書評1973-2002

偏向! 独善! 読書案内
本も書評も斜に構え、批判的に読みたい
1. 90 年の本 5 冊『中国図書』1991.1 内山書店
2. 91 年の本 5 冊『中国図書』1992.1 内山書店
3. 92 年の本 5 冊『中国図書』1993.1 内山書店
4. 93 年の本 5 冊『中国図書』1994.1 内山書店
5. 94 年の本 5 冊『中国図書』1995.1 内山書店
6. 95 年の本 5 冊『中国図書』1996.1 内山書店
7. 96 年の本 5 冊『中国図書』1997.1 内山書店
8. 97 年の本 5 冊『中国図書』1998.1 内山書店
9. 98 年の本 5 冊『中国図書』1999.1 内山書店
10. 99 年の本 5 冊『中国図書』2000.1 内山書店
11. 00 年の本 5 冊『中国図書』2001.1 内山書店
12. 02 年の本 5 冊『中国図書』2003.1 内山書店
13. 呉濁流の作品が語るもの『週刊東洋経済』1973 年 9 月 1 日号 122-125 頁
14. 『二つの顔の日本人』
『道』74-83 頁
15. 東大社研編『現代社会主義--その多元的諸相』
『社会科学研究』1979 年 2 月号 285
~292 頁
16. 『脱集団化へ向かう中国』1986.11『中国研究月報』
17. 『周恩来の波瀾の生涯』1987.4.3『朝日ジャーナル』
18. 旅先で司馬遼太郎『長安から北京へ』を読む 1987.12『蒼蒼』
19. 『現代中国の基本問題について』1988.4『東方』東方書店
20. 中薗英助『何日君再来物語』を読む 1988.6『蒼蒼』
21. 具眼の士あり/『現代中国の歴史』のこと 1988.12『蒼蒼』
22. 『難関に立つ中国経済』
『東方』か
23. 『離陸する中国経済』
『エコノミスト』か
24. 『天安門よ、世界に語れ--中国の危機と希望の真実』劉賓雁ほか著訳書解題 90
25. 書評の鑑/高木誠一郎仁兄への手紙 1990.6『蒼蒼』
26. 『毛沢東と中国知識人』戴晴著 『週刊読書人』91.3.4
27. 『北京市朝陽区建国門外』VIEWS 91.12.25
28. 『劉賓雁自伝』
『東方』91.12
29. 『周恩来選集』と日中学術交流 1991 年 12 月『蒼蒼』第 41 号
30. 『ダライ・ラマ自伝』
『東京新聞』92.2.23
31. 内山書店『中国図書』を褒める 1992 年 2 月『蒼蒼』第 42 号
32. 『世界経済白書』中国編は杜撰極まる 1992 年 4 月『蒼蒼』第 43 号
33. 『現代中国知識人批判』
『週刊読書人』92.11.9
1
34. 『中国的転変--胡耀邦と鄧小平』阮銘著訳書解題 93.3 現代教養文庫
35. 『ワイルド・スワン』
『東京新聞』93.3.7
36. 『ニュー・エンペラー~毛沢東と鄧小平の中国』『東京新聞』93.5.23
37. 『台湾百科・第二版』 『漢文教室』93.6
38. 手抜き監修・その 1 1993 年 6 月『蒼蒼』第 50 号
39. 手抜き監修・その 2 1993 年 6 月『蒼蒼』第 50 号
40. 『華僑コネクション』
『産経新聞』93.8.20
41. 『キメラ』
『昴』93.10
42. 『北京大学の文化大革命』 『産経新聞』93.10.3
43. 『北京の長い夜/ドキュメント天安門事件』『産経新聞』93.11.14
44. 『わが父鄧小平』(解題) 徳間書店、94.2
45. 『ワイルド・スワン』の著者名について 1994 年 6 月『蒼蒼』第 56 号
46. 長尾光之氏の批判に答える 1994 年 10 月『蒼蒼』第 58 号
47. 『漂流する日本』を読む 1994 年 6 月『蒼蒼』第 56 号
48. 『中国・次の超大国』を読むと元気が出る 1994 年 8 月『蒼蒼』第 57 号
49. 『毛沢東の私生活(上下)』 『産経新聞』94.12.11
50. 『中国史の目撃者』
『産経新聞』94.8.4
51. 『毛沢東の人間像』
『産経新聞』94.5.12
52. 『中国の禁書』
『産経新聞』94.12.20
53. 『華僑の挑戦』
『産経新聞』95.2.12
54. 「ベールを脱ぐ中国現代史」
『産経新聞』95.4.3
55. 『江沢民の中国』
『東京新聞』94.5.29
56. 『ドラゴン・パール』VIEWS 95.1
57. 『移民と宗族』 『産経新聞』95.4.11
58. 『毛沢東の読書生活』
『週刊読書人』95.6.9
59. 『ビター・ウインズ』(解説) NHK 出版、95.
60. The Decline of Communism in China 中国共産主義の没落 96.3.15『アジア経済』
61. In Praise of Maoist Economic Planning 毛時代経済再評価 1996 年 10 月『東方』
62. 『現代チベットの歩み THE MAKING OF MODERN TIBET』 訳書『東方』
96.
xy
63. 『毛沢東最後の女』京夫子著 1997 年 4 月
64. 『上海路上探検』渡辺浩平著 1997 年 4 月『サンサーラ』
65. Bruce Gilley,Tiger on the Brink 『崖っぷちの虎:江沢民』『アジア経済』99.08
66. 『鄧小平 政治的伝記』楊炳章著 1999 年 9 月
67. 『毛沢東伝』みすず書房 1999 年 11 月
68. 『毛沢東秘録』産経取材班著 1999 年 11 月
2
69. The Culture of Power:The Lin Biao Incident 『アジア経済』00.8
70. 『香港の競争優位』2001 年 2 月 6 日『エコノミスト』
71. China Since Tiananmen2002.11『アジア経済』
72. 『本当は中国で何が起きているか』
内山書店、
『中国図書』1991年1月号
夏休みにぶらぶらと一カ月、中国・香港を旅行した。一人でぶらついたのは一九七九年以
来ほぼ一〇年ぶりである。収穫の一端を紹介したい。
1 李顕栄『托洛茨基評傳』
(中国社会科学出版社、一九八六年)
淮安へ行く途中、南京の新華書店で買い求めた。著者がいかなる人物か知らないし、この
本が出ていることさえ知らなかった。本書のことがもっと早く分かっていたら、私も実行
委員会のはしくれに加わった「トロツキー没後五〇年記念」のゲスト・スピーカーに招く
よう提案できたのに。コミンテルン・中国共産党・トロツキー派、この三者の関係を解く
ための資料が揃い始めたように思う(独言。それはそれとして、やはり「犬も歩けば棒に
当たる」は正しい教えであった)
。
2 中共中央文献研究室『中共党史風雲録』人民出版社、一九九〇年
北京の文献出版社で買った。
『文献和研究』および『中央档案館叢刊』
(ともに内部刊物)
の後身として『党的文献』が刊行されていることは、八八年の訪中で一部を買い求めて承
知していたが、この本は『党的文献』から重要論文を選んで編集したものである。雑誌は
内部発行だが、この本は公開発行である。中共党史研究の最前線の状況を知ることができ
る。かつて紹介したことのある林彪事件関係の証言(『中国現代史プリズム』所収)が載
っており、なつかしく再読した。
3 郭金栄『毛沢東的黄昏歳月』香港天地図書、一九九〇年
3
香港でベストセラーになっていることを新聞で知り、香港を訪れた機会に買
った。毛沢東の晩年に生活秘書を務めていた張玉鳳のことは割合よく知られ
ているが、もう一人の生活秘書孟錦雲のことはほとんど知られていなかっ
た。巨人の吐息まで聞こえてくるような本である。
なお、素顔の毛沢東を語る類似の本が最近少なくない。たとえば権延赤『走
下神壇的毛沢東』北京中外文化出版公司、八九年四月(香港南粤出版社、九
〇年)。権延赤『紅墻内外──毛沢東生活実録』崑崙出版社、八九年五月。
権延赤『衛士長談毛沢東』北京出版社、八九年五月(邦訳『人間毛沢東』、
香港版『毛沢東衛士長雑記』文化教育出版社、八九年七月)などである。内
容はほとんど類似しており、私は同じエピソードを幾度も読まされるはめに
陥った。
4 中国科学院国情分析小組『生存与発展』科学出版社、一九八九年
八九年春に訪中した際に、ある新聞の特派員氏[『読売新聞』高井潔司記
者]がこの本のことを話題にした。「先生がかつて書いておられたようなグ
ルーミーな中国未来論が現れましたよ」と彼は『北京晩報』の連載紹介記事
のコピーを示した。九〇年夏に北京でようやく手に入れることができた。
2内山書店『中国図書』1992年1月号
[1]劉暁波「在地獄的入口処:対馬克思主義的再検討」香港『解放月刊』
一九八九年四月号
ソ連の八月革命以後、マルクス・レーニン主義に対するソ連人民の怒りは、
はばかることなく表明されるようになったが、中国ではまだ潜行している。
天安門事件当時、最も過激な思想を抱き、それを表明した代表的論客たる劉
暁波は「東方のマルクス主義は、専制権力の一部であり、独裁統治の道具に
すぎない」と喝破している。彼は香港『争鳴』に「中国当代知識分子与政
治」を連載したが、ここでは別な論文を挙げておく。
[2]『毛沢東的黄昏歳月』郭金栄著、香港、天地図書、一九九〇年
近年「素顔の毛沢東もの」が陸続と刊行されている。いずれも興味深いが、
一冊を挙げるとすれば最晩年の生活秘書孟錦雲の回想であろう。むろん李銀
橋のものも面白い。エピソードでは物足りない向きには、『知識分子評晩年
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4
毛沢東』香港版、一九八九年九月、がある。ここには李鋭、李沢厚、石仲
泉、譚宗級、王禄林、胡長水、席宣、王年一、朱嘉明、牛軍、蕭延中、黎
澍、戴晴、何平、朱学勤、許紀震など錚々たる論客の毛沢東論が集められて
おり、面白い。
[3]金冲及主編『周恩来伝一八九八~一九四九年』北京、人民出版社、一
九八九年二月 これはいわば欽定版伝記であり、徹底的に資料に基づいて書
かれた本格的研究である。寡聞にして邦訳の計画は聞かないが、ぜひとも翻
訳して俗論謬論を退治して欲しいもの。ただし、四九~七六年の部が未完で
ある。
素顔の周恩来ものはまだ少ない。周恩来は死後も用意周到であり、プライバ
シーを語らせることにおいて「禁欲的」なのか。
[4]『中共党史風雲録』中共中央文献研究室編、人民出版社、一九九〇年
五月。
内部発行の『文献和研究』(八二年四月~八七年一二月)は、同じく内部発
行の『中央档案館叢刊』(八六年三月~八七年一二月)と合併して、八八年
以降、『党的文献』として刊行されている。これは依然、内部発行なので入
手しにくいが、雑誌所収の重要論文が公開版の本書に収められたのはありが
たい。林彪事件についての符浩証言(当時、外交部共産党核心小組)、許文
益証言(当時、モンゴル大使として遺体を処理)、孫一先ら在モンゴル中国
大使館員らの証言もある。この三篇は蒼蒼社版の『林彪秘書回想録』に付録
として掲げられているが、あまり読まれていないらしく、俗論がいまだに横
行しているのは情ない。日本の現代中国論の脆弱さを示す一例である。
[5]佐藤勝巳『なぜ急ぐのか日朝交渉』現代コリア研究所、一九九一年一
一月
チャイナ・ウォッチャーのはしくれとして、コリア・ウォッチャーから学ぶ
ものは多い。佐藤勝巳は私の最も敬愛する論客の一人である。
3内山書店『中国図書』1993年1月号
1.謝慶奎主編『当代中国政府』遼寧人民出版社、一九九一年四月
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かつてハーバード大学出版会から銭端升『中国政府与政治一九一二~一九四
九』が出版されて大いに読まれたが、本書はその後身たるべく、弟子たちが
書いたものである。憲法と政府、共産党と政府、全国人民代表大会、地方人
民代表大会、地方政府、中央と地方などの章建てからなるが、政治宣伝の類
書とは異なり、面白い。
2.厳家其『第三共和:未来中国的選択』八方文化企業公司、一九九二年六
月
辛亥革命後の中華民国を第一共和国とみなし、四九年に樹立された中華人民
共和国を第二共和国と見る著者が、第三の共和国として「中華連邦共和国」
の構想を提起したものが本書である。政治改革のブレーンの一人であった著
者は天安門事件以後、パリに亡命したが、本書は亡命以後に発表した政論を
まとめたものである。政論自体についての評価は別として、中国の政治状況
の問題点を理解するうえで参考になる。
3.阮銘『鄧小平帝国の末日』鈴木博訳、三一書房、一九九二年六月
著者は華国鋒から鄧小平時代への転換期に中央党校理論教研室副主任をつと
め、胡耀邦の政治秘書として大活躍したが、八三年初めに、その民主的思想
のゆえに党から除名された。八八年秋以降アメリカにおり、現在はプリンス
トン大学東アジア研究所客員教授である。「胡耀邦びいき、趙紫陽ぎらい」
が著者のスタンスだが、イデオロギー分野の内情を知るうえで、特に参考に
なる。
4.劉暁波『現代中国知識人批判』野沢俊敬訳、徳間書店、一九九二年九月
劉暁波は六四の前夜にハンストに入り、天安門広場での武力鎮圧の一部始終
を目撃し、それを「歴史に責任を負う」立場から証言した人物として知られ
る。劉暁波の「過激な思想」が当局をどれほど震撼させたかは、当局の編集
した『劉暁波其人其事』などから分かる。私は『保守派 vs 改革派』など
で、彼の主張の一端を紹介してきたが、今回、日本語訳で読めるようになっ
た。
5.花井四郎『黄土に生まれた酒』東方書店、一九九二年一〇月
瓢箪から駒が出るように、碩学の頭脳から芳醇な酒史、酒論が現れた。むろ
んこれは学識が自然醗酵したわけだが、そこに小生の雑文(『蒼蒼』一九
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号)が触媒としてかかわったとは、近来の一大快事である(本書「あとが
き」参照)。「老酒に氷砂糖を入れる」愚行を指摘した花井博士の高論に接
して、矢吹がこれを吹聴し、それが桑山龍平教授(天理大学)の眼にとま
り、編集企画の話になったという。本書をひもどくことによって中国酒の味
わいが一段と深くなること疑いなしである。万一、あなたが下戸だとして
も、文化史の勉強になるから、やはり推奨に値する。
4内山書店『中国図書』1994年1月号
1.鄧小平著『鄧小平文選』(第三巻、人民出版社、一九九三年一〇月)
一一月初めに北京を訪れる機会があり、たまたま「出版報告会」というより
は「遺言伝達式」にも似た、異例のテレビ画面に接した。八六年に書いた小
著に私は「限りなく資本主義に近い社会主義」というサブタイトルをつけた
が、その後八年を経て、ますますその色彩を濃くしてきた。鄧小平路線を核
心を知るうえで本書は必読の書である。かつて毛沢東がそうしたように、鄧
小平もまた再発表に際し改めて目を通し、「逐篇審定了全部文稿」した由で
あるから、前に読んだものでも、今回の「文字の整理」や「増補」に細心の
注意を払わなければならない。
2.毛毛(鄧榕)著『我的父親鄧小平』(上巻、中央文献出版社、一九九三
年八月。香港版=三聯書店、九三年九月)
小著『鄧小平』(講談社現代新書)を出して三カ月後に「娘の書いた欽定
版」に接した。私は長女林の息子を「蒙蒙」、次女楠の娘を「棉棉」と書い
たが、それぞれ「萌萌」「眠眠」になっており、音は同じだが、漢字が異な
る。最初に結婚し、流産して死去した張錫媛は、卓琳と同様に妻と認知して
いるが、二番目の夫人でモスクワ帰りの李維漢に奪われた金維映(李鉄映の
母)の書き方は曖昧である。細部にこだわって読むと、いろいろおもしろい
読み方ができる。
3.薄一波著『若干重大決策与事件的回顧』(下巻、中共中央党校出版社、
一九九三年六月)
第一四回党大会で楊尚昆が引退したあと、あたかも中央顧問グループのリー
ダー格のごとく活躍しているのが薄一波である。財政、経済問題のエクスパ
ートであり、毛沢東の「主観能動性」的経済発展論とはしばしば衝突し、冷
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飯を食わされた。薄一波の証言は、現代中国の経済政策葛藤史を理解するう
えで、最も重要な資料の一つと思われる。この本もたまたま、北京で買っ
た。
4.国家統計局物資司編『中国対外経済統計大全一九七九~一九九一』(中
国統計信息諮詢服務中心出版、一九九二年)
今年はどういう風の吹き回しか、『中国統計年鑑』九三年版(九三一頁)を
六六一八円という安い値段で、例年より一カ月早く東京で買えた。『大全』
は八一八頁の統計集、北京で三〇〇元かかった。一元=二〇円として六〇〇
〇円也。人民元の値札を一七〇倍する「日本式プライシング」ならば、五・
一万円というベラボーに高価な本だ。繁体字組みで英文の説明がついただけ
で、この値段。国家統計局も拝金主義に犯されたらしい。
5内山書店『中国図書』1995年1月号
1.劉国光主編『一九九四年中国:経済形勢与予測』(中国社会科学出版
社、一九九三年一二月)
このシリーズが公表されるようになって三冊目、すなわち九二年版、九三年
版に続くものである。中国社会科学院数量経済技術経済研究所で中国経済の
産業連関分析に基づいた計量モデルを作成し、経済予測のシュミレーション
を行なっていることは、知られていよう。私は昨年秋、たまたま同研究所を
訪れ、端末をのぞくことができた。白髪三千丈的「虚報」を排し、コンピュ
ーター=数字を用いて「実事求是」の態度で経済の実態を分析する作業は、
中国経済の市場経済化を示す一つのメルクマールである。
2.夏興園主編『中国地下経済問題研究』(河南人民出版社、一九九三年五
月)
計画経済を捨てた中国において目立つ現象の一つは、「第二職業」という名
の兼職や税金逃れの「過少申告」である。世界中のどこでもアングラ経済は
活発であり、1)非合法の経済活動、2)公式統計に載らない経済活動、3)申告
されない経済活動などが広範にみられる。その大きさは先進国でGNPの一
~二割、途上国では一~三割と推計されている。中国の地下経済はいま大き
く成長しつつあるようだ。それを踏まえない経済分析は実態から遊離したも
のとなる恐れがある。額面では安い月給の大学教師がなぜ外国製のクーラー
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やマイカーを買えるのか理解できなくなる。一例として挙げたが、類書も少
なくない。
3.劉世錦ほか主編『企業股制改造実用手冊』(経済管理出版社、一九九三
年一二月)
国有企業はどうやち骨の髄まで腐っているらしい。四川省で合弁企業を作ろ
うとしているある日本人総経理は「国有企業の悪習に染まらない高卒の若
者」を選んで教育し、中国第一のオートバイ工場を作りたいと抱負を語って
くれた。とはいえ、現に存在する国有企業も少しでも改革しないことには、
中国経済は成り立たない。建て直しの方法は「股有限公司」作りである。本
書を読むと、どのようにして会社の定款を作り、帳簿を整え、上場までもっ
ていくのか、その手順とコツがよく分かる。このようなマニュアル書にまで
目を通さないと、中国経済を理解できなくなってきた。
4.王山訳『第三只眼睛看中国』(山西人民出版社、一九九四年三月)
おそらくは保守派のグループによる陰謀的世論工作のための一つの材料であ
ろう。外国人の名を勝手にデッチあげて、みずからの貧弱な思想を飾ろうと
した本である。近年、輸出用の良質のファッションも「出口転内銷」の名
で、中国国内でかなり買えるようになり、喜ばれているが、その種の人気に
便乗して羊頭苦肉をやるのは実に見苦しい。私はかつてひっかけられた苦い
体験を経て、極左派の心理がよく読めるようになった。
6 内山書店『中国図書』1997年1月号
1 戴向青、羅恵蘭著『AB団与富田事変始末』(鄭州、河南人民出版社、一
九九四年)
一九二六年末、アンチ・ボリシェビキ団(すなわちAB団)が組織され、国
共合作を破壊しようとしたが、これは共産党の努力で三カ月で解体された。
三年後の一九三〇年五月、毛沢東は李韶九を富田に派遣してAB団粛清を命
じた。これは敵情を誤認した粛清であり、これに反発した側が富田事変を起
こした。毛沢東はなぜ敵を誤認したのか。富田事変の悲劇の全貌がこの本で
細部まで理解できる。
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2 席宣、金春明著『「文化大革命」簡史』(北京・中共党史出版社、一九九
六年)
一九九六年は文化大革命が始まって三〇年、終わってから二〇年であり、文
革に関わる書物がいくつか出版された。本書の著者席宣は中共中央党史研究
室研究員、金春明は中共中央党校教授である。「われわれの世代は文革の体
験者であり、辞することのできない責任をもつ」とする立場から、本書が書
かれた。信頼できる「簡史」である。
3 図們、祝東力著『康生与「内人党」冤案』(北京、中共中央党校出版社、
一九九五年)ウランフが「総頭目」といわれた内蒙古人民革命党冤罪事件は
一九六八年に発生し、三・四六万名が迫害を受け、一万六二二二名が殺害さ
れた。この冤罪事件は死者の多いこと、「毛沢東思想学習班」の名において
拷問が行われたことなど、文革期の冤罪事件のなかでもきわだっている。著
者の図們少将は蒙古族、解放軍軍事法院副院長などを歴任した。
4 房学嘉著『客家源流探奥』(広州、広東教育出版社、一九九四年)
客家文化は中原で発生、形成され、南に波及したのか。それとも中華の大地
にそれぞれの地方文化の源流があり、相互に融合し、影響しあい、吸収しあ
ってきたのか。客家人が中原から「南遷」した史実はない。客家地区に「中
原流人が南遷した事実」はあるが、当地の者と比べると、つねに少数であっ
た。客家についての通説を批判した面白い本。
5 呉国光、鄭永年編『論中央・地方関係』(香港、牛津出版社、一九九五
年)
巨大国家中国にとって中央政府と地方政府の関係をどう扱うかは、きわめて
重要な課題だ。アメリカのプリンストン大学に学んだ二人が「集権・分権・
再集権」の堂々巡りから脱却し「国家統一を保持しつつ経済発展を促し、国
家制度の転換を推進できる中央・地方関係の構築」のために、具体的な提案
を試みた。たとえば全国人民代表大会に「地方事務委員会」を設け、「地方
基本法」を制定して省級地方政府の権限を定めよ。同時に、地区級以上の都
市に「中央政府弁事処」を設けよ。地方指導者の軍隊兼職と軍隊指導者の地
方兼職を廃止せよ。現行の一級行政区を約六〇コに細分せよ、などである。
関連書に、呉国光編『国家、市場与社会』(香港、牛津出版社、一九九四
年)がある。
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7 内山書店
『中国図書』
1997年1月号
1 戴向青、羅恵蘭著『AB団与富田事変始末』(鄭州、河南人民出版社、一九九四年)
一九二六年末、アンチ・ボリシェビキ団(すなわちAB団)が組織され、国共合作を破壊
しようとしたが、これは共産党の努力で三カ月で解体された。三年後の一九三〇年五月、
毛沢東は李韶九を富田に派遣してAB団粛清を命じた。これは敵情を誤認した粛清であ
り、これに反発した側が富田事変を起こした。毛沢東はなぜ敵を誤認したのか。富田事変
の悲劇の全貌がこの本で細部まで理解できる。
2 席宣、金春明著『
「文化大革命」簡史』
(北京・中共党史出版社、一九九六年)
一九九六年は文化大革命が始まって三〇年、終わってから二〇年であり、文革に関わる書
物がいくつか出版された。本書の著者席宣は中共中央党史研究室研究員、金春明は中共中
央党校教授である。
「われわれの世代は文革の体験者であり、辞することのできない責任
をもつ」とする立場から、本書が書かれた。信頼できる「簡史」である。
3 図們、祝東力著『康生与「内人党」冤案』
(北京、中共中央党校出版社、一九九五年)
ウランフが「総頭目」といわれた内蒙古人民革命党冤罪事件は一九六八年に発生し、三・
四六万名が迫害を受け、一万六二二二名が殺害された。この冤罪事件は死者の多いこと、
「毛沢東思想学習班」の名において拷問が行われたことなど、文革期の冤罪事件のなかで
もきわだっている。著者の図們少将は蒙古族、解放軍軍事法院副院長などを歴任した。4
房学嘉著『客家源流探奥』
(広州、広東教育出版社、一九九四年)
客家文化は中原で発生、形成され、南に波及したのか。それとも中華の大地にそれぞれの
地方文化の源流があり、相互に融合し、影響しあい、吸収しあってきたのか。客家人が中
原から「南遷」した史実はない。客家地区に「中原流人が南遷した事実」はあるが、当地
の者と比べると、つねに少数であった。客家についての通説を批判した面白い本。
5 呉国光、鄭永年編『論中央・地方関係』(香港、牛津出版社、一九九五年)
巨大国家中国にとって中央政府と地方政府の関係をどう扱うかは、きわめて重要な課題
だ。アメリカのプリンストン大学に学んだ二人が「集権・分権・再集権」の堂々巡りから
脱却し「国家統一を保持しつつ経済発展を促し、国家制度の転換を推進できる中央・地方
関係の構築」のために、具体的な提案を試みた。たとえば全国人民代表大会に「地方事務
委員会」を設け、
「地方基本法」を制定して省級地方政府の権限を定めよ。同時に、地区
級以上の都市に「中央政府弁事処」を設けよ。地方指導者の軍隊兼職と軍隊指導者の地方
兼職を廃止せよ。現行の一級行政区を約六〇コに細分せよ、などである。関連書に、呉国
光編『国家、市場与社会』
(香港、牛津出版社、一九九四年)がある。
8 内山書店『中国図書』1997年読書アンケート
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1.任慧文著『中南海~権力交班的内幕』(香港・太平洋世紀研究所、九七
年)
任慧文はペンネームで中国の某々機関の研究者であるといわれる。香港『信
報』のコラム「北京政局」で健筆を揮っているが、本書は九二年から九六年
までのコラムのうち、中南海の意志決定の核心に迫る鋭い観察や分析をまと
めたものである。私はもっぱら公開情報で中国の流れを読んでいるのだが、
本書のコメントから学ぶものは多い。「消息人士又説」「北京政界人士認
為」で始まる評言が特に面白い。
2.呉江著『十年的路~和胡耀邦相処的日子』(香港鏡報文化企業有限公司、
初版九五年、九六年第二版)呉江はかつて『紅旗』の編集委員や中央党校の
理論研究室主任などを務めた理論家である。文革後復活した胡耀邦が中央党
校を主持して『理論動態』を発刊し、桔弌峠時代へのイデオロギー大転換を
準備したときに、胡耀邦の助手として、その活動を支えた。本書の圧巻は、
胡耀邦追放騒動における趙紫陽の背信行為を暴露した件である。趙紫陽がも
し胡耀邦ともっと協力していたならば、胡耀邦の失脚はなく、趙紫陽の失脚
もなく、したがって、江沢民の出番はなかった可能性が強い。貴重な証言で
ある。
3.藍博洲著『幌馬車之歌』(台北・時報文化出版企業、初版九一年、九七年
八刷)
台北で知人に進められて著者藍博洲と会った。彼こそが私の『桔弌峠』(台
湾海賊版)に序文を書いてくれた当人であることは、本人から聞かされた。
映画「非情城市」の原作にあたる「幌馬車之歌」なるノンフィクションを読
んで、私の台湾現代史に対する理解は、一挙に深まった気がする。しかし藍
博洲はこう笑うであろう。「日本人なぞにわかってたまるものか」と。あの
髭面はかなり挑戦的である。
4.岡田裕之『冷戦から世界経済再統合へ』(東京・時潮社、九七年)
敬愛する岡田さん(法政大学経営学部教授)の人間臭(ヒューマニズム・プラ
ス体臭?)が、あふれていて、とても印象的な本である。私は台湾で重傷を負
って入院し、自分の前半生をつらつら病床で考えた次第だが、あと十年で岡
田さんのような本を書けるかどうか、疑わしい。ソビエト学の先達から、中
国学が学ぶべきものはきわめて多い。
書評一束
12
5.渡辺一衛著『邪馬台国に憑かれた人たち』(東京・学陽書房、九七年)
現代における真の知識人とは、おそらく著者のような知的生活を送ることの
できる人物を指すものと思われる。纏向こそが邪馬台国の首都であり、これ
を簒奪して大和朝廷が成立したとする仮説を素粒子論専攻の著者が考古学的
証拠と記紀などの文献の両面から考察する。アマチュア古代史家の強みを極
力活かして、専門家の所説の功罪を腑分けする手さばきは実に巧みであり、
あたかも良質の推理小説をひもどく気分である。
9 内山書店、1998年読書アンケート
月刊『中国図書』
、1999年1号2頁
1)胡績偉著『従華国鋒下台到胡耀邦下台』香港明鏡出版社、一九九七年一一月
裏表紙のカラー写真が印象的だ。毛沢東の柩の前で手をつなぎあう八人組(張春橋、王洪
文、 江青、華国鋒、毛遠新、姚文元、陳錫聯、汪東興)の姿である。当時の『人民日報』
社長、総編輯の手になるこの回顧録は「屍を借りて、魂を還す」ことを防ぐために書かれ
た。この本は大陸ではまだ出版を許されていないが、八二歳の胡績偉老自身は大陸で矍鑠
と生きている。中国マスコミ界の覇王・胡喬木批判、開明派の指導者・胡耀邦への挽歌な
ど、貴重な証言である。
2)何清漣著『現代化的陥穽
--当代中国的経済社会問題』北京、今日中国出版社、一九九八年一月。許明(中国社会
科学院文学研究所所長代理、文学博士)が主編した「中国問題報告」シリーズの一冊であ
る。許明が再三躊躇した挙句、
「改革の大趨勢」を踏まえて出版を決断したもの。香港の
雑誌なら珍しくない内容だが、大陸で出版されたことに意義がある。何清漣は八八年に復
旦大学経済系卒、経済学修士で、現在は『侮框日報』記者である。才媛の筆は「腐敗」
「黒
色経済」
「政権のソフト化」など「現代化の陥穽」を抉りだす。
3)馬立誠、凌志軍著『交鋒--当代中国三次思想解放実録』北京、今日中国出版社、一
九九八年三月。
日本でもしばしば話題にされたので、省略を考えたが、やはり「改革 20 年における保守
派対改革派」の闘争を文字通り「交鋒」として描いた本書は、98 年中国出版界のマイル
ストーンとして記録しておくに値する。老いた万里が著者たちを激励したという報道が
あったかと思えば、若者を過大におだてるなと江沢民がコメントしたとか、はてはこの本
について最初の紹介記事を書いた『読売』特派員が国外退去になったり(退去理由は別だ
が)
、この本がらみの話題はつきない。雑音を離れて、ゆっくり読みたい。
4)謝栄鎮著『中国総理朱鎔基』香港広角鏡出版社、一九九八年六月。蕭政勤著『朱鎔基
--跨世紀挑戦』香港、太平洋世紀出版公司、一九九八年四月。楊中美著『朱鎔基伝』台
北、時報文化出版、一九九八年三月。
朱鎔基伝を3冊あげる。朱鎔基が国務院総理になることを10年前に予想した人は皆無
書評一束
13
であろう。アジア通貨危機のなかで、中国の国難を解決できるエースは、朱鎔基以外には
ないとする判断が、朱鎔基をして総理に就任させた。果たして彼は嵐の海のなかで中国丸
の沈没を防ぐために、果断な指揮をとり続けている。かつて中国の舵取りは桔弌峠の決断
に多くを依拠していたが、いまは朱鎔基の決断に依拠する部分が少なくない。特定の個人
に指揮をゆだねざるを得ない事態は望ましいことではない。しかしこれが中国の政治経
済の現実なのだ。
10 内山書店、月刊『中国図書』2000 年 1 月号 3~4 ページ
「1999 年読書アンケート」
1)鄭永年著『中国民族主義的復興--民族国家向何処去』
香港、三聯書店、一九九八年八月。ベオグラードの中国大使館「誤爆」事件に抗議する中
国の学生たちのアメリカ大使館投石事件は、中国ナショナリズムの激しさの一端を垣間
見せてくれた。改革開放二〇年を経て、中国の国際協調主義への変化を評価していた私な
どは、
「中国は中国、一皮めくれば文革期さながら」と改めて中国ナショナリズムに強い
違和感を感じた次第である。この本は中国ナショナリズムを広い視野から分析していて、
読みごたえがある。
2)中共中央文献研究室編『中共第十五届中央委員会、中央紀律検査委員会委員名録』
北京、中央文献出版社、一九九九年三月。何の変哲もない中央委員・候補委員(紀律検査
委員会を含む)人名録にすぎない。1人1ページ、顔写真つきで略歴が紹介されている(た
だし、政治局常務委員7名のうち5名は1ページ余におよぶ)。政治局委員や閣僚など国
家と党中央の指導者については以前から顔写真つきの紹介が行われてきたが、中央委員
会メンバー全員についての顔写真つき人名録は 15 期が初めてである。中国の情報公開度
を示すメルクマールの一つとして、注目しておきたい。
3)李暁荘著『朱鎔基人馬』香港、夏菲爾国際出版公司、一九九八年五月。
朱鎔基内閣が発足した直後に、朱鎔基の周辺にいて助けていると目される三五名の人物
を紹介した人物評伝集である。類書に蕭政勤著『朱総理智嚢群英』香港、太平洋世紀出版
社、一九九九年一月があり、こちらは二二名を紹介しつつ、
「分析篇」も付している。人
物の採り上げ方も論評も多少違っていて、その違いを読み込むのも楽しい。
4)謝希徳、倪世雄主編『曲折的歴程--中美建国二〇年』上海、復旦大学出版社、一九
九九年一月。
米中間の国交は一九七九年に開かれたので、今年は満二〇年である。これを記念して復旦
大学アメリカ研究センターの研究者たちがまとめた米中関係のレビューである。問題点
がよく整理されている。日中関係についてはどうか、日中・米中を対比させるとどこがど
う違うのかを考えたくなる。
5)岩田昌征著『ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像』御茶の水書房、一九九九年八月。
百済勇著『EU の東方拡大とドイツ経済圏』日本評論社、一九九九年二月。
いずれも仲間から頂戴した本だが、視野を広げる上で役立った。少し前にやはり共訳者か
書評一束
14
ら頂戴したH.ケルブレ著『ひとつのヨーロッパへの道』日本経済評論社、一九九七年五
月、と合わせて読むと、ベルリンの壁一〇年後の中・東欧の姿が浮かび上がる。そしてア
ジアの未来像に思いが至る。
11「2000 年読書アンケート」
矢吹晋(横浜市立大学 現代中国論)
1)史衛民、雷兢(王旋 xuan 著『直接選挙:制度与過程――県(区)級人大代表選挙実
証研究』北京、中国社会科学出版社、一九九九年一一月。白鋼主編「選挙与中国政治叢書」
の一冊である。県レベルの直接選挙がどのように設計され、どのように実行されつつある
のかをいくつかの典型地域について調べたものである。たとえば山東省青島市城陽区、天
津市河西区、吉林省四平市梨樹県などの事例である。末尾の「現状与発展」が特に面白い。
2)
(龍共 gong)浩成、戴国強主編『中国金融発展報告二〇〇〇年』上海、財経大学出版
社、二〇〇年四月。金融が現代経済の核心であることは、アジア経済通貨危機が逆証明し
て見せた形である。中国は半開きドアのゆえに、この嵐の被害を最小限にくい止めること
ができた。しかし WTO 加盟後の中国にもはや退路はない。人民元のハードカレンシー化
に向けて着々と態勢を整えつつある中国の金融事情を理解するうえで最良の一冊であ
る。中国の国際通貨基金八条国移行は九六年一二月、日本の一九六四年と比べて三二年後
だ。二〇〇五年にハードカレンシー化するならば、日本の一九七三年より三二年後という
比較になる。
3)藍博洲著『共産青年李登輝』台湾苗栗県、紅岩出版社、二〇〇〇年二月。かつて『幌
馬車之歌』を書いて映画「悲情城市」の素材を提供した藍博洲の新作である。『幌馬車』
では「李新民」の仮名で描かれた人物が、まさに李登輝その人であることをこの本では明
らかにして注目された。李登輝の人物研究にとって欠くことのできない一冊であろう。
「ミスター・デモクラシー」などともちあげるだけでは台湾現代史は見えてこない。
4)国家統計局国民経済綜合統計司編『新中国統計資料匯編』北京、中国統計出版社、一
九九九年一一月。九九年は建国五〇周年にあたり、これを記念してさまざまの活動が行わ
れた。五〇年の歩みを統計的事実で確かめるうえで便利な資料集である。特に海南省は省
レベル行政区に昇格して以後統計を整えることができたが、重慶市はまだ日が浅く、一九
九六、一九九七、一九九八、三カ年の資料しか収められていないのが惜しい。
5)金冲及主編、村田忠禧、黄幸監訳『毛沢東伝(一八九三~一九四九)上・下』
(東京、
みすず書房、一九九九年一一月、二〇〇〇年七月)原書は一九九六年に出版され、版を重
ねて三〇万部、海賊版も同じ程度出たと聞いた。原書がベストセラーになったのは、人間
毛沢東の個性を十分に描ききったことによる。いわば毛沢東伝の決定版である。邦訳は原
書一冊を上下巻に分け、上巻は一~一八章、下巻は一九~四〇章、総計九三一ページから
なる大著。
「毛沢東をして毛沢東たらしめたものは毛沢東の個性である」という視点から、
その個性と中国革命の関わりを丹念に執拗に追求した著作である。
書評一束
15
内山書店 2009 年読書アンケート(2010 年 1 月号)
1.『山村的守望』(林燕平著、方志出版社、2009 年 2 月)
中国で最も貧しい地域の一つに数えられる寧夏回族自治区の貧困農村の調査報告である。
著者は七つの自然村について、回族一二〇戸、漢族三九一戸、計五一一戸を戸ごとに訪ね、
その家族構成、農業収入、出稼ぎ収入、教育程度(識字率)を丁寧に聞き取りした。林燕平女
史は一九五四年北京市生まれ、結婚・出産の後、単身来日して苦節十年、一九九九年に東
大から博士号を得た。二〇〇三年の春節休み、著者は思い立って「扶貧点」に指定された
村へ出向く。これこそが本書の舞台となるラクダ村との運命的な出会いになった。「足で
描いた」農村の細密画は、中国社会科学院の関係者を驚かせ、二〇〇九年度の「メーデー
賞」に輝いた。忘れられた村人に注ぐ著者の視線は暖かい。
2.『殺劫--チベットの文化大革命』(集広舎、中国書店、2009 年 10 月)
著者の父親ツェリン・ドルジェは、チベット族ながら解放軍の幹部であった。本書は父
が写した写真を子ツェリン・オーセルが編集し、解説を付したものである。著者父子の存
在自体がチベット族と漢族との交流史の生き証人だが、写真が語るその物語は、中国革命
の矛盾を少数民族の立場から的確に証言する資料になっている。モンゴルの文化大革命に
ついては、『モンゴル人のジェノサイドに関する基礎資料 1』(楊海英編)が出ているが、こ
れらを読むと、中国共産党の少数民族政策が成功したとは到底いえないことがよく分かる。
3.陳桂棣夫妻著『発禁中国農民調査抹殺裁判』(朝日新聞出版、2009 年 10 月)
話題を呼んだ『中国農民調査』は、発売 2 カ月で発禁処分となり、著者は「作家を抹殺
するため」の裁判の被告席に座らせられる。発禁がどのように行われ、メディアはいかに
封殺したか。著者はその一部始終を描き、中国の法治がどのようなものかを一つの実例で
告発した。農民問題に挑む「タブー破り」も興味深かったが、司法の現実は、いっそう鋭
く中国社会の病根を抉りだす。
4.吉岡直人『さらば、横浜市立大学』(下田出版、2009 年 3 月)
「政権交代」によって小泉改革のデタラメぶりが暴かれつつあるが、中央の改悪よりもも
っとデタラメな暴挙が松下政経塾出身とされる前横浜市長中田宏によって強行された。私
は定年前のまるまる 2 年間、反対闘争に忙殺され時間とエネルギーを奪われたので、怨み
は深い。理学部勤務の同志吉岡が貴重な証言を残してくれた。
「37 歳の若き市長」なる青二
才がどのように大学をつぶしたか。その過程が冷静に記録されている。横浜市庁舎にたむ
ろする記者たちは全員が市長に籠絡され、真実を一言も伝えず、中田の共犯者となった。
12 内山書店『中国図書』2003 年 1 月号 4 ページ
1)清水美和著『中国農民の反乱』講談社、二〇〇二年七月。ベテラン記者の中国帰国報
告である。逆説になるが、日本経済がなぜダメであり、中国経済がなぜ元気か、その理由
を知りたい人は本書を味読してほしい。ネギと自動車ではネギが安いに決まっているが、
そのネギ(の裏にいる政治家)のために、自動車の利益を犠牲にするのが日本の政治であ
る。当然経済効率は無視される。中国では農民の利益を代表するものは、毛沢東の農民組
合が消えて以後、皆無である。農民をしぼる中国は元気溌剌だ。苦しい農民も餓死したと
いう話は聞かない。無為無策の政治を傍観する日本に未来はあるか。
2)王名、李研焱、岡室美恵子著『中国の NPO—社会改革の扉が開く』 第一書林、二〇
〇二年三月。中国 NPO の概念や歴史から、その活動や組織の実態まで、初めて実証的な
研究が登場した。三名の気鋭の研究者による共著だが、リーダー格の王名は名古屋大学で
学位を取り、現在は清華大学 NGO 研究所所長として活躍中。この学科はいまや名門清華
大学においても最も人気の高いコースと聞く。李研焱は学術振興会外国人特別研究員、岡
室美恵子は笹川平和財団主任研究員である。
3)戴國煇・王作栄著『李登輝—その虚像と実像』草風館、二〇〇二年五月。昨年の本誌
に『李登輝執政告白実録』を挙げた方がいるが、李登輝自身による弁明を促したのは、邦
訳の原書たる『愛憎李登輝』(天下遠見出版社、二〇〇一年二月)である。日本ではあまり
にも李登輝神話に汚染されている向きが多すぎて、かえって彼の実像が見えなくなって
いると私は思う。私自身は一九六九年以来この人物を観察しており、李登輝研究では人後
に落ちないつもりである。その知見の一部を本書の解説書いた。李登輝研究にとって欠く
ことのできない一冊。
4)China Since Tian’anmen Cambridge University Press, 2001, xvii+313pp。中国は
90 年代に「伝統主義、保守主義、ユートピア主義、ナショナリズム」の混合物が生まれ、
「文化における商業主義」と「経済におけるテクノクラート化」が進み、知識人のあり方
も変化した。本書は「90 年代中国政治」を跡づけながら、
「知識人の役割」に迫る。90 年
代中国政治を対象とした「論壇見取り図」である。
5)木佐芳男著『戦争責任とは何か』中公新書、二〇〇一年七月。一部の日本人、中国人
が日本の戦争責任を語る場合に、お決まりのワンパターンがある。曰く「ドイツは戦争責
任を謝罪したが、日本人は謝罪していない。日本人もドイツ人のように謝罪すれば、中日
関係は改善される」と。だが、これは虚構である。果たしてドイツ人は真に謝罪したか。
13 日本にとっての台湾の重み、呉濁流の作品が語るもの
『週刊東洋経済』1973 年 9 月 1 日号 122-125 頁
「日中復交」で、いわゆる台湾問題は一応の解決をみた。だが、日本の植民地統治の落と
し子としての真の台湾問題は決して解決されてはいないのである。われわれが台湾の民
衆を忘れ去ろうとしているまさにその時に、日本は東南アジア諸国との間にさまざまな
きしみを生み出しているのはなぜか。われわれが本当にアジア諸国との友好を願うなら
書評一束
16
ば、その原因を探って原点に立ち返り、台湾問題の本質をとらえ直す必要がある。
日本以上に日本的な台湾
二年間の東南アジアでの留学生活を終えて帰国するとき、私は台湾に立ち寄った。日中復
交後の台湾の実情を自分の目で確かめておきたかったからだ。松山空港で友人の出迎え
を受け、安宿に旅装を解くやいなや私は台北の街をぶらついた。街のたたずまいは、私が
それまで暮らしていたシンガポールや香港、あるいは東南アジアのその他の都市のチヤ
イナ・タウンとそう変わりはない。しかし、人は同じ中国人でありながら、かなり違うよ
うに思われた。どこがどう違うのか、そのときははっきり自覚できなかったが、私は顔面
筋肉がほぐれ、肩の力がすうっと抜けていくのを感じていた。全く台湾でメロメロといっ
た具合なのである。おそらく日本に着いたような錯覚を起こしたのに違いない。私がそう
錯覚するほど、台湾の人々は日本的であった。日本人以上に日本人的であったとさえいえ
るかもしれない。一○日後、実際に帰国した私は、物価高と空気汚染の東京で人々がガサ
ガサしているのを発見し、逆に肩がこったのを覚えている。シンガポールでは中国語(彼
らは華語と呼ぶ)を学び、香港では広東語(正確にいえば広州語)を使って生活していた
私は他の日本人と比べたらはるかに自由な生活ができ、言語障害からくるストレスは少
なかったに違いない。にもかかわらず、台湾でこのような体験をして、私は五○年間の日
本統治に思いをいたさずにはいられなかった。
この一文を書く動機はもう一つある。 ここ一~二年の中国ブームのなかで、中国につい
てあるいは日中関係についてさまざまのことが語られたけれども、今度もまた台湾の民
衆は無視された。戦後日本の中国研究者の間で、いつのまにか台湾をタブー視する風潮が
形成され、台湾研究は少数の例外を除いてほとんど行なわれなかった。日本政府は台湾政
権を唯一の中国政府と認めるという虚構のうえに戦後の日中関係を展開したのである
が、これを批判した中国研究者の論理は政府の論理の裏返し以上のものではなく、台北で
はなく北京こそ正統であると主張することによって、台湾を中国研究の対象から外して
しまった。台湾を含めての一つの中国という主張のなかで、台湾は事実上、忘れ去られ、
一九六九年の日米共同声明の重大性を見落とし、70 年春、周恩来 4 原則をつきつけられ
て、初めてあわてるという醜態を演じたのである。
いま「南進する日本資本主義」は、東南アジア各地でさまざまな矛盾を生んでおり、これ
をめぐっていくつかの議論が行なわれているが、これらは彌縫策でなければ「現状では実
現不可能のものが多い。われわれが真に日本と東南アジアとの矛盾を解決するためには、
やはり原点に立ち帰って、問題の本質をとらえなおすことから著手しなければならない
だろう。この意味ではいまこそ台湾に関心を向けることがどうしても必要である。かつて
そうであったのと同じく、戦後も台湾は南進する日本資本主義の原点であるから。
呉濁流の苦渋に満ちた人生
さて、台北で私は旧知の作家・呉濁流氏を訪問し、長いこと話し込んだ。氏が七二年二月
東南アジアを旅行された際に、シンガポールでお会いし、シンガポール案内をさせてもら
書評一束
17
い、そのとき、機会があったら台湾でお会いしましょう、と約束していたからである(氏
はそのとき詠んだ漢詩を『濁流詩草』台湾文芸雑誌社刊、1973 年に収めている)。市内の
小さな家の二階で、氏は著書二冊が相次いで東京で出版されたことをたいへん喜んでお
り、もう一冊別のが出る予定だと、あとがきの原稿を見せてくれた。こう書いてあった。
「およそ人間というものは、自分のしたことが客観的に間違っていても容易にその非を
認めない。過去の日本帝国主義者は、東洋平和という偽りのスローガンを掲げて中国を侵
略し、戦争を起こし、多くの人民を殺して台湾等を植民地化した。第二次大戦後後にも、
やはりかつての日本と同様、強国が弱小国を侵略し、戦争を引き起こして多数の人命を正
義の名のもとに殺傷しつづけてきた。このときにあたり、かつて日本の植民地だった台湾
の現実を描いた拙著『アジアの孤児』を出版して、植民地体制の本質を新たに考えようと
する、心ある日本人がおられることに頭が下がる」
。
「心ある日本人」でありたいとは思っ
ていても、そうであるといえる自信のない私は、呉濁流さんよりももっと低く頭を下げる
ほかなかった。
この三冊の本とは、昨年から今年にかけて東京で出版された『夜明け前の台湾----植民地
からの告発』
、
『泥濘に生きる---苦悩する台湾の民』 (以上二冊は社会思想社刊)、
『アジ
アの孤児---日本統治下の台湾』
(新人物往来社刊)のことである。呉濁流氏は一九○○年、
日本帝国主義下の台湾に生まれ、
「公学校」
(小学校ではない)、
「国語学校」
(後に「台北
師範」と改称、ここでの国語とはむろん日本語を指す)を経て、
「公学校訓導」(教諭では
ない)を二○年勤め、その後新聞記者生活のかたわら作家活動にはいり、現在は季刊雑誌
『台湾文芸』を主宰して旺盛な活動を続けている人物である。その経歴からうかがわれる
ように、彼は日本統治下の台湾に育ち、数多くの台湾民衆とともに苦渋に満ちた人生を生
きてきた。一例をあげれば、 一九四○年、彼はそれまでの二○年の教員生活に別れを告
げることになるが、これは新埔(彼の故郷)で開かれた郡主催の運動会のとき、郡視学を
ひやかしたために公衆の面前でなぐられたことがきっかけであった。
「内台融和」
「一視同
仁」のスローガンとはうらはらに、現実には「本島人」 への露骨な差別が行われており、
ふだんから心の中に鬱積していた不満、憤りが一挙に爆発した。彼は郡視学の謝罪を要求
したが容れられず、結局これに抗議して教員を辞任した。反骨教師が郡視学に抗議して辞
任した、というのはごく小さな出来事にすぎず、あえてとりあげるには及ばないエピソー
ドかもしれない。しかし、この郡視学が日本人であり、旧植民地での日本人は多かれ少な
かれこのような態度で民衆に接したことを考えれば、このエピソードはかなり普遍性を
もつであろう。 ここには当時の帝国主義日本対植民地台湾の関係が、直接的に反映して
いるのである。それだけでなく、こうした構造は戦後の日台関係あるいは日本と東南アジ
アとの関係においても、再生産されている事実に注目しなければならない。私はいま、数
年前、バンコクのナイトクラブで日本人商社員がホステスによって射殺され、同じころシ
ンガポールで、 ある日本人主婦が殺された事件を想起している。むろん戦前の日本植民
地の民衆と戦後の商社員が全く何じだというのではない。
書評一束
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達意の日本文が語るもの
呉濁流の三冊の本は、いずれも日本語で書かれている。彼は「もう官庁では、日本語ので
きないものは、馬鹿同然だ」といわれる風潮のなかで日本語を学び、
「公学校の児童のア
クセントが悪いのは、本島人教員の責任だ」という日本人校長のもとで、教員生活を送っ
たのである。フランツ・ファノンの「黒い皮膚・白い仮而」と同じく、あるいはアルベー
ル・メンミ、カテブ・ヤシーヌなどのように(島田尚一「重み増す第三世界の文学」
『朝
日新聞』七三年七月一一日夕刊)
、台湾の民衆も経済的収奪に加えて、言語と文化を奪わ
れ、日本語という猿ぐつわをはめられた。彼らはいま敵の言語で、その屈辱、苦悩を語っ
ている。こうみてくると、呉濁流の日本語が達意であればあるほど、その「重さ」にまず
打たれる。それにしても、私がここで「ファノンやメンミのように」と、はるか遠いアル
ジェリアを引き合いに出してわが台湾を語るというのは、なんとも奇妙な状況ではある
まいか。朝鮮文学や台湾文学を援用してアルジェリア文学を語るフランス人の話なぞ、私
はまだ聞いたことがない。それはさておき、この三冊に収められた小説、エッセイを執筆
順に並べると、次のごとくである。
『アジアの孤児』1943~45 年、
『陳大人』1944 年、
『夜明け前の台湾』1947 年、
『ボツダム科長』1948 年、
『泥濘』1950 年、
『無花果』1968
年。
この六編のうち、最大の力作であり、よく読まれたのは、やはり『アジアの孤児』であろ
う。この作品が一九五六年日本で出版されたとき、呉濁流は次の「自序」をつけている。
「この小説は戦時中、すなわち一九四三年に起稿し、一九四五年に脱稿したものであっ
て、台湾における日本統治の史実の一部分を背景にして小説を綴ったものである。ただ
し、当時、何人もあえて筆にしなかった史実ばかりであって、これを忌憚なくありのまま
に描写したものである。そもそも胡太明の一生は、 この歪められた歴史の犠牲者であっ
て、精神の住み家を求めて故郷を離れ、日本にさまよい、大陸にも渡ったが、どこにも彼
を安住させるだけの楽園がなかった。で、彼は一生悶えて、光なき憂鬱を覚え、絶えず 理
想に憧れ、常に理想からつき離され、ついに戦争の過酷な現実に遭って、もろくも一時は
発狂してしまった。当時、筆者の住んでいる家の前には北警察署の官舎がずらりと並んで
いた。その中には顔見知りの特高も二、三人いた。この小説の第四編、第五編を書くのに
すこぶく都合の悪い所で、したがって竦(すく)まざるをえない。しかし、案外、燈台も
と暗しでかえって宏全だと思って別に場所を換えなかった。けれども万一の場合にそな
えて、細心の注意だけは払っておいた。二、三枚書いては勝手の炭籠に隠し、これがたま
ると田舎の故郷へ疎開するようにした。この小説の良し悪しは別として、第四編、第五編
は筆者にとっては命がけの作品である」
。
私は文学には不案内であり、この作品のできばえについて論ずることはできないが、日本
の台湾統治がどのようなものであったのか、そのなかで台湾の民衆は、知識人はどのよう
に生きてきたのかについては痛いほどよくわかったように思う。 いや「ノド元過ぎれば」
といわれるくらいで、自分で経験した痛みでさえ忘れてしまうのが人間であるとすれば、
書評一束
19
他人の、多民族の苦痛なぞ、とうてい理解不可能だといったほうが正しいのかもしれな
い。
「日本の台湾統治は、植民地支配のもっとも成功した例である」といった類の自己弁
護はかなり広く行なわれている。私のような戦後派は、ややもすればこの種の謬論を反駁
できず、
「ソンナモンカナァ」と無批判に受けとりかねない弱さをもっていたが、
「この作
品を読めば誰でも「成功した植民地支配」なるものが形容矛盾にすぎないこと、コトバの
遊戯にすぎないことに気づくであろう。かつて私は台湾人から「蒋介石よりは日本統治時
代のほうがよかった」というのを聞いて、日本の統治はそこるで台湾人を変えてしまった
のかと驚いたものだが、この作品で「皇民ボーイ」
「皇民文士」を知るに及んで、ようや
く彼の発言の背景を理解できたように思う。
「二〇年も前から皇民化につとめ、和服と味
噌汁の生活をつづけ、……自分が任官できない理由が皇民化のふそくにあると思います
ますそれに精を出し、台湾人に対しては思い切って尊大であり、日本人に対しては思い切
って卑屈」である「哀れな皇民派」の悲劇は決して「皇民派」だけの悲劇ではない。日中
戦争が拡大するなかで台湾人は「帝国二等臣民」として同胞の殺戮にかり立てられてい
き、彼らは同胞からさえ敵視・疎外されることになる。
日本はいよいよ破局へ向かって下り坂をごろげ落ち始めるが、ここで作者は日本人「佐
藤」を登場させ、時局批判を行わせ、
「植民地捧取の合理化、その精神的武装の本拠」と
ての台湾大学を痛烈に批判させる。当時このような「佐藤」がどれだけいたか、なにほど
のことをなしえたのか、よく知らないが、日本人の読者としては、かろうじてここに救い
を見出すことができる。植民地支配は基本的には抑圧者日本人に対する被抑圧者台湾人
という図式に尽きるが、作家の目は、
「日本人の手先となって台湾人を苛斂誅求」する台
湾人とともに、日本人のなかの「佐藤」をも鋭くとらえている。
『アジアの孤児』の主人
公胡太明は、結局発狂して「それ見給え、どれもこれも虎の面をしている。人の肉を夷の
ようにあれ狂っている」と叫び、やがて失踪するが、
「どれもこれも人の肉を食う虎の面」
という妄想は、魯迅の『狂人日記』と酷似している。
歴史を見る目の確かさ
作中人物は失失踪したが、作家呉濁流氏はこの狂気の時代を生き抜き、光復後、次々に作
品を発表する。まず「陳大人」
。典型的な漢奸であった一巡査補の半生を軽快なタッチで
描いたもの。領台後間もなく「花はせんだん、人は警察官」といわれた時代に、テニオハ
抜きの迷通訳として名を揚げ、抗日ゲリラを逮捕して手柄をたて、
「陳大人」と呼ばれ民
衆から恐れられるようになるが、ついに横領罪で検挙され、釈放後は乞食となる男の物
語。次にエッセイ『夜明け前の台湾』。これは二・二八事件の二ヵ月後に書かれたものだ
が、実に醒めた目で情況を見つめ、台湾青年の歩むべき道を論じている。
「外省人」が「本
省人」を「奴化」と非難すれば、後者は前者を「豚」と反撃するような状況のなかで、同
じ中国人としての協力を説く主張は、実に説得的である。
「奴化」をもたらした日本統治
の功罪を論ずるくだりにも、歴史を見る確かな目が光っている。第三、
『ポツダム科長』。
これは日本軍占領下の中国大陸で督察処特工科長をつとめ、日本降伏後台湾へのがれて
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きた漢奸范漢智と、夢多き台湾娘玉蘭との恋物語である。恋のきっかけは范が玉蘭にとっ
て、あこがれの「祖国」から来た男であったことによるが、玉蘭の甘い夢はやがて裏切ら
れる。この漢奸范漢智に代表されるものこそ腐敗と汚職の国民党政権であり、かつて「立
派な日本人」となるため、和服の着方まで習った皇民ガール玉蘭が台湾民衆の代表である
ことは容易に読みとれる。作者は玉蘭を通して、台湾民衆の祖国への期待が国民党政権に
よって裏切られる過程を描く。第四、
『泥濘』
。主人公沈天来はもともと貧農であったが、
人並みはずれた勤労と節約によって中農・富農へと上昇していく。やがて高利貸しをテコ
として没落村長から土地をまきあげるや、こんどは小作人を骨までしゃぶり沈頭家(頭家
とは地主のこと)となり、ついには当時の台湾における最高の名誉である紳章を授与され
るに至る。彼は同胞の小作人からはこのうえなく無慈悲に搾取したが、日本人の「派出所
大人」 (警察官)に代表される植民地支配者に対しては「賛成先生」とあだ名されるほ
ど、徹底的に協力、迎合した。沈頭家は妾を囲い、さらに貧農の娘に手を出そうとして失
敗、水争いで殺された小作人の亡霊に悩まされ狂死する。作者は日本統治下に生きる台湾
農民の姿、特に地主・小作関係を、沈天来の一生を通して生き生きと描いている。第五、
『無花果』
。 これは作者の自伝的長編であり、七○年の「平凡な人生」を淡々と語ったも
の。祖父から抗日の物語を聞きつつ成長し、日本人と台湾人の対立する教育界で悩み、
『アジアの孤児』書きつつ光復を迎え、二・二八事件で失望するまでの歩みを身近かな素
材に引きつけて展開していく。
『無花果』の「私」の歩みは巧まずして領台から没落へ至
