡りさんが親切に、面白く説明してくれましたので、思わず皆
引き込まれてしまいました。
「森鴎外・夏目漱石邸」では、カップルの結婚写真の撮影会と思われる団
体がいました。
昼食は1丁目のレストランでとり、午
後からは再び村営バスで4丁目まで行
き、その奥側の4丁目と5丁目を見学し
ました。ここでの主な建物は「宇治山田
郵便局舎」
「呉羽座」
「聖ザビエル天主堂」
「帝国ホテル中央玄関」などを通り、最
後に「SL 東京駅」に到着しました。中で
も「帝国ホテル」は、大変立派でした。
メインロビーの中央は3階まで吹き抜
けとなっており、中央玄関の全ての空間
がその周りに展開しているのです。2階
からは見事な視界が開けていました。ま
た建物内外に大谷石の精巧な彫刻も施
博物館明治村での記念撮影
されており、目を楽しませてくれました。
「SL 東京駅」の売店でお土産を買い、そこから北口に抜けて、待っていたバスに乗り込みました。さ
すがに皆さんお疲れの様子ですが、今日はまだまだこれからなのです。
4.国宝・犬山城
犬山城は、尾張名古屋藩の家老・成瀬氏の居城です。
木曽川沿いの高さ 90m程の丘陵に築かれ、風光明美な
たたずまいを見せています。江戸時代の荻生徂徠は、
その美しさから「白帝城」と呼んだそうです。案内は
ここでもボランティアガイドさんにお願いしました。
ここで事件が起きたのです。城山に昇る途中で帰り
たいという人をお世話して、私と野田事務局長が少し
遅れたのです。お城の広場まで行ったら、誰もいなく
なっていました。城の中に入ったのかと追いかけまし
国宝、犬山城天守
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たが、おりません。狭いお城ですから、行き違うことはありません。5階建ての急で危険な階段を上
り下り、2回も往復しましたが、見つかりませんでした。仕方なくまた広場に戻ったら、皆さん奥の
売店に入っていたのです。売店の奥に何やら説明するものがあったらしく、そこで説明していたよう
です。結局もう一度昇りなおし、犬山城は3度昇ったことになります。
犬山城の中に入った方は、全員あの危険極まりない階段を昇り、降りたのです。御苦労さまでした。
5.城とまちミュージアム
城山を降りて城下町に戻り、そこにある「城とまちミュージアム」に行きました。ここは城と城下
町をつなぐ施設として、平成 24 年にリニューアルオープンしたところだそうです。武家文化・町人文
化が花開いた江戸時代を中心に、犬山の歴史と文化を展示していました。館内に入ると、エントラン
スホールいっぱいに、江戸時代の城下町を再現した精巧なジオラマがあり、それを見ながら当時の様
子を説明して頂きました。
6.からくり展示館
「城とまちミュージアム」の道路向かいにその別館として「からくり展示館」があります。ここに
は、
「茶運び人形」などの「座敷からくり」や、犬山祭りに使われる「山車からくり」などが展示して
ありました。館内では説明の後、実際に人形を動かして見せてくれました。
「茶運び人形」がお茶を運
んで来て、どなたかがそのお茶碗を取ると人形は停まり、お茶碗を返すと来た方向に廻って帰って行
きました。
旅はこの後、名古屋まで戻って夕食を取りました。そしてそれから津市へと向かったのです。津市
に到着したのは夜もとっぷりと暮れて、午後8時を過ぎていました。
【第3日目】
第3日目は朝早く、早朝7時 30 分に出発しました。当初計画での伊勢神宮の行動は、外宮を参拝し
てから内宮を参拝し、その後「おはらい町」の散策を
楽しむ予定だったのです。しかし最近の情報では参拝
者の数が急増し、散策の時間がとれるかどうか心配だ
といいます。昨晩全員で相談して外宮参拝を割愛し、
内宮参拝後ゆっくりと散策を楽しむこととしたのです。
7.伊勢神宮参拝
津市を早朝に出発したバスは8時 30 分に伊勢神宮
駐車場に着きました。ずいぶん早いなと思っていたの
ですが、大型バスが 100 台以上も入ろうかという駐車
場に、もう3分の1は埋まっていました。バスを降り
た空は快晴でしたが、その分放射冷却で空気がキリリ
伊勢神宮、内宮参拝
と締まっていました。まず「宇治橋」を渡ります。宇治橋の前後には大きな鳥居があります。この鳥
居を通る際には、信心深い人はきちんと拝礼をしてから渡っているようです。橋は真ん中を渡っては
いけないそうです。真ん中は神様が通るからだそうです。
「人はハシを渡る」なんだかシャレのようで
す。
宇治橋を渡って、内宮までの参道は1㎞以上もあるのでしょうか。15 分はかかっていたように思い
ます。参道の両側は深い森に包まれ、五十鈴川がつかず離れず神秘的です。私たちを含め団体がいく
つか重なったのでしょう、すごい人数で、まるで東京のラッシュ時の道路を歩いているようです。私
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語はほとんど聞こえず、黙々と急いでいるように思え
ました。途中、五十鈴川と接するところがあり、そこ
で手を清めました。昔は体を清めたところでしょうか。
内宮に着いたら、人通りは少なくなった様です。団
体さんは社務所でお祓いをするようです。北陸地方の
神社関係の団体さんのようで、大型バス 3 台の人達で
した。私たちも参拝を済ませ、帰途に向かいます。私
は「お伊勢さん」からパワーを頂くため、参道脇の小
さな丸い石を 1 個ポケットに入れておきました。
参拝が済んだら、おはらい町・おかげ横丁の散策で
伊勢神宮、おはらい町通り
す。この通りは、宇治橋から五十鈴川の下流側に栄え
る通りで、800mほどの美しい石畳の道が続いています。
通りには沢山のお土産屋さん、飲食店が立ち並び、参拝後の人たちで賑わっていました。皆、思い思
いにお土産を買っていたようです。
(エピローグ)
これで今回の旅の目的は全て済
ませました。ここからはバスで名古
屋駅に出て、来た時と同じように新
幹線と飛行機を乗り継いで、函館ま
でたどり着きました。電車の乗り降
りは来た時と同じように大変でし
たが、少しはスムーズに動けるよう
になった様です。函館に着いた時の
皆さんの顔は、あまり疲れたように
は見えませんでした。まだまだお若
いですね。
伊勢神宮での記念写真
企画展クイズの答え
Q1.=③七五三太
Q2.=②快風丸
Q3.=①古事記
Q6.=①5千ドル
Q7.=③スミスの女学校
Q4.=③ポーター商会
Q5.=②ジョセフ
Q8.=②86歳
○「友の会通信第 38 号」をお届け致します。原稿をお願致しました村上雄
司様、木村裕俊様には、貴重な原稿をお寄せ頂き、心から感謝申し上げま
あとがき
す。
○平成 25 年度の「会員発表会」は、3月 29 日(土)に木村裕俊さんが発表
する予定になっています。会員の皆様の多数の御来場をお待ちしておりま
す。詳しい日時・会場等は事務局にお尋ね下さい。
○「友の会通信」は、会の活動の様子をお知らせするとともに、会員相互の交流の場にしたいと考
えています。調査されたことや紀行文など、皆様からのご寄稿をお待ち致しております。
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