るまでの日本統治史と重なっており、時代の証言としてたいへん興味深い物語となって
いる。作者の歴史を見る目の確かさを随所に発見し、大地に根をおろした中国人の強さに
驚き、その人柄に親しみを覚えるのは私ばかりではあるまい。
台湾問題をタブー視する事大主義、権威主義がはびこるかと思えば、他方で民衆不在の台
湾論が横行するといった状況のもとで、私は『無花果』の次の一段を一人でも多くの日本
人にかみしめてほしい、と切に思う。「台湾は自分たちの祖先が開拓したものであって、
われら子孫はそれを守る義務がある。われわれの祖先が幾多の艱難辛苦と努力によって
建設してきた村には、一寸の土地に一寸の汗と血と涙が流れている/いま義民廟に祭っ
てある魂はみな村のために戦った英雄である/この義民爺の精神が知らず知らずのうち
に台湾人の血のなかに流れている/それで日本軍が来たというだけで抗日感情が湧き、
抗日思想が生まれ、抗日行動となって、 みずから進んで抗日戦線にはせ参じて戦ったの
である/台湾人はこのような熾烈な郷土愛もまたもっている。私は明治三十三年、すなわ
ち日本に領有されてから五年目に生まれたので、もっぱら日本教育を受けて大きくなっ
たのである。祖国の文化に接していないから、祖国の観念があるはずがないようではある
が、ことはそう簡単に理屈だけでは解釈できない。この目に見えざる祖国愛は、もちろん
観念であるが、しかしなかなか微妙なもので、つねに私の心を引力のごとくひいていた。
ちょうど親に別れた孤児のように知りもしない親を慕う気持で、ただ恋しい、懐かしい気
持ちで慕い、とにかく親の膝下におりさえすれば温かく暮らせるものと一方的に心のな
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かできめていた。……この感情は知るものぞ知るであって、おそらく異民族に統治され
た、植民地の人民でなければ分からないのだろう。こういう気持はかつて清朝治下の民で
あったものなら当然であるが、それが私のように日本領台後に生まれたものに、 この気
持があるのはじつにふしぎである/これがすなわち民族意識だろう」。帰国後、私は呉濁
流さんにお礼の手紙を書き、写真を二葉同封した。数日後返信があり、一葉を雑誌に載せ
る予定だと書いてあった。私はその雑誌の届くのを楽しみに待っている。
14 二つの顔の大学教授-----『二つの顔の日本人』を読んで
『道』1973 年 11 月号 74~83 頁
「中国ブーム」の次は「東南アジアブーム」らしく、このところ東南アジア関係の論文、
書物はかなりの数にのぼる。鳥羽欽一郎『二つの顔の日本人----東南アジアの中で』
(中公
新書)もその一つである。本書のもとになったのは、著者が東洋経済新報社の 『書窓』
および『週刊東洋経済』のために書いたエッセイだという。そしてこの新書は 「エッセ
イストクラブ賞」を受けた。日本と東南アジアの関係について深い関心をもつ者の一人と
して、私は本書をていねいに読み、いくつか気がかりな点に気づいたので、書きとめてお
くことにした。
(1)マレーシァンとは何か
著者はいう。
「たとえばマレーシアに行くまで、ぼくはマレーシアンという言葉を知らな
かった。……マレーシアンというのは、マレー国籍をもつ人々のことだ」(26 頁)。
マレー国籍とはいったいどこの国籍であろうか。これはマレーシア国籍と書くべきとこ
ろを誤記(あるいは誤植)したものであろう。これは不注意によるものであるから、改めれ
ばすむことだが、この引用に続く次の一節はかなり大きな問題を含んでいるといってい
い。
「
『君たちチャイニーズはどう思う』と僕は学生に聞く〔著者は早稲田大学教授であり、
当時はマラャ大学客員教授であった----矢吹注〕。 ……『先生、私はマレーシアンです。
人種的には中国人だけれど』…マレーシアの場合、中国系の人々の大部分はもう三世代目
に入っている。 かれらの大部分は、 中国語で会話はできるが、漢字は読めも書けもしな
くなっている。大学生でも自分の名さえ書けない者が多い。最近の東南アジア諸国では、
華僑問題は重要な政治問題でもあるので、中国人の流入を防ぐ一方、 国内の中国系の
人々の同化をはかっている。 ……こうした中国系の人々は、 中国人でもなければ台湾人
でもない』
(二七頁)
。
著者がこの学生をチャイニーズと呼んだことに対して、 学生は人種的には中国系だけれ
ども、すでにマレーシア国籍を取得し、マレーシア公民の一人として生活しているのです
よと著者に抗議しているわけである。著者はこの抗議を受けとめているかに見えて、 実
はほとんど無視している。
たとえば、著者は「華僑」ということばを使っているが、
「僑」とはもともと「仮住まい」
の意であり、
(著者がこの意味を知っていることは 165 頁の記述に明らか)彼らがマレー
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22
シアンであるというとき、
「華僑」としてではなく、 マレーシア公民として生きる決意を
語っているのであるから、 マレーシアンと「華僑」とは矛盾する概念なのである。
したがって、 この学生の主張を認めるとすれば、 われわれは「華僑」ではなく、 マレ
ーシア華人あるいは華人系マレーシアンと呼ぶのが適当である。著者とこの学生の会話
が英語で行なわれたとすれば、彼(あるいは彼女)は Malaysian (People) Chinese Origin
と答えたのであろう。この英語を中国系マレーシア人あるいはマレーシア中国人と訳す
のは必ずしも適当ではない。 「華僑」から華人への道を歩みつつある彼らは、中国の中
国人 (香港・台湾省の中国人と含む)と自らを区別するために、中国人ではなく華人と自
己規定し、 その言葉を中国語ではなく華語と呼んでいるからである。
これは単なる呼称の問題ではない。 以上に書いたことがややこしく思われるとすれば、
それは日本人が人種・民族・国籍ともに日本という単純な社会に住んでいると誤解してい
るからであろう。実は日本にもアイヌ系日本人、朝鮮系日本人、中国系日本人(日本に帰
化した朝鮮人、中国人のこと。この場合の朝鮮・中国は人種あるいは民族的にはの意であ
り、 国籍は日本である)が生活しているのであるから、この事実を直視さえすれば東南
アジアの華人系住民の事情を理解するのはそうむずかしいことではないであろう。かつ
て中国を「シナ」
「中共」 と呼び、 中国人を「シナ人」と呼ぶことが広く行なわれたが、
今はほぼ改められた。
「華僑」から華人へ 「中国人」から華人へという動きは一方では中
華人民共和国の成立、他方では東南アジアの旧植民地国の独立という歴史的変化に対応
したものであり、東南アジアの民衆との友好を願う者は、偏見や誤解から解放された眼で
相手の存在を確認することから出発しなければならない、 と私は思う。
華人系住民は東南アジアの民衆の一部分であるにはちがいないが、 著者もしばしばふれ
ているように、彼らは日本系合弁企業のパートナーとして、 あるいはそこに働く労働者
として、 日本人とは深いかかわりをもっているのであり、 彼らとどうつきあうかという
問題は決して小さな問題ではない。本書が「東南アジアにたいする深い愛情とヒューマニ
ズムに溢れた」
(帯封のコマーシャル)書とされているだけにあえて書きとめておきたい
のである。
ところで、著者はマレーシア華人について、かれらの大部分は、中国語〔華語と書くべし
----矢吹注〕で会話はできるが、漢字は読めも書けもしなくなっている」と前の引用のな
かで記しているが、この観察は皮相である。たしかに漢字を読み書きできない華人も存在
するが、これは初等教育を受ける機会さえなかった文盲でなければ、幼稚園から英語だけ
による教育を受けた人々であり、現実にはマレーシアは東南アジアの中では、 華語によ
る教育が最も発展している国・地城の一つである。 さらに英語による教育を行なってい
る学校でも第二言語として華語の教育を含めている場合が少なくない。 マレーシア華人
の大部分が漢字を読み書きできないとしたら、マレー語紙 Utusan Melayu、英字紙 Strait
Times と並んで大きな発行部数をもつ『南洋商報』
『星洲日報』などの華字紙はいったい
誰が読むのであろうか。著者が『南洋商報』という新聞の存在を別の個所(四頁)で指摘
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23
しているだけに奇妙に思われる。また華語がもし話しことばとしてのみ機能しているの
だとしたら、いわゆる言語ナショナリズムの問題(10、193 頁)ははるかに容易に解決でき
るはずである。
中国の国連復帰をめぐって
著者曰く、
「現地の中国系のビジネスマンたちに質問されて困ったのは、 中国の国連加盟
以後のあわただしい台湾からの日本企業のひきあげの動きであった。 〃こんなことでは
信用もできない"というのがその意見であり、 政治と経済とは現実にはなかなか切り離
せないとは思うが、目先の変化にすぐ反応する日本企業のろうばいぶりは、 ぼくの日に
も少々あさましくさえ見えた。東南アジアの日本系企業の多くは中国系資本とのジョイ
ント・ベンチャーであるため、この事件によって、日本企業の信用もいたく傷つけられた
といっていい。……それほどあわてるくらいであったら、むしろはじめから進出すべきで
はなかった、とぼくは思う。一度根を下した以上は、 現地の人々と労働をともにし生死
をいっしょにするくらいの気概が必要なのではなかろうか」
(126 頁)。
まず小さなことから始めよう。二つの「中国系」という記述は華人あるいは華人系と改め
たほうがいい。この場合は特に中国との関係が問題になるだけに、明確に区別しておく必
要があるだろう。次に中国の国連「加盟」という表現だが、周知のように中国の国連加盟
は一九四六年であり、一九七一年の変化は中国の代表権が「中華民国」から中華人民共和
国へ移ったにすぎない。したがって国連「加盟」というのは適当ではない。
さて中国の国連復帰以後、日本企業が台湾からひきあげたことによって日本企業の信用
が「いたく傷つけられた」と著者はみているのであるが、はたしてそうであろうか。
華人系の「ビジネスマン」のなかに、①中国の国連復帰を望まない人々、 ②日本企業の
台湾からの引揚げを望まない人々が存在し、存在したことは事実であろう。 一九四九年
の中国革命のとき、大資本の国有化を嫌って台湾・香港,東南アジアに逃れた中国人ブル
ジョアジーは少なくないし、中国での反革命・国民政府による大陸反攻を期待しつづけて
きた中国人ブルジョアジーは少なくない。しかし、これらの人々は華人社会全体からみれ
ば、ごく一握りにすぎないのではないか。 マレーシアの新興華人ブルジョァジーのなか
にも同様の見解をもつ人々がいたであろうこともみやすい事実である。
しかし、 見落としてはならないのは次のことだ。 つまり、 マレーシア政府はシンガポ
ール政府とともに、 そして日木政府とは違って、アルバニア案(中国招請案)を支持し
たのである。マレーシア政府がいち早く東南アジアの中立化構想を提起し、 中国との関
係を改善するために必要な措置をとりはじめた理由としては、 従来のようなシンガポー
ル経由の貿易を直接貿易とすることによって貿易を発展させようとする経済的理由のほ
かに、 次の政治的要因をあげることができよう。それは、 アメリカがべトナムから手を
引き、中国封じ込め政策を改める以上、基本的にはアメリカの東南アジア政策を支えとし
て行なってきた反共第一の政策を主動的に改めることなしには現体制を維持しにくいこ
とである。一九六九年の五・一三事件をひきあいに出すまで もなく、マレーシアのマレ
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ー人・華人間の矛盾は階級的矛盾がその背後にあるため、 解決は容易ならさるものがあ
るが.中国との関係を改善することが、 両民族間の矛盾を緩和させるうえで有効である、
と政府は判断したものと思われる。 これはまたマラヤ共産党による武装闘争への対策と
しても有効である。マラャの武装闘争の全容は必ずしも明らかではあいが、 これが政府
にとって頭痛のタネであることは、たとえば一九七一年の一○月に発表された『西マレー
シアにおける武装共産主義の復活』からもその一端をうかがうことができる。 この武装
闘争は一九四八年から六○年に至る十二年間の英軍による鎮圧作戦にもかかわらず、 根
絶はできず、消長はあれ今日に至ったものである。この武装闘争に対して中国はモラル・
サポートを与えてきた。そこでこのモラル・サポートをなくすことがマレーシア政府のも
う一つの思惑であろう。
中国の国連復帰前後のマレーシア政府の状況対応能力には目を見はらせるものがあった
が、これはマレーシア華人社会の主流が、中国の国連復帰を歓迎したことと密接な関係が
あるとみていい。彼らの祖国はいうまでもなくマレーシアであるが、中国は父や祖父の生
まれ育った国であり、アヘン戦争以後、中国封建社会が解体する過程で、彼らは土地を失
い、母国を離れることを余儀なくされ、筆舌に尽しがたい辛酸をなめたのち、ようやくマ
レ-シア公民となったのである。かって亡国の民であった華人、現在もさまざまな抑圧政
第のもとにある華人が、中国の国際社会復帰を誇らしく思う感情は、 帝国主義国の人存
には十分理解することはむずかしいのではないだろうか。
この間の事情についてここで深く立ち入る余裕はないが、状況を以上のようにスケッチ
しただけでも著者の接した 「中国系のビジネスマンたち」とは歴史の流れに背を向ける
人々であり、 これらの人々から「信用を傷つけた」とされる日本の行為こそ華人社会の
主流からは歓迎されたと断言することができる。事実日中復交以後マレーシア華字紙の
日本軍国主義批判は一時かげをひそめた。日中共同声明以後の日本の東南アジア政策を
注意深く見守ろうとしているからであろう。
著者は東南アジア進出が「無秩序・無計画」であり「長期的なヴィジョン」の欠如を批判
する例として、 台湾からの日本企業の引き揚げを論じているのであるが、これが不用意
な例証でないとすれば、事柄は重大である。
「現地の人々と労働をともにするのはよいと
しても「生死をいっしょにする」となると無理心中の押しつけになりかねない。私が最も
恐れているのは、日本がこういう形で東南アジアに干渉することである。
(3)いわゆる「共産ゲリラ」について
著者曰く、
「マレーシアでも北部国境地帯には、共産ゲリラがいるといわれる。 ……記事
によれば、中国系の指導者が山村の人々を組織して武装しているのだという。 ぼくはは
じめ、中央の圧政に反対する人々が、とくに山村地帯で結集し、貧民大衆のためのマレー
シアをつくろうとしているのかと思った。しかし、マレーシアにかぎり、これは間違いだ
った。マレーの山岳地帯には原住民が住んでいる。……こうした旧来の土着の少数民族の
人種的な反感が組織されるのだ。しかし、こうした人々の数は、西マレーシア(マレー半
書評一束
25
島部分)では二~三万人しかいない」(二八頁)。
著者の見解は、マラヤ共産党=原住少数民族説らしい。私はマラヤ共産党の武装闘争に若
干興味をもち、 いくつかの資料をめくったことがあるが、著者の新説(珍説)は初めて
知った。マレー半島の山岳部にはなるほど、サカイ、ジャクンなどの原住民族が住んでい
る。彼らからみれば、インドネシア群島から移住したマレー人はたしかに新参者にちがい
ない。しかしマラヤ共産党が、これらの原住少数民族のマレー人(あるいは華人やインド
人)に対する「人種的な反感」を組織しているという記述は事実に合っているであろう
か。マラヤの共産主義運動をこれほど矮小化した例を私は寡聞にして知らない。著者の新
説はマラヤ共産党はもちろん、原住民族からも反撃を受けるにちがいない。先にふれた
「西マレーシアにおける武装共産主義の復活」という名の「ゲリラ白書」が発表されたこ
ろ|(これは各紙に転載された。 もちろん Strait Times にも、華字紙にも)著者はクア
ラルンプールにおられたはずである。
この白書がどこまで真実を語っているかは私は知らないが、 少なくともマレーシア政府
は、マラヤ共産党の武装闘争を著者のようには見ていない。早い話がもし武装闘争の内容
が著者のいうようなものであるとしたら、 わざわざ白書を出して 「陰険な戦術をあばく
ことによって、 それに対する国民の認識を深め、政府と協力してより効果的に対処する」
(白書の結びから引用)必要などなかったであろう。現在の武装闘争の規摸はたとい小さ
なものにせよ、過去四半世紀にわたって存在しつづけてきたのであり、失政があれば急激
にその支持者を増大する可能性をもつ政党だからこそ政府はその対策に苦慮しているの
ではないか。
著者は引用の次の頁でクァラルンプール・レークガーデンの戦没者慰霊塔にふれ、 「独
立後十年にわたる、共産ゲリラとの激しい闘い」について語っている (29 頁)。 この慰
霊塔の前の銅像(著者の表現を借りれば、
「銃をもった数人の兵土が、敵兵の死体に足を
かけ、前方をきっとにらんでいる大きな像」)の「敵兵」を日本兵と誤解して怒った日本
人の不明を著者はたしなめているのだが、この日本人の「早とちり」もさることながら、
該博な知識にもかかわらず矛盾した文章を書いている著者を高く評価するわけにはいか
ない。 現在の「共産ゲリラ」こそ著者のいうかっての「激しい闘い」とストレー卜に つ
ながるものである以上、
「原住少数民族説」の誤りは明らかであるといわなければならな
い。
(4)現地人経営スタッフの登用について
日本系企業に対する批判としてよく指摘されるのは、日系企業が現地人を経営の責任あ
る地位に登用せず、そのための教育訓練を行わないという点である。この問題をめぐって
著者は次のようにいう。 「ぼくは、この点が、現地の、たとえば大学出といったエリー
ト層の不満の、 最も大きな原因だと思う。……日本人が、なんでも自分でやらねば気が
すまない人種だということは判る。 また、現地人がまだそれだけの能力がないのも事実
かもしれない。しかし根本には 〃合弁企業は現地の企業だ"という観念が日本人にはな
書評一束
26
いのではないかと思う。……日本人はまた、権限委譲という考え方に弱い。他人に任せる
ことができない、心の狭さがある」(142 ページ)
。
またいう。
「日本人はどうも、人任せできない性格のようだ。欧米人が現地人をつかって
の間接管理へ慣れているのにたいし、日本人は直接に掌握しないと満足しない。 ……可
能なかぎり速かに現地人を訓練して、リプレースを図ってゆく必要があろう」(121 頁)。
まず 「現地人の能力」についていえは、 欧米企業は現にその能力で十分間に合っている
わけであるから、問題は能力の有無ではなく、彼らの能力が日本的経営の現実とうまく合
致しない点にあることがわかる。彼らは現地の大学を卒業しており、 場合によっては欧
米(あるいは日本)の大学も出ている。 日本の大学がゲタをはかせて卒業させたりする
のと違って欧米の大学を卒業した東南アジアの留学生は、通常欧米人なみの英語力、その
他の欧米的教養を身につけている。したがって彼らは欧米系の企業にスムーズに適応で
き、能力を発揮できる。たとえばマラヤ大学にしても、もともとイギリスがマラヤの植民
地支配に必要な中級官僚を養成するために設けた大学であり、現在もなおブリティッシ
ュ・システムによって運営されているため、英連邦各国の高等教育機関に直接つながるこ
とはもちろん、この教育、訓練過程を経て、英系企業あるいはマレーシア政府官僚機構に
矛盾なく接続するようになっている。
こうした教育を受けてきた学生を日本系企業が受け入れにくいのは、ある意味では当然
であり、この矛盾を解決する道は次の三つの可能性しかない。 日本的経営をブリティッ
シュ・システムに改めるか、逆に日本的経営にふさわしいよう学生を教育するか、あるい
は、第一と第二の折衷型である。
東南アジアの日系企業の経営のやり方は、日本国内のそれをそのまま持ち込んだもので
あり、派遣社員はたえず本社を意識して働いている以上、〃出先〃 だけをブリティッシ
ュ・システムに改めることはできない。たとえば、最も先進的な日系企業では役員会を英
語で行なっているが、その英語による報告を日本の本社は認めず、日本語訳を要求する。
電話連絡となると、日本語以外には考えられない。日本経済の国際化が進展するなかで、
英語の流通度が高まるとしても、経営全体のブリティッシュ化など考えられないし、その
必要もないから第一の道の可能性はゼロに等しい。第二についていえば、現地の大学教育
に日本が干渉することなぞできない相談であるから、日本としてなしうることは日本留
学生の教育を改めることであろう。欧米系企業が自国の留学生に与えているような、卒業
後は十分仕事を委せられるような留学生教育(その後の企業内教育を含めて)を行なうこ
とである。
実はこの留学生教育もかなり困難な事情をかかえている。彼らは小学なり中学から英語
教育を受けているのに対し、日本語となるとせいぜい高卒後あるいは大学入学後である
から、 日本人なみの日本語力を要求するのはムリであるし、他方、留学生教育をすべて
英語によって行なうための条件は、日本の大学にはない。一方で、日本語教育の普及に限
界があり、他方、日本人の英語使用にも限界がある-----この辺に「後発先進国」日本の矛
書評一束
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盾が集中的にあらわれているといえよう。
このように見てくると、現地人スタッフの登用問題は深いひろがりをもつむずかしい問
題であって、著者のように「日本人の性格」に帰着させるわけにはいかないことがわか
る。
「他人に任せることができない、 心の狭さ」以前に、たとい希望したとしても 「他
人に任せることができない」日本的経営のあり方、幹部登用政策の欠如を指摘する必要が
あろう。筆者は問題の根源が「日本企業全体の在り方」
「これを動かしている日本政府・
企業の本社」にあり、
「つまるところは、そうしたものの総体である日本社会のシステム
にある」(127 頁) と正しく指摘していながら、具体的な問題を論ずる賜合には、いつも
「日本人の性格」で説明してみたり、「ドギツイ」「ケバケバしい」広告の自粛を求める
(111 頁)といったように問題を矮小化してしまうことに対して不満を感じるのは私だけで
はあるまい。
(5)労働者の教育訓練について
著者曰く、
「労働者の質と訓練の上で問題になっているのは、企業規模が大きくなった場
合、フォァマン、アシスタントといった現場での下層管理者の育成に時間がかかり、どの
工場でも苦情をいう。……日本ならこれを見て憶えるのだが、現地ではただ見ているだけ
で積極的に憶えないし、憶えたとしても応用力がないので、ちょっと違った問題になる
と、もうどうしていいか判らなくなる。……もっと時間をかけ、それぞれの社会と労働者
の立場を考えて訓練してゆかねばならないのだが、えてして日本人はあまりにも同質社
会に育ったせいか、人種問題、宗教問題など多くの問題をかかえる現地側の条件をあまり
考慮せず、きわめて自己本位に解決をはかろうとする」(136 頁)。
日本企業の教育訓練はたしかに著者のいうように「見て憶える」やり方であり、通常 on
the job training(OJT)と呼ばれるものだ。つまり教育訓練のためにマニュァルを作成した
り、プログラム訓練を組織的に行なってはいない。これは欧米系のそれと比べて著しい特
色である。
労務管理の二つの方式は、それぞれの歴史的社会的背景のもとで形成されたものであっ
て、それ自体の功罪についてはすでに多くの研究があるが、ここで問題なのは、それらの
システムを外国に「移植」する場合の摩擦である。欧米系の企業は自らのシステムをその
まま現地に持込むために、さまざまの技術を開発してきた。ここではっきりしているのは
彼らが自らのシステムの正しさについては疑いをもたず、もっぱらそれをいかに導入す
るかに関心を集中し、そのための技術開発に努力してきたことである。
これに対し日本の場合は、一方では日本的労務管理の適用可能性について不安を感じな
がらも、他方これに代わる方式を発見しえず、試行錯誤的に、あるいは腰だめ的に、 押
し付けと譲歩の間を行きつ戻りつしているように思われる。
比較的単純な労働の場合には、日本的「手とり足とり式」訓練のほうが、威力を発揮する
ことも多いようだが、
「応用力がないので、ちょっと違った問題となると、もうどうして
いいか判らなくなる」状況にある。
書評一束
28
ここで著者は「自己本位の解決」をいましめ、 「もっと時間をかけて」訓練していくよ
う説いているわけであるが、問題は訓練の「方法」であり、日本でなら「以心伝心」 で
伝わるべき内容を、いかに明確に論理的に説明するかであろう。
「みて憶える」という一見単純なことを異なる文化をもつ外国人にコトバで説明するこ
とは実はとてつもなくむずかしいことなのであるが、この手続きはどうしても必要であ
る。
これによって初めて日本人は自己の長所・欠点を論理的に自覚しうるし、 外国人もまた
日本なり日本人をよりよく理解できるようになるはずだ。
私はある日系企業のマネージャーの次のような話を興味深く聞いた。彼はヨット乗りの
ベテランなのだが、ヨット繰従法を脱明したイギリスの本にはロープの結び方がすべて
文章で書いてあって図解や写真は全くない。日本の本なら、だいたい図解を基本として簡
単な説明がついている。器用な日本人は簡単な図をみただけで、さっと結んでしまうの
で、ロ-プの持ち方から始まるくだくだしい説明など全く無用の長物。ところが、この文
章による長々しい説明をていねいに読むと、どんな不器用な人でも間違いなく結べるし、
その後も、その手順に従いさえすれば絶対に忘れることはない、という事実に気づいて驚
いたという。
「みて憶える」文化と対照的な文化がそこにはあるようだ。このような一例をあげただけ
でも、日系企業が教育訓練を行なわないといわれる背景には、しようとしても容易にはで
きない事情のあることがわかる。
にもかかわらず、日本人が外国人とつきあうことをやめるわけにはいかないとすれば、ロ
ープの結び方に関する日本的方法をだれにもわかるように説明する努力を続けるほかな
いであろう。こうした試みを続ける過程でのみ、より普遍的な方法に近づきうるように思
われる。正鵠を射ない議論によっては問題の処在さえわからず、まして正しく解決するこ
とは できないであろう。
以上、5 点について私の感想を記した。私にとって納得できない個所だけをあげたわけで
あるが、本書は「エッセイストクラブ賞」を受けただけあって実に読みやすい本であり、
全体としてみればおもしろいこともたくさん書いてある。ただ、あれやこれやのエピソー
ドを未整理のまま並べているために、問題点がかえってわからなくなる結果となってい
る。〃白い顔〃 と 〃黄色い顔〃 という二つの顔として日本人をとらえる着想はおもし
ろいが、東南アジアとの関係では、基本的には〃白い顔〃 として接しているのであって、
さまざまの摩擦はそこから生じているとみることができる。
東南アジアの日本人が 〃二つの顔〃をそう器用に使いわけたいるわけではなく、それを
うまくやってのけているのは、むしろ著者その人であろう。つまり、一方では東南アジア
の声を使って日本・日本人を「告発」し、他方〃白い顔〃にもどって日本・日本人を弁護
するというように。俗なことばでいえば、要するにマッチ・ポンプ論といってもいい。い
いかえれば、良識的日本人のポーズで日本人を批判するかにみえて、進歩的な学者を反批
書評一束
29
判し現状を肯定・擁護するのが著者の立場であり、私はそこに「二つの顔の大学教授」を
発見するのである。
15 書評『現代社会主義--その多元的諸相』東大出版会、『社会科学研究』第 30 巻第 4 号
285~292 ページ、東大社会科学研究所、1979 年 2 月
中 国 編、評者矢吹晋
本書には、現代社会主義にかかわる八つの論文(ソ連三篇、東欧二篇、中国二篇、ベト
ナム一篇)が収められている。今回は複数の評者を予定したと開く。私に求められている
のは中国篇であろう。検討の対象を、Ⅵ 近藤邦康「毛沢東――『翻身』と『科学』」、
Ⅶ 古島和雄「毛沢東思想とプロレタリア文化大革命」の二篇に限定したい(以下、前者
を近藤論文、後者を古島論文と略称する)。
本書に対してはすでに佐藤経明氏の書評(『経済学論集』東京大学経済学会第四三巻第
四号、一九七八年一月)がある。佐藤氏は両論文をこう評した。「評者の率直な印象は、
「失望』の一語につきる。――『現代社会主義』の有力な一翼をなす中国についての分析
が、抗日戦時代の毛沢東の思想形成を扱った近藤のエッセー風の小論と廬山会議(一九
五九年)前後の路線闘争を中心にし、これに文化大革命についての若千の問題点の指摘
を加えた、覚え書風の古島論文だけというのでは、『現代社会主義』の書名が泣くであろ
う」、「すでに十年を経た文化大革命についての問題点の指摘が、筆者〔古島氏を指す―
―矢吹〕があげた四点にとどまるようでは、筆者がいだく社会主義のビジョンの根本が
問われることになりはしないであろうか」。
酷評である。この手きびしい批評が妥当か否か、もう一人の評者がこの両論文を読み返
すわけである。結論をあらかじめいってしまえば、まことに遺憾ながら、評者もまた佐藤
氏の酷評に深い同感を禁じえなかったのである。
近藤論文は、毛沢束の死を契機として故人の存在を「一種の磁極のように自分を引っば
っていた」と痛感した筆者が、「自分にとっての毛沢束の重みをたしかめなお」すために
書いた、「ささやかな素描」である(二八五―六頁)。筆者はこれまで中国近代思想史を、
①中国の課題の認識、②人民観、 ③知識人観、の「三本の柱」を立てて考えてきた、 と
いう。この論文では、毛沢東のいわゆる「三つの宝」――統一戦線、武装開争、党建設―
―をそれぞれ三節の副表題とし、これに第四節「知識分子」を加えて全体を結んでいる。
筆者によれば、「三本の柱」と「三つの宝」は、「ほぼ照応する」由であるが(二八七頁)、
いかに照応しているのかは説かれていないため理解しにくい。
近代思想史の研究者が、その研究をふまえて現代思想のなかでもきわだった一つであ
る毛沢東思想にアプローチする意欲は大いに買う。毛沢東思想における「伝統と革新」の
接点に肉薄しうるからである。しかし、ここで論じられたかぎりでいえば、近藤論文は既
存の論点に対する筆者なりのおさらいといった感じであり、残念なことに、特に興味深い
分析や積極的な主張を含んではいないように思われる。以下で各節の論旨をたどってみ
よう。
書評一束
30
第一節「統一戦線」の結びはつぎのごとくである。「毛沢東、中国共産党は、民族――
人民――階級の立体的論理をつかみ、中国近代の反帝反封建闘争を継承しつつ、これを一
層徹底させ、芯に筋金を入れ、前途に展望をきりひらき、全民族抵坑の代表者、指導者と
なっていった」(二九四頁)。
なるほどそのとおりであろう。特に異論があるわけではない。だが疑間は残る。抗日期
の三者の「立体的論理」は、抗日の目的を達した暁にはどうなるのか? 七〇年代初期に
打出されたテーゼ――国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める――
は、筆者の説く「立体的論理」でどこまで説明しうるのか、それとも説明しえないのか?
六十年代以降の中ソ対立、近年の中越紛争など、現代社会主義のイメージを根底からゆる
がすような事態は、この「立体的論理」でどこまで解きうるのか? これらの問いに直接
答えよというのではない。研究の対象はたとい抗日期であれ、こういった課題を視野に含
めて歴史を扱ってほしいのである。そうしないと抗日期の歴史的意味でさえ不明確にな
るのではないだろうか。
第二節「武装闘争」は、根拠地拡大の論理を、故竹内好のいわゆる「純枠毛沢東」説に
依拠しつつ、「主観能動性」とからめて整理したものである。竹内の直観的毛沢東理解は
いまなお新鮮だとはいえ、二十数年前の当時とは比較にならぬほど豊かになった資料状
況のもとでは、いまひとつ肉付けがほしいところである。
第三節「党建設」では、「人民のため」の党、「科学」に裏づけられた実践のための党、
という二つの基準から党をとらえている。筆者は毛沢東の「科学」観を、主として「実践
論」に即して論じている。ここではいわば「科学」の性格づけにとどまっており、「科学」
の内実まで立入ってはいない。毛沢東の「科学」をキーワードとして論ずるからには、た
とえばつぎのような課題に迫る必要がありはしないか。「マルクス・レーニン主義は科学
である」と毛沢東がいうとき、彼の理解する「マルクス・レーニン主義」とはいったい何
か? それを基礎づけるとされている「弁証法的唯物論」の毛沢東的理解の特徴は何か?
社会科学と自然科学の異同を彼はどう考えているのか? 三大革命運動(生産闘争、階級
闘争、科学実験)内部の相互関係はどうなっているのか? そして最後に、科学は上部構
造なりや否や?
要するに、毛沢東のコトバによる毛沢東思想の説明にとどまるのでは
なく、現代世界における毛思想の位相に迫る分析がほしい。
ここで、もう一つのキーワードである「翻身」にふれよう。毛沢東の階級観について筆
者は、「階級が思想を決定するという階級論」を前提としつつ、「思想の方から階級を規
定する傾向」を指摘している(三〇二頁)。前者はいうまでもなくマルクスの古典的定式
の踏襲である。毛沢東において特徴的なのは、後者の強調であろう。端的にいえば、後者
こそが「翻身」――思想改造の契機をなす。抗日戦当時はもとより、解放後は社会主義的
人間への自己変革として、よりいっそうこの問題が重大化したことはいうまでもない。
「成份〔出身階級〕論」「血統論」は文革においてもはげしく議論され、十年後の今日あ
らためて批判されている(たとえば「粛清血統論的影響」『人民日報』一九七八年八月九
書評一束
31
日)。筆者がせっかく「翻身」をキーワードに据えながら、 問題点の指摘にとどまって
いるのは惜しまれる。
第四節「知識分子」では、魯迅の知識人観と毛沢東の「文芸講話」を重ねあわせている。
毛沢東は「武」と「文」の統一、革命という客観的要請と個人の内的要求の統一、読書人
と労働者、農民との結合を求めた、と結んでいる。
近藤論文の骨子に対する評者のいくつかのコメントは、以上のごとくである。疑問の解
明は評者自身の課題でもある。すべてを筆者に求めるわけではないが、それにしてもつぎ
のような実感だけは否めない――なるほどおっしゃるとおりでしょう。そこまではもう
わかっています。知りたいのはその先なのですよ。
<追記>「矛盾論」の一句の読み方について、単者は一頁余の注(三〇六~七頁)を書いて
新島淳良氏の見解にコメントしているので、それをみておく。
原文はこうである。「其主要的方面、 即所謂矛盾起主導作用的方面。事物的性質、主
要是由取得支配地位的矛盾的主要方面所規定的。」(『毛沢東選集』一九六六年改横排本、
二九七頁)
新島訳はつぎのとおり。「その主要な側面とは、 いわゆる矛盾において、主導権をと
っている側のことである。事物の性質は主として矛盾をリードする地位にある、主要な側
面によって規定されているのである」(『原典中国近代思想史』第五冊、 一九七六年、
岩波書店、三七~八頁)。
新島淳良氏がここの「支配地位」を「リードする地位」と訳したことについて(なお、
既訳は「支配的地位」)、近藤氏は「『矛盾論』の読み方としてまちがいではないか」(三
〇六~七頁)と書いている。新島氏いわく、既訳によれば「主要な側面とは、階級社会で
はつねに支配階級のがわ、支純する側、つまり力の強い側を指すと誤解される。……それ
では、弱小な力は支配階級にならねば『主要な側面』になれないことになる。毛沢東の思
想の精髄がそれでは死んでしまう」。この新説に対して近藤氏は、「社会に適用している
場合は、やはり、現実の力関係において相手を圧倒している側、『支配する側』を指」す、
と論じている。
原文に即してみていこう。「取得支配地位的矛盾的主要方面」は、①「取得支配地位的」
を「矛盾」の限定句と解して、「支配的地位を占める矛盾の主要な側面」とも読めるし、
②「取得支配地位的」を「(矛盾的)主要方面」の限定句と解して、「支配的地位を占め
る、(矛盾の)主要な側面」とも読める。 しかし、 この一節は矛盾の主要側面、非主要
側面を論じた個所であるという文脈から判断して、②の読み方が妥当であろう。したがっ
てこの一文は「物事の性質は主として、支配的地位を占める、矛盾の主要側面によって規
定される」となる。ここで問題は、「主要側面」に対するもう一つの説明句たる「支配的
地位」であるが、「支配」とは「対人或人物起引導和控制的作用」(『現代漢語詞典』一
三一~九頁)である。 コトバ自体の意味としては「支配的地位」でも「リードする地位」
でもいいだろう(もっとも、この個所の英訳にひきずられて、わぎわざ英語を使うことも
書評一束
32
あるまいが)。
毛沢東自身はここでいくつかの例をあげて「支配地位」を説明している。①封建社会か
ら資本主義社会へ、資本主義社会から社会主義社会への転換におけるそれぞれの支配階
級と被支配階級、②旧中国から新中国への転換における支配階級と被支配階級、とりわけ
北伐戦争における勝者と敗者、革命根拠地における支配者と被支配者、③革命闘争〔とい
う物事〕における困難な条件(=主要側面)と順調な条件(=非主要側面)、④学問研究
〔という物事〕における、知らざること(=主要側面)と知っていること(=非主要側
面)、などである。
新島氏も近藤氏も五十歩百歩である。①②の事例をもとに、やれ「リードする地位であ
る」、やれ「支配する地位である」と争っているにすぎない。両氏は③④などの事例をど
う解釈するのであるか。①~④などすべての事例を説明しうるものとして「支配地位」と
いう表現を用いていることは明白ではないか。毛沢東の哲学的論理とは元来そういうも
のである。①②のごとき事例の解明には、社会科学の援用が不可欠なのであり、社会科学
が解決すべき課題に対して、哲学的解釈をもって事足れりとする発想がそもそも不可解
である。
新島氏のような解釈からは「主観主素」が生まれやすいし、近藤氏(というよりも通説)
からは機械的唯物論が導かれやすいであろう。「主観能動性」に依拠した能動的実践と科
学の間、理論と実践との間には、目もくらむばかりの深淵が横たわっている。そこに気づ
かない人々は幸せである。
近藤氏が疑間を呈しているので、念のために、原文の第一文をみておく。「その主要な
側面とは、 ここでいう矛盾を主導する側面である」――評者は仮にこう訳してみたい。
「矛盾起主導作用」を「矛盾を主導する」と解するのは、 一見主語と賓語の逆転だが、
論理的意味はずっとはっきりするであろう。矛盾の主要側面とは、要するに、両側面のう
ち、矛盾(=物事)を「主導」する側のことである。では「主導」とは何か。毛沢東は主
要矛盾を特徴づけることばとして「領導作用」を用い、主要側面を特徴づけるものとして
「主導作用」を用いた。両者はどうちがうのか。『現代漢語詞典』によれば、「領導」と
は「率領並引導朝一定方向前進」、「主導」とは「主要的並且引導事物向某方面発展的」
である。前者は「物事を率いて前進させる」であり、後者は「物事を導いて発展させる」
の意である。近藤氏が「今一つ明確につかみきれないところが残る」(三〇七頁)と書い
たので、念のために評者の解釈を付記した。
古島論文はたいへんユニークである。まず第一に文章したがって論理が乱れている。筆
者が何を主張したいのか,よくわからない個所が少なくない。第二に、論文の構成が極端
にアンパランスであり、肝心の主題「プロレタリア文化大革命」が本書でわずか三頁の走
書きに終わっている。評者の読後感は「失望」をはるかに越える。「大傑作」の讃辞を呈
したい。
書評一束
33
第一節「革命と建設の理論の形成」は、毛沢東の「人民民主主義独裁について」の紹介
にはじまり、「十大関係について」「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」の
要約に終る。毛沢東の考える「革命」とは何か、「党と人民大衆」との関係はいかにある
べきか、について彼の所説を整理しているが、常識のくり返しの域を出ていないのではな
いか。少なくとも手ぎわのよい整理とはとうていいえない。 一例をあげよう。「毛沢東
の革命についての認識には、極めて特徴がある」として、第一に「人間の要素」をあげる。
いわく「この観点は、社会主義建設の課題が、より深化した形で提起されればされるほ
ど、 一貫した立場として毛沢東の革命認識の基礎におかれている」(三一七~八頁)。な
るほど、ではつぎの特徴は何かと読み進んでいくと、第二は全く登場しない。いつのまに
か「革命と党と人民の関係」に論点が移り、「この観点は、また一貫して展開される観点
である」(三一八頁)となる。論点はさらに大衆運動に移り、土地改革時の整風運動にな
ったかと思えば、こんどは農業協同化政策の特徴に話が移る、といったぐあいである。
あれもこれも書いてはあるが、筆者が「革命と建設の理論」を結局どうとらえているの
か、通説のくり返しを越える主張はどこにあるのか、さっばり読みとれない。これは評者
の読解能力が欠如しているためか。第一に、と指摘しておきながら、第二以下が行方不明
になる例は別の個所(三二三頁一行以下)にもみられる。
第二節は「調整期の路線闘争とその性格」の分析にあてられている。まず廬山会議にお
ける彭徳懐問題を扱う。小さいことだが、廬山はすべて蘆山となっている(三二六頁注五
の「講和」も見苦しい。むろん「講話」の誤植)。
「大躍進政策における著しい経済パランスの失調現象」については、①投資計画過大説、
②自然災害説、③労働力の誤った配分説、④ソ連援助停止説、 に言及したあと、「さら
に主要な問題を附け加える必要がある」(三二八頁)と新説の展開を暗示する。ところが
「薛暮橋氏の談話を基礎としての立論」とわざわざ注記して(三三五頁)指摘した内容
は、驚くなかれ、企業管理権の下放が各企業に過大な投資計画を許したこと、生産実績の
水増し報告(いわゆる「虚報」問題)といった、研究上では常識に属する事柄であった。
大躍進の挫折については、すでに小島麗逸氏の研究(『中国の経済と技術』勁草書房、
一九七五年、第五章第三節)などがある。評者がひとつ疑問を抱くのは、既存の研究に対
する筆者の態度についてである。古島論文には、全体で十三の文献が典拠としてあげられ
ている。すべて中国のものであって、日本人の研究成果、いわんや欧米人のものは全くあ
げられていない。
言及、引照に堪える研究は皆無という判断なのか。もしそうならば、自信のほどを論旨
で示してほしかった。それとも出所を明らかにした場合、何か不都合があるのだろうか。
臆測してみてもはじまらないが、いずれにせよ不可解な「作風」である。実はこの種の「作
風」の持ち主が現代中国研究者のあいだに少なくないのである。通説のくり返し、つまり
独自の主張の欠如に対して無神経であることの一困はここに求められるかもしれない
(読者はおそらくこの点だけからでもその「論文」の水準を判断して大きな誤りを犯すこ
書評一束
34
とにはなるまい)。
さて筆者はつぎに「公社体制のもとでの農村問題」を諭ずる。社会主義教育運動につい
ての二つの文献(いわゆる「前十条」と「二十三カ条」)が主たる資料とされている。筆
者は資料不足を訴え、「わずかな資料を通じて考察してみることが可能な状況」(三二七
頁)だという。相対的にいえばたしかにそのとおりだが、収集の意思さえあれば、「工作
通訊」(抄)、「連江文書」、「紅衛兵報」、「中央文件」など資料はむしろ多すぎるく
らいである。これらの「非公開」資料について「資料批判」の必要なことはいうまでもな
いが、事は中国当局の公開資料の場合も同じであろう。『人民日報』『紅旗』などが「事
実」をいかに報道し、 論評したかをわれわれは近年再確認させられたわけである(ちな
みに、最近になって中国農村の「売買婚」の再復活が伝えられ、話題を呼んでいるが、
「連
江文書」では克服すべき対象として明記されている)。
調整期における農村の矛盾を、筆者は「矛盾の転化の問題」として説いている。ただ、
矛盾を実体的にとらえ、区別する概念としての「敵味方の矛盾」対「人民内部の矛盾」と、
矛盾の闘争性にかかわる「敵対性、非敵対性」(原文「対抗性、非対抗性」)の概念が混
同しているように見受けられる。
「農村問題」のあとは、「思想戦線における路線問題」であり、「三家村」を扱い、最
後に「調整期の路線聞争」を以下のごとく総括する。
「調整期における……状況の推移は、中国共産党としての原則問題の当否が出われる問
題に拡大していたことを示す」、「その原則問題は、……二つの文献〔十大関係論、人民
内部矛盾論〕によってしめされた……独自路線が、中国共産党の原則とし得るのという問
題であろう」(三三四頁)。
「原則問題」「路線問題」がお好きらしいが、「原則」の内実がはっきりしていない。
調整期の社会的矛盾、それを反映した路線対立の帰結点を「二つの文献を中国共産党の原
則としうるか否か」に求めようとする主張は二重の意味で説得的とはいえない。第一に、
十大関係論と人民内部矛盾論を安易に並列するのは不適当である。 一九五六~五七年の
政治的気流は、R・マクファーカーがその時期だけを対象として一冊の本(『文化大革命
の起源』オクスフォード大出版局刊、 一九七四年)を書いたほどに複雑である。第二に、
文革前夜の路線対立の本質は、毛沢東によれば、社会的矛盾を「階級矛盾」と認識するか
否かであった(『毛澤東思想万歳』丁本所収の「中央工作座談会紀要」によれば、劉少奇
は基本的に人民内部の矛盾と認識し、したがって「階級関争」を強調しない立場に立って
いた)。「階級矛盾」よりも「人民内部の矛盾」を強調した文献をもって、文革期の中国
共産党がたちかえるべき原則だとする主張は、はなはだしい倒錯ではないだろうか。
第三節は「文化大革命の問題点」を扱っている。いわく「毛沢東思想と文化大革命とい
う課題を設定した限り、文化大革命の展開と、その過程であらわれた諸現象に対して、考
察を加えることが自ら課した課題であると考えるわけであるが、率直にいって、複雑な文
化大革命の過程を分析する能力は、差し当ってないと言わざるをえない」、「ただ、今後
書評一束
35
の課題として残すための、問題点の整理をおこなうことによって、課題の一部に答えるに
止めたいと思う」(三三五~六頁)。
分析能力が「差し当ってない」のならば、今後に期待するほかないが、「問題点の整理」
には成功しているであろうか。筆者のあげた第一の問題は、文革の「当面の課題と、原則
問題との関りあいの問題」である。「文化大革命の当面する課題が……実権派の打倒にお
かれたことは、 止むを得ない」、しかし「文化大革命は基本的な課題として……〔前掲
両論文の〕原則問題に立返ることを、 より基本的な課題として提起されていた」(三三六
頁)。五六~五七年の両論文に立返る、 という表現は、 五六年の八全大会路線に立返れ
と主張した一部の論者(たとえば故中西功)の発想に似ている。文革はその十年前に「立
返る」運動ではなく、なによりもまず修正主義ならぬ社会主義の未来をめざした巨大な天
衆運動ではなかったのか。
「調整期における条件の変化が、本来の性格としての敵対的矛盾として露呈した」(三三
三頁)とする理解も奇怪な解釈である。問題のありようは、毛沢東がソ連修正主義の現
実、中国の内なるフルシチョフ主義(劉少奇路線)を見据えて、社会主義社会認識の基軸
を、従来の人民内部矛盾論から階級矛盾、階級闘争論ヘ転換したということではないの
か。人民内部矛盾論を前提として、やれ「正しい処理」だとか、「条件の変化」だとか、
スコラ的論議によける前に、社会主義社会の階級闘争論を展開した八期十中全会テーゼ
の意味を考えるべきであろう。
第二にあげるのは、「文化大革命小組の役割の問題」である。それはたしかにひとつの
問題として考察に値いするであろう。ただ、もってまわったつぎの一文にはゲンナリさせ
られる。「最大の問題は、原則的立場に帰る条件の変化を勝ちとるという、文化大革命の
基本的課題が、文革小組の任務の中で、どう認識され、どう意識されていたかという原則
上の問題が残るのである」(三三七頁)。こう書けば十分ではないのか。「文化大草命の
基本的課題が、文革小組の成員の間で、どう認識されていたのかという問題が残る」と。
だが、これがはたして「最大の問題」、「原則上の問題」といえるかどかうかはまた別の
ことであろう。
第三は「文化大革命の継承の問題」である。「誤った路線が党内に発生しない、徹底し
た批判の活動を継続させ、人民大衆の積極性と創造性に党組織が密接に結びつくことを
除いて、文革の継承はありえない」(三三八頁)。文章が少し変だが、内容には同感する。
「党内の実権派の打倒に継承の中心点をおくことは、文化大革命の継承の問題とは異な
り、経過的段階に革命をおし止めるものである」(同)。どうやら「四人組」批判らしい。
とすれば、この視点からみて、「四人組」批判派の路線について若干のコメントがほしい
ところである。
第四は文革の普遍性の問題である。
「実権派の打倒という課題は……矛盾の転化の問題
と深くかかわっている」、「人民大衆が……信頼を寄せる指導者の存在〔毛沢東を指す〕
とも結びついている」、と二点を指摘し、最後に「党組織自体が変質するという歴史的経
書評一束
36
験こそが、 理念的に深刻な問題として提起されて」いる(同頁)と結んでいる。重要な
のは最後の点であろう。
四カ条の指摘は、それぞれに重要ではあろうが、文革をテーマとした四〇〇字六〇枚の
論文の結びとしてはあまりにも淋しいといわざるをえない。ここまで読み進んできて、評
者はいま大きな疑間を感じている。この論文の筆者は、そもそもこのテーマについて書く
ことに対して意欲を持っておられたのであろうか。
さて、以上は近藤論文、古島論文の内容に即して印象を記したが、両論文を本書全体の
課題に即してみると、評者の不満はさらに大きくなる。現代社会主義の「『多元的』構造
を立体的にとらえること」(ii 頁)がその課題なのであった。 この課題と両論文の距離
は、 佐藤経明氏が嘆いたごとく、「書名を泣かせる」に十分である。中国社会主義論を
構築するうえでの困難については、評者自身重々承知しており、過大な要求をするつもり
はない。だが、内容のチグハグな論文をいっしょにしても「多元的諸相」の解明になりえ
ないという評価だけは強調しておきたい。
もう少し「恰好をつける」やり方は、いくらでも考えられるはずである。たとえばソ連
のスターリン批判に対応させて、中国におけるその衝撃を考察すれば、 人民内部矛盾論
(「人民内部の矛盾」という概念自体がスターリンの粛清に対するアンチ・テーゼであ
る)の意味をもっとはっきりさせ、中国社会主義の転換の軌跡を浮かびあがらせることが
できたであろう。また文化大革命において追求された中国社会主義の理念がソ連型社会
主義のそれとどう異なるのか、そして現実の中国社会主義がソビエト・モデルといかに多
くの共通性をもっているのかなどを分析してこそ四年にわたる「共同研究」に意味がある
というものだろう。評者の希望は、要するに、社会科学研究所の名にふさわしい研究であ
ってほしい、という一言につきる。
16 ルネ・デュモン著/服部紳六訳『脱集団化へ向かう中国』(社会思想社)
『中国研究月報』1986年11月
不徳の致すところであるが、読みたい本の書評を依頼されるケースはきわめて少ない。
この本は「読んでよかった」と豊かな気分に浸りつつ、ワープロのキーを打つ。
著者は1904年生まれのフランスの農業経済学者。1920年代末から30年代初に
かけてフランス領トンキン(ハノイ)で米作担当の青年農業技師であった著者は29年
と30年の休暇を昆明で過ごした。中国との最初の出合いである。32年の1月にも広
州を訪れ、紅軍ゲリラの存在を感知している。革命後は55年の国慶節に招かれて中国
を旅行し、『中国農村における革命』を書いた。64年1-2月、カンボジアに招かれ
た彼は、その帰路に北ベトナムと中国を訪れ、『人口過密の中国 飢える第三世界』を
書いた(65年)。75年に3度中国を訪れ、『中国の文化革命』を書いた。82年
夏、中国から突然招待され、「55年には行けたが、64年と75年には拒否された四
書評一束
37
川省と雲南省」まで行くことができ、「前の3回の調査で行った評価を修正することに
なった」のが、この訳書(原書は84年刊)である。著者は今年82歳、中国について
のおそらくは最後の著書であり、それだけに警世の言に満ちている。たとえば本書はつ
ぎの人々に献げられている。「官僚よりずっと称賛に価する根気よく勇気のある農民と
人民に。昨日の農民大衆だけでなく、今日の人々に献げる。徐文立、王若望、魏京生、
傅月華、劉青、その他の筆禍により囚人とされた人たちへ献ぐ」。この献辞から著者が
明日の中国に何を期待しているかの一端が知られる。
本書は3部からなる。第一部 1949-83年の中国の概観、第二部 脱集団化へ向
けて進む中国の実地調査、第三部 総括 である。第二部では安徽省、四川省、雲南
省、広東省、上海市、陝西省、山東省の6章市の見聞が報告されている。この本の魅力
を知るには14頁からなる序文を読めば十分である。「ソ連の革命を見てがっかりして
いた私たちの多くは、1949年10月1日の北京における共産党の勝利と政権獲得を
祝い合った」「55年、この若い共和国の第6回目の祝典に……参列したが、あれは何
とすばらしい式典だったことか」。これが著者の最初の新中国イメージである。とりわ
け64年と75年の訪中についていう。「当時は私の努力にもかかわらず、あの悪名高
いプロパガンダのために、当面していた諸問題は覆い隠されていた。今では中国の当局
もいろいろの誤りを認めるようになったので情報源は大いに広がっている」「私の前回
の書物は政治の分野では思い切って書けない分野があったが、今回はハッキリと厳しい
留保がつけられるようになった」「だからといって私たちを敵のように考えられては困
る」。
現状についていう。「中国共産党は、権力を手にして以来、はじめてその政策を公然と
批判し、彼らが直面する山積した難問を自認するに至った」「こういう自己批判は以前
に比べればずっと前進はしているものの、自己批判が現体制派の政策にまで及ぶ危険の
一歩手前で停ってしまう」「党の指導的役割をやっつけるなどは問題外である。ポーラ
ンドの出来事はその危険をよく示している」「台湾の1人当たり国民所得が人民中国の
それより7倍から10倍も高いにもかかわらず、”社会主義の優位”をよく示さねばな
らぬと考えられている」。
鄧小平体制の自由化の意味とその限界がよく捉えられていると私は思う。そして私をと
りわけ感心させるのはたとえばつぎのような一節である。「北京で私たちは国際交流協
会のビルに宿泊したが〔これは友誼賓館のことではないか──矢吹〕、そこは市の中心
から遠く、何よりも中国民衆の生活状態を知るのに都合のよい庶民居住区から離れてい
た。地方に出たときも、豪華なゲットーに隔離された。そこはノーメンクラツーラとそ
のお客だけに取っておかれたものなのだ」「中国の映画を見たいと言ったところ、広州
の庶民街にある映画館に連れて行かれる代わりに、私たちの泊まっているゲットーに映
書評一束
38
画が持ちこまれた。4人の招待客と同数の案内者のために400席もある劇場が冷房さ
れた。エネルギーの節約よりもプロパガンダの方が絶対優先というわけだ」。「昆明で
農業研究所へ案内される代わりに、全く興味もない植物研究所へ連れていかれたが、そ
こで私たちに会ってくれたのは植物学者ではなくて全く何も知らぬ行政官だった。プロ
パガンダについての官僚主義の愚劣さ極まれりと、というべきか」。
著者が訪中した82年と比べると現在は少しは改善されたように見えるが、それはさて
おき、こういう率直な記録が日本では少なかった。それがわれわれの中国認識をどれだ
け歪め、日中関係を損なってきたかを私はいま振り返っている。こうした情報操作がめ
ぐりめぐって中国の近代化をいかに妨げてきたかを思えば、現在の政治改革の意味がよ
く理解できるであろう。
さて中国とのつきあい方の話はこの程度にして、肝心のテーマについて。著者の研究は
2つの柱からなる。一つは過剰人口の問題。「人口過密は中国の将来にとって最大の脅
威となる」という見通しが本書の副題である(326頁)。もう1つは脱集団化。「こ
れは政治のドグマ主義とも関連するものなので、そのため多くの難問が生ずる危険があ
る。とはいえ、中国農民の勇ましい双肩にのしかかっている集団化の硬い束縛を一部分
でも取り払おうというこの自由化は称賛に価するものだと思わざるを得ない」。
「中国はあらゆる分野において──人口問題から経済、政治の問題まで──たいへんな
難問にぶつかっているが、私たちは中でもその圧制について批判しようと思っている。
もちろん、私たちの資本主義と称する経済は、第3世界の貧しい人々を荒廃させ、借金
漬けにし、飢えに苦しめ、貧困へと追い込んでいることを忘れてはならないのだが」。
訳について。34、37、40頁「ジャン・セスノオ」は「ジャン・シェノー」の方が
分かり易いのではないか。43頁「黒族」は「黒五類」が普通。62頁「魯山」は「廬
山」の誤り。毛沢東が訪ねたのは確かに山東の人民公社だが、この発言は廬山会議にお
けるもの。82頁「ポテムキン式村落」とは、いかなる村落かがまるで分からない。
「戦艦ポチョムキン的村落」のことではないか。ただし私はフランス語ができないし、
原書も見ていないから、推測にとどまる。92頁「許弟滌」は「許滌新」の誤りか。9
3頁「国家経済委員会の最高責任者である許廬氏」とあるが、当時副主任以上の位に許
という姓の人物はいなかったはず。124頁「合肥はまったく貧弱な首都だ」。中国の
首都は北京であるから、ここは「省都」がよい。233頁「バイカイ(白菜に似ている
野菜)と呼ばれる(Brassica pekinensis ) 野菜」では、なんのことか分からない。ブ
ラシカ・ペキネンシスとは、結球白菜、俗称「大白菜」のことである。「バイカイ」は
バイツァイの読み誤りであろう。中国語を知らない訳者は、この種の誤りを犯しやす
い。273頁「緑肥には古くから用いられているゲンゲ属のアストラガルス」とは何
書評一束
39
か。レンゲ草のことを中国では「紫雲英」「紅花草」という。学名は Astragalus
sinicus というから、おそらくこれであろう。285頁「植林の根付く率」、意味はわ
かるが普通は「活着率」という。319頁「外交担当の次官陳慕華夫人」とあるが、彼
女は未婚のはず。担当は「外交」ではなく「対外経済」であった。
17 書評『周恩来・不倒翁・波瀾の生涯』
『朝日ジャーナル』87年4月3日号
「記者としての私の生涯のなかで、これと同じ感じを持ったことが何回かあった。ケネデ
ィやネルーのような力強い指導者に会ったときである。だが、密度の高さが違っていた。
周に会った人は、皆このような印象を受けている。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼
儀正しさ、謙虚さを体現していた」。
カトマンズのラナ宮殿で著者が当時六二歳の周恩来を単独インタビューしたのは、一九
六〇年のこと、その際の強い印象に魅せられて、著者はこの周恩来伝を書いた。
周恩来の幼児体験はこう分析される。
「周が幼少期の早い時期に自分だけの父親をもつこ
とにあこがれたことは想像に難くない」「過度の几帳面さと節約癖、感じやすさ、仕事に
対する信じ難いほどの献身──の手がかりもこのあたりに起因するのかもしれない」。毛
沢東との関係について。「一九三五年の遵義において、周は毛の上司で批判者という立場
から、彼の召使いで支持者という立場へ劇的な転換をおこなった。……この注目すべき関
係は、遵義以前にすでにその片鱗をみせている」「長征後の毛に対する周の忠誠は説明を
要する。……毛と起居を共にすることを余儀なくさた周は、毛の内在的な権威、本物のカ
リスマ性に感銘を受けた」。
周恩来の役割について。「周が抜きん出ていた二つの役割、すなわち政策決定以前のアド
バイザーの役割と、政策決定後の実施者としての役割は、どちらも『召使いの機能』であ
る。そしてこれは周の世話役的な側面に結びつけて考えることができる」。
結論としての周恩来評価。「もし周が、その約束に反して、生涯のうちに中国を……近代
社会にできなかったというならば、それは周だけの罪ではない。むしろ問題の巨大さ、む
ずかしさによるところが大きい」「毛……の声望は低下しているので、故人となった周に
不可侵の『レーニンの役割』を付与する動きが出てくるかもしれない」。
著者が周恩来にいかに惚れ込んでいるかが知られよう。著者は一九二九年イギリス生ま
れのジャーナリストであり、周恩来よりも三一歳若い。インタビュー当時は香港の『ファ
ー・イースタン・エコノミック・レビュー』の記者であった。その後ロンドンに戻り、『チ
ャイナ・クォータリー』の編集者を務め、『毛沢東──人民の皇帝』や『長征』を書いて
いる。
周恩来伝として定評のあるのは、許芥昱(邦訳『周恩来──中国の蔭の傑物』刀江書店)
と李天民(『周恩来』実業の世界社)であるが、原書はそれぞれ六八年、七〇年に出版さ
れており、晩年の周恩来を含んでいない。本書はこの欠落を埋め、「周恩来伝の決定版」
を意図して書かれた、とは訳者の説明である。著者は徹底的に文献収集に努めたばかりで
書評一束
40
なく、故人の印象を求めて岡田晃、岡田春夫、岡崎嘉平太らへの直接インタビューさえ試
みている(八二年四月、一〇月)。著者の情報収集の徹底ぶりが知られるであろう。こう
した作風は日本において特に欠けているものであり、大いに学ぶに値いする。ただし、著
者にとって不運なことは、脱稿以後に新資料が続々出たことではないか。「遵義会議決
議」を著者は毛沢東の起草としているが、洛甫すなわち張聞天によることが、陳雲「伝達
提綱」(『遵義会議文献』八五年一月)によって明らかになっている。『周恩来選集』下
巻(八四年一一月刊)は間に合わなかった。とりわけ惜しいのは周恩来の秘書高文謙の回
想(「文革期の周恩来」「最後の日々」『人民日報』八六年一月四日、五日)を初めとす
る近年の党史研究の成果が押さえられていないことである。周恩来論としては毛沢東に
対する彼の忠誠を雷鋒なみの「愚忠」とする酷評も出ている(「△一個周恩来」『争鳴』
八六年一月)。文革における周恩来の役割は依然論争の的だ。本書は良書ではあるが、そ
の限界も指摘しておかなければならない。
18 旅先で司馬遼太郎『長安から北京へ』を読む
逆耳順耳、
『蒼蒼』第一七号〔八七年一二月一〇日発行〕
知らない人たちのグループに加わり、二週間の中国観光旅行を試みた。旅先で同行のある
紳士が、私の顔と名前を確認してから、ニコニコしている。
「この箇所をお読み下さい」
と差し出したのは、司馬遼太郎著『長安から北京へ』(中公文庫)であった。
「これ〔陳毅の演説を指す〕よりも以下の毛沢東氏の文章──一九六六年三月一二日の
「農業機械化問題に関する指示の手紙」──のほうが、いうまでもなく、こんにちの中国
についてつよい意味をもっている。
『……第一は戦争に備えること。人民・軍隊はまずメシを食わねばならず、着るものが必
要だ。それでこそ戦争ができるのであって、そうでなければ銃や砲があっても使い道がな
い』
(矢吹晋訳)
。 まず人民と軍隊にメシを食わせよ、というのは、毛思想のなかでもっ
とも凄味のあることばといっていい。かれは井岡山時代に上海派のインテリ革命家たち
から一種独立したにおいをもちつつ農村を食わせることに没頭した」
(九四頁)。
この本のなかで、私が昔訳した『毛沢東 社会主義建設を語る』の一節が引用されている
のを初めて知ったのは、一九七九年春のこと。北京飯店で同行の新田俊三さんのご教示に
よってであった。初めての北京で、拾い読みした感激をすっかり忘れてしまったのは、ど
うしたことだろう。
その旅から帰国してすぐ香港へ遊学し、一年半も帰国しなかったからであろうか。それも
一因であるが、私の中国を見る目がまるで変わってしまったことによるところが大きい。
「戦争に備えること」──これが毛沢東にとって最大の課題の一つであった。毛沢東のこ
の発言からすでに二十数年経たが、戦争は起こらなかった。歴史を顧みると、
「戦争に備
えた」結果の虚しさばかりが残るのは否定しがたい。たとえば中国の各大都市には、どこ
にでも大きく、長い地下壕が掘られたが、いまや全くの無用の長物である。あのエネルギ
ーを地下鉄の建設に振り向けていたならば、都市交通の混雑が相当に解決されていたで
書評一束
41
あろうことは疑いない。
第二次大戦に「辛勝」し、
「第三次大戦戦争に備えた」中国が経済建設で立ち遅れ、その
負担を免れた日本が高度成長を遂げた。平和憲法を得たのは、日本の敗戦の結果なのであ
るから、禍福はあざなえる縄のごとし、のよき一例である。話を戻すと、司馬遼太郎の中
国紀行は、明の十三陵や万里の長城などを観光する際の最良のガイドブックである。
19 書評『周恩来・不倒翁・波瀾の生涯』
『朝日ジャーナル』87年4月3日号
「記者としての私の生涯のなかで、これと同じ感じを持ったことが何回かあった。ケネデ
ィやネルーのような力強い指導者に会ったときである。だが、密度の高さが違っていた。
周に会った人は、皆このような印象を受けている。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼
儀正しさ、謙虚さを体現していた」
。
カトマンズのラナ宮殿で著者が当時六二歳の周恩来を単独インタビューしたのは、一九
六〇年のこと、その際の強い印象に魅せられて、著者はこの周恩来伝を書いた。
周恩来の幼児体験はこう分析される。
「周が幼少期の早い時期に自分だけの父親をもつこ
とにあこがれたことは想像に難くない」
「過度の几帳面さと節約癖、感じやすさ、仕事に
対する信じ難いほどの献身──の手がかりもこのあたりに起因するのかもしれない」
。毛
沢東との関係について。
「一九三五年の遵義において、周は毛の上司で批判者という立場
から、彼の召使いで支持者という立場へ劇的な転換をおこなった。……この注目すべき関
係は、遵義以前にすでにその片鱗をみせている」
「長征後の毛に対する周の忠誠は説明を
要する。……毛と起居を共にすることを余儀なくさた周は、毛の内在的な権威、本物のカ
リスマ性に感銘を受けた」
。
周恩来の役割について。
「周が抜きん出ていた二つの役割、すなわち政策決定以前のアド
バイザーの役割と、政策決定後の実施者としての役割は、どちらも『召使いの機能』であ
る。そしてこれは周の世話役的な側面に結びつけて考えることができる」
。
結論としての周恩来評価。
「もし周が、その約束に反して、生涯のうちに中国を……近代
社会にできなかったというならば、それは周だけの罪ではない。むしろ問題の巨大さ、む
ずかしさによるところが大きい」
「毛……の声望は低下しているので、故人となった周に
不可侵の『レーニンの役割』を付与する動きが出てくるかもしれない」。
著者が周恩来にいかに惚れ込んでいるかが知られよう。著者は一九二九年イギリス生ま
れのジャーナリストであり、周恩来よりも三一歳若い。インタビュー当時は香港の『ファ
ー・イースタン・エコノミック・レビュー』の記者であった。その後ロンドンに戻り、
『チ
ャイナ・クォータリー』の編集者を務め、
『毛沢東──人民の皇帝』や『長征』を書いて
いる。
周恩来伝として定評のあるのは、許芥昱(邦訳『周恩来──中国の蔭の傑物』刀江書店)
と李天民(
『周恩来』実業の世界社)であるが、原書はそれぞれ六八年、七〇年に出版さ
れており、晩年の周恩来を含んでいない。本書はこの欠落を埋め、「周恩来伝の決定版」
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を意図して書かれた、とは訳者の説明である。著者は徹底的に文献収集に努めたばかりで
なく、故人の印象を求めて岡田晃、岡田春夫、岡崎嘉平太らへの直接インタビューさえ試
みている(八二年四月、一〇月)
。著者の情報収集の徹底ぶりが知られるであろう。こう
した作風は日本において特に欠けているものであり、大いに学ぶに値いする。ただし、著
者にとって不運なことは、脱稿以後に新資料が続々出たことではないか。
「遵義会議決議」
を著者は毛沢東の起草としているが、洛甫すなわち張聞天によることが、陳雲「伝達提
綱」
(
『遵義会議文献』八五年一月)によって明らかになっている。
『周恩来選集』下巻(八
四年一一月刊)は間に合わなかった。とりわけ惜しいのは周恩来の秘書高文謙の回想(「文
革期の周恩来」
「最後の日々」
『人民日報』八六年一月四日、五日)を初めとする近年の党
史研究の成果が押さえられていないことである。周恩来論としては毛沢東に対する彼の
忠誠を雷鋒なみの「愚忠」とする酷評も出ている(「△一個周恩来」
『争鳴』八六年一月)。
文革における周恩来の役割は依然論争の的だ。本書は良書ではあるが、その限界も指摘し
ておかなければならない。
20 中薗英助『何日君再来物語』を読む
逆耳順耳、
『蒼蒼』第二〇号〔八八年六月一〇日発行〕
友人の示唆で、中薗英助『何日君再来物語』
(河出書房新社、八八年二月、一八〇〇円)
を読む。読み終わったときに「日中愛の歌に感慨」なる小さな記事に接した(『朝日新聞
(夕刊)
』八八年四月一六日)
。朝日が取り上げ、TBSテレビでも放送され(この本の帯
封による)大モテである。
一〇年前に香港で一人暮らしをしていたときによく聞いたカセットの一つがテレサ・テ
ンの「何日君再来」である。彼女が歌唱力抜群のタレントであることを教えてくれたの
は、
『東京新聞』の丸山寛之特派員であった。彼は手料理が大好きで、私はおいしい手打
ちうどんをご馳走になりながら、よく中国系女流歌手たちの品定めを聞かされたもので
ある。
といった次第で、この本に出てくる奚秀蘭のカセットも持っているし、それに周琁の映画
「馬路天使」も見ている。つまり、私の香港シングル・ライフはこの歌のリバイバル状況
のなかに置かれていたために印象が深かった。蒼蒼社からブックレットを出すに際して
「テレサ・テンの鼻唄混じり」と書いたのはこのことにほかならない。
さてこの本の話だが、著者は青春を大陸で過ごした。著者のナツメロ・ルーツ探しはレト
ロ感傷旅行であり、最後に意外な、しかし私のような文革時代の記録をたくさん読んだも
のには「さもありなん」と納得させるドンデン返しもあって面白く読んだ。しかしどうに
も後味が悪い箇所があるので書き留めて置く。
「麗君ことテレサ・テン」とあるが(九頁)
、前者が本名、後者が芸名であるから、
「テレ
サ・テンこと麗君」じゃありませんかね。
「真教我啼笑皆非」
(八九頁)という一句を「わが泣き笑いのみな非なるを教えたまえ」
と迷訳していますが、おかしいですね。
「ホントに私を泣くに泣けず笑うに笑えぬ心境に
書評一束
43
追い込む」でしょう。
「教」は使役、
「啼笑皆非」は「せっぱつまる」という意味の成語で
すね。
「何日君再来」の四番目の歌詞の最初の二行は「停唱陽関畳、重●白玉杯」です。これを
著者は「立ちて陽関畳を唄い、幾度か白玉の別杯をあげ」と訳していますが(一一二頁)、
どこから「立ちて」などという訳語が出てくるのでしょうか。これは「陽関畳を唱うのを
停め、重ねて白玉の杯を挙げる」でしょう(同じ訳が一六七頁、二一七頁にも出てくると
ころを見ると、著者はこの迷訳がだいぶお気に入りらしい)
。要するに、
「陽関畳を唱いな
がら酒を呑むこと」は不可能ですから、
「唄を停めて、さあ呑みましょう」ということで
すね。
もう一つ。同じ唄の四番二句は「殷勤頻致語、牢牢撫君懐」ですが、
「懇ろに慰めの言葉
重ね、しっかりと君がみ胸撫でん」と訳しています(一一三頁)
。
問題は「撫君懐」ですが、
「み胸撫でん」とは、いささかポルノチックじゃありませんか
ね。
「懇ろに言葉をかけ、しっかりと君の胸中を慰問する」でしょう。
「み胸」と「胸中」、
「撫でる」と「慰問」は大違いです。元来、この雅語は元来男同士の友情を歌っているの
ですよ。テレサ・テンの甘い声に引きずられてはいけませんね。
もう一つ。田漢の作詩した「四季歌」の訳語のことです。四番目の第三句は「江南江北風
光好、怎及青紗起高粱」ですが、
「川の北も南も景色よく、なぜ着物よりも高粱高い」と
訳されています(一六一頁)
。著者は「田漢の作詩した“四季歌”の歌詞は、いったいな
にをうたおうとしたのか。故郷を失った東北人民が、知らぬ他郷をさまよう痛苦をうた
い、また日本軍に抵抗する心情と希望とを表現したものだという」
(一六一頁)と書いて
いるところから察するに、歌詞のテーマは正確に理解しておられるようですが、その理解
が歌詞に現れていないのは残念ですね。
「青紗」は単なる着物ではなく、
「高粱畑の紗のカーテン」ですから、江南の景色がどん
なに美しくとも、
〔故郷の〕高粱畑には及ばない」の意ですね。神田千冬さん(日中学院
講師)は「江南の景色は美しくとも、いかでか及ばん あのコーリャン畑に」と名訳して
います(NHKテレビ『中国語テキスト』八七年一二月号)
。
著者が「八年の歳月をかけ、ミステリアスな謎を追求した渾身のドキュメント」
(帯封の
コマーシャル)だけに、私はなぜか物悲しくてならないのです。老酒に砂糖を加えたよう
な、あのいいようのない不快感が残ります。
「あとがき」によれば、
『世界週報』に連載し、さらに「全面的に改稿した」由。連載中
から反響が大きかったそうですが、肝心カナメの主題歌の訳語について疑問は出なかっ
たのでしょうか。とかく漢字で書いてあると、
「わかったつもりになる」のが、日本人の
どうにもとまらない欠陥です。
【追記】五月一七日付『朝日新聞』夕刊「窓 論説委員室から」に署名“目”氏が「何日
君再来」と題するコラムを書いている。NHKの問合わせた中国テレビ局関係者の見解や
ら在日中国大使館文化部のコメントが紹介されているが、この歌詞の決定的誤訳につい
書評一束
44
てはコメントなし。この論説委員氏は、この本をほんとうに読んだのかしら。読んで書い
たのなら、記者の文化水準はかなり低いようですな。
【訂正】 「麗君」が本名、
「テレサ・テン」が芸名と書きましたが、
「麗君」も芸名であ
り、彼女の本名は一字違いの同音からなる「麗●」でした。お詫びして訂正致します。軟
派学にも造詣の深い知人が教えてくれました。
21 具眼の士あり──『現代中国の歴史』のこと
逆耳順耳、
『蒼蒼』第二三号〔八八年一二月一〇日発行〕
わが現代中国学界は痴呆症状に陥って久しい、とかねて毒づいてきたが、この印象は、小
林弘二らとの共著『現代中国の歴史』を書いて以来、決定的になった。ある程度は予想し
ていたことではあるが、文革の後遺症が日本歴史学界でかくも深刻とは、予想以上であっ
た。
わがアカデミズムは明治以来、
「当代中国」の研究を白眼視し、自家中毒的中華文明の洞
天に逃げ込んで、辛うじて命脈を保ってきた。敗戦後突然、準備なきままに、いきなり「当
代中国」について語った結果大火傷した。しかも、なまじ専門家を自称していたために、
引っ込みがつかなくなった。かくて再び旧洞天に遁走する。当代からおずおずと逃げるだ
けなら、許せるが、
「当代は歴史の対象にあらず」などとわめくに至ってはもはや腐儒の
世界だ。歴史がすべて当代史の累積であることは自明である。
私は深く憂うるが、中華人民共和国史四〇年を迎えようとしているいま、日本のどこの大
学で、この歴史を研究しうる基本的資料を集めているか。問題は将来の展望なのである。
いま資料を集めていない以上、将来もまともな現代史が書けるはずのないことが明らか
であるにもかかわらず、この現実から目を背ける無気力、無責任が瀰漫している。
「皆で研究を怠れば、少しも怖くない」──これが痴呆症患者の自己弁明である、と酔顔
で八方破れ、怪気炎を上げているうちに、台風一過、穏やかな秋日和がやってきた。
「世に具眼の士あり」という話である。われわれの本をきちんと読んでくれた読者があっ
た。
「造反には道理がある」
(
『思想としての六〇年代』講談社、一九八八年六月)のなか
で、桜井哲夫がこう書いている。
「以上の経過〔文化大革命を指す〕については、前掲竹内実編『文化大革命』のほか、宇
野重昭・小林弘二・矢吹晋『現代中国の歴史──一九四九-一九八五』および安藤正士・
太田勝洪・辻康吾『文化大革命と現代中国』の記述によっている。特に『現代中国の歴史』
は今までのところ最もすぐれた包括的な書物といえる。文革に関しても、および腰になら
ず、評価すべきところはきちんと評価し、その錯誤も正確に論じているので、この本には
多くのものを負っている」
(二二七頁)。
「文革は理念としては大衆の自己解放運動であったはずだが、1 毛沢東のカリスマ的権威
の利用、2 解放軍の武力利用とによって限界づけられ、真の意味の革命とはならなかった
のである」
(前掲『現代中国の歴史』)
(二三〇頁)
。
共著者の一人として、とりわけこの箇所の執筆者として、私の書きたかった意図を桜井が
書評一束
45
正確に読み取ってくれたことがたいへんありがたい。
ここで一つ舞台裏を明かしておく必要がある。桜井がほめてくれた文革評価の基調を作
ったのは小林弘二の功績である。私は小林の要請にしたがって、この章を三、四回書き改
めている。文革は同時代を生きた私にとってとりわけ重く、相対化がしにくかった。執筆
途中で降りたいと言ったことさえある。そこをなだめすかして擱筆までもっていったの
は、小林弘二の忍耐心であった。
ところで「中国現代史の原点をさぐる旅」で、中共中央文献研究室、中共中央党史研究室
の研究者たちと意見交換した際に、中国でもまた、一九四九年以降を「現代史」として把
握しようとする見解が登場しつつあることを知って、わが意を強くした。この説によれ
ば、アヘン戦争あるいは五四運動以後を近代史として捉え、四九年革命以後を現代史とし
て捉えることになる。来年は中華人民共和国建国四〇周年であるから、このような考え方
はますます強くなるであろう。
「日本ではこれまでのところ四九年以後を対象として“現
代史”としたのは、われわれの本だけです」と私は手前味噌を並べた次第である。北京図
書館を訪れて日本文庫を参観した際に、この本の初版を発見したときは、なにやら里子に
逢ったような感じであった。近く三版が出るが、改訂版を早く出したい。
22 書評 「難関」に立つ中国経済
『月刊東方』1990年x月号
著者はNHK解説委員、文化女子大学教授を兼ねる。最近、中国を延べ半年間にわたり旅
行し、その見聞を記したのが本書である。ジャーナリストの中国報告は枚挙にいとまのな
いほどだが、本書もその一冊である。
九章から成る。そのタイトルはつぎの通りである。
「人口大国の悩み」
「低い教育水準と真
剣な学生」
「不足の社会」
「貧しい農村と格差」
「西側へ向く東北」
「沿海地区発展戦略と日
本」
「全方位開放」
「活況郷鎮企業」
「インフレと暮らし」
。
テーマの選び方、書かれた内容、いかにも常識的である。ところが、
「結びに代えて」の
なかで、著者は「なんと思い切ったことを書いたものか」と反省じみた弁を記しておら
れる。しかし評者には、著者がどの記述についてそう感じておられるのか、さっぱり理解
できなかった。著者の感性と評者のそれとの間にかなりのギャップがあるためらしい。
本書を一読して感じたことを率直に書いてみたい。著者はある会議で小平氏が「人口一人
当たりのGNPを、当時〔一九八〇年〕の四倍の八〇〇ドル、人口を一二億人」の目標と
したと語ったことを紹介している(本書二二頁)。この記述はいささかミスリーディング
である。
というのは、小平が一九八〇年に語ったのは「一人当たり一〇〇〇ドル」であり、この時
は「人口問題」には言及しなかった。というよりも人口は一〇億人と暗に想定されていた
(
「目前の形勢と任務」
『小平文選』所収、二二三頁)
。その後、一〇〇〇ドル目標論議が
活発になる過程で、人口増加の要素が話題になった経緯がある。もし人口が一〇億人から
一二億人に増えるとすれば、一〇〇〇ドルは達成困難だということで、その後八〇〇ドル
書評一束
46
〔一〇〇〇ドル×一〇億人=八〇〇ドル×一二億人〕に「下方修正」されたのである(
「中
国的特色をもつ社会主義を建設しよう」
『建設有中国特色的社会主義 増訂本』五三頁)
。
著者が自らも出席されたこの会議の印象にこだわるあまり、関連文件の参照を怠ってい
るのは片手落ちであろう。
「闇の子供」に対する公安当局の見解を紹介して言う。
「これらの子供たちには罪はなく、
いつまでも隠したままでもいられないので、戸籍に登記させる。地方の役所の、計画外の
子供の届出を認めない“土政策”つまり土臭いやり方は取り消させる」
(本書二八頁)。ここ
でいう「土政策」とは「土臭いやり方」であろうか。
「土政策」の「土」とは「中央の政
策」に対するもので、中央の政策に背いた地方独特のやり方の意であろう。かつて「土法」
製鉄が行われたが、これは「洋法」
(近代的製鉄法)に対するものであった。
「土」の意味
を明確にするためには、そのツイ概念を探すに如くはない。
中国で「没有」の洪水に悩まされた旅行者は少なくないが、これと並んで多いのが「坏了」
だと著者は言う(六五頁)
。この「坏了」に「ホワイラ」とルビを振って、
「こわれた」の
意、あるいは「悪い」という意味だと説明している(「坏」は七六頁、一一八頁にも出て
くる)
。この「坏」は簡体字だが、日本語の文脈では土ヘンに下を書いた「アクツ」に似
ていて紛らわしい。簡体字表記に反対するいわれはないが、他方七二頁には「拉関係つま
りコネである」と出てくる。もし「拉関係」と当用漢字で書くのならば、
「坏了」ではな
く、
「壊了」と繁体字で書くべきであろう。もし敢えて簡体字を用いるのならば、
「拉関係」
も簡体字にすべきだろう。二一〇頁の「対聯」も同じ。要するに表記の不統一はよくない
ですね。
王小強、白南風『富饒的貧困』
(四川人民出版社、一九八六年)は、評者もしばしば引用
したことがある。この白南風氏との会見模様を紹介しつつ、彼は「この著書を私〔著者〕
に贈ってくれ、引用もこころよく承知してくれた」と書いている(九七頁)
。
「内部発行」
のような本ならいざ知らず、公開発行の本について二、三頁の引用をするのに「許可」を
求め、
「こころよく承知してくれた」と書くジャーナリスト精神とは一体何か。こういう
感覚が私にはほとんど理解できない。
「ある中国人は、“今の中国人は限りなく資本主義に近い社会主義に向かっている”とのべ
ている。その傾向は私営企業の発展によって、さらに加速されると私はみる」
(一九八頁)
。
どこかで聞いたような表現ですが、全く同感ですね。
「中国の指導者は、最近の物価の上昇を“物価の高騰”と表現し、インフレとはいわない」
「だが、中国の学者の間には、
「中程度のインフレ」という者もでてきた」
(二〇六頁)
。
ここで「最近」が八八年何月を指すかが気になる。著者は八八年八月二四日付『人民日報』
社説を引用しているから、この時点までは著者の観察範囲に入っていることになる。もし
そうなら、この記述はミスリーディングである。たとえば八月一六日、趙紫陽氏は共同通
信社長一行と会見して「物価値上がり」
(原文「物価上漲」
)に触れて、
「物価改革をイン
フレ〔原文「通貨膨張」
〕克服と結合して行う」旨語っている(『人民日報』八月一八日付)。
書評一束
47
趙紫陽はここで「スパイラル・インフレ〔原文「輪番漲価」
〕に陥ったのであろうか」と
疑問の形ではあるが、
「輪番漲価」という表現さえ用いている。つまり「中程度のインフ
レという者もでてきた」どころの話ではないのである。ちなみに学者レベルで言えば、劉
国光の「インフレ〔原文「通貨膨張」
〕問題を正視せよ」
(『経済日報』一九八八年四月五
日「理論探索」第九七期)あたりが早い時期のものであろう。揚足とりみたいな指摘ばか
りでいささか気がひけるが、もとより他意はない。
23 書評
凌星光著『中国経済の離陸』
掲載雑調査中、1990年A月B日
中国人エコノミストの邦訳本としては、これまでに馬洪、孫尚清、張風波氏
のものがある。これらと比べて、本書が一段と説得力をもっているのは、な
によりも日本通の著者が読者に対して、日本語で直接語りかけていることに
よるものであろう。著者は在日華僑として日本で生まれ、一橋大学を中退し
て、社会主義祖国の建設に馳せ参じた。その後の辛酸の一端は巻末の短いエ
ッセイに滲み出ている。
本書はI経済改革、II 政治改革、III 日中関係の三部から構成されている。
Iでは経済改革について三つのシナリオを想定している。1「政府は市場を
調節し、市場は企業を誘導する」新体制の確立に成功すること。2 旧体制に
逆戻りし、経済改革が失敗すること。3 両者の中間における試行錯誤状態の
延長。著者の見立てによれば、「第三の可能性が強い」「何とかして、第一
の可能性に進むよう努力する必要がある」(七三頁)。ここには改革派とし
ての著者の立場が鮮明に披瀝されている。
著者の提唱する「大連地域日中共同開発」構想(『日本経済新聞』八八年六
月一〇日)、「北東アジア経済圈」構想(『読売新聞』八九年二月一六日)
などの評価はさておき、少なくとも改革一〇年の問題点の分析に関する限
り、評者は著者の主張に全面的に賛成である。とりわけ共感するのは、著者
の率直な反省である。「九〇年代の初頭には中国経済が軌道に乗るだろうと
いう一〇年前の私の予言は、その現実性がほとんどなくなってしまった。私
はいまその反省に立って、どうしたら早いうちに軌道に乗せられるかを探究
している」(二八八頁)。評者は一〇年前の著者との論争を想起しつつ、感
慨を禁じえない。評者の見るところ、著者は中国最良の日本経済理解者の一
人であり、日中の懸け橋として、ますます活躍されんことを願ってやまな
い。
24『天安門よ、世界に語れ』
書評一束
48
劉賓雁、阮銘、徐剛著、鈴木博訳
社会思想社、1990年
解説・矢吹 晋
本書は天安門事件の真相を広く世界に知らせるために、民主化運動側によって編まれた
書物の一つである。三人の知識人が分担執筆している。
第一部「北京の忘れえぬ春」の執筆は、徐剛と劉賓雁である(内容から察するに、徐剛が
中心となり、これに劉賓雁が筆を入れた形であろう)。
第二部「なぜ起こったのか」の筆者は阮銘である。
第三部「中国はどこへ行くか」は劉賓雁が執筆している。
初めに、これら三人の著者について簡単な紹介をしておこう。
三人のうち日本で最もよく知られているのは、劉賓雁であろう。劉賓雁は胡耀邦解任事件
(一九八七年一月)直後に中国共産党を除名されて以来、日本でも広く知られるようにな
った(
「中共人民日報社機関紀委開除劉賓雁党籍」
『人民日報』八七年一月二五日)。私は
このときに、劉賓雁について簡単なプロフィールを描いたことがある(
『日中経済協会会
報』八七年三月号、のち『中国のペレストロイカ──民主改革の旗手たち』蒼蒼社、八八
年所収)
。
いまそのなかから彼の経歴をかいつまんで書き抜いてみよう。
劉賓雁。一九二五年二月七日吉林省長春市生まれ、著名な「報告文学」作家。一九五六年
「橋梁工事現場にて」
「本報内部消息」を発表して、
「人民内部に存在する社会主義の前進
を阻む暗い面を大胆に暴露し、幹部のなかの保守主義と官僚主義を鋭く批判し」、文芸界
の好評を博した。
しかし反右派闘争に際して、彼の作品は「毒草」とみなされ、彼自身は「右派分子」と認
定され、文学創作を停止させられた。この間、五八~六一年は山西省、山東省、北京市の
農村で労働に従事した。六一~六九年は『中国青年報』の国際資料組で工作した。文革期
の六九~七六年は「五七幹部学校」で暮らした。
七六年一〇月の「四人組」粉砕以後、名誉回復され、執筆が許されるようになった。七九
年に発表した「人と妖の間」
(
『人民文学』七九年九期掲載)は八一年度の「全国報告文学
奨」を受賞した──。
ここから分かるように、彼は「五七年右派分子」の一人である。五六年春にフルシチョフ
によってスターリン批判の秘密報告が行われたが、これを契機としてハンガリーやポー
ランドでは反政府の暴動が起こった。これは「八九年東欧革命」のいわば原点ともいうべ
き民衆蜂起であった。中国ではこの国際的状況に対応して「百花斉放、百家争鳴」の自由
化運動を始めたが、そこで積極的に発言した劉賓雁らは「毒草」をはびこらせたものと批
判され、犯罪人扱いされたのであった。以後、中国共産党は坂道を転がるように、転落の
道を歩み始めることになる。
反右派闘争はやがて文化大革命(一九六六~七六年)につながる。右派分子は当然、文化
書評一束
49
大革命においても攻撃目標とされた。こうして劉賓雁は五七年から七六年までおよそ二
〇年の長きにわたって、青春の真っ盛りを「執筆禁止」のなかで生きたのであった。
復活第一作の「人と妖の間」で彼は何を告発したのか。劉賓雁は「報告文学」
(中国流の
ノン・フィクション)の名手である。
黒竜江省賓県で七九年四月にある中年女性が五〇数万元を着服して処刑された。劉賓雁
はこのような汚職が普通のオバサンになぜ可能であったのかを生き生きと描いている。
「党幹部はあちらにも気を使い、こちらにも気を使うが、国家の主人公たる人民に対して
だけは、気を使わない」
「共産党はすべてを管理するが、ただひとつ、共産党自身だけは
管理しない」などなどの警句は人々の琴線に触れた。彼の作品は共産党の官僚主義、独裁
権力の腐敗の構造の核心を暴き出すことによって、読者から圧倒的な共感をもって迎え
られたのであった。
その後彼は「千秋の功罪」
(
『十月』八二年三期)や「第二の忠誠」
(『文匯月刊』八五年秋)
などを書いたが、彼の告発が鋭いだけに、告発された側(地方党組織や企業、大学の党支
部など)の反発も強硬であり、劉賓雁には強い圧力がかかった。たとえば西独のある研究
者(関愚謙)は、八五年九月の訪中に際して、保守派の薄一波(中共中央顧問委員会副主
席)が六省整党会議でこう発言したと聞いた。
「劉賓雁は敢えて本当の話をしているとい
うが、彼は何を語っているのか。私の見るところ、彼は至るところでデタラメを語ってい
る。劉賓雁と上海の王若望はブルジョア自由化派の代表だ」
(香港『九十年代』八六年三
月号)
。
八六年末に劉賓雁は方励之、王若望とともに、小平から名指しの批判を受けた。そして一
カ月後に中国共産党を除名された。しかし、まもなく趙紫陽が総書記として改革・開放路
線を強力に押し進め、中国にも明るい雰囲気が見えた。彼は八九年春にハーバード大学フ
ェアバンク・センターに客員研究員として招かれ、幸いにも出国を許された。私は八九年
四月にたまたまここを訪れた際に(時間がなくて会うことはできなかったが)、そのこと
を聞いた。今回の民主化運動は劉賓雁のアメリカ滞在中に始まったために、彼は運動に参
加しておらず、声援を送っただけである。しかし、この目標は劉賓雁にとって一九五六
年、つまり三三年前から追求してきた課題である。七九年以来の一〇年間はまさにそのた
めに全力を挙げてきたものであるから、本書の三人の執筆者の代表格となるのは、まこと
にふさわしいわけである。なお劉賓雁は『劉賓雁自伝』
(香港新光出版社、一九九〇年)
を書いており、また評論を集めたものとして『劉賓雁言論集』
(1巻、2巻、香港香江出
版社、一九八八年、学生社から邦訳あり)が出ていることを付け加えておく。もう一つ蛇
足。当局による劉賓雁批判として、郭帆「劉賓雁の反動的面目の大暴露」
(
『人民日報』八
九年一一月三日)がある。
阮銘の名は日本ではほとんど知られていない。彼は共産党から除名された点では劉賓雁
の先輩格である。八三年三月、中共中央党校で党支部大会が開かれ、党校理論研究室前副
主任(在任期間は七七~八二年)阮銘の除名が決定された。その際に阮銘は「最後の陳述」
書評一束
50
を二〇分行って、こう訴えた──。
入党前、私はよるべなき孤児であった。父と母は日本帝国主義と国民党反動派の「忠義救
国軍」に残酷に殺害された。日本が降服した春に私は満一四歳の孤児〔一九三一年生まれ
か〕であり、党の懐に抱かれて思想をもつ、私の新たな生命が始まった。
林彪、四人組の迫害するあの暗黒の歳月でさえも、殴打、監禁、訊問のあの長い過程でも、
私は暗い夜がゆっくりと明け、黎明がやがて来ることを信じていた。
好意を寄せてくれる同志は、私が「理想主義者」であり、もっと「現実的」になること、
もっと「お利口」になること、
「時勢」をわきまえることが必要だと勧めてくれた。しか
し私には終始それができなかった。私は好意を寄せてくれた同志に感謝しているが、やは
り私は依然こう考えている。党内では直言し、本当のことを話すべきであり、心のうちを
話すべきであり、党員の心は党とつながっているべきである、と。私は誣告者の捏造した
罪名を心に背いて認めることはできない。たとえそれが私を「救出」するためのものであ
ったとしても。林彪、四人組は覆ったが、彼らが横行した時期に養成された誣告者たちは
依然として人をダマし、人を傷つけ続けてているのだ。しかし、彼らは一時は状況が分か
らない指導者や大衆をダマすことができるが、結局のところ永遠に手で天を隠すことは
できないのであり、歴史は早かれ遅かれ本来の面目を取り戻すものと信じている。
事実を尊重し、真理を服膺すること、これは私が党と人民によって数十年にわたって教育
されて身につけた性格である。これらの捏造された罪状を私に認めさせようとしても、私
は信念に背くことはできないし、事実と真理に背くことはできない(香港『鏡報』八九年
一一月号、莫利亜の阮銘インタビューによる)。
阮銘はこうして共産党によって育まれた精神に忠実たらんとして逆に党から除名され
た。彼の詳しい経歴は不明だが、察するに文革前は中央宣伝部で働き、文革以後中央党校
に移ったようである。
一九七七年初め、中央党校が再建された。当時の校長は華国鋒、第一副校長は汪東興がそ
れぞれ兼任していたが、実際の責任者は副校長の胡耀邦であった。胡耀邦が指導していた
時期に中央党校は改革開放の思想と理論の準備過程で重要な役割を果たした。その後胡
耀邦は総書記になったが、八二年までは依然副校長の職務を兼任していた。中央党校の理
論研究室は胡耀邦が中央党校に赴任して作ったものである。彼はわれわれ〔阮銘ら〕に対
して、
『理論動態』という刊行物を出すようにさせた。五日刊で毎号に一篇ずつ全国の政
治経済文化生活にとって重大な理論問題を鮮明に提起させ、理論工作を前進させようと
するものであった。われわれが理論工作をやるのは、思想理論戦線で恐れを知らぬ前衛戦
士となり、新状況を研究し、新問題を解決し、歴史の前進を阻害する伝統的観点に挑戦す
るためであると胡耀邦はよく語った。当時『理論動態』に発表されると、
『人民日報』
『光
明日報』などの全国紙に「特約評論員」の名義で転載され全国の思想解放を大いに推進し
たものである。
私自身はこのころ香港でチャイナ・ウォッチャーを務めていて『人民日報』の「特約評論
書評一束
51
員」とは一体誰かを推測したものだが、当時はこうした舞台裏の事情は分からなかった。
阮銘の話を続けて聞いてみよう。
八一年六月、六中全会〔
「歴史問題決議」を採択した〕後、華国鋒が辞職し、胡耀邦が党
中央主席兼総書記になった。このとき胡耀邦は中央党校校長兼任をやめ、別の人物を探す
ことになった。八一年から力群は中央書記処会議で再三にわたって王震を推薦していた。
王震が中央党校に来ると、
「私は校長になりたくなかったが、陳雲が私と長い話をして、
中央党校は非常に重要である。党の幹部を養成するところであり、中央党校を黄埔軍官学
校〔第一次革命戦争期に孫文が広州黄埔に設けた陸軍軍官学校〕にしてほしいというの
で、私は引き受けた」と挨拶した。
阮銘はさらに続ける。王震が中央党校に来る前、陳雲の秘書で王という者が力群の中央書
記処政策研究室の副主任になった。ある日、王は馮文彬に向かって「華国鋒の誤りがまだ
認識されておらず、人々は華国鋒を謙虚だと受け取っているので、この問題を扱うよう
に」と提案した。そこで馮文彬は呉江〔当時、中央党校教員、のち広東社会科学院研究員〕
に話をもっていき、呉江は孫長江〔当時、中央党校教員、のち『中国科技報』編集長〕に
命じて「謙虚と謹慎を語る」を『理論動態』に書かせた。結果はどうか。
力群は掲載号を陳雲のところに持参して「胡耀邦は『理論動態』であなた〔陳雲〕に反対
している」と誣告した。つまり執筆者は華国鋒の謙虚ぶりを批判する文章を書いたが、読
み方によっては陳雲の謙虚さを批判したものと読めるということであろう。中国の批判
論文の多くは「桑を指して槐を罵る」ものが多い。
ある時、小平、陳雲、胡耀邦三人が居合わせた際に、陳雲は小平の面前で胡耀邦を非難し
た。
「胡耀邦よ、私は君を支持しているのに、君はこんなやつらに私に反対させているで
はないか!」
これは力群の陰謀に胡耀邦がはまったものと阮銘は解釈している。つま
り、陳雲が華国鋒批判として書かれたものを陳雲への批判と「誤読」したのではなく、陳
雲が胡耀邦に不快感を抱くように力群が仕組んだ陰謀だというわけである。中南海の権
力闘争の一端が知られるであろう。
阮銘自身が狙われるようになったきっかけはなにか。
『光明日報』は八〇年一〇月六日、首都理論界の政治体制改革についての座談会を掲載
し、小平講話(八〇年八月一八日)を論じた。これは『光明日報』一〇月一七~一九日の
三日にわたって大きく掲載された。この座談会で阮銘は「改革とは結局のところ人間の解
放のためである」と論じて、大きな反響を巻き起こした。八二年四月になってこの発言が
ニューヨークの『海内外』に転載され、その後台北の『中央日報』が紹介を書いた。力群
はこの事実をとらえて中央書記処政策研究室で資料を作り、
「阮銘は国外で反共論文を発
表した」と誣告する証拠とした。
力群はさらに別の資料を作って「阮銘は文革期に造反派であった」と誣告した。八一年八
月二二日に中央宣伝部の二人の元造反派唐聯傑、周玉田の口を通して「批陶〔鋳〕聯絡ス
テーション」の中央宣伝部における造反組織たる「紅旗戦闘隊」に阮銘がかかわっていた
書評一束
52
と証言させたわけである。さらに力群は阮銘をこう誣告した。
「阮銘はいくつかの文章を
書いて、無条件の言論の自由を鼓吹したり、指導者が少数の者に包囲され、大衆から離れ
ることに警戒せよ、この包囲者はある権力者が倒れると別の権力者にまとわりつく、など
と書いている。阮銘が政治生活においてあてこすりをやっているのは、胡喬木同志が発見
したものである。私は馮文彬に資料を届けたが、阮銘は自己批判をしようとしない。逆に
中央書記処政策研究室が阮銘粛清の黒い資料を書いたと非難している」と。
引用はこの程度にしておこう。胡耀邦──馮文彬──阮銘らの改革派グループが陳雲─
─胡喬木──力群らのグループの陰湿な攻撃によっていびられている姿がよく分かる
(莫利亜の阮銘インタビューによる)
。なお、阮銘は民主化運動以前に出国し、現在アメ
リカのコロンビア大学の客員研究員である。
最後に、徐剛について。
『中国文学家辞典』
(現代第三分冊)によって、徐剛の経歴を調べ
て見よう。現代作家。本名は徐岱柵、筆名は余星、魯言。一九二四年九月一五日生まれ。
天津の人。一九三八年一〇月山東省で八路軍に入隊した。中隊の文化教員、連隊の宣伝隊
長などを歴任した。
『大衆日報』記者、新華社魯中分社主任などを務めた。一九四五年中
国共産党に入党した。一九六二年中国作家協会に参加。一九七六年一〇月以後、甘粛省文
聯副主席、秘書長。七九年に北京に配置転換。報告文学として「徂来山上」
、小説として
「看護婦陳敏」
「荒草嶺にて」
「柏」
「恩仇記」
「山雨欲来」
「銀杏海棠花」
「蘆笛と雲簫」な
どを『人民文学』
『山東文学』
『甘粛文芸』などに発表している。
今回の民主化運動における徐剛について、香港『文匯報』
(八九年五月一二日)に、こん
な記事がある──。
蘇暁康(河殤の編者)
、徐剛(詩人)、鄭義(作家)
、王朔(作家)、史鉄生(作家)、趙瑜
(作家)
、劉小雁(作家)
、徐星(作家)などと作家出版社、
『文芸報』
『中国婦女報』など
の出版機構の編集者、記者一〇〇余人が「新聞の自由、創作の自由、出版の自由を」
「中
国の作家は人民が育てたもの、人民のために語るべき」
「ベンツを売り払って外債を償還
せよ」といった横断幕を掲げて、自転車デモを行った。
このデモについて徐剛は「作家がデモに加わったのは、建国四〇年来初めてのこと」とコ
メントしている。ここから分かるように、徐剛は作家による初めてのデモのリーダー格で
あり、六四鎮圧以後パリに亡命した。
三人の著者のプロフィールをこのように見てくると、彼らの執筆分担の意味がはっきり
してくる。徐剛は初めての作家デモに参加した体験から見て、民主化運動をいわば運動の
内側から作家の目で報告している。
阮銘は小平時代の改革開放路線のもとでの改革派と保守派との暗闘のなかで、保守派の
策謀によって最初に共産党を除名された人物であり、八〇年代前半のイデオロギー論争
の状況にたいへんくわしい。
劉賓雁は現代中国屈指のルポルタージュの名手としてあまりにも有名である。経歴から
いえば反右派闘争以来の民主化の闘士である。結論を書くのにふさわしい。
書評一束
53
では本書のさわりはどこか。私自身が興味深く読んだ箇所を抜き書きしながら、本書の特
徴を紹介して見よう。
徐剛は「北京の忘れえぬ春」を国務院総理になったばかりの李鵬の無能ぶりから書き始め
ている。いかにも詩人らしい発想である。ついで胡耀邦追悼、学生デモ、それに対する知
識人や市民の共感を生き生きとした感性で描いている。たいへん読み易い。
今回の学生運動は五月一四日から二〇日にかけてクライマックスを迎えたが、ある学生
リーダーは、その間リベラルな新聞がなかったら、今回の運動はあのようなクライマック
スを迎ええなかったであろうと語っていた(35頁)
なるほどその通りであろう。二年前の民主化運動は学生デモだけで終わったために、線香
花火に終わったが、今回は知識人が動き、そして報道人が動いたために、世界を揺るがす
ような巨大な運動に発展したのであった。このクライマックス期における趙紫陽の行動
をどう読むかは、今回の政治劇の一つのポイントである。徐剛はこう書いている。
五月一〇日から二〇日までの一〇日間に、党の上層部で実際に起こっていたことは、未来
の歴史家しか明らかにすることができないに違いない。しかし、何が起こっていたにせ
よ、激烈な闘争が展開されたことはまちがいない。少なくとも五月一七日までは趙紫陽が
諦めなかったことは確実である(四八~四九頁)
。
五月一六日午後、ゴルバチョフとの会談の冒頭に趙紫陽は小平の党内的地位についての
秘密を暴露したが、その狙いをこう読んでいる。
なぜ趙紫陽は、いま党の秘密を暴露したのであろうか。学生運動を処理する権限がないと
感じ、そのことを表明することで人民の許しを得ようとしたのであろうか。あるいは、混
乱の責任をすべて小平に負わせて、世論の支持をとりつけ、小平の専制的支配から逃れよ
うとしたのであろうか。大半の人々は後者であると信じていた(四九頁)
。
趙紫陽はこのように秘密暴露はしたが、それ以上のことはしなかった。それだけしかしな
い趙紫陽への不満を徐剛はこう書いている。
趙紫陽がテレビで演説し、四月以来、実際に起こっていることを人民に伝え、現在の危機
をいかにして乗り越えるべきかについて見解を明らかにすることを願っていた人は少な
くない。趙紫陽がそのようにしていれば、権力の中心は趙紫陽の側に移り、今回の民主化
運動は完全な勝利をかち取っていたであろう。
しかし、趙紫陽はそのようにしなかった。趙紫陽自身の性格とそれまでの体験が、この歴
史的な瞬間に大きな役割を演じたのかも知れない。趙紫陽は若いときから党幹部の社会
で過ごし、残酷な党内闘争を通じて、新潮であること、あらゆる規則に従うことで、他人
に自分を告発する口実を与えないことをもって身を守るすべを学び取ったのである。多
数の他の指導者と同じように、堅実さの度がすぎ、大胆さと勇気に欠けていた。それゆ
え、行動を起こすことをためらい、絶好の機会を逸してしまったのである(五〇頁)
。
ここには趙紫陽への期待が裏切られたことに対する無念さがあるが、趙紫陽を非難して
いるわけではなく、彼の立場を理解しようとしている。この評価を後に指摘する阮銘や劉
書評一束
54
賓雁の評価と比べると、ニュアンスがかなり異なっていることに気づく。
阮銘は政治の潮流を三大グループに分けて整理している。
毛沢東以後の民主化への胎動は、一九七八年一二月に開かれた一一期三中全会ののちに
現れた。
第一のグループは、経済改革は民主的な改革と結びつかなければならないと主張した。胡
耀邦は政治を民主化し、市場改革を促進しようとする人々を代表していた。
第二のグループは専制的な政治支配と自由経済の結合、タリク・アリが市場スターリニズ
ムと呼んでいるものを主張した。趙紫陽がこのグループを代表していた。
第三のグループは、政治と経済の双方において徹底的したスターリニズムを主張してい
た。第三のグループにとっては、改革は鳥籠経済を意味するにすぎなかった。その代表者
は陳雲であった。
では小平はどこに位置しているのか。
小平は競り合うそれらの派閥と見解のうえに、不安定な形でのっかり、さまざまなやり方
でそれらの派閥の最終的な調停者となっていた(七九頁)。
つまり小平=バランサー論である。
阮銘が胡耀邦を追悼するとき、限りない哀惜の念に溢れている。
「人間として、胡耀邦は狡猾なところがまるでなく、政敵の非情さや狡猾さにも寛大であ
った。もっとも頑迷な政敵でさえ、誤った処分を受けたと思われれば、やはり名誉回復を
行った。中央組織部部長だったとき、薄一波を復活させ、彭真にも手を貸したが、二人は
のちに老人組のメンバーはして胡耀邦の失脚に決定的な役割を演じた」
(八二~八三頁)
。
保守派のイデオローグ胡喬木に対する阮銘の評価はたいへん厳しい。
胡喬木は毛沢東の知識人改造法が生み出した偽善者の典型で、毛沢東の秘書を務め、毛沢
東の意向を読みとること、毛沢東の意向に沿うように執筆することにたけていた。
変転常なき毛沢東の立場に自分の道を合わせ、毛沢東の秘書のうちただ一人いまなお生
き残っているのである。
小平が一九七三年四月に復活すると、胡喬木は犬馬の労をとることをいとわなかった。し
かし、小平が批判されると小平に追随したことを自己批判し、江青夫人に小平を告発した
書簡を送り、江青はそれを小平の犯罪の証拠として党内で回覧させた。
四人組が逮捕されると、胡喬木はふたたび涙ながらに自己批判を行い、小平にとりなして
くれるよう王震と力群に頼んだ。小平は胡喬木を許し、骨はないが裏切り者ではないと評
した(八四頁)
。
小平はこうして胡喬木、そして王震のような老人クラブの追従者には弱く、逆に魏京生、
傅月華のような青年活動家にはきわめて厳しい。阮銘はこう評している。
専制の本質は、マルクスが指摘しているように、他人を見下して人間以下のものとして扱
うところにあるが、これこそ小平の性格の核心にほかならない。人間の尊厳と誠意に対す
る軽視は驚くべきものがある。
書評一束
55
今回の民主化運動では二〇年間の安定のために、二〇万人を殺せと主張した(八四~八五
頁)
。
小平をこのように「専制君主」として描き、逆に胡耀邦をこう理想化している。
〔小平の性格は〕胡耀邦の性格からは遠い。胡耀邦は展望を有し、理想主義的な思想家で
あった。その点が一時的に小平の目的に役立ったのであった(85頁)
阮銘が徹底的な胡耀邦派であることがここから分かる。つまり、阮銘は自らの理想的な指
導者像を胡耀邦に求め、胡耀邦を基準として他の指導者たちを切り捨てているわけだ。阮
銘の評価が妥当か否かは即断しにくいが、中南海の生態観察にとって有効な情報である
ことは疑いない。
阮銘の解釈で最も興味深いのは、胡耀邦解任事件に際しての趙紫陽の立場であろう。
趙紫陽は胡耀邦の解任で決定的な役割を演じた。
趙紫陽は胡耀邦を同盟者としてではなく、やっかいなライバルとみなし、解任のために動
いていた。そして経済部門をほとんど自分個人に帰属させるよう主張し、改革に一番反対
する者に与し、陳雲、力群、胡喬木と同盟を結び、胡耀邦を攻撃した。 学生デモが起こ
る前に、党中央はすでに胡耀邦を解任することを決定していた。その決定は「八七年一〇
月に開かれる予定の第一三回党大会で公表されることになっていたが、学生運動が起こ
ったために公表を引き延ばすことができなくなった」と趙紫陽が述べている(一〇六~1
07頁)
とすれば、まさに胡耀邦の運命と趙紫陽の運命は瓜二つである。武力鎮圧の当事者から見
れば、
「狡兎」胡耀邦死して「走狗」趙紫陽煮らる、の構図になる。
それにしても中南海(社会主義を自称する政権の中枢)における権力闘争の一断面をここ
まで赤裸々に描いたのは珍しい。しかも職業的な反共主義者の分析ではなく、数年前まで
共産党のイデオロギー部門の中枢(中央党校理論研究室副主任)にいた人物の証言である
だけに、迫力がある。
では六四以後、
「中国はどこへ行くのか」について劉賓雁の見解を聞こう。
「中国の民主化運動のつぎの高まりは、中国の社会的危機、特に財政的危機が頂点に達し
たときに訪れるであろう」
(161頁)
趙紫陽の人物評。
不幸なことに、趙紫陽はゴルバチョフではなかった。しかし非常に怜悧な官僚であった。
胡耀邦とは異なり、下級レベルから段階的に抜擢されて最高級レベルに至ったのである。
その結果、幹部のあらゆる活動規則に精通し、常に注意深くふるまい、決して思慮を欠い
たり、衝動的に行動したりすることがなかった。
趙紫陽はなぜゴルバチョフに秘密を暴露したのか。
学生を殺せという小平の命令に従えば、その責任はいつの日か自分にふりかかってくる。
他方、命令を受け入れることを拒否すれば、一時的には大きな打撃を受けるかもしれない
が、党と軍には自分を支持し、小平と老人組の学生運動に対する態度に反対する人が少な
書評一束
56
くないに違いない。さらに小平のやることは、小平、楊尚昆、李鵬をジレンマに陥れるで
あろう。党の多数派は新たな選択を行うであろう──自分を原職に復帰させなくとも、少
なくとも名誉回復を行うであろう(174頁)
趙紫陽問題についての劉賓雁の評価は、徐剛とも、阮銘のそれとも異なっている。徐剛や
阮銘が胡耀邦サイドに立って、趙紫陽を弾劾するのに対して、胡耀邦との関係が最も深か
った劉賓雁は、むしろ趙紫陽のしたたかな態度を冷静に分析していることが特徴的であ
る。
四〇年に及ぶ支配の間に、共産党は大きな誤りと一連のより小さな誤りをたえず犯して
きており、その腐敗と無能は誰の目にも明らかである。それでは、なぜ中国人はあらゆる
政治権力を独占することを依然として党に許しているのであろうか。
民主化運動の参加者は六月四日まで共産党を抽象的に信じ込み、小平というたった一人
の男に依存していれば、中国を改革できると考えていたからである。
六四虐殺によって、それらすべてに終止符が打たれた(181~182頁)
劉賓雁は六四によって「小平改革に対する幻想には終止符が打たれた」と断言する。しか
し、中国の行方には政治のほかにも大きな困難が待ち構えている。すなわち人口爆発や環
境破壊である。
中国の森林と草地はひどく損なわれている。いまや森林は一分ごとに二ヘクタールずつ
地表から姿を消している。
水と大気の汚染は驚くべきレベルに達している。政府は汚染の除去に手をつけなかった
し、手をつけてもむだな努力に終わった。膨大な人口と痛めつけられた環境によって、中
国は地球温暖化の主要な貢献者の一つになるであろう。老人組に代表される政府に同じ
ような古いやり方で支配することを許していれば、中国は世界にとって自然の破壊者、飢
餓、疾病、そして世界の安定と自然環境への脅威になることしかできないであろう(18
6頁)
これらの困難な条件のもとで、民主化運動はどう進むのか。闘争は非暴力、かつ漸進的な
ものになろうと展望している。
今後しばらく闘争の主要な形態は平和的で非暴力的であろう。中国には現政権にとって
代わる政治勢力がない。しかし、その状況もまた、外部の勢力が救済にやってくるのをい
つも待っている受身の人々の態度を変えるに違いない。共産党の全国に対する統制が弱
まり、省、市、県の自治が発展するにつれて、人々の運動は底辺から盛り上がってくるで
あろう。
社会的危機と大衆運動に押されて、共産党内の穏健な勢力が政府内の強硬派とって代わ
るかもしれない。
人治が法治を圧倒する中国のような国では、小平や老人組の他のメンバーが死ねば、現在
の政治情勢に大きな影響を及ぼし、現存するあらゆる傾向を加速するであろう(187~
188頁)
書評一束
57
かくて劉賓雁の結論は次のごとくである。
中国情勢は非常に複雑であって、何が起こるか予想しにくい。しかし、確実なことが一つ
ある。つまり、六四虐殺は民主化運動に打撃を与えたが……人民の決意をも強化したこと
である。
日本の侵略者が一四年間も中国を占領してときでさえ、彼らは中国人民を真に団結させ
ることはなかった。しかし、小平はたった一日でそれを実現した。六四の虐殺は全世界の
中国人に衝撃を与え、共産党の武力による暴力的支配に対抗する未曾有の強さの戦線を
形成した(188頁)
。
一四年と一日の対比は鮮明だが、内容的にはやはり「人民の覚醒」しか語っていない。そ
れ以上をいま語ることは空語に等しいのであろう。
本書を読み終えて抱くのは、共産党や社会主義に対する幻想が消えたからには、
「信なく
ば立たず」の古今の真理が貫徹するであろうという予感である。一九一九年の五四運動を
母体として生まれた中国共産党、四九年に生まれた中国社会主義は一九八九年の六四虐
殺を通じて、その歴史的使命を終えようとしている。どこがどのように誤っていたのか、
それを再考させる迫力を本書はもっている。
25 書評の鑑・高木誠一郎仁兄への手紙
逆耳順耳、
『蒼蒼』第三二号〔九〇年六月一〇日発行〕
アジア政経学会の機関誌『アジア研究』第三五巻第三号(一九八九年三月)に高木誠一郎
が山際晃、毛里和子編『現代中国とソ連』
(日本国際問題研究所、一九八七年、三六五頁)
について、本格的な書評を書いている。
一読三嘆。大いに意気投合したので、筆者の高木宛てにファン・レターを書いてみた。題
して「書評の鑑」
。
高木誠一郎仁兄:
書評の鑑ともいうべき玉稿を拝読しました。もしも私が学部の三、四年生あるいは修士課
程あたりでゼミを開いているならば、この本(『現代中国とソ連』
)と仁兄の書評とを逐一
精査して、書評で指摘されているポイントが妥当であるかどうかを点検するでありまし
ょう。
その結果はおそらく九割方の指摘について、大兄のご指摘が正当である、ということにな
りましょう。むろん、点検を経る前に、このような予断をもつのは、よくないことですが、
この道も三〇年近くなると、およその目見当はつくわけです。論評というものは、どこ
が、なぜ、どのように、よくないのかを具体的に指摘する必要がありますが、大兄の論評
はこの条件を満たしています。これは書評の名において、仲間ぼめのコマーシャルか、さ
もなくば、切捨て御免のこきおろししかない風土の中では際立った、よい例に数えること
ができましょう。
条理を兼ね備えた論評は、本人にとっても得難い糧になりますし、また後学にとっても、
今後の研究課題の所在を示唆するものとして、たいへん有益です。
書評一束
58
筆者と評者との厳しく、かつ厳正な論議を通じて、学問の現状とその問題点が明らかにな
り、したがって、今後特に力点をおいて研究すべき分野なりポイントなりがどこなのかが
明確になります。
これらがほとんどと言ってよいほど欠如しているわが現代中国論の状況は灯台なき航
海、海図なき航海に似ており、成功を得られるはずはないと私は密かに危惧しております
が、遺憾ながら、灯台は現れず、海図も行方不明の惨憺たる状況が続いています。
久し振りに、胸のすくようなコメントを読んでたいへん愉快でした。ただしそれにして
も、ミスプリが多すぎますねえ。おそらく著者校正をスキップし(大兄のことだから、ま
たアメリカ旅行中?)
、編集部レベルでの校正を手抜きしたのでしょう(アルバイト学生
に委ねたのか、それとも印刷所にまかせきりですかね)
。いずれにせよ、同誌編集部の見
識が疑われます。中身がよいだけに、ケアレスミスは甚だ遺憾です。ゆめゆめ編集部を信
頼なされないよう。校正(後世)恐るべし。不一。
26『週刊読書人』91年3月4日
戴晴『毛沢東と中国知識人』
久し振りに読み応えのある本を読んで、得るところが大きかった。訳者の努力を多とした
い。著者戴晴はおそらく現代中国で最も知名度の高い女性記者である。一九八九年二月、
ブッシュ大統領の訪中答礼宴に招かれた改革派知識人の一人。『世界経済導報』欽本立編
集長解任への抗議デモに始まり、天安門広場ハンストの最終段階では、学生たちの広場撤
退を説得するなど大活躍した。天安門事件直後の七月一四日逮捕、悪名高き秦城監獄に投
獄。九〇年二月公安局招待所に移され、五月九日に釈放されたが、『光明日報』への職場
復帰はできず「静養と自宅学習」を命ぜられたままである。一九四一年生まれ、革命烈士
の子女、故葉剣英の養女、ハルピン軍事工程学院卒という生まれも育ちもよい戴晴がなぜ
「動乱記者」となり、中国の民主化運動のために献身するようになったのか、その背景を
本書は間接的に物語る。
本書は中国革命のなかで翻弄され、不幸な運命をたどった三人の知識人すなわち王実味、
梁漱溟、儲安平の姿を権力者毛沢東との関わりの視点から描いたものである。王実味は延
安期の整風運動に際して、トロツキー分子として党を追われ、延安撤退のドサクサ紛れに
銃殺された。私は王凡西『中国トロツキスト回顧録』を訳した縁で、王凡西が亡友の名誉
回復のために書いた「王実味と王実味問題を語る」(香港『九十年代』八五年五期)を読
んでおり、冤罪事件であることは承知していたが、今回戴晴の分析を読んで一層理解を深
めた。夫の冤罪と殺害を五〇年間も知らされなかった未亡人の上訴のくだりで私は絶句
した。このテーマについては、楊中美の『遵義会議与延安整風』(香港奔馬出版社、八九
年)が参考になる。
梁漱溟は一九三〇年代に、上からの農村復興運動ともいうべき「郷村建設運動」を指導し
たことで著名である。梁漱溟は毛沢東と同年に生まれ、二人は奇遇で結ばれた。毛沢東が
楊昌齋の家に居候して北京大学図書館員をしていたとき、梁漱溟はすでに北京大学教授
書評一束
59
であり、楊昌齋教授と同僚であった。一九三八年に梁漱溟は毛沢東を延安に訪ね、抗日問
題を語り合う。日本降服直後の四五年にも梁漱溟は延安に毛沢東を訪ね、建国について語
り合っている。五〇年には毛沢東の自宅によばれ、新政府への参加を要請されたが、返答
を保留。五三年、「過渡期の総路線」問題で毛沢東と激突し、「梁漱溟はペンで人を殺す
もの」と悪罵された。以後隠遁の生活に入り、八八年に九五歳で死去。この梁漱溟論はい
ま一つ戴晴らしいパッションが感じられない。やはりこれは、汪東林『梁漱溟与毛沢東』
(吉林人民出版社、八九年)に従い、筆者を汪東林とした方がよいと思われる。
本書の白眉は儲安平論である。反右派闘争の内情、そのデタラメぶりを実によく描いてい
る。『光明日報』記者戴晴にとって、反右派闘争の標的儲安平(当時『光明日報』編集長)
の運命をたどることは、中国文化人の「屍々累々の戦場」
「最も悲惨な最も恥辱にみちた」
過程を調べることであるが、戴晴は敢えてこのタブーに挑戦した。これを掲載した『文匯
月刊』は天安門事件後に廃刊処分を受けた。儲安平研究に際しては、小林弘二の『観察』
誌解題が参考になるはずである。
最後にケアレス・ミスについて。八〇頁の楊西昆は楊尚昆のミス。一二〇頁の劉少奇・鄧
小平は劉伯承・鄧小平とすべき。一二八頁彭徳海は彭徳懐。一五九頁以下黎澍が何回も出
てくるが、すべて黎の誤り。再版の際に改めてほしいものである。
〔追記〕校正の機会に、その後の経緯を書き加えておく。
香港『鏡報』(九一年一期)は、「何新風波与袁木失算」のなかで、李瑞環が調査を命じ
たと報道した。『人民日報』(一月一五日付)は、談話録を「単行本」としてすでに出版
したと報じた。一月一五日夜BBCの中国語放送はロンドンからの矢吹への電話取材を
放送した。一月二三日、矢吹は『人民日報』東京特派員于青記者と懇談した。ただし、問
題解決への進展なし。
27 書評『北京市朝陽区建国門外』室木穣著
文芸春秋、掲載誌『VIEWS』911225
最良の中国最新レポートの一冊である。評者は東京でのチャイナ・ウオッチング体験(拙
著『ペキノロジー:世紀末中国事情』
)と一つ一つ対照させつつ、大いに納得し、堪能し
た。その要素として次の五点を挙げることができよう。
1 著者は三十台前半、若い柔軟な感性をもつ。2 大学で中国語・中国文学を学び、さらに
留学を体験しており、観察は皮相ではない。3 ビジネスの現場で体を張って交渉してきた
生活を踏まえている。4 狂乱物価から天安門事件、改革開放への再転換までのドラマに満
ちた時期との遭遇。5 最後に抑制のきいた達意の文章力。
サワリをいくつか。大混乱の空港の地獄絵。
「わざと嫌がらせをする」切符売場の女姓た
ち。上から下まで「職務権限をめいっぱい行使し」
、その加虐的喜びに満足しているかの
ごとき横顔。
「まちがいなく当方の誤りである、しかし今日は直せないので、明日また来
てくれ」の居直り。万元単位の浪費と一元の節約がツイをなす金銭感覚。秀水街での絹製
下着の値切り方、などなど。圧巻はやはり天安門事件前後だ。戒厳令前夜、タクシーの運
書評一束
60
転手がつぶやいた一言「趙紫陽が失脚し、軍隊がやってくる」を酔眼で聞き流し後悔する
場面。著者は鎮圧以後の引締めのなかで、したたかに生きている庶民の表情を想起してこ
う結ぶ。
「中国での生活の手触りのようなものを失わないようにしながら、これからは東
京で、日本と中国の間をつなぐ良い仕事ができればと思っています」。評者の唯一の不満
は、天安門広場での死者に関する部分である。これついては『現代』九一年一〇月号の林
澄報告も重要な資料である。追記なり補注が欲しかった。
28 書評『劉賓雁自伝』
鈴木博訳、みすず書房、掲載誌『東方』129 号、91 年12月号
『収容所群島』を書いて祖国を追放されたソルジェニツィンが、もはや帰国の障害はなくな
ったと新聞が伝えているが、「中国のソルジェニツィン」劉賓雁はいつ帰国できるであろう
か。作品の肌合はだいぶ違うが、それぞれの体制の深い病根を剔抉した点では、両者に共通
性があると思う。劉賓雁のものは、私はかなり読んできたつもりであり、小著『中国のペレ
ストロイカ』では、人物紹介を試みたことさえある。しかし、いま『自伝』を通読し、改め
て深い感動を覚えた。私の現代中国認識に最大の衝撃を与えたものの一つが劉賓雁の報告文
学であったことを再確認した次第である。
劉賓雁の父は子供のころ、ロシア人の子守をしてロシア語を身につけた。劉賓雁は父から貧
富の差なきソ連の話を聞かされて育ち、子供の頃からロシア語を学んだ。劉賓雁の顔立ちは
「ロシアの没落貴族風」(二一頁)の雰囲気があるが、これはロシア文学に親しんだためら
しい。十九歳で入党しているが、五七年から七九年まで働き盛りを右派分子の汚名のなかで
生きた。その党員生活を回顧していう。「個人を軽がるしく信じたためにひっかかったペテ
ンはあまり大きくなかったが、党組織を軽がるしく信じたためにこうむった損失のほうがど
れだけ大きかったかわからない」(三三頁)。
共産党はすべてを管理する、ただし、共産党自身を管理することはできていない──という
名文句は、名誉回復後の第一作『人と妖の間』に出てくるが、この一句は私にとって目から
ウロコが落ちるように新鮮であった。類似のコメントを挙げると、「新年(八五年)の休日
にわが家にやって来た客人のなかに、期せずして、四九年に国民党の支配が崩壊したときの
情況に触れ、目前の情況とくらべた人が三人いた……はては当時の国民党と現在の共産党で
は、どっちが腐敗しているだろうかと言う人さえいた」(二三九頁)。
つまり憎悪の的は、昔国民党、今共産党である。数年して官倒問題が起こり、天安門事件が
起こり、腐敗の現実が白日のもとにさらされた。
書評一束
61
劉賓雁と故・胡耀邦のつきあいは長い。まず劉賓雁が右派分子とされたとき、「『中国青年
報』では編集部員の一五%にあたる一七人が右派にされたが、胡耀邦が干渉していなけれ
ば、……この二倍でもおさまらなかっただろう」(三三七頁)。
文革が起こると、右派分子にはさらなる苦痛が加わった。「紅衛兵が(実権派)胡耀邦を連
れてきて……わたしも引きずりだした……この批判闘争のあいだ、わたしは胡耀邦をひと目
も見なかった」(三三八頁)。
そして運命は七九年にまた胡耀邦と劉賓雁を結ぶ。「わたしがこの年初めに名誉回復された
のは、胡耀邦が指示した結果であることに疑問の余地はない」(三三九頁)。
このような交流のなかで、劉賓雁は胡耀邦をたいへん敬愛してきたが、批判の目も曇ってい
ない。胡耀邦が苦境に立たされていることを承知していたものの、「八六年の夏にいたって
『十三大』後に降板することを決定し、ひたすら妥協を続けたことは、明らかに軟弱にすぎ
た」「胡耀邦自身の性格の弱点も、敗北を招いた原因である」(三四六頁)。
結論的にいう。胡耀邦の悲劇は「歴史的条件によってもたらされたもの」であり、「生まれ
るのが十年早すぎた」(三五〇頁)。高層幹部のなかで、胡のように手が汚れていない者
は、きわめて少ない。これこそ「胡耀邦が中央組織部部長の在任中に右派分子の九九%以上
を名誉回復させるさいみせた勇敢で断固とした態度の重要な原因にほかならない」(三五〇
頁)。劉賓雁は共青団のボス胡耀邦をこのように描き、返す刀で保守派を鋭く糾弾する──
胡耀邦の尽力で名誉回復したにもかかわらず、彼が苦境に立たされるや「卑怯にも裏切り、
密告という手段で致命的なひと突きを浴びせた者たちは、いまなお自分の良心にひらめくも
のをまったく見出せない」(三五五頁)。著者は胡耀邦のなかに中国民主化の希望を見てお
り、保守勢力がいかに胡耀邦に圧力を加えたかを時には名指しで暴露している。この意味で
は、本書は著者の文学的自伝・精神形成史であるとともに、中共四〇年のイデオロギー闘争
裏面史であり、行間を読むと、かなりの中国通になること請合いである。最後に朝鮮戦争に
ついての鄧拓(『人民日報』社長兼編集長)の証言が私には印象深い。劉賓雁は鄧拓団長の
五六年訪ソに通訳として同行したさい、朝鮮戦争は「南朝鮮がさきに発砲したのか、あるい
は北朝鮮がさきに始めたのか」と質問した。「鄧拓は間髪をいれず(北だと─矢吹)教えて
くれた。その率直で後難を気にかけないところに(彼は)とても感動した」(六五頁)。読
者は随所に、民主化への地下水脈を発見できるであろう。
29『蒼蒼』91年12月、逆耳順耳、第41号
中央九月来信問題に関わる日中学術交流
書評一束
62
井岡山のゲリラ時代の文件に「中央九月来信」と俗称される資料がある。こ
れは上海の周恩来から井岡山の毛沢東のもとに届いた指示で、重要な史料で
ある。
『周恩来選集・上』に収められた際に、愚劣にも(朱毛の対立を隠蔽しよう
として)一部が削除されてしまった。この削除問題を発見した中共党史研究
者・村田忠禧氏は、まず『中国研究月報』(八四年八月号)で指摘し、つい
で「一九二九年の毛沢東」(『東大教養学部外国語科紀要』三四巻五号)で
批判した。私は前者を読んでいたので、『中共中央文件選集』第五巻では削
除箇所が復旧されているのに気づき、まず削除という愚劣な政治主義を批判
し、ついで「ようやく史料を史料として扱う態度が生まれたか」と補注に書
き込んだ。
ところがこうしたややこしい説明は新書版にはなじまない。そのうえ原稿枚
数は大幅に超過したので、バッサリ削除した。しかし、なんとも悔しい。そ
こで一計を案じて「引用文献一覧」を作り、削除した出典、本文などについ
て痕跡だけは残すために、巻末にリストを作った。こうして本文からは削除
されたのに「引用文献」だけが生きているという奇妙な箇所も現れた。単に
身贔屓で文献を挙げたと誤解する向きもあるかもしれないが、原稿段階では
すべて頁数まで明記した具体的引用である。私の初稿に対して、「引用」と
「引用」の間に著者の地の文があるみたいだと酷評し、これではまるで読者
は鼻面を引き回されていることになる、と「引用退治」に辣腕を振るった若
い編集者の見識で、読み易い本になったわけだが、その過程で生じた「間接
的引用」についての苦肉の策が正体不明の「引用文献一覧」にほかならな
い。
いささかすっきりしない結末ではあるが、このモヤモヤを吹き飛ばすような
朗報が北京旅行から戻ったばかりの村田忠禧から届いた。中央党校の蓋軍教
授が村田に説明したところによると、『周恩来選集』で削除した「朱毛問
題」の部分は、日本の学者村田忠禧教授の指摘を受けて『中共中央文件選
集』第五巻において原件を復活した、由である。
この話にはもう一つおまけがつく。村田は某所で『中共中央文件選集』第五
巻「党内版」を確かめる機会を得たが、そこでは『周恩来選集』を見よ、と
説明されていた。ここから『周恩来選集』=『文件選集(党内版)』と『文
書評一束
63
件選集(公開版)』の異同を確認できるわけである。ここでは「党内版」は
「試行版」であり、「公開版」は識者の示教を経て改善された形である。
中国の専門家からこう告げられた時の村田の得意を思うべし。村田にとって
は「研究者冥利に尽きる」ことであろうし、日中学術交流にとっては、実に
有意義な、真に「学術交流」の名にふさわしい交流というべきである。交流
の名において誤解の増幅が行われ、あるいは学術の名において政治が行われ
ている例は少なくない。こうした苦々しい風潮のもと、書き留めて一服の清
涼剤とする。以下は『毛沢東と周恩来』に対する村田忠禧の批判的コメント
である。──エピソードの紹介の類が多すぎる気がします。「現代新書」と
いう性格もあるので、やむをえないことなのかも知れませんし、それらは確
かに面白い内容ですが、限られた枚数であるにもかかわらず、それらの部分
が占める割合が多すぎ、本来明らかにすべき毛沢東と周恩来の関係が充分に
明らかにされているとは思えません。たとえば前述の九月来信前後の事柄で
すが、これは近年の中共党史研究の重大成果と私は今でも思っていること
で、いわゆる毛沢東の農村から都市を包囲する革命戦略の形成に周恩来が果
たした役割について、中国で優れた研究成果および資料が公開されたことが
挙げられます。寧都会議についての研究についても同様のことがいえます。
遵義会議についても、もう少し突っ込んだ紹介が欲しかった気がします。
また延安期の毛沢東と周恩来の関係についてはほとんど省略されていること
とか、彭徳懐解任のころから、周恩来が基本的に毛沢東に従順になってしま
った、というご指摘はその通りともいえますが、さりとて六二年前後の「調
整期」、ことに文芸政策などを見ると、周恩来らはかなり明確な認識をもっ
て毛沢東がもたらした極左思想を是正しようとしており、だからこそ六二年
夏以降、毛沢東が反撃したと思われるのです(以下、割愛)。納得。党史専
門家よ、早くモノグラフを書いてド素人を啓発して下さい。
30『ダライラマ自伝』山際素男訳
文芸春秋、掲載紙『東京新聞』92年2月23日
人間ダライラマはたいへん興味深い存在である。二〇年前に書かれた『チベットわが祖
国──ダライラマ自叙伝』を読んで、そう感じたが、本書を読んでその思いを深くし
た。青年ダライラマは風雪の試練を経てますます魅力的に円熟してきたようだ。
書評一束
64
インドに亡命し、ダラムサラに亡命政府を組織するまでの過程(本書前半)は、旧自叙
伝と一部重複するが、後半には亡命以後、パンチェン・ラマの死、ラサ暴動と戒厳令、
ノーベル賞受賞など九〇年五月までの出来事が平明な口調で語られている。
たとえば「お告げ師」や「生まれ変わり」などチベット仏教の秘儀をこう説いている。
「内閣や、わたし自身の良心に相談するのと同じようにお告げ師に意見を求めている。
神々はわたしの“上院”で、内閣はわたしの“下院”なのだ」「(お告げ師の)宣告の
妥当性を科学的調査が結論的に証明するのも反証をあげるのもむずかしいのではないか
と思う」「いつの日かこの現象を解明してみたいものだと思っている」「ここで断って
おくが、わたしには“透視力”はない」「わたしが科学的調査をやってみたいと思って
いるもう一つの経験分野はチベット医学である」。ここには科学的真実と宗教的真実に
ついての見解が率直に語られている。肝心の政治問題。「チベット平和解放についての
十七カ条協定」の第十三条に「中国は針一本、糸一本取らない」とあったが、「言葉と
裏腹に、国そのものを略奪していったのだ」という告発は、中国共産党のチベット政策
の失敗を弾劾してあますところがない。チベット問題を考えるうえで重要な一冊であ
り、チベット学の発展に寄与するところ大きいであろう。訳文はこなれており読み易
い。不注意ミスをあげれば、一一七頁の第一回共産党大会は全国人民代表大会、一三二
頁のマンツェは〈吐蕃〉でなく〈蛮子〉、三一七頁の人民代表会議員は全国人民代表と
すべきか。
31『蒼蒼』第42号、92年2月
内山書店『中国図書』一二月号を褒める
「学術動態・チベットの歴史と現状をめぐって」(月刊『中国図書』一九九一
年一二月号)を読んで、啓発されるところ多かった。若干の抜き書きをしてお
く。
九一年三月一七~一九日、北京で「チベット:歴史と現状」と題した「学術」
(カッコ付き)討論会が行われた。これは中国社会科学雑誌社と中国蔵学雑誌
社の共催で開かれたもので、記録は『中国社会科学』(九一年四期)に掲げら
れている。論点 1 中国の最大版図問題。清朝が統一を完成してから帝国主義
の侵略が始まる前の清朝の版図。すなわち一八世紀四〇年代からアヘン戦争
以前の版図を版図とする。これは復旦大学の地理学者譚其驤が一九八一年に
提起した説である。論点 2 チベットと中国の歴史的関係。一二四七年、蒙古汗
国とチベットの宗教指導者との間で平和協定が結ばれ、チベットは平和的に
(?)蒙古に帰順した。のち、フビライが南宋を攻め、国号を元と改め、チベ
ット地方を元朝中央政府管轄下の一行政区とし、一二六四年、仏教と地方行政
の事務を総管する総政院をおいて主権を行使したことで確認されるとする。
以後明朝、清朝はこれを踏襲した。論点 3 国家は完全な主権をもって初めて
書評一束
65
経済を発展させ、人民の声明、財産を保護し、人民の基本的人権を守ることが
できる。それゆえ、人権原則は主権原則に従属する。人権の名において主権原
則を破り、内政に干渉することは許されない。論点 4 民族自決権の問題。民族
自決権を享有する民族とは、植民地あるいは非自治領土の人民および主権国
家を指す。中国内部の少数民族は、ここでいう「民族」に含まれない。このよ
うにチベット問題を考えるいくつかの基本的視点を紹介したのち、一言、鋭く
こうコメントする。「これらのすべての問題の討議に欠けているのは、チベッ
トの人びとが、実際にどう思っているかということである」。そして最後にト
ドメの一発。「学術と政治は密接な関係があるが、政治の宣伝物になったもの
は学術ではない」。筆者名は伏せてあるので、どなたか知らぬが素晴らしい見
識である。この論者に中国チベット関係の過去・現在・未来を書いてほしいも
のだ。なお、この雑誌に『客家学研究』第二輯(呉沢主編、上海人民出版社)
も紹介されており、これも意義のある紹介だ。これらの知見を踏まえて、某現
代新書『客家』の誤謬を速やかに訂正してほしいですな。李鵬は客家であるか
ら鄧小平と血でつながっているなどという俗論を早く退治してほしい。私は
度々質問されて閉口している。
32『蒼蒼』第43号、92年4月
杜撰極まる『世界経済白書』(平成三年
版)中国の項
日中国交正常化二〇周年、ギョーカイへの新規参入が目立つ。新入イジメの
つもりはないが、ギョーカイのルール(というほどでもないが)を手ほどき
しよう。
同白書資料篇二二三頁に中国地図がある。各省・市・自治区や地名のミスを
いくつか。海南省がみなしごハッチみたいに置かれているが、これは中南地
区に属すはず。長江に Zhanjiang とピンインがついているが、Changjiang
である。ZとC、anとangの違いを教えることにかなりの時間を費やし
ている中国語教師はこういうミスは断じて見逃さない。地図では「ミン南開
発区」とあり、説明には「南デルタ」とある。南(ルビ・ビンナン)で統一
すべし。日本語の音「ビン」を調べるためには、白石和良方式を学ぶべし
(『蒼蒼』41~42号)。ところで「南デルタ」なるものはあるか。州・
厦門は九竜江のデルタ、泉州は晋江のデルタだが、両者をまとめるときは通
常「南三角区」とはいうが、「三角州」(デルタ)とはいわない。長江デル
タや珠江デルタとは異なる。
書評一束
66
二二二頁に「中国の行政機関」の表がある。楊尚昆、楊泰芳(郵電部部
長)、楊振懐(水利部部長)など楊姓がすべて揚子江の揚になっている。秦
基偉、鄒家華、李鉄映、宋健、王丙乾など超有名人なのに、彼らの生年欄が
空白になっている。これは三菱・ハンドブックで手軽に分かるのに(『中国
情報人物事典』を引くまでもなく)。銭其琛(外交部部長)に至っては、
「」が行方不明である。これは失礼ですな。
白書本篇三四三頁(資料篇四三六頁にも再録)に「中国の郷鎮企業の推移」
なるグラフがある。そこで「工業総生産に占める郷鎮企業の生産シェア」が
八九年に三三・七%と示されている。ここでは比較不可能なものを比較する
誤りを犯している。「工業総生産」と比較できるのは、「郷鎮企業のなかの
工業生産」のはず。八九年の工業総生産は二兆二〇一七億元であり、郷鎮企
業の工業生産は五二四四億元であるから、この比率は三三・七%ではなく、
二三・八%になる。では「国営企業のシェア」を六六・三%から七二・二%
に改めれば、それでよいのか。国営企業というのは、全人民所有制と同義だ
が、これに対比されるのは、1 都市集団所有制、2 都市の個体所有制、3 農村
の集団所有制、4 農村の個体所有制、5 その他の所有制(合弁企業など)、
である。郷鎮工業(34)の残りの部分は、国営企業のほかに、都市集団・個
体所有制、その他所有制が含まれる。
33 書評『現代中国知識人批判』
掲載誌『週刊読書人』92年11月9日
劉暁波著、野沢俊敬訳、徳間書店
本訳書の原文は「中国当代知識分子与政治」であり、天安門事件の直前、彼のアメリカ
滞在中に執筆されたものである。大陸では出版を許されず、香港『争鳴』に八九~九一
年に連載、のち台湾で単行本として出版されている。劉暁波は一九五五年吉林省生まれ
の青年思想家である。「文革が始まったとき、私は一一歳だったが、およそ私が参加で
きる活動にはすべて全力で参加した。いまでも私は「忠の字舞」のリズム、旋律、踊り
の動作をまだはっきりと覚えており、毛沢東の語録と詩詞をまだ暗唱できるし、革命に
関するスローガンをまだ覚えている」「不思議なのは、文革が終わると、四人組とその
仲間を除いて、全中国のあらゆる人が受難者と反文革の英雄になったことだ……まるで
すべての者がそこに身をおいたこの大災難がわずか数人によってもたらされたかのよう
であった」(七五頁)。文革が彼に政治の悪を教え、知識人の思想的、論理的弱さを教
えた。「完膚なきまで」という表現があるが、本書はまさに完膚なきまでの中国知識人
批判である。いわく「中国の知識人の否定は自分に向けられることがめったになく、も
書評一束
67
っぱら他人に向けられる」「中国知識人の伝統である自己美化に満ちているが、「愚
昧」な大衆への呼びかけが欠けており、人間の個性、権利、自由に対する関心が欠けて
いる」(九頁)。「中国人には由来、誠実で自覚的な懺悔の精神が欠けており、いつも
すべての錯誤と責任を他人に押しつけ、成功と栄誉と真理を自分のものとしてきた」
(六九頁)などなど。劉暁波がこのように知識人を批判するとき、その対象はたとえば
劉賓雁や新権威主義論者、そして李沢厚ととどまるところを知らない。劉賓雁『第二の
忠誠』は、自らを除籍した党に対してひたすら思いをよせ、二度目の復権を期待してい
るが、専制者の恩恵による復権を期待することは愚昧の極みを示す心理状態ではない
か。専制者が復権させる権力をもつことは、ふたたび地獄に突き落とす権力ももつこと
だ(三九~四〇頁)と問題の所在を剔抉する。魯迅の「中途転向」批判も興味深い。魯
迅の三〇年代の雑感文を読むと、誠実、賢明、深刻、独立した知者のイメージが消え
て、残るのは個人的損失、私的怨恨、政治的功利だけに拘泥する凡才のイメージであ
る。狭量で器が小さく、理屈が通らなくなる、と手厳しい批判が飛び出す(二二二
頁)。劉暁波は天安門広場で武力鎮圧が行われる直前からハンストを続けていた。そし
て広場の制圧の過程を目撃し、その場で逮捕された。釈放後に広場では死者を実見しな
かったと証言して話題を呼んだことがある。「歴史に対して責任を負う立場」から、敢
えて真実の証言を行ったものであり、評者はその知的誠実性への共感をかつて記した
(拙編著『チャイナ・クライシス重要文献』第三巻一六九頁、拙著『保守派vs改革
派・中国の権力闘争』四九頁)。訳文は読み易いし、注釈、解説も親切である。一つ注
文をつければ、八九年の民主化運動に対して、劉暁波の思想と行動が当局をいかに驚愕
させたかについての指摘が不十分ではないか。当局が事後に編集した『劉暁波其人其
事』(中国青年出版社、八九年九月)などを読むと、劉暁波の超過激な発想のインパク
トが当局をいかに戦慄させたかがよく分かる。その衝撃度は方励之を超えていたとさえ
私は感じている。
34『中国的転変』解説
阮銘著、鈴木博訳
社会思想社現代教養文庫、1993年
190-199ページ
私はチャイナ・ウオッチャーとして現代中国の政治経済の動向を分析しているが、『人
民日報』をはじめとして中国当局が公表する情報だけでは、隔靴掻痒の感を否めない。
政治局メンバーであり、しばしばマスコミに登場する指導者がどんな人物かを知ろうと
しても、その輪郭さえぼけている。たとえば胡耀邦の場合、そのリベラルな性格を私が
認識したのは、旧右派分子林希翎(一九三五年~ )の証言を通じてであった。一九五
書評一束
68
六年当時共産主義青年団第一書記であった胡耀邦が、二一歳の人民大学法律学科学生で
あった彼女を『中国青年報』の特約記者に委嘱した経緯を彼女から直接聞いて深い印象
を抱いた(拙著『ポスト鄧小平』にインタビューを収めた。蒼蒼社、一九八八年)。
本書の著者阮銘は、胡耀邦のイメージをくっきり浮かび上がらせるに足る、実に豊富な
情報を提供し続けてくれる。『保守派 vs 改革派──中国の権力闘争』(蒼蒼社、一九
九一年)を書いたとき、私は冒頭に阮銘の分析を引用した。本訳書の補論として収めら
れている「鄧小平と胡耀邦」が香港の雑誌『百姓』(一九九一年七月一日号)に発表さ
れ、私は目からウロコが落ちる思いで愛読したのであった。
著者阮銘は一九三一年、上海生まれ。燕京大学、清華大学で新民主主義青年団(のちの
共産主義青年団)書記を務めたあと、『北京日報』理論部主任、中共中央宣伝部調査研
究室主任などを務めた。七七年から八二年にかけて、中共中央党校の第二副校長に就任
した胡耀邦のもとで、同党校理論研究室副主任になった。しかしその民主化思想、開明
的思想のゆえに、八二年に王震(一九〇八~一九九三年、元中日友好協会名誉会長、国
家副主席)が中央党校校長になると、「ブルジョア自由化」のカドで八三年に共産党か
ら除名された。八八年一〇月にアメリカへ行き、コロンビア大学、ミシガン大学、プリ
ンストン大学などで研究を続けている。
「中国のサハロフ」方励之や、王若望(上海市作家協会理事)、劉賓雁(報告文学作
家、在米)などが除名されたのは、胡耀邦解任後の一九八七年一月のことであり、阮銘
はいわば除名組の先輩格である。中国イデオロギー界の内情を知るには、阮銘の書いた
ものが最も参考になる、と私は信じている。
私が阮銘の証言から教えられたのは、たとえば次のような点であった。
・胡耀邦と鄧小平の人脈について
胡耀邦と鄧小平の関係は「工作関係」「指導者と被指導者の関係」であり、派閥関係や
腹心といった特殊な関係があったわけではない。七七年初めに胡耀邦が中共中央党校副
校長に就任したのは、華国鋒(当時党主席)の主張によるものであり、鄧小平の復活よ
り半年前のことであった。華国鋒は自らは校長となり、胡耀邦に実務をまかせた。胡耀
邦が真理の基準についての討論(「真理の基準は実践にあり」を提起して毛沢東思想を
換骨奪胎した)を発意したとき、鄧小平は事前には知らなかった。胡耀邦の意図も反華
国鋒にはなく、華国鋒にとって代わろうとする意図などさらさらなかった。しかし、華
国鋒は汪東興(元毛沢東のボディ・ガードで当時党副主席)とその手下の教条主義理論
家の意見ばかり聞いて、自らを孤立させてしまった。元来は華国鋒を支持していた葉剣
書評一束
69
英(当時党副主席)でさえも、支持できなくなり、政治局は合法的な手段で華国鋒の権
力をしだいに削減した。
中央党校は中国共産党にとってイデオロギー教育の本山である。最近は「第一神学院」
などと揶揄されているが(ちなみに中国人民大学が「第二神学院」と揶揄される)、毛
沢東時代から鄧小平時代への転換に際して、胡耀邦が事実上主宰する中央党校が果たし
た役割はきわめて大きなものがあった。胡耀邦がそこへ移った経緯も一般に誤解されて
きた。
・鄧小平と華国鋒、葉剣英の関係について
鄧小平(当時党副主席)は当時、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー・スリーであった。政
治局の多数の者が華国鋒に代えて鄧小平を主席に推挙しようとしたとき、鄧小平は断っ
た。「主席になる資格はあるが、ならない方がよい。若い人の方が有利だ」と。そこで
当時六〇歳前後であった胡耀邦(一九一五~一九八九)、趙紫陽(一九一九~
)、
姚依林(一九一七~、前政治局常務委員・副総理)の三人が候補に上り、政治局の一致
した意見で胡耀邦が選ばれた。
阮銘は名を挙げていないが、鄧力群(一九一五~ 元中共中央宣伝部部長、保守派のイ
デオローグ)も、当時みずからを有力候補と自任していたとする観測がある。
・鄧小平 vs 陳雲
八〇年一二月、華国鋒が辞意を表明し、胡耀邦が主持して開かれた中央工作会議で、陳
雲(当時党副主席)は翁永曦(当時中央書記処農村政策研究室副主任)の建議した「需
要を抑え、物価を安定させる。発展を捨てて、安定を求める。改革を緩め、調整を重ん
じる。集中を大きく、分散を小さく」(原文=抑需求、穏物価;捨発展、求安定;緩改
革、重調整;大集中、小分散)の二四字綱領を提起し、八〇年八月の政治局拡大会議で
決定していた「改革と民主化の方針」に抵抗した。趙紫陽と李先念(当時党副主席)
は、このとき陳雲の意見に付和した。
鄧小平は会議の最終日の一二月二五日、胡喬木、力群の起草した「調整方針を貫徹し、
安定団結を保証せよ」という講話を行った。鄧小平は四カ月前に発表した「党と国家の
指導制度の改革について」(『鄧小平文選』所収)の立場から全面的に退却し、陳雲同
志と趙紫陽同志の意見に同意して、改革は調整に服従すべきであり、資本主義崇拝、ブ
ルジョア自由化傾向に反対しなければならない、と述べた。こうして胡耀邦は、自ら初
めて主持した会議なのに発言の機会を得られなかった。
書評一束
70
・鄧小平の二年周期のブレ
鄧小平の立場は、改革開放とブルジョア自由化反対との間で、およそ二年周期でブレを
繰り返す。この周期性に最初に気づいたのは、力群である。力群は八七年一月、胡耀邦
打倒の総括会議で、七八年一二月の一一期三中全会以来の胡耀邦との闘争について語っ
た。力群によれば、七八年真理の基準論争以来、精神文明決議において自由・平等・博
愛を肯定するまで、胡耀邦は自由化を放任してきたが、奇数年には力群を初めとする
「マルクス主義者たち」が反攻してきた。たとえば七九年には、早くも四つの基本原則
(1 社会主義の道、2 人民民主主義独裁、3 共産党の指導、4 マルクス・レーニン主義、
毛沢東思想)を提起しており、八七年にはついに胡耀邦を失脚させた。
・鄧小平戦略の偶数年と奇数年
鄧小平戦略とは「偶数年には胡耀邦を支持し、奇数年には力群を支持するもの」であっ
た。そして、胡耀邦の背後には改革開放と自由民主の目標を追求する民衆がいて、力群
の背後には権力によって腐蝕させられた特権階層の利益集団がいた。鄧小平のいう「二
つの基本点」(改革開放と四つの基本原則)とは、中国社会の二つの政治勢力を代表し
ていた。両者を調和させられなくなったとき、鄧小平はむしろ改革を捨てて胡耀邦を切
り、趙紫陽を切り、天安門事件に至った(本訳書146-7頁)。
阮銘の証言や分析は、乏しい情報から、中南海の権力闘争の真相に迫ろうと努めている
私にとって、たいへん面白く、得難い情報あるいは分析上の視点を提供してくれた。ま
ことに有益な情報源である。ここで思うのだが、阮銘の書いたものも当然のことながら
批判的、分析的に読まなければならないであろう。たとえば、阮銘が胡耀邦と直接的に
接して、指示を受けて行動した当時の証言にしても、みずからや胡耀邦を陥れようと企
む政敵たちとの闘争の経緯についても、別の資料による検証作業が必要なことはいうま
でもない。とはいえ、それは阮銘の証言や分析の価値を傷つけるものではあるまい。
「希望の星」胡耀邦に対する阮銘の思い入れは相当なものであり、時に贔屓の引き倒し
の感じさえするが、むしろそこにこそ著者の魅力があると私は考えている。つまり、い
ずこも同じだが、政治の世界、権力闘争の世界はドロドロしており、多面的な要素が複
雑にからみあっている。単純な善悪二元論では説明しにくい。こうして政治の世界では
いつもグレーゾーンになりがちだが、阮銘の立場はいつも旗幟鮮明である。みずからの
民主化構想の担い手を胡耀邦に求め、その積極的改革派の視点から中国政治の主な立役
者たちを果断に腑分けしている。その分類基準は明確であり、少しもあいまいさがな
い。私が買うのは、まさにこの率直さ、明快さである。
書評一束
71
鄧小平時代の大きな政治的激動を二つ挙げるとすれば、一つは胡耀邦解任(一九八七年
一月)であり、もう一つは趙紫陽解任(一九八九年六月)である。かつて鄧小平は「胡
耀邦と趙紫陽の二人が支えてくれるので、たとい天が落ちてきたとしても恐くない」と
党務の胡耀邦、政務の趙紫陽に対する信頼を語ったことがある(一九八四年三月二五
日)。二人とも、「泣いて馬謖を斬る」形になった。ここで興味深いのは、鄧小平──
胡耀邦──趙紫陽の三角関係であるが、胡耀邦 vs 趙紫陽の関係を阮銘はこう指摘して
いる。
一九八六年九月に開かれた一二期六中全会を前にして、鄧小平は胡耀邦と会談し、こう
提案した。「私は完全引退するから、君は半分引退したまえ」。鄧小平の完全引退と
は、最後まで保持した軍事委員会主席のポストから下りることであり、胡耀邦の半引退
とは総書記を辞めて軍事委員会主席に就任することであった。このとき、総理趙紫陽も
半引退し、国家主席に就くという構想である。総書記は胡啓立、総理は李鵬という配置
になる。鄧小平の狙いは、胡耀邦、趙紫陽の世代さえも半引退するから、それよりも年
長の世代は完全引退せよ、と「抱合い引退」を迫る作戦であった(本訳書 1117 頁)。
鄧小平の大胆な若返り提案に、率直な胡耀邦は賛意を表明したが、これが胡耀邦にとっ
て命とりになった、と阮銘は見ている。後に、天安門事件の前後に「八老治国」と揶揄
された八〇歳老人たちはもとより、趙紫陽らとともに第二線への引退を迫られる趙紫
陽、鄧力群、姚依林、宋平(一九一七~ )などもこぞってこの提案に反対し、胡耀邦
は「絶対絶命」の孤立の場に追いやられた。胡耀邦はいわばこのときに政治的に孤立
し、敗北したのであった。
当時、『深青年報』(一九八六年一〇月二一日)は銭超英のエッセイ「私は鄧小平同志
の引退に賛成する」を掲げて、大きな話題になった(拙著『ポスト鄧小平』一五〇~一
五一頁)。そのエッセイの背景がいま一つ不明であったが、阮銘は「鄧小平引退案」に
連なる抱合せがここまで広範であったとしている。
八六年暮れに、学生の民主化運動が巻き起こまなかで、鄧小平は一二月三〇日、胡耀
邦、趙紫陽ら現役指導者を呼びつけて、「ブルジョア自由化」の風潮を取り締まるよう
命じたが、胡耀邦がこれに消極的であったことは、よく知られている。ここで阮銘は重
大な証言をしている。「趙紫陽はかなり前に鄧小平と陳雲に
胡耀邦とはいっしょに仕事ができないと訴える手紙
を書いており、胡耀邦に辞職を迫るうえでカギとなる役割を果たしたのである」(本訳
書119ページ)
書評一束
72
徹底して胡耀邦サイドから政治を見る阮銘に立場からすると、趙紫陽の「裏切り」が最
も憎い。ここで趙紫陽が胡耀邦を支持する立場を貫徹していたならば、胡耀邦辞任とい
った形にはならず、胡耀邦を温存できたかもしれぬと見るわけである。
実際には、趙紫陽はここで胡耀邦を追い落とす形で、総書記の地位を得たが、八九年の
天安門事件では、胡耀邦の二の舞いを演じた。こんどは総書記趙紫陽は総理李鵬によっ
て追い落とされた。まさに「狡兎死して、走狗煮らる」の構図である。
研究者としての私にとっては、「趙紫陽の手紙」がいったい何の目的のために、いつ書
かれたのか、どのような内容のものか、に強い関心がある。もし実在するならば、いつ
かある日必ず、公表される日が来るであろう。天安門事件からすでに四年、中国の状況
も国際状況も新たな展開を見せている。阮銘の仇敵王震や胡喬木(一九一二~一九九
二)はすでに亡い。李先念(一九〇九~一九九二)も逝った。天安門事件によって名存
実亡と化すかに見えた改革開放の路線は見事に復活し、九二年秋の第一四回党大会では
「社会主義市場経済」論を採用するまでに至った。中国経済の高度成長の事実に着目し
て、二一世紀は「中国が経済大国」になる時代と楽観する論調も目立つ(たとえば英
『エコノミスト』九二年一一月二八日号の中国特集、『ニューズ・ウィーク』九三年二
月一八日号の中国特集など)。中国経済が「限りなく資本主義に近い」ものになりつつ
あることは明らかである。こうした経済発展を前提として、政治の民主化のための基盤
が用意されることになろう。天安門事件や旧ソ連解体の衝撃のなかで、政治的民主化の
措置は後退しているが、他方着実に進む市場経済化の波は、政治的民主化の条件を形成
しつつある。ポスト鄧小平時代に向かって、中国は確実に動いている。1993年3
月、ロンドンへの旅の前夜に記す。
35 書評『ワイルド・スワン』ユン・チアン著、土屋京子訳、講談社
掲載紙『東京新聞』1993年3月7日
一九七八年秋、四川省初の欧米向け留学生としてイギリスへ旅立ち、いまも
同地に住む張戎が描いた家族三代の物語である。書名のワイルド・スワン
は、著者の幼名と母の名に共通する「鴻」を英訳したもの。スワンはセクシ
ーだが、ワイルド・スワンはなおさらセクシーだ。才色兼備の語り手によっ
て、愛と革命の悲劇が分析的理性的に語られており、読物として人を飽かせ
ない。各章のタイトルは中国語の俚言俗言などを用いてテーマを暗示し、フ
ィクションかと思わせるほどの波乱万丈、そのまま映画の脚本になる。父の
無実を母が周恩来に直訴して「覚書」をもらい、それを一一年間も布鞋の甲
に縫いつけて隠したエピソードが際立つ。嫉妬や怨恨といった人間のどうに
書評一束
73
も止まらない弱さを極力利用した全体主義的権力支配の断面が白日のもとに
暴かれる。
旧満洲義県の田舎町の警察官であった曽祖父は、美人の愛娘(著者の祖母)
を巧みな作戦で北洋軍閥政権の警視総監であった薛将軍のメカケに輿入れさ
せて、みずからは地元警察の副署長のポストを手に入れた。落ち目の薛将軍
が死去する前夜、殺気を予感した祖母は嬰児(著者の母)を連れて薛将軍の
邸宅から脱走する。嬰児連れの若い未亡人は四〇歳も年上の漢方医と再婚す
るが、父の再婚に反対する医師の長男は諫言しピストル自殺を遂げた。多感
な美人学生に成長した母は満洲国の崩壊前後に学生運動のリーダーになる。
満洲国が崩壊するや皇軍の代わりにソ連軍が進駐し、ついで国民党部隊が進
駐する。中共軍がそれを追い払う。わずか四カ月間に四種の軍隊が入れ代わ
るという権力の交代期、無政府状態のなかで人命は限りなく軽い。中華人民
共和国の成立前夜、錦州で革命信仰のゲリラ隊長と結婚した母は、父の郷里
たる四川省宜賓、ついで成都に移る。いまや同省党委員会宣伝部の副部長ま
で昇進した父の未来が輝いたのも束の間、母の親戚に国民党特務がいたこと
で、母は「隔離審査」され痛めつけられる。文化大革命では父が実権派とし
て虐待された挙句、精神異常をきたし惨死した。革命の理想を確信するゆえ
に毛沢東に直訴状を書く父。それゆえに迫害を受ける非条理──ある高級幹
部の家族の転変する運命が遼寧から四川へと舞台を広げて展開される。清末
から民国、満洲国、四九年革命、文化大革命を経て今日に至るまで、愛と絶
望、革命と動乱に翻弄された人々の生きざまは、中国現代史の恰好の副読本
である。現代中国の暗黒面を告発した書物は少なくないが、家族史を縦糸
に、社会主義の現実を横糸にしつつ、著者は見事な作品にまとめあげた。達
意の訳文だが、中国語音のルビには改善の余地がある。一例を挙げると、著
者の名はピンイン方式ではなく、トマス・ウェード式で表記されているか
ら、チャン・ユンではなく、チャン・ロンと読めるはずだ。
36 書評『ニュー・エンペラー』ハリソン・E・ソールズベリー著 天児慧監
訳、福武書店
掲載紙『東京新聞』93年5月23日
毛沢東生誕百周年にあたり「お守り」や「毛沢東カラオケ」が大流行し、少
なからぬ関連書物が出ている。鄧小平は八九歳になるが、昨年の「南巡談
話」あたりから人気が回復し、関連著作が多い。画家李の描いた「改革の総
設計師」像の出版はその象徴であろう。本書はアメリカのピューリツァー賞
受賞記者の書いた二人の皇帝、その人物論である。本書の毛沢東像は「マル
書評一束
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クス+秦の始皇帝」に帰着し、鄧小平像は「リトル・エンペラ-」に収斂す
る。著者は一九八四年の踏査をふまえて『長征』(八五年)を描き、八九年
には建国四〇周年取材の途中でたまたま天安門事件に遭遇して『天安門日
記』(八九年)を出版した。本書は長年にわたる丹念な取材をもとに、中国
現代史における毛沢東、鄧小平のプロフィールをジャーナリストの筆致で活
写したものである。毛沢東については、その秘書、通訳をつとめた李鋭、胡
喬木、伍修権、師哲、閻明復などを取材してその性格や人物にせまってい
る。鄧小平については番頭格の楊尚昆を長時間インタビューした。このほか
胡耀邦、趙紫陽、李瑞環、朱鎔基など長いリストになるほどの重要人物のイ
ンタビューのほか、翻訳と資料発掘のため助手の協力を得て周到な準備をも
とに書かれた。
豊富なエピソードを用いて波瀾に満ちた中国現代史を描いた本書は、読みも
のとして実に面白い。たとえば毛沢東がフルシチョフを郊外の別荘に宿泊さ
せて「蚊の餌食」にしたり、泳げない彼をプールの中まで引きずり込んでか
らかった一幕などは、毛沢東流のゲリラ戦術を彷彿させる。これまでは「プ
ールサイドの会談」と上品に解釈されてきた真相を暴いてくれた。ただし毛
沢東のハレムの話などは、典拠がルイ・アレーの談話とコンフィデンシャ
ル・ソースだけで、いささか心許ない。肝心の張玉鳳を取材しておらず、ま
た孟錦雲にいたっては、その名さえ出てこないのは不可解だ。七六年に再失
脚した後の鄧小平は北京に住んでいたことが確認されているが、本書では俗
説の広東滞在説にしたがっている。細部についてはいろいろ議論の余地があ
ることはいうまでもない。翻訳に不満が残る。鄧小平の本名「先聖」を「向
聖」と誤訳し、幼名「希賢」を「希聖」と誤訳したのでは研究者としての実
力が疑われる。友美はコンノート将軍元夫人友梅の誤り。毛沢東の司書逄先
知にジヤンシエンジー(降?先知)とルビをふっているが、中国語の読めな
い著者の誤りは「パン」と訂正するのが訳者の見識だろう。ネルソン・フー
は中国人のクリスチャン・ネームだから傅連章の本名で統一せよ。唐聞生と
ナンシー唐も同じ。モンゴル大使館員の孫一先が孫逸仙に、李鋭が李瑞に、
馬海徳が馬海得に化けたのは許されない当て字だ。NHK武田記者は竹田記
者だ。人名に中国語ルビをふるのも一つの見識だが、ダンプーファン、ジュ
ーデァーなどは生兵法の見本。この音を聞いても誰のことか分かるまい。
37 大修館書店『漢文教室』93年6月号
書評・『台湾百科』
書評一束
75
さる四月末、シンガポールでリー・クワンユー前首相の斡旋のもと、中国の
汪道涵(海峡両岸関係協会会長)と台湾の辜振甫(海峡交流基金会理事長)
との会談が行われ、脱冷戦体制への動きは、東アジアにおいても着実に進展
していることを象徴的な形で示した。折から世界銀行の経済予測は、中華経
済圏が一〇年後、すなわち西暦二〇〇二年にはGNP世界一になるとはやし
たて、不況に悩む世界各国は羨望の眼差しでこの地域の成長力を見つめてい
る。評者は三月にオックスフォード郊外で開かれた、西側の対中国(台湾、
香港を含む)政策調整のための国際会議に出席して、先進七カ国グループが
この地域の政治・経済を再認識しようとしている現場を目撃し、強い印象を
抱かせられた。
本書は一七名の台湾研究者によって執筆された、信頼できる記述からなる最
良のガイドブックである。数えて見ると、このうち一〇人は評者の友人、知
人たちで、その仕事ぶりを身近かに見ており、自信をもってお薦めできる
(仲間ぼめと誤解する向きは、直接本書を手にとって確かめられよ)。評者
は一九六九年に初めて台湾を訪れて以来八九年まで、数回この島を訪れ、農
村を歩いたり、高雄の輸出加工区を見学したりした。そこで会った日系合弁
企業の責任者と数年後に対岸の福州の合弁企業で出会って驚いたことがあ
る。評者にとっては、対岸の大陸の研究で手一杯のため、台湾までは目が届
かない。そこでちょっとした事実を確認したい場合がしばしば生ずる。その
ような場合のハンドブックとしてまことにありがたい。
この種の本が使い易いかどうかは、索引によるところが大きい。ユーザーの
立場で見ると、少し不満が残る。たとえば李登輝の項目を引くと、一四箇所
が指示されるが、このうち七二頁に略歴がある。映画「非情城市」の監督・
侯孝賢は、五箇所が指示されるが略歴は二二四頁にある。「コラム」目次
が、対象人物よりは執筆者名が目立つのは、編集上の工夫が足りない。「ミ
ニ情報」も索引があると、もっと活用されるはず。このあたり、「一度開け
ば目的に達する」よう工夫して欲しいところである。(顧みて他をいうよう
だが)総じて日本流の本づくりは索引に手間ヒマをかけない作風がある。台
湾研究界はこの種の協同作業をやりやすいはず。ぜひともよい見本をつくっ
て中国研究に新風を巻き起こしてほしい。本書第二版は初版以後、二年半の
うちに生じた変化を、部分的に織り込み、アップ・ツー・ディトにしたが、
編者の意図に反して種々の制約から全面的改訂には至らなかったという。台
湾経済の変貌の激しさを考えると、八八年までの数字に依拠した分析ではや
はり不満が残る。全面改訂を期待するや切である。
書評一束
76
38『蒼蒼』第50号、93年6月
手抜き監修、その一
『蒼蒼』も五〇号を数えるという。大分人様の悪口を書いて、敵を作った。
中国語なら「得罪」、そして「鋒芒畢露」である。いまさら露呈してしまっ
た矛先を転じても、「六日の菖蒲」であろうから、初心に帰る。つまり、地
下の橋本萬太郎に笑われないように、さびつかせないにしたいところであ
る。
さて、鄧小平の「生平」についてのわれわれの知見はかなり怪しいところが
ある。私がそれを痛感したのは、次の二冊の翻訳を読んだときである。一冊
は『最後の龍・鄧小平伝』(サバティエ著、中嶋嶺雄監訳、時事通信社)で
あり、もう一冊は『ニュー・エンペラー 毛沢東と鄧小平の中国』(ソール
ズベリー著、天児慧監訳、福武書店)である。
私は前者について次のようなエッセイを書いたので、それを全文引用する─
─
高度成長を遂げて、農村においてさえも旧正月がマイナーな行事になって久
しい。しかし中国では春節(旧正月)がいぜん圧倒的な位置を占めており、
人々の生活の大きな区切りになっている。中国社会が近代化した暁には、旧
暦、農暦は太陽暦にとって代わられるのであろうか。それとも「中国的特
色」として残るのであろうか。
「総設計師」鄧小平氏は、旧暦の大晦日を上海で過ごしたが、老いてなお元
気な姿を中国中央テレビが放映した。ただ、元日の新年を祝う会合には「疲
労のため欠席」と香港紙が報じて気をもませる。指導者の一挙手一投足に中
国内外の関心が集まるのは、中国政治の方向づけにおける影響力、指導力を
示すことはいうまでもない。昨年の春節前夜の南方巡視を通じて、改革開放
の路線を再度活性化させた功績は大きい。世界経済の低迷状況のなかで、中
国経済のGNP成長率一二%という数字は異彩を放っている。
ところが、鄧小平の実像は意外に知られていない。本名は先聖だが、幼名は
希賢である。今日の「就学生」と酷似した制度である「勤工倹学生」とし
て、七〇年ほど昔、鄧小平はフランスへ旅立った。希賢を四川語発音で Teng
Hi Hien と表記して成都のフランス総領事館でビザを得て以後(帰国してか
ら地下活動用として鄧小平の名を用いるまで)、外国人登録や工場での就業
書評一束
77
記録において一貫してこう表記した。近刊の『最後の龍・鄧小平伝』(中嶋
嶺雄監訳、時事通信社)では、原著者が「希賢」と書いた箇所がすべて「先
聖」と誤訳され、訳書に希賢がまったく登場しないのは腑に落ちない。初め
ての外国人登録を描写した箇所では、 Hi Hien にフランス語読みで「イー
イアン」とルビがふられている。漢字(希賢)→四川語読みローマ字(Teng
Hi Hien)→フランス語読みの発音という「三段飛び」で、希賢はついに
「トン・イーイアン」にされてしまった。誕生日を一九〇四年七月一二日と
記入したのは旧暦によるもの。この日付が太陽暦八月二二日に相当する旨の
注釈も不可欠だ。手抜き監修の見本というべきか(日本国際貿易促進協会
『国際貿易』九三年二月九日号、今日の話題)。
39『蒼蒼』第50号、93年6月
手抜き翻訳、手抜き監修・その二
後者について私は、『東京新聞』九三年五月二三日付に次の書評を書いた─
─
毛沢東生誕百周年にあたり「お守り」や「毛沢東カラオケ」が大流行し、少
なからぬ関連書物が出ている。鄧小平は八九歳になるが、昨年の「南巡談
話」あたりから人気が回復し、関連著作が多い。画家李の描いた「改革の総
設計師」像の出版はその象徴であろう。本書はアメリカのピューリツァー賞
受賞記者の書いた二人の皇帝の評伝である。本書の毛沢東像は「マルクス+
秦の始皇帝」に帰着し、鄧小平像は「リトル・エンペラ-」に収斂する。著
者は一九八四年の踏査をふまえて『長征』(八五年)を描き、八九年には建
国四〇周年取材の途中でたまたま天安門事件に遭遇して『天安門日記』(八
九年)を出版した。本書は長年にわたる丹念な取材をもとに、中国現代史に
おける毛沢東、鄧小平のプロフィールをジャーナリストの筆致で活写したも
のである。毛沢東については、その秘書、通訳をつとめた李鋭、胡喬木、伍
修権、師哲、閻明復などを取材してその性格や人物にせまっている。鄧小平
については番頭格の楊尚昆を長時間インタビューした。このほか胡耀邦、趙
紫陽、李瑞環、朱鎔基など長いリストになるほどの重要人物のインタビュー
のほか、翻訳と資料発掘のため助手の協力を得て周到な準備をもとに書かれ
た。豊富なエピソードを用いて波瀾に満ちた中国現代史を描いた本書は、読
みものとして実に面白い。たとえば毛沢東がフルシチョフを郊外の別荘に宿
泊させて「蚊の餌食」にしたり、泳げない彼をプールの中まで引きずり込ん
でからかった一幕などは、毛沢東流のゲリラ戦術を彷彿させる。これまでは
「プールサイドの会談」と上品に解釈されてきた真相を暴いてくれた。ただ
書評一束
78
し毛沢東のハレムの話などは、典拠がルイ・アレーの談話とコンフィデンシ
ャル・ソースだけで、いささか心許ない。肝心の生活秘書張玉鳳を取材して
おらず、また孟錦雲にいたっては、その名さえ出てこないのは不可解だ。七
六年に再失脚した後の鄧小平は北京に住んでいたことが確認されているが、
本書では俗説の広東滞在説にしたがっている。細部についてはいろいろ議論
の余地があることはいうまでもない。
翻訳に不満が残る。鄧小平の本名「先聖」が「向聖」と誤訳され、幼名「希
賢」は「希聖」と誤訳されている。これでは研究者としての実力が疑われ
る。友美はコンノート将軍元夫人友梅の誤り。毛沢東の司書先知にジヤンシ
エンジーとルビをふっているが、中国語の読めない著者の誤りは姓を「パ
ン」と訂正しておくのが訳者の見識だろう。ネルソン・フーは中国人のクリ
スチャン・ネームだから傅連章の本名で統一せよ。唐聞生とナンシー唐も同
じ。モンゴル大使館員の孫一先が孫逸仙に、李鋭が李瑞に、馬海徳が馬海得
に化けたのは許されない当て字だ。NHK武田記者は竹田記者だ。人名に中
国語ルビをふるのも一つの見識だが、ダンプーファン、ジューデァーなどは
生兵法の見本。この音を聞いても誰のことか分かるまい──。
引用しながら一つ気づいた。「リトル・エンペラー」は「小皇帝」と訳され
ている。これはむしろ「チビの皇帝」といった感じではないのか。小皇帝は
腕白坊主の匂いがするし、土皇帝は地方ボスになる。
もう一つ。伍修権や師哲が訳書索引から蒸発していますよ。
過去半年間に相次いで出版された二冊の翻訳書が双方とも、著者が当然のこ
とながらはっきりと区別している先聖と希賢を混同したり、先聖と陶希聖を
混同したりしている。これは一体どうしたことであろうか。単なる不注意な
のか。ローマ字と漢字との間でフラフラして、伝記の主人公の名前さえアイ
デンティファィできていないわが「研究以前」の状況に淋しさと危機感を感
じないわけにはいかないのである。
40 書評『華僑コネクション』
樋泉克夫著
新潮選書、1993年8月刊
評者は七〇年代の初頭にシンガポール南洋大学、香港大学に遊学し、華人とつきあった
体験をもつ。あれから二〇余年、華人・華僑社会は大きく変貌した。本書は八〇年代か
書評一束
79
ら最近に至る動向をさまざまな角度から活写しており、大いに読みごたえがあった。近
年このテーマに大きな関心が寄せられているのは、むろんアジアNIEsの「四小龍」
やアセアンの「三匹の虎」(タイ、マレーシア、インドネシア)の高度成長のなかで華
人資本が一回りも二回りも大きくなったからであろう。たとえばタイの華人は約六一〇
万、総人口の一一%を占める。その一人である陳弼臣が一代で築き上げたバンコク銀行
はタイの国家予算を大きく上回る資産をもち、タイ経済が生み出す富の四分の一強を支
配している。謝国民の正大集団は過去一〇年に中国大陸に三〇億米ドル投資し、これか
ら一〇年で一〇億米ドルの投資を計画している。インドネシアのばあい約五〇〇万、総
人口の三%だが、林紹良をトップとする華人系三〇〇家族はインドネシア経済の八割を
押さえている。香港財界のナンバーワン李嘉誠の個人資産は三五億米ドルを超え、香港
の上場企業の株式の一四%を保有している。台湾の張栄発の長栄海運がもつコンテナ
は、世界の海運トップ一〇社のもつ総台数の二一%に当たる、などは成功物語の典型
だ。 著者はタイ大使館で長らく調査に従事しただけあって、タイの華人社会の事情に
詳しく、分析に説得力がある。とくに天安門事件への反発とその直後の急接近、チャー
チャーイ政権が二年前にクーデタでつぶれた事件と華人経済との関係の分析は光ってい
る。経済力によって大きな社会的地位を得た華人資本が国境を越えて活動を始めると、
中国・台湾関係、華南経済圏、中華経済圏の話題になり、朝鮮半島における華僑と中
国・韓国・北朝鮮の関係への影響というテーマに広がる。華僑とは元来、華(=中国
人)が僑(=かりずまい)するの意味であった。しかし第二次大戦後、圧倒的大部分の
華僑はそれぞれの居住国の国籍を取得して自立し、居住国市民と共生する道を歩み、
「華人」を自称し始めた。これは血統のゆえに、居住国と中国の双方から中国共産党の
「第五列」扱いされる状況のもとで、ロイヤリティをも含む選択であった。だが、華人
資本がいま改めて中国大陸に向かうにおよんで、華僑資本への後退か、やはり北京政府
の第五列かという反発も生じている。他方で華語(=中国語)を「共産主義革命の媒
体」と認識して華語教育の中心たるシンガポール南洋大学(わが母校である)をつぶし
たシンガポール政府は、いま「この地域を結ぶ経済語」とすべく華語を重視するに至っ
た。これらの潮流変化を著者は的確にとらえている。いわゆる華僑論には大ボラやウワ
サ話を書くものが少なくないが、本書は典拠を示しつつ論じているので、安心して読め
る。末尾の「《華》のもつカラクリ」、中華思想の問題は面白そうだ。ぜひ展開してほ
しい。最後に不満を一つ。李鵬は客家ではないから、「三李」説はあたらない。むしろ
鄧小平、李登輝を橋渡しする李光耀の「客家トリオ」のほうが面白い。
41『すばる』Book
ージ
Garden、集英社、93年10月号、326ペ
満洲国の生命は、一九三二年の建国宣言から四五年、溥儀の退位宣言までわ
ずか一三年五カ月余にすぎなかった。今日、その満洲国(崩壊)体験は、忘
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80
却のかなたに消えつつある。だが「日本人が満州国を忘れても、満洲国は日
本人を忘れない」。若き政治学徒は「消えた国家」に仮託されたさまざまな
満洲国像(理想国家論から傀儡政権、僞満論まで)を検討しつつ、それをキ
メラ像に収斂させた。ギリシャ神話の怪獣だが、世の恐竜ブームにあやかろ
うというのではない。ホッブズが社会を呑み込む国家を旧約聖書の怪獣リヴ
ァイアサンになぞらえ、ノイマンがナチスの第三帝国を怪獣ビヒモスになぞ
らえた顰みにならって、満州国キメラ像を構築したものだ。著者の満洲国イ
メージは、獅子(=関東軍)の頭をもち、胴は羊(天皇制国家)から成り、
尾の部分は龍(溥儀、近代中国)からなる怪獣にほかならない。「王道立
国、民族協和」などの麗しい建国理念を掲げて生まれたが、まもなく龍の部
分が変質し、結局は獅子の頭と羊の肉体をもつだけの怪獣に変身し果てた。
満洲国は「建国の動機と理念」において中華民国との異質性・対極性を主張
しつつ、対外的には国際的承認や日本の既得権益の確保の必要上、中華民国
との国家的継承性を否定できなかった。かくて中華民国に対する「断絶性と
連続性」という矛盾こそが満洲国の「出生」にかかわる根源的矛盾として、
この国家の運命を決したと著者は結ぶ。
42 書評『北京大学の文化大革命』
『産経新聞』93年10月3日
書名は『北京大学の文化大革命』になっているが、単なる大学物語ではない。
中国社会全体の矛盾が北京大学にどのように反映し、逆に大学は社会にいか
なる影響を与えたのかという広い視点から分析した重厚な書物である。かつ
てW・ヒントンが『百日戦争──清華大学の文化大革命』を書いたのと対照的
だが、本書のほうがはるかに優れた分析である。学位論文である本書におい
て、著者は大学というミクロコスモスに視点を置いて文革期に焦点を合わせ
た中国現代史を描いたわけだ。一九一九年の「五四運動」のデモから中国共産
党が誕生した経緯が示すように、蔡元培のリベラリズムこそが李大や陳独秀
の民主化や革命の思想を許容し、毛沢東は図書館でアルバイトの機会を与え
た。しかし権力を得た共産党にとって「ブルジョア知識人の巣窟」は改造の対
象にほかならなかった。共産党が知的権威を確立するためには、「学術権威」
を打倒する必要があったからだ。「廟は小さいが、神霊(=イデオロギー的影
響力)は大きい」と述べた毛沢東はここに反動の牙城を見たのである。紅衛兵
運動時代の北京大学についてはわが国でよく知られている。しかし文化大革
命の末期、すなわち「四人組」がマスメディアを握り、批林批孔や水滸伝批判
を展開した経緯と周恩来、鄧小平ラインの対抗関係などは、のちの「四人組」
裁判関連情報を除けば、著しく欠落していた。
本書は紅衛兵運動の終焉とともに一度は消えた『新北大』(北京大学革命委員
書評一束
81
会機関誌)が七三年に復刊され、七八年三月以後脱文革のなかで『北京大学』
と改称されるまでの誌面を丹念に解読し、匿名の多数の関係者からヒアリン
グを行い、史実を発掘している。大学と党支部、革命委員会と八三四一部隊、
大学内の四大勢力(党書記、学長、教員、学生)、「北京の春」当時の学内情
勢、などわれわれの知識は一挙に豊かになる。ハンブルグのアジア学研究所
は、ヨーロッパにおける中国研究の拠点の名に恥じないことが分かる。
43 書評『北京の長い夜・ドキュメント天安門事件』ゴードン・トーマス著
並木書房、掲載紙『産経新聞』93年11月14日
本書は一九八八年一一月から翌八九年六月三~四日までの中国の激動をドキュメント・
タッチで描いたノン・フィクションである。著者は諜報関係のテーマを売り物にする書き
手であり、冒頭に一日当り百万枚の画像を処理するワシントンの「国家写真解読センタ
ー」の中国ウオッチングの一端が紹介され、好奇心をそそる。副題は「ドキュメント天安
門事件」──極秘情報に基づく天安門事件の真相という売り込みである。ところが、とん
だ食わせ物。失望を通り越して怒りを感じるほどの駄作。ほとんどペテン師に騙された気
分だ。天安門事件がらみでは、かつて江之楓『小平・最後の闘争』という「中南海からの
秘密報告」を売り物にしたニセモノが出回ったが、読後の印象は酷似している。フィクシ
ョンなら想像力を羽ばたかせてよい。しかし明白な誤りであることが確認されている事
柄を、あたかも「新事実」であるかのごとく書くのは、
「愚にあらざれば巫なり」の類だ。
著者は一九八九年六月から九〇年二月にかけて取材し、九一年に原書を出版した。インタ
ビューの対象者は約一〇〇人、大部分は「事件の目撃者」であり、録音テープは二四〇時
間にのぼると誇る。だが、このインタビュー対象者のなかに、広場の真実を見届けた十数
人の外国人ジャーナリストは一人も含まれていないのだから、開いた口がふさがらない。
スペイン・テレビのレストレポ記者が今年の六月四日夜、「NHKクローズアップ現代・
天安門広場空白の三時間」に登場したことは読者もご記憶であろう。同じく天安門広場の
最後を目撃したアメリカの人権擁護団体アジア・ウオッチの活動家ロビン・マンローは事
件一年後に、詳細な目撃記録を書いているが(『ザ・ネーション』九〇年六月一一日号)、
これを参照した形跡もない(邦訳は矢吹晋編『天安門事件の真相』下巻、九〇年九月)
。
天安門広場に出動した兵士たちが行動の前に「麻薬」を注射されたというのは、根拠のな
いデマであった。
「虐殺」死体を焼いたり、その悪臭がただよったという話もゴミの悪臭
にすぎなかったのだ。
「麻薬注射」にせよ、
「死体焼却」にせよ、単にウワサを書きとめる
だけでは、真相究明からは遠い。著者はテレビ画像の流した衝撃的イメージに驚愕した視
聴者に媚びているだけなのだ。
「諜報関係に強いジャーナリスト」のはずなのに、米当局
の分析成果が何一つ本書の記述に反映されないのは不可解極まる。これはニュース源の
秘匿などの話ではない。取材者が軽くあしらわれているか、壮大なコンピューターがコケ
威しなのか、いずれかであろう。翻訳にも間違いが多い。特に目障りな人名ルビは三菱総
研編『フーズ・フー』にしたがったというが、同書は、妙チキリンなルビは一切つけぬ見
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識を示している。
『ワイルド・スワン』といい、本書といい、中国語と現代中国を知らな
い英語屋(即席中国屋)の欠陥商品が横行するのは、日本文化界の頽廃を示すものだ。
44 解題『わが父・鄧小平』著者 毛毛
徳間書店、1994年401~417頁
1.著者・毛毛について
著者毛毛はいうまでもなく鄧小平の三女である。一九五〇年四川省重慶市生まれ、文化
大革命期に陝西省北部の生産隊に三年下放した。本書では「現名・蕭榕、かつて榕を用
いた」と紹介されている。家庭内などで使う毛毛は「幼名」であり、これは生まれたと
き「小さく痩せており、頭には黄色い髪が薄く生えていた」ところから、母が名付けた
という。学校に行くようになると学校などで使う「学名」をつけるが、それが鄧榕であ
る。では「現名・蕭榕」はいつからこう名乗ったのか。
一九七九年の米中国交回復の直後、夫賀平(現在、解放軍総参謀部装備部副部長)が中
国の駐アメリカ大使館武官として赴任したさいに同行し、彼女は同大使館で領事事務担
当の三等秘書を務めたことがある。その際に、鄧小平の娘であることをカムフラージュ
するために、「蕭榕」という「党活動用の名」をつけたわけである。以後、著者は対外
的にはこの名で活動している。
下放が終わったのち、北京医学院を卒業したが、医者にはならず、全国人民代表大会常
務委員会弁公庁研究室で八年工作し、同研究室副主任を務めた。現在は中国国際友好連
絡会副会長、第八期全国人民代表大会代表である(前者の肩書で一九九二年一二月に来
日した際に、矢吹はパーティの会場で紹介され、若干の会話を交わしたことがある)。
著者紹介ではまた「長年にわたり、研究工作に従事し、『中国社会主義四〇年』『向新
科技革命進軍』などの執筆を組織し、また個人として何篇かの文章をマスコミに発表し
ている」と紹介されているが、その中には、話題を読んだ「江西の日々に」(『人民日
報』一九八四年八月二二日)や革命長老への追悼文がある。
今年四四歳である。過去数年、鄧小平の外出時に随行しており、とくに九二年の南巡で
は終始つきそい、鄧小平の四川訛を標準北京語に通訳したり、耳の遠い鄧小平の補聴器
の役割を果たしたことは広く知られていよう。
鄧小平には五人の子供(三女二男)がおり、それぞれが配偶者と子供一人をもっている
ので、計一五人の子孫がいる。五人の子供たちが「私設秘書団」を形成していると書い
た本がある。すなわち長男樸方は頭脳、二女楠は手足すなわち具体的執行者、著者榕は
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補聴器兼拡声器だという(何頻、高新著『中共太子党』台北時報文化出版企業有限公
司、九二年一〇月)。毛毛は「鄧小平ファミリーの外務大臣であり、スポークスマン
だ」とは周恩来未亡人穎超の表現である。
ここで著者から見た鄧小平家系図を書いておけば、表1のごとくである。
2.本書の成立について
彼女自身は、つぎのような心境を記している。「父は自伝を書かないし、他人に書かれ
るのも嫌だ」「しかし、父の娘として知っていることを書かなかったら、歴史に対して
申し訳がたたない」(原書二頁)。
著者は「まるまる三年かけて」本書を書いたという。著者が鄧小平の郷里四川省広安県
協興郷牌坊村を叔母先芙とともに初めて訪れたのは、一九八九年一〇月であり、その前
後から資料集め、関係者のインタビューなどをしながら九二年までに書き上げ、翌九三
年に出版の運びになったものであろう。八九年秋というのは、まさに天安門事件の数カ
月後であり、鄧小平の威信が地に落ちた(とみられた)時である。こうした政治的状況
のなかで、著者は父親の名誉回復のために、伝記を書くことを決意したのではないか。
本書は香港版と北京版が出ている。表2から明らかなように、北京版は香港版よりも一
カ月早い奥付になっている。内容上の大きな違いは、香港版には北京版の第六~八章が
欠けていることである。これは当時の時代的背景、すなわち列強の侵略に悩む中国にお
いて人民の抵抗のうねりが盛り上がる経緯を説明したものである。この三章は中国近代
史概説であり、鄧小平と直接の関係はないため、香港版では削除したのであろう。
本書の原稿は中共中央文献研究室の李王奇主任、周恩来研究で著名な力平氏(同文献研
究室研究員)の審査を受けたことが後書きに「謝辞」として書かれている。この研究室
は『毛沢東選集』や『鄧小平文選』を編集する中共中央の直属機関である(私は八八年
九月にこの研究室を訪問したことがある)。この研究室の審査を受けていることは、本
書が中共中央公認のいわば欽定版・鄧小平伝であることを示唆している。
北京版と香港版には、微妙な違いもある。たとえば原書八〇頁に鳳凰号の説明としてス
フィンクス号と注釈が付されているが、香港版にはこの注釈はない。もっとも鳳凰はス
フィンクスではなく、フェニックスの誤りであろう。
3.鄧小平著作と鄧小平研究
書評一束
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鄧小平の著作(論文や講話)は、次の三冊に収められている。
1)『鄧小平文選一九三八~一九六五』人民出版社、一九八九年五月
2)『鄧小平文選一九七五~一九八二』人民出版社、一九八三年七月
3)『鄧小平文選』第三巻(一九八二年九月~一九九二年二月の著作)、人民出版社、一
九九二年一〇月
出版時期を見ると、2)、1)、3)の順であり、3)によってようやく形が整うことになっ
た。つまり、今後の改訂版では、1)=第一巻、2)=第二巻、と改められる予定である。
このほかに
4)『建設有中国的特色的社会主義』人民出版社、一九八四年一二月、増訂版は一九八七
年三月
5)『鄧小平同志重要談話』人民出版社、一九八七年一〇月
6)『鄧小平同志論改革開放』人民出版社、一九八九年八月
などテーマや時期を限って編集されたものもあるが、これらはすべて前掲の全三巻に収
められている。
鄧小平研究について
1)「鄧小平生平・思想研究叢書」全二〇巻
一九八九年春、遼寧人民出版社が「鄧小平生平・思想研究叢書」全二〇巻(顧問:呂正
操、伍修権、袁宝華、主編:金羽、王充閭)の計画をつくり、一九九一年から五年がか
りでつぎのようなテーマで刊行中である。
1『鄧小平建設有中国的特色的社会主義』、2『鄧小平哲学思想研究』、3『鄧小平関於
党的基本路線思想研究』、4『鄧小平関於堅持四項基本原則思想研究』、5『鄧小平改革
思想研究』、6『鄧小平社会主義現代化戦略思想研究』、7『鄧小平社会主義市場経済思
想研究』、8『鄧小平社会主義民主与法制思想研究』、9『鄧小平「一国両制」思想研
究』、10『鄧小平社会主義精神文明建設思想研究』、11『鄧小平建党思想研究』、12
『鄧小平軍事思想研究』、14『鄧小平科技思想研究』、15『鄧小平教育思想研究』、16
書評一束
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『鄧小平関於知識分子問題的思想研究』、17『鄧小平国際戦略思想研究』、18『鄧小平
早期革命活動』、19『鄧小平与現代中国』、20『鄧小平的生平・思想研究総目』
これら二〇巻のうち、18 は誕生から長征前後までの事実上の伝記である。19 は一九七
八年から一九九二年南巡までの事実上の伝記である。20 を見ると、鄧小平の「生平と思
想」を研究した論文が相当な数にのぼることが分かる。
2)『鄧小平著作思想生平大事典』(主編:擢(手ヌキ)泰豊、魯平、張維慶、山西人民
出版社、一九九三年一月、一四六二頁) この大事典は、1 鄧小平主要著作、文章、講
話、談話介紹、2 鄧小平著作中的重要名詞、概念、3 国内外鄧小平著作・思想・生平研
究、4 鄧小平生平大事年表、の四部からなっており、いわば鄧小平百科事典である。
4.本書の特徴と読みどころ
一六歳でフランス留学に旅立ち、今日に至るまで、鄧小平の活動は中国共産党の動きと
ほとんど一体である。それゆえ、著者が用いた基本的な資料は、革命の参加者たちの回
想録である。これらの膨大な回想録を縦糸とし、著者が折りにふれて父から聞いた片言
隻句を横糸とし、欠けている部分については、当時の証人を訪ねてインタビューした結
果をもとに執筆したものである。革命回想録で知りうることは、われわれ外国人にもア
クセスできる内容であるから、特に新味はない。しかし、「一針見血」ということばが
あるが、著者が本人の口から聞いたごく小さな一言二言が挿入されることによって、回
想録に生き生きした臨場感を与えることに成功した箇所が随所にみられるというのが私
の印象である。たとえば、私はこんなところを興味をもって読んだ。
. 父の旧居を訪ねて
前述のように、著者が叔母先芙とともに初めて父の郷里に帰省し、先祖の墓に詣でたの
は、実に一九八九年のことであった。鄧小平自身は、一六歳で郷関を出てからいまだ一
度も「故郷に錦を飾る」ことをしていない。これは周恩来が淮安に帰らなかったのと似
ている。ちなみに毛沢東は一九五九年と一九六六年の二度韶山に帰省している。著者だ
けでなく、これまでは鄧小平ファミリーの誰もが帰省していないごとくである。一九四
九年四五歳の鄧小平は大西南を解放する部隊の政治委員として南下し、中共中央西南局
第一書記として四川省重慶に駐在すること二年七カ月(四九年一二月八日から五二年七
月まで)におよんだが、この間ついに一度も帰省しなかったわけだ。この間地主鄧小平
家の資産は、貧農たち一〇家族にに分けられた。その後三〇年経て、貧農たちが新居を
建てて、転居していくことによってようやく鄧小平家のコの字型の院子は、「鄧小平同
志旧居」となったのである。郷里への訪問は伝記の執筆をまず誕生から着手するための
書評一束
86
取材旅行であったと思われる。鄧小平の実母の弟・淡以興老人のいわく、「おれは国家
(=鄧小平)のおじだ。北京に行くのに汽車賃なんぞいるものか」(原書二一頁)。こ
の言いぐさはまさに「鶏犬昇天」であり、中国農村のしたたかな古さを示している。フ
ランツの『鄧小平』には、この老人の写真(フランツ、五頁)があり、その表情が興味
深い。
・『鄧氏家譜』
五章は先祖のルーツ探しを試みて、『鄧氏家譜』を発見した話である。そこには「翰
林」と呼ばれた名士をはじめとして、誇るに足る家系の記録があった。しかもこの家系
の記述はデッチ上げではなく、『広安州新志』などのような「地方志」によって確認で
きる内容であった。たとえば鄧氏一族は、「以仁存心、克紹先型、培成国用、燕爾昌
栄」の字輩をもつ。これは「仁を以て心に存し、克(よ)く先型を紹(つ)ぎ、国用を
培成し、燕爾(えんじ)として昌栄す」と読み下す。解釈すれば、「仁愛を心におき、
よく先祖の遺業をひきつぎ、国家有用の人材を育てあげ、心安らかに興隆、繁栄する」
の意である(丸尾常喜教授の教示による)。ここから鄧小平の父・紹昌(文明)の世代
は、「紹」の字輩をもち、鄧小平の世代は先聖のように、「先」字輩をもつキマリであ
ることが分かる。これこそが儒教なのである。ご先祖がこのように十数代にわたる名前
の付け方まで指示、あるいは命令を残しており、子孫たるもの否応なしに十数代前の先
祖まで名前が分かるしかけである(日本の儒教は、たかだか先輩、後輩程度の意味でし
か「輩」を使っていないのである。この意味では、日本における儒教の影響などたかが
知れる)。
・共産主義者への契機
「生活の苦しさと資本主義の走狗である職工頭の罵詈雑言が知らず知らずのうちに私に
大きな変化をもたらした。前から資本主義社会の害悪に気づいていたが、漫然とした生
活の中では覚醒した認識をもつには至らなかった。その後、社会主義、とりわけ共産主
義の知識をいささかなりとも学び、また諸先輩たちからの教え、自らの苦しい体験もあ
って、中国社会主義青年団欧州支部に入った」「私はほかの思想・主義に惑わされるこ
とがなく、ずっと共産主義者だった」(一一二頁)。鄧小平は中国の革命家たちのなか
では「第一世代の最後の一人」であった。鄧小平がものごごろついたときには、ロシア
革命とボリシェビズムの勝利はほぼ明らかであった。したがって、アナキズムがよい、
ボリシェビズムがよい、といった論争ではなく、「共産主義者内部」の派閥闘争に主題
が移っていたわけだ。ここで鄧小平はコミンテルンのスターリン派とトロツキー派の闘
争、そしてそれが中国の共産主義者に与えた影響について一定の証言ができるはずだ
が、何も語っていない。ただし、老トロツキスト鄭超麟との関係は必ずしも悪くなかっ
書評一束
87
たのであろう。娘が鄭超麟を訪ねたとき、彼が喜んで著者の相手をしているのは、鄧小
平の立場を示唆しているように思われる。
・鄧小平と周恩来の関係
著者は父に質問したことがある。「フランス留学仲間の誰と一番親しかったのですか」
と。鄧小平はしばらく考えこんでから答えた。「やはり周総理だろう。私はずっと兄と
も思い、仕事をともにした期間も一番長い」(一二二頁)。長い交際での複雑な思いが
あるはずだが、これだけしか語らない。
・若き鄧小平の写真
フランス時代の鄧小平の写真は、四枚しかない(一四一~一四二頁)。すなわち
1 フランスに着いたばかりの一九二一年三月に撮影したもので、ハンチング帽をかぶっ
た背広姿の全身写真である。鄧小平の現存する最も古い写真であり、当時一六歳。2 鄧
小平と叔父紹聖二人の写真である。1 よりも少しあと。3 一九二四年七月、中国共産主
義青年団欧州支部第三回大会の記念写真である。周恩来の帰国を歓送するものであっ
た。4 ルノー自動車工場の登録カードにある小さな証明写真である。ちなみに、フラン
ツの『鄧小平』(英語版、一九八八年、三八頁)には、いかにも鄧小平に似てチビの人
物が写っており、鄧小平とされている。しかし、これは私が調べて判明したのだが、傅
烈である。著者が写真を間違えた例を挙げているのは、おそらくこのケースを指してい
る。
・鄧小平の好きなもの
六年あまりの欧州生活で鄧小平はフランス・ワイン、チーズ、コーヒーが好物になり、
サッカーファンになった。鄧小平の趣味といえば、誰でもブリッジを想起し、フランス
で覚えたとされてきたが、ブリッジは実は重慶で覚えたのであり、パリ時代ではない、
と著者は強調している。また鄧小平はクラシックには興味がなく、京劇(鬚役は言派、
青衣役は程派)が好きだという(一四二~一四三頁)。
・モスクワの鄧小平
鄧小平がモスクワ時代に用いたロシア名Дозоров( ドゾーロフ) のほか、党の指
定した工作を真剣に実行するか、同志たちとの関係はどうか、国共合作の国民党のなか
で、共産党の意見を執行できるか、など詳細な「党員批評計画案」に基づいた個人ファ
イルが紹介されているが、これは初見である。コミンテルンが中国の幹部養成のため
書評一束
88
に、クートベとは別に設けた中山労動大学の中国共産党支部書記が鄧小平がフランス時
代に協力した傅鍾であり、鄧小平は第七班党組の組長であった。ここには二二歳の若き
共産党のプロフィールがはっきりと書かれている(一四九頁)。
・鄧小平とトロツキスト
鄧小平が最初の夫人張錫瑗との出会ったのも、モスクワ時代であった。鄧小平より三歳
年下の彼女は一九歳、鉄道職員張鏡海(二七ストのとき、河北省房山県良郷駅の駅長)
の娘であった。直隷省第二女子師範の学園闘争に参加し、二五年にモスクワに派遣され
たのであった。彼らは二八年春上海で結婚したが、彼女は二九年に流産して死去した
(一八三頁)。この結婚のありさまを証言しているのは、老トロツキスト鄭超麟であ
る。鄭超麟、尹寛などフランス、モスクワで鄧小平の周辺にいた人物でトロツキー派に
転じた者は少なくない。私見だが、鄧小平の柔軟さの一因は、スターリンがコミンテル
ンを支配する前の時代、すなわち共産主義の理念がまだ生きていた時代の空気を吸って
いたからではないかと私は見ている。九一歳の老トロツキー主義者鄭超麟が、鄧小平の
娘の質問に答える構図は、意味深長である(一八四頁)。
・二度にわたる命拾い
鄧小平は上海で地下の工作をしていた時期に、二度「命拾い」をした、と書かれてい
る。二七年四月の蒋介石の上海クーデタ以後の白色テロの吹き荒れるなかで鄧小平は周
恩来の部下として、中央秘書長を務めていた。周恩来、李克農、李強らは国民党諜報機
関のなかに「逆スパイ」組織を構築して組織保全をはかっていた。あるとき何家興が羅
亦農を敵に売り渡した。それは鄧小平が羅亦農と接触して裏口から出た直後のことで
「鄧小平ももし一分遅れていたら、前門から入ってきた特務に逮捕されるところ」であ
った(原書一九三頁)。もう一回は、鄧小平夫婦と周恩来夫婦の部屋を襲われたときで
ある。逆スパイからの連絡を受けて周恩来夫婦は逃れた。外出していたため、連絡のつ
けようのなかった鄧小平がそこへ帰宅した。インタホーンで確認すると「どうも声が違
う。鄧小平はあわててその場を離れた」「これは私の遭遇した最大の危機であった。あ
のときはあぶなかった!三〇秒の差で助かった」と語った(一九四頁)。
・土地分配方法のひらめき
一九九二年のある日、一家で食事をしたときの話。六歳になる弟の子供・シャオティが
空腹で、ガツガツと食べたのを見た鄧小平は、笑いながら語る。瑞金で土地革命をや
り、土地分配の方針を決める時、「子供には土地を分けるべきでない」と主張する者が
いた。鄧小平は、四川のことわざに〈三つ子の大食いで親は飢え死ぬ〉という。「子供
書評一束
89
の食べる分だって少なくないのだから、土地を分けるべきだ」といい、みなが鄧小平の
意見を受け入れてくれた。このエピソードを紹介しながら、著者はいう。「父の頭のな
かには、こうした物語がいっぱい詰まっているのだが、自分の過去はあまり語りたがら
ない。こんな話をもっとしてくれたら、私もおこぼれにあずかれるのに。そして、この
本ももっと生き生きしたものになるのに」(原書二九五頁)。
瑞金時代に土地分配のやり方として、労働力基準と人口基準とがあった。前者は土地は
耕す者に分けるべきであり、労動能力を考慮しなければならないという考え方であり、
後者は子供や老人も食べるのだから(その耕作は家人にゆだねるとして)、やはり分配
の対象とすべきだという意見である。この論争に決着をつけたのは「四川のことわざ」
であったとする鄧小平の証言はおもしろい。
・ボディガード一人、馬一匹
父という人は、「一人、一馬、一ボディガード」の習慣を抗日戦争のはじまるまで続け
た」「解放後から文化大革命がはじまるまでの一七年間、彼には秘書一人〔王瑞林であ
ろう。現在鄧小平弁公室主任、解放軍総政治部副主任〕しかいなかった。鄧小平によれ
ば「人数が多いかどうかではなく、重要なのは効率がよいかどうかだ」(原書三〇五
頁)。
鄧小平らの紅七軍は李立三の極左路線のために、悲運を味わった。紅七軍のときは「心
の中では異論を持ちながら、極左冒険主義の誤りを実行させられた」とすれば、中央ソ
ビエト区においては「父は躊躇することなく、旗幟鮮明に左傾の誤りに対して率先して
抵抗し闘争した」。この反左傾政策の闘争において先頭に立ったのは、鄧小平のほかに
毛沢覃、謝唯俊、古柏らであった。中央ソビエト区で、左傾の誤りの攻撃を受けた事件
は、その当時は確かに父に大きな政治的打撃を与えたが、「四〇年後になって、この三
〇年代の事件が父の政治生命を決定するたいへんよい要素、積極的要素となった」と著
者は激動のなかで木の葉にも近い革命家の運命を思う。つまり「父が二度目に失脚した
のちに毛沢東に起用されるにあたっては、毛沢東が批語で述べたことや、毛沢東が鄧小
平を〈人材難得〉と考えたことのほかに「三〇年代の・毛・謝・古事件が重要な要素と
なった」と見るわけである。つまり、「三〇年代のこの闘争は、鄧小平を毛沢東の一派
に組み入れることになった」のであった。「このことを毛沢東は覚えていた。四〇年も
の間覚えていた。これは当時、批判を受けていた鄧小平には想像すべくもないことであ
った」(原書三一三~三一九頁)。このあたりが毛沢東・鄧小平関係の核心である。
・鄧小平にとっての長征
書評一束
90
著者はあるとき「長征のときどんなお仕事をなさってらしたの?」と聞いたことがあ
る。鄧小平の答えは「跟到走」の三文字であった。「跟」とは、行進についていくこ
と、「到」とは、ある地点に着くこと、そして「走」とはむろん、また歩くことであ
る。
長征の始まったとき、鄧小平はまだ「右傾の誤り」のレッテルがとれておらず、要職に
ついていたわけでもない。もう一ついえば「長征といっても、二万五千里を要するにた
だ歩いただけなのだ」。鄧小平は実に覚めた眼で長征を見ていることが分かる。
一九三四年一〇月二〇日に出発して、翌三五年一月七日に遵義を攻略するまでの二カ月
余に、鄧小平はガリ版の『紅星報』を創刊号から七号か八号まで出している。そして遵
義会議直前の三五年一月になって、中央秘書長に任命され、その資格でこの会議に参加
した。「父が中央秘書長に任命されたのは、遵義に到着する前から絶対多数の軍・党の
高級幹部たちが誤った左傾路線に強い不満をもち、毛沢東が指導部から外される状況が
変わり始めたからであった」と説明している(原書三五四頁)。毛沢東は鄧小平を中央
秘書長にして会議の裏方をさせたごとくである。一九三八年一月、鄧小平は一二九師の
政治委員になったが、これは満三三歳のときであった。師長はむろん劉伯承であり、一
八九二年生まれ、鄧小平より一二歳年上だった。以後、このコンビは大活躍し、劉・大
軍と呼ばれるようになる。ここまではほとんど常識だが、「両人ともに辰年生まれ」の
ために気が合ったのだと説明されるとなるほどと思う(四〇二頁)。
・母と母方の人びと
卓琳夫人の父、著者の外祖父浦在廷の雲南ハムの話は有名だが、その一代記はなかなか
おもしろい。とくに債務返済ができず、投獄されたとき、役人を買収し、浦家の執事を
身代わりに獄舎に入れて本人を出してもうら話などは、いかにも「中国的」であろう
(原書四二七頁)。著者が母を語る章は最も精彩がある。卓琳夫人は北京大学物理学科
に合格したが、兄弟姉妹五人のうち樸方、楠、質方の三人が母と同じ北京大学物理学科
に入ったのは、母の影響だとするのは、説得的な説明であろう。卓琳夫人は北京大学物
理学科に入る前に、名門の北平第一女子中学に合格したが、そのとの旧友に女優の張瑞
芳、陳雲夫人の于若木、胡喬木夫人の谷雨がいた。改革派の鄧小平と保守派の陳雲、胡
喬木の夫人連がこうしたつながりをもつことは初めて知った(原書四三六頁)。鄧小平
と卓琳夫人との結婚のエピソードもおもしろい。一九三九年九月初めのある夜、延安の
楊家嶺の毛沢東のヤオトンの前で鄧小平夫妻と孔原・許明夫妻の結婚祝宴が行なわれ
た。集まったのは、毛沢東・江青夫妻のほか、劉少奇、張聞天と劉英夫人、博古、李富
春と蔡暢夫人など豪華なメンバーであった。孔原は泥酔させられ、新婦の許明からしこ
たま油をしぼられたが、鄧小平はかなり飲んだのに平気だった。実は李富春と発が語ら
書評一束
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って、一瓶だけ水を用意してくれ、鄧小平はそれをあたかも酒のように飲む芝居を演じ
たのであった。このとき鄧小平三五歳、卓琳二三歳であった(原書四四五頁)。
一二九師の組織部長を務めた紅軍兵士張南生の日記の話がおもしろい。彼は紅軍時代の
一〇年間にわたって日記をつけていた。一九八九年に死去したが、その夫人は張南生の
日記から劉伯承と鄧小平の十数万字にのぼる「首長講話」を抜き出し、清書し、目録と
頁までつけて整理した。このうち「鄧小平政治委員」の部分七万字を黄鎮(元一二九師
政治部副主任)夫人朱琳の手を通じて、著者に手渡したのである。これによって『鄧小
平文選』第一巻(一九三八~一九六五)には、新たな文献が増えるという。(原書四五
一頁)
本書を執筆する過程で著者の作った「戦争大事年表」を紹介していう、「年表では、お
よそ日本侵略軍が掃蕩作戦をした箇所には青色のしるしをつけ、わが軍の襲撃し、進攻
した箇所は赤色のしるしをつけた。一九四二~四三年は一面真っ青であったが、四四年
からしだいに赤印がふえ、最後には真っ赤になった」(原書四九一頁)。著者はこうし
て年表をつくりながら、戦史をひもどき、父親の貢献を確認する作業を進めたのであっ
た。
鄧小平は命を受けて前方で指揮をとっていたため、延安で開かれた第七回党大会には出
席していないが、大会直後に開かれた七期一中全会には中央委員として出席している
(原書四九九頁)。「八年の抗戦」では、中国民衆の死傷者は一八〇〇万人に上り、中
国軍隊の死傷者は四〇〇万弱であった(原書五〇一頁)。
・寡黙な鄧小平と能弁な鄧小平
「父は元来口数が少なく、個人の経歴を語ろうとしない」が、戦争の話になると話が多
くなる。彼はいつもこういう。「生まれつきの戦争上手なんてありえない。みんな戦い
ながら戦い方を学び、敗北から学んだのだ」(原書五一三頁)。これが鄧小平流の革命
期の総括である。これは on the job training そのものである。本書上巻は、建国まで
の鄧小平を描いたものである。おそらく建国以後の鄧小平の活動のほうがはるかに面白
いはずだ。下巻の刊行が待たれる。表1
〔著者から見た鄧小平家系図〕
省略
45『蒼蒼』第56号、94年6月
『ワイルド・スワン』の著者名について
この本の翻訳が出たとき、私は書評にこう書いた。「達意の訳文だが、中国
語音のルビには改善の余地がある。一例を挙げると、著者の名はピンイン方
式ではなく、トマス・ウェード式で表記されているから、チアン・ユンでは
書評一束
92
なく、チャン・ロンと読めるはずだ」(『東京新聞』九三年三月七日)。こ
の新聞が配達された日曜日の朝(九三年三月七日)、私は訳者から電話をも
らい、三〇分ほど話をした。何を話したかを訳者・土屋京子さんが後日くれ
た手紙から紹介しよう。
「過日は、『ワイルド・スワン』の著者名のことで突然お電話を申し上げた
にもかかわらずご親切にお答えいただき、ありがとうございました。その
後、高島俊男氏が三月一五日付の『毎日新聞』に掲載された書評で著者名を
誤って表記された〔と指摘されたので、その反駁を兼ねて、この機会に──
矢吹補足〕のを機に、あらためて訳者としての見解を発表することにいたし
ました」(三月二九日付)。
「訳者としての見解」のまえに高島氏のコメントを引用しておく。「翻訳は
あまりよくない。欧米で出る中国関係書の訳者として欧米の言語をよくする
人が選ばれるのは当然だが、そういう人は中国の言語、制度、生活など知ら
ぬのがふつうであるから、不審なことが多い」「本書のばあい、著者の名前
からして納得できない。訳書にはユン・チアンとしてあるが、張がチアンに
なるはずがない(チアンになるのは介音 i を持つ蒋、江など)。ユンもおか
しい。その他人名のふりがなはまちがいが多い」「また中国の権力機構に党
系統と政府系統とがあることも知らぬようである」(中略) 「中国関係書の
翻訳に は中国を知る人を介添えとしてつけてもらいたい、といつも思う」
( 高島俊男評「 ワイルド・スワン、上下、中国社会主義のグロテスク描
く」(『毎日新聞』九三年三月一五日)。
一年後、件の著者とホテル・オークラのツィンルームで対談した(『週刊現
代』九四年四月一六日号インタビュー)。私は当然、普通話で「張戎女士」
と呼びかけ、彼女もそれに応えて微笑した。そこで忘れていた彼女の名前、
あるいは呼び方についての一幕を想起した。高島氏の厳しい書評に対して、
訳者は『毎日新聞』(三月二九日)でこう抗議していた。「高島氏は著者名
を“張戎”と紹介しておられますが、正しい著者名は、表紙にも奥付にも明
記してあるとおり「ユン・チアン」です〔A〕。これは、英語で書かれた原
書の冒頭で著者自身が自分の名は「ユン」と発音するのだと書いており
〔B〕、また実生活の中でもそう呼ばれている〔C〕からです。著者は“張
戎”ではなく、英語式の“ユン・チアン”という名前で英国の作家として執
筆活動をしています〔D〕」「(邦訳の)すべての人名は、翻訳の段階で漢
字と発音を著者本人に確認したものです〔E〕。標準的な発音規則と合致し
ないものについては、四川省では実際にそう発音する〔F〕のかと、著者に
書評一束
93
重ねて確認しています」(ローマ字による論点のマークは矢吹による。『毎
日新聞』同上)
実は、訳者から、九三年三月二九日付反論のコピーと、私信(九三年三月二
九日付)が届いていた。「興味深い論争なので機会があれば、コメントした
い」と返信だけを書いておいた。原著者と話をして、問題点の所在が確認で
きたので、このさいにかきとめておく。訳者は矢吹宛ての私信でこう見解を
披瀝された。論点を明確にするため、記号をつけて引用する。「著者本人が
“自分の名はユンと発音するのだ”と書いているのを尊重してそのままの音
を表記したわけですが〔G〕、たしかに日本の辞書には“戎”という字は
“ロン”あるいは“ルゥォん”と発音すると書かれており、その限りにおい
ては、矢吹先生のご指摘のとおりです。ただ、ユン・チアン本人が原書(英
語版)の冒頭で My name “Jung" is pronounced “Yung". とわざわざ著者
註をつけていること〔H〕、実生活のなかでも夫君などから“ユン”と呼ば
れていること〔I〕、そして、現在も今後も“張戎”という中国名ではな
く、Jung Chang という英語式に表記された名前で英国の作家として執筆活
動をしようとしていること〔J〕などを考えると、やはり、日本式の発音規
則には合致しなくとも〔K〕、本人の望むとおり“ユン・チアン”と表記す
る〔L〕のが正しいのではないかという結論に至りました」。
*
*
*
一年後の今日、思いたって紀伊國屋書店で英語版の原書(フラミンゴ版、一
三版、一八〇〇円)を求めていくつかの点を確認した。結論からいうと、訳
者の言い分はまったく通らない。いくつかの強弁がある。無知に気づいてお
られない。それが最大の問題である。第一の問題。訳者は中国語をローマ字
で表記するばあいに、英語社会で伝統的なトマス・ウェード式と、中華人民
共和国で採用されたピンイン方式と二種類の表記方法があることを理解して
いない。戎という漢字は、ピンインでは Rong と表記するが、トマス・ウェ
ード式では Jung と表記する。これは言語学的には全く同一の音声に対する
二つの表記方法の差にすぎない。つまり、『ワイルド・スワン』の著者の名
は、漢字では「張戎」と書く。彼女の幼名は「二鴻」(アルホン)であった
が、一九六四年に中学へ入ったとき、「勇ましい名」をせがんで、父からこ
の名をつけてもらったのである(邦訳、上巻、三七三頁)。初めに漢字あり
き、だ。〔A〕のように、「正しい著者名」が「ユン・チアンだ」というの
は、強弁である。ちなみに、著者は矢吹の求めに対して邦訳書の余白に「張
戎」と自署している。著者は漢字の固有名詞をローマ字で表記するさいに、
書評一束
94
基本的にはピンインを用いている。たとえば姉の「肖鴻」はピンイン式で
Xiao-hong とされている(トマス・ウェード式なら Hsiao-hung となる)。
しかし弟の「京明」は Jin-ming と書かれている。正しいピンインなら Jingming (トマス・ウェード式なら Ching-ming)であるから、これは字面を考
慮した風だ。
第二の問題。訳者は〔B〕で、英語で書かれた原書の冒頭で著者自身が自分
の名は「ユン」と発音するのだと書いている、と指摘している。なるほど原
書の AUTOR'S NOTE には、こう記されている。My name “Jung" is
pronounced “Yung". The names of members of my family and public
figures are real, and are spelled in the way by which they are
usually known. Other personal names are disguised. Two difficult
phonetic symbols: X and Q are prnounced, respectively, as sh and ch.
著者はなぜこのように説明したのか。まず第一にピンインはイギリスでそれ
ほどポピュラーではない。だからトマス・ウェード式を用いたこと、これが
基本である。著者はこの方式で“Jung"と書いたが、ウェード式のキマリで
さえ、知らない読者が多いであろう。つまり judge のjのように発音される
恐れがある。そこで著者は yes の y の音だ、というふうに断ったのであ
る。英語世界の読者にジュンあるいはジョンと読まれたくないから、こう説
明したのである。訳者はこの説明の意味を誤解しているわけだ。〔K〕にお
いて、「日本式の発音規則には合致しなくとも」というのも、おかしい。あ
たかもユン説を批判する高島(=矢吹)が「日本式の発音」にこだわってい
るような書きぶりだが、ここで問われているのは中国語の正しい発音と訳者
の発音表記の距離なのである。さらに〔L〕で訳者は、「本人の望むとおり
“ユン・チアン”と表記するのが正しい」と結論するが、著者張戎は、きわ
めて標準的な現代中国語を話し手であった(三月二八日の対談のさいに、矢
吹が確かめた)。というわけで、高島・土屋論争は、完全に高島側に軍配が
あがる。「中国関係書の翻訳には中国を知る人を介添えとしてつけてもらい
たい、といつも思う」高島の嘆きは、関係者共通の実感だが、この単純な手
続きミスがいつも繰り返されている。本書は氷山の一角にすぎない。日本の
中国理解の脆弱さを示すヒトコマと思われるので、あえて書きとめた。教
訓。英訳された中国語の世界についての記述は、まず中国語に戻したうえ
で、それから日本語に訳するのが鉄則である。重訳は原則として避けるべき
である。
46『蒼蒼』第58号、94年10月
書評一束
95
長尾光之氏に答える
『中国図書』(内山書店、九四年九月号)に福島大学長尾光之教授が寄せた
一文は、モノゴトの論理のスジを周辺の枝葉の説明で混乱させるものであ
り、説得的とはいえない。「大多数の中国人は公の場では標準語を用い、家
庭内では方言を用いるという二重語生活をしている。張戎は自分の名前を四
川方言で表音化し、それをペン・ネームにしているというのはさほど特異で
はない」。これが長尾教授の主張である。
引用の二つのセンテンスのうち、前者は当たり前の、よく知られた事実であ
る。問題は後者だが、張戎が自分の名前を YUNG CHANG と表記したのは、
「四川方言で表音化」したのであるかどうか。ここには二重、三重の誤解が
含まれている。高木誠一郎教授が明確に指摘しているように「著者が渡英し
た一九七八年には、英文における中国語の表記には、中国の出版物も含め
て、ウェード・ジャイルズ方式が用いられていた」「中国が自国のローマ字
を使う外国語出版物でピンインを用いるようになったのは、一九七九年一月
一日発効の国務院通達によるもので、以後徐々に欧米でも自国語の出版物に
ピンインが用いられるようになった」のである(『蒼蒼』五七号)。つま
り、著者はパスポートに YUNG CHANG と表記するほかなかった。だからその
ように表記した。そして以後のイギリス生活において彼女はこのローマ字を
イギリス風に(?)発音する人びととつきあいながら生きてきた。この経緯
から分かるように、著者は何よりもまず、張戎を当時の正統的な方法にした
がって YUNG CHANG と表記したのである。これは四川語の発音や方言の問題
とはまったく関係がない。繰り返すが「初めに漢字ありき」なのだ。
なお、この点について高木教授は「外国を本拠地とし、外国語を生活言語と
するようになった中国人についてまで、その姓名を、当人の意思にかかわり
なく、常に漢字に還元したうえで標準語の発音に基づいて表記すべきもので
しょうか」「当人が現地人の発音を受け入れている場合には、漢字を忘れて
もよいのではないでしょうか」(傍線は矢吹による)。この高木説に私は原
則的には賛成である。中国の漢字文化は書かれた文字に過度に傾斜したとこ
ろがあり、その功罪は十分に検討されてしかるべきである。ただし、張戎と
いう作家は漢字を忘れ、中国人であることをやめようとしてはいない(と私
は理解している)。「英語を生活言語〔の一部〕とするようになった中国
人」ではあるが、同時に次著『毛沢東』の執筆準備のために、中国を訪問
し、中国人をインタビューし、中国語の資料収集に努めている人物である。
そして繰り返すが、彼女は標準的なマンダリンの話し手である。これらの状
書評一束
96
況証拠からして、私の主張を訂正する必要はないと考えている。〔本文とは
関係のないエピソード。私の友人がこの夏、四川大学を訪問し、「張戎の恩
師」を自称する教授と会ったときの話。彼女は才媛で、文革後、四川省初の
英国留学生であった。にもかかわらず、白人と結婚し、帰国しないのは大き
な間違いを犯した。しかし、最近の報せによると、離婚して華僑と再婚した
という話なので、良い選択をしてくれたと誇りに思っている。ソンナ話ハ聞
イテナイヨー。度シガタイ中華思想!〕
47『蒼蒼』第56号、94年6月
『漂流する日本』を読む
近藤大博
様
ご高著『漂流する日本』をありがとうございました。あなたは若くして伝統
のある『中央公論』の編集長になられ、四五歳という若さで自立、オフィス
こんどうを作られた。編集者としても、そして現在の仕事においても、みず
からは表てに立たず、人と人を結びつけ、人と仕事を結びつける仕事をされ
てきたわけです。いわば黒子です。黒子が何を考えているかは、その操り人
形を見て判断するしかなかったのですが、ご高著を拝読して、直接的に理解
することができました。早速、一読して、論壇の終焉が叫ばれて久しい論壇
の交通整理を見せていただいたような印象です。雑誌の編集者はいつも巻末
の狭いコラムで寸鉄のような発言をするばかりですが、本書のように積極的
にコメントしてもらえるとたいへんありがたいと思います。
「総合雑誌は日本近代史そのもの」(司馬遼太郎の言、本書一二頁)、つま
り「西欧に追いつくための道具」だというのが、司馬=近藤説です。とすれ
ば、「追いつきがなった以上、かつてのようには有り難がられないのは当然
のこと」(一九~二〇頁)という覚めた認識にならざるをえない。そこであ
なたは転進された。あなたの卓抜な表現によれば、「幕の内弁当型」の総合
雑誌が終焉するとして、しかし、近代化のなった日本が方向を見失って漂流
するばかりでは困りますね。日本も困るし、アジアも世界も困る。
最近の論壇は論客不在、弱小論客による迷論か低見か、さもなくば毒にも薬
にもならぬ出版社と編集者のご機嫌うかがいみたいなコメントしかない、な
どと悪口はすぐ出てきますが、といって小言幸兵衛にも高論があるわけでは
ない。という時代閉塞の状況なので、本書第二章「論壇から」のような文章
は、たいへん役立ちます。読者の雑誌選びのため、そしてヒヨコ編集者にと
書評一束
97
っては、書き手選びの参考資料として、需要はまことに大きいかもしれな
い。いまはマニュアル時代ですから、ヒヨコ記者、アヒル編集者に対して、
実践的マニュアルを提示し、あわせて、半人前の政治家や未熟な官僚たち
に、これは必読と示唆することは有益と思います。
旧ソ連という仮想敵国が消えたいま、『正論』も『諸君』も方向を見失って
いる。左翼の右往左往は当然としても、左翼の危機は同時に右翼の危機です
ね。まさに一億総漂流の時代。寸鉄、肺腑を抉るコメントや航海先を見失わ
ないための標識が求められています。ぜひ今後もこの仕事を続けてほしいも
のです。独特の書評としては、谷沢永一のシリーズがありますが(私の『文
化大革命』を酷評して、宣伝してくれた)、これに匹敵するような「時評の
時評」が継続的にほしいと思います。一つ注文。この種の本には人名索引と
論文あるいは誌名の索引がほしい。そうなると読者あるいは消費者にとっ
て、ますます便利です。追伸。アメリカ紹介の一端、「ティファニーの指先
女」には思わず笑ってしまいました。
48『蒼蒼』第57号、94年8月
W・H・オーバーホルト著『中国・次の超大国』を読むと元気が出る
サイマル出版会社長
田村
勝夫
様
W・H・オーバーホルト著『中国・次の超大国』をお送りいただきありがと
うございました。原書のことは確か年初だったと思いますが、香港の FAR
EASTERN ECONOMIC REVIEW 誌に書評が出ており、注目しておりました。私は
一昨日たまたま経団連中国委員会で講演をやりましたが、その際に主催者側
から「中国バブル崩壊論」をぶちあげたタイム記者 R.HORNIC の書いたもの
(FOREIGN AFFAIRS 九四年五~六月号)の邦訳コピーについてコメントを求
められたのです。この種の奇談怪論、コケオドシは、ほとんどオオカミ少年
の戯言だと一蹴したばかりでした。日本でもこの種のオオカミ少年、オオカ
ミ中年が後を絶たないのはご承知のとおりです。実はこのホーニック論文で
仮想敵国扱いされ、槍玉にあげられているのが本書だというわけです。この
ような論壇状況のなかで、ご高訳は私にとって援軍が届いた感じです。機会
があれば書評を書きたいと思いますが、書きたい本についての書評を依頼さ
れる確率はほとんど宝くじ程度ですから、とり急ぎお例のはがきを書いてお
きます。一九九四年六月二三日
書評一束
98
追伸。この本の冒頭のエピソードが面白いですね。大学院を出て、未来学者
ハーマン・カーンのハドソン研究所に就職したばかりの著者を所長が来客に
紹介するセリフです。「こちらはビル・オーバーホルトです。ハーバード大
学とエール大学院で七年間勉強したのですが、おかげですっかり駄目になっ
てしまいました。いま立ち直らせようとしているところです」。
49 書評『毛沢東の私生活(上下)』李志綏著、文芸春秋刊、新庄哲夫訳
『産経新聞』94年12月11日掲載、神話破壊する主治医の回想録
生誕百周年の前後、「素顔の毛沢東もの」とも称すべき一連の回想録が出版
された。これらは毛沢東のボディガードや看護婦、そして「生活秘書」と称
する女性たちの回想に基づくものであった。
本書は一九五五年四月から七六年九月に死去するまで足かけ二二年にわたっ
て毛沢東の主治医を務めた人物の回想録である。
「毛沢東の独裁体制が人びとにあたえた恐るべき結果の記録」であり、「善
良かつ有能な人びとが生きのびるため、いかに自己の良心にそむき、理想を
犠牲にすることをしいられたかの記録」だと著者は執筆意図を語っている。
本書は「好色漢」「無法無天」「パラノイア(偏執病)」「陰謀家」として
の素顔の毛沢東を語りきって余すところがない。毛沢東神話を破壊する決定
版といえよう。
ここに描かれた「皇帝」毛沢東の実像は、「英雄、色を好む」段階をはるか
に超えており、むしろ「梟雄(きょうゆう)毛沢東」である。隈取りした京
劇の曹操は見るからに「悪役」だが、著者の描いた毛沢東の悪役ぶりは曹操
を上回るほどだ。
本書のもう一つの特徴は、皇帝に仕える宦官もどきの人びとのプロフィルを
鮮やかに抉り出したことである。「毛沢東は煙草をくゆらせながら、周恩来
が床を這いまわるのを眺めやった」「周恩来ともあろう者が毛沢東の前で跪
くのは屈辱的に思われた」(下巻二七八頁)。
大奥の権力闘争、陰謀術策の種々相も奇々怪々である。毛沢東時代の政治の
裏面を研究するうえで、本書は必読文献の一冊であろう。ただし、明らかな
誤記もある。
書評一束
99
たとえば、林彪事件三日後に歯形のカルテを報告した(下巻三一一頁)とあ
るのは事実に反する。当時は中国のモンゴル大使でさえもそれが林彪の遺体
であることを知らされていなかった。ちなみに大使の名は訳文の「徐文益」
ではなく、「許文益」だ。翻訳は読みやすいが、「内為」「外為」(上巻一
〇八頁)は、「内衛」「外衛」だ。毛沢東の偽名「李徳生」(同一五四頁)
は「李徳勝」が正しい。
50『中国史の目撃者』
『産経新聞』94年8月4日
AP通信元北京支局長の回想録である。一九二七年ゴルフ場でキャディーの
アルバイトにしていた一三歳の著者は、ある客が見せてくれた斬首シーンの
白黒写真に衝撃を受けた。蒋介石による上海クーデタのヒトコマであった。
第二次大戦中はCIA(中央情報局)の前身OSS(戦略事務局)要員とし
て昆明で働いた。戦後はAP特派員として中国重慶にとどまり、延安末期の
毛沢東、朱徳、周恩来、劉少奇、林彪(ハルピンで)などをインタビューし
た。イ族の村へ行方不明の米兵を探しに行き、蘭州ではライ患者を救済する
宣教師と会い、青海省では軍閥馬歩芳を訪ねた。共産党が内戦に勝利する前
後の中国社会を著者は精力的に取材した。アメリカの記者たちは共産党勝利
に連なる事件を「見通しをもって報道した」であろうかと著者は自問する。
「私が知っているのは、記事を書き本国に送稿するため休みなく働いたこと
だけだ」。それが戦争と革命の現場の真相であろう。中国駐在のアメリカ人
特派員には、CIAの工作員になり、記事を書かない記者もいた。ヨーロッ
パと中東で「特派員とスパイ」の二役を演ずる英仏人、米人を知った。「記
者という職業の誠実さに泥を塗るもの」と評する一言に著者のジャーナリス
ト魂がキラリと光る。マッカーシー委員会(非米活動公聴会)への喚問を幸
いにも免れた経緯の解釈も迫力がある。五六年に香港に赴任した著者は、幻
に終わった訪中許可を受けとる。「ダレスよりも融通のきく国務長官だった
ら、米中対立は一九七一年よりも一五年早く終わった可能性がある」、「ベ
トナム戦争は回避できた」。七一年ピンポン訪中団に随行した著者は「あな
たがドアを開けました」と周恩来に迎えられた。本書はソールズベリーの回
想録と並べて読むといっそう興味深い。七九年四月に訪中した評者は、北京
飯店の一室に設けられたAP支局の開け放たれたドア越しにタイプを打つ著
者の横顔を目撃している。印象的であった。
51『毛沢東の人間像』
書評一束
100
『産経新聞』94年5月12日
改革派経済学者凌星光が毛沢東の側近林克をインタビューした対談録であ
る。読み応えのある本だ。林克は一九五四年一〇月から文化大革命の直前ま
で毛沢東の身辺の秘書として、その菊香書屋と廊下でつながる距離に住み込
んで仕えた体験をもつ。田家英、胡喬木、陳伯達など「政治秘書」は、重要
会議に出席し、公文書を起草する「表ての秘書」だ。林克は身辺にあって資
料を探し、英語を教え、国際情勢や国内問題についての相談を受ける立場に
あった。生身の毛沢東の印象深い証言が少なくない。すでにボディガード李
銀橋などの証言があるが、そこには誇張があると林克はいう。「四八時間眠
らずに仕事を続けることはたびたび」あったが、「三日も四日も眠らずに仕
事を続けた」ことはない。生活が「質素」で、「倹約家」は事実だが、これ
を「仙人や修行中の僧侶」のように描くのは行き過ぎだ。「真実から離れた
誇張」は「ばかばかしく、逆効果」だ。林克は実に抑制された理性的な口調
で語っており、信頼がもてる。彼は深刻に悩む毛沢東の姿を二回見た。一回
目は五七年反右派闘争の指示を出す直前、二回目は五九年の廬山会議だ。反
右派闘争を発動する数日前の明け方三時頃、寝つけない毛沢東が林克をたた
き起こし、整風運動を後悔したのを聞いている。廬山会議では「彭徳懐の意
見書」に同調する者が多かったので「毛沢東は逆襲を迫られた」と林克は解
釈する。彭徳懐は逆襲に反発して洛川会議(一九三七年)の論争を蒸し返
す。「彭徳懐は恨みを忘れない男」と毛沢東が激怒して、理性的な討論が不
可能になった。かくて廬山会議以後、階級闘争論が党内に持ち込まれ、党内
民主主義が消えた。個人崇拝がエスカレートし、経済政策がますます混乱す
ると、もはや文化大革命まで一瀉千里だ。生活秘書張玉鳳(七一~七六年)
と孟錦雲(七五年~七六年)らとのセックス・スキャンダルを侍医李志綏が
証言しているが、林克は沈黙を守る。
52 書評『中国の禁書』
掲載『産経新聞』1994年12月20日
「焚書坑儒」ということばは人口に膾炙しているが、その具体的内容や歴史
的変化となると、ほとんど知られていなかった。本書は『中国禁書簡史』の
邦訳であり、歴史上の様々な禁書事件を素材として中国文化史を描いたもの
である。韓非子「説疑」には、奸を禁じる最良の方法は、「心(思想)を禁
じること」であり、第二は「言葉を禁じること」、第三は「行為を禁じるこ
と」だとしている。「心」が「言葉」になり、「行為」として現れるという
人間観である。ここから「禁書の政治哲学」が生まれる。庶民の個々の発言
書評一束
101
や行動にいたるまで「思想が悪いから」と解釈する共産党流のイデオロギー
統制は、韓非子の理論を源流とするらしい。禁書リストを見ると、秦から漢
初は一九〇点、南北朝から隋・唐までは一四〇〇点、宋・元・明は一六〇〇
点、清朝は四〇〇〇点である。正統的儒教である経書に対して、神秘的な予
言を説いた讖緯や天文書がまず禁書とされ、禁書の範囲が緩やかに拡大し、
宋代以降勢いを強め、清代前期にピークに達した、と解説している。意外な
のは元代のモンゴル族統治者たちが漢民族のそれよりも統制が緩やかであっ
た事実だ。これは「書物の意義」に対する理解を欠いていたこと、思想が人
間を動かす役割を過少評価していたという「悲しき逆説」によるものと著者
は分析した。
明朝の朱元璋による弾圧を論ずるとき、著者はみずからを朱元璋になぞらえ
た毛沢東のイメージを彷彿させるような記述を行なっている。「影射史学」
健在なり、というべきか。それとも政治の現実があまりにも酷似しているた
め、実事求是で描くと似てくるという話か。「現代の禁書」について奴隷の
言葉で語る著者に代わって訳者は現代の禁書リストを一覧してみせた。この
リストから共産党流のイデオロギー統制の特徴が浮かぶ。訳者による巻末の
王蒙インタビューも意味深長で含蓄が深い。
53 書評樋泉克夫著『華僑の挑戦』
『産経新聞』95 年 2 月 12 日付、ジャパン タイムズ社、1800 円
複雑な内実を世界的な視野で
中国ブームは一皮めくると華僑・華人ブームでもあるが、両者の関係はかな
り複雑である。日本のように「国家・民族・言語」がノッペラボーにつなが
っている小世界の住人にとって最も理解しにく存在が華僑・華人なのであ
る。ブームに便乗して大ボラを吹いたり、ウワサ話を書いただけの本があふ
れるのは困りものだ。日本人が中国人や東南アジアの華僑・華人とつきあう
ためには、色眼鏡を外して相手を直視しなければなるまい。
評者は著者の前著『華僑コネクション』を読んで、この分野に真面目な研究
者が現れたことを喜び、推奨の書評を書いた(『VIEWS』)。本書は前
著よりも一段と優れた分析になっている。一方では鄧小平の改革開放政策が
生み出した「新華僑」の動向を移民史、難民史のなかに位置づけ、他方で著
者お得意のタイ・中国関係史を遡行している。こうして著者の分析は歴史的
な奥行きを踏まえつつ、世界的な広がりを視野におさめる。
書評一束
102
本書を読むと、アジアNIEsやASEANの高度成長の有力な担い手の一
群であった華人・華僑資本が天安門事件以後の中国になぜ怒濤のように進出
したのか、中国側はどのようにこの資本を受け入れたのかを生身の人間の言
動のレベルで知ることができる。
華僑・華人という存在は「逃げ水のように」とらえにくいと著者は嘆く。こ
こには対象の認識に悪戦苦闘する研究者のつぶやきがよく現れている。中国
人と華僑・華人の関係を「民族、国籍、アイデンティティ感覚(自己人)」
の三つの側面から整理してみせた図(本書三五頁)は「華」のカラクリに迫
る試みである。
中原を離れて華南に仮住まいした客家こそが「華僑・華人の先駆」であり、
客家人は「中国の中の華僑であった」という類推は示唆に富む。規制なき市
場経済の荒波で鍛えられてきた華人経営者のリスク感覚と規制に守られて半
ば衰弱した日本人経営陣との対比も鮮やかだ。
54 ベールを脱ぐ中国現代史
『産経新聞』1994年4月3日「文化」欄
中国現代史の秘密やナゾを解く資料が相次いでいる。林彪事件、毛沢東のセ
ックス・スキャンダル、文革期の食人事件を考えてみたい。第一に林彪事件
だが、『USニューズ&ワールド・レポート』(九四年一月三一日号)は、
旧ソ連国家保安委員会(KGB)のファイルのなかから、林彪の頭蓋骨写真
を探り出して、この人物の最期を確認し、中国現代史最大のナゾを見事に解
いてみせた。毛沢東の「最も親密な戦友」林彪が、毛沢東暗殺に失敗して一
九七一年九月一三日未明、旧ソ連に亡命を図り、モンゴル共和国ウンデルハ
ンの草原に墜死した、という中国政府の発表が世界中を驚かせてからすでに
四半世紀が過ぎた。事件から一七年後に、私は埋葬当事者の証言録(『党的
文献』八八年一期)を入手し、紹介したことがある(『読売新聞』八八年九
月一六日付)。それは中国外交部で極秘裡に処理に当たった符浩(その後日
本大使)、当時のモンゴル駐在大使許文益、モンゴル大使館二等書記官孫一
先らの当時の記録であった(邦訳は蒼蒼社刊の『林彪秘書回想録』所収)。
周恩来の秘密保持は徹底しており、許文益大使以下大使館の館員たちでさえ
も、埋葬の時点では誰の遺体かを知らされなかった。モンゴル当局者は中国
軍用機の領空侵犯を非難したが、遺体に疑惑を抱いた形跡はない。騒ぎはこ
こから起こった。林彪は毛沢東の「最後の晩餐」を受けた帰路にロケット砲
で砲撃された、墜死者のなかには林彪は含まれていないなどの「実録」が絶
書評一束
103
えなかった。私は符浩らの証言の具体性、論理的一貫性に接して、もはや中
国側発表を疑う余地はなくなった判断した。最大の根拠は、埋葬に関わる事
実である。それは中国政府の主権が及ばない地点、すなわち旧ソ連の属国に
等しいモンゴルであるから、いつでも中国政府のウソ(もしあれば)を暴く
ことができるはず。「敵」に弱みを握られている以上、真実を隠蔽できまい
と私は読んだわけである。ところが九一年暮、NHKニュースセンター21 の
ディレクターから、問いあわせがあった。「もし疑わしいのならば、ウンデ
ルハンの遺体を掘り起こしてご覧なさい。そしてソ連の病院から林彪のカル
テを持ち出して調べること」「もし遺体が林彪のカルテと符合しなかった
ら、中国政府は面目まるつぶれですな」とコメントした(『蒼蒼』九二年二
月一〇日号)。私はほとんど冗談で墓を暴く話をしたのだが、実はKGBは
それを実行していたのだ。『USニューズ』によると、KGBのチーム(元
KGB法医官ビタリ・トミリン将軍と元調査官アレクサンドル・ザグボジン
将軍)は七一年中に二回にわたって現場を訪れた。まず墓を暴いて頭蓋骨を
取り出し、モスクワに持帰って一年がかりで遺体を確認した。林彪が抗日戦
争で負傷し、ソ連で治療を受けたさいの銃弾のあと、金歯などが決め手とな
った。二回目には黒こげになった右肺の切片を持帰り、結核の治療記録と照
合するという念の入れようであった。この結果を知らされたのは、旧ソ連で
わずか四人、すなわちブレジネフ書記長、KGBのアンドロポフ長官、そし
て前掲の二人の将軍だけである(なんという秘密主義!)。中国側が真実を
隠蔽できなかったもう一つの理由が考えられる。対米緊張緩和に鑑みてニク
ソンの信頼感を獲得する必要があったからではないか。毛沢東、周恩来はニ
クソン招請に反対する林彪を犠牲として対米緩和を選択したわけだ。
第二は毛沢東の性生活の秘密である。イギリスのBBC放送が毛沢東生誕百
年を期して作成した「中国叢談」は、一九五四年から毛沢東が死去するまで
二二年間にわたって侍医を務めた李志綏の証言をもとに「裸の毛沢東、最晩
年の孤高と絶倫」を完膚なきまでにえぐっている(浜本訳、『THIS IS 読
売』九四年四月号)。「無法無天」の形容句に恥じないセックスライフにつ
いて巷間のウワサは絶えなかったが、今回は侍医の証言だから信憑性がきわ
めて高い。固有名詞として登場するのは、謝静宜(文革期に北京市委員会副
書記)、張玉鳳(生活秘書)、孟錦雲(生活秘書)の三人だが、性関係をも
った「教養の低い」女性は「非常に大勢」であった。「普通の人間ならあれ
ほどの年齢になれば性欲もなくなるのだが、毛の場合は性欲を自分の生命力
を測る尺度にしていた。性欲がなくなれば生命力がなくなったも同じ」と考
えてセックスに励んだというから、好色爺そのものだ。李志綏は「毛が本当
書評一束
104
に悲しみ、涙を流す姿」を見たことがないという。陳毅元帥の葬儀で涙を流
したという有名な話を李志綏は否定する。「あの時私は毛のそばにいたから
わかるが、泣いてなどいなかった」。李志綏の回想録『毛主席の私生活』は
今年中に出る由である。英雄好色か、梟雄毛沢東か、人間毛沢東研究の必須
文献になることは疑いない。この毛沢東スキャンダルに便乗した可能性が強
いが、「周恩来の私生児」を自称する艾倍の『父親と呼ぶには重すぎる』が
出版予定と報じられた(『香港聯合報』九四年三月六日)。肝心の「元愛
人」なる存在の氏名が伏せてあるので、事実かどうかを検証しようがない。
侍医の証言とこの女性の創作(?)とは、資料的価値を同日には論じられな
い。
第三の話題は食人事件である。映画「古井戸」で中国農村のしたたかな古さ
を描いた作家鄭義は、アメリカ亡命後に出した二冊の本で中国社会主義の無
惨を描ききった(『歴史の一部分』、『紅色紀年碑』)。書簡体からなる前
者の圧巻は第八、九信で、文革期の大規模な食人事件が描かれている。藤井
省三監訳『中国の地の底で』(朝日新聞社)がこの事件を削除したのは画竜
点睛を欠くもの。これでは「地の底」が見えてこない。『食人宴席:抹殺さ
れた中国現代史』(光文社カッパブックス)は、あまりにも興味本位であ
り、著者の問題提起が十分に読者に伝わらない。訳者、出版社側の見識が疑
われる。
55 東京新聞
94年5月29日
春節のテレビに登場した鄧小平の老衰ぶりは覆うべくもなかった。八月の誕生日が来る
と満九〇歳、ポスト鄧小平はいよいよ時間の問題になった。権力基盤の弱い江沢民がなぜ
党総書記、国家主席、軍事委員会主席という最高ポストを一身に兼ね、集団指導部の核心
になったのか、本書はその秘密に肉薄した好著である。歴史上の激動期には偏った人物は
指導者に選ばれない──これが中国政治のバランス感覚だと著者は説く。胡耀邦や趙紫
陽は「改革型、起業家タイプ」だが、江沢民は強い指導者鄧小平によって選ばれた「無為
の政治家」である。
「何もせず、守りさえすればよい。それが政権安定の秘訣」──これ
は漢の劉邦亡きあと、その息子恵帝を補佐した宰相曹参の政治哲学であり、この「無為の
政治」が漢王朝四百年の基盤を作った。中国でいま求められているものは無為の政治だ、
江沢民はその課題を担うべく選ばれた、と著者は強調する。楊尚昆の異母弟楊白冰は軍の
総政治部主任として天安門事件を処理し、その論功行賞人事を差配し、軍内における影響
力を固めた。しかし同じ第二野戦軍のライバル秦基偉国防部長や軍令部門と対立し、第一
四回党大会で軍から追放された。その結果、軍は党よりも一足早く「脱天安門事件体制」
に移行でき、軍内における権力闘争の可能性は大幅に減少したと著者は読む。江沢民体制
書評一束
105
はここ三~四年、
「慣らし運転」をやってきた。経済発展がほぼ軌道に乗り、九三年一一
月の三中全会決議で市場経済のビジョンも明示されているから、ポスト鄧小平期に「指導
部内で大きな政争が起こるとは考えられない」。「皮肉にもロシアの社会的混乱と経済困
難が(中国に対して)政争と混乱を戒める反面教師になっているのだ」
。真の試練がやっ
てくるのは鄧小平亡きあと二~三年後、すなわち政治改革に直面した時だ。その際に「流
れに任せて活路を求めよ」
、
「無為の政治」の初心を貫徹せよ、と著者はアドバイスする。
56 書評『ドラゴン・パール』シリン・パタノタイ著、田村志津枝訳
掲載誌:講談社VIEWS
1995年1月号
「数奇な人生を歩む人もいるものだ」とは、訳者のつぶやきだが、評者の読後感もこの一
語に尽きる。一九五六年、八歳のタイ少女が中国との「生きたかけ橋」の役割を果たすべ
く、一二歳の兄とともに人質として送られたことに始まる物語は、タイ・中国関係史の一
つの証言として興味津々である。ピブン首相は著者をひざにのせて、
(著者の父に)こう
いった。
「昔は私たち小国は統治者の子どもを中国へ送り、皇帝への忠誠と献身のあかし
としたものだ」
「自分の子どもを実際に手放すにまさる、信頼のあかしはない。これは中
国との関係をつくるほんの手がかりだ」
「小さい生きたかけ橋を両国のあいだに架けると
は、すばらしいことだ」
。著者の父サン・パタノタイはピブン首相の同志として日本軍が
タイに進駐した当時政府の広報責任者を務めた。戦後は反共政策を推進してアメリカか
ら援助を引き出しつつ、裏面で中国との国交を模索するピブンの腹心として活躍した政
治家である。幼い少女とその兄はピブンと父の真意を半ば理解しつつ、
「中国の最後の人
質」となった。北京での保護者は周恩来その人であり、著者は「周おじさま」と呼ぶ。超
多忙の周恩来に代わって養父役を務めたのが廖承志(元中日友好協会会長)であり、
「廖
パパ」と呼ぶ。五〇年代後半から七〇年夏までの一五年を著者は中国のエリート社会の人
びとのなかで暮らした。
廖承志に連れられて中南海のプールに行くと、
「満足した海洋動物」のような毛沢東がボ
ディガードをつれて泳いでいた。劉少奇(国家主席)
、陳毅(外交部長)
、李先念(財政部
長)の姿をみかけた。賀竜(元帥)は自分の娘とまちがえて泳げない著者に水を飲ませて
しまったことがある。後日、賀竜が国慶節のタイ舞踊「孔雀の舞」を見たかと聞く。
「あ
れはビルマの踊りのように見えたわ。タイの踊りとはちがっていました」と説明する著者
はすでに中国人のタイ文化理解に貢献している。さらに朱徳(元帥)、彭真(北京市長)
、
呂正操(鉄道部長)
、陸定一(中央宣伝部長)など錚々たる幹部とその子女に包まれて著
者は成長した。五七年九月、タイでクーデタが起こり、父が逮捕された。六年後、周恩来
はタイの代理人を通じて連絡をつけてくれた。
「周恩来首相の友情に感動している。こん
なに変わらぬ思いやりをしめしてくれる友人は、同国人のなかにさえめったに見あたら
ない」と獄中の父は子に手紙を書いた。周恩来個人外交の面目躍如である。六六年七月、
著者はアジア・アフリカ作家会議に出席し、郭沫若の「焚書演説」を直接聞いている。文
化大革命の嵐は著者の兄妹をも巻き込む。亡命中のタイ愛国戦線議長パヨム大佐らタイ
書評一束
106
人造反派が厳しい糾弾を始めた。パヨムはかつてタイで軍事クーデタが失敗に終わった
とき、著者の父によって処刑を免れた青年士官なのだ。人生のめぐりあわせは皮肉きわま
りない。兄は中国から追放され、著者自身も北京放送を通じて「父はアメリカ帝国主義と
反動的タイ政府の手先」だと不本意な原稿を読まされた。父への信頼を公然と否定するこ
とは、周恩来を間接的に追い落とすことを察知し悩むヒロイン。妻に夫を、息子に父を糾
弾させる悲喜劇をわれわれはいくつも見てきたが、亡命タイ人社会というミクロコスモ
スでの出来事は政治劇の非条理をくっきりと浮かび上がらせる。七〇年七月、著者は生命
の危険を感じた。
「はだしの医者」ジョシュア・ホーンの息子ディヴィッドの助けを借り
て、イギリスに脱出し、そこでディヴィッドと結婚した。まもなく中国をとりまく潮流は
一変する。七二年八月、タイのプラシット首相が訪中し、著者は大事な通訳の役割を見事
に果たした。本書は数奇な運命にもてあそばれた著者の自伝だが、中国と対東南アジア関
係の一断面を鋭く抉り出した。新中国「幻想」はいまや伝説と回想の世界にのみ残ったよ
うだ。
57 書評『移民と宗族』
華僑や華人についての議論が賑やかだが、虚像の部分が少なくない。本書は華僑母村と移
民社会の一面を考えるヒントを与えてくれる。著者は二〇余年前、文化人類学者として香
港新界の「新田」
(サンティン・るび)に住み込み、この村の細密画を描いた。米作が衰
退し、さりとて香港経済の高度成長のなかで急増した野菜需要に対する供給基地には転
換しにくい開拓地農村が舞台である。
「宗族」とは、本家と分家からなる一門あるいは一
族を指す。人口四〇〇〇人、八つの部落からなる文氏一族の村は、男たちが村を挙げて英
国に移民したあと、どのように変わったか。出稼ぎによって男手を失った村で、意外にも
「宗族」
(そうぞく・ルビ)の紐帯は健在であった。新界の他の農村が近代化し、宗族の
絆が弱まるなかで、文氏一族は家族・宗族向け送金を「失われつつある生活様式の保存」
のために注ぎ込んだ結果、
「宗族」は解体どころか、再編成され、いっそう強化された。
著者は中国の「宗族」は「社会制度としてかなり柔軟な」「適応的なもの」と結論する。
かつて宗族の結合の基盤であった「祖先地産」が農業危機のなかで衰微したあと、宗族の
絆はなぜ失われなかったのか。この一族は英国への移住斡旋、入国管理当局との交渉、一
族の出稼ぎ者の渡航や帰郷のためのチャーター便の手配、英国での職探しなどを行った。
このため「宗族の成員権」は重要な経済的資源となり、紐帯が保存され強化されたと著者
は解釈している。英国へ渡った移民は主として中華料理店で働き、三年あるいは五年に一
度帰郷するほか、さまざまな募金活動には必ず応分の寄付を行う。移民と母村との絆は固
い。著者J・L・ワトソンは現在ハーバード大学人類学部文化人類学の教授であり、本書
は著者の学位論文(カリフォルニア大学、一九七五年)である。この春の邦訳出版を奇貨
として紹介した。著者と同じ頃に香港で遊学生活を送り、広東語をかじった評者には無性
に懐かしい世界である。
書評一束
107
58 書評『毛沢東の読書生活』
週刊読書人
1995年6月9日、逄先知著、竹内実訳
本書は毛沢東の「私設図書室の司書」を一六年にわたって務めた著者先知の
二つの文章をまとめたものである。一つは『毛沢東的読書生活』所収のもの
であり、もう一つは『毛沢東和他的秘書田家英』所収の追悼文である。
毛沢東が無類の読書癖をもっていたことは、割合知られていようが、具体的
な内容、すなわちいつどんな本を読んでいたのかは司書役の先知の証言によ
って初めて明らかになった部分が少なくない。毛沢東の著作や講話には中国
史のエピソードや名言がしばしば登場するが、その舞台裏、資料源を著者は
明かしてくれた。
田家英は毛沢東の秘書を一九四八年から六六年まで一八年にわたって務め、
文化大革命の前夜に自殺した人物である。田家英は胡喬木の推薦で毛沢東の
秘書となり、逄先知は田家英のもとで秘書グループに参加し、司書を務めた
という関係である。建国前夜から文化大革命まで毛沢東が最も脂の乗り切っ
た時代に寵愛した政治秘書が田家英であり、田家英は毛沢東を限りなく敬愛
してひたすら仕えた。『毛沢東選集』全四巻の注釈校訂や『毛沢東著作選
読』(甲種本、乙種本)編集の中心となって働いたのが田家英だが、不幸に
も陳伯達、江青の讒言により、濡れ衣を着せられ、死に追いやられた。「毛
沢東の晩年の誤りは、田家英との関係にも反映している。田家英は謹厳実直
に毛沢東のために仕事を十数年つづけた。しかし、異なる見解を提起したこ
とから毛沢東の猜疑心を引き起こし、さらに当時の全体的な党内闘争問題に
関連づけられたため、毛沢東は彼を冷たくあしらい、ついにはまったく信頼
しなくなった。これは不公平だったと、私は思う」と逄先知は田家英を追悼
しつつ毛沢東を語っている。
訳者代表竹内実教授の「まえがき」は、評者にも懐かしい思い出である。八
七年九月(訳書九頁に、八九年とあるのはミスプリ)、著者たちの一行は京
都を訪れたのち、東京に来られ、私も先方の申し出を受けてお会いした。翌
年は竹内団長の一行に加わり、北京の中共中央文献研究室を訪問し、著者た
ちと再会し歓待を受け、毛沢東評価や林彪事件の中国現代史における位置づ
けなどをめぐって懇談した。このように直接的な形で意見交換ができるよう
になった開放政策の現実を大いに喜んだ次第であった。
書評一束
108
本書の英文書名は、The Intellectual Life of Mao Zedong とされている。侍
医の書いたプライベィト・ライフ、ナイト・ライフも興味深いが(邦訳、文
芸春秋社刊)、同じサイマル出版会刊の『毛沢東の人間像』(英文秘書林克
の見た毛沢東)と合わせて読むと人間毛沢東の真面目が浮かび上がる。著者
の姓「逄」はパンと読む。山東省出身のノッポであり、毛沢東よりも背が高
い。訳文は読みやすく、注釈も親切であり、信頼できる。
59 解説『ビター・ウィンズ』ハリー・ウー(呉弘達)著家本清美訳
日本放送出版協会、1995年、389~396頁
本書の著者の行動を香港の雑誌で読んで驚いたのは、一九九一年秋のことであった。中
国から亡命した人物が、逮捕・投獄の危険を冒して敢えて昔囚われていた監獄を非合法
な形で訪問し、取材したわけだ。その大胆な行動に驚き、さらにそれを支えているアメ
リカのマスコミと人権活動家たちの行動力に驚いたのであった。
1.著者について
著者はどのような人物であろうか。著者呉弘達は一九三七年に上海に生まれた。一九四
九年に新中国が樹立されたとき一二歳であった。裕福な銀行家の息子としてフランス租
界にあったカトリック系のセント・フランシス校に入学した。ハリーというクリスチャ
ン・ネームはそのとき名付けられた。しかし一九五二年になると、いわゆる「社会主義
改造」の前段階が始まる。外国人教師はすべて帰国させられ、中国人聖職者の中には逮
捕される者も出た。ミッション・スクールは中国風に「時代小学校」と改名された。そ
の教育理念はいまやマルクス・レーニン主義がカトリシズムにとって代わった。それを
教える「政治指導員」も配属された。その激変は家庭にも及んだ。汚職や官僚主義に反
対する、いわゆる「三反運動」に際して父は一カ月も査問され、その間帰宅できなかっ
た。
一九五五年秋に著者は北京地質学院(単科大学)に合格し、入学した。五七年の反右派
闘争において著者は「整風運動を忌避して許可なく、寮から実家に帰った」として批判
される。ブルジョワ出身なるがゆえに、右派分子予備軍に選ばれ、以後二年余にわたっ
てしばしば「闘争会」の場に引きずりだされ、つるしあげられた。
ここで「反右派闘争」について説明する紙幅はないが、それを指揮したのが総書記に就
任したばかりの小平であったこと、現在の国務院副総理朱鎔基も右派分子扱いされ、以
後二〇余年、ほされていたことは比較的知られていよう。
書評一束
109
2.北苑収容センターから西紅山鉱山の労働キャンプ
六〇年四月末、地質学院当局は北京市人民政府を代表して「反革命右派分子呉弘達」に
「労働改造」を命じた。著者はまず北苑収容センターに送られた。半年後の六〇年一〇
月末、二〇〇人の「労働改造犯」とともに廃坑に近い形の営門鉄鉱山(国営延慶製鋼所
の一部門、北京市公安局が経営していた)に送られた。この鉄鉱山は三カ月後の六一年
一月、完全に閉鎖されることになったので、著者たちは西紅山鉱山の労働キャンプに送
られた(その建物は五八年の大躍進期に囚人労働によって建てられたものであった)。
3.清河農場から団河農場へ、ふたたび清河農場へ
六一年のある日、茶淀駅(京山線=北京・山海関線で天津から五つ目の駅)が最寄り駅
の清河農場に移された。六一年五月、中国政府は「反革命右派分子」に対して正式に
「有罪」を宣告するとともに、労動改造についての新方針を発表した。著者たちは改め
て自分の罪の告白と反省を求められ、さらに「ふさわしい刑期を自分で決めるよう」に
申し渡された。隊長が「最長三年間の労動改造に値する」と示唆したので、著者は「一
番重い三年間の労動改造が必要だ」と申告した。
法治国家に住むわれわれにとって「ふさわしい刑期を自分で決める」とは、いかなる意
味か、理解に苦しむであろう。著者がかぶせられた「反革命分子」という罪状はいかめ
しいが、要するに共産党の政策を口頭で批判しただけである。そのような態度を「有
罪」とするのが非条理なら、その「刑期」を「自分で決める」とは、いよいよ非条理で
あろう。しかしこれが「労働改造」(あるいは「労働教養」)なるものの実態なのであ
った。六一年八月、収容所では飢餓が蔓延し、囚人療養センターが設けられた。当時著
者の体重は三七キロにすぎなかった。大躍進政策が失敗したときの餓死者数はおよそ二
〇〇〇万人にのぼると推定されている。シャバにいる者でさえ、餓死するような食糧不
足状況なのであった。収容所においてはなおさら食糧が不足していたであろう。
六二年二月、広州会議で中国共産党は「三元」政策(原文=三原政策)を採択したとす
るニュースが伝えられた。これは右派分子を「元の職場、元の地位に戻し、元の月給を
払う」という話に、著者たちは釈放命令を待ったが、結局は失望に終わった。
六二年六月、著者たちは北京市南郊の団河農場に移された。ここで囚人の半数は労動学
習から解放され、「労働教養犯」扱いになったが、著者自身の身分は変わらなかった。
「労動改造犯」は「強制労動犯」と「労動教養犯」の二種類に分けられる。後者は、監
視下におかれた点では前者と同じだが、月々の月給が出ること、二週間に一度の休日に
書評一束
110
は外出が許可されること、毎日の食事は一般労働者と同じく食堂でとり、料理は自分で
注文できるという恩典が許された点で前者とは異なっていた。
六四年五月二四日は本来なら「労働改造の最終日」のはずだが、北京市公安当局からの
釈放命令は届かなかった。「正式な釈放命令が降りるまでは、今まで通りの生活をして
もらう」と大隊本部から通達された。六五年九月のこと、釈放を求める手紙を毛主席に
書いたことがばれて、間口一・八米、奥行きと高さがそれぞれ〇・九米の懲罰房に入れ
られ、危うく死にかかったことがある。
4.「強制労動犯」から「労動教養犯」に、そして山西省王荘炭坑へ
六六年夏、文化大革命が始まると、収容所に紅衛兵がやってきた。「修」というあだ名
の男はひどく殴られ、気を失った。六七年三月、著者たちは再度清河農場に送られた。
ここは文化大革命という政治闘争とは無縁であり、一般社会の影響を受ける団河農場よ
りは安全であった。
六九年一二月、「強制労動犯」の身分から「労動教養犯」の身分に昇格した。九年以上
も幽閉されたのち、突然やってきた変化であった。「囚われの身」には変わりないが、
「閉じ込められる鳥籠」はいくらか大きくなり、いささかの自由を得ることになった。
著者は列車に九時間乗せられて山西省の王荘炭坑に移り、炭坑労働者になった。
七〇年一月、いささかの自由を得た三三歳の著者は三九歳と紹介された元囚人女性(の
ちに判明したのだが、実は四二歳)と結婚した。七六年九月、昼食の休憩時に毛沢東の
死去を知り、風向きの変化を予感する。七八年になると、政治犯の待遇は著しく改善さ
れた。七八年の春、鄧小平が力を盛り返すと、炭坑の雰囲気は劇的に変化した。毛沢東
路線の追随者が政治的影響力を失ったのを知った。
5.「反革命分子」の名誉回復(七九年一月)
著者が「反革命分子」のレッテルの撤回を正式に通知されたのは七九年一月初めのこと
であった。以来、著者の生活は急速に変化し、一般人として党幹部の食堂で食事をとる
ことができた。自由な身分になった著者は、新設の山西財経学院で英語と数学を教える
ことになり、妻はそこの図書館で働いた。囚人上がりの身分でいきなり大学の教員にな
った著者は同学院の一年の任期を終えて、武漢にある地質大学の講師の職を得た。その
秋、カリフォルニア大学から客員研究員の招聘状を得て、パスポートの発給を四年以上
待たされたあげく、八五年にようやく中国を離れた。
書評一束
111
6.CBSテレビ(九一年九月一五日)で監獄労動を紹介
著者はアメリカCBSテレビのクルーの支援を得て、強制労働キャンプ制度の実態や
「囚人労働による製品の輸出」の事実を暴露するために、九一年六月に再入国した。か
つて幽囚された清河農場や王荘炭坑などで旧知の人びとと会う著者の姿を、背景ととも
に著者の新しい夫人がビデオで隠し撮りした。それは九一年九月一五日、CBSテレビ
の Sixty Minutes 番組で放映され、人権問題に敏感なアメリカのマスコミで大きな話題
となった。これに対して中国の外交部スポークスマン呉建民は九月一九日「事実を歪曲
した報道だ」と非難した。これは著者の立場からすると、非条理な投獄へのしっぺ返
し、「勝利の確認」にほかならなかった。
「収容所群島」を書いたソルジェニツィンが、長い亡命生活のすえに、解体後の旧ソ連
に帰国したのは一九九四年のことである。あれ以来、収容所群島は社会主義国家の別名
になった。中国もむろん例外ではない。
中国収容所群島を描いた本として、いま次のような著書がいま私の手許にある。
1.アンリ・リケット、アディール・リケット夫妻著『解放の囚人』岩波新書、一九五
八年
2.ジャン・パスカリーニ(漢字名=包若望)著、『毛沢東の囚人』(邦訳『誰も書か
なかった中国・毛沢東の収容所群島』)産経新聞社、一九七四年
3.佐藤亮一著『北京収容所・一記者の獄中日記』荒地出版社、一九七七年
4.アムネスティ・インタナショナル編『中国における政治投獄』三一書房、一九七九
年5.劉青著『獄中手記』香港百姓半月刊出版社、一九八一年
6.沈酔著「人民服を着た皇帝・溥儀の晩年」『中央公論』一九八一年八月号
7.劉青ほか著『大陸・台湾坐牢記』香港百姓半月刊出版社、一九八三年
8.方丹著「小平の監獄・北京幽囚二年間を語る」『中央公論』一九八三年六月号
9.林希対談「胡耀邦中国への熱きまなざし」『中央公論』一九八六年七月号
10.鄭念著『上海における生と死』ロンドン、グラフトン・ブックス、邦訳『上海の長
い夜』上下、原書房、一九八八年
書評一束
112
11.戴晴著『我的入獄』香港明報出版社、一九九〇年
12. アムネスティ・インタナショナル、アジア・ウォッチ編『中国における人権侵害・
天安門事件以後の情況』蒼蒼社、一九九一年
13. 張戎著『ワイルド・スワン・中国の三人の娘たち』講談社、一九九三年
14. Asia Watch, Detained in China and Tibet: A Directory of Political and
Religious Prisoners. Human Rights Watch, New York, 1994.
優秀な学生が反右派闘争の犠牲になり、長期にわたって拘禁されたという点では、著者
の体験は、林希のケース(9)に似ている。中国における「労働改造」の実態について
は、特にアムネスティ・インタナショナルやアジア・ウォッチ(ヒューマン・ライツ・
ウォッチ)の活動(たとえば4と 12、14 など)を通じて、割合よく知られるようにな
っている。特筆すべきは、ベストセラー『ワイルド・スワン』が文化大革命における実
権派幹部の悲劇を的確に描いてみせたことであろう。
著者はきわめて冷静に著者とその家族、友人たちを襲った悲劇を記録した。それが現代
中国の暗黒部についての一つの信頼に値する証言であることはいうまでもない。ただ
し、類似のストーリーはすでにいくつか知られており、初めて知る話ではない。著者の
本領はみずからの苦い体験をバネとして、労働改造制度そのものに果敢に挑戦したこと
である。一九八九年六月三日夜、中国の人民解放軍は天安門広場に座り込みを続けてい
た学生や市民を武力で排除し、三〇〇余の犠牲者を出した。この事件をアメリカの視聴
者は昼間にテレビで見て、中国の「野蛮さ」に驚愕した。まもなく旧ソ連は解体した。
こうして最後に残った「人権無視の共産中国」に対して、アメリカの世論は燃え上が
る。米国議会は中国に対して強硬な人権外交を進めた。米国ではあたかもダレス時代の
再来のように中国制裁論が勢いを増した。中国はこれに「和平演変」の脅威を感じて、
かたくなになった。
著者の収容所群島訪問ルポがアメリカの世論形成に一定の役割を果たしたことは確かで
あろう。中国における人権侵害の実情を客観的に報道することは必要なことだ。ただ
し、それが中国制裁論の根拠とされ、中国の改革派にダメージを与え、保守派に有力な
根拠(「和平演変」論の横行)を与える結果になったことについて、私は不満を抱いて
いる。中国に対して「共産主義の衣を脱がせる」最良の方法は、イソップ童話の「北
風」ではなく、「太陽」だというのが私の確信である。それゆえ、亡命後の著者の行動
については、違和感を抱いているが、それは本書の価値とは区別して評価すべきであろ
う。
書評一束
113
私はさきごろ、人権擁護運動を進めている米国の知人から、魏京生を一九九五年の「ノ
ーベル平和賞」候補として推薦して欲しいと「推薦署名」を求められたが、考えるとこ
ろあってこれを断った。一二億人の中国人の人権が向上することを願う点で人後に落ち
るものではない。問題はその方法である。私の理解によれば、現在の市場経済化の急激
な移行の過程で、中国の人びとの経済生活、社会生活は大いに改善されつつある。それ
は直ちに彼らの生存権という最も基本的な人権の改善に貢献しつつある。そのような中
国の歩みをいわゆる「人権外交」が妨げるならば、それは意図とは異なる結果を生むお
それが強いと判断して、断り状を書いた次第である。
〔以下は訳文についての若干のコメント〕
1 章 1頁後3行 下町の南山路 → 原文は WANJING ROAD です。
3 章 1 頁 3 行 「花を咲かせ意見を交換する」は「百花斉放」の原文から訳したほうが
よい。 6 行の「そよ風や小雨のごとく」の原文は「和風細雨」です。
12 章 8 行 北京警察公安部 → 北京市公安局
中国語で公安とは警察のこと。公安警察という日本語は治安警察の意味で、誤解を招く
おそれあり。(15 章 23 頁後 5 行 公安警察
13 章 3 頁 3 行 ニュース雑誌『人民画報』→ グラビア雑誌『人民画報』
16 頁後 2 行 町ではなく、北京市の南端
17 章 2 頁後 5 行 造反には理がある → 道理があると訳すのが普通。「造反有理」が原
文
10 頁 4 行 トンネル戦争 →「地道戦」という題名のゲリラ戦争映画の話。
18 章 2 頁「大海航行靠舵手」の歌詞は、中国語原文から訳して欲しい、英語からの重
訳は見苦しい。
20 章 1 頁 1 行 山西省第四労改造門 → 意味不詳。
7 頁後 4 行 「六条標準」 → 注釈必要
21 章 15 頁 3 行 中国開放 → 中国解放
書評一束
114
エピローグ 11 頁 7 行 呉建民外相 → 呉建民外交部スポークスマン
訳者からの問い合わせに対する漢字表記のなかに、ピンインと合わないものが散見され
ます。たとえば
Liu Sheng は 劉森 と違う。森は SEN
Lu Haoqin は 陸浩清 と違う。清は QING
Qing Niannian は 秦念年 と違う。秦は QIN
Qi San は 曲伸 と違う。QU SHEN のはず。
Shen Jiarui は 孫嘉瑞 と違う。孫は SUN
Xu Yunqin は 許雲清 と違う。清は QING
Zheng は 曽 と違う。曽は ZENG です。
不可解です。
60 書評 丁学良著『中国における共産主義の没落:正統性の危機、1977~
1989 年』
評者 矢吹 晋
掲載誌 『アジア経済』第 37 巻第 3 号 1996 年 3 月 15 日発行、77-81 ペー
ジ
1.本書の概要
初めに、本書の概要を一瞥しておきたい。本書のタイトルは「中国におけ
る共産主義の没落 The Decline of Communism in China 」である。著者
は文 化大革命期に紅衛兵になった体験をもつ中国人の比較社会学者である
が、現在 はアメリカで研究生活を送っている(くわしい経歴は後述) 。著者
の問題意識 は、きわめて明確である。すなわち、鄧小平の改革開放路線の
もとで高度成長が 始まったのは 80 年代のことだが、「この経済発展の過程
でなぜ天安門事件が起 こったのか」である。この疑問に答えるために著者
は「改革の 10 年(1977~ 1989)」の時期を対象として、共産党員からなる
政治的エリートと共産党に反対する立場に立つ知識人エリートの関係を分析
書評一束
115
したわけである。著者の鄧小平路線に対する基本的認識は「経済面では左翼
反対、政治面では右翼反対
anti-Left in economics and anti-Right in
politics 」である。政治と経済 のベクトルの異なる二本足路線であり、その
結果として鄧小平体制は「政治改革 を避けながら経済発展を奨励するこ
と」によって「正統性の危機を深めた」と いうのが著者の基本的な見方で
ある。
天安門事件における反体制的知識人の出自を分析する過程では、
institutional parasitism というキーワードを提起している。パラサイトと
は、植物学では寄生植物のことであり、動物学ではホトトギスなど托卵性の
鳥 を指す。転じて、 居候や食客の意味ももつ。ここでは仮に「制度的寄生
主義 」訳しておく。著者の言わんとするところは、天安門事件当時の反体
制的エリ ートが体制そのもののエリート層から生まれたこと、 こうして生
まれた反体 制的エリートがその体制の正統性に挑戦している構図を分析す
ることである。
国家対市民社会のモデルとの関わりについていえば、中国問題の核心は
「 共産主義晩期 late communism における国家・社会関係の変容の問題」
であり 、「共産主義からの過渡期の政治的ダイナミクス the dynamics of
the transition from communism 」の問題として把握されることになると
いうの が、著者の分析視角である。
2.本書の著者について
評者は 1989 年に台北で『中国時報』主催の「中国の民主化」についてのシ
ンポジウムに招かれたさいに、パネリストのなかに著者の名を発見して、若
き 社会学者との対話を期待して出かけたことがある。しかし、そのときは
夫人の 出産に立ち会うためとの理由で、欠席し、会えなかった。
本書の付録として付された「方法と方法論についてのノート」によれば、
著者の経歴は通りである。
安徽省南部の農村にある町で生まれ、育った。文化大革命期には積極的な
紅衛兵としてこれに参加した。1969 年初めから 1975 年半ばまで「知識青
年」と して安徽省の農村に下放され、そこで県政府の職員になった。つい
で同省で機 械製造工場のブルーカラー労働者になり、のちに同工場の下級
管理職に昇進し た。その後、合肥の中国科学技術大学で「工農兵学員」の
書評一束
116
一員として 3 年間過 ごした。大学にいた間、訓練兵として数カ月を軍隊で
送り、1976 年には急進的 な毛沢東主義的教育政策を批判したために、政治
的トラブルに巻き込まれた。 大学卒の資格をもらって、機械製造工場にも
どり、同工場に賃金改革を導入し た。1979 年から 1982 年にかけて上海市の
復旦大学の大卒者研修プログラムに参 加し、そこで同キャンパスの非毛沢
東化キャンペーンを目撃した。
その後 2 年間、北京にある中国社会科学院マルクス・レーニン主義毛沢東思
想研究所(歴代所長は于光遠、蘇紹智といった名だたる改革派論客) で調査
研究を行う機会を得て、「ヒューマニズムと社会主義的疎外」(中国語で
「異化」)についての討論に参加したが、この討論は 1983~84 年の精神汚
染反対キ ャンペーンにおいて批判された(なお、この疎外論争について
は、評者の「社 会主義と疎外」『2000年の中国』所収を参照された
い)。
3.本書で用いた資料について
著者は本書で用いた資料を 5 種類に分け、それぞれの資料の特徴につい
て 、つぎのように説明している。
a)中国で得た資料
著者はまず素材となる知識を、バックグラウンドの知識 background
knowledge
とフォーマルな知識 formal knowledge の 2 種類に分ける。
ここで background knowledge とは「ある社会において長期にわたって生
活した結 果得られる知識」を指す。これと対照されるのが formal
knowledge(きちんと した手続きを経て得た知識の意味) 、すなわち「目的
意識的調査によって得ら れる知識」である。前者について著者自身のケー
スをこう説明する。
「( 前述のような)さまざまな体験のなかで、多くのさまざまな社会的階
層の人びとと知り合い、1980 年代半ばまでの中国の主な政治的事件について
直 接的体験をもつことができた。これらの background knowledge が大い
に役立っ た」。
後者の formal knowledge
書評一束
として著者が列挙しているのは、
117
1 中国での主な事件の参加者からの聞取り (これらの人物はインフォーマン
ト imformants として、当然のことながら、固有名詞は伏せられている) 、
2 著者が観察した対象についての記録類、
3 著者自身が出席した会議の記録、
4 著者自身が参加した調査プロジェクトの資料、
である。
まず「みずからが参加し、事後にそれを調査する」という意味で、著者の
方法は「シカゴ学派の野外調査に似たもの」と説明している。ただし、ある
事 件について参加者であり、同時に観察者であるという二つの立場をもつ
ことは 、
1 偏見をもった観察になりやすいこと、
2 特定のインフォーマントたちと親密なことは、その社会の他のメンバーと
の接触の妨げになること、
3 インフォーマントの名がわかってしまうために、ある種の質問をしにくい
こと、
などの不都合が生ずることもある。
著者のばあい、3 の問題は生じなかったが、2 と 1 は体験したと反省してい
る 。ただし、1 の偏見は社会学者として米国で暮らす体験を通じて偏見を修
正で きたという。
b) 中国を離れてから西側で行なったインタビューについて。
移住者に対するインタビューについては偏見の有無や代表性などの問題が
あるが、これらの点に留意し、先達の方法を援用してインタビューの方法を
工 夫したとしている。
書評一束
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被インタビュー者はみずからの参加した出来事の意義を強調する反面、み
ずからの参加しなかった出来事を過少に評価する傾向がある。この種のバイ
ア スを避けるために著者が留意したのは、次の 3 点である。
1 中国において、すでに background knowledge
をもっていたこと。
2 被インタビュー者から可能なかぎり、詳細に聞き出したこと。
3 同じ出来事に参加した者の名をできるだけ多く聞き出し、それらの人びと
にもインタビューを行い、あたかも「三角測量的方法」で、その発言を修正
し ようと試みたこと、
である。
c)中国の学術機関、行政機関の行なった調査類
共産主義国で行なわれる調査の政治的、技術的限界については、西側でか
なりよく知られている。Stanly Rosen, David Chu によれば、調査の質に影
響 を与える要素として挙げられるのは、
1 中国の政治文化、
2 政治目的に合わせた調査、
3 サンプル選択における確率論の軽視、
4 過度に一般化した結論を導くこと、
5 大きな範疇になにもかも含めてしまう欠陥、
6 調査した社会問題から学術的結論を導くことをしないこと、
である(208 頁) 。
これらの欠陥や限界は確かにありうるが、著者は 1987 年から 1989 年春にか
けての時期は、党の国家の管理がゆるんだ時期であること、さらに西側の社
会 調査の方法が効果的に活用されたと評価できるとして、北京社会問題研
究所に よる陳子明、王軍濤らの調査を指摘している。
書評一束
119
d)中国の公表出版物。
これには共産党の文献や統計などが含まれるが、それらは「公開発行」
「 国内発行」「内部発行」の 3 種類からなる。これらの合法的出版物のな
かにさ え、反体制エリートの見解を読み取る可能性のあることを著者は指
摘している 。
e)海外のマスコミにリークされた中国の秘密資料
これらの資料は概して信憑性は高いが、指導者の講話などについて、他の
傍証によって真実と判断できるものを選んだとしている。ここには「研究者
の 倫理のジレンマ」がある。著者自身、中華人民共和国の一人の公民とし
て「個 人の政治的安全」には過敏にならざるをえないことを熟知してい
る。この点に 留意し、中国人インフォーマントの固有名詞や所属機関の明
示を避けたと説明 している。
4 本書の構成について
本書は理論的分析枠組みを検討した第1部( 第1章理論的問題、比較上の
問題、第 2 章反体制エリートとその制度的基盤) と中国の実態を分析した第
2 部からなる。
第1部第 1 章では、エリートの定義、正統性の危機、政治的安定、制度的
寄生主義、などのコンセプトが欧米の社会学の成果を踏まえたうえで細かく
定 義される。
第 2 章では反体制エリートと支配的エリートの境界を論じ、さらに反体制
エリートを 4 つのタイプに分類する。すなわち
1CI=cultural intellectual
2MI=marginal intellectual
文人的知識人、
マージナル知識人、
3OI=official intellectual 官僚知識人、
4TI=technical intellectual
テクノクラート知識人、
である。
書評一束
120
いやしくも社会科学の研究者として発言するためには、この定義の明確化
は、前提として避けられないが、正直なところ第1部の紹介と的確なコメン
ト は、評者の能力を超える。著者と読者には申し訳ないが、この部分は割
愛せざ るをえない。この過程で著者がいかに悩まされたかは、序文に記さ
れている。
「ごく単純な、身近な考えを述べるのにさえ、的確な言葉を見出すのに、
往々たいへんな骨を負った」。これは著者の英語力の問題だけではあるま
い。 「どの文章もすべて妥協であった。私が書いたものは、決して私が言
いたかっ たそのものではない。私にできたのは、私が言おうとしたこと
を、はるかに遠 くから、入手可能な近似値的な言葉のなかから選択するこ
とだけであった」 (Preface, xi )。異文化に対する相 互理解や文化交流や文
化摩擦の諸問題を知的に正確に記述することには、大き な困難が伴う。
第2部は、4つの章からなる。
第3章は、体制側の提起した「思想の解放」キャンペーンとそれに対する
反体制エリートの対応を分析したものである。鄧小平の改革開放を契機とし
て、 鎖国の迷夢から覚めた中国人民の見たものは、社会主義の優越性の神
話に隠さ れた現実であった。彼らは直ちに「三信の危機」(マルクス・レ
ーニン主義毛 沢東思想への不信、共産党への不信、みずからの信念への不
信)に陥った( 110 頁) 。
陳雲は 1979 年 4 月の理論工作会議で「上策、中策、下策」を提起した。
「上策」とは、問題解決のために、権力を失うことさえ覚悟して大手術を行
なうことである。「下策」とは、現状維持をつづけ、野垂れ死にすることで
ある。「中策」とは、「適度な改良」である。陳雲はこの哲学(中策)の考え
方にしたがって、鄧小平の改革開放を支持し、時に批判した。著者は、阮
銘、蘇紹智など、この会議に参加した反体制知識人や当局の資料などから、
この状況を興味 深く分析している。この文脈で「毛沢東の六つの基準」
「林彪の四つの基本点 」「鄧小平の四つの基本原則」は共通点をもつと著
者は結論する。
第4章は、精神汚染反対キャンペーンすなわち精神文明建設のキャンペー
ンに対する反体制エリートの対応を分析したものである。西側世界に対して
目 を開いた中国庶民の目に社会主義の現実は「幻滅」以外のなにものでも
なかっ た。そこから外国のものはお月さまでも中国のよりもよいとみる
書評一束
121
「全般的西洋 化」の風潮が起こり、この風潮を当局は「精神汚染」と断じ
た。そこから、改 革開放によって西側のよいものは導入するが、ブルジョ
ア自由化は拒否すると いう「中体西用」論が生まれた( 137 頁) 。いわ
く、中国を「体」となし、西 洋を「用」となす。これは「和魂洋才」に似
た論理構造である。
第5章は体制側と反体制側の双方から展開された「二つの愛国主義」キャ
ンペーンを分析したものである。体制側による「愛国主義」キャンペーン
は、 白樺の『苦恋』批判を通じて展開された。他方、テレビ番組「河殤」
を契機と してまきおこった「球籍」論争はいわば反体制側による問題提起
であり、著者 は両者を対比させて分析している。「愛国主義」の解釈は当
局側によれば、国家中心型 state-centered
であり、反体制側からみる
と、民族中心型 nation-centered であった。当局は愛国主義を利用して国
民を政府に情緒的 に結びつけようとした。反体制側は、国家ではなく、民
族こそが忠誠心および 義務の拠り所であると論じた。当局は中国社会は昔
よりはよくなったと垂直的 、時間的比較によって中国の現実を肯定しよう
とし、反体制側は東アジアの隣 国・地域との比較によって中国の立ち遅れ
に警鐘を発した( 163 頁) 。
第6章は、第 13 回党大会で採択された「社会主義初級段階論」と反体制側
の「二つの発展モデル」の分析である。趙紫陽総書記によって打ち出された
「 社会主義初級段階論」は、いわば魔法の小箱であった。商品経済の導入
であれ 、単独の、私的な経営であれ、人びとは当初おそるおそるこれに従
事していた 。この「社会主義初級段階論」以後、人びとは「非社会主義的
ビジネス」すな わち国有企業以外の経済活動を黙認され、公然と自信を抱
いてこれに従事でき るようになった。「前進せよ。制約はすでに除去され
た。いまやビジネスの自 由が保証された」。中国の庶民は初級段階論は、
大きな籠であり、この籠のな かには何でも入れてよいのだ、と解釈した
(173 頁) 。
初級段階論以後、中国社会の風潮は大きく変わった。「中国では社会主義
は死んだ」──これが庶民の受けとり方であった。ここから、二つの潮流が
生 まれた。一つは、「新権威主義論」であり、もう一つは「民主化、自由
化」の 風潮である。
書評一束
122
新権威主義 new authoritarianism, despotism and market 派の論客とし
ては、上海市党委員会宣伝部長潘維明、上海復旦大学王滬寧、『光明日報』
記 者戴晴などの名が挙げられるが、「集権」「極権」論争が起こった。
これに対して、民主化派 immediate democratization plus market 派が
強力に反論した。その陣営には、于浩成、胡績偉、蘇紹智、李洪林、許良英
など、オールド・リベラルの名が見える(185 頁) 。
この文脈で王逸舟、温元凱、厳家其、曹思源などの名も見落とせない(188
~190 頁) 。
著者の結論は、つぎのごとくである。
「共産主義からの過渡期」を研究する「社会科学における最近の革命理論
研究の主導的理論 recent mainstream theories of revolution in the social
sciences 」において、知識人の役割を過小評価することは誤りである 。旧
ソ連や東欧の分析において、最高指導者層や伝統的権力集団に焦点を当て
るやり方が広範に行なわれている現状に対して著者はこのように批判し、知
識 人の役割を重視する論点を提起したわけである。
従来の「市民社会対国家」の二分法のもとでは、体制中心か社会中心かと
いう対極に引き裂かれるが、著者の提起した「制度的寄生主義」ならば、国
家 対市民社会の二極構造を超えて体制側の力と反体制側の力との相互関係
を分析 できる。これまでは「社会の国家化」が強調されすぎたが、「国家
の社会化」 の側面も注視を要する。要するに、国家と社会の相互浸透の深
まりに焦点を当 てる必要があり、この文脈で知識人の役割は決定的に大き
いと著者は強調し、 本書で知識人を分析した理由を説明している(197
頁)。
むろん、農民や都市市民、政府の中堅官僚たち、解放軍の中級、下級幹 部
たち、これらさまざまな階層の役割はそれなりに当然分析を要するが、「信
頼できる経験的データ」の入手不可能性のゆえに割愛せざるをえなかった由
である。
著者は「 制度的寄生主義」(あるいは相互依存、相互浸透)というコンセ プ
トが旧ソ連や東欧についてもあてはまるだけでなく、「ある階級の政治的、
社会的現象」の分析枠組みとしては、西側の福祉国家制度を分析するために
も役立つはずだと主張している。西側社会における公的セクターと私的セク
書評一束
123
ターとの相互依存、相互浸透の関係を「寄生主義」のキーワードで説明しよ
うと いう考え方である。
このようなコンセプトによってこそ、「日本株式会社論のような曖昧な言
葉」で北米の資本主義と東アジアの資本主義を対比させるのではなく、「記
述的、分析的コンセプト」によって比較研究を行う方向性が見えてくると著
者は 大きな結論を導き出している(204 頁)。
著者がこのキーワードを提起したのは、このような普遍的な概念装置とし
てなのであるが、ここまでくると、私は弁証法にいう「対立物の相互浸透
論」を想起せざるをえない。マルクスをもじっていえば、現代社会主義の体
制そのものの矛盾が体制を突き崩す要素を育成したといった言い方になるで
あろう。著者の考え方は意外に古典的であるようだ。
61 書評『東方』1996 年10月号、36~40ページ
深化する中国経済研究、『毛時代経済再評価』
布拉莫爾著、牛津出版社、香港、一九九五年
Chris Bramall,In Praise of Maoist Economic Planning:Living Standards and
Economic Development in Sichuan since 1931. by Oxford University Press,1993.
ある日突然、おそらく一〇年前後会っていないアメリカ人中国研究者から電話をもら
い、あわてて渋谷へ出掛けた。Mark Selden,Chair,Department of Sociology,State
University of New York,Binghaton と会うためである。先方は中国農村へ調査旅行へ出
向く途中であり、日本留学中の末娘ユリさんと一緒であった。昔、私の背中で騎乗遊び
に興じた幼児がいまや法政大学大学院で能楽を研究しているという。本書を取り上げた
理由の一つは、著者がセルデンの研究を踏まえて論じたとしているからである。もっと
もご当人にその話をすると、「それは中国語訳だけに書いてあることではないか」など
と呑気なことをいう。「英書は見ていないから、それは知らないが」と答えると、彼自
身は気づかなかったという。セルデンはいまや大物なのだ。ウエストビュー社では
Social Change in Global Perspective というシリーズの「シリーズ・エディター」とし
て数冊の本を編集し、またシャープ社からは「シリーズ・エディター」として Japan
inthe Modern World シリーズおよび Socialism and Social Movements シリーズを出
すという具合で、八面六臂の大活躍なのであった。やはり「士は三日会わざれば、刮目
して待つべし」の通りであった。
書評一束
124
閑話休題。英文タイトルを直訳すれば「毛沢東の経済計画を評価して:四川省の一九三
一年以来の生活水準と経済発展」となろう。タイトルから分かるように、本書は四川省
を研究対象として、一九三〇年代と七〇年代末を比較したものである。四川省では解放
後の三〇余年のうちに、地域間の所得格差を縮小させ、現代工業の基礎を樹立し、より
重要なことだが、人間の「潜在能力」を発揮させ、訓練された労働大軍を形成した事実
を強調している。それを根拠として、たとえ曲折はあれ、「毛沢東時代の四川省の経済
発展と経済計画は成功した」と結論し、時流に抗して(?)毛沢東時代の経済政策を積
極的に評価している。
著者クリス・ブラモルはイギリス・ケンブリッジ大学シドニー・サセックス校の研究員
である。これまでに書いた論文として本書に紹介されているのは、
1「四川における生活水準一九三一~一九七八年」(ロンドン大学ソアス『当代中国研
究所リサーチノート』第八号、一九八九年)
2「農村中国における不平等と貧困:四川省のばあい、一九三一~一九七八年」(ケン
ブリッジ大学博士論文、一九八九年)
3「温州の奇跡:一つの評価」ピーター・ノランおよび董輔共編『中国の市場経済力』
(ロンドン、一九九〇年)
4「戦間期中国の経済成長」『チャイナ・クォータリー』(一九九二年第一三一号)
の四本である。論文2から分かるように、天安門事件のおこった一九八九年にケンブリ
ッジ大学から博士号を授与された新進気鋭の研究者であるようだ。
本書の構成はつぎのごとくである。まえがき/第1章 毛沢東時代の経済発展とその批
判、四川省の状況/第2章
四川省の発展記録/第3章 後進の根源/第4章 所得分
配の理論と測定/第5章地域的配分/第6章 地域の趨勢の分析/第7章 三〇年代に
おける四川農村の貧困と不平等/第8章 七〇年代における四川農村の貧困と不平等/
第9章 飢饉/第 10 章 食料の供給可能量の低下と制度の変化/結論/中訳者あとが
き/付録/参考文献
著者はカール・リスキン、ピーター・ノランのほか、前述のマーク・セルデンを加えた
三人の業績を高く評価し、彼らの研究を発展させる形で問題を提起したとしている。評
者自身は三名の著書を若干読んだことはあるが、欧米の研究事情にはまったく疎いの
で、それを踏まえた書評は書けない。マークと会ったとき、そのあたりをいくらかでも
埋めようとしたが、時間が短く、それに生ビールを呑んでしまったので、そこまで話が
書評一束
125
進まなかったというはなはだしまらない話である。やむなく私自身が興味を感じたとこ
ろを紹介することにしたい。
第2~3章では、全国における四川省の位置づけをおこない、第4~8章では、三〇年
代と七〇年代末の所得分配を「地域内格差」「地方間格差」に即して分析している。
四川省を選んだ理由は、まず沿海地区は海運や交通の面でとくに恵まれているのでこれ
を避け、また西北各省あるいはチベットのように極端に後進的な内陸地区を避けるため
だとしている。さらにこれは経済的、自然地理的、経済史的面で四川省こそが中国を典
型的に代表する n 域と判断してのことだと指摘している。人口約一億の「蜀」の国は、
確かに一つの典型たりうると私も思う。
著者は毛沢東時代の成果を評価していう。「毛沢東主義〔の成果について〕はマクロ経
済の総量面での成果を論ずることはできない。たしかに七〇年代末に食品の消費は量的
にも質的にも三〇年代初期よりも低かった」「ただし一人当たり消費はいくらかふえて
いた」。「八〇年代の消費の迅速な伸びは明らかである。しかしその事実から毛沢東主
義が四川で失敗したというならば、危険であろう。四川では最悪の状況下でも、七〇年
代末に食品の消費は足りていた」「他の途上国と比べると、長期の工業の成果は深い印
象を与えるものだ。よりカギになるのは、小平時代の工業の基礎が毛沢東時代に作られ
たことである。すなわち四川の人的能力開発の記録には驚くべきものがある」「四九年
以後、識字率と平均余命の向上が著しい。これらは一人当たり消費の伸びによって得ら
れたものではない。七〇年代末に、中国は一人当たり所得水準の面では低い国家ではあ
ったが、識字率と平均余命の点では、中等レベルの所得国に匹敵した」「人的能力は物
的富よりも経済発展をよりよく反映する指標なのだ」「四川の経済発展は民国期の政治
不安定の影響を受けた。四九年以後、中国はパックス・アメリカーナを認めなかった
し、ワシントンの覇権に頼ることもしなかったので、中国は国防工業発展の戦略に転じ
ることを余儀なくされた。アメリカ帝国主義のベトナムにおける行為は、中国が独自の
原子力工業を発展させ、国防指向型の重工業投資路線を強行したことの正当性を示すも
のだが、その代価は大きかった」「国民所得を消費でなく投資に回し、しかも非生産的
な国防投資に向けたが、これは物的生活水準の伸びを押さえることになった」「だが、
これは毛沢東時代の失敗とはいえない。消費の伸びがおそかったのはアメリカの脅威の
ためなのだ」「中国が自己の主権を放棄するのでないかぎり、この悪運を逃れることは
できなかったのだ」。
「四九年以後の四川の計画経済は失敗ではなかった。アメリカの脅威が小さかったとき
(中ソ同盟時代)や七八年以後脅威が消えたときは、中国経済は迅速に成長した。小平
時代の経済的奇跡とアメリカとの外交関係の回復は偶然の一致ではない」「七九年以
書評一束
126
後、投資はふたたび民用部門に傾斜し、国民所得の増加分は投資でなく消費に向けられ
た。production possibility frontier(生産可能性曲線) のシフトによってそれが可能
となったわけだが、これには工業資本の形成、交通インフラの基礎、大規模水利工事へ
の労働力動員などが含まれる」「大躍進期の失敗は計画経済によるものではなく、指導
の欠如によるものだ。気候の不適当なところで米の二期作を強行したことからわかるよ
うに、ミクロ経済の誤りもあった。技術的な失敗の例はたいへん大きい」「毛沢東時代
には高産品種の開発や普及面での成功例が多い。これは市場にゆだねた民国期のやり方
とは異なる」「所得分配と人間の潜在可能性からみると、四川の記録は立派なものだ。
七〇年代末に地域格差(省内)が存在したことは疑いない。しかし、それは民国期より
は大いに縮小していた。七〇年代末に地域格差が残っていたことを理由として毛沢東主
義の成功を軽視することはできない」「軍事的目的のために攀枝花市のような工業都市
をつくったことは、経済計画の役割をよく示すものである。市場経済のなかでこのよう
な都市が自発的に形成されることはありえない。県レベル政府だけでは必要な資金をま
かなえない。中央財政の支持がカナメである。また毛沢東主義は地方の食糧自給に重点
を置いた。これは利潤の高い経済作物に特化しようとした豊かな県にとって不利であ
り、同時に貧困地区にとっても不利であった。しかし、全体として、とりわけ人口の稠
密な地区は由来食糧を重んじてきたのであり、毛沢東主義はこの伝統を強調したにすぎ
ない」「この政策は最も優れたものというのではないが、アメリカの脅威が交通路を封
鎖している状況下ではより合理的な政策であった」「地域格差縮小の面で最も重要であ
ったのは、水利工事に労働力を動員したことであり、これによって貧困地区は灌漑と有
機肥料を結合できるようになった。逆に化学肥料や農薬を大量に投入するグリーン・リ
ボルーション(緑色革命)を避けたことは、成都平原のような地域の産出量の伸びを相
対的に押さえることになった」「要するに、毛沢東主義による経済発展が四川において
なかったとしたら、八〇年代における小平の奇跡もなかったのだ」。
四川省における経済発展を一九三〇年代から今日まで通観し、民国時代、毛沢東時代、
小平時代の三時期を比較対照する試みは、たいへん示唆に富む方法であり、視点であ
る。
実は私自身、昨年と一昨年続けて四川省を訪れる機会があり、中国経済のケース・スタ
ディとしての四川省研究の必要性を感じていたところであった。すでにこのような研究
が成果を結び始めていることを知り、日本の研究状況の欠陥を感じさせられた次第であ
る。
書評一束
127
数年前から、私は「中国経済」研究から「省レベル経済」あるいは「各経済圏ごとの研
究」への深化の必要性を痛感していたが、自分ではなにもできないもどかしさを感じて
きた。本書はそのような需要に応えるものであり、大いに参考になる。
とはいえ、著者の主張には半分共感をもち、半分違和感を抱いている。共感するのは、
四川省の近代史一〇〇年を見据えて、それぞれの時代の功罪を評価しようとする歴史的
姿勢、およびそこから生まれる認識によるが、毛沢東時代と小平時代を安易に対比する
のではなく、両者の内在的関係に踏み込もうとする分析視角である。このような手堅い
方法から学ぶものは多い。
ただし、私が違和感を抱くのは、戦後の冷戦体制と中国の対応にかかわる部分である。
朝鮮戦争以後のアメリカ帝国主義による封じ込め(遏制)政策が中国の経済発展を大き
くゆがめたことは明らかな事実だが、その冷戦体制継続のすべてをアメリカ帝国主義に
帰することはできないことである。
フルシチョフによるスターリン批判を契機とする中ソ対立、それを契機とする大躍進政
策と台湾海峡の危機、大躍進の失敗と毛沢東路線の動揺、劉少奇・小平路線の発展、文
化大革命による劉路線の打倒といった一連の事態は冷戦体制のもとで行われたものだ
が、それ自体が冷戦体制を利用し、激化させた側面も見逃せない。「もし中国が朝鮮戦
争に参戦しなかったら」という仮定は、作業仮説として有効であろうし、またフルシチ
ョフの経済改革を毛沢東が仮に支持していたらという仮定もありえよう。中ソ論争にお
いて小平が果敢な論客であったことは周知の通りだが、小平の改革路線は、二〇数年前
のフルシチョフの改革路線と酷似しているのだ。旧ソ連が解体ではなくソフトランディ
ングできた可能性は皆無ではなく、中国は超過剰人口を抱える前に、離陸できた可能性
がある。
62 書評『現代チベットの歩み』東方書店
八巻佳子訳
THE MAKING OF MODERN TIBET by A.Tom Grunfeld
現代中国を研究対象とする者として、チベットにはむろん深い関心を抱いて
いるが、目先の仕事に追われて、眼高手低の嘆きを繰り返すばかりである。
『チベット旅行記』(河口慧海)、『チベットわが祖国』(ダライラマの自
叙伝)、『富饒的貧困』(王小強、白南風)などが印象に残る程度であり、
まことにお寒いのが私のチベットについての知識である。本書を読んで「現
代チベット史」の知識が一挙に豊かになった気がする。
書評一束
128
本書はカナダ出身の少壮歴史家の描いたチベット近現代史入門である。原書
名は THE MAKING OF MODERN TIBET by A.Tom Grunfeld である。著者A・ト
ム・グルンフェルドはロンドン大学SOASとニューヨーク州立大学に学
び、現在はニューヨーク州立大学エンパイアステート校の歴史学の助教授で
ある。訳者八巻佳子は私の前の職場アジア経済研究所の同僚であり、図書探
しなどでお世話になることの多かった研究者である。
本書の構成は、つぎのごとくである。第一章「過去のチベット」では、社会
構造、エリート、庶民、教育、遊牧民、女性と結婚、衛生管理、犯罪と刑
罰、宗教、寺院などチベット特有の事象について簡単な説明が行われる。
第二章「初期の歴史」では、七世紀にソンツェン・ガンポがチベットを統一
し、唐朝から文成公主を娶ったとされるあたりから話が始まり、モンゴル人
との交流、ツォンカバによる仏教改革、ダライ・ラマによる統治が概説され
る。
第三章「初期の外国との接触」では、英国が三つの対中国通商ルート(ビル
マ・雲南、カシミール・新疆、インド・チベット四川)を開こうとする過程
で英中のはざまに揺れるチベットが浮かび上がり、マクマホン卿らのシムラ
会議(一九一三年)までを扱う。ここでは矢島保治郎、大谷光瑞の弟、寺本
婉雅、福島安正など日本人が登場する。著者の資料収集が広範囲であること
を示す一例である。第四章「近代」では、シムラ会議からダライ・ラマ一四
世の「発見」までが描かれる。
第五章「外国の陰謀(1)」では、四九年の中共政権成立以後、「中国内外
の反共分子の育成と支持」を旨とする米国国家安全保障会議の対応が暴かれ
る。
第六章「五〇年代──蜜月」では、チベット人幹部天宝をトップとする東チ
ベット自治区の成立(五〇年一一月二四日)から五九年の反乱までの漢族と
チベットの関係が描かれ、中国共産党のなかにチベット社会を理解し、チベ
ット語を話す訓練を受けた幹部がいなかった事実が指摘される。「解放軍が
チベットに初めて来たとき、チベット人の拍手に迎えられて喜んだ。しか
し、チベットの文化では悪霊を追い払うときに手をたたく」(一八二頁)と
いうありさまだから、誤解の根は深い。また、道路建設に働くチベット人に
書評一束
129
賃金を払うことによって、ウラー(無償労働)の慣行を混乱させた」(一八
二頁)。
第七章「五〇年代──反乱」では、著者はこう分析する。「中国による植民
地支配は暴虐かつ残酷だったので立ち上がった」というダライ・ラマが繰り
返した見解は「正しくない」。しかし、「中国の指導部は東チベットにおけ
る政策の失敗を理解できなかったし、理解する気もなかった。彼らはチベッ
トの生活中に浸透している仏教を理解できなかった」(二一二頁)。結局、
チベットにおける反乱は「武力衝突というより意志の衝突である」(二一三
頁)というネルー首相の指摘が状況を的確に総括していると著者は評価して
いる。
第八章「外国の陰謀(2)」では六〇年代の米中対決のなかで、米国CIA
がチベット人ゲリラのために武器援助や反中国宣伝を行った経緯が詳述さ
れ、六九年のカンバ襲撃隊が解放軍によって殲滅されることによって終わっ
たと分析している。いまや米中は和解し、チベット難民だけが取り残され
た。
第九章「一九五九年以後のチベット」では、パンチェン・ラマの失脚、中共
による緊張緩和の努力、食糧分配の事情、工業化、教育、文化大革命期の宗
教弾圧などが描かれる。
第一〇章「チベット人の離散」では、難民の姿が描かれるが、一例として難
民数の分析を紹介しよう。ダライ・ラマ周辺は八~一〇万人という数字を用
い、中国当局は三~四万人と説明してきた。著者は五九~六四年にチベット
から逃れた数を五~五・五万人と推定し、亡命後の人口増加率を三パーセン
トと仮定し、現在の難民数を約一〇万と推計している。真理は中間にあり、
ということになる。亡命者社会の矛盾も的確に描いている。第一は亡命先の
環境に順応している者、第二は共産党と自治権についての交渉を進め、帰国
を検討するグループ(ダライ・ラマを含む)、第三は暴力的手段をも含めて
チベットにおける権力の奪還を主張するグループである。「大多数の難民は
こうした政治的見解のどれをも公然と支持してはいないが、第一のグループ
により多くひかれているのは確実だ」(二九〇頁)。とはいえ、あるインド
人が「ダライ・ラマはわれわれ(インド人)に責任を負うべきである」と語
った発言を引いて著者は「おそらく亡命チベット人の未来を予告するもの」
(二九一頁)と厳しい見通しを示唆している。「難民状態が長期化すればす
るほど、国際救援組織はますます援助をしなくなる」「援助が減ればダラ
書評一束
130
イ・ラマの世俗権力はいっそう弱体化する」「老年世代と若者との世代間の
亀裂はますます広がる」(三〇〇頁)。
第一一章「現在の状況」では、八二年五月、胡耀邦(総書記)、万里(政治
局委員兼国務院副総理)、楊静仁(国家民族事務委員会主任)ら高級代表団
がラサを訪れ、過去のチベット政策の誤りを是正し、より柔軟なチベット政
策が始まった時期を総括したものである。文化大革命期における宗教の弾圧
はいうまでもなく、遊牧民を定着民に変えようとする経済政策の失敗による
後遺症も大きい(三〇八頁)。米中関係、中ソ関係、インド・ソ連関係など
を反映した中印関係も大きく変わった。そのような国際関係の激変のなか
で、亡命政府の未来が明るいものではありえないことを指摘し、ダラムサラ
と北京の交渉を分析して結びとしている。
本書は一九八七年に出版されており、その後のラサ戒厳令事件や旧ソ連の解
体といった事件は本書では扱われてはいない。本書を一読して、それらの動
向を含めた新しい分析を著者から聞きたいと思う気持ちが強い。だが、よく
考えてみると、著者の周到な分析からそれらの変化を洞察するに十分な視点
は、すでに与えられていることに気づく。
チベットは中国との関係において、ある時は叔父──甥の関係、ある時は宗
主国──属国の関係、すなわちなんらかの意味で従属関係を保持し続けてき
た。「このチベットの微妙な地位は、ある局面で琉球と日本との関係を思わ
せる」とは日本中世史家今谷明教授の巧みな比喩である。
本書における著者の結論は、ダライ・ラマの帰国と中国当局との妥協による
地方自治の獲得である。私もチベット問題の解決策を素人なりにそのように
見てきたので、著者の結論には共感できる。
三〇余年にわたる亡命者集団の歴史の過程には、それ自体の利害得失が生ま
れており、解決の容易でないことは想像できる。しかし、中国は対外的に門
戸を開放し、対内的に市場経済化への道を急いでいる。チベット反乱の起こ
った当時とは、様変わりしている。私の読後感は、ダライ・ラマの健在なう
ちに帰国と自治権の交渉をまとめることが法王の側からしても、チベット自
治区にすむ人々からしても望ましいのではないか、という一語に尽きる。
63『蒼蒼』97年4月10日、第73号
書評『毛沢東最後の女』
書評一束
131
邦訳の原書は『毛沢東和他的女人們』(台北、聯経出版事業公司、一九九〇
年一二月)である。著者は京夫子。訳者(船山秀夫)あとがきによれば、
「詳細な経歴は不明だが、かつて中国本土でかなり高名なジャーナリスト」
「現在はアメリカに在住しているが、身の安全のため本名や現住所等は明ら
かにされていない」由である。身の安全を守ることは必要だが、匿名は
往々、デタラメの隠れ蓑に用いられやすい。本書は娯楽読み物として、ニヤ
ニヤしながら読むには楽しいが、これを史実と誤認してはなるまい。著者京
夫子の見識は、李志綏著『毛沢東の私生活』とは似て非なるものだ。『私生
活』は、英語版、日本語版、中国語版、いずれも少しずつ異なり、編集者や
訳者の判断が挿入されているのが困るが、敢えて実名でタブーに挑戦し歴史
の証言者たらんとしたことに私は敬意を払う。だが、本書は反面教師としか
思えない。毛沢東が一四歳のとき、当時の慣習にしたがい、父親は二〇歳の
童養女息(一字)羅氏を娶った。この嫁について著者はこう書く。「一九二
〇年に北京大学教授の忘れ形見の楊開慧女史と同居するまで、羅氏とは一三
年にわたり、名目上の夫婦であった」「毛沢東の一四歳から二七歳にあた
る」「羅氏と同じベッドに休み、父親に対する報復心理が、妙齢の羅氏に向
けて発散されたと見るべきであろう」(一三ページ)。(ある噂では)毛沢
東は「父と自分の妻の姦通を発見した。これは近親相姦の悲劇であった(一
三ページ)。毛沢東自身はこう語っている。「私が一四歳のとき、父母は私
に二〇歳の娘を嫁に迎えたが、私は当時もその後も生活をともにしたことは
ない。私は彼女を妻と認めなかった」(スノウへの談話)。『毛氏族譜』に
よれば、羅氏は一九〇八年に毛沢東に嫁ぎ、一九一〇年二一歳の若さで病死
している(この点は別の資料により、訳注にも示されている)。邦訳では省
かれているが、長男毛岸英が朝鮮戦争で戦死した後、その妻劉松林と姦通し
たとあるが、これも怪しい話だ。唐の玄宗帝が息子の嫁楊貴妃を寵愛したこ
とは史実だが、羅氏や劉松林の場合は、著者の創作ではないか。長征をとも
に歩いた賀子珍については、王行娟『賀子珍的路』(北京、作家出版社、一
九八五年)があるが、著者は参照していない。張玉鳳との関係はすでに明ら
かなのに、なぜ張毓鳳と書くのか分からない。廬山会議前後の権力闘争の内
実については李鋭『廬山会議実録』(北京、春秋出版社)などで詳細が知ら
れているのをなぞっただけである。訳書のカバーと扉に老いた毛沢東を支え
る若い女性の姿があり、張玉鳳と説明されている。これは孟錦雲であって、
張玉鳳ではない。しかもネガを逆に焼き付けている。評者はカバー写真とタ
イトル「最後の女」から、てっきり孟錦雲と思って読み始めたが、最後まで
彼女が登場しなかった。フィクションなら虚実皮膜の間も許されよう。実録
を装ったキワモノには騙されないようにしたい。訳者と編集者の見識が疑わ
書評一束
132
れる本である。[追記]『日本経済新聞』(九七年二月一六日付)は、匿名
の評者による短い紹介を行い、次のように結んでいる。「ここで書かれてい
る内容がどこまで真実か定かでないが、著者が内実に相当詳しいことだけは
間違いない」。これは典型的な無責任評論であろう。「どこまで真実か」に
ついてのあの程度のメキキを行うことが評者の責務ではないか。それをまる
で放棄しつつ、他方で、「著者が内実に相当詳しいことだけは間違いない」
と太鼓判を押す軽薄さ。私の見るところ、本書の著者は「内実に相当詳し
い」のではなく、それを装っているだけのこと。そこを見抜けないような節
穴ジャーナリストに評者の資格なし、というのが私の評価である。
64 書評『上海路上探検』
、渡辺浩平著、講談社現代新書、1997年1月刊
『サンサーラ』97 年4月号、241ページ
改革開放が変えた中国の真実
魅力あふれる「新書」である。著者の案内でいつのまにか上海の路地裏にまぎ
れこみ、上海人の生活と意見を熟知した感じになってしまう。かなりの筆力、
観察眼である、と評してよい。
本というもの、冒頭の一句が肝要だ。本書は「上海の路地裏が好きだ」で始ま
る。第一章「路地の暮らし」では、いきなり臭気脳天に至る馬桶に出迎えられ
る。かつて「里通外国」「海外関係」ときめつけて外国人をスパイ同然とみる
隣組の監視の目が光っていた時代が回想される。その冬、敢えて危険を冒し、
留学生であった著者を連れていってくれた上海の友人がいた。一〇余年後、い
まや開かれた空間に変貌した路地裏を著者は留学時代よりはるかに巧みにな
った言葉を駆使しながら徘徊する。東京の下町に育った著者は、異国のもうひ
とつの下町がどのように形成され、いかなる歴史を経て、いま再開発の波に洗
われているかをなめつくすような視線で描き出す。第二章は、「単位」の話で
ある。船橋洋一著『内部』以後、このキーワードは日本でも割合知られている。
しかし、著者の説明は職場で入浴する習慣から始まり、上海市の給与総額四四
〇億元に対して、退職者への年金一二七億元という数字が続く。国有企業がい
ま合弁企業や郷鎮企業の競争力のまえに安楽死を迫られ、苦悶している姿を
この数字は端的に描き出す。「単位の廊下を歩く洗い髪の女性に会えなくなる
日も近い。それも一抹さびしい気もするが」と結ぶのが心憎い。第三章はスー
パーの話だ。余談だが、と前置きして著者はこう書く。「新聞に物騒な話が載
るということは、それに対する対策が準備されていると考えてよい、だから伝
えられないことの方がヤバイ」。その通りであろう。この一句は(著者が意図
したわけではないが)中国のマスコミに載る「物騒な話」に尾ひれをつけるこ
としかできず、そのウラを読みきれない日本マスコミに対する痛烈な批判に
なっている。
書評一束
133
第四章は上海人の娯楽、第五章は南京路にみるウィンドウ・ショッピングであ
る。両者とも誰もが選ぶテーマではあるが、著者は広告会社の駐在員だけあっ
て市場調査のプロ、売れ筋商品から、高度成長のなかでの消費生活の変化に至
るまで、その筆はさえている。第六章は路地裏の鏡に写る著者の自画像であ
る。中国人と交わることの少ない日本人についてこう自問する。「責任とは、
過去に犯した過ちを現在の日本人が引き受けるべしという贖罪論ではない。
今を生きる日本人として、”戦争”というリアリティを超える、現在の日本の
姿を中国に伝えきれていないということだ」。けだし、名言である。著者は私
よりも二〇歳も若いが、中国人といかにつきあうかをよく考え、実践してい
る。贖罪論の空回りは、相互理解を深めるうえでむしろマイナスになっている
現実をよく洞察している。二年間の留学生活と三年弱の駐在員生活、計五年間
の若き感性がこの本に凝縮された。キワモノがあふれる昨今、おすすめの一冊
である。
65 書評『アジア経済』1999 年 8 月 71-74 ページ
Bruce Gilley 著、Tiger on the Brink---Jiang Zemin and China's New Elite
Berkley:University of California Press,1998,xi+395 pp.
『崖っぷちの虎---江沢民と中国の新エリート』
書名『崖っぷちの虎』の「虎」には、おそらく三つの意味が込められている。江沢民は1
926年、寅年の8月17日(これは太陽暦)生まれなので、
「虎」は江沢民を指す。も
う一つは江沢民の性格が何にでも効く「タイガーバーム」のように、何でもこなす「万金
油」的幹部であることの引喩である。最後に、江沢民の運命だけでなく、彼によって指導
される中国もまた「崖っぷち」にあることを示唆する。巧みなネーミングである。洋書に
接していつも感じるのは、書名の的確さとしっかりした索引作りだが、本書に対する印象
も例外ではない。著者は 1966 年生まれ、今年 33 歳の気鋭ジャーナリストである。現在
は『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』誌の香港特派員を務めている。
I
本書の構成は以下のごとくである。
第1部 烈士の「遺児」--1926~1970
第 1 章 揚州を離れて
第 2 章 毛沢東の中国
第2部 万金油幹部---1970~1988
第 3 章 鄧小平の兵卒
第 4 章 上海の書記
第 3 部 危機に際し招かれて---1989~1992
第 5 章 天安門
第 6 章 大いなる和解
書評一束
134
第 4 部 指揮をとる---1993~1994
第 7 章 主席の部下たち
第 8 章 嬉しいが、気楽に
第 5 部 鄧小平との決別--1995~1998
第 9 章 独立王国
第 10 章 江沢民思想
第 11 章 皇帝の委任
結論
II
目次の構成を一瞥してわかるように、本書は江沢民の生涯をたどりつつ、中国現代政治を
分析しようとした意欲的な試みである。私は大いに堪能した。江沢民の昇進を縦糸としつ
つ、
「中国の新エリート」の象徴として江沢民を描く著者の筆致は確かであり、資料調べ
や 分 析 も 周 到 で あ る 。 裏 表 紙 で Orville Schell, Jonathan Spence, Robert
Scalapino,Richard Baum, David Shambaugh など著名な研究者たちが好意的な紹介文
を書いているが、いずれも納得できる内容である。
序文冒頭のエピソードが興味深い。1995 年春のこと、著者は北京の人民大会堂で開かれ
る全国人民代表大会を取材に訪れた。手洗いから出ようとしたところ「その外国人を止め
ておけ」という声が聞こえて、彼はいわば「雪隠詰」となった。著者がトイレの窓からの
ぞくと江沢民がピンクのハンカチで額をぬぐいながら吉林省代表団との議論を終えて出
てきて、トイレを通りすぎようとして、突然振り返り、著者のトイレに向かった。江沢民
が入る前に著者はトイレから引きずり出されていた。
「この本がトイレで生まれた」とま
では言わないが、このとき初めて「生身の江沢民のイメージ」が著者に焼きついたのであ
った(x 頁)。巧みな書き出しである。
第 1 章では江沢民の家系、すなわち祖父・江石渓、実父・江世俊、養父・江世侯(上青)、
養母・王者蘭が語られ、揚州の金持ち街からプロレタリア国家のトップが育ったのは皮肉
と書く(11 頁)。
1937 年夏、江沢民は名門揚州中学に合格したが、日中戦争が始まると、揚州は日本占領
軍の支配する要衝となり、江沢民らは郊外に疎開した。この脈絡で江沢民が日本軍国主義
に対して憎悪の念をもつことは理解できるが、著者はこうコメントする。
「揚州占領は南
京と違って平和的であり、江沢民の身近な家族親戚で抗日戦争で死去した者はない」(14
頁)。揚州中学は愛国者朱自清の名で知られており、江沢民の日本嫌いも、直接的被害と
いうよりは文化的愛国主義に鼓舞されたものと著者は示唆している。
江世侯(上青)は新四軍のもとで働き始めたが、1939 年 6 月、匪賊(日本軍ではない)に
襲われて 28 歳で死去した。13 歳の江沢民は、そのときに江沢玲、江沢慧(のちの義妹た
ち)だけを抱えて未亡人となった王者蘭のもとへ養子入りしたわけである(18 頁)。43 年
春、6 年制の揚州中学を卒業し、夏に南京の中央大学に合格した。これ以来、「地下党組
書評一束
135
織の指導する学生運動に参加した」(『人民日報』93 年 3 月 29 日の後任経歴書)。1945 年
10 月、抗日戦争以後 2 カ月して、中央大学は上海市の交通大学に合併され、上海市徐家
匯に移転した。江沢民は 1946 年 6 月末に入党したが、熱凪茵や喬石とちがって学生運動
の指導的幹部の地位にはつかず、周辺的役割を演じたにすぎなかった(29 頁)。
第2章では交通大学を 1947 年に卒業してから、まず海寧洋行の工場で働き、ついで益民
缶詰工場に転じて、51 年上海石鹸工場第1副工場長に任命された経緯と上海市の解放前
後の事情が描かれる。妻王冶坪は養母の姪であり、52 年に長男綿恒が、54 年に次男綿康
が生まれた。53 年初め国務院に第 1 機械工業部がもうけられ、副部長となった汪道涵は
江沢民を同部の上海第 2 設計分局の科長に抜擢し、以後一貫して庇護者としての役割を
演じる。
1954 年に北京に配転になり、55 年 700 名の仲間とともにモスクワのスターリン(のちリ
ハチョフと改称)自動車工場に技術研修のため派遣された。李嵐清は当時からの仲間であ
る。1956 年春に帰国すると長春第 1 自動車工場に配属され動力分廠工場長まで出世し、
62 年第 1 機械工業部上海電器科学研究所副所長として上海に戻った。実姉江沢芬は反右
派闘争に際し右派分子を擁護したカドで被害に遭っているが、江沢民自身は巧みに切り
抜けた(42 頁)。彼は大躍進期には電力担当者として石炭から重油へのエネルギー源切替
えのために苦労した(47 頁)。
文化大革命の前夜に江沢民は四人組の影響の強い上海を離れて、第 1 機械工業部傘下の
武漢熱工機械研究所所長になるが、ここにも汪道涵の配慮ありと著者は解している(50
頁)。江沢民は実権派の一員として紅衛兵の攻撃は免れなかったが、
「革命烈士の子」であ
り、かつ「質素な生活」という切り札が効いて、かろうじて追及を免れた(51 頁)。
「武漢
7.20 事件」で知られるように、67 年の武漢は造反派と実権派の対決が極点まで達した
が、江沢民は政治審査に備えて英訳『毛沢東選集』を読み、将来に備えて原子炉関係の書
物を読んだ(53 頁)。
1973 年に 78 歳で死去した実父・江世俊についての言及がないのは、
「養父が烈士であっ
た」という免罪符で混乱期を生き抜いた江沢民のスタンスを暗示するものかと著者は指
摘する(54 頁)。文革期に李鵬は「烈士・李碩勲の遺児」のカードで乗り切ったが、朱鎔基
は労働改造 5 年間、趙紫陽は自宅軟禁 4 年間であった。これらと比べると江沢民の被害
は軽い。江沢民の共産党に対する忠誠心は試練を受けたが、
「動揺することはなかった」
と著者は分析する(56 頁)。
第 3 章は「鄧小平の兵卒」である。1970 年の初め、毛沢東、周恩来はルーマニア、パキ
スタンの斡旋でニクソン訪中を準備していた。チャウシェスク政権の努力にむくいるた
め周恩来は一連の機械工場の建設を提案し、その任務を第 1 機械工業部に与えた。江沢
民は 23 年の地方幹部の地位から中央官僚に抜擢された。さらに幸運にも対ルーマニア援
助プロジェクトの専門家派遣団の団長に選ばれ、約 1 年滞在した。72 年帰国すると江沢
民は第 1 機械工業部外事局局長に抜擢され、このポストを 8 年間勤めた。脱文革期の外
書評一束
136
事工作にはさまざまの困難が伴ったが、江沢民は能吏としてこれらのトラブルを巧みに
処理し、中央官僚としての評価を高めた。
1979 年に改革開放が始まると、中国輸出入管理委員会および外国投資管理委員会が設け
られた。その常務副主任汪道涵および副主任周建南は第 1 機械工業部における江沢民の
上司であり、江沢民は副主任兼秘書長に抜擢され、二つの委員会の日常工作を切り盛りし
た。1982 年 9 月第 12 回党大会で中央委員に選ばれ、電子工業部第 1 副部長、ついで部
長に昇格した。傘下には 1400 の国有企業があり、7.5 万人の労働者が働いていた(70 頁)。
江沢民はいまや「万金油」幹部として、どんな工作をも巧みに処理するようになった。
1984 年 3 月 3 日元老陳雲宅に集積回路およびそれを観察するための電子顕微鏡をもちこ
み、
コンピューターの発展状況を説明するとともに、
自分をも売り込んでいる(同書 73 頁、
楊中美邦訳 105 頁)。このパフォーマンスが陳雲の眼鏡にかない、上海市長への大きなス
テップになることは見やすい道理であろう。
第 4 章は上海時代の江沢民を描く。江沢民を市長に推薦したのは、前任者汪道涵である。
汪道涵は 1981 年から 85 年半ばまで勤め、そのポストを江沢民に譲った。文革直前に武
漢に転勤して以後およそ 20 年ぶりに上海に戻ったことになるが、それまでの間、江沢民
は単身赴任であった(78 頁)。江沢民は北京での広い部屋に姉江沢芬を住まわせた。妻王
冶坪が北京に同伴しなかったのは、義母王者蘭の看病と二人の子息の都合と著者は解釈
している(79 頁)。
文革期には養父・江上青の上司であった張愛萍将軍も批判され、69 年には江上青の墓が
荒らされる事件も起きている。張愛萍将軍が 1982 年に国防部長になると烈士墓の修理を
命じたが、その竣工式に江沢民は出席していない(80 頁)。江沢民が養父の墓参りに出か
けたのは 1985 年 4 月であり、ついで養母が死去すると揚州の葬儀に出向いている。この
あたりの著者の資料調べは実に周到である。
1986 年秋、
精神文明を強調した中共中央の決議に反発した学生運動が上海で燃え上がり、
江沢民は悩まされる。1986 年 12 月 18 日午後、母校交通大学に出向いた江沢民が諳じて
いたリンカーンのゲティスバーグ演説を引用した「対話」にもかかわらず、学生のブーイ
ングに追い返された事情は当時の AFP 電を引用して活写されている(86 頁)。
江沢民が上海空港、上海駅、上海港の「face」を変えるという構想を語ったとき、『解放
日報』は「面貌を変える」と中国語に訳して報道したが、江沢民はわざわざ秘書に電話さ
せて「face」と訂正させている。
「外国語に強い江沢民」のイメージ作りのパフォーマン
スである。細かなスタイルに注意深い江沢民の作風がよくわかる一例である(95 頁)。
1988 年 4 月地元テレビ局が「ミス上海コンテスト」を企画したとき、江沢民は中止させ
たが、その理由は彼が「党のドグマ」に忠実であったためではなく、イデオロギー保守派
の気分を害したくなかったためと解している(104 頁)。江沢民の用心深い対応がわかる一
例であろう。
上海時代の江沢民の活動を著者はこう総括する。外資導入に対して正しい判断はしたが、
書評一束
137
「正しい政策を一つも推進できなかった」。インフラ計画は江沢民のもとで動き始めた
が、
「上海新駅が完成しただけで、他のプロジェクトは財政的、技術的困難のために任期
中に完成したものはなかった」
。日々の新聞で「ショウアップはやったが、問題の根源に
肉薄したものはなかった」(108 頁)。これら積年の課題はすべて朱鎔基のもとで全面的に
解決されることになる。
江沢民と朱鎔基の実務能力の差異は明らかである。当時の江沢民あだ名は「風見鶏」であ
り、政治風のままに吹かれた。86 年以後は胡耀邦に反対し、88 年以後は趙紫陽に反対す
るといように(109 頁)。このあたり、著者の人物評はこのように手厳しい 。
第 5 章は天安門事件の危機に際して、鄧小平によって総書記の要職を与えられる過程を
描く。
第 6 章は天安門事件の後遺症が鄧小平の南巡講話によって一掃されるまでを描く。
第 7 章は楊白冰を軍から追放し、腹心曽慶紅を中央弁公室主任に据えて中南海を実質的
に指揮するまでを描く。このあたりの叙述も丹念に分析しているが、紹介は紙幅の都合で
割愛せざるをえない。
第 8 章は権威もカリスマも欠いた江沢民がいかにリーダーシップ を獲得したかを描く。
逆説的だが、権威もカリスマ性も欠如しているがゆえに、慎重に権力維持をはかり、それ
が成功したという話になる。
第 9 章は汚職問題で陳希同の「北京独立王国」をつぶし、台湾海峡へのミサイル演習で
解放軍を指揮し、スペインのカルロス国王の前で髪を櫛で梳かして西側世界の顰蹙を買
った事件までを扱う。
第 10 章では「政治を重んずる」
「十二大関係論」を提起した背景の分析である。経済優
先の鄧小平路線を政治優先の毛沢東路線の部分的復活によって若干の軌道修正を行う構
図と読む。すべては鄧小平路線を基本的には継承しつつ、ちょっとだけ味つけを変えるや
り方である。
第 11 章は鄧小平の死去を扱い、また毛沢東によって後継者とされながらあっさりと消え
た華国鋒と、江沢民の対比論である。さらに香港返還と第 15 回党大会準備、鄧小平のあ
だ名「総設計師」に対して、江沢民は「総工程師」のあだ名を用意したこと、
『江沢民文
選』も編集中であること、などポスト鄧小平期の指導者としてイメージアップに腐心する
江沢民の姿を具体的に描いている。
III
結論は以下のごとくである。揚州は大運河の起点であり、市内の邵伯には水位を調整する
ための閘門(こうもん)がある。幾度かの水位調整を経て進行する運河の船に、著者は江
沢民の人生をたとえて、一歩一歩着実にあたかも閘門を越えるがごとく出世したと見る。
揚州を実際に丹念に取材した著者ならではのイメージであろう。閘門を閉じて水位が高
まるまで待ち、その水位差を克服する着実なやり方と江沢民の人生を重ねるのは、巧みな
比喩というべきである。
書評一束
138
江沢民の人生は、名門大学を出て旧ソ連援助で建設された第 1 自動車工場の技術者から
スタートし、80~90 年代に権力の座に就いたものである。この出世のパターンは、中国
の新エリートたちの典型であると著者はみるわけだ。この世代は日中戦争や国共内戦、そ
して文革は体験したものの、実際の被害はむしろ小さかった。彼らは毛沢東の中国で「政
治的慎重さ」と「コンセンサスによる指導」を身につけて幹部となり、鄧小平時代には真
っ先に経済改革の受益者となった。江沢民にとっては汪道涵や張愛萍、李先念の支持はあ
ったものの派閥的基盤が強かったわけではない。むしろ、弱さのゆえにこそ江沢民は天安
門事件後の中共中央の動揺のなかで打倒されずに済んだともいえる。同じ世代の楊白冰
や陳希同はまさにそれぞれの分野で実力のゆえに倒れた(334 頁)。
IV
江沢民の行方を占う三つのシナリオを著者は考える。第1は彼が自らの力量の限界を忘
れる場合である。これは「華国鋒の二の舞」となる。第2に『総書記と語る』 (注 1)や『関
鍵時刻』(注 2)などにその一端が現れているようなイデオロギー的自由化を急ぐならば、
保守派によって足をすくわれるおそれもある。中国共産党内部ではいぜんイデオロギー
問題はアキレス腱だと著者はいう。第3に江沢民が個人崇拝を利用して統治しようとす
れば、毛沢東による個人崇拝の記憶の鮮明な人々からの反発は必至である。かくて江沢民
の敵は江沢民自身である、と著者は結ぶ。穏当な結論である。
本書のタイトルは『崖っぷちの虎』であるから、たえず危険にさらされているわけだが、
まさにそれゆえに慎重であり、その危機を熟知しているがゆえに、江沢民体制はなんとか
危機を乗り越えていくであろう、という結論になる。数年前から「江沢民は権威がなく、
カリスマ性がないからもたない」とする説が日本では大流行したが、同じ論点を用いて逆
の結論を導いた著者の見方に評者は深く共感する。楊中美の先行研究(注 3)や香港の月刊
誌『鏡報』
『広角鏡』などの断片的な情報が実に巧みに用いられている。中国現代政治分
析にとって貴重な一冊といえよう。
(注 1)翁杰明ほか主編『与総書記談心』北京、中国社会科学出版社、1996 年
(注 2)許明主編『関鍵時刻--当代中国極待解決的 27 個問題』北京、今日中国出版社、1997
年
(注 3)楊中美『江沢民伝』台北、時報文化出版企業公司、1996 年(邦訳森幹夫訳、蒼蒼社)
66 書評・楊炳章著『鄧小平・政治的伝記』
『蒼蒼』第 89 号 1~16 ページ
蒼蒼社、1999 年 12 月 10 日発行
楊炳章著『鄧小平・政治的伝記』
(朝日新聞社刊、1999 年)は、いかなる書物
なのであろうか。著者楊炳章(ベンジャミン・ヤン)はハーバード大学で博士
号を得た気鋭の学者とされている。その成果を認められて、いまは中国人民大
学国際政治系教授らしい。訳者は朝日新聞社中国総局長加藤千洋氏(夫妻)で
書評一束
139
ある。そしてこの本は、ハーバード大学フェアバンクセンターで著者と面識の
あった慶応義塾大学法学部教授国分良成氏が訳者に紹介したものだという。
ブランドがこれだけ揃うと普通の読者にとっては安心であろう。ところが、本
書はブランドの危うさを示す恰好の反面教師ではないかと思われる。
「まえがき」に「ニューヨーク州立大学のマーク・セルドン教授」(12 ペー
ジ)とあるが、これは「マーク・セルデン教授」と表記するのが普通である。
日本語に堪能な同教授はみずから「セルデンです」と電話口で名乗るのが常で
ある。私の書評に接したら、わが旧友セルデン教授は、このような本に「謝辞」
を書かれたことに苦笑するに違いない。
・鄧小平は狡猾な経営者か
「(鄧小平は)実利主義者というより狡猾な経営者で、うまく人を選び、彼
らに信頼をおいた」(訳書 2 ページ)。Despite his reputation, he was less a
economic thinker than a skillful manager,
choosing good people, and
trusting them somewhat more than Mao did.(p.x.) これは忠実な訳といえ
るであろうか。試みに訳せば「その評判とは違って、彼はエコノミストという
よりは、有能な経営者」の意であろう。「狡猾な経営者」と「有能な経営者」
ではニュアンスがまるで異なる。
「(著者は)政治家鄧小平を語り、狡猾で素早いが、いつも賢明とは限らない
という」(訳書 4 ページ)。He finds him clever and quick, but not always
wise.(p.xii.) clever and quick を「狡猾で素早い」と訳すのは適当であろうか。
訳者の偏見を感じないわけにはいかない。
・鄧小平の「悪魔の心」とは
「鄧小平の伝記を書くのはたやすい仕事ではない。彼は、自己の悪魔の心を
公にしなかった」(訳書 3 ページ)。It is not an easy task to write a biography
of Deng. His private demons were kept private indeed.(p.x.) private
demons を悪魔の心と訳すのは適当であろうか。これはドイツ語のデモーニッ
シュな、つまり「鬼神に取りつかれたような人間」の意ではないのか。ここを
「悪魔の心」と訳して、仲間への粛清(たとえば李明瑞)と重ねると、吸血鬼の
ような鄧小平像になるおそれがある。これが訳者のイメージなのであろうか。
・ 李鉄映の出生について
「私の個人的判断では、この劇的出会いによって李鉄映・現政治局員(国家教
育委員会委員)が生まれた。三六年の長征終了後しばらくしてのことである」
書評一束
140
(訳書 99 ページ)。この箇所に楊炳章は以下の注記を加えている。
「李鉄映の
出生の背景に関しては私の憶測に過ぎず、有力な根拠を得られていない。1988
年 2 月にハーバード大学東アジア研究フェアバンクセンターにおいて、これ
らについて徹底的な討論を行った(訳書 336 ページ)。ある人間の品性あるいは
名誉に関わる重大事について、本文では上記のように表現し、巻末の注記にお
いては、「憶測に過ぎず」と逃げを打つ。みずからの責任を極力回避しつつ、
誹謗中傷を加えるのは卑劣な作風である。かつて中国ではこの噂が広く流布
したことがある。それは李鉄映と鄧小平の関係から生まれた憶測である。李鉄
映を鄧小平が可愛がっていたのは事実である。李鉄映が恐らく「パパ」と呼ん
でいたのは(聞いたことはないが)おそらく事実であろう、と想定できる。李
鉄映から見て鄧小平は「母の前夫」であり、しかもその離婚は、政治的状況の
もとでいわば強制されたものであるからだ。事柄は鄧小平から見ても同じだ。
李鉄映は自分の子ではないが、かつて愛した妻の子である。それを庇護するの
は鄧小平の男気というものであろう。なお、原書 328 ページでは「李鉄映(娘)」
と男女を取り違えた妙な説明がある。
・非客家説について
著者楊炳章はこう書いた。「彼(鄧小平)が革新的なのは、他所から移り住
んできた客家だから、というのも勝手な想像である」
(訳書二八ページ)。ここ
で楊炳章の注釈は以下のごとくである。鄧伝記の多くが鄧の客家出身説をと
り、革命家としての一生に大きな影響を与えたことを強調する。「鄧の故郷を
取材中、彼を客家の出身という村人は皆無だった」。私自身は『鄧小平』
(講談
社、現代新書)において、客家説をとっている(現代新書、一五ページ)。そ
こで「鄧伝記の多くが鄧の客家出身説」をとっていることを批判する著者の論
拠には注目せざるをえない。では著者は何を根拠に客家説を否定するのか。
「鄧の故郷を取材中、彼を客家の出身という村人は皆無だった」からである。
著者が「いく人の村人」に対して「どのようなインタビュー」を試みたのか、
その発言を「どのように検証」したのか。まるで記されていない。つまり、著
者の「調査」なるものは、私がかつて批判した『朝日新聞』一九九二年一月一
八日付堀江義人特派員の「取材」と大同小異なのだ(現代新書、一五ページ)。
私自身は当時、文献資料のほかに、
「明初に江西省吉安府廬陵県から移住した」
とする『鄧氏族譜』をもとに推定したが、その後、客家説を裏付ける資料に接
したので、付記しておく。凌歩機著『鄧小平在贛南』(中央文献出版社、一九
九五年七月)である。この本にこう明記してある。「彼の祖籍は江西省吉安府
廬陵県(現在の吉水県)である。明朝洪武帝十三年(公元一三八〇年)に江西
省から四川省に入った。「客家」民系に属している」(一二ページ)。これは大
書評一束
141
陸で出版された資料として客家説を書いた嚆矢である。楊炳章の本は、一九九
八年に出た。私がいま証拠資料として挙げた『鄧小平在贛南』はその三年前に
出ている。「歴史家である以上、中国専門家、いや非専門家の嘘八百発言に知
らんかぶりを決めこんではきけない」(訳書二七ページ)という居丈高なセリフ
は、楊炳章自身に対する警告としてよくあてはまるものではないか。
・中央秘書長問題
楊炳章は鄧小平の一九二七年中央秘書長就任を否定して、
「一九三〇年代で
すら、党中央の秘書長になったという記録はない」という。その理由として「こ
れは通常政治局員がなり、周恩来、李立三のような地位にある者がなった。鄧
小平はまだ中央委員にもなっていなかった」と書く。さらに注記して「一九二
八~二九年の上海で、共産党中央秘書長は周恩来、次に李立三だった。当時、
二人とも政治局員であり、党中央委員でない鄧小平がなれるわけがなかった」
と補足している(訳書七七ページ、三三五ページ)。
英文は以下の通り。From October 1927 to September 1929, Deng worked as
a staff member or secretary for the underground Party Center in Shanghai.
Chinese official historians and Deng himself nevertheless claim that he
held the position of mishuzhang, or chief secretary of the Party Center.
(p.55).No documentary evidence shows that Deng had ever in the 1930s
been the Party Center's mishuzhang, or chief secretary---even further from
its English translation "general secretary" or "secretary general." The
official title of chief secretary did exist at some period in party history, and
such a position was normally held by a Politburo member, such as Zhou
Enlai or Li Lisan. Deng was not yet a Central Committee member. (p.57).
It became almost a casual habit for Deng to brag excessively about his
official seniority in the early 1980s. Despite my respect for Deng as a great
politician , such a habit strikes me as odd and unnecessary. Deng should
have known better than anybody else that, in Shanghai in 1928-29, the post
of the CCP Center's chief secretary, or mishuzhang, had been held by Zhou
Enlai and then Li Lisan, both of whom were full Politburo members, and
not possibly have been held by a non-Party Center member like himself.
(p.293).
これは楊炳章の無知を示す。鄧小平が一九二九年に広西に派遣された後に、
後任の「中央秘書長」となったのは余沢鴻(一九〇三~一九三五)である。余
沢鴻は当時二五歳、前任者鄧小平より一歳年上であった。李盛平主編『中国現
代史詞典』(四九二ページ)にこの「中央秘書長」という肩書が明記されてい
書評一束
142
る。楊炳章は当時の「中央秘書長」ポストを「中央総書記」ポストと混同して、
政治局委員でなければならない、と誤解しているにすぎないのだ。当時の党内
事情を知らないからであろう。もしかしたら、これは不適切な英訳にひきずら
れたものか。『鄧小平文選』英訳を調べると、中央総書記も中央秘書長もとも
に General Secretary あるいは Secretary-General と訳されていて区別が
つかない形になっている。
・瑞金県書記就任の日時問題
鄧小平が瑞金県党書記に就任したのはいつか。著者は通説をこう批判する。
「党公認伝記作家は、一九三一年八月、江西ソビエト区に到着直後、瑞金県の
党書記に任命されたという。この主張は根拠がないし、実際ありえない。もし
その地位にいたのなら、一九三一年一一月に瑞金で開催され、中華ソビエト共
和国の樹立を宣言した第一回ソビエト区代表大会の長い代表者名簿に、名前
が載っているはずである」。
「新資料にもとづくわけではないが、三一年一二月
もしくは三二年一月に瑞金県の党委員会書記となった可能性が考えられる」
(訳書九〇ページ)。鄧小平は一九三一年八月、金維映、余沢鴻らとともに瑞
金に向かった。瑞金に着くと、鄧小平一行は中共贛東特委書記謝唯俊と会っ
た。
「そこで皆が協議して鄧小平を推薦して中共瑞金県委員会書記を担当させ
た」。これは中共江西省委員会党史資料徴集委員会編『鄧小平在江西的日子』
(中共党史出版社、一九九七年)所収の余伯流論文からの引用である(同書一〇
三ページ)。このとき瑞金はどのような状況にあったのか。「一九三一年五月、
(AB団ではなく、ここでは社会民主党に対する)粛清運動が瑞金に及んでい
た。瑞金の粛清運動の指導者は県委員会書記兼粛反委員会主任李添富であっ
た」。
「県ソビエト政府と県総工会という二つの単位の 80%の幹部が逮捕され、
これらの幹部は 10 日以内に大部分が社会民主党分子として処刑された」。
「原
県委員会書記桔希平、県ソビエト主席蕭連彬ら重要幹部も殺害された」「かく
てほとんど毎日誰かが処刑され、時には一日で五〇~六〇人、少なくとも一〇
~二〇人が処刑された」「鄧小平が瑞金県委書記を引き継いだ時、何人が処刑
待ちであったか、確かな統計数字はない。しかし数百名いた可能性がある」(余
伯流論文一〇三~一〇四ページ)。鄧小平が瑞金に着いたのは、まさに国民党
の第三次包囲討伐のなかで瑞金では凄惨な仲間殺しの最中であった。鄧小平
は一カ月余、状況を調べたのち、李添富らを逮捕して殺害行為をやめさせ、逆
にそれまで拘留されていた大量の幹部を釈放し粛清を終わらせたのであっ
た。(余伯流論文一〇四~一〇五ページ)。こうして初めて九月に錦江中学で瑞
金県第三次労農兵代表大会を開いたのであった。この間の事情を余伯流論文
は鄧小平「我的自述」、楊世珠「瑞金糾正粛反和査田運動的回憶」、鄒書春「鄧
書評一束
143
小平在蘇区瑞金」
、
『瑞金県組織史資料』などに基づいて描いている。さて楊炳
章はこのような当時の瑞金の事情にまるで無知であり、党書記就任が「八月で
はなく、一二月だ」などと根拠不明な憶測を書いている。もし楊炳章の説が正
しいならば、九月中旬に瑞金で第三次反「包囲討伐」勝利大会を主宰したのは
誰か、九月下旬に瑞金県第三次労農兵代表大会を開いた主宰者は誰か、答えて
欲しいものだ。鄧小平の前任者は前述の通り李添富書記だが、まさか彼がこれ
を主宰したというのか。実は楊炳章の本には、李添富、そして余沢鴻の名さえ
登場しないのだ。そのような無知に基づいて楊炳章は身勝手な憶測を重ねて
いる。これには驚かされる。
・李明瑞の粛清問題
楊炳章はいう。「李明瑞の粛清に直接的ではないにしろ補助的にかかわって
いた可能性は高い。半世紀後の八四年、李の名誉回復が取り沙汰されると、李
明瑞は左右江ソビエト区の功労者の一人というのがふさわしいと鄧小平はす
まなそうに指示を与えたのだった」(訳書九〇ページ)。該当箇所は以下の通り。
There are several documents suggesting that Deng sided with the security
agency---rather than standing against it, as his own daughter claims---in
attempting to eliminate Li and other former KMT officers from October
1929 up to June 1930. In his April 29, 1931, reports to the Party Center,
Deng strongly blamed the "old foundations of KMT soldiers" for the failure
of the Seventh Army. In all liklihood, Deng himself was involved,
supportively if not directly, in the purge of Li Mingrui. Half a century later,
in 1984, when this case was brought up for rehabilitation, Deng instructed
apologetically, "It would be appropriate to say that Li Mingrui had been one
of the founders of the Left and Right River Soviet."(p.69).
訳文の「すまなそうに」の原文は apologetically であるから、この訳語は「弁
解がましく」とすべきであろう。問題はこの記述の典拠である。(20)班鴦「鄧
小平同紅 7 軍関係考」参照。
「鄧小平が紅 7 軍の粛清にかかわっていたことを
示す歴史文書がたくさんある」と注記している。念のために、原注をみておく。
(20)See Ban Yang, "Verification of Deng Xiaoping's relations with the
Seventh Red Army." There are numerous historical documents that indicate
that Deng might have been more actively involved in the Seventh Army
purge. If proved true, that would have serious implications for Deng's
reputations and would also be of considerable interest to us. (p.295).
比較して明らかなように、邦訳は下線部を訳していない。仮に訳せば「もし
記述が真実であると証明されるならば、鄧小平の名声にとって重大な意味を
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144
もつであろう。それはまたわれわれにとっても相当に関心の深い事柄であろ
う。」楊炳章の書く通りだ。これは実に重大な記述である。楊炳章はここでも
本文では、真実らしく書いて鄧小平に嫌疑をかけて、注釈では逃げを打ってい
る。翻訳は、この部分を省略したことによって、「鄧小平が紅七軍の粛清にか
かわっていたことを示す歴史文書がたくさんある」と、強い断定のニュアンス
になっている。訳者がなぜ省略したのか。その真意を知りたい。これは鄧小平
論の根幹にかかわる。決して小さなエピソードではない。班鴦「鄧小平同紅七
軍関係考」
(『探索』104、105 号、1992 年)なる米国で発行されたらしい華文
雑誌は見ていないが、これは政治運動のプロパガンダ雑誌ではないのか。まだ
確認はしていないが、目見当でいえば、元来魏京生が創刊し、北京で発禁処分
を受けたのち、米国で再刊したものではないか。これ以上の憶測は控えるが、
他の論文で引用されたのを見たことはなく、疑問が残る。楊炳章の問題の多い
記述は、この『探索』を典拠としており、政治パンフを「学術書」に使うのは、
よくない。資料批判が必要ではないか。
ここで李明瑞(一八九六~一九三一年一〇月)の経歴を紹介しておくと、一九
一八年韶関の求軍講武堂に入学。北伐戦争時に国民革命軍第 7 軍旅団長、師
団長。一九二九年国民党政府広西綏靖司令。同年九月蒋介石反対闘争を組織
し、三〇年龍州蜂起に参加する。同年中国共産党に入党。その後、中国工農紅
軍第七、第八軍総指揮、紅七軍軍長。三一年四月紅七軍を率いて中央根拠地に
入る。第二次、第三次反「包囲討伐」の戦闘に参加。三一年一〇月、江西省于
都で殺害される(李盛平主編『中国現代史詞典』四六九ページ)。問題は李明瑞
の粛清と桔弌峠の関わりである。楊炳章は「直接的ではないにしろ補助的に」
と関わっていたという。「補助的」とはなにか、その内容を説明することなし
にこのような書き方をするのは、真意を疑われる。李明瑞の名誉回復は楊炳章
のいう「一九八四年」ではなく、「一九四五年の延安七回大会」である。ここ
に重大な事実誤認がある。さらに、李明瑞を説得し、中国共産党に入党させた
のはほかならぬ鄧小平である。当時の李立三による中央は「現地から彼を追放
せよ」と命じていたが(「中共中央給軍委南方弁事処併転 7 軍前委指示信」
『左
右江革命根拠地』(上)三一五ページ)、そのような党中央の事情を知らずに、現
場の鄧小平は同志として迎え入れたのであった(毛毛『わが父鄧小平』1-三一
〇ページ、三五〇ページ)。この事実から明らかなように、鄧小平が現場の判
断で李明瑞を同志として迎えたにもかかわらず、極左派の党中央によって李
明瑞が粛清された。その名誉回復は延安時代にすでに行われていたのである。
これらの事実を無視して楊炳章は勝手な憶測を書き散らしているわけだ。み
ずから説得して入党させた旧国民党軍の将校、同志として一連の行動を共に
してきた司令官の粛清に手を貸す、というのは、重大な事実である。鄧小平を
書評一束
145
そのような人物とみるか否かは、「鄧小平伝」の人物論の根幹に関わるのであ
り、具体的な論拠をなにも挙げることなしに、決定的な論断を下す楊炳章の本
は、「学術的」態度からははるかに遠いし、鄧小平論としても致命的な欠陥を
もつものと評さざるをえないのである。
・政治委員の肩書き問題
楊炳章はいう。
「いまある共産党の記録によると、鄧小平は広西蜂起時には政
治委員ではなかった。ほとんどの伝記作家が政治委員だとしているが、実際は
二九年一二月一一日成立の紅七軍にも、三〇年二月一日成立の紅八軍にもそ
のような職務はなかった。当時あったのは、政治部主任であり、第七軍は陳豪
人、第八軍 は兪作豫だった(八二~八三ページ)。事実の経過はどうか。1929
年 10 月 30 日、中共広東省委員会は「中共広西前委」の設立を決定し、鄧小
平を前委書記、すなわち前線委員会書記に任命したこの「中共広西前委」が後
の「紅七軍前委」である(「中共広東省委通知」29 年 10 月 30 日)。11 月初め
中央は左右江地区の武装蜂起を許可するとともに、紅七軍、紅八軍の編成番号
が与えられた。12 月 11 日、広州蜂起二周年を記念して紅七軍が正式に誕生し
た。張雲逸軍長、軍前委書記鄧小平(のちに軍政治委員を兼任)、陳豪人が軍政
治部主任であった(『左右江革命根拠地(上)』15~16 ページ)。では鄧小平が軍
政治委員を兼任したのはいつか。「中共中央給広東省委転七軍前委的指示」
(1930 年 3 月 2 日)の末尾に以下の記述がみられる。
「軍に軍政治委員を設ける
べきである。小平を軍部政治委員に指定する」(『左右江革命根拠地(上)』248
ページ)。ここで明らかになったように、鄧小平は 29 年 10 月に紅七軍前委書
記になり、その後 30 年 3 月 2 日付けで軍政治委員制度の新設に伴い、これを
兼任したのである。なお、手元の国防大学編『中国人民解放軍戦史簡編』(解
放軍出版社、一九八六年)四七ページを参照してみると、一九二九年一二月一
一日、百色蜂起後、広西警備第四大隊と教導隊の一部が紅第七軍に改編され、
張雲逸軍長、鄧小平前敵委員会書記兼政治委員就任と書かれている。当時の資
料および解放後の資料からして、鄧小平がまず紅七軍前委書記になり、その後
政治委員も兼務したことは疑いのない事実である。したがって、楊炳章の書き
方はきわめてミスリーディングである。「紅七軍創設当時、政治委員のポスト
はなく、陳豪人が政治部主任を務めたこと」は事実だが、鄧小平はその上役の
前委書記であり、政治部主任の上に政治委員ポストが新設されたときにこれ
に就任したのだから、陳豪人の上司にあたる。したがって「実際は欽差大臣(勅
使)のように振るまった」(訳書 83 ページ)のは、まさに上司としての行動なの
である。楊炳章は妙なレトリックを使い、却って実像を混乱させているといわ
ざるをえない。これは読者を混乱させ、訳者はこれに振り回されて誤訳するこ
書評一束
146
とになる。
・一九五二~五六年の活動
一九五二~五六年の鄧小平の活動を総括して楊炳章はいう。
「鄧小平の着実
な昇進には、一つ、あるいは二つの主要因がある。毛沢東の独裁力の影響と、
戦争初期のような建設的任務を通してではなく党内部の権力闘争を通してそ
の影響を利用したこと。実際、この二つは相互依存的効果があったのである。
毛沢東の独裁的権力が鄧小平のみごとな昇進を可能にし、鄧小平の急速な昇
進が不幸にも毛沢東の帝国支配と、狂信的なユートピア路線を強化したので
ある」
(訳書一五九ページ)。ここで「戦争初期のような建設的任務」とは、文
意不明だが、それはさておくとして、このような評価は妥当であろうか。五二
~五六年に鄧小平は確かに地方指導者から中央指導者へ昇格したが、その「主
要因」を(1)毛沢東の独裁力の影響と、(2)党内部の権力闘争を通してそ
の影響〔毛沢東の独裁力〕を利用したこと、にあるとする解釈は妥当であろう
か。まず前者だが、五六年九月の第八回党大会までは、基本的に集団指導体制
が守られていたとみるのが党史上の常識である。この期間について「毛沢東の
独裁力」を強調するのは当たらない。また鄧小平は功績の大きかった第二野戦
軍の政治委員として数々の戦果をあげているのだから、中央指導者への抜擢
は自然であり、毛沢東との個人的関係をここで強調するのは妥当ではない。次
に、この期間に鄧小平が昇進し、地位を固めた理由を「党内部の権力闘争を通
してその影響を利用したこと」にあるとする解釈も説得的な説明とはいいが
たい。高崗・饒漱石問題は確かに権力闘争であり、鄧小平が問題解決に貢献し
たことは確かだが、この事実をとらえて「権力闘争を利用した」という説明は
無内容である。「毛沢東の独裁的権力が鄧小平のみごとな昇進を可能にし」た
のではなく、鄧小平の「戦果」が昇進させたのだ。「鄧小平の急速な昇進が不
幸にも毛沢東の帝国支配と、狂信的なユートピア路線を強化した」というの
も、当たっていまい。毛沢東の急進路線が明確な形をとって現れるのは、五七
年六月の反右派闘争以後である。むろん五二~五六年段階においても、その萌
芽がないというわけではないが、その萌芽だけを強調し、反右派闘争後に顕在
化する毛沢東の独裁現象発現時期を無理に早めるだけ、鄧小平の昇進と無理
に関連づけようとするだけの「新解釈」は、中国現代史の解釈として問題が残
るだけでなく、鄧小平論としても、一面的にすぎる人物像を描く結果になるお
それがある。楊炳章が一五八ページで書いているように、八回大会の中央委員
選挙で鄧小平は朱徳や周恩来を抜いて第四位の得票数を獲得した。これは大
会に出席した代表たちが選んだものであり、毛沢東の決定ではない。このよう
な党内世論を踏まえて、毛沢東は彼を政治局常務委員の候補者とし、総書記に
書評一束
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も指名したのである。この間の事柄をすべて「毛沢東の独裁力」で説明しよう
とするのは、過度の単純化であり、説得力を欠くものといわざるをえない。
・楊炳章の心理学(1)
楊炳章は鄧小平の心理を忖度してこう書く。
「(鄧小平は)毛のおかげでとん
とん拍子で出世したから、自分の才知や良心を犠牲にしても、毛についていく
よりほかはない。左か右を選ばなければいけないなら、毛を喜ばすためだけ
に、左を選んだろう。この当時の彼の心理状態と行動は、偉くなりたてで、や
る気十分だったといえよう」
(一六二ページ)。これはほとんど三文小説の心理
描写である。ここで「鄧小平」を「楊炳章」に、
「毛沢東」を「ロス・テリル」
に置き換えてみよう。楊炳章はおそらく自分の尺度で鄧小平の「心理と行動」
を描写したつもりらしいが、そこには大人の風格はひとかけらもない。「燕雀
いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや」と慨嘆するほかない。歴史家なら歴史家ら
しく、政治学者なら政治学者らしく分析してほしいものだが、楊炳章の本には
まるで欠けている。
楊炳章はいう。
「ハンガリーとポーランドで起きた共産党政権にたいする大
衆抗議に呼応するかのように、毛沢東はまず双百政策を掲げ、百花斉放、百家
争鳴、中国人民が自由に意見や不満がいえると叫んだ。毛はさらに党内の整風
運動、党幹部の欠点や誤りを見つけて正すことを始めた。第八回党大会で劉少
奇は整風運動について何も言及しなかったし、鄧小平もそれにはたいした注
意を払わなかった」
(一六三ページ)。ハンガリー動乱は一〇月二三日~一一月
一七日(ナジ逮捕)である。ポーランドのポズナニで反政府暴動が起こったの
は、これに先立つ六月二八日~三〇日である。56 年 4 月ではない。毛沢東が
百花斉放を提起したのは、さらに前の五月二日最高国務会議における講話で
ある。このあたりの経緯に無頓着に、「呼応するかのように」と書いているの
は解せない。
「毛はさらに党内の整風運動を始めた」のに対して、劉少奇は「党
大会で言及せず、鄧小平も注意を払わなかった」という記述は、矛盾だらけで
ある。中共中央が整風運動についての指示を出したのは、翌五七年の四月二七
日であることは楊炳章が前掲引用の直後に書いている通りである。その半年
前に開かれた劉少奇がこの指示に言及しないのは当然ではないか。また鄧小
平が「たいした注意を払わなかった」という記述も理解に苦しむ。実に粗雑な
書き方が随所で行われていて、到底素直には読めない本だ。
・『鄧小平文選』と一九五八年の講話
楊炳章はいう。
「五八年に鄧小平が行った演説は、
『鄧小平文選』にほとんど
入っていない。大躍進中の彼の政治活動の様子は記録から明らかだが、本人の
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考え方は分からない。党のトップ指導層に属し、毛沢東が強硬な政策を押し進
める横で、めだった存在に違いない。政府公認出版物から大躍進期間中の講
話、演説だけをきれいに削除したこと自体、明白な証拠になっている」(一六
七ページ)。五八年に鄧小平が行った演説は、
『鄧小平文選』に「ほとんど入っ
ていない」というよりは、一篇だけ収められているとより具体的に書くのがよ
い。それは五八年四月七日に中央書記処会議で行われたもので、内容は教育問
題である。
『文選』にはこれしか収められていないのは事実だが、ここから「彼
の政治活動の様子は記録から明らかだが、本人の考え方は分からない」と書く
のは真意不明である。
「記録から明らか」ならば、
「本人の考え方」を分析でき
るはずである。いわんや楊炳章は三文小説的「心理解説」がお得意ではないの
か。たとえば『毛沢東選集』には限られた著作しか収められていないが、建国
以前は日本で編集された『毛沢東集』によって、建国以後のものは『建国以来
毛沢東文稿』および『毛沢東文集(6~8巻)』によって、基本的にすべて読
める条件が整っている。鄧小平についての『文稿』のようなものは未だ出てい
ないが、一九五八年の鄧小平の活動と発言を調べるには、いくつかの方法があ
る。まず『新華月報』の前身たる『新華半月刊』があるし、『人民日報』のマ
イクロフィルムあるいは現物が挙げられる。ここで特筆すべきは、
『人民日報』
が創刊以来のCD-ROMを発売している事実である。『文選』に収められて
いないから読めないといった言い訳は、不真面目な学生の「逃げ口上」以上の
ものではない。まともな研究者なら恥ずかしくていえないセリフであるはず
だ。この事実をとらえて、「政府公認出版物から大躍進期間中の講話、演説だ
けをきれいに削除したこと自体、明白な証拠になっている」とまで書くのは、
ほとんど三百代言である。
『鄧小平文選』はなるほど「政府公認出版物」だが、
そこに五八年の発言を一篇しか収めなかったことは、編集方針、編集意図に属
する事柄である。それを分析するのは当然だが、それを怠ったまま「明白な証
拠」と書くのは、真意不明というほかない。
・土法製鉄運動について
「一九五九年四月になって、中央書記処は鄧小平の掛け声でいっさいの資源
を集結する土法製鉄運動を始めることを提案した」(一六八ページ)と書くの
もおかしい。一九五八年の鉄鋼生産量を五七年比倍増の一〇七〇万トンと決
定したのは、北戴河で開かれた政治局拡大会議であり、五八年八月一七日であ
る。翌五九年四月二日~五日に八期七中全会が開かれ、五九年の国民経済計画
案が決定された。続いて四月一八日から二八日にかけて二期全人代一次会議
が開かれ、周恩来の「政府工作報告」を採択し、同時に国務院の提起した五九
年国民経済計画草案も採択した。ここで採択された数字、たとえば鉄鋼生産量
書評一束
149
は「五八年の倍増」という到底実現不可能なものであった。事柄の経緯は以上
のごとくであり、「鄧小平の掛け声」で「提案された」のではない。鄧小平は
総書記として、全人代決定を「実現するための具体化」に取り組んだのである。
この経緯は、楊炳章がこの項目を書くために用いている資料(房維中主編『中
華人民共和国経済大事記』の二二〇、二二三、二四四ページ)に詳しく書いて
ある。一連の経緯を無視して「断章取義」を行うのは許されない。大躍進にお
いて鄧小平が毛沢東の冒進を支えたことは明らかである。それゆえにこそ、彼
は調整期に率先して「白猫黒猫論」を唱えて、経済復興に取り組んだのだ。そ
のあたりの常識的知見に対して、一部を誇張してみせることによって、鄧小平
の政治的伝記なるものを書いたところで、それが「学術的著作」たりうるかど
うかはなはだ疑わしい。
・中ソ論争について
「つき詰めてみるに、中ソ論争での鄧小平の立場は、好戦的な国家主義、愛国
主義と分析できる。当時の状況下で、毛沢東のご機嫌をとることに終始した結
果といえよう。鄧の態度がラジカルになればなるほど、ソ連との議論が激すれ
ば激するほど、毛沢東はご機嫌で、鄧の政治的地位は安泰だった。マルクス・
レーニンの著作から引用したにもかかわらず、後にも先にもそれを熱心に読
んでいないし、読もうともしていない」(訳書一八三ページ)。
原文は以下の通り。In the final analysis, one may justify Deng's position in
the Sino-Soviet polemics as a kind of Chinese nationalism or patriotism or
even chauvinism. without getting too far-fetched, however, I would simply
ascribe Deng's performance to his personal desire to please Mao under the
current circumstances. The more radical his position and the harder he
argued with the Russians, the happier the chairman and the safer Deng's
own political position. As for those works of Marx or Lenin, Deng had never
cared to read them before, nor did he ever care to do so afterward. (p.158).
イタリックの部分は「ある種の中国ナショナリズムあるいは愛国主義、いや排
外主義」である。訳者は「好戦的な国家主義、愛国主義」と訳したが、どこか
ら「好戦的」という形容句が出てくるのであろうか。次の下線部は、「マルク
スやレーニンの著作についていえば」であり、「引用云々」とは書かれていな
い。楊炳章は「(マルクスやレーニンの著作を)後にも先にもそれを熱心に読
んでいないし、読もうともしていない」と断定しているが、そのような断定が
なぜできるか不可解だ。
・林彪事件の帰結
書評一束
150
1966 年 5 月の政治局会議での林彪の演説を読んで、毛はもっと早く気づく
べきだったと考えた。林彪は、「奴らはわれらを殺そうとしている。こちらが
殺さなければいけない。もし殺さなければ、殺されるだろうから」
「中国史は、
ろうそくの炎と剣の影に彩られたクーデターの歴史だ」と不遜にもいった。毛
沢東は、彭真も楊尚昆も、劉少奇も鄧小平をも嫌ったが、林彪の演説を聞いて、
どう思ったのだろう」(197 ページ)。下線部は「毛は憂慮するようになった。
もっと早くから憂慮して当然のことだが」の意である。次は「いま林彪将軍が
(クーデタを)宣言するのを聞いたあとでも、やはり鄧小平ら実権派を嫌ってい
たのだろうか」の意である。
原文は以下の通り。Reading through Lin's speech at the Politburo conference
of May 1966, Mao grew worried, as he certainly should have. The chairman
might indeed have disliked Peng and Yang, Liu and Deng, but what about
now hearing Marshal Lin declare, "These SOBs want to kill us, and we must
kill them. If we don’t kill them, they kill us," and listening to him lecture
that "Chinese history is nothing but a history of coup d'etat, of candle
flashes and knife shadows"! (p.170).
「鄧小平がまず口にした言葉は、天が呪って林彪を殺した」であった(一九
八ページ)。It was reported that, when informed of Lin's fate, Deng's first
words were, "Heaven damned Lin to death!" He promptly wrote a letter to
Mao on November 15, 1971.(p.171). この時の鄧小平のセリフはかなり有
名である。
「林彪不死、天理難容」である。わたしはかつて「林彪死せざれば、
天理容(ゆる)し難し」と訳した。このあたり、訳者の弁解を聞きたいところ
である。原文は明らかに中国語だ。楊炳章が英語に訳した。それを加藤が日本
語に訳する。いわゆる重訳はやはり極力避けるべきではないか。林彪事件につ
いての楊炳章の注釈が気になる。「林彪の飛行機が燃料不足で墜落したのか、
周恩来の命令で撃ち落とされたのかが疑問である。いろいろいわれているが、
私の判断では後者の可能性が強い」(三四三~三四四ページ)。
原文は以下の通り。The real question regarding the Lin Biao affairs is
whether Lin's plane crashed for lack of fuel or was shot down on orders from
Zhou. Despite all the popular remarks and recollections, there remains the
latter possibility, which is, in my own judgment, rather strong. (p.305).
またしても、「私の判断では in my own judgment」である。根拠は何も挙
げられていない。もし楊炳章のいうように、「周恩来の命令で撃ち落とした」
となると、周恩来論に新たな解釈を付加する必要のあるほど大きな問題であ
る。これは占い師のご託宣であり、研究者のとるべき立場ではない。
書評一束
151
・第一次天安門事件の死者
「この事件で死者がほとんどいなかったことは指摘しておきたい。台湾の報
道機関は死者五〇〇〇人と故意に誇張した数字を流し、それを単純に信じた
記者もたくさんいたが」(二二三ページ)。「死者がほとんどいなかった」とい
う日本語は成り立たない。死者があったのか、なかったのか、不明か、いずれ
か で あ る 。 Nevertheless, it should be pointed out that there were few
casualties in this incident, certainly not as many as fifty thousand---a
deliberately exaggerated figure published in the Taiwan press and naively
believed by many Western writers. (p.195).ここで「注記」に「この時天安門
事件事件では誰も死ななかった」(訳書三四五ページ)と書いているのは正し
い。つまり、本文は誤訳である。ここで「注記」は、以下のごとく正しい記述
である。As far as I can tell, nobody died in that Tiananmen incident, and
Ye Jianying's speech, referred to by Han and Evance, is a fabrication. p.307.
There were still suggestions within the Party Center that Deng should be
rehabilitated only as deputy premier, as in the precedent of 1973. Didn't
Deng himself also admit that he had some mistakes? Hua was hesitating
again. But Ye Jianying and Li Xiannian were resourceful enough to realize
that, since Deng's restoration was inevitable, they would rather have Deng
resume all the positions he had lost after the Tiananmen incident of April
1976. They realized Deng's great potential. Instead of Deng trying to please
them, it was their turn to please Deng. Why not do something now rather
than later?! (p.203).
・復活後のポスト問題
「党中央は、鄧小平が副首相ポストを回復すればいいという考えだった。副首
相は 73 年以前の地位だが、鄧は誤りを犯したことを認めたではないか。華国
鋒はまた優柔不断になった。しかし葉剣英と李先念は、鄧の復活が不可避な
ら、いっそ 76 年 4 月の天安門事件で失った地位に復帰させようと思った。二
人は鄧の素晴らしい可能性に気づいていた。いままで喜ばせてくれたから、今
度は鄧を喜ばせてあげよう。やるなら、いまをおいてない。(訳書 234 ページ)
「副首相は 73 年以前の地位だが、」の箇所は、1973 年当時の[復活の]先例の
ように、の意であり、誤訳である。「復帰させようと思った」のではなく、復
帰させようと思うほどに[智力に乏しい華国鋒と比べて]計略的であった、の意
である。このような書き方が楊炳章の人物論の特徴である。鄧の「素晴らしい
可能性に気づいていた」のではなく、ひとたび復活させたら、一瀉千里、そこ
書評一束
152
までいかざるをえないことを認識していたの意である。
「いままで喜ばせてく
れたから、今度は鄧を喜ばせてあげよう」は文意不明である。「これまでは鄧
小平が[手紙などを書いて]懇願する側にあったが、いまや主客逆転して」の意
であろう。
・真理基準論争
「ことの始まりは学術論文だった。1978 年 5 月 11 日、
『光明日報』に「真理
を検証する唯一の基準は実践である」と題する論文が載った。学術的トーンと
は裏腹に、胡耀邦が指示するこの論文は、党のイデオロギーと宣伝分野を握っ
ていた汪東興に向けられていた。(235 ページ)
Where there is a will, there is a way! It all started as a matter of academic
discourse; on May 11, 1978, Bright Daily published an article entitled
"Practice Is the Sole Criterion for Truth." Despite its academic tone, the
article, sponsored by Hu Yaobang, was directed against Wang Dongxing,
who was in charge of the party's ideology and propaganda work.(p.204)
「ことの始まりは学術論文だった」ではなく、「すべては学術論争の事柄とし
て始まった」の意であろう。
「1979 年は、鄧小平自身が進めた「名誉回復」の 1 年だった。まず、76 年の
天安門事件の名誉回復、つぎに 66 年の文化大革命、つづいて 59 年の反彭徳
懐運動および 57 年の反右派闘争と続いた。その結果、これらの政治運動の犠
牲者たちはつぎからつぎへと冤罪が晴れて、党や政府の指導部に復活した。
(239~240 ページ)。
Notably, 1979 was a year of "reversal of verdicts," under Deng's personal
guidance. First came the reversal of the verdict on the 1976 Tiananmen
incident, then on the 1966 Cultural Revolution, the 1959 anti-Peng Dehuai
movement, the 1957 anti-rightist campaign, and so on. Consequently, one
group after another of former victims of these political movements were
vindicated and restored to various levels of party and state
leadership.(p.208).
これらの名誉回復は 1978 年の 3 中全会で決定されたものだ。その決定が翌年
から実行された経緯がある。楊炳章はこの 3 中全会決定に触れずに、あたか
も 79 年に突然始まったかのごとく記述している。杜撰な記述の一例である。
ここで冤罪が晴れて、党や政府の指導部に復活した人々によって華国鋒体制
が崩れる。その因果関係の説明に成功したとはいいがたい。
For the same reason, the anti-rightist campaign could be only partly
reversed; the campaign was now held to have been necessary in the first
書評一束
153
place but excessive in terms of result. (p.208).
「同じ理由で反右派闘争の名誉回復も部分的なもので、名誉回復すべきもの
が最終的に実現せず、かえって過ちが拡大した」(240 ページ)。
この訳文は文意不明である。
「反右派闘争は一部の名誉回復しか行われなか
った。というのは、反右派闘争はなによりもまず必要なものであり、ただ結果
的に行き過ぎたにすぎないという解釈からである」の意だ。
「鄧小平と華国鋒の対決は,79~80
国鋒の左派路線を攻撃したことで決定的になった。おもに陳雲が華国鋒の経
済政策を批判し、鄧小平は華国鋒の地位を狙っていただけだ。この微妙な差は
重要で、注意が必要である」 (241 ページ)
Interestingly----although it was hitherto either not known or under estimated ----the political showdown between Deng and Hua took the form
of the former's attack on the latter's "leftist line" in national economic
affairs during 1979-80. In that struggle, Chen Yun was drawn in as the
main critic of Hua's economic policy, as Deng really aimed at Hua's political
power. There were subtle and yet important differences between the two
positions, which should be carefully examined. (p.209)
経済通の陳雲をもちあげて鄧小平をくさす作戦のようだが、
「華国鋒の地位
を狙っていただけ」という断定がなぜ可能なのか、根拠は示されていない。
Chen Yun as director and Li Xiannian as deputy director of the Central
Financial and Economic Group (p.210) お よ び head of the Central
Financial and Economic Group(p.211)の訳語について。
「陳雲は財政経済委員会主任、李先念は副主任として」(242 ページ)、
「陳雲に
代えて趙紫陽を中央財政経済委員会の主任にした」(242 ページ)と訳している
が、この箇所は正式名称「中央財政経済指導小組」と訳すべきであり、「中央
財政経済委員会」とは異なる機関だ。
・華国鋒の辞任の経緯
華国鋒は 80 年 12 月の会議で、経済状態はそれほど深刻でない、もし問題が
あるとしたら私一人で責任を負えないと反駁した。華の発言は正確だったろ
う。しかし、悲しいかな、責任を負えないなら、辞めてもらおう、ということ
になった。(訳書 243~244 ページ)
Hua himself argued at the December 1980 conference that the economic
situation was not at all critical and that, even if there had been some
problems, he could not be held sorely or mainly responsible. Hua might
have been quite right in this regard. But alas, if you could not be held
responsible, then you should be relieved of your responsibility! (p.211-212).
書評一束
154
この書き方は杜撰であり、経緯は以下のごとくであった。11 月 10 日から 12
月 5 日にかけて政治局会議が連続 9 回開かれた。主な議題は 11 期 6 中全会
(81 年 6 月 27~29 日)に提起する人事問題であった。『歴史問題決議』の討論
過程で華国鋒に対する批判が高まり、華国鋒は辞任を申し出た。その結果、華
国鋒は党中央主席辞任、軍事委員会主席を辞任するが、政治局常務委員および
党中央副主席の地位は保持すること、代わりに胡耀邦を党中央主席に、桔弌峠
を軍事委員会主席に選ぶことが決定された(馬斉彬主編『中国共産党執政 40
年』中共党史資料出版社、1989 年 465 ページ)。一連の政治局会議で特に議論
になったのは、四人組粉砕以後、華国鋒が文化大革命の誤りを是正せず、老幹
部の冤罪事件の名誉回復に消極的であったことである。経済工作における誤
りにも「重要な責任がある」と批判されたが、華国鋒批判の核心は「脱文革期
における文革路線の継承」である。楊炳章の記述はきわめて一面的である。
・趙紫陽と鄧小平の関係
趙紫陽は 79 年に四川省で、同様のこと[自留地と副業の奨励]をおこなった。
と密接な関係になったのだ。(245 ページ)
Zhaoziyang followed the same line in Sichuan in 1979. There were political
factors involved; Wan alredy had, and Zhao soon would have, a close
personal relationship with Deng. (p.212).
楊炳章は趙紫陽が 79
親密な関係になった a close personal relationship with Deng」と記述してい
るが、これは正しいか。趙紫陽が四川省第 1 書記に就任したのは 75 年 10 月
のことだが、この人事が周恩来と鄧小平の提案によることは常識ではないか
(たとえば趙蔚『趙紫陽伝』香港中華書局、1988 年 258 ページ)。そして四川
省での活躍が認められて 80 年 2 月に 11 期 5 中全会で政治局常務委員に抜擢
され、4 月に国務院副首相に昇格するのだ。
鄧小平の権力欲
「鄧小平は、華国鋒を主席の座から降ろすのには一生懸命だったが、おかしな
ことに、自分からその座に昇ろうとはしなかった。(中略) もっと正確にいえ
ば、形式的な肩書より実質的な権力に関心がある。彼は国家政策の問題、すな
わち共産党と中華民族にとって何が大事か に関心がある」 (246~247 ペー
ジ)。
It seemed a little puzzling that Deng had worked so hard to knock Hua
Guofeng out of the leadership and yet refused to don the mantle of
書評一束
155
leadership himself……….More precisely, he cared more about substantial
power than about formal title, and he also cared about impersonal policy
issues, or what he thought would be good for the Communist Party and the
Chinese nation. (p.214).
楊炳章は鄧小平を「権力亡者」のように描くので、せっかく華国鋒を打倒しな
がら、みずからはその座をに座ろうとしない鄧小平の行動を理解できない。そ
こで「パズルのように見える」という。実際、鄧小平は楊炳章が後段で書いて
いるように、彼個人の地位や肩書よりも「共産党と中国国民にとって」何が大
事かに関心があったのである。このような政治家こそが称賛に値する政治家
ではないのか。ここでは楊炳章の描く鄧小平像が実際にそぐわないことをみ
ずから暴露した形になっている。
・楊炳章の心理学(2)
「鄧小平の心理も面白い。華を引きずりおろしたが、自らその主席のポスト
につくのは気が進まずにためらった。胡耀邦を引き上げたが、自分が副主席に
甘んじていることも、胡に主席という肩書を許すのも不本意である。毛主席と
困難な波瀾の多い年月をともに過ごした鄧は、 主席のポストには恐れ多い感
じが拭えなかった。といって、胡主席の誕生は絶対に許せない。党指導機構の
改革を気軽にとらえすぎていないか。そうではあるが、これが実情なのだ。鄧
の心理を直感的に分析してみたが、「確かな引用」や「確固たる事実」による
分析以上に実りが多い場合もあると思う」 (250 ページ)。
Deng's own thought processes provide the clue! He pushed Hua down but
felt reluctant to take over Hua's post. He pulled Hu up but felt reluctant
either to line up with Hu as deputy chairman or to grant Hu the title of
chairman. After having worked with Chairman Mao for so many eventful
years, the title of chairman had left Deng with a great many awesome
and awful impressions. It would be too much to have another chairman--this time, Chairman Hu! Does this sound too banal as an explanation for
the solemn reform of party leadership? Perhaps it is, but it happens to be
the truth! This kind of intuitive analysis of Deng's thought processes, I
would say, may be more fruitful than many "definitive quotes" and "hard
facts". (p.217-218)
まず Deng's own thought processes を「鄧小平の心理」と訳すのはよくない。
「鄧小平の思考過程あるいは考え方の道筋」ほどの意味であろう。楊炳章は
一連の機構改革を鄧小平の恣意によって説明しようとするから、三文文士
的説明になる。当時は、まず復活幹部を多数政治局に送り華国鋒に掣肘を加
書評一束
156
え、82 年 9 月の党大会では中央書記処(総書記は胡耀邦)の書記を増やして、
肥大化して機能不全の政治局の権限を事実上中央書記処に移した。同時に
中央顧問委員会と紀律検査委員会を新設して長老幹部をここに移す。そし
て 85 年 9 月の党代表会議で若返りを図り、87 年の第 13 回党大会でようや
く政治局主導の精鋭体制ができた。この間のジグザグは、鄧小平・陳雲らの
実権派連合軍の再編成過程であり、鄧小平は妥協と多数派工作を通じて一
連の過程を進めざるをえなかった。そのような現実の過程をまるで無視し
て、楊炳章は身勝手な分析を行う。そして最後に、
「「確かな引用」や「確固
たる事実」による分析以上に実りが多い場合もあると思う」 と弁解してい
る。一連の過程を知る者にとっては、まるで無益で、説得力を欠いた説明で
ある。これは学術の世界とはかけ離れたものであるというほかない。
・後生畏るべし
最後に訳者の見解を確かめておきたい。訳者を代表して加藤千洋はいう。
「本書がもつ最大の意義は、中国に生まれて大学教育を受けるまで中国大
陸に育った普通の人間によって書かれた点にある」
(三五三ページ)。楊炳章が
「大学教育を受けるまで中国大陸に育った」ことは事実であろうが、楊炳章は
「普通の人間」であろうか。バーバード大学で博士号を得て、中国人民大学の
教授になる人物が「普通の人間」なのであろうか。楊炳章の価値観や研究者と
してのスタンスにかなり重大な問題のあることは明らかではないのか。百歩
譲って仮に「普通の人間」の鄧小平伝とする加藤の判断を認めたとして、それ
がなぜ意義深いことなのか、私には理解しにくい。「(党公認史家による伝記
は)できるだけ冷静、客観的に研究対象に迫ろうという伝記作家として最低限
必要な条件が備わっていない」。そして「外国人の手になるものも、中国革命
の複雑な経過に対する研究不足や単純なミスや事件の背景分析などに限界が
見られる」(三五三ページ)という楊炳章の言い分を加藤はそのまま認めてい
るようだ。言や良し。しかし、このような批判的コメントの姿勢をみずからの
著作において貫徹できるかどうかはまったく別の事柄である。楊炳章が指摘
した問題点はすべて、彼自身の著作の随所に発見できることの具体例を私は
いくつか挙げてみた。読者はどう判断されるであろうか。
楊炳章の著作を本書から拾うと以下のごとくである。
(1)
「毛沢東の権力へのステップ、遵義会議」
『チャイナ・クオータリー』一九
八六年六月、一〇六号、
(2)「複雑性と合理性、李立三の冒険の再評価」
『オーストラアン・ジャーナル・
オブ・チャイニーズ・アフェアズ』一九八九年一月、二一号、
(3)『革命から政治へ、長征における中国の共産主義者たち』ウェストビュー・
書評一束
157
プレス、一九九〇年、
(4)「プラグマティックな共産主義者の形成、初期の鄧小平 1904-1949」
『チャ
イナ・クオータリー』一九九三年九月(のち、『鄧小平、政治的伝記』シャー
プ社、一九九八年)。
これらの著作から判断すると、楊炳章は遵義会議、李立三問題、など四九年以
前の中国共産党史の諸問題を扱う専門家を自称しているごとくである。 私
はハーバード大学で誰が彼の博士論文を審査したのか、問い合わせてみたい
気分である。このような欠陥だらけの駄作を国分良成教授(慶応大学法学部)が
訳者に紹介した理由が分からない。訳者加藤千洋中国総局長は、翻訳の過程で
疑問を感じなかったのであろうか。もう一ついえば、
『朝日新聞』に提灯書評
を書いた山室信一教授(京都大学人文科学研究所)は、疑問を感じなかったの
か。
「後生畏るべし」とはこのことであったか、と花甲をすぎたいま、評者は
戦慄を覚える。[追記]東方書店の『月刊東方』の依頼で書評を書いたが、あま
りにも長くなったので、要旨のみを掲載していただくことになった。これはそ
の全文である。
67 毛沢東の個性を丹念に執拗に追求
金冲及主編、村田忠禧・黄幸監訳『毛沢東伝(一八九三~一九四九)上・下』
みすず書房、月刊『東方』2001 年 3 月号 28~31 ページ
原書は一九九六年に出版され、版を重ねて三〇万部、海賊版も同じ程度出されたという。
私は二〇〇〇年夏休みに監訳者村田忠禧、黄幸両氏とともに、北京毛家湾の中央文献研究
室に金冲及教授を訪ねる機会があり、その折金教授からこのエピソードを聞いた。原書が
ベストセラーになったのは、人間毛沢東の個性を十分に描ききったことによると思われ
る。いわば毛沢東伝の決定版である。全四〇章、九四七ページからなる大冊である。邦訳
は原書一冊を上下巻に分け、上巻は一~一八章、下巻は一九~四〇章である。総計 960 ペ
ージからなる大著である(本文 906 ページ、年譜 14 ページ、人名索引 11 ページ)。上巻
のカバー写真は民衆に革命の大義を説く毛沢東の後姿、下巻は同じ写真の正面プロフィ
ールだ。心憎い装訂であり、邦訳編集者の心意気が伝わる。
主編金冲及は日本語版への序文で、執筆意図を「毛沢東はどうして毛沢東になりえたかと
いう問題」だと説明した。
「時勢が英雄を造る」という言い方がある。
「時勢」とはなにか。
「もしも近代中国のあのような特殊な環境がなかったら、もしも近代中国の革命闘争が
なかったら、もしも中国の歴史と中国の文化という深い背景が存在しなかったら、毛沢東
はありえなかった」(iii ページ)。要するに、中国史と中国文化のなかで行われた近代中国
の革命闘争こそが英雄毛沢東を生み出す必要条件であった。だが必要条件は十分条件で
はない。そのような革命闘争のなかで「同じ隊列にありながら、誰もがみな毛沢東になり
えたわけではない」(iii ページ)。いわば毛沢東の個性こそが毛沢東をして毛沢東たらしめ
たのだ。その「思想、性格、作風」とは何か。著者たちは長期かつ錯綜した革命実践の過
書評一束
158
程で「マルクス主義者毛沢東」(毛沢東はみずからをそのように認識した)が生まれ、しだ
いに「中国的マルクス主義」(これも毛沢東自身の認識である)を作り上げていく過程を執
拗に追跡する。その外的内的過程に、利用可能なあらゆる資料を渉猟しつつ迫る。細部ま
で確実に描くことによって巨人の心の襞にまで迫ろうとする姿勢は真摯そのものだ。
本書の編集は毛沢東の図書秘書を務めたことで知られる●pang 先知(中央文献研究室主
任)の主宰のもとで行われ、金冲及(中共中央文献研究室常務副主任)が編者となった。
分担執筆者のうち陳晋、黄允升、廖心文は中共中央文献研究室所属、姚傑、畢建忠は軍事
科学院所属であり、いずれも党史・軍事史の研究者である。彼らはその職位からして中央
档案館に保存されている膨大な資料類を利用できる。既存の公開資料のほか、初公開のこ
れらの原始資料も含めて渉猟し、実に丹念に描いた。
冒頭、毛沢東の生家「韶山冲」にまつわる伝説「韶楽」のエピソードが紹介しつつ、こう
語り始める。
「韶山の来歴にまつわる言い伝えは美しいものであったが、毛沢東が生まれ
た当時のこの土地の現実の環境は、旧中国のその他の閉鎖的で貧しい農村と似たりよっ
たりであった」
(2 ページ)
。英雄物語ではあるが、英雄がなぜ英雄となったのかを描く筆
致は具体的・実証的であり、説得性に富む。師範学校時代の毛沢東が「社会のことを心に
かけ、苦学して志を練り磨く」
(17 ページ)姿は、倫理学の恩師楊昌済や黎錦煕の日記な
どから描かれる。毛沢東は延安時代に中央党校の正門に「実事求是」(班固『漢書・河間
献王伝』)の揮毫を掲げさせたが、その原イメージを岳麓書院の扁額に求める解説(21 ペ
ージ)は、王船山・楊昌済・毛沢東が湖南読書人の風格を継承することの生きた事例とし
て分かりやすい。青年毛沢東曰く、
「男子たる者、天下の奇たるべし。即ち、奇書を読み、
奇友と交わり、奇事を始め、奇男子になることだ」
。同級生たちはプロイセンの将軍の名
モルトケ
にあやかって、毛沢東に「毛奇」のあだ名をつけた(33 ページ)。このあたりは明治の豪傑
君たちのイメージと酷似している。毛沢東が『湘江評論』に書いた「民衆の大連合」への
解説はこうだ。
「この文章で主語として使ったのは、もはや「私」ではなく「我々」であ
った。この用語法の違いは、彼の思想における深い変化をかなり反映していた」(48 ペー
ジ)。毛沢東はこのとき初めて「民衆」のなかに入ったが、その間の事情を著者はこう読
み取る。新民学会の綱領を討論した際には、
「東亜改造」は「中国と世界の改造」に如か
ず、と断じた。
「世界」を提起するのは、われわれの主張の国際性を明示するため、
「中国」
を提起するのは、当面の改造対象を明示するためだ。
「東亜」には意味がない(70 ページ)。
一方で当面の目的を論じ、その視野は世界に及ぶ。毛沢東らしい発想だ。三湾改組に触れ
て「我々は地方と結合してゆくべきであり、地方の支持を獲得しなければならない」(147
ページ)。ここで「地方」に訳者は「軍に対する一般社会に相当する意味」と正しい訳注
を付している。これは旧日本軍の用語法が中国に輸出されたもの。現代日本語ではすでに
「死語」あるいは歴史用語であり、訳者の目配りの確かさを示す。207 ページにいわゆる
「九月来信」についての『周恩来選集・上巻』の不備と『中共中央文件選集・五冊』の改
善が指摘されている。これは訳注には記されていないが、訳者村田忠禧教授の発見に基づ
書評一束
159
く(『蒼蒼』41 号 91 年 12 月の拙稿参照)。日本の党史研究者の研究成果が中国の史料に
反映された日中学術交流史の一例である。
本書のなかで印象深い記述は少なくないが、評者が特に印象深く感じたのは、江西ソビエ
ト時代にコミンテルンの誤った指導に追随する同志たちによって故なく批判された二年
間の苦悩を毛沢東自身が回顧する箇所である。「彼ら(博古やオットー・ブラウン)は、
私という木の菩薩像を肥だめのなかに漬け込んでは、また持ち出し、鼻持ちならぬものに
したのだ。あのころ、誰一人として訪ねて来ることはなく、鬼すらも訪ねて来なかった」
「幸いなことには私の頭は切り落とされなかった」
(304 ページ)
。木像を肥だめに漬けた
らいかにも臭いであろうし、その寂寥は鬼の来訪さえも待ちたい気分であった。毛沢東は
辛うじて生き延び、マルクスやレーニンの書物を読み、
『矛盾論』
『実践論』に結実する思
索を行った(305 ページ)
。
遵義会議を経て、延安でのある日、一九四三年三月二〇日、中央政治局は毛沢東を主席に
推薦し、
「主席が最終決定権をもつ」と決めた。
「この決定が毛沢東に党全般の活動におけ
るすべての重大問題について最終決定権を与えることになった、と考える研究者がいる
が、それは誤伝に基づく誤解である」(610 ページ)。正確な記述によって、これまでいさ
さか曖昧であった史実の細部がくっきりと浮かびあがる一例だ。
一九四三年五月二〇日、ディミトロフから毛沢東に宛てた電報が届き、コミンテルン解散
を知らされた。
「コミンテルンは、もはや闘争の必要性に適応できなくなっており、かえ
って各国の革命の発展の妨げになる」
「解散は、中国の党が独立自主的に、中国の実情に
もとづいて中国革命の問題を処理しうるようになるうえでいっそう役立つ」(618 ペー
ジ)。毛沢東はようやく功罪半ばするコミンテルンの軛から解放された。その興奮ぶりが
察せられる。いまや毛沢東は思う存分に指導力を発揮できる条件が整った。あとは一瀉千
里、全国解放へ向けての進軍が始まる。
訳者が原文の不足を補う例は少なからぬ訳注にみられ、苦労がしのばれる。望蜀の感を述
べれば、原書にはない訳書固有の「人名索引」は大いに役立つが、もう一つ「事項索引」
も欲しかった。この本は、伝記として読みくだすだけでなく、必要に応じて適宜参照すべ
き中国革命史の性格をもつ書物だからである。
さて違和感を感じたところを一つ挙げておきたい。秋収蜂起後、毛沢東が長沙暴動を停止
する決断をした有名なエピソードにまつわる解釈である。毛沢東のこの決断について、本
書は「当時の中国の具体的状況に合致しており、しかもマルクス・レーニン主義の基本的
原則にも合致している」
(訳書上巻 143 ページ)と評価した。
「当時の中国の具体的状況
に合致」していたことは、明らかだ。後者の判断基準には疑問を感ずる。当時の毛沢東の
決断を「マルクス・レーニン主義の基本的原則」に合致している、と今日の時点で評価す
ることにどのような意味があるのか。当時のコミンテルンの呪縛力や、誤った指令がすべ
て「マルクス・レーニン主義」によって権威付けされていたことはよく知られている。コ
ミンテルンはその解釈権を傘に着て誤った指揮を繰り返し、中国の同志たちを悩ませた。
書評一束
160
毛沢東らは惨憺たる犠牲のうえに、
「中国の具体的状況に合致」する闘争こそが勝利への
唯一の道であることを探り当てた。この実践的勝利について「マルクス・レーニン主義」
の理論的勝利だと毛沢東自身が確信したことは明らかだが、これは当時の毛沢東の認識
である。旧ソ連が解体して一〇年を経た今日、二〇世紀の革命史には根本的な見直しが必
要ではないか。私は「マルクス・レーニン主義の原則」なるものを基準として毛沢東の正
しさを説く解釈には違和感を感じざるをえない。これは本書の後編に当たる『毛沢東伝一
九四九~一九七六』の執筆スタンスへの期待にも関わる。四九年革命までの毛沢東の努力
ド グマ
がほとんどすべて成功したのは、マルクス・レーニン主義の「教義から自由」であったた
めではないか。四九年以後の試みは、人民公社運動であれ、工業の国有化運動であれ、基
ド グマ
本的に失敗した。これは毛沢東が「マルクス・レーニン主義の教義」(特に農業理論、所
有制理論)を真に追求した事実と深く関わっている。この矛盾を毛沢東の傍らで鋭く見つ
めていたからこそ、鄧小平は「社会主義市場経済論」を提起できたのではないか。編者た
ちが解放後の毛沢東をどう描くのか、興味津々である。出版が待たれる。
68『週刊文春』1999 年 12 月 9 日号 159 ページ
文春図書館『毛沢東秘録』(上・下)、産経新聞社刊
中華人民共和国はこの秋、建国五〇周年を迎えた。これを記念するイベントが中国内外で
行われ、日本のマスコミもさまざまな形でこれを扱ったが、概して手垢にまみれたものが
多かった。既知の事柄をなぞるだけに終始して、はなはだもの足らなかった。
『産経新聞』
が名雪雅夫デスクをチーフとして長谷川周人、阪本佳子両記者、資料整理の助手からなる
四人組を編成し、三月二二日付け紙面から一二四回の連載を「毛沢東秘録」のタイトルの
もとに続けたのは異色、本書はこれを単行本としてまとめたものだ。産経四人組は、
「毛
沢東を抜きに現代中国を語り、描くことはできない」という認識から、中国現代史を毛沢
東を中心軸に据えて再構成したが、この試みはひとまず成功したと評価してよいであろ
う。普通の読者にとっては本書で初めて知る事実が多いであろう。本書下巻には、計八七
冊の中国語文献が掲げられている。これらのうち八〇年代末に出版されたのは、張雲生著
『毛家湾紀実--林彪秘書回憶録』および李鋭著『廬山会議実録』の二冊である。それら
を除けば、すべて九〇年代になってから出版されたものである。それは「取り上げる文献
として、中国人の編著者によって中国で出されたものにこだわり」、「二十世紀の現時点
で、中国では、どこまで語ることが許されるようになったか? 何が依然語られていない
か?
あるいは、何がこれでもかこれでもかと語られているか?を浮かび上がらせるた
め」と、その編集意図を説明しているが、一つの見識というべきである。
以下コメントをいくつか列挙する。
冒頭で四人組崩壊の経緯を主役・葉剣英の側から『葉剣英在一九九六』に依拠して描いた
のはよいが、著者名「范碩」がすべて「範碩」とミスプリされているのは惜しい。毛沢東
の遺言なるものについて、
「過去の方針に照らしてやれ」か、
「既定方針に照らしてやれ」
か、騒がれた。本書が師東兵『獄中の張春橋』の「ちょっと違う見方」(一一七ページ)
書評一束
161
を紹介したのは面白い。毛沢東はおそらく、異なる主題、異なる時期において両者をとも
に語っているのではないか。
「臨終のコトバ」だけが金科玉条のごとく争われた現実は、
まさに「宮廷クーデタ」のドタバタ悲喜劇だ。引用文献として李志綏著『毛沢東の私生活』
はない。代わりに呉旭君らの『歴史の真実』
(村田忠禧訳『毛沢東の私生活の真相』蒼蒼
社)を用いたのは慧眼である。前者は日本でも話題になり、大いに売れたようだが、虚実
混淆、誤謬が少なくない。これを批判する後者を使ったのはよいが、邦訳には言及されて
いない(三四八ページ)
。毛沢東の「遺体の永久保存」という処置は、党中央の既往の決
定と毛沢東自身の晩年の意に反して行われたものだ(五二ページ)。そのような死後の扱
いを許したのは毛沢東の後継者造りの失敗である。大躍進期の権力闘争を描いた李鋭『廬
山会議実録』は重要な本だが、
「事実上の発禁本」
「今も幻の本とされる」
(二六二ページ)
と書くのは、ミスリーディングである。品切れの場合は別として、かねて自由に買える。
近頃は中国の出版社自身が「発禁処分」なるウソを宣伝文句に使う時代であり、騙されて
はいけない。林彪事件について「産経新聞が入手したソ連共産党の内部文書による」と書
いている箇所(一五四ページ)は正しい記述内容だが、これをスクープしたのは、US
NEWS & WORLD REPORT(1994 年 1 月 31 日号)のはずだ。手柄を横取りするかに見え
る記述はよくない。ただし、この記述は朝日新聞社から出た『鄧小平政治的伝記』(楊炳
章著、加藤千洋訳、三四三~四ページ)の甚だしいデタラメぶりと比べると貴重な記述で
ある。
「当直看護婦の孟錦雲」(二九六ページ)は「生活秘書孟錦雲」がよい。孟錦雲の回想
をまとめた郭金栄『毛沢東的黄昏歳月』は重要な証言だ。内容は別だが、邦訳が出た『毛
沢東最後の女』
(中央公論社)なる駄本は、張玉鳳のつもりで孟錦雲の顔写真を使うデタ
ラメぶりである。本書が「葉剣英は四人組逮捕後の激務が一段落したころ、鄧小平を出迎
えて玉泉山まで連れ出すよう指示した」(三八ページ)と書いたのはよい。四人組「逮捕前」
に玉泉山に葉剣英を訪ねたと范碩『葉剣英在一九九六』(第一版)が書いた誤りを鄧小平の
娘毛毛が『作家文摘』(九七年六月二〇日号)で訂正している。本書執筆グループの努力に
敬意を表しつつ、率直な印象を記した。
69 書評『アジア経済』2000 年 8 月号
Jin Qiu,
The Culture of Power: The Lin Biao Incident in the Cultural Revolution,
Stanford University Press, 1999, xiii+279pp.
I
「林彪事件」――1971 年 9 月 12 日深夜から 13 日にかけて発生した飛行機
事故で、中国共産党のナンバーツーであり、「毛沢東の親密な戦友」とも称さ
れた林彪が死亡した事件である。中国当局が事件の内容をリークしたのは
1972 年夏であった。一連の中共中央文件をまとめたものが『林彪事件原始文
献彙編』(台北、中国問題研究所、1973 年、増訂本、1976 年)である。10 年後、
林彪・四人組裁判が 80 年 11 月から 81 年 1 月にかけて行われ、事件のディテ
書評一束
162
ールが一部明らかになった。その後『党的文献』(中共中央文献出版社刊、88
年 1 期)が符浩、許文益、孫一先ら事件当時の関係者の回想録が出た。さらに
『毛家湾紀実――林彪秘書回憶録』(春秋出版社、88 年 7 月)、
『林彪事件真相』
(于弓編、中国広播電視出版社、88 年 9 月)などが出版され、事件の詳細がかな
り判明した。旧ソ連の崩壊後、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の機密書類が公開
され、オーストラリアのフリーランス記者ピーター・ハナムが、墜落現場から
掘り起こした林彪の頭蓋骨写真をスクープした(“The Mystery of Lin Biao's
Death”, U. S. News & World Report, January 31,1994.)。事件から 23 年後
である。
さらに 5 年を経た 1999 年に本書が出版されたが、これは文字通りの「決定
版」と評してよい。評者は英書を読むのは不慣れだが、内容の面白さに惹かれ
て一気に読了した。林彪事件の真相のなかでも最も核心の部分にある「571 工
程紀要」(クーデタ計画書)と林彪の関わり、林彪逃亡のいきさつが完膚までに
明らかにされた。迷霧が晴れて実にさわやかな読後感を残す。たとえ悲劇であ
れ、その実像が余すところなく描かれたとき、著者の悩みを昇華させ、読者を
十分に納得させる。これは林彪事件の核心部分を描ききった大傑作と評して
よい。
本書は「文化大革命のなかの林彪事件」(サブタイトル)を主題とする。タ
イトルは「権力の文化」である。文化大革命当時に流布された毛沢東語録から
して、「文化の権力」と錯覚しそうだが、逆である。中国の政治権力の上層部
で演じられた政治のドラマを登場人物の個性や家族関係までを含めた中国文
化のなかで考察しようとする含意を示している。著者は林彪事件に連座した
4名の大将の一人、呉法憲空軍司令の娘・金秋 Jin Qiu である。事件以後、中
国当局は関係者1万人を粛清した。著者の父は、最も重い刑を受けた一人(懲
役 17 年)である。本書は事件に連座して粛清された被害者の立場から見た林
彪事件の「もう一つの側面」である(序文, p.xii)。
II
本書の構成は以下のごとくである。
まえがき( Elizabeth J. Perry)
序文
第 1 章イントロダクション
第 2 章毛沢東と文化大革命の理論
第 3 章中国の老人支配と文化大革命
第 4 章林彪と文化大革命
第 5 章 権力をもつグループ内部の紛争
第 6 章中国政治のなかの家族
書評一束
163
第 7 章林彪事件
第 8 章林彪の悲劇
注、参考文献、人名索引、事項索引、写真 12 葉(注 1)
第 1 章では本書の問題意識と課題が述べられる。事件直後の「中発 57~65
号文件」では林彪は単に(1)「祖国への裏切り者」、(2)「毛沢東暗殺を企図」、
(3)「広東省に分裂政府を樹立しようと企図した」と批判された。いわゆる「571
工程紀要」(以下「五七一」と略す)は事件の 2 カ月後(11 月 14 日付「中発 74
号文件」)に証拠として追加された。しかし、事件から 10 年後の裁判において
は、(3)の罪状が消えただけでなく、(2)「毛沢東暗殺」計画に対する呉法憲ら
の関与も否定された。10 年の間に罪状がこのように変化したのはなぜか。
事件直後の「中央専案組」を率いたのは、周恩来、江青、汪東興である。1980
~81 年の裁判当時は、周恩来は死去、江青は裁判の被告席、汪東興は政治的
影響力をほとんど失っていた。代わって裁判する側の席に座っていたのは、文
化大革命の被害者たちであった。際立つのは江青の立場で、71 年には林彪を
告発する側におり、81 年には被告として死刑を判決された。
「五七一」は于新野(空軍司令部弁公室副処長、林立果の仲間)が書いたもの
だが、彼は林彪とともに墜死した。「五七一」を自供したのは李維新(7341 部
隊政治部副処長)だが、彼は于新野から「五七一」の話を「聞いた」だけで、そ
れを「見た」ことはない。いわゆるクーデタ計画なるものは、その程度のシロ
モノであった。「五七一」では林彪が毛沢東を「B52」と呼称しているが、30
年以上にわたって毛沢東に最も忠実であり、それゆえにこそ「後継者」に指名
された林彪が一夜にして毛沢東暗殺未遂者に変身することは考えにくい。こ
れが著者の問題意識の核心部分である。
呉法憲の娘であり、同時に歴史学徒でもある著者にとって、父親の呉法憲
も、その上司の林彪もそのようなイメージからはかけ離れた存在なのだ。この
矛盾を解くために、著者は既存の研究資料を丹念に調べ、呉法憲、李作鵬の未
公開手稿を閲読し、関係者(とりわけ、林彪の娘豆豆、弟林立果の婚約者張寧、
林彪の長年のボディガード李文普)にインタビューを行って、この本を書いた。
林彪事件の舞台は文化大革命であり、これはいうまでもなく毛沢東が発動
したものである。第 2 章で著者は毛沢東がなぜ文化大革命を発動したのか、
文化大革命とはなにかを現代中国史家・理論家たちの分析に依拠しつつ、その
素描を行う。著者が用いた資料は王年一『大動乱』、(龍共)育之『継続革命のい
くつかの問題』、譚宗級『十年後評説』、葉永烈『陳伯達』、叢進『曲折した発
展の歳月』、李銀橋、権延赤『走下神壇的毛沢東』、李鋭『廬山会議実録』、柳
随年、呉群敢『中国の社会主義経済』、丁抒『人禍』、石仲泉『艱辛な開拓』、
書評一束
164
蕭延中『晩年毛沢東』、金春明『”文化大革命”論析』など定評の高い文献であ
り、その叙述は手堅い。
第 2 章が中国の理論家たちの分析に依拠して文化大革命の理論を検討した
のと対照的に第 3 章では「中国の老人政治 Chinese gerontocracy」をキーワ
ードとして文化大革命を分析する。ここでは、中文資料のほかに、西側の研究
が援用される。たとえば Lucian Pye, Mao Tse-tung(1968)、A. McIntyre,
Aging and Political Leadership(1988) 、 Lifton, Revolutionary
Immortality(1969)、S. Schram, Mao Tse-tung(1967)、Dittmer, Liu Shaoqi
and the Chinese Cultural Revolution(1974)、Y.Vertzberger, The World in
Their Mind(1990) 、 Roderick MacFarquhar,The Cambridge History of
China, vol.15(1991)所収論文、などである。
III
第 4 章では 46 ページにわたって文化大革命のなかでの林彪の実像が描かれ
る。いわば林彪派の内部から見た文化大革命である。著者は林彪の井崗山以来
の活動を特に毛沢東との関わりを機軸に据えて、豊富な資料を用いながら描
いている。たとえば林彪の負傷時期について、1938 年初期説(スメドレー)、38
年 3 月説(李天民とロビンソン)、38 年 9 月説(『中共軍人誌』)など既存の研究
を網羅している。ここで特筆すべきは未公表の「呉法憲手稿」から注 52、87、
121、131、134、161、170、173 の 8 箇所引用され、従来知られていなかっ
た「事実」を明らかにした箇所である。たとえば毛沢東が文革発動を決意して
江青に宛てた手紙で、「林彪のクーデタ講話に不安を抱いた」と述べた箇所が
あるが、この手紙を 66 年にわざわざ大連まで訪ねて林彪本人に見せたのが周
恩来であることや、「毛沢東の最も親密な戦友」ととうキーワードを初めて使
い、後継者ポストを引き受けるよう示唆したのが周恩来であることも呉法憲
の証言として語られている。さらに、こうした形で林彪の意に反して「後継者」
に持ち上げられることにきわめて消極的であったという林彪の素顔は、これ
まで語られてきた「野心家」のイメージとは対蹠的である。この呉法憲証言を
初めて用い得たのは「実の娘」ならではのことだが、
『毛家湾紀実 林彪秘書回
想録』など他の資料との整合性にも意を用いた抑制的な書き方であり、説得力
に富む。
第 5 章では文化大革命の推進者として林彪派の将軍たちの勃興が描かれ、
第 9 回党大会から 1970 年廬山会議(9 期 2 中全会)で毛沢東の意図と林彪派の
対立、そして毛沢東の林彪派批判までの経緯が手堅く描かれる。
第 6 章では革命の領袖たちの妻たち、政治の場における妻たち、高級幹部
を父に持つ「太子党」と呼ばれる子息の生態が描かれる。ここで特に問題とさ
れているのは、林彪の妻葉群の役割と二人の子供、すなわち娘の林立衡と息子
書評一束
165
林立果、そしてその仲間たち(空軍の若手幹部たち)である。父親が高級幹部で
あることがその家族にとってどのような意味を持つかを中国社会の特徴とし
て説明している。この部分は日本人にとっては、容易に推測できる側面だが、
個人主義を旨とする西側近代社会にとっては最も理解しにくい部分であろ
う。だが、林彪事件の焦点は、どうやら政治的激動のなかでの家族の分裂にあ
ったごとくである。
第 7 章では,林彪ら 9 名を乗せたトライデント 256 号機が北戴河空港を強行
離陸してモンゴルで墜落するまでの林彪夫妻、娘林立衡、息子林立果とその仲
間たち、北戴河の林彪別宅、林彪派の 4 将軍(呉法憲、李作鵬、黄永勝、邱会
作)、毛沢東と周恩来、これら事件の主役,脇役たちの行動の細部が描かれる。
林立果の婚約者張寧の記録「歪んだ虹」(および直接のインタビュー)、林立衡・
張清林夫妻の「上訴材料」(未刊)、林彪の最も信頼するボディガードであった
李文普(インタビュー)の行動の確認などから、林彪の行動の細部が描かれる。
そこから浮かび上がるのは、林彪(そして林彪派の 4 将軍たち)はいわゆる「五
七一」とは無関係であり、飛行機が国外に脱出することを知らずに「乗せられ
た」らしい事実である。信頼するボディガード李文普が空港へ向かう走行中の
車から脱出した経緯は、ほとんどサスペンス映画である。もうひとつ、林彪が
クーデタを指示した証拠とされる「(林)立果、(周)宇馳の指示にしたがえ」と
いう林彪の「手令」は、どうやら林立果の偽造らしい。ここで 2 つの傍証があ
る。ひとつは、(父林彪をかばう)林立衡が繰り返し求めたにもかかわらず、周
恩来はついに現物を彼女に見せなかったこと(p.172)。もう一つは、葉群のア
イディアで葉群、林立果は、病気がちの林彪のサインを練習し、事務の便宜を
図ろうとしていたこと、それを林彪自身も承認していたことである(p.172)。
これは初耳だが、かつて毛沢東が林彪を「自分の女房に大事な政務をまかせて
はならない」と叱っていた事実と符合する話ではないか。
第 8 章は結論である。革命家中の「ベスト・アンド・ブライティスト」の 1
人であった林彪が 64 歳でモンゴルの砂漠で死去したことが林彪自身の悲劇で
あることは言うまでもない。だが、中国政治研究にとっていまだ未開拓の「制
度外的要因」を研究する著者からすると、これは「老いて被害妄想」の「毛沢
東に対する忠誠」が「党に対する忠誠」と受けとられていた革命党の悲劇であ
り、これに導かれた中国全体の悲劇にほかならない。林彪の悲劇は同時に毛沢
東の悲劇であり、そのような毛沢東個人崇拝を許した中国の悲劇なのだとい
う広い歴史からこの問題を考察することに成功したのである。周恩来は晩年
の毛沢東に対して最も忠誠であったが、林彪は部下の将軍たちに対して、「周
恩来を敬うよう諭していた」(呉法憲のメモ)という証言は見落とせない。「林
彪が毛沢東を敬い」、「敬愛する毛沢東のアイディアを現実化するために努力
書評一束
166
していた周恩来」に学べという指示である。毛沢東が桔弌峠を評価して、「政
治面では劉少奇や周恩来よりも優れ、軍事面では林彪や彭徳懐より優れてい
る」と評価していたエピソードは面白い。毛沢東によって自殺未遂あるいは死
に追い込まれた羅瑞卿や劉少奇、そして幾度も批判された周恩来などが、それ
でもなお毛沢東を畏敬していた「革命第 1 世代の心情」を著者のような第 2 世
代はほとんど理解できないが、その磁場から自由になったからこそ分析を本
書の地点まで進め得たのである。
(注 1)写真の内容は以下のとおりとなっている。
(1) 林彪と毛沢東、1930 年代(『人民画報』1971 年 10 月号 17 ページ)
(2) 抗日軍政大学で校長としての林彪、1937 年(『人民画報』1971 年 10 月号
28 ページ)
(3) 林彪と周恩来、毛沢東、1967 年(『人民画報』1968 年 3 月号 32 ページ)
(4) 林彪と呉法憲、邱会作、李作鵬、天安門広場にて、1970 年 10 月(『文革博
物館』1995 年,410 ページ)
(5) 林彪と江青、天安門広場にて、1966 年末(『文革博物館』2 部 428 ページ)
(6) 林立果、王炳章空軍司令と調査旅行する林彪、1970 年 7 月 23 日(『文革博
物館』2 部 422 ページ)
(7) 葉群と李作鵬、邱会作、呉法憲、黄永勝、長城にて、1970 年 7 月(『文革
博物館』2 部 422 ページ)
(8) 林彪と葉群、天安門広場にて、恐らくは 1969-70 年(『文革博物館』2 部 414
ページ)
(9) 1971 年 9 月 13 日航空機事故の結末、モンゴル(『文革博物館』2 部 430 ペ
ージ)
(10)
林彪の筆跡「立果、于馳の指示にしたがえ」(『文革博物館』2 部 430
ページ)
(11)
林彪のクーデタ計画書といわれた「571 工程紀要」の一部(『文革博物
館』2 部 427 ページ)
(12)
林彪、江青反革命集団の公開裁判における邱会作、呉法憲、江青、黄
永勝、陳伯達、1980-81(『文革博物館』2 部 594-95 ページ)
[追記]e-mail で問い合わせたところによると、著者は 1995 年にハワイ大学から Ph.D
をとり、現在はバージニア州ノーフォークの Old Dominion University の Assistant
Professor である。
70 書評『香港の競争優位』マイケル・エンライト、エディス・スコット、デービッド・
ドッドウェル著、ユニオンプレス刊、3500 円、
『エコノミスト』2001 年 2 月 6 日号
返還以後も香港の競争優位は揺るがず
本書は返還前夜、三人の有能なエコノミストたちが香港経済の強さ、優位性を分析した
書評一束
167
ものである。著者マイケル・エンライトはバーバード・ビジネス・スクールの教授、エ
ディス・スコットは国際貿易を専門とするコンサルタント兼弁護士、デービッド・ドッ
ドウェルは前フィナンシャル・タイムス記者である。この三人組が香港貿易発展局の依
頼を受けて、香港経済のパフォーマンス、香港経済に影響を及ぼす諸問題、香港の代表
的産業の競争力分析に挑んだ。
返還前夜の日本における狂騒曲は、いま想起しても苦々しい。
「返還後は香港が消えて
なくなる」かのごとき虚像を作り上げ、旅行社とマスコミ、一知半解の事情通が野合し
て、
「香港見納めの旅」を煽った。これに便乗した香港ホテル業界は日本人観光客を特別
割高価格で優遇、これが後日暴露され、返還後 3 年半、日本人観光客は激減したままだ。
東西の架け橋(bridge), ゲートウェイ(gateway)として出発しつつも、20 世紀後半には、
香港が世界経済のオルガナイザー(packager and integrater)の地位まで飛躍するにいた
ったのはなぜか。本書はその秘密に肉薄した。その要因を「四つの均衡」として鮮やかに
剔抉している。
第 1 は政府部門と民間ビジネスの拮抗である。香港ではレッセフェール(自由放任経済)
を旨としており、政府部門が民間経営を圧迫することはない。第 2 は外資系企業と地元
企業との均衡である。外資導入は香港が最も歓迎してきたところであり、地元企業はこれ
と協力しつつ、競争してきた。第 3 は短期決戦型経営と長期事業型経営戦略との併存で
ある。一方では実に変わり身が早く機敏に対応し、他方、長期的視野を欠いてはいなかっ
た。第 4 はベンチャー型企業と近代的大企業との均衡である。香港経済のもつこれらの
特徴について従来言及されなかったわけではないが、統一的に論じて「返還以後も香港の
競争優位は揺るがず」という大きな結論を導いたのは本書の功績である。
もし本書が英書刊行後、ただちに邦訳されていたならば、日本におけるばかばかしいほ
どの狂騒曲に水を差すことができたであろうと残念でならない。アジア通貨危機以後の
事態は、日本語版への序文で簡単に触れている。まず経済面では「香港の経済は、近隣地
域における他のほとんどの経済に比べ、はるかに良い形で危機を乗り越えた」。政治面で
は「香港の政治システムは基本法に書かれたことを実現するために進化している」
「国際
ビジネス社会では、香港の政治的進化はビジネスセンターとしての魅力を減らしてはい
ない」
。
では将来展望はどうか。
「中国の一都市に過ぎなくなる」といったシナリオは、
「近い将
来全くありそうにない」
。ただし近隣地域の通貨下落のなかで香港ドルは下落しなかった
ので、(人民元、台湾ドルは別として)アジア諸国とのコスト格差は拡大し、大気汚染もよ
り悪化した。とはいえ香港がますます「アジアの世界都市」への歩みを早めるという著者
たちの楽観像はいささかも変わらない。
71Joseph Fewsmith, China Since Tiananmen: The Politics of Transition. Cambridge and New
York: Cambridge University Press, 2001, xvii+313pp.『アジア経済』2002 年 11 月号 83-87
ページ
書評一束
168
はじめに
本書は序と結論のほか、3 部 7 章からなる。序は「世紀の変わり目における政府と知識
人」の表題で著者の問題意識を説明する。1999 年 5 月ベオグラード中国大使館「誤爆」
事件に触発された中国ナショナリズムから話が始まる。アメリカでは天安門事件のイメ
ージがあまりにも強く印象づけられており、その再来を思わせる北京のアメリカ大使館
投石事件は、「変わらない中国」のイメージを増幅しがちである。しかし著者は、天安門
事件以後に生じた経済的社会的変化の大きさを強調する。それらは直接的に政治面に反
映するわけではないとしても、影響を与えないはずはない、と。その視点から、政治面に
対する反映の細部を描くことが本書の主題となる。
近代中国の政治過程における知識人の役割は、在米の中国人学者丁学良のいう「カウン
ターエリート」の側面が強かったが、90 年代には「伝統主義、保守主義、ユートピア主
義、ナショナリズム」(13 ページ)の混合物が生まれてきた(たとえば李世濤『知識分子立
場--激進与保守之間的動蕩』長春、時代文芸出版社、2000 年 1 月)。これは「80 年代の中
国」とは際立った変化である。1980 年代には改革派知識人が胡耀邦に象徴される改革路
線を支持して挫折した。しかし 1990 年代に進展した市場経済のなかで、「文化における
商業主義」が進み、「経済におけるテクノクラート化」が急進展した。この過程で、知識
人のあり方も変化を余儀なくされた。クリントン大統領は 98 年 6 月に北京大学で講演し
たが、それに対する学生たちの反応は、西側の批判派に似た、グローバリズムに対する懐
疑主義であった。グローバリズムが中国の経済、文化、政治的独立にもたらすものを学生
たちは危惧したのであり、これは「対外開放の徹底化」を求めた「80 年代中国知識人の
方向性」とはまるで対照的である(17 ページ)。
90 年代半ばまでに形成されたこの種のナショナリズム傾向を著者は「新左翼」と名付
ける。中国政府自体は WTO 加盟を決断することによって、よりコスモポリタン的な立場
へ舵取りを決断する。著者は「80 年代」と「90 年代」の違いをこのように特徴づけ、天
安門事件の固定イメージにこだわるアメリカ世論を批判しつつ、米中関係理解のために
も、「90 年代中国政治」とその過程における「知識人の役割」を本書の課題とする。時
宜を得た本であり、90 年代中国政治を対象とした「論壇時評」にふさわしい。
Ⅱ
以下、本書の構成にしたがって紹介し、コメントを加えたい。
第 1 部 「再来した路線闘争—鄧小平の改革構想に対する攻撃」。
第1章「天安門事件と保守派による改革批判」。
天安門事件以後、保守派が巻き返して計画経済論が復権し、第 8 次5カ年計画の方向
付けをめぐって大きな争いが生じたことはよく知られているが、その過程がまずレビュ
ーされる(21~43 ページ)。
第 2 章「改革路線の復活へ動く鄧小平」。
鄧小平の南巡講話以後、朱鎔基が経済政策の舵取りを行うようになり、改革開放路線が
復活する過程もよく知られているが、鄧小平の南巡の直接的契機をなしたものは、91 年
書評一束
169
夏の旧ソ連保守派クーデタ、そして旧ソ連解体であった事実が跡づけられる(44~71 ペー
ジ)。
第 2 部「改革の再定義-—新たな道の模索--」。
第 3 章「新保守主義の登場」。
80 年代の新権威主義論はその後、新保守主義として復活した。その旗手は呉稼祥「新
権威主義述評」であった(76 ページ)。95 年には王滬寧が上海復旦大学国際政治系教授か
ら中共中央の政策研究室主任として招かれる。天安門事件前に于浩成らは、「政治改革が
なければ経済改革はカベにぶつかる」と危惧していたのに対して、趙紫陽らは「政治の民
主化ではなく、新権威主義こそが必要だ」と反論していた。天安門事件以後、「中央への
集権」が叫ばれ、その文脈で中央・地方関係は中央に有利に働いたが、これは新権威主義
と新保守主義を導いたとし、特に王滬寧のサミュエル・ハンチントン批判の論理が分析さ
れる(89 ページ)。
王滬寧が孫文に依拠して「先知者」「後知者」「不知者」の 3 種に分けて、国民の政治
意識を分析したことも紹介される。1946 年湖南生まれの蕭功秦「厳復備論与近代新保守
主義変革観」は、歴史家として厳復(1853~1921、アダム・スミス『国富論』の中訳者)を
援用して「富強」を論じたが、蕭功秦「戊戌変法的再反省」は、中国に最も必要なのは改
革断行のために知恵と能力を用いることのできる「政治エリート」であるとし、伝統文化
のなかの「極致性」こそが「改良ならざる革命を」刺激したとみる(91~92 ページ)。
何新の「国家中心的ナショナリズム」も取上げる。何新は天安門事件直後に動揺する保
守派首脳の寵愛を受けたイデオローグであり、何新が矢吹との対談記事(「世界経済形勢
与中国経済問題--何新与日本経済学教授 S 的談話録」『人民日報』1990 年 12 月 11 日)
をでっちあげるというトラブルに巻き込まれたことから、何新の著作やその背景には、こ
れまでにもしばしば触れてきた(たとえば矢吹著『改革派 vs 保守派--中国の権力闘争』
(蒼蒼社、1991 年)。何新の捏造対談録が『北京週報』日本語版(前掲『人民日報』の日本
語訳)に収められたことは当然知っていたが、英語版掲載は今回初めて確認して印象深か
っ た ("Current World Economic Situation---Chinese Scholar He Yin's Talk with Japanese
Professor Yabuki Susumu." Beijing Review 33 (1990). Part I (November 19-25): 8-11; Part 11
(November 26-December 2): 14-19; Part III (December 3-9): 7-14.、本書 274 ページの文献一
覧)。
第 4 章「挑戦を受ける啓蒙運動の伝統」。
著者のいう「啓蒙運動の伝統」とは、五四運動以来の西洋化をもって近代化とする見方
を指す。こうした見方に対する批判が 90 年代を通じて広まり、中国対西洋、伝統対近代、
という二元論で中国問題を分析する方法への反省が強まった事実に着目する(113 ペー
ジ)。たとえば『読書』の編集者汪暉はグローバル化と市場化によって、中国国内の国家
と社会の関係、中国と外部世界との関係が変化したと指摘した。その問題とは、グローバ
ル化と市場化は、必ずしも「良い社会」をもたらさないことである(113 ページ)。
書評一束
170
中国経済は確かに市場経済化され、世界経済にリンクされたが、それは公正なものでは
ないし、社会的正義に基づくものでもない。政治的民主化はさておくとしても、両極分
化、腐敗、政治権力と経済権力の相互浸透が進み、80 年代よりも状況は悪化している(「当
代中国的思想状況与現代性問題」『文藝争鳴』6 期 98 年 11 月号)。
このように市場経済化、近代化以後の事態をとらえてこれを批判的に検討しようとす
る流れを著者は「新左翼 New Left」と名付けて、マルクス・レーニン主義をイデオロギー
的基礎とする胡喬木、鄧力群ら「旧左翼 Old left」とは区別する(114 ページ)。
「新左翼」の呼称よりは、むしろ「ポスト近代主義者 post-modernist」の呼称がよりふさ
わしいともいう。この論者たちは米国帰りであり、なかには米国で教鞭をとっていた者も
含まれる。米国で身につけた近代化以後の社会を批判する方法論をもって、近代化への過
程を急ぐ中国を批判する武器とすることは、状況尚早のきらいなきにしもあらずだが、著
者はこのような論点が導入されたことによって、これまでの中国文化対西洋文化の対立
の構図として説く議論よりは、相対的にメリットが大きい。これは五四運動という「伝統
からの飛躍」だとする(115 ページ)。
これは面白い着眼点というべきであろう。在米の訪問学者張寛は『読書』1993 年 9 月
号および 94 年 10 月号で二度にわたってアラブ系アメリカ人学者サイードの著書(Edward
Said, Orientalism, Culture and Imperialism, New York, Knopf, 1993.)紹介した。これら一連の
経過は、汪暉ほか『90 年代"後学"論争』香港中文大学出版社、98 年にまとめられている。
こうした議論を経て、中国の道の独自性を論じたものの一例として、甘陽「江村経済的再
認識」(『読書』94 年 10 月号)を著者は高く評価する。
甘陽は費孝通『江村経済』の再読を通じて、農工混合からなる中国農村社会を見直し、
現代社会学を再考している。汪暉はさらに進めて「中国におけるマルクス主義とは近代化
理論であった。毛沢東の社会主義論は資本主義的近代化に対抗する近代化理論の一種で
あった」と相対化する(118 ページ)。
ついで崔之元(マサチューセッツ工科大学政治系訪問学者)の分析が紹介される。ポス
ト近代主義=新左翼に対する自由化派知識人としては、李鋭、李慎之をあげて論じている
が、彼らは 80 年代からの論客であり、その主張は割合広く知られていよう。
第 5 章「新国家主義と大衆ナショナリズム」。
新国家主義の主な論客は、日本でも有名な胡鞍鋼である。著者は胡鞍鋼に対する批判と
して、「政府高明論」「国家万能論」があることを教えてくれる。名付け親は経済研究所
のベテランエコノミスト張曙光(『張曙光経済書評集』中国財政経済出版社、96 年)であ
る。
ハンチントンの文明の衝突論(Foreign Affairs, Summer, 1993)や Francis Fukuyama, "The
End of History" (The National Interest 16, Summer 1989)への中国知識人の反応も紹介される
(143 ページ以下)。大衆ナショナリズムの代表として著者は王山『第三只眼睛看中国』(山
西人民出版社、94 年)をあげる。
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171
93 年に刊行され始めた『戦略与管理』がナショナリズムやポピュリズムの論争の場と
なったことを紹介し、宋強、張蔵蔵、喬辺著『中国可以説不』(中国工商聯合出版社,96 年
8 月)に大衆ナショナリズムの総括を見ている。
第 3 部 「エリート政治と大衆ナショナリズム」。
第 6 章「江沢民の権力掌握」。
90 年代半ば鄧小平が満 90 歳の誕生日(94 年 8 月)を期して、評者が「舞台裏からの鄧小
平引退」と名付けた事態が進行する過程で、江沢民の権力掌握が始まる。経済面では朱鎔
基が副総理に抜擢され、舵取りに乗り出し、李鵬の指導力は経済面では消え始める。
加えて江沢民の支持者であった李先念(国家主席)が 92 年 6 月に、旧左派のイデオロー
グ胡喬木が 92 年 9 月に、重鎮陳雲が 95 年 4 月に、それぞれ死去した。こうして旧左派
による右派鄧小平路線の批判という構図は消え、新たな政治的潮流が生まれる。当時の状
況を著者は、王滬寧、蕭功秦、陳元、何新らの「新保守主義」、汪暉、崔之元の「ポスト
近代主義」、胡鞍鋼、王紹光の「新国家主義」、王山の「ポピュリスト・ナショナリズム」、
『中国可以説不』の著者たちの発想などで特徴づけている(160 ページ)。
94 年 9 月の 14 期 4 中全会では、江沢民らいわゆる第 3 世代の指導者が政治のトップに
躍り出る。江沢民は第 3 世代の「核心」として、集団指導体制のなかでの「拍板子」の役
割が強調された。「拍板子」とは、テーブルをたたく、の意だが、これによって、議論の
終わったこと、採決が行われたことを示した。つまり、この段階では江沢民にはまだ権威
が欠けていた(163 ページ)。
95 年秋、保守派は第 2 万言書[万言書とは 1 万語以上にのぼる長文の意見書の意味]「未
来一二十年我国国家安全的内外形勢及主要威脅的初歩探討」を発表して江沢民体制をゆ
さぶるが、これは一方で台湾海峡の危機に乗じて危機感を煽り、他方、同年 9 月に予定さ
れていた 5 中全会への影響力行使を狙っていたものだ。
第 2 万言書は(94 年暮れの第 1 万言書「影響我国国家安全的若干因素」が旧ソ連解体を
主題としたのに対して)、中国の「和平演変」の危機を強調することによって、改革開放
路線を攻撃したものだ。鄧小平の南巡講話以後の潮流のなかで改革開放を進める朱鎔基
は、「中国共産党内部のゴルバチョフ流の指導者」と非難された(170 ページ)。
94 年時点で私営企業は 43.2 万社、従業員 648 万人に成長していたが、98 年には 120 万
社、1710 万人まで成長した(173 ページ第 2 表)。
保守派は 97 年秋の党大会に向けて、第 3 万言書「関於堅持公有制主体地位的若干理論
和政策問題」を提起したが、これは「公有制の堅持」を主張しつつ、私営企業の台頭を社
会主義からの逸脱と攻撃するものであった。これに先立ち、江沢民はそのブレーン劉吉の
編集した『与総書記談心』(中国社会科学出版社、96 年 10 月)を出版することによって、
新たな江沢民イメージを強調し、党大会への指導性強化をはかった。
旧左派なきあと、江沢民は改革開放の担い手としての顔を打ち出していくが、それは党
大会を契機とした喬石の引退を待つ必要があったと見る著者の分析は面白い。確かに 92
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172
~94 年段階では、江沢民は左派から万言書によって攻撃され、改革開放の不徹底という
面では、しばしば喬石、田紀雲などから批判された。党大会で喬石が消えることを契機と
して、江沢民はかつて喬石がとっていた改革開放へのスタンスをわがものとすることが
できたという著者の分析は、首肯できる(189 ページ)。
第 7 章「グローバル化とナショナリズムの時代におけるエリート政治」。
第一五回党大会報告のなかで江沢民は「民主主義」に 32 回言及し、これまでの「法治
(rule by law)」という言い方に代えて「法制」あるいは「依法統治」(rule of law)と表現
を変えた。法治が法制度によるシステムとしての統治を含意するのに対して、「法制」と
は、自由化派の主張する「法治」(の貫徹)にブレーキをかけて、
「法による規制化」(a sense
of regularization)を図るにすぎないと批判する李慎之説を紹介している(265 ページ註 10)。
党大会で社会主義市場経済論が採択されたことを著者は「北京の春」の再来と見る(196
ページ)。
ここに至るまでの経緯を馬立誠、凌志軍『交鋒』(今日中国出版社、98 年 3 月)に依拠
して整理する箇所は、本書の白眉であろう。『交鋒』は日本でも大いに報道されたが、概
してジャーナリスチックな局面に限られ、中国現代政治の分析まで深めたものはなかっ
たように思われる。党大会の人事を踏まえて翌 98 年春、9 期全人代が召集され、朱鎔基
内閣が発足する。その過程を WTO 加盟問題を主題として巻き起こるナショナリズムに対
して、朱鎔基らのエリート政治がどのように展開されたかを跡づけ、ポスト近代主義者に
よる WTO 批判、ナショナリズムを大いに高揚させたベオグラード大使館「誤爆」事件が分
析される。
王小東という若手の論客がいる。所属や専攻など詳細は不明だが、「激情的陰影、評電
視系列片河殤」(『中国青年報』88 年 6 月 10 日)、「評両種不同的改革観」(『当代思潮』
92 年 1 月)、「未来的衝突」(『戦略与管理』93 年 11 月)、「在貧民与精鋭之間尋求平衡」
(『戦略与管理』94 年 10 月)、「当代中国民族主義論」(『戦略与管理』2000 年 5 月)、
「独立与自由并非強権恩賜爾来」(『戦略与管理』2001 年 1 月)などがある(296 ページ)。
王小東の考え方を「新左翼」の典型と見て、著者は 90 年代後半における中国ナショナ
リズムの性格を特に WTO に象徴されるグローバリズムに対する態度や反米思想との関わ
りで細かく腑分けしようと試みている。
Ⅲ
「結論」では以下のように主張される。
著者は天安門事件以後 10 年間の中国政治の潮流を、旧左翼による万言書を通じた鄧小
平路線批判、その後は、経済のグローバル化のなかでのナショナリズムを背景とした新左
翼のナショナリズムによる江沢民主流派批判と自由化派による江沢民主流派批判の構図
として描く。
たとえば新左翼・王小東と自由化派・蕭功秦の論争は、ポストモダニスト(新左翼)と
リベラル思想の対抗を示す典型的なタイプである、と著者は見る。知識人間の対立は四九
書評一束
173
年以後のいかなる時期よりも大きいが、世論は多元化というよりは拡散していると著者
は分析する。市民社会の要素が civility にあるならば、中国がそこへ到達する道は遠い。
グローバル化と WTO 加盟は、知識人、企業家、官僚の対立をより深めた。さらに大使館誤
爆、台湾海峡の危機、アメリカの一極支配はナショナリズムを高揚させた。朱鎔基や江沢
民など政治エリートの認識は知識人ほど分裂していない。
1000 億元を費やした 99 年国慶節においては、毛沢東、鄧小平に並べて江沢民の大きな
肖像画が掲げられた。有名なエピソードだが、江沢民は自由化派知識人の長老・李慎之の
声明「風雨惨荒 50 年—国慶夜独語」に激怒した。李慎之は政治改革の停滞とナショナリ
ズムの高揚にますます不満を強めた。彼は毛沢東、周恩来、鄧小平を知るがゆえに、江沢
民の凡庸さに不満。ブレジネフ下の旧ソ連に陥ることを憂慮した(222 ページ)。
1999 年春の朱鎔基訪米における WTO 交渉の挫折、秋の北京再交渉の模様は、David
Sanger, The Trade Deal: The Drama(New York Times, November 16, 1999)に依拠して語られ
る。孤立した朱鎔基を支えたのが江沢民夫人王冶坪であると解説する。その理由は朱鎔基
の能力を買ったことが一つ。
もう一つは領土保全と違って朱鎔基は江沢民のライバルではないからだという。さら
に、WTO 加盟問題における政治局常務委員会の最終決定において、李鵬だけが反対したこ
とを記し、正式に投票することはまれであること、江沢民のイニシャチブに公然と反対す
るのもまれだと解説している。
疑問が残るのは、この二つのエピソードの取材ソースが「著者のインタビュー」である
ことだ。著者は誰を取材したのであろうか。この取材対象者は真実を知りうる立場にある
中国人であろうか。再確認を要する重要な事実である。アモイの遠華公司大汚職事件をめ
ぐる政治についての分析はよくまとまっている。事件が賈慶林北京市書記夫人林幼芳に
及ぶことが明らかになったとき、朱鎔基が賈慶林に離婚を勧めたエピソードなども語ら
れる。しかし江沢民が「副部長級以上の人物は摘発対象としてはならない」と指示した
と、これも「著者のインタビュー」をソースとして書く(226 ページ)。
これも傍証が欲しいところだ。香港の『亜洲週刊』(二〇〇〇年四月一六日号)が報じ
て広く知られるようになったが、李慎之、劉軍寧、樊綱、茅于軾ら四名の「自由派学者」
に対する批判が「私有化」批判の文脈で北京で始められ、学術界にある衝撃を与えた経過
もくわしく紹介されている(228 ページ)。
九九年三月劉軍寧が「排他的な憲法から包容的な憲法へ」と題する論文を発表したこと
に対して北京大学法律系の匿名の大学院生が「個人主義と自由主義を鼓吹するもの」と非
難する「告発の手紙」を江沢民に送った。これを受けて『光明日報』(2000 年 3 月 29 日)
が劉軍寧を名指しを避けて批判し、劉軍寧は二〇〇〇年二月に中国社会科学院を解雇さ
れた、いきさつはよく知られているが、その背後には、『中流』『真理的追求』『当代思
潮』の保守系 3 誌の暗躍があり、その黒幕は李鵬だと解説する。
このような保守派の攻勢に反撃するためにこそ、江沢民が 2000 年 2 月広東省に出向
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き、「三つの代表」を提起したという解釈は納得できるものである。これを最も要領よく
解説した鄭必堅「三個代表重要論述与面向 21 世紀的中国共産党」(『新華文摘』2000 年
8 月号)にも当然言及している。
本書は 2000 年春に始まった「三つの代表」論のキャンペーンが 2000 年末に確固とし
たものになり始めたこと、これが第一六回党大会の基調になることを示唆して、本書を結
ぶ。中国の政治潮流、そこでの知識人の役割を読むガイドブックとして読める。本書に登
場する知識人群像は、アメリカで留学あるいは研究を行ったものが多い。彼らの活動から
中国の思想潮流を読むのは有効だと思われるが、親米にせよ、反米にせよ、本書は一つの
見取り図にすぎまい。中国における市場経済の成功はもっと多様な知識人たちを生み出
しつつあるのではないか。
72 書評・宮崎正弘著『本当は中国で何が起きているか』(徳間書店、2002
年 2 月)
著者宮崎正弘氏は、九八年一一月『人民元大崩壊――中国発「世界連鎖恐慌」
の衝撃』を書いた。曰く、
「世界が恐れる人民元切下げは、確実にやってくる」
「中国経済の破綻寸前の悲惨な状況を看破、不可避の通貨暴落が世界経済と
日本にどんな衝撃を与えるかを詳説」と。見通しは的中したであろうか。人民
元の「暴落」は、起こったであろうか。答えは明らかにノーだ。狼少年もどき
(狼中年か)の予測は大外れに終わった。著者は九五年三月には『中国大分裂』
を論じている。当時流行した「ポスト鄧小平期の大分裂」論に便乗したものだ
が、現実はどうか。鄧小平は九七年二月に死去したが、「大分裂」なるものは
起こらなかった。大きな見通しを二つも間違えたからには、土下座して読者に
謝罪するのが礼儀であり、なぜ間違えたかのかを真摯に反省し、顔を洗って出
直すのが筋というものだ。著者には、「倫理観もモラルも」まるで欠如してい
る。恬として恥じず、顧みて他を言う、
「中国は倫理もモラルも消失した」
(二
八〇ページ)と。
『本当は中国で何が起きているのか』と題された本を再読し
ても何が起きているか、まるで分からない。「マスコミの報じない中国情報」
といいながら、ほとんどすべての情報源は、内外マスコミの旧聞だ。しかも間
違いだらけの引用ときている。羊頭狗肉、盗人猛々しいとはこのことだ。何清
漣著『中国的陥穽』は九八年一月に出て、評者が内山書店『中国図書』に紹介
したのは九九年一月のことだ。四年前の本をいまごろ騒ぐのはどうかしてい
る(八六ページ)。
「中国の就労階層」なるものを英『エコノミスト』誌から引
用しているが(八九ページ)、原書は陸学芸主編『当代中国社会階層研究報告』
(社会科学文献出版社、二〇〇二年一月、四四ページ)で、その「中国社会階
層結構的演変」の孫引きだ。何清漣と陸学芸の本をごちゃ混ぜにしたのは、一
知半解の一例にすぎない。
「中国のデッド・レーシォは、(中略)韓国よりも悪い
数字」(九八ページ)だという。Debt Service Ratio, Liability Ratio, Foreign
書評一束
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Debt Ratio は『中国統計年鑑』
(二〇〇一年版二七〇ページ)で公表されてい
る。この基本データさえ把握できずに、デタラメ引用を重ねるばかり。
「上海・
花東大学」は「上海・華東大学」のはず(二一六ページ)。
「軍事委員会主任」は
「軍事委員会主席」(二六四ページ)の誤り。
「徐匡迪」に「じょ・きょうゆう」
とルビを振る無知(二七五ページ)。著者のセリフ「噴飯モノ」(二七六ページ)
は、本書への評語として最適であろう。
73
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